同調と秘密

「お前の父ちゃんいつも引きこもってるな」
 生野徹(いくのとおる)の父親はまるで自分の存在を抹消するかのように、いつも自宅の一室に閉じこもっていた。
 徹は幼いながらも、父がそこで何をやっているのか知りえず、いつも疑問を感じていた。
 数年前に仕事を辞めた彼は、新しい職探しにも行かず、ただ過ぎていく毎日を漠然と過ごしていた。

「うるさいよ。僕には関係ないんだからほっといてよ」

 友人の卓郎(たくろう)が茶化すかのような口調で徹につっかかる。
 現に家族である、徹の一つ年下の妹も、母親も、伯父も、正雄のことをとても心配しているが、一家の大黒柱である彼に口出しできるものは一人もいない。 
 正雄は昔から読書好きだった。
 まだ会社を辞めていない時、同僚たちが本を借りに自宅へと訪れている光景を徹も何度も目にしたことがある。
 その書斎が今や彼の根城となり家族と己を遮るための巨大な障壁となっているようだ。

「おい飯もってきてくれ」

 一字一句同じ言葉を、朝、昼、晩と三度口にする以外は、正雄が声を発することは滅多にない。
 トイレに行くにしても、周囲の視線をことごとくかわし、ただ憮然とした態度で通り過ぎていく。
 
「おい徹、ここ開かねえぞ」

 一階の書斎前、卓郎が何やら悪戯をしている。
 扉のドアノブを回し、そしてめい一杯開こうとしているのだ。
 その行為を慌てて止めに入ると、徹は彼の体を奥へ押しやった。

「いてえな、何するんだよ」
「しぃい…きっとまだ寝てるんだ。起こしちゃだめだよ」
「お前の父ちゃんがいるの、この部屋だったのか? ……冷たいな、自分の父親だろ? お前が起こしてやって、いっしょに飯でも食えばいいだろ」
「そんなことできるわけないだろ。飯を食うにも一人、話しかけてもろくに返事もしない、もうこんな状態が二年も続いてるんだから」
  
 すると突然ガチャリと音が聞こえドアノブが回転したかと思うと、扉がゆっくりと開いていく。
 二人は心臓を矢で射抜かれたような大きな衝撃を受けた。
 その場が凍りついた空気と張り詰めた緊張感に包まれていく。

「あ、すみません、お邪魔してます。僕、徹の友人の卓郎って言います」

 正雄は一瞬、眼鏡の奥から卓郎に対する鋭い眼光を向けたかと思うと、すぐに向き直り、のそのそと炊事場の方へ消えていってしまう。

「ふう…怖ええ、言っちゃあ悪いけど、空気感が普通の人とはまるで違うな。なんか一見、冷徹な殺し屋のように見えるけれど、それでいて弱々しい病人のようにも見える。一目見ただけじゃよく分からない。なんというか恐ろしい悪夢でも見たようだぜ」

 あまりにも大袈裟な言葉選びに、徹の表情が思わず緩む。
 
「とにかく触らぬ何とかに何とかなし、って言うだろ。まさしくその通りさ」
「なんだよ…その何とかっていうのは」
「とりあえず、勝手にそこを開けるのは今後一切禁止な」
「うん分かった」

 ことなきを得た徹と卓郎は二階の自室へと戻った。
 
「しっかし、ここ最近ぶっそうだよな」
 
 卓郎が畳の上に座り込み口の中にスナック菓子を頬張りながらこう言う。

「何が?」
「街で起きてる事件だよ。お前新聞読んでないのか? ずいぶん騒いでるんだぜ。これでもう十件目」
「何がおこったの?」
「通り魔事件だよ。ここ一ヶ月前から連続して起きてるんだ。夜中、外を出歩いてる人間たちを次々に襲うんだ。しかも必ず子供だけを狙うっていう」
「あ、そう言えばこの前ホームルームで先生が言ってた気がする」
「知ってたのかよ…お前も鈍感だよな、自分の住む町で自分と同い年くらいの子供が危険な目にあってるっていうのに」
「まさか自分の身に降りかかるなんて思わないじゃん。例えばショッピングの最中に母さんが宝くじをやろうって言い出しても、どうせ当たらないからやらないって、最初からつっぱねるくらいなんだから」

