咄嗟剣 蟇滑り

夜空を半円に切り取って、月がぽっかりと浮かんでいた。
太陽の光を照り返す月は、そこから温度を奪って冷たく地面を照らしている。
冬の宵である。
野に山にと降り積もった雪は、空から零れる月光を受けて薄らと光を湛えている。
その雪をさくさくと踏みしめ乍ら、宵の道に歩を進める人影がふたつ。
ほう、と片方の男が息を吐いた。
「美しい夜だな」
「そうだな」
返事は何処か、殺伐としている。手には蛇腹を握っているが、空は澄み渡りその出番は無さそうだ。
「悔いは無いか」
「ない」
「嘘を()け」
「ないものはない」
と、短い会話を交わしたきり、ふたりとも押し黙ってしまった。
道の両側に並んだ長屋は、だんだんとその数が(まば)らとなり、やがて絶えた。
道の果ては、町を両断する流れに行き当たる。
町の遥か北方に(そび)える霊峰に積もった雪は、夏の初めまでその峰の頂を白銀に彩り、夏の盛りには水に変遷し大地に吸われる。地に染み込んだ水は地下を巡り、霊峰の麓で大気に身を(さら)して町へと注ぐのである。
その川の(たもと)で、ふたりの男が正対して、腰のものに手をかけた。
音も無く、(ほとん)ど同時に両人が鯉口をきった。
ずらりと鞘から抜かれた刀身が月明かりを反射し、(すすき)の河原に積もった雪の照り返しの中で無機質な輝きを浮かべている。
片方の男が、青眼に構えた。
それを受けて、もうひとりの男が剣を八双に上げた。
構えた姿勢の侭、どちらともなく脚を右に送り始めた。じりじりと右に歩を送り(なが)ら、距離を詰める。
互いの刃圏まで、僅か一寸。
と、不意に八双が、ずいと前に詰めた。
呼応する様に青眼が身を引き絞る。
中段に身じろぎもせず掲げた(きっさき)矢庭(やにわ)に抜き胴に転じ、八双から繰り出される袈裟に応えた。
馳せ、違う。
転瞬する(いとま)も無い、刹那の間である。
ぴんと張り詰めた空気が、静寂を生み出してふたりの狭間を支配している。空間に満ちた静寂は、溢れ出して世界に滲み、音を奪い去って更に緊迫を高めた。
不意に、月が雲に覆われた。
遥かな天空から、一片、牡丹が(そそ)いだ。
ひとつ、ふたつと降り出した牡丹の下、男たちが互いに振り向き再び正対した。
青眼は上段に、八双は下段に。
互いの、必殺の構えである。
裂帛(れっぱく)の気合いが、大気を割いた。

伊東十蔵には、どうしても(ゆる)せぬ相手がいる。
義兄(あに)である。
(とも)に天を(いただ)く事は出来ぬと思った。
義兄——鈴谷重兵衛と初めて見えたのは、昨年の秋のことである。
十蔵が道場稽古から帰宅すると、背の低い男が軒先に立っていた。夕刻である。町を斜めに射抜く西日が、背中から照って目の前に長く影を映していた。
十蔵自身が六尺近い大男であるから、もしかするとその男はさして背が低い訳ではないのかも知れないが兎も角、その時十蔵は、
矮軀(わいく)が何をしていやがる」
と思った。この時点から既に、何処と無く嫌悪感を抱いていた。
小さな背を更に小さく屈めたり、逆に足先が震える程に背伸びしたりして、(しき)りに家の中を伺っている。
(かみしも)に身を包んだ風貌は城勤めの武士たる証左ではあるが、誇り高い武士が一目も(はばか)らずに他人の家を覗くと云うのは、一体どのような了見なのだろう。
「おい、貴様」
と十蔵が声を掛けると、矮人(わいじん)が此方を振り向いた。鼻が横に大きく目が離れていて、蝦蟇(がま)の様な面である。その醜い面が、十蔵の中の嫌悪を増々つのらせた。
蝦蟇はさも仰天したと云う様な風情で、脂汗に額を照らせながら二、三度口をぱくぱくさせたかと思うと、(きびす)を巡らせ駆けて行ってしまった。
「なんという野郎だ。蝦蟇め」
嫌悪感を(はら)の底で噛み砕いて毒を吐いたが、この男の事など、その時は直に忘れた。
本当に衝撃を受けたのは、そこから一月も経った晩秋の日の事である。
その日、十蔵は早く家に帰るよう云われていた。
姉の縁談が決まったから、相手の男を紹介したいというのだ。
正直、紹介などされたくなかった。顔も見たくなかったし、名前すら知りたいと思わなかった。
いつかはこの日が来るのだろうとは思っていた。姉はもう二十二になる。(めと)られるには遅すぎる程ではある。が、しかし、姉が家から出て行くのは(いや)だった。
十蔵は、実の姉に惚れていた。
姉の、小夜は美しい娘だった。気立ても善く、いつも十蔵に優しくしてくれた。町を歩けば皆が皆振り向き、あの小町を射止めるのはどんな美丈夫か、はたまた家柄かと人口に膾炙(かいしゃ)していた程だ。十蔵自身、姉に善く似て整った顔をしていた。頭も善かったし、自分こそが姉に相応しい男だと本気で思っていた。
その姉が、遂に嫁に入る。
そう思うだけで、心がずっしりと重く、(はらわた)の底に沈んでしまった。
稽古には全く身が入らず、師範代に散々に打ち据えられた。
痛む身体と、重い脚とを引きずる様にしてやっとの事で家に帰り着くと、遅い、と父に怒鳴られてしまった。
「申し訳ありません。父上」
この男が居なければ、姉の婿も見つからなかったのではと考えると、肩に背負った木刀で滅多打ちにして殺して遣ろうかと云う気分になるが、ぐっと堪えて頭を下げた。
「婿殿はもう参られておる。お前も挨拶をしなさい」
そう促され、嫌々座敷に上がる。草鞋の紐を解く手がなかなか動いてくれないでいると、早くしろと父がまた怒鳴った。怒声を背に浴び乍ら、動きたがらぬ手を増々鈍重にして、その瞬間を少しでも遠ざけようとした。
しかし、(つい)に草鞋の紐は解け、座敷に上がるよりほかなくなった。
「弟の、十蔵でございます」
心を殺して、頭を下げた。男の顔は見ない様にした。顔を見れば打ち殺してしまいそうだったからだ。
「鈴谷重兵衛と申します」
低く、地を這う様な、厭な声だった。
礼から顔を上げる時、どうしても相手の顔を見なければならない瞬間があるが、その一瞬だけ耐えてさっさと自室に戻ろうと考えた。
平静を自分に云い聞かせて、覚悟を決めて顔を上げた。
目の前では、蝦蟇が、真面目な顔で此方を見ていた。
醜い蝦蟇が屋敷の垣根を跳び越えて、姫を(かどわ)かしに来たのだと思った。

それからの事は、余り覚えていない。
ただ、姉が蝦蟇の横で(うつむ)いていた事だけははっきりと覚えている。
蝦蟇に嫁入りさせられる不憫な姉を見るうちに、怒りがふつふつと湧いて来るのを感じた。
——やはり顔など、見なければ善かった。
怒りはしたものの、どうする事も出来ない事は明瞭と理解していた。厭に冷静な自分が憎らしい。
それにしても、何故あのような醜い男なのだ。
薄らと覚えている親の話に依れば、家柄は確かなものらしい。石高がどうだとか分不相応な縁談だとか四の五の云っていたが、そんなものは姉の美貌を以てすれば当たり前だ。家禄と、見目、更に学芸武芸の三位一体である男こそ、本来相応しいのだ。
それが、何だあの男は。
まず清廉さに欠けている。顔は終始脂ぎっていて、行灯の光を受けててらてらとしていた。気持ちが悪い。背は小さくて、少し小突けば泣いて転げそうだ。知性も感じられない。凡庸な受け答えばかりしおって。そして何より、風貌が醜い。あれでは、如何に姉が美しかろうと、子に期待は出来まい——。
と、そこまで考えて、十蔵は最悪の現実を悟った。
子を、為すのだ。
あの可憐で美しい、愛しの姉が。
醜い、蝦蟇と。
抜ける様に白くきめ細やかな姉の肢体に覆い被さり滑稽に腰を振る蝦蟇の、(いぼ)(まみ)れた背中が明瞭(はっきり)と見えた。
瞬間、心の内が沸いた。
殺す。
必ず殺す。
斬って殺す。刺して殺す。(なぐ)って殺す。絞めて殺す。吊って殺す。沈めて殺す。埋めて殺す。曳いて殺す。
——何が何でも、必ず殺す。
仮令(たとい)ひと殺しの(そしり)りを受けても、姉の純潔だけは守らねばならぬと、誓った。
気が付けば、まんじりともせぬ内に夜が明けようとしていた。
母が起き出し、煮炊きを始める気配がする。
そこに、もうひとつ。
姉のものに違いない匂いを感じて、十蔵は決意を固くした。

十蔵の住まう鶴岡藩は、平原の中にぽっかりと穴が空いた様にして、城下町を浮かべている。
遥か北方には急峻が連なり、屏風の様に展開する山肌に雪化粧がまぶしい。山はそれぞれに名前があるらしいが、十蔵をはじめ城下の人間の殆どがその名を知らない。そのかわりに皆が皆、親しみを込めて御山(おやま)と呼んだ。
御山から吹き下ろす風は冷たい。冬になれば平原のあらゆるものが凍えてしまう程だが、不思議と雪は多くない。御山の向こう、遥か彼方の海から吹き付ける湿った風は御山を駆け上がって雲に転じ、その身に含む水分の殆どを御山の上に落とすからである。しかし年に数度、御山に落ち切らなかった雪が、平原を真白に染め上げる日が有る。そんな時は決まって、余所の人間が(おどろ)く程の量が降り、町は静謐(せいひつ)に包まれる。
十蔵は、そんな雪の日が好きだった。
年に数度の雪が、はらはらと舞う静かな日である。空は灰色に塗り潰されている。空と大気の境目が胡乱(うろん)としていて、何もかもが朧に沈んだ世界の中に在って、雪の白色と、道行く蛇腹の色ばかりが鮮やかだ。赤地に、牡丹。蒼に映える唐草。季節にそぐわぬ、桜吹雪。灰色の世界に咲いた蛇腹の花々が、それぞれに理由を覆って道を行き交う。
十蔵は、こんな雪の日が好きだった。
(ようや)くこの季節が来たなと、道場へ向かう道すがら、傘の縁から周囲を見回して思った。
姉の縁談話を聞いたあの夜から、(およ)そ二ヶ月が過ぎていた。必殺を誓ったにも拘らず、十蔵はこの二ヶ月で何も為さずにいた。
何もする必要が無かったと云うべきだろうか。

