涙のスペクトル

 濃縮還元。

愛するには若すぎた

 秒針は止まっている。

 「大丈夫?」
 「……ん? 何が?」
 「今にも泣き出しそうな顔してるよ」
 「そう?」
 「うん」
 「そう……」
 
 誤魔化すように額を掻きながら、口元だけ笑ってみせた。
 相変わらず秒針はつとしている。

儚く

 私の部屋には時計が五つある。壁掛け時計一つ。置き時計三つ。腕時計一つ。みんなそれぞれ、少しだけズレている。ほんの数分のズレなので、さして生活に支障は来さないけれど、やっぱり気になるのは性分だろう。
 しかし、気になるたびに合わせ直しているはずの時計は、また気づいたら同じようにズレているのだ。もしかしたら壊れているのかもしれない。そう思って時計屋に持っていったが、「いい時計を新調しましたね」とこれだけ。確かに壁掛け時計は、つい最近知り合いの時計職人に頼み、木と銀だけで創ってもらったオーダーメイドの代物だ。壊れているはずがない。じゃあ、他の時計が壊れているのか、と三つの置き時計に腕時計一つをまとめて時計屋に差し出すと「どれも壊れちゃいないよ」と今度はにべもなく瑣末(さまつ)な扱いで返されてしまった。私はとぼとぼと家に帰り、時計たちを部屋の定位置に戻してやった。
 「お前たちはどうしてちょっとズレているんだ」
 そうして時計に語りかけていた私も、世間からすればズレた人間だろう。

 ある朝目が覚めると、相変わらずズレたままの秒針の音が、チク、タク、と軽快なリズムを刻んでいた。昨夜焚いたアロマの香りが少し部屋に残っていて、その甘い香りで私はまた眠りに落ちかける。いかんぞ、とかぶりを振りながら冷えた腕をさすった。九月か、と呟いた私の声は時計の奏でる愉快なロンドに掻き消された。
 私は一昨年に大学を卒業し、横浜の親元を離れ東京のマンションで一人暮らしをしている。地元とこちらは電車一本で繋がっていて兄弟や古い友人に会いに行くのは、決して難儀ではなかった。ただ、それがまた虚しかったりもするのだ。
 ほとんど無心で着替えと朝食をほぼ同時に済ませ、テレビの電源を入れる。
 『来週からシルバーウィークに入りますね。東名高速道路の渋滞の予想を見てみましょう。……』
 「世間は連休か……」
 私は遣る瀬無い気分で少しネクタイを緩めた。今思うと、新卒だった頃の仕事はかなり良心的だった。私のミスにも一緒になって頭を下げてくれ、仕事が終わると「俺のおごりだ」と酒に誘ってくれた。飲みすぎて潰れた私をタクシーで送ってくれたあの先輩は、今年の人事異動で地方の支社に左遷されてしまった。理由は――漏れ聞いた話だが――夫人の長年の不倫が明るみに出、そのショックで無断欠勤が続いていたから、と絶妙になんとも言えない話だった。愛し合っていると信じていたはずの嫁が、別の男の方を愛していただなんて、独身の私でも耐えられないと思う。しかし会社からしてみれば、それくらいでへこたれるようなメンタルの弱い社員は要らないと言いたいのだろう。だが果たして配偶者の裏切りを「それくらい」と表することが妥当であるかはわかりかねるが。
 当の彼は「辞めさせられなかっただけマシだ」と苦笑いを残して私の目の前からいなくなってしまい、それっきり。
 そして私の方は今年から総務部に異動になり、今じゃ上司の尻拭いは当たり前の、サービス残業から逃げ回るという現状だ。せっかくの連休だというのに、管理者ばかりがバカンスを楽しみ、そのしわ寄せは元からそうであったかのように私たち下っ端に来る。「ボクが安心して休めるように頑張るのがキミたちのお仕事だからね」と、これは総務部部長、田中秀樹氏の言葉だ。私が総務部に就くことになったのは彼直々のご指名だったそうだが、正直全く嬉しくない。というのも、田中部長は絵に描いたような「嫌な上司」で、気に入らない部下へのパワハラが変に緻密で(いや)らしいのだ。逆に、一度気に入られてしまうと、気に入られている自分をキープするのに神経がすり減り、結果鬱になってしまうらしいという噂も後を絶たない。それを思えば、元いた社内広報部の方が居心地が良かったなあ、とつくづく身に沁みる。
 「うわ、もうこんな時間か」
 テレビに表示されている時刻を見て、ぼうっとしていた頭が冴える。嗚呼、仕事に行かなければならない。激しく憂鬱になりながらも、少しカッコつけてジャケットを羽織ってみると、心なしか気分が晴れた気がした。
 「……行ってきます」
 無人の玄関に向かってそう言うと、せっかく晴れた気分が台無しになった。私は思わず苦笑する。やっぱりいつも通りだな。いつも通り、部屋に佇む時計たちのように、私はどこかズレている。