 すると徹が突然立ち上がり、一階に走ると、新聞紙を片手に戻ってくる。

「この記事だね」
「そう、それそれ」
「負傷したのは隣の学校の生徒って書いてあるけど、現場はここから徒歩で十分程度の場所だしさすがに怖いね」
「しかも、だんだんと俺たちの学校の方へ近づいてるんだからな」
「…うわぁ」
「まあ何もなければいいんだけどな。嫌な予感がするからな」

 すると一階から誰かがやってくる。
 じわじわと近づいてくる階段の軋む音が、まるで四つん這いになった幽霊が抜き足差し足で這い上がってくるような不気味な光景を想像させたので、二人は思わずその訪問者に対して身構えてしまう。

「父さん」

 彼がここに上がってくるのは何年ぶりだろうか、二人はまさかの訪問者に対してどう接していいのか分からずにいる。

「め…めずらしいね、ど…どうしたの急に」  

 正雄はプルプルと震える華奢な腕をゆっくりと前方へ向けた。
 その先にあるのは、さっき徹が持ってきた新聞紙。

「…これがほしいのかい?」

 正雄はコクリコクリと二度うなずいた。
 徹が黙って卓郎の方に向き直ると、ヤレ、という仕草をした。
 すると立ち上がった卓郎は恐る恐る新聞紙を手渡した。
 グチャリ、と潰すようにそれを掴んだ正雄は、方向転換し、またノソノソと一階まで降りていった。

「うぉおお……怖ええ。殺されるかと思ったぜ。何しにきたんだろうな? 単に新聞紙がほしかったのかな」
「そうじゃないかな。書斎に引きこもっていても新聞だけは毎日欠かさず読んでるらしいからね」

 夕飯時、そろそろ家に帰らなくちゃ、と言い残し卓郎は自宅へ戻っていった。
 一階から夕食の匂いがしてくる。
 キッチンには妹、母、伯父が集まっており、すでに食事がはじまっていた。
 そこに正雄の姿はない。
 同じような匂いが正雄の書斎にまでたどり着いているだろうにも関わらず、彼は扉の向こうで何をしているのか、全く出てこようとはしない。
 一番に食べ終えた徹はそそくさと二階へ戻っていった。

 …それから家族の寝静まった深夜、ベッドに横になっていると、徹の耳にある物音が聞こえてくる。
 彼はここ最近この音をよく耳にしている。
 決まって夜中の二時過ぎになると、ドアの開くような重苦しい響きが階下から聞こえてくるのだ。
 徹にはこの音の元凶がだいたい予想できていた。
 彼の部屋の真下には、正雄の書斎があり、その居住者である彼こそが、そうなのではないかと。

 今日こそは、その彼の怪しい行動をこの目で確かめてやろう、と徹は思っていた。
 今までは、次の日に学校もあるので夜更かししてはいけないと、彼の行動をなかば黙認してきたのだが、今日は夕方自分の身に起こった父親の訪問を目の当たりにし、何かよからぬ不安をにわかに感じとっていたからだった。
 時間が迫ってくると、自室の扉を開き首を外へ伸ばし、慎重に階下の状況を見守る。
 真っ暗な庭先に、若干の月明かりが照りつけていたので監視するには好都合だった。

 …すると、やはり現れた。
 ガラガラガラと扉が開いたかと思うと、窓から少しだけ片手片脚が飛び出て見える。
 次に出てくるのは頭だ。
 白髪交じりの後頭部がキョロキョロと左右に動き、あやしい人物がいないことをチェックすると、その後ゆっくりと外に飛び降りたのだ。
 まさか、上から徹が覗いているとは微塵も気づかない正雄は、彼に見守られながら、悠然と庭先から出ていくのであった。
 
「本当かよ?」

 翌日の学校。
 徹は卓郎に昨日の出来事を話すと、彼は目を丸くして驚いた。
 
「で? それからどうなった? 親父の後をつけていったか?」

 首を左右にふる。

「…ったく、何だよ、頼りがいのない奴だなあ」
「君、父さんのこと怖いっていってたじゃん。ずいぶん強気だなあ」
「ああ、俺も怖いさ。でもな、怖いからこそ怪しいんじゃん。街でも連続通り魔事件が起きてるだろ? ……もしかしてその犯人ってのが」

