滲み
ごめんね、と彼女は言った。
彼女の黒い髪が僕の頬にかかる。
彼女の白い指が僕の服をにぎる。
彼女の紅い唇が、震えた。
僕の視界は彼女でいっぱいだった。
小さく揺れる睫毛が伏せた時零れ落ちた雫が僕の頬を伝って、まるで僕の涙みたいに流れた。だから僕は泣かなくて済んだのかもしれないし、本当はまるで心が動いていなかっただけなのかもしれない。
「……ごめんなさい。」
彼女の声が空気に溶けて僕はそれを吸い込んだ。けれど、良いんだよって言葉は出てこなかった。代わりに僕の耳の辺りをくすぐっている彼女の細い髪を少し弄って弾いた。
ねぇ何に謝ってるのってさっき聞いたかな。ねぇなんで泣いてるのって、なんで辛そうなのって聞いたかな。もうさっき聞いたのかこの前だったのか、もっとずっと前だったか忘れちゃった。何回目かも忘れちゃったよ。
僕等いつも同じことの繰り返しでさ、僕は少しでも君を理解したくてあの手この手で探ってみるけどさっぱりわからない。優しくしても放っておいても変わらない。それどころかきっと悪化してる。僕の心だけが積み重ねた分押し潰されてくんだ、君はやっぱり何も変わらないままで。
「ごめんね。」
今度は僕が言った。何に対してかはわからないけど、きっと君ならわかるだろう。今までのこともこれからのことも、もうこの言葉だけで通じる気がした。さよならだ。
ゆっくりとこちらを見た彼女の口元が笑った。
時が止まったような逆流したような、不思議な感覚に襲われた。音は無くなったのにノイズに耳を奪われながら動かない頭が急かすように一点に向かう。
あぁそうかそうだったんだ。…彼女は誰にも解られたくなかったんだ。なんだそうか…。
つられて僕の口元も弧を描いた。
諦めた途端に解るなんてなんか、ねぇ。
彼女は誰も解ってくれないと泣きたかったんだろう。誰かにわかってほしいと口にするくせ誰にもわかるわけないと決めつけて、わからないままみんな自分の元を去ってしまう未来に進めてく。それはきっと安定した失望だ。傷つかないための予防線だ。
麻痺した頭は何の言葉も紡がず、どちらのものかわからなくなった涙がもう戻らないまま跡だけ残して僕に染み込む。
彼女の黒い髪が頬にかかって、
彼女の白い指が服をにぎっていた。
彼女の紅い唇が、震える。
僕の視界は彼女でいっぱいだった。
多分、心も。
滲み