僕だけの、天使
Seen1〈懐かしい夏の香り〉
夏が来る前に君はいってしまったけれど、
君はひとつだけ忘れ物をしたんだ。
ぼくの記憶を消し忘れるなんて。
沙綾、君に触れることはなかったけれど、
いつか、また会えるような気がするんだ。
波の音が聞こえる、あの、海を臨む岬で。
ぼくは君を見つけて。
そして、君に恋をした。……十年も前のことだ。
とうに生徒も下校してしまった放課後の美術室で、しばらくその絵を見ていた。カーテンの隙間を縫って夕日が教室を満たす。
微かに思い浮かぶ学生時代の光景、机の上に腰掛けた透と、その隣で腕を組む志ゐと、椅子に座って頬杖をついている自分と、その視線の先にいる彼女――沙綾。
「誠くん、もう絵は描かないのかい?」
誠と呼ばれた男は声を掛けられて現実に戻る。手には各教室の鍵が束になって握られている、戸締りの確認中だったからだ。脇に抱えていたファイルにはチェック項目に印がついていて、下から八番目、美術室で足止めをくっていた。
「あぁ、沢村主任。今はまだ、そんな気分には……」
「君の絵、私は好きだけどなぁ。こう、純粋で」
少し緩めの彼のシルエットは、北欧童話のサンタクロースを思わせる。陽気な赤ら顔、前にすると不思議と懐かしくて、表情が緩んでしまう。
「青臭い絵だと、よく言われましたよ」
白髪混じりの口ひげを蓄えた主任は、目尻にいっそうシワを寄せてはっはと笑った。同じ絵の前に立って肩を並べる、こうしていると時間はまるで進んでいないように感じられた。
「それでも、君の絵には生命力があるよ。彼女は今にも振り返りそうだ。何より、希望に満ちている」
「そんな……もったいないお言葉ですよ」
希望に満ちている、確かにその言葉は適しているかもしれない。この絵は、ほんの少しの希望だった。誠は沢村とともに美術室を後にする、誰もいない教室にはイーゼルに立て掛けたままの絵が置かれている。
十年経った今でも、君がまた現れるんじゃないかって、思ってるんだ。
海を臨む岬で、白いワンピースの少女が背を向けて立っている。その背中には翼があり、透けるような肌が、光を浴びてまぶしく輝いている。『夏の妖精』と題されたその絵は、藤崎誠の高校時代の作品だ。
戸締りを終えたはずの美術室のカーテンがふわりと揺れる。そのことに誰一人として気づかないまま、遠い日の笑い声だけが木霊している。
いつの間にか、イーゼルの前には白いワンピースの少女が背を向けて立っている。細く華奢なシルエット、背中まで伸びた髪、裸足のままの、翼を持った絵の中と同じ彼女。
「……まだ、ここにいるんだ」
ピアニストみたいなその指が絵にそっと触れると、光に包まれた彼女はその粒子のなかに消えてしまった。
昨年の春、藤崎誠は本採用という形で母校であるここ桜ヶ丘第二高等学校の校門をくぐった。創立八十五年、十年前に建てられた新校舎も、今では周りの風景にすっかり馴染んでしまっている。
ひらひらと目の前を舞う花びらは、変わることない、あの校庭の立派な八重桜なのだけれど。校舎の曇ったガラスに映る自分は、どこか違和感があって、それが制服とスーツの差なんだと気がつくのにそう時間は必要なかった。
「結構、似合ってると思うけど……」
ストライプのネクタイを直しながら、昇降口に向かう。南東を向いている昇降口にはちらほらと生徒が登校し始めている。新入部員が入ってどこの部活も、活気だっているというわけだ。
「気持ちはずっと、この時のままなんだけどなぁ……」
下足入れの脇にしゃがみこんで、こっそりと彫られた落書きを指でなぞった。『俺は、一生沙綾ひとすじ!』『ばーか』まだ残ってたんだ、と誠は笑った。
「マコちゃん、おはよー」
「マコちゃん先生おはよー」
「お前らなぁ……藤崎せんせい、おはようございます、だ」
「いーじゃん。そのほうが可愛いじゃん、マコちゃんの方が」
「そういう問題じゃない」
「あら、藤崎先生おはようございます。生徒さんと仲がよろしいんですねぇ」
「野宮先生、おぉおはようございます」
「チャイム、鳴りますよ?」
「あ、はい…」
「マコちゃん、野宮みたいなのが好きなの? 確かにいい女だけどなぁ、こう、ふくらはぎと足首の辺りがキュッとしてて」
「そうかぁ? 俺は音楽の弘美ちゃんだな! 貧乳は正義だよな!」
「い、い、から、教室入れ。ホームルーム始めるぞ」
誠の担当は一年三組、男子十八人、女子十五人でクラスカラーは青だ。まだまだ新任なのに担任を任されているのは、『学校生活とは、各生徒及び各教師が、日々のなかで共に成長していくための場である』という学校側の方針でもある。保護者のなかには経験の少ない教師を担任にするなんて……と反発の声もあるのだが、そこはきちんとベテラン教師が副担任に回りフォローしていくという説明で納得がされているらしい。
「――以上。あとは入部届けの提出についてだけど、今週末までだから、各自なんかしらの部活に入部すること」
「はぁい質問―、マコちゃんはどこの顧問なんですかぁ?」
「……先生。俺は美術部の副顧問だよ、沢村主任補佐」
「ふぅん、インドア派なんだ。でもそんな感じだよね」
「いっとくけど、美術部は体育会系なんだぞ? 吹奏楽と一緒」
「えー? それどういう意味?」
「……説明し辛いから、仮入部してみたらいいよ」
思えば、自分にもそんな時代があったのだと。誠は不思議な気分になる。この教室に差す陽も、空間のざわめきも、変わらずに佇むのに。ただひとつ違うのは、時間が流れたということ。ここにはもう彼女はいないということ。
十年前の藤崎誠は、どこにでもいる平凡な少年だった。性格は控えめでおとなしく、だからといって暗くはない。人当たりがよく、絵を描くことが好きで、どこか夢見がちな部分もあったかも知れない。
「誠は何部入るの?」
「何がいいかなぁ?」