 こう口にした途端、通り魔事件というキーワードを同じように耳にした周囲の生徒たちが、次第にザワザワと騒ぎ始める。

「あああああ、冗談だよ冗談」

 睨みつける徹の鋭い眼光が彼の馬鹿げた推測をすぐさま断ち切る。  

「でもさ、おかしいじゃん。お前の親父、毎日あの部屋に閉じこもっているのに、夜になるといつも決まった時間に外へ飛び出す。絶対に何か隠してると思う」
「…うん、僕もそう思う」

 …そして夜、二人はある計画を実行する。
 
 その計画とは、正雄に対する尾行であった。

「ううううう…結構寒いな」
「…うん」

 春が間近にせまっている季節だが、夜の風は未だ冷たい。
 二人は自宅から飛び出し、徹の家の庭先にある向いの影から、正雄の動向を見守った。
 時間は夜の一時半。
 もうそろそろ扉が開く頃だった。

「まだかな…出てくるの遅いな」
「もうすぐだよ、父さんが出てくるのが夜中の二時くらい、後二十分」
「ひええええ、そんな長いこといたら凍死するぜ」

 しかし今日はその予定が早まる。
 
「お、出てきた。すごいな、マジで親父出てきたじゃん」

 彼は昨日と同じく、のっそりとした動きで、扉の縁に足をかけると、まるで空き巣をする泥棒が現場から逃げ去る時のように、こそこそと外へ飛び出していく。

「俺が昨日、あの人のこと殺し屋って言ってたじゃん。今となっては、それもあながち嘘じゃないんじゃないかと思えてくるぜ」

 信じたくはないが、絶対に許されないことだが、徹の心中にも、まさか、という気持ちがだんだんと芽生えはじめる。

「まさか……やっぱり違うよ。絶対にそんなことありえない」

 二人が目を離した隙に、正雄は自宅の敷地から遠ざかってしまう。

「お、やばい。見失うぞ」

 二人は立ち上がり道路に飛び出ると、遠く先の方に黒い影が存在することを確認し後をつける。

「行こう」
「…うん」  

 徹と卓郎は電柱の影に隠れたり、民家の壁に張り付いたりしながら彼の後姿をぴったりとマークする。

「…どこに行くんだろうな」

 徹は真剣だった。
 実の父親が友人に通り魔犯よばわりされ、挙句の果てに自分まで疑ってしまっている。
 この疑いを晴らすには、やはり自身の目で潔白を確かめるしかない、それまでは絶対に納得できない、したくない…と心の中で誓っていた。
 正雄の足取りが軽快になると、それに合わせて二人の動きも早まる。

 すると正雄は、とある民家の軒先に立ち止まり頭上を見上げている。
 二人はみたらし団子のように、電柱の隣に顔を並べ、その様子を真剣に監視している。

「まさか、強盗でもするんじゃねえのか。あの家に押し入って住民にナイフつきつけて、金出せって」

 ゴクリ。
 生唾を飲み込む音が、隣にいる卓郎の耳にまで届く。
 しかし卓郎の予想に反して正雄はふと元の様子に立ち返ると、何ごともなかったかのように、元来た道をさっきと同じ歩調で戻り始めた。

「やべ、こっち来るぜ」

 行き場を失った二人は、しかたなくその場にしゃがみこみ、両手で口をふさぎ彼が通り過ぎるのをじっと待つ。
 正雄がトコトコトコと小さな足音を響かせながら、気配を消す二人の前をゆっくりと通過していく。
 彼の影が遠くの闇へと消えていったことりにより、二人はようやく安堵のため息をつく。
 
「ふう、助かったぜ。でも行っちまったぜ」
「戻るのかな?」
「…さあ」

 …結局彼への尾行は、たったこれだけで幕を閉じた。
 卓郎と別れ自宅に戻ると、どうやら正雄も既に書斎へと戻っていたようだ。
 
「あれ何だったんだろうな?」

 次の日の学校。
 二人は昨日の成果について、他の生徒の耳に入らないように、コソコソと語り合っていた。
 といっても成果らしい成果は何も得られなかったが。
 担任の先生が現れ、ホームルームが始まる。
 すると今日の先生は、何やらいつもとは違う神妙な面持ち、しかも口調もいつになく厳粛な雰囲気を漂わせている。

