あたし、頑張ったよっ
あの時ああすれば良かったのに、こうしちゃいけなかったのにと大なり小なり誰にでもある後悔。でも時によりそれを選択せざるを得ないことだってある。この小説は主人公の華那が自ら歩く道を選んで子育てをしながら頑張りやがて自分の生活環境が変わっていく様子が綴られている。
第一章 自転車事故
公衆電話機に十円玉を入れて、女はどこぞに電話をかけた。だが何度ダイヤルしても受話器の向こう側で空しく呼び出し音が鳴り続けるばかりだ。
「もういやっ。ついてないな」
受話器を置いてコロリと戻った十円玉を取ると女は公衆電話ボックスを出た。
女は駅から一キロ半ほど離れた所のぼろアパートに住んでいる土田華那だ。毎日一円玉を大切にして生きている華那にとっては十円玉は大金だと言っても良かった。世間では高額のブランド品が良く売れ出したといわれるが、携帯も持ってない華那はそんな生活は一生自分には縁がないと思っていた。
携帯電話が普及して公衆電話の数が減ったので、華那は自転車で駅前広場まで来た。
駅前の電話ボックスを出ると自転車にまたがって華那は歩行者を避けながら商店街の歩道を走った。ついてない時は何をやってもついてない。文具店から飛び出してきた子供を咄嗟に避けようとして、華那は高齢の男を引っかけてしまった。自転車に接触した男は、倒れた弾みに腕をつき、鮮血が滲み出ている。
華那は一瞬やばいと思って自転車に乗り直して立ち去ろうとした。だが立ち上がった男の手が後ろの荷台を掴んだ。
「おいっ、待てよ」
歩道を走る自転車に世間の目は厳しい。いつの間にか数名の野次馬が華那と男を取り囲んでいた。
「あたし、治療費とか払えませんから」
「人を痛い目に遭わせておいて、他に言うことはないのか?」
華那の頭の中は真っ白になり、脚の震えが止まらない。
「……」
「あんたなぁ、先ず謝れよ。治療費だの慰謝料の話はその後だよ。この頃の若い人は謝ることを知らないんだよな」
「でも治療費とか払えませんから」
「治療費を払えとまだ言ってないよ。先ずごめんなさいだろ?」
周囲の野次馬が頷いて華那を冷たい目で見ている。
「ごめんなさい。お怪我、痛くないですか?」
「痛いに決まってるだろ。そうよ、最初にその言葉をかけるのが大切なんだよ。もう行っていいよ。気を付けて行けよ」
「治療費とかは大丈夫ですか?」
「払えない人に払えと言うほど意地悪じゃないよ」
「すみませんでした」
華那はほっとした。深々と頭を下げてから男の顔をもう一度見た。優しげな目で早く行けと言っている。
第二章 幸せだった頃
Q大の工学部資源工学科を卒業した岸田均は大学を卒業すると上京して都内の東洋冶金と言う会社に就職した。均が学んだ資源工学科は昔は採鉱学科だったがその後資源工学科に引き継がれ現在は地球環境工学科に変わった。特殊な分野であり教授の紹介もあり、就職難の時代にもかかわらず運良く一発で採用が決まった。
入社後社会生活に慣れた頃、二年後輩で庶務課に在籍する副島有華と出会い恋に落ちた。有華は東北出身で地元の大学の経済学科を卒業したものの、在学中就職活動に相当苦労し、卒業間近にようやく東洋冶金に内定が決まった。均は真面目な青年で学生時代女性と交際したことがなく、明るく積極的な有華の誘いに迷いはなかった。二人が三ヶ月ほど交際を続けたある日、初めて有華のワンルームを訪ねた時、
「僕たち結婚しないか?」
と均が切り出した。恋愛ドラマに出てくるプロポーズのシーンに比べるとまったく味気ないが有華は、
「いいわよ」
と素直に同意した。有華は均の首に腕を回し唇を重ねそのままベッドに誘った。
東京郊外のマンションに新居を決めてから、質素な結婚式を済ませ新婚旅行から戻ると新生活が始まった。毎日二人揃って通勤しようやく生活パターンが決まってきたある日、有華は妊娠に気付いた。
「あたし、できちゃった」
と下腹部を撫でる有華を均は抱きしめた。
菜の花が咲き始めた早春に有華は女の子を出産した。名前は均が考えて華那とした。母子共に健康で出産を機会に有華は退社して専業主婦となった。華那は両親に可愛がられすくすくと成長、あっと言う間に四歳の誕生日を迎えた。親子三人睦まじく幸せに過ごしていたある日浮かぬ顔をして均が帰宅した。
「来週から海外出張を命令されちゃった」
「どこへ行くの?」
「オーストラリアからアフリカに渡る予定。レアメタルの鉱脈探しだから一年以上かかると思う」
「そんなにぃ」
「ん。ある意味宝探しみたいなものだから」
均が出張してから半年ほど過ぎた時、会社の総務部長から電話があった。
「なんとお伝えすればいいか……実は岸田君がスーダン、スーダンは分かりますね。そこで内戦に巻き込まれて亡くなられたと外務省から連絡を受けまして……」
有華は電話の途中から泣き出してしまった。大丈夫ですかと言う部長の声が次第に遠ざかり華那を抱きしめたまま倒れ伏した。
第三章 悲しみの末
遺体を引き取り葬儀を済ますと、手元の貯金は底をついた。これからどうしよう……。
有華は途方に暮れた。会社からわずかな退職金と慰労金を受け取って一息ついた時、均の生命保険金を受け取った。
この時から、有華は性格が変わったように無口になりいつも虚ろな目で遠くを見つめていることが多くなった。華那を幼稚園に預けてマンションに戻ると掃除や洗濯が面倒になり華那を迎えに行くまでの間、ぼんやりと過ごした。明るくて何をするにも積極的だった面影は消えて、家の中は汚れた衣服が乱雑に散らかり、流しには汚れた食器がそのまま放置されていた。
華那が保育園に通っている時、華那より一歳年上の土田咲恵と仲良しになった。それで咲恵の母親の君子と有華も親しくなり、同じマンションの一つ上の階に住んでいることもあって、いつの間にか行き来が増えて有華がお出かけの時華那を預かってもらうことが多かった。
華那が幼稚園に上がってからもこの関係は続いていた。
幼稚園のお誕生会で珍しく有華の顔が見えなかった。先生と君子は揃って、
「今日はママはどうしたの?」
と華那に尋ねた。
「……」
華那はうつむいて黙っている。
「お出かけされたの?」
華那はポロポロと涙を流して、
「ママ、お休みしてるの」
とか細い声で答えた。
「具合でも悪いのかしら」
先生と君子は顔を見合わせた。
華那に夕飯を食べさせると君子は華那の手を引いて有華のところを訪ねた。玄関を入って、君子は言葉を失った。腐敗した食べ物の臭いが漂い、汚れた衣服がそこら中に散乱していた。寝室を覗くと痩せこけた有華がベッドの上で薄目を開けて軽く会釈した。
「体調を崩されたの?」
有華はそれには答えず起き上がって、
「君子、ごめんね」
とすすり泣き始めた。華那はその様子を黙って見ていた。
翌日君子は有華のところに上がり込み掃除洗濯をして、華那を自分のところに連れて行った。それ以後君子は華那の面倒を見るようになった。
君子には咲恵の他に三つ年上の亮と言う息子がいたが、華那には自分の娘のように接したから華那は君子に懐いた。華那は有華の明るくて積極的だった性格を引き継いで、可愛らしかったから君子の息子とも仲良くしていた。
そんなある日の夜、珍しく君子のところに有華が訪ねて来て、
「しばらく家を空けますのでよろしくお願いします」
と華那が当面使う衣服や身の回りのものを包んだ風呂敷包みを預けて出て行った。
君子が預かった風呂敷包みを開いて整理していると、茶封筒が一緒に入っていた。開けて見ると、よろしくお願いしますと書かれたメモに添えて華那の母子手帳、華那名義の預金通帳、印鑑などが入っていた。通帳には三百四十五万円が入金されていた。
一週間が過ぎても有華から何も連絡がないので、怪訝に思って君子は有華の所を訪ねた。だが施錠されておりドアをノックしても返事はなかった。
「おかしいわね」
君子が戻ろうとすると、隣のドアが開いた。
「あのう、つかぬことをお伺いしますが、岸田さんはずっとお留守ですか?」
「あら、岸田さんは四、五日前だったかしら、引っ越されましたよ」
第四章 帰らぬ母
有華が引っ越したと聞いて君子は驚いた。
「まさかとは思ったけど」
「えっ、どうかなさいました?」
有華の隣人は君子の動揺を訝った。君子はそそくさとその場を立ち去ったものの、これから華那をどうしようか、自分の旦那様にどう説明しようか、あれこれ思いを巡らせながら家に戻った。
瞬く間に半年以上過ぎたが案の定有華は戻らなかった。君子は有華の親戚関係について何も聞いていなかったので親族に連絡しようにも糸口がつかめない。役所に問い合わせてみたものの、個人情報は第三者には教えられないと突っぱねられてしまった。
華那は君子に言われるがままに母親が連れ戻しに来るのを待っていたが、いつまで経っても母親が来ないので、自分が住んでいた家に行ってみた。ドアをノックし大きな声で、
「ママァ」
と叫んで見たが返事がない。叫び疲れてドアの前にしゃがみ込むと眠ってしまった。
「あら、華那ちゃんじゃない。ママと一緒じゃなかったの?」
華那は隣の奥さんに揺り起こされた。
「あたし、ママに逢いたいの」
「一体どうなってるんだろ」
隣人は面倒なことに関わりたくなかったので華那をほったらかしにして立ち去った。
君子に連れ戻された華那はまだ状況が分かっていなかった。来年小学校にあがる前の年だから無理もない。君子は、
「華那ちゃんは今日からおばさんちの子供だよ。なので華那ちゃんのお家は今日からここよ。分かった?」
「どうして?」
「華那ちゃんのママは遠い所に行っててしばらく帰って来ないのよ」
華那が理解したかどうかは分からないが、その日から君子は自分の娘として育て始めた。有華の状況が分からないので戸籍に入れるわけにも行かず、児童相談所に出向いて相談すると、応対した職員は、
「お話はよく分かりました。本件の場合は育てるべき保護者がお子様の養育をを委棄したものとみなして、児童養護施設へ送ることになりますが、国が定めた里親制度がありますのでご検討なさってはいかがでしょう。児童福祉法が改正されまして、現在は従来の養育里親の他に養子縁組里親、つまり将来あなたの養女として育てられる制度ができております。この制度は六歳未満の児童に適用されるのですが、あなたの場合は既に一年近く実質的に養育なさっておられますので、その場合には八歳に達するまで養子縁組里親の申請ができることになっております」
「具体的な手続きはどうすればよろしいのですか?」
「児童養護施設などから紹介された場合には半年程度実際に育てて頂いてから家庭裁判所に申請する必要がございますが、本件の場合は既に実績がありますので養子縁組里親の申請手続きをして頂いて、その上で家庭裁判所に申請をして下さい。もちろん私どもも協力いたします。裁判所では所定の調査をしますので少し期間はかかりますが、問題がなければ特別養子縁組の判定が下ります。そうすると判決の翌日に養子縁組里親の登録が抹消されまして、あなた方の娘として戸籍に入れることができます」
「戸籍ではどんな形になりますの?」
「あなたの場合は既に一歳年上の娘さんをお持ちでいらっしゃいますので、戸籍上は二女として記載され、民法八百十七条の二による裁判判定と言う但し書きが付きます」
「そうなんですか?」
「特別養子縁組で大切なことは、養子にされた時点でお子様の実の親との縁が切れてしまうことです。ですから、あなた方養父母の都合で一方的に縁を切ることは法律上許されていません」
