practice(172)
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五〇二号室の住人であるはずのマサイさんに送られた荷物の受け取りを拒否された時,配達員は貼られた伝票に書かれた住所と部屋番号を確認した上で,失礼な質問をしてしまった。
「では,あなたは誰です?」
住人であった年配の女性は目を吊り上げて,タカイです!と怒鳴りながら一気に扉を閉めた。帰りも同じようにエレベーターに乗り,内側に貼られた理事会の日時を眺め,エントランスに着いて,ひとつ目の自動ドアを出てすぐ,向かった郵便受けの中から指差し確認で見つけた五〇二号室の名前を頭の中で呼んだ。タカイさんのその名前は弱気になった分だけ,先ほどよりもドスが効いたものとして,配達員に響いた。怠りのひとつとまで言えないだろうが,注意はすべきことだったかもしれない。酷い鼻づまりを押して,鼻をすすった配達員は荷物を抱え直した。記載によると,マサイさんへ送られたものはミカン類であるらしい。詰まった感じは中間サイズの箱も重みから分かった。配達員はふたつ目の自動ドアの前に立ち,管理人に会釈して,外へ出た。
配達員がその女性に出くわしたのは,次の配送先を経由したルートを通る団地で,配るべき数件の荷物を配送車の奥から引き出し,手前に整理している途中であった。先ほど配り損ねたものを含め,路上に置かなければいけなくなった。ただし何個かの荷物を仕舞い直す前に,配達員はその底を拭こうと思い,配送車から降りた。女性は荷物の伝票を覗き込んでいた。重ね置きもしていたから,それはきっと見える範囲で行われていたのだろう。けれども,女性がお目当てにしていたものは見つかったらしく,あらっ,なんていう驚きと手を叩く仕草で,タオルを手に路肩に立っていた配達員を見た。配達員はここでも会釈した。帽子のツバをつまんでいた。
「わたし,マサイです。」
女性は配達員にそう名乗った。実際に,指を差していたのも先ほど配れなかった荷物だった。一度別の荷物の上に置き,まとめて外に出していたから,女性はこれだこれだと言った。そうだとすれば,失礼ながらも,そこでサインを貰い,渡せばいい。配達員は,本人確認をしてから渡そうと考えた。まずは名前を訊いた。それは女性のものであったし,女性が答えたものも,覚えていたものと同じであった。
配達員は停めてあった配送車に戻ったところで,記載上の電話番号に掛けていたが,コール音はしても,誰も出なかった。女性は財布を手に持ち,薄い緑色のカーディガンを羽織って,ポケットには何も入っていないのが膨らみの無さから,配達員にも分かった。だから意味はないと承知しつつ,女性が取る行動を考えて,配達員は女性に,ついさっき携帯電話にかけたということを告げた。案の定,女性はすいません,携帯は部屋ですと答えつつ,向こうにある建物を見た。ある部屋を確実に見ているのかもしれなかったが,配達員にそれは分からなかった。部屋のドアは各階にあった。配送の依頼人についても同じであったと言った。ああ,この時間は出かけてるかも。母はそうなんです。失礼ながらも,依頼人のお名前は?タカタキクです。もしかすると,すぐに覚えられるかも知れなかった。
次に配達員は,何か身分を証明出来るものを持参しているか,持参しているならそれを見せて欲しい,本人と確認出来ればすぐに渡せることを伝えた。財布も持っているし,免許証,免許証が無くても保険証ぐらいは入っているだろう。誰でもするであろう,そういう推測を働かせた。何かあるだろうと,配達員は期待した。言われて女性もすぐに,財布を開き,二つ折りのものを大まかに見て,あれっ,という首の傾きに続き,細かく探す様子が続いた。そして女性は,すぐに諦めた。
「忘れちゃったみたいです。すいません。」
深々としたお辞儀もあった。財布と手を挟んで,女性はどうしましょうか?という困り方をした。
住所を述べてもらうこともしたが,番地については配達員がうろ覚えであったし,何より部屋番号が違っている。記載されている場所にはタカイさんが住んでおり,述べられた場所には別の人が住んでいる可能性も否定できず,その人も,ともすれば女性の同居人であるかもしれない。正直に,面倒だと配達員は思った。
残りの荷物を整理しつつ積んでいる間に,取りに帰ってもらうことも提案した。お互いに時間を要するのだし,それほど不都合はないだろうと。しかし女性がこれに難色を示したのは,部屋に帰っても見つからないかもしれないということだった。普段から財布に入れていたというし,だからこそ,どこに置いたかが思いつかないと言う。ハガキなどは?と,配達員が訊くと,女性は首を振った。最近整理したのだという。投函されたものも,一緒くたにだった。清掃車の行方は知れなかった。配達員は困った。困りながら,配達員は女性に言った。
「仕方ありません。一度,持ち帰りになると思います。」
「ああ,やはりですか。」
聞いた女性は,正直に落胆した様子だった。
「私の携帯番号を教えておきます。証明できるものが見つかったときは,お電話下さい。」
配達員は胸ポケットからメモ用紙に取り出し,それを記載して渡した。女性はそれを受け取り,二つ折りを広げて,番号を口頭で確かめた。折り目から上半分に書かれたそれに,間違いはなかった。