 「あ、岡田先輩‼︎ おはようございます、お早いですね」
  新人の桐ヶ谷君だ。小柄な体型と甘やかな笑顔がどこか幼さを感じさせるが、性格の方は全く毅然としていて、一応教育係である私は彼に対してもっぱら安心している。
 「おはようございます。昨日言っていた資料、できましたか?」
 「はい‼︎ あ、でも少し心配なんで、推敲のお手伝いをお願いしてもいいですか?」
 「僕でよければ」
 「ありがとうございます‼︎」
 彼は二十三歳といっただろうか。たった二つしか違わないはずなのに、とても眩しく見える。私が入社したての頃は、こんなにフレッシュな存在ではなかっただろう。そんなことを考えながら、デスクに鞄を置きノートパソコンを起動させる。
 「……えっ?」
 「どうしたんですか先輩?」
 同じように反対側に座る桐ヶ谷君が、ファイルなどの隙間からこちらを見ている。
 こらこら、「どうしたんですか」じゃなくて「どうなさったんですか」だろう、と若干年寄りくさいことを思いながらで笑顔を作り、「見知らぬアドレスからメールが来ていて。それだけですよ」と言った。
 「よかった。先輩でも動揺することってあるんですね」
 そう言った彼の笑顔は紛うことなき本物だ。桐ヶ谷君の微妙な言葉遣いに関しては、これからゆっくり教えていこう。
 「しかし、なんだこれ」
 改めてディスプレーを見ると、同じアドレスから十数件もの通知が来ている。それも、プライベート用のメールボックスにだ。そして。本当は、それは見知らぬアドレスなどではなかった。名前もしっかり登録してある。ディスプレーに表示されているその名前。
 『吉田 真紀子』
 見覚えのある文字の羅列に、私はいつぶりだかに戦慄した。

 「おおい、悠ちゃーん。ちょいと来ておくんなましー」
 部長の猫撫で声が私を呼んでいる。私は悠太郎という名前を持ち、普段は「岡田君」や「悠太郎君」と呼ばれるが、部長が「悠ちゃん」と呼ぶ時には必ず何かある。大なり小なり、必ず。
 「どうされました?」
 通常業務を終え疲れ切っていた私は、明らかにうんざりしながら言った。
 「はは、疲れてるよねぇ、悠ちゃん。でもさぁ、この書類にちょこーっとミスがあったんだ。ホラ、桐ヶ谷君だっけ? 彼もう帰っちゃったから。直してくれるよね? 明日の会議の資料だし頼むよ」
 「え、ええ。大至急」
 おかしい。たったこれだけのことで、私をあの気持ち悪い呼び方で呼んだのか。いつもなら「家内の愚痴を聞いてくれ」だの「娘が反抗期で」だの、悪い日には「悠ちゃん以外の社員は役立たず」と酷い話を聞かされる羽目になるのだが。
 「……部長、こちらの方でよろしいですか」
 「んー、うん。うんうん。オーケー」
 「ああ、それから明日の会議なんですが、桐ヶ谷君を見学といった形で参加させてやれないでしょうか。新人ともなると手持ち無沙汰なところが出てきてしまって」
 「うん、いいんじゃない? 明日のはユルーいヤツだし。岡田君はやっぱり気が利くねぇ」
 「いえ、そんなことは」
 そんなことあるよと乾いた笑い声を上げる部長に合わせ、私も少しだけ笑いながら一歩後ずさりした。
 「よぉし、岡田君は早く帰って明日に備えてちょうだい。残業組も終わったらさっさと帰るんだぞ」
 