「普通、養子と言えば実の親との縁はつながったままですよね」
「その通りです。普通養子縁組の場合は産みの親との親子関係はそのままになります。けれど今回のように特別養子縁組にしますと、産みの親、つまり岸田さんとの親子関係はなくなってしまいます。お子様の将来を考えますとその方がすっきりすると思います」
君子は旦那と相談して華那を養女とする手続きを進めた。
第五章 子供の人生
旦那の敏夫と相談して華那を養女とすると決めて手続きを進め始めたものの、華那の両親と華那の親子関係を自分たち夫婦の一存で断ち切ってしまってもいいものだろうか? 考えてみれば自分たちは恐ろしいことをしているのではないかしらと君子は思った。自分がお腹を痛めて生んだ子供の人生ならば親が子供の人生を決めたとしても許されるような気はするのだが、華那と特別養子縁組関係を結んでしまうと、戸籍上華那の生みの親は存在しなくなるのだ。けれども、無邪気に遊ぶ可愛らしい華那を手放したくない気持ちが勝って、難しい問題には目を瞑った。
華那との特別養子縁組の手続きは滞りなく終わって、華那が君子の子供になって間もなく、華那は小学校に上がった。
華那はすっかり明るさを取り戻し、学校の教師の評価も良かった。お友達もできて、時々お友達を家に連れてくるようにもなった。
小学校ではお稽古事をしている子が多かったが、君子の家計ではお稽古事をさせるほどの余裕はなかったから華那は学校から帰って宿題を済ますと商店街を遊び歩いた。
月日が経つのは早いもので、華那は小学校六年生、一つ上の姉は中学生、長男のお兄ちゃんは中学3年生になった。上の子たちの成績は中位だったが、華那は成績が良くクラスで一位、二位を競うほどだった。君子は実の娘咲恵を叱りつけた。
「華那は宿題を済ませてから遊びに行くのになんで咲恵は宿題をほったらかして遊びに行くの? そんなだから成績が悪いのよ。少しは華那を見習いなさい」
「ママ、華那が街に出てどんなことしてるか知ってるの? 華那の全てを知ってから文句を言えば」
「そんなことは結果を出してから言いなさい。華那は結果を出してるでしょ。先生の評価もいいんだから」
「ママは実の娘よりもらいっ子の方を贔屓するんだからぁ。やってらんないよ」
女の子も中学生になると、口論では母親に負けてないのだ。
子供を育てる上で姉妹を比較して一方を叱ると、姉妹の心の中に亀裂ができてしまう。そんなことが続いて、年上の咲恵は陰で華那を虐めるようになった。最初の間は遊ぼうと外に連れ出して、突き転ばしたり叩いたり華那の洋服をわざと汚したりしたが、次第にエスカレートして大切にしている物を捨てたり、ランドセルの中に虫を入れたり陰湿な虐めを繰り返した。それでも華那の成績が落ちることはなかった。華那は姉の咲恵がやっているのを分かっていたがやられても黙って我慢していた。
そんなある日、華那が咲恵の虐めに抗い咲恵と口論している内に寺の参道の階段付近でもみ合いになり華那が押した弾みに咲恵は階段から転げ落ちてしまった。頭から血を流して倒れている咲恵に、
「お姉ちゃん、大丈夫」
と声をかけたが反応がない。華那は泣きながら近くにいた大人に助けを求めた。
第六章 喧嘩のあと
「お姉ちゃんごめんね」
サイレンの音にかき消されるほどの小さな声で華那は叫び続けた。
病院で救急治療室に担架に乗せられた咲恵が運び込まれて治療室のドアが閉じられると、華那ははその場にへたり込んだ。間もなく知らせを聞いて母と亮兄ちゃんがやってきた。
「階段から落ちたんだって?」
君子の問いに泣きじゃくりながら華那は頷いた。
咲恵の怪我は予想以上にひどかった。全身打撲の他に頭部を強く打っていて医師は、
「明日検査結果を見てからお話ししましょう」
と言った。
どうしてこんなことになったのか君子に色々聞かれたが華那は答えなかった。答えれば長い間続いた咲恵の虐めについて話さなければならなくなるが、華那は何も話したくなかった。
咲恵が回復するまで一ヶ月以上かかったが、退院した時には傷口は塞がり元の元気を取り戻していた。だが、この時から君子は咲恵を叱らなくなったせいか、咲恵は華那を虐めなくなった。しかし、咲恵と華那はお互いに殆ど口をきかなくなった。
華那が高校に進学した時、長男の亮は大学に進学した。一流大学ではないが、経済学部にストレートで合格した。亮は咲恵にも華那にも優しかったから華那は亮には心を開いて接していた。
第七章 娘の行動
咲恵は小学校の時から学校が終わると友達と集まってお喋りしたり、家でテレビを見ていることが多かった。完全学校週五日制になって土曜日と日曜日は殆ど遊んで過ごした。お休みの日には友達と街に出て街中をぶらぶらしたり、たまに揃ってディズニーランドに出かけたりもした。中学校に進んでも高校に進んでも同じパターンだ。咲恵は私立の高校に進んだから土曜日は補習の授業がありお休みではなかったが、時々授業をサボって遊び回った。毎月母からもらうお小遣いは少なかったが、特に不自由は感じていなかった。
華那は違った。小学校の高学年になってから、学校から帰ると直ぐに宿題を済ませて街に出た。街に出ると本屋で立ち読みをしたり、CDショップに立ち寄って好きなアーチストの曲を試聴して過ごした。試聴は無料で音質も良く、お金を使わないで充分に楽しめた。
華那はCDのケースを見るのが好きだった。アーチストの顔写真があったり、イラストレーターが魅力的なデザインをしたものを見るだけでもわくわくした。
DVDのレンタル屋さんに行くと、色々なジャンルのビデオが並んでいる。借りるとお金がかかるので、華那はボックスに印刷されたストーリーの解説文を読んだ。解説文を読むだけでもどんな内容かが分かり結構楽しかった。中には十五禁とか十八禁と印刷されたものがあるが、ボックスの印刷を見るだけでは咎められることはないので、そんなものも興味深く見た。
お昼休みには学校の図書室に行って色々な本を見た。小学校の頃はアンデルセンとかグリムなどの童話の他に日本の昔話を良く読んだし、偉人伝や歴史書、図鑑も好きだった。学習参考書は借りてきて自宅で就寝前に読んだ。
夕食後街に出ると、時々町の図書館に通った。図書館には学校には置いてない大人の読み物が揃っていた。中学生になると、図書館で英文の恋愛小説を借りてきて辞書を片手に読んだりもしたし、数学の本も大好きだった。特に数学ガールシリーズ、人生を変える数学そして音楽、とんでもなく役に立つ数学などはお気に入りの本だった。
ある日いつものようにCDショップで試聴をしていると、
「時々会うね。JPOPを聞くことが多いの?」
と見知らぬ青年に声をかけられた。
「どれって決めないで色々なのを聞くよ」
「例えば?」
「クラシックとかジャズなんかも」
「ふーん。おませなんだ。演歌なんかも聞くの」
青年は見たところ学生みたいだ。
「演歌は聞かないよ。フォークは聞くけど」
「今日、これから予定ある?」
「特にないよ。でも九時までには家に帰らなきゃダメなの」
「じゃ、ちょっとだけお茶しない」
華那は青年の後を追ってショップを出た。
第八章 史朗との出会い
「お名前とか教えてもらってもいいですか」
「僕は山形史朗。山形県の山形、歴史の史に良いと月の朗。史はお父さんから一字もらった。朗はほがらかって意味だよ」
そう言って史朗は笑った。
「あたしは華那。名前の意味はわかんないけど、生みのお母さんが有華だったから多分お母さんから一字もらったのかも」
「生みのお母さんってことはもしかして継子?」
「継子って言うのかなぁ。あたしは養女」
「高校生?」
「いやだ、まだ中二だよ」
華那と史朗は歩きながら名前を確かめ合った。二人はCDショップから少し歩いた所のスタバに入った。
「何がいい?」
「チョコレート プレッツェル モカ」
「僕はカプチーノ」
代金は史朗が払ってくれた。史朗はやせ形で爽やかなイメージの青年だった。
「お休みの日は何してるの」
「大抵図書館かな。公園を散歩することもあるよ」
「友達はいないの」
「いるよ。でも図書館とか本屋は一人がいいよ。仲良しの子はうちに遊びに来てもらったり、あたしたちがお邪魔することもあるよ」
「お兄さん……あっ、シロウさんと呼んでもいいよね。シロウさんはお友達いっぱいいるの?」
「付き合ってるのは四人か五人だな」
「女性って言うか彼女、いるんでしょ」
華那が一番聞きたいところだ。
「女のお友達はいるけど、恋人はいまのところいないよ。マジでいないよ」
ウソを言ってるようには思えなかった。
「今度僕のところに遊びにこない? 一人で嫌だったらお友達を連れてきてもいいよ」
「じゃ、お友達を誘ってく」
こうして華那と史朗は親しくなった。
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
「シロウさんは大学生でしょ? どこに行ってるの」
「K大だよ」
「すごっ、頭いいんだね。今何年生?」
「それほどでもないよ。一年だよ。入ったばっか」
時計を見ると八時半を回っていた。
「そろそろ帰らなくちゃ」
「携帯持ってる?」
「まだ持ってない」
「今時の中学生じゃ珍しくない?」
「珍しいかも。お友達は全員持ってる。連絡は家の電話でいいよ」
史朗と別れて家路を急ぐ華那は何となく気分が良かった。男性とこんな話をするのは初めてだったからだ。中学では男子生徒と話すことは殆どなかった。華那は少し年上の男性の方が自分には合ってると感じた。
第九章 疑惑
華那に会ってから一週間が過ぎて史朗は華那が教えてくれた番号に電話をしてみた。
「もしもし、山形です。土田さんのお宅ですか」
「はい。土田です」
「もしかして華那さん?」
電話に出たのは咲恵だった。
「いいえ」
「すみません。華那さんをお願いします」
「……」
しばらく間があいた。
「華那さんはいらっしゃいますか」
「いません」
突っ慳貪な返事だ。
「じゃすみませんが山形がこの前のスタバで待ってますと伝えてもらえませんか」
「CDショップの先のスタバ?」
「はい。そこです」
ガチャンと電話は切れた。
スタバで山形は華那が笑顔で入ってくるかと出入り口を見つめていた。だが一時間過ぎても二時間過ぎても華那は来なかった。
「おかしいな。ちゃんと電話をしたのになぁ」
咲恵は山形と言う男がどんな奴か知りたくなった。それで華那には伝言を伝えずに密かにスタバに行ってみた。客は少なくカップルが二組の他に学生風の男が人待ち顔で入り口の方を見ていた。咲恵が店に入った時もはっと自分の方を見ている感じだった。咲恵は店を出ると外から店の中を覗いて男の顔を確かめた。
「華那の彼氏だな」
と呟くと家に戻った。
史朗は一週間後もう一度華那に電話を入れた。
「もしもし、華那さん?」
「……」
「もしもし、土田さんのお宅ですよね」
「あんた、華那、華那と言うけどそんな子は家にはいないよ」
ガチャンと電話は切れた。史朗は電話の相手を訝った。確かに[そんな子]と言っていた。おかしい。相手が華那に関係のない者であれば、華那がそんな子だと素直に口には出ないものだと史朗は思った。
第十章 史朗との再会
仲良しのお友達を誘って、華那が史朗が住む1DKのマンションを訪ねたのは初めて会ってから一ヶ月も過ぎていた。
史朗は華那にもう一度会いたいと思って時々CDショップに足を運んだがまだ会えずにいた。二度ほど電話をしたが変な応対にあったから電話をかけるのを躊躇していた。あれからもう一月近くになる。
