メモリーズ・オブ・ユー

メモリーズ・オブ・ユー

サイトの仲間が、次と次と作品を発表される中、感想を寄せることさえ憚れました。コメディーを書きたくて、キーを黙々と叩きました。
初めての百枚越えです。

 夢とは不思議なものだ。
 心の深層の片隅にひっそりと残された記憶が、ひょんな機会にふと意識に登ってくる。そんな不思議なことが、夢では起こる。
 今朝見た夢の中で、江口宗太は高校生に戻っており、当時学年一番の美人と言われた飯塚さんと手を繋いで歩いていた。その美しさと可愛らしさを、どう表現したらいいのだろう。今のAKR四十七女子のような甘ったるい可愛らしさではなく、缶詰流アイドル達の作られた美しさでもない。だからと言って決して宝久慈夢叶姉妹のようなゴージャスな気品でもなく、例えれば、中山道美穂のデビュー当時のような清純な生命の輝きだ。小顔で瞳が大きく、目が合うと引き込まれそうになる深みがある。鼻が高く、きりっとした顔立ち。長い首筋にかかる黒髪が風になびくと、ウインドチャイムが響くような心地よさを感じた。成績もよく、女子バスケ部のキャプテンでもあった。女子バスケ部の試合となると、体育館に入りきらないほどの生徒たちが応援に駆けつけたほどだ。
 つまりは、高嶺の花でもあり、江口には縁遠く、また当時彼は別の女性に憧れていたので、飯塚さんのことなど頭の隅にも残っていなかった。と、思っていた。卒業後、二十年以上思い出すこともなく、名前もすっかりと忘れていたはずであった。しかし、夢の中で彼女は、高校時代のままの可愛らしい女性であり、その名前まではっきりと覚えていた。

 妻に上掛けをはぎ取られ、突然夢から現実に引き戻された。夢を途中で妨げられた悔しさと、その屈辱的な起こされ方に江口は閉口して、一月末の寒さの中、もう一度掛布を上げて丸くうずくまった。が、時計に目をやると、慌てて起き出し、妻に尋ねた。
「布団をはぎ取る前に、一応、何度かは声をかけてくれたの?」
彼は、妻に対して強く言えない。もともと女性に対して自分の気持ちを伝えたり、感情をぶつけることが苦手なのだ。
 妻は憮然と、もちろんそうしたと言った。彼は、夢に夢中だったので(言葉としていささかおかしいかもしれない)、その声に気づかなかったのだろう。いや、もしかしたら、夢を見ながら、何やらニヤついていたのかもしれない。寝言で名前を呼んでいたとしたら最悪だ。そう思うとそれ以上、妻に怒りをぶつけることを控えざるを得なかった。むしろ、突然起こされたおかげで、夢の記憶が鮮明に残ったことを感謝すべきかもしれない、そう江口は考えた。
 ところで、いつまでも夢の思い出に浸っている訳にもいかない。もう遅刻寸前の時刻だった。朝の凍えるベランダで煙草を一本吸って気持ちを切り替え(いわゆるホタル族である)、急いで洗面所に向かった。髭剃り、歯磨きをすませ、娘のムースを借りてドライヤーで寝癖を取る。滅多に着ないスーツに身を包み、玄関を飛び出した。布団を出てからここまで十五分。朝が苦手な江口にとって、それは画期的な速さだった。やればできるではないかと自己肯定(自画自賛)したい気持ちだった。
 今日午前十時から、江口の勤める職場に、都の監査が来る予定なのだ。遅刻するわけにはいかない。日頃着ないスーツ姿も、監査に向けての身だしなみだ。
 最寄りの鷺沼駅まで走る。つもりだったが、さすが四十を過ぎて、その体力はなかった。すぐに息が切れ、白い息を吐きながら速度を緩めた。それでも駅のロータリーが目の前に現れると、再び形だけ走る。江口は、前代未聞の身支度の速さと、気持ちだけでも走った甲斐があって、普段の急行に間に合うことができた。これを逃すと、遅刻する羽目になる。列車は満員で、閉まるドアに挟まれそうになりながらも、ぎりぎり自分の位置を確保した。ほっとすると、再び今朝の夢が頭を過る。飯塚さんと繋いだ手の温もりが、まだ右手に残っている、ような感じがした。肩を寄せてきた時のさらさらとした髪の感触が蘇り、思わず頬が熱くなる。つい顔がニヤけてしまった。いかん。
 電車は、溝の口を過ぎ、青空を映してきらきらと輝く多摩川を渡り、二子玉川駅に停まる。後部列車に乗ると、ちょうど目の前に多摩川が見える。今は家族を持ち、鷺沼近郊に住んでいるが、世田谷は高校を卒業するまで暮らした街である。小学生の頃、友だちと一緒に三段式の釣竿を背負って自転車をこぎ、この多摩川にはよく来たものだ。この川を渡る時、その頃を思い出す。当時、川の水は、あまりきれいとは言えなかった。悪条件でも繁殖力の強いモツゴという七、八センチほどの小さな魚がよく釣れた。体の側面に黒の横線があり、小さい口をしていることから、クチボソと呼んでいた。いつだったか、釣ったクチボソを持ち帰り、家の水槽に放したところ、金魚との縄張り争いが起きて、金魚は全滅してしまった。それくらい強い魚である。親から怒られたのは当然だが、江口は、不思議と誇らしい気分だった。今でも、クチボソは釣れるのだろうか? ぼんやりと江口は満員電車の中、頬をドアに押しつけながら考えていた。
 三軒茶屋駅に着き、吐き出されるように電車から降り、人波に流されるがままに歩いた。世田谷線に乗り換え、四駅目の松陰神社前で降りる。九時十分前。駅前の商店街は、まだ開いた店も少なく、降りる人もさして多くない。小さな商店街の静かな朝だ。ここまでくれば、これ以上走る必要もあるまい。ただ、ワイシャツが、ズボンからはみ出していたので、これは直さなければならなかった。

 江口が勤めているのは、社会福祉法人が運営する小さな障害者施設『たんぽぽ福祉作業所』である。主に精神障害者を対象とし、就労支援事業と相談支援を行っている。彼はそこの施設長だ。前任の施設長が息子の事故死をきっかけに、年度変りにぷいと辞め、インド辺りに行ってしまった。彼はその後を任されて、別の事業所から異動してきた。前任も不思議な人物ではあったが、貫録だけはあった。彼はまだそれを持ち合わせていない。むしろ職場では、江口の一年先輩のサービス管理責任者(通称サビ管)の平原裕子が、施設全体を掌握していると言っても過言ではない。もちろん、肩書上は江口が施設長であり、一応サビ管の上の事業管理者ではあるが……。彼女は華奢だが、背筋がすっと伸び、動きは忍者のように俊敏だ。彼女のくりっとした黒い瞳に睨まれると、心の奥まで見通されたようで、身体が固まってしまう(あくまでもそれは江口に限ってである)。それに比べ、江口はどこかおどおどして頼り甲斐がない。
 玄関の自動ドアが開くと、早速ピリピリとした雰囲気を感じた。すでにほとんどのスタッフが出勤しており、書類を会議室に運ぶ者、ロビーで掃除機をかける者、下駄箱の来客用のスリッパを磨く者など、皆、緊張した面持ちで、きびきびと働いている。
「施設長、おはようございます。遅いじゃないですか」白い雑巾でスリッパを拭いていた去年四月に入ったばかりの体格のいい新人、熊本雄一君が声をかけてくれた。
「おはよう。いつも通りに来たつもりだが?」
「施設長以外のスタッフは、一時間前に出勤して、監査の準備をしてますって」
「悪かった。いや、普段より三十分早く出たのだが、田園都市線で人身事故があったらしい。電車が遅れたんだよ」
「そうだったんですか。年明けから事故が多いですよね。でも、今日一時間前に出勤と言ったのは、施設長じゃないですか。それに施設長の『人身事故』は、いつものことですけどね」
 一時間前の出勤! すっかり忘れていた。もちろん『人身事故』も嘘だ。これも見破られていたとは。
「で、平原さんは?」
「今、会議室だと思います。朝一番に来て、スタッフに指示を出しまくっています。サビ管、けっこうカリカリしていますよ。気をつけてくださいね。あ、九時半に事務室に集合だそうです」
 江口は、駅から五分の道のりを走らず、息が荒くなっていないことを後悔しながら、そっとダウンを脱ぎ、誰もいないスタッフルームに入った。喉が渇いて、口の中が粘っこい。事務の神山愛子さんが淹れてくれる酸味のあるドリップ珈琲、それが毎朝の楽しみだった。が、珈琲ポットは空のままだ。それどころではないのだろう。先ほど、彼女がロビーの奥でトイレ掃除をしているのが、ちらりと見えた。しかたなく、インスタント珈琲に電気ポットのお湯を注いだ。
「施設長、おはようございます」
 サビ管平原さんの声だ。慌てて振り向く。熱い珈琲が気管支に入り込み、むせて声が出なかった。
「大丈夫ですか?」
「だいじょう……」ごほ、げほほほ。咳が止まらない。
「一瞬、いいですか?」“一瞬”というのは、ちょっととか、少しのこと、場合によっては「これから大事な話をしますよ」という意味の彼女の口癖だ。いったん止まりかけた咳がまたむせかえしたが(実はわざとだ)、かまわず彼女は話しかけてくる。
「九時半からここでミーティングを行うようにしました。よろしかったですか?」
 過去完了形の言葉がいささか気になったが、咳をしながら指でOKサインを作る。
「それでは、咳がおさまったら、珈琲を多めに淹れておいてください。お願いします。ああ、豆は新しいのを出して。それと、これは監査用ですから、施設長は飲まないでくださいね」
 隙のないきっちりとしたスーツ姿の笑顔でそう言い、皮肉のこもった爽やかさを残し、彼女は部屋を出ていった。もちろん咳はすぐにおさまった。カップのインスタント珈琲を飲みほし、しぶしぶとドリップ用の紙のフィルターに、封を切ったばかりの珈琲豆をたっぷりと注いだ。神山さんのように美味しくできる訳がない。とりあえず、ポットに汲んだ水を珈琲メーカーいっぱいに流し込んで、スイッチを入れた。
 俺は用務員だな(要務員ではない)と、江口は思いながら玄関を出て、外で一服することにした。
 江口の初夢は、平原さんからの悲痛な電話だった。提出書類が溜まっていることへの不満だろうか、絶望しきった声で、書類を一つ一つ数え上げていく。聞いたこともない書類がいくつもあったが、電話口で「それはやった」と夢の中でも嘘をついた。
 口をつぼめて強く煙草を吸った後、さらに胸一杯に空気を吸い込む。一月の青い空に向かって、一気に煙を吐き出した。

 都の福祉保健局による指導監査は、三年に一度やって来る。障害者自立支援法で定められた事業を行う場合、都道府県に申請し、認可を受けなければならない。その上でサービスが適正に行われているかのチェックのために、行政の監査を受けなければならなかった。だいたい来るのは、監査役の係長と事務方を含む三名だ。監査の対象は、事業全般にわたる。前回も丸一日をかけての作業だったと聞いている。人事労務、サービス実施状況、会計。その他、防災対策とか衛生管理、個人情報管理、苦情処理のマニュアル作りと、その周知徹底……。前回、ロッカーの上に積んでいた段ボール箱が危険だとか、下駄箱に埃が溜まっていて不衛生だと指摘されたらしい。指摘事項については、後日改善計画を提出しなければならない。今朝の大掃除は、そのためだった。昨晩遅くまでスタッフが、総出で出勤簿や残業命令簿、会計伝票の印鑑押しなどの事務作業、棚の整理、不要書類のシュレッダー等に追われ、残った掃除は今朝することになっていた(いや、することにしたのだ)。
 つとそこへ、宮川理事長のベンツが、駐車場に入ってきた。理事長は、この法人の母体である世田谷区精神障害者父母の会の元会長である。何度かご自宅に出向いたことがあるが、ご主人が大きな会社の役員らしく、車四台が停められる駐車場つきのお屋敷に住んでいる。四十歳代になる二番目の息子さんが、若い頃統合失調症を患い、今は当法人の別の作業所を利用されている。
 理事長は、狭い駐車場に車をバックで入れるのに苦労していた。煙草を慌ててねじり潰し、江口はベンツに駆け寄り、窓を叩いた。音を立てずにガラスが下りていく。
「おはようございます。車は、ぼくが入れておきますよ」
「おはよう。江口さん。私、バックが苦手なのよね。じゃあ、お願いするわ」
「ロビーのソファーでお待ちください。すぐに戻ります」
「ねえ、あなた、ちょっと煙草臭いわよ。うちのパパは吸わないから、臭いが残らないようにしてね」
「はい、もうひあへありあへん」口を掌で覆いながら、頭を下げた。
 口を閉じてキーを受け取ると、江口は、そこで大きく両手を上げて胸を開き、深呼吸を繰り返した。「運転が下手ならもっと小さい軽自動車でもいいだろうに」と、耳元で聞こえたが、それはきっと幻聴の一種であり、江口はもちろん、そんなことは心にも思わなかった(ここで語られる幻聴とは、本来の医学的な意味での幻聴ではなく、彼の勝手な言い訳に過ぎない)。
 車を停めると、急いで館内に戻った。
 ソファーに腰かける宮川理事長に、事務の神山さんが、お茶を出していた。
「準備はできているかしら」理事長はそう言いながら、下駄箱や棚の上を目で追った。
「もちろん、この通り完璧です」
「でも、今朝、慌ててやっているというのは、どうかしら。いつもこうしてなければ、意味がないんじゃない。気をつけてね」
「もちろん、おっしゃる通りです。念には念を入れてということです」
 鼻の穴が広がり、声が上ずった。人にはたいてい嘘をつく時の癖がある。右の眉が上がるという唄もあったが、彼の場合、鼻の穴が広がるというのが、思ってもいない嘘をつく時の癖である。しかし、彼はそれを自覚していない。スリッパを拭いていた熊本君が、顔をそらして笑っているのが、背中を見てわかった。新人のお前に中間管理職の辛さがわかるかと、きっと睨みつけてやった。
 