 田中部長への疑問を抱いたまま家に帰り着いた私は、考えるより先にパソコンの電源を入れた。部長を案ずる暇はなかった。
 本当は朝の時点で確認しておきたかったのだが、会社でプライベートのメールを読むのはあまりに危険すぎて、不可能だったのだ。そして危険でなくなった今、『吉田 真紀子』からのメールをいち早く確認しなければならない。
 しかしこういう時に限ってパソコンの立ち上がりが遅く、私はイライラした。イライラしたままふとテーブルの上に放ってある携帯電話を見て、「あっ」と思い出す。
 「…………もしもし桐ヶ谷君ですか? 岡田です。明日のことで話が」
 電話越しで会議に参加してもらいたいとの旨を伝え、「了解しました」という溌剌とした彼の声に自然と笑みを浮かべながら通話を終了した。
 携帯電話を再びテーブルの上に置きパソコンを見ると、ちょうど起動が完了したところだった。ジャストタイミングだなとさっきのイライラが綺麗に吹き飛び、私は急いでメールボックスを開いた。これもまたすんなりと開き、『吉田 真紀子』の文字が目に飛び込んでくる。
 吉田真紀子。今じゃ顔も思い出せないが、記憶の片鱗を拾っていくと、彼女が綺麗な人であったことは確かだ。現在もそうであるかは不明だが、このメールを機に知ることは可能だろう。しかし私は知りたいと思わない。なぜなら相手は吉田真紀子だから。二度と会うこともないと思っていた、全身全霊を以って憎悪してきた女だ。
 私には、一つ上の姉と三つ上の兄と、まだ高校生の妹がいる。四人兄弟だ。そして吉田真紀子は、私たち四人を見捨て逃げることを選んだ遁世者(とんせしゃ)。小さい頃は彼女をこう呼んでいた。「お母さん」と。
 吉田真紀子は、本来なら最愛であるはずの、最も憎むべき人だ。

 

そして愛の告白を

 「岡田先輩、この間はありがとうございました」
 「ああ、こちらこそ。参加してくれてありがとう」
 「いい勉強になりました‼︎」
 それはよかった、と私は独り言のように言った。全く別のことに気を取られていたのだ。
 「僕はもう帰ろうと思っていますが……桐ヶ谷君は?」
 「昨日早く上がらせてもらったから、今夜はその埋め合わせですよ。いやぁ、さすが先輩、毎日定時に帰れるなんて」
 「うん、今夜はいろいろありましてね。手伝わなくて大丈夫ですか?」
 「大丈夫です、一時間くらいで終わらせてやりますよ‼︎」
 笑顔でガッツポーズをして見せる桐ヶ谷君に、私の口元もほころぶ。しかしそんな自分の表情とは裏腹に、左手は小刻みに震えていた。そして、その左手の中にある携帯電話が静かに振動する。
 「じ、じゃあ、また明日」
 声もまた、震えていた。桐ヶ谷君は不思議そうに私の顔を見つめ、すぐに破顔した。
 「はい‼︎ お疲れ様でした‼︎」