「教えてもらった電話番号は間違ってなかったようだけど、おかしいな」
ひとりぶつぶつ呟きながら三度目の電話をかけてみた。
「はい、土田でございます」
電話に出たのはどうやら年配の婦人らしい。
「もしもし、山形と申します。そちらに華那さんと言う方はいらっしゃいますか?」
「華那なら娘ですが、何かご用ですか?」
母親なら知らない男性から電話があれば一応警戒するものだ。
「華那さんは今ご在宅でいらっしゃいますか?」
相手の丁寧な受け答えに少し警戒感が薄らいだ君子は、
「今は出かけておりますが」
と答えた。
「恐れ入りますが、090-XXXX-XXXXにご都合の良い時ご連絡頂くようにお伝え頂けませんでしょうか」
君子はメモを取り伝えておくと答えた。
「華那に誰から?」
側で聞いていた咲恵は先ほどから聞き耳をたてていた。
「山形さんって方からよ」
「あたし、その人知ってるよ。なんか不良っぽい男だよ。華那に話さない方がいいよ」
「そうなの?」
「へんな人と付き合わない方がいいよ」
夕飯の時、君子は華那に聞いた。
「あなた山形とか言う人と付き合ってるの?」
「一度しか会ってないから。付き合ってるとは言えないかも」
「どんな人?」
君子は咲恵から聞いてはいたが華那にも聞いてみた。
「K大の一年生ですってよ。お友達を誘って遊びに行く約束してるんだ」
「本当にK大なの」
「ウソをつくような人じゃないと思うけど」
君子は咲恵の言葉が気になっていた。
「そう? 電話を欲しいそうよ」
君子が華那にメモを渡そうとしたらさっと咲恵が取って、ポケットにしまい込んだ。
「お姉ちゃん、あたしに見せてよ」
「あんな奴と付き合っちゃダメよ」
「お姉ちゃん知ってるの?」
「知ってるよ」
その夜、華那は夜中に起きてこっそりと咲恵のポケットをまさぐりメモを見付けると電話番号を書き写し、また元通りメモを咲恵のポケットに戻した。
翌日華那は史朗に電話を入れた。
第十一章 拒否
史朗は華那の母親らしき女性の応答を聞いて、かけた電話番号は間違っていなかったと確信した。この前に電話をした時には若い女性の声で華那なんて子はいないと取り次ぎを断られてしまった。
華那は継子か養子で末っ子だと聞いていたから、もしかして意地悪されたのかと推測した。今度は母親らしき人に頼んだのでちゃんと自分の携帯の番号を伝えてくれるだろうと思った。
咲恵は朝登校途中に友達の携帯を借りて史朗に電話を入れた。
「もしもし山形さんですか?」
史朗は華那からの電話を待っていた。思ったより早く連絡が来たので、
「華那さん、やっと連絡が取れたね」
と相手も聞かずに答えた。しかし何か違和感がある。最初に会ったとき、お互いに史朗、華那と呼び合う約束だったのに、今日は山形さんですかなんて呼ぶのはおかしい。
「あのう、山形さんですよね」
「はい」
「一人でも会ってもらえますか?」
「僕は構わないけど」
「良かったぁ。じゃ今日の夕方でもいいですか?」
「いいよ」
「おかしいな。声が少し違うような気がするけど」
史朗は思わず呟いた。
「なんか可笑しいですか」
「いや別に」
「この前のスタバでもいいですか?」
「いいよ。じゃ六時半ってことで」
「上手く行ったな」
咲恵は華那を出し抜いて自分が山形とデートできると思うとわくわくした。この前華那に黙ってスタバに様子を見に行った時、山形のスタイルや感じを見てすっかり気に入っていた。華那になりすまして行ってから自分は華那の姉だと説明すればいいやと考えていた。
夕方五時頃史朗の携帯が鳴った。
「もしもし、史朗さんですか?」
「あれっ、六時半に会う約束じゃなかったっけ?」
「そんな約束してません。今初めて電話してますけど」
それで史朗は全て分かった。六時半に約束した女の子は華那とは別人、多分華那の姉だろう。
結局華那がお友達を一人誘って六時に史朗のマンションを訪ねることで話は決まった。史朗は華那の姉らしき女の子から電話があり、六時半にスタバで会う約束のことを敢えて言わなかった。
史朗のマンションは1DKだが、広くて綺麗だった。
「素敵なお部屋」
華那の友達の麻里が感嘆した。
華那と麻里はコーヒーをご馳走になってから史朗にパソコンの使い方を教えてもらった。
「夕飯まだだろ? お腹空かない」
「空いてる」
華那と麻里が同時に言ったので三人で笑いこけた。
「パスタでもいい?」
「もちろん。あたしたちパスタ大好きだよ」
史朗は手際よく三人前のパスタを作った。
七時を過ぎても咲恵の前に山形は現れなかった。山形の携帯に電話を入れてみたが電源を切ってあるらしい。午後八時を過ぎて、咲恵は席を立って家路についた。無茶苦茶にむかついていた。こんなにむかついたのは初めてだ。
第十二章 尾行
その日華那は宿題を済ませるといつものように家を出た。華那が出てから咲恵はこっそりと華那の後をつけた。華那はCDショップに立ち寄って音楽を聴いてから、図書館に立ち寄って借りた本を返却してそのまま家に戻った。咲恵は華那が山形と言う男の所に行くだろうと予想していたが外れてしまい、腹が立って仕方がなかった。
次の日も次の日も尾行を重ねたが、咲恵が尾行していることを知っているかのように、華那は山形を訪ねることはなかった。咲恵はその後も山形の携帯に電話をしたが電話に出てもらえず、そうなると意地でも山形に会いたくなった。
「華那、あんた山形と言う人と会ってるでしょ」
「会ってないよ」
「どうして会わないの」
「そんなこと、お姉ちゃんに関係ないでしょ」
「今度紹介しなさいよ」
「嫌だよ。お姉ちゃん、電話番号知ってるんでしょ。だったら自分で会う約束をして会に行けば」
偶然君子は娘たちの会話を聞いてしまった。
「咲恵っ、あなたあんな不良っぽい人と関係を持たない方がいいって言ってたわね。今の話は何よ?」
「華那が会うなら一応姉としてどんな奴かちゃんと確かめておかなきゃって思ったのよ」
偶然の悪戯か、その時電話が鳴り、君子が取ると、
「山形です。恐れ入りますが華那さんをお願いします」
と華那を呼んで欲しいと言っている。君子は少し躊躇ったが華那を呼んだ。
「華那、山形さんからよ」
華那が立ち上がるより先に咲恵が飛んでいって母親から受話器をもぎ取った。そう、もぎ取ったと言う言葉が合っていた。
第十三章 咲恵の恋
咲恵は母から受話器をもぎ取ると、
「もしもし、あたし姉の咲恵です。何度も電話をしたのに出てくれないのはどうして?」
「……」
史朗は答えなかった。
「もしもし、聞いてるの?」
「聞こえてます。華那さんに代わって下さい」
「あたしじゃダメなの」
「困ります」
史朗はこんな場合の応対に慣れてなかった。
「すみません、華那さんに代わっていただけないなら切ります」
咲恵も困った。仕方なしに、
「華那だってよ」
とぞんざいに受話器を華那に渡した。
「もしもし華那です。何か?」
「今夜、僕の所に来れない?」
「お友達と一緒でもいいですか?」
「困ったな。ライブチケットもらったんだけど二枚しかないんだ」
「じゃ、一人で行きます」
山形との会話はもちろん咲恵も聞いていた。
「今夜何時の約束?」
「お姉ちゃんに関係ないでしょ」
「一人で行ったら許さないから。」
「仕方ないなぁ。じゃ一緒に行ってあげる」
結局華那は姉に譲って一緒に出かけた。山形のマンションに行くと、史朗は当惑した。
「チケット、二枚しかないって言ったよね」
「はい。でも姉がどうしても一緒じゃないと許さないって言うから。あたし遠慮しますから、姉と一緒に行って下さい」
いつもそうだ。咲恵に強引に押されると華那は譲ってきた。今夜も仕方なく咲恵に譲った。史朗は不満そうだったが、ごめんなさいと謝って立ち去った。華那は図書館に向かった。八時までなら開いている。
咲恵は史朗に積極的だった。史朗の腕に自分の腕を絡めて駅に向かった。ライブ会場は賑わっていた。咲恵は恋人のように史朗に抱きついてリズムに合わせて燃えた。
積極的な咲恵の行動に史朗は最初は戸惑ったが、華那の姉なので邪険には扱えず、次第に咲恵のペースにはまり込んだ。
深夜、咲恵は少し酔って家に戻った。君子はそんな咲恵を叱ったが、ベッドに入ってからも咲恵は気分が高揚していた。華那はもう寝息を立てて眠っていた。
第十四章 パソコンの勉強
「史朗さん、パソコンの続き、教えて下さい」
「夕方ならいいよ」
「じゃ、お邪魔します」
華那は図書館でパソコン関係の参考書を借りてきて、今まで教えてもらったことをおさらいしていたから、史朗の説明は良く理解できた。今まで何も知らなかったウインドウズとかアンドロイドはパソコンや携帯でプログラムを動かす上でベースになる大切なOSだと言うことも理解できたし、それぞれの違いや仕組みも理解できた。インターネットに接続する時に大切なドメイン、IPアドレス、URLなども覚えた。
夢中になってパソコンをいじっていると、チャイムが鳴った。史朗が扉を開けると咲恵が入って来て、史朗に抱きついて史朗の唇を吸った。困惑する史朗の顔を、華那は冷ややかな目で見ていた。
「なんだ、華那も来てたんだ」
「……」
華那は黙っていた。
「あんた邪魔だから帰りなさいよ」
咲恵は華那をパソコンから引き離すと乱暴に華那の腕を取って玄関の方に引っ張って行った。華那は咲恵の手を振り払うと、
「カバンを取ってきて」
と咲恵を睨んだ。史朗が華那のカバンを持ってきて耳元で、
「後で電話くれよ」
と言って華那を押し出した。
華那はもしかして咲恵が来るかもしれないと既に予想をしていたから、別に驚かずに素直に史朗のマンションを出た。
「山形さん、あたしのこと嫌いじゃないでしょ?」
華那が出て行くと咲恵は積極的に史朗に取り縋った。
「嫌いじゃないけど、咲恵さんとはお友達の関係でいようよ」
「そんなのダメ。あたし山形さん大好きだから」
「知り合ってそんなに経ってないし」
「時間なんて関係ないよ。あたしを抱いてぇ」
史朗は困惑した。今まで女性とこんな場面に出くわしたことがなかった。戸惑う史朗を咲恵はベッドに押し倒して抱きつき唇を吸った。史朗は健康な男だ。咲恵に執拗に迫られているうちに、下腹部がむらむらしてきてついに咲恵に屈した。咲恵は明かりを消すと衣服を脱ぎ捨てて史朗のパンツに手をかけた。
第十五章 咲恵の行動
勢いで咲恵は裸になって史朗に抱きついたものの、まだ中三の咲恵はセックスの経験がなく、男の方が導いてくれなければどう先に進めばよいのか分からず、夢中で史朗のパンツに手をかけた。咲恵の手がベルトを外そうとしたとき、史朗の手が伸びてきて、咲恵の手首をつかんだ。
「咲恵、まずいよ。やめようよ」
そう言うと史朗は起き上がって明かりを点けた。
「いや、恥ずかしいっ」
咲恵は毛布を引っ張って身体に巻き付けた。その前に史朗はあぐらをかいて、咲恵の目を見た。咲恵の身体は小刻みに震えている。
「僕たち結婚してないだろ? 僕はね、こう言うことは結婚してからでないといけないと思うんだ。僕の周りには結婚もしてないのに女と寝たなんて自慢げに話をする人もいるけど、社会には皆が幸せに暮らしていくために自然に出来上がったルールがあると思うんだ。もし、もしもだよ、お互いの親兄弟も知らない者どうしがこんなことをして咲恵のお腹に赤ちゃんが出来てしまったらどうするの? 僕たちの親が反対して結婚できなかったら、咲恵は中学生でシングルマザーになってしまうだろ? 咲恵も僕もまだ収入がないからどうして生活していくのか難しいよね」