「母から,電話をかけてもいいんですよね?」
顔を上げて,女性は配達員に訊いた。配達員は「はい,もちろん。」と答えた。女性はひとつ,ふたつと頷き,「じゃあ,そうするかもしれません。」と配達員に言った。帽子のツバをつまんで,配達員は挨拶を終えた。女性は箱を再び覗き込み,見えない感じで唇を動かした。何かを言っているようであり,宜しくお願いします,と最後にした挨拶を配達員にするための準備にも思えた。配達員が出てきた建物に,女性は小走りで入っていった。
箱の底を拭き取り,それぞれを順序よく,配送車の後ろから配達員が戻した。最後の荷物を積んで勢い,運転席まで中を移動し,エンジンをかけた。配達員は運転席のドアを半分開けて降り,後ろに回ってドアを閉め,運転席側のものをもう半分開き,乗り込んだ。シートベルトを締めて,ドアを閉じ,ブレーキを踏んでからサイドブレーキを外して,アクセルを踏んで車を進めた。予定は多少遅れそうであった。配達員は次の配送先に向かった。
配達員が団地への配達を終え,暫く道路を走っていたとき,会社から支給された連絡用の携帯が鳴った。番号を見るまでもなく,『通話』ボタンを押し,繋げていたイヤホンのマイクに「もしもし,」と話した。もしもし,と帰って来た。「タキです。」と名乗る前に,会社名を述べた。その方が相手のためにもなる。
「もしもし,私,タカタキクと申します。あのー,荷物の配達を依頼したもので,」
とそこまで聞いて,配達員は事情を察知していると伝わるはずの返事をした。実際にそれはタカタキクさんに伝わったようで,「お手数をおかけします。」とタカタキクさんは申し訳なさそうだった。配達員はそんなことはありません,とすぐさま添えた。いえいえ,みたいなやり取りが二人の間で行われた。
「部屋番号が間違っていたみたいで。三男のものを書いてしまったんだと思います。正しくは四〇五号,だそうです。娘がそう言っておりました。」
四〇五号,という部屋番号を記憶しつつ,タカタキクさんの自信のなさから,配達員は念のため娘さんのお名前を聞いておくことにした。タカタキクさんは娘さんの名前である『カズコ』を呼び,カズコに早めに食べるように,という言伝まで配達員に預けた。断るわけにもいかず,配達員はそれを受け取った。宜しくお願いしますという言葉とともに,タカタキクさんは電話を切った。失礼します,という配達員の言葉は二回目の途中で切れた。
路肩には別会社の,引っ越し用のものは停まっていたので,配達員はさっきよりも後方に離れた地点に配送車を停め,エンジンを切り,降りて後方のドアを開けた。もの寂しくもなった荷物の中から,タカタさん宛てのものを取り,ドアを閉めてから,すべての鍵をかけた。
小走りになり,夕日の逆光を早々に避けてから,外に居た管理人さんと本日二度目の挨拶を交わし,掃除のために開けられていたひとつ目の自動ドアを通り,配達員は郵便受けを見た。が,四〇五号の箇所は空白であった。外に出て,管理人さんに聞けば,そこの入居者は越してきたばかりで,未だ表札を設けていないということだった。女性だという。それ以外はこれから分かるだろう,という管理人さんの言い分だった。配達員はお礼を述べ,エレベーターのボタンを押し,荷物を抱え直して,エレベーターが十一階を過ぎ,ちょうど十階から下りて来るのを待った。伝票の名前を見た。表示を見て,荷物を片手で持った。渋滞に捕まるかもしれない,配達員はそんなところを心配した。実際,蛍光灯の明かりが埋める中より,配達員は四階からでも眺められる道路の流れを見ていた。五号室はエレベーターから下りて建物の端に位置していたから,その時間は十分だった。たどり着いて,配達員はチャイムを押した。はーい,という声がクリアに聞こえた。配達員は会社名から名乗った。あら,お待ち下さい。そう言われた。
「お待たせしました。」
配達員はそう答えた。先ほどの女性が玄関を開けた。
復唱するように,『タキタカズコ』さんの名前を述べてから,配達員はこの女性がタキタカズコさんであるかどうかを考える機会を(短くも)得られたが,タキタキクさんからの電話があったこと尋ねられ,すぐに失われた。伝票の所定の欄に,受領のサインを女性が室内から持参したボールペンで記したことで,配達員は荷物を女性に渡した。
「あっ,とすいません。」
と声をかけ,剥がし忘れそうになった伝票を,剥がしながら,配達員は女性に尋ねた。
「免許証とか,見つかりましたか?」
「保険証はあったんだけどね,救急箱の近くに。他のも。でも免許証は見つからないの。」
箱をよいしょっ,と持ち直して,女性は配達員に訊いた。
「免許証を置き忘れるところって,どこかしら?」
剥がした伝票を二つに折り,少しの間,配達員は考えたが,「さあ,思い付かないですね。」とまずは答えた。案外,洗濯物のポケットとか,と付け加えた。女性は箱を持ち直した。
「そうね,そうかもしれない。」
詰まった感じの箱の中身から,ゴロンと聞こえた。一個か,二個の隙間はあったのかもしれない。
配達員はまたの利用を,という感じのことを言った。女性はご苦労さまです,ということをお辞儀しながら言っていた。ドアは閉まっていったから,ミカンが動く様子なんて二度と窺えなかった。渋滞は始まっていた。
practice(172)