気になる友人
「三人で飲まないか」
誘われれば高野伸一は断るわけにいかなかった。山村はともかく、不誠実な横井を嫌っている。そもそも何かと縁があり過ぎる。中三の時のクラスメートで大学が同じなら、映画研究会でも一緒だった。向こうも気詰まりなのか二ヵ月で退部した。しかし卒業した後も部長の山村は連絡を取り合っている。
「ああいう手合いと、よく気が合うねえ」
嫌味ったらしく言っても何も感じないようだ。彼は清濁合わせ飲む性格で、人を選ぶようなことはしない。卒業して数年経っているので、高野は友人の変化を期待して尋ねた。
「山村さんは学生の頃よりは成長したろうな」
「なんも変わらんよ。前と同じだよ」
「それじゃ物足りないね」
それはそうだろう、今でも天衣無縫に物を言い、少しも斟酌しない。それが気になるのだ。山村のことを《自然主義者》と仲間の一人が命名したが当たっている。言っていいことと悪いことが区別できず、幼児性を温存させたまま大人になった。それが甚だしい毒をもたらすことがある。
学生の頃、二つ年上の姉が訪ねてきた時、たまたま山村も居合わせた。手土産の菓子を食べながらお茶を飲み、三人で談笑した。彼は素朴な姉に好もしい印象を抱いた。
「面白そうな、いいお友達ね」
姉も友人を褒めた。それでいて後日彼女の話題になった時、とんでもないことを口走った。
「お前の姉貴、誰とでもやらせそうだな」
これには唖然とした。当時先輩として距離があったから、へたに反論したり感情的になるのは避けていた。姉は山村が言うようなタイプでは決してない。時間をおいて咎めた。
「あんな言い方、ないですよ。取り消してください」
「俺、そんなこと言わないぞ」
「言いましたよ」
「何かしらんけど、忘れてくれよ」
「無責任だなあ。一生覚えているから」
結局うやむやになった。このたぐいの失言、放言はは少しも珍しくなかった。それでも絶縁せずにいるのはいい面があるからだろう。社会に出てからは、いつの間に同格の友人になり、失礼な会話はその度に非難した。 高野は二十八になるので、そろそろ結婚してもいいと考えている。つい一ヵ月前に山村が相応の女性を引き合わせてくれた。
「こちら、小野康子さん」
手慣れた口調で紹介された時、胸がときめいた。色の白い顔立ちで、一瞬妻になる相手ではないかと閃いた。それからというもの、
(小野さんと付き合ってみたい)
片思いを募らせた。ところが、ほどなく山村は横井にも彼女を会わせてやり、それが思わぬ方向に展開した。独身の俺に権利があるというのに何てことだろう――悔しがった。
彼は横井という男がどうしても好きになれなかった。中学の時、テニス部に所属し、女子に人気があると自惚れていた。あんなの、どこがいいのだろう。どことなく下卑た顔つきをしている。ある時、封書を手にして言った。
「きみに頼みがある。これをY子に渡してくれないか」
それはラブレターのようだった。
「俺にパシリをやらせようというのか」
「あの子は、高野の家の近くだからさ」
ニタニタ笑った。自慢しているようにも見えた。むろん断った。するとむかついたように、
「お前は、付き合っている子はいないだろう」
「だから、どうだと言うんだ」
「ウフフフ」
馬鹿にしたように笑った。またチクリ、チクリと刺のある嫌味を言った――いまだに憎い奴だと思いながら三人で飲む約束をした。一つは小野康子とどの程度進展しているか知りたいからだ。まだ自分にもチャンスがあるかもしれない。
その飲み屋は浅草の新仲店通りの路地にあった。黒光りするカウンターで、十人ほど座れば一杯になってしまう。年輪を重ねた佇まいでいい雰囲気だった。ママは五十そこそこの色っぽい女で、どさ回りのストリッパーみたいだねと小声で囁きあった。三人とウイスキーサワーを飲んだ。山村が尋ねた。
「理恵さんは元気かい」
細君は妊娠して五ヵ月になる。
「うん、調子はよさそうだ。ただ、ちょっとしたことでも、感情的になることがあるね」と横井。
「身ごもっているから、ナーバスなんだろう。気を使ってあげたほうがいいぞ」高野も口をはさんだ。