「……」
予想もしない展開に咲恵はどう応えれば良いのか分からず、自然に涙が頬を伝って落ちた。史朗の手が咲恵の頬の涙をそっと拭ってくれると、咲恵は肩を震わせて嗚咽した。
咲恵の嗚咽が鎮まると、
「シャワーしてこいよ」
と言って史朗は部屋を出て行った。咲恵は言われるままにシャワーを使って衣服を着た。
「史朗さん、大人だなぁ」
服を着終わると咲恵は思わず呟いていた。
華那は史朗にパソコンを教わりたいのだが、また姉の咲恵と鉢合わせしたくなかった。それで、史朗にネットカフェで教えてくれないかと頼んでみた。史朗が了解すると、史朗より少し早くネットカフェに出かけた。店に着くと受付の女性の店員が華那の顔をしげしげと見た。
「身分証明書を見せて下さい」
「持っていません」
「学生証とかでもいいですけど」
「持っていません」
「あなた、何歳?」
「十八です」
華那はウソをついた。
「自動車の免許証とか持っていませんか?」
「持っていません」
そのやりとりを側でちらちら見ていた男が華那の所に来て顔をのぞき込んだ。
「あっ、先生っ」
華那の前に立っているのは学校の風紀担当の教師だった。
第十六章 風紀担当教師
華那を指導しようとしている風紀担当教師は学校では厳しい先生として怖がられていた。
「おいっ、土田、この店は十八歳未満の者は入店禁止だ。こんなとこに入って何をするつもりだ?」
「山形さんと言う大学生にパソコンを教えてもらってて、ここで待ち合わせしてます」
「パソコンの勉強ならこんな店でなくてもできるだろ? 援交やってるんじないのか?」
「あたし、そんなことしてません」
「まあいいや。言い訳は学校でじっくりと聞かせてもらうよ」
華那と教師の間のやりとりをネットカフェの受付の女性は興味深そうに聞いていた。
教師は華那の腕を引っ張るようにして学校に連れて行った。教師は華那の家に電話をかけた。電話には運悪く姉の咲恵が出た。
「先生、お恥ずかしいですけど、華那は援交やってるんですよ」
「姉として注意してないのか」
「妹は何を言っても聞きませんから」
この会話で教師は華那が援交目的でネットカフェに入ろうとしていたと確信した。
「援交は犯罪だよ。中学生になればそれくらいは知ってるだろ」
「先生、あたしはそんなことやってません」
「相手は学生だってな。そいつを呼んで聞いてやろうか」
華那は強気だった。
「いいですよ。呼んで話を聞いてから判断して下さい」
教師の予想は当たらなかった。普通援交をしている場合は相手方に迷惑がかかることを考えてのらくら逃げ回るのだ。しかし土田は怯む様子がなく堂々としている。
「分かった。電話番号を教えろ」
「教えますが、先生もしあたしが何もいかがわしいことをしてなかったら、彼とあたしにきちっと謝って下さい」
教師はますます自信が揺らいだ。こんなことは指導を始めてから初めての経験だ。
史朗はネットカフェに着くと辺りを見回したが華那の姿がない。おかしいなと思いながらキョロキョロしていると受付の女性と目が合ってしまった。
「あのう、土田さんと言う女性は中に入られましたか?」
先ほど教師との会話を聞いていた女性は、
「もしかして山形さん?」
と聞き返した。
「あっ、はい。山形です」
「それでしたらさっき学校の先生に捕まって学校に連れていかれました」
「えぇっ、学校に?」
「はい。失礼ですが、援助交際をやってるとか言われて」
「そうですか。援助交際なんて失礼なことを言いますね。僕は一度もそんなことをしたことがないし、彼女には単にパソコンの使い方を教えているだけですよ」
「私にそんなことを言われましても困ります」
その時史朗の携帯が鳴った。
「××中の教師ですが、山形さんですか?」
「はい、そうです。先ほどこちらで援助交際とかなんとか言っておられたようですが、僕はそんなことをした覚えはありません。これからそちらに伺います。彼女はそんなふしだらな女性じゃありません」
教師は華那の姉が言ったことと学生が言ったことのどちらが正しいのか分からなくなった。
そこに史朗が厳しい顔つきで訪ねてきた。
第十七章 押し問答
「君、学生だろ? 学生証を見せてくれないか」
史朗が出すと教師は史朗の学生証を見て、
「へぇーっ、K大か」
と呟いた。学生証を史朗に返すと教師は強気に出た。
「君、この子と援交やってるって噂があるんだがね、ネットカフェに連れ込んでいいことやるつもりだったんだろ」
史朗は教師を睨み付けた。
「仮に援交をやってたとして、何が悪いんですか?」
「君、十三歳未満の少女とセックスしたら相手の同意があるなしに関わらず強姦罪になるのを知らんのか」
「証拠があればの話でしょう。先生は僕が華那さんとセックスをした現場を見たんですか」
「ネットカフェの個室に連れ込みゃ何をしたって分からんと思ってるんだろ? 違うか」
「華那さんが僕に嫌らしいことをされたと言っているんですか?」
「本人が否定してもだ、彼女の姉の証言があるんだよ」
「先生、目の前にいる華那さんを信用せずに他人の話を信じて華那さんを陥れる気ですか」
「他人? この子の姉を他人だと言うのかね。大学生なら常識的に他人とは言わないものだよ」
「先生は何も分かってないですね。華那さんと咲恵さんは戸籍上は姉妹ですが、血のつながりが全くない他人ですよ」
これには教師は驚いた。その時脇で聞いていた華那の担任教師が口を挟んだ。
「先生、彼の言っていることは本当です」
風紀担当教師は一瞬言葉がつまったが、
「仮にそうだとしてもだ、姉が自分の妹が援交をやってて止めても聞かないと言うなら姉の方が正しい思うがね」
史朗は、
「先生と押し問答していてもきりがありません。真面目な生徒を悪いと決めつけて責め立てる先生の品位が問われますよ。援交やって小遣いを稼いで遊び回っている子だったら成績が良くないでしょ。彼女はどうですか?」
と担任教師を見た。
「華那さんは優秀です。いつも学年で一位か二位ですよ」
と答えた。風紀担当教師はそのことを知らなかった。
「先生、僕が援交をするような不良学生だと断定なさるなら、僕は両親に今日言われたことをありのままに話して教育委員会と校長を訴えてもらいます。なんなら新聞記者にも話してもいいですよ。こんなにプライドを傷つけられたのは初めてです」
先ほどから何を言い争っているのかと近付いた教頭(副校長)が、
「先生、ここはこの学生さんに頭を下げて謝って下さい。ことを大きくされたら学校としても困りますからね」
結局教師は史朗に謝るはめになりばつがわるい表情をして引っ込んだ。
風紀担当教師が立ち去ると、担任の教師は、
「山形さんっておっしゃったかしら、少しお話をしてもよろしいですか?」
と史朗の顔を見た。
「はい。どんなお話ですか? 援交の話でしたらもううんざりなんで話を続けたくありません。ほんとばかばかしい話です」
「いいえ、別の話題です。土田華那さんは以前から学習塾に通ってないのに、どうして成績がいいのか疑問に思ってましたのよ。あなたのような方がご指導して下さってるのですね」
華那は黙って聞いていた。
「いえ、華那さんと知り合ったのは最近です。実は華那さんが物知りなので僕も驚いているんですよ」
教師は華那に顔を向けて、
「あなた、普段お勉強はどうなさってるの?」
と聞いた。
「あたし、たいしたことはしてません。本屋さんの立ち読みとか図書館とかで色々な本を読みます。英語とか数学なんかは図書館から参考書を借りて読んで覚えるようにしてます」
史朗が口を挟んだ。
「華那さんのすごい所は、パソコンなんか教えてますと、自分で分からない所は図書館で下調べをしてきて、それでも分からない所を質問してくるんです。なので、僕の知識でも答えられないことがあります。そんな時は華那さんと一緒に勉強してます」
「そうなんだ」
担任の教師は驚いた顔をしていた。
「あなた今中二でしょ? 来年は高校受験の勉強をしなくちゃね。志望校とかは決めていらっしゃるの?」
「特に決めてませんけど、進学校でレベルの高い所に行きたいです」
華那は正直に答えた。
「今の華那さんの実力ならどこの高校でも受かるよ」
史朗の顔に微笑みが戻ってきた。史朗は担任の顔を見て、
「ご参考になるか分かりませんけど、華那さんのお姉さん、しょっちゅう華那さんに意地悪をします。僕と一緒に勉強をしていても邪魔するんです。僕は好きじゃないのに片思いされてしまって、結構迷惑してるんですよ。多分援交の話も彼女の意地悪だと思います」
「そんなこと、華那さんは今まで一度も私に話して下さらないの」
「そこが華那さんのいい所ですよ。あんな意地悪されているのに、今まで一度も僕にお姉さんの悪口を言ってません」
担任の教師は今日の出来事の背景が分かったような気がした。そして、物事を一方的に決めつける風紀担当の教師にも問題があると思った。
史朗と華那は担任の先生に頭を下げて学校を出た。
校門を出ると、不良っぽい少年に取り囲まれた。
「おいっ、××兄貴の言うことを聞かねえやろう、ちょい顔を貸してもらおうか」
××とは風紀担当教師の名前だ。
第十八章 暴力
史朗は暴力沙汰を起こしたくなかった。逃げるが勝ちと言うけれど、華那と一緒では走って逃げても直ぐに追いつかれる。
史朗は携帯で一一〇番を押した。
「不良中学生のグループ数名に取り囲まれて困ってます。直ぐに来て下さい。場所は中学校の正門前です」
「おいっ、どこに電話してるんだよぉ」
一番体が大きなやつが手を上げた。史朗は絶対に自分の方から刃向かわないようにした。ここでは時間稼ぎをするのが一番だ。
史朗が二発腹にパンチをくらって膝を折った時、パトカーが到着した。人を殴ったらその時点で暴行罪が成立することを史朗は知っていた。
警官の姿を見て逃げる少年たちを警官が追いかけて二名が捕まった。史朗と華那は警官に促されて少年たちと一緒に警察署に行った。
「お前ら理由を言えよ」
「こいつらが援交やってるから脅したんだ」
「援交なんてやってませんよ」
史朗が口を挟んだ。
「おいっ、お前ら援交現場を見たのか?」
「見てないけどよぉ。兄貴がこいつらは援交やってるからお灸をすえてやれって言ってます」
「兄貴とは誰のことだ」
「……」
警官は暴力団の舎弟ではないかと思った。
「兄貴とやらの名前を言えよ」
「××兄貴と名前を言ってました」
また史朗が口を挟んだ。
「うるせいな、余計なことを言うな」
不良少年は史朗を睨んだ。
結局××兄貴とは中学の風紀担当教師だと白状させられた。警官は驚いて学校に電話をした所、慌てて教頭がやってきた。
予想もしなかった事件で学校側は対応に困った。こともあろうに風紀担当教師の指示で暴力事件に至ったのだ。警察に通報されてパトカーが出動してしまったので、隠しきれない。万一メディアに情報が流れてしまったら大変なことになる。
学校側は校長が史朗の両親と華那の両親を訪ねて詫びを入れ、内々に始末をした。
事件の波紋は瞬くうちに校内に広がり、風紀担当教師は風紀担当から外され、謹慎処分となった。華那に風当たりが強くなったが、華那は相変わらず平然としていた。
人の噂も七十五日と言われるが、事件の噂が鎮まった頃、華那は中学三年生になり、咲恵は高校生になった。咲恵はあまり成績が良くなく、入試が厳しくない近くの女子高に進んだ。高校生になった咲恵に父の敏夫が携帯をプレゼントした。華那はまだ中学生なので、相変わらず携帯は持たせてもらえないが、史朗との連絡には自宅の電話か公衆電話で充分だった。
