マネー・ドール -人生の午後-(第一部)
時計
午前六時半。アラームが鳴る。手探りでボタンを押し、五分おきのスヌーズが始まると、慶太の声がする。
「真純、おはよう」
「うーん……眠い……」
「ほら、起きて。遅れるぞ?」
「起こして……」
「しょうがないなぁ。ほら」
慶太に抱き起こされて、やっと、目が開いて
「おはよう」って、キスするの。
リビングはもうエアコンであったかくなってて、テーブルにはコーヒーとトースト。
家にいる時は、朝食は慶太の役目。何だか知らないけど、慶太はヤケに早起きなの。血圧、高め?
「今日の豆は、新しい店で買ったんだ」
慶太はドヤ顔で言うけど、私は正直、よくわかんない。でも、慶太が嬉しそうだから、おいしいねって笑うと、慶太も満足そう。
「ああ、今日のパーティ、大丈夫だよな?」
「うん。七時からだよね?」
「よろしくな」
「何着ていこうかな」
「俺は、今日は紺だよ」
「じゃあ、私はグレー……なんか、二人並ぶと暗いね」
「ベージュとか、ないの?」
「うーん、あんまり似合わないんだよね……」
「そうかな。俺は結構好きだよ」
うん、慶太がそう言うなら、ベージュに決まり。
私達は、二十年の空白を埋めたくて、一秒でも長く、一緒の時間を過ごしてる。一緒に家を出て、途中の駅まで、慶太の車で送ってもらって、いってきます、のキスをして。なんか、今更だけど、新婚さんって感じ。
「じゃ、七時にな」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
慶太のベンツを見送って、私は改札へ。
「部長、おはようございます」
「おはよー」
デスクにつくと、相変わらずの、書類の山。ため息をついて、書類を片付けて、メールチェック。キーボードにかかる左手の薬指には、お飾りじゃなくて、指輪が光る。
さて、今日も一日頑張るか! て、気合い入れたところで、内線。え? 常務?
「ちょっと、常務室まで来てくれるか」
えー、なんだろう……今からミーティングなのに……なんとなく、嫌な予感。
「田山くん」
「はい」
あれ以来、田山くんは特に普通で、あの夜のことは、まるでなかったことに、なってる。
「ちょっと、常務室に行くから、ミーティング、始めてて」
「え、部長がいないと……」
「キミに任せたから」
「……わかりました」
田山くんは、私の左手をチラリと見て、ミーティングルームに入って行った。
「失礼します」
常務室には、常務と、知らない人。
「こちら、小宮山さん」
「小宮山と申します」
「佐倉と申します。はじめまして」
出された名刺には、ビジネスコンサルタント……慶太の同業者さんね。……アヤシイ。
思わず、ちょっと苦笑してしまって、席についた。
「新会社を立ち上げようかと思っててね」
「はあ」
「小宮山さんには、いろいろお手伝いをしていただいているんだよ」
えーと、なんでそれを、ここで? 経営会議ではそんな話、なかったよね。
「初耳です」
「極秘プロジェクトってとこかな」
うーん、なんか……
武田常務は元々、私の上司。私を企画部に呼んでくれて、育ててくれた恩師だけど、ちょっと強引で、評判は、イマイチ。
「協力、してくれるよね?」
「お話の内容によります」
「君にとって、悪い話じゃない。むしろ、いい話だ」
「それは私が判断します」
「相変わらず、はっきりしてるねぇ」
常務は笑って、企画書を出した。ああ、この書き方……武田さんだ。懐かしい。
「どうかな?」
「謀反にしか見えません」
常務は、はははっと、笑って、
「このまま、企画部長で終わっていいのか?」と言った。
「この組織の中で、私のポジションはどこですか」
「ここだよ」
常務が指差したのは、組織図のトップ。
「君には、『社長のイス』を用意している」
社長……完全に、共犯じゃん。
「佐倉くん、はっきり言おう。君には、子会社への出向の話がある」
そういえば、田山くんがそんなこと言ってたっけ。
「力を持ちすぎた人間ってのはね、組織にとって邪魔なんだよ」
「左遷、てことですか」
「君の能力にあった人事ではない」
なるほど……ついでに、あなたも、同じ運命ってことね。
「佐倉さん」
黙ってた小宮山さんが、口を開いた。
「私がお手伝いいたします。安心してください」
安心……できるわけないでしょ! あんたみたいなのがいるから、よけい不安なのよ! って、あれ? これ、慶太に聞かれたら、ちょっと、まずい?
「少し、考えさせてください」
「もちろんだ。ただ、このままでも、君にいい未来はないからね」
何それ。脅迫じゃん。
「はい。失礼します」
はあ……なんか、疲れた。
企画室ではまだミーティングをやっていて、田山くんがビシッと仕切ってた。ふうん、やれば、できんじゃん。
なんだか……私……いなくても、いい……のかな……。
「常務、なんのお話だったんですか?」
お昼休み、隣に座った田山くんが、聞いた。
「別に、最近はどうかとか、聞かれただけ」
田山くんにはホントのこと言いたいけど……聞いちゃったら、彼にも迷惑かけるよね。
「ミーティング、いい感じでやってたじゃん」
「うーん、難しいですね。部長みたいに、うまく、まわせません」
「慣れよ、慣れ」
そう。慣れ。部長の職について、七年。なんか、慣れてしまってる。
現場を離れて余計かもしれないけど、毎日毎日同じことで、毎日毎日処理に追われて、なんだか……つまんない。新しいことをする場所なのに、私のやってることは、処理ばっかり。
「部長、最近、雰囲気変わりましたね」
「え? そう?」
「すごく……優しい感じになりました」
田山くんは、そう言って、私の左手を見た。
「指輪、してますね、ずっと」
「……田山くん、あのね……」
「仲直り、したんですか」
田山くん……そう、なんだよね……なんか、どうしよう。なんて言えばいいのか、わかんない。
「よかったですね」
「うん……」
田山くんは優しく笑って、お先です、と席を立った。その後ろ姿は相変わらずクールで、でも、あの夜のこと思い出したら、胸がチクチクする。
別に、男の人にもてなかったわけじゃない。好きって言ってくれる人もたくさんいたけど、今まで、その人の気持ちなんて考えたこともなかった。どうせ、見た目だけでしょ、エッチしたいだけでしょって、言葉と一緒に送られるプレゼントにしか、興味なくて……傷、つけてしまった人も、たくさんいたんだろうなって、思う。
誰より、将吾のことは……ちゃんと、謝りたいって、あの夜から、ずっと考えてしまってる。あの夜から、私は、将吾のことを……考えてる。
「お待たせ」
六時五十五分に、慶太がロビーにやってきた。私達は、腕を組んで、微笑んで、皆に挨拶する。言われることは、相変わらず一緒だけど、もう悪い気はしない。楽しく笑って、ご飯も美味しく頂いて、あっという間に、時間は過ぎた。
「車は?」
「会社に置いてきた」
私達はタクシーに乗って、家へ帰る。
「疲れた?」
「ううん」
タクシーの中でも、手をつないで、私は慶太の肩にもたれて……慶太の匂い。うん? 香水、今夜はきつめ? あ、ちょっと酔ってるかな? 頭がフラフラする。
「真純、ついたよ」
うん……寝ちゃってたんだ。
気がつくと、もう、マンションの前で、私達は、手をつないで、タクシーを降りた。
ドアを開けると、家の中は冷え切ってて、慶太がエアコンをつけてくれた。
「ファンヒーター、買おうか」
「うん。すぐあったかくなるやつ」
寒そうにする私の手を握って、体を抱き寄せて、キスをする。
慶太のキスは、優しくって、オシャレな感じがする。キスにオシャレとか、おかしいかな? でも、そんな感じなの。もう、忘れかけてるけど、将吾のキスは、もっと、なんていうか、情熱的で、時々、痛いくらいで、……若かったからかな。あ、また……慶太とキスしながら、将吾のこと考えたりして……どうしちゃったんだろう、私……。
「お風呂、入れてくるね」
時々、慶太といるのが、ちょっとつらい時がある。慶太が悪いわけじゃない。私が、悪いの。慶太のこと、好き。ほんとに、好き。優しいし、もう、浮気もしてないし、楽しいし、頭もいいし、オシャレだし、イケメンだし。何より、私のこと、大切にしてくれてるって、すごくわかる。わかるんだけど……何か、足りない。何かは、わからないけど……
「ねえ、この人、知ってる?」
ベッドで、小宮山さんの名刺を見せた。
「小宮山……知らないなあ。どうかしたの?」
「うん……なんかね、常務が連れてきたんだけどね……あ、常務っていうのは、元企画部長で、私の恩師っていうか……よくしてもらったの、昔は」
どうしよう。慶太になら、話していいよね。っていうか、話すべきよね。
「独立するっていうの、常務」
「独立?」
「謀反、になるのかな」
「なるほど……こいつが、それを後ろ盾してるってわけか」
「私をね、社長にするって言うの」
慶太は、ちょっと、ビジネスな顔になって、表情を曇らせた。
「あんまり、いい話には聞こえないな」
「そうだよね……どうしようかと思って……」
「迷うならやめたほうがいい」
「でも、このままいても、左遷されるっていうの」
「左遷? なんで」
「たぶん、常務も左遷されるんだと思うの。だから、こんなことになったんだと思う」
「派閥ってこと?」
「簡単に言えば。私がかなり利益上げたことで、企画部の力が強いの。常務は元々私の上司だから、なんていうか……」
「なんとなく、わかる」
「私もね、他部署を抑えるようなこと、してた時期があったの。よくなかったって、今は思ってるけど……その時のこと、根に持ってる人は、当然、いてね」
慶太は、一生懸命、私の話を聞いてくれて、理論的に、整然とした答えをくれる。
嬉しいんだけど……今はね……ちょっと違うの。そうじゃなくて、あの夜の田山くんみたいに、『そんなに優しくなくていいんですよ』って、そんなふうに、言って欲しい時があるの。
『そんなに、頑張らなくていいよ』って……甘えてるのかな、私。
「小宮山ね、調べてみるよ」
「うん……ありがとう」
「真純の力になるから」
足りないもの……たぶん、それは……
甘えさせてくれないことかな。ううん、甘えられないこと。
なぜか、慶太には、甘えられない。わだかまりとか、そんなのもちょっとはあるかもしれないけど、慶太の前だと、ちゃんとしてないとって、思う。
たまにはね、ダラダラしたいの。一日パジャマで、お化粧もしなくて、ゴロゴロ、ダラダラ、してみたい。ベッドで、二人で、ずっと過ごしたり、してみたいの。……なんて、コドモね、私。
「寝ようか」
うん……でも、今夜は……こんなこと、恥ずかしくて、言えない……
「おやすみ」
慶太は、チュッて、唇にキスして、フロアランプを消した。
「おやすみなさい」
昔、まだ若かった頃、将吾と一緒に暮らしていた頃、私も、将吾も、ほとんど毎晩、お互いを、求め合って、愛し合った。
将吾には、キスしたいとか、エッチしたいとか、全然平気で言えたのに……
いけない。また将吾のこと考えてる。将吾はもう、素敵な奥さんと結婚して、子供も三人いて、いいパパになってるのに。
好きとか、そんなんじゃない。
ただ……謝りたいの。それだけ。でも、そんなの、自己満足だよね。謝って、誰も幸せにならない。
誰も、幸せになんか……ならない。
「真純?」
「うん?」
「眠れないの?」
心配、してくれるんだ。思い切って、言ってみようかな……でも、イヤって言われたら、どうしよう……
「眠れないの」
「そんなに、悩まなくても大丈夫だよ」
「うん……」
慶太が、私の手を握る。
「慶太、あのね……」
「何?」
慶太の体に、自分の体を、摺り寄せて、脚を絡めて……
暗いからよくわかんないけど、たぶん、慶太は驚いた顔をしたと思う。
だって、こんなことしたの、結婚してから……ううん、本気で、私から、慶太を欲しいって言うの、初めてだもん。
慶太の手が、私を抱き寄せて、唇が重なる。優しく、うっとりするような、キス。
うん……そうなんだけど……何か、言って欲しいの。
……言葉が、欲しいの……
「慶太……好き」
「俺も、好きだよ」
「……したいの……」
あ、言っちゃった……
「嬉しいよ、真純」
慶太の重み。慶太の匂い。慶太の体温。
私は慶太に包まれながら、また将吾のことを、思い出していた。
あの夜から、慶太と何度もセックスしたけど、私は、なんとなく、昔みたいに、純粋に、セックスを感じられない。
慶太との、セックスは、素敵で、優しくて、また変だけど、オシャレで、映画のベッドシーンのように、美しい。
今も、慶太は私の上で、私のカラダに優しくキスして、撫でて、肌を絡ませて、なんか、眠っちゃいそう……
優しくしてくれてるんだよね。大切に、私のこと、してくれてるんだよね。でもね、ほんとはね、もっと、……強く、求めて欲しい時もあるの。
比べてしまう。空っぽになっていた心に、あなたが水を満たしてくれたあの夜から、初めて愛して、初めて愛してくれた、あの人と。
強く、強引なくらい、私を、激しく愛してくれた……将吾……。
中学の時、母親が連れ込んでいた男に、乱暴された。
それ以来、男の人が怖くて、憎くて、何より、自分の体が憎かった。この胸も、お尻も、男の人が好む体って、わかってた。
貧乏で、ネグレクトで、いつも体に合わない服を着さされていた私の体は、余計にそれを目立たせて、本当に、男の人の視線がイヤで、つらくて、そんな私を、いつも守ってくれたのが、将吾だった。
乱暴された後、将吾はその男を殴って、警察に捕まった。その男を殴り続けた将吾の拳は、真っ赤に腫れて、血が滲んで、それでも、将吾は、泣きながら、何度も何度も、私の目の前で、その男を、殴り続けた。
顔には、男の血が飛び散って、その時の彼は、まるで、鬼のようで、もうやめてって言った私の手を握って、遠くに逃げようって、真っ赤な手で、血の飛び散った制服で、私達は、必死に走った。
でも、私は、もう、死んでもよかった。このまま、もう、死んでしまいたいって。
このまま生きていても、もう、私は……
「もう、いい」
「何がええんじゃ!」
「将吾、あんた、一人で逃げてつかあさい」
「何言いよるんじゃ! 俺と真純は、ずっと一緒じゃ! 俺は何が何でも、お前を守るんじゃ!」
「将吾……私……もう、死にたいんよ……もう、こんな生活……耐えられんけ……」
「……お前が死ぬときは、俺も一緒に死ぬじゃけ」
結局、船着き場で隠れていた私達は、あっさり警察に見つかってしまう。でも、私は施設に送られて、あの母親と完全に離れることができて、高校へ進学する。そして、私は決意する。
「東京に行きたい」
鑑別所から出た将吾は、家を出て、住み込みで、鉄工所で金物職人の修行をしていた。私達は、本当は会っちゃいけなかったけど、時々、オトナ達の目を盗んでは、二人で会っていた。
「東京?」
「奨学金ゆうのがあるんよ。それもろうたら、大学にタダで行ける」
「広島を、出るんか?」
「そうや。こげなところ、もう、住みとうない。東京行って、キレイな服着て、ええ会社に就職して、お金持ちになるんや」
将吾は、私をじっと見て、
「俺も、行く」
彼は、迷わずに、そう言った。
「俺も、真純と一緒に東京へ行く」
将吾は将吾で、働いたわずかなお給料を、父親に、むしり取られていて、家は出たのに、何も変わらない生活に、憔悴していた。
私達は、閉鎖的で、暗い、重苦しい故郷を捨てて、東京での新しい生活に、思いを馳せた。
彼は一生懸命働いて、私は一生懸命勉強して、私達は、二人で、逃げるように、故郷を、親を、それまでの十八年間を、捨てた。
「真純……」
思い出から、慶太の声に、呼び戻された。
「愛してるよ」
息を弾ませて、慶太が耳元で囁く。
感じないわけじゃない。ううん、すごく、感じるの。カラダが溶けて行きそうなくらい、感じる。
私は、将吾と、慶太しか、知らない。知らないけど、たぶん、慶太は、『上手』なんだと思う。私が感じるように、満足するように、してくれる。
世の中には、『演技』をする女の子が多いらしいけど、私はそんなこと、したことない。しなくても……
慶太の腕の中で、カラダが震えて、私の中で、慶太が震えて、息を切らせ気味にキスをして、私達のセックスは終わる。
オトナだもん。そうだよね。
満足してないわけじゃない。
キスも、セックスも、アフターも、全部、素敵。甘い言葉で、甘いキスで、甘い指先で、私は眠りにつく。
慶太は、私より先に、絶対眠らないの。たぶん、私の寝顔にキスしてくれるんだと思う。
そんなに、大切にしてくれるのに、私……贅沢だよね……
わかってるの……もう、私は、慶太のこと愛してるって。慶太も私を愛してくれてて……将吾は、他の人を愛してる。わかってるの。わかってる……
「……私のこと、好き?」
こうやって、何度も聞いた。将吾に、何度も、何度も、何度も聞いた。その度に、将吾は、優しく、激しく、答えてくれた。
好きやって。お前が一番やって……東京の女なんかより、ええ女やって……
それがね、将吾、辛かったの。だって、私は……
「好きだよ、真純」
東京の女になるために、東京に来たんだもん……
「ねえ、私、いけてる?」
「ああ、最高だよ」
ねえ、将吾。
私ね、東京の女になったんだよ。
あんな地味で、薄汚れた、田舎臭い、貧乏くさい私じゃ、もうないんだよ。
あなたの奥さんもきっと、東京の、キレイな人だよね。
だって、男の人は、そんな人が好きなんだもん。
ねえ、将吾、あなたの奥さんも、きっと……華やかで、キラキラした、『都会の女』だよね……
私はこうして、慶太の愛を受けながら、心の中で、昔の恋人を追いかけていた。いけないって、わかってる。わかってるけど、私の気持ちは……どうしたらいいか、わからない……
***
大嫌いな冬が終わって、春を迎えた。花粉症は、多少つらいけど、寒いよりはずっといい。
結局、私は、常務の『ありがたい』お話を、丁重にお断りし、子会社出向の話は、どうも、常務と、憎き人事部長、ユデダコ清水の画策だったようで、私は変わらず、企画部で、若い部下たちと過ごしている。
私を取り込むことで、常務は謀反を成立させて、ユデダコは、私を追い出せて、まあ、一石二鳥ってこと? まったく、これだから、オヤジはいやなのよ。
残業禁止の企画部だけど、さすがに年度末は忙しくて、私はその処理と、これからの営業計画に追われ、将吾のことを思い出している余裕もなく、ほとんど毎日、遅くまでの会議にイライラして、ぐったりして家に帰って、でも、慶太のほうが、たぶん、猛烈に忙しくて、年明けからは、ほとんど顔を合わすこともできない日が続いていた。
今までなら、どうせ女のところよね、とか、どっかで遊んでんでしょ、なんて、慶太の動向なんて、気にしない、っていうか、気にしないフリだったけど、今の私は、やっぱりちょっと、チクチクしちゃって、しつこく電話をかけちゃったり、メールをしてみたり。
ああ、こういうの、私的には、ちょっと……カッコ悪いんだけど。
でも、慶太は、そのたびに私の相手をしてくれて、仕事だよ、ごめんねって、そのたびに謝って、わたしもそのたびに、こんなことで電話しちゃって、ごめんなさいって、寂しいのを我慢して、一人でこの大きなベッドで眠る毎日。
もう何年も、自分の部屋の、小さなベッドで一人で眠っていたのに、なんだか不思議ね。
あのころは、寂しいなんて……ちょっと、思ってたのかな。自分でも気が付かなかったけど、きっと、寂しかったんだ、私。
そして、慶太もきっと、寂しかったよね。慶太はずっと、この大きなベッドで、一人で眠ってたんだもん。
四月も半ばを過ぎて、私も慶太も、やっと仕事が落ち着いてきた。
ずっと事務所に寝泊まりしてた慶太は、私の作った夕食を美味しそうに食べて、もうコンビニ弁当は飽きたって、笑いながらビールを飲んでる。
そして、もうすぐゴールデンウィーク。私も慶太も、お休みが取れたものの、お互い、何をしたらいいかわかんない。仕事人間って、悲しいわね。
「バーベキュー?」
「うん、どう? 泊まりでね、いいキャンプ場があるんだよ」
「二人で?」
「まさか。中村がさ、誘ってくれたんだよ」
「中村って……ああ、あの中村くん?」
へえ、なんだか久しぶり! そういえば、私、学生時代の友達なんて一人もいないし、そもそも、プライベートで遊びに行ける友達なんて、一人もいない。
「……杉本も、来るんだ」
えっ……将吾も?
「中村と杉本、今でも仲良くって、家族ぐるみで遊んでんだって」
「へえ……そうなんだ……」
私の戸惑った顔を見て、慶太は、ちょっと、残念そう。
「やっぱ、断るね」
どうしよう……慶太は、楽しみにしてるみたいだし……それに、将吾と会えば、こんな気持ち、なくなるかもしれない。
うん、きっと、会ってしまえば、奥さんにも、会ってしまえば、きっと。
「ううん、行こうよ」
「いいの? 杉本も、来るんだよ」
「もう二十年も前の話よ。将吾だってもう、結婚してるんだし、普通に、幼馴染として会えるわ」
「そう、よかった。中村も杉本も、真純に会いたがってるんだ」
そうなんだ。なら、いいよね。私と将吾は、幼馴染。それで、いいよね。私もそれで、整理できる。
「そういえばさ、昔、バーベキュー行ったよな。塾のみんなで」
ああ、行った行った。将吾がなんだかモテちゃって、私、ヤキモチ妬いたっけ。
うふ、懐かしい。なんだか、学生時代にもどったみたい。
私は純粋に、懐かしい友達との再会が、待ち遠しくなっていた。
でも、それは、間違いで、私は、時間を超えて、自分を失っていく。
私は、戻るはずのない時計を、戻し始めていた。
元カレの妻
そして、ゴールデンウィーク。長い連休、全部が休みってわけじゃないけど、慶太と二人で過ごすお休みは、初めてね。
予定通り私達は、中村くんと、将吾の家族と、キャンプに来ている。
中村くんは、びっくりするくらい……えーと、大人っぽくなってて……うーん、これ以上の言葉が見つからない……
でも、昔と変わらず、優しくて、気遣いがあって。
二十年ぶりなのに、全然そんな感じしなくて、すっかり、昔みたいに会話ができる。
「わあ、門田さん、ほんと、別人だね!」
『門田さん』なんて呼ばれたの、何年ぶりかしら。でも、彼にとったら、私は今でも『門田真純』なのよね。
「きれいになった?」
なんてね。冗談で言ったんだけど……
「うん、びっくりしたよ! あー、俺も、狙っとけばよかったなあ!」
ちょっと、隣で奥さん、怖い顔、してるよ?
中村くんの奥さんは、加奈さんっていうの。うん、まあ、ちょっと、ぽっちゃりさんで……私の天敵、ママ軍団の中の中心にいそうな……
だめだめ。見た目でそんなこといっちゃあ。うーん、でも、やっぱり、ちょっと、苦手な感じかも。
娘ちゃん二人も……ぽっちゃりさんね。中村くん、成人病、気を付けて。
少し遅れて……将吾が到着したみたい。
「おそなってごめんなあ!」
黒のワンボックスから、女の子が二人と、男の子が一人、続いて……将吾……
心臓がドキドキして、たぶん、足が震えてる。
「凛がトイレ行きたいとかいうて、もう、大変やったわ」
将吾は、相変わらず訛りが抜けてなくて、タクシーで会ったときはわからなかったけど、いいパパって感じになってる。
「久しぶりだね、杉本」
「おお! 佐倉かぁ! お前、変わらんなあ! 男前じゃ!」
「まあね。お前も、相変わらず、バッキバキじゃん」
そして……
「久しぶりやなぁ」
将吾は、私に、笑顔で言った。
「うん。久ぶりだね」
中村君と慶太は、コンロの準備をしに、その場を離れた。私たちは、少し、黙ったまま、俯いていた。
しばらくして、車から、スーパーの袋を持った女の人が歩いてきて、私達の前に、立った。
「ああ、嫁さんの、聡子」
この人が……
「真純や。ほら、幼馴染の……」
「まあ、この方が? はじめまして、杉本聡子です。お会いできてうれしいです」
聡子さんは、とても優しそうな人で、にっこり微笑んだ。微笑んだけど……私は、素直に、微笑みを返せない。
だって……
聡子さんは、『都会の女』じゃなかった。
どこも、全然、キラキラしてなかった。
地味で、質素で、垢抜けてなくて……どうして? 将吾……都会の女の人と、結婚したんじゃなかったの?
「パパー!」
娘ちゃん達が、走ってきた。
「こら、走ったら危ないやろ」
将吾はその逞しい腕に彼女達を抱きしめて、挨拶せんか、と言った。
二人は恥ずかしそうに私の前に並んで、こんにちは、と頭をぺこっと下げた。
「パパ、ジュース飲んでいい?」
「ええよ。そやけど、ご飯やからな。飲みすぎたらいけんよ」
はーい、と言って、二人は手をつないで、加奈さんのところに走って行った。じゃあ、と言って、聡子さんも後を追って、私達はまた、二人になった。
「上が凛で、下が碧や。小三と小一で……あそこにおるのが、一番上の涼や」
「中学、二年生? へえ、大きいのね。」
「野球、やっとるんや」
「なんだか、将吾の子供の頃に、似てるね」
「そうか? 俺はもっと、イケメンやったで?」
「そうだったかしら。もう忘れちゃったわ」
バーベキューが始まって、慶太も中村くんも、ぐいぐいビールを飲んで、子供たちはお肉を頬張って、加奈さんと聡子さんはお喋りに夢中で。
私はなんとなく、居場所がなくて、一人ぼんやり、流れる川を眺めながら、木陰に座っていた。
「真純」
顔を上げると、ビールを持った将吾が立っていて、私にも、ビールを差し出した。
「ありがとう」
将吾は、少し離れて、隣に座って、タバコに火をつけた。そのタバコは、二十年前と同じ、タバコだった。
「いい、奥さんね」
「そうやなあ」
将吾は、眩しそうに川の水面に、目を細めた。
「キレイやな」
それは、川? それとも……
「広島、帰ってんのか?」
「ううん、一度も」
「おばさん、寂しそうやった」
「あの人に、会ったの?」
「去年、オヤジが死んでな。葬式に帰った」
「そうだったんだ……知らなくて……」
「俺も、あんまり、広島にいい思い出はないから」
それ以上、私達は、お互い何も、言わなかった。言いたくなかった。
そして、私達は、散々な子供時代の記憶に、そっと、唇を噛みしめる。
殴られ、ゴミ箱をあさって、寒さに耐えて……万引き、ひったくり、置き引き、カツアゲ……将吾は私を助けるために、なんでもしてくれた。
挙句に、私のために、前科まで……
そんなにまで、私を愛してくれた人を、私は……
「将吾……」
「うん?」
「……ごめんね……」
将吾は、ちょっと俯いて、ふっと笑った。
「真純、お前、わかっとったやろ」
「何を?」
「俺らが、一緒にはなれんかったこと」
「どういう、こと?」
「俺らは、兄妹や」
え? 何、言ってるの? そんなわけ……
「ずっとな、考えてた。そうじゃないかって」
「将吾、ほんとに、何のことかわかんない」
その言葉に、将吾は意外そうな、顔をした。
「お前、ほんまに、知らんのか?」
「知らないよ。何? どういうこと?」
「お前のほんまの父ちゃんは、俺のオヤジや」
「う、嘘……そんなわけ……」
「葬式で、オフクロに聞いてきた。間違いない」
何……何それ……じゃあ、私は……私は、お兄さんと……?
「これで、良かったんや」
将吾は、遠い目をして、タバコの煙をふうっとはいた。
「良かった?」
「佐倉がおらんかったら、俺は、真純のこと……離せんかった」
それ以上、もう聞きたくない!
私は将吾から離れて、吐き気を抑えながら、車に戻った。
信じられない……将吾は、知ってて、私を? 私を……抱いてたの? 結婚しようって、言ってたの……?
「真純、大丈夫か?」
振り向くと、慶太が立っていた。
「どうした?」
心配そうに、私を見てる。
「大丈夫、なんか、ちょっと目眩がしたの。暑いからかな」
「水、持ってこようか?」
「ううん、平気。少し休んだら、戻るから」
「そうか。無理、するなよ」
そう言って、慶太はコンロへ戻って、中村くんと、将吾と、三人でビールを飲みながら、楽しそうに話してる。
聡子さんと、加奈さんも、子供達と一緒に、みんな、楽しそうにしてる。
……私……場違いじゃん……来なきゃ、良かった……こんなことなら、来るんじゃなかった……
涙が止まらなくなって、私は、車から出れなくなった。
どうしよう……こんなとこ、誰かに見られたら……
『コンコン』
ガラスを叩いたのは、聡子さんだった。
「真純さん? 大丈夫? 気分、悪い?」
聡子さんは、本気で心配してくれてる。
その、私の顔を覗き込む顔……初めて、私は、聡子さんの顔を、間近で、じっと、見た。
聡子さん……昔の私に……似てる……まさか、将吾、そうなの? 私の、代わり?
私の中に、風が吹いた。今まで、感じたことのない、冷たくて、激しくて、胸を締め付ける、風。
……子供、三人もいるんだよね? 将吾と、セックスしたんだよね? ねえ、あなた、将吾とセックスしたのよね?
そんな地味な顔で、垢抜けない女のくせに、将吾と……将吾は、私のものだったのに!
「大丈夫」
私は、涙を拭いて、車から降りた。
「ねえ、聡子さん」
私は、笑っている。冷たい顔で、笑っている。
「私と将吾の関係、知ってる?」
バカみたい……私、何言ってるの……
「幼馴染って、聞いてるけど……付き合ってたのよね」
「そうよ。あの社宅で、暮らしてたの」
「……なんとなく、そんな気がしてたわ」
聡子さんは、俯いて、悲しそうな顔をした。まるでその顔は……あの頃の、私。
そんな顔しないで! 私に、そんな顔見せないでよ!
「私、真純さんの、代わりだったのよね」
なんなの……そんなの……そうよ、あなたはね、私の代わりよ! 将吾はあなたなんて、愛してない!
「そうね。私の、代わりね」
冷たく、言った。冷たく、笑った。
でも、聡子さんは、俯くだけで、何も言わなかった。
どうして? 怒りなさいよ。泣きなさいよ。私を責めなさいよ!
そのまま、俯く聡子さんを残して、慶太の所に戻った。
慶太は、大丈夫なのか、と聞いて、お肉をお皿に入れてくれた。
「大丈夫よ」
慶太と腕を組んで、私は……楽しいフリをした。全然、楽しくない。笑ってるけど、全然……楽しくない!
慶太……私、もう、帰りたい……楽しくないの……来るんじゃなかった……こんな気持ちになるなんて……
振り向くと、聡子さんはまだ、俯いて立っていて、迎えに行った凛ちゃんと手をつないで、コンロへ戻ってきた。
その顔は、怒ってもなくて、絶望もしてなくて、ただ、ただ……寂しそうだった。
なんてこと、してしまったんだろう……どうしよう……傷つけちゃった……そんなつもり、なかったのに……
どうしたらいいの……慶太、私……ひどいことを、言ったの。
将吾の奥さんに、聡子さんに、ひどいこと……
その夜は、みんなでコテージにおとまり。
やっぱり、聡子さんに謝りたくて、杉本家の部屋へ行ったけど、出てきたのは、将吾だった。
「あの……聡子さんは?」
「コンビニに行っとるよ。三十分は帰って来んかなあ」
三十分……どうしよう……
「聡子になんか、用事か?」
「うん……ちょっと……」
「まあ、待っとけよ」
将吾は、私に中に入れって、ドアを開けた。
迷ったけど、中に入った。聡子さんを待つために、中に入った。
将吾は、昔ほどじゃないけど、やっぱり引き締まったカラダで、優しい感じにはなってるけど、どこか、不良っぽい感じで、慶太とは違う、男くささっていうか……フェロモンっていうか……
私は、Tシャツの袖から覗く、逞しい二の腕をぼんやり見ていて、その腕に抱かれていた、遥か昔のことを、思い出していた。
「なんか、飲むか?」
「ううん、いい」
将吾は隣に座って、ビールを飲んでいる。
「ハタチんときと、あんまりかわってないなあ」
「そんなこと、ないよ……」
「子供、つくらんかったんか?」
「……できなかったの」
「そうか……ごめん、悪いこと、聞いたな」
将吾はタバコに火をつけて、遠い目をした。
「何年か前になぁ」
「うん」
「佐倉がふらっと、あの社宅に来たことがあった」
「いつ?」
「聡子と結婚した年やったから……十五年前か、そんなくらいかな」
十五年前……もしかして、あの時……
「結婚したって、言いにきたんかと思っとったけど、違ったんかもしれんなぁ」
「どうして?」
「タクシーで、おうたやろ」
「……うん」
「あの時の真純……到底、幸せそうには見えんかった」
将吾……やっぱり……私のこと、わかってくれるのは、あなたしかいない。
「今は? どう? 幸せそう?」
自分でも、幸せかどうなのか、わからなくなり始めていた。何が幸せなのか、わからない。
ねえ、将吾、私、わからないの。幸せって、何? どうすれば、幸せなの?
「そうやな……佐倉に、愛されとる」
何、それ……
「佐倉も、随分かわったな」
「私は?」
「お前は、昔のまんまや」
「昔の?」
「愛されたいって、甘えたの、真純のまんま」
愛されたい……甘えたい……そう、甘えたいの……
「佐倉は、甘えさせてくれやろ?」
たぶん、甘えたら、甘えさせてくれる。でも、甘えられない。なぜかはわかんないけど、甘えられない。
でも……将吾には……
将吾の肩。二十年ぶりの、彼の肩は、昔と変わらず、逞しくて、熱くて、委ねたカラダが、溶けていきそう。
「甘えられないの」
握ったその手は、昔と変わらず、ゴツゴツしていて、少しカサカサしてる。
「どうして」
彼の手が、私の手を握る。
「わかんない」
ダメ。将吾、私を、拒否して。絶対、キスなんて、しないで……
そう思いながら、待っている。昔みたいに、彼の、熱いキスを、待っている。
「将吾……私……間違ってた……」
「そんなこと、ない」
将吾は、笑って、私の髪を撫でた。
「俺とおったら、こんなにキレイになれんかったよ」
バカな私は、その言葉を、受けとめられない。
「私のこと、もう好きじゃないの?」
「今でも、大事に思ってるよ」
大事……大事って? 大事って……好きってことでしょ? ねえ、好きって言って。私……やっぱり……
「私……将吾のこと……今でも、好きなの」
でも、将吾は俯いて、目をとじて、低く、呟いた。
「……真純……俺らはもう、終わったんや」
「終わってないもん!」
ダダをこねる子供みたいに、将吾に抱きついて、その唇に、私の唇を重ねて、昔みたいに、タバコの味のする唇に舌を這わせて……
ねえ、私のキス……どう?
「将吾、昔みたいに……して」
私のカラダ……ねえ、このカラダ、抱いてたのよ? あなたが熱く抱いたカラダ……きっと、かわってない。ねえ、抱いて……昔みたいに……
もう、自分でも、何をやっているのか、わからない。こんなことして、いいわけない。
誰も幸せにならない。誰もが不幸になる。
わかってる。
わかってるのに、わからない。
そう、わかってるの。あなたがそうすることも、わかってる。
「寂しいなら、佐倉にそう言えよ」
将吾は、優しく私の腕を解いて、カラダを離した。
そんな……そんな答え、欲しくない!
「大事に思ってるって、言ったじゃん」
「大事だよ。幼馴染やし……妹やからな……」
妹……本当に? 私達は、血を分けた兄妹なの?
「そんなの、信じられない! 私のこと、忘れるための口実でしょ!」
「真純、俺が悪かったんや……俺がお前に、惚れてもうたから……」
「今でも好きでしょ?」
将吾は俯いて、首を横に振る。
「許してくれ……もう……」
許す? 何を? 何を許すの? ねえ、わからない……将吾……教えて……
「俺には聡子がおって、お前には佐倉がおる」
将吾は、間違ってない。百二十パーセント、悪いのは私。わかってるのに、受けとめらない。わかってるのに……
「聡子さん、私に似てる」
「……そうやな……」
「私の代わりなんでしょ?」
また、私は……こんなこと言って、何になるの?
