独りぼっちって、寂しいよぉ 【前編】

独りぼっちって、寂しいよぉ 【前編】

 シングルマザーとして頑張って子育てをしている女性が増えているが、この作品はシングルマザーとして生きる女性の姿を綴ったものだ。困難を乗り越えて逞しく生きて行こうとするが寂しさもある。はたして主人公の女性はどんな生き方をしたのだろうか。
 一方別の切り口から読むと一人の男が自分の実娘の出生の秘密を一生守り通すハードボイルドな男の物語でもある。

一 別れ

「どうしてこんなことになってしまったんだろう」
 考えても、考えても納得のいかない光景を思い出しながら、まだあどけなさの残る横顔に悲しみと不安をにじませて、晴子は彼の実家に近い田舎道を力なく歩いていた。

 六月に挙式まで約束していた彼が、先日突然の事故で旅立ってしまった。今日はその墓参りだ。
 お供えの花も持たずにそそくさと出かけて来てしまったことに晴子は悔いたが運良く墓参への道すがらに咲いていた可愛い花を先ほど手折ってきた。まっ黄色の小花はバスケが大好きで明るかった彼の性格に似合っているように思えた。
 まだ真新しいお墓の前に跪いて、晴子は先ほど手折ってきた小花をお供えしてから、か細い腕を伸ばして合掌した。
「あたし、これから先どうすればいいの」
 墓の後ろの林の中から小鳥の楽しげな囀りが聞こえていたが、合掌を続ける晴子の頬にはいく筋もの冷たい涙がこぼれ落ちた。

二 事故

 その年の五月は六日が振り替え休日でゴールデンウイークは例年より休みが多かった。
 衆院議員の総選挙を控えてサラリーマン層の人気取りのため保守政権が高速道路の[どこまでも千円]を実施したため、遠方の実家に里帰りした者も多かったようだ。
 だがしかし、どこも大混雑でSAのトイレや食堂は大行列、道路に出れば大渋滞で地獄のような旅行になったやつも多いらしい。
 明けて七日の朝、新宿、渋谷など勤めに急ぐサラリーマンは皆疲れ切った足取りのように見えた。
 ここ、東京駅丸の内南口から吐き出されるサラリーマンの群れも他と同様に皆疲れきった表情をしていた。
 そんなサラリーマンの群れに混じって、背中に運送会社のロゴの入ったジャンパーを着た男がそそくさと向かい側のMビルディングに吸い込まれて行った。男はMビル内の一室のドアーをノックした。
 中から、
「入れっ」
 と低い声が聞こえたので、男は左右に人がいないのを確かめてすっと室内に入り込んだ。
 正面の窓際に無造作に花瓶に突っ込んだ善(ぜ)界(がい)草(そう)が水切れで萎れ切っているのが目に入った。
「ご苦労だったな」
「……」
「警察も業務上過失致死で処理したそうだからあんたは何も心配せずにこれでしばらく旅行にでも行ってこい。当分は免停でハンドルを握れんだろ」
 部屋の中にいた男はジャンパー姿の男に向かって大きなテーブルの上の紙袋を滑らせた。
「事故の費用は全部保険でカバーできるし、あんたとこの社長にも話を通してあるから何も心配せんでええよ」
「どうも……」
 ジャンパーの男は納得顔で封筒を小脇に抱えて退出した。
 部屋を出るとあたりを警戒してジャンパーの男はそっと紙袋の中を見た。封帯をした札束が五個見えた。
「チェッ、人間一人殺(や)ってたったの五百かよぅ。ケチな野郎だ」
 事故の後警察に拘留されて昨日保釈された男はいくら積まれたのか知らされていなかった。
「余計なことを何も求めるな。それがおまえさんの安泰になるんだぞ」
 と先ほどの男に言われたことがまだ脳裏から消えていない。ジャンパーの男は来た道を戻り丸の内南口からJR駅の構内に消えた。

三 晴子のこと

 晴子の家は東京の目黒にあり、和菓子屋をやっていた。晴子は和菓子屋の一人娘で、子供の頃から祖母に可愛がられていた。両親が店の仕事で多忙なので、自然におばあちゃん子になっていたのだ。
 晴子の家は裕福ではなかったが、両親が堅実に商売をしていたのでそこそこの余裕があり、晴子は家からそれほど遠くない麻布の西洋英和女学院の幼稚園に通い、そのまま小学部、中学部、高等部に進み、大学まで行って卒業したので、受験勉強などとは縁遠い恵まれた環境で育った。
 子供の頃から花が大好きで、女学院を卒業後家業を継がず、祖母の(つて)で白金台の国立自然教育園近くの花屋に勤めに出て、毎日沢山の花たちに囲まれて幸せと行ってよい日々を過ごしていた。
 晴子は和服の小紋によく使われるような小花が好きで、最近は洋種の可愛らしい[レプトシフォン(Leptosiphon) ]がお気に入りになっていた。

 堀口(しん)は弟の(けん)と一緒に東急東横線都立大学駅から近い碑文谷にあるマンションに住んでいた。
 都立大学は現在は首都大学に名前が変ってしまったが、駅名はまだ元のままだ。
 伸の実家は祖父の代に神奈川県の山奥にある部落に移り住み、林業の傍ら農作もやっていた。
 今は昔よりずっと便利になったが、小田急線松田駅からバスで三十分以上かかる辺鄙な部落で、その昔平家の落ち武者が人里を離れてひっそりと住んでいたなどと言われている。 伸と弟の拳は子供の頃はこの村で育った。兄弟共長身でどちらも1・9mを少し欠ける位の体格をしている。
 伸は県下のK大を卒業後、丸の内にある商社に勤め始めた。就職難の時代で、最初から合格するとは思っておらず、いくつかの会社を平行して受験していたが予想に反してすんなりと入社できた。

四 サバンナRXー7カブリオレ

 弟と二人暮らしの碑文谷のマンションは二室しかないこじんまりしたものだが、兄弟二人にはこれで良かった。
 周囲のマンションの賃料に比べてやや安かったし、月額二万円で駐車スペースを確保できたのも気に入っていた。
 伸は三年前このマンションに引っ越してきた。引越しと同時にかねて欲しいと思っていた赤いサバンナRXー7カブリオレを探して購入した。
 少しずつ貯めていた貯金をはたいてこのツーシーターのオープンカーを手に入れた時はしばらく興奮が止らなかった。
 十五年以上も前に製造された中古だが、手入れ良く使われていたようで、車内も小奇麗だった。そんな中古でもこいつは人気があり五十万もした。
 買ってしばらくの間は土日を利用して遠出をするのが楽しみだった。

 伸は商社勤めにも慣れ、月に一度か二度、社用で東大医科学研究所を訪れた。
 何度か訪問する間に伸は医科学研に隣接する国立自然教育園に入ってみたいと思った。
 社員の行動管理が厳しい会社の出張中にサボルのはためらわれたから、お天気の良い休日に改めて訪ねることにした。
 陽射しの爽やかな初秋の休日、伸は行き慣れた医科学研に車を置かせてもらって徒歩で自然教育園に向かった。だが、医科学研は裏側にあたり、自然教育園の入り口がどこだか分からない。左右きょろきょろ見ると近くの花屋の女性店員が目に止った。
 歩み寄って、
「自然教育園入り口はどこですか」
 と尋ねた。
「あ、ここじゃ分かり難いですよね。この通りを真直ぐお歩きになって、目黒通りを右の方にぐるっと回ると正門があります」
 女性店員は丁寧に教えてくれた。伸は礼を言って自然教育園に向かった。

 青年に道を教えた後、晴子はがっしりとした体格で長身の男に好感を覚えた。風貌から見て、自然教育園に行くなんてと少し違和感も持ったが……。

 資料によると、この地は平安時代の地方豪族の館から始まり、江戸時代に松平讃岐守頼重[高松藩主]の下屋敷、明治に入り海軍省から陸軍省火薬庫となり、宮内庁白金御料地を経て、昭和二四年[天然記念物および史跡]に指定され国立自然教育園として一般に公開されたそうだ。
 その後昭和三七年には[国立科学博物館附属自然教育園]になり現在にいたるとか。園内は広く都心とは思えない大木がうっそうと繁った森もある。

五 出会い

 秋の陽射しが柔らかい午後、堀口伸は再び東大医科学研究所を訪ねていた。
 用を済ませて出入り口に向かっていると、恰幅の良い初老の男とすれ違った。
「おいっ、君っ!」
 研究所の出入り口付近は静かで人もまばらなので、伸は自分に声をかけられたのだと直ぐに分かった。振り向いて、
「あっ、はい」
 と応えた。
「君をMビルのエレベーターで時々見かけるが、勤め先はそちらかね?」
「はい。T商事におります」
「やはりそうか、わしも同じビルだ。暇の時一度訪ねてこないか? 事前に電話をもらうとありがたいね」
 そう言って男は名刺を差し出した。
「ここに連絡をくれ」
 名刺には株式会社Eグローバルコンサルティング代表取締役山田龍一と印刷されていた。 商社勤めでは毎日色々な人間に会う機会が多いので、特別に気にも留めなかった。男はいつの間にか姿を消していた。

 男の名刺を名刺入れにしまうと伸は医科学研を出た。

 店員は、色褪せたGパンに真っ白なワークシャツの袖を二の腕まで捲し上げてテキパキと客に応対したり花の手入れをしていた。先日自然教育園の入り口を教えてくれた花屋の女性店員だ。長めの髪をシニヨンにして、ピンクの細めの可愛らしい感じのシュシュで留めているのがとても似合っていて素的に思えた。
 伸はその様子を眺めていた。視線を感じたのか店員が伸の方をちらっと見た。
「あらっ」
「先日はありがとうございました」
 伸の口から自然にお礼の言葉が出た。彼女の陽気そうで明るい微笑みが伸の胸を刺したように感じた。それを彼女に知られたくなかったので、
「仕事で時々医科学研に来ますので」
 と付け加えた。

 先日男に道を聞かれた時は男はジーンズにポロシャツ姿だったが、今日はすらっとした長身にダークスーツがとても似合っていて晴子は素的な人だなぁと思った。
 次の訪問先へと急ぐように立ち去っていった男の後姿を少しの間見送っている自分に気付いて晴子は、
「いけない、あたしどうかしてるわ」
 とつぶやいていた。

六 お見合い

 花屋の仕事が面白くて毎日気合が入っている晴子にも最近周囲でお見合いの話が騒がしくなってきた。一昔前は結婚適齢期とか、クリスマスとか独り身の女性には暗黙のプレッシャーがかかったようだが、最近は結婚適齢期なんてものは話題にもならなくなっている。 だがしかし、和菓子屋の一人娘の晴子には和菓子職人の婿養子の話などいくつかの見合い話が持ち上がり、晴子はその都度断ってくれと頑なに拒んできた。これと言った断る理由はないのだが、もう少しの間自由な身でいたかったのだ。
 家業の大口のお客様である華道の家元から持ち込まれた見合い話には、さすがの晴子も断り切れなかった。相手は渡辺(とおる)と呼ぶ青年で、駆け出しの弁護士だそうだ。晴子の写真を見て乗り気になり是非にとの話だった。晴子の姓は林と言ったが母親の林貴恵(きえ)もこの話には乗り気になっていた。

 先方から、
「次の吉日に東京ミッドタウンにあるザ・リッツ・カールトン東京のフォーティーファイブで昼食をってことでどうですか」
 と言って来た。
 それでお見合いの時間と場所が決まった。
 当日は見合い相手の両親、紹介者、晴子の両親を交えての顔合わせとなった。食事が終わった所で徹と晴子を残して他の者は早々に引き上げて行った。
 徹は見かけによらず無口で話しが進まなかった。そのため、ミッドタウンを少しの間散歩でもしようと言うことになり二人はホテルを出た。

 堀口伸はその日社用で東京ミッドタウンにある顧客を訪問していた。商談を終わって階下に降りた時、前方を歩くカップルの女性の方に目が止った。
「どこかで会ったような……?」
 歩を早めて追い越しざまにちらっと横目で確かめて驚いた。あの花屋の女性店員に間違いない。
「やっぱ彼氏がいたんだ」
 伸はそう思った。

七 決心 そして切ない望み

 東京ミッドタウンで伸とすれ違ったことを晴子は全く気付いていなかった。平日の昼下がりとは言え、ミッドタウンは人出が多かったから余程気を付けていても分からなかったかも知れない。
 見合い相手の徹が、
「自宅まで送ります」
 と言ったが晴子は辞退した。
 それで徹が察したのか分からなかったが徹は、
「多分お断りされると思いますが、何かのご縁ですのでせめてお友達にはなって下さい」
 と携帯の番号を書きとめたメモを残して去って行った。メモは多分最初から用意されていたのではないかと晴子は思った。

 徹と分かれて帰宅すると、母の貴恵が待ち構えていた。
「どうだった」
 満面に期待が込められている。
「悪い人じゃなさそうだわね」
 と言い残して晴子は足早に二階の自分の部屋に閉じこもってしまった。
「いま一つフィーリングが合わないんだよなぁ。無口なのも気詰まりだし」
 晴子は徹との初対面を振り返って思案にくれた。
「やっぱ断ってもらおう……」
 その時晴子は心に決めた。

 花屋で、その後あの男と何回か顔を合わせた。道を尋ねた男は晴子に気付くと軽く会釈して無言で通り過ぎて行った。晴子は何故か遠ざかって行く男の後姿を目で追っている自分に苛立っていた。

 帰宅してお風呂の湯船に浸かって、晴子はあの男のことを思い出して胸が疼くような気持ちになった。今までになかった感覚に自分ながら驚いていた。

 そんなことが続いたある日、例の男が医科学研の方からやって来るのが見えた。いつものようにスーツ姿で次の目的地に急いでいるように見えた。
 晴子は今日こそは声をかけてみようと決心したが、きっかけが分からない。そわそわする内に男はどんどんと近付いて来る。なんだか気持ちがあせってきた所に、お客様から声がかかった。
「このペラルゴニュウムを下さいな」
 晴子は客が指さした大き目の鉢を抱えて店の中へ向かおうとした。その時、晴子は手を滑らして足元に鉢を落としてしまった。店に出るようになってこんなことは初めてだ。
 鉢は割れて、土がこぼれ飛び散った無残な状況に客もしばらくは唖然としていた。晴子はただただお客様に頭を下げるしかなかった。
 晴子が泣きそうになっている時に、脇からすーっと手が伸びてきて真っ白なA4サイズの紙にこぼれた土が集められて割れた鉢に戻された。
 晴子は戸惑うお客様をなだめるのに精一杯だったが、しばらくして振り向くとあの男が紙を取り出す時に開けたアタッシュケースの蓋を閉じる所だった。

 晴子はお客様に侘びを言って別の鉢でもいいかと許しを乞うた。お客様の許しを得て、別の鉢を手早く包装してお客様に渡している間に、例の男は立ち去ってしまった。
「我ながらなんと情けない」
 晴子は今日の自分に嫌悪感を感じている反面、あの男の気遣いに心が温まるような気がしていた。

 会社を退けると伸は時々飲みに行った。丸の内界隈はどこも飲み代の高い所ばかりで伸の安月給では懐が持たない。それで帰宅途中新橋で下車して居酒屋に寄った。新橋には伸の安月給でも懐を気にしないで飲める店がいっぱいある。
 今夜も新橋の居酒屋に寄って、花屋の女性店員の不始末と困惑顔を思い出しつつ酒を飲んだ。
「彼女の困った顔も可愛いもんだな」
 伸はそんなふうに思った。

八 Eグロ

 T商事の社内営業会議で、ある新規顧客へのアプローチについて上層部から株式会社Eグローバルコンサルティングを通してはどうかと言う意見があったことが話題になった。
 最初皆が[Eグロ]と言うので分からなかったが会議の途中から正式社名が分かった。
 堀口伸はその社名に記憶があった。会議の後、席に戻って名刺を調べてみた。あった。医科学研で声をかけた男だ。代表取締役山田龍一とある。それで物知りの先輩に、
「Eグロってどんな会社ですか」
 と聞いて見た。
「なんだ、おまえさん知らなかったのか」
 と少しバカにしたような口調で説明してくれた。

 先輩の話によると、Eグロは内外の政財界に太いパイプを持ち国内の政財界に大きな影響力を持つコンサルタント会社で、T商事クラスでは上層部が出向かないと会ってもくれないすごい会社だとか。伸はへーぇっと思った。
 同時にそんな会社の社長がなぜ自分なんかに声をかけて来たんだろ? と新たな疑問が湧いた。もちろん医科学研で社長と会った話は先輩には伏せておいた。
 そこで、伸は山田龍一に会ってみようと思った。

 名刺の連絡先に電話を入れると秘書らしき女性が応対した。しばらく待たされた後で、
「明日の十八時十五分ならお目にかかれるそうです」
 と返事があった。それで、アポを頼んで電話を切った。面会時刻を分単位で指定する所から、先方はスケジュールが相当詰まっているものと思われた。

 伸はその日は大森に行く予定があったが、その後の予定は無かったので、壁のスケジュール表に[直帰]と書いて出た。大森で用を済ますと帰途についたが、久しぶりに目黒駅近くのライブハウスでジャズでも聞こうと目黒駅で途中下車した。
 このライブハウスは夜十八時以降でないと開いてないので、時間つぶしに自然教育園の周囲でも散歩してみることにした。

 ペラルゴニュウムの鉢を落として以来落ち込んでいる晴子はあの男が通ったらお礼を言いたいと毎日待っていたが、ここのとこ男は現れなかった。
「今日も会えなかったなぁ」
 と思いつつ店仕舞いの準備をしていたら、いつもとは反対の方向からのんびりと歩いて来るのが見えた。
「あっ、来たっ!」
 晴子はなんだか胸がドキドキしてきた。
 男が店の前を通りがかった時、晴子の会釈に男が微笑んだ。男はそのまま通り過ぎて行こうとしたその時、男の行くてを塞ぐように晴子は男の前に回り込んでいた。
「今度お茶に誘って下さいっ!」
 自分でも信じられない言葉が突然に口から飛び出してしまった。晴子の顔面は火が点いたみたいな感じだ。
 男はかなりビックリした様子で、困惑の表情がありありと出ていた。
 男が、
「構わないのですか」
 と答え、まだ困った顔をしている。
「あ、はい」
 晴子は蚊の鳴くような声で答えた。
 男が行ってしまうと晴子はまた一層落ち込んだ。予め用意しておいた鉢を片付けてもらったお礼すら言えなかった自分が情けない。
「あたしって、ダメだなぁ……」

 山田龍一の件と言い、花屋の女性店員の件と言い、ここのとこ変な出会いが続いた。
 伸は花屋の店員にはちゃんとした彼がいるらしいのに何で自分となんだろうと疑問が湧いた。

九 初恋

 翌日、伸は約束の十八時過ぎに山田龍一の会社を訪ねた。秘書らしき美人の女性が取り次いでくれて、十八時十五分キッカリに社長室に案内された。
 広めの部屋の一角にある応接テーブルで向かい合って、T商事の近況を聞かれた後に山田は伸の生い立ち、家族の状況などこと細かに質問した。別に隠すことは何もないので、伸は聞かれた通り素直に答えたが内心、
「これって、まるで入社試験の面接みたいだなぁ」
 と思った。

「君に紹介しておきたい者がいるから」
 と言って先ほどの秘書らしき女性を呼んだ。
「伝ちゃんに直ぐ来いと伝えてくれ」
 ほどなくして、伝ちゃんと称する男が入ってきた。目つきが鋭く伸と同じくらいの身長で、体育系のガッシリした体格の男だ。男は神山伝次郎だと言って自己紹介した。名刺には株式会社トレメンド・ソシエッタと書いてあり投資顧問と金融ブローカーが主な仕事らしい。
 肩書きは何も書かれていなかった。
 山田は、
「この方といっぺん食事でもしてあんたの方の話をしてくれ」
 と神山に言った。神山は伸に、
「年が明けてから席をもうけるから」
 と言い残して退室した。山田との面会はそれで終わった。伸は会釈してEグロを出た。

 実業界は米国の金融破綻がトリガーとなって、全世界が不況の荒波に揉まれていた。
 十二月に入って堀口伸の勤めるT商事でも翌年の三月期決算の売上が30%以上ダウンする見通しとなり、一円でも多く売上を獲得するように社長から厳しい命令が下っていた。同時に中高年社員のリストラが囁かれ、社内に重苦しい空気が流れていた。伸の所属する営業部隊は脚を棒にしても顧客回りを徹底するよう指示を受けていたので、街に出てもクリスマスモードに浮かれている暇はなかった。

 林晴子の勤める花屋はいつもと変らない客の入りで、不況感をそれ程感じてはいなかったが、十二月に入ってからあの男に出会えないのが気がかりだった。
「いきなり、あんなハシタナイことを言ってしまって嫌われたんじゃないかしら」
 考えれば考えるほど気持ちが沈んでしまう。
 帰宅して就寝する時にあの男のことを思い出すと胸が苦しくなり、自分の奥深い部分が濡れてくるのを感じていた。
「これって、恋と言うのかなぁ……」
 晴子は幼稚園の時から大学まで通して名門の女子校に通ったので周囲に男っ気が少なく、男性との付き合いの経験がなかった。大学時代には他校との交流はあったが、まだ初恋をしたような記憶もない。

 十二月も半ばを過ぎた。伸は花屋の女性のことが気になっていたがここのとこ多忙で医科学研に行く機会もなかった。伸には付き合っている女性はいなかった。それで、クリスマスイヴにでも一度食事に誘ってみようかなぁとぼんやり考えていた。
 クリスマスイヴだとすると何かプレゼントを考えなくちゃとも思ったが、女性に改まったプレゼントなんてしたことがないのでこれと言った妙案もなかった。こんなことを同僚の女性には恥ずかしくて聞けなかったし、まして弟に相談したらからかわれそうなので、帰宅後インターネットで調べてみた。
 あれこれ思案した後、安月給の自分のお小遣いの範囲の予算で何とかなりそうなコーチのポシェット、落ち着いたピンク色のアリピースドリストレットを選んだ。コーチなら銀座に店もあったからついでの時に寄ってみよう。

 クリスマスイヴも近い日に銀座に立ち寄ることができた。コーチの銀座店に寄る前に、他の店もちょっと覗いてみようと思った。ヴィトンやエルメスは敷居が高すぎて入り難かったが何気なく衝動的に銀座通りに面したティファニーに入ってみた。入って、伸は後悔した。どの値札も伸の予算の10倍以上のものばっかじゃないか。それで一回りして店を出ようとしたその時、店員に声をかけられた。
「何かお探しですか」
 伸は笑われるかも知れないと思いつつ、思い切って目的と予算を言って見た。予算は背伸びして三万円の範囲でと言ってしまった。
 店員は、
「それならこれがどうかしら」
 とシルバー製のペンダントをいくつかショーケースの上に並べて見せた。それで伸は店員が勧めてくれた中からパロマ・ピカソのラッピングハートペンダントに決めた。
 赤い洒落たハート形が花屋の女性がいつも着ている真っ白なワークシャツに似合っているように思えた。値段の二万円と少しは初めてデートする女性へのプレゼントにしては高すぎるように思ったが、買ってしまったのだ。
 男の買い物とはそんなもんだと言う見本みたいで、伸は思わずそんな自分に笑ってしまった。

十 底知れぬ魅力をたたえ

 正直なとこ、伸は花屋の女性店員は底知れぬとまでは言えないけれど、とても魅力のある女性だと思っていた。
 あの日、ミッドタウンで恋人と思しき男と仲良く歩いていた光景を目の当たりにするまでは、自分の恋人になってくれたらなぁとまで思っていた人だ。
 公平に見ても、彼女は美形で可愛らしく、理知的に見える女性だ。

 しかし、クリスマスイヴにデートに誘ってみようとプレゼントまで用意はしたが他人の彼女だと思うといまひとつ気乗りがしなかった。
 けれども、直前に突然誘うのは失礼だと思って、イヴの二日前の月曜日に駆け足で例の花屋に寄ってみた。インターネットで調べれば電話番号なんて簡単に検索できるのだが、やはり直接会って誘うべきだと思ったのだ。伸の心の奥底に晴子への好意がこびりついていて、まだ完全に払拭されていなかった。

「参ったなぁ、月曜は定休日だったのかぁ」
 花屋の、閉じられたシャッターにペンキで月曜定休と大きく書かれていた。
「仕方がない、明日にするか」
 悪いことは重なるもので、次の日の火曜日とイヴの水曜日は大事な客の接待が入り結局伸にとってはデートの約束をしなかったのが幸いした。
 仕方なしに伸は、
「年が明けてから改めて会ってみよう」
 と決めた。

 晴子はあの男からのお茶のお誘いの連絡を心待ちにしていた。その後何も連絡がなく、店の前も通らないので、期待と不安が入り混じって落ち着かない日々を過ごしていた。
 月曜日はお休みの日なので、自宅で自分の周りだけ掃除洗濯を済ませて後、ぼんやりとテレビを見ていた。丁度クリスマス商戦と街の風景の映像が写っていた。それで、その夜、学生時代の女友達にイヴにお茶しないか連絡を入れてみた。所が所帯持ちは、家族と自宅で……、新婚や独身の友達は、彼と一緒に……と返事が戻ってきて結局晴子の予定だけが空いていると言う惨めさを思い知らされた。
 こんな時晴子のように一人娘は寂しいもだ。

 気が進まなかったが、生まれて初めてのお見合い相手だった弁護士の渡辺徹がくれたメモの携帯番号をプッシュした。
 つながったが、[電源が切れているか、電波が届かない所に……]
「いやっ、もうっ!」
 晴子にしては珍しく苛立ってきた。
 ところが、程なくして、徹から電話が入った。イヴの予定を聞くと、
「家族が集まってパーティーを予定してます。大勢ですが、よろしかったら是非いらっしゃいませんか」
 と逆に誘われてしまった。
 晴子は即座に徹の提案を断った。
「冗談じゃない。それじゃお見合いの結果にOKを出すのと同じじゃない。でなければ断った手前あたしの居場所なんてないわよ」
 晴子は徹の気遣いのなさに腹を立てていた。
「もうっ! あたしってついてないんだからぁ……」
 そこそこの美人で良い女でも男に縁遠い人はいるものだと言われる。晴子の場合もそうかも知れなかった。

 この年は不景気も手伝って、二十七日土曜日から年末年始の休みに入る所が多かった。
 晴子の勤める花屋も大きな会社に合わせて二十七日から新年は四日の日曜日までがお休みだった。
 気分転換に、晴子は雪国の温泉に浸かってくると母に告げた。
「えっ、一人で行くの?」
 母の貴恵は冗談まじりに、
「母さんもついて行こうかな」
 と言ったのを父が聞いて、
「店はおばあちゃんとやるから、たまには晴子と行って来いよ」
 と貴恵の背中を押すように言った。それで母娘ででかけることに決まった。
「近いし温泉もいいから、越後湯沢でどうかしら」
 と晴子。
「そうしよっ」
 と貴恵。
 それで二十八日の日曜日に出発して翌二十九日夕方帰宅する予定となった。三十日からは家業をお手伝いする予定だ。

 伸の会社も二十七日から正月四日までが休業だった。
 高校時代も大学時代も伸の部活はバスケットボールだった。それで、今でもバスケットで仲良くなった友達が集まって時々練習試合をやっている。大学時代は体育系ではなくてサークルに所属していた。
 伸の住んでいる碑文谷の体育館にはコートが二面あって、申し込めば利用できた。それでいつも皆そこに集まった。
 汗を流した後、皆が集まって飲むビールの味は格別だ。それは皆同じように感じていて、飲み会でつながっているとも言えた。
 今年の納会は二一日の日曜日に済ませたので、今度の正月休みには久しぶりに実家に帰ってみようかなと思っていた。
 弟の奴は友達とオーストラリアに出かける予定らしい。

十一 母と二人

 母の気持ちを考えて、晴子はネットで露天風呂のある和風の旅館を探して予約を入れた。
 不景気とお正月前二十八日の日曜日の宿泊だったことから空き室が多かった。

 母の貴恵は越後湯沢に来るのは何十年ぶりだろうかと思った。越後湯沢の駅を降りると周囲の景色がすっかり変ってしまっているのに驚いた。
 十階もあろうかと思われる大きなマンションが林立して、雪国の山間の村と言うより都会的な雰囲気をかもし出していた。
 そう言えば何年か前に晴子がクラスメイトの父親が別荘を湯沢に買ったとかで誘われて出かけて行ったのを思い出した。

 晴子が選んでくれた旅館は昔ながらの温泉旅館の風情を残した素的な宿だったので、貴恵はほっとした。同時に娘の気遣いが嬉しかった。
 振り返って見ると、主人を手伝って多忙な日が続き、晴子をずっと祖母に預けていたので、晴子に母親らしいことは殆ど何もしてやれなかった。

 案内された部屋に入ると、その年は雪が少なかったそうだが、それでも深く積もった真っ白な雪が窓の外に広がっていて目の前に心が洗われるような光景があった。
 ほどなく、貴恵と晴子は二人揃って風呂へ行った。風呂は他に誰もおらずがらんとしていたが、もうもうと上がる湯煙が暖かかった。晴子は、
「いいわよぉ」
 と遠慮する母の腕を押しやって、ゆっくりと母の背中を流し始めた。背中を流すうちに、晴子は母の背中が泣いているように思えた。
 考えてみると晴子は今までに一度もこんな形で母親孝行をしてあげたことがなかったのだ。
「お母さんごめんね」
 晴子は心の中でつぶやいていた。
 内湯で身体を温めてから、二人は露天風呂へ出た。目の前に真っ白な雪のある露天風呂に浸かって、母子はしばらく無言で外の景色を眺めていた。

「あたし、初恋をしちゃったみたい」
 晴子が唐突に言ったので貴恵は驚いた。
「どんな人?」
「背の高い素的な人」
「いつ頃から」
「最近。でも、まだあたしの片想いみたい」
 貴恵は晴子の気持ちを考えてそれ以上何も聞かなかった。
 間もなく、貴恵はのぼせたからと言って先に出て行った。独り残った晴子は、あの時以来何も連絡がないあの男のことを思い出しながら全身を伸ばして大の字のようになって露天風呂に浮かんでいた。

十二 黒百合

 年の暮いっぱいは晴子は家業の和菓子屋の手伝いで多忙だった。明けて正月、叔父叔母が福岡から泊り込みでやって来て、家の中はにぎやかで気が付くとお正月休みは終わってしまった。
 叔父は晴子の顔を見ると、
「結婚はまだかい」
 と催促した。晴子は叔父から寄せられた見合い話も断っていたので気まずかったが、母の貴恵が叔父の攻撃をうまく反らしてくれた。晴子は覚悟はしていたが、やはり一番聞かれたくないことを聞かれてしまった。

 休み明けの火曜日から花屋の仕事が始まった。
 翌日水曜日の夕方、後から、
「こんにちは」
 と声をかけられた。振り返るとそこに、緊張した面持ちの例の男が立っていた。
 男の緊張した顔に優しさが溢れていたので、晴子は男の気持ちを察し、店長にことわって店を出た。目黒通りの向こう側のカフェに男を案内して、晴子はそこで改めて先日の唐突な行為を詫びた。
 男が実はクリスマスイヴにお誘いするつもりが、仕事の都合でダメになってしまったと話すと、晴子の顔は急に明るくなった。
 二人は携帯のメールアドの交換をして別れた。男は堀口(しん)だと名乗った。
「次の土曜日の夕方食事をしませんか」
 と伸から届いたメールに晴子はすぐOKに♡のハートマークを付けて返信した。

 土曜日の夕刻、伸は新宿のPホテルのJレストランに晴子を案内した。夜景が綺麗に見えるゆったりとして静かな雰囲気の中で、晴子はずっと伸を待ち続けてよかったと思った。
 晴子の店が休みの次の月曜日に、伸は休暇を取ってドライブに行かないかと誘った。
 目黒通りから第三京浜国道、横浜新道を抜けて途中国道一号を左に折れて花が大好きな晴子を大船のフラワーセンターに案内したいと言う提案に晴子は満足した。伸は時間があったら湘南海岸に出てみようと付け加えた。

 食事が終わって、伸は昨年買ったティファニーの赤いペンダントを取り出して、クリスマスプレゼントで用意したものだと説明して手渡した。
「開けて見てもいい」
「ん」
 晴子は手のひらの素的なペンダントを嬉しそうに見てから首にかけた。
「このまま着けていてもいい?」
「もちろん」

 晴子は手提げ袋の中から綺麗にラッピングした三輪の黒百合の花を伸に手渡した。黒百合は高山植物で夏に咲くものだが、園芸用に開花調整した早咲きのものが店にあり、昨日開き切ったものを切り落とした後、思いついてそれを捨てずにもらってきた。
 晴子は二人が出会ったこの話の舞台と同じ目黒の出身の歌手[織井茂子(おりいしげこ)]が歌ったアイヌの伝説にちなんだ[黒百合の歌]の一節を知っていたのだ。

♪黒百合は 恋の花
 愛する人に 捧げれば
 二人はいつかは 結びつく……

 織井茂子は昔大ヒットしたと言われる映画[君の名は]の主題歌を歌った歌手として有名だ。

十三 秘密

 顧客の年始回りも終わって一息付いた所で、伸の会社の方に神山伝次郎から電話が来た。
「堀口さんかい?」
「はっ、はいっ。堀口です」
「暮に会った神山だ。今夜空いとらんか」
「八時頃なら大丈夫です」
「ほな、今夜八重洲口の方の事務所に来てくれへんか」
「分かりました」
 それで、電話は切れた。神山は関西訛りの話し方をしたので、多分関西人だろうと思った。

 伸は先日受け取った神山の名刺を見ていた。八重洲の事務所は雑居ビルの四階だ。名刺を見ていると隣の同僚の女性、橋口理恵が覗き込んだ。
「なにっそれっ? 変な会社名だわね」
 伸は英語くらいしか実用にならなかったが、彼女は英仏イタリア語までこなす語学達者だ。商社では外国語を二ヵ国、三ヵ国語使える者は珍しくはなかった。
 名刺には社名、株式会社トレメンド・ソシエッタの下に小さく Tremendo Societa Ltd.と印刷されていた。伸は洒落た名前だなぁと思っていた。
「それイタリア語でしょ? 日本語に訳すと[恐怖の会社]よ」
 伸は彼女の話を聞いて興味を持った。彼女も興味を持ったようだ。

 八時に神山の事務所を訪ねた。事務所には神山の他に五名まだ残っていた。
 神山は伸の顔を見ると、
「おおっ」
 と言って席を勧めた。
「あんた、うなぎは嫌いか」
「好きです」
「そりゃ良かった。人形町の梅田から美味いうなぎをとっといた。そこらのレストランじゃ危のうてろくな話もできん。ここなら何言うても安全やさかいなぁ」
「皆も来て一緒に食わんかいな」
 残っている五人も集まって皆でうなぎを食い始めた。食いながら神山が話し始めた。話し方は調子が良いが、神山の声は押し殺したような沈んだ声で、相手に有無を言わせぬ凄みがあった。

「堀口さん、あんたのことはこっちでよう調べさせてもろたよ。あんたは優等生じゃ。真っ白じゃ。流石、龍さんの目は確かだな。きょうび、交通の反則切符を切られたことない奴はめったにおらん。堀口さんはそれも真っ白やから驚いたよ」
 神山は続けた。龍さんとは勿論山田龍一のことだ。
「わしらの世界じゃ前(前科)のある奴はなんぼでも集まるけど、あんたみたいな真っ白な奴はなかなか集まらんのや。昔と違ごうてな、前のある奴は自分名義の銀行口座すら作れん奴がゴロゴロしとるんや。最近の銀行はコンピュータできっちり口座管理しとるから、ブラックリストに載ってるやからは全然ダメや。大きい金を銀行振込みしたらあちらさんに全部移動を調べられてな。今はあかん」
 この話を聞いて伸はこの会社はただの会社じゃないぞと思った。個人の道路交通違反の履歴まできっちり調べるには、警察関係に余程太いパイプがないと難しい。

「それでや、堀口さんに頼みたい仕事ができたんや。あんたさん、今度の土曜日、一日体を空けられるか」
「はい、大丈夫です」
 伸は晴子とのデートを月曜日にしたので、今度の土日は都合が悪くなかった。
「土曜日にな、ある人を仙台に届けて欲しいんや。仕事は簡単やで。青山に迎えに行って、乗せたらそのまま仙台に行くだけや。我侭なやっちゃけど我侭は一切聞かんでええよ。あんた、自分の車、持っとるか」
「はい、派手な赤いスポーツカーですが」
「そりゃええなぁ。先方も喜ぶやろ。土曜の朝、ガスを満タンにしてからここに寄ってや。細かい場所を説明したるわ」
 伸が頷くと、
「そんじゃ決まりや。頼んまっせ」
 それで話は決まった。

 特上のうなぎをご馳走になった礼を言ってから事務所を出ようとすると神山は、
「これ、当面の経費や。とっといてくれ」
 と言って伸に茶封筒を渡した。
「中を見てもいいですか」
「おお。ええよ。不足やったらいつでも言ってくれや」
 伸は茶封筒の中から札をつまみ出した。しわくちゃの一万円札が十枚あった。それを見て神山は、
「普通の人間はな、ピン札を喜ぶんや。わしらの世界じゃ新札は値打ちがないと言うか使えんのや。堀口さんよ、分かるか? わしらの世界じゃお札は街の中を一回りして、出来るだけ大勢のどこぞの誰か分からんやつ等の指紋がベタベタといっぱい付いとる方が値打ちがあるんや。ウワハハッ」
 笑いがおさまると神山は、
「それと、言うとくけど、あんた、ここに足を入れてうちの秘密を知ったからには今後途中で辞めたとは言わせんよ。勝手に辞めたらどうなるかわからんよ」
 と付け加えた。言葉は柔らかいが、脅しとも取れる一言だ。伸は覚悟を決めた。

 翌朝、伸は八時に事務所に上がって迎えの場所と届ける場所を聞いて地図に印を付けた。 印を見て神山は、
「これ、消しとけ。印はあかん」
 と指示した。迎えに行く場所は南青山のマンションだった。
 伸が事務所で打ち合わせている間に、昨夜事務所に居た男の一人が伸の赤い車を見つけてタバコの箱くらいの黒いケースを目立たない位置にマグネットで付けていた。GPS車両追跡システムの端末だ。勿論伸はそのことを知らされていなかった。
 GPS車両追跡システムは現在探偵社の浮気相手の調査などに沢山使われている。ハンドバッグなどに密かに入れる追尾装置は3cm程度のちっちゃい発信機で個人でも簡単に使えるが探知範囲はせいぜい半径1kmで実用距離は2~300mしかないので付かず離れず受信機を持った者が追いかけて行かなければならない。これに対してGPSシステムは、コンピューターでリアルタイムで解析追尾するので全国ネットで追尾できるが、個人が端末を買っても使い物にならない。

 打ち合わせを終わると、伸は指示を受けた南青山のマンションに向かった。先方には予め連絡が入っているらしく、直ぐに相手が分かった。
 相手はサングラスをかけていたが、テレビでも良く見かけるセクシーな女優だった。勿論伸もその女優をテレビで見て知っていた。
 伸は車を降りて一礼をして女を助手席に乗せた。ツーシーターのスポーツカーなので、助手席しか空いてないのだ。女はチラッと伸を見た後、素直に乗り込んでくれた。女優は伸よりずっと年上だったが、こうして側で見ると年齢より若く見えて、豊麗な肢体から色気が漂っていた。

 この様子を向かい側の電柱の脇で監視している男がいた。男は家庭用の小型のビデオカメラで様子を撮影していた。伸が仙台に向けて出発すると、男も消えていた。

十四 グランデ・アモーレ(熱愛)

 腕利きで評判の芸能記者、船橋聖二こと本名岡田春樹は早朝からセクシー女優Mの住む南青山のマンション前に潜んでいた。予想通り、早朝真っ赤なスポーツカー、RXー7カブリオレがやってきて、サングラスをした彼女が乗り込んで去っていった。船橋は相手の男の顔をアップした映像も小型のビデオカメラでバッチリ捕らえていた。
「こいつはいいネタになるぜ」
 車が去って後、ビデオカメラをしまっていると、突然後頭部を鈍器で強打され気を失った。船橋の体は素早く白いバンに詰め込まれてどこかへ連れ去られて行った。

「オジサン!」
 と言う子供の声で、船橋は意識を回復した。だが、両手、両足をガムテープで縛り上げられ、口にもガムテープが貼られていて身動きが取れなかった。ここは、お台場のガランとした空き地で、船橋はそこに転がされていたのだ。昨日やられたから一晩転がされていたことになる。
「ま、東京湾に投げ込まれなかっただけでも良しとするか」
と船橋は呟いた。
 凧揚げで遊びに来ていた子供は警察に届けると言うのを目配せで制止して、ガムテープを子供にはがしてもらった。
 手足が自由になると、ポケットなどの確認をしたが、携帯も財布も肝心のビデオカメラも全てなくなっていた。ブリーフの内側に小袋を縫いつけて、そこに万一に備えて小銭と連絡先のメモを入れていたが、それもなくなっていた。その代わりに赤字で[余計なことに首を突っ込むと命がないと思え]と印刷したメモが入っていた。
「このヤロウ、相当手慣れたプロの手口だな」
 船橋は呆然とした。後でガムテープとメモの指紋を調べてもらったが指紋一つ残されていなかったのだ。殴られた後頭部はまだズキズキしていた。

 伸は女優Mを乗せて南青山を出ると、高樹町ランプから首都高に上がった。土曜日、やや早めに出たので、高速は空いていた。谷町ジャンクションから走りなれた五反田方面に向かって、銀座を通り日本橋から高速5号線に入った。5号線を真直ぐ走れば東京外環の美女木ジャンクションに交叉する。東京外環に乗って北上、川口ジャンクションからそのまま東北道に入れる。
 Mは最初は無口であったが、日本橋から高速5号に折れた所で、
「あなた、方向が違うんじゃない? どこに連れてってくれるの」
 と言った。伸は応えなかった。余計な返事をしてこじれたら始末が大変だ。それで、ずっとダンマリを続けることにした。
「ねぇ、あなた良く見るといい男だわね」
「……」
「どこに向かってるの? 教えてくれたっていいじゃない」
「……」
「あなた、もしかして口がきけないの」
 伸は肯くしぐさをした。
「それじゃ、しかたないわね」

 東北道に入るとスピードを上げた。普通の乗用車に載ってるレシプロエンジンと違ってロータリーエンジンは振動がずっと少なく静かだ。その代わり車速が時速100kmあたりになると、帆布のルーフがバタバタして五月蝿(うるさ)かった。オープンで走るには外気が寒すぎる。
 東北道は少し混んでいたが、佐野SAを過ぎたあたりから前方の車がまばらになった。先ほどから白いベンツがバックミラーに見え隠れしていた。どうやら川口あたりから後をつけて来たようだ。伸は自分の車ではベンツを振り切るのは不可能だから、無視することにした。
「あなた、お名前は何とおっしゃるの」
「……」
「あっ、しゃべれないんじゃダメね」
「……」
 話ながら、Mの手が伸の太ももに伸びてきた。先ほどMは丈の短いスカートの裾をそれとなく持ち上げて、伸に見せるように脚を組んだ。彼女の色白の太ももが顕わに見えたが伸は無視して気力を前方に集中した。
 やがて、彼女は伸のももの内側を指先で巧みに刺激し始めた。伸は更に前方に集中して知らん顔を通した。
「女優って、はたから見ると勝手気ままに何でもできると思われているようだけど、実際は自宅軟禁と同じよ。知ってた?」
「……」
「お仕事の時は別にして、マネージャの目はいつも光ってるし、外に出ると週刊誌なんかの記者が金魚のウンコみたいに後をついてくるし、二十四時間自由なんて全くないのよ」
「……」
「今日みたいに誰にも邪魔されず、男性と二人っきりでドライブなんて夢みたいよ」
「……」
 Mは伸のズボンのチャックを下ろし、手を入れて来た。[晴子、ごめん]伸は心の中で、最近知り合った晴子に詫びていた。
 Mはほっそりした指先で伸の(もの)をもてあそび始めた。伸はされるがままにして、前方に集中した。
 Mの執拗な愛撫で、心とは別に伸の下腹部は本能的に動き始めた。伸はぐっと辛抱を続けた。
「あなた、我慢強いわねぇ」
「……」
 愛撫が激しくなって、伸の物は勃起して、もう我慢の限界に達していた。伸はMの手首を掴んでやさしく押しやった。このまま続けられたら破裂するだろう。車は既に宇都宮を過ぎて那須に近付いていた。
「あたし、あなたを好きになったみたい」
「……」
「ねぇ、どこかで高速を降りて温泉にでも連れてって下さらない」
「……」
「あたしあなたに抱かれたいなぁ。ダメ?」
「……」
「抱いてくれたら、あなたの好きにさせてあげるわよ」
「……」
「もうっ、無視してるんだからぁ。意地悪ねぇ」
「……」
 やがて彼女はあきらめて何も言わなくなった。

 安達太良SAが近付いた時、突然彼女がまた話しだした。
「次のパーキングで停めてちょうだい」
 甘えるような声だ。
 伸は無視してSAを通り過ぎた。SAは広過ぎてダメだ。万一彼女が逃げ出したら始末に困る。
「おしっこがしたいの」
 我慢してたらしく彼女は泣きそうな顔で伸を見た。
 吾妻PAに車を入れた。さっきから付いてきた白いベンツもこちらに向かって来るのが見えたが通り過ぎて遠くに停まった。
 トイレを終わると彼女は清々しい顔に戻って出てきた。伸は恋人のように彼女の肩を抱きかかえて車に戻った。彼女は素直に従ってくれた。

 伸は仙台南ICで高速を降りた。尾行してきたベンツは高速をそのまま仙台宮城方面に向かって通り過ぎたようだ。
 Mは、
「その内ここにご連絡を下さらない」
 と言って伸に角を落とした小さな女物の名刺を手渡した。裏に手書きで携帯の番号が書かれていた。
 伸は指示された経路で市内に車を入れた。目的の場所は大きな門構えのある屋敷だった。
 伸の車を見るとすぐダークスーツの男が二人近付いて来て、ドアを開け伸に、
「ご苦労様」
 と言ってMを抱きかかえるようにして門の中に連れて行こうとした。Mは少し抗ったがあきらめたようだ。
 男に引き渡す時に伸は男に、
「お願いします」
 と言ったら振り返ったMは恨めしそうな顔で、
「あらっ、声出せるんじゃない。意地悪ぅ」
 となじった。

 伸の到着時刻を知っているかのように男たちが飛び出してきたのに伸は驚いた。だが、東京では伸の車から発信し続けているGPS信号で伸の車の位置を監視し、状況を仙台に連絡していたのだ。そんなことを伸は全く知らなかった。
 Mと男たちが門の中に消えたのを確かめて、伸は車を戻した。仙台まで来て、そのまま帰るのはもったいなかった。それで仙台の近くの秋保温泉の適当なホテルを探して一泊することにした。秋保温泉はとても良い所だ。伸は温泉に浸かって、晴子のことを思いながら旅の疲れを取った。

十五 光を求めて

 伸の弟の堀口拳は伸と違って子供の頃から何事につけても要領が良かった。神奈川県の田舎の高校を卒業すると、京都の国立大学にストレートで合格した。田舎の高校では珍しいと周囲から言われたものだ。大学時代は硬式テニスサークルに所属していたので、兄の伸と違って女友達が沢山いた。拳は四年間京都で過ごした後、東京の外資系の金融機関に就職した。今回の金融恐慌も持ち前の要領の良さでどうやら乗り切ったようだ。拳はもちろん独身で碑文谷のマンションに伸と一緒に住んでいたが、夜の十二時前に帰って来たことがなく、仕事は多忙を極めている様子だった。今は部下六名を抱えるマネージャーに昇格して安月給の兄、伸の三倍以上稼いでいた。
 大学時代、伸は小遣いを倹約して学費の一部を弟に仕送りしていたので、今もそのことで拳は兄に一目を置き、兄弟仲はすこぶる良かった。

 拳は仕事にどうにか見通しの付いた所で、この正月休み、学生時代の友人二人と一緒に三人で成田からオーストラリアのシドニーに向けて飛び立った。往復の日程を含めて十日間の予定だった。
 シドニーに降り立つと直ぐ国内線に乗り継いで、ハミルトン島へ向かった。ハミルトン島はシドニーよりずっと北(赤道に近い方角)で、小型のジェット機で二時間と少しかかった。彼らはハミルトン島のホテルに一泊後、翌日クルーザーで目的地のヘイマン島に向かった。
 予め上司からヘイマン島は良い所だと聞いてはいたが、到着するとヘイマン島は実に素晴らしく言葉では言い表せない景色が広がっていた。数日間をこの島でのんびりと過ごすと思うと三人はすっかり浮かれていた。

 友人二人は島の探索にでかけた。拳は午後のビーチで目の前に広がる真っ青な海を見ながらまどろんでいた。
 と、隣で先ほどから読書をしていた婦人が声をかけてきた。
「どちらから」
「東京からです」
「そう、わたくしもよ。あなた、クルージングはお嫌い?」
「いいえ、大好きです」
「では、よろしかったら明日ご一緒しませんこと?」
「よろしいんですか? 僕なんかで」
「どうぞ」
 これで明日の予定が決まった。
「舟が小さいから、お一人でいらしてね」
 と彼女は付け加えた。

 翌朝、友人二人に断って、拳は独りでビーチに出た。バティック(Batik) の素的な柄のパレオともラップともつかぬスカートを着けた昨日の婦人が手招きしていた。彼女は若く見えたが多分四十歳に近く、拳よりずっと年上のようだ。プロポーションが良くとても美しい女性だ。名前を[レイ]と名乗ったが漢字でどう書くのかは知らない。
 二人が小型のクルーザーに乗り込むと、レイはエンジンをかけた。鈍いドドドッと言う音がすると、慣れた手つきで(もや)いを解いた。
 やがてクルーザーは係留壁を離れてゆっくりと海へ出た。この季節は天候の良い日は少ないが、運良くその日は晴天で波も静かだった。
 少し出ると彼女はスピードを上げた。静かな水面を切り裂いて、クルーザーは疾走した。このあたりは大小合わせ沢山の島が点在していて景色がとてもよい。島を三っほど回った所で舟を沖合いに出し、アンカーを下ろしてエンジンを止めた。
 あたりは静粛で周りには何もなく、青い海原と透き通るような空が広がっていた。レイは光を求めるようなしぐさをした後、着けていたパレオを外し、水着も外して丸裸になってデッキに仰向けに寝そべった。
 彼女の下腹部のヘアーが拳の目に入り、目のやり場がなくて、顔をそらした。だが、拳は欲望に抗えず、横目でレイの美しい小麦色の肢体を眺めた。
 拳の視線を感じて、
「何を見てらっしゃるの? あなたもお脱ぎになったら? 気持ちがいいわよ」
 拳は一拍置いて
「はい」
 と答えた。
 拳は心を決めて、着ているものを全て脱いで、レイの脇に並んで横になった。
 上向きは、さすが恥ずかしく、拳はうつ伏せで寝そべった。腕がレイの腕に触れた時、拳は電撃が走ったように感じた。
 辺りは静粛で、燦燦と射す陽射しとゆっくりしたピッチで上下に揺れて心地が良かった。男女二人、海の真ん中で真っ裸で寝そべっていたのだ。

 ややあって、拳は仰向けに返された。続いてレイが拳に覆いかぶさるようにして重なってきた。拳の下腹部はあっと言う間に立ち上がり、そのままレイと一つになった。激しいレイの愛撫に、拳は負けずに応じた。
 拳が二度も果てた時、レイは立ち上がって水着を付け、コーヒーポットとマグカップを二つ抱えて来た。拳も水着を履いた。
 二人はお互いに肩を抱き合うようにして無言でコーヒーをすすっていた。

 夕食はホテルで拳の友人も交えて四人で楽しく食った。レイは東急東横線沿線の高級住宅街に資産家の夫と二人暮らしをしていると言った。今回はレイだけ独りで遊びに来たらしい。拳はもしかして、大口の顧客を得たかも知れないと言う予感がした。

 伸は秋保温泉を出て、夕刻東京に戻った。八重洲口の事務所に寄ると神山は居た。
「無事届けました」
 と報告すると神山は、
「分かっとる。あんたの行動は全部こっちゃで監視しとったよ。途中高速のパーキングに入ったのも知っとるぜ。堀口さんは思った通りキッチリ仕事をしたな」
 と褒めて、
「これ、ボーナスや。とっといて」
 と言ってまたくしゃくしゃの札で十万円をくれた。
「前に頼んだ(やっこ)さんは、あのMの誘惑に負けて、途中でモテルに行きやがった。そこで何をしようと構わんが、彼女に逃げられて、こっちゃ探して捕まえるのに難儀をしたぜ。大損や。それで、今度はバックアップであんたの後をつけさせたが、その心配はあらへんかったな」
 伸は自宅に戻ると明日の晴子とのデートの準備をして早めに寝た。

十六 初めてのドライブ

 月曜日、今日は最近知り合った晴子を大船のフラワーセンターへ案内する約束だ。
 予め打ち合わせた場所に八時半に行くと、晴子は既に待っていた。
「おはよう。待たせた?」
「いいえ、今来たばかりよ」
 晴子はジーンズのボトムに淡いピンクのショート丈のワンピを着て、その上に白いショートのコートを羽織っていた。胸元に先日渡したティファニーのペンダントがのぞいて見えた。気付いて、伸は嬉しく思った。コートに合わせた白い小さなトートバッグを肩に、晴子は車に乗り込んだ。

 目黒通りを多摩川に向かって下ると等々力不動の所で環状8号線に出る。晴子の祖母の話によると、昔はこの辺りは桜並木になっていたそうで、桜通りと呼んだそうだが今は面影もない。右折して環8(かんぱち)に入ると直ぐ第三京浜国道の入り口がある。制限速度が80kmだが高速道路ではない。車はやや混んでいたが渋滞はなく、横浜でそのまま横浜新道に滑り込んだ。この道路は昔吉田茂が鶴の一声で造らせたそうで、ワンマン道路とも言われている。横浜新道を抜けて少し先の影取町の交差点を左折して道なりに行くと直ぐフラワーセンターに着く。
 ここは月曜日は定休と決まっているが、幸い月曜日は成人の日で祝日だったので開園していることを伸は予め調べておいた。

 一月の半ばだから、花は殆ど見られないと伸は思っていた。だが、行って見ると、屋外には色々な種類の椿が咲いていて見応えがあったし、和水仙も綺麗に咲いていた。大きな温室があり、入ると大輪の見事なハイビスカスが咲き乱れ、その他にも熱帯に咲く色とりどりの様々な花が一杯咲いていた。
 晴子の目は輝いて、嬉しそうに何度も行ったり来たりで、伸は連れてきて良かったと思った。
 温室を出て、広い敷地を散策した。晴子はいつの間にか伸の腕に自分の腕を預けていた。伸はそんな晴子を可愛らしいやつだと感じていた。

 一通り見終わると、もうお昼近くになっていた。大船から鎌倉は近い。フラワーセンターを出ると伸は鎌倉方面に向けて走り湘南海岸通りに出た。通りの鎌倉寄りにある海岸に面した[コーラル]と言うカレー専門店に案内した。この店も月曜日は定休だが、幸い祝日だったので店は開いていた。コーラルはこの界隈では人気のある店だ。
 晴子はこの店に入ったのは初めてだったようだが店内の雰囲気が気に入った様子で、
「美味しいっ」
 と言って喜んでくれた。食いものの美味い、不味いの感覚は周囲の雰囲気に左右されることもあるのだ。
 帰り道は鎌倉から葉山を通り横須賀に抜ける高速道路を東京方面に走り、途中から横浜新道に入ってもと来た道を戻った。
 夕刻前には目黒に着いて、晴子を自宅前で降ろそうとした。
「ちょっと寄って下さらない」
「いいのか」
「どうぞ」
 晴子は予め母の貴恵に話をしていた。晴子が帰ると貴恵は玄関に伸を出迎えてくれた。伸は、
「初めまして」
 と挨拶して、貴恵と晴子が勧めるままに、
「お茶だけなら」
 と上がることにした。
 貴恵は晴子の母らしく綺麗な人だった。しばらく貴恵の質問に答えた所で晴子に、
「もう帰ってもいい?」
 と耳打ちした。貴恵は夕飯の仕度までしていたようだが、まだ時間が早いからと断って伸は晴子の家を出た。出た所で晴子の父親が出て来て、至らぬ娘だがよろしくと言った。

 伸が帰った後貴恵は、
「いい人じゃない、イケメンだし」
 と晴子に言った。晴子は今日あったことをこと細かに貴恵に報告した。

十七 恨み

 一月も末に近付いた。晴子は最近伸の携帯に、一日に三回か四回メールを送ってていた。その日の出来事とかとりとめのない内容だが、伸は必ず返事をくれた。毎週一回か二回夕方に伸とお茶か食事を共にするようにもなった。
 晴子が何を言っても伸は耳を傾け、話をちゃんと受け止めてくれることが嬉しかったし、益々伸を好きになっていく自分を感じていた。
 伸は晴子から届くメールが楽しみだった。だが、最初は一つか二つハートマークが付いていたのが、段々と数が増えて今では五つか六つも赤いハートが付いてきて、絵文字も挟まっていて、電車の中や職場でメールを開くのがちょっと恥ずかしかった。職場の隣の席の橋口理恵なんかに見られたら、それこそ最悪だ。彼女はきっとからかったり冷やかしたりするに決まっている。

 伸は弟の拳に晴子を紹介しておこうと思った。拳は相変らず多忙で夕刻家に居ることはめったにないし、日曜日も不在がちだった。それで、拳の勤め先の外資系金融企業のオフィースがある六本木で夕食を共にすることにした。
 二月に入って早々、六本木ヒルズ五十二階のラウンジで素的な夜景を見ながら晴子、伸、拳の三人でディナーを楽しんでいた。
 晴子は身長が165cm以上あって、背は低くはなかったが、1m90近い体格の良い二人の男性の、優しい眼差しに挟まれて幸せに包まれていた。
 拳は正月に出かけたオーストラリアの話は勿論のこと、とにかく話題が豊富で十分に楽しませてくれた。おまけに、オーストラリアの土産だと、カンガルーの皮で作った可愛いコアラとカンガルーのブックマークをプレゼントしてくれた。晴子は伸と結婚できたら、こんな素的な弟ができるんだと思っていた。

 芸能記者の船橋聖二こと岡本春樹は、一月早々、簀巻き同然にされて、お台場の空き地に転がされていたことが悔しくて悔しくてならなかった。
 仕事柄、今までも危ない橋を渡って痛い目は何回も経験しているが、今回のように徹底してやられたことは一度も無かったのだ。

 セクシー女優Mを迎えに来た車は特徴のある真っ赤なスポーツカーで、ナンバーも覚えていた。それに迎えに来た長身の男の顔もしっかりと覚えている。それで、隠しポケットに残されていた警告を無視して、持ち前の嗅覚で調べ始めた。
 調べてみると、あの車は現在日本には200台位しか存在しないと教えられた。それで、車事情に詳しい知り合いにナンバーから持ち主を割り出して欲しいと頼み込んだ。かなり難しいぞと言われたが、知り合いのやつは調べ上げてくれた。持ち主はMビルにあるT商事の社員で堀口伸と言う奴だと分かった。勿論、堀口の住まいの場所も突き止めた。

 船橋は何度かT商事を訪ねたが、アポのない者は取り次がないと毎回門前払いをくらった。最近はセキュリティーが厳しく、商事会社は不審者には特に注意を払っているのだ。
 仕方なしに社員の退出時を狙ってビルの外ではりこんだ。その甲斐があって、ようやく堀口を捕まえて、近くのスタバに連れ込んだ。
 だがしかし、伸はそんなこと知らぬ、存じぬを通し、あげくの果て、迷惑だから会社に頼んで警察に通報するとまで言った。
「警察はダメだ」
 船橋は内心痛いとこを突かれT商事を訪ねるのは諦めた。その後も執拗に尾行を重ねたが、花屋の店員の林と言う女性と親密に付き合っていることくらいで、伸と芸能界との接点は掴めなかった。
「オレは諦めんぞ」
 と思ったがこれ以上の進展は難しいとも感じていた。

十八 競馬・・・高松宮記念

 三月に入って、暖かい日が続きぐっと春めいてきた。恋人にとって、春は身も心も充実するものだ。今の晴子にとって、恋人の伸には何も不安がなかった。ただ、あるとすれば、そろそろ伸が、
「結婚しようよ」
 と言ってくれてもよさそうなのに、その言葉をまだもらっていないことだった。
 晴子は伸とデートする度に伸の口から今日は出るか、今日は言ってくれるかと心待ちに待っていた。

 伸は晴子に正式に結婚を申し込みたい気持ちでいっぱいだった。しかし、三年前、マンションに引っ越した時に頭金やら引越し費用、買い足した調度品でかなりの出費があったし、それに車を買ったため今は手元の僅かな預金も空っぽになっていた。
 結婚式や新婚旅行の費用を考えると手元に最低三百万円程度は必要だと思っていたが、折からの不景気でボーナスもあてにできず、思案に暮れていた。後先を考えずにプロポーズをすれば、結婚の費用はきっと晴子の家が全部用立てると言うに決まっている。だが、伸の性格がそれを許さなかった。

 今では、伸は晴子を手離したくなかった。それで、お天気の良い晴子の休みの日に休暇を取って、神奈川県の山奥の伸の実家に晴子を連れて行った。伸は長男だが、父親の家業の林業を引き継ぐつもりはなかったから、晴子と結婚しても、晴子の家に近い今住んでいる碑文谷辺りに住むつもりだった。しかし、結婚となると親の同意も必要だし、親を安心させるためにも早めに紹介をしておきたかった。
 晴子に初めて会った伸の両親は大層喜んで、晴子を大切なお客様のようにもてなした。伸の実家は裕福ではなく、小さな家だったが、掃除が良く行き届いていて、それだけでも晴子はとても良い印象を持った。
「へーぇっ、伸君こんなに自然がいっぱいの所で育ったんだぁ」
 子供の頃から都会で育った晴子は周囲の景色や美味しい空気に感動していた。

 伸は何とか結婚に必要な費用を捻り出したかった。三月に入って、いつもそのことが気がかりでならなかった。それで、三月二九日、日曜日に走る第三十九回高松宮記念についてスポーツ新聞でオッズを調べた。先月神山からもらった十万円は手付かずで手元にあったので、これを三十倍位に増やせないかと考えていた。
 伸は競馬にはあまり詳しくはなかったから、的中が難しい馬単よりワイドで行こうと決めていた。ワイドとは一着~三着までに来ると思われる馬二頭を指定する勝ち馬投票券のことで、うまくすると三十倍位は取れる確率が高かった。

 仕事の帰りに新橋の場外馬券売り場に寄って、伸は一番人気のスリープレスナイトと二番人気のファリダットに賭けることにして手元の十万円を全部注ぎ込んだ。

 三月二九日、伸は朝から落ち着かなかった。今日はレースのある日だ。十五時四十分発走なので、その時間の放送を真剣に聞いていた。
 レースがスタートした。二番人気のファリダットが伸びない。伸は頑張れっ、頑張れっと心の中で叫んでいた。今までに競馬でこんなに熱くなったのは初めてだ。結果は三番人気のローレルゲレイロが約半馬身離して一着で滑り込み、続いて二着は一番人気のスリープレスナイトが走りこんで良かったが、三着は十五番人気だったソルジャーズソングが滑り込んだ。
 その時点で一瞬に伸の馬券十万円は紙くずになってしまった。
「クソッ!」
 伸はしばし茫然としていた。

 Eグロ(Eグローバルコンサルティング)の社長龍さんこと山田龍一は神山伝次郎をMビルのオフィースに呼んだ。
「ちょっと大きな仕事が舞い込んでな、伝ちゃん手伝ってくれんか」
 と龍は切り出した。
「社長、水臭い。わしはいつもOKやで」
 と伝は笑った。 龍は低い声で話を続けた。
「話を持ち込んだのは霞ヶ関の某高官だ。あんたも知ってる通り、今年総選挙があるな。霞ヶ関は何が何でも保守党に政権を続投してもらわんと困るんだ。知っとると思うが、野党が政権を取ったら霞ヶ関を大改造すると言うとる。そうなると、霞ヶ関は引っ掻き回されてどうなるか分からん。先が読めんようになる。それで、霞ヶ関は野党の党首を引きずり下ろして相当痛手を負わせたが、こんな時に保守党の先生方に面白くないことが起こると苦労してやったことが台無しになるんだ。司法関係は霞ヶ関と保守党が握っとる。だから司法関係は心配せんでもいいわけや。少し前、霞ヶ関の某高官が政治献金の問題が与党に及ぶことはないとかなんとか本音を漏らして大問題になったな。あんなバカなことでもない限り、司法関係でゴチャゴチャすることはないんだ」

 歴史を振り返ると、人類が財貨と権力を手にして以来、財貨を増やし、権力を強くしたいために人間同士の権力闘争と謀略が繰り返されてきた。その陰で犠牲になる大多数の人々を踏み台にして権力の攻防は繰り返されてきた。それは今の世界でも変らない。人類が背負わされた枷(かせ)だ。日本では長い間に官界が強大な権力を握るようになって、今はいたる所で権力構造のほころびや弊害が取り沙汰されている。しかし、一旦手中に収めた権力は簡単には手放されることはないのだ。

 龍は続けた。
「司法関係ではないとすると、国会の先生方は何で躓くか分かるかね」
「お互いの足の引っ張り合いですかい?」
「それもあるが、もっと効くのはスキャンダルだよ。金と女だ」
 と言って龍は笑った。
「今、国会の先生方の内、少なくとも数十名はあんたも知っとるSババアにキンタマを握られておるんだ。あのババアにキンタマを握られてる野党の先生はあまりおらん。殆ど与党の先生方だ。気に入らん先生がおると、あのババアがチョイきつくキンタマを握ると普段偉そうにしとる先生でも、なんも言えなくなって大人しくなるんだ。今はちょっとした小遣い銭をやれば、亭主がいるくせに股を開いて差し出す女はゴロゴロしとる。出会いサイトとかなんとかで密かに女を売っとるのが一杯いるだろ。だがな、そんなのを使う訳にはいかんのだ。口が裂けても白状しないような口の堅い女、そんな若い女の子を集めるには相当のノウハウと組織力が要る。それに先生方にも信頼されて安心して受けてもらわんと困るわけだ。下に着とるもんはセクシーな服でも、年寄り臭いかつらを被って白い手術衣を着て盲目の枯れた女のふりして、マッサージに来ましたと言って入りゃ、国会で疲れた先生方が肩でもほぐしてもらってると誰でも思うよなぁ。あのSババアはそんなとこに抜け目がない。しっかりと女どもをコントロールしとるんだ。あのババアに認められると勲章をもらったみたいに箔がついた思うとるアホな先生もおる。だが、最近あのババアもおごりが出て来た。人間、人をコントロールできると思うと欲が出るんだ。そんなことで、あのババアに嫌気がさして、縁を切ろうとする先生が出てきた。キンタマをきつく絞めても言うことを聞かんようになったら、過去をバラスと脅すらしい。選挙を前にしてあのババアに何人も過去をぶちまけられたらどうなると思う? 国会は大混乱、選挙に野党が勝つ可能性は確実になるな」
 神山は次を促した。
「それでや、早急にあのババアを始末してくれと頼まれたんだ。消して物が言えんようにしろと言うわけや」
「あのババアを始末するのは大変でっせ。経費はどれくらいまで見てくれるんや?」
「一億位なら出せるそうだ。伝ちゃんのとこでやれるか」
 伝はこの話を引き受けた。

十九 触らないでっ!