 会社を後にし、駐車場に向かう。そこに一台、セダンがぽつんと停まっている。その黒塗りのアウディは、父親のお下がりだ。
 運転席に乗り込むや否や、私は震える手で携帯電話のロックを解除する。メールが一件。
 《悠太郎。返事がもらえて嬉しいです。直接会って話がしたいので、今度どこかで待ち合わせませんか?》
 私はため息をつく。以前受け取った十数件ものメールには全て、「今まで悪かった」「みんなに会いたい」そのような内容が永遠と綴られていた。一体どこで私の連絡先を手に入れたのかは知らないが、こうして一方的にメールを送りつけるのはインモラルが過ぎる。初めは二度と連絡をしてくるなと返信するつもりでいたが、ふと思いとどまり一晩考え「元気そうで何よりです」と皮肉を込め文字を打つに至った。
 そして来た返信が件の内容になる。どこまで身勝手でエゴイストなんだ。静かに憤慨しながらで、私は少し考える。
 大学の卒業式の日、実家で吉田真紀子の連絡先が書かれた紙を見つけたのは偶然のような必然だったのだろう。しかしそれは茶褐色に褪せていて、随分昔の物であることがすぐにわかった。それでも、もしかしたら母を捜す手がかりくらいにはなるだろうと持ち帰ってきた。まさか本当に変わっていないとは。
 だが、私はなぜあの時、母を――吉田真紀子を捜そうなどと思ったのだろう。兄弟はみんな、彼女のことなどとっくに忘れているというのに。
 《そうですね、仕事の都合が合えばお会いしたいです。その前に、兄さんたちにも連絡をされてはいかがでしょう》
 駐車場の人の出入りが増え始め、私は特に考えもせずそう送った。すると、三分ほどして通知音が鳴る。
 《連絡先がわかり次第、するつもりです》
 私は返事をせず、車を発進させた。今日はもう、一刻も早く眠りにつきたい。

 チク、タク、チク……。
 午前二時。変な時間に目が覚めてしまった。こんな夜は、相変わらずズレた時計たちが奏でるロンドが不愉快なんだ。外では雨と風が唸り声をあげていて、私はもう一度寝ようにもなかなか寝付けなかった。
 「……あれ? おかしいな」
 ベッドから起き出し、リビングに向かうと電気が点いたままであった。確かに寝る前に消したはずだけれど。いや、昨日は消灯にすら頭が回らないほどに疲れていたのかもしれない。現に、今も全く眠った気がしない。
 視界が霞む目を擦りながら、ローテーブルに置いたままの携帯電話を見遣る。不意に、バイブレーションと共に着信音が鳴る。私は身を強張らせた。こんな時間に一体誰だ? 身体を硬直させたままで、眉を顰める。ほどなくして着信音は鳴り止み、画面に「You got a mail」の通知が表示される。
 「……相変わらず非常識な女だ」
 私は吐き捨て、携帯電話はそのままにリビングを後にした。今度は忘れずに電気を消して。
 結局その後も望むようには眠れず、うつらうつらし始めたかと思うと、発作のように目が覚めてしまい、何度寝返りを打っても身体が落ち着かなかった。安っぽいビジネスホテルのベッドで横になっているような心地だ。
 私は暗闇で頭を抱えながら、鼻声で呟いた。
 「全部、あの女のせいだ」と。

 朝、無点灯でも眩しいほどに明るいリビングで着信音が鳴っていた。咄嗟に思考を巡らす。監視カメラか? 盗聴器か? それともオカルト的な現象か。あまりにもタイミングが良すぎやしないか。いい年して、こんなものに恐れをなすとは情けない。私は冷え切った携帯電話を手に取り、応答する。
 「……はい、岡田です」
 『……――……――――』
 「もしもし?」
 『…………』
 「何なんです? イタズラ電話なら切りますよ?」
 『…………って――……す……て』
 「もしもし? もしもし⁈」
 ツー、ツー、と虚しい音がするだけだった。しかし私は聞き逃さなかった。男とも女とも判別のつかない、スピーカー越しの声を。ハウリングした、ノイズ混じりのSOSを。
 そして、再び考える。先ほどの思惟は完全に改めた。着信履歴を見て、自分の推考が正しかったことを知る。何度スクロールしても表示される数字の羅列は変わらなかった。そこに、吉田真紀子の名前。
 私が眠っていることも承知で、私が出ないこともわかっていて、彼女は私に助けを求めていた。長年にわたり消息を掴めずにいた者の身に、たった一晩で何が起こったのか、今は知る術がない。
 