「私のこと、今でも好きなんでしょ? 私の代わりに、あの人とセックスしてるんでしょ? 私のこと……」
「いい加減にしろ!」
将吾が、そんな風に怒鳴るのは、本当に初めてで、私は、自分が情けなくて、聡子さんに申し訳なくて、どうしようもなくて……
「何よ! 昔は私のこと好きだって、私の言うことなんでも聞いてたじゃない! ねえ、抱いていいよ? エッチ、してもいいんだよ?」
バカな私を、将吾は憐れむような目で見て、優しく抱きしめてくれた。
昔みたいに、優しく……熱く……
将吾……私ね……
「寂しいの……」
「真純、お前には佐倉がおるやろ? 佐倉はお前のこと、愛してる。お前も、佐倉のこと愛してる」
将吾の腕……力強くて、熱くて、力が抜けていく……
「不安なんやな?」
「わかったようなこと言わないで!」
私は、泣いていた。田山くんの部屋の時みたいに、知らない間に、泣いていた。
将吾は私の髪を撫でながら、じっと見つめて、呟いた。
「聡子のこと、愛してるんや。子供らもな……」
一番、認めたくない事実。そう、それが、現実。
「私より?」
「俺らはもう、ハタチの頃とは違うんや……わかるやろ?」
将吾は、昔みたいに、小さな子供を諭すように、優しく言った。
将吾の携帯が鳴る。通知の名前を見て、髪を撫でる手が、止まった。
「はい。……ああ、来たよ。聡子に用事があったみたいで……いや、すぐ帰ったけどな……」
彼は携帯で話しながら、ちらりと私を見た。その目は、帰れ、って言ってる。
きっと、慶太からね。
私を、探してるんだ。そうよね、黙って、出てきたもん。
私は、会話を残して、部屋を出た。
目、あかい……どうしよう……バレちゃうかな……
コテージの外は真っ暗で、少し肌寒い。
そのまま、部屋に戻ることができなくて、川に向かった。
「真純ー! 真純ー! どこだー!」
慶太の声……
探してくれてるんだ。心配、してくれてるんだ……慶太……ごめんなさい……
「真純! こんなとこにいたのか! 心配するだろ!」
「ごめんなさい」
「どうしたんだよ。なんか、おかしいぞ?」
「なんでもないの」
慶太は私の手をとって、私達は、黙って、河原を歩いた。
コテージに近づくと、外灯が、ぼんやり、私達を照らし始める。
どうしよう……明るいところに行ったら、顔が見えるよね……まだ、涙が滲んでくる……
「ほら」
慶太の手には、ハンカチがあった。
慶太は、わかってる。
私が、将吾に気持ちを、甦らせたことを。
「ありがとう」
コテージの前で、聡子さんと、子供達に会った。聡子さんは、私達に軽く会釈して、子供達の手を引いて、彼女のコテージへ、歩いて行く。
「ちょっと、待ってて」
私は、聡子さんを追った。どうしても、謝りたかった。いろんなことを、謝りたかった。
「聡子さん」
聡子さんは振り向いて、涼くんに、先に行ってて、と、コンビニの袋を渡して、涼くんは、碧ちゃんの手を引いて、歩き出した。
「あの……昼間は、ひどいこと言って、ごめんなさい。どうかしてたの、ほんとに……」
「いいのよ。気にしてないから」
聡子さんは、優しく、笑ってくれた。
「つきあいだした頃ね、私のこと、よく、真純って、間違えて呼んでた」
「……ごめんなさい……」
「真純さんが謝ることじゃないわ。そりゃ、そうよね。ずっと、一緒にいたんだもん」
「将吾……くんのこと、傷つけたの、私……」
聡子さんは、後ろに立つ慶太を見て、
「素敵なダンナさんよね。私でも、好きになっちゃうかも」て、笑った。
どうして……どうして、そんなに優しいの? 私、ひどいこと、したのに……
「将吾ね、いいパパなの。子供達に、とっても優しくてね……」
聡子さんが、何を言いたいのか、わかってる。
家庭。子供。
私達、夫婦にはない、死んでも守らなきゃいけない、大切なもの。
「今じゃ、幼馴染にしか思えないから」
聡子さんは、私のウソがわかってる。でも、微笑んで、うん、と頷いた。
「じゃあ、また明日ね」
「おやすみなさい」
聡子さんの後姿をぼんやり見送ると、後ろから、慶太が言った。
「杉本には、家族がいるんだよ、もう。わかるだろ?」
わかってるよ、そんなこと。壊しちゃいけないってことくらい、わかってる。わかってる!
私は、慶太を無視して、部屋へ入った。
「真純」
慶太が私の手首を掴んだ。
痛い……そんなに強く、握らないで!
「わかってるって言ってんじゃん!」
「好きなんだよ」
慶太は、そう言って、私を抱きしめた。強く、強く、痛いくらい、強く。
「ずっと、杉本からお前を奪いたかった」
慶太……そんなに……痛いよ……
「俺のところにいてくれよ……」
耳元の慶太の声は、弱々しくて、震えていて、うなじが濡れた。
泣いてるの? 慶太、泣いてるの?
「私のこと、好き?」
「好きだって……言ってるだろ」
「私のこと、愛してる?」
「愛してる……愛してるんだよ、真純……だから、俺だけを、愛してくれよ……」
愛されたい。甘えたい。
きっと、子供のころ叶えられなかった欲望に、私は囚われてる。
「慶太……私ね……寂しいの……」
寂しい。
ずっと、寂しかった。
ずっと、ずっと、寂しかった。
お腹が空いて、寂しくて、悲しくて、それを、ずっと、ずっと、そばで埋めてくれたのは、将吾。
でも、気がつかなかった。そのことに。
私は、お金を選んだ。そして、慶太を選んだ。でも、そんな私を、慶太は愛してくれてる。いろんなことがあったけど、慶太は、許してくれてる……
どうして? 慶太のこと、愛してるのに……何が不満なの? 何が寂しいの? こんなに、恵まれてるのに……
慶太がいなくなったら、もっと寂しいくせに……
「俺じゃ、ダメか?」
ダメとか、そんなんじゃない。
私が、ワガママなの。それだけなの。
「愛してるの、慶太のこと」
「うん」
「でも、わかんなくなるの」
「何が?」
わかんない。何がわかんなくなるのか、わかんない。
私……私が、わかんないの……
「俺のこと、信じられない?」
「そうじゃないの……私が、いけないの……」
「杉本のこと、後悔してるの?」
「後悔は、してないけど……将吾、私のこと、とっても大切にしてくれたのに、私……ひどいことをしてしまって……」
後悔とか、未練とか、そんなんじゃない……
こんな私を、受け止めてくれるのは、将吾しかいない気がするの……
「……甘え、られないの……」
「俺に?」
「うん」
「どうして?」
「わかんない……」
慶太は、私のおでこに、彼のおでこをくっつけた。
「じゃあ、俺も、甘えていい?」
慶太も……同じ?
「カッコつけるの、疲れちゃった」
慶太は微笑んで、私を抱きしめた。
「ダサい俺のこと、嫌いにならない?」
「うん」
「杉本のことさ、好きでもいいからさ」
「私が、他の人のこと、好きでもいいの?」
「ダサいけど、それでもいいんだ、俺。それでも、お前にいて欲しいんだ」
慶太……そんなに、私のこと……
「慶太、私……」
さっきのこと、言うか迷ったけど、もう、きっと、わかってるよね……
「ごめんなさい」
「俺が悪かったんだ。俺、ダメなヤツだからさ。ずっと、お前を傷つけてきた。だから、杉本みたいに、まっすぐお前のこと、愛してた男に気持ちが戻るのも、仕方ない」
そんなんじゃないの……悪いのは私なの……
「すぐにとは言わないから、俺のこと、信じてくれ。俺、もう絶対、真純が悲しむようなこと、しないからさ」
胸が、痛い。心臓が、締め付けられる。息が、苦しい。
どうして、こんな私に、みんな優しくしてくれるの?
こんな、ワガママで、バカな私なのに……
私なんて、誰からも愛される資格のない、人間なのに……
「俺さ、ずっと、杉本からお前を奪ったこと、重荷に感じてた」
そう……だったんだ……
「杉本に、言われたんだ。真純のこと、大切にしてくれって。俺の代わりに、守ってやってくれって」
将吾が? そんなことを?
「なのに、俺は、約束を守れなかった。お前のこと、傷つけてばっかりで……あの夜のこと……本当に悪かった」
あの夜……乱暴に、した夜のことよね……
「もう、そんなの、いいの」
正直に言うと、私は、あの時、そんなに傷つかなかった。
それどころか、ちょっと嬉しかった。初めて、あんなに、慶太が私に気持ちをぶつけてくれて、嬉しかった。
でも、あの頃の私は、素直になれなくて、寝室を出て、鍵をかけた。傷ついたのは、きっと、慶太のほう。
「将吾のとこ、行ったのね……」
「ああ。お前が出て行って、もう、ダメだなって、俺にはもう、無理だって、謝りに行ったんだ……でも、言えなかった。杉本は、お前とよく似た女と、一緒になってて……兄妹だとか、言って……」
知ってたんだ……慶太も、そのこと……
「もっと早く、話せればよかったな」
言葉が足りないのは、私だね。
言って欲しいことを、言えばいいんだよね。
言いもしないで、受けとめてくれない、なんて……勝手よね、私。
ねえ、慶太。私ね、本当はね……あなたに、甘えたいの。
甘えてもいい? 私、キャリアウーマンでも、なんでもないの。
本当はただの、普通の、アラフォーのおばさんなの。
普通の……『女』なの……
「慶太にね……もっと、甘えたいの」
「甘えてくれよ、思う存分」
「慶太、私ね……もう、会社……疲れたの」
「そうか。無理、しなくていいよ」
「お休みの日はね、ベッドでね、ゴロゴロしたりね、パジャマで過ごしたりしたいの」
「じゃあ、今度の日曜日は、そうしようか」
優しい笑顔。
優しい声。
優しい言葉。
優しいね。慶太、あなたはずっと、優しかった。こんなワガママな私に、ずっと、ずっと、優しい。
きっと、慶太を傷つけてきたのは、私。
あなたは、私のことなんて、本当は好きじゃないって思ってた。
こんな田舎臭い、地味な女、遊びだって、思ってた。キラキラした、都会のあなたは、私なんて、本気じゃないって。
本当に好きになってしまったら、つらくなるって、気持ちを、どこかにしまいこんでた。
そして……あなたのお金を手に入れるために、カラダを渡してた。
自分のカラダで、それが手に入るって、私はわかってたから……だって、私は、あの女の娘だもん。
あの女も、私とよく似た顔で、私とよく似たカラダで、オトコを操ってた。
私も同じね。
私も同じ……最低な女……なのに、あなたは、こんな私のこと……愛してくれるのね。
「私ね……求められたいの」
居場所が欲しいの。お前が欲しいって、強く言ってほしいの。邪魔者扱いされるのは、もう……嫌なの。
「欲しい。真純、お前の全部が、欲しいんだ。お前の全部、俺に、くれよ」
「私……本当はね……本当の私はね……」
やっぱり、言えない。こんな私……私の過去……私の真実……慶太にだけは、絶対に知られたくない……
慶太……私……もう、過去を捨てたいの……何もかも、忘れたいの……
「忘れたいの……何もかも……もう、忘れたいの……」
俯く私の涙を、慶太はそっと拭って、ギュッと抱きしめた。
「俺が、忘れさせてやるよ」
慶太の唇が、私の唇に吸い付いて、痛いくらい、強く、吸い付いて、慶太の手が、私のカラダを弄る。
私も、慶太のカラダを弄って、いつの間にか、素肌になって、お互いの汗と匂いと体温を交換する。
「慶太……抱いて……強く、ねえ、お願い……慶太……私を……あなたのものに……あなたの自由にして……」
あっ……慶太の舌が……カラダの中に……
「俺のも……」
慶太がカラダの向きを変えて、私は、ちょっと息苦しくて、でも、一生懸命、口の中で……慶太を、愛して……慶太も、私を一生懸命、唇で愛してくれて、そんなに……慶太……私……もう……
「真純……かわいいよ」
慶太は、私からカラダを離して、まだ震えてる、脚を、大きく開いた。
「恥ずかしいよ……」
慶太の視線は、膝を持ったまま、ずっと、そこを見てる。
「慶太……そんなに……見ないで……」
自分でも、流れているのが、わかるくらい、きっと……もう、恥ずかしいくらい……熱くなってる……
「真っ赤に、なってる」
慶太はそう呟いて、指先で、花弁を開くようにして、小さな蕾を、探し当てた。
「こんなに、硬くして……」
指先で、流れる蜜を拭って、小さな蕾を摘まむ。
思わずカラダを捻じって、でも、慶太が動かないように、強く、押さえつけるから、私は、おかしくなりそうなくらい、たったそこだけの刺激に、全身を震わせる。
「悪いコだな……こんなに、シーツ濡らして……」
「ダメ……?」
「最高だよ」
朦朧とする私のカラダは、慶太に抱きおこされて、荒い、キスを交す。
「口で……真純……」
言われるがままに、慶太を、愛撫する。一生懸命、唇で……時々、慶太が吐息をもらして……
「いいよ、真純」
慶太が、私の髪をあげて、顔を見てる。
ねえ、今の私の顔……どんな顔なの? どんな気持ちで見てるの?
ねえ……慶太……
……好き……好きなの……あなたが好きなの……
「私のこと、好き?」
彼は、熱く、潤んだ目で、私を見た。
「好きだよ……だから……俺だけのものに……なれよ」
慶太のその言葉は、切なくて、でも、熱くて、私のカラダを震わせて……四つ這いの内腿に、蜜が流れていく。
「慶太……欲しいの……」
「何が?」
「慶太の……」
「俺の、何?」
「いじわる、言わないで……」
「したいように、しなよ」
慶太は、私の胸を乱暴に弄って、私は、慶太の膝に跨って、ゆっくり、慶太を中に入れて……
「真純……動いて……」
半開きの唇から漏れる、その声に操られるように、一番、感じる部分を、無意識に刺激する。
「そこが、いいの?」
「……うん……いいの……」
「いい顔だよ」
恥ずかしい……慶太……私……おばさんなのに……オトナなのに……
「真純、見て」
彼の視線は、二人の場所。
「真純の中に、俺がいるよ」
「うん……」
わかんない。なぜ、そんなことをするのか……わかんないけど……膝を立てた。
こんなこと、初めてした。
こんなこと……初めて言うの……慶太……
「……私……見て欲しいの……」
「見えるよ。真純が、俺を中に入れて……いやらしいな……こんなに、濡らして……」
慶太が、もっと膝を開いて、私を、突き上げる。カラダを反らして、声をあげる、私。
恥ずかしい……こんなになるなんて……オトナなのに……私、会社じゃ……かっこいい、キャリアウーマンなの……みんなね、私に、憧れてるの……
だけど、本当はね……淫らな、私なの……
「俺に、感じてるの?」
「……もう、おかしくなりそう……」
「どうして欲しい?」
慶太……そんな目で見ないで……恥ずかしいけど……でも、そうして欲しいから……
「後ろから……」
「後ろから、して欲しいの?」
「うん……」
「じゃあ、お願いしなよ、俺に」
もう、慶太の言いなりにしかなれない私は、ベッドに降りて、恥ずかしいけど、四つ這いになって……
「後ろから……してください……」
「それじゃ、わかんないよ」
慶太の視線が、熱い……あなたの目に、私、感じてるの……
「後ろから、入れて……慶太の……入れてください……」
「真純……流れてるよ、もう……」
そう言って、そこに、慶太の唇を感じて……えっ……ダメ!
「ダ、ダメ! そこは……ダメ……」
「じっとして」
慶太の、舌と唇が、私には見えない場所で、激しく動いてる。初めての感触が、私を支配して、初めての感覚に、墜ちていく。
もう、声も出でない。膝が、ガクガクする。腕にも、力が入らない。もう……こうしてあなたの唇を受けるのが、精一杯……
慶太に支えられてなければ、きっと私は、崩れてしまう。
もう、あなたの自由にしか、ならないの……
「いれるよ」
「いれて……」
熱くて硬い、焼けた鉄の棒のような慶太が、私の内側を掻き回す。
「真純……真純……愛してる……真純……愛してるから……」
肌がぶつかる音と、慶太の掠れた声が、私の耳を刺激する。全身で、慶太を感じてる。
「慶太……もう……ダメ……」
後ろから、激しく、強く、私を突き上げて、仰け反らそうとする私のカラダを押さえつけて、慶太の汗と息が、私の背中にかかる。
「ガマン、しろよ」
そんな……ガマンなんて……ムリ……
首を振る私の髪が掴まれて、そんな乱暴なこと……ねえ、私……変なの?
乱暴にして欲しいの……私、あなたに、乱されたいの……あなただけのものに、して欲しいの……
「ガマン……できないの?」
慶太の指が、私の口元をなぞる。
「噛んで……噛んで、ガマンして……」
言われた通りに、慶太の指を噛んで、必死にガマンするけど……もう……
「もう……ダメ……ダメ!」
カラダが跳ねあがって、もう力が入らない……それなのに、まだ、慶太は……
「俺は、まだだよ」
むりやり、私のカラダを持ち上げて……
「もう……許して……」
でも、私のカラダは、慶太から離れない。もっと、もっとって、慶太を求めてる。
きっと、すごく恥ずかしい格好だよね……メイクも落ちて、髪もぐちゃぐちゃで、エッチな姿だよね……
嫌いにならない? ねえ、慶太……こんな私……ゲンメツしてない?
でも、こんな私を……見て欲しいの……見て欲しかったの……こんな、乱れた私……あなたに、感じてる私……これが、本当の私……
「慶太……愛してる……?」
「愛してるよ……愛してるよ、真純……」
「こんな……恥ずかしい私……嫌い?」
「好きだよ……もっと……乱れてくれよ……」
慶太が、大きな声で私の名前を呼んで……ああ、背中が、熱い……慶太の熱い愛が、背中から、脇腹に流れてく……
私はもう、カラダの感覚がおかしくなってて、慶太がティッシュで拭うだけて、ビクってしちゃって……もう、笑わないで……
「笑った……」
「かわいいからさ」
慶太の髪も乱れてて、汗がいっぱい流れてて、いつもの、オシャレで、かっこいい慶太じゃないけど……好き。
私達は、そのままの姿で、お互いの体液を染み込ませた唇を、夢中で絡ませる。
唇からは、私達の匂いがして、交した時間を確かめ合った。
「嫌いに、なってない?」
「もっと好きになった」
「慶太……」
「うん?」
「好きなの」
「俺も好きだよ」
「好きって、何回も聞かないと……不安になるの……」
「じゃあ、何回も聞いてよ。何回も言うから」
慶太は、約束、と微笑んで、二人の汗と体液に塗れた、私のカラダを抱きしめた。
その腕は、将吾みたいに逞しくなくて、細くて、硬くて、カラダも、昔ほどじゃないけど、やっぱりスリムな筋肉質で……
あ……また……将吾と比べてる……こんなに、愛し合った後でも、私は……どうして……
慶太……ごめんなさい……私……慶太のこと、好きなのに……
目が覚めると、隣に慶太が昨日のままで、眠っていた。
もちろん、私もそのままで、いつの間にか眠っちゃったみたい。
時間は七時。朝ごはん、八時だったかな……
お風呂、入んなきゃ。
肌は、ちょっとベトベトしていて、慶太の匂いがして、昨夜のことが……よみがえっちゃう。
バスルームから出ると、慶太が起きて、テレビを見てた。
「俺も、風呂入るね」
「うん」
「なんか、ちょっと筋肉痛……がんばりすぎたかな」
慶太は笑って、お風呂へ行った。
私もちょっと筋肉痛? 昨夜のことを思い出すと、なんか、熱くなっちゃう。
あれがもし……ダメダメ。こんなこと、考えちゃあ。
メイクをする私を、お風呂上りの慶太が、隣でじっと見てる。
「どうしたの?」
「こうやって、真純はできあがるんだなぁって思って」
「もう、何それー」
「やっぱキレイだな」
キレイ……そうかな……
最近、思う。
あの人に、似てるなって……
あの人も、私に背中を向けて、こうやって鏡の前で、お化粧してた。
今思えば、歳の割にキレイだったけど、私には、薄汚い、オトコにだらしない、最低なオンナにしか見えなかった。
だから、私も……そんな風に見えてないかな。
リップを引くと、慶太がキスして、塗りたてのリップが彼の唇に移っちゃった。
「もう! ダメだよ」
「なんかキスしたくなっちゃうね、その色」
笑って、私を抱きしめて、もう一回、ちょっと長いキスをする。
「真純は、俺の自慢なんだ」
「私が?」
「だって、キレイだし、頭もいいし、上品だし。みんなさ、真純のこと、素敵な奥さんだって言うよ」
違う……本当の私は……
「嬉しい」
私は、笑った。ううん、笑ったふりをして、慶太の唇をティッシュで拭って、もう一回、リップをひいた。
「俺達、最高に、いけてるね」
私達は、鏡の中にいる。
鏡の中で、私は、ピンクの唇で、笑っている。
レストランに行くと、杉本家と中村家はもう来ていて、子供達はこぞってバイキングのお料理をお皿いっぱいにしてる。
「おはよう」
テーブルは六人がけだから、私達は、将吾と中村くんのテーブルに、二人で座った。隣のテーブルでは、聡子さんと加奈さんと子供達が賑やかに食事をしている。
「何か、とってこようか?」
なんとなく居づらくて、立ち上がった。
「俺も行くよ」
慶太も立ち上がって、私の腰に手を廻す。
「なんだよ、仲良いなあ」
中村くんが、冷やかすように言って、慶太が羨ましいか? って笑った。
私は、将吾の顔を見たけど、いつものように、彼は優しく、笑ってるだけ。
ちょっと、つまんない……
なんて、また、バカなこと考えてる。
今日はVネックの紺色のTシャツに、白のカプリパンツ、慶太はピンクのポロシャツに、グレーのバミューダ。
この日のために、二人でラルフローレンで揃えたの。
ピンクのポロシャツって、どうなんだろう。慶太って、ピンクとか、水色とか、そういう色選ぶけど、なんか……けばくない?
まあ、そうね。私達は、見るからに、リッチなオシャレ夫婦。杉本家と中村家とは、ちょっと違う感じ。
コーヒーと、パンと、適当にお皿に入れて、テーブルに戻ると、遠くから見てもお似合いやなって、将吾が笑った。
「今日、どうする?」
中村くんが納豆を混ぜながら言った。
「観光でもしようぜ」
男三人は、スマホで検索して、盛り上がってる。
私は、さっきの将吾の発言にチクチクしてて、黙って笑って、パンを食べた。
チェックアウトする慶太を残して、駐車場に行くと、将吾の娘ちゃん二人が、私達の車に乗りたいって言い出した。
「ダメよ、ワガママいわないの」
聡子さんが言うけど、聞く様子はなくって、将吾も困ってる。
私は別にいいんだけど、慶太はどうなんだろう。
ああ、戻ってきた。うーん、こうやって見ると、慶太って……チャラい。そのでっかいサングラス……おじさんなのに、ねえ。
「ねえ、車、乗せてあげてもいいよね?」
「うん、構わないよ」
慶太が言うけど、聡子さんは、汚したら大変だから、と遠慮してる。
「そんなの気にしないでよ。さ、乗って」
慶太は笑って、ベンツのリアドアを開けた。
「ええんか?」
「いいよ、別に」
「じゃあ、頼むわ。汚したり、ワガママいうなよ」
将吾が娘ちゃん達にそう言うと、彼女達は嬉しそうに、車に乗った。
「すみません、ワガママで……」
「いえ、全然」
だって、慶太の車って、結構、汚いもん。
「シートベルト、してね」
慶太が言うと、娘ちゃん達は、はーい、だって。
最初はちょっと緊張してたけど、すぐに慣れたみたいで、いろんな話をしてくれた。
かわいいのね。ほんと、子供って、かわいい。
「ねえ、おばさんって……」
「おばさんとか、言っちゃダメなんだよ!」
碧ちゃんの言葉に、凛ちゃんが慌てて言った。
最近は、誰々ちゃんのママ、とかいう言い方しないといけないんだって。
難しいのねえ。子供にまで気を遣わせて、どうするのかしら。
「おばさんだよねえ。いいよ、おばさんで」
凛ちゃんは、ほっとした顔で、頷いた。
「おばさんって、パパのお友達なの?」
「うん、幼馴染なの」
「何歳?」
「パパと同じだよ」
「ええ、じゃあ、ママより年上! 全然違うねー」
「どう、違うの?」
「すっごく、キレイ!」
「こんなキレイなママだったら、自慢だよねー」
姉妹は顔を見合わせて言った。
「どうして? ママもキレイじゃない。優しいし、素敵よ」
正直に言うと、私は、聡子さんが、うらやましい。あんな風に、飾らなくても、将吾みたいな人と結婚して、こんなにかわいい子供がいて……
「そうかなぁ……」
「パパとママ、仲良しでしょ?」
「うーん、時々ケンカしてるよ」
「そりゃ、夫婦だもん。ケンカもしないと」
夫婦……それは、自分に言いきかせた言葉。
「パパとママの秘密、教えてあげよっか」
凛ちゃんが恥ずかしそうに、ちょっともじもじしながら言った。
「秘密?」
「うん、パパとママね……」
二人は目を合わせて笑ってる。
「寝る前に、チュウするんだよ!」
恥ずかしそうに言って、姉妹はキャッキャと笑った。
でも、私は、引きつった笑顔で、頷くのが精一杯。
そんな私の顔を、慶太が横目で見てる。
ごめんなさい……私……笑わないと……笑わなきゃ……
「へえ、仲良しなんだね!」
何も言えない私の代わりに、慶太が言った。
「おじさんとおばさんも、チュウする?」
「するよー、仲良しだもん」
「寝る前?」
「寝る前もだし、朝とかもするよ」
「今日もした?」
「したよ。なぁ、真純」
慶太は右手で私の手を握った。
その手は、そうだろ? って、言ってる。俺とお前は、仲良しで、夫婦で、チュウ、したよなって。
「うん。そうね……」
「おじさんもカッコイイから、美男美女カップルだね!」
凜ちゃんは、無邪気にそう言って、シートの間から、私達の顔を見た。
「美男美女なんて、言葉知ってるんだ!」
「昨日ね、パパとママが言ってたの」
将吾が?
「お似合いだろ?」
「うん、とっても!」
「おじさんさ、おばさんのこと、超好きなんだよ」
それはきっと、私に向けた言葉。
慶太……こんな私……許してくれるの?
「えー! ラブラブじゃん!」
姉妹は嬉しそうに笑って、慶太も一緒に笑った。
私も笑ったつもりだったけど、きっと顔は、固まったまま。
信号待ちで、将吾の車の右側に、慶太が並んで、後ろの窓から、聡子さんが手を振った。
「窓、開けていい?」
「顔とか、出しちゃダメだよ」
「ママー!」
「いい子にしとるんか!」
将吾の声が聞こえた。
「してるよー!」
私は、窓の方を見れなくて、ずっと俯いていた。
「ワガママ、してない?」
「してないよー」
聡子さんの声が聞こえる。子供たちの声も聞こえる。
将吾の声、慶太の声……みんな、楽しそう。
私以外のみんなは、楽しそう。私だけ……笑わないと。楽しそうにしないと。ダメ、泣いちゃダメ!
信号が変わって、慶太が窓を閉めて、車が動き出した。きっと、右側に座っている私の顔は、見えなかったはず。
「おばさん? どうしたの?」
私の顔を覗き込んだ、その凛ちゃんの顔は、聡子さんに似ていた。
凛ちゃんは、将吾と、聡子さんの……子供。
「やだ、車酔いしちゃったかしら。山道、苦手なの」
もうずっと、こうやって笑ってきたじゃない。楽しくなくても、つらくても、悲しくても、悔しくても、ずっと、笑ってきた。
子供のころからずっと、私は、そうやってきたのよ。
私はこうやって、ずっと、仮面をかぶってきたの。
笑うことなんて、簡単よ。
「ママと、お友達になりたいわ」
「うん、ママに言っとくね」
やっぱり、はずせない。本当の私なんて、誰にも見せない。見せられない。だって私は……
あの女の、娘。
「はい、到着ー」
なによ。あんなに車に乗りたいって言ってたくせに。
着いた途端、パパ、ママ、って。やっぱり、子供なんて、ワガママで、自分勝手で、かわいくない。
「お世話かけちゃって」
「いいえ、とっても楽しかったわ」
ねえ、あなた。そんな地味な格好で、よく恥ずかしくないわね。お化粧くらい、ちゃんとすれば? それとも何? 私はお化粧なんてしなくても、充分いけてるとでも、言いたいの?
「真純さん、そのTシャツ、ラルフローレン?」
はあ、加奈さん。あなたも、そのお腹、ちょっとはどうにかしたら? その服も、センスないわね。
「ええ、いつもはスーツだから、カジュアルな服は持ってなくて。慌てて主人と揃えちゃった」
「いいわねえ。うちなんて、ユニクロばっかよ」
そうでしょうね。だって、私はセレブですもの。あなたたちと一緒に、しないで。あなたたちとは、住む世界が違うんだから!
私は、笑っている。いつものように、私は、この笑顔で、みんなと話してる。
全然、楽じゃん。
昨日のバーベキューの時は、なんだか、自分が仲間外れになった気がしたけど、こうやって、適当に合わせてれば、ほら、たちまち私が、中心じゃない。
ねえ、将吾。見てる? 今の私、こんなにキラキラしてるのよ。そんな地味な女、捨てちゃいなさいよ。私のほうが、いい女でしょ?
「おばさん、かにさんがいるよ」
冷えかけた私の手に、少し汗ばんだ、小さな手が、触れた。
そこには、碧ちゃんがいて、私の手を、無邪気に引っ張る。
「どこ?」
「あっち。見に行こうよ」
そこは、小さな滝で、涼くんが、一生懸命、女の子達に、沢蟹を、捕まえてあげていた。
「おにいちゃん! おばさんにも、かにさん、捕まえて!」
涼くんは黙って、私に、沢蟹を、渡してくれた。
「わあ、かわいい」
まるで、将吾みたい。
昔、こうやって、二人で遅くまで川にいて、蟹とか、魚とか捕まえて、私に見せてくれたっけ。
「おーい、写真撮るよー!」
中村くんが、近くにいた人に写真をお願いしてくれて、私達は、みんなで集まって、カメラに向かう。
「碧、おばさんの隣がいい!」
「凛も!」
私は、両手に、将吾の大切な子供達の手を握って、笑って、写真を撮った。
彼女達の手のぬくもりが、私の張りかけた氷を、とかしていく。
私の仮面を、はずしていく。
そうね……私……やっぱり、もう、できない。
嘘の笑顔も、嘘の強がりも、もう、できない。それができたら、どんなに楽だろう。半年前の私のように、仮面を被れたら、こんなに……胸が、痛くないのに。
「ごめんなさいねえ、あの子達、すっかり真純さんになついちゃって」
聡子さん……きれい。あなた、本当にきれい。私みたいに、お化粧や宝石や、ブランド品で飾らなくても、とってもきれい。
「でも、ほんと、真純さん、きれいよね。ねえ、そのスタイル、どうしてるの? 私、年中無休でダイエットしてるのに、全然ダメ」
加奈さん。幸せなのよ、あなた。あんなに優しい旦那さんに、かわいい子供達がいて……お友達も、たくさんいるでしょう? 私なんて、友達って呼べる人、一人もいない。
「会社でこき使われてるの。ストレスで痩せてるだけよ。白髪なんて、すごいんだから」
わかってる。
もう、戻らないって。わかってるじゃない。これでよかったって、あの夜、思ったじゃない。
本当の、私。
本当はね……ただの、ワガママな、バカな女よ。
そして、私たちは、連絡先を交換して、それぞれの車に乗って、東京へ帰る。
帰りのベンツには、もうあの子達は乗っていない。
あんなに賑やかだったリアシートには、もう、誰もいない。
「かわいかったね」
「子供?」
「うん」
私達は、二人だけ。二人だけの、家族。私達をつなぐものは、私達、だけ。
「……真純」
「何?」
「俺さ……」
「うん」
「真純のこと、離さないから」
慶太は、そう言った。大きなチャラいサングラスをしてるから、顔はわからないけど、たぶん、泣いていた。
「離さないで」
慶太。絶対に、私を離さないで。そうじゃないと、私……
怖いの。自分が、怖い。
あなたがいないと、あなたの手が緩むと、きっと私、全てを壊してしまう。
あの子達の笑顔を、奪ってしまう。誰もを、不幸にしてしまう。
だから慶太、私を……あなたのところに、縛り付けていて……
帰郷
外に出ると、雨が止んでいて、ちょっと蒸し暑いけど、夏の風が、ビルの間を吹き抜ける。
駐車場へ行くと、田山くんがドアを開けてくれて、私達は、運転席と助手席で、軽く打ち合わせをする。
もう何年も、こうしている。
私と田山くんは、もう、十年、一緒に仕事をして、一緒の目標を追いかけている。
「やっぱり、部長に来ていただくと、話が早いです」
クライエントとの打ち合わせの帰り道、彼は、運転席で、そう言った。
オフィスに戻ると、若い部下たちが、私の帰りを待っていて、顔を見るや否や、次々に、相談事や問題事を、持って来る。
そして私も、次々に、答えて、解決していく。
ありがとうございました。
いいのよ、なんでも相談してね。
さすが部長です。
部長がいないとまわりません。
部長に憧れています。
部長みたいになりたいんです。
部長……部長……部長……
『甘えないでよ!』『それくらい自分で解決しなさいよ!』
なんてね。何度も、心の中で叫んだっけ。何度も、何度も。
『知らないわよ!』
この一言が言えたら、どんなに……
「もーんた」
もんた。門田、だから、もんた。新入社員の頃の、あだ名。
そんな呼び方するの、もう、あなたしかいないね。
「みりちゃん」
彼女は、最後の同期。美里、だから、みりちゃん。
私が学卒で入社した年は、就職難で、前年まで二十人いた新入社員は、たったの五人だった。女子社員は私達二人で、後の男子三人は、もう辞めてしまった。私が、出世していくたびに、彼らは、辞めていった。
「何、ぼーっとしてんの?」
「なんでもない。何、どうしたの? こんな時間に、珍しいじゃん」
みりちゃんは、総務部の、俗に言う、お局さん。
一緒に広報部に配属されて、私が企画部に行ってから、彼女は一人で広報にいて、社内恋愛で結婚して、今は、二人の子供のママ。
打ち合わせでお昼を食べ損ねた私は、テラスで菓子パンを食べていた。
「相変わらず、菓子パンなんだ」
彼女とこうやって話すのも久しぶり。メールとか内線で、ちょくちょく愚痴は聞いてたけど、顔を合わせて話すなんて、何年ぶりかしら。
「手軽でいいじゃん。お腹いっぱいになるし」
みりちゃんは、私の隣に座って、ペットボトルのお茶を開けた。
「辞めんの」
「え?」
「退職、するのよ」
「ウソ……ウソでしょ?」
「今日で、最後なのよ」
足元には、紙袋と、小さな花束が、あった。
「どうして? ねえ、そんなこと言ってなかったじゃん」
「うん……まあね」
「何か、あったの?」
「……妊娠、したのよ。三人目」
みりちゃんは、そう言って、微笑んで、お腹を撫でた。
「へえ! おめでとう。でも、なんで? 産休、とればいいじゃん」
私の言葉に、彼女は、ふっと、遠くを見た。
「もうねえ、疲れたのよ。二人共そうやってきたけどさ、若かったじゃん? これからお腹が大きくなって、また寝ずの育児が始まって、保育園の送迎して、家事もしてって……ちょっとね」
ふと見た横顔には、シワとシミが出てて、伸びた生え際には、ちらちら、白髪が見える。
……歳、とったんだ……みりちゃん。そうだよね、もう、四十だもんね。私も、歳とった。
「そっか……」
「それにさ、別に、もんたみたいに、仕事ができるわけでも、楽しいわけでもないし。旦那もさ、まあそれなりに出世して、お給料もよくなってるし、ここまでして働く意味もね、ないのよ。彼もね、もう無理しなくてもいいって言うし、まあ、また、子供が大きくなったら、どっかの会社で事務員でもやればいいかなって」
私が新入社員だった頃は、まだ、女子社員は、『腰掛』なんてのが、まかり通っていた時代だった。
五年くらい働いて、いい人を見つけて、結婚して、寿退社する。それが、まだ、『普通』な時代だった。
「もんたが企画部に行った後ね、私、広報に三年ほどいたでしょ? そしたらね、どんどん若い女の子が入ってくるのよ。入った頃はチヤホヤされてたのに、あっという間に誰にも相手されなくなってさあ。そう思ったら、同期のあんたは、ガンガン仕事してさ。……ちょっと、肩身狭かったなあ」
みりちゃんは、ちょっと皮肉っぽく笑って、私の二の腕をつねった。
「結婚して、産休とって、総務に復帰して……たった一年しか休んでなかったのに、まるっきり、変わってた。入社してくる女の子たちが、みんな、もんたに憧れてるの。佐倉さんみたいに、バリバリ働きたい、かっこいいキャリアウーマンになりたいって。腰掛なんて言ってる子、一人もいないし、みんな、自分の目標を持って、しっかり頑張ってる。なんかねえ、取り残されていく自分がいて……何度も辞めようと思ったわ」
そんなこと、全然知らなかった。みりちゃんが、そんな風に考えてたなんて。
普通に、上司や先輩の愚痴を言い合って、笑い合っていたのに、本当はそんなこと、考えてたんだ。
「言ってくれればよかったのに」
「言えるわけないじゃん。そんなカッコ悪いこと、同期のあんたに」
そう、だね……私も、そうだった。
上司や先輩のことは言えても、部下や後輩のことは、言えなかった。逃げるみたいなこと、言えないよね。
同期だから、言えなかった。
「ほんとはね、もんたみたいになりたかった。憧れてたのよ、これでも、もんたに」
私なんて……憧れる価値、ないよ。
でも、そうなんだよね。みんな、『佐倉部長』に憧れてくれてる。
「あんたは、ビジネスウーマンの星、なんだからね。がんばんなよ」
「そうね、スター、だから、私」
だから、止まれない。
もう、息もきれて、そこにへたりこみたいのにね、みんな、走れ、がんばれって、言ってくれる。
本当は、もう……ね……
「そうだ。慶太くん、元気?」
「うん。元気よ」
「相変わらず、チャラいの?」
「まあね、一生よ、たぶん」
携帯が鳴った。田山くんからだった。
「ごめん、行かなきゃ」
「うん。じゃあね。体に気をつけて」
「みりちゃんも、元気で。赤ちゃん、生まれたら教えてね」
「もんた」
みりちゃんが、手を差し出して、私は、その手を、握った。ネイルも、指輪もしてないその手は、ちょっと荒れてて、シワもあったけど、あったかくて、きっと『お母さんの手』、だった。
「おつかれさま」
「ありがとう。お世話になりました」
そう言って、私の最後の同期は、背中を向けた。
紙袋と、小さな花束を持ったその後ろ姿は、全然寂しそうじゃなくて、なんだか……
つかれてんたんだね、みりちゃん。ほんとに、おつかれさま。
明日からは、子供達と、ゆっくり過ごしてあげてね。
オフィスに戻って、いつものように仕事をして、家路につく。
当たり前の生活。毎日毎日、もう何年も、この電車で帰ってる。
予約していた美容院に寄って、カットと、カラーと、頼んでもないけど、ネイルと。
「少し明るめにしますか? ピンク、いれましょうか」
「うーん、若作り、しすぎじゃない? 痛々しいのは嫌なのよ」
「全然。白髪も目立ちにくくなりますし、きっとお似合いですよ。これから夏ですから、少し明るめの方が、軽やかでいいと思います」
「そう、じゃあ、おまかせする」
結局、おまかせ、で、髪はピンクブラウンに染めて、ネイルは白と水色のフレンチにして。
ちょっと……頑張りすぎ感、出てないかしら。
「おかえりなさい」
「ただいま……あれ? なんか、髪の色、変えた?」
「うん。どう? 若作りしすぎ?」
「全然、似合ってるよ。それくらい明るいほうがいいよ。真純は色白だし。あ、ネイルもいいね。夏って感じする」
世の中には、妻の髪型や口紅の色が変わっても気づかない夫が多いらしいけど。
慶太は、ちょっとしたことでも、こうやって、褒めてくれるの。
「ありがと」
慶太のキス。まるで恋人同士みたい。夫婦っていうより、恋人同士ね、私達。
「同期がね、辞めるんだって。みりちゃん、覚えてる?」
「ああ、覚えてる。どうして?」
「赤ちゃんができたって」
そう言って、ふと、思った。
まだ、妊娠、できるんだよね、私も。赤ちゃん、生めるんだよね。
そんな話、したことない。セックスするときも、避妊、してるし……
慶太は、どう思ってるんだろう。やっぱり、今更、子供なんてって、感じかな。そうだよね。ずっと二人だったんだもん。今更、だよね。
「赤ちゃんかあ。ね、俺達も、つくろっか」
え? そんな軽い感じで言っちゃう?