縁談話から数日が経った或る日、道場で稽古に励む十蔵に、願っても無い好機が舞い込んだ。その頃の十蔵は、姉の肢体を(けが)すおぞましい化物の姿を脳裏から拭い去る様に、いつの日か来る(とき)の為に、必死に剣を振っていた。
「精が出るな」
汗でしとどになった十蔵に声をかけた男は、師範代の山県豊己(やまがたぶんご)である。(ねぎら)いの言葉を無視して剣を振る十蔵に構わず、山県は言葉を続けた。
「この間、気合いを入れてやったのが効いたのかな」
この間と云うのは、姉の縁談について聞いた、あの日である。あの日、この山県と云う男は、十蔵を散々に打ちのめしたのだ。その時の事を思い出して、振るう剣に僅かに殺気が(こも)った。そうと知ってか知らずか、おかまい無しに山県は話の穂を継いだ。
「この頃は、鬼気迫ると云うのかな。元々あった天分に、執念が加わった感じだ。君の相手をしたら殺されてしまうと云うものもいる」
殺、と云う音に心の内を見透かされて、十蔵は少しだけ動揺して手を止めた。僅かに乱れた心中を悟られぬ様に、虚勢を張る。
「何を云います。剣術とはそもそもが殺し合いの術です。それを修める為に殺気を(まと)う事に何の不具合も御座いますまい。私に気圧されて相手をしたくないと云うものがいるのなら、誰かは存じませんがそいつが単に腰抜けなのです」
「ははは、そう興奮するなよ。君の云う事は(もっと)もだ」
十蔵の剣幕をさらりと受け流し、山県は本題を口にした。
「まあ、君の最近の、懸命なる努力を讃えて、本年の奉納仕合に君を推薦しようと思っていてな」
山県の思わぬ言葉に、虚勢は吹き飛んでしまった。
「私を、ですか…」
「おや、心外か?」
「いえ、光栄なのですが、私でよろしいものかと」
突然の朗報にすっかり気勢を()がれた十蔵は、途端に優等生の顔に戻って謙遜した。
「先程も云ったろう。元から天分はあったのだ。そこに気魄(きはく)が加わって来たからな。これならば、と云う訳だ」
「成る程、承知致しました…慎んで、お受け致します」
「おいおい。まだ推薦するだけだ。最終的な選別は先生がなさる。…しかしまぁ、そう云う事だから、励めよ、十蔵君」
十蔵に一瞥をくれると、ひらひらと右手を振り乍ら山県が道場を去った。十蔵はその後ろ姿を見送ってから、一度大きな気合いを放って再び剣を振り始めた。

その数日後、正式に奉納仕合への出場が決まった。
それ以来、十蔵の稽古には一層熱が入り、来る日も来る日も不乱に木剣を(ふる)った。
凡てを(なげう)ってまで、木剣に執着するに足る理由が在った。
「私が対戦する相手は、当日まで分からないのですか?」
或る日、十蔵がかねてから抱いていた疑問を思い切って師範代の山県にぶつけてみた。
「ううん。そうだな。(おおむ)ね、予想はついているのだが」
夕刻と云うには(くら)過ぎる、宵の口である。その日も、道場で最後まで剣を振っていたのは十蔵だった。
「しかしこれは飽くまで予想だから、(よし)んばそうで無かったとしても、俺にあたるなよ」
そう前置きしてから、道場には二人を除いて誰も居ない事は明白であるにも拘らず、山県はぐいと顔をよせて小声で耳打ちをした。
「鈴谷重兵衛と云う、天鳴流の剣士だ」
天鳴流——。城下二大道場がひとつ、松風道場で教えられている流派だ。八双の構えを旨とし、そこから天に(いなな)く雷光の如き峻烈な一撃で以て相手を屠る、不二太刀要(にのたちいらず)の剣である。それに対するは、山県道場の空雲流。空雲流は、青眼から相手に応じて変幻に太刀を見舞う。後の先を制すその様は、風に流され空を揺蕩(たゆた)う雲の如し。十蔵が所属する山県道場は、名前から察せられる通り、山県豊己の祖父が開祖である。
年末の奉納仕合では、これら二流派が(しのぎ)を削る。それは唯の仕合ではなく、城下の覇権を争う非常に重要なものだった。また、武を重んじる鶴岡藩に()いては、奉納仕合で華々しい活躍を見せる事で願うべくもない役職への大抜擢を勝ち取った先人がわんさと居るのだから、門弟らにとってもひとかたならぬ意義を持つ。
「鈴谷重兵衛…天鳴流」
「どうした。知り合いか」
「いえ、そう云う訳では」
咄嗟(とっさ)に否定しながら、十蔵は山県の言葉を反芻(はんすう)した。
鈴谷重兵衛、天鳴流———。
「鈴谷重兵衛と云うのは、どのような剣士なのでしょう」
のっぺりとした額と無様(ぶざま)に突き出た頬骨にあばたを浮かべた、蝦蟇の様な重兵衛の顔が脳裏に浮かんだ。
「うむ。それがな、最近になって頭角を(あらわ)した様でな、仕合の記録が無いのだ。詰まり、実力の程は未知数。ただ、背は余り高くないと聞いている」
軒先から必死に身を伸ばして家を覗く、矮軀だ。
「そこでだ。上背で勝り、また懐刀として大切に育てたお前を()てようと云う訳だ。天鳴流の八双は上段にも似た袈裟を得意とする。ならばその強みを消してやれ。それにお前も、これが初陣だ」
小さく卑屈な身体を精一杯大きく見せて、袈裟を繰り出す重兵衛を思い浮かべた十蔵は、失笑を堪えるのに大層苦労した。
「それ以外の仕合は、正直云って五分だ。やってみないと分からん。頼むぞ、十蔵。お前の勝利が、肝だ」
その一言と、相手が鈴谷重兵衛であると云う想定は、十蔵の闘志を(かつ)て無い程に燃え上がらせた。それは、殺意と云い換えても、何ら不具合は無いたちのものだった。
並々ならぬ想いでぶつかる奉納仕合では、過去に数度、不幸な幕切れとなった仕合も在った。則ち、対戦相手の死亡である。
その事例は、普通の感性ならば忌避すべきものだが、十蔵にとっては必殺の誓いを果たす恰好の口実だろう。
殺意に歪んだ闘気を瞳に燃え上がらせて、来る日も来る日も一心に剣を揮った。

今日もまた、雪道を抜けて道場にやって来た。雪の所為だろうか、道場は人が疎らで、屋内であるのに外と大差ない程に冷え込んでいた。
大気の冷たさとは対照に、十蔵の心の内は、あの日からずっと一点の(かげ)りも見せずに燃え上がっている。
手早く支度をし、中庭の井戸から水を汲んで顔と手を清め、礼を拝して木剣を青眼に構えた。
目を瞑る。
(まぶた)の裏に、蝦蟇の憎々しい薄ら笑いが浮かぶ。
薄ら笑いを浮かべたまま、姉を抱き寄せ、雪道に映える蛇腹の花の様に真赤な唇を吸った。
右手を半襟から襦袢(じゅばん)の下に滑り込ませ、しっとりと柔らかく張りのある姉の乳房を弄ぶ。
姉のすらりと伸びた(もも)を撫でていた左手が、焦らす様に緩慢(ゆっくり)と付け根へ向かい、秘部をまさぐった。
そして不意に、姉を押し倒し覆い被さって、滑稽に腰を振り始める。
おぞましい蝦蟇の、荒い吐息が聴こえる。
(いぼ)に塗れた背中に覆われて、影の下から此方(こちら)を見る、無表情な姉の顔が視えた——。
憎悪と殺意が極値に達した時、大気を(ふる)わせる気合いと共に、十蔵の木剣が幻想を真っ二つに割いた。
すぐさま呼吸を整え、雲散霧消した気を再び高める。
目を、瞑った———。
すっかり短くなった日が落ち始めたのか、雪雲に覆われた空に薄手の絹がふうわりと被せられて、その分だけ宵の色が濃くなった様だ。
愛しい雪道が、己の熱気で溶けてしまわぬだろうか。
道場の外では、牡丹雪が身を寄せあい折り重なる。
道場の内では、柱や壁、床板の木々が身を縮め、軋んで不満を鳴らしている。
冷えきった内外と対照的に、十蔵の周囲だけは熱気に歪んで見えた。
木剣が空を切る鋭い音が、善く響いている。

城下の熊代(くましろ)神社で催される奉納仕合は、決まって雪深い師走の日に執り行われた。
鶴岡城は、先に述べた立地の通り、平原の城である。野戦の城と云っても善い。攻め寄せた敵を野戦で散々に引きずり回した挙げ句に打ち砕く、精強を極めた騎馬隊は天下にその勇を(とどろ)かせたと云う。その様に攻撃的な城だからこそ、武芸を修める事は大いに推奨された。その名残は徳川の平和な世となった今も根強く残っている。毎年行われる奉納仕合は、その最たる例であろう。
重ねてになるが、仕合と云っても、ただ剣の腕を競うだけと云う様な生半可なものでは無い。
鶴岡城下には、数多の剣術道場が軒を連ねている。その中でも、空雲(からぐも)流を教える山県道場と、天鳴流を敷く松風道場は、城下で剣術を学ぶものなら誰しもが少なからず羨望する二大流派である。
その二大流派が、互いの尊厳を懸けて火花を散らす。
それが、熊代の奉納仕合である。

前日の大雪は何処へやら、空は紺碧(こんぺき)に澄み渡っている。風も無い。空気は凍てつく程だが、日差しが心地快い。
()の下刻。仕合が始まる午の刻まで、あと僅かだ。
雪が掻かれた境内で、十蔵は武者震いを起こした。
本来、神に奉納する為のものであるから、仕合は神前たる御社(おやしろ)の正面で執り行われた。一辺が六間程である正方形を切り、内部を仕合場と定めてある。御社の左右には出場者の控えが拵えられており、内の様子が外に見えぬ様、竿を立てて目張りがしてあった。
仕合は一般に公開されていて、多くの見物客が境内に押し寄せる。既に境内には、所狭しと見物人が押し並び、今か今かと仕合を待ちわびていた。
「おう、十蔵。昨晩は善く寝られたか」
師範代の山県である。奉納仕合には師範代以上は出られないが、監督役として境内に来ていた。
「はい」
と、そつなく返す十蔵を見て、ちえ、と悪態をついた。
「初陣で緊張しているだろうからと、励ましてやろうと思ったのにな。中々に肝が太いじゃないか」
「いえ、これでも緊張しているのですよ。ほら、手の震えが」
「馬鹿野郎、それは武者震いってもんだ。目を見れば分かる」
「はは、見抜かれてしまいましたか。ですが、緊張しているのは本当です」
「そうは見えんがな。まあ、かといって緊張感の欠片も無いのも困るがな。何事も塩梅(あんばい)だ、塩梅。見てるからな。頑張れよ」
山県がそう云って十蔵の背中をばしばしと叩いたのと時を同じくして、熊代神社の宮司が、白色無紋の礼装で現れた。
境内のざわめきが一転、水を打った様な静けさに包まれた。
仕合の差配は、宮司が務める習わしである。奉納仕合に一本は無い。降参するか、気を失うかの(いず)れかに依って、勝敗は決する。ひとつだけ、例外を上げるとするならば、それは大いに忌憚(きたん)すべき事ではあるが——。