「ええと…みなさん既に知っている方もいるかもしれませんが、昨日近くの民家で通り魔事件が起きました」

 その発言にクラス中の生徒が一斉にざわつき始める。

「しかし幸いなことにその方は何とか難を逃れ、腕に軽い傷を負っただけで済みました」
「誰が襲われたんですか? 先生のよく知ってる人?」
「ええ…よおく知っています。その刺された方は、この学校の校長先生ですからね」

 生徒たちのざわつきがより一層大きくなっていく。

「おいおいマジかよ」

 卓郎も目を丸くして驚く。

「もしかして昨日、お前の親父が見上げてた民家って」
「まさか………確かに父さんの怪しい行動は確認できたけれど、彼が殺人を犯していない事実は、尾行していた僕らが一番よく知ってるじゃん」
「ああ、あの時、親父は民家の軒先でただ上を見上げているだけで、何かをする気配なんてぜんぜん見せなかったからな」
「でも偶然にしちゃあ、できすぎてる」
「……事件に何か関係があるのかもしれないな」
 
 …夜の尾行は二日連続で続いた。
 本当はやる予定もなかったが、今日のホームルームで先生が言った事件がどうしても引っかかり、何が何でも真実を確かめたいという徹からの申し出だった。
 昨日と同様二人は自宅の庭先に隠れ、正雄が出てくるのを固唾を飲んで見守っている。 
 だが、今日はすでに二時半を大はばに経過しているにも関わらず、彼があの扉を開くことはない。

「…こないなあ」
「どうしたんだろう? 父さん今日は出てこないのかなあ」

 そして一時間が経過する。
 卓郎の鼻の穴から大量の鼻水が滝のように流れている。

「なあ、もう帰ろうぜ。親父全然出てこないし、このまま、ここにいたら二人とも氷づけになっちまうぜ」 
「帰りたきゃ一人で帰っていいよ」
「なんだよ、その言い方」
「だって、あの人の疑惑が解消するまで、絶対に諦めるわけにはいかない」
「それはお前の願望だろ? 俺は別にどうでもいい。お前の父ちゃんが殺し屋であろうと、最悪通り魔であろうと何の関係もない」
「無責任なこと言うね」
「何で俺がお前の父ちゃんの責任を持たなきゃいけないんだよ。それよりも、このまま俺の鼻水が止まらなくなって風邪引いちまったらどうするんだよ」

 二人が争う中、やはり彼は一向そこを訪れなかった。

 そして翌朝。

「…ったく。おかげで風邪引いちまったぜ」 
 
 卓郎は昨日と同じように鼻をぐすぐすと鳴らしながら学校を訪れる。

「昨日、結局あれから父さん出てこなかったね」
「言ったろ? どうせ無理だから早く帰ったほうがいいって」

 …それから徹は毎日、正雄の行動を自室でチェックした。
 彼が出てくいくのを見計らって、ベッドから飛び起き、カレンダーの日付に丸をつけていったのだ。
 すると不思議なことに、彼が外出する日は決まって土日以外だということが分かったのだ。

「土日以外?」

 卓郎は徹が持参したカレンダーを食いいるように見つめている。
 
「…本当だ。たしかに出て行くのは毎週この二日以外で、後は全部丸がついているな」  
「何か手がかりになるかな」 
「…さあ」

 次の日。
 日曜で学校が休みだった二人は徹の自宅で何やら作戦会議を開いていた。
 畳の上に敷き詰められた新聞紙。
 その一枚一枚には、全て同じように通り魔事件の記事が並んでいる。 

「おい、やっぱりそうだ。これ見ろ」

 驚きの表情の卓郎は徹に対して複数の記事を手渡す。
 
「ほら、この記事も、この記事も、これも、全部日付が土日以外だぜ」

 徹が確認すると確かに、事件が起こった日付は全て平日。
 
「でも、これだけじゃ、犯人が必ずその二日を避けるとは言いがたいんじゃないの?」
「どうして?」
「だって事件が起こったのが二ヶ月で十件、この数字じゃまだ偶然の可能性もある」
「そんなことねえだろう。充分すぎるだろ。十件ってのは普通じゃなかなか起きない数字だぜ」

 すると階下から、また正雄が上がってくる。

「やべ、親父来たぜ」

 二人は散乱した新聞紙を慌てて隠そうとするが、しかし間に合わない。
 正雄は先日同様よろよろとした動作で腕を伸ばすと、それをくれと催促した。
 二人は黙って持っていた新聞紙を全部渡す。