 Eグロの龍と会った翌日、神山伝次郎は八重洲口の事務所で社員を集めて龍が持ってきた仕事の話をしていた。
「おいっ、剣持、おまえさんSババアが好きになってるんのとちがうか? 女と長く付き合ってると情が移ってもおかしゅうないからなぁ」
 社員の剣持は俗にSババアと陰口されている政界の[闇世界の女王]と言われているS女史のボディーガードを兼務していた。
 剣持は皆が認めるサディストだ。S女史の率いる女性軍団のメンバーの多くはマゾヒストだ。それで、剣持は必要に応じてメンバーの彼女たちをベッドに連れ込んで鳴かしていた。自分がMでも、亭主にそんな風にしてとは普通は言えないのだ。それで秘密を共有することで組織の絆が保たれていたのだ。彼女たちは満たされない時、剣持に甘えることを許されていた。
 唐突な伝次郎の質問に剣持は、
「いえ、そんなことはありません。マジで」
 と答えた。
「なら、いいんだ」
 伝次郎は今度の仕事は少人数で手早く片付けた方が良いと思っていた。もし、剣持に少しでも女史に情があればこの仕事は失敗する可能性があると踏んでいた。

 [割り勘負け]と言う言葉がある。会費制で宴会をやると、酒に強い者はまず割り勘負けすることはない。食い意地の張った奴も大体は割り勘負けをしないものだ。だが、全員割り勘負けが当たり前と言うパーティーもある。選挙が近くなると議員の先生方が資金集めでやるパーティーだ。今年も選挙が近くなってあちこちでパーティーが催されている。
 剣持はS女史に従って、実力派と言われる先生主催のパーティーに参加していた。大きなホテルの会場は大勢の政財界人で賑わっていた。大物政治家のパーティーは社交の場でもある。
 小太りした体に高そうな宝石をいっぱい付けたS女史は会場を見回すようにゆっくりと歩いた。すれ違う先生たちは、必ず自分から先に会釈する。S女史はこれと思う先生には、
「どう? 勝てそうですか」
 などと声をかける。S女史に声をかけられると光栄ですと言わんばかりに丁重に、
「はいっ、頑張ってます」
 などと返事をするのだ。彼女は陰で[闇世界の女王]と呼ばれているが、メディアに登場することは殆どなかった。
 剣持はS女史に不祥事が起こらないように、常に周囲の状況に注意を払っていた。
 パーティーが終わりに近付く頃、剣持は、
「上に部屋を取ってあります」
 と彼女に耳打ちした。パーティー会場に使われたホテルの上層階の一室だ。

「お願い、触らないでっ」
 先ほどから剣持に散々苛められて、恥部に辱めを受けていたS女史は哀願するように泣きそうな声を絞り出していた。剣持はSを手馴れた方法で縛り上げ、Sの尻や腹部に殴る蹴るを繰り返した上、悲鳴をあげるSを四つん這いにさせてSの肛門に一物を突っ込んで苛め抜いた。
 もしも、(はた)からこの光景を見ると残虐極まりないレイプのような行為だが、剣持はSが着衣をまとった時に外から見える部分には絶対に傷やアザを作らないように細心の注意をはらっていた。名前とは反対に、SはドMだったのだ。
 Sの悲鳴がピークを過ぎると、剣持はロープを解き、お湯で絞った濡れタオルで、Sの身体全体を丁寧に優しく拭き上げた。拭い終わると、剣持は優しくSを愛撫して、Sがオルガスムスに達すると一連の行為を終わりにした。しばらくの間、Sの小太りの白い肉体は寄せては返す波に身を委ねているようにゆっくりと起伏して、やがてSは軽い眠りについた。Sの寝顔は幸せに満たされているように見えた。
 S女史は今までに色々な男と関係を持ったが、剣持が一番いいと思っていた。

 四月になって、伸は再び競馬で結婚資金を捻出できないかと考えていた。その後晴子とは何回もデートを重ねているが、晴子が自分を想っている気持ちが伝わって、いつまでもプロポーズできないことに胸が痛んだ。
 伸は四月十九日日曜日に走る第六十九回皐月賞に賭けることにした。前と同じく予めスポーツ新聞で調べた上、今度は一番人気を外して二番と三番人気をワイドで押さえることにした。
 二番人気は騎手が有名な武豊で馬はリーチザクラウンだ。これは絶対に来ると思った。三番人気はアンライバルドでこいつは強いらしい。
 今度は絶対に取るぞ、そう思って伸は資金をサラ金で借りて前と同様に十万円を全部()ぎ込んだ。
 十九日、十五時四十分いよいよレースがスタートした。三番人気のアンライバルドは思った通り強く、二位に一馬身以上離してトップで滑り込んでくれた。だが、どうしたことか二番人気の武豊の馬が来ない。武豊は大抵後半に追い上げて見る見るトップに躍り出ることが多かった。だが、その日は伸びなかった。結局追い上げがきかずに十三着に落ちた。
「クソッ!」
 伸の手に握った馬券はまたもやその瞬間に紙屑になった。
 
 四月二十二日水曜日にS女史の始末を決行する予定となった。その日は夕刻大物政治家のパーティーが予定されていた。その機会を利用するのだ。
「運びは堀口にやらせたいがどうだ?」
 伝次郎は社員が十名程集まった会議の席で居合わせた者たちに聞いた。
「奴さん、交通の反則切符を一度ももらってないそうだし、前の仕事をきっちりやってくれたからいいんじないすか?」
 皆、賛成のようだ。それで[運び]と称する役目は堀口伸に決まった。

 堀口に伝次郎から電話があった。
「今夜空いてる?」
「はい」
「八重洲に来てくれんか」
 四月二十日月曜日の夜、伸は伝次郎の事務所を訪ねた。
「堀口さん、二十三日の木曜日、一日空けておいてや」
 有無を言わせぬ口調に伸はその日休暇を取るつもりで承諾した。
「今度は大きい仕事や。失敗は許されん。ボーナスははずむで、しっかりやってや。ちゃんと終わったら、あんたに五百か六百や。ええ仕事やで」
 事務所を出て伸は考えた。
「えっ? 五百円か六百円? あり得ない。じゃ五百万? ほんとかなぁ? オレ、聞き間違えたのかなぁ」

二十 始末

「今夜、Pホテルに部屋を一つ頼む。俺は階下の宴会場に居る。スーツケースは部屋に入れといてくれ」
 四月二十二日、虎ノ門にあるバーのバーテンダー猪口は剣持から電話をもらった。猪口はサラリーマン風のダークスーツに着替えて、Pホテルのフロントに向かった。一頃は当日に部屋を取るのは難しかったが、不景気で最近は一つか二つなら当日でも取れるのだ。猪口は狭山幸雄四二歳と書いてビジネススイートルームにチェックインして部屋を確かめた後スーツケースを置いて戻り、キーを剣持に渡した。一泊四万八千円、部屋はブルーグレーで統一された色調でクールな女性に好まれそうな感じであった。
 ホテルを出ると猪口はトレメンド・ソシエッタの村上に電話を入れた。
「番号は×××です」
 電話は切れた。

 Pホテルの宴会場で、夕刻から大物政治家のパーティーが始まっていた。剣持はいつものように、SババアことS女史に付き添って、会場内をゆっくりと回っていた。今日のS女史は一段と色っぽく貫禄があった。多くの政財界人に一通り挨拶を済ませて、一息付いた時剣持は、
「今日は早めに」
 とS女史に耳打ちした。Sは訳知り顔に頷いた。

 エレベーターで上階に登って、S女史と剣持は預かったキーの部屋に直行した。部屋に入ると直ぐ、剣持はSの後頭部に手刀(てがたな)を一撃した。Sは脳震盪を起こして気を失った。剣持は素早くポケットから注射器を取り出し静脈に注射した。麻酔薬だ。
 ぐったりしたSの体をそのまま部屋の隅に置いてあった大型の旅行用スーツケースに押し込んで蓋を閉めて施錠した。
 仕事を終わると、スーツケースを持って出て、部屋の扉を閉めてスーツケースは別の部屋の入り口脇に置いたまま、何食わぬ顔で階下の宴会場に戻った。一連の動作は素早く、一分か二分間、トイレで小便をして戻る程度の時間だ。途中すれ違った男の手に、スーツケースのキーを掴ませた。

 トレメンド・ソシエッタの村上は剣持から受け取ったスーツケースのキーをポケットに落とし込んで、ベルボーイを呼び、スーツケースを階下に運ぶように指示した。何も知らぬベルボーイは言われた通り玄関口までキャリヤーに乗せてスーツケースを運んできた。村上は礼を言って受け取り、玄関前に回しておいた大型乗用車のトランクにスーツケースを放り込み走り去った。

 剣持はパーティ会場で出来るだけ顔見知りに目を合わせて印象付け、パーティーが終わりに近付くまで会場に居た。途中、
「S先生は?」
 と聞かれると、
「化粧室だと思います」
 と答えた。

 スーツケースを載せた村上の車はモノレールの天王州(てんのうす)アイル駅近くのとある倉庫に滑り込んだ。そこで、別の男にスーツケースとカギを渡すと、大田区の蒲田方面に走り去った。
 村上は蒲田にある車の解体工場に車を入れると、別の車で立ち去った。スーツケースを運んだ車は翌日の午前中には大型プレスで潰されて跡形もないスクラップになっていた。車はナンバーを変えてあるが盗難車が使われた。

 天王州アイル近くの倉庫の一室で、トランクが開けられた。中にぐったりと折り曲がって入れられていたS女史の体は男二人に引っ張り出されて、着衣を脱がされ宝石類を全て外されて丸裸にされ、毒薬を注射された。Sは間もなく死体となるはずだ。男たちは丸裸にしたSの体を伸ばしてひっくり返し、各部を点検した後にスーツケースに戻した。Sのヘアーは水着を着た時にはみ出さないようにするためか、周囲を綺麗に剃り揃えられていた。
「お洒落なババアだ」
 男の一人がつぶやいた。

 スーツケースは何処にでもあるような白い5ドアのハイエースバンの後に積み込まれて、倉庫脇に置き去りにされた。スーツケースのカギはダッシュボードに放り込まれ、バンのエンジンキーは付けたままで放置されていた。 この倉庫には関係者以外は入ってこないのだ。ナンバーを変えてあるが、この車も盗難車だった。
 男たちは別々に天王州アイルから浜松町に出て消えた。

 翌日の朝9時過ぎに、既に剣持から戻されていたホテルのキーカードを持って、猪口はPホテルのフロントに出向いて狭山幸雄名義で宿泊した部屋をチェックアウトした。チェックアウトすると虎ノ門のバーには戻らず、地下鉄で新宿方面に消えた。

 有給休暇を取って二十三日の昼過ぎに、伸は神山の事務所を訪れた。
「堀口さん、ご苦労だね」
 神山は機嫌が良かった。
「電車で、天王州アイルに行ってくれ。ここの倉庫脇に白い5ドアのハイエースが停めてある。キーは付けっぱなしや。あんたはそれに乗ってここまで車を届けてくれ」
 と言って神山は目的地の地図を示した。倉庫の位置はしっかりと頭に叩き込んだ。車を届ける場所は東富士五湖道路を富士吉田で降りて、国道139号線を本栖湖に向かって走り、西湖近くの紅葉台の所を左折して、県道71号を富士宮に向かって走る。途中印のある林道を右に折れて真直ぐ走ると大きなバックホー(パワーシャベル)があるから直ぐ分かると神山は説明した。伸は県道71号線を何度か走ったので説明が良く分かった。この辺りは青木が原樹海と呼ばれている。
「堀口さんよ、いいかぁ、車を届けるだけや。余計なことを何も考えるな。わしが言うたこと以外は絶対に何もするな。ETCは付いとらんから、高速は全部現金や。車を届けたら戻されるまで、あんたはタバコでも吸ってろ。何もせんでええ」
 伸は喫煙はしなかったが素直に、
「はい」
 と答えた。
「車を受け取ったらここに回してや。それであんたの仕事は終わりや。全て終わりや。帰りは電車を使え」
 神山は八王子近くの場所を教えた。
「はい」
「他に聞くことはないか? なかったら直ぐに行ってや。ガソリンは満タンやから持つやろ。スタンドには寄っちゃいかん」
 神山は前と同じようにくしゃくしゃの十万円を入れた茶封筒を、
「当座の経費や、使ってくれ」
 と言って渡した。伸が封筒をポケットにねじ込むと、
「堀口はんは大丈夫やと思うけど、交通違反は絶対にダメや。事故を起こしたら終わりやで。よう頭に入れておきや」
 神山は言い足した。

 堀口は電車で天王州アイルまで行って、言われた倉庫に辿り着いた。倉庫脇に白いバンが停めてあった。それに乗って富士五湖目指してゆっくりと走り出した。夕方に着けば良いので、時間には余裕がある。
 首都高1号羽田線に乗り湾岸線を通り横浜の大黒埠頭のベイブリッジを渡って保土ヶ谷バイパスから東名高速に入った。御殿場から須走入り口まで国道138号を通り、順調に富士五湖道路に入った。
 この様子は女優Mを護送した時と同様にGPS発信機によって逐次神山は追跡監視していた。
 夕刻、目的の場所に付くと届ける所は直ぐに分かった。二人の男が出迎えて、
「ご苦労様」
 と言った。伸は車を降りて辺りの空き地で一休みしていた。そこには新藤造園とペンキで書いたダンプカーやバックホー、ブルドーザー、クレーン車など大型の機械がゴロゴロ置いてあった。どうやら規模の大きい造園業者のようだ。

 伸は何もするなときつく言われていたが、つい興味心に押されて何気なく男たちの方を振り向いてしまった。
 と、ここに来るまでは荷物を見てなかったので何も知らなかったが、大きな旅行用スーツケースが下ろされて蓋が開けられ、中の白い物が穴に蹴り落とされる光景が目に入った。どうやら人間のように見えた。
 走行中、なんか病院で亡くなった遺体を置く霊安室のような臭いがかすかに車内を漂い変だなと思いつつ窓に少し隙間を空けて走ったが、これで運んだ物が誰かの遺体ではないかと確信した。

 男たちは伸の所に車を戻してきた。スーツケースは元通り載せられていたが、伸は何も確認しなかった。車を受け取ると直ぐに次の目的地に向かって走った。走り去る時に、重機の鈍いエンジン音が後で聞こえ遠ざかって行った。多分土で埋めているのだろうと伸は想像した。

 帰り道は山中湖から国道413号線を下った。この道は道志道と呼ばれていて、八王子方面への近道だ。指示を受けた車を届ける最後の目的地は八王子より少し手前の山中の大きな車の解体屋だった。
 伸が車を届けると、事務所に居た男が出て来て、
「早かったな」
 と言って車を受け取った。
 伸は直ぐそこを離れて車が多く通る道路に出てタクシーを拾って八王子駅に出た。
 伸が届けたハイエースバンは明日の朝にはエンジンを取り外され大型のプレスで旅行カバンと共に潰されスクラップになっているはずだった。

 事務所で午後からGPS車両追跡システムの端末を見ていた神山は、
「これで終わった」
 と独り言を言った。

 伸は八王子から中央線の快速に乗り、八重洲の神山の事務所に戻った。
 神山はご機嫌がよく、
「ご苦労、ご苦労」
 と言ってマクドナルドの紙袋を伸に手渡した。
「約束のボーナスや」
 袋の様子から五百万は間違いではなかったのだと思った。これでどうにか晴子に結婚を申し込めると思うと嬉しくなった。

 神山は、
「堀口さんよ、何も見てないよなぁ」
 と言った。伸が、
「はい」
 と言う返事を一拍遅らせたのがいけなかった。神山の顔が見る見る凄みを帯びて、
「あんた、見たな」
 と言った。伸は素直に、
「はい」
 と答えた。背筋に冷や汗が出るのが分かった。
「あれほど何も見るな、余計なことを何もするなとわしが言った意味が分かるか」
 神山は怒っていた。
「あのなぁ、人間はな、本当に見てないもんは拷問を受けようが脅されようが見てないと自信をもって言えるんや。そうやろ? 堀口さん」
「は、はいっ」
「見てしもうたもんを見てへんと言い張っても、そりゃ拷問なら頑張ることもできるやろ。だがな、ウソ発見器を使こうたら、頑張っても針がピンと跳ね上がってバレてしまうんや。分かるか」
「……」
「堀口はん、わしの言うとる意味が分かるか」
「はい」
「人間何もしなかったら、したと言うのがウソや。したら、してへんと言うのがウソや。何も見るなと言うたのはあんた自身と組織を守るためや。わしらの仕事はな、一連の行動であるべきものをズタズタに切ってしまうんや。堀口はんは車を届けただけで、荷物は何も見とらんかったら、どんなに攻められても車を動かしただけや。荷物は動かしとらん。荷物を見てなければどんなにきつく攻められても知らぬ、存じぬはウソを言ってはいないんじゃ。だから車を動かしたのと荷物を動かしたのはどんなことをしても繋がらん。車を動かしたあんたが知らんものは誰にも分からん訳や。証明もできん。そうやろ?」
「今度余計なことをしたら、堀口はん、わしらはタダではおかんよ。わしらはな、組織で仕事をしとるんや。組織のパーツが一つほころんでも全体が崩れるんや。もう一度言うたる。指示されたこと以外は絶対に余計なことをするな。これはプラスでもマイナスでもあかん。言われたことを言われたことだけするのや。言われたことをしなかったらそれも失敗や」
 神山は言葉は柔らかだか相当に怒っていた。伸は神山の説明を聞いて納得した。

 後味の悪い状態で、伸は八重洲の事務所を後にした。手元のマクドナルドの紙袋が随分重く感じられた。やはりこれだけの金を払うだけの仕事をやらされたんだ。伸は足取り重く碑文谷のマンションに戻った。
 晴子からメールをしても返事がないから心配してたと何度もメールが来ていた。伸は疲れが出て、大丈夫だと返事を送ってからそのまま寝てしまった。

二十一 失踪人

 四月二十三日、伸が車を解体屋に届けた時点で、神山はEグロの社長山田龍一に、
「終わりました」
 と告げた。山田は、
「分かった」
 と言って電話を切った。山田は続いて霞ヶ関の高官に報告をした。
「例の依頼の件、始末が終わりました」
「ありがとう。費用は明日使いの者に届けさせましょう」
 これで一連の作業は終わったと山田は思った。だが、神山の方はまだ後始末が残っていたのだ。

 伸がハイエースバンを届けた時点から、新藤造園の男たちの一連の作業を少し離れた樹木の陰から夜間は暗視装置付の望遠レンズを使って密かに監視している者が居た。神山の所の社員だ。暗視装置を使うと、夜間星明かり程度の光量があれば、昼間のように明るく見えるので現在では軍用には欠かせない装備となっている。男は迷彩服を着ているので、見付かり難い。新藤造園の男はそれとは知らず黙々と作業を続け、翌日の昼前にはS女史を蹴り込んだ穴の上に元通り樹木が戻され、雑草も元通りに植え付けられた。一雨あれば、誰にも絶対に気付かれないだろう。監視の男は仕上がりに満足していた。勿論状況は小型のパラボラを使って衛星通信により神山に報告されていた。民家のない山の中では携帯の基地局がなく、携帯を持っていても使えないのだ。

 剣持は神山の指示を受けて、S女史のマネージャの佐藤だと名乗って警察に失踪届けを提出した。警察では既に霞ヶ関の上層部から指示が下りており、本件については届けを受理するが、他の緊急を要するものを優先するように伝わっていた。そのため、届けを提出した佐藤こと剣持は簡単な事情聴取が終わると、
「結構です」
 と帰してもらった。要は本件はほったらかしにして、いずれ迷宮入りにする手はずとなっていたのだ。

 剣持が戻ってきた。失踪届けが受理されたと報告すると、
「ご苦労」
 と神山は労をねぎらった。神山は居合わせた社員に向かって、
「例の件は一応一件落着や」
と言った。
 神山はいつもの口癖でまた話し始めた。
「人間一人や二人()るのはどぉってことあらへんやなぁ、なぁ村上」
 村上は、
「あ、はい」
 と答えた。
「お前さんら、年間なんぼ失踪届けが出とるか知っとるか」
「最近は年寄りの認知症が増えてますから、徘徊老人を含めると三万位はあるのと違いますか」
 誰かが答えた。
「ええ線いっとる。約九万や。九万の内なんぼ上がったか見当付くか」
「今の警察(さつ)の力じゃ殆ど上がってるのと違いますか」
「警察が上げたのは八万五千位や。それでや、差し引き五千が迷宮入りや」
「そんなに上がってないんですか」
「そうや、だからわしが言っとるやろ。人間一人や二人を消してもどおってことあらへんて。年間五千も迷宮入りしとるんやから一人や二人はアバウトにすりゃ数字にも出んわ」
「今回も迷宮入りになるやろ。それでいちいちほじくり返されることはあらへんのや。わしらのようなプロとアマちゃんの違いは仏さんの始末や。始末さえきっちりしとれば何も怪しまれることはないんや」

 伸は神山から受け取った金から二十万をサラ金に返し、残りを結婚資金として預金した。袋の中には五百五十万円入っていたのだ。
 その夜、晴子とお台場で食事をした後、大江戸温泉物語に入った。温泉を出た後少しの間海辺の道を散歩した。街灯の光が弱くなった所で、伸は晴子を引き寄せて初めてキスをした。晴子を抱きしめたのも今日が初めてだ。晴子を抱きしめると晴子の胸の鼓動が伝わってきた。晴子の顔を見ると、晴子の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「晴子、結婚しよう」
 晴子が心待ちにしていた言葉が今日聞けた。晴子は伸を強く抱きしめて、
「嬉しいっ」
 と答えた。伸は続けた。
「六月に結婚式を挙げる予定でゴールデンウィークに二人で旅行して、その時にゆっくり相談しないか」
「ん。行きたいけど、宿泊するんだったら、父と母の許しがないと困るわ」
「お父様とお母様に相談をしておいてね」
 晴子は今夜の出来事を両親に話した。両親も大層喜んでくれた。それでゴールデンウィークの旅行の話をすると、父親は反対したが、母親の後押しでOKが出た。何処に連れていってくれるんだろ? そのことで胸が膨らんでなかなか眠れなかった。
 伸は帰宅後ようやく肩の荷が下りたような気持ちで独りでビールで乾杯した。日曜日バスケットで友人が集まるから、今度は晴子に見に来ないかと誘おうと思った。

 伸は先日車を届けた青木が原のその後がどんな風になっているのか気になっていた。余計なことをするなときつく神山に言われていたが、山の中だし、少し離れた所から見ればバレることは絶対にないだろうと思った。それで、土曜日に自分の車で富士五湖に出かけた。晴子や弟には裏の仕事のことは一切話をしていなかったので、今回も晴子には話をしなかった。
 現地に着いて、伸はびっくりした。確かこの辺りだと記憶を辿ってもそれらしき跡は何もなかった。ただ周囲の木々や雑草が風になびいて初夏が近いことを楽しんでいるように見えただけだ。伸はそのまま引き返した。

 新藤造園の作業後の監視はまだ続けられていた。伸は全く気付かなかったが、400mmの望遠レンズで伸の顔や周囲の景色、赤い車などの写真が撮影した日付と時刻を入れて撮られていたのだ。
 富士山麓から衛星通信で送られて来た画像を見て、神山は険しい顔になった。
「あのヤロウッ、あれだけ余計なことをするなと釘を刺しておいたのに。どアホなやっちゃ」
 それで、村上に指示をした。
「村上さんよ、堀口を直ぐ消せっ」
 村上は了解した。

二十二 罠

 その日、渋谷の道玄坂は歩行者天国になっていた。何組かのストリートミュージシャンが楽器を奏で、歌い、どうしてこんなに暇な奴が居るんだろうと思うほど若者たちで賑わっていた。賑わうと言うより、溢れかえると言う言葉がピッタリだ。
 村上は、先ほどから舗道にあぐらをかいて、ぺったり座り込んでいる三人組みの女子高生をじっと見ていた。三人が三人共に爪にごてごてとネイルアートをして、その中の一人が携帯で話中だった。
 長電話を終わったそいつに村上は近付いた。
「ねえちゃんよぉ、その携帯落とさねーか」
「えっ?」
「だからよぉ、あんたがその携帯をそこに落とすのよ」
「なに、それっ? おかしなこと言うオジサンだなぁ。なんでわたしが携帯落とさなきゃなんねーのよぉ」
 他の二人も、
「わっけ分からんこと言うなぁ」
 と応援した。
「あんたが携帯落としたら、オレサマが拾うのよ」
「オジサン、頭、変だよ」
「オレサマの話を最後まで聞けよ。あんたはオレサマが落としたこの袋を拾うのよ」
「やっぱ変だよ、オジサン」
「変じゃねーよ。袋の中も見ねーで、どうしてそんなこと言えるんだ?」
 女子高生たち三人は村上の話に乗ってきた。
「じゃ、袋の中見せてよ」
「いいよ。ほれっ」
 村上は携帯を持つ女子高生に袋を渡した。女子高生は中を見て、
「何、これ?」
 と言ったので他の二人も覗き込んだ。
「スゴッ、十万以上あるじゃ」
「だからよぉ、オレサマが今その袋をそこに落とすからよぉ、あんたもその携帯そこに落としなよ」
「いやだよぉ」
 女子高生は拒んだ。
「アドとかなくなったらマジ困るもん。それよかオジサンこの金で新しい携帯を買えばいいじゃ」
「オレサマはあんたのそれを拾いたいんだ」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
「オジサン、変態だよ。女の子の下着なんかも集めてんじゃねーの」
「下着? 興味ねーな」

 女子高生は三人互いに目配せした。
「じゃ、いいよ。オジサンが先にその袋そこに落としてよ。そしたらあたしの携帯をそこに落とすからさぁ」
 村上は紙袋をぽいと落とした。携帯を持った女子高生がその紙袋をさっと掴むと、三人揃って急に立ち上がり逃げ出した。
 まさに走り出そうとした時、村上の足がすーっと携帯を持った女子高生の前に伸びた。
 女子高生は村上が不意に出した足に(つまず)いて、舗道の上に転がった。袋はしっかりと握っていたが、思わず手を付こうとして、手を開いたため、携帯は滑って舗道の縁石からことんと落ちた。
 村上は携帯を拾い、
「拾ってくよ」
 と言い残して立ち去った。転んだ女子高生は膝をしこたま打ってすぐには立ち上がれず恨めしそうに遠ざかる村上を見ていた。他の二人も唖然として追いかけて来なかった。
 村上が拾った女子高生の携帯にはその後電話はかかるしメールは着信するし、うるさくて仕方が無かったが村上は無視した。

「トレメンド・ソシエッタの村上だ。明日の日曜日、新しい仕事を頼みたい。九時ピッタリにあんたの車でお台場のホテルグランパシフィックの三十階にあるシスターロードに来てくれ。昔のホテルメリジャンだ。分かるよな」
 村上は堀口の都合を聞かずに一方的に指示した。
 堀口は午後晴子をバスケに連れて行く約束をしていたが、先日印象を悪くしたので断れなかった。

二十三 罠・・・続き

 昨日、渋谷で女子高生から携帯をまきあげた時、村上は変装していた。髪の毛の長い鬘をかぶり、その上にこげ茶のハンチングを被っていた。左の頬には大きめの旧い切り傷をメイクし、サングラスをかけ、おまけに鼻の下に大き目の付け髯をして、かっての総理大臣のように口を曲げて話をした。もし、女子高生が携帯をまきあげられたのが悔しくて、警察に届け出たとしてもだ、三人共、異口同音に男の特徴を述べただろう。その特徴から村上を割り出すことは殆ど不可能であった。
 携帯をまきあげた後、村上は近くのTデパートのトイレで変装を綺麗に取り除いたのだ。

 神戸にあるK運輸は船舶用大型コンテナの陸送が専門だった。舶用のコンテナは20フィート(長さ6m)と40フィート(長さ12m)があるが、K運輸は40フィートの大型を専門としていた。このコンテナは神戸埠頭で陸揚げされ、税関を通過した後、そのままコンテナ専用トレーラーで陸送される。コンテナを積載したトレーラーは全長が約18mもある大きな車両だ。K運輸はそんな大型トレーラーを主に神戸から東京方面に陸送していた。
 背中にK運輸のロゴが付いたジャンパーを着たドライバー藤井は昨日神戸を出て、今朝九時前までに、東京港区の台場のレインボー入り口交差点前まで行き、その後携帯の指示に従う予定であった。早めに到着したため、交差点の少し手前で一時停車し携帯からの連絡を待っていた。

 村上はホテルグランパシフィックの三十階にあるシスターロードで堀口を待っていた。その間にK運輸のトレーラーが到着していることを確かめた。九時少し前に堀口がやってきた。村上はコーヒーの追加を頼み、堀口伸にA4の封筒に入れた分厚い資料のようなものを手渡し、
「この封筒をホテルの前のゆりかもめの下の道を真直ぐに走り、レインボー入り口交差点の先の、のぞみ橋を渡って有明方面に走り、行き止まり左手にある、超高層マンションWコンフォートタワーズEASTの四十三階の金田を訪ね直接手渡してくれ」
 と指示した。
「急ぐので直ぐあんたのハデハデの車で走ってくれよ」
 と村上は付け足した。

 コーヒーにちょっと口を付けた後堀口は指示に従って直ぐ階下の駐車場から車を出した。
 村上は、堀口伸の車が飛び出したのを確認して、スワロフスキーのラインストーンで姫デコデンをしたような派手なピンクの携帯を取り出して、K運輸のジャンパー男に電話した。
「赤いスポーツカーだ。頼むぞっ」
 それで、電話を切った。携帯は昨日女子高生からまきあげたものだ。まだ使用停止にはなっていなかったのが村上に幸いした。
 村上は階下に降り、ホテルを出て、船の科学館脇の潮風公園に入り込み、大き目の石を見つけて姫デコデンの携帯を、小脇に挟んだスポーツ新聞を広げ、その上で粉々に粉砕した。粉砕したものをそのまま海の中に捨てた。これで携帯は跡形なく消滅した。それを終わると村上はゆりかもめに乗ってさっさと台場を立ち去った。

 トレーラーの運転手藤井は、携帯の指示通り、右手からレインボー入り口交差点に向かってスピードを上げた赤いスポーツカーを確認すると、前方が赤信号にも関わらずトレーラーを加速して交差点に進入した。

二十四 無惨な死

 伸は村上に指示された通りに愛車RXー7カブリオレに乗り込みホテルのパーキングから飛び出して、レインボー入り口交差点の先ののぞみ橋を目指した。ここ台場は晴子とファーストキスをした想い出の場所だ。晴子も伸のキスがファーストキスだったようで、二人は純愛で結ばれたと言って良かった。愛車をスタートさせた時、伸の頭に目の前のゴールデンウィークに晴子を能登半島にでも連れて行こうかと楽しいドライブの様子がよぎった。伸は村上の仕事を早く終わらせて、愛する晴子を迎えに行って、昼食を共にした後、碑文谷の体育館に連れて行こうなどと考えつつハンドルを握っていた。前方レインボー入り口交差点の信号が青だったので、無意識にアクセルを踏み込み、交差点に差し掛かる頃には時速60kmを越えていた。

 K運輸のドライバー藤井は、前方に交叉する道路の右方向からスピードを上げて交差点に接近する赤いスポーツカーを確認して、交差点目指してアクセルを踏み込んだ。トレーラーが加速し赤信号を無視して交差点に進入した所で急ブレーキをかけた。トレーラーは交叉する道路のセンターラインを少しはみ出した所で停まった。

 伸は晴子のことで頭の中が満たされていたので前方の交差点の左側から進入するトレーラーに気付くのが一瞬遅れた。伸は交差点の直前で急ブレーキを踏み、咄嗟にハンドルを右に切ったが間に合わなかった。グワッシュンと大きな音を立てて伸の車はトレーラーの牽引車の前方右側面に衝突して大破し跳ね飛ばされ、そのまま横転して約20m先の、のぞみ橋脇の第13号地埠頭前の運河に転落した。
 ドライバーの藤井は事故の大きさが予想を遥かに越えていて、一瞬唖然としたが、直ぐ気持ちを取り直して110番と119番に事故を通報して救援を求めた。五分後にサイレンをけたたましく鳴らして警視庁のパトカーが到着した。警官は即座に状況を把握して直ぐ応援を要請した。間もなく、救急車と数台のパトカー、続いて大型のクレーンを搭載した事故処理車が到着した。応援に駆けつけた警官たちは直ちに四方の交通を遮断した。
 お台場界隈は若者の人気スポットで、日曜日でもあり、店が開く十時を過ぎると続々と客が集まってくる。十時を過ぎるとあたりは野次馬で溢れかえり騒然となった。

 車は運河から引き上げられたが、運転していた若者は既に死亡していると検死官により報告された。運河に転落したため、司法解剖に回される予定だ。
 ドライバーの藤井は、昨夜神戸を出たので疲労により意識が散漫になり、信号を間違えて交差点に進入、事故になってしまったと警官に詫びた。トレーラーには運行記録をデジタルで記録するデジタルタコグラフが装着されていて、警官は運行記録を調べて藤井の供述に間違いのないことを確認すると、直ちに業務上過失致死傷罪の現行犯として逮捕し警察署に連行して、細かい供述を取った後に起訴した。

 運河から引き上げた車のナンバーと車検証を確認すると、警察は持ち主の電話番号を調べて連絡を取った。その日は弟の堀口拳は午後出社する予定で運良く自宅のマンションに居た。警察からの連絡に驚いて、直ぐ現場に行きたいと言って細かい状況と場所を聞いてマンションを出た。
 拳は前日兄の伸が結婚を約束したと言っていた晴子にも伝えた方が良いと思い、晴子の勤め先に連絡を取った。電話口に出た晴子には詳しいことは話さなかったが、晴子は何か悪いことを察して動揺した気配がした。拳は新橋駅前で晴子と落ち合って二人でお台場に向かった。

 警察は引き上げられた車の中に封書を発見した。封書は海水でびしょ濡れとなっていたが、中はまだあまり濡れてなかった。引き出して見ると、真っ白なA4のコピー用紙が約五十枚入っているだけであった。
 村上は伸に、さも重要な書類と見せかけて、ただの真っ白なコピー用紙が入った封筒を預けたのだ。勿論WコンフォートタワーズEAST四十三階の金田は架空で、そんな者は存在しなかった。伸を消すための村上の罠だったのだが、そのことは村上以外に誰も知る由も無かったのだ。

二十五 悲しみを計る物差しがあるなら

 もしも、悲しみの深さを計る物差しがあるなら……。口を一文字に結んで、拳は晴子の横に立って、新橋から乗ったゆりかもめの窓の外に流れる東京湾の風景をぼんやりと見ながら悲しみの深さを思った。
 出会ってしまったら、別れの悲しみはいつか必ず来るのだ。別れに直面した時、出会ってからの愛が深ければ深いほど悲しみや苦しみは深いのだろう。相手が人であっても、ペットであってもだ、と拳は思った。
 もしも、苦しみを代わってあげられるなら、自分のこの小さな命を差し出しても構わないと思える時、最も深い悲しみなのかも知れない。もしも、代わってあげられないなら、自分も悲しみのない世界、永遠に別れのない世界に一緒に連れていってと思える時、最も深い悲しみなのかも知れない。そんなことを思いながら、
「事実を知ったら、きっと晴子さんも」
 と拳は声にもならない小声で呟いた。

「なにを考えていらっしゃるの」
 先ほどから隣で拳の横顔を見上げていた晴子の声に拳ははっとして我に返った。
 花屋の仕事を午前中で切り上げて、半日休暇をもらって、午後、伸とデートを約束していた晴子は花屋の仕事に忙しかった。そんな時、珍しく弟の拳から携帯に電話が来た。
 拳は、
「お台場で兄が事故に遭ったらしい。お時間が取れるなら、是非ご一緒においで頂けませんか? いらっしゃるなら、新橋のゆりかもめの乗り場でお待ちします」
 とだけ晴子に連絡したのだ。
 拳は、今年から自分の義理の姉になったかも知れない隣の美しい女性にこの先、なんと言って慰めればいいのか、言葉を探してみたがまだ見付からないでいた。
 それで、不意の晴子の問いに、
「ん? なにも」
 とだけ応えるのが精一杯だった。

 お台場に着くと、まだ人だかりは散ってなかった。拳に電話をくれた警官はその場に居残ってくれていた。名前を告げ、晴子を紹介すると、警官は晴子をかばうようにして、引き上げられた伸の車の側に案内した。
 伸が自慢していた赤いスポーツカーの前部は元の形が分からないほどくしゃくしゃに潰れていて、まだ海水が滴っていた。
 晴子はことの重大さを知って、目の前が暗くなるのを感じたが、やがて自分を見ているうっすらとした伸の笑顔を見ていた。
「晴子さん、晴子さん、しっかりして下さい」
 と言う拳の声にはっと気が付くと晴子は拳に抱きかかえられていた。
 警官は一通り事故の状況を説明すると、伸の遺体が安置されている大学病院にパトカーで送ってくれた。
 病院の霊安室で晴子と拳は変わり果てた伸に対面した。晴子は今迄抑え込んでいた感情が破れて、伸の遺体にしがみついて慟哭した。拳はいつまでも晴子のなすがままに任せていた。
「どうして? どうして? ……伸君、どうして応えてくれないの」
 拳は慰める言葉をまだ見つけられずにただ晴子の震える肩を抱きしめているばかりだった。
 晴子はずっとここに居たいと言い張った。だが霊安室には他の遺体も安置されていた。それで、
「取敢えず碑文谷のマンションに帰らない?」
 と拳は晴子を説得して二人は堀口兄弟の碑文谷のマンションに戻った。
 拳は晴子に聞かれないようにして、晴子の母親と田舎の自分の母親に電話を入れた。両方共にお昼のニュースに流れた事故の模様を知って心配をしていたようだった。

 晴子は今夜伸君のベッドで眠りたいと言って聞かなかった。拳は止む無く晴子の母に電話をして、
「今夜は晴子さんとこちらで飲み明かしますのでご心配なく」
 と告げた。晴子の母は晴子の気持ちを察して、よろしくと答えた。
 晴子は伸がバスケットで着るために出してあったウェアや靴、テーブルの上の晴子とのツーショットの写真などに触れ、伸の物を懐かしむようにいつまでもそこに居た。

二十六 悲しい別れ

 伸の遺体は司法解剖を終わって遺族に戻された。運河に転落したにもかかわらず、海水を殆ど飲んでいなかったことから、警察では衝突時即死をしたものと判断したようだ。
 コンテナ専用トレーラーの運転手藤井は警察に協力的で、事故直後自ら警察に通報した上、交差点に進入直後に急ブレーキをかけたことを証明するタイヤのスリップ跡が確認され、加えて深く反省をしている様子なので、警察では単なる業務上の過失として処理した。
 事故の模様は当日の正午のテレビニュースで全国に放送され、全国版の各社の新聞に写真入りで報道された。
 ニュースでは一般論として、不況で人員削減が進み、ドライバーに過労を承知で無理なスケジュールを押し付ける企業が増加しており、社会的に大きな問題だと指摘していた。

 Eグロの社長山田龍一は正午のニュースで堀口の不慮の事故を知った。
 山田は直ぐに神山に電話で確認した。
「堀口君が事故で死亡したそうだな。君のとこで殺ったのか」
「わしの方で消したんや」
 と神山。
「惜しいことをしたな。なかなか良い青年だったが」
「仕事は確かですわ。けど、厳しく指示しといたのに余計なことしよるので使えんかったですわ」
「そうか」
 それで電話は終わった。

 堀口家の通夜は田舎町の公民館を利用して内々で行われた。晴子は両親に相談して、父母と三人揃って通夜と告別式の両方に出たいと拳を通じて堀口家に申し出た。
 通夜には堀口家の親戚の他に伸のバスケットの友達や地元の友人達の他学生時代の先生などが集まりかなりの人数だった。
 晴子の両親は初めて伸の両親に対面した。
「こんなことで……」
 と双方涙ながらの対面となった。晴子は伸の母親に娘のように接した。
 告別式にはT商事の関係者も参列したが、他に芸能記者の船橋聖二の顔も見えた。式の模様をTVCと書いた腕章をしたテレビ局のレポーター風の男がビデオ撮影していた。受付の者と式に参列した者はどこかのデレビ局の取材程度に考えていたが、船橋は職業柄いかさまな奴だと見抜いていた。テレビ局のレポーター風の男は神山の依頼で参列者の面々を密かに録画していたのだ。勿論船橋の顔も撮られていた。
 田舎町には斎場がなかったので、小田原市郊外の久野斎場で火葬となった。最後のお別れの時、晴子は再び悲しみがこみ上げてきて、すすり泣いた。火葬を終わって、晴子は拳と一緒に伸の骨を拾った。

 これで恋は終わってしまったとは晴子は考えたくなかった。晴子の胸の中にはまだ優しかった伸の面影が鮮明に残っていたのだ。
 告別式で、伸の弟の拳と親しくしている女性を先程から橋口理恵は気になっていた。そこで、そっと拳に歩み寄り尋ねた。
「こちらは、ご親戚の方でいらっしゃいますか」
「いえ、兄の許婚(いいなずけ)だった方です」
 理恵は少し驚いた様子で晴子に、
「私、堀口さんの同僚で、職場では机を並べてました。落ち着かれましたら一度お茶でもしませんか」
 と誘った。晴子は、
「ええ」
 とだけ答えた。今は伸以外のことは何も考えたくなかったのだ。

二十七 嫉妬

 伸の葬儀が終わって、早いもので連休はあっと言う間に過ぎ去った。
 晴子の両親は突然の不幸に遭った一人娘を不憫に思った。これで当分結婚話は持ち出せまいと諦めていた。
 晴子はそれ以来無口になり、今までの快活さも薄れ、毎日黙々と花屋へ通っていた。
 連休明けのお天気の良い日に、晴子は花屋の休暇を取って、伸のお墓にお参りに出かけた。
 真新しい塔婆の立つお墓の前で合掌する晴子の頬に一筋の涙が初夏の太陽を反射して光った。山間(やまあい)にある伸の墓の回りは新緑と雑草の芽吹きの香りが漂い、悲しみに包まれた晴子の気持ちを少し和ませた。

 五月も半ばとなった時、晴子に二人の者が訪ねて来た。一人は葬儀の時に紹介された橋口理恵、もう一人は芸能記者船橋聖二と名乗る者だった。
 船橋は正午のニュースであの事故の様子が流れた時、電撃が走ったようにニュースを注視した。女優Mを連れ出した堀口の顔とその時に使われた赤いスポーツカーを鮮明に覚えていた。あの時、何者かに拉致されて、簀巻き同然にお台場の空き地に転がされていた屈辱が悔しくてたまらなかったのだ。堀口に付き合っている女がいたことは今までの尾行で知ってはいたが、葬儀の時に居合わせた様子を見ると、結婚を前提に付き合っていたと直感した。それで、花屋に晴子を訪ねたのだ。
 嫌がる晴子を何とか連れ出して、コーヒーショップで話を聞いた。だが、晴子は女優Mのことについては全く知らされておらず、これ以上付きまとっても無益だと思った。

 葬儀の時に撮影されたビデオの映像を解析して浮かび上がった船橋を密かに尾行して密偵している男がいた。
 男は船橋が晴子と長話をしているのを見て、
「あの二人、このまま放っておくわけにゃいかんなぁ」
 と呟いた。
 橋口理恵が晴子を訪ねた時は、晴子は忙しそうに仕事をしていた。晴子は橋口を覚えていたが、
「お茶をしませんか」
 と誘った所、多忙なので日を改めてくださいと断られてしまった。

 二日後の夕刻、新丸ビルの六階にあるワインバー[Y・Y]で晴子と理恵はワインを飲みながら話し込んでいた。
「実は、あたし堀口さんをすごく好きだったの。でも彼って晩生(おくて)でしょ? あたし、何回も彼に気のあるフリをして見せたんだけど、彼って全然あたしに振り向いてくれなかったのよ。」
 晴子は黙って理恵の話を聞いた。
「お葬式の時、あなたを紹介されて、なぜ振り向いてくれなかったか、分かったような気がしたわ。あなたのようなお綺麗な恋人がいらしたなんて、あたしびっくりして、道理でって自分を納得させたの」
 晴子がどう答えればいいのか迷っていると、理恵は続けた。
「もしもよ、彼が生きている間にあなたの存在を知っていたら、あたし、すごく焼きもちを焼いたと思うの。多分嫉妬して眠れない日が続いて、何が何でもあなたから彼を奪ってしまったかもよ」
「……」
「でも、二人とも彼を失って失恋しちゃったから、お互いに傷を舐めあうってのは少し言い方が可笑しいけど、この際、お友達になって下さらない」
 アルコールが効いて饒舌になった理恵は濃い目のルージュが似合っていて口元に魅力のある目の大きな女性だった。晴子は彼女に聞きたいこともなかったし、聞き役に回って理恵の話を聞いていた。
「それはそうと、堀口さんに時々トレメンド・ソシエッタって名前の会社から電話があったわよ。会社の取引先にはそんな会社はないから、多分個人的なお付き合いだと思うけど。普通の人が聞くとお洒落な名前の会社なんだけど、イタリア語を日本語に訳すと[恐怖の会社]って怖い名前なの。それでよく覚えているわ」
 晴子はこの話を聞いて、先日船橋から教えられた女優Mの話と何か関わりがありそうな予感がした。

 それからは、伸の弟の拳は兄と同様に長身でイケメンで兄よりも魅力があるから、あたしアタックしてみようかと理恵が冗談を言い、とりとめのない世間話をして過ごした末、話題も尽きて二人は[Y・Y]を出て別れた。

 堀口拳とオーストラリアで会ったレイ夫人とは帰国後も関係を続けていた。レイ夫人は彼女よりずっと年上の旦那と二人暮らしで子供が居なかった。
 旦那は政府系の開発投資機関のトップで財界でも有名な資産家だった。
 レイ夫人の紹介で、拳は一度レイ夫人の主人を丸の内のオフィースに訪ねたことがあった。恰幅の良い目付きの優しい初老の紳士で好感を持てた。
 その後、レイ夫人は主人の了解を得てあると言って、個人資産の一部の約十億円の運用を拳の勤める会社に託した。実質的には拳が運用責任を負った。
 拳は、リーマンショック以後にインドと中国経済がいち早く立ち直ると予測して、インドと中国の企業及び関連する資源市場に積極的に投資して運用活動を展開していた。拳の予想は的中して、ムンバイSENSEX指数、上海総合指数共に急騰し、一時40ドル代前半まで下落した原油先物市場は60ドルに迫る勢いで回復してきた。
 それで、年率換算で20%以上の短期の運用成績を上げて、レイ夫人を安心させることができた。顧客ベースで年率換算で20%以上の運用益を上げるには運用経費を上乗せするとネットの成績は40%を越えなければならないので、拳の腕は相当高く評価されても不思議ではなかったのだ。

 五月も下旬に差し掛かった時、佐賀県の唐津漁港でマトウダイの釣を楽しんでいた者が、漁港に全身素っ裸の腐乱死体が漂着したのを発見して警察に通報した。警察の調べに拠ると男性のようだが、腐乱が激しく魚に食われた部分もあり、身元の割り出しは難しいようであった。もしかして、最近姿を消した芸能記者船橋聖二こと岡田春樹の可能性もあったがそのことは誰にも分からなかった。殺った奴以外には。

 晴子はいつもの通り花屋の店仕舞いを終わると、疲れた足取りで目黒通りに沿って帰宅途中だった。そこへ、後からすーっと白いベンツが近付いてきて、ドアを開けるなり男が飛び出して、晴子の腕を引き、鳩尾(みぞおち)に一撃のパンチを加え、車の中に引きずり込んだ。前後に人はなく、素早かったのでこの様子は恐らく誰にも見られていなかったに違いない。晴子は車内で両手両足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)と目隠しをされてどこかに連れ去られた。

二十八 ある男の末路

 広島県の尾道と三次(みよし)の中ほどの片田舎の中学校に塚田恒夫は通った。恒夫の母は君代と言った。恒夫は君代のたった一人の息子で、真面目で成績は良く、母親思いだった。恒夫の母は京都府下の福知山から嫁いで来たが、田舎暮らしに慣れずに、恒夫だけが生き甲斐であった。
 中学を卒業すると、恒夫は厳しい受験の関門を潜り抜けて、K市に近い瀬戸内海の島、O崎U島にある国立H商船高等専門学校の電子制御工学科に進んだ。五年間頑張った後、更に二年間専攻科の海事システム工学に進み、二年後工学士の学位を取って卒業した。
 在学中は寮生活をしたが、概ね奨学金で学費、寮費、食費は間に合ったので、母に経済的な負担はかけず、親孝行ができた。
 だがしかし、当時は海運不況で船舶関係の企業に入れず、止む無く広島県警に入り巡査として社会人のスタートを切った。真面目な性格で、三年後一階級上の巡査部長に昇進して主任として活動した。
 丁度その時期に、母は離婚して一人暮らしとなったので、恒夫は母の面倒を見ることになり、父親の塚田姓を捨てて母親の藤井姓に変えた。
 県警に勤めて五年後の春、母の君代は突然に他界し、恒夫は天蓋孤独の身となってしまった。

 母が亡くなって、藤井恒夫は県警を自己都合で円満に退官し、K市に移り住んだ。約一年間ぶらぶらした後、恒夫は海上自衛官を志願して、K地方隊に入隊した。入隊後、高専時代の学業成績を認められて、K地方総監部直轄のK造修補給所に配属された。
 造修補給所は、艦船は勿論のこと、艦船用電気器材、特殊工具や検査器具、火器(武器弾薬)、掃海・音響・磁気・光学・通信・電波・気象・戦術情報処理・教育訓練をはじめ、ミサイル等の誘導武器、化学器材、航海器材、水雷武器や需品、車両、衛生器材、施設器材、港用品など広範囲に製造や改造の監督、研究改善に関わる業務を担っており、我が国の海上自衛隊の装備全体にとって極めて重要な部署だ。
 この部署に配属された恒夫は一人身の身軽さで五年間一心不乱に勉強した。多くの技術資料は米国や英国から取り寄せたものが多かったので、恒夫は英語を中心とする語学の習得にも力を入れた。

 そんな日々を過ごすうちに、恒夫は技術や情報の分野で成長し、仲間の間ではいつの間にか[博士]とあだ名されるようになって、将来昇進して海上自衛隊の技術部門の要職に着くと誰しも思っていた。
 所が、ある日コントラクトブリッジ賭博が発覚して、恒夫は余儀なく十年間勤めた造修補給所を退官させられることとなった。
 コントラクトブリッジはゴルフと同様に競技会で賞品が贈られることはあっても金銭を賭けて戦うことは殆ど無い。にも関わらず、恒夫は高額の金を賭けて勝負する仲間を増やし、メンバーは上官にまで広がっていた。
 ある時、負けてペナルティーを支払う金がなく、サラ金に手を出して大きな負債を抱える隊員が数名出て問題となり、事態の収拾のために、首謀者の恒夫は責任を取らされる形で依願退官させられた。実質は免職だ。

 K地方隊を弾き飛ばされた恒夫は神戸に移り、海上自衛官時代に取得した大型車及び特殊車両の運転免許を基に、神戸に本社を持つK運輸会社にコンテナ専用トレーラーの運転手として就職した。大型の貨物船から陸揚げされた12mにもなる大型コンテナを積んで、神戸から関東地方まで陸送するのが仕事だ。恒夫の心の片隅に船に関わっていたいと思う気持ちがあったのではないかと思われる。

 ふとした機会に、藤井恒夫は東京の八重洲にあるトレメンド・ソシエッタと関係を持つようになった。
 トレメンド・ソシエッタの村上の指示でお台場で事故を起こしてから恒夫は警察に拘留されていた。普通は十日か長くても二十日も拘留されたら、一時釈放されて、裁判の判決が出てから刑罰を受ければ良いのだが、村上は恒夫が警察で余計なことをしゃべったりする危険を感じて、弁護士を通じて保釈請求の手続きを取った。
 藤井恒夫は連休中に保釈が認められて、連休明けに丸の内の事務所に村上を訪ね、そこで五百万円を受け取った。その時、旅行でもしてこいと村上に言われたが、保釈中の者は日常の生活に必要な範囲を越える国内旅行をする場合は裁判所の許可を取らねばならないのだ。まして、海外旅行となると、めったに許可が下りないのが常識だ。
 それで藤井は村上にドバイに観光旅行に行きたいと相談した所、村上は偽造のパスポートを用意した。
「これを使えば、航空券を買えるぜ」
 と村上。藤井は偽造のパスポートで成田から直行便の出ているアラブ系の[エミレーツ航空]のドバイ行きの往復航空券を手に入れた。

 エミレーツ航空はドバイのあるアラブ首長国連邦の公式の国際航空会社で130機以上の旅客機を持つ大きな航空会社で、運賃の割にはサービスの内容が良いことで知られている。
 藤井はドバイ国際空港に降り立つと、予約を入れておいた五つ星に匹敵するホテル [Somerset Jadaf]に直行した。ダブルルームのチャージは約500AEDだが、日本円の換算レートは約26円なので、一泊一万五千円でお釣が来る勘定だ。アラブ首長国連邦の貨幣は U.A.Eディルハム(AED) でサウジアラビアリアルやカタールリアルとほぼ同じレートだ。

 村上は藤井のことをしがないトレーラーの運転手風情と軽く見ていたが、藤井の経歴は村上の予想を遥かに越えていた。
 ホテルで一服していると、電話が来た。モハメドと名乗る男からで、片言の日本語で、
「藤井さんですか? 今夜食事をご一緒しませんか? 東京のミスタームラカミに接待すると頼まれているんです」
 と言った。藤井は、
「オーケー。サンキュウ」
 と返事した。
 藤井は五年間の警官の経験があった。それで、直感的にモハメドはトレメンド・ソシエッタが回したヒットマン(刺客)だと思った。
 直ぐにホテルをチェックアウトして、4駆のレンタカーを借りて地図で調べておいた国境の町、アル・アインを目指して走った。見通しの良い砂漠の中の道だ。後方から尾行してくるジープのような車がバックミラーに写っていた。
 藤井はこのまま幹線道路を真直ぐに走らずに、磁石を頼りに道路から外れて砂漠の中を走り抜いた。
 相変らず尾行されていた。それで、電話の主はヒットマンだと確信した。
 砂漠の中を随分走った末、ガス欠で車がエンコしてしまったが、相手も追いきれずにいつの間にか尾行する車はミラーから消えていた。恐らく帰りのガス(ガソリン)を計算して戻ったのであろう。
 アラブのモハメドから、フジイは砂漠で行き倒れてハゲタカの餌食になるだろうと連絡が入り、村上は弁護士を通じて失踪届けと捜索願いを警察に提出した。多分迷宮入りの案件になるだろう。

 車が動かなくなって、仕方なしに磁石を頼りに砂漠の中を歩いたが、日が昇り太陽に焼かれて藤井は行き倒れとなってしまった。一日水も無く良く持ちこたえられたものだ。
 夜になり、通りがかった駱駝(らくだ)商隊に助けられた。商隊の隊員の中には多国語に通じている者が多い。藤井の英語で十分に役立った。

 その後、藤井は傭兵としてソマリアの海賊に加わり日本の商船を護衛する自衛艦をてこずらせることになったのだ。

二十九 恐ろしい一夜

 剣持はその女が通るのを待ち伏せしていた。目黒通りの目黒駅近くの前方に、その女、堀口の彼女、晴子が疲れた足取りで歩いているのを先ほどからマークしていたのだ。剣持は左ハンドルのベンツを舗道側に寄せてゆっくりと女の後をつけていた。丁度女の周囲に人影が途切れた隙を狙って、女のそばに車を寄せ、女の行く手を遮るようにドアを開けて素早く女を引き寄せ、鳩尾に一発くらわせた。 女はうっと言って前かがみになった所を予めシートを倒してあった助手席に押し込んだ。ベンツの窓ガラスは両側面とリヤ共にスモークフィルムが張ってあり、外部からは車内が見えない。そのため、ゆっくりと女の手首を縛り、続いて足首を縛った。女は抵抗できずにいた。猿轡を噛ませ、目隠しすると車を発進し、直ぐ先の上大崎交差点を右折して目黒ランプから首都高2号線に乗った。路なりに高速都心環状線C1に入り、六本木、赤坂を通って首都高5号に入り、北上して美女木ジャンクションを左折して東京外環道から関越自動車道に乗り入れた。
 そのまま前橋に向かって走り、前橋の手前、藤岡ジャンクションから上信越自動車道に入った。六月が近付いて日が長くなり、あたりはまだ明るかったが、碓氷軽井沢ICに着く頃には辺りは真っ暗になっていた。碓氷軽井沢で高速を降りると、県道に入り、南軽井沢の別荘地に入った。高速のICから別荘地までは車を十分と少し走らせると着くので近い。

 長引く不況と近年のリーマンショックによる記録的な不況で、別荘を手放す者が多く、空き家となっている別荘はかなりあった。
 剣持は長野県北佐久郡軽井沢町大字××にある今は放置されたままになっている別荘の門を開けてベンツを滑り込ませた。少し大き目の別荘だ。近隣の別荘とは距離があり夜半に別荘地の小道を通る人影は全くない。
 剣持は別荘の玄関の錠を開け、ポケットから眼出し帽を引っ張り出して被ると玄関や室内の電灯を点けた。

 車に戻って、女の体をひょいと担ぐと和室に上がって女を横たえた。女は正気を取り戻していて、さかんにもがいたが、剣持は無視して玄関のドアを閉め、他の部屋の状況を確かめた。
 剣持は女の目隠しと猿轡を外した。女は眼出し帽で顔を隠した剣持に驚いた様子だが、これから起こることに予想も着かない恐ろしさで震えていた。剣持は女を立たせて、鴨居の長押(なげし)に引っ掛けられた真鍮製の丈夫な衣紋掛けに女の手首を縛っている紐をひょいと引っ掛けた。
 女は敷居と畳に足は届くものの万歳する手を縛られて長押に引っ掛けられたので身動きが取れなかった。

 剣持は女の着ている白いワークシャツを左右に引っ張り女の胸をはだけた。ボタンが一つ千切れて飛び畳の上に転がった。続いて女が履いているGパンのチャックを引き下ろし、パンツを下に脱がした。女は恥ずかしそうに拝む目付きで、
「やめて下さい」
 と言ったが剣持は無言だった。
 続けて剣持は女の可愛らしいショーツも引き下げて下半身を丸裸にした。女は眼からポロポロ涙を流して哀願したが剣持は無視した。
 剣持は押入れから座布団を二枚持ち出して丸め、女の膝を開いて挟んだ。足首が縛られているので先ほどから太ももをきっちりとつぼめていたが、座布団で広げられて女はどうにもできないでいた。無理に膝を広げて座布団を落とそうとすると、手首に体重がかかって痛くなる。

 剣持はタバコを一服すると、明かりを消して、鴨居にぶら下げられた女の体をゆっくりと両手で愛撫し始めた。
 女は[身の毛もよだつ恐ろしさ]とはこんな場合を言うのだと思った。
 全身をゴキブリが這い回っているような、あるいはゲジゲジが這い回っているような気持ちの悪さに身が竦んだ。

 剣持は手馴れた手つきで女のブラジャーを上に持ち上げて背中のフックを外してブラジャーを取り外し、ゆっくりと女の乳房を揉み始めた。剣持の指先は微妙に柔らかく、乳房を揉みしだく力は強くもなく、弱くもなかった。やがて女の可愛らしい乳首をつまんで刺激した後ゆっくりと背中に腕を回して抱くような仕草で背中を撫でた。
 晴子は恋人だった伸に抱かれたらこんなだったのかなぁと漠然と想像し、汚らわしい眼出し帽の男に触られていると思わずに、恋人だった男に愛撫されているのだと思うことにした。どうせどう足掻いても悪戯されるのだ。悪戯されないようにするのは不可能だ。ならばいっそのこと恋人にされていると思った方が気が楽だ。電灯が消され、外は星明かり程度で暗闇の中だ。眼出し帽の男の顔も見えない。そう思うと男の愛撫が我慢できた。

 男は乳房を揉んで乳首を執拗に刺激した。女は恋人だった男にされているのだと思うことにしたせいか、乳首が硬くなって男の愛撫で全身に痺れが走るような感覚を覚えた。男の手は臀部(おしり)に下りて臀部を刺激した後、後ろ側から女の太ももの内側に手を入れて愛撫し始めた。女はお尻を触られると言いようもない気持ちよさを感じ、太ももの内側を後から攻められて今迄に経験のない感覚を味わっていた。
 男の指先は前側の大切な部分に触れ、柔らかく揉み始めた。少し強く、少し弱く、そして座布団で開かれた股の中心に指が移動して刺激を与えてきた。悪戯されているのに、何故か女のそこは潤んできた。男はそこに指を差し込まずにゆっくりと刺激を続けた。女はこんなのは生まれて初めての経験だった。どうして良いのか分からずにいると、男の指はお腹から乳房の周囲に移動して、再び乳首を刺激した。

 不意にベルトのバックルが外される音がした。どうやら男がズボンを脱いだようだ。ややあって、足首を縛っている紐が解かれて、男の生暖かい太ももが女の股を割って入ってきた。入ると同時に男の固い物が女のそこに突っ込まれた。女は思わず
「痛た~いっ」
 と小さな声で悲鳴をあげた。眼出し帽の男は一瞬驚いた様子だったが、女の尻に手を回して引き寄せどんどんと女の中に入ってきてしばらく出し入れを繰り返した。女は痛さに歯を食いしばって耐えていたが、やがて痛みが少し引いた時[うっ]と言う男の声がして男は女の中に射精した。しばらく女はされるがままになっていたが、やがて男はゆっくりと自分の物を引き抜いた。
「あっ」
 女の小声と共に男は離れた。
 男は予想に反して優しかった。乱暴な扱いは全くなく、女を労わるような優しさが伝わってきた。女はどうしてそう感じるのか分からないでいた。

 剣持はS女史の元で、大勢の女達の掃き溜めのような役割を長く続けていた。S女史の元で働く女たちはつらくても我慢して働くことが多く、悩みの相談や、家庭での性生活で満たされない部分を剣持が代わりに満たしてやったりしていた。剣持はサディストだが、そんな苦労の中で自然に女に接する時の優しさが身に沁み込んでしまったのだろう。今でも女達と信頼の絆で結び付いているのだ。

 男はズボンをはき終わると電灯を点けた。見ると女の太ももの内側を伝ってほんの少し鮮血がにじみ出ていた。
「なんだ、あんたバージンだったのか。ちょっと可哀想だったな」
 眼出し帽の男は初めて口をきいた。
 男はポケットから小型のデジカメを取り出すと、女の全身、上半身のはだけた淫らな様子、だらんとぶら下がった下半身、下から撮った下半身の拡大写真など五、六枚女の写真を撮った。
「この写真はな、あんたが余計なことに首を突っ込まなければ一切外には出さん。十五年間経ったら完全に消してやる。けどな、もしあんたが余計なことに首を突っ込んだり知ろうとしたらだ、その時はこの写真をネットで公開するぞ。オレはあんたの名前も住所も知っている。だから今後絶対に余計なことをするなよ。これは最後の警告だ。分かったか? もし、余計なことをすれば、あんたはもっと恥ずかしいことをされると思ってなよ」
 晴子は黙っていた。と言うよりショックで口がきけなかったのだ。
「オレは約束を守る。あんた次第でこの写真はどうにでもなるんだ。あんたが大人しくオレの言うことを守ったら、オレは何もしない」
 なおも晴子は黙っていた。
「あんたは、なぜこんなことされて脅されてるのか分かるか? あんたが船橋とか言う奴と接触してなにやら話し込んでいたからだ。そう言うのを余計なことだと言ってるんだぞ。ついでに言っとくが、あの船橋って野郎はこっちで消してやった。今後は絶対にあんたの前には出て来ないよ。安心しなっ」
晴子は脅されて身震いした。
「オレは帰る。警察に届け出るなら出てもいいよ。だがな、おまわりはスケベエが多いんだ。届ければあいつらの興味本位で根掘り葉掘り細かい淫らなことを聞かれて死ぬほど恥ずかしい思いをするのはあんただ。警察はいくら捜してもオレを捕まえることはできんだろう。届け出ても構わんが届けない方があんたのためだ。万が一ブンヤに知られたらもっと恥ずかしい思いをするぜ。死にたけりゃ、ここで死んでもいいよ。あんたの死体がそこらの虫に食われて、蛆虫(うじむし)がわいて、誰かが見つける頃にはあんたは白骨になってるよ。蛆虫に食われてもいいなら死ねよ。元気出して生き抜く方があんたのためには良いとオレは思うぜ」

 それだけを言うと男は女のGパンを持って出て行った。ややあって玄関にドサッと音がして、玄関の扉は閉じられた。ベンツの鈍いエンジン音は次第に遠ざかって行った。あたりは外でかすかに聞こえる虫の声以外は物音一つ無かった。

三十 メールの叫び

 五月下旬とは言え、軽井沢の夜は冷える。鈍いエンジンの音が遠ざかって、辺りの静粛さが戻ると晴子の身体も気持ちも更に冷やされた。履いていたGパンを持ち去られたばかりか、晴子はまだ下半身を素っ裸にされた恥ずかしい状態で鴨居の長押に固定された衣紋掛けに、手首を縛った紐が引っ掛けられて身体全体がだらりと吊るされたままだ。
 いましがた、晴子をレイプした眼出し帽の男は晴子を吊るしたまま置き去りにして帰って行ってしまったのだ。
 いつまでもこんな状態では死んでしまう。晴子は先ほど膝に挟まれた座布団が近くにあったのに気付き足の先で引き寄せようとした。だが足を思い切り伸ばしても指先が触れる程度で届かない。こうなったら死に物狂いだ。晴子はブランコのように勢いを付けてえいっと座布団目指して足を出した。そうするとやっと少し届いた。
 何度も、何度もやっている内に座布団は少しずつ引き寄せることができた。ようやく座布団が足の下に来た。晴子は座布団に乗ると思い切り跳躍してみた。
 ドサッ! その瞬間手首の紐が衣紋掛けから外れて、晴子の身体は倒れて畳の上に転がった。両足を縛られていた紐は眼出し帽の男が解いたままだったので自由に歩くことはできた。晴子は紐を切る物がないかキッチンや隣の洋間を探したが適当なものが見付からない。それで、玄関に行くと晴子のトートバッグが放り出されていた。先ほどバサッと音がしたのは晴子のバッグを車から出して返してよこしたのだ。
 晴子は自分のバッグの中に針と糸とちっちゃな和鋏を入れて持ち歩いているのを思い出した。バッグを両足で挟み込んで縛られた手でバッグの中を探った。[あったぁ]こんなとこで裁縫道具が役立つなんて思いもしなかった。
 和鋏を取り出すと足の指に挟んで固定して手首の紐を鋏の刃にこすり付けた。何度も何度もこすり付けているうちに、やっと紐が切れて解けた。晴子の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「人間、なせばなるかぁ……なんちゃって」
 とようやく晴子のいつもの調子が戻って元気が出てきた。

 晴子は寒さに気付き、押入れから毛布を取り出して腰に巻きつけた。先ほど切った紐と足首を縛られていた紐とを繋ぎ合わせてウエストベルトの代わりにして腰を縛った。ラップスカートのようで、鏡を見ると案外様になっていた。晴子はこんな状態の時でもお洒落心が顔を出す自分に苦笑した。先ほどバッグと一緒にビニール袋が投げ込まれていた。それを見に玄関に戻ると、コンビニのビニール袋で、中にサンドイッチとジュースの小さなペットボトル、それに大きな天然水のボトルが入っていた。サンドイッチの日付を見ると賞味期限は明日の正午までだ。

 元気が出ると晴子は急に空腹を覚えた。考えてみると、お昼から何も食べてなかった。それとトイレに行きたくなった。今まで恐ろしさでトイレを随分長い間忘れていた。それでトイレに行って水を流そうとすると出ない。
「おかしいな?」
 おそらく別荘は長い間使われていないので水道の元栓が閉めてあるのだろうと思った。
「そうかぁ、それであの眼出し帽の男は水の大きなボトルを置いて行ってくれたんだ」
 晴子は流しでペットボトルの水を使って手を洗った。トイレの水洗は使えないけれど仕方ない。
 手を洗い終わると、晴子はサンドイッチとジュースで腹を満たした。なぜか、あの男の気遣いが伝わってきて不思議な気持ちになった。

 レイプした奴が、もし晴子の顔や身体に傷を付け、殴ったり蹴ったり相当の乱暴をしていたら、晴子の気持ちは全然違っていただろう。だが、眼出し帽の男は扱いが優しかったし、帰りに言い置いて行った言葉にどこか愛情が感じられた。サンドイッチや天然水の大きなボトルにも相手を思い遣る心が感じられた。だから、手首を縛られた紐が解けて解放された状態になった時、最初の状態よりも晴子の気持ちは落ち着いていた。勿論、男に自分の身体の中に精液を入れられてしまったと思うと気持ちは悪かったが、同時に、男の丁寧な愛撫の感触も記憶の中に残っていたのだ。

 やっと人心地に戻ると、晴子は自分のバッグから携帯を取り出して、拳に電話した。だがエラーが出てつながらない。電波の受信感度のバーを見ると一本、それも立ったり消えたりだ。圏外に近い場所に違いない。
 晴子は自分の今居る場所がどこか分からないことにはっと気づいた。助けを求めてもどこに居るのか分からないと助けに来てもらえない。そこで各部屋を探し回って何か無いか調べた。固定の電話機はキッチンの所に置いてあったが回線は切断されていて、使えなかった。
 電話機の下の引き出しを開けると、NTTのタウンガイドと書いた小冊子があった。見ると佐久・軽井沢と印刷されていた。
「ここは軽井沢なんだぁ」
 晴子は遠く軽井沢まで拉致されて連れてこられたことを知った。ページをペラペラと捲るとメモ用紙が落ちた。メモが挟んであったページは地図で、○印が付けてあり、メモには[北佐久郡軽井沢町大字××―×××番地]と書かれていた。固定電話の番号も書いてあった。多分蕎麦屋の出前なんかを取る時、電話で場所を説明するのに使われたメモのようだ。地図の○印の所は南軽井沢だ。それで、晴子は今自分が居る場所がどこか分かった。

 晴子はまた拳の携帯に電話をした。三度目にやっとつながったと思うと[電源が切れているか、電波の届かない……]
「もうっ、こんな時につながらないんだからぁ」
 晴子は少しイラついた。それから何度かトライしたがダメだった。それで、メールを入れた。
 タイトルは[拳さん、助けてぇっ!!!]とした。本文は[何者かに拉致されて南軽井沢の北佐久郡軽井沢町大字××ー×××番地にいます。空き家になっている別荘のようです。レイプされましたが警察には届けないで拳さんが助けに来て下さい。レイプした男は帰りました。拳さん、お願いっ!  晴子]
 これで送信した。四度エラーで送れなかったが五度目にようやく送信OKが出た。
「やったぁ。良しっと」
 晴子は思わずつぶやいた。
 拳はいずれ、必ずこのメールを見てくれるだろう。晴子は安堵感を持つと急に疲れが出て、もう一枚毛布を出して身体に巻きつけるといつの間にか眠り込んでしまった。

 レイ夫人と拳はオーストラリアのヘイマン島で出会って以来、関係は続いていた。どちらも時間の都合の良い時に夕食を共にして、そのあとホテルに部屋を取って愛し合った。拳の帰りの電車の都合で最近は赤坂界隈で食事をすることが多かった。今では十日に一回程度の頻度で会っていた。
 丁度晴子がレイプされた日、レイ夫人と拳は東京ミッドタウンで夕食を楽しんだ後、上のホテルに部屋を取って愛し合っていた。
 レイ夫人は拳の愛撫の速度がとても気に入っていた。ゆっくりと上の方から下腹部に向かって愛撫するスピードがレイの気持ちが昂ぶる速さにぴったりとついてくる感じで、拳の逞しい身体もレイに良く馴染んでいた。拳が上に重なっても決して体重をかけない優しさも好きだった。こうして拳と交わっていると疲れないのだ。いつも心地の良い時の流れに身を委ねて二人でゆっくりと快楽の中に上り詰めて行くのを幸せに感じていた。

 男と女はセックスに関してはお互いの相性がとても大切だと拳は思っていた。レイの身体は歳にしては良く絞まって肌に弾力性があり、自分より遥かに年上なのにそれを感じさせない所が気に入っていた。決して自分のペースを主張せずに、拳がなすがままに従って応えてくれた。なので、いつも頂上に上り詰める時は二人とも一緒に同時にいけた。
 今夜はいつもよりレイ夫人は燃えていたように感じられた。二人が離れて少し抱き合って眠ると、レイはまた拳の胸に鼻を押し付けてきた。
 こんな時は無言で再びレイを愛撫した。それで拳は二度目の射精をした。レイは子供が出来ない身体だったので、拳はいつも何も付けずにレイの中に入れてもらった。そんな所も気に入っていた。

 二人は一緒にシャワーを使ってお互いの身体を洗った。サッパリとして部屋に戻るとガウンのまま、しばらく二人並んで東京の夜景を楽しんだ。
 拳が服を着け終わった時、レイはまだお化粧の最中だった。拳はその間に携帯の電源を入れて、メールの着信を確認した。仕事関係で三本あったが他に晴子からのメールもあった。電話の着信は何本もあり、その全てが晴子からだった。
 拳は晴子のメールを見て相当驚いた。化粧中のレイにメールの内容を話し、済まないが、これから直ぐ友人の車を借りて軽井沢に向かうと言ったらレイは、
「あたしもご一緒に行くわよ。いけない? こんな時は女性がいた方が晴子さんには良いのじゃないかしら」
 と答えた。
「下の駐車場に入れてあるあたしの車を使って頂戴」
 と付け加えた。拳は了解すると晴子に電話を入れた。

 すっかり眠り込んでしまった晴子は携帯の着信音で眼が覚めた。携帯の時刻は丁度二十三時だった。
「晴子さん、大丈夫? これから直ぐにそちらに向かうからその場を動かないで待っていて下さい」
 晴子は地獄で天使の声を聞いたような嬉しさを覚えた。
「良かったぁ。やはり、拳さんはちゃんと連絡をくれたわ」
 晴子は拳がここまでどれくらいの時間で来られるのだろうと考えていた。

 レイ夫人と連れ立って部屋を出た。拳がホテルのチェックアウトを済ませてる間に、レイ夫人は旦那に電話でことの次第を伝えたようだ。拳はレストランでもホテルでも自分で支払いを済ませて、レイには負担をかけさせなかった。レイは拳の男気(おとこぎ)を察して、自分の方からは口出しせず、拳の好きなように任せていた。
 下の駐車場で二人はレイのダークレッドのレクサスハイブリッドLS600hL に乗り込んだ。運転はレイがすると言った。エンジンを始動して安全ベルトをかけると、カーナビの画面を出して、レイは手馴れた手付きで拳が教えた住所をセットした。レイは、
「ヨシッ」
 と言って発進し、六本木ランプから高速に上がって、剣持が通った同じコースで軽井沢に向かった。レイのハンドル捌きは確かだった。オーストラリアでクルーザーを操船したキレの良い感覚でレクサスを走らせた。途中、拳は晴子に電話を入れて、
「今関越道に入ってそちらに向かっている所だ」
 と連絡した。思ったより、晴子が落ち着いていたので安心した。

 カーナビのお陰で、別荘は直ぐ見付かった。林の中で一軒明かりが点いていたので分かり易かった。時刻は午前二時を少し回っていた。
 門の前に着くと、見覚えのあるGパンが二つ折りにされて、門に丁寧に掛けられているのがヘッドライトの光で浮いて見えた。拳は不思議に思ったが、それを外して玄関のドアを開けた。そこに晴子の安堵した顔があった。
 レイ夫人を簡単に自己紹介をすると、晴子をかばうようにして奥の和室に入った。Gパンは晴子のはいていたものだった。

 剣持はあの女をレイプしたことが何か神聖なものを汚したような気がして、気になっていた。今迄に、数多くの女を抱いてきたが、剣持の周りでは、バージンの女は一人も居なかったし、今までもそんな女に会ったこともなかった。剣持の周りの女は好きでもない年寄りの政治家にでさえ、気持ちとは裏腹に仕事だと覚悟して、
「あたしをあなたの好きなようにして下さい」
 などと言って、じじいにおもちゃにされて、身も心もボロボロになって剣持の所に帰って来る女は多いのだ。
 なので、剣持は今は女は簡単にバージンを捨ててきて、多くの女は結婚する時すでに男を知っている、とそんな風に思っていたのだ。それが証拠に最近では中学生、高校生の間で性病のクラミジアが蔓延して社会問題にもなっているのだ。小学生までクラミジアに感染している奴が居ると言うではないか。性交をしなければクラミジアなんてものに感染することは極めて少ないのだ。
 剣持は仕事柄性病の知識に明るく、自分自身も周囲の女達にも常に気を付けていた。
 そんなことが常識だと思っていたので堀口と結婚する予定だったあの女がバージンであったことにショックを受けていた。あの女に、
「ちょっと可哀想だったな」
 と言ったのは剣持の本心だったのだ。
 剣持は、今の仕事とは関係なく、普通の男としてもう一度あの女に会って謝りたいとさえ思っていた。

三十一 剣持の運命 一

 人は誰でも運命を背負って生きて行くのだ。運命は悪戯な奴だ。ある者には平々凡々な運命を背負わせ、ある者には波乱に満ちた運命を背負わせやがる。
 晴子をレイプしたトレメンド・ソシエッタの剣持もまた、彼に架せられた運命に翻弄されて生きてきたのだ。

 一九七〇年頃、大阪に本社のあるマンションのデベロッパー星雲は当時の建設ブームに乗って順調に業績を伸ばしていた。その星雲の営業部隊の突撃隊を率いる男は剣持弥太郎と呼ぶ奴で、肩書きは営業部開発課長であった。剣持弥太郎は部下十五名を引っ張って、地上げ屋とつるんで関西の都市部の未開発地域の住民を次々に立ち退かせ、空けた土地に大きなマンションを建設した。弥太郎は身体がでかく、戦国武将のような風体をしており、血も涙も無い蛆虫も湧かないような地上げ屋の頭も剣持弥太郎には[星雲のやたやん]と呼んで一目を置いていた。

 一九七〇年代半ば、そんなやり手の弥太郎に契機が訪れた。当時、まだ名も無かった[Eグローバル・コンサルタント]の山田龍一と言う男が東京から弥太郎のもとに訪ねてきたのだ。
「東京のマンション建設は関西に比べて相当遅れている。あなたに力を貸してもらいたい」
 当時住宅建設では国内トップのH工務店とEグロが折半出資してマンション建設の新会社を立ち上げたい。ついては、あなたを社長として迎えたいと言うのが趣旨だった。
 弥太郎は考えた末、東京行きを決断した。弥太郎は星雲を退社して、夫人とまだ幼児だった娘を連れて三人で東京に引っ越した。星雲では営業部長の椅子を用意して慰留に努めたが弥太郎は決意を変えなかったのだ。その年の秋に東京に引っ越した弥太郎は東京の神田の二間しかない小さなアパートに家族三人で納まった。

 山田龍一と弥太郎は同年代で馬が合った。龍一の助けを借りて、会社設立の手続きに奔走した弥太郎は計画より早く設立に漕ぎ着けて、本社を新橋に置いた。H工務店からの出向社員を含めて僅か三十名でスタートしたのだ。新橋は霞ヶ関に近い。大きな開発を進めるには役所の手続きと調整が必要なので、先を読んで新橋に拠点を作ったのだ。
 弥太郎は、先ず東京で勢力の大きい地上げ屋と対等に組む努力をした。地上げ屋は暴力団との関わりもある。それには弥太郎の関西での顔がものを言って、何とか良い関係を築き上げた。このことがその後の業容の拡大の大きな支えとなったのは間違い無い。

 弥太郎は会社の社名を関西の星雲の一字をもらって、スター建設と決めた。マンションの建設需要は好調で、三年後にはスター建設は社員二百名に膨れ上がり、順調に業績を伸ばした。弥太郎は神田の安アパートを引き払い、東京大田区の田園調布と言う町に中古の一軒屋を買って移り住んだ。住居が安定した所で、長男が誕生、名前を弥一と名付けた。剣持弥一の誕生だ。

 弥一は生まれた時からオヤジに似て体が大きかった。弥太郎の会社が急拡大したため、弥一は生まれた時から何不自由なく育てられた。自宅は来客が多く、夫人一人では切り回しが難しくなって、お手伝いさんを雇っていたので、弥一は[お坊ちゃま]と呼ばれていた。弥一が地元の田園調布小学校から田園調布中学校に進み、K義塾高等部を目指して受験勉強をしている頃にはスター建設は全国に支店網を築き上げて、メディア戦略が功を奏し、マンションのデベロッパーとしては優良企業として認められ東証への上場も果たした。
 飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を続けるスター建設は年度の売上高が三千億円に届く所まで業容を伸ばし、都市部のマンション建設の他に、ゴルフ場や海外の別荘開発にまで手を出していた。弥太郎は東証への上場を機会に自社の持ち株を51%まで増やして、名実共にワンマン経営で突っ走っていたのだ。

 一九九〇年代後半、弥一がK義塾の高等部から同義塾の大学の経済学科に進学、勉学とサークル活動を楽しんでいた頃、経済界に嵐がやってきた。弥一が二十一歳の頃だ。世の中でバブル崩壊と言われたあの悪夢のような嵐がやってきたのだ。
 スター建設も例外ではなかった。メインバンクが破綻して、スター建設はその後一年間も持たずに倒産して、海外のハゲタカファンドに買収されてしまった。
 弥太郎は押しかける債権者への応対で地獄のような日々を過ごした。田園調布の自宅は勿論、貯えた私財を全部吐き出させられて、無一文どころか大きな借金を抱えて一家は崩壊したのだ。

 弥一は大学に通うのを断念、K義塾を中途退学し、オヤジの仕事を手伝っていたが、そんなある日、弥太郎は首を吊って自殺した。そのため、債権者の追い込みを弥一が一手に引き受けざるを得なくなってしまったのだ。
 悪い事は重なるもので、母が心労が重なり弥太郎を追って他界した。弥一は大きな借金を背負って孤軍奮闘せざるを得ない状況に追い込まれた。
 弥一には少し歳の離れた姉が居た。剣持家が崩壊した後、姉はかねて付き合っていた恋人と内々でひっそりと結婚式を挙げて嫁いで行った。こうして、弥一は一人ぼっちになってしまったのだ。

三十二 剣持の運命 二

 他人と接する時、先に相手を品定めしてから自分の態度を決め、相手の境遇が変ると自分の態度を変える奴や、相手の境遇が変っても接し方は変えない奴もいる。人と人との関わり方は様々だ。
 剣持弥太郎の事業が順風満帆の時代、K義塾の大学に通う息子の弥一は乗馬、ゴルフ、テニスと貴公子のようなサークル活動を楽しんでいた。
 連休になると、クラスメイトの女の子を愛車のアルファロメオに乗せて、那須の乗馬クラブへ行くことが多かった。那須にはあちこちにテニスコートもあり休日を十分楽しめた。日曜日には東京の参宮橋の乗馬クラブ、ゴルフはクラスメイトを引き連れてスター建設傘下のクラブにでかけた。
 傘下のゴルフクラブでは[お坊ちゃま、お坊ちゃま]と持ち上げられて、フィーや飲食にも一切金はかからなかったのだ。

 休日の乗馬やゴルフにいつも付いて来る絵理花(えりか)と言う女の子がいた。彼女は愛媛の資産家の農家の娘で大学の近くにマンションの一室を借りて一人暮らしをしていた。彼女と知り合って、弥一が初めて彼女を抱いた時、彼女は既に男を知っていたが、従順な性格でいつも弥一についてくるので、弥一も自分の彼女だと思っていた。
 そんな恵まれた日々は、スター建設倒産後、過去の想い出に過ぎなくなってしまった。
 弥一が大学を中退してから債権者の応対でへとへとになり、自分の居場所がなくなったある日、絵理花の部屋を訪ねた。
 久しぶりに弥一が顔を出すと、絵理花の態度は一変した。弥一を蔑むような、汚らわしいものでも見たような目で、今までは想像も出来なかった女が目の前に居た。
「帰ってよ。もうあんたとは関係ないから」

 弥一は驚いた。今迄、揉み手さすり手で寄り付いてきた者が債権者となって金を取り立てに来た時に手のひらを返すような応対ぶりには我慢ができた。だが、この女は債権者でもなければ赤の他人でもない。ついこの間まで会えば身体を重ねて愛し合った相手だ。オレが一体彼女に何をしたと言うのか? 
 その時、弥一はもうこの女とは二度と会うことはないだろうと思った。それで、弥一の中にむらむらとサディスティックな気持ちがこみ上げてきた。弥一は自分が着ていたシャツを裂いて紐を作り、女の手足を縛り上げ、女が声を出さないように口もふさいで女のほっぺたを引っ叩き、乳房や尻を乱暴にシャツの切れ端で縛り、パンツのベルトを外して皮ベルトで引っ叩いた上女が泣くのも構わずに女の太ももを持ち上げて恥ずかしい体形にして、そこに自分の一物を乱暴に突っ込んで射精した後、指を入れて掻き回し痛い目に遭わせた。すると、女のそこから突然白い泡のような飛沫がドバッと出て、あたりを濡らした。俗に潮吹きと言うやつだ。
 警察に届け出るなら勝手にしあがれと弥一は嗜虐的に痛めつけた。これくらいしなければ、女の変りように傷付いた自尊心を回復しようがなかったのだ。

 手足の紐だけは解いてやった。
「後は自分で勝手にしな」
 そう言って立ち去ろうとした時、女の異変に気が付いた。
 女は今までとは違った、物乞いをするような眼差しで弥一を見詰め、
「今度来たらまた苛めてぇ」
 と甘えるような声で言ったのだ。
 弥一は一瞬女が発狂したのかと驚いた。だが、女が恥ずかしげな小声で
「あたし、苛められると気持ちよくなれるの」
 と言うではないか。今迄付き合っていたのに、潮吹きはおろか、今初めてこの女がドMだったのだと弥一は気付いた。

 毎日の債権者との応対に疲れ果てた。無い袖は振れぬと言えばぶん殴ろうとする奴もいる。気持ちは分かるが弥一にはどうしようもないのだ。
 手元の小銭も底をついて、その日食うにも困るようになった。仕方なく、六本木のホストクラブに応募してみた。ホストクラブに応募する若者は多く、狭き門と聞いていたが、面接を終わると即決で明日から来いと言われた。それで六本木でホストをやることになり、飯を食うには困らなくなった。客の多くは中年以上の金持ちと思われる婦人だった。中にはでっぷり太った扱いに困るババアも居たが、弥一はどの客とも依怙贔屓(えこひいき)をせずに丁寧に接し、規定以上の金品は求めなかった。そのためか、人気が出て、毎日殆ど指名で客が決まった。

 弥一は馴染みの客と交わる時に、頃合を見て少しだけサディスティックな扱いをして見ることにした。元彼女との教訓で、相手がM気がある女か確かめたのだ。その結果、M気のある女は案外多いことが分かった。どうしてそうなのか分からないが、まだ人間が原始的だった頃から長い間に、女は強い子孫を残すために、攻撃的な強い男に選ばれて交わり征服されたいと思う本能的な深層心理を持っているのかも知れないと弥一は思った。
 そんな弥一の生き方を遠くで見守っている男が居た。山田龍一だ。
 彼は、弥太郎と協同で事業を立ち上げた後に、自分のコンサルティング事業の基礎を固めることができた。その弥太郎の跡取り息子がこんなことになって苦労しているのを見て、いずれ自分が面倒を見ようと決めていたのだ。弥一に取っても今回の苦労で彼自身相当鍛えられて強くなったと感じていた。
 それで、ある日、ホストの仕事をしていた弥一を呼んでS女史の仕事を手伝わないかと持ちかけた。弥一が承諾したので、神山伝次郎の所に籍を置いて、S女史の仕事を手伝わせた。

 龍一が思った通り、弥一は良くS女史を補佐して、マネージャーとして、S女史の財政も一手に引き受けるようになったのだ。
 S女史は早く母親を亡くした弥一に取って母親代わり的な存在にもなった。
 あの日、神山にS女史を消すことについて、
「君はどう思うかね」
 と聞かれた時、弥一は相当のショックを受けた。だが、彼は組織と仕事を優先してS女子を消した。そのことを今でも心の隅で[済まないことをした]と思っていた。
 S女史の仕事から稼ぎ出す金は半端な金額ではなかった。政治家を動かすために億単位の裏金さえ用意できる程度の蓄えを作った。その金は弥一の個人口座に入れて管理していたが、約三分の二はスイスの銀行の弥一の個人口座に送金していた。現在の残額は四十億円と少しまで溜まっていたのだ。
 S女史を始末した後の組織は弥一が一手に守って来たし、稼ぎ出す金も溜まる一方だった。全て弥一の一存で処分できたが、弥一はリスクのある投資には向けなかったので、今回の大不況の影響は受けなかった。
 大金を動かす弥一は自分の生活は質素であった。普段はワンルームマンションで寝泊りをして、持っている車も軽自動車だった。なので、終電が行った後、時たま女達を送り届ける車は軽自動車だった。
 仕事では神山の所のベンツを常用していたが、私的なことには決して会社の車は使わずに公私をきっちりと分けていた。
 そんな弥一を龍一も伝次郎も共に認めていて、S女史の後の仕事は弥一の好きに任せていた。S女史の時代に弥一は若造のくせに政財界に知られる存在にもなっていたのだ。

三十三 戦いの始まり

 レイプをされて心の痛んだ晴子をかばう様に、レイ夫人は晴子を助手席に乗せた。
「あなたは後ろに乗って頂戴」
 と拳に後部座席を勧め、三人は空き家の別荘を後にした。時計は午前三時半を回っていた。
 レイ夫人は高速に戻らずに旧軽井沢に車を進め、三笠別荘地に入ると古い門の前に車を停めた。門の中から老夫婦が飛び出して来て、
「お帰りなさいませ、奥様」
 と丁寧に頭を下げた。
「ご連絡頂いた通り、お風呂の用意は済ませてあります」
「ありがとう」
 レイ夫人はさっさと玄関に入り、
「さっ、上がって頂戴」
 と晴子と拳を迎え入れた。
「ここはうちの別荘なのよ。あんなことがあったから晴子さんにお風呂に入って頂いて身体を綺麗にしてもらわなくちゃね」

 軽井沢は別荘地の開発が進んで、今では南、北、中と広まったが、軽井沢では歴史のある旧軽井沢のこの三笠地区だけに唯一温泉がひかれているのだ。

 レイと晴子は二人で広めのお風呂に入った。晴子は一人っ子だけれど、レイ夫人を年上の姉のように感じていた。
「下着はあたしのを使って頂戴。あたし、いつも車に二組は載せているの。女はどんな時でも身だしなみに気を付けなくちゃね」
 レイ夫人に身体を流してもらってゆっくりと温泉に浸かって、晴子はサッパリした気持ちでお風呂を出た。
「あなたもついでに入ったら」
 と夫人は拳にも勧めた。拳は素直に温泉に浸かった。
 別荘の管理のため、離れに住んでいる老夫婦が湯気の立ち昇る蕎麦の丼を三つ持って来た。三人は無言で蕎麦をすすった。晴子はこんなに美味しく蕎麦を食べたのは初めてのような気がした。
「やっと人心地がつきました。助けにいらして下さって本当にありがとうございました」
 晴子は心からレイ夫人と拳に感謝の気持ちを述べた。
 三人は早朝に晴子の家[林菓房]に戻った。両親は心配顔で出迎えたが、拳の顔を見ると安堵したようだ。レイ夫人は拳の友人で資産の一部をお任せして運用してもらっている関係だと前置きして、事件の顛末を説明した。
 拉致されて軽井沢の空き家に閉じ込められていたのを救出したと述べたが、晴子の願いで、レイプのことには一切触れなかった。
 拳とレイ夫人は仕事があるからと早々に引き上げて行った。

 あの悪夢のような出来事を経験してから、晴子は自分が最近逞しく強くなったように感じていた。まだ伸への追憶は消えてはいなかったが、花屋の仕事も以前のようにテキパキとこなすようになっていた。
 そんなある日、以前結婚の申し込みを断った弁護士の渡辺徹から会いたいとメールが来た。晴子は断った。
 断られた渡辺は紹介者の茶道の家元に許婚が不慮の事故で亡くなった今、もう一度縁談を進めて欲しいと泣きついた。諦めの悪い男だ。
 それで、晴子の父が家元に呼び出された。父は、あんな事故があって娘の気持ちはまだ傷んだままだ。親としてはしばらくそっとして置いてやりたいと暗に断った。
「あんた、私の顔にどろを塗ったんだ。この話を頼んできた筋は私にとって大事な縁故だよ。そこのとこを良く考えてくれないと困るよ」
 と暗に和菓子の注文を他に回すと仄めかして圧力をかけてきた。

 数日後、家元からの菓子の受注がストップした。大口の顧客なので、林菓房の打撃は大きい。それにつれて馴染みの顧客からの小口の受注も細った。このまま進めば銀行の借金の利子を払うのが精一杯の状態となりそうだった。
 晴子は自分が家元からの縁談を断ったためだと直感したが、両親は晴子が幸せになるなら、この家が潰れても構わないと言ってかばってくれた。
 だが、晴子はこのままでは両親が可哀想過ぎる、何とか乗り切らなくちゃと思案に明け暮れる毎日だった。
 そこで、晴子は渡辺に会って、解決の方法はないのか相談してみることにした。
 渡辺は冷たかった。
「あなた次第だよ」
 と言って晴子の相談にはまったく応じる気持ちはないようだった。
 晴子は少しでも両親の助けになればと花屋の仕事を頑張ったし、他の副収入の道についても検討を進めた。だが、妙案が浮かばずいたずらに日が過ぎて行くばかりだ。

 剣持は、その後晴子の様子を監視続けていた。晴子は自分の顔を知らないはずだから、普通の男になりすまして直接会っても良かったのだが、万一晴子に悟られてしまったら、未来永劫に接触するチャンスはなくなる危険を恐れた。なぜこんなに晴子のことが気になるのか不思議であったが、神聖なものを汚してしまった罪悪感はなかなか消せなかったのだ。
 そんなある時、政治家のパーティーで噂話を耳にした。
「茶道の家元の話だが、目黒の林菓房とか言う菓子屋の和菓子の餡が腐っていたそうだ」
「へーぇ? 今時?」
 とかそんな話だった。
 剣持は[林菓房]と耳に挟んで耳の感度が上がった。林菓房と言えば、レイプした女性の家ではないか。それで、剣持は話の出所の内定を始めた。こんな話は剣持のお家芸だ。
 調べて直ぐに分かった。目黒の茶道の家元と渡辺とか言う弁護士等が情報を流しているらしい。それで、その背景も調べを進めた。その結果、剣持は晴子の縁談に関わる揉めごとだと突き止めた。

 父親代わりの山田龍一と兄貴のように慕っている神山伝次郎を前にして、剣持は正直に晴子の話を打ち明けた。
「レイプした相手を好きになるなんぞ、ドラマ以上の可笑しな話だが、男が女を好きになるきっかけなんてものは色々だ。まぁいい。わしが力になってやろう。下らん噂話を止めさせる仕事は伝ちゃんとあんたに任すよ」
 と龍一は晴子との仲を取り持つ約束をしてくれた。
「あんたもいい歳になった。良い嫁さんを探して落ち着くのもいいだろう、どうだ伝ちゃん?」
 神山は、
「そりゃ悪い話じゃありまへんわ。わいも一肌脱いでやりますわ。こいつにはよう仕事もしてもろうてるで」
 と同意した。
「おいっ、剣持、あんたが狙った獲物は必ず仕留めなよ。逃がしたら承知せんぞ」
 とからかった。剣持は了解をもらってほっとした。実はどやされるのを覚悟していたのだ。
 それで、茶道の家元を締め上げる仕事と、若造の弁護士をちよい可愛がってやる仕事の話は決まった。剣持は仕事の合間にジムに通って格闘技の訓練を受けていたが、実戦の時の間合いの取り方などは神山に教えてもらっていた。だから、神山は剣持の師匠でもあった。はっきりとは知らないが、神山は若い頃は暴力団の幹部として相当暴れていたらしい。今は表向き堅気の仕事をしているが、裏の仕事のやり方は徹底していた。神山との縁は剣持の父弥太郎が大阪で地上げ屋とつるんでいた時代に目を付けて龍一に引き合わせたようだった。だから、龍一は弥一が一人身となってしまった時に安心して身柄を神山に預けたようだ。

三十四 スキャンダル Ⅰ

「ポコちゃん、ちょっと調べてくれんかなぁ」
 剣持はいつも協力してもらっているパソコンおたくのポコを呼んで打ち合わせをしていた。
 午前中、剣持は弁護士と茶道の家元を黙らせる方法について神山と意見調整をして了解をもらった。彼等にちょっとお灸をすえてやる位なら刃物は要らないし、剣持がうまく処理できるはずだ。剣持は若いが今はそれ位のことは神山の助けがなくとも、始末できる力を持っていた。
「なんぞ困ったことがあったら、いつでも言ってくれや」
 と神山は答えた。

 ポコはハッカーまがいの仕事を遊び感覚でこなす優秀な奴だ。
「この弁護士のやつ、今までに少なくとも一度や二度は出会いサイトにアクセスしてると思うよ。例のピンクリストで調べりゃリストに上がってる可能性は十分あるよ」
 と渡辺徹弁護士の名前と住所を教えた。
 出会いサイトに一度でもアクセスするとメールのアドレスが引っ掛かるのでそいつを横流しして集めたリストをピンクリストと呼んでいた。携帯のアドは美味しい情報だ。メールの受信があると素人でもどこから送られたものかなど見れば簡単に分かるのだ。

 渡辺のメアドはやはりピンクリストに上がっていた。美味しい携帯のアドまで引っ掛かっていたのだ。[toruwata@docomo.ne.jp] で間違いなかった。験しに広告を装ってダミーのメールを送信したらちゃんと送信できた。
「よしゃっ!」
 とポコちゃんは笑っていた。
「後は武雄にアレンジを頼んでおくよ」
 武雄は剣持の下でいつも使い走りをしている青年だ。彼が女子高生三人を渋谷に呼んだ。

 相変らず人出の多い渋谷駅前の夕刻、あたりが少しずつ暗くなってきた。そこで、ちょい悪の女子高生が三人で先ほどから話し合っていた。ピー子とカメとデコの三人だ。
「こいつを、あたしがメールでアタックするからさぁ、釣れたら後を頼むよ」
 とピー子。
「ん。ワカッタァ。うまくやんなよ」
 と他の二人が励ました。
 それでtoruwata@docomo.ne.jp にメールを送信した。
s[あたし派遣のOLです。いますごく困ってどうしていいか分からなくて。助けて頂けませんでしょうか? ♡]
 少し時間を置いてレスが来た。
「おっ、食いついたぞ」
r[何を困ってるの?]
s[初めての人にこんなメールするの恥ずかしいですけど、お財布を落としてしまって]
r[それで、僕にどうしろと言うの?]
s[これからサイタマまで帰らなくちゃならないのですが、電車賃がなくて。すみませんが1200円貸して頂けませんでしょうか? お願いしますm(_ _)m]
r[そんなことご家族にご連絡すればいいのと違いますか?]
s[すみません。あたし、母がいなくて、父は家を出たきりここのとこ連絡が取れないのです]
r[どうして僕に? 僕のアドレス、どうして分かったの?]
s[前にあなたとメール交換したことのある方に教えて頂いたのがあたしの携帯のアドレス帳に残ってました。親切な方だから、万が一困った時は助けて下さるかもと聞いてました]
r[今どこにいるの?]
s[嬉しい! 助けて頂けるのですか? 今渋谷の駅前のハチ公の所です]
r[まだ助けてあげるとは言ってないけど]
s[お願いします。恩は忘れません]
r[何か目印がある?]
s[上は赤っぽいワンピ、下は黒いスパッツで髪が長いです。白いトートバッグを持ってます]
r[携帯の電話番号を送って下さい]
s[はい。090-XXXX-XXXX です。すみません。ほんとうにすみません♡♡♡]
r[今から、そうだなぁ、三十分位かかるけど、待てる?]
s[はい。お待ちしてます。来て下さらないと、あたし困ります。よろしくお願いします]

 約三十分後に、渡辺は渋谷にやってきた。携帯で連絡を取り合って直ぐに会えた。
「お忙しいのに申し訳ありません」
「いいけど、僕はまだ晩御飯を食べてないんです。よろしかったらお食事をしてから帰られませんか」
「初めての方にそんなにして頂くと申し訳ないです」
 と一応辞退した。
「夕食くらい気にしなくていいよ」
 それで渡辺と近くのレストランに入った。
「ピー子、ごはんまでおごってもらって、おいしい役やってるなぁ」
 と友達。やがてレストランを出てきた。
「明日は日曜日だけどお仕事ですか」
「いえ、お休みです」
「ご予定は?」
「特にはないですけど、お洗濯とかお掃除とか」
「帰っても一人なんでしょ」
「はい」
「じゃ、せっかく会ったんだから少し飲みませんか」
「あたし、アルコールだめなんです」
「じゃ、ちょっとだけにしましょう」
 二人はカフェバーに入った。一時間位話をしている内に、
「あたし、なんか変です。酔ったみたいです」
 と渡辺にもたれかかった。
「じゃ、少し休んで行きましょう」
 と渡辺はカップルズホテルに連れ込んだ。ピー子は渡辺に寄りかかるようにして素直に従った。

 三十分ほどしてデコの携帯の呼び出しが二度鳴って切れ、続いてメールが届いた。
 デコは直ぐ武雄から聞いた携帯に電話した。
「場所はどこだ」
 デコは渡辺がピー子を連れ込んだホテルと部屋番号を教えた。
 デコはもう一本別の携帯に電話した。
「場所はどこだ」
 デコは同じ場所を教えた。
 剣持は予め知り合いの非番の警官とブンヤ(新聞記者)に情報を流しておいたのだ。
「必ずペア(二人組み)で」
 と念を押しておいた。

 私服の警官二人はそのホテルに踏み込んだ。そこに裸の渡辺と服を乱暴に引き裂かれたピー子が震えていた。ベッドの上には一万円札が三枚散らばっていた。
 強制猥褻(わいせつ)の現行犯逮捕だ。現行犯は警察手帳があれば、私服でも逮捕できるのだ。
 続いてカメラを持ったブンヤが駆け込んできた。
「おいっ、勝手に写真を撮るな」
 と警官は制したが遅かった。ブンヤは四、五枚撮ると直ぐ退散した。あとは警察に任せれば良かったのだ。
 翌朝のテレビと新聞で[弁護士、未成年の女子に強制猥褻]とでかでかと報じられた。

三十五 スキャンダル Ⅱ

 林菓房の悪い噂を流している茶道の家元は、幸い剣持の客、正確には剣持の配下の多恵と言う女性の客だった。その家元は女が好きで綺麗な夫人がいるくせに外に出ると女遊びをする贅沢な奴だ。
 剣持は多恵を呼んで、
「すまんけど、あんたが面倒を見てくれてるあの家元のキンタマをちょい強く握ってやってくれないか」
 と頼んだ。
「あたし、いつも優しくしてあげてるわよ。ぎゅっと握ったことなんてないなぁ」
「アハハ、そう言う意味じゃないよ。多恵にあそこを握られてもあいつは何とも思わないよ。あいつはママ(Sババアのこと)に頭が上がらないから、多恵とラブしてる時に[林菓房の悪い噂を流しているのはあなただってママが知って、すごく怒ってるわよ]と、それだけしっかりと耳に入れてやるだけでいいんだよ」
「へーぇっ? そうなんだ。あたし、てっきりあそこをギュッとつかんでやるんだと思った」
「アハハ、ほっそりした多恵の指だって、息子をマジでギュッとやられたら、オレだってイテテテッてのた打ち回るぜ」
 と剣持は笑った。
「あそこを強く握られるとそんなに痛いの」
「ん。男なら誰だって痛いさ」
「ふーん。どうして家元はママだと怖いの」
「ママは政財界に顔が広いだろ。なので、多恵との関係をバラされたら、スキャンダルになって、立ち上がれないくらい厳しいんだよ」
「分かった。今週お仕事で行くからちゃんと言っておく」
「ありがとね」
 剣持はS女子の失踪については何も触れなかった。こちらから言わなければ誰も剣持には余計なことを聞かないように教育を徹底していた。
 弁護士渡辺徹はスキャンダルで新聞沙汰になり、縁談話はすっ飛んでしまった。茶道の家元は多恵の話を聞いてすっかり大人しくなった。そのため、悪い噂話はピタリと止った。

 だが、剣持が噂話が出るのを止めても、肝心の林菓房の受注は落ちたままどころか日に日に細った。一見(いちげん)の客に店で売る分は落ちてはいなかったが、和菓子はそうそう数が出るものではないので、大口がなくなればやっていけないのだ。剣持が陰で噂話を止めるため画策したことは晴子の知る由もなかった。

 一旦流されてしまった悪い噂話はそう簡単には消えるものではない。だから、噂話が完全に消えるまでには一年も二年もかかるだろう。人の噂も七十五(しちじゅうご)日と言う諺はあるが、和菓子業界の悪評は後を引くのだ。
 林菓房の資金繰りはいよいよ厳しくなり、とうとう銀行に支払う利子だけでさえ滞納に追い込まれてしまった。何十年も堅実にやってきたつもりでも、晴子の縁談話ですっかり躓いてしまったのだ。林菓房は店舗の改装を行った時、晴子の祖父の代から付き合ってきたR銀行に一千万円と少し借り入れをしていたのだ。
 六月に入って、突然R銀行からいつもの担当者が上司を伴って訪れた。
 彼等は晴子の父に、最近の売上状況や将来の見通しを尋ねた末、資金の借り入れ時の契約書を開いた。
「失礼ですが、この契約により、店舗を差し押さえさせて頂く様手続きを取らせて頂きます。ご不満なら明日にでも滞納している利子をお支払い下さい」
 林は五十年間以上お付き合いしてきた銀行でも血も涙もないものだと思った。覚悟はしていたものの、こんなに早く追い込まれるとは思いもよらなかったのだ。
 政府では、不景気対策として、中小企業の資金繰りの支援を大々的にアピールしているが、実際の現場では政府のお偉いさん達が想像することと随分かけ離れていた。銀行はどこでも表向きは政府の方針に従う姿勢を示しているが、裏側では不良資産の圧縮、削減に血眼になっており、少しでも不安があると、相手の立場におかまいなく即座に処置を進めているのだ。

 晴子は先日、朝のテレビニュースで渡辺徹の事件が流れた時驚いたが、これで縁談話のゴリ押しはなくなったと安堵していた矢先、今日花屋から帰宅後父に店舗の差し押さえの話を聞かされて愕然とした。
 この先、毎月の利子を滞りなく支払って行けるか自信が持てなかったので、父の話を聞いても何とかしてあげますと言えない歯がゆさを感じていた。
 差し押さえになると、土地と店舗をどこかへ売り飛ばされて、結果的に店は壊されてしまうのだ。晴子はどうして良いか自分では解決できず、多額の金銭について相談するあてもなく途方に暮れた。両親も口では店を失っても晴子が幸せならばと言ってはくれるが、現実を目の前にして晴子と同じ気持ちだろう。

 神山は剣持の父、弥太郎が健在の時、可愛がってもらった。神山は関西に居た時は、地上げ屋では手に負えないこじれた案件を引き受けて住民の立ち退きを上手く処理していた。弥太郎が関東に来て、関東の地上げ屋と深い関係を持つようになった関係で、関東の地上げ屋と、今でも太いパイプを持っている。地上げ屋は情報が早い。
 昨日、付き合っている地上げ屋の(かしら)がやってきて、雑談ついでに、
「近々目黒の林菓房とか言う和菓子屋の土地と店舗がR銀の競売に懸けられる予定なので、落札した者から自分の所に店舗の解体が来るはずだ」
 なんて話をしていた。[林菓房?]神山は聞いた名前だなぁと思ったが、その時は聞き流した。だが、頭が帰った後、確か剣持が狙っている彼女の家じゃないかと剣持を呼んで確かめた。間違いはなかった。

 神山は直ぐ丸の内の龍一の事務所を訪ねて相談した。龍一は即座にR銀行のトップに電話した。
「あんたのとこで目黒の林菓房の土地と店舗を差し押さえて競売に懸けるそうじゃないか? それで相談だが、その物件を僕のとこで買い取らせてもらいたいのだが、今でも間に合うか? 金はあんたのとこの言い値でいいよ」
 すぐ返事が戻ってきた。
「今、担当部長にすぐあんたのとこへ行くように指示をしておいた。三十分もすれば着くだろうから、相談に乗ってやってくれ」
「ありがとう。恩に着るよ」
 それで話は終わった。
「伝ちゃんも同席してくれよ」
 約三十分後R銀行の部長が担当課長を連れてMビルの事務所にやってきた。
「なんだ、それくらいの金か。じゃ、そちらの貸出金は全額こちらで肩代わりして今日返済するから、すまんがこの契約書は林菓房の社長さんに返してやってくれ。これで綺麗になったと思っていいのかね」
「はい。間違いなく大丈夫です」
「借入金の契約書をあちらさんにお返しする時に山田先生のお名前を伝えてもよろしいでしょうか」
「ん。聞かれたら伝えてもいいよ。変な紐は一切ないから、安心するように伝えてくれ」

「伝ちゃん、今の話は当分剣持には伏せておいてくれ」
 龍一は神山に伝えると、小用があるからと後を頼んで事務所を出て行った。神山はその日の内にR銀行との処理を終わった。情報をくれた地上げ屋にはことの次第をきっちりと伝えた。
「残念だったな。オレの方で必ず埋め合わせはするぜ」

三十六 予期せぬ出来事

 今日は花屋の仕事を休暇にしてもらって、晴子は朝から自分の身の回りの物を整理することにした。近々、この家土地が他人に渡り、子供の頃からずっと住み慣れたこの部屋がなくなってしまうのだと思うと自然に涙がこぼれ落ちた。柱や壁の小さな傷ひとつ取っても、子供の頃の想い出が蘇って来る。整理を始めると、アルバムや学生時代の大学ノート、箪笥の中には少女時代の可愛らしい洋服が捨てずに一杯詰まっていた。それらの一つ一つが懐かしく、見返していると一向に整理が捗らない。そんな他人から見ればガラクタのようなものでも、いざ整理しようとするとどれも捨てがたい。今の経済状態で引っ越せば小さなアパートで親子三人が寄り添って暮らすことになるのだろう。だから今自分の周りにあるものたちは、殆ど捨ててしまわないと引っ越しても、しまう場所がないと思うと、
「どうしよう、どうしよう」
 と考えれば考えるほど気持ちがブルーになってしまう。愛し合った伸と一緒に撮った写真を見ながら過ぎ去った幸せだった日々が思い出された。

 こんな大変なことが目の前に迫っているのに、父は長年使い慣れた作業場で黙々とお菓子作りをしていた。祖父の家業を継いで、若い頃からお菓子作り一筋で生きてきた父にとっては、自分よりもっと悲しくて悔しい気持ちだろうと晴子は思ったが、職人気質の父は、その鬱憤をお菓子作りで紛らわすことしか出来ないのだろうと思った。
 母だって、心の中は決して穏やかではないと思うのだが、お店に出て、お客様の応対の傍ら、店の隅々を丁寧に掃除をしていた。間もなく解体屋が大きな機械を持ってきて、ドスン・ドスンとあっと言う間に壊してしまうのは分かっていても、やはりここを引き払って出る時は綺麗にして出ようと思っているのだろう。

 林菓房がいけなくなって、近々店が他人のものになると言う噂はどこからか広がって、隣近所の話題になっていた。最近はそうして長年続けた店がやっていけなくなり、他所へ移って行った所が何軒もある。古びた店はシャッターが下ろされて、もう二度と開けられることはないのだ。周りにそんな仲間を見てきた近所の人々は晴子の家にも同情と哀れみの眼差しでじっと見ているように思えた。

 林菓房の店の前に、R銀行支店の白い乗用車と、続いて運転手付きの黒塗りの大きな車が停まった。
 白い車から二人、黒い車から二人、合わせて四人揃って店の中に入った。

「お父さん、銀行の方が見えましたよ」
 と晴子の母貴恵は作業場に声をかけた。
「いよいよ来たか」
 晴子の父は心を決めて売り場へ出た。見ると年配のでっぷりとした初老の男と、他に三人も立っていた。父、林は目で会釈して、ここでは何だからと奥の座敷に上がってもらった。
「この度は、当行からご無理なことをお願いしまして、大変申し訳ありません」
 と初老の男は名刺を差し出した。本店法人事業部 融資部 部長 ×××× と書かれていた。続けて初老の男の隣の者の名刺には本店法人業務部 企画情報課 課長 ×××と書かれていた。残りの二人はいつも訪ねて来る担当者とそこの支店長だった。
 普通は小さな個人商店の融資話にこんな肩書きの者は出てこないのだ。だが、今回はトップからの特命事項扱いで、本店の部長が動いた。
 同行した支店長も初老の男には大変気を遣っている様子だ。

「早速用件に入らせて頂きますと、実は、近々差し押さえさせて頂いて……」
 少し間が開いた。林は、
「くどくど言わず家土地を持って行くならいつ持って行くのか早く言え」
 と心の中でつぶやいた。
「……と予定しておりましたが、当行からの借り入れ時の契約書をそちらさまにお返しするようにとの上部からの指示がございまして」
「……?」
 林は何のことか先方の言い分が良く飲み込めなかった。
 初老の男は隣の男に目配せした。隣の男はカバンからA4の茶封筒を取り出して、うやうやしくテーブルの上に差し出した。
「これをそちら様にお返しします。そちら様とは林様のお父上の代からずっと当行とお取引させて頂いております。今回は大変申し訳のないことをお願い致しましたが、どうぞお許し頂いて、これからも当行と末永くお取引下さいますようお願い致します」
 そう言い終わると四人揃って深々と頭を下げたのだ。
「一体、どう言うことですか」
有体(ありてい)に申上げますと、そちら様と当行の間には最初からこのご融資の契約はなかったと言う形にさせて頂きたいのです。それで、今までに当行にご入金頂きました返済金額と利子の合計額をそっくりお返し致しますので、この中に当行の小切手も入っております。つまり、この契約は最初から何もなかったことになります。どうぞ契約書をお納め下さい。

 林は説明の内容が全く分からなかった。そんなことが実際にあるのか疑問に思った。
「つまり、どなた様かが私共の借入金の肩代わりをされたんですか」
「はい」
「それはどなたでしょう」
「その点は上の方から何も聞かされておりません。そちら様にご縁のある方かそうでないかも分かりません」
「そりゃ、困るなぁ。後であれこれ難題を持ち込まれるなら、この店と土地をそっくり持って行かれた方が清々しますよ」
 と林は少し警戒をした。
「その点は全く大丈夫です。上の方から何もご心配なさらないようにくれぐれもよろしくお伝えするようにと承っております。その点は微力ながら手前が責任を持ってお約束させて頂きます」
 途中から晴子も同席していたが、話の内容がよく理解できずにいた。

 話しが終わった。林は[狐につままれる]とはこんなことを言うのだなと思った。
 銀行の客四人を見送り、初老の男に靴べらを手渡す晴子に、男は小声で、
「後で見て下さい」
 と折り畳んだ小さなメモ用紙を晴子の手にそっと握らせ帰っていった。
 その後、林菓房は何事もなかったかのように今まで通り営業を続けた。

三十七 嗅ぎ回る探偵

 昨日、R銀行の本店から前触れも無く突然部長がやってきて、信じられない話をして帰った。
 R銀行から返されたA4大の茶封筒の中には赤いマジックで大きく×印が付けられて[H××年××月××日 本契約は未成立]と書き込みされた契約書と担保物件の土地と家屋の登記権利証原本、印鑑証明、銀行振り出しの小切手、返済予定金額表などが入っていた。H××年××月××日は契約書に書かれた日付と同じだった。つまり先方の説明通りこの契約は最初から締結されず、元々最初から何もなかったことになる。
 晴子の父はその日は寝床に入るまで本当に狐につままれたような顔をしていた。就寝前に母と、
「一体こんなことをしてくれたのは誰なんだろう」
 とひそひそと話をしていた。
「銀行の本店の部長さんが責任を持ちますと言い切ったんだから大丈夫よね」
「ん。まださっぱり訳が分からん」
 その内二人は寝静まった。

 晴子はR銀行の部長がそっと手に握らせた紙切れを開いて思案顔に見ていた。
[お一人で、この方にお会いなさい 山田龍一03-52XX-XXXX]とだけ書かれていた。今時珍しいブルーのインクの手書きだった。多分万年筆で書いたようだ。メモ用紙には[Hotel Atop The Bellevue Philadelphia, PA 19102 215-893-1776] と印刷されたアメリカのホテルのメモ用紙だった。

 自分をレイプした男が言った言葉、
「今後絶対に余計なことをするなよ。これは最後の警告だ。分かったか? もし、余計なことをすれば、あんたはもっと恥ずかしいことをされると思ってなよ」
 と言う捨て台詞がまだ晴子の頭の中に鮮明に残っていた。あれ以来、晴子は努めて余計と思われることをしないようにしてきたのだ。そのためか、男との約束通り、昨日まではおかしなことは何も起こらなかった。
 だが、晴子の心の中に、家族を救ってくれた人に一度お目にかかってみたいと言う気持ちが湧いていた。眼出し帽の男の警告は気になったが、怖いもの見たさかも知れなかった。

「はい、山田です」
 と渋い声が電話の向うで聞こえた。晴子の胸は心臓が破裂しそうにドキドキと波打っていた。
「林晴子と申します。R銀行の部長様に、そちら様にお目にかかってはどうかとお勧め頂きまして」
「あ、君か。ご都合の良い日、今分かるかね」
「はい、明日でしたら大丈夫です。場所はどちらでしょうか」
「東京駅に出てこられるかね。そうだなぁ、時間は十二時過ぎがいいね」
「はい。大丈夫です」
「では、Mビルの三十五階に天柾と言う天ぷら屋さんがあるから、そこにいらっしゃい。あなたは天ぷらは大丈夫かね」
「はい。大好きです」
「それは良かった」
 翌日の十二時過ぎに予定が決まった。晴子は電話を終わってもまだドキドキが納まらなかった。

 翌日十二時に、晴子はMビルのその店に向かった。店の入り口で立ち止まると中から女将さんが顔を出した。下層階のレストラン街と違ってここはお昼時なのに人の往来が少なかった。
「もしかして林様でいらっしゃいますか」
「はい」
「山田先生から伺っております。どうぞ、どうぞ」
 と女将らしき女が奥の席に案内した。続いて、恰幅の良い初老の男が入り口に顔を出した。女将は、
「もう、いらしてます」
 と晴子の側に案内してきた。
 晴子は今日はワンピにして少し改まった服装をしてきた。胸元に伸の忘れ形見となってしまったティファニーのハートの赤いペンダントが揺れた。
 晴子は立ち上がって、
「初めまして」
 と頭を下げた。
「さ、さっ固くならないで、お目にかかれて嬉しいよ」
 と優しい眼差しで晴子を座らせた。

 この店は今から三代前の主が[お座敷天婦羅]を考え出したことで有名な店だ。昔は畳の座敷の片隅に天婦羅を揚げる場所が設けられていて、板前が客にきちっと挨拶をして、客の希望を聞き、旬のものが何かとか素材の産地などを説明してから調理にかかると言う贅沢なものだったが、今は簡略化されて、この店でもカウンター越しに板前が客の希望に従って次々と揚げて行く形になっているようだ。

 晴子は天婦羅をご馳走になりながら、疑問に思っていることを素直に質問した。
「実は、わたしが父親代わりをしている青年が、きっかけは分からないが、あなたのことを好きになったと告白してね、それで一度あなたに会って見たかったのだよ。調べて見ると、お父さんのお店が銀行から差し押さえられそうになっている様子なので、万一そんな不幸なことがあってはいけないと思って、差し出がましいのだが、こちらで処理させてもらったんだよ。あの銀行のトップは僕の親しい友人でね、何でも話をできる仲なんだよ。だから林さんには何もご負担をかけないから、今迄通り美味しい和菓子作りに精を出して下さいとお父様に伝えて下さい。今日は僕があなたがどんな方か知りたかったのでお呼びしたまでで、彼があなたに片想いしているからと言って、あなたは何も気を遣わなくてもいいよ」
「……」
「人と人との縁と言うものは、運命に逆らっていろいろやっても上手くは行かないものだよ。もし、彼の運命があなたに好いてもらえることになっていれば、いずれは自然に良い出会いがあると思うし、もしそうでなかったらあなたとのご縁はなかったと諦めるしかないんだよ」
「……」
「今日あなたのような素的なお嬢さんにお目にかかれたのは、僕の運命が良かったと言うことだな」
 と言って笑った。
 晴子は心の中に渦巻いていた疑問が解けたような気がした。
「あたしを片想いしていると言う青年とはどんな人なんだろう」
 山田に聞かされた後、晴子の中に新たな好奇心が湧いたようだ。
 山田にご馳走のお礼を言って店を出た。晴子は自分の父親とは違う男に少しだけ魅力を感じていた。
「来る前に思っていたよりずっと感じの良い人だったなぁ」
 晴子はひとりつぶやいていた。晴子はせっかく丸の内に来たんだからと、最近すっかり綺麗になった街を少しの間散策していた。

 晴子と男が会っている所を先ほどから嗅ぎ回っている男がいた。晴子が家を出る所から尾行していたのだ。
 晴子が山田と別れてから、その男はまた晴子を尾行し始めた。Mビルを出て少し歩いた所で、尾行する男は大きな体の男にすれ違いざま、いきなり腕を取られて、ビルの陰に連れ込まれた。背の高い男は低い声で、
「おいっ、誰に頼まれてつけてる」
 と脅した。
「何のことですか」
 男はすっとぼけた。すると体のでかい方が腕をねじ上げて睨んだ。有無を言わせぬ殺気に男は観念した。
「目黒の家元××だ」
 男は体のでかい男に突き飛ばされ道路の上に転がった。体のでかい男は、
「余計なことに首を突っ込むとどうなるか分らんぞ。覚えておけっ」
 と凄んで立ち去った。男は私立探偵だった。探偵は素人相手だと軽く踏んでいたが、どう見てもプロが絡んでいる様子なので、この案件から手を引いた方が身のためだと思った。昔暴力団の痛い所に触れて半殺しにされた経験があったのだ。

三十八 毒・現代医術の盲点

 目黒の茶道の家元は晴子に二度も縁談を断られて顔に泥を塗られた屈辱に我慢ができなかった。普段周囲から、先生、先生と持ち上げられていて、たとえ一方的であっても自分の好意を拒絶されるなんて経験は無かったのだ。それで、和菓子の注文を他に回し、それでも足りず、悪い噂を流して林菓房を痛め付ける仕打ちに出た。その結果、立ち行かなくなって、ついに銀行から近々土地も家屋も差し押さえられると言う噂を聴いて、
「ざまみろ」
 とほくそえんでいた。
 所がだ、紹介した弁護士は破廉恥な事件でメチャクチャになり、悪い噂を流していることを知られて噂を流せなくなった。そればかりか、最近林菓房の財産の差し押さえ話の噂は消えてしまって、細々ながら営業を続けているではないか。

 茶道の家元は林菓房を破局に追い込まないと我慢ならなかったのだ。
「おかしい、何かあるぞ」
 と思って今度は探偵に内偵を依頼した。だが、三日もすると、頼んだ探偵がやってきて、辞退すると言い出した。訳を聞いても言わないので、仕方なく別の探偵に依頼したが、その探偵も辞退すると言ってきた。これは一体どう言うことだ? 家元は次の手を考えて見ることにした。家元は生まれつき相当の性悪だったらしい。

「徳さん、例のやつ手に入るかなぁ」
「また必要ですか」
「ああ、手のひらに入るやつが欲しいね」
「じゃ、直ぐ作っときます」
 剣持は徳さんに電話した。
 徳さんと呼ばれた男は猛毒のマニアで、世界の色々な毒を収集して持っている。(もの)がものだけに、余程信頼できる相手でなければ話しにも付き合わない変わり者だ。
 剣持が頼んだものは、直径5cm位の金属の円盤の中心に細い針が一本立ててある単純な形状のもので、普通に見れば家電のパーツのようにしか見えない。円盤の針が立ててある面の反対側の面に粘着テープが張ってあり、手のひらに固定できるようになっている。

 日本には北海道を除くと、確実に人を倒す獰猛な野獣はいない。猪に殺される事件は時々あるが、一般的には恐ろしい動物だとは思われていない。
 北海道は内地と違う。昔から巨大な(ひぐま)が沢山棲息しているのだ。羆は獰猛だ。歯向かう羆に素手で立ち向かえば確実に殺される。アイヌ・コタンの伝承民謡の一説に[エンルム カタ オマン カムイ エペンタ ウェ]と言うのがあるそうだ。意味は[とがった矢尻に乗った神様が山奥へ向かう]だそうだ。矢じりに乗った神様とは羆でさえ倒す威力のあるエゾトリカブトの根に宿る神様だと言われる。
 昔アイヌは羆と戦うために矢尻に毒を塗った毒矢を使ったそうだ。使われた毒はキンポウゲ科の[蝦夷鳥兜]から取れる毒だったそうだが、本州の各地にあるトリカブトよりずっと毒性が強い。

 徳さんは蝦夷鳥兜の他に、南米コロンビアにだけ棲息する[猛毒吹き矢蛙]の毒と、毒蛇コブラの毒を調合して針の先に塗り固めた。
 この針で皮膚を刺すと針を抜き去った時、塗り固めた毒だけが体内に残り、三十分~一時間の間に確実に人は死んでしまう恐ろしい猛毒だ。
 黄色い毒々しい色をした体長2・5cm位の猛毒吹き矢蛙は一匹から取れる毒で人間十人は殺せると言われる猛毒を皮膚から常に分泌しているそうで、素手で触ると危ない。この毒は蛙の名前の通り現地の原住民が狩猟用の毒矢として使ったそうだ。
 コブラの毒が猛毒なのは誰でも知っている。蛇や蛙のような両棲類の毒は神経毒と言われ、毒が体内に入ると神経をやられる。
 毒は解毒剤と普通はセットでないと危ない。昔から中国でも色々な種類の毒が使われたそうだが、必ず解毒剤が毒とペアであったそうだ。だが、蝦夷鳥兜と猛毒吹き矢蛙の毒に対する解毒剤はないと言われている恐ろしい毒だ。

 目黒の茶道の家元と関係している多恵の話だと、家元は近々下北沢の小劇場で上映される[(やり)権三(ごんぞう)]を見に行くらしい。
 映画[鑓の権三]は一九八六年松竹から配給されたもので、旧い映画だ。内容は、近松門左衛門の世話浄瑠璃[鑓の権三重帷子]を映画化したものだそうで、松江藩の表小姓の笹野権三は、器量よく槍さばきも見事で茶道にも通じていた。茶の湯の極意の伝授を茶道の師浅香市之進の妻であるおさゐに懇願するが、それがもとで不義密通の濡れ衣を着せられて、二人は道行きの旅に出るのだが、権三は不義者として市之進に斬られる覚悟で、おさゐはどうせ冥土へ行くのなら、いっそのこと、権三と夫婦の契りをかわしてからと、旅籠(はたご)で激しく愛しあう。最後には市之進の刀に倒れてしまうのだが、愛と悲劇の物語だ。

 家元が映画を見に行く日、剣持は徳さんからもらった例のものを村上に渡して始末を頼んだ。多恵には勿論何も知らされてなかった。
 家元と多恵は並んで映画館の中ほどの席に座っていた。上映前の広告上映中照明が落ちて暗い所を、年配の足元がよたよたした男が奥の席に向かう感じで家元と多恵の前をすり抜けようとした。丁度男が多恵の前に来た時に男の足がよろけて倒れかかり、思わず家元の膝に手を付いてしまった。
「いたっ!」
 家元は小さな声で叫んだ。
「すみません」
 男が謝り、そのまますり抜けて行った。家元は注射針でチクッと突かれた感じはしたが、痛みがすぐ治まったので特に気にはしなかった。多恵が、
「先生大丈夫ですか」
 と聞いたが家元は、
「全然」
 と答えたので安心した。

 上映直前でトイレには誰も居なかった。村上は急いで年寄りのメイキャップを剥がし、何食わぬ顔で映画館を後にした。

 映画が始まって、約三十分ほど経って、家元の体調が急変した。胸を押さえて苦しむ家元を見て、多恵は慌てた。背を低くして急いで外に出ると受付の女性に様子を知らせた。
 驚いた女性は119番に通報、家元は間もなく到着した救急車で病院に運ばれた。勿論、多恵も心配顔で付き添っていた。病院に到着した時はまだ生きていて苦しそうに悶えていた。担当医はいつもの通り手際よく検査した結果、心筋の痙攣などを確認した。検査の途中、家元の容態はますます悪化して、発作後一時間と少しで息を引き取った。連絡により家元の家人が駆けつけたが間に合わなかった。医師は、
「残念ですが、急性心不全でお亡くなりになりました」
 と遺族に告げた。
 映画館で普通に観劇中に起こったことで、その様子は多恵により詳しく知らされ、遺族も納得した。それで、警察が介入する余地は全く無かったのだ。翌日の新聞に小さく[家元××、急性心不全で死去]の見出しで葬儀予定のニュースが載っていた。

 堀口伸が生前、彼に熱き片想いを寄せていた橋口理恵は晴子を訪ね近くでお茶をしてその後の様子などを話し合った。橋口理恵は以前に話をしたトレメンド・ソシエッタをまた話題に持ち出したが、晴子は全く取り合わず話をそらした。
「あなた、もう彼氏の事故のこと忘れたの」
「そうじゃないけど、考えても仕方がないから」
 晴子はあくまでこの話題には触れたくなかった。
 橋口理恵は納得できなかった。それで、自分なりに少し調べて見ようと思った。この時、彼女は自分の身にふりかかる災難を全く想像してなかったのだ。

三十九 人探し

「早く可愛い孫の顔を見せて頂戴よ」
 三十歳を過ぎて、まだ嫁に行かない娘を持つ親の多くは、そう言って娘にプレッシャーをかける。
「この頃三十を過ぎても結婚しない女が増えたわねぇ」
 昔適齢期だと言われていた年齢を過ぎた女でこんな言葉を一度も聞かされたことがない者は殆どいないだろう。
 晴子はまだ三十歳には手が届かなかったが、適齢期だと思われている歳を過ぎても結婚してない女が結婚をしたくないなんて思っていると言うのは誤解だと思っていた。やはり、自分が将来を託しても良いと思う男性を見つけて結婚をして落ち着きたいと思うのが、今でも多くの女性の自然な気持ちだと思っていた。

 許婚だった堀口伸をあんな悲惨な事故でなくしてしまった晴子の両親は、本当はいつまでも死んでしまった人に気持ちを奪われていないで、できれば晴子がいいと思う別の男を見つけて落ち着いて欲しいと思っていたが、それを口に出しては言えなかったのだ。
 晴子の心の中でも、年老いて行く両親が元気な間に、良い人を見つけて結婚して、両親を安心させてやりたいと思う反面、ほんの短い期間でも心から慕っていた伸の面影を忘れられず、二つの気持ちの葛藤が渦巻いていたのだ。
 愛した伸の面影を思うと、もしも別に男性を求めるとすれば、やはり弟の拳君しかいないなぁと思いつつも、晴子はそんな気持ちを積極的に表に出す勇気はなかった。

 晴子の実家の林菓房も細々ながら平静を取り戻して、晴子の花屋の仕事も最近は楽しくできるようになった。そんな中で、晴子はあれ以来、つまり軽井沢に助けに来てもらって以来、拳君とは一度も会ってなかったのが不思議に思えた。拳君も多分仕事が大変で今は他人の自分のことまで考える余裕などないのだろうと思っていた。
「いちど、拳君に電話かメールをしてみようかな」
 晴子は思わず呟いていた。

 生命保険会社から、突然拳に電話が来た。
「こちら、××保険でございますが、堀口伸様の弟様でいらっしゃいますか」
「はい、拳と申します」
「実はお兄様の伸様の生命保険料が二ヶ月間ほど滞納になってまして、お兄様と連絡が付きますでしょうか」
 と事務的な口調の女性からだった。
 あの事故があった後、先方が加入していた自動車の任意保険から多額の慰謝料を受け取って、それで葬儀の費用一切を支払い、残った分は田舎の両親に渡して綺麗になっていたので、兄が生命保険に加入していたことをすっかり忘れていたと言うか、生命保険なんて入っていないと思っていたのだ。それで、伸の残して行った保険の契約書を探して見ると、契約書と一緒に銀行の預金通帳と印鑑が一緒に出てきた。通帳の名義を見るとそこに[林晴子]と印刷されていた。さらに、生命保険の受取人欄にも[林晴子]と記入されていた。預金通帳の残額を見て少し驚いた。いつもオレと違って小遣いが厳しかったはずなのに、残額欄に 5,300,000円と打ち込まれていたのだ。拳は、
「兄貴のやつ……」
 と呟きながら、生前の兄の晴子さんへの気持ちを改めて見せられたような気がした。

 死亡した者が残した財産を受け取る時は、遺産相続の面倒な手続きが必要だ。親の代まで遡って、死亡した本人の戸籍謄本を取らなければならない。親が遠くの田舎の出身であれば、出身地の役所まで出向くか、出来ない時は遠方の役所の了解を得て郵送してもらうとか、兎に角手間のかかるものだ。最近は個人情報の流出防止が厳しくなって、書類を取り難くなっている。
 そこで、相続手続きをする前に、一度晴子さんに会わなければならないと拳は思った。

四十 堀口伸の遺産

 晴子は堀口伸の弟の拳に電話をしようかどうか迷っていた。なぜ迷うのか自分でも分からないが、多分しばらくご無沙汰だったので、どう話を切り出したらいいのか気持ちが決まらなかったのだろう。

 不思議なもので、晴子が迷っている時に突然堀口拳から電話が来た。
「晴子さん、その後お元気でしたか」
「はい。大分落ち着いてきました。あの時は本当にありがとう。あたし、拳さんに助けに来て頂けなかったら今頃どうなっているだろうと考えると、感謝の気持ちで一杯です」
「少しお気持ちが落ち着かれて良かったね。まだ完全には立ち直れてないと思うけど」
「はい。お陰さまでだいぶ心の整理ができました」

 朝からあんなに迷っていたのに、拳からの電話に出たら自然に言葉が出ていた。
「どうしてあんなに迷ったんだろう」
 晴子には自分の気持ちが分らなかった。
「お花屋さんの仕事はまだ続けてるの」
「はい」
「では、今度の月曜日の夕方、お時間取れますか」
「あ、大丈夫です」
「じゃ、銀座にでも出て、一緒に食事をしませんか」
 拳は晴子が花屋の仕事をしてるなら、月曜日が定休だと知っていた。晴子と話しが始まると次第に言葉がくだけた調子に変った。
「なんか苦手な物ってあったっけ」
「あたし、大抵の物は大丈夫よ」
 おかしなもので、晴子も親しげな口調に変った。
「じゃ、僕が適当な店を探しておくよ」
「お願いします」
「七時には来られる?」
「七時だったら、余裕で大丈夫よ」
「じゃ、決まりだ」
 と拳が言って、仕事の関係で話を中断するような感じで、電話は切れた。

 月曜日の夕刻、晴子は堀口拳とJR有楽町駅前で落ち合って、拳は有楽町マリオンの、道路を隔てて筋向いの雑居ビルにある[炉端料理K]に案内した。話が他人には聞かれたくない部分もあるので、個室のあるこの店に予約を入れておいたのだ。
 店に入ると拳は晴子の希望を聞いて、相変らずテキパキと手際よく料理と酒を選んで注文してくれた。女性にとっては、こんな感じで進めてくれるのがとても気持ちが良いのだ。
 通しと酒が運ばれて来た所で、二人は乾杯した。
「晴子さんの回復をお祈りして」
 拳は悪戯っぽい顔で杯を差し出した。話しがジメジメしないように自分への配慮だろうと晴子は思った。

 料理が運ばれてきて、箸を付けた所で、拳が切り出した。
「兄貴が死んじゃって、相手の任意保険から多額の慰謝料が出て、葬式の費用を払った残りを僕の親に渡したって話はしたよね」
「はい」
「僅かだったけれど、退職金も一緒に」
「はい」
「実は、先日生命保険会社から連絡があって、兄貴のやつ、自分の生命保険をかけてたんだよ」
「……」
「それがね、受取人が晴子さんなんだよ。他にもあなたの名義の預金通帳が出てきて、五百万円と少し残高があるんだ」
「……」
「保険金は三千万円、預金と合わせて三千五百万円と少しなんだけど、両方晴子さんのものだから、受け取ってくれないかなぁ? 兄貴もあなたに受け取ってもらうと嬉しいと思うよ」
 晴子は意外な話に驚くと同時に伸が自分のことを大切に考えていてくれたと思うと涙がこぼれそうになった。それを見せまいとしばらく無言で料理を食べ続けた。
「料理、追加しない?」
 不意に拳が晴子の思案を中断した。
「そうねぇ、ここの料理、美味しいわね。外食はしばらくぶりなので、いつもより食べられるみたい」
 拳は店員を呼んで料理と酒を追加注文した。

 店員が去ると、晴子は拳の申し出に答えるかのように続けた。
「拳さん、お願いしてもいい?」
 伸と一緒の時は拳君と呼んでいたが、いつの間にか今日は拳さんに変っていた。伸は晴子より四歳年上だった。拳は二つ年下なので、晴子より二歳年上だ。伸と結婚すれば義理の弟になるはずだったが、今は拳は年上の男性だ。それに兄の伸より拳はずっと大人に見える。
「ん。いいよ。どんなこと?」
「ハーブの仲間で、刻んでサラダとかに入れて食べられるし、強壮、鎮静に良い健康食品にもなる綺麗なブルーの星型の花が咲く[ボリジ(Borage)]って言う花があるんだけど、あたし今この花の花言葉[憂いを忘れる]ってこと考えてたの」
「ん?」
「もしもよ、あたし、伸君の遺産を受け取ってしまうと、なんかあたしがお婆ちゃんになるまでずっと伸君の面影と一緒に暮らすような気がするの。だって、もしも他の男性と結婚するとして、その時伸君の遺産が手元に残ってるなんて状況、あたし想像したくないなぁ。伸君に悪くて……」
晴子は遠くを見つめるような目をした。
「ずっと伸君の面影と一緒に、あたし一生独身を通せる自信もないし、だから[憂いを忘れる]って花言葉を思い出したの」
「ん。確かにそうだね」
「ボリジって花、他に[私はすべてを失った]とか[不幸な愛情]なんて花言葉もあるの」
「なんか晴子さんのことみたいだなぁ」
「拳さん、あたしの気持ち分って下さる?」
「ん。良く分かる。仮にだよ、もしもだけど、僕が晴子さんと結婚したとしたら、やっぱ兄貴のことがいつまでもチラチラするのは嫌だね」
「分って下さって良かったぁ」
 晴子は拳が自分の気持ちをうまく言い表してくれてほっとした。

「それで、伸君の遺産を二つに分けて、半分を世界の可哀想な子供達に使ってもらうようにユニセフ(unicef)に寄付して、残りの半分はやはり恵まれない人たちのために国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) に寄付して頂けたらいいなぁと思うの」
「現地ではたった三万円でご家族が皆で暮らせる仮設住宅が一棟できるんですって」
「晴子さんのお気持ちを考えるとそれはいい考えだな」
「拳さんに手続きをお願いしてもいい」
「晴子さんさえ良かったら手続きは僕がしてあげるよ」
「伸君から寄付するってことでもいい?」
「ん。その方がいいかもね。ただね、相続税は遺産の相続人と寄付金の領収書の名前が違うことになるから、控除に問題はないか、税務署に行って相談をしとくよ」
 それで、伸が残した遺産は全額二つの団体に寄付することにした。
 晴子は話の意外な展開に、拳と自分の[女と男の関係]の話題に触れて拳の気持ちを聞くことができなかった。

四十一 新潟県神林村・そして友達

 海から吹き付ける雪混じりの強い風がリヤカーを牽く中年の男、楢崎武志の顔を刺した。いつの間にか眉毛に霧氷のように雪が凍り付いて、行く手を見る視界を妨げた。時おり追い越して行くスタッドレスタイヤを付けたトラックを見送りながら、武志は家路を急いでいた。
「今日はもしかして生まれるかも知れないなぁ」
 凍てつく寒さに手は痺れたが、重いリヤカーを牽く体は温かかった。
 武志は新潟県でも山形に近い海岸沿いの町、村上市岩船町の町外れで妻と娘の三人でつつましく暮らしていた。海岸に出ると小さな漁港、岩船港があり、夏は小舟で魚介類を獲る傍ら農繁期には農家の手伝いもした。この界隈は昔は神林村と呼ばれたが村上市に併合されて、今は岩船町になっている。冬は漁港の市場から僅かな魚介類を仕入れて村上市の住宅地域にリヤカーを牽いて行商に出た。僅かな稼ぎであったが、小さな家で親子三人が寄り添って暮らして行けた。妻のトキは家事の合間に、武志の仕事を手伝った。今度もう一人生まれたら、トキはしばらく動けないだろう。それもトキと話し合ってオレが頑張るからと予定に入れていた。

 辺りが薄暗くなる頃、武志は家に辿り着いた。雪除けの戸板を引いてガラス戸を開けると、助産婦のにこやかな顔が覗いた。
「ならさん、お帰り。産まれたよ」
「どっちだ」
「男の子」
「そうかぁ。ありがとう」
 座敷に上がるとトキと赤んぼが眠っていた。気配を感じてトキが目を開け少し微笑んでまた眠った。
 武志は生まれた子に自分の名の一字を取って[武雄]と命名した。こうして、楢崎武雄は誕生した。

 武雄は丈夫な子ですくすくと育った。地元岩船の小学校の高学年になると、勉強をほったらかして、仲間を引き連れて悪戯ばかりして度々教師を困らせた。四つ年上の姉は良く勉強する子だったので、対照的だった。地元の中学に進んでも、武雄は一向に勉強をする様子がなく、相変らず教師の手を焼かせた。
 高校に進学することになって少し勉強したようだが、びりスレスレで滑り込んで高校に進んだ。高校は町にはなく、電車で一駅先の村上まで通った。だが高校三年の夏、ついに落ちこぼれになって、学校へは行かずに市内の街で落ちこぼれ仲間とつるんで遊びまわっていた。仲間に好かれ、女の子の仲間が他の不良に苛められると体を張って助けた。それでいつの間にか仲間のリーダーになっていた。そんな武雄でも、女の子には決して悪戯をしなかったから女の子にも信頼されていた。

 武雄に転機が訪れたのは三年生の秋だ。遂に学校から離縁状が出されて高校を中退した。行き場を失った武雄は母親宛にメモを残して東京に出た。母や姉、それに父に済まないと思う気持ちはあったが自分を抑えられなかったのだ。東京に出ると決めたとき、落ちこぼれ仲間がささやかな壮行会をやってくれた。武雄にはそのことが一生忘れ得ぬ想い出となった。

 東京に出て、武雄はアルバイトを転々として何とか生き延びた。生まれつきの性格からか、東京でも同世代の落ちこぼれ仲間ができた。特に渋谷では世間で陰口をたたかれるような女子高生の仲間がいっぱいできた。だが、田舎と違って悪い奴も多い。仲間の女の子が悪戯されそうになると、武雄は今まで通り体を張って女の子を護った。ある時、数人の不良グループに武雄は袋叩きにされていた。殆ど立ち上がれない状態にのされた上、更に蹴りを食らう所を割って入った男がいた。男は不良グループを逆に締め上げ、武雄を救った。助けてくれた体のでかい男は剣持だと言い残して去って行った。これが楢崎武雄と剣持弥一との出会いだった。

 武雄は思うのだ。
「友達って一体なんだろう?」
 教師や母親たちは良い友達、悪い友達を区別して、
「良いお友達と付き合いなさい」
 とか言う。
 良い友達と世間が言う者は学校の成績が良いとか、礼儀正しいとか、家が裕福だとか、そんな奴が多い。だが、そんな奴等は仲間が本当に困った時、体を張って護ってくれるだろうか? 今自分の周りにいる友達は、みんな世間では落ちこぼれとか不良少女とか陰口をたたかれている者ばっかだ。確かに学校の成績は最低の奴ばっかだ。だが、仲間の間では礼儀正しく、決して仲間を裏切ったりはしないし、誰かが困っているとみんなで助ける。それも自然にだ。自然にみなの心が繋がっている感じがする。武雄はそんな仲間が本当の友達だと思っていた。アルバイトで働きはじめると上司に認められるように頑張れと言われた。だが、どう見ても部下が困った状態になっても、上司は世間体とか自分の立場を護る方に走り、体を張ってその部下を護ろうとするような奴はめったにいない。
「そんな奴に認められたいと頑張れるかよ」
 とも思った。

 剣持とか言う兄貴に助けられて数日が過ぎたある日、仲間の女子高生が剣持のことを知っていた。聞いて見ると、新宿のホストクラブで人気がある人だと言った。武雄は剣持にもう一度会いたいと思った。それで、教えられたホストクラブを訪ねるとちゃんと会ってくれた。
「あぁ、あの時、のされてた奴か」
 と剣持は笑ったが目は優しかった。武雄は自分なりにことのいきさつを説明してお礼を言った。剣持は話を良く聞いてくれた。

 それから何度か剣持と会う間に、剣持はホストクラブを辞めて新しい仕事を始めたと言って、良かったら君もオレと一緒に来ないかと誘ってくれた。それ以来、武雄は[トレメンド・ソシエッタ]の社員として、剣持を兄貴だと思って指示された仕事を良くこなした。 武雄の態度は会社のトップの神山伝次郎も評価してくれた。渋谷時代に沢山の同年代の仲間ができて、今でもそいつ等のリーダー挌で、仲間にも仕事を手伝わせた。剣持はその都度現金でちゃんと活動資金を出してくれるので、武雄の仲間達は安心して武雄に協力してくれていた。
 人と人との出会いとは実に不思議なものだ。剣持はいつまでも武雄を自分の仕事の使いっ走りをさせてないで、そろそろ腕に職を付けさせて堅気の仕事をさせてやりたいと思っていた。

四十二 心の拠り所

 気になっていた堀口伸の遺産の処分について、税務署に相談した結果、うまく処理できそうだと弟の拳から晴子に連絡があった。
 晴子はここのとこ、胸の中で燻っている拳に会いたい気持ちが日増しに強くなっていた。 遺産の処分を話し合った時に、晴子は拳の気持ちを聞きたいと思っていたが、聞けずにそのままになっていたのだ。それで、今回の連絡を機会に近い内にお茶でもしないかと誘ってみた。
 しかし、拳は仕事が多忙で、とても時間を空けられないとすげない返事が返ってきた。

 拳は今、顧客の大金を預かって運用しているのだが、外為だけでも約百億円を動かしており、現在1ドル95円を挟んで一日に一円から二円動く。そうすると拳の手元の金は一日に一億円から二億円損したり得したりするのだそうだ。外為市場は二十四時間世界中で動いているために、ここのとこ一日の睡眠時間が四時間もキープできれば良い方だとか。原油の先物市場もついこの間60ドルだったのに、現在は70ドルを越える状態で、一ヶ月も経たずに10%を越え上がったとか。さらに、インドのムンバイSENSEX指数は最近一日に数%もアップダウンするので体が幾つあっても足りない位だと笑っていた。
「どうやら、あたしとは住んでいる世界が違うようだわ」
 と晴子はすっかり落ち込んでしまった。

 その日の夕方、四谷にある茶道裏千家の家元の使いの者だと言う人が林菓房を訪ねてきた。晴子は花屋から戻っていなかったので、母の貴恵が応対した。
「家元が懇意になさっている剣持様とおっしゃる方がこちら様の和菓子を是非使ってあげて欲しいとのお話しがございまして、それでどんな和菓子をお作りになられているかサンプルを買ってくるようにとお話がございまして」
 使いの者は丁寧に来意を説明した。
 貴恵は、それではと、いくつかのサンプルを箱詰めして渡し、御代は結構ですと言って帰した。
 三日ほどして電話があり、
「先日頂いて帰りました和菓子はとても良く出来ており、お味も素的でした。ついては今後定期的にご注文させて頂きたく内容をFAXでお送りします」
 と伝えてきた。FAXの内容と数量を見てびっくりした。林菓房の実力では相当頑張らないと納められない数量だった。晴子の父は頑張れば何とかなると言ったので、この引き合いに応じると返事をした。
 所が、悪いことも良いこともえてして重なるもので、表参道にある茶道教室から大量の引き合いが舞い込んだ。言われた通り晴子がサンプルを持って教室の事務所を訪ねると、生徒数が多く、毎週かなりの和菓子を使っているようだ。サンプルを試食してみて、後日お返事をしますとのことだった。どうやらこの話も剣持様と言う方からの紹介だと分った。
 剣持様なんて初めて聞く名前だ。それで、色々考えを巡らせて見ると、もしかして以前訪ねたMビルの山田龍一氏の線かもと思いついた。
 晴子は山田に、
「またお目にかかれませんでしょうか」
 と電話した所快諾を得た。それで近々山田に会うことにした。

「晴子さんは、お鮨は大丈夫かな」
「はい。大好きです」
「では明日の夕方、あなたがお勤めの花屋さんの前まで迎えに行くよ」
「いえ、そんなぁ」
「ご都合が悪いのかな」
「そうじゃないですけど、申し訳なくて」
「いや、気にせんでもいいよ」
 それで明日の夕刻に会えることになった。
 翌日の夕刻、運転手付きの黒塗りの車が自然教育園裏手の花屋の前で停まり、中から山田が出てきた。晴子は店仕舞いの仕事を終わって店長に挨拶すると、山田の車に近付いた。
「さ、どうぞ。その後お元気だったかな」
「ええ」
 晴子が乗るとすぐ車は出た。山田に案内された所は銀座7丁目にある、[すし栄]と言う江戸前寿司の老舗だった。
「久しぶりだなぁ。お父様はお元気ですか? お店は順調ですか」
「はい。お陰さまで。しばらく売上が全くダメでしたが、最近大口のお客様から沢山ご注文を頂いて、父も大変そうです。何しろ堅物の父ですので、手抜きをしないものですから、体が持つか母と心配をしています」
「それは良かった。勤勉に追いつく貧乏なしだな。アッハッハ」

 この店のお寿司は流石美味しかった。晴子は自分でも信じられない位、いつもより食が進んだ。その様子を山田は自分の娘を見るような優しい目で楽しそうに見ていた。
 晴子は林菓房に大口のお客様を紹介してくれた剣持様と言う方をご存知かと尋ねてみた。すると
「ははぁ~ん、彼もなかなかやるなぁ」
 と言って笑った。
「彼って?」
「ああ、初めてあなたにお会いした時に、あなたに片想いしている青年の話をしたね」
「はい」
「剣持君は彼のことだよ。僕が父親代わりをしている」
「そうだったんですかぁ」
 晴子は少し驚いた。
「一度、その方にお目にかかることはできますか」
「ああ、今度伝えておくよ。また一緒にメシでも食おう」
 お寿司を腹いっぱいご馳走になって、晴子の遠慮を無視されて、目黒の自宅前まで車を回されてしまった。晴子は父母にご挨拶させますと申し出たが、
「いずれ会うことになるよ。今日は別の用があるから」
 と帰って行った。
 その夜、晴子は自分の体調の異変に気付いた。

四十三 シングルマザー

「あたし、シングルマザーになっちゃうのかなぁ? それとも堕胎(おろ)してしまった方がいいのかなぁ?」
 最近、なんか体調が普段と違うような気がして、花屋の仕事がお休みの月曜日、晴子は近くの婦人科で診てもらった。診てくれた女医さんと同席した看護師は口を揃えて、
「ご懐妊されてます。おめでとうございます」
 と言った。心の隅で一番心配していたことが目の前に現実となって突きつけられてしまったのだ。そう言えば、先日お鮨をご馳走になった時に、普通ではない食欲があって、自分でも驚くほどいっぱい食べられた。こんなことは初めてだ。

 晴子はそのまま帰宅して母と顔を合わすのが辛かった。
「自分の心を整理しなくちゃ」
 それで何処へ行くあてもなく東急目黒線に乗った。[次はせんぞく]と言う車内アナウンスに押されるように[せんぞく(洗足)]で降りた。駅から約1kmほどブラブラと歩くと目の前に大きな洗足池が見えた。洗足池のある一帯はその昔[千束]と呼ばれていて歴史的に色々な伝説が伝わっている所だ。
 晴子は池の畔のベンチに座ってぼんやりと自分の行く末を考えていた。結婚前に恋人にせがまれて、あるいは一時の好奇心とか自分が気持ちよくなりたくて男とHして後、事情ができて彼と別れてしまってから妊娠してしまった話は良く聞くが、無理矢理悪戯された結果、まさか自分の身にそんな理不尽なことが起こるなんて。だが、不思議と涙は出なかった。多分前から何となく心配だったので心の準備ができていたのかも知れなかった。

 池の畔に、遅れ咲きの[菖蒲(あやめ)]が咲いていた。それで、晴子は菖蒲の花言葉[あきらめ]とか[忍耐]を思い出した。
「起こってしまったことはあきらめるしかないか。これからどうしよう。母に何て言おうか」
 考えれば考えるほど自分の気持ちがまとまらなかった。気が付くと太陽は少し西に傾いて、水面(みなも)がキラキラと光って見えた。
 自分のお腹の中で今もどんどんと育っている赤ちゃん、たとえ誰の子であれ、そんな可愛らしい赤ちゃんを殺してしまうなんて、晴子にはとても耐えがたかった。レイプされている時、眼出し帽の男は明かりを消して真っ暗にした。相手の息遣いだけ今でもはっきりと覚えているが、あの時、晴子はまだ自分を抱いてくれたことがない恋人の堀口伸君が自分の身体を愛撫してくれたらこんな感じなのかなぁと、その時は自分に、恋人に愛撫されているんだと言い聞かせて歯をくいしばって耐えた。
 だから、今晴子の中ですくすくと育っている赤ちゃんは半分は恋人だった伸君、半分はレイプした男の子供のような気もした。

 随分長い間、一人で考えた末、母には恋人の伸君の子供だと打ち明けることに決めた。それで、その子が産まれた時、事故で不慮の死をとげた恋人の子供としてずっと自分独りで育てて行こうと決心した。晴子はこのことを自分にも言い聞かせた。自分さえ真実を打ち明けなければ、誰にも分からないことだ。子供が成長して、たとえ血液型に疑問が出たとしても、今決めたことは絶対に曲げないぞと心に誓った。
 母には、今日婦人科へ行ったことは何も伝えてなかった。それで、もう少し先になってから、改めて母に打ち明けることにした。
 レイプされて以来、晴子の周りに色々なことが起きた。それで晴子は最近自分が随分強くなったと感じていた。

 林菓房の受注が急に増えて、父親が独りでどんなに頑張っても無理になってきて、最近は母も殆ど作業場に居ることが多くなった。
 そんなある日店に[楢崎武雄]と名乗る青年が突然訪ねて来た。顔の表情にどこか寂しげな感じを漂わせて、青年は自分は和菓子の職人になりたいので見習いとして仕事をさせて欲しいと言った。父は丁度猫の手も借りたい状況だったが、いい加減な気持ちで始めても長続きはしないだろう。良く考えて出直して来いと一旦帰してしまった。青年は素直に引き上げて行った。

四十四 武ちゃんの門出前

「武ちゃん、弟子入りの話はどうだった」
「良く考えて出直して来いって言われました」
「そうか、じゃ、見込み十分だな」
「どうして、そう言えるんですか」
「出直して来いだろ? 来るなじゃねーんだよな。つまり、武ちゃんが、良く考えました。やりますと言えばOKってことだよ」
 と剣持は笑った。先ほどから剣持弥一と楢崎武雄は林菓房のことで打ち合わせをやっていた。
「所で、武ちゃん、国内の洋菓子と和菓子の生産量はどっちが多いと思う?」
「洋菓子と言うと洋菓子屋で売ってるショートケーキ、シュークリーム、カステラとかあんなやつですか」
「そうだよ。チョコとかせんべいとかキャンデーでなくて普通の洋菓子」
「だとしても、和菓子より洋菓子の方が断然多いのと違いますか?」
「違うな。洋菓子より和菓子の生産量の方が多いんだよ」
「へーぇっ? そうなんだ。知らなかったな」
「林菓房のオヤジさんは職人だから、日本の菓子製造業の市場規模なんて多分考えたことはないと思うよ。でもなぁ、武ちゃんが将来あっこを背負うことを考えたら、経済的な知識もちゃんと勉強しとくといいよ」
 剣持は大学中退とは言え、名門K義塾の経済学部で卒業間際まで勉強していたし、現在は政財界で要職にある人々との交友関係が広く、経済的な知識が豊富だった。
「兄貴、一年間に日本全体だとどれ位の生産量があるんですか」
「さすが、武ちゃん、いい質問するな」
「おだてないで下さいよ」
「せんべいとかチョコなんかも入れて、日本全体で年間二兆五千億円位の生産量があるんだよ。今年みたいに不景気だと贈答品とかが出ないから少しダウンするんだけど、菓子業界の生産量は二十年前から今年までを見ると殆ど毎年生産額が変らないんだよ。すごく安定した業界だね。特に和菓子は千年の歴史を持つと言われていて、女性に根強い支持を受けてるんだよ。だから、武ちゃん、和菓子作りって結構ヤリガイがあるぜ。二兆五千億の大体17~18%が和菓子で、15~16%が洋菓子なんだ。だからさ、菓子業界の中の売上トップは和菓子なんだよ。洋菓子は二番目だ」
「じゃ、市場全体は伸びないから、シェアー争いってことですか」
「そうなんだよ。他所より売上を伸ばす苦労があるな」
 剣持の話を聞いて武雄はやる気が出た。

 剣持が林菓房に紹介したお客はホストクラブ時代に付き合っていたコネと亡くなったS女史の仕事関係のコネで、剣持はS女史の仕事を引き継いで今でも人間関係を大事にしていた。つまりセフレ(セックスフレンド)つながりってことだ。皆夫々地位もあり財産もある紳士や淑女たちなので、プライバシーを護るため信頼関係が極めて大切で、そのためお互いの親密度が高く、剣持にとっては交友関係は無形の財産でもあった。

 剣持は自分の交友関係を利用して、林菓房の売上を現在より格段に増やして行く計画を持っていた。武雄はそのための布石だと考えていたのだ。
「所で、武ちゃん、あっこに綺麗な娘さんが一人いるんだけど、オレ、あの子に片想いしてるんだ」
 剣持は悪戯っぽい目で武雄に打ち明けた。
「へーぇっ? 兄貴の周りには凄い女がいっぱいいるのになぁ。どうしてですか」
「アハハ、女を好きになるのに理由(わけ)なんてないさ。フィーリングだよ」
 と剣持は笑った。剣持の話はまんざら冗談でもなさそうだと武雄は思った。
 武雄の周りにも大勢の女の子たちが居た。それらの女の子たちは、女子高生の他に、専門学校生も多かったから卒業すると看護師、美容師、アパレル関係など色々な分野に散った。けれども悩みや住む所を探すなど色々な面で武雄が相談に乗ってやっていたから散った後も皆武雄と離れなかった。中にはマンガの作家になった者もいたし、二十歳を過ぎると、口の固い性格の女の子の中で希望があれば剣持のS女史の仕事関係にスカウトする仕組みも出来上がっていたのだ。長い間に剣持は武雄と組んで、この仕組みを作り上げた結果、剣持も武雄もメシを食うには全然困らないどころか収入は多かった。だが、剣持の指導で武雄も決して身の丈を越える贅沢は一切せず、共にグループのメンバーの面倒を良く見ていた。
 武雄は林菓房の弟子入りをしても、今のメンバーとの関係は大切にして行きたいと思っていた。

四十五 貴女ならどうする?

 夏に咲く花[トリトマ (Tritoma)]の花言葉[切実な思い]、[恋する胸の痛み]のように、橋口理恵は会社で隣の席に座っていた元同僚の堀口伸に密かな思いを寄せていたが、交通事故で不慮の死を遂げた後、生前に付き合いがあったと思われた[トレメンド・ソシエッタ]のことを未だに引きずっていた。理恵は何故そんなことにいつまでも引きずられてしまっているのか自分でも分からなかった。多分好奇心の強い理恵の性格だからかも知れなかった。
 この名前の会社のことを大分前に伸の許婚だったと言う林晴子に話をしたが、なぜか話を逸らされたばかりか、それ以後晴子は理恵に会ってもくれなくなった。それで、理恵は自分なりに納得できるまで調べて見ることにしたのだ。
 今分っていることは、[トレメンド・ソシエッタ]と呼ぶ会社名と場所が八重洲口にあること位で漠然としていた。トレメンド・ソシエッタはイタリア語でTremendo Societàと書き、和訳すると[恐怖の会社]だ。このことは生前の伸に話をしたから理恵ははっきりと覚えていた。

 理恵はネットで[Tremendo Società]をキーワードにして検索してみた。だが訳の分からないへんなのが一杯出てきて、探している情報は何も出てこなかった。
 理恵はインターネットは諦めた。それで、会社にあった帝国データバンクの分厚い紳士録で調べてみたが全く手がかりはなかつた。

 仕方なく、理恵は会社の休日に八重洲口界隈を歩き回って目で確かめてみることにした。理恵はボトムはチャコールグレーで44cm丈の短めのセミフレアスカートに歩き易いようにヒールが太くてやや低いパンプス、トップは黒いタンクトップの上に薄手のパープルピンクのブラウスを着て出た。プラダの黒いトートバッグには化粧ポーチとメモ用紙とボールペン、それに八重洲口界隈の詳しい市街図を入れていた。もちろん財布と携帯も入れていた。
 雑居ビルには色々な会社がひしめいていて、中には小さな部屋に事務机一個に電話が一本だけしかない幽霊のような会社もあることが分った。こんなちっぽけな会社を刑事みたいに虱潰しに当たるなんて一日ではとても終わる仕事じゃない。それで、次のお休みの日にも歩き回った。さすがの理恵も足が痛くなり、喉が渇いてしまった。それで一息入れようと、近くのコーヒースタンドに入った。小さな店で全部立ち席と言うか椅子のない店だが、結構混雑していた。

 アイスコーヒーにシロップとスジャータをたらしながらふと横を見ると背の高いガッシリした体格の商社マンのような男がコーヒーを啜っていた。理恵は何気なく脇の男に聞いてみた。
「あのぅ~、ちょっと伺ってもいいですか」
 男は怪訝な顔を理恵に向けた。
「こんな名前の会社、この辺りでご存知ないでしょうか」
 男は理恵の差し出したメモ用紙を一瞥して、
「知ってますよ」
 と答えた。
「どこにありますでしょうか?」
「口では説明し難いので、よろしかったらご一緒しますが……」
 理恵はしめた、やっと突き止められそうだと思った。
 男は無言で店を出た。理恵は男の後を追った。男は小さな雑居ビルの裏側に回って、北側の入り口の扉を開けて、地下への階段を降り始めた。階段を途中まで下りた所で、男の動作は速かった。理恵の顔にさっと目隠しをすると、さも軽そうに理恵のほっそりしたウエストに腕を回すや否や、理恵の体を肩に担いだ。突然の出来事に理恵が驚いて手足をバタバタ動かしたが全く役に立たなかった。尚も男は無言で少し先の扉を開けて、中に入ると扉を閉じた。次々と扉を開けて閉める音がして、ようやく理恵は床に立たされ、目隠しを外された。
 地下室で窓がなく、五坪位の部屋は何もなくガランとした空き部屋でカビ臭かった。この地下室は迷路のような作りになっていて、部屋に二つか三つ扉があり、一旦奥に入ると様子が分かっている者でもなければなかなか外には出られない構造に作られていたのだ。
 理恵は全身に寒気がして恐怖の中で言葉も出ず震えていた。男は慣れた手付きで素早く理恵の両手を後手(うしろで)に縛り、足首を縛って体を横たえて、足首と手首を近づけて縛り上げた。

 ようやく男が口をきいた。
「これから、お探しの会社の者に連絡しますから、しばらくここでお待ち下さい」
 言葉は丁寧で落ち着いた声だったが、やっていることと言葉とは全然合ってなかった。
 男が退出すると、あたりは静粛になった。裸の蛍光灯が寒々と点灯しているだけで、手を縛られた紐の残りとボロ布が部屋の隅に無造作に置いてあるだけだった。コンクリートの床に転がされている理恵に向かって、[ぞうり虫]みたいな虫が触覚を振り振り歩いて来るのが見えた。
 理恵は虫が大嫌いだ。虫が理恵の側まで這って来た時、理恵は泣きそうになった。自分の家の中だったら、多分悲鳴をあげていただろう。

 村上は社に戻ると、
「変な女が嗅ぎ回っていたからR3に転がしておいたよ。ちょい可愛がってやってくれ」
 と部下の古川と山口に指示した。
「あれをやってもいいですか」
「アマちゃんらしいから、ちっちゃな奴を二つか三つで十分だ」
 古川と山口はなにやら話し合って、どこかに電話を入れた。
「ちっちゃい奴を三つ刺してやってよ。今から出られるか」
 電話の向うの奴はOKだったようだ。

 何処かで、鉄の扉をバタン、バタンと開閉する音が床を伝ってきた。ややあって、眼出し帽ですっぽり顔を隠した男が二人部屋に入ってきた。理恵は恐ろしさでまだ震えが止まらなかった。いきなり片方の男が、
「あんた、勤め先はどこだ? 正直に答えたら直ぐ出してやるよ」
 と言った。理恵がどうするか考えている間に、もう一人の男が理恵のトートバッグを開いて中から財布を取り出して調べた。
「兄貴、名前は橋口理恵、勤め先は丸の内のT商事だ」
 どうやら理恵の仕事用の名刺を見つけたらしい。男たちは理恵の手首と足首を結んだ紐を解いて立たせ、壁のボルトに理恵の手首を縛り付けて(はりつけ)のようにした。スカートのファスナーを外すと下に落とし、パンストとショーツも剥がした。理恵の下半身は素っ裸にされてしまった。タンクトップもブラも外され体に引っ掛かっているのは薄手のブラウスだけにされてしまった。理恵の可愛らしい乳房が露わになって、何故か恨めしそうに見えた。

 扉をノックする音がした。
「おおっ」
 と兄貴分の方が返事をすると作業箱を抱えた眼出し帽の者が入ってきた。
「どれ位かかる?」
「小さいから二時間もあれば」
「じゃ、すぐ刺してくれ」
 理恵は自分の体に何を悪戯されるのか、恐怖が絶頂にたっして遂に、
「止めて下さいっ!」
 と悲鳴に近い声を出した。男に何も反応がないので、小さな泣き声で、
「お願いです。許して下さい」
 と言った。

 後から入って来た男は、道具箱を出すと直ぐ作業に取り掛かった。最初は理恵の左の乳房の体の中心寄りに針を刺し始めた。理恵は痛かったが我慢した。理恵がもがくと、
「大人しくしないと後で大変なことになります」
 と針を刺す男が眼で制した。理恵は男だと思っていたが、声はどうやら女の声だ。
 三十分程すると、最初の二人の男が理恵の両足を広げて壁のボルトに縛り付けた。男とも女ともつかない針刺しは理恵の太ももの付け根の性器の脇にトントンと刺し始めた。その部分を終わると右肩の腕の付け根にトントンと刺した。丁度二時間位で終わった。

 針を刺された所には毒針の付いた尾を曲げた小さな[(さそり)]が彫り込まれていた。理恵はタトー(刺青)をされてしまったのだ。終わると理恵に、[アフターケアの留意点]と書いたプリントが示されて、プリントは理恵のバッグに放り込まれた。タトーをすると一週間位はしっかりと手当てをしないと化膿したりろくなことがないのだ。
 作業を終わると使い捨ての針を片付けて後から来た者はさっさと引き上げて行った。

「お姉ちゃんよ、余計なものに好奇心を持つなよ。今日はこれ位で許してやるが、またやったらもっと恥ずかしいことをしてやるぞ」
 と男は脅した。それから小型のデジカメを取り出して、理恵の淫らな全身とタトーをした部分の写真を何枚も撮った後、一人がパンツを下ろして理恵のそこに男を突き刺した。
 理恵は縛られていて抵抗すら出来なかった。続いてもう一人も交代で突き刺してきた。輪姦だ。理恵は生まれて始めてこんな恐ろしい目にあったのだ。

「警察に届けたければ届けなよ。警官の野郎はスケベエばっかだからなぁ、届けたら根掘り葉掘り細かいHなことを聴かれてさ、もっと恥ずかしい思いをするぜ。あいつらは、『貴女、されている時いい気持ちがしましたか?』なんてしゃーしゃーと聴きやがる。いい気持ちするわけねーだろ? だがいい気持ちがしたなんて言ってみろ、それじゃ、あんたにも気があったんだろう。自由恋愛だとか、うっかりすると売春婦にされるのがおちだぜ。 世の中にはな、SMなんてものがあってさ、こんなことは普通に楽しんでる世界だってあるんだ。おまけに、週刊誌のレポーターにも情報を流されてさ、あんたは会社に居られないどころか近所や友達からも笑われもんになるよ」
 と脅した。
「今撮った写真、当分こっちで預かっとくよ。あんたが心を改めてもう余計な詮索をしないことにしたら、この写真は永遠にお蔵入りだ。けどよぉ、あんたがおいらの言うことを聞かなかったら、その時はあんたの会社にこの全裸の写真をバンバンメールで送りつけてやるぞ。送り先はイランとか香港とかインドとか世界中からだ。どっから送ったなんて調べようもないさ」
 二人の男の声には凄みがあった。
 辺りに夕闇が迫っているかなんて分からないが多分夕刻だろう。一人の男が車付きのでかい旅行カバンを持って来た。理恵はその中に押し込められた。車に乗せられて運ばれた後、新宿公園の街灯の灯が途切れた暗闇で理恵は解放された。男たちはさっと車に乗り込んで何処かへ走り去った。

 理恵はアパートに辿り着くと、今日の恐ろしい出来事を振り返り、改めて恐ろしくなった。鏡を見ると右肩と左の乳房と内股の性器の脇とに三匹の青黒い蠍がへばりついていた。一生この三匹と暮らさなければならないのかと思うといっそのこと死んでしまいたいとまで思った。同時に、林晴子がどうして口を閉ざしてしまったのか、今その意味が分ったような気がした。

四十六 晴子の見合い

 花屋はお休みではなかったが、その日は珍しく晴子は家に居た。夕刻山田龍一に食事に誘われていたのだ。それで一日お休みを取った。
 林菓房は、ここのとこ受注が日に日に増えて、母の貴恵は父を手伝って作業場に入りっぱなしの日が続いていた。それで午前中掃除と洗濯にかかってしまい、昼食の準備を急いでいた。祖父の義輔はもう歳で仕事は出来なかったし、祖母のやよいも離れで寝ていることが多かった。晴子はお婆ちゃん子だったが、最近は逆転して晴子が祖母の面倒を見ることが多くなっていた。父林義晴は仕事が増えたお陰で毎日生き生きとして仕事に励んでいた。
「男はやはり仕事が充実しているのが一番ね」
 と母と晴子は最近の父の張り切りぶりに少し驚いてもいた。

「ごめん下さい」
 店の方で声がしたので、台所の手を休めて、晴子は店に顔を出した。そこに、背広姿の青年が立っていた。普段背広なぞ着ないのだろう、いま一つ背広が体に合ってなくて晴子は思わず笑ってしまった。青年は晴子が顔を見るなり笑い出したので、きまりが悪そうにもじもじし始めたが、
「オレ、ここに弟子入りに来ました」
 と唐突に頭を下げて挨拶をした。晴子はちょっと驚いた。何も聞いていなかったので、いきなり弟子入りにきましたとは一体どう言うことか分らなかった。それで、奥の作業場に伝えると父が、
「来たか」
 と言った。どうやら父は来ることを待っていたような感じに思えた。父が店に顔を出すと、
「気持ちは決まったのか」
 と青年に聞いた。
「はい。決めました。お願いします」
 青年はもう一度深々と頭を下げた。
「分った。上がんなよ」
 青年は遠慮がちに座敷に上がってきた。
「晴子、この方はこの前弟子入りしたいと言ってきたんだが、良く考えてから出直して来いと言っておいたんだ。楢崎武雄君と言ったよな」
 と青年の方を見た。
「はい。武雄です」
 丁度お昼ご飯の時間になったので、食事をしながら話を聞こうと言うことになり、晴子の家族と一緒に食事を始めた。

 父はどうやら弟子にすることを決めていたらしい。それで、すぐ勤務時間とか給料の話になった。まず勤務時間の話になると、武雄は睡眠時間を八時間程度見てもらえればそれでいいと言った。ただ、自分は外で付き合いがあるから、たまに外出したいので、それを許して下さいと条件を出した。仕事は教えてくれれば何でもやりますと。
 次に給料の話になった。武雄は仕事が慣れるまでの五年間位は給料は一切要りませんと言った。父は驚いて、
「それじゃどうやって生活をするんだ?」
 と聞くと、自分は別に収入があって、今でも普通のサラリーマンよりずっと収入が多いから頂く必要がありませんと答えた。それで、武雄の生い立ちについて話題が変わった。

 武雄は正直に高校の時中途退学させられて、それを機会に東京に出てバイトを転々とした。両親と姉はまだ新潟の田舎町に居て家族は全員健在だと言った。バイトを転々としていた時兄貴と出会って拾ってもらって今は東京駅の近くの小さな会社で雑用係りをやってますと説明した。兄貴の名前は剣持と言うのだけれど、その兄貴に勧められてこちらで和菓子職人に育ててもらいたいと心に決めて来ましたと追加した。
 現在の収入は会社からもらっているお金もあるが、渋谷界隈で仲間が二百人以上いて、仕事を回したり色々やっているのでそちらからも沢山お金が入るから大丈夫だと説明した。晴子は青年は自分よりも年下の感じなのにしっかりしていて随分稼ぐものだと驚いた。
 武雄は口下手でややはにかみ屋で、顔になにか淋しげな表情があるが、なかなか魅力的だと晴子は女性の視点からしっかりと人物像にチェックを入れていた。体格は良く、身長は死んだ伸よりは低いが、175より少し高いかも知れないので先ず先ず合格だなんて思っていた。

 青年について分らないことはまだあるが、今時無給で働いてくれる若者なんて先ず居ないから、父はOKを出した。
「今日からでもいいですか」
「君さえよければ、うちは助かるよ」
 それでその日から仕事をすることに決まった。どうやら父と青年は気が合いそうで、母と晴子は安堵した。同時に、今日から新しい家族が加わるんだと母も晴子もそんな風に感じていた。

 夕刻、武雄青年が兄貴と慕っている剣持に引き合わせてくれる約束をもらっていたので、晴子に片想いしていると言う剣持がどんな男かすごく興味が湧き、自分でも驚くほど心がときめいていた。
 夕刻六時頃、山田が車で晴子を迎えに来た。例の運転手付きの黒塗りの社用車だ。その様子を周囲の商店の人たちが見ていたので、晴子は気が付いて軽く会釈をした。山田に店に入ってもらい、店内の様子を見てもらった。
「剣持様のお陰でここのとこ売上が増え大変助かっております」
 と挨拶した。中から父と母が出て来て、立ち話でもなんですからと座敷に招じ入れた。
「ではお茶だけで」
 と言って山田は初めて座敷に上がってくれた。父は土地、家屋のことについて大変お世話になりましたと深々と頭を下げた。
「今日はお嬢様の晴子さんと剣持と三人で晩飯でもと思ってお迎えに寄らせてもらいました。わざわざ電車で来て頂くのもなんだから」
「晴子さんにはこれからもたまにはこの老人に付き合ってもらってメシでも食いたいと思っているのでどうぞお許し下さい」
 などと山田は楽しそうに皆を見ていた。
 先ほどから、出された和菓子を口にした山田は、
「なかなか良く味が出てますなぁ」
 と満足げだった。和菓子はいんげんや小豆など素材の味がきちっと味わえるのが良いとされ、それを褒めたらしい。

 車は飯田橋から神楽坂に向かい、神楽坂の[富本]と言う料亭に乗り入れた。神楽坂界隈には和風の料亭がいくつかある。玄関を入ると女将が出迎えた。
「剣持様はもう見えてます。先生はお久しぶりですね」
 と中に通した。剣持は政財界人とのお付き合いで時々ここを使っている様子だった。建物の造りが京都の先斗町あたりの料亭風で一見の客には入りずらい店構えだ。
 落ち着いた所で、山田は剣持を晴子に紹介した。
「弥一君のお父さんは昔大阪の大手のデベロッパー星雲で関西の業界では知らない者がいない位腕の良い営業マンだったんだよ。まだ弥一君が生まれる前の話だがね。それに目を付けて僕が東京に引っ張ったんだ」
 山田は昔を懐かしむように続けた。
「それで彼と一緒にスター建設を立ち上げてね、これが大躍進して業界では成功の神様みたいな存在にまでなったんだよ。テレビのコマーシャルにも力を入れていたから、当時は有名だったなぁ」
「スター建設、あたし子供の頃CMを見た記憶があります」
「そうか、それ位名前が売れてたな」
「そんな時に弥一君が生まれ育ったんだよ。お姉さんがいたね。今どうなさってるかな」
 と剣持に話題を振った。
「元気です。結婚して四国の香川県に移り、田舎でのんびりと過ごしているようです。今は娘が二人居るようです」
 と剣持が説明した。
「弥一君の屋敷は田園調布にあってね、小学校と中学校は地元で、高校から名門のK義塾に進んだんだよ。そうだよな弥一君」
「はい」
「所がだ、弥一君が大学の卒業を目前にした時にバブルがはじけてスター建設は倒産して、それからは弥一君は地獄のような毎日だったらしいよ。そうだろ?」
「はい。地獄でした。でもそれで実力も付きました」
 と言って剣持は笑った。
「その苦労が元でご両親が亡くなられて、それで僕が今は父親代わりをしているんだ。亡くなられたお父さんにせめての恩返しだと思ってね」
「晴子さんはどちら?」
「私は苦労知らずです。学校は小学校から大学まで麻布の西洋英和でした。女ばかりの学校でしたから、男性とのお付き合いは全然なくて」

 しばらく三人は出された料理を箸でつついていた。ややあって、
「剣持様はどうしてあたしのことをお知りになられたのですか」
 晴子が一番聞きたかったことだ。
「実は亡くなった堀口君とは仕事で知り合ってから、友人としてお付き合いしてもらってました。僕より少し後輩だったから、弟みたいな気持ちでした。彼が不慮の事故に遭って、林さんにはお気の毒でした。晴子さんとお会いするのは今回が初めてですが、彼が生きていた頃、彼とご一緒の所を見かけたことが何度かあって、お綺麗で素的な女性だなぁと思っていました」
 晴子はまさかレイプの眼出し帽の男が剣持だなんて思いも寄らなかったから、剣持の説明で素直に納得した。

「剣持君は僕の息子みたいなものだ。晴子さんさえ良かったら、これから剣持君と時々逢って、彼の気持ちを受け止めてあげてくれると嬉しいね。晴子さんはまだ堀口君への想いが消えていないと思うが、剣持君は貴女の悲しみも知っているわけだから、あなたの気持ちも受け止める用意はできていると思うよ。そうだろ? 弥一君」
「はい。林さんの深い悲しみは十分分っております」
 晴子は、
「あたしでもよろしければ、よろしくお願いします」
 と答えていた。色々あったし、ついこの間お腹の中の赤ちゃんを独りで育てて行こうと決心はしたものの、これからずっと独りで生きて行くのは淋しい気持ちもあったので、目の前の剣持なら付き合って見て、良い方向に進むといいなとも思った。

 食事が終わった所で女将が挨拶に来た。剣持が、
「佐助を通してこちらに和菓子を入れさせて頂くことになりましたが、実は製造元は目黒の林菓房で、こちらは林さんのお嬢様です」
 と晴子を紹介した。
「あらっ、そうなの? 林さんの和菓子は評判が良くて、お土産に持ち帰りたいとおっしゃるお客様もおられるんですのよ。それにしても、剣持君は隅に置けないわねぇ。こんなお綺麗なお嬢様と」
 と言って女将は剣持をからかった。晴子は内心嬉しかった。父が作ったお菓子がこんな大層なお店で使われるなんて想像もしてなかったし、剣持の交友関係を改めて知らされたようだった。
 その日は晴子と剣持のお見合いみたいなものだったが、晴子の中には新しい希望が芽生えつつあった。

四十七 世の中の表と裏

「今度の話はかなり危険度が高いな。あんたのとこで引き受けられんかったら、はっきりと断るよ」
「やりようがあるんと違いますか? うちのやつらの話も聞いてみて、ようやらんようなら後で電話しますわ」
 Eグロ社長の山田とトレメンド・ソシエッタの神山が朝から打ち合わせをしていた。
「わしとしてはだ、剣持は外してやりたいんだが、今度の話に乗るなら、剣持と村上はメンバーから外せんなぁ。どうだろ?」
「社長の言う通りでっせ。あの二人を外しては考えられまへんわ」
 神山は八重洲口の事務所に帰って、社員と摺り合わせをやることにした。

 神山はいつもの調子で話し始めた。
「物事にはな、表と裏があるんや。世の中の出来事かて同じや。仮にだな、どこぞの女をレイプした場合や。現行犯なら警察もこんな簡単なことはあらへん。でもな、レイプされた後で、女が警察に届けたとするやろ? 誰にやられたか分からん場合や。レイプされて女が怪我でもしとればまだいい。女のあそこを引っかき回されてもや、傷が付いとらんかったら傷害罪にもならへん。強制強姦罪だけや。それかて、三年~二十年のブタバコ入りやが、ただやっただけなら五年もすれば出てきよる。やった奴が保釈金を五百も積んで出してもろうたとするやろ? 普通に考えたら警察はどうすると思う? 犯人を挙げるのに今日び一千万位は軽くかかるやろ。一千万かけて苦労して挙げたった野郎が五百で直ぐ放免や。これ税金の無駄遣いと違うか? そう考えても可笑しくはあらへん。表向きは届けがあれば捜査はせなならん。けどな、裏ではアホらしゅうてやってらんのと違うか? テレビや新聞で騒がれたらやらん訳にはいかんよなぁ。でもな、レイプされたと届けた女は大抵隠密に頼むと言うやろ。隠密なら犯人を挙げてもたいした手柄にもならへん。アホらしいわ。これが表と裏や」
 神山は続けた。
「携帯なんぞで金を貸す潜りのサラ金で仰山金借りて、返せないようになってもや、法定外の高利を取られたと届けて見い。警察は裏付け捜査をせなならん。携帯使っとるもぐりの野郎を捕まえるのは大変だわな。五百万も税金使ってや、ようやく逮捕したら、奴さん保釈金をたったの二十を積んで放免や。これなんかもアホらしゅうてやってられんよなぁ。あんたらは、よう知っとるけど、警察は人手が十分とは言えん。少ない予算でいつも苦労しとるわ。そんなん知っとったら、この話納得できるやろ。これも表と裏の話や」
神山はここで一息ついた。
「さてっとや、今日あんたらの意見を聞きたい新しい仕事の話や」
 神山は本題の話に入った。
「かりにや、普通に真面目に暮らしとる男をや、ある日突然訳も分からんのに逮捕したらどうなる? テレビや新聞で騒がれてもや、裏事情をオープンに出来なんだら、警察もマスコミに追い込まれるやろなぁ。逮捕状でもや、あること無いこと書き並べてうまいこと作らんと裁判所も出さんやろ? つまりや、事件が実際に起こるまでは、警察は何もできんと言うことや」
「わしの言うとる意味が分るか」
 神山は皆の顔を見渡した。
「あんたらはまだ覚えてると思うが、9.11にテロをやった奴らだ。あいつら大多数の犯人は十年間位ごく普通の人間として暮らしとった。警察は内定でそいつが怪しいと思ってもや、実際に何も犯罪を起こさなかったら逮捕はできんよなぁ。違うか? つまりや、今の法律では推測で警察を動かす訳には行かんのや」
神山はごくっと茶を飲んだ。
「そこでや、三年位前から日本に潜入しているテロリストがや、今は静かに普通の人間として平和に暮らしてるとしてや、その情報だけで逮捕して務所にぶち込めるか? できんやろ。でもな、そいつらが計画を決行したらどうなる? その時は手遅れや。表では何もない普通の人間が、裏でどでかい計画を着々と準備しててもや、具体的な証拠でもあらへんと、警察は何もできんのや」
「わしらはな、警察が表立って出来んことも、やりようによっちゃやれるんや。やったことが表に出んかぎりはや、警察も知らん顔しておれば済むんや。今日、明日の話やないから、改めて皆の意見を聞かせてや。今日はこれで終わりにしよ」
 そう言い終わると神山はトイレに立った。
 剣持は晴子に今度那須の乗馬クラブに案内したいと伝えていた。晴子はお腹の赤ちゃんに差障りがあるとは言えなくて返事を保留していた。そんな中、剣持に新たな仕事の話が湧き上がっていた。

四十八 小さな恋人たち

 武雄は林菓房の主人義晴を師匠と呼んで良く言うことを聞いた。和菓子屋は早朝の四時頃から仕込みを始める。武雄は言われた通り、朝三時過ぎにアパートを出て、やってきた。
 義晴はきちっと時間を守る武雄に好感を持った。作業場に入ると直ぐに、もち米を蒸篭(せいろう)で蒸して臼と杵は使わないが杵の部分が上下に動く餅つき機を使ってぺったんこ、ぺったんこと餅をつく。機械任せでなくて、手を添えて餅の様子を見ながらつくのだ。小豆、黒豆、白隠元(しろいんげん)、白花豆、白手亡豆、青えんどう豆などは素材を良く調べて石などの異物を弾いてから昨夜から水に漬けておいたものを蒸したり煮たり、目が回るほど忙しい。
 武雄はこんな仕事をよく師匠一人でやっていたものだと感心した。そればかりではない、水加減、砂糖や塩の加減など、覚えることが多くて、尻のポケットに突っ込んだ手帳がまたたく内にメモした文字で真っ黒になるほどだ。仕事が一区切りすると皆で揃って朝食となる。今までは朝抜きが当たり前の生活をしてきたが、ここでは朝を抜いたら腹ペコになってしまう。
 武雄は無口な方で、普段は黙々と仕事をしたが、お昼休みに、
「師匠、店番に友達を二人呼んでもいいっすか」
 と珍しく義晴に申し出た。
「店、いまお客さん来ると呼び鈴来るんだけど、作業を途中で止めるんで、できれば……」 義晴は少し考えて、
「いいよ」
 と答えた。ここのとこ妻の貴恵に負担がかかりすぎているのが気になっていたのだ。

 午後一番で店の方から、
「こんにちはぁ~」
 と明るい声がした。武雄が携帯で連絡したらすぐやってきたのだ。
 二人とも[梅花落葉松(からまつ)草]の可愛らしいピンクの小花とこの花の花言葉[小さな恋人]がぴったり合うような可愛い女の子だった。
 名前はお痩せの子がマキ、小麦色の肌の子がアイリだと自己紹介した。後でちゃんと履歴書を出せよと武雄が言うと二人とも素直に、
「はい、武さん」
 と答えた。
 貴恵がレジの使い方やラッピングなどについて説明すると、二人とも直ぐに理解して午後から店番を始めた。その日から、毎日九時半から夕方七時まで仕事をしてもらうことになった。武雄はオレが無理をお願いしたのだから、彼女たちの月給の半分は自分が払うと言ってきかなかった。義晴は折れて、そんな形で来てもらうことになったのだ。

 店番の二人は客の途切れた合間に携帯でバンバンとメールを送り始めた。すると三時を過ぎる頃には彼女達の友達の友達や友達の知り合い、中には友達の母親や姉妹と一緒に続々と店に現れた。それで店はとても賑やかになり、ショーケースの中の和菓子が売り切れてしまう物も続出した。あまりの賑わいに貴恵は驚いた。

 その日の店売りの売上は普段の日の倍位になって、貴恵は二度驚いた。それで、義晴はどうしても大入り袋を出したいと言い出して、二人に渡した。二人が帰る頃には林菓房に来た友達や知人からとても美味しいと言うメールが彼女たちに何通も届いた。
 この様子は近所の商店の人々に注目されて、商店会で話題になったようだ。

 山田と剣持に会った日、帰宅後晴子は父母に剣持のことについて報告した。
「そう、あの事件のことは良く覚えているわよ。負債総額が大きかったし、自殺されたので、毎日テレビで放送されていたから」
 と母の貴恵、
「縁とは分らんもんだなぁ、あの社長の息子さんが晴子とねぇ」
 と父。
 その夜、布団に入る前、晴子は母にお腹に赤ちゃんが出来たことを打ち明けた。
「伸さんの?」
「うん。そうみたい」
 それで、お腹の赤ちゃんは伸がくれた赤ちゃんだと言うことになった。
「来年の三月頃かな」
 母は、
「どうするの?」
 とか聞くかと思っていたが、何も聞かず、むしろ孫が出来るのを嬉しく思ったのか、快く聞いてくれて晴子はほっとした。
「お父さんにはあたしから話をしておくからね」
 と父へは母から話をしてくれることになった。

 翌日、晴子は剣持に那須へのお誘いにご一緒しますと返事をした。
「実は、誠に申上げ難いのですが、あたし、今お腹に赤ちゃんが出来てしまいまして、それで乗馬は無理かと思います。それでもよろしいでしょうか」
 と付け加えた。それで話は無かったことにしてくれと言われても仕方ないと覚悟を決めて返事をしたのだ。隠していても、ずっとお付き合いしてもらうなら、すぐ分ってしまうことだから、相手に悪い話は最初に言っておこうと決めて話をした。
「では、乗馬は一度ご覧になられるだけにして、近くを回って景色を楽しみましょう」
 剣持はそう答えた。
「仕事の都合ができまして、早い方が助かります。次の月曜日はいかがですか?」
 晴子のお休みの日を知っている様子で月曜日にしてくれた。
「はい、よろしくお願いします」
 それで予定が決まった。東京駅から新幹線で那須塩原に行って、そこからレンタカーでと剣持は提案してきた。晴子は最近新幹線なんて全然乗る機会がなかったので、なんか嬉しかった。那須塩原へは東京駅から一時間と少しで着くので九時に東京駅で待ち合わせることにした。久しぶりに、修学旅行に行くような気分だ。
 剣持は晴子のお腹に赤ちゃんが出来たと聞いて[間違いなく自分の子供だ]と分った。
 レイプした時、晴子はバージンであった。あんな清純な女性が、自分がレイプした後別の男と寝たなんて考えられないから、絶対にオレの子だと確信した。もちろん、そのことは一生晴子には伏せておくつもりだった。

四十九 初デート

 約束の月曜日、晴子はなぜか気持ちが弾んだ。久しぶりに新幹線で少し先まで旅する気分は晴子を元気にした。伸とまだ会う前の昨年末、憂さ晴らしに母と上越新幹線に乗って越後湯沢の温泉宿に出かけたが、新幹線は半年ぶりだ。少し早めに家を出て、目黒から山手線で東京駅に向かった。日帰り旅行だけれど、万一を考えて新しい下着を一揃えバッグの底に入れておいた。
 待ち合わせの東北新幹線の改札口近くに行くと、剣持は既に待っていてくれた。こんな場合は身勝手だが男性に先に来て待っていてくれた方がありがたい。来るのか来ないのか気を揉みながら待つのはごめんだ。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「早かったね。切符は買ってあるから入ろう」
 と言って切符をくれた。切符はグリーン車になっていた。改札口を通りホームに上がると、
「ビール? ジュース? それとも」
 と剣持は聞いた。
「あたし、熱いお茶をお願いします」
 晴子の希望を聞くと剣持はお茶を二本買って来た。レンタカーを借りる予定なのでアルコールにしなかったようだ。
 少しホームで待ったが、乗車する列車がホームに入ってきて、二人は列車に乗り込んだ。隣合わせの指定席で、晴子は少しドキドキした。剣持は口数が少なかったが、晴子の質問には丁寧に応えてくれた。剣持は学生時代の休みの日には大抵那須で過ごしたようだ。乗馬が好きだったようで、他にゴルフもよくやったとか。ゴルフ場は父の会社で持っていた所なので、いつもタダでプレイできたと話してくれた。メンバーによってはテニスも良くやったとか。晴子はスポーツはあまり得意じゃないと話した。花が好きで花屋に勤めているので、せっかく来たのだから山野草を見たいとお願いした。
「お昼の食事は何か食べたい物がありますか? 洋食でも和食でも良いですが、ステーキの美味しい店、蕎麦の美味しい店など色々あるよ」
 と剣持が聞いた。
「沢山は食べられないと思いますけど、ステーキがいいかな」
 と答えた。

 那須塩原駅を降りるとレンタカーを借りて二人は那須高原に向けて出発した。月曜日で道が空いていて、木々の緑が綺麗でとても気持ちの良いドライブだった。剣持は広々とした所で車を停めた。
「少し散歩をしませんか」
「はい」
 剣持は晴子に気を遣っている様子だ。広い牧草地を抜けて、潅木の木立の中の小道に入ると色々な山野草が綺麗に咲いていた。ふと見ると木漏れ日を受けて[雪笹]の白い花が静かに咲いていた。

 晴子は[雪笹]の花言葉が確か[汚れの無い]だったと思い出した。今日のデート、自分に汚れがなかったらどんなにいいかと晴子は思った。今の自分はレイプした男の子供がお腹の中にいるのだ。そう思うと晴子は剣持に申し訳ない気持ちになった。
 この時、剣持は晴子とは全く違う感情をもっていた。剣持は自分は晴子の人生の初めての男だと知っていたのだ。それで晴子を神聖な清純な天使のように想っていた。あの時以来、長い間晴子のことを片想いしていたが、今自分の隣で楽しそうに山野草を見ている晴子の横顔を見るとたまらなく幸せに感じていた。
「この人を大切にして、オレのひどい仕打ちで受けた彼女の心の傷を埋めてやろう」
 とそんな風に思った。

 車に戻ると直ぐ走り出して、少し先の桜と言う和牛ステーキ屋に入った。店に入ると初老の店長と顔が合った。
「お坊ちゃん、久しぶりですね。ずっとお元気でしたか」
 店長は、
「さ、さっ」
 と窓際の景色が良く見える席に案内してくれた。話を聞くと学生時代にK義塾のクラスメイトを大勢引き連れてこの店に良く来たのだそうだ。最近はたまに客を連れて来る程度だとか。
 ステーキは柔らかく肉もソースも美味しかった。先ほど散歩をしたせいか、思ったよりも量を食べられた。

 昼食を終わって一休みをしてから、黒磯の方に向かい、乗馬クラブに車を入れた。クラブの受付に行くと、ここでも、
「お坊ちゃん、久しぶりですね。ずっとお元気でしたか」
 と同じことを言われた。晴子はへーぇっと思った。剣持はこの界隈に来るとどこでもお坊ちゃん扱いかぁ。見かけはいいおっさんなのにちぐはぐな所が面白かった。多分昔贅沢をしていた時代の名残りなんだろう。
「少しの間ここで見ていて下さい」
 と言い残して剣持はクラブハウスの中に消えた。しばらくすると、乗馬ズボンにジャケット、帽子までビシッと決めた剣持がつかつかと晴子の前にやってきて、悪戯っぽい目をして、中世の騎士(ナイト)がお姫様に挨拶するような仕草で晴子にうやうやしく頭を下げた。
「アハハッ」
 晴子は思わずふきだしてしまった。

 剣持の乗馬姿は見応えがあった。背筋をきちんと伸ばしてとても格好が良く、馬術も上手だった。簡単な障害の飛び越えをやって見せてくれたが、服装といい、馬の手綱捌きといいなかなか決まっていた。ここに連れてこられて、こんな格好を見せられたら、大抵の女の子は彼に恋してしまうのではないかとさえ思った。兎に角、格好がいいのだ。それで、剣持が晴子を乗馬に誘ったわけが分ったように思った。

五十 悲しみを越えて

 夕方の六時頃、剣持と晴子は那須塩原から東京駅に戻った。二人はそこで別れた。帰宅すると母の貴恵は、
「どうだった」
 と尋ねた。
「楽しかったわよ」
「彼のことよ」
「ん。いい人みたい。身長は伸君より少し低くて180位なんだけど、身体がガッシリしてて、乗馬姿はとてもカッコ良かった」
「そう? 赤ちゃんのこと何か言わなかったの」
「それが、全然気にしてなかったみたい」
 母は一応安堵した様子だった。剣持は時おり冷徹な鋭い顔をするが、自分に顔を向けた時はとても優しく、包み込むような目で見てくれた。多分家が傾いた時、借金取りの中を潜り抜けている間に相当苦労してそれがそんな表情の原因なのかもと思った。

 辺りにはいつの間にか夏草が生い茂り、梅雨時の太陽の光が蒸し暑つかった。晴子は今日、神奈川県の田舎の堀口伸の墓参りに来た。空いたペットボトルに家から水道の水を持って来て、墓の前の香炉の上の花瓶(水鉢)の枯れた花を持参の新しい花、早咲きのコスモスに取り替えて、ペットボトルの水を満たした。余った水はお墓にかけた。
 コスモスの花言葉は[愛情]と[乙女の純潔]だ。晴子は伸に自分の愛情と乙女の純潔を捧げたいと思っていた。だが、運命に翻弄されて、今はどちらも捧げられない身となり、今も愛する伸に、ごめんねを言いに来たのだ。
「伸君、ごめんね。あたしお腹に赤ちゃんが出来ちゃったの。本当は伸君の赤ちゃんじゃないんだけど、あたし、伸君に頂いた赤ちゃんだと思って育てることにしたの。伸君本当にごめんね」
晴子は墓前に手を合わせて心の内を話し始めた。
「それと、ずっと一生伸君のくれた子供と二人きりで暮らそうと思ったんだけど、あたし、お婆ちゃんになるまでずっと女の幸せを知らずに、独りで居るなんて、淋しくて我慢できる自信がないの。それでね、先週新しい男の人とデートしちゃった。これから先どうなるのか、あたしには分らないけど」
 合掌する晴子の頬に、いつの間にか涙が溢れてこぼれ落ちた。
 虫の声に混ざって、
「僕の分まで幸せになれよ」
 と伸の声が聞こえたような気がした。
「伸君、許してね」
 晴子はしばらく泣いた後、バッグと空いたペットボトルを持って墓を後にした。

 晴子に、剣持からお茶しないかとメールが入った。それで花屋の仕事が終わってから、東京駅のデパートの中のティールームでお茶をした。剣持は先日の那須の感想を聞いた後、
「食事の時間なんだけど、今日は時間が取れなくてお茶でごめんな」
とすまなさそうな顔をした。
「いいえ、会えただけでいいですから」
 最近のデパートの婦人服などのフロアーには洒落た喫茶室がある。落ち着いて話をするには丁度良い。
「実は、しばらく会える機会がなくなりそうなんだ。晴子さんのことをほったらかしにする気はないんだけど分ってくれないかなぁ」
 剣持は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お仕事なら仕方がありませんわね」
 晴子は一応許すことにした。それで二人は別れた。

 神山は社員を集めてこの前話をした新しい仕事の続きだがと前置きして説明をしていた。
「今日リストがまわってきた。こいつはコピーできんからな、いつもの通り口頭だ」
 神山は続けた。
「全部で三十一人だ」
「そいつらを全部消すんですか」
「そうだ。いっぺんにはやらんで、日をかけて順に()るんや」
「全員テロリストですか」
「いや、妖しいのは十人位やな。行政官庁に散らばっとる。必要経費はたっぷり出るそうやから、金の心配は要らんがな、無駄はせんようにしてや」
 神山は茶をぐいっと飲んだ。
「おまえら知っとると思うがな、行政官庁と言うのはそこらの役所とちゃうぜ。お国がやりたいことを決めたり、公式にや、お国の考えを外部に示す権限を持っとる役所や。霞ヶ関のことや。司法官庁と行政官庁の二つに分かれておってな、内閣の偉いさんが直接指揮しとるお国の最高機関と言うわけよ」
 神山は続けた。
「テロリストと聞くとな、世間では直ぐ北朝鮮やとか、アルカイダとかタリバンとか言いよる。けどな、バックは誰でも気が付くとことは限らんのや。アルカイダと北朝鮮はバックになる力を持っとるけどな、タリバンは海外にまで組織力を広げる力は持っとらん。前に世の中の出来事は表と裏があると言うたな。このリストに上がっとる奴らのバックで一番可能性が高いのはどこだと思う?」
「今世界の国際的なテロリスト集団と言うとアルカイダか北朝鮮と違いますか」
「そうとも限らんのや。わしはな、バックはアメリカの可能性が一番高いと思うとるんや。CIAや。世間じゃまさかアメリカやと誰も思うとらんよな。そこが盲点や。今、北朝鮮は核爆発の実験を勝手にやりよって、世界中から非難されとるやろ。アメリカの大統領はなるべく穏便にこの問題を解決したいと思うとるやろ。けどな、軍部の一部はいっそのことイラクみたいに力でやっちゃえと思っとるんや。力でやるちゅうても、理由があらへんかったら出来んわなぁ。それでや、日本で同時多発テロをやらせるんや。やっといて、北朝鮮やと言うて、テロの実行を宣言するんや。そんなことあったら、誰でも北朝鮮の奴らがやったと簡単に信じるわなぁ。そこや、安保を利用して軍事的に報復するんや」
神山は皆の顔を見た。
「元々アメリカの回しもんやったら、北朝鮮はオレのとこは何もやっとらんと言うわな。そこでや、北朝鮮の組織と繋がってて今日本に潜入してる奴らを密かに支援したらどうなる? 北朝鮮から爆薬とかは持ち込めんわな。だが、日本の米軍が持っとる火力をそいつらに横流ししてやったらどうなる? わしの言うとること分るか? これはあくまで推測の話や。わしらに取ってはバックはなんでもかまへん。けどな、バックはいずれ調べなあかん。そやないと失敗するかも知れへんしな。具体的な計画はこれからや。みな一応考えといてや」

 神山の長い話は終わった。話の要点は現在北朝鮮から日本に潜入している工作員をアメリカのCIAが巧妙に爆薬などの物資や活動資金を支援して北朝鮮の工作員にCIAの代理テロをやらせる可能性について話をしたのだ。これなら北朝鮮がやったと言われても文句があるまいと言う話だ。

 林菓房の仕事は順調に捗っていた。店番の女の子も良く働いた。それで、武雄は自分と一緒に菓子作りをしたい男を一人雇って欲しいと義晴に相談した。義晴は今度もOKを出した。
 晴子は相変らず花屋の仕事を続けていた。お腹の赤ちゃんは順調に育っている様子だが、少し軽いつわりで悩まされていた。

五十一 明日への希望と家族

 広田祐樹(ゆうき)は岩手県の内陸の中心地、人口約三万人の遠野市の外れ、国道340号線沿いで、林業を営む広田守の長男として育った。
 広田守には娘が二人、息子が二人で祐樹の上は姉が二人、下は次男の弟だった。国道340号を小鳥瀬川にそって市内に向かって途中にある土淵小学校から土淵中学校に進み、バスで通学した。中学を卒業すると、市内の遠野緑峰高校に入学したが、勉強は好きではなく、高校を卒業するとすぐ東京に出て来た。
 遠野市内にもダイカストやレンズ工場など幾つかの企業があったが就職はしなかった。田舎の高卒で東京で大きな会社に就職するのは難しく、フリーターのようなアルバイトで食いつないだ。

 祐樹は身長166cmで身体は大きくなかったが、遠野の小中高ではもっぱら運動だけが得意だったから東京では主に肉体労働をすることが多かった。休日には渋谷で遊び仲間を探していたが、そこで楢崎武雄と知り合った。以来、武雄を自分の兄貴だと思って、武雄と知り合ってからは武雄と一緒に仕事をすることが多くなった。武雄が目黒の林菓房に就職して和菓子の職人として修行を始めたことは良く知っていた。先日、武雄に仕事はきついが面白いからオレと一緒に仕事をしないかと誘われて、林菓房に就職が決まった。子供の頃から運動の他に絵を書くのが好きだったため、和菓子造りは自分に合った仕事だと思った。

 林菓房に祐樹が入ってから店は四人になり、昼食は賑やかになった。そこでは武雄の仲間たちの噂話や渋谷界隈のイベントなどの話題が多くて晴子の父母は蚊帳の外だったけれど、やはり若い活力が漲っていてとても良い雰囲気だったので、父母は喜んでいた。今では父母も晴子も彼等は自分達の家族の一員だと感じていた。

 ある日突然林菓房に銀行の支店長と担当者が訪れた。林は家屋の差し押さえと競売の悪夢の記憶が消えてなかったので、一瞬身構えた。今は銀行から一銭も借り入れてなかったとは言え、また何か悪い話だろうと思った。それで、警戒しつつ応対した。
 所だが、銀行も昔とは随分変ってしまって、この前のひどい仕打ちをしておきながら、そのことは噯気(おくび)にも出さず、新たに金を借りて欲しいと言ってきたのだ。まったく現金なものだ。
 林菓房の最近の繁盛ぶりは商店街でも噂に上り、それを銀行が聞きつけて融資話を持ってきたようだ。
 林は最近作業場が手狭になり、ちゃんとした菓子工房として作業場を拡張したいと思っていたから心は動かされたが、あんな仕打ちは二度とごめんだと思って、あっさり断ってしまった。

 銀行が来たけれど、師匠があっさりと断り、銀行の支店長を帰してしまったが、作業場が手狭でこのままではいけないと思っていることを武雄は剣持に報告した。それを聞いた剣持は、
「オレが融資をしてやるから林さんと良く相談して拡張計画を持って来い」
 と武雄に前向きに検討するように指示をした。
 それで、武雄は師匠に相談して作業場を拡張する計画を立てることを自分に任せてもらうようにした。この話は武雄から晴子にも報告があった。
 晴子は知り合ったばかりの剣持に融資をお願いするなんて少し抵抗を感じたが、剣持と武雄の間のビジネスライクな話と考えて了解した。

 武雄は二級建築士の資格を取って中目黒の工務店で働いている仲間がいるから、そいつに計画を立てさせたいと師匠に話してOKをもらった。
 友達は三浦信二と言う名前だった。
 間もなく、三浦からディテール(建物の詳細図)が届いた。それを昼食が終わった後で晴子は勿論のこと、店番の女の子も入れて皆で話し合った。晴子は夢のあるとても素的なことだと思った。武雄は得意気に自分の考えを話し、師匠の林と晴子の同意を得るように頑張っていた。
 工事の見積もりは建物だけで二千万円弱で済みそうだったが、設備や什器の更新を考えて予算は三千万円とすることにした。
 話しが終わると店番の女の子が包装紙などもこの際新しくデザインをしてみてはどうかと提案した。確かに今使っている包装紙や箱は昔ながらのものであまりパッとしなかった。彼女達は仲間の中にデザインの専門学校を出て、紙工会社に就職してパッケージデザインをしているセンスの良い子が居るから、彼女に仕事を頼んでもいいかと言った。林はそれもOKを出した。彼女達の活躍で、来客が増え、店が活況になったので、林は彼女達の意見を取り入れて、彼女達を大切にして行きたいと思っていたのだ。それで、設備や什器の予算を節約してこの際、思い切って包装紙や箱などもイメージを一新することにした。
 林は根っからの職人で経営には不得手だったので、意外に経営センスを持っている武雄に頼る気持ちが出て来た。

 晴子の祖父と祖母は離れに住んでいたが、身の回りの世話は晴子の役目になっていた。晴子はお婆ちゃんっ子で育ったので、世話は嫌いではなかったが、最近は入浴時など手を貸すのに力が必要になりがちで困っていた。それで、思い切って武雄に力を貸して欲しいと頼んだ。武雄は快く引き受けてくれて、今ではお風呂へは武雄がひょいと軽々と抱きかかえて連れて行くようになった。祖母とは晴子が一緒に入浴したが、いつの間にか祖父は武雄が一緒に入浴してくれて、身体を洗ってくれて助かっていた。晴子は武雄に申し訳のない気持ちでいっぱいだったが、つい頼ってしまっていたのだ。
 武雄は菓子造りの仕事も熱心で和菓子造りのメモの書き込みで真っ黒になった手帳は今は四冊目にもなっていた。それに加えて祖父母の世話まで頼んだが、嫌な顔一つせずに良くやってくれていた。

 その後、晴子は何回か剣持にメールを入れたが返事がないので昨日電話を入れてみた。だが繋がらなかった。仕事が多忙になるとは聞いていたが、何故か晴子は不安な気持ちになっていた。それで、また山田龍一を訪ねてみようと思っていた。

五十二 それぞれの親孝行

 日曜日、林菓房の昼食は相変らず賑やかに終わった。晴子は花屋に午後から出る予定で午前中は皆の昼食作りに精を出した。
「晴子さんの料理、美味し~い」
 と店番のマキとアイリが晴子を見て褒めた。
「うめぇなあ」
 と祐樹も呟いた。晴子は頑張った甲斐があったと思った。祖父と祖母には別メニューだし、人数も増えたから結構手間がかかる。
 昼食が終わった所で、武雄と祐樹、マキとアイリが(あるじ)の義晴に向かって改まった顔で正座した。義晴も晴子も怪訝な顔で、
「ん?」
 と彼等の顔を見た。武雄が、
「今日、父の日なので、みんなで師匠にプレゼントを買ってきたんです」
「あたしたちも」
 とマキとアイリ。
「師匠には良くしてもらってるし、オレたちのオヤジ的存在だから」
 と祐樹が付け足した。

「何がいいか分らんかったですけど、デパートの人に聞いて、これはオレと祐樹からです」
 と言って酒を出した。休みの日に二人は日本橋のデパートに出かけた。デパートで買い物をするなんてめったにない二人だ。父の日と書かれた案内板を見て売り場をうろうろしていたら、女性の店員が目に留めて、一緒に相談に乗ってくれた。それで酒を選んだのだ。
 武雄も祐樹も今迄実家のオヤジには全然ご無沙汰で地元を飛び出してから電話の一つもしてなかった。だが、今は立派な和菓子店の社員にしてもらって、落ち着く場所が見付かり祐樹は毎月月給ももらえる身分になった。やはり気持ちが落ち着いてくると、親孝行にも目が向くものだ。
 武雄の父は漁業、祐樹の父は林業だ。それで二人で話し合って、今年流行(はやり)出したレインブーツを贈ることに決めた。作業用品のスーパーと比べると値段が高いのに驚いたが少し無理してHUNTERの長靴にした。その年は女性用のお洒落なレインブーツが一杯出ていたが、やっぱ実用的なのがオヤジには良いと思って丈夫そうなのにしたのだ。

 マキとアイリは途中からデパートで武雄たちに合流して、プレゼントを何にするか探し回った。それで、ガーゼ生地で出来た肌触りのよさそうな作務衣(さむえ)にした。
 二人とも、休日家の中で寝転がってテレビを見ている自分たちの父のことを想った。それで、マキとアイリは自分の父親にも同じ物を発送してもらうことにした。振り返って見ると、マキもアイリも今迄バイトを転々としていて、家に連絡をしてなかったし、今和菓子屋に就職できて、毎日楽しく働いていることも報告してなかったのだ。それでこれを機会に近況を報告することにして、それぞれ可愛らしい封筒に父親宛にメモを書いて、マキとアイリが並んで撮った写真と一緒に送ってもらうことにした。マキもアイリもやっと自分達の居場所ができて気持ちに余裕ができたようだ。

 晴子は武雄や祐樹、マキやアイリがこの家の家族のような気持ちになってくれているのが、すごく嬉しかった。父の義晴も母の貴恵も嬉しそうにしていた。それで自分も買っておいたプレゼントをこの場であげることにして、自分の部屋から小さな花束を持って来た。
 義晴に、
「あたしからはこれ」
 と言って元気を出してもらうために黄色い薔薇の[布花]の花束を差し出した。
 晴子はここのとこ色々心配をかけた母にも用意していた。母にはピンクの薔薇の花束にした。
「ついでにお母さんにも」
 と差し出すと、
「あらっ、今日は父の日でしょ? この前母の日にブラウスをもらったばかりなのに、悪いはねぇ」
 と言って受け取ってくれた。普段多忙な父母に生花を贈ったのでは水遣りとか大変だし、手間がかからずずっと飾ってもらえる布花にしたのだ。

 賑やかな昼食が終わって、それぞれの持ち場に戻った。林菓房の主人の義晴は今までにはなかった幸せを感じていた。
 不思議なもので、人が作り出す物にはその人の思いや心が自然に品物の仕上がりに出るのだ。特に和菓子のような手造りした製品にはそれが出易い。義晴や武雄、祐樹の最近の気持ちが知らないうちに製品に出て、まろやかな味と輝きを増しているように思えた。たかが和菓子といえども、悲しみやむしゃくしゃした気持ちで造ると作り手の気持ちが製品にも現れて不味いものができてしまうようだ。最近の林菓房の和菓子の良い評判はこんな所にも現れているように見えた。

 晴子は剣持の連絡を待ち続けて淋しい日々を送っていた。それでも、剣持からは何も連絡がなかった。
「彼、どうしちゃったのかしら」
 晴子の気持ちは釈然としなかった。
 それで、思い余って山田龍一に電話をした。
「林晴子です。ご多忙のことと思いますが、またお目にかかって頂けますでしょうか」
 山田は電話の向うでスケジュールのメモを繰っている様子だ。ややあって、
「明後日の夕方はどうだね」
 と返事がきた。
「はい、大丈夫です」
「では七時頃に貴女の所に迎えに行くよ。どっちかな」
 どうやら花屋と実家のどちらかと聞いているようだ。
「あっ、家の方にお願いします。いつもすみません」
「分った。では明後日に」
 と言って電話は切れた。

 山田はいつものように優しかった。
「貴女は牛シャブはどうかね」
「大丈夫です」
「分った、今半に行ってくれ」
 と運転手に指示した。今夜は人形町に連れていかれた。牛シャブは美味しかった。先日初めてのデートで那須に連れて行ってもらったことを報告した。
「そうか、彼は何も言ってなかったなぁ」
 晴子は最近剣持から何も連絡がなくて、とても心配だと訴えた。山田は、
「彼には今とても難しい仕事をしてもらっているから、仕事以外の連絡を遮断しているのだろう。仕事の山を越えたら必ず連絡をすると思うから心配は要らんよ」
「でも……」
「半年や一年何も連絡がなかったら、不安だろうが、彼は晴子さんを本当に大切な人だと思う気持ちを簡単に変えるような奴じゃないから」
 と山田は晴子の不安を慰めた。
 山田に送ってもらって帰宅してから、晴子は自分の部屋に閉じこもってしまった。
「あたしって、男の人に縁が遠いのかなぁ」
 考えれば考えるほど悲しくなった。こんなことなら会わなければ良かったとまで思い詰めていた。お腹に子供がいることも不安の原因かも知れなかった。

五十三 観音様(暗殺者)リスト

 剣持と村上が中心となって、テロリストのバックグランドの追跡調査をしてきた。
「思ったより根が深いねぇ」
 と村上。
「規模が大きいなぁ」
 と剣持。
 調査によると、テロリスト全体を指揮しているのは、暗殺者リストには出ていないが、外務省の高官であることが分かった。仕事の依頼先からの情報によると、高官は自分では動けないからテロの実行部隊を消してしまえば、今回の目的は達成されるものと考えているようだ。

 外務省には現在約五千人の職員がいるのだが、他に世界各国の大使館や領事館で働く現地採用職員が約六千人もいるのだ。彼等現地採用職員には、ちゃんとした法的な身分保障がなくて、各国にある大使館や領事館が勝手に採用したり首を切ったりするし、労働条件もバラバラらしい。そのため、現地採用職員の中には不満分子が結構いるようで、外務省に潜入しているテロリストは彼等と膨大なネットワークを作り上げていることが分かった。彼等の組織は全世界に及ぶのだ。彼等は全員れっきとしたスパイだ。

 そこで、剣持と村上は観音様リストのコードネーム[マチス]と[セザンヌ]から順に抹殺しようと言う計画を立てた
 コードネームとは、元々の意味は、ある特定のものとか人物を指すのに、自分達の仲間だけが判るように、ターゲットに付けた実名とは別の名前のことだ。秘匿(ひとく)名とか暗号名と言うこともあるのだ。コードネームは主にスパイによる擬装として使われている。

 国家公安委員会では、早くから外務省幹部の不法ネットワークによる情報通信を傍受して証拠を掴んでいた。だが、殺人者リストに上がっている各行政官庁の幹部は十年程前から、つまり大学受験あるいは在学中からある共通の目的をもって、多くの者はT大の法科か経済学部、或いは工学部から国家公務員第一種試験をパスして正式に中央官庁にキャリアとして入省、その後も品行方正、仕事熱心、周囲との人間関係は良好で、とてもじゃないが、逮捕状の申請などできるものではなかったし、外務省の通信を警察当局が傍受したなどが明らかになれば、警察に比べてはるかに強い権力を持つ外務省から(さか)ネジを巻かれて、警察庁幹部の首が飛ぶ始末になりかねない。外務省の対外通信は外交機密を保持する厚い壁で守られているのだ。

 テロリスト集団の情報網は外務省の多数の現地採用職員(非正規雇用職員)を介して、アルカイダをはじめ、北朝鮮、タリバン、ソマリア、インド、パキスタン、イラン、イスラエル、パレスチナ、シリア、イラク、東南アジア諸国、その他広範囲な地域の反体制分子と情報交換が行われていて、外務省のマチスとセザンヌとその上の高官は米国のCIA(中央情報局)、KCIA(韓国中央情報局)、旧KGB(旧ソ連国家保安委員会)の残党、インターポール(ICPO=国際刑事警察機構)、在日米軍などに居る仲間とも密接に繋がっていた。特にICPOには正規職員の採用の門戸が開かれているので、二名の仲間が正々堂々と潜入して幹部になっている他、在日米軍にも大勢の仲間が居るのだ。

 CIAは伝さんの推測通り、北朝鮮に米国の傀儡(かいらい)政権を樹立すべく過去に何度も画策してきたが手詰まりの状態で、米国軍部右派の圧力により、日本に潜入している北朝鮮の工作員を(あお)って、日本国内で同時多発テロを実行することを強く望んでいた。
 CIAの提案に乗れば、つまり、CIAが乗り出せば、テロリストは豊富な活動資金を得て、米軍の所有する武器弾薬をも手にすることが可能と思われた。
 かって、国際テロリスト集団アルカイダの幹部が[我々はいつ何時でも日本で同時多発テロを実行する用意ができている]と声明を発し、テレビで報道されたが、剣持と村上は日本に居るテロリスト集団の実像を把握して、[アルカイダは実行する力を持っている]と確信した。

「今回はバックがとてつもなくでかいから、相当慎重に殺らないと、こっちが逆にやられるぜ」
「問題は死体の始末だな。一人や二人ならやりようがあるが、当面◎印の十一人を全部消すとなると、死体の始末も大変だな」
 剣持と村上は実行方法をもう少し綿密に検討することにした。

 剣持は晴子のことが気になっていた。早く会って、自分の晴子への想いを伝えたいと思っていたが、こんな状態で、余計なことで外部と接触するといつ糸を手繰られるか分らないので、トレメンド・ソシエッタの組織を守るために、晴子との連絡を一切行わないことにしていた。気ばかりあせるが仕方が無いと諦めていた。先日、武雄から三千万円を貸してくれと連絡を受けたが、その件は既に武雄に現金で手渡して、自由に役立ててくれと頼んでおいた。剣持が現在個人で管理している資金量から三千万円ははした金だったのだ。それで、形は貸したことになっているが、戻らなくとも良い金だと思っていた。

 林菓房では、新しい工場建設の計画が着々と進んでいた。武雄の仲間の建築士三浦信二が持って来た案はなかなか良くできていた。聞くと中目黒の工務店の社長は女性で、若い頃、銀座の和菓子店で仕事をした経験があるそうで、相当細かいチェックをしてくれたそうだ。
「そうか、それでかぁ」
 と晴子も納得した。社長は古谷真由美と言う名前だそうで、今度こちらに伺いますと伝えるように頼まれて来たとか。

 武雄は最近品川の大崎にある、労働基準監督署にでかけて、厚生年金、雇用保険、労災保険など社会保険の手続きや労働条件などについて詳しく指導をしてもらってきた。店番の女の子や祐樹は自分と違って月給取りだから、社会保険もきちっと加入するべきだと思ったのだ。続いて税務署にも出向いて源泉徴収や年末調整について詳しく指導をしてもらってきた。
 師匠の林義晴は職人でそんなことには全然気が回っていないので、武雄は晴子と相談して、自分が師匠に代わって手続きを進めることにしたのだ。
 晴子は学校にいる頃[落ちこぼれ]と後ろ指を指されたと言う武雄の話しがとても信じられない位武雄はしっかりしていて頼り甲斐がある人だと感じていた。
 学校の成績だけで人を見てはいけないと学生時代に教授に言われたことを覚えているが、今の武雄を見て、確かにその意見は正しいと思った。

五十四 心の和(やす)らぎ

 林菓房の増築工事はいよいよ始まった。手狭な作業場が益々狭くなり不便だったが、和菓子の製造を止めずに工事を進めてもらうことにした。
 包装紙やパッケージのデザイン案も出て来た。皆で集まってこれがいい、あれがいいと意見を出し合うのがすごく楽しいなぁと晴子は感じていた。
 マキとアイリの友達のパッケージデザイナー小川奈津江は武雄の仲間でもあり、奈津江を囲んで二時間も議論をした。奈津江はお饅頭や大福を包むものは本物の竹皮を絶対に使ってくれと主張し、コストは少しかかるが皆は了解した。父の義晴と母の貴恵は若い者たちの議論を聞いていたが何も言わずに任せているようだった。
 パッケージのデザインの大筋が決まり、皆は仕事の持ち場に戻った。散会間際に、珍しく武雄が晴子に、
「ちょっといいっすか?」
 と呼び止めた。
「えっ、あたしに?」
 晴子が顔を向けると、武雄はちょっとためらうように、
「はい」
 と言った。
「晴子さん、最近造る量が増えて、小豆とか黒豆、白隠元なんかの仕入れが増えてバカになんないっす」
「そうよね」
「それで、オレ考えたんですが、この際、産直を考えたらどうかと思うんです」
「あら、いいわね。あたしも賛成よ」
「それでなんですが、一度産地の北海道に行ってみませんか」
 晴子は武雄の意外な提案に驚いた。確かに、生産者から直接仕入れるのに越したことはないのだが出張させてくれとは予想してなかった。それも話し方だと自分も一緒に行ってくれと受け取れた。
「あたしも行くの」
「はい、オレとしてはお嬢さん、あっ、晴子さんが一緒に行ってくれると強いっす」
「いつ?」
「出来れば早い方がいいっす」
 晴子は少し考えてから、
「じゃ、あたしでよければついて行ってあげるわよ」
 とOKを出した。それで武雄は師匠に申し出た。林義晴は勿論OKを出した。
「いつ出るんだ?」
「これから晴子さんと相談して決めます」
「そうか、分った」
 それで、晴子と武雄の北海道行きが決まった。
 その夜、晴子と武雄は北海道の地図を広げてどこを回るか話し合った。
 黒豆の産地は京都の丹波なので、これは後で考えるとして、今回は小豆、白隠元など北海道で採れる原料に絞って、いくつかの農園を回って交渉して見ることにした。
 晴子は[カリブラコア (Calibrachoa)]の花言葉[あなたといると、心が(やす)らぎます]と言うのを思い出して、今の武雄が自分にとってそんな存在になりつつあるのだと感じていた。
 北海道は三泊四日の予定で、内陸部の農園を回る予定だ。出発は七月早々にして、往きは千歳まで飛んで、その後はレンタカーで走り回り、帰りは釧路空港から戻ることに決めた。仕事なので、観光旅行と違って農園を中心に田舎道を飛ばすことになりそうだが、晴子は北海道は学生時代に行っただけだったので、ワクワクしていた。それに、最近頼り甲斐が増した武雄と一緒なので、心強かった。

 何かを待つ女にとって、時計の針は残酷なものだ。時よ止まれと思っても、時計の針はどんどん先に進むのだ。
 剣持からの連絡を今日か明日かと待つ晴子にとっても、時は残酷に過ぎ去って行くのだ。そう言えば昨年も恋慕う堀口伸の面影を待ち続けて毎日虚しく時が過ぎ去って行くのを経験した。
 今は若々しいこの肌も、時計の針の進みと共にどんどんと老いて行くのだ。女にとって時計の針とは実に残酷なものだ。

 剣持と村上は計画を練り上げて、マチスとセザンヌの内定を始めた。内定は四組に分かれてそれぞれに二組、合計八人が当たった。
 一週間経ち、二週間経っても彼等は毎日同じ時刻に家を出て、仕事を終わると寄り道せず真直ぐに帰宅し、帰宅後も変わったことがなかった。たまに仲間と退社時に飲み屋に行くことはあっても、変わった者と接触することは一度もなかった。二名で一組の編成で、二組の内片方は直接ターゲットのマチスかセザンヌを監視し、残りはターゲットを監視している仲間に接近する者がいないかを監視するのだ。

 一般的な探偵とか刑事の尾行と違って、彼等は必ずバックアップをする者とペアで行動するのを常識にしていた。以前女優Mを護送した時もこのバックアップがなかったら、芸能記者にベタベタと週刊誌や新聞に報道されてとんでもない大失敗に終わっていただろう。
 S女史の場合も始末後に現場をうろつく堀口を突き止めた。テロリストのような奴等は用心深く、接近する者がいないか必ず別の者が監視するのが常識であった。もしもトレメンド・ソシエッタの者がターゲットに接近すれば、ターゲットのバックアップをする者が必ず接触後に接近者を消しにかかるのだ。それで、剣持と村上の計画ではターゲットの監視よりもターゲットのバックアップの監視に力を入れることになっており、バックアップが発見されたら、ターゲットに接触する前にテロリストのバックアップを先に消すことになっていた。
 だから剣持たちの内定作業は刑事の張り込みよりも厳しい作業であった。

五十五 北海道へ出張

 晴子と武雄は北海道の地図を広げて、どこをどんな経路で回るか具体的に相談した。翌日も仕事が終わった後に二人はお茶を飲みながら前日の続きの打ち合わせをした。
 調べてみると、豆類の作付けはやはり十勝平野が一番多い。けれども詳しく調べると札幌と旭川の中間の地域や旭川からかなり北に上った地域にも生産農家があることが分った。
 林菓房のパンフレットを十枚ほどと、武雄は自分の名刺も用意した。晴子の名刺はなかったので手配をしておいたら間に合った。刷りたての名刺を見て、
「武雄君、気がきくわね」
 と晴子は自分の名刺をしげしげと見た。武雄は他にこの三ヶ月間の豆類の仕入れ数量を書きとめたメモも用意した。
「晴子さん、ビジネスホテルにシングル二つを予約しますけど」
「そうね、出張だからビジネスホテルでいいわね。ツインを一部屋にしたらどう? その方がホテル代安くならない」
「それってまずいっすよ」
「あら、どうして? 武雄君は家族みたいなものじゃない。遠慮しなくてもいいわよ」
「晴子さんがそれでいいなら、オレはかまわんです」
「じゃシングル二つでなくてツインを一つにして下さらない」
「んじゃ、そうしときます」
 後は二人で出発するばかりとなった。航空券やレンタカー、ホテルの予約は武雄の仲間の旅行会社に勤める女の子に頼んでおいたのが届いていた。

 翌朝、
「準備はバッチリです」
 と武雄が顔をだした。初めて武雄が訪ねて来た時は背広が似合ってなくて、晴子は思わず笑い出してしまったが、今日の武雄は背広が似合って見えた。ここのとこ、商社や顧客の応対には背広姿だったので、いつの間にか身に付いたようだ。
 早朝羽田を飛び立って、千歳でレンタカーを借りて高速を飛ばした。晴子は運転はできるが、武雄が全てやってくれた。旭川に向かう途中、札幌の先の奈井江町に寄った。地元の町役場を訪ねて趣旨を話して二軒の農家を紹介してもらった。訪ねて見ると二軒共好意的だったが、このあたりは豆類よりもハウス栽培の野菜や花の栽培に力を入れている様子だった。検討してからお願いするようであれば、後日改めてお願いをしますと言い置いて奈井江町を後にして旭川へ向かって飛ばした。
 北海道は地図で見ると近くに見えても実際に走ると随分距離があり、移動時間がかかった。旭川に着くと直ぐ予約しておいたビジネスホテルにチェックインした。久しぶりの長距離旅行だったので、街に出て夕食を済ますとホテルに戻り早めに寝た。武雄は疲れたせいか、まもなく心地良さそうに眠ってしまった。晴子はそっと武雄の寝顔をみて可愛らしいと思った。

 北海道は梅雨がないので、この季節は好天が続く。朝、ホテルのバイキングで朝食を済ますと、北の稚内を目指して飛ばした。旭川より稚内に近い中川町に入ると町役場を訪ね、生産農家を一軒紹介してもらった。
 旭川よりもずっと北にあり、この町の農家の作付け面積を見ると蕎麦に続いて小豆がダントツに多い。桁違いに多いのは牧草だが、小豆の栽培に力を入れていることがうかがえた。寒い地方なので、作物の種類が限られるのかも知れない。農家を訪ねるととても積極的に応対してくれた。
 小豆は十勝産であれば品質は武雄も分っていたが、ここで栽培されたものがはたしてどうか分らない。そのことを正直に伝えてサンプルを分けて欲しいと言うと5kgほど入った袋を持ってきて、代金は要りませんからよく調べて下さいと言われた。
「寒波が強い年、凶作になったりしませんか」
「そんな年は確かにあります。ただ、林様への供給量はこちらから見ると少量なので、安定供給には責任を持ちます」
 先方は自信を持っている様子だった。

 中川町で用を済ませて旭川に向けて飛ばした。通る車が少なく、一般道を70km近くで飛ばしたが、後から追いついて軽々と追い越して行く奴がいる。皆良く飛ばすので驚いたが、武雄は70以上は出さなかった。とにかくメッチャ距離がある。旭川に近付いてきた所で、
「武雄さん、せっかく旭川まできたんだから、旭山動物園に寄ってもいいかしら」
 晴子はちょっとだけでも寄りたい様子だった。
「ダメです!」
 武雄はキッパリと言い切った。晴子はガッカリしたが、公私をちゃんと分けて行動する武雄に好感も覚えた。最近の武雄は勉強嫌いだった高卒の男とはとても思えないほどビジネスマンとしての風格が出てきたようだ。
 旭川を素通りして、層雲峡温泉のホテルに辿り着いた時は夜になっていた。遅い夕食を済ますと二人は温泉に入って疲れを取った。
 晴子は独りで婦人用の露天風呂に入った。平日で空いていて、露天風呂は晴子だけだった。晴子は誰もいないことを確かめてから、両手両足を伸ばして開き、大の字になって浮かんでいた。空気が澄み切って、満天の星空に輝くキラキラ星が随分近くに見えた。ぼんやりしながら、自分のこれからの行く末を考えると何故か不安な気持ちになっていた。
 部屋に戻ると、武雄はすやすやと小さな寝息を立てて眠っていた。一日に相当の長距離を飛ばしたので、神経が疲れたのであろう。晴子は不意に武雄の鼻を摘んで悪戯してやりたい衝動を抑えて、自分もベッドに潜り込んだ。

 早朝層雲峡を出て、国道39号を途中で折れて帯広に向かった。山道を通ったが、道は良く整備されていて、景色が綺麗で快適だった。武雄は夕べぐっすりと眠ったせいか、清々しい顔で運転していた。
 その日一日で四箇所はとても回り切れないので、鹿追町の農家を訪ね、続いて中札内村役場で紹介された農家を訪ねた。鹿追町の農家は産直に慣れている様子で、小口の林菓房への対応は横柄だった。武雄は腹も立てずに用件をきちっと伝える努力をしている様子だった。鹿追町の農家に比べて、中札内村の農家は役場の紹介のせいか丁寧で、昼食はこれからだと言うと、
「このあたりでは飲食店が少ないから」
 とお昼をご馳走してくれた。
 用を済ますと帯広の市内のビジネスホテルにチェックインした。今夜は最後の宿泊になる。毎日強行軍でスケジュールをこなしたので、あっと言う間に日が過ぎてしまった。部屋は狭かったが、清潔で、感じは悪くなかった。
 晴子がシャワーを使っている間、武雄はロビーで新聞を読み、缶ビールを飲んでいた。晴子の知らせで、武雄がシャワーを済ますと、二人はホテルのレストランでゆっくりと食事をした。美味しそうにワインを飲む晴子の顔を、武雄は眩しそうに見ていた。晴子は武雄のそんな視線を感じて少しだけ幸せな気持ちになった。落ち着いていて静かな雰囲気がそんな風に感じさせたのかも知れない。

 部屋に戻ると晴子はなぜか武雄の気持ちを聞いてみたくなった。
「武雄君、あたしのことどう思う?」
「素的なお嬢様です。綺麗だし」
「そう言うんじゃなくて、女として」
 晴子は少し顔がほてるのを感じていた。
「オレ、晴子さんのような女性に憧れてます」
「あら、あなたの周りには若い女性が沢山いるでしょ?」
「いますけど、晴子さんのように品のあるやつはいないっす」
 武雄はだいぶテレている様子だ。
「オレの仲間は皆勉強嫌いで落ちこぼれとか不良だとか言われてきたやつばっかですから、晴子さんのようなやつはいないっす」
「武雄君のこと好きな人もいるでしょ」
「いますよ」
「武雄君の彼女はいるの?」
「いません。オレが手を出せば落ちる女の子は何人かいますけど、オレは手を出したことは一度もないっす」
「ほんと?」
「仲間の内のだれかと特別に親しくなれば、仲間意識にぜったいヒビが入ると思うんです。女の子って鋭いとこあるから」
「へーぇっ? そうなんだ」
 晴子は意外に思った。武雄の感じだと好きになる女の子がいっぱいいても不思議ではないのに、そんなに清潔だとは全然思ってもいなかったのだ。
 晴子はこんな話をしている内に、蓋をしていた女の欲望が湧いてきて抑えきれなくなってしまった。
「武雄君、あたしを抱いて……」
 晴子の声は小さくかすれていた。
「オレがですか? オレ、年下だし、学もないっすから。似合わないっす」
「いいの」
 晴子の乳首が着ている薄手のガウンの内から尖って見えた。晴子が武雄に身を預けると二人はベッドの上に倒れこんだ。武雄の男のそこも、もうパンパンになっていた。晴子が武雄にバストを押し付けると、武雄はそっと晴子に抗った。
「晴子さん、オレ、我慢できなくなります。兄貴が晴子さんのこと、片想いしてるって言ってましたから、オレ、兄貴を裏切れないっす」
 兄貴とは勿論剣持のことだ。
 思わぬ武雄の拒絶に遭って、晴子はどうして良いのか分からなくなった。
「今夜のこと、オレ、忘れます。晴子さん、悪く思わないで下さい」
 武雄のフォローで晴子は助かった。
「あたし、武雄君のこと、好きになったみたい。でも武雄君の気持ち分ったから、いままで通りにしてね」
 二人はお互いに見つめあった後、それぞれのベッドに戻って眠った。
 厳密に言えば、晴子も武雄も明け方まで寝付けなかったのだ。

 翌日幕別町と更別町の農家を回り予定の訪問と調査は全て終わった。
 二人は昨夜のことがなかったかのように、仕事をこなした。
 少し時間に余裕ができたので、釧路湿原を回って釧路空港に向かった。
 フライトは最終の二十時二十分出発で、二十二時には羽田に着く。
 羽田に降り立つと、そのまま目黒に直行した。
「ただいまっ」
 晴子と武雄の元気な顔を見て、晴子の父母は安堵した様子だ。これで北海道の出張は終わった。

五十六 トラブル

 お昼ご飯で皆が集まった所で、北海道の出張報告をした。全部で六箇所産地を回り、十軒の農家と交渉した経過を武雄が話した。祐樹は黙って聞いていたが、店番のマキとアイリは北海道は絶対に行きたいとこだからと言って良かった景色とか美味しい食べ物などを質問した。
「アホか、オレたち仕事だよ。遊んでるヒマなんてねーよ、ねっ晴子さん」
 と武雄は晴子の同意を促した。
「そうよ、あたし旭山動物園に寄りたかったんだけど武雄君がダメッの一言で却下」
 と笑った。
「そうなんだぁ。せっかくそこまで行ったんだから、フツーは寄るよね」
 とマキとアイリが晴子の肩を持った。
 結論は、もらってきた中川町のサンプルで餡子を作って皆で試食して評価が出るまで持ち越しとなった。それで、午後から早速テストに取り掛かることにした。

 お昼が終わって皆それぞれの持ち場に戻ったが、店で電話を取ったマキが、
「なんかお客様らしいんですが、言ってる内容が良く分からなくて」
 と電話を晴子に回した。
「はい、お電話代わりました。林菓房です」
「えっ? それは大変です。申し訳ありません。早速担当の者とそちらにお伺いさせて頂きます。大変ご迷惑をおかけしました」
 電話は顧客からの苦情だった。なんでも、この二、三日急に味が変わったとお客様から指摘をされて、それでそちらへ連絡をしたと言う内容だった。晴子は電話の内容を直ぐ作業場の父母と武雄に伝えた。
 同じ内容の苦情の電話は他の顧客からもあり、合計三件の苦情があった。
 それで、武雄と晴子が一緒にお客様回りをして不具合品の回収をすることになり、慌しく出かけた。
 どの顧客にも厳しく叱られて、武雄も晴子も平身低頭謝るばかりしか手がなかった。幸い不具合品のサンプルを少しだが回収できた。他は顧客からエンドユーザーであるお客様に売ってしまったり、食べて頂いた後だった。
 持ち帰ったサンプルを前にして、皆で今日出来上がった物と味比べをした。
「あれっ、回収したの、餡子の塩が効き過ぎてる」
 マキとアイリが真っ先に指摘した。晴子と武雄、それに師匠の義晴も同じように感じた。母は首をかしげ、祐樹は違いが良く分からないと言う顔をしていた。

 武雄は、自分が北海道に出かけている間、祐樹に仕事を任せたが、砂糖と塩の配分のデータがどうだったかと祐樹に尋ねた。
 祐樹は武雄が頼んでおいたのに記録を取っていなかった。
「祐樹、ダメじゃん。オレ、行く前に頼んだぜ」
「すみません。兄貴が留守でメッチャ忙しくて忘れました」
「分量、覚えてるか?」
「はい。確か砂糖×××、塩×の割合です」
「小豆の方は?」
「計量の数字を覚えてません」
 餡子を造る時の砂糖や塩のさじ加減はすごく大切だと師匠から教えられて、武雄はメモをとり、作業の前に必ず見る習慣を身に着けていた。祐樹にも自分だけのマイメモ帳を作ってその都度参考にしろと何度も教えたが、忙しいとすぐサボるくせがあった。それで、祐樹が作った物は師匠か武雄が必ず味見をして確かめるのが常だった。だが、武雄の出張中は武雄のいない分多忙になり、こともあろうか師匠も味見をしなかったようだ。

 武雄は反省した。それで祐樹にはもっと厳しく指導をすることにした。だが、祐樹も悪いが師匠の方がもっと悪いと思ったので、祐樹を叱らなかった。そのことは晴子に話して同意を得ていた。
 顧客へは弁解のしようもない基本的なミスだが、正直に話をして客の希望を全面的に受け入れることにした。
 一軒の顧客は厳しかった。お茶会で全員に謝れと言うのだ。晴子と武雄は同意した。もちろん頭を下げるだけではすまない。それで、相当の出費になるが全員分おみやげを用意して謝礼として差し上げることにした。

「晴子さん、転んでもタダじゃ起きねぇって言いますよね」
「あら、そんな(ことわざ)、よく知ってるわね」
「それでなんですが、謝礼の菓子折り、けちけちしねぇで、うちの代表的な和菓子を全部試食してもらうつもりで出したいんだけど」
「この際、謝る顔をして広告宣伝をしちゃえってこと?」
「そうです。カタログや値段表とかこの前印刷した製品の謂れを書いたパンフとかも入れて。茶会に来るお客様って和菓子が好きな人が多いから、いろいろPRしたら将来売上に結び付くと思うし、流石、老舗の林菓房と言わせてみたいんです」
 晴子は武雄の提案に同意して、父を説得した。義晴は最近武雄と晴子が馬が合うと言うか仲良くやってくれるのが嬉しかった。そのためすぐに同意してくれた。

 祐樹は帰宅して今日の出来事が全部自分の責任だと思い、すごく落ち込んでいた。それで、明日師匠と兄貴に退職したいと言おうと思った。

五十七 切なる願い・そして感激

 お弟子さんが百人も集まるカルチャースクールの茶会に、晴子と武雄は謝礼の菓子折りを持ってでかけた。
 晴子は珍しく訪問着を着た。晴子の和服姿は、武雄、祐樹、それにマキとアイリのみんながため息をつくほど美しかった。
「きれいっ」
 とマキ、
「あたしも着てみたい」
 とアイリ。
「アイリが着ても晴子さんには勝てねーよ」
 と祐樹がアイリを茶化した。
 茶道の家元を訪ねると、家元は目の前の晴子の姿を見て、おっと驚く目をした。晴子がこの家元を訪ねるのは初めてだ。二人は家元に挨拶を済ますと、家元と一緒に茶会で大勢が集まる部屋に入った。最初に持参の菓子折りを晴子と武雄が手分けして、会場の一人一人に会釈して配った後に家元の脇の少し下がった座に就いた。家元は今回のことの顛末をお弟子さん達に簡単に説明して晴子に挨拶を促した。

 晴子が挨拶をしようとするのを武雄が制して武雄が挨拶を始めた。
「私、林菓房の菓子職人の楢崎と申します。この度は、日頃ご賞味頂いております私どものお菓子の味が、いつもと違うと、ここにおられます大先生の家元さまからご指摘され叱られました。早速調べさせて頂きました所家元さまのご指摘通り、私共の製造工程で塩加減がほんの少し違っていたことが分りました。家元さまは茶道では大変厳しくご指導されていると伺っておりますが、流石の家元さま、和菓子の味のこまやかな所にまでちゃんと目を通されておられることに私共は改めて家元さまの厳しいお姿に感銘を受けました。和菓子の老舗、林菓房の職人と致しましては、このようなご指摘を受けましたことを大変恥ずかしく思っております。私ども菓子職人はこちらにおられます大先生に見捨てられてしまったら、この先、生きて行けません」
 晴子は[そこまで言うか]と思ったが黙っていた。
「家元さまにはこれからも可愛がって頂きたく、この度家元さまのお顔に泥を塗るようなことをしてしまいましたので、家元さまへのお詫びとお弟子様の皆様へのお詫びと致しまして、林菓房が真心を込めて作りました代表的な和菓子を一揃え差し上げることに致しました。どうかお手元にお届け致しました私どもの気持ちをお持ち帰り頂き、ご家族あるいはお知り合いの方々と改めてご賞味頂ければと思います」
 武雄はそこで一息ついた。
「家元さま、この度は大変ご迷惑をおかけしました。どうかお許し頂きたくよろしくお願い申し上げます。お集まりの皆様にも大変失礼を致しました。どうぞこれからも私どもの和菓子をご賞味下さいますようお願い申し上げます。申し遅れましたが、こちらは当林菓房のお嬢様です」
 と言い終わって、晴子と武雄は深々と頭を下げた。

 謝礼の挨拶を済ませてから、ややあって、こともあろうか隣に座っている家元が軽く拍手をした。すると、その拍手がきっかけとなり、満場の大拍手が沸き起こり、しばらく鳴り止まなかった。満足げな家元が晴子に顔を向けて微笑んでいた。晴子は感激してあっけにとられて武雄の顔を伺った。それに、茶会に集まった大勢のお弟子さんたちのイメージが、かすみ草の仲間の[ジプソフィラ・ジプシー・デープ・ローズ]のイメージに重なって見えた。
 晴子の感激とは違って、武雄は涼しい顔をして、拍手をするお弟子さんたちを見回して軽く会釈をしていたのだ。
 挨拶を済ませて、家元に改めて頭を下げた後、晴子と武雄は茶会を後にした。武雄はいつも頼りない口のききかたをするのに、今日の挨拶は改めて見直す位言葉使いもしっかりとしていた。多分自宅で何回も練習をしてきたのだと晴子は思った。北海道でも驚かされたが、態度もなかなかのものだった。

 帰り道、武雄は車の運転をしながら晴子につぶやいた。
「オレ、中学も高校も札付きのワルだったからさぁ、教頭とか校長とかにいつもいびられていたんだ。ああ言う人種はさぁ、自分の沽券とか威厳にすげぇ拘るんだよ。決まって私の立場も考えてくれとかさ、オレああ言う人種が何考えてんのか分るんだよなぁ」
 晴子は何を言い出すのかと思った。
「今日会った家元もさ、同じ人種だと思ったんだ。味が変わったのは確かにオレたちの超ミスだけどさ、なんであっこまでやらせるんだろうと考えるとさ、ははぁーん、自分の顔が潰されたとかそんなことに拘るケチなやろうだと思ったんだ。それでさ、オレ、作戦を考えたんだ。今回はトコトン家元を持ち上げて沽券とやらをくすぐってやれば、案外簡単に家元は落ち着くんじゃねぇかと思ったんだ」
 確かに、武雄の狙いは的中していた。晴子は武雄がそこまで考えて話をしたとは知らず、[そこまで言うかよ]と感じた自分に恥じた。

「余計なことかも知んねぇけど、あの家元、きっと晴子さんに絶対なんか言ってくるよ。オレ、そう思うんだ。もし、ヤバイことがあれば、オレ晴子さんを守るから安心してていいよ」
 晴子は武雄の話の意味が良く分からなかった。
 店に戻ると、義晴と武雄を前にして祐樹が改まった顔で、
「オレ、明日から辞めさせて下さい」
 と唐突に切り出した。義晴は驚いた。
「祐樹、おまえ責任感じてんなら、仕事して返せ」
 と武雄が厳しい声で祐樹をどやしつけた。
「でも、オレ」
「でも、なんだよ。これくらいのことで落ち込んでどうするよっ」
 武雄は引かなかった。それで祐樹は、
「じゃ、兄貴の言う通りにします」
 と折れた。義晴が、
「まあまあ、そう気にせんでいいよ。今日は家元は許してくれたようだし」
 とフォローしてくれて、一件落着した。

 翌日、武雄の話が的中した。家元から電話があって、お嬢様とお話しがしたいと言ってきた。今外出中だと言うと、では夜にでももう一度電話をしますと家元は言った。晴子が帰宅後、再度家元から電話が来た。用件はご都合のよろしい時に一度ご一緒に食事でもしたいと言う話だった。晴子は大切なお客様なので、誘いを受けることにして日程の調整をした。
 新宿のKホテルのレストランに誘われて、晴子は先日会った家元と食事をしていた。武雄は、
「何かあれば、オレの携帯に電話を入れてください。電話に出なくても呼び出し音一回で切っても分りますから。オレ、近くで待ってます」
 と言って晴子の背中を押した。
 食事中、茶道の話題は苦手なので、晴子は茶室に飾る花の話題に引き込んだ。花のことなら多少は気持ちが楽だ。今丁度花時の紫陽花の話になると、花言葉[ひたむきな愛情]とか[移り気]とか[元気な女性]を持ち出して家元との話を盛り上げた。花言葉は色恋に関係するものが多いので、家元はすっかり晴子の術中にはまったようだ。

 食事が終わると、
「貴女の花のお話し、なかなか面白かったです。お時間はもう少し大丈夫ですか」
「はい、少しなら大丈夫です」
「では、もう少し今のお話の続きを静かな所で聞かせて下さい」
「はい」
 家元は晴子の[はい]を完全に誤解していた。いや、誤解したと言うより最初からそのつもりだったようだ。それで、晴子をエレベーターに案内して、四十階で降りた。そこはホテルの客室フロアーだった。晴子は家元に「ちょっと化粧室へ」
 と断って化粧室に飛び込んだ。武雄の携帯に電話を入れると直ぐに出た。
「Kホテルのエレベーターで四十階に来て」
 武雄はすぐやってきた。丁度家元と部屋に入る寸前だった。家元の驚いた顔を横目で見ながら、
「すみません、お嬢様、お店で急用ができまして、直ぐ戻って下さい」
 と言い切った。家元は一瞬困った顔をしたが、
「急用なら仕方がありません。では楽しいお話の続きをいずれ改めて」
 と言い置いて一人で部屋に入った。
「武雄君ありがとう」
 晴子は武雄に守られている実感を味わっていた。

五十八 テロリストの方程式

 Iデパートから、林菓房に問い合わせがあった。趣旨は、先日Iデパートの会長の孫娘が新宿のカルチャースクールの茶会で頂いて来た和菓子を食べた所なかなか良くできた和菓子なので、うちの店に入っているのか社長を呼んで聞いたそうだ。残念ながらまだ入っていないと申上げたら、是非うちの店にも置いたらどうかとの話しがあり、お尋ねした。そんな問い合わせだった。その後、話はトントン拍子で進み、Iデパートに新たに出店することになった。武雄は店番のアイリと新しく連れてきた仲間の怜子をIデパートの店番として派遣するよう準備を進めていた。
 先日詫びを入れた茶会の関わりで、他にも贈答用にといくつも引き合いがあり、武雄の作戦はどうやら成功したようだ。

 晴子は北海道の出張時に流産しないか気を付けていたが、幸い何もなくて、お腹の中の赤ちゃんは順調に育っている様子だ。最近晴子の下腹部は気持ち膨らんできたように思われた。晴子は相変らず、今日か、明日かと剣持からのメールを待ち続けたが、一通も届かなかった。それで、最近はややもすると剣持のことはもうどうでもいいと感じる時が増えてきた。たった二度しかデートをしていないので、気持ちが次第に希薄になっても仕方がないだろう。

「徳さん、例のやつで吹き矢を二十本位作っておいてよ」
 剣持は徳さんに猛毒を塗った吹き矢を頼んでおいた。
「吹き矢の毒は前と同じでいいよ。あれは確実に倒せるから、安心して使えるよ」
 剣持と村上たちヒットマンのグループは決して銃器を使わないのだ。闇ルートで、銃器を手に入れるのは簡単だが、実行時に音がするのと、弾丸が残って後の始末が悪い。おまけに、発射した手に硝煙反応が残る。それに、銃器を使えば犯罪があった痕跡を明々白々に残してしまうのだ。その点、殆ど国内では知られていない猛毒を使えば、仮に毒殺だと分っても経路を辿ることは極めて難しく迷宮入りしてしまうからだ。

 剣持と村上のグループは来る日も来る日もテロリスト[マチス]と[セザンヌ]の行動を監視し続けていた。
 七月の半ば、ついにセザンヌに動きが出た。それで、マチスの方の監視役二人とバックアップ二人を残して全員セザンヌの追跡を開始した。
 マチスとセザンヌは家賃が安いことで何かと話題になる公務員宿舎、目黒西山住宅に住んでいた。近代的な高層マンションとして生まれ変わった素的な宿舎だ。
 目黒から歩いて十五分、都心の良い場所で3DK(65㎡)の毎月の家賃がたったの40,500円、駐車場は 6,000円だ。礼金・敷金・管理料はなしだそうだから、やっかまれても仕方がないのだ。

 セザンヌは平日にも関わらず、役所に出勤せずに、朝方から車を駐車場からマンションのエントランスに引っ張り出してきて、なにやら魚釣りに使うでかいクーリングボックスに釣竿と思われる細長い袋を二本積み込んで出かけた。高速に上がらずに目黒通りを多摩川に向かって走り、途中で女性を乗せた。 追尾する車内で、先程から双眼鏡で見ていた村上が、
「あれっ、あの女、内閣府にいる[ピサロ]だよ」
 と言った。間違いなくピサロの顔写真と同じだ。
 二人は第三京浜国道を突っ走り、狩場からバイパスを通って横浜ICから東名高速に乗った。東名高速を厚木ICで下りるとそのまま小田原厚木道路に入って早川から伊豆方面に向かった。平日なので、渋滞に巻き込まれず、熱海を通り過ぎると伊豆半島の海岸線を下田に向かって走った。剣持らは車二台で見付からないように密かに尾行していた。

 途中[セザンヌ]と[ピサロ]がファミレスの駐車に入った隙に……と思ったが、良く見ると彼等と行動を共にする車がもう一台あった。もう一台の車から男が二人出てきた。
 彼等はレストランに入るとセザンヌとピサロに、
「やぁっ」
 と片手を挙げて、二人の前に座った。二人とも暗殺リストに出ていない顔だった。村上の車の者が彼等の写真を撮った。
 彼等が遅い朝飯を食っている間に二台の車に密かにGPS追跡システムの端末を付けた。これで二台の車は見失っても見付けられるだろう。

 遅い朝飯を済ますと、彼等は伊豆半島を南へひた走った。セザンヌとピサロの車は、石廊崎を越えて仲木トンネルを抜けると左に折れて海岸に向かった。ここは伊豆西南海岸と呼ばれていて広い砂浜が広がっており、平日の午前中で海岸には人影がなかった。
 彼等はここでゆっくりと魚釣りでも楽しむのだろう。セザンヌとピサロの他のもう一台の車は左に折れず、県道16号を直進して少し先で車を停めた。剣持らのグループのもう一台の村上が乗り込んだ車は、彼等を追い越して真直ぐ走り去り、入間口と言う所から海岸に入った。ここはマーガレットの群生で有名な所だ。セザンヌとピサロの車のもう一台の方は恐らくバックアップだろう。剣持らの推測は的中した。バックアップの二人は車から大き目のアタッシュケースを取り出すと、それを持って海岸縁の木立の中に分け入った。剣持と仲間たちは彼等に感付かれないように密かに後を付けた。

 バックアップは海岸が良く見渡せる茂みに隠れ、アタッシュケースから望遠スコープ付きのライフル銃を組み立てた。ご丁寧に消音機まで付けた。それが済むと、一人がタバコに火を点け、もう一人はポットからコーヒーを容れてすすり始め、しばらくのんびりと構えていた。
 やがて海岸のだだっ広い所にセザンヌとピサロは座り込み、釣竿を準備して投げ釣りを始めた。その様子をバックアップはじっと監視していたのだ。
 間もなくすると、先程ヒットマングループが車を停めた入間の方からこの地域の漁民らしい女がセザンヌとピサロの方に向かって歩いているのが見えた。と同時にやはり入間の方から手漕ぎの漁舟が釣をしている沖合いを通り過ぎて、マーガレットが咲き乱れる仲木の半島に舟を停めて、老婆と若い漁師が陸に上がり、魚網を舟から下ろして整理を始めたようだ。腰の曲がった老婆は村上の変装だったのだ。

 漁民らしい女はセザンヌとピサロが釣をしている様子を覗き見るようにして近付き、隣に座り込んでなにやら話し始めた。 良く見ると、懐のポケットから何かを取り出して渡したようだ。女はぺこぺこと頭を下げて、セザンヌとピサロから分かれて元来た海岸を入間の方に戻った。
 漁民らしい女が入間の海岸に戻った所で、道を尋ねる男が居た。
「すみません、観光で来たんですが、二十六夜山と三坂富士はどっちがどっちですか」
 どちらも標高が300m位の海にせり出した小山で地元の人でないと区別が付かない。
 女が山の方を指差して、
「あちらの方が二十六夜山で」
 と説明している隙に、男は細長い筒を女に向けて、プッと吹いた。毒矢は女の背中に突き刺さった。
「すみません」
 女が、
「痛っ」
 と振り向く前に男はよろけたふりをして女から毒矢を引き抜いた。
「痛かったですか。本当にすみません。さっき薔薇の枝をそこで折ってきたので棘が……」
 女の顔が見る見る強張って、やがて手が痙攣しはじめた。
 男はかばうようにして、先に置いてあった介護用の車椅子に女を抱きかかえて乗せ、しばらくそのままにしておいた。
 この様子をバックアップの片方の男が見ていたが、不審な様子ではなかったので、セザンヌとピサロの監視に目を戻した。

 すると突然彼等の背後に剣持など四人の男が立ち上がった。突然の物音にバックアップの二人が立ち上がると、四人は一斉に吹き矢を放った。
 一人の男の頬と背中に矢が突き刺さった。もう一人の男には腕と脇腹に矢が突き刺さった。男がライフルを掴んで向きを変えるより早く、剣持のキックが男の腕に炸裂してライフルは近くの茂みに落下した。まもなく二人の男達の顔がゆがみ、全身痙攣を始めた。
 剣持は海岸の舟の前で魚網を整理している村上に携帯で[始末完了]とだけ伝えた。
 連絡後、四人の男は近くに置いておいた肥料用の大きな布袋に男を詰め込んで、その場を一旦引き上げた。彼等は農夫のように鍬と鋤を肩に担いで車に戻り、バックアップの車の側に自分たちの車を回した。トランクには先程の入間で始末した女が放り込んであった。

 釣をしていたセザンヌとピサロは、クーラーボックスの中の無線通信装置に先程漁民らしい女が渡してくれたメモリースティックをノートパソコンのUSB端子に押し込んで電源を立ち上げた。もう一つ、B4コピー紙大の大きさの白い板のようなものを取り出すと砂浜に写真立てのような感じで斜めに固定した。どうやらマイクロウェーブ通信用のアンテナらしかった。恐らくインマルサット衛星通信のRBGAN(Broadband Global Area Network)の地上端末を使っているようだ。
 ケーブルを通信機に接続すると漁民らしい女が渡してくれたもう一つの小片を通信機に差し込んだ。市販のアンテナと送受信機一体形もあるが、彼等が使っている装置はそれとは違うように見えた。
 二人は間もなく通信を開始した。マイクロウェーブを使ってどこぞと無線通信をしている様子だ。

 舟の前で魚網の整理をしていた村上と若い男が立ち上がると、二人は魚網を担いで海岸線に沿ってセザンヌとピサロの方に近付いた。セザンヌとピサロは通信に夢中で接近に気が付くのが遅れた。ふと、魚網を担いだ漁民に気付くとピサロの方が軽く会釈した。
「今日は釣れますか?」
 漁民の若い男が声をかけた。
「まだ全然なんですよ」
 漁民が近付くと、男の方がナイフを取り出した。その瞬間に、腰が曲がった老婆の格好をした村上と若い男が木の枝のような筒を持ち、二人同時に[プッ]と吹いた。毒矢は男と女の胸に刺さった。男と女は驚いて、男の方が立ち上がるや否や、若い男の方に向かってナイフを持って飛び掛った。その瞬間、村上の足が男の前にすぅーと伸びて、ナイフの男は足を取られて砂浜に転がった。女が老婆に飛び掛ったが、老婆の村上はさっと身をかわし、女を砂浜に叩き付けた。二人の抵抗はそこまでで終わった。猛毒が体内に回り始めて、二人は痙攣を始めた。
 村上は二人を魚網に乗せ、クーラーの通信機とアンテナを両方魚網に載せて舟の方に引き摺って行った。

 二人を舟に乗せると、隠しておいた船外機を取り付けて船は快速に沖へと進んだ。幸い波が静かだったので、かなり沖合いに舟を進めることができた。村上と仲間は、毒が回ってぐったりしているセザンヌとピサロの着ている物を全部剥いで、二人とも丸裸にした。女のブラもショーツも剥がして、首のネックレスも取り外した。それでこの二人の腕にナイフでザックリと傷を付けた後、海に投げ込んで、急いで元の岸に着いた。そこには肥料用の袋が三つ置いてあった。二人はそれを舟に積み込むと再び沖に向かった。セザンヌとピサロ同様、三人とも丸裸にした。二人は男で、一人は女だった。男二人の腕にざっくりナイフで切り傷を付けて海に投げ込んだ末、村上は女の髪を片手に掴んで、女の顔だけナイフでさっとそぎ落とした。地元の女らしいので、面が割れるのに時間がかかるようにするのと、傷口から滴る血の臭いをサメがかぎ分けて早く食わせるためだ。

 始末を終えると舟を入間港の元の位置に戻して、迎えの車に乗り込んですぐに東京に向かった。向かう途中、後から尾行されてないか用心したが尾行されている様子はなかった。だが用心のため、二回尾行をまく行動を取った。往きは車二台だったが、帰りは奴等の車二台で合計四台で戻った。奴等の車は途中の公園の駐車場に別々に乗り捨てた。勿論没収した二台の車には指紋は一切残していなかったし、GPSの端末は回収してあった。

「どうだ、ポコちゃん、分ったか」
 剣持が下で使っているパソコンおたくのポコちゃんに、奴らから没収したマイクロウェーブの通信機の解析をさせていたのだ。
「少し分りました。メモリースティックには本体のプログラムに組み込んであるこんな方程式の変数 x と y の値が入ってました。これがないと方程式の解が出ないです。この方程式に x と y の定数を入力してあげると、方程式の解がログインパスワードになる仕掛けです。つまり、メモリースティックがないと、ムチャクチャ時間をかけてもパスワードが出ない仕組みです。方程式の解は十桁で末尾を四捨五入するアルゴリズムになってました」
 通りかかった理工系に強い仲間が方程式をチラッと見て、
「待てよ、この方程式、どっかで見たぜ。そうだ、ファインマン物理学の電磁気学に出てたよ」
「へぇーっ? 何の方程式ですか」
「電場の粒子線を二次元で表す方程式だよ」
 と言って参考書に書かれたグラフのコピーを持ってきた。
「 x と y の変数をスキャンしてやると、綺麗な放物曲線になるんだよ。但し、複素変数の関数だから計算はやっかいだけどね。アハハ」

「もう一つ、通信機のここに押し込んだ物には電子回路が組み込んであります」
 とポコちゃん。
「こいつはマイクロウェブ通信機の発振回路のドライバー部分で、この回路がないと通信ができません」
 剣持が横から口を挟んだ。
「つまりだな、漁民らしい女が持って来たメモリースティックの数字と、回路のドライバーユニットの二つが揃わないとこの通信機は全く機能しないってことだな。あいつら、良く考えたもんだ。通信機が盗まれても何の役にもたたんし、通信プログラムのログインも出来ないってことだ。漁民らしい女が持っているものを盗まれても同じことだな。つまり、仲間の複数の人間が揃わないと通信ができなくなっているんだな。だから、通信機を盗んで偽の信号を送ろうとしても、人が揃わないと機能しないどころか、奴ら自身単独では勝手に通信ができないようになっているんだ」
 一同はテロリストグループの慎重さに驚かされた。

「おいっ、あんたらよ、間違っても報告書なんてもんを書くなよ。わしらはなできるだけ余計な証拠を残さんようにせなならんのや」
 先程から剣持や村上などの話を聞いていた神山伝次郎が釘を刺した。

五十九 謎の死体

 トレメンド・ソシエッタが請け負う仕事に車両は普通に使われるが、車両は目撃情報になりやすい。そのため、常に細心の注意が払われていた。
 剣持等がテロリストの追跡に使う車両はいつもの通り盗難車と決まっていた。フロントガラスには使用する前に必ず特殊な偏光フィルターフィルムを貼り付け、車両の登録ナンバーは少なくとも五年以上前に廃車された車の番号が使われた。ナンバープレートは任意の番号のものを調達するルートが出来ていた。
 使われた車両はターゲットを抹殺後直ちに解体屋に持ち込まれて潰してしまう決まりとなっていた。普通の解体屋では車両を解体する場合には自動車リサイクル法等の法的な拘束をクリアしなければ容易に解体を出来ない。解体は犯罪に結び付き易いので当たり前だ。現在は環境保護基準があり、未作動のエアーバッグ等は取り外してメーカーへ送り返す処置も普通に行われている。従ってトレメンド・ソシエッタから持ち込まれる車両の解体は相当ヤバイ仕事だと言ってよい。彼等はそれをうまく処理するシステムを作り上げていたのだ。

 南伊豆で剣持等がテロリストのメンバー五人を抹殺してから十日以上経ったある日、小さな離島神子元島の沖合いで底曳き漁を行う漁船の網に魚に食われてボロボロになった死体の一部が二体分掛かった。死体を投棄した場所からずっと東に流されていた。それでこの海域に近い下田市の警察が変死体の事件として捜査に乗り出した。
 警察では南伊豆一帯の漁村の聞き込み調査をした。その結果、二週間ほど前に不審車を見たと言う情報が入り、目撃者探しの地域を絞って徹底的に目撃情報の収集に努めた。その結果一台の車の登録番号と車種をうっすらと記憶していた者がいた。その情報を手がかりに、南伊豆から、静岡方面、東京方面へ向かう道路の監視カメラの映像解析が進められた。目撃者が記憶していた車両の登録番号は外務省職員の所有する車両だと判明した。また高速道路などの各地の監視カメラの映像記録を巻き戻して調べた結果、往復この車両が東名高速を走ったことが明確となった。運転者の顔は往路は明らかに所有者本人と助手席に女性の顔が写っていたが、復路は何故かフロントガラスの反射により、運転者や内部の状況が全くカメラの映像として映っていなかった。
 おまけに、この車両は東名高速横浜町田IC付近の中原街道沿いにある、県立四季の森公園の駐車場に放置されているのが発見された。車内は徹底的に調べられたが車検証等はそのまま残っており、不審な点と言えば往きはETCカードで料金の精算をされているのに、何故か帰りはETCではなく一般車のゲートを通過した模様で、高速料金の領収書はなかった。車内の指紋は本人と女性のものと思われるものが多く、他は外務省職員のものであることも分かった。それで外務省職員の協力も得たが、結局全員アリバイがありこれ以上の追跡は難しかった。

 剣持等はもう一台のテロリストが使用した車両は横浜市環境創造局が管理する二十八箇所の[市民の森]の内、東名高速横浜町田IC付近で県立四季の森公園に近い横浜市緑区内の[三保市民の森]の駐車場に放置されていたが、こちらは下田警察の捜査網に引っ掛からなかったため、問題として取り上げられなかった。公園からの届出で近くの交番で調べた結果盗難車であった。持ち主から被害届けが出ており、持ち主のアリバイにも問題はなかったので持ち主に返された。
 警察では変死体のDNA鑑定などを行ったが、不思議なことに追跡捜査した車の持ち主と全く別人でつながりはどうしても分らなかった。結局この事件は失踪届けなどを待たなければ解決の方法がなかったが、失踪届けはどこからも出ていなかったのだ。
 剣持等は自分達が使った車両はその日の内に解体屋に持ち込まれて、今は大型プレス機で潰されて他の廃車スクラップと共に中国に向けて鉄鋼原料として輸出されてしまっていた。

 林菓房では、ここのとこ新規の出店や工場の増設が重なり多忙を極めていたが、ようやく北海道の中川町からもらってきたサンプルを餡子にして、皆で従来の餡子との違いを試食テストした。武雄は晴子と相談して、サンプルの一つ一つにランダムの固有番号を付けた後に、どっちがどっちか分らないようにまぜこぜにしてそれぞれに試食してもらった。その結果、十勝産よりも、道北、中川町産の方が二対三の割合で美味しいと言う判定結果が出て林菓房では道北産の小豆に切り替えることに決まった。老舗の和菓子で小豆の生産者の顔写真を出している所は珍しいが、先日会った農家のたっての希望でパンフレットに産地を表示することも決まった。

 七月下旬の土曜日に隅田川花火大会がある。珍しく武雄が晴子に声をかけてきた。
「オレ、花火好きなんですけど、一人じゃ面白くねぇからお嬢さん付き合ってくれませんか」
「あら? あなた仲間が大勢いるでしょ? そちらはほったらかしでもいいの?」
「アイリと話をしたんですけど、アイリは晴子さんは彼氏と連絡が付かないって話を聞いたから、武雄に誘う義務があるって言われちゃって」
 と武雄は顔を赤らめた。最近晴子と武雄が仲良く仕事を助け合っているからアイリの女の感が働いたのかも知れなかった。
 晴子は体型が崩れ、お腹に赤ちゃんが出来たことを隠せなくなり、先日皆に事故で他界した初恋の許婚の忘れ形見だと伝えた。それで皆は晴子にとても同情的になっていた。晴子は武雄の誘いが嬉しくて、次の土曜日に二人で花火を見に行くことにした。晴子は浴衣姿で行きたいと思い、武雄にも浴衣を買ってきた。武雄は照れてすごく遠慮したが、試着姿を見たマキ、アイリ、怜子、それに最近マキと一緒に店番をすることになった新顔の絵美が揃って、
「武さん、カッコいいっ。素的」
 とか、
「可愛いっ」
 とかおだてられて、武雄は浴衣で出かけることにした。

 花火の当日、晴子はごく自然に武雄の腕に自分の手をからませて二人でむつまじく人ごみを掻き分けて歩いた。隅田川の花火は凄い。花火を見ながら武雄は晴子が掴んだ自分の腕の感触に幸せを感じ、この人とお腹の赤ちゃんも一緒に幸せに暮らして行ければどんなにいいかと思った。けれども、武雄の中ではずっと兄貴のように接してくれている剣持の気持ちを裏切ることは絶対にダメだと言い聞かせていた。
 花火は尺玉がどんどん打ちあがり、仕掛け花火も凄かった。
 帰り道、西銀座で下りて二人で夕食をとり、近くの日比谷公園を散歩した。公園の木々は街灯の光で陰を落として、とてもロマンチックな雰囲気をかもしだしていた。街灯の光がやや途切れた場所で、
「武雄君、ずっとあたしを守ってくれるわよね」
 と晴子がつぶやいた。
「ん。勿論、オレ晴子さんをずっと大切にするよ。いつも守ってあげるよ」
 と武雄が応えた。晴子は武雄の腕を掴んでいる力を気持ち強くした。武雄には晴子の武雄を頼る気持ちが腕を通してひしひしと伝わってきた。
「武雄君、キスしてぇ……」
 だがそこには武雄の困惑した淋しそうな顔があった。晴子は武雄におかまいなく、両腕を武雄の身体に回して強く抱きついた。身を預けられた武雄は晴子の腕をほどく勇気も無く、ただ立っているだけが精一杯だった。
 桔梗の花言葉を使えば、晴子は武雄の[誠実]で[優しい温かさ]にこれから先ずっと包まれていたかった。晴子は武雄に[変わらぬ愛]の言葉を返して欲しかったが、武雄の困惑した淋しげな横顔が答えかと思うと、自分も淋しい気持ちになった。

六十 橋口理恵のその後 Ⅰ

 橋口理恵はトレメンド・ソシエッタを嗅ぎ回ったのを見つけられて、彼らの仲間に捕らえられ、蠍を腕の付け根、乳房、それに性器の脇に合計三匹タトーをされ、その上輪姦されて、彼等に脅された上放り出された。それ以来、理恵は暑い日も半袖は着れなかったし、胸元が露出しないかいつも気を遣う日々を送っていた。以前は会社の仲良しと温泉旅行によく行ったが、今は気が進まなくなっていた。
 三匹の蠍が身体にへばりついていると思うとしばらくの間は気が重かったが、時が過ぎると自分が密かに飼っているペットのような感覚になって、以前より気にはならなくなっていた。
 そんな時、会社、T商事の旅行仲間から温泉旅行に行こうよと強く誘われて、仲間二人と一緒に、三人で休日に日光の鬼怒川温泉に行くことになった。

「理恵、久しぶりに三人で温泉に入って、ゆっくり恋愛のこととか話をしようよ」
「あたし、後で少し遅れて行くから二人で先に入っててよ」
 理恵はサソリちゃんたちのタトーを見られたら大変なので、一緒に風呂に入る気はしなかった。彼女たちは出てきて、
「あらっ、理恵、来なかったの? 待ってたのにぃ」
「ん。ごめん、夜寝る前に一人で行くわよ」
 それで、夜二人が眠ってから、理恵は温泉に入りに行った。夜中で他に人影がなく、理恵には丁度良かった。最近はファッション感覚でワンポイントのタトーをしている女性は結構増えているのに、公衆浴場ではいまだに[刺青の方は入浴をご遠慮下さい]と必ず書いてあるのだ。時代が変わったのに、旧い任侠と言うかヤクザが嫌われた時代をまだ引き摺っているのだ。
 理恵が静かな温泉でのんびりと入っていると、ガラガラっと引き戸が開く音がして、眠っていたはずの和代が入ってきた。
「理恵、入るなら教えてくれればよかったのにぃ」
 和代は湯船に入ってきて、理恵の隣に座った。
「あらっ!?」
 和代は理恵が見て欲しくないものを直ぐ見つけて、
「へーぇっ、理恵こんな趣味あったんだぁ」
 と改めてしげしげと見てしまった。
「内緒にしてよね」
「仲良しの間だから隠し事はなしよ」
 部屋に戻ると和代はお節介に寝ている(ひとみ)を起こして、
「どれどれ、ちゃんと見せてよ」
 と嫌がる理恵の浴衣を脱がしてしまった。
「あらっ、こんなとこもしてもらったの」
 と乳房の1匹も見付かってしまった。

 タトーのことを、社内で言いふらされて、理恵はT商事に居られなくなってしまった。それで、先日退職してしまった。
 理恵は一人で田舎から出てきて、今も一人暮らしをしている。理恵は会社を辞めて他の就職口を捜したが、不景気で応募した会社から全部断られて途方に暮れていた。そんな時、池袋で[素人でも高収入の簡単なお仕事をしませんか]と書かれたカードの入ったティッシュを受け取り、一度詳しく話を聞いて見ようと思った。
 仕事は風俗の仕事だったが、サソリちゃんたちのこともあり、今はそれでも仕方がないかと思った。問い合わせをすると、では明日来て下さいと返事があった。
 翌日、理恵は池袋の雑居ビルの一室に仕事の話を聞きにきていた。
 応対したのは自分より年下と思われる女性だった。簡単な案内書を見せられて、
「こんなお仕事初めて?」
「はい」
「じゃ、約一週間位、レッスンを受けて、それで良かったらお仕事を始めて下さい」
 と言われた。

「あのぅ、レッスンってどんな内容ですか」
「ここに書いてありますけど」
 とプリントを渡された。
「一日約二時間位ですから、貴女のご都合の良い時間に来て下さい。レッスンを受けると一回五千円の日当が出ます」
 レッスンの内容は以下の通りだった。
1日目 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律とは?
2日目 衛生管理について(性病と予防策、定期健康診断など)
3日目 接客の要点と接客技術(男性の性感帯の説明など)
4日目 護身技術(万一の場合の対処方法)
5日目 実技講習
6日目 実技講習
「実技講習ってどんなことですか」
「ああ、たいしたことはないですよ。じゃ、予約を入れときますので、いつからレッスンを始められますか」
「あたし、明日からでも大丈夫ですけど」
「じゃ、明日の三時に予約を入れておきます。場所はこの近くのNホテルの504号室なのでそちらに直接いらして下さいね。お名前を言えば分りますから」
 それで、明日レッスンに参加することになった。

六十一 橋口理恵のその後 Ⅱ

 午前中、洗濯を済ませ、マンションの小さな部屋を小奇麗に掃除をしてから二時ごろまでテレビを見てのんびりと過ごした橋口理恵は予約したレッスンを受けるため池袋のNホテルの504号室に向かった。504号室は直ぐ分かった。ドアをノックすると、
「どうぞ」
 と男性の声がした。ドアを開けると先客が既に来ていた。三時からレッスンを受ける者は理恵を含めて全部で四名だった。少し広めの部屋の小さなテーブルの周りに四人共座らせられた。壁に小さなホワイトボードが立てかけてあり、三十代後半と思われる男がその前に座っていた。

「じゃ、始めるぞ」
 と男は言って、
「今日は法律の話だ。難しくはないけれど大切な話だから、ちゃんと聞いてくれよ」
 と付け加えた。
「法律で公安委員会、つまり警察だな、警察の営業許可が必要な仕事ってどんなのがあるか知ってるか」
「……」
「だれか答えろよ。一つ位知ってるだろ?」
 痩せてひょろっとした女の子が答えた。
「キャバクラ、ソープ、テレクラなんかですか」
「アハハ、一つだけ当たりだ。後の二つは許可が要らないよ」
「へーぇっ? そうなんだ」
 と理恵のとなりのぽっちゃりした女の子が初めて知ったと答えた。
「じゃ、今出た三つの内でどれが許可が要るか分るか?」
「ソープですか」
 と一番背の高い少し大柄な女の子が答えた。
「外れだ」
「どうしてですか」
 大柄の子は納得できないような顔をした。
「法律で警察の許可が要るのは全部で八種、大きく分けると接待飲食等営業が六種とその他として遊技場営業が二種だけなんだよ。だからさ、キャバクラは接待飲食等営業に入るから警察の許可が要るのはキャバクラだけだよ」
「アトのが無許可なんて信じられない」
 と全員が言った。
「具体的にはキャバレー、キャバクラ、ダンスをしても良い食い物屋、ダンスホール、明かりを暗くしたバー、カップル喫茶とそれにパチンコ・マージャン店とゲーセン。これで八種類だろ?」
「じゃ他の風俗は全部許可が要らないんですか」
「ん。要らない。届けを出すだけでOKなんだ」
「へぇーっ? 信じられない」
 と全員が不思議な顔をした。
「警察としてはだな、本当は他の風俗を取り締まりたいだろうなぁ。けどな、世の中は逆なんだよ」
 と言って男は笑った。

「俺たちが風俗って言ってるのはどんなのがあるか分かるか? さっきの二つ以外に挙げてみろよ」
 4人の女の子はだいぶ慣れてきて返事をするようになった。ぽっちゃりのが、
「アダルトショップ、個室ビデオ、ストリップ劇場、ポルノ映画館」
と言った。
「アハハ、あんた良く知ってるね」
 と男が笑ったので彼女は顔を赤くした。
「ファッションヘルスも入りますよね」
 と理恵。
「他にカップルズホテル、昔はラブホと呼んだやつも入るよ。ラブホは今でも使うか」
 と言って男がまた笑った。
「ま、これくらい覚えておけばいいよ。あんたたちにこれからやってもらうお仕事はファッションヘルスだよ。覚えといてね」
「どうして許可が要らないんですか」
「おっと、大事なことを忘れたな。いい質問だ。風俗営業として指定されてるのは八種だけで、アトから出たやつは全部[性風俗関連特殊営業]と法律では決めてるんだよ。この中には売春みたいなものとかヤバイ仕事も結構あるし、いろいろな形があるだろ? 例えば男が携帯で予約を入れるとホテルとかマンションに女の子が直接来てくれるってのも都会じゃ多いよね。テレクラだってさ、気が合えば直接会ってラブホに一直線ってのが普通にあるよね。こんなホテヘルとかデリヘルをさ、警察がやってもいいよなんてさ、許可出したらどうなる? 見方によっちゃ、売春に警察が許可を出すなんて変な感じになっちやうよね。だからさ、警察は勝手に好きに営業してもいいけど、ちゃんと届けだけは出しとけよってことなんだよ。届けてあればさ、あまり行過ぎたらサツだって黙っちゃいねぇーぜと一応歯止めにはなるからさ」
男はまた笑った。
「ついでに言っとくけど、ファミレスだって夜の十時以降は十八歳未満はお断りだろ? これは青少年保護条例で縛られているんだ。夜の十二時を過ぎてアルコールを出す店は届けを出さないとダメなんだよ。社交ダンスの教室も風俗営業だったんだけど、Shall we ダンス? って映画の影響で今は風俗営業から外してもらってるらしいよ」
男は分かったか? と言う顔で皆を見た。
「それで、俺たちの仕事のヘルスなんだけど、形としては個室の決まった部屋でサービスしてもらうから、店舗があるファッションヘルスってことになるよ。営業時間は厳しくてさ、朝の四時以降、夜は午前一時までって決まってるんだ。エステでもさ、似たようなとこがあるけど、マッサージ主体のエステの場合は二十四時間営業OKなんだよ。マッサージは性風俗でなくてマッサージ業ってことだね。だからさ、マッサージ業は警察でなくて、保健所に届け出るんだよ」
 男はちょっと一服した。
「性風俗業とマッサージ業の違いって分るか」
「そんなの恥ずかしくて言えないってば」
 とぽっちゃりが答えた。
「バカッ、これから性風俗のお仕事やるってのに恥ずかしいはねぇだろ」
 と男が笑った。
「性風俗は男のオチンチンを見たり触ったりするよな」
「……」
「サービスするんだから当然だろ?」
「……」
 皆はリアルな話になったのでどう答えてよいものか分からない顔をしていた。
「でもさ、マッサージ業はオチンチンを触っちゃいけないし、見てもいけないってことになってるんだよ。違いが分ったか」
「はい、分りました」

「法律の話はこれで終わりだ。大体頭に入れてもらっとけばいいよ」
「これ、今日の日当。五千円ポッキリだけどさ、美味しい仕事だったろ?」
 と男は最後に悪戯っぽい顔をしてバイバイと手を振った。部屋を出ると、
「四人でお茶しない?」
 と大柄の女の子がみなを誘った。それで、みなで池袋の駅ビルのカフェで少し話をした。聞いて見るとみんなそれぞれ色々な問題を抱えていて、話が合った。
「これからも仲良くして困った時はお互いに助け合おうね」
 と約束して別れた。

六十二 橋口理恵のその後 Ⅲ

 レッスン二日目はやはり午後三時から衛生管理について前日の男が講義をしてくれた。おやせと大柄とポッチャリの三人もちゃんと出て来た。四人は前日お茶して夫々のことを話し合ったので、たった一度顔を会わせただけなのに、すっかりお友達の感覚になっていた。
 衛生管理では特にエイズとか性病について話があったが、聞けば聞くほど怖ろしくなった。
「そこらにいる大部分の男たちは、性病になんて罹ってないからよ、そう心配しなくて大丈夫だよ。自分の身体を護るためだからさ、いい加減に考えないで、今日の注意をしっかりと守ってくれよな」
 と男はみなをなだめてくれた。前日と同様五千円の日当をもらって帰った。

 三日目は接客技術の講義で特に男性の性感帯の説明を詳しくしてくれた。理恵は学生時代に付き合っていた男が居たが、その時、こんな知識を持っていたらもっと彼をいい気持ちにしてあげられたかもとか変なことを考えていた。
「おいっ、理恵ちゃん、ちゃんと話を聞いてるのかよぅ。実技の時、今日説明したことをやってもらうからよ、良く聞いておかないと、その時困るよ」
 と少し脅かされた。
「はい、すみません」
 理恵はなんか久しぶりに女子大生みたいな気分になった。
「性感帯は女の方が男よりずっと沢山あるよ。やっぱ神様が女は男に愛撫されて幸せになれるように創ってくれたんだな」
 と言って男は笑った。理恵はディープキスと玉舐め、口内射精とかシックスナインの意味は何となく分ったけれど、フェラチオ、素股、手コキなんて初めて聞く言葉で良く分からなかった。理恵は聞くのも恥ずかしいけれど、知らないともっと恥ずかしいと思って、
「素股ってなんですか?」
 と聞いた。他の三人も同じように分らなかったらしい。
「あっ、すまたね。あんたの大切なとこのヘアーでね、男のオチンチンをこすってあげるんだよ。でもさ、オチンチンをあんたの中に入れさせちゃダメだよ。本番は禁止だからさぁ」
「フェラチオって?」
 とおやせが質問した。
「フェラ、尺八、フェラーリとか色々な呼び方があるんだけど、要はオチンチンを口でくわえてあげて、舌で刺激していい気持ちにしてあげるんだよ。フェラはラテン語らしいけど吸うって意味だよ。オチンチンを吸うんだよ。でも、吸うだけじゃ気持ちよくないからさ、舌でこすってあげてよ」
「フェラしてて口内射精されたら飲まなきゃいけないんですか?」
「たまには美味しいって言う変った女の子が居るけどさ、普通はなるべく相手に悟られないようにそっとティッシュに吐き出すんだよ」

 四日目は護身術の講義を受けた。
「お客さんの男もあんたたち女も両方裸だからさ、空手とか格闘技の経験がないと基本的には乱暴されたり、強要されたら手向かいはできないよな」
「怖いな」
 とぽっちゃりが言った。
「だからさ、男に力で押さえ込まれたら、逃げようとしたり抵抗したり腕に力を入れたりしちゃ怪我の元だからさ、絶対にダメだよ。なんかヤバイ雰囲気の時は緊急連絡の押しボタンがあるからさ、それを押すことだけ考えていればいいよ」
「もしも、押さえ込まれてボタンが押せなかったら?」
 と大柄のが言った。
「あんたの身体でも、体格のいい男だったらかなわないよな。腕に力を入れてなかったら、むしろ相手に同意してるふりをして男の身体に腕をまわして抱きつくといいよ。そうすれば、女が抱きついた腕をほどこうとするアホな男はまずいないからさ、片方の手をゆっくりとオチンチンの方に下げてさ、男のキンタマを思い切り強くにぎるんだよ。キンタマをギュッとやられると男は誰でも飛び上がるほど痛てぇからさ、一瞬ひるんだ時に押しボタンを押してよ。各部屋、テレビカメラで監視してるんだけど、全部屋を同時には見れないからさ、押しボタンが絶対だね」
「ボタンを押したら?」
「管理室に警報が鳴ってさ、オレたちが二人か三人で直ぐに踏み込むから大丈夫だよ。もしも相手が刃物を持ってたりしたら、警察を直ぐ呼ぶからさ、安心してていいよ」

 五日目と六日目は実技のレッスンがあった。この日はいつもの男の他にちょっとイケメンの二十代前半の青年が二人同席した。
 最初に二人の青年をお客様だと思えと説明があって、理恵がトップバッターで実技をやらされた。青年の片方が、
「よろしく」
 と囁いた。理恵は風呂の方に案内した。
「いいんだけどさ、彼の手にあんたの手を添えるくらい優しくしてやれよな。最初が肝心だからさ」
 と注意された。青年が服を脱ぐのを見ていると、
「おいおいっ、理恵ちゃんよぉ、お客さんの洋服は理恵ちゃんが脱がして、脱がした服はちゃんと畳んであげてカゴに入れてよ」
 また注意された。青年を裸にして風呂場に招き入れた。理恵は下着を付けたまま一緒に風呂場に入った。
「普通は、理恵ちゃんも全部脱ぐんだよ」
「はい」
 理恵は恥ずかしくなったが仕方ない、自分も脱いで青年にならんだ。シャワーを出して理恵は教えられた通り青年の身体を洗った。
「オチンチンのとこはさ、念入りに洗えよ。衛生が大事だからさ。こいつは包茎じゃないけどさ、最近包茎のやつが結構いるからさ、そんな時は痛がらない程度に皮を剥いてあげて、良く洗ってやってな」
 と男が付け加えた。理恵の身体に彫られたタトーについては何も言われなかった。

 シャワーを終わって、三日目に教えられた通り男の物を愛撫した。青年のそこは勃起してパンパンになった。他の三人が見ているのを意識して仕事だと思って頑張った。最初明るかった室内の明かりが次第に暗くなり、いつのまにか薄暗くなっていた。理恵がサービスに励んでいると、青年が理恵を愛撫始めた。愛撫されている内に理恵は段々と気持ちが昂ぶってきて、青年にされるがままに愛撫されていた。青年はとても上手で、理恵の昔の彼にこんなにしてもらったことは一度もなかった。エステでマッサージされる以上だ。いつの間にか青年のペニスが理恵の中に入ってきて理恵は息遣いが荒くなり喘いでいた。青年の愛撫が頂点に達した時、理恵は今迄一度も感じたことがないエクスタシーに達して、自分ではどうにもならない声を出してしまって果てた。
 その時、部屋の明かりがパッと明るくなり、
「おい、自分が気持ちよくなっちゃダメじゃん」
 と叱られた。
「だってぇ……」
「だってじゃねーの。肝心の彼はまだ射精してないぞ」
「こんどから気を付けてやれよな。じゃ、次っ」
 と言っておやせに変った。
 おやせは何とか無事にこなした。そこで、相手がもう一人の青年に交代となった。やはり実際に射精までさせられるので、青年も途中で交代しないと無理みたいだった。
 ぽっちゃりの番になった。ぽっちゃりさんはとても上手だったが、途中から理恵と同じで自分の方が絶頂に達してしまった。
「あたし、男の人に愛撫されるとなんか骨を抜かれたっちゅうか、身体が自然にそうなっちゃうんです」
「あのな、これから先、毎日何人もの男にサービスするんだぜ。いちいち自分がいい気持ちになってたら身が持たないって。ま、慣れればうまくコントロールできるようになるからさぁ、気にしないでもいいけどよ」
ぽっちゃりはまだ放心した顔をしていた。
「作業時間は一人五十分、服を着て帰り仕度をする時間を考えて四十分を目標にして、必ず時間内に射精まで持っていくようにしてくれよ」
 と注意があった。
 最後の大柄の女の子も無難にこなした。五日目と六日目のレッスンは時間がかかり、終わると四人共疲れた顔をしていた。
 レッスンの最後に、自分の気に入ったお客と恋愛関係になるのは自由だが、仕事と混同しないで、恋愛する時はオフの時に外ですること。また恋愛でなく外でお客を取ったことが分かった時は即刻退社させるからと注意があった。

 レッスンが終了した所で、簡単な就業規則が配られ、給与や勤務時間、休暇などの労働条件について説明があり四人共納得した。また履歴書を書いて持って来いとも言われた。
 ここでは社会保険にもちゃんと加入させるそうで、理恵はよかったと思った。性風俗は警察に無届で随分デタラメな所が多いと聞いていたが、ここはその点ちゃんとした雇用形態を採用していて、従業員として入社する形になっていた。若い女性で子持ちのシングルの人は働けない。それで、短時間勤務とか、個人でやってる保育所などが使えるようになっていて、それでそんな境遇の社員が多いとかが後で分った。
 応募者を全員採用するわけではないのに、どこで選抜しているのか分らなかったが、どうやら最初に応対に出た女性が[女の感]で選抜をしている様子だった。つまり、ダメな場合レッスンの予約はしないとか、後ほど電話でご連絡しますと言って帰してしまうらしい。

 理恵のヘルスの仕事が始まった。毎日、毎日同じことを繰り返すので、大分様子に慣れてきた。ここは料金が少し高いと聞いていたが、客層は大企業のサラリーマンや公務員、余裕のある自営業の人が多く真面目風の客が多かった。勿論理恵のお給料もT商事の倍は軽く越えていた。

六十三 橋口理恵のその後 Ⅳ

 ファッションヘルスでは橋口理恵は一週間に五日勤務で、その内三日間は午後一時から七時までのシフト、二日間は午後七時から十一時までのシフトに入れてもらった。午前中のシフトは幼児~小学生の子持ちの者に譲った。
 夕方からの勤務の日は昼間の時間が沢山取れたので、理恵は美術館周りをしたり、図書館に行ったり有意義に過ごすことができた。
 入って見ると、話の合う仲間が多く、お友達も沢山できた。午後一時からのシフトの時は、友達とゆっくり昼食を楽しんでから出勤することも覚えた。皆が夫々訳有りの人生を潜り抜けて来た者が多く、苦労をした分、他人の心の痛みを真直ぐに受け止められる者が多かった。収入にも余裕ができて、心が以前より豊かになったような気もした。ここに入る前までは、諦めと自分に対する腑甲斐なさで、胸の中に隙間風が吹いていたのが嘘のようだ。

 ヘルスにやってきて、理恵に相手をしてもらう男たちは、互いに裸で絡み合うせいか、性格を素直に出していると思われた。毎日多くの男性と接して見て、理恵は見た目と性格は違うものだと感じていた。見た目が魅力の無い男は案外女に親切で素直な者が多いことが分かった。ちょっとイケてる男は扱い難い者が多いようだ。理恵にとって自分が好きなタイプで性格が素直な優しいやつにはまだ出会ったことがなかった。
 そんな日々を過ごす内に、ようやく自分のタイプで性格の良い青年に出会った。理恵はその青年に、いつもより気持ちを入れて尽くした。その甲斐あって、理恵を指名して時々来てくれるようになった。帰りがけにそれとなく尋ねて見ると、文部科学省で科学技術政策を考える所に在籍するキャリアのお役人さんだと素直に教えてくれた。普通は名前を聞かないのだが、教えてと言うとはにかんだ顔で吉田浩二だと答えた。
「こうちゃんって呼んでもいいよ。じゃ、また近い内に来るよ」
 と言って部屋を出て行った。理恵は他の客と同様にドアまで出て見送った。彼はちょっと振り返って手を振ってくれた。それで、その日の理恵は寝るまで幸せな気分に浸れた。
 何度かヘルスに来てもらっている間に、理恵は吉田浩二に恋心を抱いた。それで、
「お休みの日にデートに誘って下さい」
 と頼んで見ると自宅の電話番号を教えてくれた。その時から、理恵と吉田のお付き合いは始まった。

 キャリア官僚がヘルスに通うなんて、と常識的には作り話だと思われる。だが、地方紙のY新聞をはじめ、二〇〇八年十一月十四日付けで全国紙にも報道されて話題になったように現実にもデリヘルなどを利用するキャリア官僚は存在するのだ。

 人は夫々が持っている運命によって自分では気付かぬ内に人と出会い、人と別れるように思われる。橋口理恵も彼女の運命に翻弄されて彼女が二度と近付きたくない所に吸い寄せられて行くようにも見えた。
 吉田浩二と何度かデートをするうちに、理恵と浩二は自然に身体の関係ができた。ヘルスでは本番は禁止されているので、ヘルスのお客としては理恵は一度も自分の中に男を受け入れたことはなかったが、恋人として浩二とお付き合いする間に、理恵は浩二の真摯な態度、女に対して真面目で優しい性格に心から惚れた。浩二はまだ独身で決まった女性はいないと言ったので、理恵は浩二と結婚できればどんなに幸せだろうと思っていた。浩二は裸の理恵を見ているので、理恵の身体に、いつもへばりついて離れない三匹の蠍ちゃんのことも知っている。なぜ自分の身体にサソリがへばりついているのか、理恵は浩二に正直に告白したが、浩二は人に見られる場所じゃないからと気にしないとまで言ってくれた。

 文部科学省にいる吉田浩二にはもう一つの顔があった。だが、そちらの方は理恵に話をすることは決してなかった。吉田浩二は大学時代からある目的を持つグループに所属していたのだ。グループ活動は極秘で、常に水面下で行われていた。最近グループの上の方から行動準備の指令が出ていたが、表向きは何もしていなかったから、役所の中でも真面目で仕事熱心な吉田で通っていた。

六十四 テロリストの通信相手

 トレメンド・ソシエッタの剣持等は、先日テロリスト[セザンヌ]と[ピサロ]から没収したインマルサット衛星通信のRBGANの地上端末について調べていた。インマルサットは主に船舶が航行中海難時など電話連絡のために、海上から地上基地と送受信する目的で開発された衛星通信システムで、ロンドンにあるインマルサット社が衛星の運用を行っていて全世界を網羅しているが、最近の移動通信の需要をカバーするために、現在では高速衛星データ通信サービスとして広く普及しているのだ。
 普通の使い方はポータブルの地上端末を持ち歩き、ノートパソコンを接続してデータの送受信をする。衛星通信だから、砂漠のど真ん中でも、太平洋のど真ん中でも、世界中どこからでも通信ができるのだ。

 テロリストたちは、通信が終了したら直ちにノートパソコンに残っている送受信データを完全削除してしまうのが当たり前だが、剣持等はセザンヌとピサロが通信作業中に攻撃したので、どうやらデータ削除の暇がなかったらしい。それで送受信したデータはそっくり残っていたので、剣持等は予想外の儲け物をしたのだ。
 パソコンおたくのポコちゃんに調べてもらったら、
「兄貴、彼等の通信相手はどこだと思いますか」
 とポコちゃんは興奮気味に質問した。
「北朝鮮のどこかとか?」
 と村上が答えた。
「違うのか?」
 と剣持。
「それがですね、一本はアメリカのCIA本部、もう一本はフィリピンなんですよ」
「へぇーっ? ほんとかよ」
 と剣持と村上。
「間違いないっす」
 と自信を持った顔でポコちゃんが答えた。

 CIAへの通信内容は以下の通りだ。原文は勿論英文だ。
「こちら、Y_MOFA、兼ねて推進中のXプロジェクトの進捗状況について連絡する。我々はそう遠くない日(the day not so far)に実行するタスク(テロのこと)の詳細な計画を策定中だ。コンポジションC4(TNT爆薬の約1・3倍の威力があるプラスチック爆薬で米軍で多く使われている)及び導爆薬は既に、Army(米陸軍)のMr.JF から入手した。現在Y_MOECSSTとK_MODが共同で高性能のリモートコントロール信管を開発中である。攻撃ポイントと作戦計画はO_NPA が中心となって検討を進めている」
 CIAから、
「了解」
 と返信が届いていた。
 フィリピンへの通信内容は以下の通りだ。原文は勿論英文だ。
「こちら、Y_MOFA、我々のXプロジェクトは順調に進めている。貴殿から全世界の同志諸君に順調だと連絡を入れてくれ」
 受信者から
「成功を祈る」
 と返信が届いていた。

 規模が大きい、例えばビル一棟を吹き飛ばすような爆破装置に使われる爆薬は軍用のC4爆薬が使われる。C4はちょっと叩いた位では爆発しない。確実に爆発させるには、花火に使われるような火薬に電気雷管で着火して、導爆薬つまり爆発エネルギーを次第に大きくする爆薬にエネルギーを伝えエネルギーを増幅してC4が爆発するのに十分なエネルギーを伝達する。これを一まとめにしたものを信管と呼んでいるのだ。信管を作るには高度な専門知識が必要だ。ダイナマイトは威力があるが、C4相当の効果を得るためには量が多すぎるので彼等はC4を使うのだと思われた。

「MOFAは外務省 (Ministry of Foreign Affairs ) だな。するとY は依田、つまり我々のコードネームはセザンヌだ。Y_MOECSSTは文部科学省(Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology Japan)の吉田、我々のコードネームはフォンタナだ。それとK_MODは防衛省(Ministry of Defense)の熊谷だな。我々のコードネームはカルパッチョだ。O_NPAは警察庁(National Police Agency) の岡本だ。我々のコードネームはロランだな」
「すると、我々の次のターゲットは文部科学省の吉田、防衛省の熊谷、警察庁の岡本、コードネームで言うとフォンタナ、カルパッチョ、ロランの三人だ」
 と剣持が締めくくった。
「マチスはどうしますか」
 と村上。
「人手は要るが外すわけにはいかないよなぁ」
 と剣持が答えた。
 それで、次のターゲットは四名となった。
 報告は口頭で神山伝次郎→山田龍一→依頼主へと上げられた。今回通信内容が分ったのを依頼主から相当高く評価された。
「与党の総理大臣が選挙はそう遠くない日と言って話題になったが、the day not so farのthe day はいつなんだろうね?」
 と誰かが言った。
「そりゃ、やつらだけしか知らないな」
 と剣持が笑った。

 橋口理恵は恋人の吉田がこんな活動をしいてるなんて、夢に見たこともなかった。もし、知っていたら、恐らく泣いてすがっても止めさせる努力をしただろう。
 林晴子の場合も、恋人堀口がしていることを事前に知っていたら、恐らく同じように泣いてすがったに違いない。
 女は時により何も知らされていないことがあるのだ。これが夫々の運命だと言われて、喩え凄惨な結果だとしても、受け入れるしかないのだ。

 剣持たちは、次の日から手分けして、四人の行動の監視をスタートさせた。今回は人数が多い。一つ間違えれば自分達も死と背中合わせになってしまう。それで、剣持と村上は夜遅くまで作戦を議論した。
「CIAが絡んでいると、やっかいなことになるかも知れないなぁ。恐らく彼等は独自でテロリストたちの行動監視を始めるだろう。もしも、CIAの工作員に気付かずにオレたちが行動すれば、必ず工作員のスナイパーの標的になり、消されてしまうね」
 そこで、今回以降の行動は三重のバックアップを準備することにした。仮に剣持等をTSとすると、ターゲット←TS←ターゲットのBKUP(バックアップ)←TSのBKUP←CIA←TSのBKUP←CIAのBKUP←TSのBKUPのように三重のバックアップが必要となるのだ。

 随分ややこしいが、世の中の諜報活動はたいていこんなもんだ。アマちゃんの探偵とはわけが違うのだ。

六十五 尾行

 剣持等トレメンド・ソシエッタの社員は殆ど全員、と言っても三十名足らずだが、総出で四名のターゲットの尾行を始めた。暗殺リスト(観音様リスト)に出ているコードネームと顔写真を皆がしっかりと頭に叩き込んだ。既に殺ってしまった奴は-線でマークを付けた。
 今回のターゲットは、[マチス]、[フォンタナ]、[カルパッチョ]、[ロラン]の四人だ。セザンヌとマチス同様フォンタナ、カルパッチョ、ロランたちは共に近代的な高層マンションとして生まれ変わった公務員宿舎、目黒西山住宅に住んでいた。
 マチスはしばらく動きがなかったが他の三人は休日の日曜日に、決まって早朝七時半頃、三人の内の誰かの車に相乗りしてどこかに出かけた。剣持等のグループは彼等の乗った車を尾行してみた。

 西山住宅を出ると、車は直ぐ山手通りに入り、渋谷方面に向かって走った。国道246(ニヨンロク)を潜り直進して二つ目の信号を右折した。旧山手通りに出ると右折して再び国道246を突っ切ると左に折れてパーキングに車を入れると、三人揃って大きな教会に入って行った。聖フラミン教会だ。公務員宿舎から歩いても二十分位の距離しかないのに、なぜか毎回車で出かけた。三人が教会に入ると間もなくミサが始まったようだ。
 今回は内偵なので、剣持等のグループは彼等にあまり接近せずに少し離れた場所から周囲の様子を観察していた。よく見回すと、先程から剣持等と同様に彼等の行動を注視している者が居た。その者がテロリストグループのバックアップなのか、あるいはCIAの工作員なのかは分らなかったが、少し離れた所から、行動を注視している者と周囲の様子をキョロキョロ眺めているもう一人の男が居た。
 その男は剣持等の行動もしっかりと捕らえている様子で、こちらと視線があったが、何も見ていないふりをして、剣持等の視線の届かない物陰にゆっくりと移動した。明らかにターゲットか工作員のどちらかのバックアップだ。
 村上はどちらの男も望遠レンズで撮影していた。

 剣持はこの仕事を始めて以来多忙でS女史から引き継いだ仕事まで目が届かない。それで、山田龍一と相談して、楢崎武雄の子分の今井真澄と言う青年と西山多恵に任せることにした。武雄と真澄と多恵を呼んで、
「何かあれば必ずオレに相談しろよ」
 ときつく言い渡した。

 林菓房は工場の増築が終わり、中目黒の工務店の社長古谷真由美が挨拶にやってきた。
「ご挨拶がすっかり後回しになり、誠に申し訳ありません。(三浦)信二君の仕事は間違いがないので、任せっぱなしにしていました。この先、何か不具合なことがありましたら、責任をもって処置をさせて頂きますので、ぞうぞご遠慮なくなんなりとおっしゃって下さい」
 真由美は晴子と父の義晴、母の貴恵を前に丁寧に挨拶をした。
 新しい工場を一緒に見て回った後で、真由美は心持下腹部が膨らんでいる晴子の姿を見ながら、
「晴子さん、少しお話させて頂く時間はおありですか」
 と晴子に尋ねた。
「はい、大丈夫です」
 真由美は晴子が見た所、三十代後半に見えたので晴子より大分先輩だ。

 先程から、晴子と真由美は二人きりで向かい合って話をしていた。
「お店、随分繁盛してますね」
「ええ、お陰さまで」
「新宿のIデパート店の内装、いかがですか」
「しっとりとした感じて、あたし、とても気に入ってます」
「そう、良かったわね」
 いつの間にか二人は友達のように話をしていた。真由美はとても魅力のある女性で、話題も豊富、晴子は話をしていてちっとも疲れなかった。薄化粧だが、肌も手入れが良いようで、プロポーションからしてとても工務店の社長とは思えない感じだ。一目見れば、元ファッションモデルでもやっていたのかと思うだろう。晴子も綺麗だったが、この人には敵わないと思った。
「所で、お腹の中に……でしょ?」
「はい、ご察しの通りですわ」
「旦那様は?」
 晴子は初対面の真由美に言うまいか迷ったが、
「あたし、シングルマザーになろうかと思って……」
「そう? 実はあたしもシングルマザーよ」
「息子さんですか?」
「そうよ、息子」
 と言って微笑んだ。
「頑張って元気な赤ちゃんを産みなさいよ。あたくし、応援してあげるわよ」
「是非お願いします。相談に乗ってくれる人がいなくて」
「もしかして、父親は楢崎君?」
「いえ、彼は良いパートナーですけど、関係はありません」
「そう? 人に相談したいことがあれば、わたくしでよかつたら、いつでも相談にのってあげるわね」
「お願いします」
「お時間のある時に、いちどうちにも遊びにいらして下さいね」
 大分時間が経ったのに二人とも気が付かなかった。
「あらっ、もうこんな時間」
 と言って真由美は信二と一緒に帰って行った。

六十六 権力組織の陰謀

 ギリシャ神話に出てくるパンドラが、絶対に開けるなと言われている箱を開けてしまってから、人類の歴史を見ると権力組織には常に謀略と陰謀が付いて回ってきた。
 ここ、霞ヶ関でも、権力組織の頂点に君臨する一握りの役人共の世界でも例外ではないのだ。彼等は官僚組織と権力を守るために、謀略と陰謀の手段として、しばしば自分達に都合良く事態を進めるために[情報の一部をリーク(漏らす)]する手段を使う。彼等は決して自らの手を汚さずに目的を実行するために、策略に頭を使うのだ。

 国内に潜入しているテロリストグループがテロを実行すれば、国内の行政、政治と経済情勢がガタガタになる。それは9・11に起こったあの痛ましいテロを見ても明らかだ。そこで彼等は密かに暗殺リストを作成して、リストに上がっている人物を消すように指示を出した。だが……。

 Eグローバルコンサルティングの山田龍一に暗殺リストを渡してテログループの要人を消すように指示を出した霞ヶ関の高官が先程から議論を進めていた。
「Eグロの報告に拠ると、CIAが絡んできたようだな」
「Eグロの彼等に取ってはやりにくい相手ではあるね」
「我々に取っては、CIAを上手く利用すれば、このプロジェクトをより完璧にする可能性が出てきたな」
「それは、どう言うことかね」
「つまりですな、Eグロの連中は我々の計画を細部まで知ってしまったわけだ。出来ればEグロの奴らもついでに消してしまえば、我々に取っては好都合ってことだな」
「そうか、それが可能なら、より完璧だな」
 先日剣持等が没収したテログループの通信内容を報告したために、図らずも、米国のCIAが絡んでいる裏付けを霞ヶ関の高官に示すことになったのだ。
「それでだ、いつもの我々の常套手段のリークの手を使って、CIAを揺さぶって見てはどうかね」
「それはいい考えだ」
「果たしてCIAは我々が播いた餌に食いつくかね」
「わしは必ず食いつくと思うよ。CIAの連中はここのとこ核爆発の実験やらミサイルの発射やらで北朝鮮にやりたい放題やられて、米国内でも、あんたたちの諜報活動は一体どうなってるのかねと相当締め付けられている様子だから、今回のテロを実行できないとなると、困るのはCIAだ。日本国内で北朝鮮の工作員が絡んだ大規模なテロが発生すれば、彼等、つまり米国軍部のタカ派は、テロを口実に北朝鮮を武力攻撃して潰しにかかれるわけだよ」
「彼等に取っては口実さえあれば、直ぐにでも出撃できるわけだ」
「本当に北朝鮮のトップが絡んでいると言う証拠がないと難しいのではないかね」
「アハハ、その必要はないよ。イラクだって、調べて見たら結果的に何もなかったのに、アルカイダを匿っているだの核兵器を持っているだのと言う憶測だけであれだけのことをやった奴等だから、仮に北のトップが絡んでなかったとしてもだ、絡んでいると確実な情報を得た形をでっち上げるだけで十分だよ」
「日本の国内で、大規模なテロが実行されたら、世界中大騒ぎになって、国際世論を味方に付けるのは簡単だな」
「CIAにリークしたら、わしらはコーヒーでも飲んで高見の見物をしておればいいや。面白いことになるなぁ」
 一同は笑って散会した。

 議論の結果、霞ヶ関の高官筋からCIAに情報がリークされた。反応は直ぐ出た。
 トレメンド・ソシエッタの神山に名前を名乗らない男から電話があった。
「我々は、現在そちらで進めているプロジェクトの暗殺リストを持っている。暗殺を即時中止しろ。そちらが暗殺から手を引かなければ、我々はそちらの組織を全て消す」
 神山は一言も返事をせずに受話器を叩き付けた。
「このやろう、奴等はリークしやがった。おいっ、剣持、今後は霞ヶ関への報告はこっちで作文したろ。わしらはこのままじゃ許るさんでぇ」
 神山は今までにも霞ヶ関の汚いやり方に何回も意地悪されてきた。だから、電話があった時、即座にリークを察知した。Eグロとトレメンドの線からは絶対に情報は漏れない自信があった。なので、漏れたとすれば、霞ヶ関の筋に決まっている。役人どもの権謀術数(けんぼうじゅっすう)は身に沁みていたので、このプロジェクトを引き受けてから、常にそのことが頭の隅にこびりついていたのだ。

 神山はみなを集めて、今回の作戦を最初から見直すことにした。リークを口実に下りてしまっても僅かな赤字で済ませられるが、霞ヶ関の役人どもの汚いやり方に神山は簡単には下りないことにしたのだ。
「こんなことでわしらがビビッていたらや、あいつ等にバカにされるのがおちや。おまえらも今回は相当危ない山やから、全員そのつもりでいてや」
 それで、マチス、フォンタナ、カルパッチョ、ロランの四人の暗殺については一時行動を中止して、CIAには手を引いたと見せかけて、相手の気が緩んだ隙に一気に殺ってしまう方法を考えることにした。神山は怪電話の先がCIAだと直感し、確信を持っていた。

 CIAは霞ヶ関がリークした情報によって、トレメンド・ソシエッタの組織をつぶすことを最優先にしたのだ。結果的に霞ヶ関の目的であるテロリストグループを消すことが不可能になるかも知れないことに霞ヶ関の方では気付いていなかった。
 CIAは霞ヶ関で考えている以上に諜報活動は高度で徹底していた。霞ヶ関はCIAを甘く見過ぎていた。CIAもまた、米国の巨大な権力組織の一翼を担っているのだ。それは日本の役人が考えているよりも遥かに行動力がある。

六十七 抗争

 神山伝次郎は元は関西の暴力団の幹部として、筋者の世界では名が知られていた。当時は暴力団の縄張り争いが絶えず、伝次郎は幾多の修羅場を潜り抜け、周囲に一目を置かれていた。剣持弥一の父剣持弥太郎は関西系のマンションデベロッパー星雲の営業突撃部隊を率いて、地上げ屋とつるんで業績を伸ばしていた。地上げは時によって住民と大きなトラブルを引き起こす。そんなこじれにこじれた地上げに力を貸したのが神山だった。
 東京の投資顧問会社を率いる山田龍一の誘いで、弥太郎は龍一と共に関東のマンションデベロッパー、スター建設を立ち上げた。弥太郎は東京へ進出する時に神山伝次郎を連れてきた。スター建設は破竹の勢いで急成長し、当時連日経済新聞に記事が出ていた。

 一九九〇年代末、バブルが崩壊して、スター建設は倒産、神山も仕事がなくなった。それで、龍一は神山をトレメンド・ソシエッタの代表にと引っ張り、現在に至っているのだ。
 トレメンド・ソシエッタはイタリア語の名称で、和訳すると恐怖の会社だ。つまり、トレメンド・ソシエッタの主なミッションは様々なトラブルの処理だ。多くの引き合いは[邪魔者を消してくれ]である。
 そこで、着任早々、神山は、トレメンド・ソシエッタの社員の徹底的な教育から始めた。
 トラブル処理は危険の多い仕事だ。にも関わらず神山は社員に決して銃やナイフの携帯を許さなかった。しかし、万が一の場合、銃が使えないのでは話しにならない。それで、格闘技の他に社員の銃器の腕前の向上にも努めた。

 道路建設や鉄道の新線建設は公共工事の見直し、予算の削減問題に巻き込まれて、工事が凍結されている所は意外に多い。中には将来にわたって展望が望めず、工事を完全に諦めてしまった所もあるのだ。
 その一つとして、長野県伊那地方と岐阜県木曽地方結ぶ鉄道計画があった。着工は昭和四十二年だと言われるが、中央高速道路の開通と共に影が薄れて工事は完全に停止された。
 この鉄道建設の難関は長さ13kmと言われる神坂トンネル工事で、途中まで進んだ所で中断、水抜きボーリング中に湧き出した温泉で、今は有名な昼神温泉が出来たと言われている。

 トレメンド・ソシエッタは当時の国鉄清算事業団から工事を止めたトンネルの一部の払い下げを受けた後に廃坑を整備して、秘密の地下射撃訓練場を作り上げた。神坂トンネル工事跡地は地元の人間ですら状況を殆ど知らない幻のトンネルであった。トレメンド・ソシエッタの社員は、道路工事会社の工事屋を装って、時おり出入りしていたが、地元の人間との接触はなく、地元では工事の後始末をちんたらとやっている位に思われていたのだ。
 この廃坑の中で、射程数百メートルの標的を暗視望遠レンズ付きのライフルで人の頭部や心臓を一発で射抜く訓練の他に、射撃は行わないが、迫撃砲や手榴弾の取扱、色々な拳銃、自動小銃の射撃訓練、ゲリラやテロリストが好んで使う人が肩に担いで移動できるRPGー7形ロケット・ランチャーの取扱訓練も行われていた。銃器や弾薬は殺った奴から没収した物、軍関係からの横流し品など品数は十分に揃っていた。ライフルと拳銃だけは実弾で射撃訓練を行っていた。RPGー7形ロケット・ランチャーの取扱は簡単だから、ちょっとした訓練で実戦に使える。但し、射程距離がせいぜい300mしかないから、遠方からは狙えない。

 CIAはトレメンド・ソシエッタの社員暗殺の刺客を送り込んだが、ことごとく失敗した。
 剣持等は毎日数名の社員が自分達の組織を嗅ぎ回る不審な者がいないか東京駅前の八重洲界隈を監視をした。CIAの刺客はナイフか至近距離しか効力の無い小型の拳銃を携行していた。
 不審者を見付けると必ず不審者のバックアップの有無を確かめた上、密かに近付いて、不意に手刀で倒した上、ナイフか拳銃の所持を確かめた上、馴染みの警察に通報した。全て銃刀器所持、殺人未遂の現行犯逮捕なので、少なくとも十年位は刑務所から出て来られないようになるので、消したも同然だ。銃刀器の所持が認められている欧米と日本の環境が全く違うことにCIAの本部の連中は気付いていなかった。米国では、警官は簡単に銃を発砲するが、日本では警官ですら発砲には制限が多いのだ。
 今迄、直接トレメンドを狙うCIAの刺客四名とビル陰からライフルで狙うバックアップ一名の計五名を警察に通報して引き渡していた。

 マチスの動きが妖しいとトレメンドの監視員から連絡が入った。それで尾行すると、青山の国道246(青山通り)に面するレストランで後から車でやってきた何者かに接触している様子だ。監視を続ける内に、先にレストランに入った奴と彼の車を監視している別の車があった。サングラスをかけた二人の男が乗り込んでいた。遠くから車内を覗いた所では、後部座席には何もなかった。
 それで、女に変装した村上と社員の鈴木が監視する奴らの乗っている車の後ろ側に密かに近付いた。道行く人々は、恐らく買い物帰りの母親と娘を見ている感じだ。村上と鈴木のバックアップは剣持と木村と言う社員が張り付いていた。

 突然、村上が車のトランクを女物の買い物袋から取り出した金槌でガツンと叩いた。驚いた車内の二人が車から飛び出して来た。相手が女なので恐らく甘く見たのであろう。

六十八 ジェラシー

 村上は変装が好きで、メッチャ上手い。年寄りに変装することが多かったが、今日は四十代の主婦って感じで実に上手く変装していた。ボトムは黒いロングのスカート、トップは淡い紫のブラウスの上に白いレースのカーディガンを羽織っていた。鈴木は元々女の子にしたら可愛いって感じの顔立ちをしていたから、女性のメイクをするだけで、誰が見ても女の子だ。声を聞いたらニューハーフかな? とか思うだろう。今日はジーパンのボトムにふっくらしたピンクっぽいブラウスで、ブラにはパッドを入れていたから見た目のプロポーションはなかなかだ。なので、騒ぎに村上たちを見た通行人は誰も主婦と女の子、母親と娘のお買い物帰りって感じで見ていた。

 車のトランクがガツンとやられて飛び出した男の一人は、
「おいっ、なにしてるっ」
 と主婦の方に飛び掛った。だが、村上のつま先がさっと男の股間にヒットして男は、
「ううっ」
 とうつむき加減になった。そこへ鳩尾めがけてパンチが入って男は完全に腰を折った。村上は用意していた注射針の付いた手のひらにすっぽりと入るポンプを男の胸に突き刺していつも使っている猛毒を男の体内に注入、針をサッと抜き去って鈴木の手を取り逃げようとした。
 もう一人の男は相手が女の子だと思って、鈴木の腕を取って引き寄せた。
「こらっ、待ちなさい」
 二人の男はどうやら発音が日本人ではない。鈴木は男の尻に腕を回して、村上と同じ注射針のような道具で猛毒を注入した。ちくっとはするがそれ程痛くはない。瞬時に針を抜き去ると、村上が男を引き離した。その隙に鈴木は男から逃れて、二人、手を繋いで走った。二人は近くのビルに飛び込むとトイレを探して女性トイレに走りこんだ。
 トイレの中で、二人は変装を脱ぐと、男に戻って、素早くトイレを出て、別の入り口から別々に出て現場を離れた。
 胸をやられた男は早くも毒が回り始めて、手が痙攣、顔色も蒼白になった。別の尻にやられた男は毒の回りがやや遅れて、通行人の通報で遠くから警官が二人来るのが見えた。
 もう一人の異常に気付くと携帯でどこかに連絡を入れた。警官が近付いた時、男は警官を手振りで制した。そこに、青地に白文字の外交官ナンバープレートを付けた大型のBMWが滑り込んできて、警官を制して、二人の男を抱きかかえるように後部座席に押し込み、どこかへ走り去った。
 マチスは後からやってきた男とまだ話しが続いている様子で、レストランの外には出てこなかった。剣持たちは、手分けをして、表の車とレストランの裏口の両方の監視を続けていた。

 林菓房は相変らず繁盛していた。工場が順調に稼動はじめてから、箱詰めなどの作業のパートタイマーを増やし、今ではパートが二十名近くに増えていた。晴子はお腹の赤ちゃんのこともあり、出産までは花屋を休ませてもらうことにした。出産後花屋に復帰するのが難しいならそれはそれで仕方がないと割り切っていた。それで、最近は武雄と二人で仲良く店を切り回していた。経理までは手が回らないので、経理の仕事は会計事務所から派遣されてきた男に任せた。武雄は時々帳簿に目を通し、状況を分り易く晴子に説明してくれるので、安心していた。祐樹は北海道に晴子と武雄が出張中チョンボしたのを反省して、今では自分の手帳を活用して仕事にミスがなくなった。それに、パートの主婦たちに人気があり、祐樹も結構嬉しがっている様子だった。
 ずっと病気もせずに毎日早朝から夜中まで働く武雄に、とうとうガタが来た。晴子と打ち合わせ中に急に具合が悪くなり、口から鮮血をはいたのだ。晴子は仰天した。すぐ救急車を呼んで、近くの病院に運び込んでもらった。
 病院の検査の結果、武雄は軽い胃潰瘍だそうだ。
「原因は多分仕事のストレスですよ」
 と医師は説明した。医師は約十日間入院を勧めたので、晴子は直ぐ手続きを取った。

 晴子は武雄が入院して、自分が普段武雄に何もしてあげられなかった分、彼の世話をしようと思った。最近晴子は武雄を想う気持ちが日増しに強くなり、頭の片方では武雄の気持ちを考えると距離を置くべきだと思うのだが、もう片方の頭の中では一度でも武雄に抱かれてみたい気持ちが渦を巻いていた。なので、晴子は武雄の世話ができる機会をくれた神様に感謝したい気持ちになっていた。義務感ではなくて、武雄の世話をしたいのだ。武雄は晴子の年下だし、武雄の気持ちを分かっていたから、晴子の中では恋慕うと言うより一方的に好きでたまらないと言う表現の方が近いように思っていた。
 所がだ、武雄が入院したと聞いて、武雄が面倒を見ている仲間たちの若い男女が次から次からお見舞いにやってきて、花束や縫いぐるみなどの贈り物の置き場がなくなるほどになった。おまけに、武雄と真澄と多恵が管理している仕事関係の女性も大勢お見舞いにやってきた。晴子はお見舞いに来る人たちの応対で、いい加減くたびれてしまう位だ。これでは、まるで有名なタレントみたいだ。あまりのお見舞いの多さに、看護婦(看護師)の間でも話題になって、武雄に色目をつかう若い看護師まで出て来た。武雄に好意を持っている女の子の何人かは毎日やって来て、いつまでも武雄にベタベタしているのだ。夜遅く仕事が終わる子たちは、面会時間をとっくに過ぎているのに見舞いに来るので、静かになるのは夜の十一時を回ってからだ。

 毎日やってきては武雄にべたべたくっ付いている子に、晴子はついに爆発してしまった。晴子は目じりを吊り上げて、
「あなたたち、武雄さんは病気なのよ。いい加減に帰りなさいよっ」
 晴子は帰宅してからもむかつく気持ちが治まらなかった。
「あたし、もしかして嫉妬しちゃったのかしら」
 晴子は生まれて初めての嫉妬心に自問自答した。
 晴子は、遠慮する武雄を説き伏せて、武雄のアパートのカギを借りた。新聞や郵便物でも整理してあげるつもりだった。
 だが、行って見てびっくり、玄関の扉を開けると、足の踏み場がなく、新聞、雑誌、残飯、汚れた下着……、もうあきれ返るばかりだ。無理も無い、武雄は毎日早朝の四時に出勤してきて、夜は遅い時は十一時過ぎに帰る。だから、考えてみると自分の身の回りをかまっている時間なんて全くないのだ。晴子は反省した。
「これじゃ、武雄さんが可哀想すぎるわ」
 晴子は急に申し訳ない気持ちで、泣き顔になってしまった。
 掃除好きの晴子は翌日から整理を始めた。けれど、どこから手をつけようか最初は考えるだけで無駄な時間を使ってしまった。
「掃除機を使い、洗濯機で汚れ物を洗うなんて、まだ当分無理だなぁ」
 と独りでつぶやいていた。

六十九 憂いを忘れる

 花屋の仕事をずっとお休みにしてもらった晴子は、やはり花たちから気持ちが離れるのは淋しかった。丁度今頃、高原の湿地を散策すれば、綺麗な[野萱草(のかんぞう)]に出会えるかも知れないなぁなどと思いながら、今日は朝から武雄のアパートの掃除をしていた。
「お見舞いは午後に行ってあげよう」
 そんな風に武雄のことを想っているのに、散らかった物を片付け、掃除をしながら、視線は武雄の女の影がないかと無意識に探しているのだ。武雄の病気見舞いに来る女性たちの多さに、晴子は改めて驚いたし、晴子が思わず嫉妬してしまったほど武雄にまとわりつく女も一人や二人じゃなかった。なので、武雄にはきっと親しく付き合っている女がいるはずだと思えた。
 頑張って掃除をした甲斐があって、ようやく部屋の中が小奇麗に片付いた。しかし、武雄の部屋には不思議と女の影は全くなかった。晴子は野萱草の花言葉[憂いを忘れる]のように、つい先ほどまで頭の中を占領していた憂いを忘れようと思った。武雄は今親しく付き合っている女性は一人もいないと言っていた。それなのに、武雄の言葉を心底信じていなかった自分。
「あたしって、相変らずダメだなぁ」
 晴子は今迄武雄を100%信じていなかったことを恥ずかしいと思った。人を好きになればなるほど、女性はだれでも相手の男に他の女が誰もいないことを確かめたい気持ちになるものだ。それも愛の形の一つかも知れない。
 考えて見れば、もし武雄が親しく付き合っている女性がいるならば、武雄の部屋がこんなに散らかっていたら、少しは片付けてやろうと言う気持ちになるだろう。晴子は、
「今頃、そんなことに気付くなんて」
 と苦笑いしてしまった。気をもんでいる自分が滑稽だ。
「明日、また朝から来て、汚れ物のお洗濯をしてあげよう」
 それで、今日はお片づけだけでおしまいにした。

 長い間、マチスは後からやってきた男と青山のレストランで話し合っていた。男は日系二世で米国のロスに住んでいるが、この一年間は任務で日本に住んでいると言った。

「その後、Mr.Yoda から衛星通信で連絡がありませんが?」
「実は、先日失踪してまだ戻っていません」
 二人は英語で話をしていた。
「えっ? 失踪? どうして失踪ですか」
「それが、仲間の五名が同時に失踪したんです」
「五名も? そりゃ、何かありましたね」
「はい。肝心の無線装置も戻っていないので、情報が漏れないか心配をしています。今の所、これと言ったアクシデントはありませんが」
「では、今後はあなたが私との情報交換の窓口になって頂けませんか」
「そうしましょう」
 二人は最近のテロリストグループの活動状況、CIAのサポートなどについて話し合い、ようやく席を立った。マチスは、
「では、私は別の出口から出ます。あなたも妨害に用心して下さい」
 と先に男を送り出した。
 男が正面の出入り口から立ち去るのを確かめて、マチスはレストランの裏口の方に向かった。裏口は主に食材の持ち込みやレストラン関係者の通用口になっていた。マチスは予め下調べをしてから、男に面会先を示したのだ。
 マチスは周囲の人影に気を付けながら、通用口を出た。そこに、見知らぬ男が二人立っていた。

七十 親の手抜き・真由美の場合

 月日の流れは速いものだ。自分の中ではついこの前まではピチピチとしたうら若い女だったのに、今では[オバサン]などと言われる年になってしまった。思い出すと、自分が初めて[オバサン]と呼ばれたのはいつだったろう。そうだ、自分が三十歳に手が届く頃に女子高生に道を聞かれた時だ。
「オバサン、中目黒の駅はどちらですか」
 古谷真由美は、その時、まさか自分に対して[オバサン]と声をかけられたことを信じなかった。いや、信じたくなかったのだ。あれから数年が過ぎて、今では[オバサン]と呼ばれてもようやく自然に受け入れられるようになった。
 男だって、近所のガキどもに、[オジサン、ボールとってよ]と面と向かって初めて[オジサン]と呼ばれた時、思わず自分の後ろに別の年配の男が居るんだと信じて後ろを振り返るだろう。ガキに[オジサン、早くボールを返してよ]と念を押されて、[オジサン]は自分だと悟らされた。そんな時、返すボールを[オジサン]と呼んだガキの足元めがけて思い切り投げつけるかも知れない。

 中目黒の古谷工務店社長、古谷真由美の父、真一は江戸時代から続いている工務店を祖父から引き継いで頑張っていた。母の由美は秋田杉を扱う材木問屋のつてで、秋田から嫁いできた。母は身体が丈夫でなかったが、子供の目で見ても色白で美しかった。父母の間には、結婚して間もなく男の子が誕生した。だが、二歳の時、風邪がこじれて肺炎に罹り、看病も虚しく息を引き取った。長男が他界した時、母のお腹には新しい命が育ちつつあった。長男が死んで半年後に女の子が誕生した。
 父母は女の子に[真由美]と命名した。真由美は父母にとって、とても分り易い名前だ。父が真一、母が由美。それで、真由美は自分の名前は親の手抜きだと思っていた。
 公立の中目黒小学校を卒業すると、真由美は地元の目黒第三中学から隣の祐天寺駅に近い都立目黒高校に通った。
 真由美が中学に進んだ時、母の由美は心臓の病が進んで他界した。以後真由美は母親なしで父に育てられた。と言っても父は工務店の仕事が多忙だったので、ほったらかしにされて自分で育ったようなものだ。
 高校の時、真由美は自分は工務店の一人娘なので、将来を考えて建築方面に進もうと思っていた。それで、受験勉強に精を出して、ストレートでW大学の理工学部の建築学科に進んだ。

 W大学の建築学科に入学して半年が過ぎたとき、真由美は同じ建築学科の二年先輩の九鬼(くかみ)清二と出会った。彼は一年浪人したので三歳年上だった。清二は和歌山県の新宮市の旧家の次男で、彼から聞いた話しでは、昔、平安から戦国時代にかけて、熊野灘から伊勢湾一帯、遠くは海外にまでその名を轟かせた有名な熊野水軍の末裔だそうだ。
 彼の父親は後妻の他に妾を二人も囲っているそうでなかなかの発展家で、妾の子息も含めると兄弟が多く大家族だった。彼が小学校の時に実母が他界して、その後は継母に育てられたようだ。

 清二と真由美は最初は先輩後輩の仲だったが、話が良く合ったので次第に恋が芽生えて深く付き合う仲になっていた。清二は大学を卒業すると、大手の建設会社に就職した。真由美は彼が就職後も付き合っていたが、彼は仕事が多忙らしくて、会う頻度は学生時代よりも、ずっと少なくなった。それでも二人は恋人どうしの関係を続けていた。真由美が大学を卒業して父の工務店を手伝うようになって、真由美は結婚したら、父の会社を引き継いで欲しいと話をした。清二は[真由美は一人っ子だから、ぼくも結婚したらその方がいいと思っている]と言ってくれていた。だが、清二の母親はどうやら強行に反対しているようだ。
「清二さん、あんさんはこの九鬼家の大切な息子やから、母親もおらん子を嫁さんにしたらあかん。母親がおらんなら、礼儀作法もできてへんやろ。うちは絶対に反対やからね」
 清二は[母親を説得するが、万一説得できなかったら無理を通すつもりだ]とまで言ってくれていた。真由美は清二を信じて、将来古谷工務店を清二が引き継いでくれるものと思っていた。

 真由美が大学を卒業して二年目の正月休みに清二が二人で旅行しないかと言ってきた。ここのとこ次第にデートの回数が減っていたし、真由美は彼の愛を確かめたい気持ちもあり、同意した。彼はフィジー島のパンフレットを持って来て、
「ここに行かないか」
 と言った。今までは真由美の気持ちを良く聞いてくれたのに、どうしたことか一方的だった。真由美はどうせ行くならフランスのパリに行ってルーブル美術館やオルセー美術館に行きたかったのだ。
 東京では木枯らしの吹く十二月末、二人は五泊六日の予定で、フィジー島に向けて旅立った。
 フィジー島は聞いていた通り暖かく、とても美しかった。特にエメラルドグリーンの海は喩えようもない位綺麗だった。二人は五日間素的なホテルに滞在して愛し合った。真由美は彼と付き合ってから一度も許していなかったが、フィジー島での二日目の夜、生まれて初めて男を自分の中に受け入れた。初めての夜はどうしてよいやら分らずにぎこちなく過ぎたが、次からは積極的に清二を愛した。真由美は清二が結婚してくれると信じていたから、特に抵抗も無く毎夜清二を心から愛した。

 フィジーから戻ると、街は新年の注連(しめ)飾りに変っていたが、それよりも、冬の東京の寒さをこれほどまで厳しく感じたことはなかった。
 清二は明日から仕事始めだからと言って直ぐに別れた。

 一月の半ば過ぎに、清二から電話があった。
「土日に実家に帰ってきた。継母(はは)は相変らずだったけど、家族全員に僕等の結婚を反対されちゃって」
「それで、あなたはどうなの」
「それが、もし結婚するなら縁を切る覚悟をしろって言われた」
「だから、あなたはどうなの」
「……」
「あたしのことを嫌いになったの」
「いや、真由美のことは好きだけど」
「じゃ、問題はないんじゃないの」
「僕は、家族と縁を切るなんて考えてもなかったから……」
「だったら。縁を切ってうちにいらっしゃいよ」
 真由美は必死だった。
「ぼく、やっぱダメだなぁ」
「あたしと結婚できないってこと?」
「……」
 清二がこんなにしどろもどろなのは付き合って初めてだ。
「はっきりしなさいよっ」
 ついに真由美は切れてしまった。
「すまん、結婚はできない」
 真由美は清二の口から今出た言葉が信じられなかった。
「そう、分った。あたしと縁がなかったことにしてくれってことね」
「ん。すまん」
 こんな話を電話で一言、
「すまん」
 で済むものだろうか。真由美はこれ以上聞いても仕方がないと思った。それで、
「じゃ、別れましょう。さようなら」
 そう言って受話器を置いた。直ぐに電話のベルがなった。清二だ。
「真由美、申し訳ない」
「あたし、もうあなたに話すことは何もないから」
 真由美は何年も付き合って清二がこんな奴だとは今迄想像もしなかった。真由美は一方的に電話を切った。泣くまいと歯を食いしばったが、溢れてくる涙を止めることはできなかった。
 なによりも、自分が愛した清二が女との別れ話の始末もろくに付けられないダメな男とは思いたくなかったし、継母の苛めに簡単に屈するやわな奴だと思いたくもなかった。同じ別れるなら、ウソでもいいから、もっとスマートに別れて欲しかった。それが悔しくてならないのだ。こんな大切な話を面と向かって言えずに電話で片付けようとした卑怯な性格も今初めて思い知らされたのも悔しかった。

 別れの電話から二ヶ月が過ぎて、真由美は身体の異常に気付いた。病院に行くと、妊娠だと知らされた。真由美は母親がいないので、こんな時母が生きていて欲しかったと思った。だが、一人で始末を考えるしかなかったのだ。考えに考えた末、真由美はシングルマザーの道を選んだ。
 生まれて来た子供は男の子だった。名前は父と相談して[(つよし)]にした。早いもので、剛は今年十二歳、来年は中学生だ。元気に育ってくれて、今でも自分の選択に間違いはなかったと思っている。

七十一 マチスの最後

 マチスに接触して来た男と打ち合わせをしているレストランには正面の出入り口の他に、シェフや食材の搬入業者が出入りする裏口があった。表はCIAの工作員らしき男二人を毒針で始末した。彼等の体は外交官ナンバーの車がさらって行ってくれたので、手間が省けた。今頃二人の容態が急変して大騒ぎをしているはずだ。表口は変装を解いて、サラリーマン風の背広に着替えて戻った村上と鈴木が見張っていた。剣持と武藤は裏口にマチスのバックアップがいないか念入りに調べた。
 居た! 通りを隔てた向かい側のビルの陰に警察大学の職員をしているコードネーム[ニューマン]が居た。こいつは暗殺リストの最後に上がっているやつで、顔写真を確かめてあったから、彼等の仲間だと直ぐに分かった。マチスをやるのは山本と佐々木の二人だが、剣持たちの通報を待って、裏口から少し離れた物影に隠れていた。

「おいっ、武藤、おまえさんはニューマンの気を引き付けてくれ。その隙にオレがやつの後ろに回りこんで絞めてやる」
「分った」
 武藤はニューマンの視線を意識して、ニューマンの方を見たりして、目障りなくらいうろうろ動いた。
 ニューマンはこっちの思惑通り、武藤の妙な動きを注意深く目で追っていた。密かにニューマンの後ろに回りこんだ剣持はいきなりニューマンの首を取って絞めた。
「ウウウッ」
 ニューマンは必死で腕を解こうとしてナイフを取り出した。剣持はナイフを持つ手を首を締め付けている手とは別の手で制した。そうしている内にニューマンは落ちた。落ちるとは、格闘技の言葉だ。首を締め付けると一時的に脳に行く血液が止まり失神するのだ。これを長く続けると死んでしまう。なので、落とすにはコツが要るのだ。ニューマンはナイフを力なく落とした。
 剣持は素早くニューマンに麻酔注射をした。これで四時間位は眠っているだろう。武藤と剣持は酔っ払いを両側から支えている感じで車まで連れて行って、ニューマンを後部座席に押し込んで両手両足を縛り、猿轡をしてから、山本と佐々木にOKの合図を送った。
 二人が裏口を見張っているとマチスが出て来た。山本がマチスに声をかけた。
「レストランの入り口はどちらですか」
 マチスが答えている暇もなく、佐々木の手刀がマチスの首に入った。佐々木は剣持同様、マチスに麻酔注射をした。車の後部座席にニューマンとマチスを転がして、車はスタートした。

 表口から出て来たマチスに会っていた男は、コインパーキングに駐車している車に乗る前にコインを入れていた。そこに鈴木が、
「すみません」
 と声をかけた。真面目な若いサラリーマン風の男だったので、男は特別に警戒している様子ではなかった。鈴木が声をかけて注意を逸らせている隙に村上が男のケツに猛毒の注射針を刺し毒を注入して、直ぐ抜き取った。
「痛たッ、おいっ、何をするんだ」
 男は村上の方を見た。見ると同時に村上のパンチが男の顔面にヒットした。男がひるんでいる間に、村上と鈴木は夫々別々の方向に歩み去った。男は車に乗り込んでエンジンをかけた。その時、手に猛烈な痺れが来た。男は一時間以内に息を引き取るだろうと思われた。

 マチスとニューマンを乗せた剣持と武藤は高樹町ランプから首都高に上がり、天王州アイルに向かって走った。天王州アイルに着くと、車は関係者以外は出入り禁止となっている倉庫に入った。車を倉庫に入れてシャッターを閉じると室内の明かりを点けて、麻酔が効いてぐったりしているマチスとニューマンを二人とも素っ裸にした。二人に毒液を注射して、大きな旅行カバン2つに一人ずつ裸の男を詰め込むと、村上は再び車を出した。車は首都高から東名高速に入り御殿場で降りると、富士五湖有料道路を通りS女史を始末した同じ場所に向かった。
 マチスとニューマンを始末して、剣持と武藤はその日の内に乗ってきた車をスクラップにして、二人は別々に東京に戻った。
 この様子をS女史の始末時同様、遠くから周囲の警戒を兼ねて、望遠レンズで監視している男が居た。男はトレメンド・ソシエッタの社員だった。

 マチスとマチスに接触した男が二人とも消されてしまった。それで、CIAとテロリストグループの連絡がぷっつりと切れてしまった。
 CIAは慌てた。日本の名も無いちっぽけな会社、トレメンド・ソシエッタを甘く見すぎた。今までに工作員が何人もやられて、ある者は警察に突き出され、ある者は毒殺されて、送り込んだ工作員はことごとくやられてしまった。これにはCIA側でも驚きを隠せなかった。何と言っても、彼等は銃もナイフも使わずに殆ど素手で始末しているのだ。彼等から見ると信じられない状態になっていた。
 それで、CIAは方針を変更した。

「神山さん、CIAの者だが、ご都合のよろしい時にお目にかかれませんか?」
 今度は前と違って、最初からCIAだと名乗ってきた。
「会おてもええけどなぁ、あんたこの前わいらにタダじゃすまんでぇと脅しをかけたんとちがいますか」
「よく分りましたね」
「おいっ、このアホたれが、あんた誰に向かって電話しとるのか知っとるのか」
 神山は啖呵を切った。
「はい。分っています」
 相手は神山に完全に呑み込まれていた。
「あんたとこの子分、何人生き残っとるんや」
「いや、殆ど全滅です」
「そやろ、わしらを舐めてかかったら許さんでぇ」
「はい。神山様」
 最初は神山さんと言っていたくせに、神山に脅されて神山様に変った。
「それでですね、神山様のご高見を是非伺いたいと思いまして」
「アホなやっちゃ。何がご高見じゃ。あんたら、プライドのかけらもないんかぁ」

 結局CIAの窓口に出たやつはすっかり神山のペースに乗せられて、彼等の手の内を全部しゃべらせられてしまった。
 要は、トレメンド・ソシエッタに五ミリオンダラー、つまり五百万ドル(その時点の換算レートで約四億七千万円)を活動資金として援助させて欲しい。その代わりに、テログループにこのまま計画を遂行させてはもらえないか、CIAとしては北朝鮮対策として、どうしても彼等(テロリスト一味)に手を貸してもらいたいのだ。
 少し前、北朝鮮筋から米国本土の国務省のコンピューターがハッカーにやられ、国連決議を無視してミサイルは発射するし、彼等はやりたい放題で、CIAとしても、本国の上層部から締め付けられて困っているので助けて欲しいと説明した。

 神山はCIAの申し出をあっさり断った。要は蹴ったのだ。CIAの担当者が困っている様子は電話を通じて神山にも感じられた。
「最初は脅しで来て、ダメだと分ったら下手に出やがって、今度は懐柔策かよ。アホたれめが。あんなやつらを誰が信用するもんか」

七十二 モリジアーニの軌跡 Ⅰ

 コードネーム[モリジアーニ]の本名は川本(すぐる)だ。卓は高校まで栃木県宇都宮市に近い上三川(かみのかわ)町で生まれ育った。高校も地元の上三川高校だった。父、川本(いさお)は地元にあるN自動車栃木工場に勤めていた。家族は父母と三歳下の妹と四人で平凡なサラリーマン一家であった。

 卓が高校一年生の時に、社会科の勉強で防衛白書を読んだのがきっかけで、防衛装備に興味を持った。特に兵器が好きだった訳ではないが、普段見慣れない数々の装備に興味を抱いたのだ。親は子供の進路や将来性に関心を持つのが当たり前だが、高校生あたりで将来の自分の行く末をしっかりと意識している者は多くは無く、大抵ほんのちょっとしたきっかけで自分の方向が決まってしまう場合が多いのだ。
 高校二年に進級した時、卓は防衛白書に書いてあった防衛大学校に進もうと自分で進路を決めて父母に相談した。父は卓が普通の大学を出て自分が勤めるN自動車に入社したらどうだと言ったが、母が卓の肩を持ってくれた。それで、卓の希望通り、防衛大学校を目指して受験勉強を始めた。卓は自分の目標ができたので、毎日一所懸命に受験勉強をした。その甲斐あって、ストレートで防衛大学校の入学試験に合格した。

 防衛大学校は神奈川県横須賀の久里浜に近い浦賀にある。栃木県の田舎町、上三川町から通うことはできないから、当然寮生活になる。父母は父親の安月給で妹の進学と合わせて学費をとても負担できないと心配して、頭を悩ませた。それで、学費の一部を銀行ローンでカバーする覚悟をしていた。
 所がだ、卓がもらってきた入学案内を見て父母はビックリ仰天した。案内書によると、防衛大学校は授業料は免除で一切授業料を用意する必要がなく、衣食住は全額税金でカバーされるのでタダ、おまけに毎月十万六千円も学生手当てが出るのだ。これではタダで勉強をさせてもらう上に月給までもらうことになる。
「あんたは全く親孝行だねぇ」
 と母親は目に涙を溜めていた。つい先日まで銀行から借金をする覚悟をしたばかりだから無理もない。

 高校を卒業すると卓は両親の元を離れて横須賀に移住した。手厚い国の助成があったので、卓は家に一銭も学費の迷惑をかけず、金のことは心配なく勉学に打ち込んだ。
 大学を卒業すると、ごく自然に防衛施設庁に入った。現在は統合されて防衛省の装備施設本部に在籍している。
 防衛省内では、防衛大学校の卒業生はエリートだ。それで昇進も早い。卓も両親も防衛大学校に進んで良かったと思っている。
 卓は防衛大学校時代から防衛装備、武器弾薬について積極的に勉強した。そのため若いのに知識が広く、防衛装備品の調達計画などを司る装備施設本部の若手中心として活躍していた。
 川本卓ことモリジアーニはフォンタナ、カルパッチョ、ロランの住む目黒西山住宅の直ぐそばにある防衛省西山住宅に住んでいた。

 卓が二十歳になった時、大学の先輩(コードネーム[カミーユ])の誘いで休日に[世界情勢を考える会]に顔を出してみた。参加者は四十名位いた。参加して見ると、話題は世界の火薬庫と言われる中東、アフリカ諸国をはじめ、アフガンや中国のウイグル自治区、チベット自治区など広範囲の地域の民族独立運動や内紛について、反体制側からの見地で熱っぽく議論が展開されていた。その中にはアルカイダや北朝鮮の話題も含まれていた。
 途中からの出席者の多くがこの方面の知識の深さに驚かされたが。最初卓は場違いの所に来てしまったと感じていた。だが、何度も参加する内に、卓の中で新聞や雑誌で報道されている内容とかなり違いがあり、自分ももう少し勉強してみようと言う気持ちになった。

 そんなある日、先輩からある計画とその計画に加わっているメンバーについて話があり、いつの間にか卓はメンバーに入ってしまっていた。
 防衛省に入省して後も、この計画に加わっている仲間たちと交流があった。仲間たちの絶対的なルールは普段はごく普通の社会人として過ごし、絶対にこの計画に関わることを口外しないことになっていた。仲間たちはどの者も街中で会ってもこの話は絶対に口にすることはなかった。
 仲間どうしの連絡も電話を使うことは一切なかった。連絡は時々自宅に届く運送会社のメール便だけで、内容は全て暗号化してあり、万一他人の手に渡ってもまったく意味をなさないものであった。

 剣持たちは、モリジアーニに絞って内偵活動を再開していた。神山がCIAの提案を蹴っ飛ばして以来、CIAの工作員の目立った尾行は途絶えていた。だが、剣持たちは用心して焦らずに内偵を続けていた。

七十三 モリジアーニの軌跡 Ⅱ

 川本卓ことモリジアーニのことは、その後十分に調べ上げた。その上で、武雄の仲間の溝口真里菜を山田龍一から本件の依頼主の官界の高官に根回しをして、臨時の派遣社員(非正規職員)としてモリジアーニの所属する部署に潜入させることに成功した。彼女のミッションはモリジアーニが出張する日時と出張先の情報収集だ。これは、内部におれば簡単に分ることなので特に難しいことではなかった。溝口真里菜は巧みにモリジアーニ、つまり川本卓に接近して彼と仲良しになっていた。所属先の仕事は雑用係であったから、時間的な余裕は十分にあった。
 剣持たちは神山を交えて作戦について調整した。
「川上のような奴はな、自尊心をメチャクチャにしてやれば、簡単に吐くやろな」
「だいたいエリートの役人はなぁ、周りがちやほやするやろ、そやからオレサマは特別やとかオレサマは偉いんやとか思うとるんや」
「そこでや、あいつをうまいこと捕まえて、例の倉庫に連れ込んで可愛がってやれや。多分全部しゃべるやろ」
 といつもの調子で神山が締めくくった。
「吐いたあと、始末しますか」
「いや、始末せんでもええ。脅しをかけてやれば、おとなしゅうしとるやろ」
 神山は役人の扱いにはかなり経験があった。

 八月の暑い日に、真里菜から連絡が入った。
「明日××重工に行くらしいよ。出るのは午後一だわね。出たら携帯に速メするわよ」
「分った」
 村上は武雄の仲間のピー子とデコにいつもの倉庫に来るように連絡を入れていた。ピー子は男を苛めるのが大好きな超Sの女の子だ。本人は女子高生だと言っているが、学校に通っている所を見たことがない。プロポーションはなかなかの可愛い子だから、普段会ってもとても超Sな女の子とは思えない。

 その日の午後、武藤が運転手をして、佐々木が助手席に乗り込み、JR市ヶ谷駅に近い防衛省の正門付近で待機していた。車は黒塗りのクラウンだった。川本(モリジアーニ)は庁舎D棟におり、正門まで歩いて来るはずだ。最近は業者との癒着に対する世間の目が厳しく、昔と違って業者の社有車で出迎えても断られるのがおちだ。それで、出張先の企業の最寄り駅までの送迎を行っている場合が殆どだ。
 それを承知で、武藤たちは川本が正門を出てくるのを待った。川本の顔は事前に頭に叩き込んであったから、見れば直ぐ分かる。
 しばらくすると川本が正門を出てきた。JR市ヶ谷駅に向かっている。武藤たちは車のハザードランプを点滅させて、ゆっくりと川本の後ろをつけた。
 少し人がまばらになった所で、佐々木が飛び出した。
「もしもし」
 声をかけられて、川本は振り向いた。
「あのぅ、川本様でいらっしゃいますよね」
「そうですが、何か?」
「私××重工の者ですが、社の方から本日こちらにお越し下さると伺っております。たまたま通りかかりましたら、川本様らしい方が歩いておられましたので、私はこれから社に戻りますので、是非ご一緒させていただければと思いまして」
 川本は運転手付きの黒塗りの車をちらっと見た。
「そうか、ついでなら助かるね」
「ご一緒させて頂いてもよろしいですか」
「ああ、いいよ。どうせ同じ所に行くんだから」
 と川本は威厳を保った顔つきで車の方に向きを変えた。佐々木は後部ドアをサッと開けて川本を車に招き入れた。佐々木が助手席に乗り込むと、武藤はドアロックを確認して、車のスピードを上げた。後部座席のドアはチャイルドロックをセットしてあり、外からでないと開かない。

 しばらく走った所で、川本は方向が違うことに気付いた。
「君っ、あんたの会社と逆方向じゃないかな」
「……」
 佐々木も武藤も無言を通した。川本の顔には不安の表情がよぎったが、いつも業者に見せているような威厳を保った顔に直ぐもどり、川本も口をきかなくなった。
 車は、首都高1号を羽田方面に向かって走り、平和島で降りて、平和島からその先の東京湾に面した京浜島に走り、京浜島にある空き倉庫に滑り込んだ。シャッターが下りると、佐々木が、
「おいっ、出ろ!」
 と川本を車から引き摺り下ろした。倉庫の中には村上や剣持を入れて五名の男たちが立っていた。
 川本はそこでようやく異常を確信した。どうやら誘拐されたらしいと。
 川本は先ほどまで運転手だった武藤にどつかれて、ガランとした倉庫の真ん中にある椅子に座らせられた。川本は居合わせた男たちが皆体格の良い自分よりでかい男たちなので、抵抗する気力が萎えて、大人しく椅子に座った。男たちは皆無言だった。それが何とも不気味に思えた。
 川本は二人の男に両手を取られていた。二人の男は川本の腕を椅子に縛り付けた。するともう一人が川本のズボンもブリーフも脱がせて下半身を裸にした。続いて上着とYシャツはナイフで引き裂いて、上半身から剥ぎ取った。それで、川本は上も下も素っ裸にされてしまった。

 男は、特にエリート官僚のような(やから)は、辱めに弱い。裸にされてしまうとそれだけで、先ほどまで偉そうに威厳を保っていたのがウソのようになる。
 剣持が口を開いた。
「あんたに聞きたいことがあってよぉ、ちょい顔を貸してもらったぜ」
「……」
「これから質問することに答えろ。真面目に答えたら生かして帰してやる。もしもオレたちをバカにして真面目に答えなかったら、明日にはあんたの真っ裸の体は、そこの東京湾に沈んでるぜ。これはタダの脅しじゃない。オレたちはあんた一人くらい、殺るのはどおってことはないんだ。分ったかっ」
 川本は口を開いた。
「何を聞きたいんだ?」
 そこで、剣持たちの質問が始まった。

七十四 モリジアーニの軌跡 Ⅲ

「お前に聞きてぇことは、お前が入ってる秘密結社のことだ」
 剣持がモリジアーニこと川本に答えた。
「秘密結社って何のことだ?」
「バカヤロー、あくまでシラを切るつもりなら、もうちょい痛めつけるぞ。お前のことは全部知ってるんだ。上三川高校、オヤジは功、N自動車の社員だ。おふくろに妹が一人居るだろ? あんたは防大出のエリートだ。なんなら、お前の妹をここに引っ張って来てやろうか?」
 川本は自分のことをかなり調べられていると悟った。
「だから、何が聞きたい?」
「お前等が計画している爆破計画のことだ」
 それで川本は自分が今どうしてこんな目に遭っているのか100%理解した。
「どこでそんなことを聞いた?」
「お前、今の自分の立場が分ってねぇな。お前は質問できねぇんだよ」
「こんなことをしたら、警察がただじゃおかないぞ」
 川本は頑張った。
「お前はほんとに分ってねぇな。お前等の計画がバレたら、ブタ箱に入るのはどっちだよ。お前等だよ」
 と言って剣持はニヤっとした。その顔を見て川本は剣持たちここに居る連中がもしかして警察に繋がっているのかも知れないと観念した。

「おいっ、彼女を呼んでくれ」
「はい」
 佐々木がピー子を呼びに行った。ピー子とデコは缶コーヒーを飲んでいた。
「女王様に来てくれってよ」
「そう」
 ピー子とデコは揃って佐々木の後を追って倉庫の中に入った。真ん中に素っ裸にされた男が座らされていた。
 ピー子は剣持に会釈すると履いていたジーパンとブラウスを脱いだ。ピー子の綺麗なボディにSMの女王様らしいSMボンテージ姿が現れた。彼女はちゃんとマスクも着けた。皮のしごき用の鞭も持っていた。
 剣持はピー子に紙切れを渡した。そこに質問事項が列挙してあった。
「手を縛っている紐を解いてやれ」
 鈴木が川本の後ろに回り紐をほどいてやった。
 デコは見物席よろしく、壁側にあった折り畳みの椅子を持ってきて馬乗り姿でショートパンツから出たデコのピッチリした脚を前に投げ出して座った。

「おいっ、そこの坊や、女王様の質問にちゃんと答えろよ」
 そう言って手始めにピー子は川本の胸をめがけて鞭をビシッと振った。反射的に川本の手が動いた。川本は鞭の端をさっと手で受けると鞭を自分の方に引っ張った。SMプレイではルール違反だが、川本はそっちの方は何も経験が無かったから無理も無い。とっさに防御したのだろう。ピー子はいきなり引っ張られて川本めがけてよろめいた。だが、彼女は慣れていた。
「奴隷のくせに女王様に向かってなんだ」
 と口で返した。
 その時、村上の足がヒュッと川本の脇腹にヒットした。不意を突かれた村上の蹴りを除けられず川本は、
「ウウッ」
 とうなった。生身を革靴で蹴られたら相当に痛い。

「この奴隷、礼儀知らずにお仕置きだ。そこに四つん這いになれっ」
 ピー子の声が弾んだ。川本が渋ると、また村上が蹴りを入れる仕草をした。[このままじゃ殺されるかも知れない]と川本は覚悟してピー子の前に四つん這いになった。
「こら奴隷、お前のその汚いケツを見せろ」
 普通の男は裸の前側を見せるのはまだ我慢ができるものだ。だがケツを他人に覗かれるのはなんとも屈辱的で耐え難いものだ。川本はこれで完全に自尊心を砕かれてしまった。
 ピー子は突き出された川本の尻に鞭を一発バシッと炸裂させた。
「痛てぇっ」
 と思わず川本は悲鳴をあげた。
「女王様に失礼をしたお仕置きはまだ済んでないぞ」
 とピー子は川本のケツの穴にでかい浣腸を押し込んだ。押し込むと同時に浣腸液を注入した。川本は浣腸を抜き取ろうとしたが鞭が飛んできた。

 ややあって、川本の顔が赤くなって苦しそうな表情に変った。
「すみません、トイレに行かせて下さい」
「トイレなんてねぇよ。あっちの隅で出してこい。この奴隷が」
 それで、川本は倉庫の隅に走った。そこで腹の中のものをドバッと出した。そばに来たピー子が
「そこの水道のあるとこに行って四つん這いになれっ」
 と命令して皮の鞭を川本の首に引っ掛けて引っ張って行った。ピー子はバケツの水を川本の尻にザブッと引っ掛けた。それからまた川本の首に鞭をひっかけて真ん中まで引っ張っていった。
「どうだ、答える気になったか」
「はい、女王様」
 川本はピー子のペースにはまった。川本はピー子の前に跪いていた。
 そこでピー子は質問を始めた。
「お前の仲間は何人だ?」
「大体四十人です」
「大体はねえだろ? 正確に答えろ」
「正確なとこは知りません」
「おいっ、奴隷、ウソをつくなよ」
「はい、ウソではありません。女王様」
「じゃ、次だ。頭は誰だ」
「外務省のKさんです」
「正直に答えてよろしい。では次。爆破装置作りは誰が関わってるんだ?」
「僕とそれに僕と同じ防衛省のSさんとIさん、警察庁のTさん、科学警察研のMさん、それと文部科学省のYさんの合計六名です」
「よろしい。では次。お前の役目を言って見ろ」
「僕は直接装置作りはしてません。主に武器弾薬の情報提供、爆薬の入手先からの受取、爆薬以外の材料調達なんかです」
「よろしい。では次。爆破装置をどこで作っているんだ。答えろ」
「知りません」
「こら、奴隷、またお仕置きしてやろう。向こうを向いてケツを出せ」
 川本は[また浣腸かよぅ。我慢するか]と思った。所が女王様ことピー子は持参の小さなバッグから[バイブ]を取り出して川本のケツの穴に突っ込んでスイッチを入れた。
 我慢していた川本もこれには参った。
「すみません、答えます」
「よし、答えろ」
 ピー子はバイブを引き抜いて、ポンと投げた。
 今までの場面はバチバチとデジカメで撮られていた。おまけに、ICレコーダーで川本が答えた事は全部デコが録音していた。
「作っている場所は、渋谷のカトリック教会の地下室です」
「それを早く言えっ」
 また鞭が飛んだ。川本の背中は蚯蚓腫(みみずば)れに赤くなっていた。
「爆破装置作りの頭は誰だ?」
「警察のTさんと防衛省のSさんです」
「お前等、いつ実行する予定だ?」
「分りません」
「こらっ、まだお仕置きして欲しいのか?」
 また鞭が飛んだ。
「今のとこ、総選挙直後の日です」
「何でだ?」
「今のとこ九月十日が有力です。与野党逆転の可能性があって、選挙の次の日だと」
「へぇーっ? 九月十一日を狙ってるのか? 新政権誕生の日に」
「はい」
「CIAとの交渉窓口は誰だ?」
「知りません。CIAの話は今初めて聞きました」
「ウソつけっ」
 ピー子はヒールの細いかがとで、川本の足の甲を踏んづけた。
「いたぁ~~っ」
 川本の悲鳴が上がった。
「答えろっ」
 容赦なく鞭が飛んだ。
「答えます。外務省のKさんとMさんです」
「小出しにするな。このバカ」
 ピー子の苛めは続いた。
「爆破装置はいつから作っているのだ?」
「もう半年になります」
「薬はどこから手に入れた?」
「米軍からです。詳しいことは知りません。いつもL商事のHさんが窓口で持ってきてくれます」
「北朝鮮と連絡網があるだろ?」
「はい」
「窓口はどこの誰だ?」
「K通商のAさんです」
 K通商は北朝鮮と日本の交易の窓口にもなっている。

 剣持がピー子に目で合図した。
「おい、奴隷、お前はちゃんと答えた。褒美をやろう」
「……」
「ここを舐めさせてやる。舐めろ」
 そう言ってピー子は川本の鼻先に自分の乳房を突き出した。同時に川本の男根を握ってやった。川本は言われた通りピー子の乳房を舐めた。
 剣持が口を開いた。
「おいっ、川本、お前がもし今日のことを誰かにしゃべったらどうなるか分かるか」
「……」
「ちょっとでもしゃべってみろ。そうしたら今日のお前の恥ずかしい写真をお前の勤め先のFAXにどんどん送りつけてやるぞ。お前のオヤジのN自動車にも送ってやる。いいか、もしお前が約束を守ったら、オレたちは何もしない。ここに居るやつらは皆口が堅い。だがな警察からリークされてもオレたちには関係が無い。しかしだ、その場合もお前の写真は一切出さない。これだけは約束してやる」
「……」
「これでお前を許してやる。上着は切り裂いたから、そこの作業服を着て行け。言っておくが、この倉庫は無断借用だ。お前が後で調べても残念だが何も出て来ないさ。今日のことをお前の中に一生しまっておく約束ができるか?」
「もし出来なかったら?」
「そりゃ、仕方ねぇな。それならお前を消すだけさ。お前一人位失踪させるのはわけはねぇ。お前、失踪者が年間何人いるのか分かってるのか? 九万人以上だ。お前一人くらい消してもどうってことはないんだ」
「約束します。絶対に守ります」
「そうだ、その方がお前の将来のためだ。もう秘密結社の仲間には用がないだろ? あいつらとも今日から一切手を切れ。分ったか?」
「はい」

「おいっ、こいつを大森駅まで送ってやれ」
 と武藤に指示した。
 間もなく、武藤に送られて川本は大森駅に向けて倉庫を後にした。武藤は川本を下ろすと、黒塗りのクラウンをそのまま蒲田の解体屋に運んでスクラップにしてくれと頼んで電車で立ち去った。
 ピー子とデコは二人が乗ってきた軽自動車に乗り込み、佐々木が運転して渋谷方面に向かった。軽は剣持の車だった。
 残った男たちは八重洲のトレメンド・ソシエッタに戻った。

「伝さんの言った通りでした」
「やつは全部吐いたかいな?」
「吐きました」
「爆破装置を作っている奴等は情報を警察に持っていったろ。それでええな?」
 異論を差し挟むやつはいなかった。
 神山伝次郎は山田龍一と相談して、直接警察庁に情報を提供した。依頼先の官界の高官筋には適当に作文したものを中間報告として送りつけた。CIAにリークした報復だ。

 山田龍一からの細かい情報を元に警察庁の特捜部が動いた。しばらく内偵を続けた後、八月末の暑い日に、約五十名を動員して渋谷のカトリック教会を包囲して、地下室に突入した。
 そこには川本が吐いた通り、コードネームカルパッチョ、ロラン、ホフマン、フォンタナの他にユトリロ、ムンク、ステラが集まって爆破装置の最後の仕上げと取扱いの周知徹底を行っていた。
 特捜部が彼等全員の身柄を拘束して、現行犯として爆破装置や図面、資料など一切を持ち去った。この先、彼等の自白によって、恐らく残った全員が逮捕される日は遠くないと思われた。彼等の名前の中に、不思議なことに防衛省のモリジアーニこと川本卓の名前が欠け落ちていて、どこにも出てなかった。

 特捜部の逮捕劇の情報が新聞に出た時、神山は全員を集めて労をねぎらった。
「みなご苦労だった。お陰で、わしらの仕事は一件落着や」
「これで一杯飲んでくれや」
 と言って神山は皆に封筒を渡した。その中に[楢崎武雄殿]と書いた封筒が入っていた。 神山はそれを剣持に渡した
「あいつらにはいつも世話になるなぁ。これ少ないけど渡しといてや」
 後日武雄はピー子とデコに十分な謝礼を渡した。
「武さん、こんなにもらってもいいの?」
「ん。とっといて。病気見舞いに来てくれたオレからのお礼の気持ちも入ってる」
「武さん、また入院してよ」
 と言って二人は笑いこけた。

 剣持は久しぶりに晴子に電話をした。
「長い間、ほったらかしにして連絡も入れずにごめん。やっと仕事の区切りがついた。まだ僕のことを忘れてなかったらデートしてくれるかな?」
 晴子はもちろん
「はい」
 と答えたが、自分の中では何か複雑な気持ちが渦巻いていたのだ。

七十五 大規模、同時多発テロ未遂事件

 当初国政選挙(衆議院議員総選挙)は九月十日が有力と目されていた。それで、テロリストたちは翌日の9・11を実行日と決めて準備を進めていたようだ。だが、その後八月三十日に総選挙が確定した。従って、もしもテロの準備が間に合えばテロリストたちは八月三十一日か九月一日に実行日を前倒ししたかも知れなかった。
 だが、警察の特捜部はすんでの所で一味の現行犯逮捕に漕ぎ着けた。結果として、都市部を狙った傷ましい同時多発テロは警察当局によって未然に阻止されたと言える。
 とこんな解説付きで、八月二十九日朝、テレビ、新聞各社から大々的にニュースが報じられた。

 このニュースを見た橋口理恵は目を疑った。容疑者の中に彼女の恋人の[文部科学省事務官吉田浩二]の名前が出ていたからだ。理恵は昨日も一昨日も吉田に電話を入れたがつながらなかった。多分仕事の都合だろうと思っていたが、こともあろうか、突然過ぎて一瞬どうしたら良いのか分からなかった。
 理恵は自分のボロボロになってしまった心の傷と隙間を埋めてくれて、理恵を優しく包み込んでくれる浩二を心から愛するようになっていた。それで、理恵は会う度に浩二に尽くしてきた。
 警察に浩二が自分の恋人であると説明して面会できるか問い合わせた結果、九月になって、浩二に面会が許された。
「理恵、ごめんね。理恵には何も話しができなくて、悩んでいたんだ」
「あたし、浩二をずっと待ってるから」
「ありがとう」
 自分が下り坂を転げ落ちている時に、しっかりと支えてくれる理恵を、浩二は改めてありがたいと思った。
「待っているから」
 と理恵が言った一言に浩二はこれから訪れる苦渋の日々を乗り越えて生きていこうと思った。

 犯行未遂の凶器準備の現行犯ではあったが、まだ他人に何も迷惑をかけていない状態だったので、裁判は早く始まり、半年後に結審があった。
 吉田浩二は主犯ではなく、思想的な問題もなく、また日常の業務は極めて真面目で周囲の評判が良かったことから、一番軽い懲役三年、執行猶予五年の判決だった。釈放された時、浩二は役所を懲戒免職となり職場を追われる身となった。理恵は浩二が長い刑務所暮らしを免れただけでも嬉しかった。もし、長期間服役することになっても、理恵は浩二と共に生きようと思っていたのだ。

 役所をクビになり、おりからの不景気で浩二は勤め口を見つけることができなかった。
 理恵は自分のヘルスの稼ぎで浩二を支えた。浩二が方々勤め口を探していると、役所に在職中付き合いのあった、原子力発電燃料用部品の金属加工の下請けをしている会社の社長が、
「よかったらうちに来ませんか」
 と言ってくれた。
「吉田さんの仕事振りと真面目さは僕が良く知ってますから」
 と嬉しい言葉をかけてくれた。地獄で見た仏様だ。
 勤め場所は茨城県の田舎町だったが、浩二は社長の行為を受け入れることにした。

「理恵、すまないけど、そんなわけで来週田舎に引っ越そうと思うんだ」
「あたしも行っちゃダメ?」
「今は理恵を幸せにしてあげる自信はないけど、それで良かったら、僕は嬉しいね」
「じゃ、連れて行って下さらない?」
「ずっと田舎暮らしになるんだけどいいか」
「あたしには浩二が居てくれたらいいの」
 理恵はヘルスの会社を退職して、二人は茨城県の田舎町にアパートを借りて移り住んだ。浩二と理恵の同棲生活が始まった。

 浩二の仕事が落ち着いて、二人の生活が軌道に乗ったとき、仕事から戻った浩二が、
「理恵、結婚してくれないか」
 と言った。突然だったので、理恵は驚いたが、いつの日にか自然にそんなふうになるといいなと思っていたのですごく嬉しかった。
 理恵は浩二に抱きついて、二人はそのまま倒れこんで愛し合った。
「実は、社長に理恵のことを話して、仲人をお願いしたんだ。僕と理恵の親と兄弟だけで結婚式を挙げたいんだけどそれでもいい?」
 理恵に反対する理由はなかった。
「いいわ」
 まもなく二人は内々で挙式して晴れて夫婦になった。理恵は浩二と相談して、浩二の会社の近くに小さな家を探すことにした。こつこつと貯めた理恵の貯金を頭金にして、僅かだが、足りない分を銀行から借りて、小さな庭付きの家を買った。田舎町なので、理恵の貯金で殆ど足りた。

 やがて、浩二と理恵には娘と息子ができた。二人は幼い子供達と共に、幸せな毎日を過ごしていた。
 人の運、不運とは不思議なものだ。理恵は一生へばりついて離れない蠍を三匹も彫られてしまう惨めな目に遭ったけれど、最愛の浩二に出会えてとても幸せになることができたのだ。浩二も警察に逮捕されて、人生が狂ってしまったが、可愛い理恵に愛されて毎日が幸せであった。
 理恵は林晴子や堀口拳のことを、もう遠い過去のように、すっかり忘れていた。

七十六 背伸びした恋

 晴子は[茴香(ういきょう)]が好きだった。魚料理には、これを使うと不思議と生臭さが消えて美味しく食べられるので、庭の片隅に植えておいて、ちょくちょく針金のような葉っぱを摘まんできては使っていた。茴香と言う名前は以前から知ってはいたが、晴子は普段はこの花のことを[フェンネル(Fennel)]と呼んでいた。他にも[和蘭芹]とも呼ばれるし、古くは[呉の(おも)]などとも呼んだそうだが、晴子はこんな呼び名は使ったことがなかった。
 芹科ウイキョウ属なので、芹の仲間だ。ただ、こいつはほったらかしにしていると、高さが3m以上にも伸びるので、晴子は料理に使う度に上の方を摘み取ってやった。茴香の花言葉は[背伸びした恋][精神的強さ][強い意志][どんな賛美でもあなたを語り尽くせない][賞賛に値する][よい香り][賛美][力量]などと沢山あるけれど、庭の茴香を見る度に、[精神的強さ]を思い出して[あたし、真由美さんのように、もっと強くならなくちゃ]と思うのだった。

 八月の旧盆が過ぎた月曜日に、
「長野の方にドライブに行ってみませんか」
 と剣持から電話が来た。晴子はしばらくの間花屋の仕事をお休みにしてもらっていたが、剣持はそれを知らずに晴子のお休みが月曜日だと思って、わざわざ月曜日お休みを取ったらしい。だが、長い間ほったらかしにされたにしては、ちゃんと覚えていてくれたのが、少し嬉しかった。
「久しぶりに、温泉に入りたいな」
 これが晴子のYESの答えだった。
「日帰りだとお腹の赤ちゃんに少し無理じゃないですか? お泊りでも大丈夫?」
 晴子は一瞬迷った。だが口から、
「大丈夫です」
 と返事が出てしまった。
「日・月と月・火とどっちがいい?」
「そうね、月・火の方が空いていそうだから、そっちがいいかな? 剣持さんは大丈夫なの」
「僕の方は何とかなるよ。じゃ、月・火にしよう」

 一時間ほどして、剣持からまた電話が来た。
「蓼科温泉にした。お風呂の良い旅館を予約しておいたよ。メールでHPのURLを送っておいたから後で見ておいて下さい」
「ありがとう。楽しみにしてます」
 晴子は久しぶりの小旅行に少しワクワクした。
 メールを見ると旅館のURLが届いていた。とても良い感じの旅館だと思った。晴子は剣持との約束を母の貴恵に話した。
「あらぁ、温泉、いいわね。あたしも行きたいな」
「そう、良かったらお母さんも一緒に来る?」
「バカねぇ。娘の大事なデートに母親がくっ付いて行ったなんて聞いたことないよ。あなた、いつまでたっても箱入り娘ね」
 と言って貴恵は笑った。
「あらぁ、あたし、箱入り娘はとっくに卒業したわよ」
 貴恵は夫の義晴と馬が合い、晴子とも仲睦まじく仕事をしている姿を見ているので、[剣持さんでなくて、武雄さんの方がいいのに]なんて密かに心の中では思っていたが何も言わなかった。

 出かける日は、早朝剣持が晴子を迎えに来た。剣持は晴子の顔を見ると、
「久しぶりだから、ちょっと中に入ってもいいかなぁ」
 と聞いた。
「どうぞ」
 剣持は工場に入ると新しくなっていて驚いた。作業員が増えて二十名以上が忙しそうに働いていた。背の高い剣持が作業場に入ると、パートの女性たちが一斉に剣持の方を見た。
 今日の昼食時にはきっと彼女達の話題になるだろう。剣持は、
「ご無沙汰しております」
 と丁寧に主人の義晴に挨拶した。
「今日、でかけるんだってね。気を付けて行ってらっしゃい」
「はい。大切なお嬢様をお預かりします」
 パートの女性たちは仕事に集中している様子だが、耳の方はちゃんと剣持の受け答えをチェックしていたのだ。
 剣持は武雄の所に行くと、しばらくひそひそと何やら話をしていた。武雄が、
「兄貴、ピー子とデコ、喜んでました」
 などと言う会話がパートの女性たちにもかすかに聞き取れた。
 用が済むと、剣持は母親の貴恵に親しげに挨拶してから、晴子を車に乗せて走り去った。
 晴子は淡い藤色の、ゆったりめのワンピを上手に着こなしていたが、お腹はもう大分膨らんで、見てすぐ妊婦だと分るほどになっていた。剣持は自分の軽自動車でなくて、今日はスポーツタイプの格好の良いレンタカーだった。

 首都高の目黒ランプから高速にあがり、新宿方面を経由して中央高速道に入った。少し時間に余裕があるからと、諏訪南で高速を下りて、諏訪湖を一周してから最後に北沢美術館に寄った。
 ここは有名なエミール・ガレのガラス工芸品のコレクションで知られている。晴子は学生時代にクラスメイトと来て以来だったので、嬉しかった。ガラス工芸品を一点、一点目を輝かせて見入る晴子の横顔を剣持は可愛らしくて素的だと思った。

 美術館を出ると、
「お昼、お蕎麦、大丈夫なの」
 と剣持が聞いた。
「お蕎麦、好きよ」
悪阻(つわり)でどうかなと思って」
「あら、もう大分落ち着いたから」
 晴子は剣持が意外と繊細な所があるんだなと感じたが、同時に自分の体調のことを労わってくれる彼に好意も覚えた。二人は諏訪から蓼科に向かう途中みつ蔵と言うお蕎麦屋さんに寄った。
 蕎麦は美味しかった。
「少し早いけど、旅館に行こう」
 そう言って剣持は蓼科温泉に向かった。
「僕たち、結婚を前提にデートしてるんだよね」
「ええ、あたしはそう思ってますけど」
「長い間ほったらかしにしておいたけど、晴子さんの賞味期限、まだ切れてない?」
「それってどう言う意味かしら」
「つまり、僕が食ってもまだ大丈夫かな? って意味さ」
「あら、それならまだ賞味期限切れまで十分にありますよ」
 と言って晴子は笑った。
「でも、あたしを食べちゃうにはちょっと早いわね。もう少し熟成期間を置くと美味しく頂けますわよ」
 と付け加えた。そこで二人は互いにアハハと笑った。

 時間が早かったが、旅館に着くと、直ぐ部屋に案内してくれた。部屋は和室の奥にツインベッドルームのあるゆったりとした部屋だった。
「温泉に入ってから、明るい内に少し散歩しない」
「いいわね。このあたりだと少し標高が高いからまだ山野草に出会えるかも」
 と言って晴子は喜んだ。
 久しぶりに、晴子は大きな露天風呂に入った。平日で時間が早かったせいか、誰もいなくて、周囲の森から鳥の囀りが聞こえていた。晴子は露天風呂に入ると大の字になって夏空を流れる雲を見ていた。自分的にはとても幸せな瞬間だ。

 お風呂を上がると、一服してから旅館の周囲の林の中を散策した。
 釣鐘人参の花がひっそりと咲いていたし、茴香に少し似ている女郎花(おみなえし)にも出会えた。竜胆(りんどう)や小鬼百合にも出会えてラッキーだった。
 夕食を済ますと、また温泉に入った。その後は部屋に戻って、晴子は剣持に聞きたかったことを色々聞いてみた。剣持はどれも丁寧に答えてくれたが、仕事の話になると無口になり、何も答えてくれなかった。
 普通なら、こんなに待たせたんだから、晴子の気持ちを察して言い訳らしく仕事の内容を話してくれそうなものだ。だが、剣持は一言も言い訳をせず、内容にも触れなかった。
 晴子の中ではそこの所だけが消化不良のように胸の中が詰まるように感じられた。
「遅くなったから、寝ようか」
「はい」
 剣持はなかなか寝付けない様子だったが、晴子には手を触れなかった。晴子はあるいはと思って覚悟はしていたが、むしろ昼間話した[賞味期限]のことを気にされたのではないかなどと余計なことを考えている内にいつしか夢路を辿っていた。

七十七 親しみがある関係

 和菓子屋の朝は早い。毎朝、工場では四時頃には作業が始まる。なので、晴子も朝はわりと早起きだった。晴子が目を覚ますと、ベッドの脇の時計は六時前だった。剣持は夜寝付けなかったらしく、今の時間になってすやすやと、よく眠っていた。晴子は剣持の寝顔をそっと覗いてみた。昼間怖そうな顔をしているくせに、寝顔は少年のように可愛いところがあった。
「へーぇ、寝顔は可愛いな」
 晴子は心の中でそんな風に思いながら、剣持を起こさないように気を付けて、そっと部屋を出た。朝の散歩は風が涼しくて気持ちが良かった。一回り散歩をして、部屋に戻ると、剣持はまだ気持ち良さそうに眠っていた。晴子は一人で温泉に入った。早朝なのに何人か先客が居て、お風呂の中は賑やかだった。

 結婚を前提に男女が付き合えば、普通はどちらも相手を好きになろうと努力するものだ。だが、金銭的な損得とか、親とか家が絡むと好きでなくとも結婚をすることもある。晴子の場合は家業のため、剣持に少なからず金銭的な援助を受けていたが、晴子はそれと自分の結婚とは別だと割り切っていた。それで、剣持を好きになろうと思うのだが、何か分らないがいま一つ本気になれない自分の気持に戸惑っていた。
 晴子はパープルがかったピンクの花が好きで、ピンクの[ブッドレア(Buddleja)]の花も好きな一つだったが、この花の花言葉[親しみがある関係]以上の関係になれるだろうかと少し不安を感じていた。剣持は確かにこの花のもう一つの花言葉のように[魅力]はある。でも、今の所、まだ、[恋の予感]は無かった。

 七時半過ぎに剣持は眠そうな顔をして起きてきた。
「おはよう晴子さん、早いね」
「おはようございます。夕べはよく眠れなかったみたいですね」
 晴子が剣持が寝ていたベッドの乱れを綺麗に直してくれたのを見て剣持は、
「すまん」
 と言った。二人は朝食を済ますと仕度を整えて部屋を出た。チェックアウトは剣持が全部済ませた。
「このまま、麦草峠に登って、八ヶ岳の稜線を越えて佐久に出るコースもあるけど、今日はそちらに向かわないで帰りに勝沼のワイナリーに寄って帰るコースでもいい?」
「ええ、剣持さんのお勧めでいいわ」
 実は剣持は軽井沢方面には向かいたくなかったのだ。佐久に出れば、自然に上信越自動車道を通ることになる。それは避けたかった。

 蓼科から八ヶ岳山麓の原村に抜けて、県道の山麓線を通って甲府に出た。甲府から勝沼に出て、そこでメルシャン勝沼ワイナリーと近くの市営のぶどうの丘に立ち寄った。
 どちらの施設も晴子は初めての場所で楽しかった。

 剣持は葡萄を買いたいと言って、ぶどうの丘の隣の二森農園と言う大きな葡萄農園に立ち寄った。
「ピッテロビアンコが欲しいんだけど、まだ出てないの」
 と尋ねた剣持に若い女性店員が応対した。
「少しでよければ初物があります」
「ピッテロビアンコってどんな葡萄?」
 と晴子が尋ねた。女性は、
「ピッテロビアンコ(Pizzutello Bianco) はイタリア原産の細長い形の葡萄なんですが、レデイスフィンガー(女性の指)って呼ばれるようにちょっとお洒落な感じの葡萄です。皮が剥き難く、皮ごと食べちゃうことが多いんですよ」
 と答えた。剣持に、
「今なら、似たのでロザキ(Rosaki)がありますが」
 と女性がロザキを勧めた。
「どんな葡萄?」
 と晴子がまた尋ねた。
「ロザキも欧州種で、白いブドウと言う意味だそうです。甘い葡萄ですが香りはありません。美味しい葡萄ですよ」
 と女性が答えた。
「キングデラはまだあるの」
 と剣持。女性は晴子の顔を見て、
「デラウェアはご存知ですよね。キングデラは改良種で、デラより粒がずっと大きい葡萄です。デラは収穫が早いですけど、まだ少し残ってます」
 店頭に置いてある巨峰より粒が一回り大きい藤稔を見て晴子は、
「大きいっ!」
 と喚声を上げた。
「藤稔は改良種なんです。ピオーネに似た味ですけど、サッパリした味ですよ。これは今から収穫期なので沢山出せます」
 と女性が説明した。
「奥様、花言葉ってありますよね」
「はい?」
「花言葉と同じように葡萄言葉があるのはご存知?」
「いいえ、今初めてききました」
「ピッテロビアンコは知りませんけど、ピッテロビアンコに似た品種のロザリオ・ビアンコの葡萄言葉は[あなたといると心地よい緊張感]ですって」
 と剣持の方に流し目を使った。
「ロザキの葡萄言葉は忘れましたが、キング・デラの葡萄言葉は[大人になってもあなたは あなた]ですって。藤稔の葡萄言葉は[背伸びしてみる、遠い未来]、ピオーネの葡萄言葉は[尖っていないでまあるくまるく]ですって」
 と言って女性は笑った。

 剣持は、あれもこれもと随分沢山買った。
「あなた、そんなに買ってどうなさるの」
「あ、これお土産だよ」
「お勤め先にですか」
「いや、武雄君と祐樹君にだ」
「武雄さんのお仲間にですか」
「いや、武雄君と一緒にパートの女性が二十人位働いてるだろ、彼女たちの分だよ」
 と言って剣持は笑った。
「晴子さんからのお土産にしちゃうと受け取る方も重いでしょ? 大げさだし。それであいつらから渡してもらうつもりなんだよ」
 晴子は、そこまでしなくてもと思ったが、どうやら武雄と話しが付いている様子なので、それ以上は聞かなかった。

 夕方晴子たちは戻った。母の貴恵は小声で意味ありげに、
「楽しかった?」
 と晴子に聞いた。晴子はとても楽しかったと答えて、細かいことも正直に母親に報告した。
 食事をなさってからと貴恵が引きとめたが、剣持は土産の葡萄を武雄と祐樹に預けると、明日仕事だからと早々に帰って行った。
 自分の部屋に引っ込んで、晴子は、将来の旦那様を想定して、剣持を採点したら、今のとこ七十点位かなと自問自答して一人笑いした。
 晴子は、今日沢山買って来た、藤稔の葡萄言葉[背伸びしてみる、遠い未来]を思い出していた。

七十八 銃声

 ホストクラブに身を置いていた時代に、剣持は色々な経歴の女性と付き合っていた。ホストクラブを辞めてからも、当時お客だった何人かの女性とは今も付き合いがあった。その中の一人で、茶道の先生をしているN女史とも今も遊び友達として時々会っていた。N女史は資産家で、旦那は大手の某電機メーカーのNO・2で、業界では有名人だった。
 今日はN女史の誘いで、剣持は中央線沿線の東京郊外のゴルフ場に来ていた。このゴルフ場はコース全体が日本庭園風で落ち着いた雰囲気があり、N女史が気に入っている所だ。
 早朝、N女史のジャガーを剣持が運転してやってきた。N女史は確か、剣持より七歳年上だ。もう四十歳を少し越えたはずだが、手入れの良い肢体はまだまだ三十代だと言ってもおかしくないナイスバディだ。

 このゴルフ場は剣持の父剣持弥太郎がスター建設をやっていた時代に会社がオーナーとなっていたゴルフ場で、古くから勤めているスタッフは剣持のことを良く覚えていて、未だに[お坊ちゃま]などと言う。
「剣持君、最近うちの旦那ね、もう歳だもんだから、時々立たないのよ。私と歳が大分離れているから無理もないんだけど、まだまだ若い私としてはちょっと淋しいわね」
「そうなんですか。食事とかには気を遣っておられるんでしょ」
 二人が会うといつもこんなたわいもない話題になる。
「剣持君、今日は一日私がキープしても大丈夫よね」
「はい。僕はそのつもりです」
「よかったぁ、じゃ、プレイが終わったら、少し遠くに足を伸ばさない」
「いいですね。後で相談しましょう」

 キャディと一緒に二人が十二ホール目に来て第二打に入った時、剣持が打つ番になった。剣持が靴紐を縛り直そうとかがんだ時、不意に剣持の背中をヒュッとすり抜けて行く音がした。[銃弾]剣持は直ぐに察した。その時、パッ~ンと遠方で音がして、剣持の後ろで
「キャーッ」
 と悲鳴が上がった。剣持の背中をかすって飛び去った銃弾がキャディの太ももを射抜いていた。剣持はキャディを抱きかかえるようにカートに乗せ、N女史と共に大急ぎでクラブハウスに向かった。途中またヒュッと音がしてコツンと銃弾がカートのパイプに当たって飛び去った。
「くそっ! しつこい奴だ。相変らず、射撃の腕はダメだな」
 剣持は今でも定期的に射撃訓練をしているから、普通の人間より銃や射撃に詳しい。

 クラブハウスに飛び込むと、剣持はマネージャに手短に射撃されたことを告げ救急車の手配を頼んで、警察に電話した。この地域を管轄する警察には顔見知りの警官が居た。
「剣持だ。Mゴルフ場に来ている。キャディがライフルで撃たれた。撃った奴はオレを狙って外したようだ。恐らく足立区に住んでいる井口と言う奴だと思う。もうゴルフ場を離れて逃走中だと思うが、捕まえて痛めつけてくれ」
 警官は、
「了解」
 と答えた。

 井口はクレー射撃の選手としてオリンピック出場を目指していたが芽が出なかったようだ。昼間は運送業をやっていて、運輸会社の下請けをしている。剣持がホストクラブの仕事をしていた時代に、井口の彼女が客だったことがある。彼女は金持ちで井口の射撃に一時夢を持って応援していたが、芽が出ないと知って別れた。井口は剣持が自分の彼女を横取りしたと誤解して以前から恨みを持っていて、ときたま脅しの電話をかけて来たが、剣持は取り合わなかった。今日は多分剣持のあとをつけて来たのだろう。もちろん、その女とは今は何も関係が無い。クレー射撃には狩猟に使うような散弾が使われるが、今日撃った銃は命中精度を上げるため、どうやら散弾銃ではなくてライフルで撃ったようだ。
 キャディの太ももから抜き取った銃弾から、井口の仕業だと直ぐに割れた。間もなく殺人未遂で逮捕されるだろう。

 N女史は真っ青な顔で、
「剣持君、大丈夫?」
 などと言って怯えている様子だった。
「後は警察に任せて、シャワーを使ったらここを出ましょう」
「はい。私の名前はメディアに出ないでしょうね」
「貴女には関係のないことですから出ませんよ。ここのマネージャーはそのことはちゃんと(わきま)えてますから大丈夫です。通報した警官も僕の知り合いだから彼も口が堅いですよ」
 N女史は安心したようだ。
「真直ぐ帰宅されますか? それとも何処かへ出かけますか」
「実は旦那が今週米国に出張なんです。だから、何処かへ連れてって頂戴」
「じゃ、圏央道を通って関越高速に出て、水上は如何ですか」
「いいわね」
 それで、ゴルフ場を出ると、二人は水上に向かった。剣持は射撃を通報したが、井口とキャディの間の問題だから後はマネージャーに頼んでおいた。

「カップルだが、良い部屋は空いてますか」
 剣持は携帯で水上からずっと山奥の奥利根にある龍洞と言う旅館に予約を取った。山奥の温泉宿だが、お風呂も雰囲気もとても良くて、二人がひっそりと会うには水上界隈ではまずまずの所だ。
 こんな山奥にこんな素的なとこがあったかと思うような所なので、N女史はきっと喜ぶだろう。
 まだ日が長い季節ではあったが、旅館に着いた頃には辺りは薄暗くなっていた。部屋は露天風呂付きの別邸りゅう花と言う良い部屋を取っておいてくれた。チェックインを済ますと剣持は、
「すぐ晩飯にしてくれ」
 と頼んだ。
「ベッド? それとも座敷に布団?」
 と聞くとN女史は、
「私、お座敷にお布団がいいな」
 と答えたので仲居に、
「めしが終わったらここに布団を敷いてくれ」
 と頼んだ。食後、旅館の外に出てみた。標高が少し高いせいか、あたりはかなり涼しかった。

 部屋に戻るとちゃんと布団が敷いてあった。N女史は直ぐに抱きついてきてキスを求めた。剣持は丁寧に応じた。それから二人は部屋に付いている風呂に入った。湯船に浸かると、二人は抱き合って彼女は剣持を自分の中に受け入れた。
「剣持君、結婚しちゃ嫌よ」
「おいおいっ、僕を一生独身にしておくつもり?」
「そうよ。わたくし、剣持君が居ないとダメだもん。若い方と結婚したら、わたくしのことなんか見向きもしなくなるでしょ?」
「そりゃそうだよ」
「だからぁ、結婚しないでいつまでもわたくしのこと、愛して頂戴」
「意地悪な(ひと)だなぁ。じゃ一生僕は自分の下着を洗濯して暮らすわけ?」
「あら、今は奥さんが掃除、洗濯をするって決まってないわよ。時代が変ったから」
「もう、不倫させておいて、自分勝手なんだから」
 いつも二人が会うとこんな風にジャレ合っていた。

 風呂から上がって、二人でビールを飲んで、布団に入るとまた抱き合った。子供のいない彼女はオッパイも形が崩れず、張りがあった。剣持は彼女の首筋からふくよかな胸へと唇で愛撫して、硬く尖った乳首を口に含んで、舌で愛撫をした。彼女はまた昂ぶって剣持の背中に回した腕を強く抱いた。剣持は胸からお腹に、そしてお腹の下に唇を這わせて、彼女の下腹部に舌を入れて愛撫を続けた。
「もうダメぇ。早く来てぇ」
 喘ぐような可愛い声で彼女は剣持の尻を抱きしめた。剣持はゆっくりと彼女の中に入った。そのまま時の流れを忘れて、二人は夜更けまで抱き合った。
 翌日は二人とも十時を過ぎるまで眠った。
 いつものことで、剣持は翌日のチェックアウトは午後と言ってあったから、寝坊した。朝飯か昼飯か分らんような時間に食事をしてから、宿を後にした。途中ロープウェイで谷川岳に上がった。まだ秋咲きの山野草が少し咲いていた。N女史は恋人らしく、ずっと剣持の腕を取って離さなかった。

七十九 尾行

 ラブラブ旅行から帰って剣持が社に戻ると、珍しく神山に呼ばれた。
「おい剣持、あんたが女と遊ぼうがどこぞに一人で出かけようが、そんな細かいことにわしは何も言わん。それはよう知っとるよな」
「はい」
「だがな、あんた何年わしの下で仕事をしとるんや? 昨日、例の刑事の先生がな、全部わしに報告しよった」
「ゴルフ場?」
「そうや。あんた、井口とか言うアマちゃんに尾行されたやろ。わしはそれが許せんのや」
「すみません」
「アホかぁ。すみませんじゃすまへんで。あんたに万一のことがあったらなぁ、あんたのオヤジの弥太やんと龍さんに、わいは顔向けでけんわ。あんたは龍さんの息子みたいなもんや。わいの弟じゃ。あんたが井口の尾行に気付いていたらや、あんなアマちゃんの尾行を撒くのは簡単やろ。それが、なんや金魚のウンコみたいにゴルフ場まで引き連れていくアホがどこにいる? お陰で可哀想にキャディの姉ちゃんが巻き添え食って足をやられたやろ。あんたがちょい気ぃ付けとれば、そないことはなかったんや」
 神山はあたりを見回した。
「おいっ、みんなもよう聞けよ。うちみたいな仕事をしとるとな、お前さん等は二十四時間どこぞの誰かに狙われてもおかしゅうないんや。お前さん等が仕事以外で何しようとかまへんけどなぁ、二十四時間あんた等の命を狙われてることを忘れんどいてや。いいな」
 居合わせた者は、
「はい」
 と返事した。剣持はかなり反省した。
「ところでや、あんたが女に不自由しとらんのは、よう分っとるけどな、和菓子屋の令嬢とはうまいこと行ってんのか」
「はい。なんとか」
「そやなぁ、ここのとこ難しい仕事に長い間張り付けやったから、すまんかったなぁ。女の心なんぞ何かの弾みで変るもんや。ま、気長に口説けよ」
 と言って神山は笑った。

 晴子はここのとこ、時々武雄のアパートに行って掃除やら洗濯をしてやっていた。武雄は、
「お嬢さんにそんなことをされてはオレ困るから」
 と毎回遠慮したいと言ったが晴子は、
「あれ見たら普通の女の子なら誰でも手を出したくなるわよ」
 と少し強引に武雄の世話をしていた。
 それで、
「いっそのこと家に引っ越して来なさいよ。部屋の一つくらいいつでも空けてあげるわよ」
 と言ってみたが武雄は、
「そればっかは絶対にまずいっす」
 と言って頑なに拒んだ。胃潰瘍で入院して、元気になって退院してからだいぶ経つが、あれ以来、武雄は少し早めに退社するようになった。
 和菓子屋の仕事は順調だった。武雄はすっかり仕事を自分のものにして、今では父、義晴の右腕として、林菓房では外せない存在になっていた。有名デパートの出店も二箇所増えて今では三箇所となり、晴子と武雄が手分けして、なるべく頻繁に様子を見に出かけた。
 武雄は仕事のことで決めなければならないことがあると、必ず事前に晴子に相談してくれた。最近では相談する前にちゃんと自分の考えをまとめてくるので、武雄は随分成長したものだとしばしば感心させられた。

 晴子のお腹の赤ちゃんはその後も元気に育っているようだ。今では大分お腹が膨らんで、出かける時はいつも転んだりしないように、注意をするようになった。後半年で産まれると思うと気持ちに希望が湧くものだ。一人で居ると、
「あなたのパパ、早く来ないかなぁ」
 などとお腹の中の子供に話しかけたりしていた。
「いったい、誰がこの子のパパになってくれるんだろ?」

 剣持とは、彼に誘われるがままに、食事をしたり、日帰りでドライブに行ったりと、時々デートを重ねてはいたが、晴子の心の中にはまだ迷いがあった。そのことを察してか、剣持はいつ会っても無理に引っ張って行こうとすることはなかった。
「悪い人ではないんだけれど、どうしてかなぁ」
 晴子もいまだに自分の気持ちが分らなかった。
「いっそのこと、強引に引っ張ってくれた方が自分の気持ちに踏ん切りが付くのになぁ」
 と思うこともあった。
 そんな気持ちを一度真由美に話してみようと思って電話をした。
「社長は生憎お客様とお出かけです。後で電話をするようにお伝えします」
 と女性の事務員の返事があった。

「晴子さんお久しぶり。どうかなさったの」
 夜遅くなって、真由美から電話があった。彼女は晴子の今の気持ちを見透かしたような返事だった。それで、翌日の夕方二人で食事をしようと約束した。
 晴子は最近パスタを作ることが多かった。それで、大き目のプランターにバジルの苗を植えて、庭の隅に置いていた。バジルは英名で、イタリア語ではバジリコ(Basilico)と呼ぶが同じものだ。七月に白い目立たない小さな花を付ける。
 女性なら関心のある者は多いと思うが、最近はよく使われる食材だ。

八十 金がかかる代償

「神山さん、そちらの剣持氏のことだが、ここのとこメディアがしつこくてね、井口が誰を狙って撃ったのか教えろと連日やいのやいのと催促なんですわ。こちらとしてはプライバシー保護と捜査上の秘密を理由にブロックしてますがね、まさかキャディを狙って撃ったとも言えんのですよ」
「つまりやな、近々オープンってことやな」
「上からの圧力もありましてね。剣持氏は犯罪になるようなことは何もしておられないので、こっちとしてはオープンにする必要はないんですがねぇ。ま、東京在住のK氏を狙った位の情報はリークせざるを得ないんですよ」
「いつオープンにするんや?」
「来週の頭って考えてもらえませんか」
「分った。あんたとこにまた貸しがでけたなぁ」
 と馴染みの刑事の連絡に神山は笑った。

 神山は剣持を呼んだ。
「あんた、半年か一年海外に行って遊んでこいよ」
 それで、剣持は急遽海外出張をすることになった。出張の理由は何でも良かった。ゴルフ場の射撃事件のほとぼりが冷めるまでの半年か一年間国内に不在で行く先不明なら良かった。この秋政権交代があり、メディアはそっちで忙しいので直ぐに忘れられると思われた。

 晴子と真由美は人形町にあるクッキャイオと言うイタリアンのワインバーに来ていた。ここはワインの取り揃えが多く、女性客が多いことで知られている。食事も女性向けで美味しい。
「将来、あたしたちがおばあちゃんになるまでを考えて男性を選ぶのは難しいわね。その剣持さんと言う方晴子さんが見てどうなの」
 晴子は真由美に剣持のことや武雄のことなど最近のことを話した。二人とも会社を切り盛りしていることと、晴子にとって真由美は少し歳の離れたお姉さま的な感じなので話し易かった。
「剣持さんは晴子さんのことを冷静に見ている感じがするわね。まだキスもしてないんでしょ」
「武雄さんはとても良い方だし、あたしとしては武雄さんにその気があれば、彼に身を預けてもいいと思っていますけど、彼は剣持さんの弟的存在で、兄貴のことを気にしてあたしとの関係が一線を越えないように頑なに我慢しているみたいなの」
「へぇーぇ、武雄さんは素的ね。男どうしの契りを大切にして、本当は好きな晴子さんと距離をおこうとするなんて」
「そうよね。男は昔から据え膳食わねばとか自分達に都合の良い考え方で、隙さえあれば女を摘まみ食いしようとするダメなのが多いですよね」
 二人は笑いながら打ち解けた雰囲気で話をしていた。

 その時、晴子の携帯が鳴った。見ると剣持からだった。晴子は携帯を耳にあてた。
「ええ」
「あら、またぁ?」
「ええ」
「お仕事なら、仕方がありませんですわね」
「はい。ありがとうございます」
「あたしなら大丈夫です。お待ちします」
「はい」
「ではお気を付けて」
「はい」
 それで電話は終わった。晴子の受け答えを聞いていた真由美が、
「もしかして今の電話、剣持さんから?」
 と聞いた。真由美の感は鋭い。
「はい」
「次のデートのキャンセル?」
 真由美は笑った。
「そうなんですけど、半年か一年会えないですって」
「そう? 海外に? 晴子さん、気持ちが乗らないわね」
「お腹の赤ちゃんが産まれるのを楽しみにしてますだって。あちらからメールを入れるから、産まれたら必ず連絡が欲しいですって」
「自分の子供でもないのに珍しいわね」
「彼はお腹の子のことは気にしないどころか、いつも気を遣ってくれるのよ」
「へぇーっ?」

 剣持はたまたまパスポートを更新したばかりだ。それで昔のクラスメイトで今ロンドンのロックバンドに所属してあっちで活動しているアーティストの女性に電話を入れた。
「メグ、元気か? 半年か一年間君が住んでいるフラットに転げ込んでもいいか?」
「元気よ。年中金欠病には罹ってる。泊まるのはいいですけど、なんか悪いことでもしたの?」
「そうじゃなくて、悪いことをした奴に関わりがあって、しばらくうるさいメディアから逃げていたいんだよ」
 と笑った。
「君のとこをベースにしてあちこち飛び歩くけど、それでもOK?」
「学生時代みたいに、ちゃんとお金を沢山持ってらっしゃい。それならOKよ」
 と相手も笑った。
「じゃ、明日にはそっちに行くよ」
 ロンドンの秋は涼しい。厚手のコートを羽織って行ったが丁度良かった。

 剣持は、二十億ほどの大金を預けているスイスの銀行、送金処理など仕事のアシストに使っているスイス国籍の男、仕事関係で付き合いのあるフランス、イタリア、スペイン、サウジとアラブ首長国連邦の男たちとも会うつもりだった。他にもこの際行きたい所、将来の仕事がらみのパイプの構築などやりたいことも行きたいとこも一杯あったから、一年位はあっと言う間に過ぎてしまうだろうと思った。
 当座の行動資金を五百万ほど銀行から下ろして、小型のノートパソコンだけ持って夜、成田を飛び立った。下着や身の回りの必需品は渡航先で買えば良いから何も持たなかった。
 S女史の残した仕事は出掛け前に、楢崎武雄と武雄の子分の今井真澄と言う青年と西山多恵を呼んで、仕事に手抜かりのないようにしっかりと指示をした。多恵は、
「たまには剣持さんに海外旅行に連れてってもらいたいな」
 と冗談を言ったが、案外彼女の本音かも知れなかった。それで剣持は、
「あっちで落ち着いたら一週間位呼んであげるよ」
 と多恵に約束した。
「嬉しい。約束だよ」
 と多恵は喜んだ。

八十一 恋の戦い

 妊婦で動作が不自由にも関わらず、何かと自分の世話をしてくれる晴子に、武雄は次第に晴子への恋心が強くなっていくのを感じて、ふと晴子を抱きしめたいと思うことが多くなった。
 武雄は兄貴分の剣持がまた半年か一年間も不在となり晴子をほったらかしにすることが許せなかった。しかし、自分は腕力では格闘技の技を身に付けている兄貴に敵わなかったし、高卒の自分は、学業も兄貴は有名なK大を卒業こそしなかったが四年まで通っているから敵わないし、財力では兄貴の足元にも及ばない。だから、晴子さんを自分の恋人にしたいと兄貴と張り合ってみても、(かな)うものが何もなかった。武雄はそれが悔しかった。

 世の中は理不尽なものだ。女が男を、男が女を、人が異性を好きになるのに理由なんてないのだ。ただ好きで好きでたまらない、それだけでいいじゃないか。なのに、もしもライバルが現れたら、恋人にして、いずれ結婚まで漕ぎ着けるにはライバルと戦わずして好きな人を捕まえることは難しい。
 武雄は兄貴と張り合って、兄貴に勝てるものは自分に何かないか考えていた。色々考えを巡らせて見ると、二つだけ見付かった。
 一つは、今晴子さんのことを想う気持ちは絶対に兄貴には負けない自信があった。
 もう一つは、和菓子作りだ。これも兄貴には絶対に負けない自信がある。けれどもこれだけじゃまだ弱い。
 それで、和菓子作りの腕をもっと磨いて、四~五年に一度の全国菓子大博覧会の品評会で賞を取ること、もう一つ、菓子製造技能士一級の国家検定に合格すること、この二つを目標にして密かに頑張ってみようと思った。

 武雄のチャレンジが始まった。全国菓子大博覧会は前年四月十八日から五月十一日の二十四日間、姫路城周辺で開催されたので、次は三年か四年後だ。和菓子業界では、この賞の歴史が一番長く、価値があることが分った。第一回は[帝国菓子飴大品評会]だったそうで、一九一一年(明治四十四年)に東京の赤坂が会場だったそうだ。そこで、この際、和菓子作りの基礎から勉強してみることにした。
 基礎をしっかり勉強して、それから技能検定にチャレンジすることにした。普通は専門学校か短大に通うのだが、店が多忙なので、晴子に二年間も暇を下さいとはとても言えなかった。それで、理論は通信教育で勉強できないかと、講座を探して見ることにした。実技は、今ではプロ級になっていたから、店で仕事をしながらレビューをすれば済むと思った。

 人は大きな目標ができると他人に言われなくても自発的にチャレンジするものだと何かの本に書いてあったが、武雄はそんなことを実感して、一人の女性を好きになってしまったらここまでやるかと独りで苦笑した。
「祐樹、お前もオレと一緒に技能検定にチャレンジしないか?」
 武雄は晴子のことは伏せて、祐樹にもチャレンジを勧めた。
「オレ、頭悪いからなぁ、武さんと違って資格取れるかなぁ」
「祐樹よぉ、そんなのやってみなきゃわかんないじゃん」
「それもそうだな」
 それで、祐樹も一緒に勉強することになった。
「祐樹、師匠もういい歳だからさぁ、今度祐樹の子分を二人増やして面倒を見てくれよ」
「二人もかよぅ。ちょい大変だけど、二人の方がいいかもな。オレ、一人で武さんについたけど、相談するやつが居なかったから、二人の方がお互いに話しができるってこともあるね」

 職人を二人増やしたいと武雄は義晴と晴子に相談してOKをもらった。それで武雄は祐樹と仲間の中でやってみたいと言うのを五人集めて選考した。結局、ジョージこと中村譲二とミッチィこと黒田光吉の二人に決めた。ジョージもミッチィも仲間の女の子たちに人気があったから、店番の女の子は大喜びだった。
「恋愛は自由だけどさぁ、店の中でいちゃいちゃしたらオレが許さんからな」
 と武雄は釘を刺した。

 晴子は、林菓房も大きくなり、いつまでも個人事業では税務とか取引先との対面、銀行との付き合いなどで何かと不便だと感じていた。それで、この際、法人化、つまり株式会社にしようと思い、両親に話を持ちかけた。
 両親は勿論賛成した。そこで、しばらくぶりに山田龍一に連絡を取り、相談に乗ってもらうことにした。
「もしもし、林晴子です。ご無沙汰しております」
「しばらくだったね。あっ、お腹の赤ちゃんは順調かな」
「はい。最近は時々お腹の中で暴れたりして。突然ですが、今度お店を法人化したいと思いまして、ご多忙だと思いますが、相談に乗って頂けませんでしょうか」
「そうか、貴女のとこはまだ法人化してなかったね。最近大分大きくなられたから、是非会社にするといいね。どうだ、またわしとメシを一緒に食わんかね」
「はい。ご都合の良い日にお願いします」
「ちょっと待ってな」
 と言って山田はスケジュールのチェックをしている様子だった。
「もしもし、あっ、日にちだけど、今の所空けられるのは来週の火曜日の夜だけだな。ご都合はどうかね」
「わたくしの方は大丈夫です」
「では場所を決めたらまた電話をするよ」
「いつも我侭ばかりですみません」
「いや、貴女に会うのはこっちが嬉しいよ」
 それで、山田との予定が決まった。

 火曜日の夕方、山田が連絡して来た店に向かった。山田の事務所の近くの前にご馳走してもらったことがある天婦羅屋だった。
 店に着くと山田はもう席で酒を飲んでいた。
「おっ、来たな。大分大きくなったねぇ」
 晴子のお腹を見て微笑んだ。
「予定は?」
「来年の春です」
「そうか、剣持君は知っているのか?」
「はい。産まれたら絶対に知らせろとか言われてます」
 二人は天婦羅を食べながら本題に入った。
「法人化するには手続きがいろいろあるから、会計事務所を決めてそこに頼みなさい」
「はい」
「会計事務所は今使っている所ではなくて、出来れば将来を考えて少し大きい事務所にした方がいいね。わしが適当な所を紹介してあげよう。資本金その他は事務所と相談すればいいが、役員を誰にするかは、よく考えて、お父さんとも相談なさるのがいいね。困ったことや迷うことがあれば、いつでも電話をかけてきなさい」
「はい。よろしくお願いします」
 晴子にとっては、山田は頼りになる存在だった。
 天婦羅は沢山食べられないと思っていたが、思ったより量を食べることができた。山田はもう少しここで飲んで帰るからと晴子を先に帰した。

 剣持はロンドンのヒースロー空港に降り立つとピカデリーラインのチューブ(Tube=地下鉄)に乗ってコヴェントガーデンに向かった。
 剣持は超貧乏を経験しているので、空港からタクシーなんて贅沢はしない。ロンドンでは便利の良い安い地下鉄で十分だ。メグのフラットはコヴェントガーデンの駅から歩いて十分と少しの便利の良い所にあった。この街は昔からアーティストが多く集まる所だ。
「早かったわね」
 久しぶりに見るメグはすっかり大人の雰囲気で、昔お嬢様ぽかった面影は全くなかった。
 人は苦労をすると変るものだと思った。彼女は単身ここにやってきて、バンドで食えるようになるまで随分苦労したらしい。

八十二 秘密口座 Ⅰ

 ロンドンのメグのフラットに転げ込んで、剣持はそこで三日間のんびりしていた。と言っても、小さなメグのフラットには男女のアーティスト仲間の出入りがわりと多くて、剣持は落ち着かなかった。初めて顔を合わせるやつが来る度に、メグは友達だと言って簡単に紹介した。無口なやつもいれば、どこから来たのかとかメグの恋人かとか口数の多いやつもいた。剣持は適当にあしらって、自分のこれからの行動計画を検討した。

 夜、みなが寝静まる時刻になると、メグの仲間は帰って行って、あたりは静かになった。剣持が寝る所は大き目のソファーベッドだった。メグは寝室の小さなベッドにうずくまるようにして眠っていた。
 二日目の夜、
「弥一君、わたしを抱かなくてもいいの」
 メグはパジャマ姿で剣持が横になっているソファーベッドの端に座って囁いた。
「抱いて欲しいか? やっぱ止めとくわ」
 剣持はメグの背中を撫でてやった。メグは気持ち良さそうに目を瞑っていた。学生時代にはもう少しふくよかだったように記憶しているが、今は随分痩せたように感じた。その感じが何年間ものメグがこの世界で生きるための苦しみや悲しみを想わせた。剣持が撫でている間に、いつの間にかメグは小さな寝息をたてて眠ってしまった。

「明後日、ウォータールー(Waterloo=大陸への鉄道の発着駅名) を発とう」
 剣持は最初の仕事として、ジュネーブのプライベート銀行の秘密口座の管理を任せている男に会うことにした。
 小説などを読むと、スイスのプライベート銀行の秘密口座を使って脱税云々と言う話しが出てくるが、それは昔の話で、現在はスイスとも租税条約が締結されているので、日本国内に在住する人間の口座をあちらのプライベート銀行に開設しても全て日本の税務署に見え見えで、今は小説に出てくるような秘密口座は存在しないのだ。
 剣持の秘密口座は、実質は剣持の財産だが、口座はスイスに在住するシャルル・アナン (Charles Hannant) と言う男の口座を使っているのだ。受け渡しは銀行を通さないで直接現金なので、剣持とアナンとのつながりが分らないと税務署といえども追跡のしようがないのだ。

 シャルル・アナンは四十代半ばまで、スイスのプライベートバンカーだった。彼は家業のワインショップを引き継ぐために、銀行を退社したが、プライベートバンカーを長年勤め上げただけあって、100%信頼できる男だった。彼に剣持が初めて会ったのは山田龍一の紹介だ。それ以降今迄数年間、多額の資金の管理を頼んでいたが、一度も不審なことはなかった。剣持自身名義の国内にある国際銀行の口座にはS女史を引き継いだ仕事から毎月多額の水揚げをプールしていた。この口座は剣持名義のキャッシュカードを使うと、欧州全域に点在するATMからいつでも必要なだけ現金を引き出せた。国際銀行の口座から引き出しができるATMはATMに書かれたマークを見れば直ぐ分かる。剣持は自分名義のキャッシュカードをシャルル・アナンに預けていた。それで、シャルル・アナンは引き出す場所を変えながら、予めお互いに取り決めた金額を引き出して、その現金をシャルル・アナン名義(実質は剣持名義)のプライベート銀行の口座に預け入れていた。

 もう長い間、ゼロ金利政策が続いているので、日本の銀行利息は極めて少ないが、スイスのプライベート銀行はずっと高利率で預かってくれる。だが、欧州ではATMは日本と同じように信頼が置けると思ったら大間違いであることを剣持はよく知っていた。地域によるが、うっかりするとATMにキャッシュカードを不正に盗られてしまう所もあるのだ。そう言うことも分かっていないと大変なことになる。日本人には信じられないだろうが、実際にそんな所が存在するのだ。シャルル・アナンも元バンカーなので、そんな危険なことは良く知っていた。

 明後日はいよいよ出発だ。剣持は夜(つまり日本の昼間)晴子にパソコンからメールを入れた。
 [ロンドンに着いて落ち着きました。二日ほど休んで、その後フランスに渡る予定です。こちらは深夜です。静かな夜更けに、晴子さんは今日はどうなさっているのかなぁと想ったり。お変わりはありませんか? また時々メールを入れます 弥一]
 メールを送信して剣持は眠りに付いた。メグはまだ剣持の脇で可愛い顔をして眠っていた。

八十三 秘密口座 Ⅱ

 ロンドンから欧州大陸に向かう列車はユーロトンネル会社が管理している海底のチャネル・タネルを通って直通でベルギーのブリュッセルやパリ、遠くフランスのニースまで行ける列車とか色々ある。
 剣持は朝メグのフラットを出るとチューブでテムズ河に近いウォータールー駅に向かった。メグはまだ眠っていたので起こさなかった。
 約一時間に一本出ているパリ往きの八時半頃発車の列車に乗り込むと、十二時半にパリ北駅(Paris Nord)に着いた。朝食兼昼食は列車の食堂車で食った。メニューは色々あり、わりと美味しかった。
 ジュネーブに向かう列車は北駅とは別の少し離れた場所にあるリヨン駅(Gare de Lyon)から出ている。ロンドンの地下鉄チューブも便利だが、パリの地下鉄メトロも本数が多く便利だ。北駅もリヨン駅もメトロに乗る駅は同じ名前なので分り易い。
 剣持は小さなノートパソコン、列車時刻表トーマスクック、それに当座必要な旅費だけしか持たなかったので軽装だ。シャツやパンツ、靴下は安いのを買えばみんな中国製だから日本と変わらない。剣持は使って汚れたら洗濯なんかしないで捨てた。日本から持参した金の残りは全部メグに預けてきた。メグは正直な女だ。剣持が預けた金は、少しは自分で使うだろうが、全部使い果たすようなことは決してしない女だ。その性格は今も変わっていないと思った。

 リヨン駅は日本の上野駅みたいで、行くといつも人でごった返している。剣持はそこからジュネーブへ直通のTGVに乗り込んで昔繊維の街で知られたリヨンの少し手前のマコロシェ(Màcon Loché)経由でジュネーブに向かった。
 午後二時半にパリを出て、夕方六時過ぎにスイスのジュネーブに着いた。予め電話をしておいたので、シャルル・アナンが駅に出迎えてくれていた。一度行ったことがある者なら誰でも知っているが、ジュネーブと呼ぶ駅でなくてコルナヴァン駅(Gare de Cornavin)だ。
「シャルル、しばらくだな」
「弥一も元気そうじゃないか。晩飯は僕のとこで食ってくれ。今夜僕のとこに泊まってもらってもいいが、せっかく来たんだから、湖畔(レマン湖)の景色の良いベルグに良い部屋を予約しておいたよ。明日モルグ・ダルグを訪ねてみよう」
 デ・ベルグはフォーシーズンズがやっている五つ星の良いホテルだ。
 晩飯はシャルルの奥さんの手料理が色々と、チーズフォンデュも出た。チーズフォンデュは元々スイス、特にアルプス地方の郷土料理だから、本場のご馳走だと言っても良い。シャルルと剣持はワインで酔っ払ったが、夜どうにかベルグの部屋に辿り着いた。

 スイスにはプライベート銀行がいくつもある。日本にも支店を持っている大きなロンバルド・オディエもジュネーブが本拠地だが、剣持は小さなプライベート銀行モルグ・ダルグ(Mourgue d'Algue & Cie)に金を預けていた。
 建物は見た目はメゾン(マンションかアパート)のような感じで、顧客は三百名程度と聞いていたが、剣持の資金より遥かに大きな資金の運用を任せている顧客が大部分なので、日本の銀行のイメージとは随分違っている。
 翌日シャルルと一緒に訪ねると年配の行員が丁寧に応対してくれた。十九世紀から延々と続いているこの小さな銀行は内部の調度品にも歴史が刻まれているようで、ここに来るといつも軽いカルチャーショックを受けるのだった。行員の説明で、シャルルは思った通りキッチリと資金の管理をしてくれていた。

 シャルルの家に戻ると、奥さんに夕べの酔っ払いの失礼をお詫びして、手料理がとても美味しかったと改めて礼を言った。剣持はシャルルと再会を約束してジュネーブを後にした。レマン湖は綺麗だ。それで、ジュネーブに来ると剣持はいつもローザンヌに立ち寄って街を散策した。ローザンヌは世界の富豪が別荘を持っていることで知られていて、街並みは落ち着いていて美しい。
 スイスの公園は掃除が行き届いていてどこも綺麗だ。剣持は芝生に寝転がっていつの日にか晴子をここに連れてきて、二人してのんびりと過ごしたいななどと想っていた。

八十四 会社役員の選任

 山田龍一が橘公認会計士事務所を紹介してくれた。晴子は近日中に所長の橘秀嗣(ひでつぐ)と会うつもりでいたが、その前に山田の勧めで会社役員を誰にするか案を考えて父母と相談した。
 先ず、最初に晴子が考えた案は、
  代表取締役社長 林義晴
      取締役 林貴恵
          山田龍一
          剣持弥一
          楢崎武雄
          林晴子
          古谷真由美
      監査役 会計事務所から
だった。父母に相談した所、取締役は一応序列を考えて書くように直された。剣持さんは、店が窮地に追い込まれた時に何度も救ってくれたし、相当の資金援助もして頂いているから問題はないが、武雄さんはもう少し待って、必要なら後で追加してはどうか、その代わりに福岡にいる叔父の林義彦を入れてくれと父の意見が出た。結果は以下の通りとなった。
  代表取締役社長 林義晴
      取締役 林貴恵
          林晴子
          山田龍一
          剣持弥一
          林義彦
          古谷真由美
      監査役 会計事務所から
 晴子はこの案を持って山田の事務所を訪ねた。
「ご両親は承知なんだね。古谷さんはどんな方かな?」
 晴子は古谷工務店との関わりや個人的に相談相手としてお付き合いをして頂いていると説明した。
「そうか。それなら良いだろう。ではこの案を持って橘先生に相談しなさい」
 晴子は名簿の中に武雄を入れられなかったのが気にかかったが、この案で行くことにした。その気持ちを正直に山田に話をすると、
「会社の役員と言うものはね、好き嫌いや感情を入れて案を作っちゃダメだよ。それと大切なことは、持ち株比率をご両親と貴女の持分を合わせて必ず51%以上にすることだね。そうしないと、会社を乗っ取られてしまうこともあるんだよ。だから、権限と財産の保全を考えて役員を選任しないといけないよ。楢崎君は今は貴女やお父さんの右腕として大切な人材だと思う。けれど、彼が万一気が変わって会社を自分の物にしたいと思った時、揉め事の原因になるんだよ。将来に亘ってそんな揉め事の原因となる可能性が少しでもあれば、慎重に決めるのがいいね。楢崎君が貴女と結婚でもしていれば、少し話は違ってくるがね」
 晴子は今迄他人と揉めるなんて考えたことがなかったが、言われて見ると、新聞のニュースでも時々そんな話が出ているなぁと改めて勉強させられたと思った。

 橘公認会計士事務所は千代田区にあった。今迄の会計事務所はスタッフが所長も入れて五名だったが、今度の事務所はスタッフが二十名も居た。
 晴子は橘にアポを取って事務所にでかけた。
「この役員名簿は山田さんは了解されているのですか?」
「はい。ご了解下さいました」
「なら、大丈夫でしょう」
「資本金は壱千五百万円はよろしいかと思いますが、現金といいますか、銀行預金も入れて全額確保できますか?」
「はい」
「持ち株比率はご両親と貴女と三人で一応70%になるように決めると良いでしょう」
「はい。先生の方で案を出して頂ければ助かります」
「いいでしょう。会社を設立する時は定款を決めておかなければいけません。定款の案もこちらでお作りしておきます」
「よろしくお願いします」
「代表取締役印と社印はハンコ屋さんに頼むと直ぐ作ってくれます。印鑑登録が必要ですから、作ったら登録して、印鑑証明を夫々二通取ってこちらに送って下さい。後の手続き書類は全部こちらで作成しましょう。監査役はこちらで適当な人材を見つけて推薦しましょう。会社の監査役は最近は会社経営に広い知識と経験のある人を置く傾向にありますから、そんな観点で適当な方を見つけておきましょう」
 晴子は真由美に法人化の話をして、役員をお願いした。真由美は晴子の人となりを理解していたので、快諾してくれた。剣持にはメールを送って了解を求めた。剣持は、
「分った。末席の役員にしておいて」
 と返事が来た。

 剣持はここのとこ自分の心の中では、晴子に[切ないほどの愛]を感じていたが、それをどう伝えればいいか、なかなかうまく言えず、自分に対してもどかしい気持ちになっていた。そんな時、法人化の話があって、少しだけでも近付いたような気がした。
 男は女を口説くのが上手いやつと、ハートがあっても口下手で誤解されたり気持ちを相手に上手く受け取ってもらえない損なやつもいる。女は、こと恋にかけては男より余程上手ではないかと思われるが、その癖、口説き上手なやつの罠にまんまと嵌まってしまうこともあるようだ。剣持は口説き上手とは言えなかった。ホストクラブに集まる女性は、どちらかと言うと女性がクラブの気に入った男を口説くケースが多いので、ホストクラブの経験があると言って、口説き上手とは限らないのだ。
 晴子のことが気がかりではあったが、剣持は次の仕事でローザンヌから鉄道でイタリアに向かった。イタリアには、時々刺客に使っているミラノに住んでいる男が居た。名前をマルコと呼んでいた。イタリアで[マルコ]と言えば日本の[太郎]みたいなありふれた呼び名だ。だから本名かどうかは分らない。
 ナイフの扱いが上手いやつで、剣持は一度手合わせをしたがなかなかの腕と見た。射撃の腕は定かではない。マルコには(ワル)の仲間が数名いて、()る時は仲間と協働の場合が多いようだった。マルコが本拠地にしているダウンタウンは外国人がのこのこ入るとヤバイ所だ。それで、事前に連絡を入れてアポを取っておいた。

八十五 株式会社林菓房

「武雄さん、ちょっといいかしら」
「はい。何ですか」
「お店のことだけど、武雄さんたちみんなのお陰で大分規模が大きくなったので、法人化をすることにしたの」
 武雄との仕事の打ち合わせを終わって、晴子は武雄を呼び止めた。
「法人化って何のことですか」
「分り易く言うと、今度うちのお店、株式会社にするの。今までは父の個人事業だったから」
「すると師匠はこれからは社長ってことになるんですか」
「そう。でも、武雄さんたちは今迄通り師匠と呼んでいいわよ」
「そうかぁ、うちもいよいよ株式会社かぁ」
「それでね、父が社長になるのは自然ですけど、一応法律上で数名の役員を決めておかなければならないの。取締役ってことね」
「晴子さんは当然取締役になられるんでしょ」
「ええ。あたしとしては武雄さんにも役員になって欲しいと思っていたんですけど、会計事務所の先生などとご相談して、武雄さんは入らなかったの。気を悪くなされたら困りますので、事前にお話しをしておこうと」
「あ、僕ならいいですよ。晴子さんさえ良ければ気にはしませんから」
「そう? ありがとう。本当に気分を壊さないで下さいね」
「はい。分りました」
 武雄は一応納得してくれたようだ。晴子は武雄が了解してくれて助かった。毎日顔を合わせて仕事をしているし、こんなことで武雄のやる気が失せたらどうしょうと心配していたのだ。
 林菓房の最近の業績は月商、つまり月々の売上が二千万円を越えていた。以前は月商百万円に届かないこともあったから、僅か一年足らずで二十倍以上の急成長だ。銀行は手の裏を返したように、最近は融資をさせてくれと頼みにくることが多くなったが、剣持の融資のお陰で、運転資金にも余裕が出て、銀行から借りる必要は何もなかった。
「師匠と晴子さんの他にどんな方が役員になってるんですか」
「まだ正式ではないのだけど、母の他に、山田さん、剣持さん、叔父、古谷さんです」
「古谷さんはうちの工場を建ててくれた工務店の?」
「ええ。これからも何かと力になって頂きたいと思って」
 武雄は先ほど晴子に気にしないと言った。だが、剣持の名前が出て、顔には出さなかったが内心相当のショックを受けていた。つい先日兄貴と互角に戦う決意をしたのに、剣持が目の前に立ちはだかって今にも自分の頭を押さえ込むのではないかと思うほどの打撃だった。勿論武雄は晴子の気持ちは自分に同情してくれているとは思っていたが、心の中に(しこり)が残った。

 晴子は林菓房が世話になった所に漏れなく法人化の通知葉書を出した。レイ夫人と初恋の堀口伸の弟の堀口拳には個人的なお付き合いだったので何も通知をしなかった。余計な気遣いをさせたくなかったのだ。
 葉書には[日頃の林菓房への愛顧の礼を述べ、お陰で来る十月一日を以って、株式会社林菓房となる。ついてはささやかながら式典を執り行いたく、ご都合がつけばご出席頂きたい。返信葉書にご出席下さるか折り返し返事が欲しい]と言う一般的な挨拶状兼招待状だった。
 十月一日、多くの取引先や地元の商店会から花輪、花束、祝電が届いた。この日は目黒の本店はお休みにして工場を式場にあて、ささやかな式典を行った。新しい役員と従業員は全員出席してもらうつもりでいたが、剣持だけは海外出張中で出席できないと連絡が来ていた。何も連絡をしていなかったのに、レイ夫人と堀口拳の連名で花束が届けられた。
 晴子は内心嬉しかった。それで、日を改めて、随分長くご無沙汰していた拳に会いたいと思った。
 出席者の中に、小豆を産直で仕入れている北海道の中川町町長と生産農家の顔があり、ひときわ大きな花束も届いていたのが印象に残った。
 出席した来賓と従業員全員に、記念の菓子折りが配られ、従業員には他に祝い金[金一封]が配られて、滞りなく式典は終わった。
 全て終わってから、晴子は中川町町長と農家の方を夕食に招待した。武雄も同席して、出張時の思い出話などをした。後から晴子の父母も同席して、楽しい夕食になった。

 個人事業でも株式会社でも日常やっている仕事の内容は何も変らない。だが、不思議なもので、いままで取引条件の希望をなかなか聞き入れてくれなかった仕入先の態度が急に変り、話がうまくまとまったり、店を出しているデパートの担当部長の態度も丁寧になったりした。晴子は法人化すると信用力が増すとは聞いていたが、[実際にはこんなことだったのか]と実感した。人は名刺をもらった時、肩書きに[取締役]があるとないとで案外応対する態度が変ることが多いのだ。

八十六 チュニジア

 ジュネーブのプライベート銀行モルグ・ダルグは利息が年率6%程度で日本よりずっと高利率だ。複利で利息が付くのでバカにならない。スイスの国策でプライベートバンクの利息には税金がかからないが、それは海外の投資家向けで、租税条約により、投資家が在住する国で課税されるから重複課税をしないためだ。だが、剣持はスイスに在住するシャルル・アナンに任せているので、利息には35%課税される。20億円も預けていると、年間1億2000万円もの利息が付く。だから税金を差し引いても、7800万円もの利息が毎年複利で貯まることになる。
 剣持はシャルル・アナンに会った時に3万ユーロを引き出してもらった。その時の為替レートは137円/ユーロ前後で推移しているので、3万ユーロは400万円ちょっとだから、剣持にとっては大した金額じゃない。それを持ってミラノに行った。

 剣持はマルコに当面の活動資金にしてくれと一万ユーロを渡した。イタリアは失業率が高く、不景気の真っ只中だから、一万ユーロはちょいでかい。
「剣持、いつもすまんなぁ」
 マルコは満面の笑みをたたえて剣持に礼を言った。
「前に紹介したドバイのモハメドにこれからチュニジアで会う。マルコも一緒に来ないか? 今回は仕事はないから観光旅行のつもりでいいぜ」
「ちょうどヒマしてたとこだ。一緒に行こう」
 それでマルコとチュニジアの首都チュニスに行くことにした。
 チュニジアはフランス領のコルシカ島やイタリアのローマから近い。気候は地中海性気候で温暖、夏も近畿や関東の気温とあまり差がなく、冬は20℃弱だから、日本よりずっと過ごし易い。その昔、カルタゴなどローマの影響を大きく受けたので、現在遺跡が沢山残っていてヨーロッパの観光地となっており、八月のサマーバカンスのシーズンにはフランスなどから大勢の観光客が来てごった返す。
 だが十月も半ばを過ぎると観光客も減り、ゆっくりと過ごすには良い所だ。モハメドの居るアラブ首長国連邦からはかなり遠いが、パリからなら三時間もあれば飛んで来られるのだ。剣持はモハメドが着くまで少し時間がかかるので、イタリアから航空機で一時間位の所をフェリーに乗って渡ることにした。

 アフリカのチュニジアの南はモロッコ、アルジェリア、リビア、エジプトでドラー砂漠、ティンヘルト砂漠、ラビアーナ砂漠、ウェスタン砂漠、アラビア砂漠と砂漠ばっかだ。だが、チュニジアは緑が多く、行ったことがある者は誰でも緑が多いのに驚く。ヨーロッパからの観光客が多いので、食い物も美味い。子羊の肉料理や魚料理には定評がある。
「村上さん、今チュニジアにマルコと一緒に来てるが、もう少しするとモハメドも来る予定だ。この後、モハメドとドバイに行くつもりだけど、藤井恒夫のことをちょい確かめておきたいので、良かったら来週ドバイに来ないか」
「伝さんのOKが出たら、そっちに行くよ。何か必要な物はあるか」
「いや、特にない。金はこっちでなんとかするから、金は要らないな」
 それで、次の週ドバイで村上と落ち合うことにした。

「モハメド、しばらくだな」
「やぁ、マルコ、元気でいたか」
 三人はお互いに面識があるので友達どうしの感覚だ。
 剣持はモハメドにも当面の活動資金を渡した。ドバイではドルの方が使いやすいので、国際銀行の自分の口座から一万ドルを引き落として渡した。トレメンド・ソシエッタは日本の国内で邪魔になった者は藤井恒夫のように海外に高飛びさせて、現地でマルコやモハメドの仲間に殺らせて消してしまうのだ。消されたやつらは日本では失踪人の届けを出し、それで終わりだ。
 十月半ばでも、チュニジアは暖かく海が綺麗だ。三人はクルーザーをチャーターして地中海をクルージングした。勿論女も三人現地でキープした。これにはマルコもモハメドも喜んだ。
 三日ほど三人でチュニジアでゆっくりしてから、マルコと別れて剣持とモハメドはドバイに向かった。神山の了解を取って、成田を発ったと村上から連絡が入った。

 剣持は多恵に十一月早々にパリに来ないかと誘った。パリを案内したら、スペインにでも連れて行ってやろうと思った。多恵には大事な仕事を任せているので、たまには接待をしてならなくちゃと思っていたのだ。

八十七 死の商人 駱駝商隊

 美しい肢体(ボディ)のケアに熱心な女性なら、歴史的に有名な[アレッポ(Aleppo)の石鹸]のことを知っているし、使っている者もいる。アレッポ(Aleppo)はトルコとの国境に近いシリアの街ハラブ(Halab=Aleppo)の別名だ。
 九世紀~十三世紀、地中海沿岸地方ではイスラーム世界の栄枯盛衰が繰り広げられていた。丁度この時代に、地中海地方の特産のオリーブから採られたオリーブ油を原料にしてシリアのアレッポを中心に石鹸が作られ、十三世紀以降に栄えたトルコを中心にしたオスマン帝国に大量のアレッポの石鹸が輸出されていたと言われる。この石鹸を運んだのが駱駝(らくだ)商隊だった。
 駱駝商隊は歴史が長く、中東からシルクロードを通って遠く中国にまで商圏が拡大していた。鉄道や自動車、航空機が輸送手段の中心になった今も、駱駝商隊は延々と続いているのだ。
 駱駝商隊は人の寝静まった夜半、月や星の光を頼りに、不毛の砂漠を越えて品物を運ぶ。
 近年、敵側が輸送経路を抑えるのが難しいことから、ソマリアの海賊やアフガンのタリバン勢力に銃や弾丸、小火器を運ぶ死の商人の役割も増したと言われる。
 広大な商圏を股にかけて活動する駱駝商隊には語学に堪能な者が多い。アラビア語は勿論、西欧各国の言葉、中央アジアの言語から中国語まで操る者もいる。また、彼等は各国の政治経済の情報にも明るいのだ。

「フジイ・ツネオの死体を確認したのか?」
「いや、確認できなかった。やつはプロだ。オレたちのことを事前に察知して4駆(4輪駆動)のジープで逃げやがった。追跡したが、アル・アインに向かう途中で砂漠に入り込んだ。オレたちは4駆でなかったから、途中までしか追跡できなかった」
「それじゃ、やつは生きているな」
「いや、あそこから砂漠に入ったら、別の道路に出るまで相当の距離があるから、ガス欠して絶対に砂漠から出られない」
 ドバイで村上と落ち合って、先ほどからホテルの一室でモハメドに剣持と村上が藤井恒夫のことを詳しく聞いていた。
「砂漠で行き倒れになるのか?」
「そうだ。水がなければ生き延びられないし、死ねばハゲタカの餌になる。いずれにしても今は白骨になってるだろう」
「追跡した後をもう一度走れるか?」
「4駆のジープに100か200リッターの補助燃料タンクがあれば走れる。できれば車は二台欲しい。万が一故障したら、オレたちも砂漠で死ぬ」
「では、明日二台で走ろう」
 三人は明日砂漠を走ることにした。

 剣持はレンタカー屋にジープを二台と100リッターの補助タンク二個を用意してもらいたいと交渉した。
「明日の朝までに揃えておきます」
 と返事があった。
 翌日早朝、三人はホテルを出て、借りたジープに乗り込んだ。念のため、拳銃二丁と自動小銃一丁、それに十分な弾丸を積み込んだ。 補助タンクにもガソリンを満タンにした。一台には村上とモハメド、もう一台には剣持とモハメドの仲間のアイールと呼ぶ男が乗り込んだ。
 剣持が地図を見るとドバイからアル・アインまでは150km位しかない。だが、フジイは追跡をかわすために、二つ目のわき道に折れてアブダビに向かって走り、途中から折れて砂漠の中に入ったようだ。
 アイールも入れて四人は、前と同じ道を走った。行けども行けども両側は砂漠だ。約100km走った所で別れ道があったが、その道はドバイ側の海岸に出る道で元に戻る感じだ。どうやらフジイは事前に地図を調べて逃走経路を決めていたようだ。更に10kmほど走るとまた別れ道に出た。モハメドはそれを右に折れてアブダビに向かった。アブダビに向かう道を約50kmほど走った所でジープは道路を左に折れて砂漠に入った。
「オレたちはここまで追跡したが、この先は4駆でないと走れないので、しばらく追跡して後は諦めて引き返した」
「この先にアブダビに向かうもう1本の道があるな。それに入ればアル・アインに向かえるじゃないか?」
 と村上が言った。
「ここから約25km先だ。目が良いやつなら砂漠の中を走るジープは見える。やつは曲がらなかった。やつは真直ぐ走ってここから40km先のもう1本の道路に出るつもりだったと思う」

 彼等は砂漠の中を走った。確かに地図の通り道に出た。だか、モハメドの話を信じてそのまま道路をまたいで直進して砂漠の中を走り続けた。
 道路をまたいでから約10km走った所で前方に止まっているジープを発見した。近付いて見ると、確かに乗り捨てられたジープがあった。降りて中を覗くとどうやらフジイが乗り捨てたジープらしいことが分った。燃料タンクを調べると空っぽだった。恐らくガス欠になったらしい。
 村上たちは、二台で手分けしてジープの周辺を調べたが、白骨は見付からなかった。そのまま直線で10kmも行くともう一本の道路にぶつかる。運良く方向を間違わずに歩けば確実に命は助かる。だが、砂漠の中は方向がつかみ難い。その場に立った者でなければ実感が分らないが、立って見ると砂漠に初めて踏み込んだ人間なら、真直ぐに歩くことは難しいようだ。真直ぐに歩いているつもりでも、砂漠には起伏があるので必ず曲がってしまうのだ。
「概ねジープから20kmの半径を調べたが白骨はないなぁ」
 それで、四人は、フジイは生きていると確信に近い気持ちを持った。
「戻って別の手を考えよう」
 剣持の提案に皆が賛成して、一旦アル・アインに出ることにした。

 アル・アインの町で聞き込みをすると、駱駝商隊が時々来るから、彼等に聞いてみると良いと言われた。剣持たちは駱駝商隊が来るまでアル・アインに滞在することにした。駱駝商隊はいつ来るのか予定が分らないらしいが、一週間も待てば必ずこの町に来るはずだと聞かされた。

八十八 疑惑

 アラブ首長国連邦(UAE) の初代大統領・故シェイク・ザイード(H・H・Sheikh・Zayed)の生誕の地として知られるアル・アインの町にはヒルトン・インタナショナル、インターコンティネンタルなど五つ星のホテルが四つほどある。町の周囲は砂漠だが、この町と近くに大小いくつかのオアシスがある。剣持たちは、町の中心部にあるアル・アイン・ロターナ(AL AIN ROTANA) と言うホテルでもう三日も泊まっていた。四日目に情報提供を頼んでおいた男から駱駝商隊が来ていると連絡が入った。
 男に案内されて、剣持たち四人は、商隊が居る酒場に入った。奥の方の数名のグループが商隊の隊員だと聞かされて近付いた。モハメドがアラビア語で用件を伝えると、頭と思われる男がこっちへ来いと手招きした。この男は英語ができたので、会話を英語で頼んだ。
 男は、
「サラマレコン。アナ イスミー ジャイーラ」
 と自己紹介した。剣持もつられて、
「サラマレコン。アナ イスミー ケンモツ。アナ ヤパーニ」
と応えた。つまり、男の名前は[ジャイーラ]と呼ぶらしい。

「日本人のフジイ・ツネオの名前を聞いたことがあるか?」
 とモハメドが聞いた。ジャイーラはしばらく思い出してみている様子だ。
「そうだ、仲間の商隊(キャラバン)が助けたと聞いた。アル・フサインと呼ぶやつに会えれば分るだろう」
「助けた商隊に会えるか?」
「今日は会えない。多分明日ここに来るだろう」
 それで、明日まで待つことにした。
「じゃオレたちは明日またここに来る。ショクラン」
 剣持はバーテンに彼等に今飲んでいる同じ酒を出してやってくれと金を渡して彼等と別れた。情報屋の男に、
「明日別の商隊が来たら教えてくれ」
 と頼んで酒場を出た。
 翌日情報屋の男がホテルにやってきた。
「ケンモツはラッキーだ。昨日の酒場にアル・フサインが来ている」
「そうか、ありがとう(ショクラン)」
 それで、また四人揃って昨日の酒場にでかけた。アル・フサインはまだ居た。モハメドがアラビア語で用件を伝えた。
 アル・フサインは、
「助けてやったフジイは優秀なやつだ。オレたちと取引があるソマリアの海賊に紹介したら、なんと、彼は今では海賊の幹部の一員になっていて、オレたちの取引の窓口も勤めている。彼は武器に相当詳しいから手厳しい相手ではあるが、品物を正等に評価してくれるので助かっている」
 その話を聞いて村上が驚いた。藤井恒夫はぱっとしないトラックの運転手風情だと思っていたからだ。それが何ヶ月も経たないうちに、今世界を騒がせているソマリアの海賊の幹部になっているとはとても信じ難かった。
 モハメドが、
「フジイに会えるか?」
 と尋ねた。それを剣持が制して、
「いや、会わなくてもいい。のこのこと会いに行ったら、オレたちが海賊の仲間に殺られる」
 それで、この話は打ち切りにして、商隊がどんな物をフジイたちに売り捌いているのか聞いた。
 アル・フサインの話によると、最近は商船の護衛に各国の海軍が出動して来たので、艦船の分厚い鋼板をぶち抜く対戦車用の徹甲弾(てっこうだん)やそれを飛ばすロケットランチャーなど手に入り難い武器の調達を頼まれている。他にも陸軍が使っている迫撃砲弾なんかも頼まれている。彼等の話では、海軍は地上戦には弱いから陸軍で使っている通常兵器を使うとかなり効果的だそうだ。軍艦の甲板に迫撃砲弾をドカンとやるだけでかなり痛めつけられるらしい。
「この情報はフジイの知り合いの日本人だからバラしたが、他のやつにはこんな話は一切しないから、他所に漏らさないように注意してくれ」
 と付け加えた。
「重くて駱駝では運べないだろ?」
 と村上が聞いた。
「そうだ、みな重い荷物だ。だから、バラしてパーツにして別々に運んでいる。そうすると万一検問にひっかかっても殆ど問題にならん。フジイはバラバラなパーツを図面もなしに部下を使って元通りに組上げる技術を持っていてオレたちも驚いている。だから今では海賊の参謀的存在だ。長年武器を売ってきたが、今迄あんな優秀なやつには会ったことがないぜ」

 藤井恒夫の疑惑は解けた。用が済んだのでドバイに引き上げることにしたが、アイールが砂漠に放置されているジープを持ち帰ると言って聞かなかった。
「エンジンキーがないだろう?」
「いや、付けっぱなしになってたのをオレが頂いてきた」
 と言ってアイールはポケットからキーを出して見せた。これにはみな驚いた。
「補助タンクのガソリンはまだ使ってないから、あれをタンクに入れれば走ると思う」
 仕方なしにアル・アインの町を出るとジープが放置された場所に戻った。放置されているジープに給油を終わった時に、遠方でもうもうと砂煙が立ち昇っているのが見えた。
「おいっ、砂嵐だ」
 モハメドが叫んだ。
「こっちに来るぞっ。アイール、ジープは諦めろ」
 だが、アイールはみんなの言うことを聞かず、どうしても持ち帰ると言い張った。仕方なく四人で話し合って、アイールの好きにさせることにして三人は二台のジープに乗り込んで逃げた。
 砂嵐はすごかった。三人が道路に着いた時は既に前方の視界がまったくゼロに近く、道路に沿ってゆるゆると走るしかなかった。
 ようやくアル・アインに辿り着いたが砂嵐は止まなかった。どうにかホテルに辿り着くと、三人は部屋を取ってもう一日様子を見ることにした。モハメドは、
「砂嵐は春に多くてこの季節じゃ珍しいよ」
 と言った。
「オレたちは余程ついてないなぁ」
 と村上。
 翌日の午後、砂嵐は治まった。アイールが心配だ。それで、もう一度元の場所に戻った。
 ジープは元の所にあった。車内にぐったりしたアイールが居た。彼は口もきけない状態だったが、水を飲んでしばらくすると元気になった。
「このバカがぁ」
 モハメドはアイールを叱った。結局なんとかジープのエンジンがかかり、三台のジープでドバイを目指して走った。ドバイに着いた時はもうすっかり夜になっていた。

 剣持は多恵と落ち合う日時、場所を電話で打ち合わせて、そのままホテルで眠った。
 村上は藤井恒夫について東京の鈴木に連絡して過去の履歴の調査を頼んだ。翌朝鈴木からの報告を聞いて村上は藤井を甘く見過ぎていたことを反省した。
「今回はオレの完全なミスだったな。これじゃ伝さんに叱られるなぁ」
 と独り呟いた。
 村上は剣持と別れて日本に向けて発った。剣持はパリに向かって発った。
「明日は多恵とパリでデートかぁ」
 多恵は二十歳半ばで男と別れてボロボロになって剣持のところにやってきた。当時は落ち込んで手が付けられない状態だったが、剣持は根気良く彼女の面倒を見た。そのため、今では信頼の置けるパートナーとして安心して仕事を任すことができた。
 パリに向かう途中、剣持は多恵の接待の計画をあれこれと考えていた。そうこうしているうちに、飛行機はドゴール空港に着陸した。剣持は晴子のことも気がかりだった。しばらくは会えないが、今夜ホテルでメールを打とうと思った。

八十九 多恵とのデート

「今日、成田だぞ。遅れるなよ。荷物は何も要らんけど、前に言った通り、帰りは多分土産物で一杯になるだろうから大き目の旅行カバンは用意したか? バッグの中は空っぽでいいよ」
「はい。バッグは用意しました」
「十一時二十分に飛ぶ全日空のNH205便だぞ。切符は間違いないか? 金は忘れてもいいけど、パスポートを忘れるなよ」
「はい、大丈夫です。これから家を出ます」
「じゃ、パリで待ってるからな」
 剣持は夜中(日本の早朝)に多恵に電話を入れた。多恵は今迄苦労の連続だったらしく、海外旅行は今回が初めてだと言った。それで、エールフランスでなくて全日空に乗れと言っておいた。

 剣持は午後シャルル・ドゴール空港にでかけた。十六時四十分にNH205便が34番ゲートに到着するはずだ。
 航空機は予定通り着いたようだ。三十分ほど待つと多恵が剣持を見つけて安心した顔で飛びついてきた。初めての海外一人旅はやはり不安だったようだ。
 二人はエールフランスのシャトルバスに乗って、オペラ座近くで降りた。多恵は初めて見るパリの街並みに目を取られていた。十月も末になると、東京より少し涼しい。道行く人のコート姿が目立った。
 大きな旅行カバンは多恵が持つとバカでかく見えるが、不思議なもので、体の大きい剣持が持つとさして大きくは見えずさまになっていた。
「パリ市内のホテルはいい感じのとこがないんだよな。フランスは郊外と言うか地方の街の方がいい感じのホテルがあるんだよ。だから、ましなとこに予約を入れといたけど、がっかりするなよ」
「へーぇ? そうなんだ」
「パリ放送局に近いセーヌ河沿いの、Hotel Squareってとこだ。一応五つ星。放送局に近いからさ、売れてるアーティストが良く使うらしいよ」
 それで二人はオペラ座の所からメトロに乗った。

「同じ部屋にオレと一緒でいいだろ?」
「もちろんよ。多恵は独りじゃ心細いから弥一と一緒の方がいいの」
 ホテルのエントランスは大きな構えではないが、中に入るとこざっぱりしていて、感じは悪くなかった。
 チェックインを済ますとベルボーイが荷物を運んでくれた。
「あらっ、部屋、広いわね。感じ、悪くないわよ」
「そりゃ良かった。多恵はお客様だからな」
 と剣持は笑った。多恵は真っ白な洗濯のきいた枕が気に入ったらしい。
「高いんでしょ」
 多恵はルームチャージを気にしているようだ。
「多恵は気にしなくていいよ。そうだなぁ、東京の一流ホテルの半値位だな。220ユーロだからサービスフィーを入れて3万5千ってとこかな」
「高いじゃない」
「二人でだからさ、そんなでもないよ」
「パリは街が広いから二日や三日じゃあまり見て回れないけど多恵はいつまで休める?」
「そうね、十日間位かな? 往復入れて二週間」
「だったらここで四日間位泊まろうか」
「あたし分らないから弥一にお任せするわ」
「分った。じゃ四泊にしよう。その後、南フランスの方に行って、そこからスペインに行こうか?」
「嬉しい。スペインと聞くとあたし、ワクワクするなぁ」
 多恵は嬉しそうだった。

 夕食はホテルのレストランで済ませて早めに寝ることにした。剣持は多恵が眠ってから、起こさないようにそっと隣に潜り込んだ。だが、眠っているはずの多恵は起きていて、剣持に抱きついてきた。剣持が多恵の頭を撫で、背中を撫でてやると間もなく多恵は安心した顔で眠りについた。
 翌朝は二人とも早く目が醒めた。
「エッフェル塔が近いから散歩でもしないか」
「いいな。連れてって」
 ここからはブローニュの森も近い。晴子だったら、多分ブローニュの森にあるバガテル薔薇園に行きたいと言うだろうなと剣持は思った。
 エッフェル塔はホテルからも見えた。セーヌ河を、近くの橋を渡って少し行くと直ぐ着いた。近くで見ると鉄塔は随分精巧に作られている。
 朝食を済ますと、お昼前にセーヌ河の遊覧船に乗った。河から見る街の風景も良いものだと多恵は左右に目を走らせていた。
 河の中州のサン・ルイ島で遊覧船を降りて北側の岸に渡り、ルーブル美術館を見て回った。美術館は広い。それで一日が終わってしまった。

 次の日は靴とかバッグとかを買いたいと多恵が言った。聞くと、シャネルとかセリーヌが好きなブランドらしい。それで、剣持は夫々の店に案内した。日本の店と違って、パリの老舗は慣れないと入り辛い。剣持は多恵の手を引くようにして店に入った。
「金はオレが出すから好きな物があったら何でも買えよ。ただし、帰りは独りで持って帰るんだから、そこのとこも計算に入れてくれよな」
 と剣持は笑った。
 多恵はシャネルの靴やセリーヌのバッグ、それにスカーフなどを何点か買った。品物はホテルに届けるように頼んで店を出た。
 買い物の後、シャンゼリゼ通りや凱旋門を見てホテルに戻ると、フロントから、
「荷物が届いています。部屋にお持ちしても宜しいでしょうか」
 と電話が来た。
「全部部屋に持ってきてくれ」
 荷物が手元に届くと多恵は靴を履いて見たり、バッグを肩にかけてみたりと楽しそうにしていた。プチ・ファッションショーだ。

 三日目はモロー美術館を回り、その足でモンマルトルの丘に登った。
「明日、どこか行って見たいとこあるか」
「パリらしい公園に行きたいな」
 それで四日目はソルボンヌ大学のキャンパスに近い、リュクサンブルグ公園を散歩した。公園は広いが良く手入れが行き届いていた。
 五日目、ホテルをチェックアウトして、二人はリヨン駅からTGVで南フランスに向かった。
「大きなバッグや買い物をして直ぐに使わない物はホテルに預けとけよ」
 多恵はシャネルの靴を一足履いて、セリーヌのバッグを一つ選んで持って行くと言い、残ったものは全部大きな旅行カバンに入れてホテルに預けた。身軽になった多恵は足取り軽く剣持についてきた。
「可愛いやつだ」
 と剣持は思った。
 剣持は多恵と遊んでいる間も、不審な奴が後をつけてないか用心をしていた。だが、この五日間、何もなかった。

九十 南フランスへ

「あらっ、随分お洒落な車内ね。時々乗る新幹線よりいい感じだわ」
「アハハ、多恵はグリーン車には乗らないからなぁ」
「だって、あたし、弥一君みたいにお金持ちじゃないもん」
 多恵はフランスの高速鉄道TGVに乗り込むと車内の感じが気に入ったようだ。二人はパリのリヨン駅から南フランスに向けて出発した。
「日本からパック旅行でヨーロッパに来ると、時間短縮のために飛行機で目的地にピュッと飛んで、後は観光バスで有名なスポットだけ転々と移動するのが多いんだけど、本当はね、ヨーロッパの旅は鉄道がいいんだよ。昔からヨーロッパは鉄道が発達していて、EUに統合されてからは一段と便利で快適になったね」
「へぇーっ、そうなんだ」
「一昔前は国境を越える時はカービン銃とか自動小銃を持った兵隊さんが検問に来たりして、いかにも国境を越えるんだなぁってとこがあったそうだけど、僕等の時代はそんなのがなくなったな」
 TGVは時速200km以上で走る。三十分ほど過ぎた所で、右側のローヌ河沿いに変な建物が見えてきた。
「あれ何なの? 穀物のサイロかしら?」
 大きな太い煙突みたいな物が並んでいる。フランスは農業国なので、列車は広大な畑の中を突っ走るのだ。
「あ、あれね。あれは原子力発電所だよ」
 多恵が想像もしない言葉が剣持の口から出てびっくりした。
「へぇーっ、原発かぁ」
「フランスはね、世界でも最も原子力発電の比率が高いんだよ。日本じゃ総発電量の40%弱が原子力でまかなわれているんだけど、フランスは何と総発電量の80%が原子力発電でまかなわれているんだよ」
「そうなんだ。あたし、そんなこと全然知らなかったわ。弥一は詳しいね」
「アハハ、男性なら常識だよ」
 と剣持は笑った。

「今夜はね、プロバンスのアビニオンって町のホテルに泊まることにしたよ」
「アビニオンって、童謡みたいな♪輪になって踊ろ……って歌のアビニオン?」
「そうだよ。日本でも地方に城下町ってあるだろ? 例えば弘前みたいな」
「ええ、沢山あるわね」
「アビニオンも城下町なんだよ。街の中心に古いお城がある町」
「へぇーっ、素的」
 剣持はアビニオンでは最上級クラスのオテル(Hotel) ド・ユーロップに予約を入れておいた。アビニオンの駅で降りて、タクシーでホテルに着いた。
「あら、日本の国旗が出てる。日本人客が多いのかしら?」
 多恵はホテルの建物に日の丸があるのをみてそう言った。
「いや、このホテルは日本人客は殆どないと思うよ。アビニオンの平均的な宿泊料の三倍以上で、主に富裕層のお客だけ泊めるみたいだから、パック旅行なんかには組み込まれていないみたいだよ。今日は日本人は僕等だけだから、多恵を歓迎して国旗を出してくれたんだよ。他にスイスとドイツとフランスのお客様があるみたいだね」
 そう言われるとなんだか多恵は感激した。
ホテルはこじんまりとした感じだった。

「ボンジュール、マダム」
 フロントの男が多恵ににっこり微笑んだ。多恵は慌てて、
「こんにちは」
 と言ってしまった。それを見て男は親しげな顔で頭を下げた。チェックを済ますと二階の部屋に案内された。部屋に入ると多恵はまた感嘆の声を上げた
「素的っ!」
 広い部屋の天上には小さなシャンデリアがあり、椅子などの調度品はプロバンス風の落ち着いた可愛らしい感じだった。窓を開けるとハーブなど秋の草花が一杯咲いていた。バスルームも広くて清潔でゆったりとしていた。
 夕食はホテルの食堂で済ますことにした。今夜はピジョン(小鳩)の料理だと説明された。このあたりではピジョン料理は普通にあるらしい。多恵は食堂の雰囲気も気に入った。

 ホテルの素的な部屋に戻って、多恵は新婚旅行もこんな感じなのかなぁと思った。剣持が新聞を読んでいる間に、
「あたし、先にシャワー使っていいかしら」
と遠慮がちに聞いた。
「どうぞ。ゆっくりと疲れを流してくれよ」
 それで多恵はバスルームに入った。南仏プロバンス地方は地元のハーブグッズが色々ある。バスルームにも色々置いてあった。一つ一つ見てから、バスにお湯を張り、お湯に入れるパウダーを見つけて入れてみた。爽やかな気持ちの良い香りがあたりに漂った。多恵は旅で汚れた髪の毛と身体を洗ってから、少しぬるめのお湯にして、ゆっくりとバスタブに横たわって自分のこれからのことを考えていた。弥一と出会って、随分面倒を見てもらったけれど、弥一は自分の仕事仲間の女性の誰にでも平等に付き合っている様子だし、本当は未来の夫になってくれたらいいなぁと淡い恋心を抱きつつ、一歩が踏み出せないでいたのだ。
 ようやく三十に手が届きそうな年齢になったけれど、胸の張りや脚の形も自分ながらそこそこ綺麗だと思うし、まだお腹の周りのお肉も殆ど付いてなくて、ナイスバディの方じゃないかとしげしげと自分の肢体を眺めたりしていた。
 ドライヤーで髪の毛を乾かして、長めの髪にブラシを当ててから身体を拭いて備え付けの真っ白なガウンを羽織った。内側には何も着けずに。

「お先に。とても良いバスルームだったわよ」
「そうか、オレもシャワー、やっちゃおうかな」
 そう言って剣持もバスルームに入った。
 多恵は湯上りにガス入りの水をコップに満たして飲んだ。喉を通る水は美味しかった。ヨーロッパでは水は普通ガス入りだ。炭酸が入っていないのを欲しい時はボトルを良く確かめないと、うっかりするとガス入りと間違え易い。

 剣持はバスルームから出ると多恵が入れた水を美味そうに飲んで、テレビのニュース番組を見ていた。多恵は剣持の脇に座ってなんとなく一緒にニュースを見ていたが、言葉が達者でないので、映像で想像するしかなかった。
「早いけど、明日もあるから、そろそろ休もうか」
 そう言って剣持はベッドに潜り込んだ。多恵はもう一つのベッドに潜り込んだものの、やはり落ち着かなかった。
 それで、多恵はその夜も自分のベッドを抜けて剣持の脇に入った。多恵はガウンの下に何も付けてなかったから、ガウンを脱いで丸裸のまま、剣持の隣に横になると自分の脚を剣持の脚に絡ませた。剣持の肌の温もりを感じていると、多恵は次第に気持ちが昂ぶってきた。剣持が抱き寄せてくれ、背中を撫でてくれると、多恵はそっと手を剣持の下腹部に伸ばして、トランクスの脇から手を入れた。剣持のものを見つけると、多恵はそれを軽く握り締め、指先で男が感じ易い部分を愛撫し始めた。剣持は多恵の好きにさせていた。だが、本能には抗えない。剣持の物はすぐにパンパンになってしまった。
「多恵」
「ん?」
「エッチしたいのか?」
「もうしてるわよ」
 と多恵はくすくす笑った。笑いながら多恵の手と指は段々大胆になって激しく愛撫し始めた。剣持は今夜多恵がして欲しいんだろうと感じていたが、晴子のことが頭の隅にあって、ためらいがあった。それで、そっと多恵の手を掴んで自分の唇に持って行って多恵の指先を歯で軽く噛んだ。多恵は剣持の気持ちを察したのか、それ以上は何もしなかった。やがて多恵は剣持の脇で眠りについた。
 翌日、街の中を散歩した。多恵は古城の雰囲気も気に入った。剣持は多恵の喜ぶ様子を見て連れてきて良かったと思った。

 午後、レンタカーを借りてきて、二人であちこちドライブして回った。どこに行っても広大な葡萄畑が広がっているのが多恵には印象に残った。
「ここに、もう一晩泊まろうか?」
「あたし、すっごく気に入ったから出来ればもう一晩泊まりたいな」
 剣持はフロントに聞いてみた。
「ウィ、ムッシュ。大丈夫です」
 それで、剣持たちはこのホテルにもう一晩泊まることにした。二人は、翌日はスペインに向かうつもりでいた。

九十一 南仏からスペインへ

前日早く寝たので、二人とも早起きした。
「多恵、ちょっとこの地図を見てくれないか?」
 アビニオンのホテルで朝食前、剣持はトーマス・クックのタイムテーブルに出ているフランスとスペインの地図上に描かれた鉄道路線図を多恵に見せた。剣持は荷物と言えば小さなノートパソコンとこの時刻表だけだ。
「細かくて見難いけど、上の地図の真ん中にパリがあるでしょ? 赤い印を付けたとこ」
「これね、ここがパリ」
「ん。この地図の下の方に赤い印を付けたリヨンがあるよね」
「ええ」
「フランスの鉄道路線図は一ページじゃ溢れちゃうから二ページ目につなげて印刷されているんだよ。二ページ目の真ん中の右の方に赤い印がついてるとこが、ここ、アビニオンだよ」
「パリから随分南の方なのね」
「ん。地中海に近いね。アビニオンの下に大きな活字でマルセイユって書いてあるでしょ? ここが港町のマルセイユだよ」
「へぇーっ、アビニオンから近いんだ」
「ん。アビニオン一帯の地域をプロバンス地方って呼んでいるんだよ」

「この二枚の地図を見て何か気付いた?」
 多恵はもう一度地図を見た。
「フランスの鉄道って、殆どパリから出てるのね」
「さすが、多恵は頭がいいね。その通りなんだよ。ヨーロッパの鉄道は大抵大都市から地方に広がっているんだよ。だから、どこに行くにもパリからだと早くて便利なんだけど、例えば地方の町から別の地方の町へとパリを中心に横に移動しようとすると、連結がうまく行ってないんだよな」
「そうね。確かにこの絵を見るとそんな風に見えるわね」
「スペインのバルセロナに行く場合」
「バルセロナってオリンピックがあったとこ?」
「ん。オリンピックが開催されたバルセロナへは、普通はマドリッドまで飛行機で飛んで、そこから鉄道にするか。飛行機を乗り継いでバルセロナに行くのが早くて便利だね」
「それはそうね」
「ヨーロッパでは大都市間は早くて便利な列車の本数が多いんだよ。当然だけど」
「ええ」
「だから、パリから鉄道でマドリッドに行くには便利なんだよ。でもここのアビニオンからだと、一旦パリまで引き返さないとダメだよね」
「来た経路と同じとこを?」
「ん」
「それじゃつまんないわね」
「でしょっ! だから、ここから地中海の海岸沿いに鉄道で行こうと思うんだけど、少し時間がかかるが、それでもいい?」
「あたし、その方がいいな」
「じゃ、決まりだ。それでスペインの地図だけど、フランスの方から行くと、右上の赤い所を通るんだよ。すると直ぐ赤い印を付けたバルセロナでしょ?」
「あら、バルセロナってフランスの国境に近いのね」
「ん。バルセロナまで行くと、マドリッドまではわりと便利なんだよ。普通に人が行く逆コースだけど」
「それで相談だけど、真ん中の赤い印がマドリッドで、下の方の緑がグラナダ、青がセビリア、この二つは多恵が行って良かったと思うからここまで行こうと思うんだけど。つまりスペインはバルセロナと途中のバレンシアとグラナダとセビリア。どう?」
「どうって、あたし時間が許せば全部行きたいな」
「じゃ、そのコースで回ろうね」
「字が細かくて見難いけど、バルセロナの脇に<650/5> って数字が書いてあるでしょ?」
「ん。これでしょ?」
「そう。この番号はタイムテーブルの番号で、この番号を見ると列車の時刻とか接続が分るんだよ」
「バルセロナからバレンシアを通る時刻表は<655> を見ればいいんだよ」
 剣持は慣れているので、列車の連絡など接続を調べて、
「じゃ、九時三十五分アビニオン発の列車に乗ってバルセロナに行こう。バルセロナには夕方五時過ぎに着けるよ」

 朝食を済ますと直ぐチェックアウトをして、アビニオンの駅に向かった。二人とも荷物が殆どないからとても楽だった。昨日多恵はプロバンスのお土産を少し買って持っていた。それを剣持が持ってやった。
 列車はペルピニャンと言う駅で乗り換えて、フランスとスペインの国境の町、ポートボーに予定より少し遅れて十三時五十分に着いた。ここからいよいよスペインへ向けて出発だ。ポートボー十四時三十分発の列車に乗ると夕方バルセロナに行ける。
 ヨーロッパの鉄道はその季節だけ走る車両が案外多く、気を付けて時刻表をみないととんでもないことになるし、日本のようにピッタリの時刻では来ないから余裕を見ておかないと危ないのだ。剣持はそれを注意深く点検していた。

 十七時過ぎにバルセロナに着いた。今夜はバルセロナに泊まる予定だ。
 明日は有名なサグラダファミリアを見に連れてってやろうと剣持は計画していた。

九十二 バルセロナ

フランスとスペインの国境の町ポートボーに着いた。
「次の列車が出るまで少し時間があるから、街に出てみようか」
「はい」
 二人は駅を出て町に出てみた。道路の案内板を見ると、真直ぐ進むとバルセロナと書いてある。
「道路案内に出てるから、バルセロナまではそう遠くはないね」
 列車はほぼ定刻に入線してきた。ポートボーからバルセロナに行く列車はローカル線だ。乗客は少なく、車内はこざっぱりしていた。
「いよいよスペインね」
「ん。多恵は初めての海外旅行なのに、電車で国境越えなんて普通じゃないなぁ」
「あら、それってどう言う意味?」
「初めての海外旅行は大抵パック旅行だろ?パック旅行じゃいくらなんでも、こんなローカルなとこは通らないよ」
 と言って剣持は笑った。
 列車が動き出した。しばらくすると田舎町の風景が車窓に現れた。景色は日本とあまり変らない。
「こんな風景が続くわね。あれは何の木かしら?」
「スペインを鉄道で旅すると、こんな風景、わりと多いよ。あの木はオリーブの木なんだよ。スペインのオリーブ油の生産量は半端じゃないから」
「へぇーっ、あれがオリーブ畑なんだ」
 先ほど、ポートボーで降りたとき、サンドイッチやジュースを買い込んできた。二人は遅い昼食を済ませた。そうこうしているうちに、列車はバルセロナのサンツ駅に到着した。
「バルセロナには駅が二つあってね、一つはサンツ駅、明日マドリッドに向かう列車もここからだ。もう一つのフランサ駅から出るのもあるんだけど」
「時間がない時に間違えたら大変だわね」
「アハハ、その通りだよ。パリなんかも、駅が沢山あるから、初めてだとまごまごするよ。でもね、トーマスクックの時刻表にはちゃんと書いてあるから大丈夫」
 と剣持は笑った。

 バルセロナも地下鉄が便利だ。サンツ駅を降りると直ぐの地下鉄のサンツ・エスタシォ駅から乗って次のカタルーニャ駅で降りた。剣持はカタルーニャ駅近くのメリディエンと呼ぶホテルに予約を入れておいた。
 このホテルは女性に人気があるらしい。チェックインして部屋に入ると、綺麗な生花が部屋のあちこちに飾ってあった。多恵は、
「あらぁ、素的な部屋。弥一は女性を喜ばすのが上手ね」
 と感動していた。
「そりゃ、元ホストクラブに居た人だからさぁ」
 と剣持は笑った。
「晩飯だけど、多恵はスペイン初体験だからさ、本場のパエリアはどう?」
「もう、言うことなしだわ。美味しいパエリアが食べられるとこに連れてって」
「アハハ、どこでも美味しいよ。スペイン料理は日本人の口に合ってるみたいだね。スペインのあちこちに行ったけど、メシで失敗したことはないなぁ」
「そうなんだ。今夜のご飯、楽しみだなぁ」

 美味しいパエリアとワインで満腹になった二人はホテルに戻ってシャワーを使ってから直ぐベッドに入った。
 多恵が眠ってから、剣持は晴子にメールを書いて送った。ノートパソコンがあれば、大きな街のホテルならどこでもインターネットに接続できる。晴子に何と書こうか考えている内に、だんだんと、とりとめのない内容になってしまって、メールを送信してしまってから、いつも、もうちょっとましな内容のメールに出来なかったのかと後悔してしまうのだ。

 翌日午前中地下鉄でサグラダ・ファミリアに向かった。地下鉄のサグラダ・ファミリア駅を降りると直ぐだ。
「昔、そうだなぁ、一八五〇年頃から一九〇〇年早々に生きた人だけど、アントニオ・ガウディ・コルネットと言う建築家が居たんだよ。彼はユニークなデザインの建築物を沢山残していてね、このサグラダ・ファミリアは彼の代表作と言われている作品なんだ」
「すごいわねぇ」
 多恵は建物の前に立って、建物の大きさやデザインに感嘆した。
「あら、工事用の鉄塔が立ってるから、どこか修理中なのかしら?」
「そうじゃなくて、この建物は百年以上経ってもまだ完成してなくて建設中なんだよ」
「そう? 変なの」
「ガウディが生きている間に一部完成したんだけど、ガウディはある日市内電車に跳ね飛ばされて、病院に運ばれたんだけど死んでしまったんだって。それで、ガウディの後を他の人が引き継いでずっと建造作業を続けていて、まだ完成してないんだって。中に入ってみよう」
 建物の中もまだ建造中だったが、とにかくすごいので多恵はしばらく細やかな彫像などを眺めていた。
「バルセロナには他にも見る所がいっぱいあるんだけど、全部見るにはここだけで二週間位は最低かかるから、今日はガウディの作品一点だけにした。機会があったら、今度はたっぷり日程を組んで遊びに来るといいよ」
「そうね、今回は二週間くらいしか取れないから仕方ないわね」
 二人は午後三時頃、サンツ駅からバレンシァに向かった。

九十三 あたし、どうしょうっ!

 午後三時頃、剣持と多恵の二人は、バルセロナからまた列車に揺られてバレンシアに向かった。バレンシアに近付くにつれて、列車の両側の車窓から広大なオレンジ畑が現れた。もうオレンジ色に色付いた実がなっている木も沢山あった。
「あれがバレンシアオレンジ? 綺麗ね」
「ん。有名なバレンシアオレンジだよ。バレンシアでは安いから一杯食べてよ」
 と応えて剣持は笑った。
「多恵は陶器に興味ある?」
「綺麗なお皿とかカップなんかは好きだけど」
「そうじゃなくて、陶芸の方」
「興味はあるけど、全然知識がないわ」
「そうか、バレンシヤはバレンシアオレンジで有名だけど、陶芸品のコレクションが多いことで知られているスペイン国立陶芸博物館があるんだ。でも少しマニアックだからパスしようか?」
「そうね。時間のある時だったら覗いてみたい気もするけど、今回はパスでいいわ」
「じゃ、バレンシアは今夜泊まるだけにして、明日早朝にマドリッドに向かおうよ」
「春に来ると、面白い火祭りがあるんだよ。今は博物館とか現代美術館くらいのもので他にはどうしても見た方がいいってスポットはないんだよな」
「じゃ、お泊りだけね」
「ん。鉄道の旅はたまに列車の接続とかで一晩泊まるだけなんてのもあるんだよ」

 バレンシアに着くと、元公爵の住まいを改造してホテルにしたと言われるアンティークな雰囲気のメリア・コンフォルト・イングレスと言うホテルに入った。予約はしていなかったが、混雑する季節ではないので直ぐチェックインできた。バルセロナはホテル代がかなり高かったが、ここは随分安かったので良い部屋を取ってもらった。
「明日は九時少し前の特急に乗りたいから、少し早く出発しよう。特急だと十二時過ぎにマドリッドに着くからゆっくりできるよね」
「はい」
 二人は夕食は街のレストランでとることにして、一服すると直ぐに外出した。スペイン、特にバレンシアあたりはフランスよりもずっと南なので、十一月と言っても暖かだった。だから、夕方街を歩くには快適だった。
 夕食を終わってホテルに戻ると、シャワーを済ませてから、剣持は多恵の脚をマッサージしてやった。旅をするとよく歩くので、多恵は口に出しては言わないがかなり疲れているんだろうと思ったのだ。多恵は最初は、
「弥一さんにしてもらうなんて、もったいなくて」
 などと遠慮したが剣持が、
「ほらっ、脚を出して」
 と多恵の足首をつかんで引っ張ると多恵は素直に従った。
「気持ちいい~っ、多恵は極楽だなぁ」
 多恵は気持ち良さそうに剣持のマッサージにうっとりとした顔をしていた。マッサージが終わると、
「すまん、オレちょっとパソコンやるから」
 と言ってノートパソコンを電話器のジャックを引き抜いて持参の回線チェッカーを間に入れてパソコンを電話回線に接続した。海外では回線の極が地域により違っていることが多いので、必ず回線チェッカーを入れて、極が違っていたらスイッチで切り替えて正しく接続するのだ。

 剣持はOutlook Express を開いてメールの送受信をした。村上と武雄から連絡が着ていたので、適当に書き込んで返信した。晴子からの返信は届いていなかった。
 剣持はヨーロッパに来てから概ね一日おきくらいの頻度で晴子にメールを送信していた。その都度、あれやこれや考えてその日の出来事や晴子への想いをタイプして送信していた。だが、今迄一度も返信が届かなかった。
 考えて見ると、CIAの奴らに付きまとわれながら、テロリストグループの始末に走っていた約半年間は、仕事以外のことに気を取られていると、いつ自分が()られるか分らないので、晴子からメールや電話が着ても一切返事をしなかった。あの時は一日二十四時間常に神経を尖らせて周囲の状況に気を配る日々が続いていた。勿論、夜寝ている時も、熟睡はできなかったのだ。
 だから、晴子からなんの返事もないのは、もしかして晴子が剣持にその時の気持ちを分からせるためではないかとも思われたが、剣持はそれについては一切触れず、また返信がないことをなじるようなことも一切書かなかった。たとえ一度でも、相手をなじるようなことを書けば、必ず誤解を受けてお互いの信頼にヒビが入り、取り返しが付かなくなることを分っていた。誤解されるのは、いとも簡単だが、相手に誤解を解いてもらうのは極めて難しいのだ。
 今夜の分も、多分晴子からは何も返事がないだろう。だが、剣持は真心を込めて晴子への想いを自分なりに書き綴って晴子のパソコンのメールアドレスに送信した。

 多恵はいつの間にか、心地良さそうな寝息を立てて眠っていた。剣持は晴子へのメールの送信を終わると、フロントにルームサービスを頼み、ワインを持ってこさせた。それを飲み終わるとベッドに潜り込んだ。
 翌日、八時過ぎにチェックアウトして、駅に向かった。列車は定刻に発車した。特急なので、途中一駅に停車するだけだ。
「食堂車でコーヒーでも飲まない?」
「はい」
 二人は食堂車に移ってコーヒーを注文した。バレンシアオレンジの畑がまばらになると、オリーブ畑に変り、やがて次第に家屋の風景が増えて、十二時過ぎにマドリッドに到着した。マドリッドはアトーチャ駅とノルテ駅がある。剣持たちが乗った列車はアトーチャ駅に着いた。アトーチャ駅は以前テロがあって大勢犠牲者が出た所だ。
 剣持は最初にホテルに予約を入れた。ホテルは地下鉄のアロンソ・マルティネス駅近くのACサント・マウロにした。二泊だ。マドリッドは大都会なので、近代的なホテルが沢山あるが、予約を入れたホテルは十九世紀に貴族が住んでいた建物を約二十年前に改造してホテルにした所で五つ星の高級ホテルだが、バルセロナより少し安い。ホテルの予約を済ますと、
「街に出てみよう」
 と言って多恵と地下鉄でプエルタ・デル・ソルに出た。ここは繁華街でショッピング街もある。
「土産物屋じゃなくて、普通のお店を見てみたいな」
 と多恵が言ったので案内した。観光客向けの店はホテルのあるサラマンカ地区に集まっているのだが、多恵はそんな店でなくて、地元の人が出入りする店を見たいと言った。

 スペインはワインもなかなか良いものがある。ワインショップに入るとずらっとボトルが並んでいたが、多恵はみな安いのに驚いていた。
 当たり前だが、肉屋、魚屋、果物屋もある。品物は豊富で繁盛していた。
 街をブラブラ歩いてから、地下鉄の駅に戻り、また地下鉄に乗った。ホテルのあるアロンソ・マルティネス駅へは途中で乗り換えて三つ目だから直ぐに着く。
 ホテルは内装は新しいが随所に昔の貴族の館の面影が残されていて素的だった。多恵はこのホテルも気に入ったようだ。
「マドリッドは王宮を見た後、有名なプラド美術館を散歩しようよ。マドリッドは今回はこの二つだけだ。我慢してね」
「そうね、ただでさえ欲張ってあちこち回るんだから仕方ないわね」
 それで、マドリッドは二箇所だけにした。
「スペインはね、ブルボン王朝が栄えて、ずっと王国だったんだよ。その昔、イスラム帝国が繁栄した頃は、イスラム教とキリスト教がぶつかって、栄枯盛衰を繰り返した歴史があるんだよ。それを頭に入れておくと、イスラム文化とキリスト文化がうまく融合して独特の文化が形成されてきた様子に興味が湧くよ」
「そう、あたし世界史は苦手だったけど、日本に帰ったら勉強してみようかな」
 明日から多恵のカルチャーショックが見えるようで剣持は笑った。
「あら、何が可笑しいの?」
「いや、何でもないよ」

 朝から、良い天気だった。二人は地下鉄に乗って王宮に向かった。王宮の内部に入ると、昨日剣持が思った通り、多恵はカルチャーショックに遭って行く先々で悲鳴に近い喚声を上げ、ため息をついていた。
 特に豪華なシャンデリアを見て、
「映画、オペラ座の怪人に出てくるシャンデリアって実際はこんな感じだったんだ」
 等と関心していた。
 午後はプラド美術館を散策した。とても広く、学校の教科書に出ているような絵画の実物が沢山あって、多恵も結構楽しめたようだ。

 晴子は、ここのとこ何かと忙しく、お腹の赤ちゃんのこともあって、もう、ずっと長い間パソコンを開かなかったが、最近名前を知らない花に出会って、それを調べたいと久しぶりにパソコンの電源スイッチを入れた。間もなく正常に立ち上がって、ウインドウズの画面が出た。
 インターネットに繋いで、花の名前を調べて見たら案外すぐに見付かった。
「案ずるより生むが易しかぁ」
 それで、パソコンの電源を切ってしまおうと思ったが、ついでにメールの送受信もしてみた。友達とは普段携帯メールや直接携帯で話をしているから、パソコンにはメールなんて殆ど来てないと思ったが、こう言うのを虫が知らせると言うのか、何となく送受信をした。

 Outlook Express の受信画面になると、ズラズラ、ズラズラと何十通もメールが届いていた。
「あれれ? 迷惑メールがこんなに一杯」
 と思いつつ、良く見ると殆どのメールは剣持からだった。
「あら? いつのかしら?」
 そう独り言を言いながら、届いたメールを一通ずつ丁寧に読み始めた。一番新しいのは昨日バレンシアから送られたメールだった。
 読んでいる内に、晴子の胸は次第に動悸が激しくなってきた。
 そこには、旅先の出来事などが簡単に綴られて、その後に、剣持が殆ど一日おきに、晴子への想い、結婚したらこんな家庭を築きたいとか、お腹の赤ちゃん一人だけだと子供が大きくなって淋しいだろうから、出来ればもう一人産んでくれないかとか、兎に角今は晴子さんのお身体の健康がご自身にとっても産まれてくる子供にとっても、とても大切だからくれぐれもご無理をしないで健康に気を遣って下さいとか、今迄晴子が剣持に聞いてみたいと思っていたことが毎回丁寧に綴られていた。晴子は一度も返信をしていなかったのに、それについては一言も嫌味らしいことは書かれていなかったのだ。
 気が付くと、晴子の頬を流れ落ちる涙がキーボードにポツン、ボツンと垂れ落ちていた。全部読み終わると、午前二時を回っていた。
「あたし、どうしょう」
 晴子は剣持に申し訳ない気持ちで胸が詰まってしばらく呆然としていた。剣持とは、少なくとも結婚を前提にお付き合いを始めた大切な人だ。それなのに、随分長い間メールを読みもせずにほったらかしにしていた自分を責めた。
「あたしって、本当にダメだなぁ」

 剣持が仕事で何ヶ月も晴子のメールを無視し、電話も取ってくれなかったから、晴子は今回も半年か一年間ヨーロッパに仕事で出かけると聞いていたので、以前同様に当分何も音沙汰のない日が続くものとあきらめていたのだ。
 それなのに……。晴子はお腹に赤ちゃんが居なかったら、直ぐに剣持の所に飛んで行って、直接会って詫びたいほどの気持ちになっていた。
 夜が更けたが、晴子はお詫びのメールを打ち始めた。打っている間にも涙が止め処なく湧いてきたのだった。

九十四 マドリッドからセビリアへ

 剣持と多恵はマドリッドのアトーチャ駅へと急いだ。早朝AVEと言う特急に八時に乗ると十時過ぎにはポルトガルに近いセビリアに着けるのだ。AVEは新幹線みたいな高速鉄道で時速200km以上で走ってくれる。駅に着くと既にセビリア往きは入線していた。
 AVEは航空機並みにお昼には軽食のサービスがあるが、早朝だったのでお茶のサービスがあった。車内はそれほど混んでなくて、快適だった。車窓の景色を見ながら、多恵は初めての海外旅行なので、途中の景色もしっかりと眺めていた。うつらうつらと居眠りしている暇がなかったと言うわけだ。
「あれもオリーブ畑?」
「ん。スペインは広いね」
 セビリア駅に着くと剣持は電話でホテルに予約を入れた。シーズンオフなので空いているようだった。
「あら、暖かいと言うか暑いくらいね」
 セビリアに着いて多恵は気候が南国の雰囲気なので驚いていた。
「地図で見た通り、パリに比べると随分南の方だからね」
 街の通りに出ると長袖のジャンパー姿とか半袖シャツ姿とかまちまちだ。
「ホテルは市内でもハイクラスのメリア・コロンと言う所にしたよ」
「いつも良い所ばかりに泊まって、予算の方、大丈夫なの?」
「アハハ、お姫様のお供だからね」
 と剣持は笑った。
「ほんと? あたし、こんな旅行、多分これから先二度とないような気がするな」
「お昼を済ませたら、スペイン広場のあたりを散歩してみようか?」
「スペイン広場ってここにもあるの?」
「ん。世界中スペイン広場って名前のとこは一杯あるみたいだね」
 スペイン広場は随分広かった。人の出が少なく、がらんとした感じだった。
「あの立派な建物は何?」
「ああ、あれね。あれは旧い建物のように見えるけど、わりと新しい建物なんだ。本に書いてあったけど、一九二九年にここで万国博覧会があった時、展示用のパビリオンとして作られたらしいんだ」
「へぇーっ、それにしては随分豪華な建物ね」

「アラビアのローレンスって言うスペクタクル映画、見たことある?」
「あたし、面白くって今までに二度も見ちゃった。映画館でなくてDVDでよ」
「あの映画でローレンスと戦う英国の軍人がエジプトのカイロのホテルに駐留している場面があるんだけど、実はここでロケしたらしいよ」
「そう? なんか全体がアラビア的な雰囲気があるからロケにはいいかもね」
「今夜、本場のフラメンコを見に行かない」
「あっ、見たい。絶対に見たい」
 多恵の目が輝いた。
「あたし、新宿にあるフラメンコやってるお店、エルフラメンコで何回か見たよ」
「ああ、あそこ、オレ、ホストクラブに居た時、時々お客さんと行ったなぁ。スペイン料理も出すね」

 予約を入れたタブラオ(フラメンコのライブハウス)は夜十時頃に来いと言った。早い所では夜八時頃からやる所もあるらしいが、あまり大きくないタブラオの方が踊り手を近くで見えていいかなと思って、剣持は小さな所に予約を入れたのだ。
 夜、店の前に行くと、随分人が集まっていた。
「ちっちゃなとこで、こんなに入れるのかなぁ」
 と心配したが、全員店に入れた。
 フラメンコは踊りはなかなか迫力があったし、ギターも良かったが、特にカンテ(歌い手)の歌声に多恵は我を忘れて聴き入っているようだった。哀愁のある壁に染入るような声だった。
 ホテルに戻っても、多恵はまだカンテの余韻に酔いしれていた。遅くまでフラメンコを見ながら飲んだので、翌朝は二人とも寝坊した。
 朝食兼昼食をホテルで済ますと、また街の散歩に出かけた。

「キリスト教の聖堂ででかいのを大聖堂って言うね」
「カテドラルのことね」
「ん。世界の大聖堂で一番大きなとこはどこだか知ってる?」
「ロンドンのセント・ポール?」
「外れ」
「あれっ? 違ったかしら?」
「一番でかいと言われてるのは、ローマのヴァチカンにあるサン・ピエトロらしいよ。二番目がセント・ポール」
「へーぇっ、そうなんだ」
「それで、三番目にでかいと言われているのがここだよ」
「そうなんだ。大きいわね」
「全体的にアラビアっぽいとこがあるだろ」
「確かにそうね。日本に帰ったら、あたし、世界史を真面目に勉強しようっと」
 と多恵は笑った。
 カテドラルを見た後、グアダルキビル川沿いにあるセビリア美術館に寄った。川の両岸は緑地になっていて、なかなか綺麗だった。
 絵画は宗教的なものが多かったが、建物がアラブ世界と西欧世界の文化が交じり合ってとても良い雰囲気を出していた。

 多恵が寝静まってから、剣持はそっとベッドから抜け出して、ノートパソコンを開いた。いつもの通り、晴子に宛ててメールを打ち込むと、送受信した。
「あれれっ、珍しいな。何かあったのかなぁ」
 晴子から返信メールが届いたのは初めてだった。剣持は晴子に何か良からぬことがあったのかと一瞬心配する気持ちが()ぎった。

「剣持様、お変わりありませんか? 晴子もお腹の赤ちゃんも共に元気です。さて、今迄沢山のメールを頂戴しながら……」
 晴子からの返信メールには最初に今迄剣持が送ったメールに全く返信しなかったお詫びが綴られていた。続いて、最初のメールから全部読ませてもらった所、いままで自分の中で分らなかったことや剣持様の将来のお考えや夢が良く分かり、それに私への身に余るお言葉の数々を読んで涙が溢れて止まらなかったことなどが綴られていた。
「そうか、どうも変だと思ってたら、パソコンを開いてなかったんだ」
 剣持の心の中の霧がさっと晴れた。剣持は自分の気持ちがどうやら晴子に届いたようで嬉しかった。
 先ほどメールを送ってしまったが、[追伸メール]を書いて送った。
 [大変ご丁寧な返信を下さってありがとう。晴子さんに僕の気持ちを分かって頂いて何よりも嬉しいです]に続けて先ほどそちらからの返信を読む前にメールを送ってしまったことを詫びる内容だった。
「来月、クリスマスイブに一度戻ります。出来たらクリスマスイブはご一緒に過ごしたいのでお時間を調整して十二月二十四日の午後はお身体を空けておいて頂けませんか? こちらで買ったお土産もお渡ししたいし」
 そんな内容を付け加えて送った。

 晴子の剣持に対する気持ちは、沢山のメールを読み終わって一変した。
 いままで剣持からは途切れがちな連絡しかなくて、剣持と結婚するなんて諦めて、武雄がダメならしばらくは産まれて来る赤ちゃんと二人っきりで過ごそうとまで心を決めていた。武雄は晴子に優しかったが、剣持に遠慮して結婚など論外と言う感じで、最近は晴子からは結婚の話なんて切り出せなかった。
 今回沢山のメールを読んで、今迄剣持のことをすっかり誤解してしまっていることに気付かされた。
 晴子は翌日メールチェックしたが、その日は剣持から届いていなかった。一日置いて、剣持から返信が来た。だが、メールの内容は晴子が送った返信を読んでない感じだった。
 所が、続けて追伸メールがあった。読んで、晴子が返信した内容はちゃんと理解してもらったようだった。
「よかったぁ」
 晴子は思わず独り言を言ってしまった。何か心の中でもやもやしていた気持ちがスッキリ晴れて、
「さ、お風呂に入ろうね」
 とお腹の赤ちゃんに話しかけた。
 その夜のお風呂はなんか気持ちがハイになって、思わず口から歌が飛び出していた。
「晴子、今日は何だかご機嫌ねぇ。何かいいことあったの?」
 お風呂から久しぶりに聞こえる晴子の歌声に母の貴恵は訝った。
「あら、何でもないわよ。たまには歌でも歌いたくなっただけよ」
 晴子は誤魔化した。

九十五 グラナダ・アルハンブラ

 多恵は早起きしたら、剣持はもう起きていた。時計を見ると五時半だ。
「あら、弥一も早いのね」
「ん。実は昨日列車の時刻表を調べたら、ここからグラナダまで直通で行く列車が一本だけあるんだよ。それでここを早めに引き払ってその列車に乗りたいんだけど、いいかい」
「あたしなら全然平気」
 それで、二人は午前七時発の列車に乗って、グラナダを目指した。
「十時にはグラナダに着くよ。セビリアとかグラナダ一帯はスペインではアンダルシア地方と呼んでいるのを知ってるよね?」
「アンダルシアは良く聞くけど、本当のとこは知らなかったな」
「この地方は八世紀頃まではイスラム帝国に支配されてたんだって。アルハンブラって呼ばれる王宮は外敵から守る強固な城で知られていたそうだけど、十世紀を過ぎるとキリスト教の神聖ローマ帝国が勃興して、十字軍がイベリア半島、つまりスペインにも進出して国土回復運動、レコンキスタを起こしてアルハンブラを攻めて、遂に落城させたんだって。なのでアルハンブラ宮殿に行くと、イスラムの王様が城を明け渡す様子を描いた絵が見られるよ」
「やっぱ、あたし世界史を勉強してからアルハンブラにもう一度来なくちゃ、面白さがわかんないなぁ」
 多恵は歴史の話になると落ち込んだようになる。

 セビリアは広い平野の中心にあるから、周囲には高い山はないが、列車がグラナダに近付くにつれて、次第に山間部にさしかかり、勾配がきつくなってきた。
「グラナダの南にはシエラネバダ山脈があってね、一番高い所は標高3500m近くもあるんだよ。ほら、ずっと向うに雪でキラキラした山が見えるだろ? あれがシエラネバダだよ」
「へーぇ、こんな暖かい所でも雪があるんだ」
「そりゃ暖かいとこでも、高い山には雪が降るよ」
「じゃ、スキーも出来るの?」
「多恵は鋭いね。立派なスキー場があってね、山を下って地中海に出ると海水浴ができるんで有名な所もあるんだよ」
「グラナダは高原の町で寒いからさ、あっちに言ったらジャケを買ってあげるよ」
「あたし、薄いのしか持ってないからお願い」
 確かに列車の窓を少し開けると冷たい風が入ってきた。
「シエラネバダってカルフォニアにもなかったっけ?」
「多恵、よく知ってるね。同じ名前の山脈が確かにあるんだよ。なので間違え易いね」
 そんな話をしている内に、丁度午前十時に列車はグラナダ駅に着いた。グラナダは小さな町だから、2kmも行けば街の中心部に行ける。

 駅に着くと、剣持は直ぐホテルに部屋を予約した。ホテルは宮殿に近いアルハンブラ・パラセだった。剣持に聞くと、マドリッドなんかに比べてホテルは良い所でもそんなに高くはないそうだった。
 駅からホテルにタクシーで行く途中、洋品店を見つけると剣持は運転手に止まってここで待っていろと言って、多恵と一緒に店に入った。
「気にいったデザインのジャケでも買おう」
 店員は丁寧に応対してあれこれ多恵に勧めた。多恵はイスラム風の模様の変ったデザインの、ケープを選んだ。
「この辺りはジプシーの文化があるから、ちょい渋い感じのケープも素的だな。ジプシーの美人みたいだよ」
 と剣持は笑った。多恵は、
「もう一着お土産に買ってもいい?」
 と剣持に上目遣いでおねだりした。
「いいよ」
 剣持の一言で多恵は今着るやつの他に二着も買ってしまった。店員は思わぬ上客に喜んで、待たせたタクシーの所まで袋に入れたケープを持ってきて丁寧にお礼を述べた。多恵はなんだか本当にお姫様気分になれた。

 チェックインを済ますと荷物をフロントに預けて、直ぐ近くのアルハンブラ宮殿に出かけた。
「アルハンブラ宮殿はもっとロマンチックな感じだと思っていたけど、なんか刑務所みたいな感じね」
「アハハ、刑務所かぁ。それは言えてるなぁ。確かに元々要塞みたいなお城だったんだからそんな感じだね」
 丘の上から全体を眺めたあと、二人はあちこち回った。

「多恵、グラナダと言えば……。アルハンブラ以外では、なんて答える?」
「そうねぇ、さっき言ってたシエラ・ネバダかな?」
「アハハ、まだあるだろ?」
「あたし、歴史苦手だからわかんないよぉ」
 と多恵。
「フラメンコ」
 と剣持が言った。多恵の顔が見る見る輝いた。
「嬉しい! また連れてってくれるんでしょ?」
「ん。さっきね、チェックインした時、今夜予約しておいてくれって、ホテルのフロントに頼んでおいたよ」
「ありがとう。あたし、弥一君大好き」
「おいおいっ、フラメンコの次にだろ」
 と剣持が茶化した。それで二人は大笑いすると木霊(こだま)が帰ってきた。多恵は大声で、
「弥一、好きだぞぉ」
 と言うと
「好きだぞぉ」
 と木霊が返ってきた。そこで二人はまた笑いこけた。

 セビリアと同様に小さなタブラオを頼んでおいた。フラメンコはセビリアも良かったが、グラナダの方がジプシーが住んでいた洞窟をタブラオにしているそうで、雰囲気がすごく良かった。多恵は陶酔してしまったような顔をして見ていた。
 夜更けにホテルに戻ると二人は交代でシャワーを使ってから直ぐ眠った。

九十六 アクシデント?

「多恵、オレのパソコン見なかったか?」
「あら、ベッドの脇に置いてあったわよ」
「だよなぁ。おかしいな。ないんだよ」
 剣持と多恵は昨夜はフラメンコを見ながら大分呑んで、酔っ払って帰り、直ぐ寝たのでパソコンは使わなかった。それで、パソコンが消えてしまっているのに気付かなかったのだ。手分けして、部屋中探したが見付からなかった。
「クソッ! 盗まれたかなぁ。参ったなぁ。あれ盗まれたらかなりヤバイぞ」
 剣持は警察に盗難届けを出そうと決めた。届けを出しても戻らないことは分かってはいたが。
 それで、フロントに電話をしようとしたら、電話のベルが鳴った。
「もしもし、剣持様ですか? もうお目覚めでしたか。丁度良かった」
「ああ、こちらからも電話をする所だった」
「もしかして、パーソナルコンピューターのことではありませんか?」
「そうだ」
「それでしたら、今、お部屋の方にお持ちします」
「どう言うことだ?」
「昨夜、お帰りの時にお知らせをすれば良かったのですが、大分お酒を召し上がっていた様子でしたので、今朝でも良いかと」
「だからどうなっているんだ」
 剣持は相当いらついていた。
「実はメイドがベッドメイクと掃除に部屋に入りました時に、高価な大切な物らしいので、どうしましょうと連絡があり、万一盗難があるといけませんので、手前どもでお預かりさせて頂きました」
 剣持はようやく事情を飲み込めた。なにしろ大事な商売道具が紛失したので、気が動転していたのだ。ようやく冷静になり、
「それはありがとう」
 と礼を言った。間もなくドアがノックされて、フロントの男が入ってきた。
「グラナダはあまりセキュリティの良い町ではありませんので、貴重品と思われる物は安全な場所に移して保管をさせて頂いております」
 剣持はノートパソコンを受け取りやれやれと思った。

「ここを九時に出るセビリア行きがある。帰りはAVEを使った方が早くて快適だから、一旦セビリアに戻ろう。多恵はお土産をまだ買ってないだろ? グラナダとかセルビアはそうそう来られる所じゃないから、こことセビリアで土産を買うといいよ」
「ここのお土産はどこで買うの?」
「あ、駅に土産物屋があるよ。早いけれど、多分開いていると思うよ」
「よかったぁ」
「土産物だけど、気を付けないと中国製とかが多いからタグを良く見るといいよ。せっかく遠くから買って帰ったのにスペイン製でなくて中国製じゃ、差し上げた相手ががっかりするよなぁ」
「そうそう、あたし経験あるわよ。中国を旅行した友達に頂いたお土産、買う時すごく高かったから、品物に間違いがないと言ってくれたんだけど、タグをひっくり返して見てびっくり。日本製って書いてあった」
 と多恵は同感した。

 グラナダの駅の売店は開いたばかりだったが、多恵はスペイン製の小物を色々買った。
 列車は九時丁度に発車した。不思議なもので、ここに来る時に見た景色と帰る時に見る景色は同じ線路を通って帰るのに少し違って見えた。
 セビリアに十四時に着いた。そこでも多恵のお土産の買い物に付き合って、十五時発のAVEに乗った。
 列車は定刻に発車して、マドリッドのアトーチャ駅に十七時三十分に到着した。
 前に泊まったホテル、ACサント・マウロに着くと、直ぐチェックインを済まして、二人は夕食にでかけた。多恵が最後にまた美味しいパエリアを食べたいと言うので、ホテルの近くの十九世紀から続いていると言われる旧いスペイン料理店グラン・カフェ・ヒホンに入った。パエリアは味も量も満足がいくものだった。

「多恵、一つお願いがあるんだけど」
「えーっ? 弥一からのお願い? なんか怖いな」
「ここ、マドリッドから近い所にトレドと言う城下町があるんだけど」
「トレド?」
「ん。オレ、そこでお土産に買いたい物があるんだけど、付き合ってくれるかなぁ」
「へーぇっ、弥一がお土産なんて珍しいね」
「ダメか?」
「勿論付き合ってあげるわよ」
「済まんなぁ」
 それで、翌日トレドに寄ることにした。
「一時間半くらいで行けるから、日帰りでいいよ」
 翌朝アトーチャ駅からトレドに向かった。
象嵌(ぞうがん)(象眼)って知ってる?」
「何それ?」
「象嵌の元々の意味は、ある材質の物に別の材質の物を嵌めこむって意味なんだ。材質は金属や木材、陶磁器なんかがあるんだけど、工芸品の技術の一つなんだ。トレドには金銀象嵌細工の伝統工芸があってね、世界的にすごく有名なんだよ」
「ふーん?」
「トレドの伝統工芸をダマスキナードと呼んでいるんだけど、これには歴史的な意味があってね」
「また歴史? あたし苦手だなぁ」
「象嵌技術の発祥は古代文明時代に遡って、チグリス・ユーフラテス川沿いのダマスカス、今のシリアで発展したんだって。つまり象嵌は元々イスラム文化なんだ。それがシルクロードを通って中国に伝えられ、日本にも伝わったんだって。西の方にはイスラム帝国時代にスペインに伝わって、これから行くトレドの伝統工芸として根付いたんだって。それで、オレはトレドの象嵌細工のアクセを土産に買いたいんだ」
「あら、それならあたしも買いたい」
「ん。いいお土産になると思うよ」
 駅を降りると素的な切符売り場があって、多恵が関心を持ったようだ。
 駅から歩いても行けるが、タクシーに乗って城下町に入った。城門を潜り抜けるとお城の建物があった。
 街には象嵌細工の土産屋がずらっと並んでいた。
 剣持は一軒の象嵌細工屋に入って、店の主と色々話をしていた。すると、主はここで作っているんだと言って実際に細工をして見せてくれた。
 多恵は細工が随分精巧に作られているのに驚いていた。剣持はこの店で洒落た金の象嵌のペンダントを選んで買った。多恵も手鏡やアクセをいくつか買った。
「メイド イン スペインだわね」
 と喜んでいた。

 午後の列車に乗って、二人はマドリッドのホテルに戻った。
「明日はパリだね。少し日程をオーバーしたから、飛行機でパリまで飛ぼうか」
「そうね、鉄道の楽しさを覚えちゃったから、なんだか残念」
 と多恵はふくれっつらをして見せた。
「アハハ、すっかりオレのペースに馴らされちゃったなぁ」
 と剣持は笑った。
 その夜、初めて多恵は、
「弥一、あたしを抱いて」
 と剣持に絡んできた。剣持はどうしようか迷ったが、
「多恵、自分を大切にしなよ」
 となだめた。多恵には(むご)いことをしたように思ったが、剣持は中途半端に多恵と関係を持ってしまうと、後々多恵を悲しませることになりそうに思ったので、すまない気持ちはあったけれど、多恵を抱かなかったのだ。
 多恵が眠ってから剣持は晴子にメールを打ち始めた。だが、多恵は眠れないようで、起きてしまったので、剣持はメールを止めて、多恵とワインを飲んで旅の最後を締めくくることにした。

九十七 旅の終わり

 約半月間の多恵のヨーロッパ旅行は終わりに近付いた。旅慣れた剣持のお陰で、多恵は初めての素的な海外旅行を経験した。
「Air Europaでマドリッドからパリのオルリー空港まで丁度二時間だから、パリのホテルで荷物を受け取って、夕方の成田行きには余裕で乗れるよ」
「へーぇっ、やっぱ飛行機だと早いね」
「ん。Air Europaは料金も安いよ。二時間位だから簡素な飛行機でいいよね。多恵はパリでもお土産買いたいだろ?」
「そうね。友達いっぱいいるし、お仕事の関係でも少しは要るから」
「じゃ、八時ちょい前のフライトに乗ろう。オルリーに十時前に着くからホテルには十一時過ぎには着けると思うよ。お昼から夕方までゆっくり街でお買い物ができるよ。オレも付き合うよ」
 二人は予定通り十一時過ぎにパリの前に泊まったパリ放送局に近いセーヌ河沿いにある、Hotel Squareに戻った。チェックインして部屋に入るには、時間が早すぎたので剣持は交渉して自分の分だけ一泊予約して部屋を使えるようにしてもらった。多恵が預けた荷物はちゃんと預かっていてくれた。大きな旅行バッグを部屋に持ってこさせて、多恵にスペイン土産やパリのシャネルで買った靴、セリーヌの店で買ったバッグやスカーフを整理してパッキングさせた。
「よしっと!」
 多恵は上手にパッキングを済ませた。整理が終わった所で、二人はホテルのレストランで食事を済ませて街に出た。

 十一月になっていたので、パリの街中は寒かった。多恵はグラナダで買ったケープの中から別のを選んで着ていたが、それが良く似合っていて素敵で、すれ違う女性が振り返って見たりした。剣持が見ても、多恵のファッションは決まっていた。これなら、東京に帰って友達からも羨ましがられるに違いないと思った。
 剣持のアドバイスで、多恵は小物を買う時に必ずタグをひっくり返してMade in Franceを確かめていた。
「もうっ、フランス製はなかなか見付からないなぁ。パリのお土産は輸入品ばっかだよ」
 と多恵がこぼした。
「そうだよなぁ。選ぶのが大変だね。ブランド品だって、今は海外に生産を委ねているのが多いんだよ。多恵が買ったスカーフとかバッグは店で確かめたから大丈夫だけど」
 それで、買い物には随分時間がかかった。剣持は嫌な顔もせず、ずっと多恵の買い物に付き合った。

 ホテルに戻ると、もう一度パッキングをやり直して、土産物を整理した。大きなバッグにぎゅうぎゅう詰めるほどになって、
「わっ、重いなぁ」
 と多恵は自分で驚いていた。空港まではオレが持ってやるから大丈夫だけど、成田には今井真澄に迎えに来いと言っておけよ。あいつの土産も買ったんだろ?」
「弥一がいいって言うなら、あたし、真澄に電話する」
「今はあっちは夜中だけど、ここから電話をしろよ」
 それで、西山多恵は今井真澄に電話を入れた。ややあって、
「はい……。こんな時間に誰だよぉ」
 と寝ぼけた返事が来た。
「多恵よ。真澄でしょ?」
「あっ、姉貴すみません。オレ、寝ぼけてた。今どこからですか」
「パリのホテルからよ」
「んで、いつ帰れるんですか」
「明日。今夜八時にパリを発つANAの  NH206 便、明日の十四時四十分頃成田に着く予定」
「やっぱ姉貴がいないと色々大変です。帰って来るって聞いて、オレ、ほっとしたな」
「何言ってんのよ。明日成田に迎えに来てよ」
「いいですよ。オレ、ちゃんと待ってますから。あっ、お土産、期待してます」
「相変らずずうずうしいね」
 と多恵は笑った。
 西山多恵はドゴール空港を予定通り旅立って行った。別れ際、多恵は涙を流して剣持に抱きついて、お礼とも、お別れともとれるキスをした。剣持は多恵を抱きしめてキスに応じてやった。多恵は胸が詰まって言葉少なに
「ほんとうにありがとう」
 と言って、ゲートを潜り抜けて行った。剣持は多恵の気持ちが分っていた。それで、
「多恵、ごめんな」
 と心の中で呟いた。

 空港からホテルに戻ると、剣持は晴子に書きかけのメールを書き足して送信した。
「明日は久しぶりにロンドンのメグのとこに帰るかぁ」
 その夜は早めに休んだ。今頃、多恵は飛行機の中でうつらうつらしてるんだろうなぁと思いつつ。

九十八 ゴルフ場での銃声のあと

 N女史から、その後姿が見えないけれど、どうしているかとメールが来た。彼女は、奥利根にある旅館、龍洞で剣持と身体を重ねて以来、大分経っていたので、彼女の身体は男を欲しがっていた。
 剣持はパリのホテルをチェックアウトすると、直ぐロンドンのメグの所に戻ったが、生憎メグは留守だったので、近くのネットカフェに寄ってメールチェックをした。ロンドンにはいっぱいネットカフェがあるのだ。
 十一月のロンドンは真冬のように寒く、つい先日まで暖かい南ヨーロッパに居たのが不思議なくらいだ。
 [井口に銃撃されて、キャディーが負傷したのはうまく処理されたようだけれど、メディアが誰を狙って銃撃したのかうるさく嗅ぎ回っているようなので、半年か一年間、ほとぼりが冷めるまでヨーロッパで遊んでます。もしこちらに来られるチャンスがあるなら遊びに来ませんか? 来月クリスマスイヴにちょい用があって帰国するから、出来ればその前がいいね]
 剣持はこんな内容の返事をN女史に書いて送信した。

 晴子からもメールが届いていた。
「来月のクリスマスイヴ、会えるのをとても楽しみに待っています。最近はお腹が大きくなって、人前に出るのは恥ずかしいですが、それでも剣持様には会いたいです。それまで、無事に過ごされますように」
 と言うような内容だった。林菓房の仕事はどうやら順調に行っているようで剣持は安心した。剣持はロンドンの友人のフラットに戻ったが、しばらくしたらまた出かける予定だと返信した。

 夕方、メグは疲れきった顔で戻ってきた。ロックバンドのブォーカルはステージが終わると相当疲れるらしい。
「随分長かったわねぇ。どこをふらついていたの?」
「あちこち回って来たよ」
 剣持はスペインのトレドで買った二つのペンダントの片方をメグにお土産だと言って渡した。金をあしらった精巧な象嵌細工だ。
「嬉しい。弥一、ありがとう」
 メグは嬉しそうに受け取ってくれた。
「弥一から預かったお金、全部使っちゃった」
「ほんとかよ、じゃオレ明日からホームレスじゃん」
「アハハ、ホームレスにはならないわよ。あたしのとこに居れば」
 とメグは笑った。
「弥一はあたしのこと信用してるんだね」
「どうして?」
「だって、全部お金を使ったって言っても顔色が変らないじゃない?」
「顔色変えても使った金は戻らんだろ」
 と剣持が笑った。
「ごめん、弥一にはウソがつけないなぁ。全部は使ってないよ。百だけもらった。なので、まだ大分残ってる」
「オレ、そのメグの正直な所が好きなんだよなぁ」
「今夜さぁ、何処かで美味しいもの食わないか?」
「いいわよ、付き合ってあげる」
「メグもたまには美味いものを腹いっぱい食って、もう少し太った方がいいよ」
 メグがシャワーを使って、着替えてから二人は街に出た。

「あたしの行きたいレストランでもいい?」
「もちろん、どこにでもついて行くさ」
 それで、二人はメグのフラットのあるコヴェントガーデンの隣の駅、メトロのレスタースクェア駅から少し歩いたリンゼイ・ハウスと言うレストランに入った。個人の住宅風の佇まいのこじんまりとした店だった。
「ここのうさぎ料理、美味しいわよ」
 日本ではうさぎ料理はあまり馴染みがないが、英国ではシカや山鳥はじめ、うさぎ料理は一般的だ。この店はアイルランド人がやっているそうで、狩猟系食材を使った料理の他に魚介類の料理もありメニューは豊富だった。
 剣持もメグに合わせてうさぎを食うことにしたが、鹿の肉も食ってみたくて、もう一皿追加した。料理は両方とても美味かった。
 腹いっぱい食って、ふたりはおとなしくメグのフラットに戻った。

九十九 辣腕ルポライターの運命 Ⅰ

 フリーのルポライター、小宮山雄三郎は一号当りの発行部数が八十万部を越え業界NO・1を誇る時事週間誌Pお抱えの辣腕ライターで、この業界では知らぬ者がいないほど、[Pのコミユウ]で名前が通っていた。
 取材は強引で、体を張った取材から得たネタは新鮮で誰もが殆ど関心を失った過ぎ去った事件のほんの細かいことを糸口にして大きなスクープを掴み取る手腕が買われていた。
 彼は動物的な嗅覚を持っていると思われるほど、事件の裏側を嗅ぎ分ける勘があった。最近はスキャンダルをターゲットにした取材が多く、陰の噂では、内容をP誌で暴露するにあたり、事前に相手に仄めかして大金を搾取しているらしい。ごく普通に生活している者にとっては、まさに悪魔だ。通常スキャンダルを追求された当事者は暴露を恐れて、金をたかられても、めったに警察には通報しないことを彼は良く知っていた。だが、昔から[窮鼠猫をかむ]と言われる通り、相手を逆さに吊るしても鼻血も出ないほど絞り取るようなバカな真似は決してしなかった。大敵の猫に追い詰められたねずみでも、いざ食われてしまう段階まで追い詰められたら猫の鼻に噛み付くくらいのことはするってことだ。
「脅しても失う物を持ってないやつは最低だ。地位や名誉、財産や家族を守ることに必死なやつは最高だ」
 とは、彼の最近の口癖になっていた。

 今、コミユウはある事件を執拗に追っていた。事件とは以前東京郊外で発生したキャディ銃撃事件だ。
「余程の理由がなければ、白昼にキャディを狙って誰が銃撃するもんか。銃撃した奴は多分キャディを狙ったんじゃなくて、一緒に居た奴らに違いない。だが警察の発表では、狙われたのは東京に在住しているK氏、たったそれだけだ。
「何かある。まさかKがキャディと二人っ切りでゴルフをやってたなんて考えたらお笑いだ。多分他にもう一人か三人、つまり二人でプレーしていたか、四人でプレーしていて、そこにキャディが居たと言うのが当たり前の見方だ。それを警察が発表していないのは、プレーしていた人間が警察にとって発表したくない人物だった可能性が強い」
 コミユウの勘がコミユウに、
「動けっ、追えっ」
 と暗示していた。

 銃撃した奴は井口と言う元クレイ射撃の選手だったことは新聞にも出ていた。他社の週刊誌は井口の生い立ちに焦点を当てて[オリンピックを目指す青年の挫折]とかなんとかと面白可笑しく書きまくっていた。週間Pも事件後井口のことを何度か取り上げた。だが、コミユウから見ると彼等はこの事件の核心に何も触れていなかったのだ。第一、井口が恋人を横取りされて恨みを晴らすためにやったと言う話なのに、その元恋人すら明らかになっていなかったし、井口が横取りしたと思い込んでいた男は[東京に在住しているK氏]だけじゃ面白くもなんともない。
「いったい誰なんだ? 他に居た奴はどんな奴らだったんだろう?」

 コミユウは事件のあったゴルフ場に何度も足を運んだ。だが、ゴルフ場の人間は皆口のチャックをしっかり閉めて誰も知らぬ存ぜぬで(らち)が明かなかった。キャディにも何度か会ったが、
「初めてのお客様で名前も全然知りません」
 と繰り返した。
「アホかぁ、ゴルフバッグに名前が書いてあるだろ?」
「それがKとだけしか書かれてなかったんですよ」
「他に誰か一緒に居ただろ?」
「居ません。お客様はお一人でプレーされてました」
「だったら、あんたと二人っきりだな。Kはあんたにエッチなことをしなかったか?」
「それはありません。とても紳士的な方でした」
「クソッ、あんたいつまでもウソが通ると思うなよ。その内あんたに本当のことをしゃべらせるから覚えておけよ」
「それって、脅しですか? でしたら、あたし、ここのマネージャーさんと警察に連絡します。いつまでも付き纏われたら迷惑です」
 最近はどこでも個人情報の漏洩には神経を尖らせていた。特に胡散臭いルポライターは警戒された。
 コミユウは毎日キャディーを尾行して、何か弱みを掴もうと努力した。決定的な弱みを握れば、簡単に口を割るだろう。これはコミユウがいつもやってるやり口だ。相手の弱みを掴むと思いのほか自由にコントロールできるのだ。

 以下後編に続く……引き続きお楽しみ下さい。

独りぼっちって、寂しいよぉ 【前編】

 前編のご愛読、ありがとうございました。引き続き後編をお楽しみに。

 尚、本書はフィクションであり、登場人物、団体その他特に断りのないものは全て架空で実在するものと関係はない。

独りぼっちって、寂しいよぉ 【前編】

和菓子屋の一人娘林晴子は花が大好きで大学を卒業後家業を継がずに花屋に就職したが、そこで堀口伸と言う青年に出会い恋に墜ちる。 堀口はふとしたきっかけで得体の知れない組織に引き込まれ仕事を手伝う内に不慮の事故に遭い他界してしまう。 この物語は晴子が今は亡き恋人の墓参りをする所から始まる。 堀口の職場の同僚橋口理恵は密かに堀口に好意を寄せていたが、堀口が関わった組織に興味を持ち嗅ぎ回る。だが橋口理恵が晴子に近付いた事が組織の者に知られ、理恵と関わりを持ちたくない晴子は誤解されて、それを良としない組織に目を付けられ組織員剣持弥一に拉致・誘拐され、辱めを受け余計な事に首を突っ込むなと脅され、晴子は拉致した男の子供を懐妊してしまうのだが……。 この物語は晴子の周囲で次々と起こる事件を展開しつつその中で晴子が健気に生きて行く姿が綴られている。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一 別れ
  2. 二 事故
  3. 三 晴子のこと
  4. 四 サバンナRXー7カブリオレ
  5. 五 出会い
  6. 六 お見合い
  7. 七 決心 そして切ない望み
  8. 八 Eグロ
  9. 九 初恋
  10. 十 底知れぬ魅力をたたえ
  11. 十一 母と二人
  12. 十二 黒百合
  13. 十三 秘密
  14. 十四 グランデ・アモーレ(熱愛)
  15. 十五 光を求めて
  16. 十六 初めてのドライブ
  17. 十七 恨み
  18. 十八 競馬・・・高松宮記念
  19. 十九 触らないでっ!
  20. 二十 始末
  21. 二十一 失踪人
  22. 二十二 罠
  23. 二十三 罠・・・続き
  24. 二十四 無惨な死
  25. 二十五 悲しみを計る物差しがあるなら
  26. 二十六 悲しい別れ
  27. 二十七 嫉妬
  28. 二十八 ある男の末路
  29. 二十九 恐ろしい一夜
  30. 三十 メールの叫び
  31. 三十一 剣持の運命 一
  32. 三十二 剣持の運命 二
  33. 三十三 戦いの始まり
  34. 三十四 スキャンダル Ⅰ
  35. 三十五 スキャンダル Ⅱ
  36. 三十六 予期せぬ出来事
  37. 三十七 嗅ぎ回る探偵
  38. 三十八 毒・現代医術の盲点
  39. 三十九 人探し
  40. 四十 堀口伸の遺産
  41. 四十一 新潟県神林村・そして友達
  42. 四十二 心の拠り所
  43. 四十三 シングルマザー
  44. 四十四 武ちゃんの門出前
  45. 四十五 貴女ならどうする?
  46. 四十六 晴子の見合い
  47. 四十七 世の中の表と裏
  48. 四十八 小さな恋人たち
  49. 四十九 初デート
  50. 五十 悲しみを越えて
  51. 五十一 明日への希望と家族
  52. 五十二 それぞれの親孝行
  53. 五十三 観音様(暗殺者)リスト
  54. 五十四 心の和(やす)らぎ
  55. 五十五 北海道へ出張
  56. 五十六 トラブル
  57. 五十七 切なる願い・そして感激
  58. 五十八 テロリストの方程式
  59. 五十九 謎の死体
  60. 六十 橋口理恵のその後 Ⅰ
  61. 六十一 橋口理恵のその後 Ⅱ
  62. 六十二 橋口理恵のその後 Ⅲ
  63. 六十三 橋口理恵のその後 Ⅳ
  64. 六十四 テロリストの通信相手
  65. 六十五 尾行
  66. 六十六 権力組織の陰謀
  67. 六十七 抗争
  68. 六十八 ジェラシー
  69. 六十九 憂いを忘れる
  70. 七十 親の手抜き・真由美の場合
  71. 七十一 マチスの最後
  72. 七十二 モリジアーニの軌跡 Ⅰ
  73. 七十三 モリジアーニの軌跡 Ⅱ
  74. 七十四 モリジアーニの軌跡 Ⅲ
  75. 七十五 大規模、同時多発テロ未遂事件
  76. 七十六 背伸びした恋
  77. 七十七 親しみがある関係
  78. 七十八 銃声
  79. 七十九 尾行
  80. 八十 金がかかる代償
  81. 八十一 恋の戦い
  82. 八十二 秘密口座 Ⅰ
  83. 八十三 秘密口座 Ⅱ
  84. 八十四 会社役員の選任
  85. 八十五 株式会社林菓房
  86. 八十六 チュニジア
  87. 八十七 死の商人 駱駝商隊
  88. 八十八 疑惑
  89. 八十九 多恵とのデート
  90. 九十 南フランスへ
  91. 九十一 南仏からスペインへ
  92. 九十二 バルセロナ
  93. 九十三 あたし、どうしょうっ!
  94. 九十四 マドリッドからセビリアへ
  95. 九十五 グラナダ・アルハンブラ
  96. 九十六 アクシデント?
  97. 九十七 旅の終わり
  98. 九十八 ゴルフ場での銃声のあと
  99. 九十九 辣腕ルポライターの運命 Ⅰ