「なーんてね。冗談。真純も仕事があるし、無理だよね。俺も家にいたりいなかったりだしさ」
……なんだ……冗談、か……
「真純。なんか、その髪の色さ……」
「何?」
「エロい」
は?
「エッチしよ」
慶太って……性欲の塊ね、きっと。
あのバーベキュー以来、夜の回数が増えてて、私はちょっと……お疲れ気味。
でも、慶太に抱かれてると、もうあんまり、将吾のことはあんまり思い出さなくなって、慶太のことは、どんどん好きになって、やっぱりこれで良かったって、思えるようになってる。
このまま時間が過ぎればきっと、慶太のことだけ、愛せるようになるよね。
早くそうなりたい。慶太のこと、本当に好きだから、あなたのことだけ、考えていたいの。
「慶太……私のこと、好き?」
「好きだよ、真純。愛してる」
「私も、慶太のこと、好き。愛してる」
その夜も、優しいベッドを交わして、キスをして、眠りについた。
少し、蒸し暑くて、エアコンを、今年初めて、冷房に切り替えた、夜だった。
眠りの中で、慶太の携帯の音が聞こえた。
よくあることだけど、その時は、なんとなく違った。
「え?……そうか。ちょっと待って」
慶太はそう言って、私の肩を揺すった。
「真純……杉本からなんだけど……」
「……何?」
「お義母さんが、倒れたそうだ」
……知らない。そんなの、知らない。私には、関係ない。
「関係ないわ」
私は、背中を向けた。
「真純……危篤、だって……」
知らない! 勝手に死ねばいい!
布団をかぶる私を見て、慶太は電話に向かった。
「真純、ちょっと、ショックみたいで……病院、わかる?」
慶太はいつも枕元に置いてあるメモに、病院の連絡先を書いた。
「ありがとう。じゃあ……」
電話を切って、私の背中を抱きしめた。
「真純……」
「私には関係ない」
「俺も一緒に行くから」
「行きたければ勝手に行けばいいわ! 私は行かない!」
私は、ベッドを抜けて、寝室を出て、自分の部屋のドアを閉めた。
デスクの上の携帯には、何件か不在着信があって、将吾と、多分、広島の病院から。
ふざけないで。
何が母親よ……母親らしいこと、一度だってしたことないくせに……なのに、子供は親の面倒みなきゃいけないの?
冗談じゃない。
冗談じゃないわ!
「門田純子の身内のものですが」
「娘さんですか?」
「生物学上は」
「おこしになれますか? 危険な状態で……」
「無理です。そちらにお任せします。延命措置はいりません」
「門田さん……」
「死んだら、連絡ください。ご迷惑はおかけしませんから」
電話の向こうで、何か言ってたみたいだけど、もう知らない。
早く死ねばいいのよ、あんな、ゴミみたいなオンナ。
もう一度、病院からコールがあったけど、もう話す気はない。そのまま、電源を切った。
殴られた。一日中、暑い日も、寒い日も、雨の日も、雪の日も。
殴られて、家に入れてもらえなくて、ゴミ箱をあさって……万引きもしたっけ。
食事なんてなかった。私の食べるものなんて、どこにもない。
布団も、お風呂も、服も、文房具も、なにもない。
知らないオトコが日替わりで家に来て、そんな夜は、一晩中、外にいた。
将吾と一緒に、駅や公園や学校で、いつも二人で、肩を寄せて、暗い、寒い、暑い夜を、過ごした。
ただ、今、生きるために、私は、生きていた。
今月の給食費、まだやねえ。お母さんに、ちゃんと言うただか?……先生、言うたらね、叩かれるの。
体操服、また忘れたの?……先生、こうてもらえんじゃけ。
懇談のお知らせ、ちゃんと見せた? 門田さんだけじゃ、まだ返事ないの。……そんなもん、来るわけないけえ……
「先生、ごめんなさい。お母さん、仕事、忙しいけえ……」
みんな、かわいい服を着て、綺麗な顔で、新しい文房具で、流行りの靴で、なのに、私は、いつも、薄汚れた、ボロボロの服で、髪の毛なんて、切ったこともなくて、穴の空いた靴、痩せた顔、痣だらけの体、拾った鉛筆。
門田さんって、汚い。
靴、穴あいとる。
風呂、入っとるんかな。臭いなあ、あいつ。
「真純、気にせんでええ。今晩、銭湯行こう」
「そげなお金、もっとらん」
「俺がどうにかしたる」
そのお金、盗んできてたんだよね。そのパンも、ノートも、服も、将吾、私のために……
「お家、戻りんさい」
「……嫌です」
「お母さん、今度こそ、君にひどいことしないってゆうとんさる」
施設に入っても、あのオンナは、すぐに泣きながら、私を迎えに来た。
今度こそ、ちゃんと面倒見ます。
これからは絶対、暴力をふるいません。
あの子がいないと、死にそうです。
「真純、今度逃げたら、殺すけえね。おめえの価値なんか、お国からもらう金だけじゃけ。よう覚えとけ!」
早く、大人になりたかった。大人になって、あの女の元から、出たかった。
なのに……
「真純、入るよ」
「母親だなんて、思ったことない」
「……最期かも、しれないよ」
「私には母親なんて、いないの」
「生んでくれた、お母さんだろ? そんなこと……」
綺麗事ね。よく言われたわ。施設でも警察でも、いつでもどこでも、オトナ達はそう言った。
お母さん。生んでくれたお母さん。大切なお母さん。たった一人のお母さん。
だから何? だからどうだっていうの?
あんな母親、いなければよかった。
生まれてこなければよかったって、そんな風に、そんなことしか考えられない子供の気持ちは、関係ないの?
母親がそんなに偉いわけ? 冗談じゃない。
冗談じゃないわ!
「知ってるでしょ? 私は、父親すら、誰だかわからないような、望まれて生まれてきた子じゃないのよ! 私がどんな思いをしてきたか……慶太にはわかんないわよ! あなたみたいに恵まれた子には、私の辛さなんてわからない! わかるわけない!」
初めて、私は、慶太に、こんなことを、こんな風に言った。
きっと、そう……
慶太に甘えられないのは……
ううん、誰にも甘えられないのは……
「どうせ、心の中では、私のこと、見下してるんでしょ? 貧乏出の、田舎者だって。どんなに、着飾っても、私は親もわからない、薄汚い女なのよ! バカにしてるんでしょ! 見下してるんでしょ!」
コンプレックス。
負けたくない。
慶太みたいな、お金持ちの、なんの苦労もない、そんな子たちは、いつも私を虐めて、バカにして、侮辱して……
「だから、杉本なのか?」
「将吾は、私のこと、バカにしたり、見下したりしなかった。私に優しくしてくれた、たった一人の人なの!」
「その杉本を捨てたのは……お前だろ」
……そうよ。そう。私が捨てたの。だって……だって……お金持ちに……なりたかった……
「でも、今は、俺がいる」
慶太は俯いて、低い声で呟いた。
呟いて、私を抱きしめた。
こんなに、ワガママで、バカな私を、優しく、知らないけど、まるで、『お母さん』みたいに、優しく、包みこんでくれる。
「真純、お前の辛さはわからない。過去のことも、わからない。でも、お前のこと、バカになんかしてないよ。真純は、綺麗で、頭がよくて、優しくて、俺の自慢の奥さんだから」
そんな風に言うから……
「見下さないで!」
「真純……」
「出てって!」
慶太を部屋から押し出して、鍵をかけた。
もう、半年以上、かけていなかった鍵は、かちゃん、と、蒸し暑い部屋に音を立てた。
「真純! ちゃんと話そう。真純。話し合おう」
「ほっといて!」
その夜は、一睡もできなかった。
翌朝、いつものように慶太に途中の駅まで送ってもらったけど、車の中で、私達は、一言も話さなくて、いってきます、のキスも、しなかった。
出社して、デスクの上の山のような書類を片付けていると、携帯が鳴った。
「今どこや」
「会社」
「広島、帰ってないんか」
「帰らないよ」
「真純、おばさん、危篤やってゆうたやろ」
「……忙しいの。切るよ」
「気持ちはわかるけど、それでも、親は親や」
「私に親なんて、いない」
「最期かも、しれんぞ。それでも、ええんか?」
あなたまで……将吾、あなたまで、そんな風に!
「しつこいわね! あの人が死のうが生きようが、私には関係ないの! いっそ、早く死んでくれたほうがせいせいするわ!」
思わず荒げた声に、みんなの手が止まった。
「と、とにかく、忙しいの。もうほっといて」
電話を切った私の前に、田山くんが立っていた。
「部長? 何か、あったんですか?」
「何でもないの。ごめんなさい」
みんなの心配そうな視線を通り抜けて、私はテラスへ行った。
窓の外は、すっかり夏の陽射しで、梅雨、終わったんだ。夏になるんだ。こうしてる間にも、時間はどんどん、過ぎていくんだ。
私も、どんどん、年をとっていく。
……このままでいい? このまま、逃げたままで、いいの? 一生、あの人から、逃げたままで……
「どうぞ」
声に振り向くと、田山くんが、コーヒーを持っていた。
「ありがとう」
「大丈夫ですか? 顔色、良くないですよ」
田山くんなら、黙って聞いてくれるかな……
「実はね……母親が、危篤なの」
「えっ! 大変じゃないですか! いいんですか? 仕事なんてしてて……」
「もう、二十年以上、会ってないの」
田山くんは、驚いた顔で、私を見てる。
「会いたくないの……私……嫌いなの、母親のこと……」
彼は、うん、と頷いて、「それで、部長が後悔しないなら、それでいいと思いますよ」と、私の目を見つめて、微笑んだ。
「後悔しないように、やれ。部長の教えです」
後悔しないように……後悔。もし、このまま会わずに、あの人がいなくなったら……
「あ、ごめん……電話……」
「今日、十七時の新幹線とったから」
「……うん」
「昼で帰れる?」
「うん」
「迎えにいこうか?」
「いい。電車で帰る」
「わかった。俺もなるべく早く帰るから」
電話の声は、いつものように優しい、甘い声で、愛してるって、小さな声で言って、電話はきれた。
「ご主人ですか」
「……お昼で、早退するね」
「わかりました」
「明日は、休むかも」
「はい」
空になったカップを田山くんが引き取ってくれて、私達は、オフィスへ戻った。
あんな風に、会社で取り乱したのは初めてで、私はちょっとバツが悪い。
でも、みんな、心配そうな目で、私を見てる。
ちゃんとしなきゃ。上司として、オトナとして、ちゃんと、しないと。
「実家の母の具合が悪いの。悪いんだけど、お昼から帰らせてもらうね」
大変じゃないですか、と、ざわざわと、みんな顔を見合わせる。
「明日も、休むかもしれないけど、何かあったら、田山くんに指示もらってね。田山くん、よろしくお願いします」
田山くんは、はい、と一言、クールに言った。
「部長、大丈夫ですか? 顔色が……」
みんな、私の周りに集まって来てくれる。
私、なんて幸せなんだろう。こうやって、若い子達が、慕ってくれて、心配してくれて……
「大丈夫よ。ありがとう」
ため息をついて、書類を片付けて、十二時前にオフィスを出た。
IDを通すと、後ろから、田山くんが走ってきた。
「部長、送ります」
「いいよ、電車で帰るから」
「クライエントのところに行くんです。通り道ですから」
田山くんの嘘は、バレバレだったけど、今の私は、彼に縋らないと、崩れてしまいそうだった。
「ごめんね」
「いえ、いいんですよ。ついでですから」
道路は少し渋滞していた。
「混んでるね」
「時間、大丈夫ですか」
「うん、全然」
無言の車内に、カーラジオから、お昼のニュースが流れる。
「あの時、言ったこと、覚えてますか」
「あの、夜のこと?」
「はい」
「……覚えてるよ……」
「今も、変わってません」
「……夫のこと、愛してるの」
「わかってます。困らせるつもりはありません。あのご主人に、勝てるとは思ってませんから。でも、俺は……部長のことが、心配なんです」
「心配?」
「前も言ったでしょう。部長は、優しすぎるから、なんでも抱え込んじゃうって」
「そう……かな……」
「お母さんのことも、抱え込んでますよね」
見透かしたように、田山くんは、前を向いたまま、優しく言った。
「そんな顔の部長を見るのは、嫌なんです」
田山くん……キミなら……私のこと……受け止めてくれる?
「……虐待、されてたの」
「はい」
「許せないのよ、今でも……」
「当然だと思います」
「でも、みんなね……会うべきだって言うの。私は……つらいのに……思い出すのも……」
「オトナなら、そう言うでしょうね。それが、オトナの体裁です」
田山くん……私、縋っちゃうよ。キミのその優しさに、縋ってしまう。
「私のことね、幼馴染が、コドモのままだって言うの。甘えたの、私のままだって」
「いいじゃないですか、甘えたで。コドモでいいんですよ。何がいけないんですか。俺なら、そんな部長の方が……好きだけどな」
「田山くんだけだよ……そんな風に……私のこと、許してくれるの……みんな、私のこと、勝手につくりあげて……もう、疲れたの……仕事もね……」
信号待ちで、田山くんは、左手で、私の右手を握った。
ちょっと冷たいその手を握り返して、私達は、自然に、唇を合わせた。
あの夜みたいに、私達は、キスをした。
違っていたのは、慶太の顔が、浮かばなかったこと。
素直に田山くんの唇を受け止めて、たぶん、もしここにベッドがあったら、私は、田山くんに身を任せていた。
でも、そこは車の中で、昼間で、渋滞の道路。信号が変わって、彼は、唇を離した。
「俺なら、部長にそんな顔、させないのに」
田山くんは、握った手に力を込めて、ちょっと涙ぐんだ。
「どうして……そんなに、私のこと?」
「……部長、二人で、遠くに行きましょうか」
田山くん……本気で? 本気で言ってるの?
「冗談です」
「……連れて行ってくれるの?」
でも、私の言葉に、彼は、前を向いたまま、何も答えてくれなかった。
ただ、私の手を、強く握りしめて、もう一度、クールに、冗談です、と言った。
握った手が離れて、車は、マンションの前に止まった。
見慣れたゲートの前で、何かに吸い込まれるように、私は、現実に引き戻される。
「お気をつけて」
「ありがとう」
何もなかったみたいに、車を降りた私を見送って、田山くんは、軽く会釈をして、車を出した。
逃げ出したかった。
もう、ここから、部屋には戻らずに、田山くんの車で、どこか、遠くへ。
使い慣れたオートロックを解除して、エレベーターに乗って、部屋の鍵を開ける。
当たり前の動作が、一つ一つ、重い。
「寒い」
締め切った部屋は蒸し暑い。でも、私の体は、震えている。
ガタガタと、体の中から、寒気が襲ってきて、息が苦しくて、吐き気がして、汗が止まらない。
寒いのに、汗が流れる。寒いのに、熱い。熱いのに、寒い。
「助けて……」
リビングで蹲ると、涙が流れ始める。もう、おかしくなってしまったのかもしれない。
目の前の風景がぐるぐると回って、何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。
「……真純。真純」
ぼやけた視界の中に、慶太がいる。
「大丈夫か?」
ソファで、眠っていたらしい。
「うん」
「顔色、よくないな」
「大丈夫」
彼は、私の顔をじっと見た。
「真純、ごめんな……」
……田山くんとのキス……後ろめたくて、思わず目を、逸らしてしまう。
「真純のこと、全然わかってなかったよな、俺……」
「どうしたの? 急に……」
「お母さんと会うことが、本当に真純にとって必要なのかどうか……向こうに行って、考えよう」
慶太……私のこと、考えてくれてたの?
「やっぱり、会いたくないって思うなら、会わずに帰ろう」
「いいの?」
「真純を、傷つけたくないから」
慶太は私を抱きしめて、キスをした。
それは、さっき、田山くんと、キスした唇……
「ちょっと、用意してくるね」
どうして、そうなの?
慶太は、いつも、私を嗜めるように、私を現実へ引き戻す。
このまま、無理矢理、広島へ連れて行かれたら、私……田山くんのところへ行けたかもしれないのに……
田山くんに、甘えられるのに……
部屋のベッドに座って、ぼんやり窓の外を眺めていると、ノックと一緒に、慶太が入ってきた。
「荷物、一緒に入れようか」
少し大きなキャリーケースを持って来て、私の荷物を詰め始めた。
優しいね、慶太。あなたは、いつも、優しい。
でもね、その優しさは、私の胸を締めつけるの。
私ね、あなたのことが好きだけど、やっぱり、素直にあなたを好きになれないの。
あなたは、現実すぎるの……
「そろそろ、行こうか」
「うん」
「タクシー、呼ぼうか?」
「いいよ、電車で。道、混んでるし」
「……なんで?」
「え?」
「電車で帰って来たんじゃないの?」
あ……そっか……
「タクシーで、帰って来たの」
嘘。嘘なんて……つきたくないのに……
「そう、じゃあ、行こうか」
慶太は疑う様子もなく、キャリーケースを持って、部屋を出て、私は、後に続く。
途中で、同じフロアの人に会って、旅行ですか? って聞かれた。
「ええ、ちょっと」
慶太は愛想笑いをして、とりとめもない話をしている。
私は隣で、ぼんやり、エレベーターの壁にもたれて、田山くんの唇を、思い出していた。
ご近所さんと別れて、私達は駅へ向かった。
平日の昼間の住宅街は、がらんとしていて、まるでゴーストタウン。
アスファルトからの熱気に、キャリーケースのタイヤのガラガラという音と、私のヒールの音が響く。
「誰もいないね」
「平日はこんなもんだよ」
駅前まで行くと、専業主婦らしき人達が、スーパーの袋を持って話し込んでる。
専業主婦になると、そんな感じなんだ……
でも、私、ご近所さんに友達なんて、一人もいない。ああやって、立ち話する相手なんて、いない。
あのマンションに住んで、十五年。友達なんて、誰もいない……
東京駅は、移動のサラリーマンでせわしない。私達は、目についたイタリアンのレストランに入った。
「何食べようか」
周りのテーブルは、やっぱり主婦っぽい人か、学生さん。お昼時は過ぎてるから、サラリーマンはほとんどいない。
レストランを出たら、また四時前で、慶太は、早い便のチケットに交換に行ったけど、座席が取れなくて、五時まで、喫茶店で過ごすことにした。
「何時につくの?」
「九時ぐらいかな」
広島まで、四時間なんだ……二十二年前は、ものすごく、遠かったような気がする。
「早いね」
「大阪まで、二時間半だからなぁ」
「……東京に来てから、初めて帰るの」
「そうなんだ」
「一生、帰る気はなかった」
それは本心で、正直にいうと、まだ、広島に行く決心ができていない。
「無理させるつもりはなかったんだ。……帰ろうか?」
帰るって、言いたい。もう、お家に帰りたい。帰って、ベッドの中で……あなたに抱きしめてほしい。
でも……そんな逃げるみたいなこと、言えない。やっぱり、甘えられない。弱いって、思われたくない。
「慶太、私ね……慶太のこと、好きなの」
「俺も、好きだよ」
「……あの人にあったら、きっと、私のこと、嫌いになる」
「どうして?」
「似てるから。あの人と、私……」
世界で一番、唯一、心底軽蔑している、あの人に、私は似ている。
「嫌いになんて、ならないよ」
ふと時計を見ると、四時四十五分になっていた。
「もう、行こうか」
コーヒー代を支払って、私達は下りのホームへ出た。出張帰りのビジネスマンで、自由席も指定席も、長い列ができていた。
「グリーンとったの?」
「グリーンしかとれなかった」
しばらくして、新幹線がホームに入ってきて、私達は、座席に着いた。
発車のベルが鳴って、窓の景色が動き始める。
四時間後には、私は、あの場所にいる。二十二年間、避け続けた、あの場所に。
新幹線の中では、ほとんど話さなかった。
昨日の睡眠不足か、睡魔が襲ってきて、うとうとと眠ったり、起きたりの繰り返しで、目を覚ますたび、慶太は広げたパソコンから手を離して、私の手を握って、優しく微笑む。
その目は、大丈夫だよって、言ってるんだよね。
ねえ、慶太。
あなたは、どうして、そんなにオトナなの?
私のこと、怒らないの?
あなたのその目は、まるで、知らないけど、『お父さん』みたい。
私の嫌なところも、全部、全部、受け止めてくれてるんだよね。
ねえ、私ね、今日、他の男の人とね、キスしたんだよ。
その人とね、もうどっか行っちゃおうかと思った。
ねえ、私、あなたに抱かれながら、他の男の人のことを考えてるの。
あなたが、その人だったらって、そんなバカなこと、考えてるの。
気がつくと、慶太の手に、ハンカチがあった。
私はまた、知らない間に、泣いていた。
「ありがとう」
ハンカチを受け取った私を、慶太は抱き寄せて、髪にキスをする。
「ごめんな、わかってやれなくて」
そんなんじゃ、ないの……もう、そんなこと、どうだっていい。
私がつらいのは……あなたの優しさ……
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
約束通り、何度聞いても、慶太は、何度も、優しく答えてくれる。
「大好きだよ」
慶太はキスしようとしたけど、通路の向こう人がチラチラ見てたから、ちょっと恥ずかしそうにして、「キスしていい?」って、耳元で聞いた。
「……うん」
私達は、軽く唇を合わせて、二人で微笑みあった。
「見られたかな」
「たぶん」
幸せなのに……こんなに、私は彼に愛されてて、私も彼を愛してる。
でも、私の心は埋まらない。いつまでも、他の男の人に、心を揺さぶられている。
いつまでも、どうしようもない、過去から逃れられない。
窓の外は、いつの間にか夜になっていた。外の景色は、ネオンと暗闇を繰り返す。
「寒い?」
私の体はまた、震え始めていた。
「冷房、きついな。ブランケット、もらおうか」
「いい」
ブランケットをもらっても、きっと、変わらない。
寒いのは、冷房のせいじゃない。
慶太がジャケットをかけてくれた。
いつもの香水の匂いと、ちょっと、男の人の匂い。慶太の匂い。慶太の匂い。慶太の……匂い。
そばにいる。慶太は私のそばにいてくれる。ジャケットの下で、私の手を握ってる。心配そうな目で、私を見つめてる。
「愛してるから、何があっても」
そして、車内アナウンスが流れる。
「まもなく、広島駅に到着します。お降りの方は、お忘れ物のないよう、ご注意ください。乗り換えのご案内をいたします……」
ホームに入って、ゆっくりと止まって、ドアが開いた。
「ひろしま~ ひろしま~」
私は、ホームに降りた。ホームに降りたその足は、フェラガモのハイヒールで、穴も、汚れも、ない。
二十二年ぶりのその場所は、蒸し暑くて、人が多くて、でも、私は、震えている。
私は、十八の私に、戻っていく。
二十二年前のあの日、高校の卒業式が終わって、私は、そのまま、家には帰らず、施設にも帰らず、電車に飛び乗って、広島駅に向かった。
広島駅には、将吾が荷物を持って待っててくれて、私の姿を見て、大きく手を振った。
「卒業、おめでとう」
将吾は私の制服姿を見て、微笑んだ。
「着替えてくる」
だけど、もう、こんな制服も、卒業証書も、いらない。
駅のトイレで、トレーナーとジーンズに着替えて、制服と卒業証書は、ゴミ箱に捨てた。
鞄も、生徒手帳も、全部、捨てた。
将吾と二人で、小さなボストンバッグを持って自由席に並んだ。
その日は金曜日で、すごい人で、自由席は満席だった。
私達は座ることができず、それどころか、まるで通勤ラッシュのような車内で、人熱に酔う私を、将吾が守るように抱き寄せて、私達は東京までの六時間を、立って過ごした。
あれから……二十二年。こんな未来、想像、してなかった。
隣にいるのは、将吾じゃなくて、セレブ家庭育ちの夫。そして私達は、都会の、セレブ夫婦。
幸せになれた。
ねえ、将吾、私、今、本当に幸せなんだよ。
あなたと別れて、あなたを捨てて、私は幸せを手に入れたの……
将吾……バカな女だって、笑ったよね。金に目のくらんだ、バカで、浅はかな……あの人と同じだって……
「真純? 疲れた?」
「少し」
「病院は、明日にするか?」
「うん」
過去から引き戻された私は、慶太の腕に縋って、改札へ向かった。
歩きながら、慶太は病院に電話をして、容態を聞いている。
もしかして、昨日からずっと? ずっと、聞いてくれてたの?
「今は安定してるって」
「ねえ、ずっと聞いてくれてたの?」
「……真純のお母さんは、俺のお母さんでもあるから」
慶太はオトナな顔で、オトナな返事をした。
ホテルは、病院の近くの、ビジネスホテル。
窓から、その病院が見える。
あそこに、いるんだよね。あの人、あの病院の、どこかに。
「何か食べる?」
「あんまり、食欲ない」
「そうか、じゃあ、コンビニでなんか買ってくるよ」
「私も行く」
一人になるのは、不安だった。
ホテルの中にコンビニがあって、慶太はカップうどんとおにぎりを買って、私は、プリンとシュークリーム……どっちにしよう。うーん、今は……シュークリームかな。
「今からそれ食べるの?」
「なんか、クリーム食べたいの」
「じゃあ、ケーキにしなよ」
「ケーキって気分じゃないの」
「よくわかんないな」
こんな普通な会話さえ、つい半年前まではできなかったよね。
夫婦……になれたんだ。私達。
部屋に戻って、慶太はカップうどんを作って食べ始めた。見てると、ちょっと食べたくなるのが、インスタント麺の不思議なところよね。この、ダシの匂いかな?
「ちょっとちょうだい」
「アゲはダメだからな」
あら。意外と、ケチなのね。
そういえば、昔よく将吾と二人でこうやって、うどんとかラーメンとか、分けて食べたっけ……
東京に出てきたころは、ほんとにお金がなくて、食べるのが精一杯で、でも、幸せだった。
それまでの最低な生活に比べたら、将吾との新しい生活は、ほんとに穏やかで、あったかくて、幸せだった。
幸せ……幸せだったんだ……私……
「久しぶりに食べた」
「俺はよく食ってるからなぁ」
「いつ? お昼?」
「昼は食べに行くけど、夜中は、だいたいカップ麺かな」
そっか……慶太は、夜中でも呼び出されたらすぐに行かなきゃいけないんだもんね……そういう時は、こういうの食べてるんだ。
「お弁当、つくろっか?」
「いいよ、そんなの。だいたい、食べれないことの方が多いから」
慶太はそう言って、アゲを口に入れて、アチッ! だって。
「ケチなこと言うから、バチが当たったのね」
「なんだよ、じゃあ、ちょっと食べていいよ、アゲ」
思わず、笑っちゃった。二人で、こんな風に、笑えるようになったんだね。
最近思う。
慶太のこと、なんにも知らない 。
慶太がほんとはどんな仕事してるのかとか、友達とか、好きな芸能人とか……趣味とか、あるのかな。
そんなこと、聞いたこともない。考えたこともなかった。
「甘いもの、好きだっけ?」
「時々、無性に食べたくなるの」
そう、慶太もきっと、私のこと、そんなに知らないよね。
だって、半年前までは、口もきかずにいたんだもん。
二十年間、一緒に暮らしながら、私達は、お互いの顔も見ずに生きて来たんだもん。
「一口、いい?」
「一口、だよ」
慶太は結構クリームを押して……えっ? それ、一口?
「甘!」
「もう、クリームばっか食べた!」
「いいじゃん」
「口にクリーム、ついてるし」
「とって」
若い頃、付き合ってた頃、こんなこと、しなかったよね、私達。
買い物と、セックスと……それだけ、だったね……
今夜は、ツインの部屋だから、シングルベッドが二つ。
「ねえ」
「うん?」
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
「そっち、いっていい?」
「もちろん」
「ちょっと、狭いね」
「狭い方が、いいじゃん」
最初は布団が一組しか買えなくて、二人で一緒に寝たっけ。
将吾は体が大きいから、ほんと、狭かった。
春先から暮らし始めて、秋口に、もう一組、布団、買ったけど、暖房がないから、寒くて、結局、一緒の布団で眠ったね。
だって、将吾の体は、大きくて、あったかくて……何より、安心できた。
将吾の胸の中だと、なぜだか……過去を忘れることができた。
薄い、固い布団。でも、あったかかった。
それまでの十八年間で一番、あったかい布団だった。
「ねむれない?」
慶太の唇が、私の耳に触れた。
「うん」
摺り寄せたカラダをつつむのは、慶太の細いカラダ。
「……そんなことしたら、したくなるじゃん」
唇が、おでこに軽く触れて、あ……ふとももに……
「イヤ?」
「ううん……でも……こんな時だからさ……」
「優しいんだね」
「これまでの分、優しくしたいんだ……今まで、出会ってからさ、俺、真純のこと、傷つけてばっかりきたから……」
「……それは、私も同じだよ」
唇。舌。唾液。……見えない。
ねえ……あなたは……誰?
今、私とキスをしているのは……誰?
「ガマン、できないよ」
慶太……そっか……慶太……
あの夜は、三月なのに雪が降って、すごく寒い日だった。
一つしかない布団は、薄い掛け布団だけで、寒がりの私は、寒くて、寒くて、震える私を、将吾は太い腕で抱きしめて、冷えた足先を、自分の足の間で、あっためてくれた。
「まだ、寒いか?」
「……うん。まだ、寒い」
体があったまって、うとうとし始めた私のおでこに、将吾の唇を感じて、顔を上げたら、好きや、って、小声で呟いて、私達は、初めての、キスをした。
あの時、私は、なんて答えたのか、思い出せないけど、たぶん、黙って頷いただけだったと思う。
将吾の気持ちには、前から気がついていたけど、私には、恋とか、そんなの無縁のものだと思っていたから、将吾にも、好きとか、そんな感情、持ってなかった。
そう、昔から私は、好きとか、愛してるとか、そんな感情が欠けていた。
わからなかった。
これが、恋なのか、どうなのか、そんなことすら、わからない、少女だった。
「好き」
「俺も好きだよ」
好き、って言葉を、私は何度も慶太に言う。
将吾には、好きなんて、言わかなかった。
将吾は何度も好きって言ってくれたけど、私は、言わなかった。言えなかった。
「真純」
あったかい肌が、私の肌と絡み合って、優しい愛撫に堕ちていく。
優しい指先と、熱い舌が、私を愛してくれる。
私の上に重なった将吾の唇は、微かに震えていて、それが、寒さからなのか、緊張からなのか、わかんなかったけど、いつもの優しい目は、なんかちょっと怖くて、私は思わず、体を、かたくした。
本気やから、って、将吾は耳元で呟いて、布団の中で、私達は、服を脱いで、お互いの心臓の音が聞こえるくらい、緊張して、一つになろうとしたけど、上手くできなくて、二人で笑った。
十八年間で、初めてってくらい、心の底から、なんか、安心したのを覚えてる。
将吾となら、幸せになれるって、そう思った。……思ったのに……
「……もっと……強くして……」
今、私、誰に言ったの?
ねえ、私、誰に抱かれてるの?
笑ったら、緊張が解けて、その後、私達は本当に、一つになった。
今みたいに、セックスを感じたわけじゃなかったけど、でも、これが、好きってことなんだって、将吾の腕の中で思った。
生まれて初めて、男の人を、ううん、他人を、好きになった。
将吾……私ね……あなたが……
「好き」
「好きだよ……愛してる……真純……」
慶太?
慶太!……私……今……将吾のこと、考えてた……将吾に、抱かれてた……
「真純? どうしたの? 痛い?」
私は、また、泣いてしまっていた。
今までみたいに、涙が出る程度じゃなくって、もう、堰を切ったように、涙が止まらない。
「真純、どうしたんだよ……ごめん、無理にした?」
慶太は慌てて、私の体を抱き起こした。
「ごめん……私……」
嗚咽が始まって、うまく話せない。
「む……昔のこと……お……思い……思い出して……」
「お母さんの、こと?」
違う……そうじゃない……私は、最低な女……
正直に言ったら、どうなるんだろう。慶太は、私のこと、嫌いになるよね……怒るよね……
でも、もう、このままだと、慶太のこと、裏切ってしまう。
現に今日……田山くんと……
「慶太……私……」
「なんでも、話してよ」
「わからないの……」
「何が、わからないの?」
「幸せなの……すごく……慶太のこと、好きだし、愛してるし……絶対に失いたくないの……」
「俺もだよ」
「なのに……私ね……考えてしまうの……思い出してしまうの……」
慶太は、全部わかったみたいな目をして、一瞬、目を閉じて、そして、優しく、微笑んだ。
「なあ、真純……真純はさ、杉本と俺以外に、付き合った人、いる?」
「いない」
「俺はね、真純と付き合う前、何人もの女の子と付き合ったんだ」
「うん……」
「同時に、付き合ってたこともある」
俯く私の手を握って、慶太は続けた。
「別れるとね、思い出すんだよ、その子のこと。新しい彼女のことが好きになればなるほど、前の彼女と、比べちゃうんだ。でも、徐々にね、忘れていく。新しい彼女が、全部になっていくんだよね。だから、前に言ったろ? 杉本のこと、好きでもいいからって。だって、あんなに真剣に真純のこと愛して、必死に守ってきた彼氏のこと、そんなすぐに忘れられるわけがないじゃん」
「でも……もう、何年も……」
「空白、だっただろ? 俺たち」
「空白……」
「俺達はお互いに、気持ちを殺して、生活してた。でも、あの日からさ、俺たちはほんとの恋人になって、夫婦になった。……たぶん、その時からだろ? 杉本のこと、考え始めたの」
「うん……」
「今の俺の目標はね、真純を杉本から完全に奪うことなんだ」
慶太は、怒りもしてなくて、悲しんでもなくて、ただ、優しい笑顔で、私の隣にいる。
「完全に奪って、杉本なんかより、俺といて幸せだって、絶対思わせてやるって、それが、俺の目標」
……なんで、そんなに、優しいの? なんで、そこまで、私のこと、思ってくれるの?
「慶太のこと、本当に好きなの」
「わかってる」
「だけど、私、なんでそんなに慶太が私のこと、愛してくれるのか、わかんないの……」
「それは、ほら、惚れちゃったってやつ?」
「こんな私……慶太みたいな人に、相応しくないと思うの」
「真純、お前はさ、もっと自信持っていいんだよ。こんなにキレイで、素直で、優しくて、頭もいいし、料理もうまいし、最高じゃん」
慶太は、私の涙を拭って、髪を撫でた。
「俺の妻は、真純しかいない。真純の夫も、俺しかいない。俺達は、絶対に夫婦なんだよ」
朝早く、慶太の携帯が鳴った。
「え? 本当ですか? よかった……はい、わかりました」
「どうしたの?」
「お母さんの意識、戻ったって、病院から」
え……そう、なんだ……
「俺は費用のこととかで病院行くけど、真純はどうする?」
「費用?」
「入院代とか、いろいろかかってるみたいだから」
「そんなの、関係ないじゃん」
「そういうわけにはいかないよ」
「……迷惑かけてるね……」
「言ったろ? 俺のお母さんでもあるって」
慶太は笑って、シャワーを浴びに行った。
テレビをつけると、朝のローカル番組が流れていて、懐かしいタレントさんが、レポーターとかしてる。
ここ、東京じゃないんだ。二十二年。ここで過ごした年数よりも、長い時間、私は東京で過ごしてる。
そうよね。
もう、逃げちゃいけない。
私は東京で、佐倉真純になった。
薄汚れた、門田真純じゃない。
鏡に映った私は、明るいウエーブの髪で、水色のツメで、胸元にはダイヤのティファニーが光って、どこからどう見ても、都会の、女。
「私も、病院行くね」
「大丈夫?」
「うん」
それに、あのことをはっきりさせたら、きっと私は、慶太だけを愛すことができるようになる。
もう、逃げない。
あんな人に、いつまでも、負けていられない。
私達は、チェックアウトを済ませ、病院へ向かった。
病室は個室で、明るくて、清潔で、窓辺のベッドには、歳をとった、あの人が眠っていた。
二十二年ぶりに見たその人は、ずいぶん太っていて、安っぽい長い茶髪に、素顔の肌にシミとシワが目立っている。
この人……これがあの……あの母親。私の、母親。
ねえ、慶太。
この人がね、私の、母親なんだよ。
私、こんな安っぽい、薄汚れた、田舎者の……娘なの。
私達の気配を感じたのか、ゆっくりと目が開いて、あの人は驚いた顔で、私達を見ている。
「佐倉です、お母さん」
そっか……慶太は、初めて会うんだ、この人と……
「……真純の……」
「永い間、ご挨拶にこれなくて、申し訳ありませんでした」
タバコと酒にやけた声は、掠れている。
「こんげ遠いとこまで……」
「お加減、いかがですか?」
「死ぬかとおもたけど、生きとります」
「ほんとによかった。安心しましたよ」
慶太の優しい笑顔に、あの人も笑った。
その顔は、昔、家に転がりこむ男に見せていた、あの顔で、偽りの、笑顔。
やっぱり、許せない。あなただけは、許さない。
「死ねばよかったのに」
「真純、やめろ」
私の言葉に、あの人は、にやり、と笑った。
「あんた、真純かぁ」
「娘の顔も忘れたの?」
「えらいベッピンなって、わからんかったわ。私の若い頃に、よう似とる」
似てる……似てる……
そうね、姿かたちはね、似てるわね。
だけど、私はあなたみたいな、安いオンナじゃない。
私は東京の、地位もお金も、何もかもある、セレブなの。あなたと一緒に、しないで。
ドアがノックされて、看護士さんが入ってきた。
「門田さんの、お身内の方ですか?」
「はい」
「ちょっと、先生からお話がありますので……」
「わかりました。真純、俺、行ってくるから」
「うん……」
慶太が出ていくと、その人は、がらりと表情を変えた。
その顔。その目。
やっぱりね、昔と変わってないわ。私を殴っていた頃のあなたと。
ゴミ。ゴミのようなオンナ。
「将吾と一緒になるんかおもようったけど。あんな金持ちの男つかまえて……あんたも私の娘じゃのお」
目の前のその人は、ふふんと、せせら笑った。
「あなたの娘だってこと、隠してたから、あの人と一緒になれたのよ」
私も笑ってやった。ふふんと、蔑む目で、笑ってやった。
「聞きたいことがあるの」
「なんじゃ?」
「私の父親のことよ」
「なんじゃ、今更」
「はっきり聞くわ。将吾と私は、兄妹なの?」
「誰がそんげなこと」
「将吾から聞いたの」
「昔のことじゃて」
「あなたには昔のことでも、私には大切なことよ。答えて」
「……可能性は、ないことはない」
「はあ?」
「あんたとちごうてな、私は男にもてたんじゃけ」
「……誰が父親か、わからないってこと?」
「そうゆうたじゃろ、昔」
「それでよく、将吾と一緒になるとか、そんなこと言えたわね」
「いつまでカマトトぶっとるんじゃ」
「ふざけないで!」
「真純、あんたは私の娘じゃ。そん体も、顔も、色気も、私譲り。男には苦労せんかったじゃろ? あんな金持ちの男捕まえて、親に感謝せんね」
ニヤニヤと笑って、私の胸を乱暴に弄った。
最低……やっぱり、最低!