第十九章 進学
咲恵が中学三年生の時、学力は概ねクラスの中間であったが、高校に受験した時の学力偏差値は概ね四十六だった。この程度の学力では大学進学率の良い高校には進むのが難しく、結局自宅に近い私立高校に推薦入学した。
蝋梅が綺麗に咲き始めた一月早々、華那は担任教師に呼ばれた。
「土田さん、進学したい高校、もうお決めになったの?」
「はい。第一志望はH高、第二志望はS高にしたいなと思ってます」
「そう? 今のあなたの学力なら狙えるかもね。推薦入学をご希望でしょ」
「いえ、あたしは一般入試の学力検査に応募したいと思ってますけど」
教師は驚いた顔をした。学力検査表に目を落とすと、
「あなた凄いわね。偏差値、七十五もあるのね」
と華那の成績に感嘆した。
「はい。調べてみましたらH高クラスで七十四以上あればなんとか滑り込めそうなので」
「どうして一般入試になさったの」
「腕試ししたいので」
「へぇー、珍しいわね。落ちたらどうなさるの」
「レベルを落として二次募集に応募するつもりですけど」
教師は納得して、華那は自分が考えている通り願書を提出することにした。華那との対話は職員室でもちょっと話題になった。
梅の蕾がほころび始めた二月早々、華那はH高に願書を提出、二月下旬に予定通り入試を受けて、二月末に合格発表を見に出かけた。母親の君子には具体的なことは何も話をしていなかったので、合格発表は史朗に一緒に行ってもらった。
「華那さんの受験番号、これだろ? すごっ、合格だよ」
この時初めて史朗は華那を抱きしめてくれた。華那は合格はもちろん、史朗に抱きしめられて胸がドキドキした。ずっと勉強を見てくれた史朗は自分の妹のように華那をじっと抱きしめていた。
「お父さん、あたしH高に合格したから、通わせてもらってもいい?」
普段はあまり話をしない華那に突然相談されて父親の敏夫は少し驚いたが合格した学校が都立の有名進学校だったので、
「華那、よくやったな。お母さんと相談して通えるようにするよ」
と答えてくれた。
桜の花が咲き揃った四月上旬、華那は私鉄とメトロを乗り継いで片道四十分かけて通学始めた。
そんなある日、警察から電話が来た。君子が受話器を取ると、
「土田咲恵さんはそちらの娘さんですか?」
と問い合わせの電話だ。
「咲恵が何か?」
「あ、詳しいことは来てもらってから、とりあえず署の方に来て下さい」
電話口の警官はやや横柄な応対だった。
第二十章 事件
警察署に出向いた君子の前に、警官に腕を取られて、真っ赤に泣きはらした咲恵が出てきた。
「未成年で、前がないので今回に限ってこのまま帰ってもらうことにしました。今後このようなことがないようにしっかりと諭して下さい」
警官は咲恵を引き渡すと自分のデスクに戻った。
帰り道咲恵はポツリポツリとことのいきさつについて君子に話した。
史朗に一向に振り向いてもらえずに町中をぶらぶらしている時、偶然に中学の元風紀担当だった先生に出会った。先生はそんな咲恵の気持ちを良く聞いてくれたので、咲恵は次第に先生と親しくなり二度、三度と先生に誘われるまま、散歩をして歩いた。コーヒーをご馳走してもらったり、帰りがけにわずかだがお小遣いだと言ってお金もくれた。夕食をおごってもらううちに、五度目のデートで食事の後にホテルに誘われた。
その日カップルズホテルを訪れた若い女連れの男を見て、フロントの女は連れの女が未成年だと直感して警察に通報した。
到着した二人の刑事は、
「室内の監視映像を見せてくれ」
と言って室内の様子を見張った。男は若い女を抱いた後、明らかに紙幣だと分かる物を女に渡した。
「行くぞっ」
刑事たちフロントの女と共に部屋に走った。合い鍵でドアーを開けると、即座に売春の現行犯で男を逮捕した。驚く女と一緒に警察署に連行すると男と女を別々の部屋に入れて尋問した。男はのらくらと犯行を否定したが、女は落ちて全てを白状した。
「おいっ、あんた元中学校の風紀担当だったそうじゃないか。あんたがやってることは最近流行(はやり)のお散歩売春だよ。いわゆる援助交際ってやつだ。分かってんのか」
「……」
「何とか言えよ。お前みたいな男が絶対にやってはいけないことをしてたんだよ。生徒を指導する立場にいた人間が恥ずかしいとは思わんのか」
「あんた偉そうなことを言うが、現職の警官だって、女の子のスカートの中を盗撮して新聞沙汰になったやつがいるじゃないか」
「言わせておけばそこまで言うかよ。そうよ、最近の世の中はこいつはこんなことを絶対にやっちゃいけない立場のやつが破廉恥なことをやるんだ。だからと言ってあんたがやったことを見逃すわけにはいかんぞ」
結局男が自分の行為を認めたので、逮捕され起訴された。
新聞の三面に元中学校の風紀担当教師××が女子高生Sと援助交際中お散歩売春と言う見出して事件が報じられた。
華那は通っている高校が遠く離れていたので、まさか自分の姉の咲恵が女子高生Sだったとは全く知らなかった。
華那は高校でも良く勉強をして、期末テストの成績は学年で三位だった。華那は世の中には上には上がいるものだと思った。華那は史朗とたまにお茶することはあったが、次第に疎遠になり、以前のように頻繁に会うことはなくなった。華那が通う学校は学年約三百名で男女半々の構成だったから女子高生も大勢いた。華那は成績が優秀だったため良い友達ができて、学校が終わると時々仲良しが集まって女子会をやった。女子高生といえども大人びたませた子もいて、話題が恋愛のことになると下ネタが飛び交い盛り上がったが、華那はアルコールを飲むことはなかった。
第二十一章 嫉妬
華那は中学二年生の頃から急に身長が伸び出し、高一になった時は百七十三センチに達して、クラスでも背丈が高い方になっていた。姉の咲恵に比べると小学校の時から少し身長が高かったが、今では十五センチ位の差があり、すらっとした綺麗な体型に咲恵は嫉妬した。
子供の頃から華那が着る物はいつもお姉ちゃんの咲恵のお下がりで、華那は新しい洋服を買ってもらう姉が羨ましいと思ってはいたがあまり気にしないようにしていた。いつの間にか土田家では華那は咲恵のお下がりを着るのが当たり前になっていたが、華那の身長が伸びるに従って丈が合わなくなっていた。
咲恵は華那より太めでウエストサイズが大きかったから、咲恵のお下がりのスカートは華那が着るとヒップハンガーのような感じになって、膝上の丈がちょうどいい感じになったが、ワンピースは丈がちんちくりんで膝上の腿の部分が大きくはみ出し恥ずかしいくらいだ。特に困ったのは袖丈が合わず七部袖のような感じになってしまうので悲しかった。
パンツはもっと悲劇的だ。お姉ちゃんのお下がりはウエストサイズが大きく、ローライズな物は腰回りがだぶだぶで股下が短かすぎちやんとはけない。それで中三の時、洋裁が得意な友達にお願いしてウエストを詰めて丈を別の布で足して伸ばしてもらってはいていた。お直しが上手で、デザインセンスがあるこの友達は高校に進学してからも手放しがたい大切な友達になった。そんな華那の苦労を咲恵は横目で見ながら満足感を味わっていた。
華那が都内でも有名な進学校に進んだことを咲恵は面白くなかった。それでしばしば通学定期券や参考書を隠したり、お下がりとして華那にあげる洋服をわざとボロボロにしてしまったりして意地悪をした。
咲恵の意地悪の原因を華那は分かっていた。原因が分かったからと言って咲恵の嫉妬を避けるのは難しいから、華那は黙って我慢をした。
「お姉ちゃん、あたしがもらってきた化粧品のサンプル知らない?」
「見てないよ。あんたは素肌でも綺麗だから化粧品なんて必要ないでしょ?」
「どこに行っちゃったのかなぁ。今日はお出かけするから使いたかったのにぃ」
「高一でお化粧なんて生意気だよ」
華那がもらってきた二十代向けの基礎化粧品セットのお試しサンプルを見付けた咲恵はこっそりと隠して、華那がいない時に使っていた。
母親の君子は咲恵が華那を嫉妬してしばしば意地悪をしていることに気付いていなかった。咲恵の援助交際事件も元々は史朗と仲良くする華那に嫉妬したのが原因で始まったことも知らなかった。
「子供が悪さをしてここに呼び出される殆どの親は、ちゃんと子供のことをみているつもりでいるようだがね、実は子供のことがまるで見えてないんだ。うちの子に限ってなんて言い訳は耳が腐るほど聞かされてるよ」
と君子に言い放った刑事の言葉の意味を君子は理解するどころか刑事ってやつは嫌なやつだ等と知人に愚痴っていた。
第二十二章 神待ち
咲恵は友達から噂を聞いて友達のアイパッドを使わせてもらって神待ちと言うサイトを開いてみた。開いてみてびっくりした。そこには家出少女が一杯書き込みをしている。
「家出した女の子ってこんなにいるの?」
「バカねぇ。ネットなんていい加減だよ。ほら、ここに家出してみたけどお金はないし行くとこないから誰か泊めてなんてヒロコって名前の女の子が書き込みしてるでしょ」
「ん。なんか可哀想」
「でもさ、これって本当かなぁなんて疑って読んで見る必要もあるよ。あたしが聞いた話じゃ、アルバイトで書き込みしてる男の子がいっぱいいるんだって。なので、ヒロコなんて子は実際には存在してなくて、男性がこの子にメールを送ったら、援交サイトに誘われて結局別の女の子と援交する仕組みになってるんだってよ」
「そっかぁ、でも中にはリアル家出の子もいるよね」
「そりゃいるわよ。最近家出してもお金や泊まるとこに困らない子って結構いるらしいよ」
「神待ちの神様って何のこと?」
「あたしが聞いた話では家出した女の子にお小遣いをくれてホテルとかに泊めてくれる男の人、つまりぃ、家出した女の子から見れば自分を救ってくれる神様みたいな存在だからさぁ、そう言う男の人を神様って言うらしいよ」
「そうなんだ。それで神待ちしてる女の子ってわけか」
「咲恵、あなた本当に書き込みするの?」
「あたしの書き込みにどんな人から返事の書き込みが来るか、なんかドキドキしない?」
「そりゃ、ドキドキするよ。超刺激的だよ」
咲恵はお友達と一緒に書き込みの文を作って送信してみた。
しばらくすると、どんどんと書き込みが届いてあっと言う間に百件を超えてしまった。
「すごぉーいっ。こんなに大勢の人からレスが書き込まれてるよ。誰か選んで返事を書き込んでみようか?」
「ちょっと待ちなさいよ。あなたこの前先生と援交やって警察に捕まったんじゃないの? 今度捕まったらタダじゃ帰してもらえないよ」
「そうだけどぉ、あたし最近なんか寂しくてさぁ、少しお金を持ってる彼氏が欲しいんだ。美味しいもの食べたり、お洋服買ってもらったり」
「でもさ、こんなサイトって怖いこともあるよ。エッチ目的でさ、お金を払えば何をしてもいいって考えてる男の人、多いんだってよ。あたしが知ってる女の子、悪い男と関係して身体も心もすごく傷ついて今は男嫌いになっちゃったんだって」
「怖っ」
「でしょ。咲恵、良く考えてからレスを書き込んだ方がいいよ」
それでも咲恵は諦め切れず、沢山のレス書き込みの中からこの人と思われる人に返事の書き込みをして送信した。
間もなく返事が届いた。
[家出して困ってるんだって? 僕で良かったら会ってみない? 僕は今二十七歳、独身の会社員です]
咲恵は友達と顔を見合わせてから、
[どこに行けばいいの?]