「あ、ここは? 美術部! マコちゃん昔から絵が上手だったし」
高校に入ってからも、幼なじみの梶山透と伊藤志ゐとは三人で行動することが多かった。
透は誠よりも頭ひとつ分くらい背が高い。水泳を習っているから体格もがっしりとしていて、浅黒い肌なんかはパワーの象徴のようだ。自由奔放で、いつも誠たちを引っ張っていく。透のおかげで沢山の楽しい経験をしたが、大抵トラブルを持ってくるのも彼だった。
志ゐは、才色兼備を絵に描いたような女の子。背中まで伸びた癖のない艶やかな黒髪をしていて、笑うと左側の頬にえくぼができる。おっとりしてそうに見えて案外、しっかり者。時には誠たちよりも男前にみえることもあり、非常にストイックだ。
「うーん」
「それより、ここにしようぜ、茶道部。和菓子とか食べられるって書いてあるから」
「却下。僕、甘いのキライ」
「だね。マコちゃん辛党だから……この間ミツメ飯店の、激辛5倍普通に食べてたもんね。あそこ甘口でも普通のカレーの3倍は辛いんだよ」
「ほんと馬鹿舌、アイスに七味とかマジ勘弁してって感じ」
「別にいいだろ、誰にも迷惑かけてないし」
掲示板の前で言い合いをしていると、後ろから声を掛けられた。ブルーのジャージ、その人物はどうやら二年生のようだった。
「君たち部活探してるの? じゃぁうちにおいでよ、こっちこっち」
「部室って、体操部のある方じゃないですよね? こっち」
「あー、いま俺はランニングしてきたところだったからさ」
朗らかに笑いながら、彼はその部屋の扉を開けた。金属のぶつかり合う音がする。そこにはよくジムなどで見かける類の器具がずらりと並んでいた。
「……ここ、ですか?」
「誠、俺の見間違いじゃなければ、この日本語は美術室って書いてあると思うが?」
「そ、俺は美術部員です」
首にかけたタオルで汗を拭きながら彼はさわやかに言い放った。
「な、なんで皆筋トレ!?」
それは今までにないくらいの声のハモリ具合だった。
「いい作品は、『健康な身体と精神から』ってことでね。どこも美術っていうとインドアなイメージを連想しがちだけど、うちは別物」
「アートのAはアクティブのAだ、ようこそ我が沢村ゼミへ!」
「な、なんだよ。オッサン」
「あ、それは、顧問の沢村先生」
「先生……? 用務員のおじさんじゃなくて?」
ほんと、よく間違われるんだ。と失礼な問いかけにもかかわらず気さくに返しているが、この時点で彼はすでに管理職クラスの教師であることは明らかだった。
「どんなことでも出来るのがうちの部いいところさ。試合もやるし、合宿もあるし、キャンプとかいろいろするよ。もちろん、その都度作品も作っていく。個人や団体でね」
「試合? 合宿?」
「キャンプかぁ、楽しそうだな!」
それが、あの短くて輝いた季節の始まりだった。
Seen2〈天使と少年 上〉
残暑の照り返しが空気ごと身体にへばりつく。セミの声とか、排気ガスとか、嫌味なほど青い空とか。
藤崎誠は、桜ヶ丘第二高校美術部の夏合宿に参加していた。毎年恒例に行われる合宿は、風変わりな顧問の方針で二週間の長期スケジュールになっている。といっても昼夜魂詰めをしての作品製作などをするわけではなく、ただ単に仲間同士親睦を深め合い、青春大賀、つまりは夏を楽しむことを前提にしている。
「誠ぉ! 遅いぞ」
「ちょっと、早いってば! 透のカバン重すぎなんだって」
「次の自販機っていったの、誰だった? 男を見せろ! 藤崎誠ぉ!」
「あーもー、中身何入れたんだよ?」
「知りたかったら、俺を捕まえてごらぁん!」
「まこちゃん、平気ぃ? 手伝おうか?」
「ははは……、何のこれしき、全然平気ですとも」
こんな馬鹿騒ぎも、これで最後かと思うと案外寂しいものだな、と誠は思う。遠くで手を振る彼らと、日に焼けたこの腕と、微かな潮の香り。アスファルトを噛むビーチサンダルが指の間で擦れて皮がむけた。ズキッと少しだけ痛む。
夏の終りはそんなものだと、毎年のように思うのだけれど。渦を巻く線香だとか、やけに泡立った入道雲だとか、夜空に咲くあの、花の感じ。急かすように過ぎていく、パッと一瞬心に火を灯しては、煌めきのうちに、その姿はもう何処にもない。
「もうすぐ秋だな」
秋が物悲しい季節だなんていったのは、誰だっただろう。枝から落ちる葉がそんな風に連想させたのだろうか。そんなことをいったら、季節なんてどれも物悲しいじゃないか。
花火大会の後、ぼんやりと誠はそう思った。夏の虫と秋の虫と、夜の星と、あとこれは火薬の香り。空気に混じって少しずつ遠ざかる夏の気配、耳の奥でまだざわついている。
「誠、戻らねぇの?」
「透こそ、戻らないの?」
「俺はセンチメンタルを味わってたわけ、終わっちまうなぁと思ってさ」
「そうだな」
「来年の今頃、何してるんだろうな、俺たち」
「上手いことやってるんじゃない? 極めて現状は良好だよ」
「五年も経ったら、スーツにネクタイでびしっと決めてんだろうな、たぶん」
「透、そーゆうの似合わなそ」
「お前に言われたかないよ、この童顔が」
「こんな馬鹿やってても大人になるんだな」
「あたり前だろ。時間はな、万人共通に与えられてる唯一のものなんだぞ?」
「僕さ、もっとチビな時はさ、工場があると思ってたんだ。大人は大人の、子供は子供の工場があって、そこで創られてるんだと思ってた」
「……ある意味では、作り出すわけだけどな?」
「だからさ、いつまでも子供なんだーって思ってたんだけど、違うんだなって」
ケーキのロウソクが増えるたびに、『子供』ではないものに近づく感じ。期待と不安、吹き消すことで上がった狼煙が、夢の始まりを告げるものだったのか、それとも目覚めるための合図だったのか幼い誠には分かるはずもなかった。燈したのが可能性の炎だとしたら、一瞬で吹き消すのは間違いであるはずなのに。