「来るんじゃなかったわ」
「誰も来て欲しいなんぞ、ゆうとらんで」
「あんたなんか、親でもなんでもない!」
「かまわせんよ、ここの病院代さえなんとかしてくれたら。あんたのダンナ、ええ財布じゃのお。ああ、また時々、家賃頼むけえ」
最低。
その単語しか、思い浮かばない。
なんなの……あんなオンナの血が私に流れているっていうの?
あんな、最低なオンナの血が……
不意に下腹が痛くなって、トイレに駆け込んだ。
下着が、血で染まっていた。血……あの人と、同じ血……
「予定外ね……」
仕方なく、ティッシュを敷いて、トイレを出て、ロビーのコンビニでナプキンと、ショーツを買った。
お腹痛い……後で薬も買おう……
薬局で鎮痛剤を買って、ロビーで座っていると、慶太から電話がかかってきた。
「どこにいるんだよ」
「ロビー」
「なんでそんなとこに……」
「お腹痛いの」
「え? 大丈夫か? 病院だし、診てもらえよ」
「生理痛」
「え……ああ、そうなのか……とにかく、ロビーに行くから」
しばらくして、慶太がロビーにやって来た。
たくさんの人の中にいると、慶太は、都会の人で、イケメンで、リッチ。この人が、私の夫。
私は、どんな風に見える? 私も、都会で、美人で、リッチ?
「大丈夫か?」
「うん」
「……お母さんと、なんかあったのか?」
「ねえ、入院費、払わなくていいよ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「私、お金送ってるのよ、時々。払えないわけないのよ。あんなにブクブク太って、貧乏なわけない」
「……真純、お母さんの病気なんだけど……」
「心筋梗塞でしょ?」
「今度発作起こしたら、ほんとに……」
「死ねばいいのよ、あんなの」
ほんとに……死んで。もう、絶対に許せない。あんな人、もう親でもなんでもない。
「あの、失礼ですが、佐倉慶太さんでは?」
慶太に話しかけたのは、知らない男の人。
でも……初めて会った感じじゃない。
「ええ、そうですが……」
「やっぱり。いや、失礼しました。私、佐倉先生の事務所で昔、お世話になってたんですよ。三好と申します」
ああ、事務所で見かけたのかな? 私も昔は時々選挙の手伝い行ってたし……
「そうですか。すみません、お顔を存じあげなくて……」
「いえ、いえ。随分昔の話ですから。私、今はこちらで県会に出てましてね」
どうやら、こちらで議員をやってる三好という人は、もうすぐ県知事に立候補するらしい。
「こちらは、奥様で?」
「ええ、妻の真純です」
「はじめまして」
私は、いつものように、笑顔で挨拶した。でも、なんだか、その人の感じ、好きになれない。
「これは、お綺麗な奥様で!」
「よく、言われます」
「ところで、佐倉さん。お噂は聞いてますよ」
「噂? いい噂ですか?」
「もちろん。とても頼りになる会計士さんだとか……」
「お力になれることがあれば、いつでもご相談ください」
慶太は微笑んで、名刺を出した。こういう感じで、お客さんが増えるんだ。
「近々、ご相談させていただきます」
「お待ちしております」
失礼、と言って、三好さんは、私に会釈して、病室へ続くエレベーターの方へ歩いて行った。
「ああいうのが、結構しぶとく生き残るんだよな」
「どういうこと?」
「東京から地方に行って、手堅く県会議員やって、知事適当にやって、国政ってパターン。親父の事務所にいたってのも、怪しいな」
慶太は鼻で笑ったけど、私にはよくわからない。
「あの人、なんか嫌な感じだった」
「政治家なんて、みんなあんなもんだよ」
誰だろう……テレビとかで見たのかな? ううん、違う……もっと昔に、雰囲気は違うけど……
「病室、戻ろうか」
「もういいよ、帰ろう」
「挨拶だけしないと」
私は渋々、慶太について、病室へ戻ったけど、そこには、なぜか三好さんがいた。
「おや、お知り合いだったんですか」
「義理の息子じゃ」
「へえ! じゃあ……あの、真純ちゃん?」
……思い出した! こいつは……この男は……
私を襲った……あの男!
「……思い出したわ……」
「真純ちゃん……昔のことじゃないか」
三好はヘラヘラと笑ってる。許せない……私を襲って、将吾に前科をつけた……
「ほんまに、昔は、えらい迷惑かけたんじゃけ」
そういうこと……まだこの男は、この女の金蔓なんだ。信じられない……娘を襲った男と今だに……
「許せないわ」
「真純、穏便にすませてもうた恩を忘れたらいけんで」
「穏便? 何言ってるの?」
「あの、何かあったんですか?」
慶太! 慶太がいたんだ! やめて……こんな話……!
「昔ね、この子の幼馴染がねえ……」
「杉本くんですか?」
「なんや、将吾のこと知っとるんか。そう、将吾がね、こん人のこと、えらい殴りよって……大怪我したんじゃよねえ」
「純子さん、もういいんだ」
もういい? ふざけないで。あんたのせいで、将吾が、どんな思いをしたと思ってるの!
私は、思わず、言ってしまった。
「誰のせいで将吾が鑑別所に入ったと思ってるの?」
「あんたのせいじゃろが」
「あんた達のせいでしょ!」
「人の男さそといて、こん娘は!」
「誘う? 誰が……誰が……」
「慶太さん、こん娘はねえ……」
「やめて!」
でも、慶太は、冷静に、私の肩を抱いて、言った。
「知ってますよ」
え……知ってる?
「杉本くんから聞きました」
「なんと?」
「昔、真純に乱暴をした男を殴って、鑑別所に入ったと」
なんで? なんで、そんなこと……知ってるの?……知ってたのに……私のこと……嫌いじゃないの?
「まさか、三好さんが?」
「ま、まさか、そんなわけないでしょう」
顔を引きつらせる三好を、冷たい目で慶太が見る。
そんな目、初めて見た。
そんな冷たい目、初めて……
「そうですよねえ、議員さんに、そんな過去があったら、問題ですよね」
慶太のセリフに、あの人がニヤニヤと笑っている。
なるほど……ゆすってるのね、この男を……
娘の傷を、ゆすりのネタにするなんて……
もういいわ。もう……一瞬でも、あなたと歩み寄ろうとした私が、間違いだった。
やっぱり、来なきゃよかった。このまま、知らない間に、死んでくれていれば、よかった。
「帰る」
もう、居ても立ってもいられない。一刻も早く、この最低な人達から離れたい。
では、と立ち上がった慶太に、あのオンナが言った。
「慶太さん。入院代、お願いしますけえ」
「手続き、してますから。じゃあ、お母さん、お大事に」
「すんませんなぁ。真純、ええ旦那さんもろて、幸せじゃのぅ」
「もう、二度と顔を見ることはないわ。お金も送らないから」
精一杯だった。こういうしか、その時の私にはできなかった。
でも、目の前の母親は、憎たらしい目で、笑って、憎たらしい声で、言った。
「真純、あんたは、イヤでも私の娘じゃけえの」
涙を堪えて、病院を出た。
慶太の顔も見れない。
俯いたまま、私達は、病院の前で客待ちしていた、タクシーに乗って、駅へ向かう。
私達は、無言で、広島駅について、チケット売り場へ行った。
時間はまだ、お昼前。私の帰郷は、親子の涙のご対面は、ほんの数分で、終了した。
売り場の順番がくる直前、慶太が、私の耳元で、内緒話をするように、言った。
「寄り道、しようか」
「寄り道?」
「USJ、行かない?」
「……大阪?」
「行ったことないだろ? な、行こうよ」
考えてみたら、慶太と二人で旅行なんて、初めてかもしれない。
泊りがけで出かけることはあっても、何かの用事で、純粋に旅行って、したことない。
「仕事は?」
「いいよ、一日くらい。真純も、休めよ、もう一日」
別に、急務の仕事なんてないし……田山くんからの連絡もないってことは、問題もないってことよね。
「うん……」
「決まり! チケット、買ってくるね」
チケット売り場から戻ってきた慶太は、嬉しそうに私に、それを見せた。
新大阪行きのチケット。
大阪には、出張で何度か行ったことあるけど、プライベートじゃ、初めて。
「後、十分だよ、発車まで」
そう言って、慶太は、左手を差し出した。薬指には、カルティエのマリッジリング。
恐る恐る、差し出されたその手を握ると、彼はギュッと握り返して、そのまま私達は、手をつないで、ホームへ急いだ。
何度か、ヒールがひっかかって、転びそうになったけど、その度に、慶太が支えてくれた。
「急いで。走るよ」
二十二年前も、将吾と手をつないで、人でごった返す駅を走った。
途中で、スニーカーの紐がほどけて、躓いて、将吾が支えてくれたっけ……
逃げるように、私達は過去から逃げたくて、必死で、新幹線に乗って、東京へ行った。
何もかも、捨てた。何もかも……捨てるために、本当は……一人で、東京に、行きたかった。
「ここだ」
ホームは混んでたけど、やっぱりグリーンは空いてる。
「ちょっと、トイレ行って来るね」
薬が効いていて、お腹はもうあんまり痛くなかったけど、少し量が多くて、目眩がする。貧血っぽい。
やっぱり、帰った方が良かったかな……
「大阪までは、すぐだよ」
「そうだね」
「ついたら、たこ焼き、食べようか。お好み焼きもいいなあ。ああ、腹減ってきた!」
隣で、慶太は目をキラキラさせて、パソコンで検索してる。まるで、遠足の前の夜の子供みたい。
ねえ、慶太……あの母親、見たでしょう? あんな最低な人……あれが、私の、私の母親なの……
なのに、どうして、何も変わらないの? 怒ってないの? 私のこと、嫌いになってないの?
「お腹、大丈夫?」
「うん。薬、飲んだし」
聞けない。
怖くて、聞けない。
慶太の今の気持ち。
今、私のこと、どう思っているのか……変わらずに、いてくれてるのか……
私は、慶太の隣で、今まで感じたことのない気持ちを、慶太に感じている。
恐怖。
怖い。あなたの気持ち。あなたの存在。あなたが、私を見る目。私達の、関係。
これから、私達、どうなるの? 今までみたいに、恋人夫婦で、いられるの? ……いてくれるの?
取扱説明書
大阪に着いたのは、まだ三時前。
「ダブルしか空いてないみたいなんだけど、いいよね?」
「うん」
一緒に、寝てくれるんだ……
「セミスイート、とっちゃった」
「いいの?」
「たまには、いいじゃん。経費経費」
セミスイートの部屋からは、大阪の景色が一望できて、部屋の中もすごくオシャレで、座ると出たくなくなっちゃった。
「なあ、服、買いに行こうよ」
そっか。スーツでUSJってのも、変よね。靴も、ヒールだし。
「靴も買っていい?」
「うん。俺も買おうっと」
バッグに入れっぱなしだった携帯には、何件かメールが来ていて、ほとんど、田山くんからだった。心配してくれてるみたいで、大丈夫ですか、って、そればかり書いてある。
慶太がお風呂に入ってる間に、田山くんに電話をかけた。
なんとなく、慶太の前だと、田山くんとは話せない。
「ごめんね、明日もう一日、休む」
「お母さん、悪いんですか?」
「ううん……手続きとか、いろいろ手こずってて……」
ああ……また、嘘……
「そうですか。わかりました」
「問題、ないよね?」
その言葉に、彼は、口ごもった。
「何? 何かあったの?」
「実は……野島が……」
「野島くんが、どうしたの?」
「会社を訴えました」
「は?」
「昨日、夕方に、労基から調査員が来て……裁判になるみたいです」
「そんな……どうして連絡くれなかったの?」
「……あの……それが……」
私は、佐倉部長に戻っている。
「なんなの? 田山くん、何があったの? はっきり言って」
「今朝から、その、聞き取り調査が始まってて」
「聞き取り調査?」
「俺たちは、部長からのハラスメントはなかったと断言できますが……」
「な、何それ!」
「……人事部から、その……」
そういうこと。わかった。
「私に、責任を押し付ける気ね。誰?」
「おそらく、野島に裁判を持ちかけたのは、常務です」
やっぱり……あの話を断ったからよね。あの人なら、やりかねないわ。
「箝口令が敷かれてるのね」
「部長の休暇が……向こうにはタイミング良すぎたみたいです」
「向こう、とか、言わないの」
上司として、しっかりしないと。私は、強いの。こんなことで、負けないわ。田山くんに縋ってる場合じゃない。
「部長、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。こんなこと、過去に何度もあったから。心配しないで。余計なこと、しちゃダメよ」
「俺……」
「田山くん、私はそんなに弱くないのよ」
でも、本当はね……田山くん……キミは、わかってるんだよね……
私が、ただの、弱くて、意地っ張りで、嘘で固めた人間だってこと。
「……好きです。部長。せめて、一緒に働かせてください」
「うん……じゃあ、とりあえず、明日は休むから。何かあったら、すぐに連絡してね。ムリしないで」
電話をきると、いつの間にか、後ろに、慶太が立っていた。
「田山くん?」
「うん。明日、休むって連絡したの」
「何か、あったんじゃないの?」
「なんでもないの。大丈夫。私も、お風呂はいろっと」
軽く言ったつもり。なんでもないって、慶太には、言った。
会社のことだもん。慶太には、関係ないし、ハラスメントの嫌疑がかかってるなんて、カッコ悪くて、言えるわけない。
でも、彼は、私をお風呂へは行かせてくれなかった。
「田山には話せて、俺には言えないのか?」
……そんな怖い顔、するんだ……
「仕事のことよ」
俯いて、私は、そう言った。嘘じゃない。本当のこと。
なのに、慶太の顔が見れない。
「杉本のことは、仕方ないと思ってる」
……何、言ってるの?
「でも、田山のことは許さない」
「仕事の話をしてただけだよ」
「田山はお前に惚れてる。純粋に、お前のことを大事に思ってる」
「……田山くんとは、上司と部下の関係よ。それは今でも変わらないわ」
でも、それは嘘。
私と田山くんは……どうしたらいいの? 私、どうしたら……わかんない。こんなこと、初めてだから……
「話してくれよ、俺にも。真純のそんな顔、俺、もう見たくないから」
田山くんと、同じこと。慶太、あなたも、彼と同じことを言ってくれるのね。
「部下が……うつ病で休職してるんだけど……会社を訴えたみたいなの」
「前、言ってた子?」
「うん。なんか……ごめん、ほんとに……今は……考えたくないの……」
正直な気持ちだった。
いろんなことが、いっぱいありすぎて、私は、混乱していた。
「お風呂、入ってくる」
慶太の脇を抜けて、私はバスルームへ。ほんとに……生理のせいかな……何も考えたくない……疲れた……
慶太は、デスクで、ノートパソコンを開いて、お仕事してる。
邪魔しちゃ、悪いかな。でも、甘えたい……慶太に、ギュって、して欲しい。
「仕事?」
「いや、メールチェックしただけ」
ノートパソコンを閉じて、窓辺へ。
「夜景、見た?」
「うん。綺麗」
「カーテン、閉めるよ」
カーテンを閉めて、私の隣に座って、髪をまとめていたシュシュを外して、ほどけた髪を指に巻きつけた。
その顔は、もう怖くなくて、いつものように、優しくて、甘い、イケメンの慶太。
「さっき、ごめん」
「え?」
「田山くんのこと……こんな歳で、ヤキモチやいちゃった」
彼は、恥ずかしそうに笑った。
「何年か前に、真純の会社で、沖縄行っただろ?」
沖縄……ああ、行ったっけ。私が、一番、仕事しか見えなかった頃ね。田山くんがまだ、私のアシスタントやってくれてた頃。
「あの時にさ、あいつ、俺に言ったんだよ。部長は毎日、いろんなことを話してくれるって。隣で、一生懸命、昨日の出来事を話してくれるって。勝ち誇ったように言うんだよ。自分は毎日、部長と……真純と一緒に、仕事をしてますって」
「田山くんが、そんなことを?」
「好きなんだなって、思ったよ。純粋に、惚れてるんだなって」
そんな前から……全く、気づいてなかった。
「あの頃の俺たちは……冷えてただろ? だから俺、羨ましくってさ」
「羨ましい?」
「俺、真純のこと、ずっと好きだったから。片思いって、やつかな? 嫁さんに、片思いってのも、変な話か」
慶太は笑ったけど、私はまた、涙が……最近、おかしい。すぐに涙が出てくるの。泣くことなんて、滅多になかったのに。
「今も……好き?」
「あたりまえだろ」
「こんな私……あの母親の血が流れてるの……過去も……」
「そんなこと、どうだっていいんだよ」
「良くないよ! 良くない……こんな汚らわしい体……もう嫌……嫌なの!」
慶太は、優しく、私の髪を指で梳いて、唇で触れた。
「髪、キレイだね。肌も、スタイルも、キレイ。四十には、とても見えないよ」
「どうして?」
「何が?」
「どうして……昔から、わからなかった……どうして、将吾が私のこと、あんなに大切にしてくれるのか……田山くんも……どこがいいの? 慶太も、どうして? 私のどこが好きなの? 私なんて、なんにもないんだよ……こんな……」
こんな、つまらない、女……嘘で固めた、女。
「嫌いなの……」
「誰が?」
「……自分が……」
慶太が私の肩を抱いて、私は慶太に体をあずけて……慶太……かっこいいね……あなたは、ほんとにかっこいい。
イケメンで、スタイルもよくて、オシャレで、頭もよくて、お金持ちで……どうして、あなたのことだけを考えられないの?
こんなに、あなたは優しくて、素敵で、私を愛してくれてるのに……
「疲れたね。もう、寝ようか」
子供みたいに、泣きじゃくる私に布団をかけて、エアコン、寒くない? って聞いた。
「寒くない」
「真純は、寒がりだからさ」
まるで、小さな子を寝かせつせる父親みたいに、慶太は、肘まくらで、私の背中をトントンする。
昔、将吾がよく、こうしてくれたっけ……眠れない夜は、こうして、私が眠るまで……
ああ、また、将吾のことなんて、考えてる。
微かな慶太の香水の匂い。染み付いてるんだ、その匂い。
慶太……好きなの……ほんとに……
俺は、真純の寝顔を見ている。
目頭には涙が溜まっていて、反対側の目尻からは、涙が流れて、枕を濡らしている。
キレイだよ、真純。
お前はほんとに、キレイ。美人だよ。
なあ、真純。どうやったら、俺だけのものになる?
まだわからないよ。俺はお前が欲しい。ひとりじめしたいんだ。その顔も、声も、体も……心も。
真純は微かに寝息をたてて、眠っている。
ウエーブの長い髪が、涙で濡れて、頬に張り付いている。
俺は、そっと髪を拭って、目頭に溜まった涙を指ですくって、舐めてみた。
涙……しょっぱい……間違いなく、真純の体の中から出て来たんだ……
全部、全部俺のものにしたい。俺だけのものに。
俺は、異常な独占欲に囚われ始めている。
十五年前、真純を犯した時のように、自分をコントロールできなくなるような気がしていた。
ヤバイ……また、俺は真純を、傷つけてしまうかもしれない……
この手で、今度は本当に……
目が覚めると、時間は八時をまわっていた。真純はまだ、俺の胸の中で眠っている。
微かにあいた唇。長い睫。少しはだけた、バスローブ。
「真純……おはよう。朝だよ」
「ん……」
真純は赤ん坊のように、俺の胸に丸まって、まだ眠いって、目をこすった。
しょうがないな……もう少し、寝かせてやるか……
軽く頬にキスして、真純の体を抱きしめた。
涙が乾いた髪からは、甘い匂いがする。
同じシャンプーなのに、不思議だな。きっと、これが、真純の匂い、なんだ。
俺の胸に、真純の柔らかい胸があたる。若い頃より、少し小さくなったけど、それでもまだ、大きいよな。
細いウエストに、上がったケツ。真純は、四十には思えないいい体で、相変わらず俺は、朝から欲情している。
寝ぼけたまま、俺のキスを受けて、真純はダメって、つぶやいた。多分、俺が太ももに、押し付けたから。
ああ、そうか……生理だって言ってたな……
「キスだけなら、いい?」
「うん……」
キスだけで、終わる自信はないけど、でも、俺は真純の唇を貪って、首筋に舌を這わせて、胸元へ……
マシュマロみたいに柔らかい胸の谷間に顔を埋めると、暑いのか、汗が溜まっていて、舐めてみると、やっぱりしょっぱい。
「くすぐったいよ」
真純はクスクス笑って、目を開けた。
完璧なメイクの真純は、人形みたいにキレイだけど、すっぴんの真純は、やっぱり門田真純の面影があって、どことなく、聡子さんに似ていて、俺は、どっちの真純も好きで、愛おしい。
「やっぱりさ、胸の谷間って、暑いの?」
「どうして?」
「汗、かいてるから」
「脇の下に汗かくようなもんかな?」
なるほど。素直に納得。
「脇の下も汗かいてるかな?」
俺は真純の腕を上げさせて、脇の下を舐めてみた。真純はキャハハって笑って、くすぐったそうに、寝返りをうった。
「ちょっと汗かいてた」
「もう、変なの!」
うん、なんか、変だな、俺。どうしたんだろう。
「シャワー浴びてくるね」
「一緒にしよう」
「ダメ。生理だもん」
「……血が出る?」
「うん」
「見てみたい」
「えっ! ダメだよ!」
「どうしても?」
「当たり前じゃん! 恥ずかしいよ!」
そうなんだ……恥ずかしいんだ。
真純は、変なのって、笑いながら風呂へ行った。
しばらくして、シャワーの音が聞こえてきた。
一緒に入りたかったな……
て、何、ガキみたいなこと言ってんだ、俺。
ふと、携帯のバイブの音がした。俺の携帯かと思ったけど、震えているのは真純の携帯だった。
何度かコールして、相手は諦めたのか、一旦切れたけど、もう一度、かかってきた。
急ぎの用件かもしれない。誰からだろう。
俺は真純の携帯をバッグから出して、着信の相手を見た。
画面には、田山携帯、って書いてある。
田山……昔から、あいつだけは、好きになれない。
俺は、無意識のうちに、電話に出ていた。
「おはようございます、田山です。どうですか? 大丈夫ですか?」
大丈夫? お前が心配する必要はないよ。
「部長?……話しにくいですか?」
どういう意味だよ。お前は、真純にとって、部下でしかない!
「田山くん、久しぶりだね」
ふん、電話の向こうの田山の顔が目に浮かぶ。
「……あ、ご主人……ですか……ご無沙汰しております」
「真純、今、シャワー浴びてるんだよ。急用?」
「シャワー……そうですか……いえ、急用ではありません。部長に元気がなかったので、気になって電話しました」
「そうなんだ。心配してくれてありがとう。でも、俺がついてるから」
そう、俺がついてるんだよ。お前になんか心配してもらわなくても、俺が真純を守ってる。
「そうですか。なら、安心です。なんだか、部長、お母さんのことで、追い込まれてたみたいだったから」
こいつ……!
田山は挑発的な発言を、スラスラと続ける。
「僕は毎日、部長のそばにいますからね。少しの様子の変化でもすぐにわかるんですよ」
うう、考えてみれば、俺なんかより、ずっと長い時間、こいつは真純と一緒にいるよな。俺は帰れない日もあるし、休みのない週もある。
「そう、頼りになる部下がいて、真純も安心だな。よろしく頼むよ、部下として、真純を支えてやってくれ」
「部下として、ですか」
「それ以外に、何かあるの?」
「佐倉さん、俺は……」
田山が言いかけた瞬間、風呂から真純が出てきて、自分の携帯を持つ俺に、驚いている。
「誰?」
「田山くんだよ。……ああ、田山くん、真純、今上がってきたから、代わるね」
「田山くん?……ああ、おはよう。え?……うん……そう、ありがとう。大丈夫だから、心配しないで。……明日からはちゃんと会社行くから。……うん、じゃあ、何かあったら…………うん……じゃあね」
真純は居心地が悪そうに、電話をきった。最後の、長い沈黙。俺はそれが気になる。
「心配なんだって、真純のこと」
「かれ、優しいから、ああ見えて」
「田山くんのこと、わかってるんだ」
明らかな、嫉妬。
俺よりも、長い時間、同志として働いてきた二人。もしかしたら、田山は、杉本以上の、強敵なのかもしれない。
田山は、無条件に真純を慕い、支え、信頼し、愛してる。真純は、どうなんだろう。田山のこと、どう思ってるんだろう。本当に、部下としての感情だけなんだろうか。男として、田山を見ていないんだろうか。
「もう、長い付き合いだから」
真純は俯いて、呟くように言った。声が震えている。
「長い付き合い?」
その真純に、俺の感情がついていかない。
「……怒ってるの?」
怒ってる? 怒ってなんかない。ただ、俺は……お前をひとりじめしたいだけなんだよ。
「長い付き合いって、なんだよ」
「慶太……どうしたの?」
その、捨て猫のような目……そんな目で、俺を見るな。そんな怯えた目で、俺を見ないでくれ。
「長い付き合いって、どういうことだよ! 言えよ!」
俺は、真純の腕を掴んで、ベッドに押し倒していた。そして……
「く……苦しい……」
気がつくと、俺の手が、真純の首に……
「ご、ごめん……」
慌てて手を離すと、真純が赤くなった首を押さえて、起き上がった。
「ごめん、真純」
「ううん、いいの。私が悪いの」
真純は大きく息をして、俺に向き直った。
「田山くんね、私のこと、好きって言ってくれるの。でも、慶太に敵わないのはわかってるって。だから、せめて、一緒に働きたいって、言ってくれるの」
「真純は、田山くんのこと、どう思ってるの」
「信頼できる部下で、同志で、優秀な社員だと思ってる」
「それだけ?」
「うん。でも、私、田山くんの気持ちに甘えてしまって……」
「どういう、こと?」
「なんか、逃げ場っていうか……かれの気持ちを知ってて、そんなの、ダメだよね……田山くんね、私のこと、百パーセント、受け止めてくれるの。今回のことも……嫌なら会いに行く必要ないって、言ってくれた。私もね、常識なら、会うべきだって、わかってるの。でも、どうしても……」
そうか……そうなんだ……
真純は……常識とか、そういうことじゃないんだ。
わかってるんだよな。真純は、頭がいいから、全部わかってる。頭でわかってても、心がついていかない。
杉本が言ってたな。本当は、素直で、かわいいやつだって。
素直すぎるから、心が、ついていかない。だから、心を殺してしまう。
俺は、それを受け止めてやらないといけないんだ。わかってやらないと。
俺にはそれができなかった。でも、杉本や田山は、それができる。
甘えられない。
真純がそう言ったのは、きっと、俺のこういうところなんだ。
「俺は……その真純の気持ちを受け止めてやれなかったね……」
「ううん、私が、甘えてるだけなの。居心地をよくしてくれるの、田山くん。会社でも、すごく私をたててくれて、かれの方が優秀なのに。かれのおかげで、私は部長をやれてる。……こうやって、慶太への気持ちに気づかせてくれたのも、かれなの。ほんと、ひどいよね、私……」
なのに、俺はまた、こんなことを言ってしまう。
「田山くんは、真純のこと、本気だよ」
「……かれには、もうしわけないけど……恋愛じゃない……」
それは、きっと真純の本心で、そんなことを言わせる俺は、我ながら、残酷だよな……
「真純、俺……真純のこと、ひとりじめしたい」
「私は、慶太だけのものだよ」
「杉本のこと……好きなんだろう、まだ……」
いいって言ったけど……好きでいいって、俺、言ったのに。やっぱり、イヤなんだよ。真純、俺、やっぱり、お前には俺だけを愛してほしいんだ。
「好き、なのかな……わかんない……ただ、思い出しちゃうの……慶太と思い出ができるたびに、こんなこと、昔あったなって……ごめんなさい……」
真純は、悲しそうに俯いて、バスローブの袖で、目元を拭った。
その姿は、まるで幼い少女みたいで、抱きしめるのも躊躇するくらい、純粋だった。
だから、俺は、こう言うしかなかった。
「いいんだよ」
「よくないよ……」
どうしたら、いいんだろう。
無理矢理に、真純を俺の所へ引きずってくればいいのか?
それとも、真純を黙って、見守ってやればいいのか?
わからない。
誰か、教えてくれよ……誰か俺に、教えてくれ……俺……つらいんだよ……
「私のこと……好き?」
「好きだよ」
「どうして?」
どうして……どうしてなんだろう。昨日も聞かれたけど、そんなの、わかんないよ。
「真純だから」
バスローブの裾の合わせ目から、真純の細い太ももが、白く光る。
そっと撫でると、真純は体を寄せて、キスを待つ。
「愛してる」
俺達は、ベッドの上でキスを交わして、悲しみと、嫉妬と、愛情を、わけ合った。
「私も、慶太のこと、愛してる」
そうなんだよ。愛し合ってる。俺達は、こんなに深く、愛し合ってる。
なのに、なぜこんなに、悲しいんだろう。
なぜ俺は、真純を幸せにしてやれないんだろう。
俺の何が足りないんだ。
俺の何が……悪いんだろう……
***
「悪いな、呼び出して」
「かわまわんよ。真純の母ちゃん、どうや」
「週末にも、退院するみたいだよ」
「そうか。まあ、よかった、ようなって」
そのセリフは、常識で、俺たちの本心ではない。
だけど、俺たちは、そう言うしか、できない。
「で、真純のことか?」
「……わかるんだ」
「お前が俺に話しなんや、真純のことしかないじゃろ」
杉本はタバコに火をつけて、ビールを飲んだ。
「車じゃないの?」
「一日、運転しとるんや。仕事以外では極力乗りたない」
杉本は笑った。
その笑顔は、優しくて、逞しくて、頼りがいがあって、男の俺でも、ちょっと惚れてしまいそうな、相変わらずの男っぷり。
「真純と……兄妹って、本当なのか?」
「わからんなぁ」
「お前はさ……どうなんだよ」
「どうって?」
「真純と、兄妹の方がいいのか、それとも……」
「今となったら、どっちでもええ」
「今となったら?」
「……昔はな、真純のこと諦めるのに、必死やった。だから、兄妹なら、もうどうしようもない、これで良かったって、思えたから」
杉本、お前は……強いんだな……
「でも、今はな。聡子もおって、子供もできて」
「真純のこと、もう、完全に……」
「当たり前やろ」
本当か? お前、本当にもう、忘れられたのか?
「なあ、佐倉。子供の存在はな、でかいんや」
「子供……」
「正直、聡子と一緒になっても、真純のこと、思い出さん日はなかった。もし、子供がおらんかったら、俺は聡子を捨てたかもしれん」
「それは……真純?」
「そうやな。二十歳まで、俺は真純だけを見て生きてきた。真純のためやったら、なんでもできたし、死ぬのも怖くなかった。あいつが東京行く言い出しだ時も、俺は広島から出ることに迷いはなかった。東京行って、稼いで、真純と一緒になって、子供作って、あいつが子供ん頃、味わえんかった、家族の幸せを、何が何でもつくってやろうってな」
そうなんだよ……俺は、知ってたよ。
お前が、本気で真純のことを愛してて、本気で真純のことを守ってることを……
「そやけど、東京の男には、勝てんかったな」
杉本は嫌味を少し含んで、でも、カラッと笑った。
なんて、度量のでかい男なんだろう……それに比べて、俺は……
「ごめんな……」
「まあ、恨んだで、お前のこと。そやけど、真純が選んだ男や。真純が幸せになるんやったら、それでええって、俺は思った」
俺は、初めて、杉本に本当のことを言う決心をした。
「本当は、俺達、ずっと冷えてたんだよ」
「ずっと?」
「ああ。もう、二十年。付き合い初めてから、ずっとな。俺達は、上辺だけで……お互い、分かり合えずにいた」
「そう……やったんか」
「お前んとこ、行っただろ。十五年くらい前に。あの時な、もう別れるつもりで、お前に謝りに行ったんだよ」
「俺に?」
「そう。約束、しただろ? 幸せにするって。約束、守れなくて悪かったって、言うつもりだった」
「佐倉……」
「だけど、言えなかった。お前には聡子さんがいて、俺と真純の結婚を喜んでくれて……言えなかった、どうしても……」
俺達は何も言えなくなった。
お互いに、過去に思いを巡らせて、もう戻れない月日を、ぼんやり数えている。
「二十年か……」
「だけど、俺、本当に、真純のこと愛してるんだよ」
「そうか」
「……真純は、お前のことを思い出してる」
その言葉に、杉本は驚いた目をした。
「今更?」
「お前のタクシーに乗っただろ?」
「ああ。正直、あん時の真純は……」
「辛い思いをさせてた」
「気づかん振りを通すつもりじゃったけど、できんかった。……ガキの頃な、あいつ、母親に殴られるの、黙って耐えるんや。耐えて、耐えて、泣きもせずに、黙って耐えて、母親の気が済むまで、じっとな。母親の折檻から解放されたら、ほっとした目で、俺のとこ来て、与えられた小銭握りしめて、駄菓子を買いに行こうゆうんや。俺にも買ってやるって。それ、あいつの晩飯やのに……真純はな、そういう女なんや。黙って、ひたすら耐えて、自分の辛さを隠して、見栄を張る。つまらん見栄をな。あの日も、同じ真純がおった。冷えた目をしてた。ガキの頃とおんなじ目で、支払いに、一万円札出して、釣りはええってゆうた。駄菓子買う時とおんなじやった。そやから、俺……真純のこと、ほっとけんかった……」
杉本は、真純のことを知っている。
田山も、真純のことを知ってる。
俺だけが、真純を知らない。
ただ、好きなだけで、俺は、真純のことを、何一つ知らない。
「余計なことかもしれんけどな……真純は、愛されんと育ったからか、他人を大切に思う気持ちとか、好きだとか嫌いだとか、そういう感情が、欠けとった。友達もおらんかったし、嫌われとったな。……いじめにも、おうとった」
今の真純からは、考えられない。
でも、思い当たるところはある。
杉本に別れを告げに行ったあの日、真純は、まるで何か、ノルマをこなすように、淡々としていた。
俺に対しても、ずっと、優しさとか、思いやりとか……あの夜までは、感じられなかった。
「コミュニケーションが取りづらいっていうか、会話が成立せんこともあったなあ。かわいそうやった。別に、そうなりとうてなったわけやないのにな」
杉本は、遠い目で、自分の煙を追った。
真純が、どんな少女時代を送っていたのか、俺には想像できない。
だって俺は、ずっと裕福で、頭も良くて、何もしなくても、いつもクラスの中心にいた。
友達も多かったし、女の子にはもてたし、先生にも可愛がられて、何の不満もなく、何の不自由もなく、少年時代を過ごしてきた。
「そんな真純に、なんで……惚れたの?」
「なんでかなぁ。なんていうか……俺のものにしたかった、かな」
それ……俺と、同じ……
「俺だけのものにして、俺が守ってやりたかった」
独占欲。支配欲。真純は、それを掻き立てる何かがある。
「こんなこと、ゆうたらあかんのかもしれんけどな……初めて、真純と……」
「うん」
「あの時から、本気で、真純のこと離したくなくなった。まだガキやったけど、死ぬほど、真純に……夢中やったな」
その時の杉本は、今の俺。
今の俺は、死ぬほど真純が好きで、夢中になっている。
「どうして、好きなのかって聞くんだよ」
「自分に、自信がないんやろ」
「それがわからないんだよ。あんなに、その、美人だし、仕事もできて、部下からも信頼あるんだよ。社交的で、どこに連れて行っても、評判よくて……」
俺のその言葉に、杉本は、ふうっと、ため息をついた。
「それは、真純が憧れてた真純やな」
「憧れてた?」
「あいつは、いっつも教室で一人でぽつんと座ってな。お前みたいな、人気者の子を、羨ましそうに見とった。子供にはどうしようもないことで、そうはなれんことを、真純はわかっとった」
「どうしようもないことって……金ってこと?」
「まあ、そうやな。真純は、ほんまに、酷かったからな。金以前の問題やったけど、子供にはどうしようもない」
俺は、過去の二人に嫉妬していた。
俺には、敵わない。この二人の過去を、俺が消し去ることは、できない。
「真純は、子供のまんまなんや」
「え……」
「愛されたい、甘えたい、叱って欲しい、遊んで欲しい……あいつは、今でも、小さな子供のまま。自分の子供見てたら、ようわかる。本当なら、子供のころ満たされるはずだった欲求が、今でも満たされずにおるんやろ」
そうか……だから、なのか。時々、俺は恋愛感情じゃなく、真純を見ている時がある。
親……親の感情……なのかな……
「俺さ……どうすればいいか、わからないんだよ……」
「愛してやれよ」
「愛してるけど、真純には、伝わらない」
「伝わっとるやろ」
「何回も、聞かないと不安だって……好きかどうか、何回も、聞くんだよ、真純」
「鬱陶しいか?」
「そうじゃないよ。ただ、なんでなのかなって……」
「寂しいんちゃうかな。あいつは、いつまでも、寂しい。いつまでも、不安なんや」
これ以上、真純の取扱説明書を聞くことは、もう、堪えれそうにない。
聞けば聞くほど、自分の無力さや、鈍感さや、弱さが、俺に襲いかかってくる。
「受けとめてやってくれ。過去も、今も、未来も、全部な」
杉本はそう言って、せつなく、微笑んだ。
だけど、杉本。俺さ……お前みたいに強くないんだよ。
俺、俺……自分がうまくそうできないから、おかしいんだよ。
「杉本、実は……ひかないで、聞いてくれるか」
「なんでも、ゆうてくれよ」
「うん……俺さ……自分が、わからなくなるんだ」
「どういうことや」
杉本は、身を乗り出して、真剣に聞いてくれてる。
「真純を……なんていうか……支配したいっていうか……全部、俺だけのものにしたいんだよ……」
「惚れた相手やったら、普通のことやろ」
「うん……でも、真純は……俺だけを、その、見てないっていうか……お前のこととか、他の男のこととか……」
「他の男?」
「真純の部下でね……真純に惚れてるヤツがいるんだ」
「そうか……」
杉本はため息をついて、ごめんって頭を下げた。
「いや、違うんだ。責めてるわけじゃなくて……真純は、俺以外の男のことを考えてしまうことを、大罪のように思ってて……つらそうなんだよ……その真純を見てると、なんか、その……俺の無力さが……あせってしまって……」
どうしよう……ここまで言ったし……
「……暴力的に、なって……」
「暴力?」
「き、気がつくと、この前も、いつの間にか……首を締めてて……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。佐倉、お前、真純に暴力ふるってんのか?」
「……昔、殴ったことが……その、無理矢理……真純を傷つけたことが……でも、その時は、冷えてて、単純にストレスが溜まってて……でも、今は違うんだよ。セックスがしたいとか、そんなんじゃなくて……普段は、そんなことないんだけど、その、他の男の影がみえると、どうしても、抑えられなくなるんだ……」
「真純は、どうしとるんや」
「我に返って、謝ったら……謝るんだけど、私が悪いからって……」
杉本は、動揺して、新しいタバコに火をようとしたけど、なかなか火がつかなくて、イライラしたように、そのまま灰皿へ投げ入れた。
「それに……なんか……性癖っていうか……」
「性癖?」
「今まで、その……そんなこと、なかったんだけど……」
もうここまで言ったんだから、最後まで言ってしまおう。
「真純の、全部が欲しいんだよ……」
「どういう、意味や」
「カラダだけじゃなくて、なんていうか……汗とか……血とか……」
「血……まさか……アレもか……」
ああ、恥ずかしい。俺、ただの変態じゃねえか!