いよいよだ。
十蔵は固く拳を握りしめ、緊張を高めた。
緊張している、と云ったのは、心の底から本当だった。ただそれは恐らく、山県の想定するものとは異なっていたのだろう。だから、緊張している風に見られなかった。
これから、人を殺そうと云うのだ。
緊張しない方が如何かしている。
殺意と緊張が入り乱れ、昂奮に姿を変えて十蔵の内を満たしていた。
宮司が、十蔵の名を呼ぶ声が聞こえた。
山県道場、伊東十蔵———。
ゆっくりと歩を進めて、目張りの幕を抜ける。
境内に出るや否や、対戦相手の名が高らかに読み上げられた。
松風道場、鈴谷重兵衛———。
宮司の善く通る声を聴き、口の()を歪めている事に、十蔵は気付かない。
十蔵が見詰める目張りの向こうから、果たして鈴谷重兵衛がのそりと現れた。
互いに歩を進め、中央で礼をする。
真逆(まさか)義兄(あに)上が相手とは、いささか愕きました」
口にした義兄と云う響きに、思わず反吐が出そうだった。
「うむ、お手柔らかに頼むぞ」
「何を仰いますか。奉納仕合で手は抜けません」
「それもそうだな」
「では、宜しく御願い致します」
「宜しく頼む」
臭い息を俺に向かって散々に吹きかけやがって。今直ぐに根っから止めてやる。
互いに距離を取り、構えを取った。すると宮司が
「始め」
と、声を張った。

剣を構えた重兵衛を見て、中々やるな、と十蔵は思った。
実際は、中々やる、と云う次元のものでは無い。
八双に上げた剣先は、天を捕らえて微動だにせず、どっしりと(かかと)が地面に着いて、一分の隙もない。お手本の様な、完璧な構えであった。
しかし十蔵はその事に気が付かない。気が付けない程に重兵衛を甘く見ており、また、昂奮で頭が沸いていた。
(隙がないな…。揺さぶるか)
後の先を取る空雲流において、相手の隙を誘い出そうとする動きは禁忌とされている。
迂闊(うかつ)に脚を繰り出し、僅かに崩れた重心。十蔵目掛けて、(いかづち)が馳せた。
全くの反射だった。強烈な圧力を感じて咄嗟に上げた剣が、偶々(たまたま)防御に間に合った。
鈍い音が爆ぜた。
距離を置いて構えを取り直すと、一気に汗が噴き出した。
——危なかった。
この一撃で、十蔵は完全に目を()ました。
——何と、無様な。
自身への怒りと、重兵衛に対する憤りが、沸々と沸き上がる。心の内に燃える炎を、長い息と共に残らず吐き出した。火種は未だに燻っているが、それは異様な冷気を伴って、十蔵に冷静さを(もたら)した。
冷えた頭で、改めて重兵衛の構えを観察すると、それが如何に恐ろしいものが善く分かる。
微塵の隙も見当たらない。彫像の様であるかと思いきや、一瞬を逃さず稲妻の様な袈裟斬りが繰り出される。
これが、不二太刀要(にのたちいらず)。これが、天鳴流。
ならば此方も、空雲流の神髄を魅せよう。
空雲流は、応変の太刀。後の先を制するを以て、死線を制す。
心を研ぎ澄まし、木剣を青眼に構えた。
互いの集中が極限に達し、引き絞った弓の(つる)の様な緊張が二人の周囲に満ちた。
突然に、弦が弾かれた。
重兵衛が(おもむろ)に踏み込み、袈裟を仕掛ける。それを受け流そうと十蔵の剣が迎え撃った。
木剣がぶつかり合う、乾いた快音が境内に響く。
重兵衛の剣をいなした十蔵は、残心する重兵衛に返す刀を見舞った。が、強烈な剣を受けた反動で僅かに出足が鈍る。其の隙を逃さず構えを立て直した重兵衛が、きっちりと防御して間合いを取った。
そこからは、一進一退の緊迫した攻防が繰り広げられた。
居並ぶ見物客も皆、固唾(かたず)を飲んで見守っている。
重兵衛が踏み込む。十蔵が受ける。
一見すると十蔵は防戦一方である様だが、重兵衛が一撃の後を少しでも過てば、瞬時に勝負が着いてしまう。
其れ程に実力は伯仲していた。

もう、何合打ち合っただろう。完全に仕合は硬直していた。
蒼穹には、雲が紛れ始めている。
一陣の風が境内を吹き抜け、神木の枝に絡んで彼方へ去った。
風に流されたのか、太陽を雲が覆って、重兵衛の顔に影が差した。
不意に、重兵衛が八双の構えを解いて、だらりと下段に構えた。
そしてそのまま、ずかずかと真直ぐに距離を詰める。間合いもなにも無い、無作法極まりない動きであったが、十蔵はその意図を測りかねて動けずにいた。
隙だらけではないか。
撃てば何処をも撃てそうな気がした。しかし、それは凡て誘いで、実は隙など無いのではないか。
僅かな焦燥が、十蔵の心に生まれた。
その間も、重兵衛は間合いを詰めて来る。無表情な顔が、人ではない何かに見えた。
何だ、これは——。
と、瞬間、重兵衛の身体が消えた。
右だ。
重兵衛が左斜めに踏み込み、身体を沈めて一息に間合いを詰めたのだと、一瞬遅れて感じた。
反射的に斬り下げる。
木剣の軌跡を追った目が、重兵衛を捉えた。
二人の視線が交差する。
重兵衛の蝦蟇の様な顔が、猛り狂った仁王に見えた。
何だ、こいつは。
人ではない。
剣鬼か———。
背筋に冷たいものが奔るのと同時に、凄まじい衝撃を両手に感じた。
木剣が、弾かれ、飛ばされている。
あれは、俺の剣か。
不思議に緩慢(ゆっくり)と流れる視界の端に、姉の姿を、確かに見た。

今年の奉納仕合では、五つの仕合が戦われた。何れの仕合も甲乙つけ難い白熱ぶりで、大層な盛り上がりを見せた。
結果はと云うと、三対二で、山県道場が辛くも勝利を収める事となった。
「善く、頑張ったな。お前のお(かげ)で、うちが勝ち越せた様なものだ」
凡ての仕合が決着した後、山県豊己は十蔵の肩を抱いて云った。上機嫌に顔を綻ばせている。
「お前が剣を弾かれた時は、もう駄目かと思ったぞ。善く逆転出来たものだ。それより何より、その勝ち方に(おどろ)かされた。お前、あの技を何処で習った。あれは、空雲流の秘伝ではないか。荒削りではあったが、間違いなくそうだ」
ずらずらと山県の口から出る言葉を聞きながら、うんざりした様子で十蔵は(かぶり)を振った。肩を抱く太い腕が、鬱陶しい。
「誰に習った訳でもないのです。ただ、たまたま道場を覗いた時に、先生があの技を工夫しておられたので。見よう見まねで」
十蔵が居残りで稽古をした後、道場の中庭に在る井戸から汲んだ水で汗を拭っていると、無人である筈の道場から床を踏みしめる気配がしたのだった。
おや、自分の他に誰かいたのか。物盗りの類いではあるまいな。もしそうならば、打ち伏せて奉行所に突き出してくれよう。
そんな事を思いながら道場を覗いた十蔵が見たのは、徒手で何かの型を工夫する、山県豊己の姿であった。
はじめは、何をしているのか全く分からなかった。凝乎(じっと)見ていると、それが相手の勢いを利用して刀を絡めとる動きであると知れた。山県の動きに対して、明瞭(はっきり)と相手の姿が視えた。それだけ、山県の動きが実戦を想定した物であり、その力量が高い次元にあったと云う事だろう。
これは、空雲流の秘伝に違いない。
十蔵がそう確信するに足る程の迫力と異質さが、山県の動きには宿っていた。
「何だと。俺の動きを見て、自力で習得しただと」
十蔵の言を聞いて大声を上げたかと思うと、次にはううむと黙り込んでしまった。
そして、
「お前は、天才かもしれんな」
と、ぽつりと呟いた。
——天才、だと。
俺が天才ならば、あいつは何だ。
勝ってなどいない。
勝ってなど———。

「降参しろ」
重兵衛は低い声で十蔵に告げた。
十蔵の木剣を弾いた重兵衛の刀は、返す勢いを重兵衛の肩の上で辛うじて留めていた。
これが真剣での命の遣り取りであったならば、十蔵の身体は袈裟掛けに両断されている。
「断る。撃ち込むが善い。俺は、降参などせん」
殺せ、と云う様な気持ちだった。屈辱を抱えて生き恥を晒すくらいなら、此処で撃ち殺された方が遥かにましだ。
完膚無きまでの、負けだった。
「もう一度だけ云う。降参しろ、十蔵」
気安く俺の名を呼ぶな。
「断ると、云っている」
睨みつける。
十蔵が放った、殺気とも云える鋭い眼光を受け止めて尚、重兵衛の剣は身じろぎひとつ程の動揺も無く、その(きっさき)を空中に浮かべていた。
冷え切った大気に二人の呼気が白く、境内の神木が、僅かに残った枯葉を風にそよがせている。二人の間に張り詰めた緊張の糸が観客をも縛って、しんと静まり返った境内に、落ち葉が触れ合う音だけが騒がしい。
やがて、重兵衛はふうと溜息を吐いて、観念した様な表情になった。その顔が、(あたか)も十蔵を哀れんでいる様で、憎いやら情けないやら、(はらわた)の煮えくり返る思いがした。
()むを得まいな」
そう云うと、重兵衛は大きく剣を振りかぶった。
先程までの面影の欠片も無い、隙だらけの撃ち込みであった。
振り下ろされる木剣の柄に手を添え、身体を捻りながら剣を絡めとるのに、然程(さほど)の苦労も無かった。殆ど反射的に、身体が動いていた。
剣を絡めとられた重兵衛は、
「降参だ」
とあっけらかんと云い放ち、十蔵に向かって笑みを投げた。
昼下がりの日差しに照らされて、汗に濡れた額がてらてらと輝いていた。

——これが敗北でなくて、何だと云うのだ。
仕合には勝ったかも知れない。しかしそれは飽くまで形式で、十蔵にとって形骸にすら成り得なかった。
負けたのだ。
完全に。
思い返す度に、泣きたくなる。叫びたくなる。
それらの衝動を必死に堪えて、十蔵は唇を噛んだ。
血の味がした。
敗北の味だった。
——許せぬ。
憎しみを強くする一方で、十蔵の中に、重兵衛を認める気持ちが芽生えていた。
夕暮れに細くたなびく雲が茜色に染められて、見霽(みはる)かす空は何処までも深かった。

その夜、家に帰った重兵衛を姉の小夜は優しく迎えてくれた。
「遅かったわね」
山県豊己が、勝利祝いに奢ってやるからと、十蔵を散々に連れ回したのだった。山県の行きつけだと云う酒屋は確かに酒も肴も美味かったが、敗北に滲んだ十蔵の舌には響かなかった。
行灯を下げて(がまち)の上に佇む姉の顔を見ようとして、已めた。
どんな顔をすれば善いのか、分からなかった。負けた男の顔なぞ、河原には映えても愛しい人に見せるものではないと思った。
俯いたまま雪駄を解き、姉の横をすり抜けて自室に向かう十蔵の背を追って、声が滑って来た。
「格好善かったわよ。おめでとう」
自室に入ると、姉が(しつら)えたのであろう寝具に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
姉の世辞が、苦しかった。
剣を弾き飛ばされた瞬間、ごく緩慢と流れる視界の端で捉えた姉の顔には、愕きと、喜色が浮かんでいた。
今でも目の前で見るかの様に、明瞭と思い出せる。
姉の顔は、女の顔だった。十蔵の前では見せた事の無い顔だ。
——つまり、姉は自分を応援しに来たのではなく、重兵衛の仕合を観に来ていて、そして重兵衛の勝利をこそ願っていたのだと、そう悟った時、どう仕様も無く涙が溢れた。
凡てに於いて、何もかも、完膚無きまでに負けた。
屈辱と、憎悪と、怒りと、(ねた)み、(そね)み。何もかもの感情が坩堝(るつぼ)の中で掻き回されて、殺意すらもが両の眼から流れて消え行く感覚を、十蔵は頬で感じていた。
声だけは出すまいと、唇を噛んだ。
血の、味がした。

翌朝、十蔵は松風道場に脚を運んだ。
無論、昨日の仕合での手抜きを問い(ただ)す為である。
鶴岡城下は北峰より流れる河に両断されているが、松風道場と山県道場は河を挟んで町の反対側に居を構えている。十蔵の家は山県道場の側に有るから、松風道場に向かうには川沿いの大通りに出てから南へ下り、橋を渡らねばならない。
気持ち善く晴れた蒼穹が、師走の城下を覆って広がっていた。
いよいよ年の瀬が迫り、町は冷え込みにもめげずに賑わいを見せている。往来にも人が多く、十蔵が歩くと道行く人の何人かが擦れ違い様に振り向き声を投げかけて来た。
——おう、山県の天才剣士だ。
——格好よかったわ、お侍さま。
——俺にもあの技を教えてくれないか。
等々、それら賞賛の言葉を受ける度、十蔵の心は劣等感に沈んだ。
(誰も彼も、何一つ分かっちゃいない)
(いや、さては、凡てを承知した上で、あの様に歯の浮く世辞を云っているのではないか)
(だとしたら何と云う奴らだ。それでも人か)
(——何だ。この醜い心は。人でないのは、俺の方だ)
松風道場が近付く程に十蔵の心は深く沈み、それとは対照的に、重兵衛への憤りが燃え上がった。

やがて、十蔵の脚が止まった。
松風道場の門前である。道場は静まり返っている。無人だろうか。善く耳を澄ますと、微かに人の気配がする。思い切って、門扉(もんぴ)を叩いて声を張った。
(たれ)か、おらぬか。鈴谷重兵衛に用が有って参った。山県道場の伊東である。誰かおらぬか。誰か———」
名乗りを上げた辺りで、不意に道場から騒がしい足音が聴こえたと思いきや、言い終わる前には門が開いた。
中から顔を覗かせたのは、他でも無い、鈴谷重兵衛自身であった。
「どうしたのだ、突然」
慌てた様子で、重兵衛が訊ねた。
「義兄上に、どうしても伺いたい事が有り参りました。恐らく、此処だろうと思いまして」
「それなら、夜まで待って家に来れば善いではないか。何故わざわざ道場に。我々は宿敵とも云える間柄なのだ。他の門弟に見られればひと騒動起こる」
そう云われて、十蔵は重兵衛が慌てた訳を理解した。普通ならば直ぐに考えが至る程に当たり前の事であるが、この時の十蔵にはそこまで気を回す余裕が無かった。
「まあ、兎に角、裏口に回って少し待っておれ。目立たぬ様にな。俺は着替えて来る。場所を移そう」
そう告げて、重兵衛は奥に引っ込んだ。道場に面した通りから脇の小道に入り、云われた通りに裏口で待っていると、僅かの時を経て重兵衛が現れた。
「待たせたな。では、少し歩こうか。茶屋などに入れば昨日の今日だ。人目を集めて仕方が無かろう」
そう云って、重兵衛は裏口から伸びる小径(こみち)を歩き出した。その後を追って、十蔵も脚を進める。
小径を歩く間、ふたりは無言であった。空には、ふたりの後を追う様にして雲が流れていたが、直ぐにふたりを追い越して小さくなった。
痺れを切らせて、重兵衛が声を上げた。
「それで、訊きたい事とは何なのだ。そろそろ話してくれても善かろう」
小径はいつの間にか径とは呼べぬものになっており、人影はふたり以外に見当たらない。
満を持して、十蔵は問いかけた。重兵衛を責める様な、刺の有る声音である。
「何故、手を抜いたのです」
「手を?」
「昨日の仕合、最後の撃ち込み。あれは何なのです。手を抜いたとしか思えない。わざと負けて、私に華を持たせたつもりですか。莫迦に、莫迦にするな」
最後は殆ど叫ぶ様にして、重兵衛を責め立てた。
十蔵の叫びを受けて、愕きを顔面に貼付けたまま数度、小さな眼を瞬きさせると、目を閉じて、ふう、と息を吐いた。次に目を開いたとき、そこに愕きの色は無く、ただ諭す様な光を湛えていた。
「実は、小夜に頼まれてな」
重兵衛の口から出たのは、十蔵にとって思いも依らぬ名前であった。
「姉、上が——?」
「そうだ。小夜は、仕合に出るお前の身を、大層案じていた。訊くと、幼い頃に見物した奉納仕合で、人死にが有ったそうだ。その時の光景が脳裏に焼き付いていて、それが十蔵に重なるのだと、夢に見るのだと、はらはらと涙を(こぼ)していた」
自分の身を案じて涙を流す姉を思い浮かべるだに、十蔵の心中には情けない思いが湧いた。
姉が俺の身を案じていた頃、俺は何を考えていた———。
あの頃の燃える様な殺意が、急におぞましく、醜いものに思えた。
「弟は、あなたの事を憎む程に嫌っていますと、明瞭(はっきり)云われたよ」
茫然とする十蔵に構わず、重兵衛は話を続けた。
「けれど、それでもどうか、弟と()しも仕合をする事になったら。勝ち負けなど如何でも善いのです。ただ、無事に仕合を終えては下さいませんかと、そう涙声で叫びながら、額を地面にこすりつけていたよ」
意地も何もかもをかなぐり捨て、ただ十蔵を案じる一心で嘆願する姉の姿が、脳裏に映った。土に汚れるのも構わず、冷たい地面にひれ伏して(ぬか)突く姉は、今までのどんな姿よりも美しく——。
自身の目から涙が溢れている事に、十蔵は漸く気が付いた。
流れる視界の端、喜色を浮かべた姉の顔は、十蔵の無事に歓び、緊張から解き放たれた表情だったのだ———。
右手で眼を擦った。(はな)が垂れている。思い切り(すす)ると、冬のつんとした匂いがした。
「必殺の技を繰り出して、巧くお前の剣を弾き飛ばした時は、ほっとした。小夜との約束を、完全な形で守れるとな。しかし」
そこまで云うと、重兵衛は苦笑しながら、十蔵を横目で見遣った。
「真逆、あの状況で負けを認めないとは。見上げた根性だ。お前の剣を弾いたあの技は、その名を蝦蟇跳(がまば)ねと云ってな。上背(うわぜい)の不利を克服する為に、俺が必死で工夫した秘剣だ。本来なら返す刀で袈裟に両断する技だが、それを寸止めされて、闘志が萎えないとはな」
饒舌に語る十蔵の声を、目を腫らしながら聴いていた。初めて声を聞いた時は、重苦しく這う不快な声だと思ったが、今はその面影も無い。心地好く響き、地面に沁みる様だ。
「けれどあの時は俺も、勝負で昂奮していてな。厭でも参ったと云わせてやろうと思った。天鳴流が神髄たる上段で肝を抜いてやろうと、最後の撃ち込みをやったのだ。寸止めをするつもりでな。そうしたら、それが善くなかった。自分が降参する羽目になるとは」
そう云うと、細い目を益々細くして、重兵衛はからからと笑った。
嘘だ、と十蔵は思ったが、そこに嫌みな感情は無く、重兵衛の優しさを親身に感じていた。
重兵衛の中には、誰よりも純粋に(きら)めく炎が(とも)っているのだと、十蔵は思った。
この男になら、姉を———。
春は未だ見えない。しかし、土ぼこりを巻き上げてふたりの裾を(さら)って過ぎた風の中に、微かに春の香を嗅いだ気がして、十蔵は空を見上げた。
澄み切った冬の空が、どこまでも深く広がっていた。
不思議な清々しさを抱えて、十蔵は重兵衛に別れを告げた。
太陽の光が少しだけ柔らかで、それが春の気配を僅かに漂わせて十蔵を包んでいるのだと思った。

幕間—壱—

小夜は、笑顔の素敵な女だった。
磊落(らいらく)にからからと笑う訳ではない。鼻につく高飛車な笑いをする訳でもない。
ただ、春の宵のそよ風の様な柔らかな微笑を、いつも口元と目尻に浮かべていた。
そんな小夜の笑顔が、堪らなく愛おしかった。
春が直ぐそこに迫った、晩冬の日である。雨が降る度に気温が上がり、春が一歩一歩と近付く季節。この日もまた、鶴岡城下は、春を呼ぶ冷たい雨に濡れそぼっていた。
いつもの柔らかな笑顔を曇らせて、涙まで浮かべた小夜が、家に訊ねて来た。
「重兵衛さま」
細い、今にもこの場から消えてしまいそうな程に細い、声だった。
軒先に立った小夜の髪はざんばらに乱れて、着物の襟が緩んでいる。肩を上下させ、しかし乱れた息を必死に隠そうとする仕草が、妙に女らしかった。目に掛かった前髪の下から、濡れた瞳がこちらをのぞんでいる。
どきり、とした。
不謹慎だと頭の片隅で考えながらも、見蕩(みと)れずにはいられなかった。手折られる前の、儚く咲き誇るのばらの様だと思った。
「重兵衛さま」
二度目の呼びかけで、重兵衛は漸く自我を取り戻した、小夜がこれほどに追い詰められるのは尋常でない。冷静になるにつれ、先程までの自分を恥じ、悔いた。
「どうした。何が有ったのだ」
取り敢えずはそう問いかけてみたものの、小夜は目を逸らし俯いてしまった。
「そうだな、家に、上がるか。春が近いとはいえ、まだ寒かろう。茶でも淹れよう。まあ、上がれ――」
と云いながら、小夜の手を引いた。しかし小夜は動かずに、握る手に力を込めた。愕く程強い力が込められた指先は、はっとする程、冷たかった。
「お殿様が」
手の力とは対照的に、弱々しい声だった。
小夜の発した第一声は、小夜の心中を重兵衛に伝染させるのに十分な力を持っていた。
鶴岡藩城主、酒井摂津守永隆(さかいせっつのかみながたか)は大層な女好きであった。その好色振りは、藩内に知らぬ者は無い程である。
「お殿様が、私を」
その好色家の殿が、小夜に目を留めた。
潤んだ瞳に吸い込まれる様にして、重兵衛の心は小夜と同じ絶望に至った。
気持ちを共有した事が知れたのか、視線を斜め下に滑らせながら、小夜が身体を預けて来た。
いけない。
そう思って腕に力を込めようとしたが、(ふる)えてままならない。
突き放そうとした腕は、胸の中で顫える小夜の体温を感じて、思わず小夜を抱き締めた。雨に濡れた冷たさの中に、小夜の柔らかな温度を、確かに感じた。
「逃げようか」
小夜を抱きとめたままぽつりと呟いた言葉が、妙にしっくりと腑に落ちた。
「はい」
(かす)れる程の、しかし芯の通った声で、小夜が応じた。
雨は尚も降り続き、春を呼んでいる。
雨が地面を叩き、城下に響く春の足音が、抗えない運命を運んで来る。喜ばしい筈のその音が、今は昏い調べに聴こえる。
愛しい人の体温を確かめる様に、小夜を抱く腕に力を込めた。
いつの間にか、小夜の身体の顫えは止まっていた。

梅の花が開き、(うぐいす)が春の訪れを告げている。冷たい風の中に半分程温かな空気を混ぜて御山から吹き下ろす風が、城下に(ひし)めく長屋の間を縫い、平原を駆け去って行く。
長い冬の終わりを感じて、街全体が活気付いている。道には珍しい品を揃えた行商人と、それを待ち侘びていた買い物客が溢れ、誰かの肩にぶつからなければ、一歩も先に進めない程の混雑振りである。
往来に湧いた雑踏は、正しく春である。桜には未だ早いが、蕾は膨らんで来ていた。もう間も無く、薄桃色の花弁が枝を埋め尽くし、風に吹かれて舞う桜吹雪が盃に迷い込み酔いを彩る季節になる。
期待が膨れ上がる城下の様子とは裏腹に、十蔵の心は昏く沈んでいた。いや、十蔵だけではない。父も、母も。裁きを待つ罪人の様に(こうべ)を垂れ、言葉のひとつも発しない日々が続いていた。
小夜が、許嫁の重兵衛と逐電(ちくてん)したのだ。元許嫁と云うべきか。
小夜は、去る如月の下旬、鶴岡藩城主である酒井摂津守永隆に見初められた。
好色家の摂津守にとって、許嫁である事など関係ない。要は、見目の美しい生娘でありさえすれば善いのだ。
摂津守の使いと申す者が小夜を入内(じゅだい)させたい旨を申し伝えた時、両親は大層に愕き平伏した。身分を越えて側室に召し上げられるなど願っても無い事であり、断る理由は何一つ無かったし、断れる訳も無かった。それに、摂津守には子が居ない。小夜が殿の御子を孕めば、十蔵の家は城主の実家である。断る理由など何も無いのだ。
当然、重兵衛との婚約は解消される。十蔵にとっては願っても無い事態だった筈だが、重兵衛との婚約をやっとの思いで受け入れた矢先だったから、少し複雑な思いがした。
両親は浮かれ、十蔵は自身の心を持て余し、小夜の笑顔に落ちた陰に気付く者は無かった。
そして数日前の、弥生の朔日(ついたち)。雨が振り、冷え込みの激しい日だった。
重兵衛はその日、夢を見た。
淫らな夢だった。
仰向けに横たわっている十蔵に姉が覆い被さり、腰を振っていた。姉の、白く豊かな乳房が目の前で揺れているのを、茫然と眺めていると、強烈な波が押し寄せて来るのを感じた。
憧れて諦めた、あの姉の。
小夜の中に、(したた)かに精を放った。
夢から目を醒ますと、いつもと変わらぬ朝だった。
ただひとつ、小夜の姿が見えない事意外は、何も変わらぬ。
布団から身を起こしたままの恰好で、雨が地面を叩く音が喧しいなと、思った。
雨の音に紛れて、小夜と重兵衛が、忽然(こつぜん)と姿を消していた。

脱藩は、死罪である。直ぐに追手が出された。しかも今回に限っては、摂津守が怒り狂っているそうだから、累は十蔵達にも及ぶだろう。
だから両親はふたりして頭を地面に擦り付けて土下座し、小夜は(かどわ)かされたのだと、必死の言訳をした。両親の後ろで弁明を聞きながら頭を下げていた十蔵は、父の言葉に決定的な違和感を覚えていた。
嘆願を聞き入れてくれる筈も無く、無下に追い返され、城から下る道すがら、十蔵は違和感の正体に思い当たった。
十蔵の目を真直ぐに見て、からからと笑う重兵衛の顔を思い浮かべて、
(重兵衛は、そんな男では無い)
と、はっきりと思った。婚約の破棄に怒り狂って、姉を攫って姿を消す様な野蛮で不誠実な行動は、十蔵が感じた彼の為人(ひととなり)からはかけ離れていた。
家に帰り着いてからもずっと、逐電の真相を考え続けた。
——おそらく、きっと、姉が(そそのか)したのだ。
それ程までに、入内するのが厭だったのだろうか。
それ程までに、重兵衛を愛していたのだろうか。
ふと、夢に見た姉の裸体が脳裏に蘇った。それは現実と紛うばかりの生々しさを以て、十蔵の心に火を点けた。
——(ゆる)せぬ。
愛した女に唆されたからと云って、すんなりと受け入れた重兵衛が赦せなかった。
姉を思えばこそ、逃げずに説得して然るべきではないのか。
自身の想いは遂げられずとも、愛する人の願いは失われようとも、それでもただ、生きてさえいてくれればそれで善いと、何故思えないのだ。
———蝦蟇め。
瞬間に燃え上がった十蔵の怒りは、しかし門を叩く人の大音声(だいおんじょう)で掻き消された。
弾かれる様に立ち上がった父が、門に向かって駆ける。
母も覚束無い足取りで、門へ向かって歩き出した。
「母上」
そばに駆け寄り、母を支えて門へ向かう。
玄関を抜けると、父が何やら役人と話をしていた。威丈高に言い放つ、善く通る役人の声が、十蔵の耳に届いた。
——鈴谷重兵衛、伊東小夜の両人を御山の麓にある小屋にて発見し(そうろう)。包囲捕縛のうえ、お上の裁きを与えんとするも、厳なる抵抗を示し候えば、討手を数多斬殺の上、鈴谷重兵衛は遁走し候。小屋に踏み入りて見れば、伊東小夜の遺体を発見し候。傍に血に濡れし脇差しが落ちて候。重兵衛の凶刃に掛かったと見受け候。運び来た故、遺体をあらため願えるか———。
肩に抱いていた母の腕が、十蔵の支えをすり抜けて、地面に(くずお)れるのを感じた。
高々と言い放った男の指図で、戸板に乗せられ、(むしろ)に包まれた何かが、玄関から庭に運び込まれた。
地面に降ろされた「それ」に()かれた筵を、役人の手が剥いだ。
蒼白に透き通った無機質な姉の顔が、小春の陽を受けて輝いていた。
噎び泣く母の声が、遠くで響いている。

幕間—弐—

小夜と、二人で逃げた。
行く宛てなど有る筈も無く、只なんと無く、御山を目指した。
遠く、屏風の様に展開した御山の肌には、白く雪化粧が輝いて、見霽(みはる)かす二人の目を眩しげに細めさしめた。
———これから、どうなるのだろう。
逃避行の行き着く先は、薄々に知れていた。藩の追手から逃れ得るとは思えなかった。果てに絶命が待つと当然の様に自覚しているこの道を、何故歩む気になったのだろう。
御山を眺めていた目を横に滑らせて、小夜を見た。
見惚れる様にして、凝乎(じっと)、御山をのぞんでいる。雨の日に震えていた蒼白な表情は失せ、頬には決意の桃色が透けて、何とも鮮明だった。重兵衛の視線に気づいたのか、こちらを振り向いてにっこりと、小さな唇を押し上げて悲壮を漂わせた。
思わず、目を逸らした。直視出来なかった。
その顔に浮かんだ悲劇の(いろ)を、現実のものにしてはならぬと思った。
何を引き換えにしても、守ると、誓った。
御山の肌を彩る雪が、陽の光を受けて綺羅めいていた。
「行こうか」
顔を上げ、御山を真っ直ぐに見詰めて、云った。
「はい」
静かに響く小夜の声が、小春日和の大気に揺れて消えた。

御山の麓に、朽ちかけた山小屋を見付けたのは、城下を出てから三日後の事だった。
それまでは、夜になれば身を寄せ合い、洞穴や、重兵衛が土を掻いて作った穴で夜を過ごした。春が直ぐそこに迫っているとは云え、鶴岡平原の夜は厳しく冷え込む。寒さを肌の温もりで少しでも和らげようと、互いに互いを腕に抱いて、眠った。
重兵衛が(こしら)えた、ちょうど人二人が横になれる程の細長い窪みの中で、仰向けに寝転がって夜空を見上げると、天の空気は未だ冬の中にあった。澄み切った夜空に星々が騒いでいる。
自由だな、と重兵衛は思った。
天は、自由だ。
自由であるが故に、縛られている。日月星辰(じつげつせいしん)に身を委ね、(あら)ゆる(しがらみ)に囚われている、人と云う存在の方が、余程に自由なのではないか。
存在自体が自由であるならば、そこに夢は無い。希望も、何も存在しない。
それは屹度(きっと)、虚無に他ならない。
だからこそ、人は縛られるのだと、自由に縛り付けられて身動き一つ取れない夜空を見上げて、重兵衛は思案した。
不自由の中に解放を求め、理想を求めて夢を抱くその精神こそ、人である。
それでこそ、人だ。
———ならば、今の俺は。
俺は、人でいられているか。
現実と理想の狭間で苦悩し、それでも生を邁進するものが人ならば、生を諦め、死が約束された逃避行に身を投じている、俺は、小夜は。
その時、小夜が、ぽつりと、名前を呟いた。寝言だろうか。
夜空の星々を自由の鎖から解き放つ様に、小夜の声が大気に溶けた。
弟の名を呼んだ小夜を見て、重兵衛はもう一つの定義を得た。
———何も、自分の夢だけが、夢では無い。
人は、自分以外のために生きる事が出来る唯一の存在なのだと、悟った。
小夜の願いを己の夢として命を賭そうと、重兵衛は誓った。
それにしても———。
歪んでいるな、と思った。この姉弟も、そうだからこそ小夜に惹かれている、自分も。
歪みはしかし、星屑の輝きを捻じ曲げるには至らずに、透き通って重兵衛の心を満たしていた。
急に寒さが身にしみ、身震いを一つして、温もりを求めて小夜を抱きしめた。
小夜の体温を腕の中に感じながら、僅かの間、微睡んだ。

幕間—参—

張り詰めた緊張を感じて、未明に目を覚ました。
空は薄っすらと白み始め、宵の漆黒が陽光と混ざって濃紺に空を染めている。
来たるべき刻が来たのだな、と重兵衛は感じた。
「小夜、小夜」
声を潜めて、小夜の体を揺すった。目を開けた小夜は、重兵衛の切迫した様子を見るや、夢見心地への未練をきっぱりと断ち切って精悍な表情になった。
「来たのですね」
声が僅かに顫えている。死を間近に感じて、怯えているのか。
「うむ。恐らく、囲まれている」
そう云うと、小夜の目を見据えて、決意を込めて、
「いいか、小夜。此れから俺の云うことを善く聞いてくれ。疑問の余地はない。反論は許さん」
すると小夜は、華奢な顎を引いて、こくりと頷いた。
「今から、お前を縛り上げる。それから、俺は外の討手(うって)に対して打って出る。まず助かるまい。しかし、それで善いのだ。俺は脱藩者としてここで斬られる。その俺に凡ての罪を被せろ。死人に口無しだ。お前が言い張れば、誰も疑うまい。いいか、この小屋に役人が踏み込んできたら、俺に(かどわ)かされたのだと言え。涙も流せ。必死で流せ」
重兵衛の言葉を聞くにつれ、はじめ死の覚悟に染まっていた小夜の瞳が、諦めの感情を見せはじめた。
「よし、縛るぞ」
そう云うと、小夜の着物の帯を解いて、手を前にして縛った。更に自身の袖を裂き、猿轡(さるぐつわ)にして小夜に噛ませた。
準備を終える頃には、小屋を囲む気配は益々濃厚に周囲を満たしていた。
刀を抜いて、扉に手をかけた。一呼吸吐いて、一気に引く。
払暁の光が、死地に向かう重兵衛を照らした。
「では、行ってくる。達者でな、小夜———」
そう云いながら、小夜を顧みた。
逆光に顔を黒く染めた重兵衛の目に、在り得ない光景が映った。
「何を、している」
小夜が、脇差を握っている。縛られた手で、器用に。あれは、俺の脇差ではないか。
床に座った格好のまま、(きっさき)で、頬ごと猿轡を裂いて、
「私は、生きることを許されません」
と、重兵衛を見つめて、云った。
裂けた頬から血が滴り、小夜の膝を紅く染めている。
「何を」
何を、云っている。
「私は、不貞を行いました」
淡々とした口調で、小夜は告げた。
「私は、十蔵を、実の弟を、愛しています。家族としてでは無く、一人の、男として」
そんな事は重兵衛も承知していた。そしてだからこそ、小夜を生きて帰そうと思ったのだ。
「私は、人の道を踏み外しました」
違う。人には決められた道など無い。何も許されず、何もかもを許されているからこそ、人なのだ。
「叶わぬ恋だと知っていたから、貴方に嫁ぐ事を決意しました。私は卑しい女です。貴方ならば、騙し(おお)せると、そう思いました。貴方の(もと)であれば、これから先も重兵衛の顔を見る事が出来ると、打算しました」
そこまで承知した上で、それでも俺は、そんな小夜に焦がれていた。
「ですが、入内してはそれも叶いません。だから———」
小夜の手が、脇差を固く握り締め、その鋒を左の首筋にあてた。
やめろ、やめてくれ。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい。こんな女に惚れさせてしまって、ごめんなさい」
小夜の切れ長で涼しげな瞳が潤み、眼窩に溜まった大粒の涙が、(つい)(こぼ)れた。
重兵衛の足は、思いに反して動かない。目の前の景色が、小夜の表情が、姿が、余りに美しく、神々しさすら伴って重兵衛を圧倒していた。
「ごめんなさい。一番では無いけれど、貴方を愛していました。だから、どうか、生きて。私の愛した二人共が、生きている事こそが、私の願いです」
そう云い切ると、首筋にあてた刃を、一息に引き斬った。
その瞬間、重兵衛は、足を、声帯を縛り付けていた何か得体の知れない力から解き放たれた。
真っ赤な花弁が、小屋の中に舞った。
声が、割れた。
自分が何を叫んでいるのか、分からなかった。声に成らない叫びを振りまきながら刀を投げ捨て、小夜の許に駆け寄り抱き寄せた。首から鮮血が吹き出し、十蔵の着物に染み込んだ。小夜の命の温もりが重兵衛を束の間温めて、直ぐに冷めた。
顔も、手も、体も、何もかもが血塗れに濡れた重兵衛の眼から、温かいものが止め処なく溢れた。
その温かさは、小夜の命と、善く似ていた。
腕の中で冷たくなる小夜を感じながら、重兵衛は、
(十蔵に、累が及んではならぬ)
と思った。その為には、当初の予定通りに、重兵衛自身が凡ての罪を被る必要が有った。
やがて、小夜の体がすっかり冷たくなる頃、十蔵は打刀を手に取り、表へ出た。
小屋を囲む討手は、その姿が明瞭(はっきり)と見える程に、包囲の網を狭めていた。
正面に構えた武士を睨みつけて、殊更(ことさら)に狂った様子で重兵衛は声を張った。
「殿の惚れた女は殺してくれた!ざまあ無い。人の女を横取りしようとするからだ。泣き喚いて嘆願したが、首を裂くと絶望して俺を睨みつけながら死んでいったよ。くはは、ざまあみろ!」
小夜の最期の、重兵衛を(いた)わるようにして口の端を上げた、柔らかに体を包み通りすぎる春風のような笑顔が、脳裏を(よぎ)った。
「どうした。俺を殺してみろ。俺は、次には摂津守を殺しに行くぞ。どうした!」
声が震えるのを必死に押し殺して、絶叫した。重兵衛の言葉を受けて、討手共が喊声(かんせい)を上げて走り出した。
重兵衛が、剣を八双に構えた。
包囲の輪の中、正面の一人が突出している。重兵衛の刃圏の僅かに外。閃光の様な踏み込みで一気に間合いを詰めた重兵衛が、上段から繰り出される袈裟で以って両断した。
休む間も無く、右からの圧を感じた。反射的に体を捻り受け流すと、逆袈裟に薙いだ。
崩れ落ちる討手の返り血を浴びながら、刀を逆手に持ち替えて背後を突いた。ずぶりと肉を抜ける感触がした。
剣を引き抜き体を反転し、地面を蹴って跳ねると背後に迫っていた討手を斬り捨てた。
瞬く間に四人が斬られ、血に塗れた鬼神を目の当たりにした討手が、僅かにたじろいだ。
その隙を逃さず、駆けた。
包囲の輪をいとも容易く破って逃げる十蔵を見て、討手達も掛け出した。
追いすがる者を一人、二人と斬りながら、命の限りに駆けた。
討手を()いて、山中の岩の陰に一息を吐いた頃には、既に日が傾いていた。
陰になっている山間は冷えが早く、傍に居ない小夜の体温がそれを益々厳しいものにした。
息が白く、大気に舞った。白さの中に、一瞬、小夜を見た気がした。
呼気が薄れて散った後には、重兵衛が座り込んでいるだけだった。
虚しさが込み上げて来たが、涙は出なかった。
また一つ、白く息を吐いた。
もう、小夜の面影は見えなかった。

伊藤十蔵は、庭で剣を(ふる)っている。(くう)を割く甲高い音が、閉ざされた門に跳ね返って十蔵の鼓膜を叩いた。
小夜の遺体がその眼に焼き付いてから、二日が経っていた。十蔵の(まぶた)には、今もありありと小夜の顔が映っていて、目を閉じる度に肺腑の奥が千々に裂けてしまいそうな思いがする。
小夜の葬儀は、行わなかった。人目を(はばか)っての事だ。墓標を立て、そこに経を備えるだけで、それを弔いの凡てとした。家中は未だ喪に服している。
静まり返った家の庭で、剣を構えて佇立(ちょりつ)している。
小夜の決死は、徒花(あだばな)だったのだろうか。瞬きをすると、その都度に小夜の顔がちらついた。小夜の影を振り切る為か、はたまた仇を討つ為か、そのどちらであるのか、どちらでもないのか、十蔵自身にすら判然とせずに脳漿(のうしょう)を掻き回された侭、ただ剣を揮っていた。
日が昇る前から剣を()り、汗でしとどに濡れた頃、巳の上刻に、十蔵の家の門を何者かが(たた)いた。
門を開けると、(かみしも)に身を包んだ二本差しの武士が、四角い顔を強張らせて立っていた。
(嗚呼、とうとう沙汰が下るのだ)
と、門を開けた十蔵を始め、音に釣られて軒先から覗いていた両親、果ては隣家の細君まで、同じ事を考えた。
しかし、何も喪中に知らせる事もないのではないか、等と、半ば諦めの感情で不平を思っていた時、遣いの武士が口を開いて重々しい声音で大気を振動させた。
武士は、
「山県道場に参られよ。これは上命である」
と云う。
十蔵にはその意味が全く分からなかった。拐かされたとは云え、小夜の件で摂津守の逆鱗に触れた事に疑い様は無く、相応の罰を下されるものと思っていた。それが、何故ここで、山県道場の名前が出るのだ。
「伊東十蔵、聞いているのか。これは、上命である。下服(かふく)致せ」
「は、謹んで承知致しました」
十蔵が慇懃(いんぎん)に頭を下げると、()は、ふん、と鼻を鳴らして、
「これは格別の沙汰である。お上の温情に恐懼(きょうく)せよ」
と居丈高に述べて、奥に居並ぶ両親の顔をじろりと()めつけてから去って行った。
鼻持ちならぬ奴ではあったが、兎にも角にも、下知は遂げねばなるまい。
「父上、母上。左様の通りで御座います故、(それがし)は道場に参りまする」
一瞥もくれずに云い捨てると、一度部屋に戻って身形(みなり)を改めた。大小を腰に差すと、さっさと家を出た。
遥か御山を見遣ると、向こう側に重く雲が垂れ込めているのが見えた。この時期に御山の彼方に雲が有ると、次の日には決まって天気が荒れた。
(明日は、雨だろうか)
天も泣くのだな、と、姉を(しの)んで思った。

道場に着くと、山県豊己が剣を構えて何かの型を工夫していた。上段に構えた剣は、雷鳴の如き鋭さで振り下ろされたかと思うと、振り切る直前、柄を前に押し出す様にして、刀身の中ほどを中心に回転した。十蔵が見た事もない型である。何を想定したものであるのか、その時は少しも見当が付かなかった。十蔵が見ている間、山県豊己は数度その型を繰り返し、ふう、と一息を()いた。そして漸く、道場の口に立っている十蔵に気がついた。
「おう、来たか。大変な時に、すまぬな」
簡単に労わりの言葉を述べたが、そこに実は感じられない。この男の言は、いつもこうだ。何かが、欠落している。
「大丈夫か。顔色が悪いぞ」
大股で十蔵に近付いて、顔を覗き込む。汗の臭いが、鼻を突いた。
「お気遣いめされますな。問題ありません」
十蔵の虚勢を受けて、ふうんと鼻を鳴らすと、
「そうか」
と云って、庭の井戸で水を汲み汗を流し始めた。
(ぼんやり)とした頭で、ここに来た目的を考えた。
「先生。今日ここへ参ったのは———」
「摂津守からの下知だろう?」
十蔵の言を遮って、体を拭いながら山県は云った。
何故、と云う風情で呆気にとられている十蔵とは裏腹に、さも当然な様子である。
「俺が摂津守に云って、呼ばせたのだ」
———山県豊己と酒井摂津守永隆の仲は、山県道場に通うものなら誰でも知っている。元々は、摂津守の剣術指南を山県の父が請け負っていたのだが、その父が急逝し、()む無く息子の山県豊己が後を引き継いだ。年の程も近い二人はやがて意気投合し、身分を越えて竹馬の友となったと、重兵衛はそう聞いている。庶民の間に広がるこの手の噂は、多少真実に通じる部分は有れど、道場の箔付けと摂津守の人柄を喧伝(けんでん)する為の戯言(ざれごと)だと思っていたのだが———。
「俺の口から伝えた方が善かろうと思ってな」
如何にも勿体振ってそう云うと、汗を拭っていた手ぬぐいを振って、ついてこい、と云う様なそぶりで家に向けて歩き始めた。山県道場の側には、隣接して山県家の屋敷が建っている。
屋敷にあがると、廊下を真直ぐに奥まで突っ切って、山県豊己の自室に通された。部屋に入るや否や、どっかと腰を降ろして、正対する座を十蔵に勧めた。
「まあ、座れ」
山県の屋敷に上がるのは初めてである。奉納試合の出場を告げられた時は、道場だった。僅かに緊張しつつ、座に着いた。十蔵が座ったのを見ると、口の端を僅かに(ゆが)めて、話し始めた。昼だと云うのに部屋は薄暗く、醸し出された口元の陰翳(いんえい)が友好であるのか嘲笑であるのか、十蔵には判断が付かなかった。
「お前は、奴が憎いか」
歪みを点したまま、如何にも恩着せがましい様子で、云った。
「奴、とは」
「決まっているだろう。お前の姉を殺した、鈴谷重兵衛と云う男の事だよ」
重兵衛の名を聞いた時、蝦蟇の面と、次いで小夜の顔が脳裏に過った。一瞬心が波立ったが、直ぐに落ち着き、冷静さを回復した。
十蔵の無表情をどの様に受け取ったのか、山県豊己は嬉々として話を続けた。
「お前に、仇討ちの機会をやろう。尋常の果し合いをと、俺から摂津守に申し入れておいた」
口の端を益々に歪めて、こちらを見ている。
「奴の居所は掴めている。と云っても、捕捉したのは昨夜の未明だがな。次は———」
蛇の様な、(いや)らしい笑みを浮かべて、細く捻じ曲がった口を()くと、
「次は、失敗(しくじ)るなよ」
と云った。
———次?
はっとして、思わず目を(みは)った。
「奉納試合では、折角機会を与えてやったと云うのに。無様に負けおったな」
この、男は。
(気付いていたのだ)
十蔵の殺意に。
「全く、あの重兵衛とか云う男には腹が立つ。あの様な無様な(なり)で、小夜殿の婿になろうなどと」
十蔵はこの時初めて、この男の本質に触れた気がした。普段は快活に振る舞う山県豊己の瞳に、昏く(ねた)みの炎が燃えているのを、確かに見た。
「小夜殿も、何故あんな男で善しとしたのだ。憎々しい」
重兵衛に対して妬み(そね)みを余すところなくぶち撒ける山県豊己を見ながら、そこに(かつ)ての自分を重ねた。
(何と、醜い心だ)
半ば呆然として、山県豊己の口から出る罵詈雑言を聞いていると、昂奮しきった彼の口から、聞き捨てならぬ言葉が出た。
「俺の手に入らぬのなら。奴の手に落ちるくらいならと思ってな。絶世の美女が城下にいると、摂津守に耳打ちしてやったのだ」
何を。こいつは、何を云っている。
「摂津守の側室に入り、奴が飽きたらば、俺にもお(こぼ)れが有るかもしれんだろう?」
———腐っている。心の中心が、腐敗してぐずぐずに()えて、面構えに悪臭が滲んでいた。
「嗚呼、小夜の蕾は、どの様な味がしたのだろうな。実に、惜しい」
———屑め。瞬間に、十蔵の内側が煮立った。正座していた体制から跳ねて、抜き打ちに目の前の汚物を斬り捨てた。
が、気付いた時、刀は十蔵の手に無く、正対する山県豊己の手に握られていた。
「何を、している。揮う相手を間違えているぞ」
酷薄な表情で、十蔵を見ている。
「お前が盗んだ空雲流の秘伝はな、突き詰めればこの領域まで達するのだ」
実力の差を目の当たりにされ、生殺与奪を握られた十蔵は、それでも尚、怒りを目に燃え上がらせて、山県豊己を(にら)みつけた。
「何だ、その目は。…まあ善い。この無礼は不問としてやろう。今度こそ、重兵衛を仕留めろよ」
そう云うと、十蔵に近づいて、肩を二、三度叩くと、刀を無造作に捨て部屋を出て行った。
刀を拾って、背後から仕掛けようかと逡巡すると、僅かに膨れた殺気を感じてか、山県豊己が振り向き、
「次は無いぞ」
と云った。絶妙の間であった。すっかり気勢を()がれた十蔵は、刀を鞘に戻し、山県の家を後にした。
家に帰り着くや否や、刀を抜いて素振りを始めた。
体が温まって来た頃、一旦剣を止めて、道場で見た山県の型を反芻(はんすう)する。
上段から繰り出されるあの動きは、青眼を至上とする空雲流において、全く異質なものだった。始めは、何の動きか分からなかったが、山県豊己が鈴谷重兵衛を罵るのを聞くうちに、恐らくは蝦蟇跳ねを破る工夫だろうと見当がついた。
山県豊己は、如何ともし難い屑ではあるがしかし、生粋の剣士である。奉納試合で重兵衛が見せた、全く未知の技を見て以来、それを破る工夫をしてきたのだな、と思った。
目を閉じ、奉納試合で受けた重兵衛の剣を想起する。
思い出すだに、恐ろしい技だと思う。
無造作な振る舞いで相手を揺さぶり、一瞬の隙を突いて間合いの外から一息に詰め寄る。それに反応して半端な剣を繰り出そうものなら、下から伸び上がる渾身の太刀でこれを弾き、伸び上がった体を折り畳む様にして袈裟掛けに斬り下げるのだ。また、弾かれるのを察知して剣を引くと、逆袈裟に()ねる太刀の軌道を変えて、一刀のもとに斬ってしまう。正に、必殺の剣である。
蝦蟇跳ねに対して、臆してはならない。迂闊(うかつ)であってはならない。
この秘剣を破る肝は、騙す事だ、と十蔵は思い至った。すると、山県豊己の型が持つ意味も(おの)ずと見えた。
即ち、上段に構えた剣を、蝦蟇跳ねに応じて繰り出した剣だと見せかけ、重兵衛の剣の軌道を支配するのである。そして、剣が触れる直前まで引き付けて、不意に剣を引く。
蝦蟇跳ねの極意は恐らく、深く沈み込んだ体だ。地面に伏せこむ様にして体を沈め、そこから飛び上がる様に体を伸ばして、その勢いを剣に乗せ相手の剣を弾くのである。
と云う事はつまり、初撃の後は体が伸びきって、一瞬だが完全に無防備になる筈だ。
山県の工夫した型は、即ち初撃を剣に誘導し、それを()かして一瞬の虚を突くものである。後の先を制する姿勢は(まさ)しく空雲流そのもので、構えは違えど、山県豊己こそが空雲流の体現者であると云っても過言ではない。
型の意味を理解した十蔵は、次にはその動きを体に染み込ませる為に、何度も何度も、反復した。既に日が暮れようとしていて、西の端には血を空に吸わせた様な茜色が広がっていたが、十蔵は剣を休めなかった。
結局、その日の深夜まで一心不乱に一つの型を反復して、やがて疲労が極限に達したのか、庭にどうと倒れてしまった。
日はすっかり落ちきっていて、天鵞絨(びろうど)の様な星空を、御山から流れてきた厚い雲がすっぽりと覆っていた。
倒れた格好のまま曇天の夜空を見上げて、
(明日は、荒れるな)
と、思った。
冷え込みが厳しくなり始めていた。

翌日は、この時期には珍しい大雪であった。
北方に位置する鶴岡藩では、三月に雪が降ること自体は余り珍しい事では無いが、これ程の大雪は稀である。往来からはすっかり人影が失せて、春に片足を突っ込んでいた街が、冬に引き返してしまったかの様だ。
十蔵は、夜まで待ってから重兵衛の居所を訪ねようと考えた。夜になれば、雪も已むだろう。
十蔵がそう考えた通り、果たして夜になってみると、空を覆っていた鈍色(にびいろ)は風によって綺麗さっぱりと拭われ、星々の光が漆黒の(とばり)を穿って白銀の大地を照らしていた。
家を出るとき、何とは無しに、蛇腹を手に取った。門を出て、さくさくと新雪に足跡を残しながら数歩歩くと、(おもむろ)に蛇腹を開いた。蛇腹は赤く染められており、そこに桜吹雪が散りばめられている。
中軸を肩に乗せ、くるくると回すと、十蔵の背後で桜が舞い踊った。
そうして手元を弄びながら、山県豊己に教えられた場所へと、向かった。

鈴谷重兵衛は、待っていた。
敢えて見つかりやすい場所に身を潜めた。
何故そうしたか、と云うと、それは十蔵のためである。累が及ばぬ様に、小夜の失踪と自害の凡てを自分の罪として(こうむ)ったが、女狂いの上に嫉妬深いと噂の摂津守の腹は収まるまい。何らかの罰が下るだろうから、それを少しでも軽くしてやりたかった。
その為に重兵衛が出来る事は、我が身を十蔵に斬らせる事であった。脱藩者で討手殺しとしての自分の首にしか、価値が無かった。
潜伏先が突き止められた所で、十蔵が殺しに来る保証は何も無かったが、何と無く、十蔵が現れそうな気がしていた。
季節の終わりを告げる大雪が鶴岡城下を真白の野に沈めて、音を奪い去った日の夜。
重兵衛の家の門を敲いて、待ち望んだその人が(つい)にやって来た。
門を開けると、伊藤十蔵が——義弟(おとうと)が——舞い散る桜を片手に、こちらを見ていた。

「お久しぶりです、義兄(あに)上」
門から現れた重兵衛に、十蔵は以前と変わらぬ様子で声を掛けた。
が、その内心は、目の前の重兵衛の変化に驚いていた。頬は痩け眼窩は落ち窪み、肌に生気は無く死人と見紛う程なのに、眼ばかりが炯炯としている。
逐電からの数日が如何に凄まじかったかを、その風貌が何よりも雄弁に物語っていた。
「おう、久しぶりだな」
口の端を引き()る様な笑みを浮かべて、重兵衛は応えた。
———狂っているのかも知れぬ。
十蔵は思った。重兵衛の様子は余りにも常軌を逸していた。
———それでは、困る。
重兵衛には、正気でいてもらわねば、困る。そう思案しながら、重兵衛を散歩に誘った。しかし重兵衛は、十蔵が現れた目的を正確に把握している様であった。
「悔いは、無いか」
重兵衛の問いに、俺を斬るつもりか、と内心思いながら、
「ない」
と応えた。最早この世に未練は無い。ただ、一つだけ、遣り残した事は有る。
「嘘を吐け」
重兵衛に心中を見透かされた様な気がして、どきりとした。
「ないものはない」
虚勢である。本当は、小夜の仇を討ちたい。山県豊己を、殺したい。
その気持ちを察したのか、重兵衛は押し黙って、十蔵自身も、敢えて喋る話題も持っておらず、沈黙が二人を支配した。
やがて、河原に辿り着いた。(すすき)の原であるが、雪に覆われてその様子は(うかが)えない。
どちらとも無く、鯉口を切って、正対した。
先に仕掛けたのは、重兵衛だった。
呼応する様に、青眼を引き絞る。重兵衛の袈裟に合わせて、青眼は抜き胴に転じ、馳せ違った。
互いの(きっさき)が肌を掠めたが、お互いに無傷である。
重兵衛が、剣を下段に構えた。
———蝦蟇跳ね、か。
青眼を崩し、上段に構えた。
殆ど同時に、二人の気合が大気を割いて、静まり返った鶴岡城下に吸い込まれた。
数瞬の後、重兵衛が、馳せた。
間合いの僅かに外から、姿を消す様にして身を屈め、一息に踏み込んで来た。
それを待っていたとばかりに、十蔵が上段から斬り下げる。
迎え撃つ重兵衛の剣が、確かに十蔵の撃ち込みを捉えた。
———筈だったがしかし、十蔵の剣は刹那の手前でその身を不意と引き、重兵衛は空振りに身を伸ばし切った。
十蔵の型は完璧に(はま)って、目の前には死に体の重兵衛が、無防備な胴を晒していた。

蝦蟇跳ねは、完全に破られている。
十蔵の上段を見た時、重兵衛は悟った。
(元より死ぬ身だ)
俺の実力を完全に越えて、十蔵が先へ進むのなら、願ってもない事だと、重兵衛は思った。
(打ち砕いてみせろ)
そんな気持ちで、雷鳴の踏み込みをした。重兵衛の斬り上げる剣は空を裂き、身体が伸びきって、
(そうだ。それで善い)
と思ったがしかし、必殺の間を過ぎて尚、十蔵の剣は動かなかった。
「何をしている」
思わず、声を荒げた。
「殺せ」
俺を殺せ。俺の首を以って、汚名を雪ぐのだ。
重兵衛の思いを無下にして、十蔵は力なく頭を振った。
「これで、仕合の借りは返しましたぞ」
と云うと、ふっと笑った。
その笑顔は、小夜に瓜二つであった。
———駄目だ。それでは、駄目なのだ。
重兵衛の心に、焦りが生じた。
俺の首を取れ。そうして初めて、お前の(いわ)れも無い(とが)は許される。そんな思いを込めて、十蔵を睨みつけた。
重兵衛の鋭い視線を受けると、十蔵の顔が見る間に歪んで、遂には身体を折って地面に崩れ落ちた。
「俺は、俺は。情けない男です。姉上の仇を目の前にして、一太刀も浴びせられませなんだ」
声が顫えている。
「ならば、撃ち込め。姉の仇はここだ。俺を斬れ」
と、重兵衛は言ったが、頽れた十蔵は力なく首を振る。
「違う、それは違う。遺体を見て分かった。姉上はきっと、自害したのだ。そして姉上を追い詰めたのは、義兄上では無い」
真実を彼岸へ持ち去ろうと決めていた重兵衛は、十蔵の言に肝を冷やした。それと同時に、十蔵の言には、真実が含まれているのだと感じた。
「ならば、追い詰めたのは、誰だと云うのだ」
当然の問いである。重兵衛の疑問を受けた十蔵は、
「山県豊己」
と、素直に応えた。名を出すと、十蔵の口は見違えた様に饒舌になり、事の一部始終を余すところなく語り尽した。語り終えると、
「義兄上、共に、姉上の仇を討ちましょう」
と云った。
事を理解した重兵衛は、憤怒の極地に居ながら、飽くまで冷静に十蔵の身を案じた。
(もし俺と共謀して、十蔵が山県豊己を討てば、一族郎党の断絶は免れまい)
そう確信すると、
「分かった。共に、彼奴(きゃつ)を討ち果たそう」
と云って笑った。
重兵衛の言葉を受けて、涙に目を腫らした十蔵は、
案内(あない)します」
と云って、重兵衛に背を向けた。
その瞬間、刀の(かしら)で、十蔵の(くび)を打った。衝撃に脳を揺らし地面に落ちた十蔵は、辛うじて止めた意識で、
「何故です」
と問うた。問いには応えず、屈んで十蔵の耳元に顔を近付けると、
「小夜は、お前を愛していた。一人の男として、心の底から」
と、今際の際に小夜が吐露した心中を、せめてもの置き土産にと、十蔵へ手向けた。
やがて十蔵の意識が絶えると、達者でな、と云い置いて、重兵衛はその足を山県道場に運んだ。

終幕

いつの間にか、雪が降り始めていた事に、山県道場の門前に至って、重兵衛は(ようや)く気が付いた。十蔵との立会いの時点で既に牡丹は舞い始めていたのだが、その時は気付けない程に切迫していた心中は、宿敵の根城を眼前にして、不思議な冷静さを見せて周囲の様子に意識を向けた。
子の下刻。城下は眠りに就いていて物音ひとつ聴こえない。ただ、降り積もる雪の無音だけが辺りを染めている。
そっと、音もなく門を押した。(かんぬき)は掛かっていない。重兵衛の到来を予想していたかの様に、すんなりと門は開いた。
道場に、火が灯っている。自然と、足がそちらに向いた。まるで、光に(すが)る蛾だな、と思った。
道場には、果たして山県豊己が、剣を据えて禅を組んでいた。
「やあ、来たか。畜生さながら、義弟を殺して俺の名を聞き出したのだな」
重兵衛の気配を悟るや否や、山県は陽気な声を出して、腐臭に塗れた言葉を重兵衛に向かって投げた。
それには応えずに、脚を開いて腰を落とし、踵をべったりと地面に着けると、左手で佩刀(はいとう)の鯉口を切った。
「問答は、無用か」
そう云うと、座禅を解いて立ち上がり、山県も刀を抜いた。
歪んだ笑みに口を割いて、赤が見えている。一重で目の細い山県の笑みは、(さなが)ら蛇だ。
毒蛇が、(とぐろ)を巻いてその歯牙に我らを掛けようと云うのだ。
道場の四方に設けてある行灯の灯りが揺らめくと、二人の陰影も揺らいで、此岸(しがん)彼岸(ひがん)の境に揺蕩う亡者の様な感がした。ほんの僅かの要因で、ともすれば次の瞬間には此の世に別れを告げるのだから、生と死の二重項にあると云って善い。その境地に立たねば、真剣での死合いなど出来よう筈もない。
だから、重兵衛は決死であった。
山県豊己の構えを見ると、
(小夜、すまぬ)
と思った。小夜は、己と十蔵の二人が生きている事が願いだと云ったが、それは叶えてやれぬかも知れん。それ程に、山県豊己の青眼は、今まで対峙した誰よりも完全だった。これを前にすると、十蔵の青眼でさえ児戯に思えた。
これを破るには、蝦蟇跳ねしかあるまい。
正攻法では、先ず勝ち目は無い。虚を突き不完全な一撃を狙い撃つしか手は無い様に思われた。
構えていた八双を解き、下段に構える。
だらりと脱力すると、徐に一歩を踏み出した。
ゆらり、ゆらりと、右に左に、千鳥を踏んで間合いを詰める。
その間、正面の山県は微動だにせず青眼に止まっている。微塵の動揺も、見られない。
のらりくらりと間合いを詰める。
刃圏の僅か手前。重兵衛が、動いた。
瞬間。(あひる)が水に潜る様だ。身を屈め、脚を伸ばす。一息に間合いを詰める。
と、身じろぎひとつしなかった青眼が、一瞬の内に上段に転じた。
落雷。
勢いを乗せた振り下ろしが馳せた。
重兵衛はこの動きを知っている。これは、十蔵の見せた———。
蛇が、蝦蟇を喰った。
かに見えた刹那。蛇の(あぎと)をするりと抜けて、蝦蟇が胴を抜いた。
血の飛沫が舞って、僅かの後、木の板を鳴らして倒れる音が聴こえた。
何か、見えない手に押された様だった。蝦蟇跳ねのために踏み込んだ脚。本来ならば上に向ける勢いを低く保ったまま、もう一歩を重ねて山県の胴を薙いだのだが、咄嗟の事で、重兵衛自身にも善く分からない。
ただ、十蔵との対峙が無ければ、まんまと嵌って斬られていたろう事は、明瞭(はっきり)と自覚出来た。
——余談であるが、鈴谷重兵衛はこの時の剣に研鑽を重ね、後にそれを「蟇滑(ひきすべ)り」と名付けた。蝦蟇跳ねと、蟇滑りの二つの秘剣によって、生涯に不敗であったらしい。——
振り返ると、虫の息の山県豊己が、(うら)めしそうにこちらを見ていた。
刀を逆手に持つと、止めを刺した。
道場の外に出ると、未だ雪は降り続いていた。
門を抜けて、道を往く。
不図、路端(みちばた)の桜に目が留まった。
蕾を付けてはいるが、咲く気配は見えない。
(春は、未だ先か)
雪は尚も天から落ちて、野を山を、鶴岡藩を覆っている。
息を吐く。
大気に舞う呼気の白さに、小夜の姿が投影された様な気がした。
笑っているのか。哀しんでいるのか。
重兵衛には分からない。誰にも分からない。
もう一度、蕾を見た。
決して弾ける事のない、しかし柔らかに浮かんでいる小夜の微笑みが、春を待つ蕾に重なった。
(先だが、直ぐだな)
桜が花開けば、小夜も顔をくしゃくしゃにして笑うだろうか。
次の春も、その次も。
小夜の面影を、春の微風(そよかぜ)と、満面に花開くいのちの中に探そう。
いつか、その中に小夜を見つけたら、その時は、十蔵を連れて逢いに行こう。
だから、それまで待っていて欲しい———。
目を伏せると、寒さに身を縮めて歩を進めた。
足取りに、確かな生命の意志が浮かんでいた。

―了―

咄嗟剣 蟇滑り

咄嗟剣 蟇滑り

一度書いてみたかった時代劇。 タイトルから分かる通り、思い切り藤沢周平に影響されてます。 ぜひぜひ。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 幕間—壱—
  2. 幕間—弐—
  3. 幕間—参—
  4. 終幕