「横井は女心をつかむのがうまいから、大丈夫だ」山村がからかい気味に言う。
「そうだ、先輩と話したがっていたね」
「いつでも、お相手するよ」
「今夜、ちょっと寄ってよ。喜ぶから」
「ああ、いいよ。高野、お前も付き合えよ」
別に予定はないので承諾した。横井も義理かどうか歓迎の言葉を口にした。
「横井は映画関係の資料を集めているんだ」
「ぜひ見たいね」
それは本音だった。高野は映画関係のルポライターをしているので関心があった。三人は三杯目を飲んでから店を出た。住まいは曳船にある。東武伊勢崎線の電車に乗った。駅から十二、三分で、四階建てマンションの三階である。ワンピース型のマタニティードレスを着た理恵がにこやかに迎えた。二人はリビングに通され、ソファに座った。
「理恵さんを見て、安心したよ」山村が笑みを見せる。
「よく寝るし、よく食べるし、健康そのものだ」
亭主が答えた。細君は満足そうにお腹をさすった。
「生まれてくる子は、女の子だってね」
「そう、俺の希望通りでよかった。男だったら、がっかりだね」
「どうして」
「息子とライバルになって、同じ屋根の下で競争したくないからさ」
「奥さんは、どうなんですか」
「私はこだわりません。夫が望むなら、女の子がいいわ」
それから映画の話になり、横井が蔵書のことを思い出して、「あっちへいこうか」と促されて書斎に向かった。山村は何度も見ているので興味はないらしい。七畳くらいの洋室に頑丈そうな書架が三架並んでいて、ぎっしり詰まっている。またDVDや古いビデオを収めた棚があって壮観だった。端から一通り眺め、本をめくったりした。横井は映画評論を書きたいと前に話していた。
「今何か書いているのかい」
そう尋ねながら文才があるはずはないと軽蔑した。
「そちらはお預けだね。書くとしたら映画の雑学みたいなのがいいね」
「面白そうだけど」
「もっぱら、集めるのが楽しいよ」
将来はどこかの図書館に寄付しようかと考えている。集めるだけか、その程度の男だろう、また軽蔑の気持ちがこみ上げてきた。
「こういうのは、内緒で観ているけどね」
ポルノDVDを指差した。この種のものを観て、妄想するだけで横井の細君が嫌がるという話を別の友人から聞いた。相当嫉妬深い性格だとも。数分してリビングに戻った。山村が笑いながら喋っていた。理恵が夫を見上げて苦笑いを浮かべた。
「あなたがモテる話を聞いたわ」
「お世辞だよ」
「色々あるわね」
たわいのないやりとり。遅くまでいるのは迷惑だろう、三十分ほどでいとまを告げた。夫婦は玄関で愛想よく見送ってくれた。
「いい奥さんだよな」
「夫思いだしな」
「お前も早く恋人を見つけろよ」
「小野康子さんはどうなっているんだ。俺、ああいう子が好きだよ」
「彼女は諦めな。横井と付き合っているんだから」
「やっぱりそうか。あんな可愛い奥さんがいるというのに。身勝手だな」「奴はそんなの、おかまいなしだ」
何でもなさそうに笑った。高野はこう心配した。
「バレたら大変じゃないか」
「見つからないようにやっているよ」
「あいつはせこい奴だからな」
何事もない日が続く。毎日、原稿を書いてパソコンで送信する生活である。多忙な時もヒマな時もある。恋人がいれば楽しいだろう。しかし一向に現れない。山村にお前は嫌味なところがあるから、直したほうがいいぞと忠告されたことがある。ものの考え方が固くて、形式的と言いたいらしい。それは上辺だけ見ているからだと反論しておいた。
そんなある日、痛ましい出来事が起こった。山村からその一報を知らされた時はギョッとした。理恵が界隈の団地の屋上から投身自殺したというのだ。胎児と共に即死だった。曳船の自宅を訪ねて十日後である。一体、何があったのか。言葉を失い、胸がふさがった。
「恐ろしいことだ」
「世の中は、何があるか分からないものだ」
山村もショックを受けている。
葬儀には参列した。故人の夫はぼんやりと突っ立っていた。帰る時、二人で声をかけると泣いていた。曳船駅に向かいながら黙しがちだった。何故そうなったのか、訳が分からなかった。あんな幸せそうな女性がふいにこの世を去るなんてあり得ることなのか。