「お前怖くないのか?」
「何が?」
「もしかすると殺人犯かもしれない人間が家の中にいるんだぞ。そんな奴といっしょにいて怖くないのか?」
「……うん。そんなこと言っても。まだ父さんがやったって証拠はないんだし……それに」
「それに?」
「やっぱり父さんがあんなことをやれる人間とはどうしても思えないんだ」
「…そうか?」
「父さんはあれでも、小さい頃よく僕に勉強やスポーツを教えてくれたんだ。それに学校から帰って来ると、いつも意の一番に笑顔を見せてくれた。その優しかった父さんが、まさか通り魔なんて残酷なことをやれるはずがない」

 なんだつまらない奴だな、という不機嫌な態度になった卓郎は畳の上にゴロンと横になる。

「君はいいよ、友人の父親がもしかすると殺人犯だっていう、まるで探偵小説の読者になったかのような気楽さで、他人事でいられる。もし最悪なことが起きたとしても責任を取る必要はまるでない」
「……別に疑ってるわけじゃねえよ」
「疑ってるじゃん」
「…俺はただ犯人を捕まえたいだけさ」

 すると卓郎は黙って立ち上がると、持ってきていた鞄を肩にかけ、すごすごと自室から飛び出していってしまう。
 …そして今日も夜が更ける。
 徹の日課になっていた日付チェックも、すでにやらなくなっていた。
 いつまでも父親のことを疑っていてはいけない、と卓郎に宣言した通り、それをやり続けるのはいかにも馬鹿馬鹿しかった。
 しかし、彼の意思をあざ笑うかのように今日もいつもと同じように、夜二時すぎになると、階下からあの音がこだまする。
 徹はこう思った。
 彼を信じていると言い切った以上、僕自身が自ら父さんの身の潔白を証明するしかない、彼が殺人犯じゃないという確かな物証を見つけ、実際に卓郎の目の前に突きつけ認めさせるしかない、と。
 徹は他の家族に気取られないよう、ゆっくりと足音をたてずに一階へと向かった。
 
 目の前に書斎がせまってくる。
 扉に近づきドアノブをゆっくり回す。
 すると鍵がかけられていないことに気付きホッと一安心する。
 目の前に真っ暗になった父の書斎が広がる。
 部屋から持ってきていた携帯ライトに光を灯し辺りを照らしていく。
 書斎の内部は本特有の臭いがたちこめ、厳かさと形容したらいいのか、それとも陰険さと表現したらいいのか、そんな漠然とした雰囲気が室内を満たしている。
 閉めずに外に出たのか、彼がいつも脱出のさいに利用する窓が開けっ放しになり、外からの冷たい空気が徹の頬に流れ込んでくる。
 両脇に並んだ本棚の列が、まだ幼い徹に対して異様な威圧感を与えてくる。

 彼の机はどこだろうか、辺りをキョロキョロと見渡す。
 すると、部屋の端っこに、いつも彼が使用していると思しき机を発見する。 
 そっと近づき、何が置かれているのかをチェックする。
 …そこには、今日卓郎と自分から奪った新聞紙をふくめ、たくさんの資料や紙切れが無造作に散らばっている。
 スタンドの明かりをつけ、そこに何が書かれているのかを一枚一枚丹念に見澄ましていくと、驚いたことに、そのどれもが、やはり通り魔事件について書かれている記事ばかりなのだ。
 
「本当か?」

 登校直後の教室において、卓郎が徹に対して驚きの声を上げるのも、日常的な光景になりつつあった。  
 
「……やっぱり、あの父ちゃん、通り魔犯だったんだ」

 昨日あんなにも、機嫌をそこねていた卓郎だが、今朝は何ごともなかったかのようにケロッとしている。
 
「でもね、別の気になるものも見つけたんだ」
「何だ?」
「………これ」

 彼が持参した物は、昨日正雄の書斎で発見した新聞記事。

「うん、それは分かったよ。親父が通り魔事件のことを追っているのはじゅうぶんよく分かった」
「違うんだ、これこれ」

 徹が指差すのは記事に載せられている写真。
 それは記者のインタビューに答える、校長先生の姿だった。

「ああ、うちの校長先生じゃん。それがどうしたんだ?」
「ほら、よくここ見て」

 そこには校長の腕に付着している細かな傷が垣間見れる。

「…傷?」
「この記事は先生がこの学校に来る前、つまり二年前に書かれたものなんだけど。……じゃあ次の写真見て」

 徹は鞄に入っている他の新聞記事を次々と取り出し、卓郎の目の前につきつけていく。
 あまりの多さに驚きながらも、提示された記事一枚一枚に対して真剣に目を通していく。