「まぁな、そういう訳にもいかないからな現実は」
「あ、そういえば透、夏期講習の課題もう終わった? 僕、あれ、最後の何ページか解んないんだけど」
「……いきなり現実を突きつけるなよ、さっき言っただろ、センチメンタルに浸ってるんだって」
「現実逃避の間違いじゃないのか? じゃあ、志ゐに見せてもらうしかないな」
一息ついた透が「そろそろ戻るか」と、服の草を払いながら誠に促した。誠は起き上がって、視線を星空から襟足の伸びた友人の背中へと移した。
「どうかしたか?」
「いや、透、髪伸びたなと思って」
「そうか? ほれ、早く戻らねぇと」
誠は透の後を追って歩き出した。
途中、街頭もない夜の中、遠く光る何かを見たような気がした。「あれは何だろう?」と前を行く友人に尋ねてみても「さぁな、蛍じゃねぇの。ここ、田舎だしさ」と、軽くあしらわれるだけだった。だけど、誠はどうしても気になってしょうがなかった。言葉では言い表せない様な、あれは好奇心だっただろうか。
「透、先に帰ってて。僕ちょっとあそこまで行ってみる」
「はぁ? 本気かよ、こんな真っ暗闇じゃ遭難するぞ」
「これ、借りるよ! じゃぁ、先生達には上手く言っておいてくれよ」
透の手から懐中電灯を奪い取って誠は走り出した。昼間のビーチサンダルの痛みなんか気にならなかった。今の誠には自分という入れ物でさえ、もどかしく思えた。
「おい、マコ!」
昨日まで夜空なんか見ている余裕もなかったのだとそんなことを考えたのは、掛けて消えていくだろうと思えた月が日を増すごとに膨らんでいたからだった。考えれば分かることだったのにそんなことさえ不思議だと思えた。地球の反対側から見たなら、模様だけでなく満ち欠けもまた違ったように見えるのだろうか。
「ここは随分、星がはっきり見えるんだなぁ」
さっきまで眺めていたはずの夜空は、眼が闇に慣れたからか、余計な光を失ったからか、引力を増したように思えた。このまま自分の身体までこの空に溶けるような、吸い込まれるような夜だった。
「この向こうで、確か」
何かが光っていたような気がした。
誠は不思議でしょうがなかった。平凡な日常を昨日までは、いまこの瞬間までは受け入れているつもりだった。自分自身が特別な存在だとか、5ばっかりの通知表だとか、そうでないことに不満を持つことなんかなかった。過ぎる期待は、結局自分によい影響を与えないことを彼は平凡な日常のなかで学んでいたからだ。
だから誠は不思議だった。胸が踊っている、呼吸が速くなる、好奇心を押さえきれずに行動している自分がいる。こんなにも自分が何かに期待をしているなんて、夢にも思わなかったから。
潮風に混じって歌声が聞こえる。手のひらから砂粒を降らすような、サラサラと溶ける柔らかなメロディー。
いつまでもここで待っているわ。
あなたが私を忘れても、
ふたりの時間は永遠だったことを星が覚えてる。
いつまでもここで待っているわ。
何度でも会いに来るわ
会えるまで会いに来るわ。
あなたが私に会いに来るまで、
ふたりの時間は運命だってことを風が信じさせてくれる。
いつまでもここで待っているわ。
姿カタチが消えたとしても。
その歌声は夜を統べるように辺りに染み渡っていくようだった。波の音が遠く聞こえる。
誠の足は吸い寄せられるようにその方向へ歩み寄っていく。途中、折れた枝を踏んだのだろう。パキ、と音がすると歌声は止み、人影が顔を上げた。
「やっと、……会えたね」
彼女の目からは次々と涙が溢れてきた。
「ずっと、会いたかった。……マコト」
「……君は?」
自分を抱きしめるその少女の背中には、ふわふわの小さな白い羽根があって、彼女が何者かなんて誠には分かるはずもなくて。
ただ、『マコト』と自分を呼ぶその響きが、妙に懐かしかった。
Seen3〈天使と少年 下〉
昨夜の出来事は夢だったのかもしれない、誠がそう思った理由はいくつかある。
まずひとつは、目が覚めたら合宿所の布団の上にいたことだ。透にあの後のことを尋ねたら、「おまえ、さっさと俺のライト持って行っちまったじゃねぇか。大変だったんだからな」と延々愚痴を聞かされる羽目になった。
過ぎてしまった後では、何もかもが現実離れしたような体験だったため。誠は擬音交じりの説明しかできなかった。
「だからぁ、ピカっとなったかと思ってそこに近づいて行ったら、背中にこう、ふわっふわの羽が生えた女の子がいてさ、その子が僕のこと抱きしめてずっと会いたかったって言ったんだよ!」
「マコちゃん、それってさ」
「どこの雑誌で連載してるんだよ、そんな漫画」
「現実逃避、なんじゃないの? よくないよ」
「あ、信じてないだろ。本当なんだよ! あれは、本当に天使だったんだ」
「まぁ、今度紹介してくれよ。通信対戦で盛り上がりたいところだけど、今はPSP家に置きっぱなしだからさ」
「だから、本当なんだって!」
透も志ゐも、誠を諭すように(透は半ば半笑いで)なだめると、それぞれ受け持ちの仕事があるため部屋を出て行った。最終日のキャンプファイヤの準備だ。透は土台作り、志ゐはバーベキューの材料の買出し、誠の仕事は花火の買出しとその後片付けだった。
「他の人に話したって無駄よ、見えるわけないわ」
ひとり部屋に残されて納得いかない誠の横にちょんと座って、彼女はつまらなそうに言った。誠は畳二枚分くらい飛びのいて、上ずった声で聞いた。心臓が出てくるところだった。
「じゃ、じゃぁ、何で僕には君が見えるんだよ?」
「さぁね、あなた頭がずれてるのよ、きっと」
「なっ!」
反論しようと誠が立ち上がった瞬間、彼女の身体がふわっと浮かんで、柔らかい手のひらが誠の手を掴んでいた。目の前には、昨夜自分の名前を呼んだ時と同じ微笑を浮かべる天使がいた。
「ねぇ、飛びたくない?」
「はぁ? とぶって」
やっとのことで出た言葉は、自分でも笑ってしまうくらい間抜けだった。