と書き込んで送信した。
「あたし、なんかドキドキするぅ」
咲恵の顔は紅潮していた。
第二十三章 出会い
夕方六時、咲恵はネットで教えられた場所に出かけた。母親の君子には学校が終わってからお友達とお茶する予定で帰りが遅くなると思うと告げてあった。だから君子は全く心配をしていなかった。
目印の茶封筒を持った男をキョロキョロ目で捜したが、約束の場所にはそれらしい男は居なかった。三十分ほど待ってみて、来ないので仕方なく帰ろうとすると、
「もしかしてハナさん?」
年配の、多分四十歳を少し過ぎていると思われる男が咲恵に近付いてきた。咲恵はネットではハナと言う名前で登録していたから、相手はハナさんと声をかけて来たのだろう。
「はい、ハナですが」
「良かったぁ。僕は次郎、森口次郎です。よろしく」
「うそぉ、ネットでは二十七歳って書いてありましたよ」
「あはは、ごめん。正直に歳を書き込んだらハナさんは来なかったでしょ?」
「もちろん来ません」
咲恵は内心腹が立った。怒って帰ろうとする咲恵の腕を男はつかんだ。
「せっかく来たんだから、何かご馳走させてくれよ。今夜は親しい仲間が集まっているから一緒に来てよ」
男はぐいぐいと咲恵を引っ張って行ってタクシーを呼び止めて咲恵を押し込んだ。
「新橋駅前のチャボロック」
次郎が告げるとタクシーは走り出した。店の前で降りると、咲恵を引っ張り出して店の暖簾を潜った。
「おいっ、次郎遅いじゃないか」
店の中では数名の中年男がテーブルを囲んでいた。この界隈では有名なちょっとした焼き鳥屋だ。香ばしい焼き鳥の匂いが立ちこめていて、咲恵は急に空腹を覚えた。
「紹介する。こちらは友達のハナさんだ」
「へぇーっ、相変わらずだなぁ。今日は新しい彼女かぁ」
咲恵がちょこっと頭を下げて挨拶すると、向かい側に座っている男と目が合った。見つめられているうちに、咲恵の胸はドキドキしてきた。
「こっちに来ませんか?」
男が手招きすると、他の男たちも行け行けと目で合図している。咲恵は次郎にちょっと会釈して手招きした男の横に座った。
「一目惚れって言うのかなぁ、僕のハートがあなたに鷲づかみされて取られちゃったよ」
と男は胸に手を当ててはにかむように笑った。その笑い方が咲恵には新鮮に感じられた。
「僕は加藤利昭。よろしくな」
と手を出した。咲恵は軽く利昭の手に触れると顔がほてっているように感じた。男は優しかった。咲恵に何を食べたいかメニューを見せて、食べたいものを次々と注文してくれた。
「お酒、飲めるのか?」
「少しなら」
男は梅焼酎のお湯割りを頼んでくれた。
「乾杯」
「いただきます」
咲恵は少し酔いが回ってきて利昭の肩にもたれかかった。
飲み会がお開きになった時には咲恵はかなり酔っていた。
「次郎、彼女は僕が預かるよ。いいだろ?」
次郎がOKすると、利昭はタクシーを拾って近くのホテルで降りた。咲恵を抱きかかえるようにフロントに向かうと部屋を取った。
部屋に入ると咲恵を抱きかかえてベッドに寝かせて利昭はメモを残して静かに部屋を出て支払いを済ませた。咲恵に悪戯しようと思えば自由にできたが、利昭は咲恵の身体に触れなかった。利昭はもし次郎だったら、今頃この小娘は次郎の餌食になっているに違いないと思った。
第二十四章 外泊
「咲恵、学校でしょ。早く起きないと遅刻するわよっ」
君子は娘たちの部屋のドアーを開けた。
「おかしいわね。もう出かけたのかしら」
咲恵と華那は同じ部屋だったが、いつも華那の方が早くに家を出るので、夕べ咲恵が帰ってないなんて知らなかった。華那は何も言っていなかった。君子は手早く洗濯物を干して、流しの汚れ物を片付けて家を出た。娘たちが大きくなったので、昼間は近所の商店の手伝いとしてパートをやっている。息子の亮は大学生になってからほったらかしにしていた。
咲恵がホテルで目を覚ました時は窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。辺りを見て、ホテルの一室だと直ぐに分かった。昨夜のことは何も覚えていない。洋服は着たままだ。
咲恵は起き上がるとサイドテーブルの上のメモを見付けた。
ハナさん、支払いは済ませてあります。バイキング朝食の分も払ってありますから、朝食を済ませてからお帰り下さい。ハナさんには指一本触れてないから安心して下さい。
下の方に携帯の電話番号と是非また会おうねと添え書きされていた。ハナはメモ用紙をポケットにしまうと朝食を済ませてチェックアウトした。
学校のカバンは昨日家に置いてきた。仕方なく一旦家に戻って出直した。もちろん学校は遅刻だ。
アイパッドを貸してくれた友達が意味ありげに咲恵の顔を見てウインクした。昼休みは彼女の尋問から逃げられないだろうと思った。直ぐに昼休みになった。
「ねぇ、どうだった? 彼ってイケメンだった? もちろんやったんでしょ?」
予想通り質問攻めだ。咲恵は正直に昨夜の事件を白状した。
「もしかして不倫?」
「そんなことまだ分かんないよ」
「また会うんでしょ」
「ん。もう一度会ってみたい。紳士的なオジサンだったよ」
咲恵はこれ以上話したくなかった。何か秘密を持ってしまったようで、それだけでドキドキした。最初に会った次郎と言うオジサンも魅力的だったが、どうやら大学の同期みたいだったから二股は止めておこうと思った。
こうして咲恵と利昭の付き合いは始まった。家出して神待ちをしたわけではないけれど、似たようなものだ。思った通り利昭は礼儀正しくお茶や食事はご馳走してくれるが、ホテルに誘うようなことはなかった。デートは大抵金曜日の夕方、時により夜遅い時間の時もあったが、遅い時はタクシーに乗せてくれた。家族は小学生の息子と娘が二人だと話してくれたが、奥さんのことを聞くと口を濁してきちんと話してくれなかった。咲恵は次第に利昭が好きになり、奥さんのことはどうでもいいと思った。最初から不倫だと分かっていたから恋愛して結婚するなんてことは考えていなかった。
「子供に迫られてね、今度の日曜日ディズニーランドに連れて行かなきゃならんのだけど、ハナさん付き合ってくれるよね」
「どうしようかな」
咲恵は正直一瞬迷った。利昭だけなら遠慮する理由はないが、子供たちと一緒なんてどう接して良いのか分からないから今ひとつ乗り気になれなかった。
「ダメか。仕方ないな。今回は止めておこう」
残念そうな利昭の横顔を見て、
「あたし行きます」
咲恵はそう言ってしまった。
第二十五章 子供たち
日曜日は朝から晴天でお出かけ日和だ。咲恵はお友達とディズニーランドに行くと君子に断ってでかけた。
ゲート付近は混雑して見付けにくいからと言って東京駅で待ち合わせた。
「おはようございます。待ちました?」
「丁度今来た所だ。これが長男の翼、小学校六年生だ。この子は長女の雛、小学校の四年生。こちらのお姉さんはハナさん。パパのお友達だ」
利昭は子供たちを咲恵に紹介した。
「お姉ちゃんの名前はね、本当はハナでなくて咲恵、花が咲くの咲と恵みの恵でサエと読むのよ。ハナはね、実はお姉ちゃんの妹の名前なの」
子供たちは素直に育っているらしく、二人揃って丁寧に頭を下げたのが咲恵にはとても可愛らしく感じられた。利昭はハナだとばかり思っていたのに突然咲恵だと言われて驚いたが、元々次郎とネットで知り合った経緯を聞いていたから、直ぐに頭の中で切り替えた。
四人お揃いでテーマパークのゲートを通過した時既にお昼近くになっていた。休日でかなり混雑していてなかなか入場できなかった。お昼はパークの中のレストランで簡単に済ませて、子供たちと一緒に次々見て回った。咲恵はいつの間にか雛の手を引いて歩いていた。幼児の柔らかな手の感触がとても心地よく咲恵に懐いてくれた雛に淡い愛情が芽生えていた。翼は父親の利昭と楽しそうに歩いていた。乗り物も翼と雛を間に挟んで四人仲良く座った。
「雛ちゃんのママはどうして来なかったの?」
咲恵はさり気なく雛に聞いてみた。雛は急に寂しそうな顔になり、
「雛のママはお休みしていて来られないの」
と答えた。
「もしかしてご病気で病院?」
「ん。重い病気なの」
「ずっとなの?」
「雛が赤ちゃんの時から」
咲恵は雛の泣き出しそうな顔を見てこれ以上聞いちゃいけないと思って話題を変えた。利昭は咲恵と雛の会話を聞いていたが黙っていた。ディズニーランドを見終わって、東京駅の駅ビルで夕食を済ますとお別れになった。雛はすっかり咲恵に懐き、
「お姉ちゃん、一緒にお家にきてくれるでしょ」
とせがんだ。咲恵が返事に困っていると、翼が、
「お姉ちゃん、遠慮しなくてもいいよ」
と雛の後押しをした。結局咲恵は子供たちと一緒に加藤家を訪れた。利昭の家は都心部ではやや敷地が広く七〇坪ほどありそうで、古い平屋だった。
「この家は両親から引き継いだもので、古いけど建て付けはしっかりとしてるんだ」
雛にせがまれて咲恵は雛と一緒にお風呂に入り、そのまま雛を抱きしめながら子供用のベッドに横たわった。雛は安心した顔で直ぐに可愛らしい寝息をたてて眠ってしまい、うつらうつらまどろんでいるうちに咲恵も眠ってしまった。昼間歩き回ったから疲れたのだろう。
どれ位時間が経ったのだろう。利昭に揺すられて咲恵は目を覚ました。
「遅くなったからお泊まりしてもらってもいいけど、ご両親が心配なさるから今夜は帰って下さい」
そう言って利昭は駅まで送ってくれた。
「さようなら。今日はご馳走さまでした」
「ああ、子供たちに良くしてくれて僕の方がお礼を言わなくちゃ」
あれから数日過ぎて利昭から電話が入った。
「ご都合の良い時、妻が入院している病院に同行願えませんか? こんなことを頼める立場じゃないんだけど、雛がどうしてもお姉ちゃんと一緒に行きたいとぐずるものですから」
「雛ちゃんのご希望なら仕方ありません。日時が決まったら教えて下さい」
ピンク、赤、白のゼラニュームが咲き乱れる花壇の間を咲恵は雛の手を引いて利昭と翼の後を追った。横浜にある大きな病院で駅前からバスに乗って病院前で降りた。
「雛ちゃん、お花が綺麗ね。お花にはそれぞれ花言葉があるの、知ってた?」
「知らなかった」
「この綺麗なお花はゼラニューム、花言葉はね切ない望み、早くママが元気になって欲しいと希望を持つことよ」
「ふぅーん、切ないってどう言う意味?」
「切ないはね、悲しくて胸が締め付けられるような気持ちよ。他にも人を好きになって会いたくてたまらない気持ちなんかも切ないって言うよ」
「じゃ、あたしお姉ちゃんに会いたくてどうしようもない時は切ないって言うのよね」
少女も十歳になると言葉を理解する力がついてくる。
「このお花はね他に君ありて幸せって言う花言葉もあるのよ。雛ちゃんのママはきっと雛ちゃんがいるだけでとても幸せだと思うわよ」
そんな話をしているうちに玄関に着いた。
病室に行くとベッドに横たわり軽く目を閉じている婦人が目に入った。利昭が近付くと薄目をあけて、
「いらしたの? 雛も一緒でしょ?」
とか細い声で辺りを見回した。雛を見付けると、
「ママ、会いたかったよ。こっちにいらっしゃい。ずっと元気にしてた?」
近付いた雛を抱きしめて頬刷りする目に涙が光った。
「紹介するよ。時々お世話になってる咲恵さん。こちらが妻です」
咲恵を紹介する利昭から咲恵の方に目を移して、
「あたしの名前は香織よ。子供たちがお世話になりすみません。こんな身体で何もして差し上げられませんけれど、心からお礼を言わせて下さいね。ありがとう」
「いいえ。早くお元気になって下さい」
「妻はね、雛を出産してからしばらく体調を崩していたんだけど、悪くなる一方で一人で動くのが難しくなってしまったんだ。もう八年と少し入院生活を続けているんだ。病名は多発性硬化症と言うそうで、病気が脳に出たり視力障害になったりすることもあるそうだけど、彼女の場合は脊髄が冒されてこんな状態になってしまったんだ。今の医学では病気の原因が不明で難病なんだよ。最初の内は治療費がかかって大変だったけど、何年か前から治療費の自己負担分の一部を国が負担してくれることになって助かっているんだ。難病なら何でもでなくて、五十六疾患が対象で妻の病気にも適用されているんだ」