「そうなるんじゃないかって、怖いんだよ……おかしいよな、俺……おかしいんだよ、絶対……」
「夜は……あるのか?」
「うん。あるよ。満足してる」
「最中に、首を締めたりとかは……」
「そういうのはないんだよ。ほんとに、暴力的になるのは、自分がわからなくなる時で……」
「そうか……」
杉本は、呟くように言って、押し黙った。
そうだよな……こんな話、どうしたらいいかわからないよな……
「ごめん……こんな話して……」
「いや……ええんや。思ってること、全部ゆうてくれ」
ありがとう、杉本……お前がいてくれて、本当に俺、よかったよ。
「怖いんだよ……もしかしたら、俺は真純を……この手で、殺してしまうんじゃないかって……」
「こ、殺……そこまで、なのか?」
「このままだと……そうなるかもしれない……病気かな……」
泣きそうだ。
情けねえな、俺……こんなんだから、真純を幸せにしてやれないんだよな……
だけど杉本は、優しく笑って、まるで親父みたいな、顔をした。
「佐倉、俺は親になって、子供ってのは、ほんとに思い通りにならないって思った。親として、一生懸命子供を愛してもな、子供には伝わらないし、愛されてないって、そんなことばっかり言いよる。可愛くても、いや、可愛過ぎて、手を上げてしまうこともある……真純は、外見は大人やけど、中身は子供やからな……」
「俺、どうしたらいいんだろう……」
「正直に、ゆうたらどうや」
「なんて?」
「俺にゆうたみたいに、わからんくなるって」
「そんなこと、言えないよ」
「夫婦やろ」
「そうだけど……」
「真純はな、言葉にしてやらんと、わからんのじゃ」
隣の杉本は、俺をじっと見た。
いや、違う。
俺を見てるんじゃない。杉本は、俺の向こうにいる、真純を見ている。その目は、真純を、探している。
俺は、確信した。
杉本はまだ、真純を愛してる。それは、許されない。杉本には、家族がいて、真純には俺がいる。
もし、そのタガがはずれたら、この二人は、どうなるんだろう。
あの夜みたいに、襖の向こうの二人みたいに、愛し合うんだろうか。
もし俺が真純を抱きしめる手を緩めたら、真純は、杉本のところに行って、杉本は、真純を受け止めるんだろうか。
全部、俺にかかってる。
それはきっと、二十年前、この罪のない、純粋な男から、大切な女を奪った罰で、本当は幸せになるはずだった女の二十年を奪った贖罪で、俺が罪を償わなければ、全てが、失われてしまう。
俺はまた、杉本から、いや、もっとたくさんの人間から、当たり前の幸せを奪ってしまう。
それに、俺というタガがなくなったら、杉本も、自信がないんだろう。
杉本は、真純を一人にはできない。
きっと、別れてからも、真純のことを気にしてたんだろう。心配してたんだろう……あのタクシーで偶然再会するまで、杉本は、真純を忘れたことはなかった。
でも、それは出さない。理性で、杉本は、それを、抑え込んでいる。必死で、隠している。
父親になった、同い年の隣の男は俺よりずっと大人の顔をしていて、やっぱり俺は、杉本に負けていた。
「ありがとう、杉本」
「そんな、礼なんかいらん」
「送るよ」
「遠なるやろ」
「それくらい、させてくれよ」
俺は伝票と一万円札を店員に渡した。
「割り勘やろ」
「いいって。会社の経費にするから」
「そうか。じゃあ、今日はご馳走になるわ」
杉本の家は郊外の都営住宅で、子供がもう少し大きくなったら引っ越すつもりだと言った。
「ああ、そうだ、忘れてた。これ、土産。子供達にさ」
「USJ? 大阪行ったんか?」
「初めてなんだ。真純と、観光旅行したの」
「そうか。喜ぶわ。ありがとう」
「それと、なんか買ってやりなよ」
土産と一緒に、俺は、三万円を渡した。
「ええって」
「いいじゃん、前にキャンプした時さ、なんか子供ができたみたいで楽しかったんだよ。な、子供達に、だからさ」
それは別に嫌味でもなく、本心で、俺はなんだか、杉本の子供達をすごく身近に感じていて、何かしてあげたいって、それだけだった。
「そうか。じゃあ、ありがたくもうとくで」
そういって、杉本は渋々、それを土産の袋に入れてくれた。
ああ、そうだ。あの朝も、こうだったな。でも、あの時は、完全に『嫌味』だったけど、今はほんとに、違うんだぜ、杉本。
「今度、飯でも食いに来てくれや」
「ああ、ぜひ。聡子さんによろしくね」
杉本は昔みたいに軽く手を上げて、マンションに入って行った。
家に帰ったら、聡子さんと子供達が出迎えてくれるんだろうな。
もし、子供がいたら、俺達はどうなってたんだろう。もっと、違った生活をしてたのかな……
「ただいま」
「おかえりなさい」
でも、俺にも今は、こうやって出迎えてくれる真純がいる。
「渡してくれた? お土産」
「うん。ありがとうって」
テーブルの上には、真純の食べかけのサンドウィッチと、インスタントのスープ。
「それ、晩飯?」
真純はうん、と頷いて、テーブルの上を片付けた。簡単な食事。真純が一人の時は、こんな食事ばかりなことを、俺は知っている。だけど、家で二人で食事をすることなんて、滅多にない。お互い、外の付き合いがあるし、仕事もある。
でも、もし、真純が専業主婦なら、どうだろう。俺は学生の頃みたいに、食べに帰るかもしれない。二人で、テーブルを囲んで、あの頃は偽りだったかもしれないけど、今ならきっと、本当に、笑顔で食事ができる。
真純は、お気に入りなのか、その白い花柄のワンピースをよく着ている。タオル地で、ふわふわして、真純の細いカラダが、よけいに細く見える。
「そのワンピース、かわいいね」
「これ? ずっと前から着てるよ」
「前から思ってた」
抱き寄せた真純の髪からは、シャンプーの香りがして、その場で押し倒してしまいそうなくらい、一気に欲情してしまう。
「風呂、入ってくる」
風呂から上がると、真純はソファで、ビールを飲みながら、ぼんやりと、スマホを見ている。
真純はあまり、酒が強くない。
「珍しいね」
「うん……」
真純は何か言いたげに、口籠った。
「俺も飲もうかな」
軽く缶を合わせて、真純は俺の肩にもたれて、USJで撮った写真と動画を見ながら、ぼんやりと言った。
「楽しかったね」
スマホの中で、エルモとクッキーモンスターのTシャツを着た、俺と真純が笑っている。急いで服買ったけど、結局、中でTシャツとか色々買ってしまって、年甲斐もなく、結構はじけてしまった。
「また行こうな。あ、今度、ディズニー行こうよ。泊まりがけで、休み合わせてさ」
そうだね、と呟いて、真純は、ずっとスマホを見ている。時々ため息をつきながら、ぼんやりと……どうしたんだろう。元気、ないよな。
「なんか、あった?」
「……うん」
「仕事?」
俺のその質問に、真純は答えず、空になった缶を軽くつぶして、二本目のビールを、冷蔵庫に取りに行った。
本当に珍しい。ビールなんて、普段、飲まないのに。
少し離れて座って、二本目の缶をあけて、一口飲んで、思い切ったように、口を開いた。
「明日から、しばらくお休みなの」
「えっ? なんで?」
「訴えた部下がね……セクハラがあったって……」
「セ、セクハラ?」
「私から、セクハラを受けたって」
「なんだよ、それ!」
「確かにね……男だったら、みたいなこと言ったの。それがダメだったみたい」
「そんなこと、普通に言うだろう」
「今はダメなのよ、そういうこと言うと」
ふっと笑って、真純は淡々と続ける。
「異動になるの」
「異動? どうして」
「今回のことが、マスコミに流れて、企業イメージに傷がついたって。それに、その子の復職の条件が、私が管理職から外れることなの。それが、ご家族からの要望」
「本人は、何て言ってるの」
「うつ病だから、正常な判断はできないそうよ。本人の意思は、不明なまま。でも、もし本当に裁判にでもなって、ブラック企業の烙印でも押されたら、もう取り返しがつかない」
ふと見た横顔は、冷たい、横顔。真純は、じっと前を見て、佐倉部長の目で、唇を噛み締めて、何かを、必死で隠している。
「私の行く末は、総務部課長か、名古屋支店の企画部長か。もう後任も決まってるの。私の上司だった人でね。私の抜擢人事で、名古屋に出向になった人。ざまあみろって顔で、私を笑ったわ。散らばってた取り巻きも集めて、完全な追い出しにかかってる」
「どうする気なの」
真純は、強い目で俺を見た。まるで、睨みつけるように、強い目。会社での、佐倉部長は、こうして闘ってきたんだ。若くて、美人で、女の、佐倉真純は、こうして、男社会で、一人で闘ってきた。
「このままじゃ、終わらせないわ。絶対に、企画部に戻ってみせる。こんなこと、許さないわ」
ふと見ると、ゴミ箱の中に、丸めたティッシュが何枚も入っている。酒のせいかと思ったけど、目も少し腫れている。
きっと、俺が帰って来るまで、泣いてたんだろう。悔しくて、泣いてたんだ。
見栄をはる。
まさしく、今の真純は、そうだった。理不尽な仕打ちに耐え、傷つき、また、心を閉ざすことで、乗り越えようとしている。
「本社に残って、挽回してみせる」
「辞めなよ、もう」
「このまま辞めたら、負けたことになるわ! 負けない。こんなことくらい、どうってことない!」
真純……いいんだよ、負けても……いや、負けてなんかないんだよ。お前は、誰と闘ってるんだ? お前は、誰に負けたくないんだよ。
「誰に、負けるの?」
「そ、それは……会社とか……」
「そんなの、もういいじゃん。真純の部下の子達は、セクハラなんかしてないって、みんなわかってるだろ?」
「そうだけど……」
「それじゃ、ダメなのか? そもそも、そんなことで真純を左遷するような会社、俺はもうダメだと思うよ。真純は今まで、会社のために、下の子達のために、自分のために頑張ってきた。それはみんな知ってる。それでいいじゃないか」
もう、お前のそんな顔、見たくないんだよ、俺は……
楽に、してくれよ。な、真純。もう、いいから。俺、お前の笑った顔、好きなんだ。なあ、真純……笑っててくれよ。
「……すぐには、答え出ない」
「ゆっくり考えなよ。家でゆっくりしてさ」
受けとめられたかな。なあ、杉本、これで、俺、正解か?
「私……セクハラなんてしてないのに……私……部下の子達のこと、真剣に考えてきたのに……」
三角座りの真純は、泣いている。
悔し泣き。見栄なんか、はらなくていいんだよ。俺には、そんな見栄、いらないから。
「負けたくないの……」
そうなんだ……真純は、負けたくないんだ。ずっと虐げられて生きてきたから、誰にも、負けたくないんだ。
「……今のポジションも……『女』を武器にしたんじゃないかって……ずっと言われ続けてきた。私、どんなにがんばっても、そんな風にずっと見られてきた。違うのに。私は実力で、今のポジションを勝ち取ったのに。年功序列も、性別も関係なく、私……」
「そんなこと、わかってるから。みんな、わかってるよ」
「今日ね……ご家族が弁護士と会社に来て……謝れって。だからね、謝ったの。もうしわけありませんでしたって……靴も脱いで、そうすれば、裁判はしないっていうからね、私ね……」
俺はもう、それ以上、聞けなかった。真純は拳を握りしめて、わなわなと震えて、ただ、ただ、泣いている。
「つらかったね」
硬い拳をそっと握ると、真純は、俺の胸に飛び込んで、声をあげて、泣き始めた。
初めて見る、真純の姿。
「その子ね……慕ってくれてた。気が弱くてね、でも、仕事ができないわけじゃなかった。もっと強くなってくれれば、きっと結果を残せるような子だったの。厳しくしすぎたのかもしれない。でも、かれも一生懸命だったの。田山くんの部屋から見送ったときね、握手してくださいって。だからね、握手したの。嬉しそうに笑って……いい子なの。本当に……」
「その訴えた子も、何か理由があるんだよ」
「常務が、訴えるようにご家族に話したらしいの」
「常務って、あの、独立するとか言ってた……」
「断ったから、腹癒せよね。田山くんも、部下の子たちも、人事に抵抗してくれたんだけど……これ以上やるとね……もう、私、居場所がないの……会社に……」
「真純……」
「がんばったの、私。必死に勉強して、必死に働いて、必死に売上げ上げて、がんばったの。なのに……こんな仕打ち……」
「真純は、よくがんばった」
そうしか言えなかった。
冷えてたけど、俺は知ってた。真純が必死だったこと。夜も休みもなく、必死で仕事してた。
「……慶太……私、これからどうしよう……」
「好きなようにしていいんだよ。生活費は、俺が稼ぐからさ。金の心配はしなくていいから。真純は、好きなことをすればいい」
「好きなこと……私ね……何もないの……仕事以外に、何も……」
ああ、そうだったな……いつか、部屋に入った時、真純の部屋には、仕事以外のものは、何もなかった。それくらい真純は、仕事にうちこんでいて……頑張ってきた。
なんて言ってやればいいんだろう。今の真純に、どうしてやれる?
「ずっと、仕事だけだったの」
真純の好きなこと……真純が、得意なこと……仕事にうちこみ始める前は……
もう二十年前のことだけど、空白の時間を飛び越えて、俺は真純と付き合い始めた頃のことを、鮮明に思い出していた。
「俺、真純の料理、好きだよ。昔はよく、作ってくれたじゃん。ほら、オーブン買ったの、覚えてる? 真純が新しいオーブンが欲しいって言ってさ。二人で買いに行ったよな」
「そう……だったね……」
でも、真純は、あまり思い出したくないのか、そのまま黙ってしまった。
ああ、やっぱり俺は、うまくできない。せっかく真純が、本当の真純を見せ始めたのに……
二本目のビールが空いた頃、真純はソファで、うとうとし始めた。
「ベッドで寝ないと」
「うん……」
ほら、ビールなんて飲めないくせに。無理するから。
真純を抱えて、ベッドに寝かせると、そのまま眠ってしまった。
俺は子供のように眠る、少し赤くなった、その体を抱きしめた。
かわいい……ほんとに、真純はかわいい。真純は本当に、四十なんだろうか。
時々、真純が幼い少女に見える時がある。
頬に軽く唇を当てると、真純はうん……、と言って、寝返りをうった。
「離さない」
俺は呟いて、真純の背中を抱きしめた。
絶対に、離さない。他の男に真純を渡すくらいなら、この手で……
お前を殺して、俺も死ぬよ。
パンドラのハコ
休み始めて一週間。私は、まだ気持ちの整理がつかずにいた。
もう、辞めるしか、ない。それはわかってる。
でも、このまま、辞めたら……この十八年間の私の努力は、どうなってしまうの。
朝食の後片付けをして、リビングで、ぼんやりしていると、携帯が鳴った。
「部長……どう、ですか……」
「田山くん。ダメだよ、私に電話なんかしちゃ」
車の中からかけてるのか、カーラジオの声が、微かに聴こえる。
「……会えませんか」
「ダメだって」
「今、部長のお宅の近くにいるんです」
窓の下を見下ろすと、少し離れたところに、ハザードをつけた、白い車がいた。
田山くん……キミ……本当に、私のこと、心配してくれるんだね。
「十分くらい、待って。準備するから」
軽くメイクをして、Tシャツにスキニーで、車の窓をノックした。
「お待たせ」
私を助手席に乗せて、田山くんは、黙って車を出した。
「無理言って、すみません」
「ううん」
「お元気そうで、安心しました」
「……みんな、どうしてる?」
「覇気はないですね。ダラけてるっていうか……こんな会社のために働くのはって、就活始めたやつもいます」
「そう……」
「今回のことは、みんな不満なんです。部長に育ててもらって、ほんとに、部長のこと、尊敬して、慕ってますから……」
昔、子供の頃、クラスの中心的存在の子が、ほんとに羨ましかった。
『存在感』
私にはないもの。私には許されなかったもの。私はずっと、それが、欲しかった。
そう、お金なんかより、ステータスなんかより、ブランドのバッグより、何より、欲しかったのは、それだったのかも、しれない。
私達は、少し大きな公園へ。真夏の昼間の公園は、暑いせいか、誰もいなくて、木陰は解放的で、心地いい。
ベンチに座っていると、夏の風が吹き抜ける。ずっと家の中にいたから、すごく気持ちいい。
「どうぞ」
田山くんが持ってきてくれた缶コーヒーを二人であけて、私達は、しばらく無言で、風に揺れる木の葉を見ていた。
「辞めるつもりよ」
「部長……あんな訴え、誰も嘘だってわかってます」
その言葉……ありがとう。そう言ってくれるだけで、私、嬉しいの。
そうね。慶太の言う通り、みんなわかってくれてる。
それでいいじゃない。……いいんだ、もう……私、終わっても、いいんだ。
十八年の努力。
これが、私の、結果。
私の……すべて。
「今まで、ありがとうね」
そして私は、初めて、田山くんに、弱音をはく。初めて、誰かに、弱音を。
「本当はね、こうなる前から……なんかね……疲れちゃってた。私、そんなにね……人の上に立つような才覚もないし、部下の子達の、責任を負うことがもう……いっぱいいっぱいで……」
だけど、田山くんは、優しく微笑んで、頷いてくれた。
「無責任なこと言って、ごめんなさい」
「わかります。俺も、前に言ったでしょう。出世とか、興味ないって」
「そうだったね」
私達は少し笑って、いろんなことを思い出した。十八年。一緒に働いて、十年。
田山くんはずっと、佐倉真純がチーフになって、必死でもがいて、先人たちを蹴落として、部長になって、完璧なビジネスウーマンになっていく時間を、隣で、支えてくれていた。
「好きでした。ずっと」
「全然、気づかなかった。ほんとに」
「そうでしょうね。部長は仕事だけでしたから。目をかけてもらってることは、感じてましたけど、あくまで部下としてしか見てもらえてないことも、わかってました」
相変わらずクールにそう言って、私の左手を握った。
「今も、そうですよね」
「……夫を、愛してるの」
「幸せですか」
重なった手の下で、薬指の、指輪が光る。
「うん」
俯く私の横顔をじっと見て、立ち上がった。
「昼、つきあってください」
私達は、ファミレスでお昼ご飯を食べて、たわいない話をして、二人で笑った。
なぜかわらからないけど、田山くんといると、すごく落ち着く。素直になれる。昔、将吾といた時みたいに、なんでも話せる。
もっと、違った形で出会っていたら、どうなっていたかな。
上司と部下としてでなく、同志としてでなく、ただ、女と男として出会っていたら、私達は、恋におちていたかな。
……ううん、きっと、私達は、こういう形でしか、出会えなかった。
だって、慶太と出会わなければ、今の私はいなかった。きっと、あのまま、将吾と暮らして、結婚して……普通の、おばさんになってた。
田山くんが好きなのは、都会の私。きれい、と言われるようになった後の、仕事だけを追いかける、キャリアウーマンの、私。
「美大時代の友達がね、独立したんですよ。店舗デザインの事務所なんですけど、声かけてくれてて」
「そう」
「デサイナーとしてではないけど……行こうと思ってます」
「うん。いいと思う」
「すみません……」
「なんで謝るの? がんばって」
「部長は、これからどうするんですか」
「わかんない。でも、慶太は……家にいたらいいって言ってくれてるから、しばらくはそうしようかなって思ってる」
「そうですか……なんだか、もったいないな」
もったいない……
もったいない、か……でも、私、他にできること、何もないし……
「まだ、これからのことは、考えられないの」
「俺でよければ、なんでも話してください」
「ありがとう……私ね、田山くんがいたから、やってこれたんだよ」
「そんな……」
「感謝してるの、ほんとに」
田山くんは俯いて、目頭を押さえた。
「月曜日、挨拶に行くね」
「……お世話に、なりました……」
その声は震えていて、膝の上に、涙が落ちて、パンツの色が、微かに変わっていく。
私のために、泣いてくれるんだ……こんな私のために……
私は、隣の震える肩を抱きしめた。上司として、先輩として、最後の、つとめ。
「これからも、がんばるんだよ」
「はい。部長、長い間、おつかれさまでした」
田山くんの車を見送って、デスクに座って、退職届を書いた。
日付は、来週の月曜日。
これを出せば、私は自由になる。
封筒を閉じて、手帳に挟んだ。先月のページまで、スケジュールはぎっしりなのに、今月から、急に真っ白。
私って、ほんとに仕事しかないんだ。
「なんだったのかな」
一人で呟くと、ちょっと涙が出てきちゃった。
『さよなら、みんな。ありがとう』
今日の日付のスペースに、そう書いて、私は、手帳を閉じた。
さて、今日は、慶太遅いかな。久々に、なんか作ろっかな。オーブンがどうとか言ってたし。
帰る時間をメールで尋ねると、電話がかかってきた。
「今日、八時くらいに帰れるよ」
なんだか、慶太、嬉しそう。どうしたのかしら。
「久々になんか作ろっかなって思って」
「ほんとに? じゃあ、絶対早く帰る!」
「無理しなくていいよ」
「無理するよ。だって、真純に早く会いたいから」
慶太は笑って、好きだよって言った。
「ねえ、何食べたい?」
「そうだなぁ。あ、あれ。ローストビーフ!」
子供みたいにはしゃいでる。何か、いいことあったのかな?
四時か。お買い物、行こうかな。
昼間のスーパーは意外に空いてるのね。
うーん、いいお肉がないなあ。そういえば駅前にお肉屋さんがあったよね。慶太は何かと、昔から食べ物にはうるさいから。
あ、オーブン、ずっと使ってなかったけど、使えるのかな。使えなかったら、このお肉、どうしよう。
そうだ。レシピノート、どこいったっけ。あのマンションに引っ越してから、一度も見てないような。
とりあえず、オーブンは……
うん、使えるみたい。さすがは、ドイツ製。そういえば、このマンションも、このシステムキッチンに惹かれて決めたんだっけ。全然、使ってこなかったけど。
あとは……レシピノート……うーん、どこだろう。私の部屋にはないよね……
慶太の部屋かな。ああ、慶太の部屋、初めて入るかも。
ちょっとドキドキしながら、お邪魔しますって呟いて、ドアを開けた。
部屋の中はあんまりきれいには片付いてなくて、朝脱いだTシャツとスエットパンツが、クロゼットの前に丸めてある。
デスクの上も……結構、散らかってる。これで仕事できるのかしら。
思わず苦笑して、デスクの上をちょっと片付けた。
乱雑に積まれた書類の下から出てきたのは、私の写真。キャンプに行った時の写真じゃん。慶太、写真とか、見てるんだ。でも、こうやって見ても、私と慶太って、お似合いね、なーんて。
って、こんなことしにきたんじゃなくて。
クロゼットの奥は物入れになってて、使わないものとか、ここに入れてたはず。中も、あんまりきれいじゃないわねえ。
そういえば、昔っから、あんまり片付けたりしてなかったよね。森崎さんに、掃除してもらってないのかな。
物入れには、古いダンボールが積んであって、中には流行りの過ぎた服とか、慶太の卒業アルバムとかが入ってる。
こんなの、初めて見る。学生服の慶太、かわいい! やっぱり、お金持ちのボンボンって感じねえ。あ、ボンボン、なんて言ったら、怒られちゃう?
でも、昔っからイケメンなんだ。あんまり変わってないかも。
何個か同じようなダンボールがあったけど、ノートは見つからない。うーん、捨てちゃったのかな……
一番下には、一際古いダンボールが二つ。これ、何が入ってるんだろう。前の部屋の時からあるよね。引っ越しの時、見た気がする。
恐る恐る開けてみると……
えっ?……なんでこんなものが……
中に入っていたのは、将吾と暮らしてたころに着ていた服とか、エプロン。
もうすっかり黄ばんでいるけど、間違いない。
東京に来て、お金がなくて、服なんか全然買えなくて……懐かしい。
この黄色のワンピース、家着だよね……このエプロン、東京に来て、部屋が決まって、進学のお祝いにって、将吾が買って来てくれたんだっけ。
ああ、このブラウス、大学の入学式に着て、塾のバイトもこれだった。この、スカートと。懐かしい、ほんと……
あっ、このショートパンツ……慶太と花火に行くのに、買ったんだっけ……こんなに短いパンツ穿いたの初めてで、ちょっと、恥ずかしかった。
でも、なんでこんなものがあるんだろう。全部置いて来たはずなのに。
カビ臭い箱の中には、遠い思い出が詰まってて、私は夢中で一つ一つ、箱から出していく。
二つ目の箱の中は、なけなしのお金で買った、ブランド品。変わりたくて、必死で揃えた、流行の服やバッグ。
短いスカートや、高いピンヒールに、将吾と毎晩ケンカしたっけ……
こんな派手な服、似合わないとか、そんな濃い化粧するなとか……変わっていく私を、将吾はどんな気持ちで見ていたんだろう。
派手な都会の女になっていく私。……心を、捨てていく私。
その底には、黄ばんだ、白い封筒が入っている。
中には、手紙が一枚。薄いレポート用紙には、将吾の字が、並んでいた。
『真純へ
幸せにしてやれなくて、本当にごめん。
幸せになれ、今度こそ。お前は、幸せにならないけん。
ずっとつらかったけど、これからは、幸せになれるからな。
でも、俺は、ずっとお前を待ってるから。
もし、佐倉といて、幸せを感じなかったら、いつでも帰って来てくれ。
俺は、真純のこと、ずっと待ってるから。
じゃあな、真純。
お前は、世界一の女じゃけ、自信もって、生きていけな。
愛してる、真純。
これからも、俺は真純の幸せを願っとる。
そして、ずっと、愛してる。
杉本将吾』
何これ……なんなの……
胸が、苦しい……吐きそう……
こんな手紙……将吾……
携帯の着信音に、我にかえった。ああ、いけない、こんなことしてたら……
「早く終わったから、もう帰るね」
「ま、まだ全然用意できてないよ」
「いいよ。じゃあ、あと一時間くらいで帰るからね」
……現実に、戻らないと……
箱の中のものを戻して、ダンボールを片付けた。
でも、手紙はパンツのポケットにねじ込んだ。どうしても、この部屋に置いておけなかった。
結局ノートは見つからなかった。仕方ない、ネットで検索するかな……なんとなく、やってるうちに思い出すかも。
久しぶりね、こんなに真剣に料理するの。
別に、家事は嫌いじゃない。どっちかっていうと、好きなほう。いつの間にか、しないのが当たり前になってたけど、これからは、家事、しよっかな。
でも……
お肉をオーブンに入れて、私は、ポケットの手紙を読み返した。
二十歳の青年が書いたとは思えないほど、その手紙は、大人で、悲しい。
将吾……ねえ、今でも、私を愛してくれてるの?
もし、私が今幸せじゃなかったら、私を受け止めてくれるの?
やっぱり、私達は……兄妹なんかじゃないよね……私達は……
インターホンが鳴って、ドアが開く。
また、おかしなこと考えてた。
「ただいまー!」
ああ、慶太……そうよね。慶太、出迎え、いかなきゃ。
高そうなスーツに、ブリーフケースを持った慶太は、出迎えた私を、ぎゅっと抱きしめる。
「ただいま、真純」
「おかえり、慶太」
慌てて隠した手紙は、キッチンの引き出しの中。また後で、片付けよう。
「いい匂いだね!」
慶太は嬉しそうにオーブンの中を覗き込んだ。その近くに、あの手紙があって、ちょっと、ハラハラしちゃう。
「上手くできたか、わかんないよ」
「絶対美味しいよ! 着替えてくるね。あー、暑かった!」
あ、部屋に入ったこと言わなきゃ。
でも、慶太はさっさと部屋へ入っていって、床に丸まってたTシャツとスエットパンツで出てきた。
「ねえ、部屋、入った?」
「うん。ちょっと、探し物したくて」
「ふうん。見つかった?」
「う、うん。あの、勝手に入って、ごめんなさい」
「いいよ、別に。散らかってただろ?」
そう笑って、ビールを飲み始めた。
「真純、ちょっと」
「何?」
置いてあったブリーフケースから出てきたのは、ティファニーの紙袋。
「どうしたの?」
「じゃーん、プレゼント。開けてみて」
「プレゼント? なんで? なんかあった?」
「えっ! 今日、そういうことじゃないの?」
今日? なんだっけ……
箱の中は、かわいいデザインリングで、ちょっと大きなダイヤの周りに、ルビーが……十五個。合わせて、十六……十六?
「あ……結婚記念日……」
「なんだ、忘れてた?」
だって、十六年、こんなことしたことなかったし……
「てっきり、お祝いかと思ったよ」
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ。ね、どう、気に入ってくれた?」
「うん。とっても! ありがとう!」
リングの裏にはイニシャルと『16th』の刻印。きっと、オーダーしてくれたんだよね、これ……
「指輪、して」
左手の薬指に指輪を通してもらって、私達は、キスを交す。
「真純、これからも、ずっと、夫婦でいような」
「うん。約束、だよ」
幸せ……私、幸せよね。こんなに、愛されてる。
将吾……私、幸せ……なんだよね……
久しぶりに作ったローストビーフは、我ながら上手くできてて、私達は、美味しく、楽しく、夕食を済ませた。こんな風に、家でテーブルを囲むなんて、何年ぶりかしら。
後片付けをしていると、慶太が後ろから抱きしめて、うなじにキスしたり、胸を触ったり。
「もう、まだ片付けしてるよ」
「明日、金曜じゃん。森崎さん来るだろ? 置いとけばいいじゃん」
「でも……」
「お風呂入ろうよ、一緒に」
うふ、なんか、かわいい。
「そうね、お任せしちゃおっか」
換気扇をまわして、森崎さん、明日、お願いします!
私達は一緒にお風呂に入って、体や髪を洗いっこしたり、キス、したり。
「もう、上がろうよ。したくなっちゃった」
甘えた顔で、慶太がそう言って、私もちょっと、慶太が欲しくなって、バスローブをまとって、ベッドにもつれ込む。
髪も、体も濡れたまま、私達は、ベッドの上で絡み合って、夢中でお互いを求め合う。
今夜は、すごく感じる。どうしてかしら。いつもより、すごく、慶太を感じるの。
「慶太……いい……」
私の言葉に、慶太は熱い目をして、強く、激しく、私を抱く。
「最高、真純……」
結婚して、十六年。
こんなに、もえたのは、初めてかもしれない。なぜだろう。何かが、私の気持ちを変えた。
何か……きっと、あの手紙……あの手紙で、私は……
ねえ、慶太。私ね、あなたを愛してる。
ううん、愛さなきゃ、いけない。私は、あなたと幸せにならなきゃいけない。
だって、私は、人生をかけて愛してくれた人を裏切って、今度はまた、その人を愛してる人まで、裏切ろうとしてる。
そんなの、もう、許されない。自分でも、許されない。
「真純……愛してる」
慶太の声が途切れ途切れに聞こえて、体の中で、慶太を感じる。
「ずっと……これからも……死ぬまで……」
慶太……私を、離さないで。ずっと、強く、私をつなぎとめて。
そうじゃないと、私……また罪を犯してしまう。また、誰かを傷つけてしまう。
そんなことをするくらいなら、いっそ……
「私を……殺して……」
慶太は頷いて、首に手をかける。少しずつ、その手に力が入って……息が……
「お前を離すくらいなら、俺はお前を殺して……死ぬよ」
その目は本気で、私は頷いて、慶太の手が解けた。
私達は、罪人。
私も慶太も、犯した罪の大きさと、償う責任を背負ってる。
左手の、ティファニーの指輪。すごくキレイ。フロアランプに、ルビーの色が反射して、ダイヤがピンクに光る。
きっと、とっても……高いよね……こんな高価な指輪、簡単に買えるんだ。
私、本当に、お金持ちになったんだ……あの頃望んでいた生活。欲しかった生活。
そうね、手に入れた。手に入れたじゃない。幸せ。望んでいた幸せ、手に入れたじゃない。
慶太の首元に揺れるカルティエのネックレス、私が昔、誕生日に贈ったプレゼントだよね。
ペアだったけど、私はなくしちゃった。
ううん、ほんとはね、捨てたの。あの嘘をついた後、捨てたの。あなたにも、もう、捨てて欲しかった。こんなもの、もういらないって、捨てて欲しかった。
それなのに、あなたはずっと、そんな古いネックレス、今でも、大切にしてくれてたんだね。
そして、私のことも……大切に、してくれてる。
捨てられてもおかしくなかったのに、当然だったのに、あなたは、私を、捨てて……くれなかった。
「愛してる?」
「愛してるよ。死ぬほど、愛してる。お前のためなら、俺は死ねる」
愛し合って、一緒に果てて、私の濡れた髪が、シーツを濡らして、冷たい。
「枕、冷たいね」
「髪、乾かしてこようかな」
「ダメだよ。ここにいてよ」
慶太は、下に落ちてたバスローブを枕に敷いた。
「今夜は、一瞬も離れたくない」
慶太の顔……近くで見ても、やっぱり、かっこいい。
こんなに素敵な人が、私の夫……こんなに、イケメンで、リッチで、優しい人。
食べるものもなくて、いつも汚ない服を着た、友達もいない、田舎者の私は、もう、いないの?
ねえ、今の私は、キレイで、都会的で、オシャレで、いい女? あなたの言ってた、イケテル女? 私は、あなたにつり合ってる?