「どうせ今日は何にもしないんでしょう? 付き合ってよ」
彼女は僕の手を引いて海に突き出た岬に向かって走る。助走をつけるためか勢いよく風を切って、真っ白なワンピースを揺らしながら。海面の乱反射と抜けるように青い空、心臓の音がばくばくとうるさくて、手を繋いだ部分が焼けるように熱くて。
「とぶって、そっちの跳ぶかよ! うわぁぁぁ!」
目の前に広がったのは見渡す限り鮮やかな蒼。飛んでいるんじゃないかと錯覚したのはほんの一瞬で、そして僕らは水しぶきを上げながら海のなかに沈んだ。小さな泡の粒子は、あの時彼女を包んだ光に似ていた。ブルーシアンたった一色で描かれたような水中世界は綺麗過ぎて、水面を恨めしそうに見つめて浮上していく彼女の横顔が何を思っていたかなんて、僕には到底理解できなかった。
「い、いきなり何するんだよ! 心臓に悪いだ……ろ」
浜辺まで泳いだところで僕は水中から上がるなり彼女に抗議しようとした。
「……なに見てるのよ、へんたい」
「変態ってなぁっ! そんな薄着で飛び込む奴がいるかよ! だいたい君、天使だろっ、普通に飛べないのか!」
「沙綾、君じゃなくて。あたしの名前は沙綾、天使がどいつもこいつも飛べると思ったら大間違いよ」
海水を吸って重くなった服をまとわりつかせながら、僕はTシャツの裾を絞る。コップ一杯分くらいあるかな? なんて思いながら後ろにいる沙綾に向き直ろうとすると、ふと気づく。ちょっと待って、あんな薄着で水に飛び込んだら絶対に……。声にならない声を上げて僕は脳裏に浮かんだ妄想を振り払う、がんばれ僕の理性、負けるな自制心。
「威張るな! でもって、水の中から上がるな、ちょっと待ってろ」
「なによ、あたしに命令しないで」
「水面から出ないでいただけますか、お願いします、オーケィ?」
「なまいき」
睨まれながらも僕の自制心は年相応の欲望に打ち勝つことが出来たらしい。こんなこと透に言ったら「なんだお前、もはや悟りの境地か? 枯れてんなぁ……」とか、言われるに違いないけど。腕に抱えていたずぶ濡れの上着をぎゅうっと絞って沙綾の頭に投げる。
「どっちが。……これ、何も掛けてないよりはマシだろ」
「へぇ、案外優しいんだ? それとも……」
童貞なの? 沙綾はからかうように言う。事実だけど、仮にも天使が童貞とか言うな、夢が壊れる。
「うるさいな、僕には見えちゃうんだからしょうがないだろ!」
「マコト」
頭に服を乗せたまま、沙綾は僕の名前を呼ぶ。
「なんだよ」
「私、また飛べるかなぁ?」
「知らないよ、っていうか! 何で泣くんだよっ、きみ……沙綾が勝手に跳ぶとか言って飛び込むからだろ? 飛べもしないのに無理するからだ」
「……」
「……そのうち飛べるんじゃないの、だって、きみ天使なんだろ?」
キャンプファイヤの炎に照らされて、誰の顔もほんのりと色づいていた。バーベキューの匂いが辺り一面を包んでいて、「その肉焼けてる」とか、「野菜も食べなきゃだめでしょ」とか、「なんだよだったら鉄板焼きでも良かったじゃん」とか、みんなして好きなことを言っている。
その夜、沙綾は姿を現さなかった。
「なぁ、そろそろ花火やろうぜ!」
誰からとなくそんな声が上がって、それぞれ購入した花火を選んでいると、袋の底を漁っていた透がにやっと笑いながら誠たちを振り返った。
「あ、ねずみ花火じゃん、懐かしー」
「ちょっと、透! こっちに向かって投げないでよ!」
志ゐが避けるのを楽しそうに見ながら、透の手はまだねずみ花火を散布している。
「え? だってそういう花火じゃなかった?」
「打ち上げ花火ってどうやるんだっけ」
「あぁ、それなら僕がやりますよ」
打ち上げ花火の準備をする先輩たちを他所に、右手に青、左手に緑の花火を持った透は構えの姿勢に入る。
「マコ、覚悟」
「二刀流とか卑怯だぞ!」
ちなみに誠のは赤い花火だ。実はまだ、火を点けていないのを反対の手に持っている。
「ふん、我こそは真のジェダイ……あ、」
「形勢逆転だね、透」
「くっ……! まさか、奥の手を持っていようとは」
「この僕の前にひれ伏すがいい!」
「二人は何をやっているんだい?」
「……はぁ、マコちゃん! 透! 打ち上げ花火、始まるって!」
「あ、うん」
「へーい」
沙綾はとてもわがままで、怒りっぽくて、やきもち焼きで。
「私はあれが食べたいの!」
「はいはい、買ってくればいいんだろう」
「違う、それじゃない。あっちの」
「……」
「ほんと、天使って言うのはいかにも乙女って感じの子だと思ってたけどな」
「……ちょっと、天使がおしとやかって誰が決めたわけ?」
「一般的な、世間的イメージの話だよ、あくまでも」
「なによ、私が悪いっていうの?」
「別に悪いなんて言ってないけど、その、もう少しまるくというか」
「ふぅん、私よりあの子のほうがいいんだ? 志ゐちゃん、かわいいもんねぇ」
「ちっ違うよ、志ゐは確かに可愛いけど、幼馴染みだし。お風呂だって一緒に入ったことがあるくらいで……」
「つまり、何でも知ってる仲なわけね」
「だから、そういうんじゃないんだって、姉ちゃんみたいな感じなの!」
「頭があがらないんだ、マコトは尻にしかれるタイプね」
「……」
でも時々、何もできなくなった子供のように、もろくなる。言葉をかけることさえ、ためらってしまうほどに。
「私だってなりたくてなったんじゃないっ! もっと、もっともっと生きていたかったよ。でも、しょうがないじゃん。死んじゃったんだもん、もぅ生きてないんだもん。なのに、なのにだよ、悲しいと涙出るし、胸が痛いとか、楽しければ笑うし、怒ったりするの!」
「……」
「生きてないのに、生きてるの。ちゃんと心は、あるんだよ?」
「沙綾」
「変でしょう?」
それでも、誠は抱きしめていた。