咲恵は病気のことに疎かったが、八年間以上入院を続けていれば費用はさぞ大変だろうと想像はできた。
帰りがけに
「咲恵さん、ちょっといいかしら」
と香織が引き止めた。
「はい、何か?」
「こんなお願いはとても失礼ですけど、子供たちのことよろしくお願いします」
「あたし、まだ高校三年生なんです。なので何もできませんけど雛ちゃん可愛くて大好きになっちゃったので出来るだけのことはするつもりです。大学に進めば今より時間が取れそうに思います。あっ、お見舞い、また雛ちゃんと来ます。お大事に。早く元気を取り戻して下さい」
香織の目に涙が一杯溜まっていた。
第二十六章 お節介と不倫
「咲恵が付き合ってる男の人、なんかおかしくない?」
「いい人だと思うけど」
「普通はさ、咲恵のようなピチピチギャルと付き合っていればHしたくならないのかなぁ」
「あたしはそうなってもいいって言うかHしてもらいたい気持ちはあるんだけど、絶対に手を出してくれないんだ。やっぱ性格的に変かなぁ」
「そうよ。奥さんとは十年もあれしてないんだよね」
「病気入院してるんだから仕方ないよ」
「それだったら普通の男性ならやりたくなると思うよ」
「そうだよねぇ」
「もしかして、咲恵はお節介やきじゃない」
「そうかなぁ。自分じゃお節介やいてるなんて思ったことないけどなぁ。あたし、不倫してると思ってたけど、奥さんに子供たちをよろしくお願いしますなんて頼まれた時は訳が分からなくなったよ。だってさ、普通は旦那の不倫の相手によろしくなんて言わないよね」
「病気で身体の自由が利かない奥様の気持ち、分からなくもないけど、やっぱ少し変だなぁ」
「あたし、家政婦やらされてるのかなぁ」
「言いたくないけど、そんな気がする。奥様の病気が治ったら、はいさようならなんて用済みで捨てられちゃったり」
「嫌なこと言わないでよ。もしそうだったらあたし落ち込んで立ち上がれないかも」
「お節介か不倫かどっちにしても一度ちやんと告白して抱いてもらったら。その方が不倫してても自分で納得できるんじゃない」
その後咲恵は何度か利昭に告白しようとしたがなかなか良いタイミングがなくて、ずるずると引きずっている間に大学の受験シーズンになり、咲恵は偏差値を参考に近くの女子大に願書を提出して推薦で合格になった。学部を何にしようか迷った末家政学部にした。
「咲恵、合格おめでとう」
両親に祝福されて、四月に晴れて大学生になった。利昭もとても喜んでくれて合格祝いにご馳走してくれた。
「利昭さん」
咲恵は改まった顔で切り出した。
「前からなかなか言えなかったんですけど、大学入学のお祝いにあたしを抱いて下さい」
言ってしまって胸に溜まっていたものが下りてすっきりしたがドキドキして顔が紅潮してしまって恥ずかしくなった。
利昭は黙っていたが、コップの水を飲み干すと、
「どうしても抱いてあげないとダメか?」
と聞き返した。
「ダメです。あたし利昭さんに愛されているのか自信が持てなくて」
「そんなことなら心配しなくてもいいよ。咲恵さん、好きだよ。大切な人だと思っているよ」
結局利昭に抱いてもらえるとはっきりした返事をもらえず、咲恵の心に重いしこりが残ってしまった。
第二十七章 高校三年生の夏
華那は高校三年生になった。周囲の友達は大学受験勉強一色になり、普段友達同士でお茶する機会も減った。
華那は相変わらず進学塾に通わず自分流に勉強を続けていた。史朗とは次第に疎遠になり、もう一年間以上会ってない。
姉の咲恵は最近華那に意地悪をしなくなったと言うか大分大人っぽくなった。大学生になるとこうも変わるものかと思ったが、華那は最近姉が中年の男性とお付き合いしていて、男性の家庭に入り浸りになってしまっているなんて全く知らなかった。利昭との交際は君子も父親の敏夫も全く知らなかった。
進学塾に通っていないのに、華那の成績は相変わらず学年で上位をキープしていた。都内の有名進学校でこの成績なら一流大学に余裕で進めるはずで、華那も自信を持っていた。
成績が悪いやつは勉強嫌いが多い。勉強嫌いだから成績が悪いのか成績が悪くて投げやりになっているのか、兎に角世の中はそんな傾向を示している。成績が良いやつは努力して勉学に励むからか、勉強を面白いと思っているからか様々だが、進学塾ばかりでなく家庭教師を付けてもらうとか、兎に角家計にゆとりがある富裕層の子供の方が成績が良いのも世の中の傾向とも言える。一昔前は最高学府に集まった学生の大半が苦学生だったと言われるが、現在では富裕層の子供たちで占められているそうだ。だから家計にそれ程ゆとりがあると言えない家庭環境で成績が良い華那は現在ではレアなケースだと思われた。
「高校最後の夏休みだからさぁ、あたしたち仲良しが集まって旅行に行く計画があるの。土田さんも行かない?」
華那は相変わらず少ないお小遣いでやりくりしていたから、余裕がなかった。
「あたし、お金ないから無理かも」
「大した予算じゃないから、パパに相談して出してあげるわよ」
誘ってきた友達は大企業の重役の娘で高校生のくせにブランド物で身をかためている。
「そこまでして頂いたら悪いよ」
尻込みする華那を友達が皆で引っ張り結局友達が費用負担してくれて出かけることになった。
出かける先は南伊豆、日帰りの予定だ。総勢六名が揃って出かけた。
綺麗な砂浜で六人の女子高生たちははしゃぎ回った。華那は楽しくて来て良かったと思った。交通費や飲食代は約束通り全て最初に誘ってきた友達が出してくれた。母親の君子にはちゃんと旅行に行く場所やメンバーを話しておいたが、費用負担については何も話していなかった。授業料、交通費、参考書代など家計をやりくりして出してもらっており、そんな費用を捻出するために昼間パートで働きに出ている母親に余計な費用をおねだりする気はなかった。やはり実の娘でない負い目のせいだ。
夕方は海鮮バーベキューだ。最近では食材や道具一切を用意してくれる地元の業者が増えていて、旅行者は食べて飲んでも後片付けは業者任せだからいいとこ取りで遊べる。
バーベキューを始めると五人ずれの大学生のグループが近付いてきた。
「よかったら僕たちと合流しませんか?」
第二十八章 パーティーの果て
華那たちのグループに途中から合流した大学生五人のグループはかいがいしく女子高生たちの世話をやき、面白い話をして雰囲気を盛り上げた。咲恵は友達の中で背が高くプロポーションが良かったせいか、男たちが入れ替わり立ち替わり横に座ってアルコールを勧めた。一気呑みを強いられ仕方なしに応じた華那は今までアルコール飲料を飲んだ経験が殆どなく自分は意外に呑める体質だと感じていた。
しかし、ワイン、ビール、チューハイ、ウイスキーをチャンポンで呑まされ、急に酔いが回ってきて華那の様子がおかしくなってきた。
「ちょっとぉ、あたしたちまだ高校生で未成年だよ。そんなにのませちゃダメよ」
友達が口々に華那をかばってくれたが、男たちは面白がって華那にアルコールを強制した。
突然華那はバタリとテーブルに倒れ込んだ。急性のアルコール中毒なら命が危ないと学生の中の医学部在籍の男が気付いて、水を飲ませ、背中を叩いてはき出させたりしきりに介抱を始めた。それで座がしらけてパーティーはお開きになった。
華那の友達は華那を抱きかかえるようにして、帰ろうとしたが、自分たちもかなり酔っていて、ぐったりしている華那をもてあました。
「どこかで酔いを覚まさせてから帰った方がいいよ」
心配して男たちが華那の身体を支えた。と男性の中の一人が、
「彼女の酔いが覚めるまで僕が残るからみんな引き上げていいよ」
と助っ人を買って出た。
「お前に任せていいのかぁ」
「ああ、僕なら大丈夫だ。あとで連絡するよ」
女性たちも、
「彼女をよろしくお願いします」
と後を頼んで帰路についた。
華那を引き受けた男は、バーベキューセットを扱っている業者が宿泊施設も営業しているのを知っていた。そこで旦那に頼んで部屋を一つ空けてもらい、旦那にも手伝ってもらって華那を室内に運び込みベッドに寝かせた。
「お世話になります。明日の朝までお願いします」
「何かあれば店の方に連絡をして下さい」
旦那が引き上げると、男は華那のバッグの中を弄り学生証を探し当てると華那の名前で記帳した。
「こいつ、いい学校に通ってるな」
と独り言を言いながら、しばらく華那の様子を見ていた。
乱れた華那のスカートの先に伸びる綺麗な太ももを見ながら、男はそっとスカートをめくってみた。可愛らしいショーツが目に入ると男のそこがむらむらしてきた。
一時間半ほど過ぎて男は店の方に行くと、
「どうやら落ち着いて眠っているようです。僕は帰りますので後をよろしくお願いします」
と言い置いて店を出た。
翌日ふと目を覚ました華那は頭がガンガン割れるように痛く、なんとも言えない気持ち悪さに襲われて戸惑った。そこに店の旦那が顔を出した。
「お嬢さん、二日酔いだよ。今日一日は気分が悪いと思うけどな、心配は要らないよ」
様子を見ると旦那は去った。
華那は乱れた洋服を整えようとして、はっとした。ショーツが途中まで脱がされたままで白いシーツの上に少し赤い血が滲んでいる。華那は記憶は朧だが、レイプされたと確信した。
華那は携帯を取り出して一一〇番をプッシュして強姦されたと通報した。
四十分近く過ぎてパトカーが到着、静岡県警の女性警察官が二人訪ねてきた。店の旦那は驚いた。
第二十九章 親告罪
婦人警察官は華那の気持ちを察して丁寧に応対してくれた。
「先ず婦人科の先生に診て頂いてから詳しいお話をして下さいな」
そう言って華那を近くの医院に連れて行ってくれた。医者は若い女医だったので華那は良かったと思った。
「診せてもらった結果、男性の精液が付いていましたから明らかにレイプされたようね。膣内を洗浄して綺麗にしておきましたけど、時間が経ってますから、妊娠される可能性があります。もし妊娠だと分かったらなるべく早く堕胎手術をなさるか出産なさるかお決めになった方がいいわよ。相手の方が良く分からない状況では普通は堕ろされる場合が殆どだわね。一応診断書を書いておきますが、他の病院で堕胎手術をなさる時役に立つと思います。診察料の請求書と一緒に郵送しますから、ここにお名前とご住所、電話番号を書いて下さい」
医師はメモ用紙を出した。
「先生、ありがとうございました」
「お大事に」
「やはりレイプされたのね。強姦罪は親告罪だってことご存じ?」
「いいえ」
「親告罪と言うのはあなたの方から告訴されないと罪として罰することができないのよ。なので相手を逮捕するには告訴手続きをして頂く必要があるの。あなたまだ未成年でしょ。未成年者の場合は普通はご両親のどちらかから出して頂くのよ。未成年者は告訴できないと言う訳ではないのだけど、強姦された場合、お子様の将来を考えてご両親の判断に重きが置かれていると考えるといいかしら」
「あのぅ、両親には内緒にしておくわけにはいかないのですか?」
「どうして? 娘を持つ親にとっては大変なことだけど」
「あたし、実の娘じゃないんです」
それを聞いて警官は事情があるのだろうと察した。
「安心なさい。あたしたちは決してご両親や他人に事件のことを漏らしませんから」
警察官は店に戻って聞き込みを始めた。告訴されていなくても、捜査はできるのだ。
最初華那をレイプした男を割り出すのは簡単だろうと思われたが、捜査は難航した。先ずバーベキューを申し込んだ者はその場で現金を支払ったので、店の旦那は名前すら聞いていなかった。華那の友人に電話を入れてみたが誰もどこの誰だと正確に記憶をしていなかった。店から立ち去った男たちが乗った車のナンバーも分からない。レイプした男は駅までタクシーに乗ったが、運転手の記憶は曖昧で役に立たなかった。駅でどこまでの切符を買ったかは分かったが熱海まででその先は不明だ。駅構内のビデオ映像を調べたところ、男らしき者が乗車する映像は割り出せたが顔までは鮮明に記録されていなかった。宿帳には華那の名前で記帳されていたから男について知る情報はない。男がわざわざ華那の名前で記帳したのは宿泊費を支払う意志がなかったのか、最初から計画的で痕跡を残さないためかも不明だ。