「俺、幸せだよ。真純と結婚して、よかった」
空白の時間は、空白。記憶なんてない。だって、何もなかったんだもん。
でも、私達は、ずっと夫婦だった。空白なのに、夫婦だった。夫婦なのに、空白だった。
慶太の唇が、私の唇を包み込んで、あったかい唾液が、伝ってくる。
「真純のも……」
彼の舌が、口の中を刺激して、滲み出る唾液を、舐めとっていく。
私は体の力が抜けて、もう、慶太のままになる。
「私……イケテル?」
「最高だよ」
「慶太に、つり合ってる?」
「俺が、つり合ってないかも」
慶太は、少し笑って、私の顔を押さえて……
「きゃっ……」
目の中に、舌が……
「びっくりした?」
「うん」
「痛くないだろ?」
「でも、怖いよ」
「大丈夫だって」
そう言って、慶太はまた、目の中を舐めた。怖いけど、なんか、不思議な感覚……
ぼやける視界の向こうに、慶太がいる。
「あのさぁ、真純……」
「何?」
「俺……真純の全部が欲しいんだ」
「全部、慶太のものだよ」
「うん……その……全部っていうのは……」
舐めた目から流れた涙を吸い取った。
「涙とか……汗とか……血とか……」
「血?」
「真純の体から出るものも、全部……おかしいよな……」
正直、びっくりしたけど、それだけ私のこと、愛してくれてるってことよね。
「ううん、嬉しい」
「ほんと?」
「うん」
ほっとしたみたいに、嬉しそうに笑って、私の下半身を指で拭って、そこで濡れた指を、彼の口の中に……。
「ちょっと……生々しいよ」
「だって、欲しいから」
私達は、クスクス笑って、もう一度、長い、キスをした。
「月曜、退職届、出しに行くね」
「そうか……」
「会社辞めたら、何しようかな」
慶太は少し考えて、ちょっと仕事の顔になった。
「家にいるのが嫌なら、俺の仕事、手伝ってくれよ」
「えっ……私、会計なんか、わかんないよ」
「そんなの、期待してないよ。会計士ってね、頭はいいんだけど、なんていうか、営業は下手なんだよ。実際、まともに客とやり取りしてるのは俺だけだしね。それに、俺の事務所はコンサルティングで食ってるから、企画とか、プレゼンとかやらないといけないけど、誰もできないんだよ」
「企画は……でも、経営のことなんて、全然……」
「そんなの、すぐ覚えるさ、真純なら。な、一緒に会社、やってくれよ」
「自信、ないな……」
「って、いうのは、半分で、後半分は、真純と一緒にいたいんだ」
「慶太……」
「俺の会社だからね。ちょっとくらい、公私混同もありだろ」
独立して、もうすぐ六年。慶太も必死だったよね。
私のために、ずっと頑張ってくれてる。
そうね、私にできることがあるなら、力になりたい。求められるなら、そこにいたい。
それに……もっと一緒の時間を過ごせば、私達は、あの空白を埋められるよね。
「やってみる」
「ほんと? やった! いつから来れる?」
「うーん、今日は二十日だから……来月からでもいい? ちょっとだけ、ゆっくりさせて。挨拶は、月曜に行こうかな。慶太の事務所、行ったことないし」
「わかった。手続き終わったら、連絡してよ」
「うん。よろしくお願いします、所長」
「やめてくれよ」
慶太は照れくさそうに笑って、私達は、これからのことをいっぱい話した。
新しい生活。
これからの、私達。
やっと、本当の夫婦になれる?
ねえ、私達、これからもっと、幸せになれるよね。もっと、もっと、二人で幸せに、なれるはずだよね。
月曜日、私は、一週間ぶりにスーツを着て、手帳に挟んだ退職届を持って、慶太と家を出た。
いつもの時間、いつもの場所。もう、ここで降りるのも、今日が最後ね。
「十八年間、おつかれさま」
十八年か……あっと言う間だったな……
「ありがとう」
私達は、いってきます、のキスをして、慶太は、また後でね、って言って、車を出した。
退職の手続きは、あっさり終わって、上司や先輩に挨拶をして、最後に、企画部のドアを開けた。
「今日で、退職することになりました。みんな、今まで、本当にありがとう。お世話になりました」
田山くんが手配してくれてたのか、大きな花束をいただいて、みんな、俯いて、泣いてくれてる。
「部長……嫌です……」
若い女の子達が、泣きながら私の周りに集まって、男の子達も、口々に、辞めないで下さい、とか、納得できません、って、言ってくれる。
「みんな、ありがとう。それだけで、私、満足だよ」
でも、田山くんは、一人、デスクに憮然と、座っていた。
「やあ、佐倉くん。今日で退職だってねえ」
鎌田さん。元、上司。新しい、企画部長。
ずいぶん、うれしそうねえ。
「長い間、お世話になりました」
「本当にねえ。顔しか取り柄のない君を、どれだけ僕がフォローしたか。恩知らずってのは、こういう運命なんだねえ」
嫌味全開で笑う鎌田さんを、みんなが唇を噛んで、上目遣いで見てる。
みんな……ごめんね。私が、不甲斐ないから……
「どうやらこの部署は甘やかされてるみたいだね。まったくやる気が感じられない。就業時間が終わったらさっさと帰っていく。僕が鍛えなおしてやらないとね」
ああ、そうだったそうだった。やることないのに、無駄に長い時間、会社にいればいいと思ってるタイプ。
「就業時間内にやるべき仕事を仕上げる。それも能力では? そんな昭和なやり方では、もう誰もついてきませんよ」
あ、私ったらつい。
でも、私のことなら何言われてもいいけど、この子たちのこと、そんな風に言うなんて許せない。
「生意気な女だ。最後まで気に入らん!」
「あなたに気に入られたいなんて、今まで一度も思ったことありませんから」
ふん。バッカみたい。仕事なんてできないくせに。人脈だけで生きてるくせに。
でも、こういう人が、残念ながら生き残るのよね。私、ヘタね、ほんとに。
昔もこの人とは、どうも合わなくて、こうやって火花散らしたっけ。
ずっと黙っていた田山くんが、立ち上がって、みんなに言った。
「さ、もう、仕事に戻って」
そう。いつもこうやって、私と鎌田さんの間に入ってくれた。
「田山くんの言う通りよ。みんな、仕事仕事。私がいなくても、自分のために、努力してね。会社のためじゃなくて、自分のために、頑張って」
あれ? ちょっと、あてつけぽかった? 鎌田さん、すごい顔で、私を睨んでる。
そして、上司として、社会人として、下げたくない頭を、下げる。これが最後。最後の、はぎしり。
「鎌田部長。これから、どうぞよろしくお願いします。彼らはとても優秀な若者です。どうか、自由に、強く、大きく育ててあげてください」
不思議と、涙は出なくて、なんだか、肩が軽くなって、気が抜けて、足がガクガクする。
引き継ぎのデータを田山くんに渡して、ああ、終わった。田山くんもいなくなる……こんなデータ、もういらないね。新しくやっていけばいい。
私の時代は終わったんだよね。
「じゃあ、みんな、元気でね。お世話になりました」
ああ、終わった。終わったよ、慶太。
私……負けてなんか、ないよね。これで、いいんだよね。
みんなが涙を拭いながら、震えた声で、お世話になりましたって、頭を下げて、ずっと見送られながら、私は、企画部のドアを閉めた。
さよなら、みんな。さよなら、私のサラリーマン生活。……さよなら、私の十八年。
「タクシーで帰るから、ここでいいよ」
「送らせて下さい」
田山くんは、振り向きもせず、私の荷物を車に乗せて、ドアを開けた。
「夫の事務所に、挨拶に行くの」
「場所、どこですか」
今日で、田山くんの車に乗るのも、最後だね。
「ケーキ屋さんか、あったら寄ってくれる?」
「部長……」
「もう、部長じゃないよ」
私は笑ったけど、田山くんは、笑わなかった。
「本当に、いなくなるんですね」
「そうだね」
「もう、会えないんですね」
「……元同志として、また、話したせたら嬉しいな」
逃げのセリフ。田山くん……ごめんね……
「時間、ありますか?」
でも、私の答えを待たずに、急にハンドルを切って、車は、横道に逸れていく。
「ど、どこいくの?」
田山くんは、黙ってアクセルを踏む。
「ねえ、田山くん……」
しばらく走って、着いた場所は、港。海なんて、久しぶり……
「ここ、一人になりたい時によく来るんです」
昼間だけど、人は誰もいなくて、汽船の音と、波の音だけが風に靡く。
「どうして……そんなに、キレイなんですか……」
「田山くん……」
「部長のことしか、考えられないんですよ! 俺はずっと、部長のために働いた来たんです! 俺の気持ち……俺の気持ち、わかって下さいよ! 企画なんて、どうでもよかった! 俺はデザインがやりたかった! でも、でも、部長……入社した時から……ずっと……一目惚れで……部長に認めて欲しくて、部長のそばにいたくて、俺は……十年……部長……」
そんな、取り乱した彼は、本当に初めてで、私はどうしたらいいかわかんなくて、ただ、オロオロするばかり。
「好きになったらダメだって、わかってました……でも、俺……どうしようも……どうしようもなくて……」
ハンドルに突っ伏す田山くん……きっと、泣いてる。顔は見えないけど、泣いている……
「田山くん……私……ごめんなさい……どうしたらいいの……」
情けないくらい、私は、本当にどうすればいいのかわからなかった。
どうすれば、田山くんが傷つかないの?
涙ぐむ私。情けないね……仕事のことなら、なんでも解決できるのに、こういうことは、本当にわからない。
「すみませんでした。困らせてしまいましたね」
顔を上げた田山くんは、いつものクールな田山くんで、行きましょうか、と、車を出した。
途中でケーキを買って、なにもなかったみたいに、慶太の事務所を探しながら……ごめんね……田山くん……
「ここ、ですかね」
「うん……ここ、よね……」
慶太の事務所は、郊外のさびれた商店街にあって、古い、小さなビルの一階。
お世辞にも、キレイとは言えなくて、間違ってないか、私は何度も看板と住所を見直しちゃった。
でも、駐車場には、慶太の派手なベンツがとまってるし……間違いないみたい。
荷物を下ろしていると、慌てた様子で、慶太が走ってきた。
「真純! 迎えに行くって言ったろ?」
「うん。でも、田山くんが送ってくれたから……」
あからさまに不機嫌になって、ちらりと田山くんを見て、ぶっきらぼうに言った。
「ああ、ごくろうさん」
もう! そんな態度!
「いえ。お荷物が多いようでしたので。じゃあ……部長、おつかれさまでした」
田山くんのほうが、よっぽどオトナじゃん。それに比べて、慶太ったら……
「うん。いろいろ、ありがとう。本当に、お世話になりました」
慶太は田山くんから荷物を受け取って、どうも、って呟いた。
「では、失礼します」
田山くんは、礼儀正しく、クールにお辞儀をして、背中をむけた。
彼の気持ちを考えると、私は胸が苦しくて、でも、どうすることもできなくて、ただ、彼を見送るしかできない。
もう、お別れなんだね。田山くん。
叱ったこともあったよね。
ケンカしたこともあった。
でも、いつもいつも、私を庇ってくれて、私をたててくれて、私を支えてくれたね。
もしかしたら、私、キミの人生を、狂わせてたのかもしれない。
私に出会わなければ、キミは今頃……
そう思うと、私は、涙を堪えられなくなって、でも、何も言えなくて、俯いたまま……
「田山くん」
私の隣から離れて、車のドアを開けた彼に声をかけたのは、慶太。
ちょっと、何? 何を言うつもり?
「はい?」
「今まで、真純が世話になったね。本当に、ありがとう」
慶太……そんな風に、言ってくれるんだ。やっぱり、オトナだね、慶太。やっぱり、素敵。
「……いえ……お世話になったのは、僕の方です」
田山くんも、ちょっとほっとしたみたいに、素直に、そう言ったんだと思う。
なのに……
「これからね、真純はボクの会社で働いてくれるんだよ」
え? 何? そのイヤミな顔!
「……そうですか」
「八時間、毎日一緒に仕事して、家に帰っても、一緒なんだ。ケンカでもしたら大変だな」
慶太は、ふふんって、鼻で笑った。
もう! わざと、そんなこと言って! 性格悪い!
だからほら、田山くんも、明らかに不機嫌な顔になったじゃない。
彼、めちゃめちゃ、気が強いんだから!
「佐倉さん。今まで、俺は部下として、部長、いえ、奥さんを支えてきたつもりです」
「そうみたいだね」
「これからは、それもなくなります。俺も……一人の男として、真純さんを支えたいと思ってます」
「……君に、真純さん、なんて呼ばれたくない」
「俺は、本気ですよ。これからは本気で、真純さんを、奪いにいきます」
「宣戦布告かよ! やれるもんなら、やってみな。お前なんかに、真純は落とせないからな!」
「ええ、遠慮はしませんから。では」
田山くんは、慶太を一瞥して、ドアをバンって閉めて、エンジンをふかして、車を出した。
「なんだよ、あいつ!」
慶太は田山くんの車を睨みつけて、舌打ちして、一人でぷんぷん怒ってる。自分が蒔いた火種なのに……バカなの?
でも……
「ああ、ごめん。なんか、感情的になっちゃった。さ、みんなに紹介するね」
時々、慶太が別人みたいに見える時がある。
私にはとっても優しいのに……どっちが本当の慶太なんだろう。
「うん、あ、これ……みんなで食べて」
さっき買ったケーキを渡すと、慶太は、ありがとうって、優しい顔で、微笑んだ。
アルミに磨りガラスが入った、古いドアを開けて中に入ると、予想を裏切らない、ザ・昭和って感じの事務所で、さっきまで、インテリアの最前線で働いてた私は、ちょっと落ち着かない。
「あー、ちょっと」
慶太が声をかけると、パソコンに向かってた男の子が三人、顔を向けた。
「紹介するね。佐倉真純さん。俺の、奥さん。美人だろ? 来月から、ここで働いてもらうことになったから、よろしく。一般企業で企画部長をやってたんだ。真純には、企画とかプレゼンとか、お前らが全くできない仕事のレクチャーをしてもらう。しっかり勉強しろよ。ほら、お前ら、自己紹介して」
三人は、「は?」って顔で、私を見てる。そりゃそうよね。
そもそも、お前ら、とか連呼するの、よくないと思います。
「はじめまして、佐倉の妻です。今まで家具メーカーで、企画部長をしてました。会計のことは全くわかりませんが、一生懸命勉強します。よろしくお願いします」
三人は、どうもって頭を下げて、一番年上っぽい、神経質そうなメガネくんが立ち上がった。
「山内です。よろしくお願いします」
「山内くんはね、米国公認会計士も、もってるんだよ。頭はいいんだけど、営業がさっぱりでね」
山内くんは、不機嫌な顔で慶太を見てる。
その隣の、色白の痩せた子が、渋々立ち上がる。
「藤木です。よろしくお願いします」
「藤木くんは、税理士はとってるんだけど、なかなか会計士、とれないんだ。何年やってるの、お前? もうちょっと勉強してくれないとね」
藤木くんは、口の中で舌打ちして、ぞんざいにデスクに座った。
もう……慶太、人使うの、下手! あんたはユデタコ清水か!
最後は、一番若い子。ちょっとポッチャリくんで、おっとりした感じ。学卒くんかな?
「相田です。あの……なんてお呼びしたらいいですか」
「佐倉、でいいです」
はい、と言って、手帳にそうメモってる。なんか、かわいい。
「相田くんはね、事務員代わりってとこかな。まだ勉強中。がんばれよ、お前!」
「はぁ……」
三人は、おもーいため息をついて、パソコンに向かう。
なんて、暗い……雰囲気悪すぎ。
「男ばっかだからさ、なんかむさ苦しいんだよ。あ、俺の部屋はこっち」
いやいや、これ、あなたのせいよ。
慶太は私の肩を抱いて、所長室ってプレートのかかった奥の古臭いドアを開けた。
「相田、コーヒー!」
「あっ、はいっ!」
慌てて台所へ行った。
「全く、仕事できねえくせに、気も効かねえのかよ。給料返せ!」
ぼ……暴言……こんな身近にハラスメントの見本みたいなヤツがいたとは……
所長室は、想像通り、散らかってる。古ぼけた応接セットに座ると、ソファがキシキシ鳴った。
「失礼します……」
相田くんがオドオドしながら、コーヒーを出してくれた。
「ありがとう」
私が微笑むと、ちょっとほっとしたみたいに、一礼して出て行った。
「ねえ、もうちょっと、部下の子達、大切にしないと」
「は? 会計事務所なんかこんなもんだよ」
「そうかもしれないけど、これじゃあ、覇気も上がらないじゃん」
「一般企業と違って、こういう事務所は奉公みたいなもんだからね。俺もこうやってきたし」
慶太は、デスクにふんぞり返って、ドヤ顔で、偉そうに笑った。
な、なんか、ムカつく。すっごいムカつく! イライラする!
「私、こんな暗い事務所で働くの、イヤ」
「えっ?」
「もっと覇気のある、活気のある職場じゃないと、仕事できない」
私の言葉に、慶太は動揺して、横に座って、
「そんな……どうしたらいい?」
「上司としての態度を改めて」
「改めてって……どう、やって?」
「部下をバカにしたり、むやみに叱責したりしないで、認めてあげて」
「そんなこと……甘やかしたら、つけあがるからさ……」
「甘やかすと、認めるは、違うわ。私にしてくれるみたいに、優しくしてあげて」
「……わかった。わかったから、来月から、来てくれるよね?」
「うん。約束、守ってね」
そういえば、一緒にバイトしてる時も、生徒とか後輩には全く、嫌われてたよね。
「よかった……約束のキスしよう」
「ちょっと、こんなとこで……」
「いいじゃん、誰も見てないよ」
その目の前の窓! カーテンもブラインドもないし、外から丸見えじゃん。
「チュウしようよ」
「もう、ダメだって……」
唇が触れようとした瞬間……
「所長……あの……」
「相田! なんだよ!」
「お時間が……」
「ああ……そうか……ごめん、アポがあったんだ。ちょっと、出かけないと……」
「うん。いってらっしゃい。私ももう、帰るね」
「藤木に送らせるよ」
「いいよ、タクシーで帰るから」
「そう……気をつけてね……」
外には山内くんがイライラした顔で待ってて、二人は無言で出て行った。うん。相当、仲悪いみたいね。
カップを片付けようとすると、相田くんが、慌ててトレイを持ってきた。
「片付けくらい、するよ」
「いえ! 所長に叱られますから!」
そう言って、いそいそとカップを片付けに行った。かわいそうに。なんて横暴な上司なのかしら。
藤木くんは、能面のような顔で、パソコンに向かってる。でも、悪い子じゃなさそう。
「私、どこに座ったらいいかしら」
藤木くんは、ちらりと私を見て、相田くんの横のデスクを指差した。
「そこ、空いてますから」
「はい」
今日引き上げてきた文房具をデスクに並べて、ノートパソコンを設置。
「ネットとかつなぎたいんだけど……」
「やっときますよ」
「そう、ありがとう。苦手なの、そういうの」
藤木くんは、なんとなく田山くんに似た感じ。少し、田山くんより、若いのかな。
「藤木くんって、何歳?」
気さくに話しかけると、彼はちょっと表情を緩めて、私の顔を、見てくれた。
「三十二です」
「相田くんは?」
「二十四です。山内さんが、三十八だったかな。……あの、佐倉さんは……」
「私? 私は、所長と一緒よ。四十。今年、四十一になるの」
「そうなんですか……四十には見えませんね。ていうか、所長、四十だったんだ……そう考えたら、若くみえるなあ」
「なんか、チャラいでしょ?」
私の言葉に、藤木くんも思わず笑って、お客さんとかによく言われますって、苦笑した。
ちょっと、大丈夫? ビジネス相手にも言われちゃうくらいの、チャラさなの?
「そろそろ、昼行きます」
ああ、もうこんな時間。言われてみたら、お腹すいたな。
「食べるところ、あるの?」
「駅前に、サテンがあります。おい、相田、お前、どうする?」
「あ、僕はコンビニで買ってきたんで……」
「そう。じゃ、出るから」
「あっ、私も行く。駅前まで、連れてって」
私は藤木くんと、駅まで歩いた。距離は五分くらい。電車でも通えるね。実は、車の運転、苦手なの。
「この階段を降りたら、改札です」
「うん、ありがとう。あの、来月から、よろしくお願いします」
「……こちらこそ。失礼します」
藤木くんは何か言いたげだったけど、軽く会釈して、喫茶店に入って行った。
私は階段を降りて、改札へ。
昼間の駅はほとんど人がいないけど、電車はすぐに来て、三十分程で、家に着いた。
家に帰ると、森崎さんが掃除の最中で、私を見てびっくりしてる。
「あら、奥様。お早いんですね。ずっとお休みでしたし……お体の具合でも?」
「会社、辞めたの」
「えっ?」
「でも、来月から慶太の会社に行くの。だから、これからもよろしくね」
森崎さんはほっとしたように頷いた。
もう、十五年の付き合いよね。週三回、ずっとこの家の家事をしてくれてる。
「ああ、台所、ごめんなさい。昨日、そのまま寝ちゃって……」
そう、昨日も夕食作ったんだけど、ついつい、甘えちゃって……
「いえ、大丈夫ですよ。遠慮なく、残して置いてください。あまり、お手伝いすることがないんですよ、こちらでは」
確かに、そうよね。今までは台所も使わないし、ほとんど家にいなかったんだもん。
「ねえ、慶太の部屋は掃除しないの?」
「はい。ご主人のお部屋は、入らないようにと言われてますので」
そうなんだ。知らなかった。
「奥様、お茶でもお入れしましょうか」
「うん、お願い。アイスコーヒーがいいな。部屋にいるから」
「かしこまりました」
奥様、か……なんだか、信じられないね。冷静に考えると。
部屋着に着替えて、本の整理。
インテリアの本は、もう捨てちゃおう。代わりに、経理の本でも買おうかな。大学のころ、必修科目で簿記をちょっとやったけど、全然覚えてないや。
書棚や押し入れの本は、古紙回収用袋に五袋。まだあるけど、今日はこれくらいで。
「森崎さん、これ、捨てといてくれる?」
「はあ……廃品回収、呼びましょうか」
「任せるわ。お願い」
ふう、スッキリした。なんだか、ほんとに終わった感じがする。
ガランとした書棚の前で、私はアイスコーヒーを飲みながら、これからのことを考えてみた。
考えたけど、何もわからない。
はっきりしてるのは、私と慶太はこれからも夫婦で、来月から、一緒に働くってことだけ。
あ、そういえば、あの手紙……台所に置きっぱなし。
森崎さんが帰ったら、取りに行こうかな。昔の手紙だけど、誰にも見られたくない。
でも、なんであんな荷物が慶太の部屋にあったんだろう。
それに、あの手紙……慶太は知ってたのかな。知ってて、見せなかったのかな……
「奥様、それでは失礼します」
森崎さんの声。もう、三時か……
「ご苦労さまでした」
森崎さんを見送ると、急に気が抜けて、お腹が空いてたこと、思い出した。
何か、あったかな……
戸棚には買いだめの菓子パン。さっきのアイスコーヒーを持ってきて、リビングで、テレビをつけた。
昔のドラマの再放送ね。ワイドショーより、よっぽどおもしろいかも。
料理は好きだけど、あまり食べ物にこだわりはないんだよね。菓子パンだろうが、有名ベーカリーだろうが、実はどっちでも、いい。
慶太は、なにかとこだわりがあるみたいで、いろんなお店に連れてってくれるし、おいしいだろって、いろいろ買って来てくれるけど、ほんとは、イマイチわかんない。
だって、私、食べることすら、ままならなかったんだもん。味なんて、わかるわけない。
あー、こういうとこなのかな。慶太といると、なんか気が抜けないのは。
わかんないのに、わかったふりしなきゃいけない。
別に、しなくてもいいんだろうけど、慶太のがっかりした顔見たくないし、それに……見栄、かな……
さてと、夕食の準備でもしよう。慶太は何時に帰ってくるんだろう。聞いとけばよかった。
あっ、すっかり忘れた。マナーモードのまま! どうりで鳴らないわけだ。
バッグの中のスマホには、着信が数件。私の退職を聞いた取引先さんからね。もう、いっか。理由なんて、言えないし。おつきあいすることも、ないんだから。
それから、慶太と……将吾? えっ、なんだろう……
……かけていいよね。だって、かかってきたんだもん。何か、用事かもしれないし。
「あの……電話くれてたみたいだから」
「ああ、仕事中か? 悪かったなあ」
「ううん。どうしたの?」
「あれから、どうしたかと思ってな」
「……あの人のこと?」
「そうや」
将吾……本当に、それだけ? そんな理由?
「将吾、今、何してるの?」
「今日は非番や。さっき洗車して、もう帰るとこ。あっついわ、外」
昔、よく、あの社宅の駐車場で、二人で洗車したっけ。意外と几帳面なのよね、将吾って。軽トラなのに、丁寧にワックスかけてたっけ……
「一人?」
「聡子は仕事や」
頭の中に、あの手紙が、リフレインする。あの荷物のかび臭いニオイが、蘇る。
……一緒に過ごした二年。恋人同士として、一緒に暮らした……二年間。
たった二年間なのに、慶太と過ごした二十年より、ずっと、ずっと、長かった……
ダメなの。
私、どうして? どうして、こんな風になってしまうの?
「ねえ、今から……会える?」
断ってくれるよね?
「……ええよ」
うそ……ダメじゃん。断ってよ……
「今どこにおるんや」
「家にいるの……来てくれる?」
「休みなんか?」
「うん……まあ……」
「佐倉もおるんか?」
嘘。嘘を、つく。絶対に、ついちゃ、いけなかった。
「いるよ」
「そうか、なら、別にええな」
将吾はほっとしたみたいに言って、今から寄るわって、電話がきれた。
どうしよう……将吾を家に呼んでしまった……慶太、何時に帰ってくるんだろう。そんなに、早くは帰って来ないよね。
何? 私、何考えてるの?
「電話、出れなくてごめん」
「ううん、無事、家に帰った?」
「うん」
「どうやって帰ったの?」
「電車」
「藤木に送ってもらえばよかったのに」
「いいよ、藤木くんも、忙しそうだったし」
「そうか? あ、今日さ、ちょっと遅くなるんだよ」
「え、ああ、そうなんだ。ご飯は?」
「食べて帰る」
「わかった」
「じゃあ……十一時くらいにはかえるから」
十一時……今はまだ……三時。時間は……あるね……
十五分くらいして、インターホンが鳴った。
将吾……かな? ああ、やっぱり、将吾。どうしよう、メイク、直せてないし、部屋着のまま。
「開けたから、入って」
とりあえず、部屋着は着替えて、Tシャツとスエットのタイトスカートに。
メイクは、まあ、いいか……そんなに、崩れてないよね。
「よう」
将吾は玄関で、コンビニの袋を渡してくれた。
あっ、これ私が好きでよく食べてたアイス。懐かしい。まだあるんだ。っていうか……覚えてて、くれたんだ……
「あれ、佐倉は?」
「なんか、急用みたい。出て行ったわ」
平然と、言った。普通に。でも、内心は、心臓が飛び出そうなくらい、ドキドキしてる。
「……あがるの、まずいな」
「いいよ、別に。さ、どうぞ」
ああ、そうだった。
慶太が来たよね。
こうして、あの社宅に、ふらっと。
あの日も、こんなに暑い日だった気がする。
平然と、慶太を家に入れて、でもあの時も、本当は、ドキドキしてた。
あの時から、きっと、私……運命を、変えてしまった。
間違っていたのかな。あの時の私、間違えてしまったの?
「アイスコーヒーでいいかしら」
「ああ。いや、すごい部屋やな……」
将吾はリビングとキッチンを見回して、落ち着かない様子でソファに座って、お尻のポケットから携帯とタバコを出した。
「灰皿だよね」
「ああ、いいよ。誰も吸わんやろ?」
「そうなの。いつの間にか、慶太もやめてたし」
そう、いつの間にか、慶太は禁煙してたみたいで、今は吸ってないみたい。そんなことすら、知らなかった。
「おばさん、どうや」
「さあ。もうどうでもいいの、あんな人」
「真純……やっぱり、許せんか」
「許すもなにも、私にはもう母親なんていないの」
冷たく言い放った私。きっと、冷たい顔を、してるね。
「……悪かったな。真純の気持ち、考えてなかった」
将吾は俯いて、両手を組んだ。本気で落ち込んでる時は、こうするよね。昔から変わってない。
「いいのよ。私も……感情的になってた。ごめんなさい」
素直な、気持ちだった。
あなたは、私のこと、いつも本気で心配してくれてる。だから、ちゃんと謝らなきゃって、あれから思ってたの。
将吾の手。ゴツゴツした手。逞しくて、日に焼けた腕。
Tシャツの二の腕は、はちきれそうで、いつの間にか、私は、無意識に、その腕に、私を、あずけている。
「将吾、あのね……」
「うん」
「仕事、辞めたの」
「えっ! なんで!」
「なんか、色々あって……今日、退職したの」
もう、会社を辞めたことは、もう過去のことになっていた。
「そうか……」
「来月からね、慶太の事務所で働くの」
私達は、二十年前のように、身を寄せ合って、耳元で、会話している。
薄い壁のあの部屋じゃ、夜、普通に会話するのも気を使って、いつもこうして、内緒話みたいに、話したね。
そう、この匂い。ちょっと汗とタバコの匂い。懐かしい、匂い。
二十年前。まだ、私達が愛し合っていた、あの頃。一緒に暮らした、あの頃。
ねえ、将吾。あなたは? あなたは今、どんな気持ち? あなたも、二十歳のあの頃に、戻ってるよね?
「手紙……読んだ」
「手紙?」
「たぶん、別れた時に書いてくれた手紙……先週、見つけたの」
「ああ……今頃か?」
将吾はちょっと笑って、私の肩を抱いた。自然に、あの頃みたいに、大きな手で、私の肩を抱く。
「ガキの頃の手紙や」
「その手紙ね、慶太が持ってたの」
「そうか。なら、佐倉がみせんかったんやな」
「……荷物もね、慶太が持ってた」
「あいつに渡したんや。捨てんかったんやなぁ」
怒る様子もなく、懐かしそうに遠くを見た。いつもそう。何か考えてる時は、そうやって、遠くを見るよね。
「真純、幸せか?」
「……わからない……たぶん、幸せなの。でも……わからないの……」
「佐倉のこと、好きなんやろ?」
「うん」
「佐倉もお前のこと、好きやゆうとった。どうしようもないくらい、好きやって」
「いつ? いつ、そんな話したの?」
「土産、もうた時や。あいつ、お前のことが……惚れとるんやろな。昔の、俺みたいに」
「あの荷物も、慶太に渡したのよね」
「そうや」
「ねえ、慶太は、ほんとに、私のこと、好きなの?」
私をちらりと見て、俯いて、呟いた。
「真純、佐倉のこと、信じてやれ」
「信じてるよ。でも、でもね……私ね……」
将吾、やっぱり、あなたが好き……ダメなのに……やっぱり、あなたが……
将吾は、優しく、私を抱きしめた。
でも、コテージの時とは違う。
昔みたいに、熱いカラダで、私を……欲しいって言ってる。
「将吾……好きなの……まだ……」
硬い胸の奥から、心臓の音が聞こえる。ドク、ドクって、鼓動と熱が伝わってくる。
「……一日も、忘れたことはない……」
将吾の指が私の髪をかきあげて、頬を伝って、唇を撫でて……私達は、キスを交す。
昔みたいに、熱くて、甘くて、激しいキス……
「好きや……真純……」
もう、どうなってもいい。ねえ、将吾、私と遠くに行こうよ。何もかも捨てて、私と、ね、誰も知らないところへ。お金なら、あるのよ。二人で、どこかへ……
「愛してる、将吾……愛してるの……」
熱い目。熱いカラダ。あなたが欲しい。ねえ、将吾、私ね、あなたに……抱いてほしいの……
「真純……キレイになったな……」
素肌の私達。汗ばんだ肌が、ベタベタするね。
あなたの硬いカラダ。昔のままね。私、あなたのカラダが好き。逞しくて、硬くて、大きなカラダ。私を包み込んでくれる、そのカラダがね、好き……
「真純……お前が……欲しい……ずっと……真純……」
将吾の指が、私を濡らしていく。将吾の熱い息が、耳たぶを擽る。
「昔みたいに……して……ねえ、愛して……将吾……」
なにも、見えない。ここがどこかってことも、時間も、もう、将吾しか見えない。
将吾の汗ばんだ硬い体が私を包んで、短い髪が、首筋にチクチクする。
慶太とは違うカラダ。慶太とは違う匂い。慶太とは違う……あなた……
「真純の匂いがする」
空白の時間。
飛び越えた先は……
いけない。
いけないのに……でももう……慶太、ごめんなさい……私、将吾が……
『ガガガガ』
その音に、私達は、カラダを、止めた。
テーブルの上の、将吾のスマホ。画面には……凛ちゃんと碧ちゃんの写真と、名前……
「……おかえり。ああ……もうすぐ帰るから、宿題しとけ……え? ママ? 仕事やろ……パパはちょっと……用事や……うん。わかった……わかった、こうて帰るから……」
ママ……パパ……
「……凛や……お菓子買ってこいって……」
「クッキーがあるの。貰ったんだけど、食べないから、娘ちゃん達に持って帰ってあげて」
私は服を着て、キッチンへクッキーを取りに行った。もう、その場には、いられなかった。
黙って服を着る将吾。俯いたまま立ち上がって、スマホと、タバコをジーンズのポケットに入れた。
現実。
これが、現実。
玄関で、クッキーを渡すと、将吾は俯いたまま、ありがとうって、呟いた。
「……将吾……」
涙を堪えるのは限界だった。
でも、何を言えばいいのかもわからなくて、ただ、将吾から離れたくなくて、私は、彼の体に強く、抱きついた。
「真純……幸せにな」
将吾は私の手を優しくほどいて、背中を向けた。
「将吾……私……あなたが……」
「子供はな……裏切れん」
押し殺した将吾の一言は、私の心臓に突き刺さって、ドアが閉まって、オートロックのドアは、かちゃりと、鍵を閉めた。
カラダに残る、微かな彼の匂い。まだ濡れている、私のカラダ。鳴りやまない、心臓の音。
「将吾! いかないで!」
聞こえない。誰にも聞こえない。聞こえない……ここは、防音のついた、高級マンション。大きな声で叫んだのに、聞こえない。
「将吾! 将吾! 戻ってきて! 戻ってきてよ……あなたが好き! あなたが……好き……なの……将吾……」
苦しい……胸が苦しい……こんなに、辛いの? 愛する人と別れるって、こんなに……辛かったの?
将吾……ごめんなさい……あなたは、とっても辛かったよね……
あの日、別れを告げた、あの日の、あなたの目。悲しそうだった。悲しそうに、私を見た。
振り返りもせず、あなたを捨てた私。あなたを、捨てた……捨てたんだね……私が、あなたを捨てた。
手紙……あんな手紙があるから……
コンロで火をつけて、シンクの中で、古い手紙は、大きく炎をあげて、そして、一瞬で、黒い、灰になった。
でも、私の気持ちは、灰にはならない。炎をあげたまま、その炎は、青白く、冷たく、私を、支配する。
「わかってるの……」
カウンターには、新しく買った、ヘンケルのナイフセット。
料理してって、慶太が買ってきた、ナイフセット。
「いなくなれば、いいのよ……」
久しぶりにかける、BMWのエンジン。
聡子さんは確か……将吾の会社で、事務をやってるって……
『中村タクシー』って、古い看板がかかった会社の前で、私は車を止めた。
時間は六時すぎ。もういないかもしれない。パネルの時刻表示が変わっていって、太陽が、赤く、なっていく。
いた……聡子さん……Tシャツに、ジーンズ。全然オシャレじゃないし、お化粧もしてない。
明るく、笑いながら、おつかれさまでしたって、言いながら、駐輪場で、自転車のカゴに荷物を載せてる。
「ああ、凛? ママ。今から帰るからね。宿題、ちゃんとしておくのよ。パパが帰ってたら、洗濯物、一緒に取り込んでおいてね」
また……ママとか、パパとか! そんな幸せ、そんなの……ぶち壊してやる!
「聡子さん」
聡子さんは、私の声に驚いて振り向いた。
「ま、真純さん?……どうしたの?」
腫れた目と、落ちたメイク。聡子さんは、心配そうな顔をして、私の方へ歩いてくる。
六時半だけど、辺りはまだ明るくて、少し赤くなった夕陽に、右手の包丁が、光った。
「真純……さん……」
私は、刃先を聡子さんに向けた。
「落ち着いて」
聡子さんは、落ち着いた声で、私に言った。
「それ、渡して。危ないから。ね、真純さん」
セミ……セミの声が聞こえる。
夏の夕暮れ、あのクーラーのない、狭い部屋でも、西日のあたるあの部屋で、セミの声、きいたね。
将吾……あついなって言いながら、セミの声……きいたね……
「いなくなって」
「真純さん……私がいなくなっても、子供たちがいるのよ」
「いなくなって!」
「こんなことしても、将吾はあなたのところには来ないわ」
寂しい目。悲しい顔。そんな顔、私に見せないで!
