片割れ
何程互いを想おうと、女神はそれを見逃さない。
「エリフェ、私は貴女と一つになりたかった。でも、貴女は私の手を引いてここまで逃げてくれたね。」
リリーネの語るその声はとても暗く、けれどその表情はどこか暖かな色をしていた。
私は涙を止める術を見つけることが出来ず、ただリリーネの紡ぐ言葉を聞き入れることしか出来ない。
本当は今すぐにでもリリーネの手を引いて、ここから走り出したいのに、雨で濡れた髪からうっすらと覗くその瞳に、まるで心を縛り付けられたかのような、身体の自由を奪われたような、そんな気がした。
私達の宿命、それはお互いの心臓を貫き、一つになること。巫女として、最後の役目を果たして、女神に最も近い存在となり国を守り続ける事だった。
けれど、私達はそれを知らなかった。
私達双子は、幼い頃から2人で神殿に閉じ込められ、ずっと2人で生きてきたから。
周りの悪意にも触れず、ただ、双子巫女として、少女として私達は生きてきた。
神の教を説き、人々に伝えて。私達が巫女としての役目だと思っていたそれは表向きのもので。本当は神に捧げられる贄の存在だと知らされたとき、私は反射的にリリーネの手を取り逃げたのだ。
けれど、追っ手達の発砲した銃にリリーネの脚を撃ち抜かれてしまったこの時、ずっと、どこまでも二人でなら一緒に行けると信じたその思いが、壊れてしまった。
「リリー…?」
「私、本当は嬉しかったの。エリフェと一つになれるって知って。エリフェとなら、何処へだって行ける、一緒に死ぬ事だってできる、って。でも、貴女はそれを望まないんだね。」
リリーネから語られるその言葉はひどく受け入れ難いもののはずなのに、何故だかそれは私を正すための、小さな説教のようにも聞こえた。
リリーネの顔が青白くなっていくのを見て、彼女の脚が撃ち抜かれたことを思い出す。そうだ、違う、惑わされてはいけない。今は逃げなくてはならないのだ。二人で。
そう頭の中で自分に叩き付けるように言い付けるが、体は動かない。彼女のその姿は恐ろしいほど美しい。今までに見たことのない表情と、今まで聞きいたことのない声色が、私をこの場に縛り付けていた。
「エリフェ、貴女は私と一つにはなってくれないって知ってる。だから、私をここに置いて逃げて」
リリーネは酷く冷静だった。
私がこんなにも涙で顔を濡らし、ぼうっと立っているのが馬鹿馬鹿しい程に。
「嫌よ。置いてなんて行けないわ。だってずっと一緒に居るって約束したじゃない」
追いつかなかった思考が、ようやく言葉となって口を突く。
嗚呼、どうしてこんなことになったんだろう。揺れる思考の中、追憶に思いを預けた。
泣き虫だったリリーネ。私の双子の妹。私が居ないと何もできなくて、私が居ないとすぐに泣き出して。
私はいつもそんなリリーネの支えになろうと必死だった。
リリーネが恐ろしいと言う物は、例え私がどんなに恐ろしくても、強がってリリーネの前を歩いた。彼女が泣いているときは、どんなに自分が泣き出したくても、必死に堪えて彼女の頬を伝う涙をこの手で拭ってやった。
姉として、大切な妹として、いつも私は彼女を守ってきたのだ。
今だって、残酷で残虐な悍ましい儀式から手を引いて逃げてきた筈なのに。
どうして私は、彼女の前でこんなにも泣いているのか。
どうして彼女は、こんなにも真っ直ぐて美しく佇んでいるのか。
今の私に、その答えを出すことはできない。そんな事に思考を巡らせるより、私がしなければならない事があるからである。
分かっている、分かってはいるのだ。
脚を撃ち抜かれ、もう自由の身体ではない彼女をまたいつもの様に支え、国の追っ手から逃げればいい。いつもの様に彼女を慰めて、その手を取ってまた二人で居られるようにと抱き締め合えばいい。
それなのに、状況はなにもかもが可笑しかった。
誰が仕向けたのだろう。こんな笑えない私達の宿命を。
涙を必死に拭う。けれど、絶え間なくそれは溢れ出て、視界を濁らせた。彼女を見ていなくてはならない、彼女の手を取らなければならない。
どんな事よりも、私の頭の中では、彼女の手を取り逃げる事しか浮かばなかった。
冷静を失っていることは分かっている。でも、それでも私はリリーネと一緒に居たい。その為なら何処へだって行けるのだから。
けれど、それでも、