「何だ? これが一体どうしたんだ」
「…これ全部、通り魔事件に関する記事なんだ。通り魔事件はこの街だけで起きてるわけじゃない、隣の街でも、その隣の街でも起きてるんだ。その度に、被害にあった生徒の学校の校長がインタビューに答えてるんだけど」
「全部、うちの校長先生だな」
「全部ではないだろうけど、通り魔事件は校長が以前勤めていた勤務地付近でいつも起きてるんだ」
「ふうん…で? さっき見せた傷は何なんだ?」
「これらの記事を古い順から追っていくと、先生の傷がだんだんと増えていることに気づく」
「確かに、一番最初に起こった二年前には、腕に少し傷がついているだけだけれど、次は少し増えているし、そしてその次も前よりも増えている」
「この傷は校長先生が子供を襲ったときに、反撃を受けてつけられた傷で、それが時間を追うごとにだんだんと増えていってるんだと思うんだ」
「………まさか」
「父さんがなぜ、通り魔事件に関する新聞記事を執拗に集めていたのか、そしてそれがなぜ、この学校の校長のインタビュー記事ばかりだったのか、それはきっと単に事件に関心をよせていたわけではなく、今の僕らと同じように、この事実に気付いたからなんじゃないかと思うんだ」
「じゃ…じゃあ、親父がいつも夜家を飛び出していた理由ってのも」
「きっと校長先生を監視するためなんじゃないのかな。毎日、校長先生の家に出向き、怪しい行動をしないかとチェックしていた」
「親父がいつも平日しか出向かなかった理由は?」
「校長先生は今、単身赴任中なんだ。平日の間だけは今の自宅にいるようだけど、土日は実家に戻っているらしくって家を留守にしている」
「ああ、だから」

 卓郎は徹の話す内容に納得の様子だったが、ふとある事実を思い出し尋ねる。

「でもおかしいぜ。じゃあ何でこの前、校長先生が通り魔に襲われたんだよ。その校長が犯人だとすれば、彼が襲われるなんてありえない」
「自作自演だよ。校長先生は最近何者かに家を監視されていることに気付いた。真夜中、ふと外を見てみると怪しい人物が立っていてその人物が自分のいる部屋を見上げている」
「お前の親父だな」
「うん、それで自分の身に警察の捜査がおよんでいるんじゃないかと疑った校長は、自ら被害者になるために嘘の供述をした」
「…まじかよ」

 ……そして次の日の夜。
 二人は校長の自宅の張り込みを行った。
 ふきすさぶ夜風が強く二人に当たるが、それにも負けず、黙って物陰に隠れ、次に起こるあることを、じっくりと待ち望んでいる。
 すると玄関の扉がゆっくりと開き、中から校長らしき人物が現れ、何やらこそこそと怪しい動きを見せているのだ。
 小さなバッグを手に持ち、庭先に運ぶと、それをそっと地面に捨てた。
 
 昨日の会話で徹はこうも語っている。
 
「もう一つ、この記事を読んでいて気付いたことがあるんだ」
「何だ?」
「ここには警察の調べた状況が詳細に書かれてるんだけど、そこに通り魔事件にはいつも同じ刃物が使われていると載っている」
「…へえ」
「被害にあった子供たちの傷口を調べるとそれが判明したらしい」
「だから?」
「犯人はその事件に使った刃物をまだどこかに所持しているってことなんだ」
「じゃ…じゃあ、お前の親父はまさか」
「そう…監視しながら、隙を見て事件に使われた凶器を校長の手から奪おうとしてるんじゃないのかな」

 暗闇の中から足音が聞こえてくる。
 今日も夜中の二時過ぎ、正雄が家の窓から飛び出し、校長の家へ向かってくる。
 先にそこを訪れていた二人は物陰に隠れながら、彼の行動をじっと見守る。
 この前と同じように、校長の自宅の前の道路に立つと、視線を上へ向け、部屋の窓付近を見つめている。 
 すると、校長の自宅の光がパッと明るく灯る。
 正雄はその思いがけない事態に驚き、思わず足がすくんでしまう。
 そして自宅の玄関のすりガラスの奥に人影がうつったかと思うと、扉がゆっくりと開き、中から校長本人が現れてしまったのだった。