 事務室に戻り、噴きこぼれた珈琲を片付ける。九時半からのミーティングは、理事長の長い挨拶で終始した。昨年の原発事故の話題から始まり、はたまた、パパさんが、二十帖もある広いリビングのシャンデリアの電球を、自分で取り替えようとして脚立を出したところ、彼女は、心配でしっかり脚立をおさえていたということを引き合いに出し、いかに安全対策が必要かということ、日頃から安全性を過信してはいけないということ、その基本は愛である、というありがたい教訓を得々と話された。
「……スタッフの皆さん、今日は気を引き締めてお願いしますね。前回のような恥ずかしい思いを、私にさせないでちょうだい」と、最後におっしゃられた。黒くて太いアイラインが、塩をかけられたナメクジのようにのたうっていた。
 監査に対応するのは、理事長、それと施設長江口、サビ管平原さん、事務の神山さんの四名である。残りのスタッフは、通常のサービス業務にあたる。監査対応の四人は、最後のチェックのため、理事長を先頭に館内を一巡し、玄関前のロビーに戻った。
「監査のお役人さんたち、遅いわねぇ」理事長が、細い腕に光る腕時計に目をやり、呟いた。
江口は、ポケットから携帯を取り出し、時刻を確かめた。
「三分前です。彼らは時間通りに来ると思います。もう少々お待ちください」
「お役人さんって、そういうところもきっちりとしているのね」
「時報公務員っていうくらいですから」
 沈黙三秒後に、平原さんがぷっと吹いた。
「嫌だわ、つまらない駄洒落なんて。あなたって人は、まったく緊張感っていうものがないんだから。少しはお役人さんを見習って、ぴしっとしてね。ねぇ、ネクタイ曲がっているわよ」
 江口は、玄関の脇にある姿鏡でネクタイを直した。母親にとがめられた子供のようだ。どうも今日は、朝から調子が悪い。鼻の下を伸ばし、穴を広げて鼻毛が飛び出していないかどうかもチェックした。「監査でネクタイの締め方や鼻毛まで指摘されるかっていうの」と、江口の耳元で、幻聴が聞こえたような気がした。
 その時、自動ドアがすっと開いた。ダウンのコートを右手に抱え、背筋を伸ばした黒いスーツ姿の女性を先頭に、三人の監査員が一列に並んで入ってきた。
 鼻の下を伸ばしたまま、江口は先頭の女性の顔を見つめた。これは、幻覚か漫画か、それともすぐに展開が読めてしまう素人の書いた小説か。平原さんに膝を小突かれ、顔を引き締め、姿勢を正して挨拶をした。中山道美穂似の彼女は、まさしく、今朝の夢に見た飯塚さんではないか。胸が高鳴った。彼女のほっそりとした首から下げられた、緑のイチョウのついたネームプレーを注視する。『田丸美鈴』とあった。飯塚さんの下の名前は……。海馬が激しく駆けまわり、記憶の糸を手繰り寄せた。たしか、美鈴だった。結婚して苗字が変わったのだろう。
 すでに互いの名刺交換が始まっていた。
 江口は理事長の次に、飯塚さん(いや田丸さん)と名刺を交換した。江口は目をしばたたかせ、にっこりとしたが、彼女『東京都福祉保健局指導監査部指導第一課障害福祉サービス検査係係長 田丸美鈴』は、「よろしくお願いします」と、落ち着いた声で言っただけだった。「よろしくおね……」と江口が言いかけた時には、彼女は平原さんと挨拶をしていた。江口の目の前には、背の高いぼさぼさ頭に黒縁眼鏡の男性が名刺を差し出して待っていた。

 丸一日をかけた長い監査は、会計上の問題一点を除いて、つつがなく終了した。会計上の問題点というのは、今年度の経理で、年末賞与支払いの一部を法定福利費に誤って計上していたことである。会計監査官は、小柄で鼈甲の眼鏡をかけた年配の男性だった。江口は、彼の腕時計に目を留めた。黒い文字盤に金の縁、そこには『BVLGARI』の文字が浮かび上がっている。ブルガリという言葉に聞き覚えがある。かなり高級な物で、百万はするに違いない。なぜ、都の公務員がそんな時計をしているのか? 相手は、「私は社会福祉法人会計に多少心得はあるものの、このような小さな作業所の会計には疎いので、いろいろ教えてください」とへりくだった挨拶をした。江口は、その時から、鼻持ちならない奴だと感じていた。
 午前の早い段階で、会計監査官は、その鋭い嗅覚で、ミスを見つけ出した。鼈甲の眼鏡目を持ち上げ、「画期的ですね」と冷笑した。江口はつい、ふざけたように「画期的だって!」と、隣の神山さんに呟いてしまった。彼女はそれを無視し、恐縮して「すみません、間違えました」と正直に謝った。ここはボケる所ではなかったのだ。監査官は、とたんに目を尖らせた。「画期的というのは、ひどいという意味です」と、彼を煽ってしまった。
 理事長の鋭い視線を感じ、江口も伝票の入力時に起きたミスだと、すぐに謝った。これは前代未聞の取り返しのつかない過ちであろう。当然、改善指導が下るものとばかりに思いつめ、江口は青ざめ、その後は小さくなっていた。昼休み、田丸係長(きっと飯塚美鈴さん)に声をかけることさえ躊躇わざるをえなかった。
 しかし、監査が終わり最後の総括で、田丸係長(たぶん飯塚美鈴さん)は、
「今回の監査では、特に指摘すべき事項はありませんでした。会計上のミスはすぐに直しておいてくだされば結構です。今後も気を引き締め、健全な事業運営に努めてください」と、笑顔で締めくくった。理事長以下、施設側のスタッフの安堵の息が、一斉にもれた。
 ところで、田丸係長(あるいは飯塚美鈴さん)は、自分に気づかなかったのだろうかと、江口は訝った。だが、ここで余計なことを言って彼女の機嫌を損ねたら、これまでのスタッフの努力が水の泡だ。彼女に声かけることは憚れた。
「ご指導ありがとうございました」と、理事長にならい深々とお辞儀をし、見送るつもりだった。その時、彼女が、
「施設長さん、ちょっといいかしら」と、江口を玄関の外に手招きをして呼び出した。
「はぁ?」と口ごもり、盗み見るように理事長の顔を覗くと、目が吊り上り、アイラインがぴくりと頭をもたげたが、すぐにひきつった笑顔に変わり、どうぞ行きなさいとでもいうように、視線を外に向けた。
 二人の監査官を駐車場にある黒いセダンに向かわせ、彼女一人が残っていた。
「ねぇ、江口君よね」彼女は、親しげに小声で言った。
「そうです。やっぱりもしかして、飯塚さんですか?」
「そう。覚えていてくれたの、嬉しい。彼女の顔に笑みがこぼれた。
「もちろん」江口の目は喜びに満ちていた。
「結婚して、今は田丸だけどね。でも、江口君に会えてよかった。ねぇ、プライベートで相談したいことがあるんだけど、ここじゃ話せないから、よかったら携帯のアドレスを教えてくれない?」彼女は早口で訊いてきた。
「もちろんかまいません」
 慌てて、「いいですか、080……」と、言いかけた。
「赤外線通信でお願い」と、彼女は、黒い大きなバッグから細身の新型の携帯を取り出した。江口はポケットをまさぐり携帯を出したが、その方法には慣れていなかった。もたもたと携帯のあちこちのボタンを押したり、開いたり閉じたりしてみた。見かねたのか、彼女は「貸して」と言い、江口は持っていた携帯を差し出した。
 すぐに、送受信の作業が終えて、携帯を戻す。
「ありがとう。じゃあ、またね」と、田丸係長(やっぱり飯塚美鈴さん)は、小さく手を振り、二人の監査官が待つセダンに走っていった。
 江口は、彼女の背中に「気をつけて」と大きく声をかけた。セダンが駐車場を出ると、彼も道路に出て、左手に携帯を握りしめたまま、車が見えなくなるまで右手を振っていた。車が消えた西の空には、生まれたばかりの三日月があった。シンクロニシティ、これは意味ある偶然の一致だ。江口は四十にして、背中に翼がなくても、今なら飛べる気がした。

 **

 立春を過ぎたが、外は相変わらずの猛烈な寒さだった。東京では珍しく、昨夜から降り続けた雪が積もり、街を白く塗り替えた。
 事務の神山さんが珈琲を淹れている。芳ばしい香りが、狭く雑然としたスタッフルームに漂っていた。他のスタッフは、メンバー(利用者)たちと作業に入っている。江口は、玄関前の雪かきをして、戻ってきたところだ。手足がかじかみ、神山さんの珈琲がいつも以上に待ち遠しかった。
 ふと、彼女に「携帯の調子でも悪いんですか?」と尋ねられた。
 ここ数日、携帯のボタンをあちこち押しながら探してみたが、そこには飯塚さんの番号もメールアドレスも残っていない。彼女からの連絡を待つしかないと、何十回と江口は自分に言い聞かせていた。しかし、今も無意識に携帯をパカパカ開けたり閉じたりしていたのだ。
「いやあ、ほら、あのCMでやっているだろ。指で画面を広げたりできるやつ。あれに買い替えようかと思っていたんだ」江口は、手を突き出し、親指と人差し指を閉じたり開いたりして見せた。
「愛フォンやスマ惚ですね」
「そう、それそれ」
「でも、施設長は、メールをたまに使うくらいで、ほとんど電話ばっかりじゃないですか。今ので、十分ですよ」窓の日差しを背に、神山さんは微笑んだ。
 江口には、何が十分なのかよく理解できなかったが、あえてそれについては訊かなかった。
「まあ、そうだね」ほっと息を漏らし、鼻の穴を広げて照れ笑いをした。
「ところで君は、赤外線通信ってわかるかい?」勘の鋭い平原さんには訊けないが、二十代の、人を疑うことを知らない神山さんなら大丈夫のような気がした。
「ええ、知っています。アドレスや番号をいっぺんに送受信できるやつですよね」
「あれって、お互いにそれを交換するんじゃないのかい?」
「普通はそうですけど、一回の送受信では、相手に自分の情報を送るか、相手の情報を受け取るかのどちらかです。それを交互に行えば、交換になります」
「ほう、なるほど。じゃあ、交換するためには、送受信を二回行うということか」
「その通りです。でも、スマ惚の一部には赤外線通信の機能があるようですが、愛フォンではできないんですよ。あれって小さなパソコンみたいなものですから」
「へえぇ。そうなんだ(じゃあ、飯塚さんの持っていたのはスマ惚の方か)」
「やっぱり、施設長には、今のが似合っていますよ」珈琲を注いだマグカップを机に置きながら、神山さんは確信したように言った。
「ありがとう」江口は礼を言うと、もう一度自分の携帯を開いた。
 その時突然、メールの受信音が響き出した。驚いて手が震え、あやうく携帯を落とすところだった。
 メールボックスを開くと、待ちに待った飯塚さん(画面表示は『田丸美鈴』)の名前があった。江口の動揺ぶりを笑っている神山さんを避けて、携帯を閉じて閑散としたロビーに出た。
『江口君 田丸(旧姓飯塚)美鈴です。先日はお疲れ様でした。江口君は、とてもいい運営をされているのね。感心しました。江口君らしいほんわかとした空気を感じました。スタッフや利用者の皆さんものびのびと働いていますね。ところで、先日お話しした相談の件ですが、江口君のご都合を教えてください。私は、今週来週とも、木金の夕方六時以降なら空いています。食事をしながらいかがでしょうか。ご連絡、お待ちしています。美鈴』
(来たよ、来たよ、来たよ。春が来たー!)
「えーい、静まれ、静まれ、静まれ! このメールが目に入らぬか」と、言いながら江口は携帯を開いて前方に向ける。
「こちらにおわす御方をどなたと心得る! 恐れ多くも先の都の監査官係長、飯塚美鈴様であり、ぼくの高校の同級生、しかも、学年一の美女に有らせられるぞ。一同の者、頭が高い! 控えおろう。スタッフ一同、はは~」
「一瞬、いいですか。そのスタッフ一同、はは~っていうのは何ですか?」
 すぐ横に、平原さんが、書類を胸に抱えて立っていた。
「へ?……」忍者のように突然横に現れた平原さんに驚き、江口は妄想から現実に引き戻された。
「いや、施設の忘年会の余興の練習ですよ」
「まだ、年が明けたばかりだというのに? ずいぶん気が早いのですね。だけど、スタッフ一同、はは~っていうのは、気になるなぁ」
「それは、つまりね(日頃の虐げられた者の恨みというか)、いや、ほら、理事長が水戸黄門役なわけですよ。ぼくは格さん役、スタッフの皆さんは、悪役をやるような配役を考えていたわけですね」
「で、私は、悪代官とかですか?」
「いやいや、君は、あれですよ、ほら、永遠の美女、美々かおる役しかないでしょう」
 江口の鼻が膨らんだ。平原さんは、彼のその癖を見抜いている。
「それは、それは、どうも。でも、入浴シーンはやりませんからね。じゃあ、練習、頑張ってください。忘年会、末永く楽しみに待っていますから」そう言って、平原さんはぷっと吹き出し、事務室に入っていった。
江口はそれを見届け、周りを見回し、返信を打つ。まず、相手の名を飯塚にするか、田丸にするかで悩んだ。心の中では、飯塚さんと叫んでいる。しかしここは、相手が田丸と来たので、田丸で返すことにした。
『田丸様 先日は、ご足労いただき、ありがとうございました。久しぶりにお会いできて嬉しかったです。まさかこんな形で再会できるなんて、思ってもみませんでした。《スタッフや利用者の皆さんものびのびと働いている》とのお言葉、感無量です。田丸さんが高校時代率いたバスケ部のチームを思い出しましたが、それに比べたら、まだまだです。相談の件、了解です。夕方六時以降でしたら、今週、来週、再来週、いつでも大丈夫です。江口』
 もう一度読み返し、よしと、送信ボタンを押した。