「うるさい! 似てるのよ! あなた、昔の私に……将吾を返して! 将吾は、私を愛してるの! 今も、私を愛してるの よ!」
「違うわ。将吾が愛してるのは、子供たちよ」
「私よ!」
私、もう……こんなことをしても、何にもならないって……わかってるのにね……
でも、振りかざしたそれは、動かない。
「何やってるんだ!」
「は、離して!」
後ろから手を掴んだのは、中村くんだった。
「門田さん……門田さんじゃないか! やめるんだ!」
「離してよ!」
あっさり、包丁を中村くんに取り上げられて、私は、もう……ダメ……
「……通報して……」
アスファルトが熱い……膝が火傷しそう……
「さとちゃん……何があったんだ?」
「なんでもないのよ。ああ、真純さん、ケガしてるわね……社長、手当てしてあげてもいいかしら」
左手の甲から血が出てる。でも、ぜんぜん、痛みなんて感じない。ポタポタと指輪を伝って、スカートに血が落ちていく。
「そうだね。さ、入って」
「ほっといてよ!」
「真純さん、ここだと……ね、入って……」
聡子さんは、バッグからハンカチを出して、私の傷を隠してくれた。
騒ぎを聞きつけた運転手さん達が何人か出て来て、こっちを見てる。
「なんでもないから!」
中村くんの一言で、運転手さん達は、ヒソヒソ話しながら、事務所へ入って行った。
私は、聡子さんに連れられて、裏口から更衣室へ。
「待っててね」
更衣室はエアコンが効いてなくて、暑くて、頬を伝って、汗と、涙が流れていく。
しばらくして、聡子さんが救急箱とペットボトルのお茶を持って来てくれた。
「手、見せて」
聡子さんのハンカチは血で真っ赤に染まっている。
「病院、行った方がいいかも……」
消毒液で傷を拭いて、ガーゼで少しきつく縛って、包帯を巻いてくれた。
「血が止まるまで、手首縛るね……さ、これでいいわ」
聡子さんは微笑んで、救急箱を片付けた。
「……どうして……」
「うん?」
「どうして……こんなに優しくするの?」
鏡を見れば、きっと、私は今の自分の姿が、信じられなかった。
Tシャツとスカートと、素足のサンダルは血と泥で汚れていて、メイクも落ちて、顔はきっと、腫れている。
きっと、子供の頃の、薄汚れた、私。
「ちょっと、いいかな」
外で、中村くんの声がした。
「どうぞ」
ドアの外には、中村くんと、おまわりさんが立っていた。
「……近所の人が、通報したみたいなんだ……」
中村くんが、小声で聡子さんに耳打ちした。
「何があったんでしょうか」
ガタガタと手が震え始めた。
どうしよう……こんなこと……私、大変なことをしてしまった……聡子さんに、大変なこと……慶太にも、慶太のお父様にも……どうしよう……
「何もありませんよ。ちょっと、口論になったんです。でも、もう大丈夫ですから」
聡子さんは笑顔で言ったけど、おまわりさんは私を見て、
「そちらの方、ケガをされてるみたいですが」
「少しもみ合いになって、転んじゃったんです。もう歳だから、ふんばりがきかないのかしら」
明るく、冗談っぽく、聡子さんは、おまわりさんに言ってくれた。
「そうなんですか?」
でも、私は、黙って頷くしかできない。
「……刃物を持った女性がいたそうなんですが」
「そんな人、いません。ねえ、社長」
「あ、ああ。見間違いですよ」
「そうですか。念のために、お名前を伺えますか」
私達は名前と連絡先を言って、おまわりさんは、訝しげに私を見て、帰って行った。
「……ああ、あのBM、門田さんの車?」
「うん」
「ちょっと動かすから、キー、いい?」
「もう、帰るから……」
立ち上がった私を、聡子さんが制した。
「運転は、無理よ。もう少し、ここにいて」
左手からはまだ血が滲んでいて、右手はガタガタと震えている。
「落ち着くまで、ここにいればいいよ」
中村くんは私からキーを受け取ると、車を動かしに行った。
「ご……ごめんなさい……私、なんてことしてしまったの……」
「真純さん、これ、見て」
聡子さんは、Tシャツを脱いで、背中を向けた。そこには、ほとんど一面に、大きな火傷の痕があった。
「驚かせてごめんね」
「どう、したの……」
「子供の頃、家が火事で焼けてね。両親と妹が死んで……私は生き残ったけど、こんな火傷してね」
ふうっと息をついて、Tシャツを着て、窓の外を見てる。
「この傷痕が、ずっとコンプレックスでね。年頃になっても、なかなか恋もできなくて……初めてだったの、将吾が。この傷痕を見ても、何も言わなくて、変わらなかった人……」
将吾は、優しいから……私にだけ、優しいんだと思ってたけど……違うんだね……
「わかってたわ。将吾があなたのこと忘れられないことも、顔の似てる私は、あなたの代わりだったってことも。それでもね、将吾は優しかった。必死で、あなたの影を消そうとしてた。私を抱きながら、あなたを思い出すことを、とっても苦しんでた」
彼女は、無表情で、話し続ける。
「だからね、私、子供を生んだの。家庭を作ったのよ。将吾は家庭を大切にしてくれてる。それだけがね、私が将吾をつなぎとめる、たった一つの方法だった」
私はただ、黙ってるしかなくて、血の滲む包帯をじっと見つめていた。
「渡さないわ……ねえ、あなたには、慶太さんがいるでしょう? お金も、地位も、きれいな顔も体も、なんでもあるでしょう? それなのに、将吾まで奪うの? ねえ、私から、子供達から……たった一つなの。私には、将吾だけなのよ……」
聡子さんは、縋るように言った。怒るでもなく、泣くでもなく、ただ、私に縋るように。
「お願い、真純さん……将吾のことは、もう忘れて。将吾のこと、もう……」
聡子さん、ねえ、私ね……好きなの……将吾が……もう……ダメなの……
「お金なら、あるの」
「真純さん……」
「慰謝料も養育費も、私が責任もつわ」
何、言ってるの? 私、何言ってるの?
「門田さん、いい加減にしなよ」
気がつくと、中村くんが立っていて、聡子さんは、泣いていた。
「杉本もさとちゃんも、どれだけ苦しんだか、わかってる? 君が佐倉とセレブ生活を送ってる二十年間、杉本もさとちゃんも、辛かったんだよ。君にそれがわかる? それを今更なんだよ。金はある? 養育費に慰謝料? そんなもんで、そんなもんで、買えないんだよ。門田さん、人の心はね、お金じゃ買えないんだよ。……それは、君が一番わかってるだろ?」
わかってる……そんなこと、わかってるよ……
「佐倉が、もうすぐ迎えに来るから」
「連絡、したの?」
「一人じゃ帰れないだろ?」
「なんで慶太に連絡したのよ!」
「……君たちは、夫婦だろ」
そんな……こんな姿、慶太に見られたくない……
「一人で帰る」
「佐倉と話し合うんだ」
「話し合うことなんてない! 全部私が悪いの! 私が、全部……」
「今日のことは、俺達からは言わないから」
中村くんの言葉に聡子さんも頷いてくれた。
最低に情けない私。床にへたり込んで、ただ、ただ……震えながら、慶太を待つしかできない。
しばらくして、窓の外に、慶太のベンツが見えた。仕事なのに、来てくれたんだ……慶太……ごめんなさい……
「真純! 大丈夫か! ケガは!」
慶太は慌てて更衣室に飛び込んで来て、私の手を取った。
「血が出てるじゃないか! 病院、病院行かないと!」
「佐倉、ちょっと……」
「なんだよ! ケガ、真純のケガが……」
「とにかく、ちょっと来てくれ」
中村くんは、慶太の腕を掴んで、更衣室を出て行って、外から、二人の会話が聞こえてくる。
「なんだよ!」
「門田さん、かなり、その、動揺してるんだよ」
「動揺? ケガでか? そもそも、なんで真純がここにいるんだよ!」
「とにかく、今は、門田さんのこと……見守ってあげて」
「な……何があったんだよ……転んだって……」
「車は、うちの社員に届けさせるから」
中村くんは、それ以上、何も言わなくて、慶太も、それ以上、何も聞かなかった。
「……わかった……」
慶太は、少し落ち着いた様子で、部屋に入って来て、私を立たせようと、肩を抱いた。
「病院、行こうか」
「行かない」
「まだ、出血してるし、診てもらわないと……」
「大丈夫なの」
「そうか……あの、聡子さん、お世話になりました。中村も、ごめんな、迷惑かけて……」
「いえ……じゃあ、真純さん、お大事にね……」
聡子さんは少し腫れた目で、無理に微笑んで、私達を見送ってくれた。
「仕事……抜けて来たんだよね……」
「いいんだよ」
慶太は運転席で、優しく微笑んだ。
「ケガしたって言うから、ビックリしたよ」
「……何があったか、聞かないの?」
慶太はもう、何も言わなかった。何も言わずに、無言のまま、私達は、家に着いた。
リビングはエアコンをかけっぱなしで、ソファは、将吾と過ごしたままで、テーブルには、グラスが二つと、シンクに、手紙の燃えかす。
そして、包丁が一本抜けた、ナイフセット。
慶太はそれをじっと見て、少し、目を閉じて、でも、明るく、無理に笑って、私に言った。
「お腹、すかない?」
「……うん……」
「ピザでも、とろうか。メニュー、どっかにあったよな……部屋だったかなあ」
慶太はメニューを探しに、ううん、きっと、もう、ここにいられなくなって、リビングのドアを開けた。
「慶太……」
背中のままの彼は、俯いたまま、小さな声で、言った。
「……昼間、誰か、来てたの?」
「……うん」
「杉本か?」
あなたは、頭がいいから、きっともう、何があったのか、わかってるんだよね……
「どうしようもないの……私……どうしたらいいかわからなくなって……」
急に……傷が痛い。ズキズキする。痛いよ……
でも、こんな傷の痛み、私が傷つけてきた人達の心の傷にくらべたら……
「聡子さんを……聡子さんが憎くて……私……大変なこと……警察に、行くわ……このままじゃ、私……」
慶太は目を閉じて、深呼吸して、私の右手を握った。
「真純、よく聞いて。今日のことは、聡子さんも、中村も、なかったことにしてくれてる」
「そうだけど……でも……」
「警察に行けば、何があったのか、何が原因なのか、杉本や聡子さんも聞かれるんだよ。……子供たちが、傷つくことになるんだよ」
そんな……そんなこと……
「それに、こんなこと言いたくないけど、俺や俺の実家には、立場ってものがある。わかるよな?」
「うん……」
優しく、包むように、抱きしめてくれる。
でも……私……あなたの優しが、つらいの……
「俺は、何があっても真純の味方だからね」
「慶太……どうして……?」
「何が?」
「どうして、そんなに優しくしてくれるの? こんなに……自分勝手で、ワガママで……なのに……慶太も将吾も、聡子さんも中村くんも……みんな私に……こんな私に優しくしてくれる……どうしてなの? ねえ、慶太……どうしてそんなに優しいの?」
「真純のこと、愛してるからだよ。みんな、真純のこと、大切に思ってる」
慶太は私をソファに座らせて、ギュッと、右手を握った。
「手紙……」
「手紙?」
「慶太の部屋の押入れから、昔の荷物が……」
「昔、杉本からあずかったんだ」
「……どうして、言わなかったの?」
「言えなかった」
「どうして?」
「たぶん、自信がなかったのかな。あの荷物を見せたら、真純が杉本の所に戻るんじゃないかって、不安だった……俺は、杉本からお前を、金で奪ったから……杉本とお前は……本当に強い絆で……愛し合ってるんだなって、悔しかった」
「私のこと……本当に好きだったの?」
「たぶんな。自分でもわからないんだ。でも、ただ、真純を失いたくなかった。俺のものに、したかった」
彼の声は震えていて、きっと、必死で、涙を堪えている。私を不安がらせないように、必死で、優しい顔をしている。
「手紙のこと、知ってたの?」
「それは……わからない。手紙って、何?」
「荷物の中に、手紙が入ってたの」
「荷物は、開けただけで、中は出してないから……手紙が入ってたんだ」
「うん……それを読んでね……私……」
「杉本のこと、思い出したんだね、また」
私は、素直に、頷いた。
「それで、会ったんだね……ここで」
「母親のこと、心配してくれて……連絡くれたの。だから私、会いたいって、言ってしまったの……将吾はね、慶太がいないってわかると、帰るって言ったの。でも、私……将吾、優しいの……いつもね、将吾は私に優しいの……」
「杉本は、誰にでも優しいやつなんだよ。お前を奪った俺にも、あいつは優しくしてくれた。俺を責めることなく、幸せにしてやってくれって、そう言ったんだ。俺は、あいつには勝てないって、あの時思った。真純の荷物をあずかった時、俺は永遠に、杉本には勝てないって」
慶太はネクタイを外して、丸めてテーブルに置いた。そこは、将吾のスマホとタバコが、置いてあった場所。
ほんの数時間前、私は、ここで、将吾と……
それも、将吾の優しさ? 優しいだけなの? 私のこと、愛してるわけじゃないの?
愛して……るのは、私じゃなくて……もう、私じゃない。私じゃない……わかってるのに……
「痛い……」
「ケガ? 痛いの? やっぱり、病院行こう。今ならまだ診てもらえるから」
「転んだの……」
「そうだよ。真純は転んで、たまたま落ちてた刃物で手を切った。それでいいんだよ。さ、着替えておいで」
「うん……」
怖い……怖いの……急に……慶太……私、どうなるの……これからどうなるの?
震える私を見て、慶太は大丈夫だよ、って、微笑んだ。
「一緒に、来て……」
一秒でも、一人になるのは怖かった。たとえ、自分の部屋でも、一人になったら、自分が何をしてしまうか、わからない。
「一緒に行こう」
「……慶太……怖いの……」
「真純……」
「私……どうしてあんなことしてしまったのか……わからないの……」
「大丈夫だから。ね、俺が、そばにいるから」
「一人にしないで……」
「しないよ。俺は真純のそばにいるよ。ずっと、真純のそばにいる」
慶太は優しく笑った。
まるで……昔の将吾みたいに……昔の……私が好きなのは、昔の将吾……
将吾が好きなのは、昔の私……
昔の……もう戻ることのできない、あの頃の……
「慶太……私……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……私、私……」
「いいんだよ、さ、病院行こう」
もしかしたら、夢かもしれない。もしかしたら、妄想かもしれない。
でも、左手の痛みは本物で、駐車場にBMWはなくて、やっぱり、現実なのね……
「松永さんの紹介だから、すぐ診てくれるって」
「なんて言えばいいの? なんでケガしたかって聞かれたら、なんて言えばいいの? ねえ、なんて言えばいい?」
「転んだって言えばいいよ」
「転んだ……転んだ……転んだ……」
「真純、落ち着いて」
「嘘だってわかったら、私……どうしよう。警察に行くの? 逮捕される?」
「大丈夫だから。心配しないで」
また、あの感覚……
寒い……熱いはずなのに、凄く寒い……体がガタガタ震える……息が苦しい……心臓が……吐きそう……
「気持ち悪い……」
「吐きそう?」
車を停めてくれて、側溝にしゃがみこんだけど、何も吐けなかった。
慶太は背中をさすりながら、私の顔を覗き込んだ。
「どう?」
「もう、いい……」
「車にビニールあるから、それに吐いたらいいよ」
「どうしました?」
後ろから声がして、振り返ると、自転車のおまわりさんが、懐中電灯で私達を照らした。
「妻が気分が悪いというので」
私を、追いかけてきたのかもしれない……どうしよう……
おまわりさんは私をじっと見た。不自然に顔を背ける私に、おまわりさんは訝しげな目をしてる。
「そうですか、でも、ここは駐停車禁止なんです」
「すみません……急だったので……」
「大目にみますから、すぐ、車どかせてください」
「ありがとうございます。助かります」
車に乗ろうとした私に、おまわりさんが言った。
「奥さん」
な、何?
「これ、違いますか?」
髪をまとめていたシュシュが、はずれていたみたい。
「そ、そうです……」
「お大事にね」
もう、生きている感覚がしない。
もう、自分がどうなっているのかもわからない。
「死にたい……」
運転席の慶太は、何も言わない。
時々、照らす外灯にうつる慶太の目は、真っ赤で、ただ、前を見て、運転している。
「もう、死にたい」
何か言ってほしかった。
でも、慶太は、ずっと、黙ったままで、もう、私の顔も、見てくれなかった。
RPG
「写真より、お綺麗ですね」
「なんか、言った?」
「奥さん、お綺麗ですね、っていいました」
へえ……こいつ、女に興味あったんだ。
でもまあ、褒められて悪い気は、しない。真純は、ほんとに美人だから。
「ああ、なかなかの美人だろ?」
「所長と、お似合いです」
「どうしたの、お前」
「何がですか?」
「いや……別に……」
山内は大学のゼミの二つ後輩で、俺と同じく、頭がいい。
会計士としては、悔しいけど、俺より優秀で、クライエントからの信頼も厚い。
正直、企業の会計顧問は、こいつでもってるといってもいい。
独立してから、一番最初に声をかけたのが山内で、報酬に食いついて、あっさり俺の事務所へクライエントを連れて来た。
そう。こいつは金で動く。だからこいつには、破額の報酬を出している。しっかり働いてもらわないとなあ。
「真純の写真なんか、見たことあったっけ?」
「Facebookで」
ああ、そうか。お偉方のパーティの写真をアップしてたんだっけ。書いてるのは、藤木。俺はSNSなんてものには、全く興味ない。
よく見ると、山内は結構なイケメンで、スーツや持ち物のセンスもいい。背も高いし、スタイルも悪くないか。
この俺のかっこいいベンツを運転していても、違和感はまったくない。
「お前さ、女、いるの?」
「関係ないでしょう」
「三八だろ? 結婚とか、興味ないのかよ」
「ありませんね」
山内は神経質にメガネを触って、本気で鬱陶しそうな顔をした。
「でも、奥さんみたいな女性なら、考えてもいいかな」
「な、何言ってんだよ!」
「僕につり合う女性は、それくらいのレベルだってことです」
「お前、ナルシストだな」
「僕以上の女性がいないだけです」
あー、俺が女なら、こんな男は絶対ムリ。
「真純は、お前以上なの?」
「そうですねえ。僕の好みの雰囲気ではあります」
ちょっと……こいつ、まさか、真純を狙ってんのか?
「安心してください。他人の所有物には興味ありませんから」
「し、心配なんかしてないし」
「わかりやすいですね、所長」
山内は鼻で笑った。なんだよ、こいつ! こういうとこが嫌いなんだよ!
「でも、どうしたんですか?」
「何がだよ」
「今まで、顔すら出したことなかったのに、急に事務所に入るなんて」
「……営業面を強化したかったんだよ。タイミング良く、仕事辞めたから」
「なるほど。よほど優秀なんですね」
「まあな」
「楽しみだなぁ。優秀な人間と仕事するのは、自分の糧にもなりますからね」
「金のことはさっぱりだから、教えてやってくれよ。頭はいいから、すぐ覚えると思うし」
「ところで、所長の仕事内容はご存知なんですか?」
「まあ、だいたいはな」
「なら、いいですけど」
俺の仕事……そんなこと、真純がわかってるはずない。
違法スレスレの仕事だからな……いつ、手が後ろに回ってもおかしくない。
「着きました」
「山内、お前に任せるから、しっかりやれよ」
「はい」
新規のクライエントとの交渉も上手くいった。
やれやれ……このご時世だからな。新規のクライエントを掴むのも一苦労なんだよ。
「二時か……腹減ったな。なんか、食って行こうぜ」
俺達は、通りすがりのファミレスに入った。
真純、ちゃんと帰ったのかな。電話してみるか。明るくはしてたけど、やっぱり、落ち込んでるだろうし。
コールはするけど、真純は出なかった。どうしたんだろう。何かあったんじゃないだろうな。
もう一度かけようとした時、外で電話をしていた山内が、慌てた様子で入ってきた。
「所長、調査が入ります」
「え? どこに」
「神谷先生の……」
マジかよ。危ないと思ってたんだよな……
「すぐ行くって言え」
「わかりました」
俺達は注文をキャンセルして、店を出た。腹減ったなぁ。
神谷の事務所につくと、かなり動揺した様子の秘書が俺を待っていた。
「佐倉先生、どうしましょう」
「落ち着いてください。我々に任せて。山内くん、帳簿」
「はい」
山内は慣れた調子で帳簿データを出して、コピーし、次々に『修正』していく。
「調査はいつ入る予定ですか」
「たぶん……明日の朝一で……」
「なら大丈夫です。まだ時間はありますから」
笑顔で言ったものの、正直不安。
ここの資金繰りはかなりブラックで、ツッコミどころ満載だ。関わりたくはなかったけど、松永さんの知り合いとなれば、断れない。ああ、やっぱり断っときゃよかったなあ……
「所長、これで……」
「うん……いや、これだと不自然だな。三年前のデータ見せて」
長丁場になりそうだ。夜までかかるな、これは……
時間は三時。真純、どうしてるかな。無事帰ったよな。
どうも真純が気になって集中しきれない。電話してみるかな……
そう思ってる矢先、真純からの電話が鳴った。
「真純?」
「うん。電話、出れなくてごめんなさい」
「いや、ちゃんと帰ったかなって思って」
「うん。帰ったよ」
「どうやって帰ったの?」
「電車」
「え? 藤木に送ってもらえばよかったのに」
「いいの。藤木くんも、忙しそうだったし」
「そうか……ああ、今日、遅くなるんだ。十一時までには帰るから」
「ご飯は?」
「食べて帰る」
「わかった」
なんか、いいことでもあったのかな? 声がなんとなく、弾んでいた。まあ、いいか。
落ち込んでるかと思ってたけど、明るくしてくれてるなら、別にいいよな。もう、退職のことはふっきれたのかもしれない。
来月から、新しい生活。俺達は、文字通り、二四時間、三六五日一緒! ああ、楽しみだなあ。
これで杉本も、田山も、あんなヤツラに入り込まれることはないってわけだ。
さて、これで集中できる。俺のクライエントに、調査なんて関係ないんだよ。
時計は七時を指して、窓の外が薄暗くなりかけたころ、電話が鳴った。
え? 中村? なんだろう……
「久しぶりじゃん。珍しいな、お前から電話なんて」
「ああ、今ちょっといいか……あの……門田さんが……」
「真純? 真純がどうかしたのか?」
「ケガをな……」
「ケガ? ケガって、どういうことだよ!」
「うん……こ、転んで、その、手を切ったみたいで……」
「ひどいのか!」
「いや、ケガはそんなに……あのさ、迎えに来てくれないか」
「わ、わかった。どこだよ」
「俺の会社」
「中村の? わかった、すぐ行く!」
その時の俺は、かなり動転していて、なぜ真純が中村の会社にいるのかとか、なぜ真純がそんなところでケガをしたのかとか、そんな単純なことすら考えられなかった。
「何かあったんですか」
「あ、ああ。真純がケガしたらしいんだよ。悪いけど、後頼んでいいか?」
「わかりました。もう少しですから」
「悪いな」
「大丈夫です。本来ならば、僕の担当ですし」
「何かあったら、電話くれ。ああ、車、乗って行っていいか?」
「ええ。僕は適当に帰ります」
胸騒ぎがする。
電話じゃ、あんなに明るかったのに……
真純、何があったんだよ? 待ってろよ、すぐ行くからな!
診察室で、真純はしきりに、転んだ、と繰り返していた。処置室で処置してもらってる間も、転んだ、と繰り返している。
「あの、ケガは……」
「傷自体は、深くはありますが、神経にも触ってませんし、縫う程でもないでしょう」
「そうですか。よかった……」
「ただ、ちょっと、精神的に動揺されてるようですね。転んだにしては、傷が不自然ですが……本当に転んだだけですか?」
この病院は、松永さんの紹介で、ある程度の融通は利く。
「私は、その場にいなかったので……でも妻は、転んだだけだと」
「そうですか。ご本人がそうおっしゃるならね……精神安定剤を出しておきましょう。今夜は飲ませてあげてください」
精神安定剤……
正直に言うと、俺は、もうどうすればいいのか、わからなくなっていた。
今日のことだって、普通の状態じゃなかったはずだ。正常な意識の中で、あんなこと、するわけがない。
なんとなく、俺はずっと、真純の変化を感じていた。
あの夜から、真純は、急に泣いたり、急に笑ったり、急に怒ったり、急に不安な顔をしたり……
俺は俺なりに、真純を受けとめる努力をしてきたけど……俺じゃ、ムリなのかな……
「ご主人、大丈夫ですか」
泣いてしまいそうだ。俺……限界かもしれない……
「何か、ご心配なことがありますか?」
「いえ……」
「奥様は、ずいぶん不安定な状態のようです。もし、よろしければ、心療内科か、精神科か、紹介状を出しますよ」
「精神科……妻は、病気なんですか。うつ病とか、そういう……」
「それを知るためにも、受診をおすすめします。一度、ご夫婦でゆっくり、話し合われてみては。それにご主人自身も、少しお疲れのようです」
「妻が、わからないんです……俺、どうしたらいいのか……」
「病名をつけることが、必ずしもいいことだとは思いません。しかし、周りの人までが、疲れてしまったら、奥様は誰を頼りしにしたらいいんでしょう。ご主人、あなたしか、いないのでは? 奥様が頼りにできる人は……適切な治療をすれば、奥様も、ご主人も、いい方向に進むはずです」
俺しか、いないのか。
真純には、もう、俺しか……俺が、すべて奪ったのか……
待合室には左手を吊った真純が、震えながら座っていた。
その真純は、いつもの美人で、イケてる妻じゃない。
弱々しくて、小さくて、まるでずぶ濡れの、汚れた捨て猫のような、哀しい……女。
真純……俺……ごめん……もう……
最低だった。
俺は、真純に気づかれないよう、裏口から、病院を出た。
震える真純に背中を向けて、俺は……
駐車場で、ベンツのエンジンをかけた。
助手席には、真純の持っていたハンドタオルが、少し湿ったハンドタオルが、落ちていた。
「どうすればいいんだよ! 誰か教えてくれよ! もう限界だよ!」
運転席で、俺は、叫んだ。
涙が止まらない。手が震える。息が苦しい。
「なんでなんだよ……なんで……なんで、俺じゃダメなんだよ……」
携帯が鳴る。
たぶん、病院からだ。
俺を探している。支払いも、できないんだろう。どうしたらいい。逃げたい。逃げたいんだ。
「佐倉さんですか? すみません、奥様がお探しで……お会計ができないんです」
「……請求書を、送ってください。必ずお支払いします」
「佐倉さん? ちょっと、さくら……」
「知るかよ……もう知らねえよ……あんな面倒な女……もう知るかよ!」
ハンドブレーキを解除して、ヘッドライトをつけた。
ギアを入れると、エンジンが回って、ブレーキペダルから、足を……はずせない……はずれない……
『受けとめてやってくれ。過去も、今も、未来も、全部』
どこからか、杉本の声が聞こえた。
そして、耳の奥で、真純の声が聞こえる。
『私のこと、好き?』
真純……真純……好きだよ……好きなんだよ……
「好きなんだよ! 真純! 愛してるんだよ!」
置いていけるわけがない。
一人にできる、わけがない。
俺にはそんな選択、できるわけがない。
「慶太……どこに行ってたの?」
「ごめんごめん。銀行に、お金をおろしにね」
真純は子供みたいに背中を丸めて、下を向いて、泣いていた。
雑にまとめた髪は乱れていて、化粧ももう落ちてしまってる。
こんな真純は、初めて見た。
いや……これが本当の真純なのかもしれない。
虐待され、虐められ、荒んだ少女時代の真純は、こうだったんだろう。
もし、その時代に真純と出会っていたら、俺は好きになっただろうか。
いや、きっと、眉を顰めて、せせら笑っていた。周りと一緒になって、虐めていたかもしれない。俺は、そんな、人間だった。
俺を変えてくれたのは……真純……真純なんだよ……
「すみません。手持ちがなかったもので」
支払いを済ませ、俺達は駐車場へ向かった。
真純はずっと泣いていて、俺はその手を握ることくらいしか、できない。
だって、気を抜いたら、俺も、泣いてしまうから。
ふと携帯を見ると、中村からの着信があった。あ、そうか……車か。
「ごめん、中村。病院だったんだよ」
「ケガ、どう?」
「ああ、もう大丈夫みたいだ」
「車、どうしよう、遅くなるけど、いいか?」
「いや、迷惑じゃなかったら、置いといてくれ。明日、俺が取りに行くから」
「それは構わないけど……じゃあ、都合のいい時に取りに来てくれ」
「……中村、本当に迷惑かけたな……」
「友達だろ? 気にすんなって。じゃ、お大事な」
中村は笑って電話をきった。なんていい奴なんだ、中村は……心底、感謝するよ。
中村のおかげで、少し落ち着いた俺は、現実を取り戻していた。
ああ、そういえば、山内。どうしたかな。電話してみるか。
「山内、どうだ?」
「まあ、形はなんとか。奥さん、大丈夫なんですか?」
「ああ……まだかかりそうなのか」
「もう少しってとこです」
「行こうか?」
「……来ていただけると、ありがたいです」
山内がそんなことを言うのは滅多にない。よほど、手こずっているんだろう。
助手席では、薬が効いたのか、真純が眠っている。しばらくは寝ているかもしれない。
「わかった。今から戻るから待ってろ」
俺は真純を乗せたまま、神谷の事務所へ向かった。車を止めても、真純は眠っている。
「真純?」
声をかけても起きない。大丈夫かな……
真純を残して、車を降りた。
エアコンをかけておけば、暑くはないだろう。あの窓から、車は見えるはずだ。
「所長、すみません……」
「いや、悪かったな。さ、やってしまおうぜ」
山内は、外のアイドリングしたままの車を見て言った。
「奥さん、乗ってるんですか?」
「いいんだ」
一秒でも、時間がもったいない。できる限り、早く終わらせたい。
俺達は無言で、データの修正を続ける。時折、秘書がウロウロと見に来て、鬱陶しいこと、限りない。
一時間程で、データの修正が終わり、書類も整った。
「よし、これでいいだろう」
「先生に説明してきます」
「頼む。俺、挨拶だけして、帰るわ」
もう、どうでもいい。適当に挨拶をして、急いで車に戻ったけど……
「真純!」
助手席に、真純の姿はなかった。
嘘だろ……真純……
いつだろう。ずっと車は見ていたのに……挨拶している間なら、そんなに遠くには行ってないよな……
「所長、どうしたんですか?」
「や、山内……真純が……真純がいないんだよ……」
「えっ? トイレとかじゃ……」
「真純、ちょっとおかしいんだよ……探してくる。お前、ここで待っててくれ」
「わかりました」
辺りを探したけど、真純の姿はない。
どこに行ったんだよ……真純……まさか、事故とか……自殺とか……
嫌な考えが頭の中をグルグル回って、吐き気がする。
一瞬でも、真純を捨てようとしてしまったことが、俺を追い詰める。
あんなことするんじゃなかった。
どうしよう、真純、そんなつもりじゃなかったんだ……
「所長、通報しますか?」
「そうだな……こんな時間だしな……」
車に乗ろうとした時、携帯が鳴った。知らない番号。誰からだろう。
「佐倉慶太さんで間違いありませんか」
「は、はい……」
「こちら、駐在所です」
駐在所……まさか、事故にあったとか?
「奥様なんですが、道に迷われたみたいで、こちらで保護してます」
「妻がそこに、いるんですか! 無事なんですか!」
「はい。ご主人に連絡してほしいと言われたので、ご連絡しました」
「すぐ行きます。場所はどこですか」
駐在所は、すぐ近くで、フラフラと泣ながら歩く真純を、警官が保護してくれたらしい。
「真純……ダメじゃないか! 心配するだろ!」
「ご、ごめんなさい……目が覚めたら、知らない所で、慶太もいないからびっくりしたの……」
「ケガはない? 大丈夫?」
「うん……おまわりさんに、助けてもらったの……」
パイプ椅子に、身を屈めて座る真純。
サンダルをひっかけた素足は汚れていて、膝は擦りむけている。
「ころんじゃったの」
「そうか。家に帰って、消毒しょうか」
手を差し出すと、真純は、小さな子供のように、俺の手をぎゅっと握って、身を寄せた。
「お世話になりました」
「いえ、お気をつけて」
家に着いたのは、もう十二時前になっていた。
玄関で、汚れた足を拭いてやると、風呂に入りたいと言い出した。
「シャワーだけでガマンして。また出血したらダメだから」
「うん」
「髪、洗ってあげるよ」
汚れた服の下の体は真っ白で、なぜか、いつもより、艶かしい。
左手を濡れないようにビニールで包むと、不自由そうにする。
その姿が、また俺の、あのおかしな感情を呼び起こした。
バスチェアに座る真純は、少し俯いて、シャワーを浴びる。
髪が濡れて、白い首に巻きついて、そして、俺の手も……
鏡に映った俺達は、まるで映画のワンシーンのよう。
「真純……」
Tシャツとパンツ姿の俺は、シャワーの湯を浴びながら、無抵抗な女の首を、しめている。
「……け……い……た……」
水音に混じって、掠れた声が聞こえた。
「ご……め……ん……な……さ……」
できないよ……
やっぱり、そんなこと……
手が離れると、真純はぐったりと、俺の胸に、体を凭れさせた。
「電話がね、かかってきたの」
掠れた声で、呟いた。譫言のように、空を見つめて、ぼんやりと、呟く。
「凛ちゃんから、電話が……お菓子をね、買ってきてって……だから、私ね、クッキーをあげたの。ほら、もらったのに、ずっと食べずにおいてたクッキー、あれをね、娘ちゃんたちにって、渡したの」
「そうか」
「よかった?」
「構わないよ」
「将吾ね、パパって言ってた。自分のこと……」
「パパ、だからな」
「聡子さんのことはね、ママって言ってた……宿題しとけってね、優しくね……」
シャンプーをつけて、髪を洗う。
泡がたって、真純の肩や背中が、ふわふわと、染まっていく。
なんていうか、まるで、小さな娘の髪を洗っているような気持ち。
「俺達にも、子供がいたら、少しは違った生活だったかな」
「子供、欲しかった?」
「結婚したころはね、欲しかったかな」
こんな話をするのは、初めてだね。
子供なんて……考えることも、なかった。
「私ね……あんな嘘ついて……後悔したわ……」
「もう、昔のことだよ」
真純は、あの嘘をずっと背負ってたんだ……この十六年、真純はずっと、自分のついた嘘に苦しんで……
「離婚して欲しかった……ずっとね、別れようって、言って欲しかったの……」
そうだったんだ……俺はてっきり……この生活さえできれば、真純はいいと思ってた……
それがずっと、俺の唯一の方法だったのに……
「今は?」
「今は……今はね……幸せなの……なのに、私……」
うなじに長い髪が流れて、白いおっぱいが少し紅く染まり始めていた。
「そろそろあがろうか」
「……子供は、裏切れないって……」
そう言って、真純は、ふらふらと立ち上がった。
「嫌いにならないで……」
「ならないよ」
抱きしめた真純の体は、柔らかくて、痩せていて、シャワーのせいか、熱かった。
「俺もシャワー浴びるね。先にあがってて」
「ここで待ってる」
「すぐだから」
「ここで待ってる」
「じゃあ、待ってて」
バスタブの淵に座った真純は、俺の体をじっと見ている。
何を、考えてるんだろう。杉本の体を思い出してるんだろうか。それとも、比べてるのか?