「じゃあ、私と一つになろう?」
リリーネのその言葉は、私の心を大きく掻き乱すのに十分な言葉だった。
嗚呼、そうだった、彼女はまず、私と「逃げることを望んでいない」のだ。
私達、いや、私が逃げている理由とは、私達双子巫女が成さねばならない儀式に、運命に、神に、背を向けたからである。
私達はずっと一緒だった。生まれた時から、ずっと今まで。それは当たり前だった。
神殿に閉じ込められて、お互いの心の中の底のものを交わし合い、共鳴させる。15になればその共鳴の糸は切れてしまう。その前に、本来一つだったものが二つになってしまった、即ち双子を、再び本来の一つに戻すその儀式を15を迎えた其の夜に行わなければならない。その儀式こそが、お互いの心臓を貫き合うと言うものだった。
それを知らされたのがつい先刻。私達が15を迎えた其の夜だったのだ。
受け入れられる訳が無い。それを今からやれと言う人間の非道さに、私は心底絶望した。閉じ込められて、誰にも触れさせられずに過ごしてきた私達。両親の顔も知らない私達。外の世界を知らない私達。何も知らずに死ぬ事、それが目的で神殿に閉じ込められていたのだろう。
何も知らなければ、お互いの事しか知らなければ、勿論この世に未練は無いし、欲も無いのだから。
けれど、私は、私達は知ってしまったから。人の暖かさを、外の世界の壮大な美しさと恐ろしさと、人として興味を惹かれるその世界を。
だから、そんなことを告げられても、素直に頷き、ましてや殺し合うだなんて。最愛のリリーネをこの手で殺めるなんて。
冗談じゃないわ。
その瞬間に私は彼女の手を取り走り出していた。何処へ、なんては勿論分からず。初めて駆けた外の世界の地は、雨で濡れていた。
追っ手が来ても、どんなに転びそうでも、ただひたすらに彼女とどこか遠くへ、誰の手も及ばぬ遠くへ。その一心で森を、川を、地を駆けた。
でも、追っ手の放った銃がリリーネの脚を撃ち抜いたとき。
壊れてしまった。私達が、私達の意志が初めてすれ違った瞬間。
「私は……。一つになんて、なれない。リリーを刺すなんて絶対に、私には…」
「ならもう私達は一つじゃない。」
彼女の言葉は早かった。まるで私の全てを拒絶するような、冷たく、鋭い声色。
「ねぇ、エリフェ。貴女ってとっても優しい人。貴女が太陽なら、私はきっと月だと思うの。いつだってエリフェは私の前に立って、いつだって私の手を取ってくれた。絶対に置いていったりしなかった。私、嬉しかったの。何があっても、私から絶対に貴女は離れないから。だから、儀式の話を聞いたとき、エリフェなら私と一緒になってくれる。私と一つになってくれるって、一心同体になれるって、今度こそ何があっても離れないんだって思ったら、どきどきした。だけど、貴女は逃げたね。私の手を取って走った。私の目の前を。…この意味、分かる?」
気付かない内にまた涙を流していたらしい。
リリーネが私の頬に触れ、そして私の瞳から溢れ出る涙を優しく細い指で拭った。
この意味が分かるか、と私に言った彼女の声は酷く優しく、とても耳に心地ちの良い音だった。
意味が分かるかなんて、愚問である。分かるに決まっているのだから。そう、私達は本当に初めてすれ違ったのだ。生まれて初めて。だから、この意味が分からない訳が無い。悪い夢でも見ているようだった。これが夢であったらどんなに良いのだろう。目が覚めたら、いつも通りの朝とリリーネが傍に居る。嗚呼、幸せだ。こうして見ると、私は毎日が幸せだったのだと感じる。
そうだ、私は決して不幸な訳では無くて、むしろ毎日が幸せだったのだ。神殿に閉じ込められ、いずれこうなることを仕組まれた愚かな人間だったけれど、リリーネと二人、たった二人でも生きていられるのが幸せで仕方が無かったのである。それは、私達が巫女として生まれてきたからではなく、きっと本当に私はリリーネの事を好きだったから。どんなに神に仕向けられても、どんなに運命と女神達に運命を翻弄されようとも、その気持ちは変わらない。もちろん、今、この時も。
でも、どんなにお互いを思っていようと、意志が違えば大きな決断を迫られる。
それは仕方のないことだと、いずれ来ることがあるのかもしれないと、覚悟はしていた。いつかリリーネとこの意志がすれ違い、大きな割れ目ができてしまうだろう日を、私は受け入れようと。