「馬鹿だな。抱きしめたりしたら、沙綾は消えてしまうのに」
「マコト、そんなにあたしのこと嫌いなの。早く消えてほしいんだ?」
「違うよ、ほんとはずっと触りたかったんだ。沙綾はあったかいね」
こんなに小さくて、細っこくて。誰にも寄りかかることのない沙綾。沙綾は強い女の子。
「あたしは、マコトに会いに来たのに。……まだまだ全然足りないんだから」
腕のなかの沙綾は、小さくて、少し震えていて。
「まだ、ここにいたいの……」
泣いている。僕は馬鹿だ、どうして沙綾のことを強いだなんて思ったのだろう。だって、彼女はこんなにも、こんなにも、脆い。
「沙綾……」
「マコト。マコト、マコト。あたし、あなたに会いに来た。」
「会いたくて、あいたくて。ずっと探してた……また、来るから。会い
に来るから」
沙綾の姿が消えても、誠はしばらくその場を動くことができなかった。
彼女はぼくの天使、未来から来た。
ぼくにだけ見える、ぼくにだけ触れられる、ぼくだけの天使。
Seen4〈また、夏が来て〉
アスファルトが蜃気楼で視界を溶かす。新緑の青、空の青、風に混ざる潮の香り。
夏休みというのは学生時代はあって当たり前で、そうでなくても登校する日が週に三日なら良いのにとか平気で思っていた。教科書に載っている問題は、何ページかあとの答えを見ることができたし、答えのない問題になんてそうそう行き当たるようなことなんてなかった。
だから、あの時は大変だったと今でも思う。
走ってきた道から、いきなりレールが外されてしまった。十何年かの知識しかない自分に大人たちは満面の笑みで手を振り「ここからは、お前の好きなように生きなさい」「これはあなたの人生よ」「何でも好きなようにしていいんだぞ」口々に偽善的な言葉で自身を正当化した。
「お前はもう少し自分に自信を持て」そんな風にいったのは当時の担任、利根川だった。正直にその時「先生、自信を持つってどういうことですか?」と聞いてみたらよかったのかもしれない。曖昧に笑ったりしないで、真剣に聞いたとしたら、そしたらどんな言葉をくれたのだろう。
「夏休みだからといって、羽を伸ばし過ぎないように。この機会にまぁ遊びがてらでも良いから、オープンキャンパスとか行ったりな――多少でいい、自分のこれからについて考える時間を持ってもらいたい。
高校入ったばっかりできつい事言うかも知れないけど、結局はお前たち一人ひとりの人生だ。最後に決めるのはお前たちだ。どうせなら、納得できる道を歩んで行ってほしい」
「なにそれ、マコちゃんウケる」
「親父くさ―い」
「残念ながらお前たちよりは十年おじさんなんでね。見つけようと思って見つけられるなら、早いことに越したことはない。お前らくらいの歳なら無限の可能性があるって言っても嘘にはならないだろ。
俺たち教師って言うのは助けたり、支えてやることはできても、確実な保障まではしてやれないからな」
誠の言葉に、さっきまで茶々を入れていた生徒たちも黙り込んでしまう。「急にそんなこと言われたって、将来とかさぁ、分からないよ」と、浮き足立っていた教室の空気は、一気に木枯らしが吹くんじゃないか?と思うくらいに冷え込んだ。
「おいおい、可能な限りは助けてやるって言ってるだろう? とりあえずは、また二学期元気に登校してきなさい。各教科課題も忘れず提出すること、以上、日直」
「起立―、礼」
無責任な言葉に聞こえたかもしれないなと、内心、誠はそう思った。人生を選ぶなんて、十数年の知識では酷なことだろう。まして、何が正解なのか分からない世の中だ。自分自身半人前のくせして、人を導くなんて驕るにもほどがある。
「なかなか面白い話をしていたね、誠くん」
「沢村先生、聞いていたんですか? 青臭い演説でしたか、笑いたかったらどうぞ」
「いや、熱心だと思いましたよ。だが、正論とはいえ生徒の捉え方次第では問題になるかならないか、紙一重といったところでしょうか」
「そこは生徒たちに頼るしか――僕の甘えというか自己満足だったかもしれないですね。僕が彼らと同じくらいの時に、今みたいに言われていたら……少しは行動を起こしたと思うんです。今となっては想像しかできないですけど」
「でも、だからといって、いま君は自分の進んだ道を後悔しているのかい?」
「……いいえ、無駄なことはなかったと、思っています」
「迷うのが人間の本文、数々の助言をもらいながらも、道を誤ることもある。来た道が間違いなら、戻ったらいい。それこそ何度でも、生きている限りは何度でもやり直せる――教師というのは、誠くん。棒に似ていると思わないかい?」
「棒、ですか。杖、ではなくて」
「君は彼らにとってどんな棒になるんだろうねぇ」
丸いシルエットを揺らしながら沢村は廊下を歩いていく。誠は考えながら、戸締りをしに再び教室に戻った。
「お前はもう少し自分に自信を持て」
利根川の言葉が思い出される、二者面談の最後、彼は誠にそう言った。
「先生」
その後に続く言葉を誠は口にすることができなかった。どうしようもない不安は簡単にあの頃の誠を一飲みにしてしまえた、喉元まで迫ってきて苦しさで窒息しそうになる。それでももがいて、自力で呼吸をしようと必死だった。
重く瞼を開ければ見慣れた光景の中に少女がひとり立っている、見知った顔だ、誠のクラスの生徒。自分を見上げる小さな顔はまっすぐな目で見つめ返してくる。
「せんせい、自分に自信を持つってどういうこと?」
もしいま、生徒にそう聞かれたとしたら、教師になった自分はどんな言葉を返してやることができるだろう。自分はどんな風に彼らを導いてやれるのだろう。
「棒に似ていると思わないかい?」
これは沢村の台詞だ、「君はどんな棒になるんだろうねぇ」
「へぇ、沢村先生そんなこと言ってたんだ」