 会社に行くと、そこもまた異様な雰囲気に包まれていた。喧騒が私の不安を掻き立てる。
 「桐ヶ谷君……これは一体」
 「あっ先輩。おはようございます……実は僕も今来たばかりで何が何だか」
 騒めくオフィスを見渡し、引きつけられるように部長のデスクで視線が固まる。雑然としたデスクに歩み寄り、誰がこの騒ぎを起こしているのかを理解した。
 「部長は遅刻ですか」
 「そういえば、姿が見えませんね……。珍しいですよね?」
 「……以前は度々あったことのようですが」
 一部の社員の様子を見て、私は察する。彼らは落ち着いていた。一人はまたか、といった表情だ。いつもいつも嫌味みたいに早く出社し、少しでも定時に遅れたら中身のない説教が始まる。それを恐れ、我々は定時一時間前の出社を暗黙の了解としてきたのだが。
 突然、大きな音とともにオフィスのドアが開く。この場にいた全員の視線が、瞬時にドアに集まった。そこへ、肩を上下させながら、激しく息切れをする田中部長の姿が現れる。数名が慌てて駆け寄るが、険しい顔をした部長自身によって制止されてしまった。
 「部長、どうされたんです?」
 私は皆を代表して尋ねた。まるで当たり前のように応答はない。もう一度、部長、と呼びかける。しかし反応がない。
 「……さあ、仕事だ、仕事だ」
 虚ろな目をして呪文のように呟く部長の姿は恐ろしかった。桐ヶ谷君も同じことを感じたようだった。背後で息を飲む、震えた呼気が私の鼓膜を振動させる。
 「それじゃあ……皆さん、今日も一日よろしくお願いします」
 誰かがそう言った。私たちは数秒のタイムラグの後に、生気のない声で応えた。
 その後、一日中パソコンに向かいながらで、私は思考を巡らせていた。
 真夜中の止めどない着信と、田中秀樹氏の不可解な狼狽。果たして、全く関係のないことと言い切れるだろうか?
 考えすぎかもしれない。ただの偶然かもしれない。それでも、私の直感は杞憂であることを許さず、何らかの関係性を見いだそうとする。むしろ、そこに関係性があるのだという事実によって、逆説的な安心を得ようとしているのかもしれない。今はただ不安なのだ。だから私は、仕事など半ばそっちのけで考えていた。理屈がどうであれ構うものかと、私は新皮質をフル稼働させ続けた。
 時針が数字の八を指したのを見届け、私は桐ヶ谷君に声をかける。
 「今日はもう帰って大丈夫ですよ」
 他の社員は、七時を過ぎる頃にはそそくさと逃げるように帰ってしまった。桐ヶ谷君は、そんな彼らを尻目になかなか帰らない私を、きっと心配してくれたのだろう。しかし今の私にはなまじ不都合でしかない。どうか帰ってくれと祈りながら言葉を重ねた。
 「あとは僕が片付けておきますから」
 「わかりました……」
 そう言う桐ヶ谷君の視線は、私と、虚空を見つめる部長とを行き来していた。訝しげな表情が向けられる。私は微笑して、桐ヶ谷君に伝える。
 「彼に……部長に何かしようなんて思っちゃいませんよ。ただ、少しお話を伺おうとは考えていますが」
 「あ、その……」
 「朝の様子は確かに異様でしたから」
 「部長と話すのに、僕がいては不都合があるんですか?」
 私は不意を突かれ、一度開いた口を閉じる。言葉を選んだ。しかし一日中働いた新皮質はくたびれ、支離滅裂な言葉を紡ぎ出す。
 「桐ヶ谷君は、関係のない人がいても心置きなく会話を楽しめますか?」
 「それじゃあ、部長とはプライベートなことを……」
 「知るにも限度があるということです」私は焦燥に駆られ、桐ヶ谷君の声を遮った。彼はショックを受けたような顔をしている。
 「すみません……図々しかったですね」
 「いえ、僕も強く言い過ぎました」
 互いにぎこちない笑みを浮かべ、私は桐ヶ谷君の肩をポンと叩いた。「また明日」