葬儀の後、何日間も理由を考えた。マタニティー・ブルーというが、それだけで絶望するだろうか。他に決定的な理由があるはずだ。横井は何も吐露しなかったが、理恵は口を閉ざしていただけかもしれない。高野は思考を巡らし、ある疑惑に取りつかれていた。
(あの時かもしれない)
浅草で飲んだ帰り、夫婦の家にお邪魔した。リビングで山村と理恵が二人だけになった。モテる話をした際ひょいと、
「旦那さんは小野康子さんという女性に夢中ですよ」
漏らしたのではないだろうか。まさか、まさか――もしそうだとしたら最悪である。理恵がダメージを受けるのは間違いない。自然主義者の山村なら何気なく口にしそうだ。
高野はアニエス・バルダ監督の『幸福』という映画を思い浮かべた。その主人公も無意識にものを言う男である。よくよく考えると、夫のフランソアと山村の顔がどことなく似ている。
彼は木工所で働く善良な若者で、妻と子供がいる。夫婦は愛し合い、誰が見ても仲睦まじい。だが彼には郵便局に勤める恋人ができる。ある日曜日、家族は遊園地にピクニックに出かける。木陰でランチを食べ、子供を寝かせた後、妻と夫は寄り添って話す。
「ぼくは幸せが二倍に増えた。うまく言えないけど、分かってほしい。きみを苦しめないから」
「誰かがあなたを愛しているのね」妻のテレーズが聞く。
「そうだ」
「あなたも好きなのね」
「好きだよ。離れている時は忘れているけど」
「長く続いているのね」
「一ヵ月」
「私はあなただけを愛するわ」
「できるかい」
「できるわ。もっともっと愛するわ。あなたが幸せなら、それでいいと思う」
二人は抱き合った後、居眠りをする。フランソアが目を覚ますと妻のテレーズがいない。そこら中を捜し回った。妻は池で死んでいた。自殺だった。だがフランソワも他の者も事故だと信じている。やがて主人公は恋人と再婚し、再び喜びの日々を見出す。
犯罪者の中には自分の犯した罪に無自覚な者がいる。シチュエーションは異なるが、映画の男も同類である。妻はどれほど衝撃を受けたかまったく気がついていない。山村も喋ったくせに知らずにいるのかもしれない。いくら無意識の自然人だからといって許せないことだ。たとえそうでなくても、山村という人間に怒りが湧いてきた。彼の日頃の言動は無意識の世界を照らし出す。コンプレクッスや劣等感や出身階級の体質や精神構造まで。卑しさも浅ましさも。
(一種の精神的な不具者だ)
高野は怒りのあまり禁じ手を使ってこき下ろした。もし友人の秘密を口にしたとしたら、彼こそ人殺しと言わねばならない。
十二月のある日、新宿の駅ビルの喫茶店で山村とコーヒーを飲んだ。理恵が他界して半年が過ぎていた。以前、彼に『幸福』を観るように勧めたことがあり、確かめてみたかった。
「ああ、観たよ。でも、ああいうの好きじゃない」
「あの映画を観ると、理恵さんを思い出すよ」
「あんまし関係ないと思うな」
「いや、彼女の死と共通するものがある」
「そうかなあ」
「横井の家に行った時、山村さんは康子さんのことを話さなかっただろうね」
「言わなかったと思うな」
「しっかりと記憶を探ってみてよ」
「記憶なんて、曖昧でいい加減だからさ」
「本当に言わなかったの。胸に手を当てて考えてみな」
「全然覚えていない」
「無意識的に言ったとかは……」
「そこまでは知らない」
山村は鈍そうに受け答えをするばかりだった。もっと追求したかったがこれ以上は踏み込めないので一般論として述べた。
「不用意な言葉は凶器になるからな」
「お前、大げさだな」
「大げさじゃない、人の死にかかわることだ」
「横井に聞いたかい」
「ああ、電話をしたよ。そうしたら、俺は過去のことは考えないことにした。辛いだけだからとね」
今は康子さんだけが救いだという。これも能天気な返事で釈然としなかった。山村と何を話していいのか、言葉が浮かばなかった。しばらくしてから高野は呟いた。
「俺は横井がますます嫌いになったよ」
「ふられたからだろう」
「自然主義者の山村さんも嫌いだ」
「勝手にしろ」
「未熟は罪だ」
高野は最後に捨て台詞を吐いて帰っていった。
気になる友人