本日のおススメ、えびマヨサラダを口に運びながら、志ゐは「先生らしいね」と呟いた。最近ではこんな風に三人で集まる機会も減ったけれど、時々こうして二人に会えるのを誠は言葉にしないけれど楽しみにしている。
「それってさぁ、あのヒトお得意の言葉遊びじゃないの?」
ミックスグリルをがっつり頬張っていた透が、セットのスープを飲み干して言う。持っていたフォークで志ゐのブロッコリーを横取りしてぱくっと口に放り込む。
「言葉遊びって、どういう」
睨んでいる志ゐを無視して、透は大皿で頼んでいたポテトに手を伸ばす。
「いいか、ボウのつく言葉を並べていけばいいんだ。思いつく感じで何個か言ってみると、相棒・希望・展望、多忙なんてのがある。あと、ゴボウとかな。教師が棒に似てるって言ったんだろ? そのままの意味もあるけど、こんな感じで裏の意味もあるってことさ」
「透、そのままの意味分かるの?」
フォークをくるんくるん回しながら、透は隣で「行儀が悪い」と怒る志ゐに、はいはいと適当な返事を返している。
「当たり前だろう、そんなの簡単だ。棒って言ったってピンからキリまであるんだ、そこら辺の木の枝みたいに細くて折れやすいんじゃ支えることもできない。だからって言って鉄パイプみたいな棒じゃ硬くて重いだろう、そういうことだ」
「だから、どういうことだよ」
誠は食べていた激辛石焼ビビンバにタバスコを振りながら聞いた。勢い余ってすこし掛けすぎた。透が「お前そんなの食べて胃がおかしくならないのか?」と、あからさまに嫌そうな顔をしたので「別に誰にも迷惑掛けてないだろ」と短く返す。
「国文の教師だろお前、そんなので芥川の『こころ』が理解できるのか? 分かりやすく言ってやるとだな、沢村はお前に、限りなく魔法の杖に近い棒になれと言っているわけだ」
「マコちゃん、透は適当に言っているだけだから気にしない方がいいよ」
「失礼な、今の話のどこが適当か!」
「ゴボウとか、教師はゴボウに似てるってそれはないでしょう」
「灰汁を抜いたら意外といい奴みたいな感じ? 煮物に炒め物に何でもこいってな!」
「ほら適当、一休さんならもっと上手い頓知で返すわよ」
「これは坊主じゃない、ベリーショートだ! お洒落なんですー」
時が流れたのを忘れてしまうくらい、僕たちはあの頃のままだ。
透のくだらない話に志ゐが真面目に答えて、それを見て僕は笑ったり一緒になってふざけたりした。
心の成長はどこかで止まってしまう。基本的な部分がそれ以上を上書きしないようになるんじゃないだろうか、基盤の形成ってやつだ。その先は新しい情報をインストールしては削っていく、この作業をこなしていくのが大人って生き物なのかもしれない。
僕は正常にインストールできているだろうか?
「透、僕たち大人になったんだね」
「やっと気がついたか、知ってたか? 俺はもう五年も前から大人だ」
「よく言うよ」
Seen5〈ずっと……〉
愛情というのが、一種の依存だとするなら、否定する気はない。人は少なからず何かに依存していかないと生きてはいけないからだ。例えばそれは、何かを与えることで得られる幸福感。例えばそれは、何の意味も無いようなやり取りのなかの安心感。
アパートの二階、奥から二番目が誠の部屋だ。六畳と四畳半の二間、小さいけれどガスコンロもあるし、洗面所も狭いながら取り付けてある。風呂はないけど、日当たりは最高だ。
そんな彼の城に、この日は違う出来事が起こっていた。灯りがついている。不思議に思いながら階段を上って徐々に近づくと、テレビの音も聞こえる。間違いない、誰かがいる。
ドアに手を掛けようとしたその時、隣の部屋の管理人がひょっこり顔を出した。
「藤崎くん、鍵くらい渡しておいてあげないと。彼女、困ってたよ?」
「は? 彼女? いったい誰です?」
「可愛い子だね、昔の、清純派アイドルみたいで」
「そんな知り合いいたかな、とりあえず、管理人さんが鍵開けたってことですよね?
今度こうゆう事があった時は、携帯に連絡くらいもらえますか、いくら叔父さんでも勝手にヒトの部屋を開けるのはちょっと……」
「おじさんは、可愛い女子の味方なの!」
「そういうことをご近所さんの前で言うのだけは止めて下さい」
隣人を部屋に押し込めると、誠はドアノブを恐るおそる捻ってみる。清純派の可愛い女の子? さて、そんな知り合い心当たりがまったくない。
志ゐならあの叔父も面識があるはずだからだ。主が帰ったことに気がついたのか、奥に見えていた人影がゆらりと動いた。
「あ、おかえり、マコト」
照れくさそうに、目の前の少女は誠を見つめている。栗色の背中まで伸びた髪、西洋の人形みたいに整った小さな顔、色の白い華奢な身体、ふわりと揺れるワンピース。その、さくら色の唇から発せられる声も、あの忘れることのなかった遠い日のままだった。
「…………沙綾?」
「あたしもね、帰ってきたの。だから、ただいま」
「ほんとうに、沙綾なのか?」
夏の暑さが見せる幻なんじゃないかと誠は思った。全身の力が抜けるようで、床の上に膝をついて彼女を見上げるような格好になる。ひんやりと冷たい。覗き込むように彼女が顔を寄せる。
「忘れちゃったの? 約束、したでしょう? また、逢いに来たの」
「忘れるわけないだろ、ばか。ばかだな、僕だってずっと会いたかったんだぞ」
体温が感じられるほど、近づいた距離を回避して誠は立ち上がろうとするが、上手くいかない。そんな誠に彼女は手を差し伸べる。 ピアニストみたいなその手のひらを何度目か誠はそっと握ってみた。幻ではないのだと、なぜだか目頭が熱くなった。
「おかえり」
「うん、ただいま」
「……おかえり」
「なぁに、マコト泣いてるの? 背も伸びたし、大人になったなぁって思ったのに、中身はあの頃のままなの? 成長しないなぁ」
「うるさい。来るならちゃんと、連絡くらいしてこいよ、ばか」
「無理なこと言わないでよ、ばーか」
Seen6〈十年という月日〉
喧嘩の原因なんて、振り返ればいつもどうでもいいことだった。ほんの些細なボタンの掛け違え、冷静に考えれば笑って許せるような物事の積み重ね、それが男と女という性差、捉え方の違いで縺れて、絡み合った塊をそこら辺に転がしてしまう。
ひとつ一つ解いてやれば良いのだけれど、それが思いのほか面倒くさい。
「僕にだっていろいろあるんだよ!」
「いろいろって何? それって約束破ってまでしないといけないこと? 遅くなるなら電話くらいしてくれたって良かったじゃない!」
「それは悪かったけど、でも」
「でも、なに?」
「……もういいよ、こんな話してても疲れるだけだから」
「よくない! マコト!」
沙綾には、わからないんだよ。そんな風に誠に言われてしまうと、沙綾は地面がなくなってしまったような気持ちになる。
「マコト、変わっちゃったんだね」
「十年も経てば変わるさ、僕だってもう、子供じゃないんだ」
忘れることもできずに、この時代に帰ってきてしまったけれど、自分を取り巻くすべてが、自分を拒絶しているように思えた。
「ねぇ、マコト」
「ごめん、いま、忙しいんだ」
「そうだね」
一体、何がしたかったんだろう、ここには私の居場所なんてないんだ。
「なにが、したかったのかなぁ?」
沙綾はがらんとした部屋を振り返った。
「……なんにもない。あたしみたい」
ゆっくりとドアを閉めて、薄明るい夜の下に歩き出した。
一人で歩く夜道はとても静かだった。行く場所なんて他にどれだけあるだろう? この時代には彼の部屋以外見知ったところなどひとつもないのに。
ひとつだけあった。そうだ、あの絵を見に行こう。
迂闊だった。試験問題を作るのに夢中になって周りが見えなくなっていた。ひと段落したから夕飯でも食べようと部屋を見回して、そのことに気がついた。どこにもいない。
「沙綾? 夕飯食べに行こう?」
隣の部屋も見てみたけど、真っ暗なブラウン管が転がっているだけだった。
「あー、そうかよ! また勝手にいなくなったってわけか!」
どすん、と床に腰をおろすと、誠の手に何かが当たった。
「……なんだよ、あんなに欲しがってたくせに」
銀で出来た子供染みた四ツ葉のクローバーのネックレス。そのなかの一葉だけが光を集めキラキラ光るガラスのハートになっている。夏祭りの屋台で彼女が欲しがった。
「あーもー、なんなんだよ!」
誠はそれをポケットに押し込んで部屋を出た。
晩夏の夜道は少し冷える。繁華街の電球はあんなにも暑苦しいっていうのにだ。沙綾の好きそうな場所は大体探した。アクセサリーショップとか、可愛い小物が並んでいる雑貨屋。電気街のウィンドウ前とか、……なのに、どこにもいなかった。もうすぐ日が昇る。
「沙綾、ちゃんと飯食ったかな? 変な奴らに絡まれてなきゃいいけど」
その日の目覚めは最悪だった。昨日あのままの格好で眠ったせいで、全身汗臭いし、寝ぼけたままコーヒー片手にパソコンを触ったもんだから、手が滑ってデータが消えるし。朝食、ろくに食費もないって言うのにふたり分作って昼もそれを食べるハメになるし。
結局、次の日も、次の日も。沙綾は帰ってこなかった。
「あー、藤崎先生? 大丈夫ですか、風、邪。まぁ、いまは夏休みですし、十分休暇をとってくださいね」
「誠くん風邪だって? 美術部の合宿こられそうかい? 皆楽しみにしてるんだけどね」
「すみません、合宿には間に合わせます」
風邪、というのは嘘だ。
晩夏の風は生ぬるい熱風で、ひぐらしの最後の叫びと、風鈴の我関せずな音色とを交互に聞いている。何も手につかない、何もしたくない。
「おっじゃまー、うぉあ? なんじゃこのえげつない臭いは――――?」
「……なんだ、透か」
「なんだじゃねぇよ! 誠! お前!」
「っ! なに、なんだよ!」
「脱げ!」
「な、に、すんだよ! 湧いてンのかお前」
「い、い、から脱げ! そんで風呂! 入ってこい、顔も剃れ!」
「なにがあったんだよ?」
「べつに」
「アレが別にか? え?」
「別にふつうだろ? 男のひとり暮らしなんだから」
「お前らしくもない」
「らしいってなんだよ?」
個人を形成するもの、それは他者の認識だ。自分以外の誰かがはじめて自分というものを見つけて、そしてそこに始めて個人が生まれる。
「そんなの見たら生徒が泣くぞ? 志ゐが電話が繋がらないって言うから来てみたら何だこの有様は」
「透の方こそ、らしくないじゃないか、大人みたいなこと言って」
「もう大人だ、俺も、お前もだ」
「沙綾が帰ってこないんだ。試験問題作るのに夢中になってて、あんまり構ってあげられれなかったから、家出したみたいで」
「だからってそんな自堕落な生活してていいのか?」
「規則正しい生活してれば、帰ってくるなんて保障はないだろ。もう二週間だぞ」
「その台詞、そのまま返してやるよ! そんなに心配なら、こんなとこでダラけてないで、外出て探せ! 家帰ってくんな!」
Seen7〈沙綾〉
あのころの僕には、愛を語るほどの知識も経験もなくて、『ただ、好きでいること』だけが本当なんだと思えた。それが、愛情ってものなんじゃないかと納得していた。おしつけ合うものでもなく、与えるだけのものでもなく、報われることがなくても、それが僕なりの愛し方だったように思えた。
たとえそのせいで僕が孤独になっても、君が幸せなら。君が笑って暮らせているならそれでよかった。僕の孤独も君の糧になるんだと、嬉しく思う。僕の心はそれだけで救われる。
子供ではいられなかった。大人にはなれそうもなかった。等身大はありのまま、世界には君と僕しかいなくて、近くも遠いその距離が僕にはもどかしかった。あの時『好きだ』と言えたなら、僕と君以外に世界に何かが生まれただろうか? もしもあの時、この気持ちが『恋』だと気づけたなら、僕のサナギは羽化ることができただろうか?
歩道橋の上から見渡した灰色の世界、なんとなしに視線を投げた先にある空には雲の合間に光が漏れていた。天使の梯子と言うんだったか、あの子はあんな光の道を降りてきたのか。それとももう帰ってしまったんだろうか。
人波に埋もれるように行く当てもなく縮こまる沙綾を見つけたのは本当に偶然だった。「沙綾!? さあや! そこで待ってろ! 動くなよ!」
僕は身を乗り出して叫ぶ、びくんと肩を揺らした彼女が驚いたという顔をしているのが遠くからでも分かった。もう戻ることがないとしても、いまは、自分に正直に生きられるのだと言い聞かせてみる。息せき切らして彼女の前までたどり着くと、不安そうな小さな声を耳が拾う。
「マコト……」
僕が怒っていると思っているんだろう、まぁ、それなりに怒ってはいるけれど。とりあえず目の前にいる彼女の方を掴んだ……あぁ、大丈夫だ、幻じゃない。本物だ。
「何してたんだよ、いままで! どこに……俺がどれだけ心配したか…」
全身から力が抜ける、やばい、急に走ったから頭がふらふらする。
「心配、してたの?」
「そうだよ!」
「学校は?」
「休んだっっ! おかげでもう、休む理由が見つからないよ」
後悔をするのも、言い訳をするのも、もうたくさんだ。
「本当に心配だったんだ?」
「そうだよ!」
「……怖かった?」
震えているのは僕と彼女のどちらだろう、温もりに視界がぼやける、 風邪を引いたなんてそんなの嘘だったのに、僕の声はかっこ悪いくらい鼻声で、上手く言葉にできない。
「やめろよな、こういうの。急にいなくなったりするの、もぅ、まじで勘弁して」
「まわり、ヒトが見てるよ?」
「知ってる! 沙綾のせいだからな! 俺、こんなんじゃないのに」
駄々をこねている子供みたいだ。恥ずかしくて当分顔を上げられそうにない。
「本当、マコトじゃないみたい」
「絶対、もうどこにも行くな」
どうしようもないくらい必死で、取って付けたような陳腐な台詞。
「あたしも、あたしじゃないみたい」
Seen8〈僕だけの天使〉
「マコトばっかり大人になって」
「……それはしょうがないだろ」
「生意気」
「どっちが」
「だって、あたしは!」
「……天使は、歳をとらない、か。沙綾、左手かしてみな?」
「はい……なにそれ?」
「んー? お、やっぱりぴったりだな、さっすが」
「かわいい」
「だろ?」
「ねぇ、マコト。あたしね、今がいちばん幸せ」
「今日が、いちばん、幸せ」
「なに言ってんだよ、明日だって、この先だってあるだろ」
「明日なんか、来なければいいのに」
「いいのか? 天使がそんなこといって」
「天使がみんな善良なんて、誰が決めたの?」
「そりゃぁ、カミサマじゃない?」
「マコトが思うよりも寛大よ、カミサマは。……だって、許してくれたもの。約束をして、もう一度ここに来ることができたもの」
「約束?」
「忘れ物を、取りに来たのよ、あたし」
「なにを忘れたって?」
「すごく大切なもの。忘れちゃいけなかったのに、十年前は忘れちゃった」
「ううん、本当はわざと忘れて行ったんだ」
「ねぇ、マコト。あたしね、」
「あたしね」
――あなたのことが好きだったよ。
「―――あれ、俺、何してたんだっけ? いま何時? げ、合宿の準備まだしてない! 長期休暇開けの試験問題もできてないって言うのに!」
「ねぇ、マコちゃん。それ、その指輪のストラップどうしたの? かわいいね」
「あぁ、なんかポケットの中に入ってたんだ。はめるには小さいし、捨てるには勿体ないしでね、付けてみた。やっぱりおじさんがこういうのって、引く?」
「カタチもシンプルだし、平気へーき、おしゃれだよ」
「ならいいんだけど」
放課後の廊下を藤崎誠は部室へと急ぐ。夕焼け色のカーテンを隙間風が揺らす、イーゼルに立て掛けたその絵の前に立って、誠は何かにせかされるように筆を走らせる。
焼きつくような、青のコントラスト。彼女の小さな背中、淡い光の中の彼女を、頬に落ちる影も、繊細な髪も、すべて記憶の中からすくい上げるように。
「マコ?」
透の声も耳に入らないくらい、海を臨む岬で、誠はその先にあるものを必死で探していた。視界が滲むせいで、筆を運ぶ速度が徐々に落ちていく。
「マコ、これ、誰かモデルでもいるのか? お前の絵にしてはやけに現実味があるよな」
「……もう、ここにはいないんだ。でも、いつかまた会える気がするんだ。僕が忘れたりしなければ」
透の姿が見えなくなると、誠はキャンバスの裏側にまわり、持っていた筆で書き足した。
波の音が聞こえるあの、海を臨む岬で。
ぼくは君を見つけて。
そして、君に恋をした。
書き終わった後で再び読み返すと、誰も見ていないとはいえ、顔から火が出るんじゃないかというくらい恥ずかしいことに誠は気づく。廊下を歩く生徒の声に、とっさにネームプレートを糊付けして張り付けた。
「こんなの見つかったら、絶対透にからかわれるって」
それでも、もう一度その絵を眺めると、不思議と笑みがこぼれた。
「結構、上手く描けてるじゃん」
誠の隣に立つ沙綾の声は誰にも聞こえない。
いま、君が好きだっていうこの気持ちを、未来の自分に誇れるような恋ができたらいいと思う。毎日のふとした瞬間が、君のことでいっぱいで。理由もなく笑みがこぼれて、考えすぎて苦しくなったり、どうしようもなく泣けてきたり、そんなことも君の声が聞けるだけでどこか遠くに吹き飛んでいく。話したいことの三分の一も言えなくて、短い相鎚が頼りないけど。五分でも、二分でも、君と繋がっていられることが、これ以上ないくらい幸いだってこと。
本当は君の隣にいられたら、と思う。何もしなくてもいいから、黙ったままでも良いから、同じ所にいられたらと思う。
話したいことはたくさんある。いつも言えない。嫌われるんじゃないかと思って喉から先へは出ていかない。妄想の中じゃ、大胆に君の笑顔を捕まえてみせるのに、実際の僕ときたら、俯いて自分の影につかまって歩いているだけだ。
たぶん、本当に好きだ。いや、好きだ。君じゃなきゃダメだ。
もう一度逢えたら。それが本当に運命って奴だとしたら、ちゃんと君の目を見て伝えたいんだ。
僕と、一緒になってくれませんか?
僕だけの、天使
何年か前に書いた青春もの(だと言い張る)。
ベースが学生時代に書いたものなので、現在の学生さんって感じではないかもしれません。
少しずつ書き足していきたいと思います。