死ぬほど恋い焦がれよう。

 吉田真紀子から電話がかかってきた。けたたましい着信音に私は顔をしかめながらで応答する。
 「はい、岡田です」
 『悠太郎……助けて悠太郎……』
 「……どうされたんですか」
 『悠太郎…………苦しい……』
 「何があったんですか?」
 『苦しい……痛いよ…………悠太郎……』
 プツンと音が途切れる。突然、視界が暗転した。
 「……――夢か」

 ここ最近、四六時中胸騒ぎに悩まされている。頭痛も酷い。あの日以来吉田真紀子からのコンタクトは一切ないのにだ。否、むしろそれが私の不安を煽っているのだろう。田中部長のほうもしばらく会社に姿を見せなくなった。私の疑念は完全な確信に変わった。吉田真紀子と部長には、何らかの繋がりがある。
 と、仕事中は電源を切っているはずの携帯電話が鳴り出した。
 「しまった……電源を切り忘れていました。すみません」
 私は謝りながらで通話ボタンを押す。携帯電話を耳にあてながらオフィスを後にした。
 「はい、岡田です」
 『……岡田君、ボクだ。田中だ』
 「部長……‼︎」つい大きな声が出てしまい、今しがた出てきたばかりのオフィスのドアを慌てて振り返る。声のトーンを下げつつ、「どうされたんですか?」と訊く。
 『話せば長くなるんだ……いや、でもちょっと聞いてくれるか?』
 「ええ、構いませんが」
 『電話で話すのもなんだ、どこかで会えないかい』
 「わかりました。部長、今どちらに? 私が向かいます」
 『いや、今どこにいるかは言えない……』
 しばらく間が空いた後、『……紫木蓮って喫茶店があるだろう。そこで待ってる』と若干声を潜めた部長が提案する。
 「白塗りの煉瓦の建物でしたね。了解しました」
 『ああ、そうだ。総務部の連中には直帰って伝えていいから』
 「……? 了解しました」
 『じゃあ。すぐに来てくれ。すぐにだ』
 その時私は、パラレルワールドへの扉に対峙しているような気分だった。ここから先の結末は、誰も知らない。知るのは未来の私だけ。私だけなんだと、確かにそう思った。
 しかし現実に目の前で聳えるのは見慣れた磨りガラスのドアであって、それは何の変哲も無い、ただの出入り口なのだ。
 「桐ヶ谷君、急用ができてしまったので出かけてきますね」
 「あ、はい‼︎ 直帰ですか?」
 私は一瞬嫌な動悸を覚え、すぐ冷静になって答える。
 「すみませんが直帰させてもらいます。遅くなりそうなので」
 「了解しました。皆さんにもそう伝えておきますね」
 「ありがたいです」
 ジャケットを羽織り、鞄を抱えてオフィスを出る寸前、私は思い出したように振り返り薄っぺらい笑みを浮かべて「お先に失礼します」と言った。
 いつもならこんなことしないのだ。

涙のスペクトル

涙のスペクトル

自分の人生、本当にこれでいいのか? と戸惑ってしまった時、思い出してほしい作品にしたいです。これを読んで「どんな人生のシナリオも、私だけの特別なものなんだ」と再確認して、明日からでも笑顔で過ごしてください。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-07

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 愛するには若すぎた
  2. 儚く
  3. そして愛の告白を
  4. 死ぬほど恋い焦がれよう。