 その返信が来たのは、夕方過ぎ、江口が帰宅の電車に揺られている時だった。
『江口君、ありがとう。《感無量》には笑ったけど。来週の金曜でいい? 江口君さえよければ、下北沢で飲みながら話したいな。“セントルイス”っていう店、覚えている? 駅から三茶に向かって歩いて、代沢三差路を過ぎて右側にある店。目立たないけど、入り口に青い月の看板が出ているから、すぐにわかると思う。学生時代からの通った馴染の店なんだ。よかったらそこで七時待ち合わせでいい? 美鈴』
 もちろん、いいですよ! と、江口は電車の中で携帯を握った手でガッツポーズをとった。そこはちょうど鷺沼駅で、電車のドアが静かに閉まったところだった。乗り過ごしに気づいた彼は、次の駅で降り、上りの電車を待ちながら、返信を打った。
『飯塚さん OKです。下北沢“セントルイス”に、七時で。江口』(一応、エロではない。彼はこの短い文章に、ハードボイルドな印象を狙ったのだ)
 ところが、江口はその店を知らない。『覚えている?』とは、どういうことだろうか。彼女は、僕と他の誰かを勘違いしているのだろう。その相手は、彼女のボーイフレンド? いや、そんな訳はない。それならそれで、ぼくと勘違いするわけはなかろう。常連のような語りぶりだった。しかも、察するに高校生からということだ。いろいろな男と高校時代から、その店で飲んでいたということだろうか。その後、ホテルに行くとか?
 江口は、彼女の隠された一面を覗き見た感じがした(いや、彼の単なる妄想に過ぎない)。

 **

 金曜の夕刻、下北沢駅南口は、若い熱気に溢れている。江口も、二十代の頃は芝居が好きで、しげしげとこの街の小劇場を訪れた。学生でも入れる安い居酒屋も数多く、何軒も梯子して歩いたものだ。最近は、チェーン店が進出してきて少し雰囲気も変わったが、若者の数は当時よりもずっと増している。
 駅前の商店街を抜け、代沢三差路まで来ると、人通りもまばらになってきた。ここを右に曲がり、三軒茶屋方面にしばらく歩くと、向かいの明るいコンビニの正面に青い月の看板を見つけた。なるほど、確かに看板以外は目立たないひっそりとした店だ。黒い格子のガラス窓は曇っていて、中の様子はまったく見えない。初めてでは入りにくい雰囲気のある一方、どこか郷愁を誘う店だった。戸を引くと、カランとドアチャイムが鳴った。客はまだ一人もなく、マスターもいない。まだ開店していないのか? と、戸惑ったが、石油ストーブが焚かれており、とりあえず、カウンター左端のきしむ椅子に腰かけた。カウンターに椅子が六脚。小さなテーブルが二つある、ほんの小さな店だ。カウンターも椅子も壁もストーブも黒で統一されている。店の奥の棚に、古いレコードがぎっしりと納まっていた。シックな雰囲気、ストーブの石油の匂いと暖かさに、江口の気持ちが和んだ。
 すると、年配の細身のママさんが「いらっしゃいませ」と奥から現れた。自宅を兼ねた彼女の店らしい。飾らない部屋着のような服装、どこか眠たそうでまったりとした感じがまたいい。メニューを渡され、飲み物を選んでいる間に、彼女はCDをかけてくれた。繊細で、かつしなやかなジャズのピアノ曲『Come Rain Or Come Shine』が、大きな二台のスピーカーから静かに店内に響き渡る。
 江口は、フォアローゼスのハイボールを頼んだ。曲は、『Autumn Leaves』に変わった。
「このアルバム、ビル・エバンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』ですね」氷を砕き始めたママさんに話しかけると、
「ええ。お客さん、初めてみたいだけど、ジャズはお好き?」と、彼女は嬉しげな笑顔になった。
「あまり、詳しい訳ではありませんが、彼のピアノ曲は、繊細で優しく、どこか月の光を浴びているような気がします」
 実は、このアルバム、運よく彼が持っている数少ないジャズCDの一枚だった。
「落ち着いたいい店ですね。気に入りました」
「それは、どうもありがとう」うっとりとした眼差しを向けられた。
 カウンターの棚に置かれた古い目覚まし時計が十二時を指していたので、一瞬もうそんな時刻なのかと、驚いた。自分の時計を見ると、ちょうど七時だ。止まっているのか。江口は、ようやく気づいたところで、考えた。黙示録の中に『わたしはアルファであり、オメガである』という言葉がある。二本の針が指すのは、まさにその瞬間である。
 時が止まった世界、永遠の刹那。どこか、この店を象徴しているかのように、彼には思えた。

 カランと音がして、ドアが開き、真っ赤なトレンチコートを着た飯塚さんが入ってきた。目が合って、手を挙げると、
「あら、美鈴ちゃん、お久しぶり」とママさん。
「ご無沙汰していました。ママさん、相変わらず、お元気そう」
 彼女が現れ、一瞬にして、店の雰囲気が華やいだ。
 コートを壁のハンガーにかけると、江口の隣に座った。細身のジャケットにストライプのシャツが爽やかだ。
「待った?」
「いや、今来たばかりで、飲み物を注文したところだよ」
「そう、よかった。何を頼んだの?」
「フォアローゼスのハイボール」
「じゃあ、ママさん、私も同じのお願い」
「あら、二人はお友達?」ママさんの“お友達”という言葉に、江口は顔を赤らめ、言葉に詰まった。
「ええ、高校の同級生です。この前、偶然、彼の仕事先でばったり会ったんですよ」飯塚さんが、正確に説明してくれた。
「彼女は、高校時代、全生徒のアイドル的な存在だったんです。彼女のファンをピラミッドに例えれば、ぼくは、その底辺にいる糞ころがしみたいなもんですよ。彼女と話すことなんてとてもできなかった」
「やだなぁ、そんなことないよ。私、江口君のラグビーしている時の姿、覚えているわ。スクラムハーフって言うんだよね。ボールが何処に飛んでも、いつもその側にいた。誰よりも一番走っていたんじゃない?」
 江口は高校時代、弱小なラグビー部に所属していたが、飯塚さんがそんな風に見ていたことには、まったく気づいていなかった。遠い存在だった飯塚さんと今こうして親しげに話していること自体が、夢の続きのような気分だった。
「はい、ハイボール。お酒を飲んで、ゆっくり旧交を温めてね」ママさんが、泡立つ二つのグラスを差し出し、CDの音量を少し下げてくれた。曲は、『Spring is here』が始まったところだった。
「では、再会を祝して、乾杯!」彼女の澄んだ声につられ、江口もグラスを持ち上げた。どの位置にグラスを当てるかで一瞬迷った。彼女は、自分からすっと手を伸ばし、先端どうしが触れ合わせ、澄んだ音を立てた。
「食事は?」
「まだだよ」
「ここのオムレツとジャーマンポテト、最高に美味しいんだから。頼んでもいいかな? 私、お腹がペコペコ」
「いいよ」江口は、先ほどメニューを隈なく見たが、食事と言えるものは確かその二つしかなかった。飯塚さんが料理をオーダーし、江口はハイボールをお替りした。
 二人は飲みながら、高校時代の思い出話や、同級生や先生達の近況を話した。とはいっても、江口はもっぱらの聞き役だった。
 皿がだいぶ片付き、思い出話も一段落したところで、彼女は本題を切り出した。
「あのね、相談のことだけど……」
「うん」江口は、耳を澄ました。
「朋子のこと、覚えている?」
「川島さんのこと?」
「そう、川島朋子。三年の時、同じクラスだったよね」
 覚えているも何も、江口が高校時代に憧れていたのは、まさにその女性であった。卓球部所属で一見地味だったが、短い三つ編みと眉毛にかかる前髪が似合い、つぶらな瞳が可愛らしく、その笑顔が飛びぬけて素敵だった。映画『コックリ坂から』を一人でこっそり何度も観に行ったのは、主人公、松竹梅子に彼女の面影を思い出していたからだ。三年生の一月、江口は彼女に、なんとも不可解で長いラブレターを書いた。内容は、要約すると“受験の真っただ中にいて、君のことが好きで、君を想うと勉強が手につかない。ぼくには、到底手の届かない存在だということはわかっている。どうか嫌いだと言ってくれ”というようものだった。
 しばらく物思いにふけっていた江口をじっと見つめて、飯塚さんは尋ねた。
「もしかして、朋子のこと好きだった?」
 江口は、唐突な言葉に驚いて、テーブルについていた肘が滑り落ち、顔を残っていたオムレツの中に埋めた。幸い皿を割ることはなかった。
「大丈夫? 江口君って、わかりやすいね」そう言って、苦笑した。
「飲み過ぎかしら、気をつけてくださいな」ママさんはおしぼりを出して、気遣ってくれた。
「本当に美味しいよ、このオムレツ」口の周りについた玉子をペロリと舐めて、おしぼりで顔を万遍なく拭いた。
「ねぇ、朋子には告白したの?」その勘の鋭さは、職場の平原さん並みだった。
「これって、監査の続き?」
「施設長の経歴や価値観、資質も監査の対象だからね。嘘つくと報告書に響くよ」飯塚さんは笑って答えた。
「三年の年明けに、一度、手紙を書いたよ。ちょうど今頃だ」
「で、なんだって?」
「歯がゆいって。で、お互い勉強頑張りましょうってね」
「で……?」
「もちろん、それっきりさ。ぼくはきっぱりと諦めるために、翌日、学校を休んで高尾山に登って、頂上で手紙を千切ったよ」
「なんでよ。江口君は、なんて書いたの?」
「受験が迫って頃だっていうのに、彼女のことで頭がいっぱいで、勉強どころではなかったんだ。ぼくには、到底叶う恋ではないことが解っていたから、ぼくは好きだけど、嫌いだって言ってくれっていうようなことを書いたんだ。結局、その年は浪人したけどね」
「それで、歯がゆいか。なるほどね。江口君、“歯がゆい”って言葉の意味、解っている?」
「歯が浮くとか、虫唾が走るとかいう感じだろ。どっちにしたって、とにかく褒めた言葉じゃない」
「子どもの虫歯じゃないんだから。辞書を調べ直した方がいいよ。ねぇ江口君、一応、PSW(精神保健福祉士)だよね。大丈夫かな?」
「大丈夫かなって?」
「女性の心理も解らないみたいだし、これって、管理者としての資質の問題に関わるわ」
「冗談だろ、そんなこと、まさか報告書に書かないよね」
「冗談、冗談」彼女は、お腹を抱えるようにして笑っている。江口は、ほんの少しだけむっとして、そっとお替りを注文した。
「実はね、相談っていうのは、彼女のことなの」
「うん」そっけない返事を返した。
「まだ、恋愛感情が残っていたり、今も振られたことを恨んでいるなら、よすけど?」
「恨んでなんかいないし、ぼくはもう結婚して娘もいるよ。彼女のことは素敵な思い出にしておくつもりだ」鼻息を荒くして答えた。
「なら、いいかな?」
「いいよ」江口は、仕事のつもりで応じた。実のところ、江口は、彼女に逢うのが気まずくて、これまで一度も同窓会の類には出られなかったのだ。
「朋子とはよく一緒に飲んだりするんだけど、暮れにここで飲んだ時、彼女、妙なこと言っていたの」
「妙なこと?」
「うん、最近、幽霊が毎晩のように、彼女の枕元に出るんだって。」
「幽霊かぁ、幽霊! それなら、霊媒師かエクソシストに相談した方がいい」
「うそ、幽霊を信じてるの? PSWで?」
「別に信じている訳じゃないけど、関係している病院の若い医療ソーシャルワーカーは、以前つき合っていた女性の生霊が右肩に憑いているって言っていたよ」
「それは、単に別れた女に酷いことをして、今もその女のことを怖がっているとかじゃなくて?」
「いやあ、真面目に生霊らしいよ。精神保健福祉士だからって、誰もが幽霊とか信じない訳じゃないんだ。うちのサビ管の平原さん、先日の監査の時にもいたろう。ほら、黒い髪を肩まで伸ばして、眼のくりっとした、気の強そうな女性。彼女の祖母は、恐山でイタコをやっていたんだ。今は、伯母さんが後をついで現役だって。その血を継いでいるのか、彼女にも見えるらしいよ。彼に憑いている生霊は、髪の長い四十過ぎの女性だそうだ。彼が来るといつもその話だよ」
「信じられない。ママさん、お替り頂戴!」
「心理学にも、トランスパーソナル心理学とかいう分野があって、スピリチュアルな世界を扱っているんだ。知り合いでその学会に入っている奴がいるけれど、いつも数珠を手にしているよ」
「で、江口君は、どうなの? 幽霊とか信じているの? あ、ママさんありがとう」
「いやあ、ぼくは、信じてはいないけど……」
「信じてないけど?」
「お化け屋敷とかは、どちらかと言うと苦手かな。おどろおどろしくてさ。もちろん、信じていないけどね。ねぇ、煙草吸ってもいいかな」
「へー、江口君煙草を吸うようになったんだ」
「うん、ラグビーをやめてからね」
「ふーん、今時の人は、大人になったらやめるんだけど。ママさんも吸うし、どうぞ、遠慮しないで」
 遠慮と言うより、緊張と言った方が正確かもしれない。幽霊についての話から話題をそらしたかっただけだ。彼は、ポケットから煙草を取り出し口にくわえると、すぐに思い出したように煙草を置き、ごみのようにくちゃくちゃになった書類が詰まった鞄から、一枚の紙とボールペンを取り出した。そして、その裏に、一つの円を描いた。
「これが、ぼくの理解している世界であり価値観だ。円の外には、ぼくの知らない世界がある。つまり、ビッグバン以降、広がり続ける宇宙の外と同じだよ」
「ふーん、江口君の世界観って、意外と小さいのね」そう彼女は応えた。
 江口は、もちろんそんなことを言ったつもりではなく、言葉に詰まった。
「ねえ、私は、幽霊って、いると思うわ」ライターを差し出しながら、ママさんが話に加わった。
「隣のガールズバーのオーナーさんのことなんだけど、時々、うちにも寄ってくれるのね。で、店変えをした頃、もう十年も前になるかしら、寝ていてよく金縛りにあったって言うのよ。気がつくと太った女性の幽霊がお腹の上にまたがって、首を絞めつけているんですって」
 そこで、ママさんも煙草に火をつけ、天上に向けて一息吐いた。
「でね、よくよく聞くと、どうやらその幽霊って、以前、隣でバーをやっていた独身のママさんにそっくりなのよ。彼女、ある男性とつきあっていてね、結婚の約束までしていたんだけど、結局捨てられたみたい。妻子持ちだったのね、その男」
 煙草の煙が天井付近に漂う中、江口の顔を見つめて、
「その男、ここだけの話、隣のオーナーさんじゃないかって、私、想っているの」
 一瞬沈黙が訪れ、江口は、返答を求められているような気がして、言葉を返した。
「ひどい話ですね」そう言って、ハイボールに口につけた。飯塚さんは、黙ってジャーマンポテトの残りを小皿に取り分けている。
「で、当時の彼女、よほど落ち込んでいたんだと思うのよ。しばらく店は、閉めたっきりだったの」
 そこで、ママさんは煙草を灰皿にもみ消し、天上に残る煙を見つめながら言った。
「しばらくしてオーナーが訪ねたら、彼女、部屋で死んでいたの。食べる物が底をついたみたいで、米びつも冷蔵庫の中も空っぽだったらしいわ。台所の脇に、齧った後のある芽の伸びたジャガイモがあっただけ。私、きっと芽の出たジャガイモをそのまま食べたんじゃないかって思っているの。これって、自殺じゃないかしら」
 江口は、激しくむせかえし、持っていた煙草を手から落とした。
「大丈夫、江口君?」飯塚さんが席から立ち上がり、腰をかがめて床に落ちた煙草を拾ってくれた。
「大丈夫。お酒が気管支に入っただけだから」
 彼女は、今のママさんの話を、全然と言っていいほど怖がらなかった。椅子に座り直すと、ジャーマンポテトをつまんで、「お気の毒ね」そう言ってハイボールを飲み干した。
「私は、それはオーナーさんの罪の意識が作り出した幻覚だと思う。朋子のも、そうした類のことだと思うの。ママさん、お替り頂戴」
 ママさんは、話をやめて、黙って氷を割り出した。
「朋子のご主人、三年前に失踪したのよ。夫婦喧嘩をした後だったらしいから、彼女、かなり堪えていたわ。で、彼女が最近になって見る幽霊は、そのご主人らしいの」
「きっと死んじゃって、幽霊になって帰ってきたんだね」江口は、ぽつりと言った。
「だから、幻覚だって話しているじゃない」飯塚さんは語気を強めた。
「ああ、そうだったね。川島さんは、それをご主人の幽霊だって思っているということだね」
「そうなの」
 ママさんが、そっと新しいグラスを飯塚さんの脇に置いた。
「それに、すっかり痩せこけて、目の下にはクマを作っているし、見ているこっちが辛くなるほど、覇気がないの。精神的な問題を抱えているかもしれないわ」
「ああ、なるほど。それで、ぼくに相談ってわけだ」
 江口は、おもむろに新しい煙草に火をつけ、一息吸って胸の高さに手を置いた。左手は腰にあてる。オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトのポーズだ。
「確かに、うつ病のうち約十五パーセントの重症例では、妄想や、幻覚症状が出る場合がある。精神病性うつ病と言うんだ。例えば、自分が許しがたい罪を犯したと思いこんでいると、自分責める声が聞こえてきたり、死んだ親族を見たりする。彼女の見た幽霊も、ご主人の失踪を自分のせいだと思い込み、自分を責める気持ちから生じた幻覚かもしれない」
「ようやく、わかってくれたみたいね。一度、彼女の相談に乗ってくれない? 私も同席するから」彼女は、ハイボールで喉を湿らせて言った。
「飲みながらっていうこと?」江口は、彼女に向き直った。
「うん、何か問題ある?」
「ふむ、二人の美女に挟まれるっていうの、緊張しちゃうな。もしよければ、職場の平原さんを呼んでもいいかな。彼女、この手の話は得意だし、ぼくとしても心強い」
「彼女もなかなかの美人よ」
「あら、私は?」ママさんが口をはさんだ。
「ママさんも、もちろん美人だと思います」江口は、危うくむせるところだった。
「ほら、クライエントの話っていうのは、相手の準拠枠に添って聞くのが大事なんだ。彼女、幽霊に関心があるから、うってつけだと思わない? もちろん、彼女も精神保健福祉士だし」江口はうまく話を逸らしたつもりだった。
「まあ、いいか。美人とかいうのは取ってつけた言い訳で、江口君、実際、幽霊話が怖いみたいだから」
「いや、怖い訳じゃなくて、苦手なだけで」江口は、たじたじとなったように見せて、煙草を消した。
 実のところ、幽霊が怖いのもたしかだが、それよりも川島さんと面と向かうのが怖かったのだ。第三者がいれば、昔の込み入った話にはならないだろう。
「私も、そういう話、好きよ。よかったら、ここで話したら。その間、貸切りにするわ」
 貸切りといっても、江口たちが飲んでいる間、他の客は誰一人として現れなかった。
「じゃあ、そうさせていただきましょう。でも、ママさん、隣のマスターの話、私はもう三度も聞いたから、今度は遠慮してね。朋子と連絡とって話してみる。江口君の方も、日程を考えておいて」
 ママさんは、若干不満そうだった。それでも、二人がグラスを空けて、割り勘で勘定をすませると、「また、楽しみしているわね」と見送ってくれた。

 店を出て、二人で歩く駅までの道のりは、酔いを冷ますほどに木枯らしが肌を刺した。彼女とは手を繋いではいないけれど、先日見た夢のようだと江口はほくそ笑んだ。街路樹の脇に、先週降った雪が氷のようになって残っている。江口はその月のような白さに、川島さんを思い出した。彼の心には、この溶けない雪のように、まだ川島さんの思い出がひっそりと残っているのだ。彼はふいに、思い出を汚し、飯塚さんに乗り換えようとした罪悪感を覚え、ごめんと、心の中で詫びた。

 **

「なんで、私が、施設長の高校時代の初恋の人に会わなければならないんですか?」
 平原さんは、憮然とした表情で尋ねた。月曜、作業所のメンバーが帰った後、数人のスタッフが事務仕事をしていた時だった。
 事務の神山さんが、「へえ、施設長の初恋話、聞きたいです!」と、パソコンから顔を上げて、黒縁の眼鏡の奥で、子猫のように目を輝かせた。
「いや、彼女は単に高校生の頃、ぼくが好きだったというだけで、初恋っていう訳じゃない。ぼくの初恋は、保育園で一緒だったゆうちゃんだよ。でもね、問題は、そこではないんだ。つまり、彼女が、失踪したご主人の幽霊の幻覚に悩まされ、とても参っているということだよ。ぜひとも、平原さん、君の力を借りたいんだ」
「ゆうちゃんって、どんな子だったんですか? チューとかしたんですか?」
「そりゃあ名前の通り、優しくて可愛い子だったよ。同じアパートに住んでいて、毎日手を繋いで保育園に通ったものだ。チューはしていなかったなぁ。ちょっと、神山さん、何を言わ……」
 江口がそう言いかけた時、平原さんが低くどすを効かせたような声で、言葉を挟んだ。
「それって、当然、施設長のおごりですよね。それとも、残業代をつけてくれるのかしら」
「私も、行っちゃだめですか?」
「施設長、おごりじゃなくても、俺もついて行きますよ。男一人じゃ心細いでしょうから」携帯をいじっていた熊本君まで、話に加わってきた。彼の飯塚さん狙いの魂胆は、見え見えだった。
「君たちは、今回は、遠慮してほしい。いっぺんに大勢で押しかけたら、彼女も話しづらいだろうから」
「ふーん、つまんないです」
「で、おごりですか、残業ですか?」
「おごりです」
「じゃあ、今度、俺たちにもおごってくださいね」
「それでは、私、お店、押さえておきますね。この前、隣の駅前に、素敵なイタリアンレストラン、見つけたんです」
「それとこれとは、話が別じゃないですか?」
「別です。あなたたちは、忘年会で施設長の考えている余興でも楽しみにしていなさい」平原さんが、二人の若者の期待をびしっと抑えた。
「施設長、まだ年が明けたばかりですよ。忘年会の余興って何すか?」熊本君がしつこく食いついてきた。
「つまり、今度の忘年会では、大々的に理事長も入れて、水戸黄門の寸劇をやるつもりだ。熊本君、君には、助さん役をお願いする」江口は、鼻の穴を広げて、咄嗟に答えた。
「面白そう。私、一度、帯を解かれてぐるぐる回りながら、あれぇぇぇって言うの、やってみたかったんです」
「いいっすね」
「私は、風車の弥八がいいかしら」
「だから、平原さん、先日も、君は、美々かおるの役だって言ったじゃないですか」
「いいっすねぇ、俺、平原さんの入浴シーン、ぜひ見たいです」
「入浴シーンは、ありません!」
 江口と平原さんが同時に大声を出し、スタッフルームは静まり返った。

 その週のうちに、飯塚さんとのメールのやり取りで、彼女と川島さんら四人で逢う日が決まった。翌週の木曜七時、またあの下北沢の店だ。ちなみに、今年の施設の忘年会の内容や日程は、当然だが、まだ決まってはいない。日程は、事業計画を行政に提出する今月末には大方決まるだろう。果たして、水戸黄門の寸劇を本当にやることになるのだろうか。もちろん、理事長は知る由もなかった。

 **

 木曜日。低気圧が日本海を横切り、東京では生暖かい南風が吹いた。江口と平原さんは、六時半に職場を出て、東急世田谷線山下駅から歩き、小田急線豪徳寺駅のホームで、新宿行きの各駅を待つ。その間ずっと、江口と平原さんの二人は口をきかなかった。江口は、先ほどから彼女の気持ち探ろうと、ちらちらと彼女の横顔を覗いた。しかし、彼女は相変わらず憮然とした表情で、彼は、話しかけることができなかった。
「私の顔に、何か悪霊でも憑いています?」平原さんが、江口の方にしっかりと向き直り、訊ねた。
「いやあ、まさか悪霊だなんて、縁起でもない」
 その時、ホームをロマンスカーが通り過ぎ、彼女の横髪がなびいて顔を覆う。その瞬間、彼は補うべき言葉を逃してしまった。
「それとも、貞子にでも見えて」髪を手で直しながら、彼女が言葉を繋ぐ。
 江口は、彼女の勘の鋭さに驚愕するばかりであった。
「やっぱり」
 その言葉は、五寸釘が藁人形を打ち抜くように、彼の心を貫いた。先ほどからの気まずい空気が、いっそう濃くなった感じがした。
「何か、悪いことをした?」彼は、ようやく言葉を見つけた。
 だがその時、各駅電車がやってきて、音を立ててドアが開いた。先に乗った平原さんは、吊革を掴み、素知らぬ顔で窓を見ている。彼はドア横の手すりに掴まった。
「別に」彼女の声が小さく聞こえた。

 飯塚さんから、メールが入った。渋谷で買い物をしてくるので、少し遅れるとのこと。川島さんと待ち合わせをしているので、一緒に行くとあった。
 江口と平原さんは、カランと音を立てて店に入った。この前と同じように、客は誰もいない。ママさんの姿もない。黒い石油ストーブが、赤く灯っている。平原さんは、黙って店内を隈なく見まわした。カウンターの中にある古い目覚まし時計に目をとめて、しばらく見つめていた。ママさんが奥から出てきて、挨拶を交わす。
 江口はこの前と同じ左隅の席に腰かけ、フォアローゼスのハイボールを注文した。平原さんにもアルコールを勧めたが、彼女は、第五チャクラに良くないとか言い、オレンジジュースを頼んだ。
「ママさん、その奥の時計はどうされたのですか。何か思い出深い物なのでしょうか?」彼女が唐突に訊いた。先日来た時に、江口も気になった十二時を指して止まったままの時計である。
「祖母の遺品よ。よく見て、文字盤にJAZってロゴがあるでしょ。ちょっとした洒落ね」
 そう言ってママさんは、時計を取ってカウンターに置いた。近くで見ると、丸みがあって、とぼけたような数字の字体が可愛らしい。平原さんは、時計を手に取り、そっと耳にあてた。止まっている時計から、音楽でも聴こえてくるのだろうか、心地よさそうに目を細めた。
「お祖母様も、ジャズがお好きだったようですね」
 フランス製のようだが、手巻き式のかなり古ぼけた時計だ。まさか、目覚ましにジャズが流れるわけでもなかろうに。文字盤のJAZのロゴを見れば、ジャズと関係していることくらい、ぼくにも想像がつくと、江口は心の中で冷やかに笑った。
「祖父がね、クラリネット奏者だったの。戦争が激しくなる前、上海に渡ってバンドを組んでいたらしいわ。その祖父からのプレゼントだって。そうそう、祖母はその時計に騙されたって言っていたわ。何のことかしらね」ママさんはそう言うと、思い出したように、店の奥へ行き、棚から一枚の古いレコードを持ってきた。大事そうにプレーヤーに針を落とす。
 スピーカーから、レコード特有の雑音と共に、トランペットで始まる軽快なスウィングジャズが流れてきた。江口は、そっと平原さんの顔を覗く。彼女は目をつむり、うっとりと曲を聴いている。彼女の気持ちが和んだようで、ほっとした。曲は、クラリネットの優しい調べに替わった。
「メモリーズ・オブ・ユー、祖母の好きだった曲よ」ママさんも、そう言って目を閉じた。
 江口は、ふと、川島さんを思い出した。その曲の流れる間、物思いにふけっていた。高二の夏の夕暮れ、部活を終えて帰ろうとした時、駐輪場で彼女は、チェーンの外れた自転車を前にどうすることもできず、困っているようだった。見かねて、素手でチェーンを掴み、ペダルの着いた歯車にかけてやった。ペダルを廻すと、歯車にチェーンが食い込み、後輪の歯車がスムーズに回転し出した。礼を言われるのが照れくさく、逃げるように自分の自転車にまたがり、彼女を残してペダルを思い切り踏み込んだ。彼の自転車は、中学三年の時に新聞配達をして買った、当時十万もしたキャンプ用のサイクリング車だった。当時、テントや寝袋を積んで方々に出かけたものだ。自転車の乗り方を彼に根気よく教えてくれたのは、保育園で一緒だったゆうちゃんだった。小学校に上がる直前、夕暮れの公園で、江口はハンドルを握り、よたよたとペダルを踏む。彼女が荷台を掴んで押しながら走ってくれた。ゆうちゃんは、小学校に上がる時に引っ越した。さようならをちゃんと言えたのだろうか……。
 曲が終わり、我に返る。曲はゆったりとしたセレナーデに替わった。
「素敵な思い出がいっぱい詰まった時計です。大事にしてくださいね」平原さんは、そう言って、時計をママさんに戻した。
「もしかして、あなたがイタコの平原さん?」ママさんが、訊ねた。
「いいえ。私はイタコではありません。祖母の後、伯母が引き継いでいますが」そう答えて、きっと江口の顔を睨んだ。いつもの平原さんに戻っていた。

 カランと音がして、入り口から風が吹き込んできた。現れたのは、モスグリーンのダブルボタンのコートを羽織った飯塚さんだった。この人は、逢う度にコートが違う。何着持っているのだろうか。江口は、去年買った一枚のダウンで、この冬も過ごしてきた。それにしても、飯塚さんは明るい色がよく似合う。
「こんばんは」江口は右手を挙げた。続いて入ってきたのは、白の革ジャンを着た女性、川島さんだ。
「久しぶり」彼女をはにかむように見つめて、江口は声をかけた。彼女は小さく微笑んだ。
「ママさん、懐かしいレコードかけているのね。いいことでもあって? ねえ、シャンパンを持ってきたんだけど、開けてもらっていい?」飯塚さんが、紙袋から細長く黒い箱を取り出して、カウンターに置く。ママさんはふっと笑顔になった。
「ルイ・ロデレールとは、奮発したわね。これで乾杯しましょうよ」そう言って、丁寧に箱を開けた。平原さんは、立ち上がって二人の女性とあいさつを交わしている。そのやりとりの中で、川島さんが、結婚して成田という姓に変わったのを知った。
 川島さんは、ジャンパーを脱いで、青いタートルネック姿になった。左腕を痛めているのか、庇うようにジャンパーの脱ぎ方がぎこちなかった。江口と対称に、カウンターの右奥にちょこんと座る。月のような乳白色の石のネックスレが、彼女の胸の上で明かりに照らされ輝いていた。肩まで伸ばした髪を茶色に染めていたが、地の黒い髪が頭頂に見える。少し痩せたようで、やはり覇気がないよいように感じられたが、昔の短い三つ編みをしていた頃の面影を残していると、江口は思った。
 店内は、いつしか飯塚さんを中心に、先日の監査の話、特にブルガリの時計をつけた会計監査員のことで盛り上がっていた。川島さんは、笑顔を向けてその話を聞いている。ママさんは、そっとレコードをモダンジャズに取り換えた。低音のベースの音色が心地よい。
「今日は、特別料理を用意して待っていたの」ママさんが、そう言って大皿に盛られた赤いパプリカのミートローフ、ミニトマトとブロコッリーで縁取られたポテトサラダ、バジルと生ハムのパスタと、次々と奥の部屋から持ってきた。会話が途切れ、一斉にため息が漏れる。
「今日は、飲み放題、食べ放題で、四千円会費。よろしくね」と飯塚さんがウインクした。ママさんと始めから申し合わせていたのだろう。小皿とワイングラスが配られると、黒いボトルを廻し、黄金色のシャンパンを互いに注ぎあった。アーモンドのような芳醇な香りが漂う。ママさんもグラスを持ち上げた。
「私たちの再会と、たんぽぽ作業所、セントルイスの活躍とご発展を祈念して、乾杯!」飯塚さんが音頭を取った。こくとフルーティーな味わいが弾ける美味しいシャンパンだった。平原さんもグラスにほんの少し口をつけた。
 それぞれが、料理を小皿に取り、飲み物のオーダーを始めた。シャンパンや料理の美味しさについての称賛が終わると、飯塚さんが、江口や川島さんの高校時代の様子を面白おかしく、説明し始めた。江口は、フォアローゼスのロックを注文して、煙草に火をつけた。飯塚さんは、高校の頃も話の中心にいた。考えてみれば、ママさんを除くこの四人は同じ年代だ。話が弾み、アルコールが進むのも頷ける。
「江口君は、なんで福祉の仕事に就いたの?」ふいに、それまで聞き役だった川島さんが、向こうの席から訊ねてきた。ママさんを含め、四人の視線が一斉に江口に注がれた。江口は、あわてて煙草を消した。
「たまたまだよ。サラリーマンは、無理だと鼻から諦めていたからね」
「たまたまって?」川島さんがじっと江口を見つめている。
「四年の冬休みに実家に帰った時、暇で午後から三茶に出てパチンコしていたんだ。もともと一浪して入った大学だし、親が就職はどうしたと煩いのもあってさ」
「パチンコと福祉と、どう関係あるのよ」飯塚さんがせっかちに割り込んできた。
「その日、全然出なくてさ、玉が尽きて隣を見たら、髭面のおっさんが箱を何段も重ねていたんだよ。ぼんやり見ていると、面白いように玉が入るんだよな。そしたら、気前よく、玉をくれたんだ、そのおっさんが」
「もしかして、その髭面の人って」平原さんが、閃いたように声を出した。
「そう、前代の施設長。海月さんだよ。結局、こっちはその後も出なくてさ、すっからかんになって、礼を言って帰ろうとしたんだ。そしたら、くれてやった玉の分、ボランティアをしていけって言われて、連れてかれたのが、今の職場だよ。なんとなく居心地がよくてさ、しばらく通ったら非常勤で雇ってくれたんだ」
「たまたまって、そういうこと? まるで洒落みたい」飯塚さんが目を丸くした。
「まあ、そうなるかな。でも、本当のことなんだ」江口は苦笑した。
「前の施設長、スタッフが忙しくしていると、そっと抜け出してパチンコに行ったりしていたんです。たぶんそれって、年末の大掃除の時だと思う」平原さんが、うんざりした顔で言った。
「それは、聞き捨てならないわね、施設長がそれじゃあ、今度は、抜き打ち監査だわ」飯塚さんは半分笑いながら、返した。
 江口は、平原さんの隙を見てパチンコ行くなどという度胸を、毛頭持ち合わせていなかった。するとすかさず、平原さんが追い打ちをかけた。
「江口さんは、なんか要領がいいって言うか、気づいたら精神保健福祉士の資格を取っていて、今じゃ施設長ですから」
「そうかな、要領がいいと言うのとは違う気がする」と川島さんが疑問を挟む。江口は、もしやここで手紙のことを披露されるのではないかと案じ、心拍数が上がるのを感じた。ちょうど注文したロックが出てきた。泡立った気持ちを鎮めようと、そっとグラスを口にした。
「美鈴に連れられて、三年生の時、よくラグビーの試合を見に行っていたけど、江口君はいつもボールのところにいたんだよ。誰よりも一番走っていたもの」
「ふーん」平原さんは、疑るように江口を睨んだ。先日の監査の日、皆には一時間前に集合をかけておいて、自分はいつも通りの時間に出勤した。そうしたことを訝っているのだろうと、江口は思った。
「私は、あの頃、北山君のファンだったから」飯塚さんが照れ笑いをして、続けて言った。
「この前も、江口君には、その話をしたよね。これは朋子の受け売りだよ」
 川島さんは、口をつぐんだ。江口も、彼女が昔、そんな風に自分を見ていたなんて信じられず、言葉が出なかった。
「でも、肝心な時に、鈍かったり、へまをするのよね。この前の監査の時も、そうだったじゃない。私がまとめなきゃ、会計監査は、やばいことになっていたんだから」飯塚さんは、そう言って、ちらりと川島さんに目をやった。
「そういうとろころが、要領がいいて言うか、ついているんです。施設長は」
「そういうところね。なるほどね。ところで、朋子、覚えている? 江口君が相手のボールをインターセプトして、ゴール直前まで走った時のこと」
 川島さんは、小さく、こくんと頷いた。
「ゴールを目の前にして、誰もいないのに、足がもつれて転んじゃったの」
 江口にとっては、高校生活の二番目に触れて欲しくない話題、痛恨のノックオンだった。
「確かにそういうところありますね。施設長を側で見ていると、歯がゆかったり、はらはらしたりしますもの」平原さんは堪えきれずに笑った。
「歯がゆいって、どういうこと?」平原さんの言葉につい我を見失い、口を挟んでしまった。こういうところで墓穴を掘ってしまうところが、自分でも情けない。川島さんの前で、それは一番触れたくない言葉だった。
「歯がゆいっていうのは、もどかしかったり、じれったくてイライラする感じです。監査の時も、もっと上手く立ち回ればいいのにって、つい思っちゃいました」
「歯がゆい、そう……」川島さんが、遠くから江口を見つめて口を開いた。江口は、ごくんと、唾を飲み込む。
「江口君の歯がゆいところは、最初から諦めちゃうっていうか、すぐ、駄目だって思っちゃうところだよ」
「もしかしたら、駄目じゃなかったってこと?」
「あの後、受験が終わって卒業するまで、ずっと、手紙をくれるのを待っていたのに」
「ごめん、あれっきり、もう駄目だと勝手に早合点していた」
「もういいよ。私も、ずっと言いそびれていたことがあったんだ。いつか自転車を直してくれたよね。ありがとう。嬉しかったんだ」川島さんは、微笑んだ。
 その笑みに、これまでずっと胸につかえていたわだかまりが、溶けて流れていくような感じがした。江口は、彼女に微笑みを返すことができた。セピア色の思い出が彼の中でふわふわと広がった。すると、
「施設長、手紙とか、自転車って何のことですか?」正面から、平原さんが五寸釘で突いてきた(気がした)。
「それは、二人の大切な思い出みたいだから、そっとしておこう」と、飯塚さんが、今にも振り下ろされようとしていた金槌を抑えてくれた。
「そうやって、いつも、誰かが助けてくれちゃうんですよね」平原さんは、あきらめ顔で言った。
「前世で、よっぽど善行を積んだのでしょうよ」と、ママさんのさらなる助け舟。江口は、うんうん、と頷いた。平原さんは、ふん、と横を向く。
「ねえ、よかったら、ついている話が出たところで、そろそろ、幽霊の話を聞かせてくれないかしら」
「そうですね。今日の主人公は、朋子よ。席を替わるから真ん中に来て」そう言って、飯塚さんが席を立った。すると、じゃあ私たちも替わりましょうと、平原さんも席を立ち、江口を川島さんの隣りに移させた。
 川島さんとこうして面と向かうのは、実に高校卒業以来だった。江口は、胸のつかえが取れて、優しい顔をした彼女を、真直ぐに見ることができた。そして、
「いつから、幽霊を見るようになったの?」と、率直に尋ねた。
 川島さんは、思いを心の奥から掬い取るように、そっと話し始めた。

 彼女の話は、大よそ次のようなことだった。
 三年前に、仕事のストレスで疲れ切っていた夫の苦悩も解らず、元気のない彼をつい叱咤したことから口論になってしまった。その時彼は、ふうとため息をついて、家を出て行ってしまった。煙草でも買いに行くのかと思っていたら、それからずっと、家には帰ってこなかった。彼女は、自分の思いやりのなさを後悔しつつ、警察に捜索願を届け出たが、いまだに見つかっていない。しばらくして、夫の勤め先から退職金が振り込まれ、会社を辞めたことが分かった。一人娘はすでに結婚して家を出ており、この間の生活は、退職金に手を付けずとも、自分の収入でなんとかやってこられたそうだ。
 幽霊が出るようになったのは、昨年の十二月の初め頃だった。寝ていると、耳のすぐ側で自分の名を呼ぶ声がする。目を覚ましてそちらを向くと、夫の痩せて哀しそうな顔がそこにあった。彼女が泣きながら幾度呼びかけても何も応えず、哀しそうな顔をゆがませながら、すーっと消えていった。そんなことが度重なり、ついに夫は死んでしまい、浮かばれぬ魂がこうして自分のもとにやってくるのだと悟ったということだった。
 川島さんの話が終わり、店の中は、ジャズピアノとベースが切なく奏でる音が響くだけで、静まり返っていた。江口は、煙草を取り出すことさえ、躊躇われた。彼女は、ご主人が失踪した要因が自分にあると、自らを責め続けてきたのだろう。この三年間ずっと、帰ってくることを信じ、心休むこともなく待っていたに違いない。もしかしたら、すでに亡くなり、まるで自分が彼を殺したかのように苦しんでいるのかもしれない。彼女の喪失感と自責感が、痛いほどに感じられた。

 その沈黙を破ったのは、平原さんだ。
「朋子さん、その幽霊が出るようになった頃から、頭痛に悩まされたり、左半身に痛みを感じたりしていませんか?」
 その言葉に、ふと江口は、先ほど川島さんがコートを脱いだ時の左腕を庇うような仕草を思い出した。
「ええ、そう。左手首の痛みから始まって、時には手先が痺れるようになったり、最近は肩や背中まで常に張っている感じがする。ひどい時は、頭がぼんやりするくらいの強い頭痛に襲われるの。腱鞘炎か、もしかしたらリウマチかもしれないって受診を考えていたところだけど。で、なんでそんなことを?」川島さんは、左腕をさすりながら、不思議そうな顔をした。平原さんは、彼女の問いに頷くだけで、続けざまに訊ねた。
「そのネックレスはいつ頃から身に着けていらっしゃるの?」
「夫が失踪して数カ月たった頃かな。心配してくれた友達が、願いが叶う石だってプレゼントしてくれた物、名前は確か……」
「ムーンストーン」川島さんと平原さんの言葉が重なった。
「確かにその石は、名の如く月の力を引き寄せるパワーストーンです。満月の夜にそれを口に含んでお願いをすると願いが叶うと、インドやヨーロッパでは言い伝えられています」
「そう、月の力を引き寄せるって聞いた。だから夜寝る時は、枕元に置いているの」
「でも一方で霊感を強める作用も持っているんです」平原さんは、まるで宝石店のアシスタントか、薬剤師のような口ぶりだ。
「ふーん、それで夫の幽霊を見るようになった訳?」
「いいえ。ご主人は、亡くなってはいません。ああ、少なくとも、その念を飛ばした時までは」
「というと?」唐突な話に、江口が口を割った。
「朋子さんに憑いているご主人の霊は、死霊ではなく生霊です。左肩の上に、今もいらっしゃいます」
 ママさんがグラスを落とし、がしゃんと割れる音が響いた。
「あなたにも見えるの?」怪訝そうな顔で、飯塚さんが訊ねた。
「ええ、朋子さんの左肩に。髪と髭を伸ばしているけど、細面で鼻筋の通ったなかなかの美男子です。でも凍えるような目をして、哀しそう」
 江口は、またいつもの話が始まったと半分呆れ顔で、霊の話よりママさんの方が気になった。ママさんは、落としたグラスのことより話に夢中なようで、片づけを放ったまま、川島さんと平原さんの顔を交互に見つめていた。仕方ないというか、割れたグラスが気がかりで、江口は立ち上がりカウンターの中に入ると、側にあった放棄と塵取りでグラスの破片を片付け始めた。
「ああ、ありがとう」ママさんは、そっけなく礼を言う。
「確かに、私が見ている夫の顔と同じ」
 川島さんの驚いたような声が、カウンターの下にいる江口の耳にも届いた。
「ねえ、それって、朋子の作り出した幻影とか、幻覚の一種じゃではないの?」飯塚さんは昔から、はっきりと物を言う人だ。江口はカウンターの端にあった新聞を取り、グラスの破片を丁寧に包んで、勝手口辺りに置き、換気扇をつけてその下で煙草を吸い始めた。
 ママさんは、相変わらず、川島さんの左肩辺りをじっと睨んでいた。
「そうかもしれませんね」平原さんは否定しなかった。
「それって、どういうこと?」
「幻覚や幻聴というのは、心の深層にあるものが意識に登り、現象化したものだと思っています。深層心理を説いたカール・ユングは、心の様相を元型という概念で説明していますよね。その中に.老賢者や大母というのがあるんですが、ご存知ですか。私、エバラ啓之さんがおっしゃる守護霊や背後霊って、これとたぶん同じものを指しているのだと思っています」
「でも、幽霊とかその生霊っていうのは、明らかに他者の人格と実態を持ったものよね」
「ええ。心の深い所では、自己と他者は繋がっています。ユングは、そのさらに深い所を集合的無意識という概念で説明しています。それらは直接触れることのできない世界ですが、意識というフィルターを通って、実態的な姿を持って私たちの前に現れるのでしょう。それは、幻覚や幻聴と現象的には同じです」平原さんは、ここまで一気に話すと、残っていたオレンジジュースを飲み干して喉を潤した。
「小難しい話ね。ねえ、それより、死んだ人の霊と生霊の違いを教えてくれないかしら? それが大事よ」それまで黙っていたママさんが、口を開いた。川島さんが、うんうんと頷いた。飯塚さんは、狐につままれたように、唖然としつつもまだ納得のいかないような顔つきだった。
「そこにあるIW・ハーパーをロックでお願いしてもいいですか?」平原さんはそう言って、金のラベルが貼られたワッフル模様の瓶を指した。
「おいおい、お酒は大丈夫なのかい? 第何とかチャチャチャに悪いんじゃなかったの」換気扇の下で煙草を灰皿にもみ消し、江口が訊ねた。平原さんは、きっと江口を睨んだ。
「第五チャクラです。チャクラというのは、古代インド起源の身体論でいう、身体のいくつかの中枢のことなの。それが、精神にも影響を及ぼします。第五チャクラは喉の辺りにあって、スピリチュアルな透聴力をサポートするんです。逆に、お酒は高まった心を落ち着けるのにいいんです。施設長と話していると本当にイライラしてくるわ。お酒でも飲まないとやっていられない気分」
「ごめん」江口は、亀が首を引っ込めるように、カウンターの中にあった低い丸椅子に腰かけて小さくなった。
「とか言って、今の職場で、江口君のことを一番フォローしているのはあなたじゃないの」と、飯塚さんが笑った。
「茶化さないでください」平原さんは、そう応えると、出されたロックに口をつけ、再び江口を睨んだ。江口は、もう元の席には戻れないような気がして、そっと立ち上がって自分のグラスに手を伸ばし、再び丸椅子に腰かけた。ママさんが、それは私のよ、と言うので、仕方なく丸椅子を彼女に譲り、勝手口にあった空のビールケースをひっくり返して、そこに座った。キッチンの台がちょうどよいテーブル代わりになった。落ち着く場所が確保できた。
 それから、平原さんの例によって霊についての長い説明が始まった。江口の理解した範囲でまとめると、人の思いは他者の心の深い部分に影響を残す。つまり霊とは、他者が残した想念の塊である。現象的に言うと、この世に残った魂だそうだ。現在生きている人や物や場所に残り、影響を与え続けるらしい。死んだ人の霊、幽霊とか地縛霊というのが、亡くなった人の霊、死霊である。それに対し、生霊は、その人の魂の一部ではなく、彼が発した強い念が、一つの独立した意思を持った魂を作り出す現象だそうだ。人は誰でも多かれ少なかれ生霊の影響を受けているものであり、ただ、想い(念)の強い人から受ける生霊には、肉体に変化を及ぼすほどの影響力がある。偏頭痛、体の半分に痛みや痺れを感じる、なんとなく体がだるくてやる気がおこらないなどの症状があれば、生霊を疑ってみるべきだとのことである。一般に女性の生霊は右肩、男性の生霊は左肩に憑くそうだ。
 川島さんに憑いているのが死霊ではなく生霊だというのは、そうした身体への影響の仕方と合わせ、霊が小さく、その霊が持つ匂いが(霊に匂いなどあるのだろうか?)、現に生きている場所の生々しさを放っているからということだった。
「ねぇ、どんな匂いがするの? 私には、気づくことができなかった」川島さんが、すがるように訊ねた。平原さんが言うには、草や川の匂い、犬か猫のような小動物の匂いもするとのことだった。ただし、それが具体的にどこかということまでは、わからないという。
「まだ、夫は生きているの?」という川島さんの問いに、平原さんは、それは何とも言えないと答えた。生霊は、確かに人が生きている間に作り出されたものだが、それは、当の本人とは別の存在だからということらしい。当の本人が忘れても、その生霊の存在は残り続けるのだそうだ。
「でも、朋子さんが、はじめにご主人の霊を感じた一二月の初めには、まだ生きていたというのは確かだと思います」そうつけ加えて、ハーパーを喉に流し込んだ。
 彼女は、長く話して、少し憑かれた(いや、疲れた)ようだった。飯塚さんも、なぜか疲れたような顔をしている。たぶん、平原さんの話を一生懸命に理解しようとして、疲れたのに違いない。霊の存在を認めていない彼女にしてみれば、無理もないことだろう。川島さんは、微かな期待に胸を膨らませているようだった。首筋や腕をさすりながら、ご主人の生きている証を確かめているかのように見えた。ママさんは、隣で丸椅子に腰かけ、足を組み、煙草の煙を換気扇に向かって吹いていた。店内がまったりとした空気に包まれている中、江口だけは、もくもくと皿洗いをしていた。

「ご主人、生きているといいわね」ママさんが、ぽつりと呟き、川島さんが「うん」と強く頷いた。
 ママさんのその言葉が、お開きの合図となった。「そうね」と飯塚さんも応え、立ち上がり会費の集金を始めた。
「江口君、平原さん、それと美鈴、今日はありがとう。皆と話ができて、少しもやもやが晴れた気がする。なんか肩も軽くなったみたい」川島さんも立ち上がり、そう言ってコートに手をかけた。
 江口は、キッチンでグラスを洗いながら、川島さんに笑みを返した。
「江口君、働いているところを悪いけど、会費をもらっていい?」モスグリーンのコートを羽織った飯塚さんが声をかけた。江口は、手の水を払い、財布を取りに行こうとすると、ふと熱い視線を感じた。それは川島さんではなく、平原さんのものだった。その視線に、今日は彼女におごる約束をしていたことを思い出した。一万円札を出して、飯塚さんに平原さんとの二人分だと言って渡し、釣りをポケットに押し込む。平原さんの満足げな顔を確かめて、カウンターの中に戻ろうとすると、ママさんが「あとはいいわ。ありがとう」そう言って視線を玄関に向けた。
 三人の女性は、すでに帰り支度を整え、玄関口にいて、すでに飯塚さんはドアを開けている。江口も慌てて帰り支度を始めた。
 外は、思ったより暖かく、夜風が気持ちいい。春の到来が近づいていることを感じた。川島さんのご主人も、この風を感じているだろうか、江口は空を見上げながら、思いを馳せた。
「いつまでそこでぼんやりしているの?」遠くから、飯塚さんの声が響く。江口は、我に返り、急ぎ足で三人の後を追った。

 小田急線を登戸駅で乗り換え、南武線に。さらに溝の口で田園都市線に乗り換え、鷺沼を目指した。途中、雨が降り出し、窓に白い斜めの線が引かれた。吊革を握る江口には、それが川島さんの流してきた涙のように感じられた。彼は、窓に映る自分の顔を見た。もし、ぼくが失踪したとしたら、妻も同じように痛みを感じるのだろうか、ふと、江口の脳裏に不安が過った。ただ、自分は、失踪するにしても行くあてもない。それに、こんな雨の日に外に出るのはさぞ寒いだろう。やはり早く家に帰るのが一番だ。自分が失踪したらなどという考えは、あっけなく消えた。
 鷺沼駅を出ると、雨脚は一層強くなっていた。ビニール傘を求め、近くのコンビニまで走った。白色蛍光灯の明るい店内でひときわ目立つのは、バレンタイン用のチョコレートの棚だった。去年は、妻と娘から共同の手作りクッキーを貰った。川島さんは、三年前、突然にあげる人が消えてしまったのだ。貰うことがないのも寂しいが、あげる相手がいないのも、さぞかし寂しいだろうに。江口には、きらびやかなチョコたちが、キッチュで無機質なものに見え、そこに立っていることがいたたまれなかった。ふと、妻と娘の顔が想い浮かび、苺のパフェアイスを三つ買うと、雨の中を走った。傘を買うはずだったことはすっかり忘れていた。
 玄関で、びしょ濡れになったダウンや、靴下を脱いでいると、パジャマ姿の妻が出てきた。江口は、「ただいま」と一言いって、コンビニの袋をぐいっと差し出す。
「お帰り。今、バスタオル持ってくるね。お風呂入るでしょ」そう言って、妻は袋を受け取り、風呂場へ向かった。しばらくバスタオルを待っていたが、妻が戻ってくる気配がない。仕方なく、風呂場へ行き、着ていた物を全て脱ぎ、タオルを腰に巻いて、明かりの灯ったリビングに入った。暖房が効いていて暖かい。妻と娘は、すでにテーブルについてアイスを食べ始めていた。
「こんなの買うなら、傘でも買った方がよかったんじゃないの?」と冷たい妻。
「何か、やましいことがあるんじゃない」と猜疑心の強い娘。二人は笑いながら、アイスを口に運んでいる。
 考えてみれば、美女三人と飲んできた自分の心に、やましさがないと言えば嘘になる。一瞬、顔がニヤついてしまった。
「やっぱりね」妻と娘が声をそろえて言った。

 **

 翌朝は、西高東低、冬型の気圧配置。空は晴れていたが、北風が吹き、寒さが戻っていた。江口は、スタッフルームで、鼻水をたらしながら、神山さんの淹れてくれた熱い珈琲をすすっている。作業場の方から、甘い香りが漂ってきた。翌週のバレンタインに向けて、チョコを作っているようだ。金曜のプログラムは、SST(ソーシャルスキルトレーニング)だ。調理の一環ということであろう。
 突然、その作業場から泣き声が響いてきた。なかなか止む気配がないので、江口はそろそろと覗きに行った。この泣き声の主は、メンバーの御堂法子さんだ。スタッフや他のメンバーが周りを囲んでいる。
「のりちゃん、どうかしたの?」江口は、輪に近寄り、そっと他のメンバーに訊いてみた。
「チョコを作っても、あげる人がいないのに気づいたみたい」そう教えてくれた。
 彼女を囲む輪を見渡すと、エプロン姿の男性メンバーも多くいる。彼らは、チョコを作っていったいどうするつもりなのかも気になった。中央で彼女をなだめているのは、熊本君のようだった。
「だったら、俺と交換しないか? 俺も君と同じようにくれる人もあげる相手もいないんだ」
「嫌よ、だって私、熊本さんみたいながさつな人、好きじゃないもん」泣き声は、いっそう高まった。そう言われてしまったら、彼は身も蓋もないだろう。
「そ、そうだよ。何か、その、とってつけたようなその言い方、デ、デリカシーがないよ」側にいた男性メンバーの内山さんが、彼女の味方をした。彼女を囲む輪が、ざわめき出した。
「私、熊本さんって、一見明るそうに見えて実は影があるから、きっと淋しい人なんだと感じてた。だから義理チョコをあげようと思っていたけど、やっぱり、やめる」別の女性メンバーが声をあげた。私も! 僕もだ! 彼女に賛同する声が次々とあがってきた。江口には、彼のどこに影があるのかわからなかったが、見る人にはそう見えるのだろう。ただ、今の彼の青ざめた顔を見ると、お気の毒にと、思わずにはいられなかった。
 江口は、他のスタッフを探した。さて、この事態にどう対処するのか。女性スタッフが苦笑しているのが目に入った。平原さんも笑ってその様子を見ていた。しだいにその苦笑いは輪の中に広がっていった。
「ああ、馬鹿らしい!」のりちゃんは泣くのをやめて、いきなり立ち上がった。
「私、自分が寂しい人間だと思っていたけど、熊本さんに比べたら、ずっとましな気がしてきた」
「そうだよ、のりちゃん。俺に比べたら……」苦しげに熊本君が言う。
「しょうがないわね。誰も熊本さんにあげないみたいだし、かわいそうだから、私があげる。だけど、はっきり言っておきますけど、義理チョコですからね。義理!」彼女がそう言うと、いっせいに苦笑いは、大きな笑い声と拍手に変わった。
「よかったね。くれる人がいて」平原さんが、しょげた熊本君の肩を叩くと、メンバーは、それぞれ自分の持ち場に帰っていった。江口も納得して、戻ることにした。
 
 スタッフルームで、神山さんに今見てきた話をした。PCに伝票を打ち込みながら、神山さんも笑って、教えてくれた。今時は、友チョコというのが流行っているらしく、恋愛に関わらず、女性同士でチョコのやり取りするようになってきたそうだ。また、欧米では、男性が女性にプレゼントをするのが本来の風習らしい。要するに、我が国において戦後信じられてきたバレンタインデーを、女性から男性への愛の告白の日だとする一つの神話が、すでに解体してきているのだろう。男性がチョコを作るのも、理解できた気がした。
「それより、昨晩は、いかがだったんですか?」神山さんが訊ねた。
「結論から言うとだね、川島さん、今は結婚して成田の姓に変わったけど、彼女の見た幽霊というのは、どうやら三年前に失踪したご主人の生霊らしい。彼女は、てっきりご主人が亡くなったものだとばかり思っていたが、まだ生きている可能性もあるということだよ。平原さんの見立てだけどね」
「いつものように、サビ管にも、見えたんですかね? その生霊」
「ああ、どういう感性だか知らないが、見えたようだ。髪と髭がぼうぼうの寂しい目をした男性らしい。それが、川島さん、いや成田さんが見た霊と同じだって言うから、ぼくも驚いたよ」平原さんが、美男子だと表現したことは、こっそり省かれていた。
「さすが、サビ管ですね。イタコの血を受け継いでいるんですね」
「そう、初めて聞いたんだけど、その生霊には匂いがあるらしい。彼女はそれも感じていたようだ。すごい嗅覚だ」
「生霊って、どんな匂いがするんですか? 生臭いとか」冗談のつもりか、笑みを浮かべて神山さんが訊ねた。
「半分当たっているんじゃないかな。木とか川の匂い、犬とか猫の匂いもしたようだよ」
「ふーん、そうなんですか」神山さんは、そう応えると、腕組みをして、首を左右にかしげた。江口は、一服しようと鞄から煙草を取り出し、外に出ようとした。その時、
「私、もしかしたら、その成田さんっていう人、知っているかも!」
 振り返ると、神山さんが机に両手をついて、立ち上がっていた。その眼は確信に満ちて輝いていた。
「いったい、どういうことだい。まさか、君もイタコの血筋じゃないだろうね?」

 **

 二子玉川の駅前は、以前とはすっかり変わっていた。江口が昔来た頃は、高島屋のデパートと川向こうに富士会館という結婚式場だけがそびえ立つ、のどかな街だった。二階建ての店が囲むバスロータリーがあり、近くには食堂を兼ねた釣り宿や、瓦屋根の古い銭湯もあった。二子玉川園という遊園地もあり、保育園の頃に遠足で来た覚えがある。今、それらは、皆目なくなって、駅を中心に高層ビルが立ち並び、都会の様相を呈していた。江口は、通勤途中に、その変化を見てきたが、この地に降り立つことはほとんどなかった。
 改札口を出て、お洒落なショッピングモールの間を抜け、多摩川の土手に向かう。道もすっかり変わり、神山さんの案内がなければ、川までの行き方さえおぼつかなかった。
 新しい広々としたロータリーの先に高層マンションが三棟並んでいる。江口らは、土手の手前にある玉堤通りの信号待ちで立ち止まった。階数を下から数えたが、四十まで数えたところで信号は青になった。駅を出てから十五分ほど土手上の遊歩道を歩いた。しばらくは、川との間を民家に並んでいる。川が見えた時、ちょうど夕陽が、川向こうの遥か西の山に隠れようとしているところだった。川面は、夕陽に映えて杏色の帯のようだ。川を渡る風が冷たい。夕陽が沈むのを見届けて、神山さんを先頭に、平原さん、熊本君、江口が続き、一列になって土手沿いの道を再び歩き始めた。

 神山さんが知っている成田さんという男性は、この河川敷に住んでいるホームレスらしい。彼女は、この付近のマンションに家族と住んでいて、時々、散歩代わりに、この辺りを探索しているそうだ。川下のグランドの奥に大きな茂みがある。一昨年の夏、そこに『猫を差し上げます。成田』という手書きの看板を見つけたらしい。猫が好きで、藪の中の細い道を辿って奥へ進むと、成田さんの家があるという。平原さんが、昨日見た生霊の顔を彼女に説明すると、やはりそれは、彼女の知っている成田という男性の顔と一致した。木や川の匂い、犬か猫の動物の匂い、これらもその男性と符合する。
 すっかり汚れた多摩川で人が住めるのかと、江口は不思議に思った。彼女は、川の水は以前よりずっときれいになったと教えてくれた。コイやフナ、クチボソばかりでなく、ウグイやオイカワも釣れるらしい。成田さんの暮らす近辺には、カワセミの巣もあるそうだ。「成田さんが教えてくれたんです」と、彼女は言った。
「もし、その男性が凍死でもしていたらどうするんだ」と、江口が恐々と訊ねた。彼女は、最後に彼と会ったのは、今年の成人式の頃だと言う。缶ビールを持って訪れ、その男性と、暮れに生まれたばかりの子猫たちを抱いて、日向ぼっこをして過ごしたそうだ。「だから、大丈夫、生きているはずです」と、応えた。もし、その男性が衰弱していたら男手が必要だろうと、熊本君もついてきてくれることになった。

 遊歩道は、第三京浜の橋げた辺りから、土手下の河川敷に降りた。川向こうに青いビニールシートの小屋が並んでいる。成田さんもあんな所で暮らしているのだろうか、そんな思いで江口は、それらの一つ一つをじっと見つめた。
 早足できたせいか、身体がぽかぽかしてきた。江口は、それまでしていたマスクをはぎ取りポケットにしまうと、ティッシュで鼻をかんだ。時計に見ると五時半を過ぎている。高速を走る車がライトをつけ始めていた。川向の民家にも灯りがともり始める。その時、土手上の玉堤通りを、赤いテールランプをつけたバスが過ぎていくのが見えた。
「神山さん、今、バスが通ったみたいだけど。乗った方が早いんじゃない?」
「私は、いつもここを歩いています。茂みはあの送電線の向こうです。もう半分ですよ」彼女は、速度を落とすことなく、まっすぐ前方を見て答えた。多摩川を渡る送電線らしき物影は、まだずっと先の方にあった。
 ようやく送電線の下まで来たところで、その先に小さな森のような黒々とした茂みが見えた。対岸の川崎辺りの夜景が川に反射している。いつの間にか、辺りには夜が忍び寄り、夕闇の中を、四人は黙々と歩き続けた。
 長い沈黙に耐えかねたのか、熊本君が思い出したように訊ねた。
「ところで平原先輩、今日ののりちゃんの一件、俺は、あんなんで、よかったんですかね」
「ええ、彼女、自分で立ち直ったものね。いいきっかけを作ったんじゃない」
「そうすか。なんか余計なこと、言っちゃったみたいな気がして」
「その余計なことがよかったのよ。私にはできないわ。熊本君の強みね」
「先輩にそう言われると、なんか自信が湧いてきました」
「よかったね」平原さんは、振り返り笑顔で応えた。
 ふいに頭上を、ぱたぱたと翼を打ちながら鳥のようなものが横切る。
「あれ、鳥ですか?」熊本君が訊いた。
 江口が、小石を拾って上空に思い切り投げると、上空の小石にすっと寄ってきた。
「コウモリだよ」江口は答えた。
「なんか、気味悪いすね」
「君が、言う言葉じゃないだろうよ」女性二人は、二人の言葉を気に留めることなく、黒い茂みに向かって進んでいた。
「サビ管、怖くないんですかね」
「幽霊が友だちみたいなもんだからね。友だちが寄ってきて、かえって楽しんでいるんじゃないか」
「施設長、こんな時に、その冗談はないでしょ」
「体格に似合わず、臆病だな」
「そういう施設長だって。俺たち二人、女性陣からけっこう離れてますよ」
「体調が芳しくないだけだ」
 女性二人は、すでに茂みの手前に辿りついている。江口と熊本君は、無言で走しり出した。