「…いやいや待ってましたよ」

 そのまさかの言葉。
 待っていた、との言葉に正雄は若干の動揺を見せる、そして次の発言も彼にとっては予想外の出来事だった。

「警察の方ですね……では中へ」

 もちろん正雄は警察関係者ではない。
 かといって校長の仲間でもない。
 彼は校長に連れられゆっくりと中へ入っていった。

「よし、上手くいった」

 ガッツポーズをする卓郎。

「大丈夫なの? 父さんを中に入れて」
「なあに大丈夫さ、これであの鞄の中のものを俺たちがゲットすることができる」

 全ては二人の計画通りだった。
 ついさっき二人は校長宅に、今から警察がそこに向かうので待機していて下さい、と偽の電話を入れていたのである。
 それに騙された校長は、訪れた正雄を警察官だと思いこみ、中へ招いたのである。
 確かに、これだけで正雄が易々と校長宅へ侵入できるはずもなかったが、相手がそう勘違いしていることを逆手にとって、もしかすると口裏を合わせるのではないかと、二人は考えたのだ。
 校長がいなくなった隙に、二人は庭先へと向かう。
 お目当てはさっき、彼が捨てたバッグだった。
 卓郎が息を呑みながら中を開けていくと、そこには予想通り一本の刃物が眠っていた。

「…あった」
「触っちゃだめだよ。それにはきっと犯人の指紋が残っているはずだろうし」
「そんなこと分かってるよ。でも、コレどうするんだ?」
「これは父さんの手柄だよ」
「どうして?」
「父さんが毎日、僕に見つかるように怪しい行動を繰り返し、校長を監視したり、新聞記事を集めたり、その努力が僕らをここまで導いたんだ。その彼の努力がなければあの人が犯人だって気付くこともなかっただろうし」
「そうだな。じゃあコレはお前の父ちゃんに対するプレゼントだな」
「うん」
「…でも、お前の父ちゃんが引きこもったのって、犯人を捕まえたい、ってたったそれだけの理由でだったのかな?」
「それはどうかな?」
「そうだとしても、そのためだけに、新しい仕事にもつかずにいるってのは、ちょっとおかしな話じゃねえか?」
「僕たちのためにやったんじゃないのかな?」
「俺ら?」
「あの校長が、僕らの学校に転勤することを知った父さんは、全てを投げ出しても彼を捕まえることに専念したかったんだ。もし息子に少しでも危害を加えてみろ、そうすれば絶対に許さないぞって気持ちであの人を追ってたんだ」
「なるほど」
「それに父さんはもともと正義感の強い人だった。大好きな刑事小説を読んでは並々ならぬ闘志を燃やしていた人だった。だから自分の手で捕まえたいっていう願望も人一倍強かったんじゃないのかな」
「…ふうん。どっちにしても、やっぱりお前の親父は変な奴だな」
「すごい奴さ」
「そうだな凄い奴だな」

 邸宅から二人が出てくる。
 正雄は証拠を掴む気で、彼の家に進入したのだろうか、しかしお目当ての物など見つかるはずもなく、終始落胆した雰囲気で校長に一礼する。
 それとは正反対に校長の顔は実に清々しいくらい爽やかだった。
 警察官が現れるという苦難を乗越えた、それによる凄まじい安堵感が、彼の隠すことのできない大きな喜びを表現しているのだ。
 二人はお互いに再度頭を下げると、校長が扉を閉め、そこには元気のない正雄の姿だけが取り残されてしまった。

 振り返り帰宅の途につこうとする正雄。
 その時、地面に落ちている何かを、正雄は発見する。
 
 鞄。

 道路の真中に無造作に置かれているそれは実に奇妙だった。
 トボトボと重い足取りで近づいていき、腰を屈め一体なんだろうと、真剣に見澄ましていく。
 するとそこには細長い紙切れが張られ、何やらペンで一文が書かれているのだ。
 つたない平仮名でこう。

 …こうちょうのはもの、と。

──同調と秘密──終わり

同調と秘密

同調と秘密

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-02-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted