アサガオの咲くとき 第2話

第2話「いちについて」

俺にはまだ、『未来』がどこから始まっているのか、分からないんだ。



「随分と思い切ったな、村瀬」
「……まあ」
 俺は今、進路相談室にいる。
 目の前には机を挟んで担任の小林が拍子抜けしたような顔をしていた。俺はそんな小林の表情を直視できず、目を合わせないように腕時計へこっそりと視線を逸らした。もうすぐ13時になろうとしている。早くしないと植野が待ってるかもしれない。それに購買にも行かないと昼飯が無くなっちまう。確か今日の日替わり弁当は――。
「村瀬」
「あ、はい……」
 小林に名前を呼ばれ、俺は我に返る。小林は真っ直ぐ俺を見ていた。
「何すか……?」
「俺が考え直した方がいいって言ったのに、こんなこと言うのもあれなんだけどさ……本当に良かったのか?」
「えっ?」
 思わず声がもれてしまった。そしてまた腕時計に視線を落とした。腕時計の秒針は、確実に一秒一秒、時間を刻んでいる。俺がこうしている間にも、何もせずとも世界は問題なく進んでいる。そんなことを柄にもなく考えてしまった。
「どうして、ですか?」
 なぜか言葉に力が入らない。
「お前があそこまで音楽で食っていくことにこだわってたからさ。未練とかがこの先に影響しないか、心配になってな」
「そう……っすね」
 どうしてだ。どうしてこんなにも、力んでるんだ、俺は。
 何なんだ、この矛盾は。
 そりゃあ、この先も音楽を続けていけたらどれだけ良いかなんて、そんなもん誰よりも俺が分かってるよ。けど、そんな願望がいつまでも通用するわけがないって、それに気付けないほど子供じゃないんだ、俺も。だから俺は、この選択をしたんだ。俺はやっと、解決策を見つけたんだ。答えを見つけたんだよ。それが間違ってるかどうかは、俺を待つ未来が決めてくれるんすよ、先生。音楽なんていう曖昧な未来に頼るより、もっと見通しの良い未来を選んだ。ただそれだけだ。それだけなんだよ。
 だから――。
「村瀬?」
「大丈夫っすよ」
 そう、だから。
「音楽なんて、いつだってできるんすから」
 俺は、笑ってそう言った。



 俺が進路指導室を後にした頃には、腕時計の針はすでに13時を回ってしまっていた。俺は急いで購買へと向かう。廊下を走って、購買のある一階へと行くため階段を駆け下りる。勢いに任せて階段を一段、二段と飛ばしていく。踊り場で方向転換する度に、俺の上履きは捻じれるような悲鳴を上げる。
 けれど。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
 俺は咄嗟に自分の足に急ブレーキをかけた。階段を上ってきた女子生徒と鉢合わせになり、危うく正面衝突しそうになってしまったからだ。
「悪い。大丈夫か――」
 そこまで言いかけて、俺はその女子生徒が同じクラスの桐原だと気付いた。
「って、なんだ桐原か」
「なんだって何よ!?」
 桐原は声を荒げる。
「まあそんなに怒るなって。相手が桐原だったから逆に安心したんだよ、俺は」
「それ、どういう意味?」
 桐原は俺を細い目で見つめる。
「はいはい。悪かったよ、ほんと」
「ほんとに悪かったと思ってるのかなぁ?」
 腰に手を当て、桐原はむっとした表情で俺の顔を覗き込むようにして見る。けれど、一変して桐原は笑顔になって俺に向き直った。
「っま、今回は許してあげる。なんか急いでたみたいだし」
「え……」
 俺は思わず面喰ってしまった。
「え、って何よ?」
「いや、なんか妙に桐原が優しいなと思って……」
「私が優しかったらなんか悪いの?」
 桐原の表情に、今度はギラギラとした深い怒りが滲んできた。
「やべぇ!」
 俺は瞬間、危険を察して桐原の横を駆け下りる。
「あっ! こらっ!」
 背後から桐原の怒声が聞こえてきたが、俺は一目散に逃げるように廊下を駆け抜けた。

アサガオの咲くとき 第2話

アサガオの咲くとき 第2話

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-01

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