 鬱蒼とした森のような茂みは、冬だというのに葉をつけた木々から成り、木々の隙間を笹の藪が埋めている。神山さんは、鞄からペンライトを取り出し、笹を照らしながら藪に沿って進んだ。江口と熊本君は、彼女らから離れないように気をつけた。木はアカシアという名の常緑樹だと、神山さんが教えてくれた。
「神山さんって、生物学者みたいすね。ちょっと尊敬しました」
「神山さんが生物学者なら、平原さんはさしずめ陰陽師だな」
「そこの二人、口数が多い」平原さんはぴしゃりと言った。彼女も気が高ぶっているのだろうか。もしかしたら、ぼくらの周りには成仏できない霊たちがうようよと漂っているのかもしれないと、江口は身震いをした。
 藪の向こうに、時々、小さな灯りが見え、男性の話声が聞こえてくる。まるで小さな村でもできているようだ。
「ここです」神山さんは、足を止め、藪の一点を照らした。板の切れ端に『猫を差し上げます。成田』とマジックで書かれた看板があった。藪の奥に通じる細い道が出来ている。この中に入るのか? 江口は尻込みした。
 ペンライトで辺りを照らしながら、神山さんが藪の中に入っていく。平原さんが続き、江口も慌てて、熊本君を抜いてその後についた。藪の中に忽然と広い空間が現れた。正面はすぐ川に面し、川崎のビル群の夜景が良く見える。その明かりに照らされて、そこが野菜畑だということがわかる。畝が作られ、側にテーブルと椅子、キャンプ設備を真似た釜戸もあった。木と木を結んだロープ、これは物干しだろうか。川に降りる階段も作られていた。畑の先には垣根があり、ブルーシートで覆われてはいるが、しっかりと建てられた四角い小屋があった。ところが、明かりは灯っていない。
「成田さん」神山さんが声を出した。小屋からは返事がない。ブルーシートの玄関に鍵はないようで、彼女はめくって中を覗いたが、人影は見当たらなかったようだ。彼女の声に、小さな猫が数匹出てきた。神山さんは、猫を撫でながら、主の居場所を尋ねたが、子猫はお腹を空かせたように、みゃーみゃーと鳴いて、すり寄ってくるばかりだ。
「いつもなら、この時間には、帰ってるはずなのに」振り向いて、彼女が言った。
「成田さーん」彼女は立ち上がり、周りに向かって何度か大きな声で呼んだ。
 すると、川上の藪から人の来る気配がした。一斉にそちらを向くと、二人の年配の男性がランプを持って現れた。
「愛ちゃん、こんばんは。久しぶりだね」男性が神山さんに挨拶をした。
「山さん、瀧さん、こんばんは。お元気そうですね」彼女が挨拶を返す。どうやらこの藪の住人らしい。先ほど藪の中から聴こえた声の主だろう。
「ねえ、成田さんは、まだ帰ってないの?」
「それがよう、隆ちゃん、今日入院したんだよ」
「入院?」江口が驚いて声に出した。
「お前さん方は?」ランプを持った男性が、江口に近寄ってきて尋ねた。
「私の職場の同僚なの」神山さんが説明し、二人の男性に、それぞれが自己紹介を始めた。
 ランプを持っていた背の高い男性は山田と名乗り、後ろの髭面の男性は瀧澤と言った。
「山ちゃん、成田さんが入院っていうのは?」不安そうに神山さんが訊ねた。
「まあ、そこに座れや。俺たちもちょっと前に帰ってきたとこなんだ」山さんが、そう言って、ランプをテーブルの上に置いた。
 椅子は四脚あって、住人二人と神山さん、江口が座ることになった。
「これ、差し入れ」神山さんは、鞄からワンカップの酒と、つまみらしい中の黒いビニール袋、猫用の缶詰を取り出した。
「これね、横浜の祖母が送ってきてくれたの。イカ墨のさきいか。けっこう美味しんだ」
「いつもありがとな。恩に着るよ。今朝から何も食ってないんだ」瀧さんが顔をほころばせた。
「よかったらこれもどうぞ」熊本君、平原さんが、それぞれ鞄から昼間作ったらしいチョコを差し出した。江口は、自分だけ出すものがなかった。
「ありがとさん。女性からチョコを貰うのは久しぶりだな」と山さん。
「男から貰うのは、初めてだ」と瀧さん。
「で、成田さんの具合はいかがなんですか?」
「そうよ。隆ちゃんの野郎、一昨日から熱を出して、昨日は空き缶集めを休んで横になっていたんだ。今朝になっても熱が下がらず、ぐったりしているじゃねえか。で、俺たち二人で、玉川の役所に駆けあって、役人さんに来てもらったんだよ。二人ともこんな身なりだろ、あちこち廻されて、何度も同じ説明を繰り返したな」山さんがちらりと瀧さんに目をやり、二人は両腕を広げて見せた。
 薄汚れた古着を何枚も重ね着し、山さんは髪がほとんどなかったが、瀧さんの方は、レゲエの歌手のようなごわごわとした髪をしていた。
「でな、ようやく生活保護の担当さんに辿りついて、そこの係長っていう人に、とにかく来てもらったんだよ」もっぱらの説明役は、山さんだった。彼はここの村長かも知れないと、江口は思った。
「それは、お疲れさま。ねえ、何も食べてないんでしょ。さきいか、食べてよ」神山さんが袋を開けると、恐る恐る二人は手を伸ばした。
「うめえな。これこそ、珍味ってやつだ。酒もご馳走になるぜ」瀧さんが、口をもぐもぐ言わせながら、感激の声を上げた。
「そんで、係長さんが救急車を呼んでくれて、隆ちゃんはここから担架で運ばれたんだ。その時、俺たちもいろいろ訊かれたよ」
「住所を聞かれた時は、困ったぜ」と瀧さんが笑った。
「係長さんが、上手く説明したみたいだったな」と山さんも微笑み、酒のカップを開けた。
「ねえ、成田さんの具合は?」と神山さん。
「そうそう。隆ちゃんな、玉川病院に運ばれたんだが、どうやら肺炎らしい。危ない所だったようだが、しばらく、治療すれば良くなるそうだよ」山さんが答えると、一同から安堵のため息がこぼれた。
「係長さんが、隆ちゃんに付き添って救急車に乗りこんだもんだから、山さんとおいらは、自転車で追っかけたんだ。すいすいと気持ちよかったぜ」
「その成田さんことで、少しお聞きしてもいいですか?」江口が口を開いた。
「お前さん、土産もないのに図々しいな」瀧さんが睨みをきかせた。
「うちの施設長なの、勘弁して。あのね、成田さんの奥さんらしい人が、彼を探しているの。それで、ここまで、皆で来たのよ」神山さんが、説明してくれた。
「すみません、持ち合わせがないもので」江口は恐縮して謝った。
「冗談、冗談」瀧さんが、大声で笑った。
「隆ちゃん、奥さんがいたのかい。そりゃあ、大事だな」
「はい、まだはっきり、そうだとは言えないのですが……」江口は言葉を濁らせた。
「んで?」
「成田さんのお名前は、タカさんですか?」
「いや、さっき、救急車の隊員に説明していたとこを聞いたんだが、隆志と言うらしい。年は四十二歳だと答えていた。ちょうど、お前さんと同じ年頃だよ」
「彼は、こちらには、いつ頃から住まわれるようになったのですか?」
「三年くらい経つかな。いつだったか、リストラにあって、その後、ずいぶん職を探したそうだが、ほとんどの企業で断られたって聞いたよ。就職難の時代だ。まあ、そんなこんなで、ここに辿りついちまったんだろうな」
 きっと彼は、川島さんにそのことを言えず、退職後もしばらく会社に通うふりを続けていたのだろう。江口は思った。
「ところで、元のお住まいはわかりますか?」
「そこまでは、知らねえな」山さんは首を横に振った。
「ありがとうございました」江口は、そう言って立ち上がると、川岸に歩き、携帯を取り出し電話をかけた。
「もしもし、飯塚さん、川島さんのご主人らしい人が見つかったんだ。ねえ、川島さんに連絡して、すぐ、ぼくに電話くれるように言ってもらえないかな」
 飯塚さんは、わかったと言って電話を切った。江口は、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。ほっと、一息吐くと、瀧さんが来たので、よかったら差しれの代わりにどうぞと、箱ごと彼に差し上げ、彼の煙草にも火をつけた。
「美味いね。恩にきるぜ。隆ちゃんが、あんたらの探している人だといいな」
 携帯が鳴る。川島さんからだ。
「もしもし、よく聞いて答えてくれ。君のご主人らしき人が、今、玉川病院に入院しているんだ。肺炎らしい。ご主人の名前と、年齢を教えてくれないか?」
「うん、隆志さん、四十二歳か。ぴったりだ」
「ぼくらも、これから病院に向かう。君も来れるかい?」
「うん、じゃあ、急患の入り口で待ち合わせよう」
 江口は、電話を切ると、後ろに平原さんが立っていた。
「よかった。これから、私たちも病院ですね」
「うん。君たちのおかげだよ」そう言いながら、煙草をポケット灰皿にもみ消した。
「ここから見える川崎の夜景って、きれいですね」平原さんは、そう言って足を前に踏み出した。
 その瞬間、彼女は足を滑らし、川に落ちた、かと思った。彼女は咄嗟に江口のダウンのポケットを掴んでいた。江口は、彼女の手を掴むと、彼女も両手で江口の腕を握り返した。
「手を離さないでね」
「うん、ちゃんと掴んでいるわ」
 瀧さん、熊本君が駆けつけ、すぐに手を貸してくれ、小柄な彼女を引っ張り上げることができた。
「危ないところだったぜ」瀧さんが、息を切らし笑顔で言う。
「ありがとうございました。命拾いをしました」土に膝をつけたまま、彼女は礼を言った。一同に、再び安堵の空気が戻った。
「山さん、瀧さん、ありがとう。私たち、これから病院に行くね。ねえ、子猫たちの世話お願いしていい? 私も時々餌を持って来るから」神山さんが訊いた。
「もちろん、そのつもりだ。まあ、じきにでかくなりゃ、自分たちで餌を探すだろうよ」山さんが答える。瀧さんも煙草を吸い直しながら、うんうんと頷いた。
 二人の村人に礼を言い、別れを告げると、四人は竹藪を出て、真直ぐグラウンドを突っ切って玉堤通りに向かった。

 ちょうど、土手を上ったところにバス停があった。時刻表を見ると、二子玉川行きのバスは今さっき通り過ぎたばかりのようだった。
「タクシーが来るといいのだが」江口が川下方面を見ながら呟く。
 熊本君が、逆の二子玉川方面から来たタクシーを見つけたらしく、大きく両手を上げて振りながら、道路を渡った。タクシーが停まり、残りの三人も向かい側に走り寄った。
 江口が前の助手席に座り、運転手に玉川病院までと、短く告げる。車は、玉堤通りを左に折れ、坂を上り始めた。前方の北の空にWの形をしたカシオペア座が見える。
 ふと、江口は、先ほど平原さんとやり取りした言葉を思い返した。
『手を離さないでね』
『うん、ちゃんと掴んでいるわ』
 ずっと昔、同じ言葉を誰かと交わしたような気がした。そして、彼女を引っ張り上げた時の手の温もりも、昔から知っていたもののようだった。
「環八が混んでいるようなので、裏道を行きますね」運転手が江口に言う。車は、そこで道を左に逸れ、暗い夜道をぐんぐんと走り抜けた。江口は、それ以上記憶を辿ることができなかったが、その存在は、夕陽のように暖かく感じられ、地平に沈んでもなお地球を巡るような確かさを持っていた。

 平原さんら三人を病室に向かわせ、江口は病院の急患入り口で川島さんを待った。どのくらいかかるのだろうか、訊いておけばよかった。
 熊本君が、江口のもとに駆けて来て、成田さんが川島さんのご主人で間違えないことを教えてくれた。平原さんが、彼と話すことができ、確かめてくれたようだ。
「施設長、俺たち凄いっすね。こんなに早く行方不明を解決しちゃうなんて。お手柄もんですよ」
「いや、もともと答えは、彼女の中にあったんだ。悩める人とはそういうものだ」
「ふーん」熊本君は首をひねった。
「あとは彼の奥さんを待つだけだ」二人の白い息が、凍てつく夜の空に紛れた。
 ほどなく、一台のバンが急くようにして駐車場に入る。車から白い革ジャンを着た川島さんが走ってきた。江口は手を振った。

 **

「え、え~い静まれ静まれ、静まれ~~ぃ!」
「控えおろー! こ、この紋所が目に入らぬか!」
 メンバーの内山さんが声を張り上げ、のり巻きの紋章が描かれた印籠をつき出した。じゃーんと、効果音が鳴る。
「こ、こちらにおわすお方をどなたと心得る! 恐れ多くも先の副将軍、み、御堂のり巻き公に有らせられるぞ!」BGMが入る。
「ご老公の御前である! 一同、頭が高い! 控えおろ~!」
「ははぁ~」しっかりと悪代官の貫録をつけた江口と、熊本君演じる悪徳商人とその一味が、驚きの表情を見せた後、その場に土下座をする。
 杖をどんとついて、のりちゃんが、一歩前に踏み出した。
「代官江口宗之助、熊本屋雄左衛門、その方等、たんぽぽ村の美女たちを甘い言葉でそそのかし、自ら建てた遊郭で無理やり働かせたであろう。さらに、かつて勘定奉行神山殿が指揮して隠した先代御堂稲荷公の埋蔵金を狙い、神山家の末裔お愛を連れ去った上、遊郭の地下で盗掘を企てたること、それら暴利を貪る悪巧みの数々、すべて明白じゃ」
 悪代官が、顔を上げた。
「ご老公様、お言葉ですが、それは熊本屋一人が企んだことでございます。私は、ただ客の一人に成りすまし、連れ去られた娘らを逃がし、悪事の根絶を図ろうとしていたのでございます」
「え、江口殿、何を今さら。そなたが村一番の器量娘お愛を我が物にした上で、ひいてはその女から、たんぽぽ村に眠る埋蔵金まで盗み出そうと持ちかけた話ではありませぬか。ご老公様、私は、この代官に騙され、ただただ金を貸したまででございます」
 すると二枚のお札がぴゅーと飛んできて、二人の顔に貼りついた。
「何んだ、これは?」
 『嘘』の文字が書かれたお札は、はぎ取ろうとすればするほど、顔面にへばりつき、中央が破れ、中から二人の鼻が突き出した。
 舞台袖から、ちりんと鈴を鳴らし、一人の巫女が現れる。
「その鈴の音は、お前、我らが雇ったコスプレ花魁、お遊ではないか。何をする」
「この世の人目は騙せても、霊界はしっかり、お前らの嘘の証、広がった鼻の穴を見逃さないよ」
 お札で目を閉ざされていた江口は、その言葉に耳を澄ましていた。
 ふと、彼は、役を忘れた。嘘をつく時の癖を見抜かれたからではない。
「お遊、おゆう? もしかして、その声は、ゆうちゃん?」彼は呟く。
 お遊は、高らかに鈴を鳴らし、それに応える。
「何を今さら、たわけたことを。幾人もの女にうつつをぬかしておいて」見事にアドリブで返した。
「はー、はっはっは……」御堂のり巻き公の、甲高い笑い声が食堂のホールに響き、花吹雪が舞う。観客席から一斉に拍手の波が湧き上がった。
 主題歌が流れ出すと、順に出演者が舞台に上がる。御堂のり巻き公を中央に出演者が全員揃ったところで、深々と礼をした。
 拍手の鳴りやまぬ中、観客席に目をやると、招待された家族や理事、ボランティア、地域の方々に混じり、川島さんの顔が見えた。隣には小ざっぱりとしたご主人が笑っている。退院し家に戻られ、新しい仕事も見つかったと聞いている。その後ろには、村長の山さんとレゲエ頭の瀧さんの顔もあった。瀧さんが、缶ビールを片手に「あいちゃーん」と、はでな声援を送るので、二人は一際目立っていた。
 こうして、たんぽぽ作業所の一年の締めくくりである忘年会の余興劇は、無事に幕を閉じた。

  おわり

メモリーズ・オブ・ユー

しかし、多少ユーモアがあって、どこにでもあるようなだらだらとした普通の話になってしまったような。(汗)

メモリーズ・オブ・ユー

心の底に残る思い出をテーマに、初めてコメディーに挑戦してみました。 原稿用紙換算100枚超えも、初めてです。

  • 小説
  • 中編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-25

Copyrighted
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