けれど、今この時にすれ違う私達の意志は、世界の秩序も関係ない、人々の言葉も関係ない、私達の中だけで回る、私達が決断しなければならない事だった。
本当に、これは夢ではないのだろうか。
絶望し自分の中の大切なものが徐々に壊れていくのを感じながら、何度も願った。
嘘であってほしい。こんなの、死ぬことより辛い仕打ちかもしれない。けれどそれより私は、リリーネとまだ生きて手を取り合っていたいのだ。その為に向かい合わなければならないこの事実から、私は目を反らす事など出来ない。時間は、私達の間に残された時間は、もう少ないのだと知っている。知っていても、嗚呼、どうしてこれは夢ではないのだろうかと、まだどこかで来るはずのない新しい朝が来るのを待つ自分がいた。
混乱と絶望と、悲しみに揺れる私を、リリーネの瞳はしっかりと映している。リリーネの瞳に映る私は、とても情けなく、とても愚かな姿をしていた。
震える私の身体を、リリーネの腕が包む。そして優しく私の背を撫でる。嗚呼、それは、その仕草は、私がかつて怪我をして泣き止まないリリーネにしてやった行動と同じだった。
「ねぇ、エリフェ。私まだ期待してるの。もしかしたら今すぐここで、エリフェなら私と一つになってくれるんじゃないかって。」
その声色は、とても優しく、声を上げて泣きたくなる程に暖かだ。
そうか、まだリリーネは私を信じてくれている。そう思うと、どう足掻いても合わさらない自分たちの意志に酷く絶望感を感じた。
けれど、それでも、私は答えを出すことができない。
何と馬鹿な姉だろう。生まれた日こそ同じであるけれど、姉として、かわいい妹の一人の姉として私は失格であろう。
妹の為に、こんな大事な瞬間こそ、何の役にも立てない。ただ心の中では、嫌だ、嫌だと、何に対しての感情かも収集のつかぬままに彼女の何かを否定する言葉が渦巻いていた。
こんなにも、私達が分かり合えない日が来るなんて。夢にも思わなかった。
「…なら、ここで、ここで殺されるのを待とう。二人で。ねえ、そうしようリリー。これからもずっと一緒に二人で生き続けたかったけど、でも、二人なら私は怖くない、から。ね、そうしよう。それなら最後までずっと一緒。」
一つになるのが嫌だ。とは言えなかった。
私たちはずっと一緒。どんな感情も共有し、共鳴させ、生きてきたけれど、私は彼女に対してここまでの否定の気持ちを伝えたことがない。否定の言葉を押し付けて、彼女の気持ちを裏切ることが、私にはできなかったのだ。
些細な言葉でも、すぐに傷付いて泣いてしまうリリーネ。私は彼女の泣き顔を見るのが苦手だった。一度泣くと、泣き止まずに苦しそうに咽ぶ姿を見るのが、何より苦しくて。
だから、その気持ちを伝えて、また苦しそうな彼女の顔を見るのが、今の私には死んでしまいそうなほどに、嫌だった。
「じゃあ、さよならだね、エリフェ。」
彼女の腕が私の背から離れてゆく。
「私が望むのはエリフェと一つになること。一緒に死ぬことなんかじゃない。」
そして次に私を映したリリーネの目は、宵闇に溶かされたように冷たく、胸に突き刺さるような光を帯びていた。
行かないで、私を置いていかないで、声に出さない言葉が、離れた彼女の手を追う。けれど、伸ばした手を、リリーネのその腕は激しく、弾いた。
「私は貴女と一緒に生き続けたくなんかない。」
その言葉は、今の私の心を引き裂くには十分すぎる言葉だった。
私はその時初めて声を上げて泣いた。
「行って。」
まるで、他人に告げるような、色のない声。
害でしか無い物を見つめるような、突き刺さる視線。
嗚呼、その姿はもはや、私の最愛の妹の姿をしてない。
私の、片割れは、一体何処へ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
気付いたら私の足は駆け出していた。
風を裂くような私の悲鳴が、遠く、地へ、空へ、響き渡る。
違う、そうじゃないはずだ。
これはきっと、悪い夢。目が覚めればいつも通りの新しい朝と、いつも通りに笑むリリーゼが傍にいるはずだ。
これはほんの夢に過ぎない。私の夢。悪い夢。だから早く覚めて。目を覚まして。早く、はやく、ハヤク―――――
「エリフェ、だいすきよ。あいしてるわ、エリフェローゼ。」
片割れ