「お腹、出てないね」
「そうか?」
「中村くん、お腹出てた」
「そうだなあ。あいつも、おっさん化が進んでるよなあ」
俺達は思わずちょっと笑ってしまって、少し、緊張が解けた。やっぱり、中村のおかげで。
バスルームから出て、真純の髪にドライヤーをあてる。長い髪は、なかなか乾かない。
「なかなか、乾かないもんだね」
「切ろうかな。短く」
「俺は長い髪の方が、好きだけどなぁ」
その言葉に、真純は、俺に抱きついて、胸に顔を埋めた。
「慶太、かっこいいね」
「なんだよ、急に」
「ずっとね、慶太の隣にいて、恥ずかしくない子になりたかった」
「恥ずかしくないよ」
「ううん、恥ずかしかったの」
「真純は、最高だよ。美人だし、色っぽいし、可愛いし」
「おばさんなのに?」
「俺もおっさんじゃん」
バスローブの胸元からのぞくタニマに、手を入れると、真純は、恥ずかしそうに笑った。
その顔が最高に可愛くて、俺は、もう、完全に欲情……しちゃうじゃん。
「私のこと、好き?」
「好きだよ……ほら、こんな感じだよ、もう……」
押し付けた俺を、ちょっとだけ触って、クスクス笑う。
可愛いなあ。やっぱり、俺、真純と離れることなんて、できないや。
「ガマンできなくなっちゃうよ。前、向いて」
しかしまあ、昼間、他の男と会っていた嫁さんに欲情するなんて……異常かな、俺も……
「さ、乾いたよ」
ドライヤーをあてた後の髪はまだ温かくて、うなじに汗で、はり付いている。
真純は、いつものタオル地のワンピースに着替えて、ベッドに寝転んで、少し手が痛いと言った。
「痛み止め、飲む?」
「うん」
「取ってくるから、待ってて」
もう随分落ち着いたのか、ついてくるとは言わず、ベッドに寝転んだまま、素直に頷いた。
薬を飲み終えると、痛くなくなったって、真面目な顔で言った。
そんなすぐに効くわけないだろ。
心の中でつっこんで、改めて、そんな真純が可愛くて仕方がない。
可愛いから、俺は……
「真純……杉本と……その……」
情けないけど、もう聞かずにはいられない。
真純は俯いて、首を横に振った。
「して……ないんだよね?」
少し間があって、真純は、微かに頷いた。
「杉本の所に行きたいの?」
もうそれは、一世一代の質問で、心臓が飛び出そうなくらいドキドキして、真純の返事を待った。
だけど、真純は答えず、天井を見上げたまま、ぼんやりと言った。
「……慶太、私の背中、きれい?」
「背中? ああ、きれいだよ。白くて、艶っぽい」
「聡子さんのね、背中ね……火傷の痕があるの……大きな痣……昔、家が火事にあって、その時に、火傷したんだって……」
「そうなんだ……」
「将吾だけなんだって……その痣を見ても、変わらなかった人……私もね、子供の頃からずっと、将吾に助けてもらってた。みんなね、私のこと、汚ないとかね、クサイとかね……でも、将吾だけは、そんなこと言わなかった。ボロボロの、本当に汚ない子だったの、私。それでも、将吾だけはね……優しくしてくれたの……こんな私をね、好きだって……将吾は友達も多くて、女の子にももててたのに……なんで私だったのかなって……」
今では、そんなこと考えられないくらい、綺麗になった真純を、杉本はどう思ってるんだろう。
「きれいになりたかったの。変わりたかった。広島での私を、全部捨てたかった」
そして真純は、初めて、俺の知らない真純を、話し始める。
「将吾と東京に来て、一緒に暮らして……貧乏だったけど、幸せだった。でも、将吾は……いつまでもね、変わらないの。昔のまま、方言も、見た目も、中身も、全然変わらない。だから私、将吾がだんだん……イヤになってた。この人といたら、私はずっと、広島の、あの惨めな自分のまま、変われないんじゃないかって……それに……お金も欲しかった。東京の女の子達みたいに、ブランドのバッグとか服とか、オシャレな美容院にも行きたかった。でも、将吾は、そんなことしなくていいって言うの。東京のね、華やかな女の子たちに憧れる私を……引き止めるの……お前はそのままでええって、そう言うの。私を抱きながらね、いつも、お前が一番キレイやって……そんなわけないのに……きっといつか、将吾も東京の女の子の方がいいって、私を捨てるんだと思ってた。垢抜けた、オシャレな女の子の方がいいに決まってるって……」
「だから……俺だったの?」
「いけてる女になれって、言ったでしょ? あの時、私、本当に全部捨てる覚悟をしたの。もう、全部変えてやるって。バイトして、お金貯めて、洋服や化粧品を買って、雑誌のモデルさんと同じ格好をして……そしたらね、男の人が私に寄ってくるの。今まで知らん顔してた大学の子たちもね、私の周りに集まり始めて、なんだ、簡単なんだって思った。結局、見た目だけなんだって。それさえよければ、こうやってチヤホヤされるんだって……最後はね、慶太だったの。リッチでイケメンの彼氏を連れて歩くこと。それで、私は完璧になれた……なれると思った……」
そうか……俺はずっと、真純の金蔓だと思ってたけど、違ったんだ。
俺は、真純のブランドのアクセサリーの一つにしか、すぎなかったんだ。
「ずっと自分が許せなかった……今も、許せない。こんな自分勝手に、人を傷つけて……あの、嘘でね、慶太が泣いた時、もう死にたいくらい、後悔した。一生、子供は……うんじゃいけないって、思った……」
本当の真純。今、隣で、涙を流しながら話すのは、本当の真純。
本当の真純は、優しくて、弱くて、臆病で、純粋で……寂しがり屋。
「将吾のことなんて、忘れてたの。でも、あの夜ね、将吾と偶然タクシーで会って……将吾、変わってなかった……でも、家族がいて、幸せなんだって、本当に安心して……心のそこからよかったって思えたのに……聡子さんを見てね……彼女、まるで昔の私で……悔しかった。将吾が派手な東京の女の子と結婚してくれてたら、こんな風にはならなかったのに……今の私は、外側だけなのかなって……私は、何を求めてたのかなって……わからなくなって……情けなくて……」
もう、それだけで、充分だった。
真純が心を揺らす理由。
それはきっと、未練とか、そんなんじゃない。
真純は、杉本のことを、追いかけてるわけじゃない。
真純が追いかけているのは、きっと、真純自身。
「初めてだね」
「え?」
「こんなに、真純が自分のこと話してくれたの」
「そう、ね……」
「やり直そうって、約束したじゃん。ずっと夫婦でいようって、約束しただろ?」
「……いいの? 私……」
「待つから」
「待つ?」
「そ、待つから」
「つらくないの? こんな私……裏切ったんだよ、慶太のこと……」
「真純を失う方が、もっと辛い」
それは、本心だった。
やっぱり俺は、真純が好きだ。真純のそばにいたい。理由なんてない。ただ、好きなんだ。愛してる。惚れてる。恋、してる。
「俺のこと、嫌い?」
「ううん、好きなの。とってもね、慶太のこと好きなの」
「アクセサリーとして?」
冗談のつもりだったけど、真純が悲しそうな顔をしたから、慌てて取り繕う。
ああ、こういうところ、俺、バカだなあ。
「冗談だよ。そんな顔しないで」
俺も真純を、アクセサリーとして扱ってた。
……変わらないよ、俺も。お前だけが、罪を感じることないんだよ。
「これからさ、本当の夫婦になろうよ」
「今日、中村くんに言われた。夫婦なんだから、ちゃんと話し合えって。……私達、話し合うって、したことないね」
「そうだな……そうだよね。俺達、夫婦として、何も話し合ってこなかったよな……」
真純の横顔は、すっかりキャリアウーマンの、凛とした顔に戻っていて、でも、どこか、少女のように可憐で、なんだか、真純が真純でないように見える。
初めて見る、真純の顔。
これが、本当の真純の顔なのかな……綺麗、可愛い、そんな単純な単語では表せない、不思議なオーラ。
「眠い?」
真純が目をこすってる。かわいいなあ。
「うん……」
「手は? 痛くない?」
「うん。今は痛くない」
「もう寝ようか。今日はいろんなことがあって、疲れただろ?」
「慶太は?」
「俺も寝るよ」
「疲れたよね?」
「疲れてないって言ったらウソになるな」
「ごめんね……」
「もういいんだよ」
横になると、急に睡魔が襲って来た。俺も結構、ヘトヘトだ。
「キスしよう」
「うん」
真純はちょっと笑って、目を閉じた。
俺達は軽いキスをして、でも、それだけでやっぱり終わらなくて、長いキスをした。
「おやすみ」
「おや……すみ……」
もう半分寝てるじゃん。これ以上は、今夜は、ガマン、だよな。
翌朝、身支度をしていると、真純が起きて来た。
「おはよう。早いんだね」
「ああ、どうしても抜けられない。一人で大丈夫? 松永さんに、来てもらおうか?」
「大丈夫。昨日みたいなことは、もうしないから……」
「昼過ぎには帰ってくるからね。不安になったら、すぐに電話して。いいね」
「大丈夫だよ。普通にお仕事して来て」
真純はそう言って、微笑んだけど、やっぱりどこか、不安そうな顔をする。
「傷、痛むようなら、痛み止め飲んで。ああ、森崎さんに来てもらおうか。ご飯とか、大変だろ? 連絡しとくよ」
「いいの。一人でできるよ。右手は使えるんだから」
「そうか……じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」
家を出て、神谷の事務所へ向かう。これさえなけりゃ、休めたのに!
山内との待ち合わせは八時。十分前に着いたけど、山内はすでに来ていて、珍しく、落ち着かない様子で、何度も時計を見ていた。
「昨日、悪かったな」
「いえ、奥さん、大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっとケガしてな。動揺してたんだよ」
そうですか、と山内は上の空で言った。おいおい、そんなに緊張するなよ。
「調査なんて、何回もやってるだろ」
「……あのレベルの改ざんは初めてで……」
「改ざんじゃない。修正」
「修正、は初めてです」
ああ、そうか……こいつに、この事務所を担当させたのは、ちょっと……悪かったな。
「責任者は俺だ。安心しろ」
そのセリフに、山内が顔を上げた。
「所長」
「なんだよ」
「いろいろ、思うところはありますが、ボスとしては、尊敬してます」
「そ。なら、その尊敬するボスのために、一生懸命稼いでくれ」
山内はいつものように皮肉っぽく笑って、はい、と頷いた。
「さ、行くぞ」
調査員は血眼で帳簿やら記録やらを調べている。聞き取りも終わって、俺達の仕事は、終了ってとこだ。
また明日も来るらしいが、もう問題はないだろう。ちょろいもんだ。
歯ぎしりが聞えてきそうなくらい、苦い顔をした調査員と、安堵した神谷と秘書たち。何回もやってるけど、この落差が面白いんだよな。
ごくろうさん、残念でした、と調査員に心の中で舌を出して、俺達は神谷の事務所を出た。
「さすがですね。僕には到底無理な、修正です」
褒めてるのか、馬鹿にしてるのか。まあ、褒められたことにしておこう。
神谷の調査など、正直なところ、たいした問題ではなく、俺はもっとシビアな現実に直面していた。
冷静に考えれば、昨日の出来事は、立派な『事件』だ。
警察に訴えられれば、間違いなく、真純は逮捕される。それに……マスコミにでもリークされたら……
忘れがちだけど、俺の親父は、大物代議士。
義理の娘が、こんな事件を起こしたと世に知れることになれば、それこそ、真純が傷つくことになる。
とにかく、真純を守らないといけない。
中村だって、聡子さんだって、杉本だって……もしかしたら……金ってものは、人を変えてしまう。俺は金のプロ。金の恐怖は、よくわかっている。
「寄りたいところがあるんだよ」
「どこですか」
「友達の会社」
「営業ですか?」
「まあ、そんなとこだ」
途中で手土産の和菓子を買って、銀行で用意した二百万を白い封筒に入れた。
封筒と小切手は常備している。いつ何時、いるかわからないからなあ。
「車、乗って帰ってくれ」
「所長はどうやって帰るんですか」
「真純の車をあずけてあるんだ。会社に置いといてくれたらいいよ」
「ご自宅に届けます」
「任せるわ。俺、今日はこれで帰るから」
「わかりました。お疲れさまでした」
「お疲れ」
山内と別れ、事務所に入ると、聡子さんが、笑顔で出迎えてくれた。
「まあ、慶太さん! 真純さん、お怪我どう?」
聡子さんは、周りをうかがうように、小声で聞いてくれた。
「おかげさまで、たいしたことありません。あの、聡子さん。昨日は本当に……」
「まあ、どうぞ」
彼女は、俺の言葉を遮って、事務所の奥へ入って行った。
中では中村が無線で一生懸命何か指示してる。へえ、これが、配車ってやつか。いや、社会見学しに来たわけじゃなくって。
「社長、慶太さんが……」
中村は俺を見て、笑顔で手を振って、応接室のドアを指差した。
「こちらへどうぞ」
しかしまあ……
俺の事務所に負けないくらいの昭和感だな……でも、掃除されてる。うーん、やっぱり相田だと、ここまでは望めないか……
「しばらくお待ちくださいね」
「聡子さん、ちょっと待ってください」
出て行こうとする聡子さんに、和菓子を渡して、俺は、床に手をついた。
こうするくらいしか、俺には謝る方法がわからない。
でも、聡子さんは、慌てて屈みこんで、俺の手を取った。
「ちょっと、慶太さん! やめてください!」
「いえ……これくらいで許していただけるとは思ってません。本当に、この度は、申し訳ありませんでした」
「慶太さん……ね、私はケガもしてないし、いいんですよ。さ、頭を上げて……こんなことされたら困りますから」
土下座する俺の横から、中村が入ってきた。
「おい、佐倉、やめとけよ。そんなことされたら、逆に迷惑だ」
「中村……お前にも本当に迷惑かけて……すまなかった」
「もういいから。さとちゃん、お茶淹れてくれる? それと、杉本、呼んできて」
聡子さんが出て行くと、中村は俺の腕を掴んで、無理矢理立たせて、呆れた顔で笑った。
「もう、お前って奴は……さすがは政治家の息子だな」
「本気で、申し訳ないと思ってるんだよ」
「で、門田さんは? 大丈夫?」
「ああ……今は落ち着いてる」
「ならいいけどさ」
古いソファは、ギシギシと音をたてる。経営、厳しいのかな……
「……中村、これ、納めてくれ」
俺は、あの封筒を、テーブルに出した。
「なんだよ、これ」
「迷惑料だ。受け取ってくれ」
「いらねえよ」
「中村、頼む……いろいろ、迷惑かけただろ? 足りないなら……」
中村は、ふうっと、ため息をついた。
「佐倉、安心しろ。俺は門田さんやお前を傷つけるようなことはしない」
「でも……」
「そんなことできる人間なら、もっと会社大きくしてるよ」
そう笑って、タバコに火をつける。そして、優しい目で、
「友達じゃねえか」
中村……お前、こんな俺のこと……友達って、言ってくれるんだな……
「でも、これは俺の気持ちだから。慰安旅行にでも、使ってくれ」
でも、中村は受け取ってくれなかった。
二人の間に置かれた白い封筒は、悲しいほど、ただの紙切れにしか見えない。
「なら、お偉いさんの送迎、うちに出してくれよ。な? それでチャラだ。うちは無事故無違反、優良だぜ?」
「それで、いいのか?」
「うちにとっちゃあ、こんな金よりよほどありがたいよ」
「……そうか……ありがとうな……」
そして、中村は、封筒を俺のほうへ押し返して、呟いた。
「後悔、してるんだ」
「後悔?」
「さとちゃんを、杉本に紹介したこと。あいつ、門田さんと別れてから、荒れてさあ。毎晩毎晩、酔っぱらってはケンカして、暴れて、会社も危なかったんだよ。見た目はああだけど、中身は真面目なヤツなのに……酒が抜けないまま出社したり、無断欠勤したりな。見てられなかった」
そう話す顔は、とてもつらそうで、悲しそうで、ただ、黙って聞くのが精一杯だった。
「初めてさとちゃんを見た時、あいつ、真純って、呟いたんだよ。真純がいるって……それまでさとちゃんと門田さんが似てるなんて、思ったこともなかったけど、言われてみればああ似てるなあって思ってさ。あいつの気が少しでも紛れるなら、いいと思ったんだ。さとちゃんも、彼氏いなかったみたいだし、杉本も、本当はいい男だから、二人がいい方向に進めば、別にいいかなって。でもな……ダメだったんだ」
「どういう、ことだよ」
「杉本は、門田さんをよけいに忘れることができなくなった。さとちゃんとつきあいだしても、あいつ、全然おさまらなくて……時々、さとちゃんが、顔にあざを作ってくるようになって……」
愕然とした。
まさか、そんなことになってたなんて……
「俺、言ったんだよ。もう、さとちゃんと別れてくれって。門田さんのことが忘れられないまま、彼女を苦しめるようなことは、しないでくれって。でも、あいつは、さとちゃんを離してくれなかった。完全にな、あいつの中で、さとちゃんは、門田さんだった。つらかったよ。俺が、軽い気持ちで紹介なんかしたばっかりに、あの二人は、ずっと苦しんでた」
俺だけだと思ってた。
俺だけが、この二十年、苦しかったって、思ってた。
だって、杉本の社宅に行ったとき、そんな風に、全然見えなかった。二人は、幸せそうだって、そう思った。
俺は、俺達は、知らずに、こんなにたくさんの人を、苦しめていた。
「なのに、俺、また、バーベキューなんか誘っちまってさ……ことごとく、俺って、よけいなことしてるよな……」
中村は、全然、悪くない。全然、悪くないのに……
「お前は悪くない。悪いのは、俺だから」
「……こんなことになっちまって……俺、さとちゃんに申し訳なくて……」
ドアがノックされて、お茶を持った聡子さんと、制服姿の杉本が入ってきた。
「おお、こっち座って」
中村は、無理な作り笑顔で、俺の隣に移動して、その場所には、杉本夫婦が座った。
「杉本、本当に申し訳ないことした。この通りだ」
杉本は俯いたまま、俺の方を見ようとはしない。
「……真純は、どうや」
「昨日病院に行って、ケガは大したことない。今朝はだいぶ落ち着いてたよ」
「そうか……」
「でも、よかった。真純さんのケガ、心配してたのよ、ねえ」
聡子さんは、笑ったけど、杉本は、何も言わなかった。いや、言えなかった。
「聡子さん、杉本……これは、俺の気持ちです」
俺は、もう一つの封筒を出した。
「慶太さん、こんなもの、受け取る理由ないですから」
「いえ、でも……本当なら、警察に突き出されてもおかしくないんです。それを……穏便に済ませてもらって……」
「何もなかったんです。私がこう言ってるんだから、それでいいのよ」
「聡子さん……ありがとうございます……」
ことごとく、受け取ってもらえない白い封筒。
いったい、俺は何をしているんだろう。こんな紙切れ、なんの役にも……たたないんだな……
少し沈黙があって、杉本が口を開いた。
「社長……ちょっと、佐倉と話がしたいんやけど……」
「ああ、いいよ。さとちゃん、いいよね?」
「ええ。じゃ、慶太さん、ごゆっくり」
二人きりになった、古い応接間で、俺達は、重く、向かい合った。
「今回のことは……俺が悪かった」
「いや、どんな理由があれ、真純のしたことは許されない。本当に、申し訳なかった」
「昨日、真純と……会ったんや……」
「ああ、聞いてるよ」
「やっぱり、帰るべきやった」
「……杉本、一つ、聞いていいか」
「ああ」
「真純のこと……どう思ってる。たてまえじゃなく、本心を聞かせてくれ」
杉本は、ため息をついて、ぼそっと言った。
「好きやった……ずっと、忘れられんかった……」
「真純を、受け止める覚悟はあるのか?」
「……ない……」
杉本は、肩を震わせた。あの荷物を渡された時みたいに、杉本は、泣いていた。
「家族が、いるから?」
「それも、ある……でも……それ以上に……」
「聡子さん?」
「聡子は、俺の気持ち、わかってながら、ずっと俺についてきてくれた。荒れて、聡子に当たったこともあった……それでもな、聡子は……」
「一緒にいると、大切になるよな。俺もそうだよ。俺もいつの間にか、真純が大切になってた」
「昨日、真純と会って……気持ちが蘇ったのは確かや。でも、聡子を裏切るようなことをしたのは……真純を、女として……」
まさか……
「ただ……欲情したってことか?」
「たぶん、そうや……真純やからじゃなくて、女として、目の前にいる女に……」
「お前、ふざけんな!」
「傷つけてしまった……真純を……」
「真純はな、真純は……本気で、お前を……」
「真純を追い詰めたのは俺や……」
なんだよ……なんだよそれ……じゃあ、真純は……真純は、ただ、傷ついただけじゃないか……
「許してくれ……」
いつもの堂々とした、男っぷり満載の杉本はどこにもいなくて、俺の前にいるのは、打ちひしがれた、ただの、おっさん、だった。
「お前が謝るのは、俺じゃなくて、聡子さんだろ」
「佐倉、聡子が大事なんや……勝手なことゆうとるのはわかっとる。でも、俺は……聡子がおらな、生きていけん」
杉本……お前も、ただの男だったんだな。なんか、安心したよ、俺は。
「もう、真純には会わないでくれ」
「ああ、そのつもりや。もう二度と会わん。約束する」
「真純はな、お前のこと、まだ好きなんだよ。だから、お前が見えると、気持ちが揺れるんだ」
でも、俺の言葉に、杉本は顔を上げた。
「好きや、ないやろ。真純は、俺のことなんや、好きやない。そう、思いこんでるだけや」
「なんで、そんなことわかるんだよ」
「手に入れられんもんが、欲しいんや、真純は……ずっと、我慢の生活やったから、我慢できんのや」
そう言われてみれば、ブランド品も、アクセサリーも、自由に手に入れられるようになったら、真純は欲しがらなくなった。
「俺はもう、自分のものやないってわかってるから、俺を欲しがるんや。もし俺が真純のとこに行ったら、あいつは俺を捨てる。昔みたいにな」
真純をただの女だと言った杉本に、メチャクチャ腹がたったけど、元はといえば、俺が真純を奪ったんだよな。杉本は苦しんだんだ。今の真純みたいに、聡子さんとの間で、いや、真純以上に、苦しんだ。
「幸せに、してやってくれな」
そう言った杉本は、やっぱり、まだ真純を探していて、お前、まだ……苦しいんだよな……
今の俺に、できることが、一つだけある。あのことを、証明すればきっと、この二人は……
「杉本、協力してくれないか」
「俺にできることなら……」
「DNA検査、させてくれ。兄妹って証明されたら、憶測じゃなく、ちゃんと証明されたら、気持ちの整理がつくだろう? お前も、真純も」
その時は、それが最善の方法だって、俺は信じていた。
「わかった。協力する」
応接間の外では、中村が忙しそうに、無線で配車の連絡をしていた。
「悪いな、この通り、従業員兼社長なもんで」
「いや、忙しい時に来た俺が悪い」
「また、飲みに行こうぜ」
「ああ。車、ありがとう。乗って帰るわ」
「じゃあな。門田さんに、よろしく。おーい、さとちゃん、車の場所、教えてあげて」
はーい、と言って、聡子さんが走ってきた。
聡子さんと杉本が、駐車場で見送ってくれた。
あの日も、あの社宅でも、あの窓から、俺を、この二人は並んで、見送ってくれた。
「本当に、迷惑かけました」
「もういいって。また、みんなで遊びに行きましょう。ね、真純さん、お料理上手なんでしょ? 私、苦手なのよ。今度教えてもらいたいわ」
屈託のない、笑顔。
どうして、この人はこんなに、優しいんだろう。どうして、こんなに……何もかも、受けとめられるんだろう。
「言っておきます」
「あ、それから、これ……」
聡子さんの手には、紙袋があって、その中には、タオルにくるまれた、あれ、があった。
「見たくないかもしれないけど……一応、返しとくね」
俺は、初めて、予想を超えて、その現実の恐怖に襲われた。
「……大変なことになるところだったんだよね……」
「ケガ、お大事にって」
微笑んで、聡子さんは俺の手を軽く握ってくれたけど、杉本は終始無言で、車を出した俺に、軽く会釈した。
時計を見ると、一時を過ぎていた。真純、どうしてるかな……ちょっと遅くなったし、電話してみようかな。
「真純? 今から帰るよ。変わりない?」
返事はなくて、その代わり、真純のすすり泣きが聞こえてきた。
「おい、真純! どうしたんだ? 何かあったのか?」
「……違うの……なんかね……急に……」
「急に? どうしたの?」
「さ、さびしくなって……」
「どうして電話しないんだよ」
「……お仕事の邪魔になるから……」
「そんなこといいんだよ! とにかく、今から帰るから。……車だから、切るけど、大丈夫?」
「……慶太……早く帰ってきて……」
弱々しい真純の声に、俺はもういてもたってもいられない。
逸る気持ちを抑えられず、久々にムリな運転で、マンションの駐車場につっこんで、エレベーターのボタンを連打をして、ドアまでダッシュ!
「真純!」
でも、リビングに、真純はいなかった。
テーブルには真純がいつも買ってる、食べかけの菓子パンと、冷めたコーヒーがあって、テレビもついて、携帯も、置きっぱなし。
「真純? ただいま」
寝室と、真純の部屋を覗いたけど、やっぱり真純はいなかった。
俺の部屋かな? そう思って覗いたけど、やっぱり真純はいない。
どこに行ったんだろう……まさか……
絶対にそんなはずはない。絶対にありえない。
恐る恐る、ベランダの下を見下ろした。
もちろん、ベランダの下には何もなくて、膝がガクガクして、その場にへたり込む。
「そんなわけないよな……」
一人で呟いて、外に探しに行こうと、玄関に出ると、エレベーターホールからから真純の声が聞こえた。
「真純! どこに……」
「あら、慶太、おかえりなさい」
そう、笑顔で言った真純の後ろには、なぜか山内と藤木が立っていた。
「なんだよ、お前ら!」
「もう、慶太の車、届けにきてくれたんだよ。駐車場の場所、教えてあげたの。さあ、あがって」
いつものタオル地のワンピースにスッピンの真純に、部下二人はにやけ気味で、おじゃまします、と遠慮なく、ずかずかと入っていく。
「わあ、セレブですね! オシャレだなぁ!」
藤木がキョロキョロと見回す。確かに、インテリアのプロだからな、真純は。
山内が、ちらりと藤木と俺を見て、大きなバラとかすみ草と、ランの花束を真純に差し出した。
「真純さん、これ」
ま、真純さん? 馴れ馴れしいな!
「わあ、キレイなお花! でもどうして?」
「お怪我をなされたそうで。僕からのお見舞いです。真純さんのイメージに合わせたんですけど、気に入っていただけましたか?」
キ、キザ……山内って、こんな奴だったのか!
「うん、とっても! 私ね、バラとラン、とっても好きなの! ありがとう、うれしいわ」
山内に続いて、藤木が焦り気味に、小洒落た店で買ったらしきケーキを出した。
「こ、これは僕と、一応、相田からです」
なんだ、こいつら。真純にのぼせてんのか?
「まあ、ありがとう! ここのケーキ、おいしんだよね。みんなで食べようよ。お茶、淹れるね」
「僕がやりましょう。真純さんはケガ人なんですから、座っててください」
山内……お前、マジで真純を狙ってんじゃないだろうな……
「コーヒー淹れるの、結構得意なんですよ」
はあ? 事務所だとそんなことやったことねえだろ!
「ほんと? じゃあ、お願いしちゃおっかな」
「おまかせください。所長、コーヒーどこですか」
「ああ? こっちだよ」
「慶太、花瓶あったよね。これ、生けたいの」
「はいはい」
なんだよ……真純と仲良くしようと思ってたのに。
「あの、真純さん」
藤木、お前まで真純さんとか呼ぶな! 減給するぞ!
「ネットとか、つないでおきましたので」
「え? もう? 早いね! ありがとう。私、パソコンは使えるけど、ああいうのがほんとに苦手なの」
「簡単ですよ。今度、お教えします。それと、これ、僕が会計の勉強始めたころに使ってた本です。よければ読んでみてください」
「わ、ありがとう! ネットでね、いろいろ探したんだけど、どれがいいかわかんなくて……慶太の本は難しいし。遠慮なく借りるね」
藤木は明らかに、本を広げる真純の胸元を凝視している。
おい、人の嫁さんを、エロい目で見るんじゃねえよ!
「藤木! 手伝えよ!」
「え? はあ……」
藤木は渋々立ち上がって、ケーキやら皿を運び始めた。
「これ、いい豆ですね」
うん? おお、山内。お前はわかるのか!
「そうなんだよ。これさ、あんまり日本では売ってなくて」
「へえ。店教えてください」
「うーん、あんまり教えたくないんだけどなあ」
「じゃあいいです」
な、なんだよ……つまんねえ奴!
「今度、買ってきてやるよ」
「ありがとうございます」
考えてみると、こんな風にこいつらと仕事以外のこと、話したの……初めてだなあ。
山内なんて、ずっと一緒に仕事してるのに、コーヒーが好きだとか、キザ野郎だとか、全然知らなかった。
ケーキを食ってる間も、藤木はエロい顔で真純の機嫌をとって、山内はキザに口説きモードに入っている。
なんなんだ、こいつら……これじゃあ、田山が増えただけじゃないか! もう帰れ!
「今、相田一人かよ」
「ええ」
「大丈夫か? あいつ一人で」
「大丈夫でしょう」
ヤロウ二人は俺の話など聞かず、真純にデレデレデレデレしている。
「真純さん、今、素顔ですよね?」
「あっ、そうなの。忘れてた……どうしよう……」
「いえ、とってもおキレイだから、ビックリしました」
「やだあ、山内くん!」
「ほんとにキレイですよねえ。スーツもいいけど、そういうワンピースも……カワイイです」
藤木、お前は、おっぱいしかみてねえだろ。
「山内くんも、藤木くんも、お上手ね」
「お世辞なんかじゃないですよ。僕はお世辞を言わない主義ですから」
「ぼ、僕もです!」
はあ……お前ら、早く帰れよ……
「おい、お前らさ、一応、まだ仕事中だろ」
「まあ、そうですね。じゃあ、真純さん、そろそろ失礼します」
「うん、来てくれてありがとう」
「来月から、会社に行くのが楽しみです」
今は楽しくねえのかよ!
「うん。私も、楽しみ。よろしくお願いします」
二人を見送り、真純はテーブルを片付け始めたけど、片手だからガチャガチャいうだけで、なかなか進まない。
「俺がやるから」
「うん」
真純はソファに座って、残っていた菓子パンを食べ始めた。
「薬、飲んだ?」
「まだ」
「痛みは?」
「ちょっと痛い」
水と薬をテーブルに運んで、俺も隣に座る。
「寂しくなくなったの?」
「うん」
なんだよ……急いで帰って来たのに……
「山内くんも、藤木くんも、いい子だね」
「そうか?」
「来月から、頑張らないと」
「仕事、できそう? 無理しなくていいんだよ」
「家に一人でいると……また寂しくなるから……それに、慶太と一緒にいたいし」
一緒に……思わずにやけてしまう。
「フルでなくてもいいから、真純のペースで来くれたらいいよ。ちょっと、着替えてくるね」
ああ、やっと真純と二人きりになれた。
午後の部屋は暑くて、汗だくになりながら着替えて、エアコンの効いたリビングへ。真純はまだ菓子パンをかじっていて、テレビを見て笑っている。
「何、食べてるの?」
「これ? 高級ジャムパン」
ふん、確かに、袋には高級ジャムパンってかいてある。
「今度、おいしいジャムパン、買ってきてあげるよ。自家製のジャムを使ってるらしいんだ。材料は全部国産で、おいしんだよ、ほんとに」
「へえ、すごいんだ」
真純は興味なさそうに頷いた。
どうやら、真純はあまり食べ物にはこだわりがないらしい。
自分で買って食べてるのは、だいたいコンビニとかスーパーで売ってる菓子パンで、さっきの藤木の持ってきたケーキも、おいしいと喜んでたけど、たぶん、あんまりわかってない。
そもそも、スイーツなんてものを食べてるところを見たことない。
「ほら、ジャムついてる」
「どこ?」
「ここ」
口端についたジャムを指で拭って、舐めてみた。うん、普通の、安いイチゴジャムだ。
「ありがと」
そう呟いた唇に、もうガマンできなくて、キスをすると、さっきの甘ったるいジャムの味がした。
「甘い味がする」
「ジャム?」
「うん」
「パンの中だと、ジャムパンが一番好きなの」
へえ、知らなかった。
「俺はメロンパンかな」
「あ、メロンパンも好き! あとね、チョココルネとか」
「パン、好きなんだ」
「好きって言うか……子供のころ、それしか食べてなかったから、あんまり他のものがわかんないの」
そういうことか……子供の真純にとって、菓子パンが食事だったんだ……
「夜は、何か食べに行こうか」
「うーん、おうちで食べたい」
「じゃあ、寿司でもとろうか」
「うん」
隣でテレビを観て笑う真純の胸元は、相変わらずはちきれそうで、藤木がガン見してたみたいに、俺も横から、ガン見してしまう。
「……胸、見てる?」
「えっ? いや……」
「イヤだったの。年頃のころは…ろくに食べてなかったのに、胸ばっかり大きくなって……中学の頃からね、母親が連れてくる男の人が、私のこと見てニヤニヤ笑うの。それがすごく嫌で……」
「ごめん……」
「別に、あやまんなくていいよ。母親もね、こんな体つきで……自分でもわかってた。男の人が好きな体で、男の人は、そういう目でしか見てないって」
確かに……最初は俺もそうだったよな。
「将吾も、そうだと思ってた」
「え? でも、あいつは……」
「東京に来て、一緒に暮らし始めて、一週間くらいした時かな。今でも、覚えてる。三月なのに、すごく寒い日で、布団がね、一組しかなくて……暖房もないし、くっついて寝るしかなくって……うまくね、できなかったの」
真純は窓の外を見て、ちょっと思い出し笑いをしたけど、俺は、そんな話……
「……あんまり、聞きたくないんだけど」
「あっ! ごめんなさい……なんか、昨日から、昔のこと話したくなっちゃって……今までは、昔の私のこと、慶太には絶対知られたくなかったのに、なんか……ごめんね……」
真純は不安な目で、俺の顔を覗き込んだ。その目が……
「俺って、結構、ヤキモチなんだよ」
真純を抱きしめて、真純の匂いを嗅いだ。昨日のシャンプーの匂い。さっきのジャムの匂い。洗濯物の柔軟剤の匂い。そして、真純の、ちょっと汗ばんだ、首筋の匂い。
「どこにも行くな」
真純は、うん、って頷いた。
「俺しか、見ないでくれよ」
きっと、いろんなことを、乗り越えてこなきゃ、いけなかった。
だけど、俺達は、お互いの気持ちとか、中身とか、過去とか、人生とか、そんなもの関係なしに、いや、知るのが怖くて、お互いにお互いから逃げ続けていた。
お互いを、直視せずに、面倒なこと、嫌なことは見ずに、その時だけの、ただ、二十年を過ごしてしまった。
真純は、過去を背負っている。
俺には想像もできない、過酷で、残酷な過去。
受けとめるって、簡単な言葉。好きなら、そうできると思ってた。今の俺は、真純のことが本当に好きだから、全部、受けとめられると、思っていた。
でも、そんな簡単なことじゃない。
今日、一日の間にも、真純は泣いたり、笑ったり、動揺したり、俺は振り回されっぱなし。
昨日のことだって、俺がもっと、もっと真純に向き合って、ちゃんと受けとめてやっていれば、きっと、起きなかった。
俺は、何もわかっていなかった。
杉本の言葉の意味。過去も、今も、未来も全部、受けとめるって意味。
昨日の真純。病院で、震える真純。駐在所で、俺を待つ真純。ボロボロの、真純。
本当の、真純。
俺が受けとめてやらなきゃ、誰が真純を受けとめるんだよ。俺しかいないじゃないか。俺しか……俺が一番、世界で一番、真純を愛してる。
「……昨日の将吾は、そうだった」
「そう、だった?」
「バカね、私……将吾は、私のことなんて、もう好きじゃないのに」
「どうして?」
「キレイになったって、私のこと見たの。あれはきっと、もう、昔の私じゃないって、ことなんだよね……」
何も言えなかった。
真純は、わかってたんだ……やっぱり、真純は、わかってるんだ。
もう戻れないこと、現実は、もう過去とは違うってこと、杉本は、もう自分のものじゃないってこと。
真純はもう、昔の真純じゃないってこと。
杉本、お前、誤解してるよ。
真純がお前と別れたのは、捨てたんじゃなくて、杉本、お前が真純を縛り付けたから、逃げたんだよ。
昔の自分を捨てたがる真純に、それを禁じた。それはお前の罪なのかもしれないな。
もし、お前が真純が望む通りに、都会に馴染んで、真純が都会の女になっていくことを受け入れてやれれば、真純はお前と一緒にいたんだよ。
なあ、杉本。真純は、欲しがるだけの女じゃない。真純は、自由に生きたいんだよ。暗黒の十八年を、東京で捨てたかった。
でも、お前はそれを許さなかった。
そんな真純を、俺が都会に引き込んだ。東京で生きる真純だけを、俺は見ていた。真純の過去など、関係なく、俺は、真純を、都会の女になった真純だけを、見た。
それが、真純の望み、だった。間違った望みだったかもしれないけど、真純は、そうしたかった。
真純が、俺を選んだのは……いや、その人生を選んだのは……必然、だったのかもしれない。
「俺との、二十年……後悔してる?」
「してるわ」
「……そうか」
「もっと早く、こうやって話せばよかった。そしたら……私達、普通の家族になれてたのに……」
「真純……」
「慶太を選んだこと、一度も後悔したことないの。でも、自分のついた嘘が、どうしても許せなかった。それに、慶太にね、ずっと……コンプレックス、感じてた」
「コンプレックス? そんなもの、ないよ」
「私、キレイになった? 都会の、東京の、オシャレで、いけてる女になった?」
キャビネットのガラスにうつる真純は、飾り気のない、普通の、女。
でも、俺は……そうだな。今の、お前のほうが……好きかも。
「もう、そんなこといいんだよ。もう、そんなことどうでもいいんだ。いけてなくても、俺は真純を愛してる。もう、見た目なんか、どうでもいいんだよ」
真純は、ぼんやりと俺を見た。
「そっか……」
何かが抜け落ちたような顔で、窓の外を眺めて、俺の肩にもたれかかった。
「そうだよね。夫婦だもんね」
「ああ、そうだよ。俺たちは、夫婦なんだよ」
「やっぱり、髪切りたい」
自由に。自由に、真純、自由に、していいんだよ。
「うん。ショートの真純も見てみたいかなって、ちょっと思った……俺も、髪切ろうかな」
「坊主にする?」
「罰ゲームかよ!」
俺達は、二人で笑った。こんな風に笑える日が来るなんて、半年前までは思わなかったよ。
「あ、お薬飲むの、忘れてた」
「ダメだよ、ちゃんと飲まないと。化膿するかもしれないし……それにさ」
「何?」
「こんなパンばっかりじゃ、ダメだよ。ちゃんと食べないと。真純、一人だとご飯、ちゃんと食べてないだろ?」
「……面倒なの」
「料理は上手いのに」
「食べてくれる人がいればね、作るんだけど」
「じゃあ、これからは弁当作ってよ。夜も、できるだけ家で食べるから」
「どうしたの、急に」
「真純の体が心配なんだよ。今まで、結構ムリしてだろ?」
「慶太も、ね」
そうだな……俺たち、結構ムリしてきたよなぁ。肉体的にも、精神的にも。
「でも、あんまり食べると太っちゃうし」
「そんなの気にするなよ。痩せすぎだよ、今は」
と、いいながら、豊満なおっぱいをまた見てしまって……
「また見てる」
「いいじゃん! 夫の特権!」
ちょっと汗ばんだタニマに顔をうずめて……ああ、幸せ! 藤木、どうだ、羨ましいか!
「もう! 暑い!」
「もっと暑くしようよ」
「まだ明るいよ」
「いいじゃん……」
真純、やっぱり俺は、お前が好きだ。お前の過去とか、そんなのさ、もうどうでもいいんだ。昨日のことすら、どうでもいい。
「好きだよ……」
もしかしたら、このソファで、杉本も同じことをしたのかもしれない。
俺も、過去には女を連れ込んだ。あのベッドで、真純を裏切ったこともある。
いろんなことが頭の中をぐるぐる回って、もうどうでもよくなって、腕の中の真純を愛して、幸せだな、俺って。
「カワイイよ」
「明るいと、やっぱり恥ずかしいね」
「事務所でもしちゃいそう」
「ダメだよ! そんなの……」
「いいの。俺の会社だから」
クスクス笑う真純。シクシク泣く真純。一生懸命話す真純。怒ってる真純。冷静な真純。俺に感じてくれる真純。
どの真純も、本当の真純で、どの真純も好きだ。
でも、一番好きなのは、やっぱり……
「私のこと、好き?」
これを聞く時の、真純かな。
「好きだよ」
「私もね、慶太のこと、好き」
「両想いだね」
「うん」
たぶん、これからも、いろんなことがある。いろんなことを、乗り越えていく。二人で、一緒に、乗り越えていく。
この不安な真純を、俺は守って、いつか、真純が本当に安心できるようになる日まで、俺は闘い続けなきゃいけない。
病院に通わせようとか、いろいろ考えたけど、それは最終手段で、少しでも俺の手で、真純を守ってやりたい。
いや、そうしないと、今まで傷つけてきた人たちに、もうしわけが立たない。俺も、中村や聡子さんのように、ただ、受けとめられる人間に、ならないと。
あの夜、俺たちはやり直そうって約束して、やっと両想いを確認して、つきあい始めたのかもしれない。
結婚にたどり着くのは、いつの頃かな。まあ、死ぬまでには……いや、別にいいか。もし、その時がきたら、今度はちゃんと、給料三ヶ月分のエンゲージリングを買って、プロポーズしないとな。
俺はまるで、RPGの主人公だ。時々、中村の宿屋に泊まって回復しねえと、全滅する。
真純と本当の夫婦になれた時に流れるエンドロール、いつの日か……
「愛してるよ、真純」
「私も、愛してる。慶太」
新しい生活。
ソファで俺達は、素肌のままで、これからの新しい生活に、これからの俺達に、想いを馳せた。
だけど、神様ってやつは、どうやら、俺達をまだ、許してくれないらしい。俺達の罪は、俺達に、ずっと重く、償いを求めている。
〈第一部 完〉
マネー・ドール -人生の午後-(第一部)