「これじゃお手上げだわね」
二人の女性警察官は意気消沈している様子だ。
「土田さん、あたしたちは一旦署に戻ります。良かったら駅まで送ってあげるわよ」
それを聞いていた店の旦那は、
「こんな時で申し訳ないけど、宿泊費を払って下さい」
と華那の顔を見た。
「済みません、あたしお金を持っていません。帰りの電車賃だけでギリギリです」
旦那の目は吊り上がった。だが警察官が一緒なので、
「仕方ないな。あんたの住所と名前、電話番号をここに書いといて」
とノートを差し出した。
駅で警察官にお礼を言うと華那は電車に乗って東京に戻った。都内まで来ると学生定期券が使えるから家までは帰れる。
第三十章 襲いかかる不安
婦人科の医師にもしかして妊娠するかも知れないと言われたことがいつまでも頭の中に残っていて、華那は不安な日々を過ごしていた。あれから一週間も経たないうちに、華那の勉強机の上に二通の封書が届いていた。婦人科の病院と宿泊した施設から請求書だ。産婦人科の請求書の中には診断書が同封されていた。多分母親の君子が置いたに違いない。
案の定、
「華那、病院から届いた郵便、何なの?」
と君子に聞かれた。
「何でもないよ。旅行先で車酔いしたから診てもらったんだ」
「そう? それなら心配ないけど、何かあれば正直に話してちょうだいよ」
「分かった」
華那はうまく誤魔化せたと思った。病院の請求額は二万五千三百円となっていた。こんな大金を華那は持っていないからこっちの方が問題だ。宿泊施設の方は六千五百円、合わせて三万一千八百円だ。こんなお金を母にお願いしたら、確実に白状させられてしまうと思うと不安になった。
夏休みが終わって新学期が始まった。学校に通う途中、ついあれこれ考えてしまう。お金をどうするか思案したあげく、史朗に貸してくれと頼んでみようと思った。
しばらくぶりに史朗に電話をかけてみたが通じなかった。それで、近日中に会いたいです。メールを見たら電話を下さい。念のためあたしの携帯の番号です。とメールを入れておいた。二日経っても史朗から何も連絡がなかった。華那は珍しくあせった。史朗さんに会えなかったらどうしよう。もう一年以上会ってないからあたしのことなんか忘れちゃったのかなぁとかまた色々考えてしまう。
四日後に史朗から電話が来た。
「華那さん、しばらくだね。ずっと元気にしてた?」
「はい。ご無沙汰してしまってごめんなさい。また会ってくれます?」
「ああ、いいよ。骨折して一週間ほど入院してた。携帯、電池切れちゃってさ」
「そうなんだ。どこの骨を折ったんですか」
「左足の臑のあたり」
「痛かったでしょ」
「そりゃ痛かったよ。バスケで遊んでいる時転んで、打ちどこが悪くてさ、折れちゃった。痛いのなんのって死ぬかと思ったよ」
と史朗はカラカラと笑った。多分大分回復しているのだろう。
「じゃ、直ぐに会えないよね」
「まだ杖をついてるけど、会いたいなぁ」
二日後に会ってもらえることになって華那は良かったと思った。史朗には全てを打ち明けて助けてもらおうと思った。
第三十一章 妊娠
待ち合わせ場所に行くと、松葉杖をテーブルに立てかけた史朗がにこにこして手を挙げた。華那はこの瞬間涙が出てしまうと思うほど嬉しかった。
「しばらく会わないうちに素敵な女性になったなぁ」
今までは妹を見ている目しか感じなかったがこの時初めて華那は史朗が自分を女として見ているような気がした。
「カフオレ頼んだけど何にする」
「あたしブラック」
店員にブラックコーヒーを追加オーダーした史朗は、
「話が溜まっちゃったな」
と呟いた。
「あたしも。何から話せばいいんだろ」
「あはは、僕たちそんなにお喋りじゃないのに話が溜まっちゃうなんておかしいね。ところで僕に話したいことあるんだろ?」
華那はどう話を切り出そうかと思いながら、
「あたしレイプされちゃった」
と唐突に言ってから顔が紅潮して唇が震え、知らず知らず涙が頬を伝った。少し離れた席の女性がこちらを見ているような気がした。史朗の顔に驚きの眼差しがあった。
「それって本当か? どこで? 相手は華那が知ってるやつか?」
今度は怒りの表情が史朗の顔に表れた。
「お友達と思い出作りに伊豆に行った時、知らない男性のグループと合流してバーベキューパーティーやって、その時無理に呑まされちゃって意識を失ってしまったらしいの。それでいつの間にか民宿の部屋に担ぎ込まれて、朝起きた時は誰もいなくて……」
華那は言葉に詰まって泣き出しそうだ。
「レイプされたのは確かなのか?」
「警察に通報して病院に同行してもらって婦人科で診てもらったら間違いないって」
「華那をやったやつは見付かったのか?」
「一応捜査してもらったけど、まだ見付からないみたい」
史朗はしばらく黙って優しい目で華那を見つめていた。
「で、どうするんだ?」
「どうするって?」
「決まってるだろ。妊娠だよ」
「お医者様は妊娠したと分かったら出来るだけ早く堕ろした方がいいって」
「だろうな」
「ご両親はなんて言ってるんだ?」
「警察で両親には内緒にして下さいって頼んだの」
「ってことは、まだご両親はレイプされたことを知らないんだ」
「ん。このことを姉に知られたら意地悪されるから」
「だろうな」
君子は華那を引き受けた時から自分の実の娘だと思って育ててきた。だが、その思いがあって、何かにつけて実の娘の咲恵より気を遣ってきた。無意識にそうなってしまっいる自分を第三者が見たら多分差別しているように映るだろう。華那はそれを感じていた。そのため、実の母子なら真っ先に母親に相談するだろう重大な事実を母親に隠した。
史朗は華那の顔を見ながらじっと考えている様子だ。華那も黙っていた。
「もしもだよ、赤ちゃんができたら堕ろすのか?」
「まだ分かんない」
「華那がもし誰か好きな人と将来結婚したくなった時、子供が居たら不利だよね」
「相手にもよるけど、多分。史朗さんがその恋人だったらどう思う。男性として」
「僕は本当に相手と愛し合っていたら産れてくる他人の子も一緒に愛するだろうな。でも……」
「でも?」
「想像付くと思うけど、僕の両親は大反対すると思う。その時僕が頑張り通せるか今の時点じゃ自信がないなぁ」
「ってことは別れることもあるってことね」
「そうだね。両親がどうしても折れてくれなければ別れてしまうと思う」
「相手の女性にしがみつかれても」
「結婚後の相手の女性の幸せを考えて心を鬼にして振り払うかも。これって怖い話だよね。ドラマなんか見てると良く出てくる場面だけど、実際に僕の問題になったらその場の情に流されて曖昧にすることはないと思う」
「子持ちだと実際には結婚は難しいってことよね」
「最近離婚、再婚が増えてるから必ずしも難しいとは思わないよ。自分たちのことばかり考えずに子供には愛してくれる両親が必要だからって自分たちが犠牲になって結婚をする人も居ると思う」
「華那は好きな人ができたら将来結婚したいんだろ?」
「もちろんだよ。あたし今は本当の家族が居ないから自分の温かい家庭を持ちたいって気持ちあるから」
史朗はまた考え込んだ。しばらくしてから、
「華那さんねまた会おうよ。大切な話だから自分で納得できるまで考えた方がいいよ」
「史朗さん、ありがとう。実はお願いがあるの。はっきり言うと四万円貸してくれない?」
突然お金の話になって史朗は驚いた。
「急用なのか」
「伊豆の婦人科と民宿から請求書が来てて、あたしお金ないから困ってるんだ。お母さんには頼めないし」
「今手持ちないし、困ったなぁ」
「ダメ?」
「分かった。ちょっとそこまで付き合ってよ」
史朗は立ち上がってレジを済ませて店の外に出た。華那は慌てて史朗の後を追った。
銀行のATMコーナーはまだ開いていた。史朗は預金を下ろすと黙って華那に銀行の封筒を手渡した。
「返さなくてもいいよ」
史朗がくれた封筒には五万円入っていた。華那は封筒をしまったバッグを抱きかかえるようにして家路を急いだ。
第三十二章 母子手帳
史朗がくれたお金で病院と民宿の支払いを済ますと、華那は勉強に専念した。学校の図書室の蔵書は充実していた。やはり歴史が長い学校は大したものだと改めて感動させられた。華那は放課後図書室で色々な本を読みふけった。周囲のクラスメイトは大学受験勉強に時間を取られ、友達同士お茶したりお喋りする機会は殆どなくなった。華那は入試問題の参考書も読んだが、それよりも英語や仏語、中国語など外国語の参考書を読む量が増えた。進路は漠然としか決めていなかったが、史朗が理工学系で、最近理系女の人気が高いことから自分も理工系の学部に進みたいと思っていた。
史朗に会ってから一ヶ月半ほど経って予定日より半月過ぎても月のものが来ないことに気付いた。それで薬屋で妊娠検査薬を買ってきてトイレで使ってみた。
小水をかけてから線が出る窓を見つめている時の気持ちは何とも言えない祈るような気持ちになった。見つめていると、最初うっすらと線が出て、その内はっきりとした縦線に変わった。検査結果明らかに妊娠の表示が出てしまったのだ。レイプされてから二ヶ月も過ぎている。
「あたし、どうしよう」
しばらくぼんやりしていたが、トイレを出ると病院の婦人科に行った。学校には急用で半日休むと届けを出した。
産婦人科の前では小さな子供や妊婦が大勢受診待ちしていた。誰もが幸せそうな顔をしている。
「あたしみたいな人、いないだろうな」
そう思いながら周囲を見ていると、
「土田さん」
と呼び出しがあった。病室に入ると女医さんがそこに座ってと手招きした。予め問診票で妊娠検査と伝えてあったためか、超音波診断と尿検査をしてくれた。
「おめでとう。あなた妊娠されてるわよ」
にこやかに話しかける女医さんの顔を複雑な気持ちで見た。
「あなたまだ未成年だわね。妊娠がはっきりしましたから役所に行って妊娠届けを出して母子手帳をもらっておくといいわ。お大事に」
費用が心配だったが一万円で少しおつりがきて助かった。史朗に余計にもらったお金が役にたった。
役所の窓口で母子手帳を受け取った時、初めて自分のお腹に赤ちゃんが出来てしまったのだと実感がこみ上げてきた。
妊娠したことはまだ母親の君子には打ち明けていなかったが、朝食の時急にむかむかしてトイレに駆け込んだのを見て、
「華那、もしかして妊娠するようなことしたの?」
と君子に聞かれた。横で聞いていた咲恵が驚いた顔で華那を見た。咲恵は多分史朗とHしたに違いないと思った。
華那は咲恵が居るところで答える気にはなれなかった。
「お母さん、学校から帰ってからにして」
そう言い置くとそそくさと家を出た。
第三十三章 堕ろそうか産もうか
「史朗さん会いたい」
「今からか?」
「ダメ?」
「いきなりだなぁ。ちょっと予定あるんだ」
「ダメかぁ……」
電話の向こうで華那の溜め息が聞こえる。
「悪いけど五分後に電話入れてよ」
史朗はどこかに電話を入れた。予定のキャンセルだ。今日は初めて知り合った女の子とデートの約束だった。ドタキャンすれば、もしかして二度目はないかも知れないと分かっていたが、史朗は華那を優先した。
華那から電話が入った。
「これから会おう」
「嬉しい。どこに行けばいい?」
史朗が誘ったのは日比谷公園だった。史朗は多分華那の相談の内容が多分あのことだろうと察して周囲の人を気にせずに話ができる公園の中の鶴の噴水の前にあるベンチにしようと言った。
「お待たせしました。待った?」
「僕も今着いたとこだ。ここいいだろ?」
「素敵な場所ね。こんなとこあるの知らなかった」
鶴の噴水の周りに広がる池に面していくつものベンチがあり、上半分は藤棚になっている。ベンチはほぼ満席でカップルが多かった。二人は空いたベンチに座ると史朗が買ってきたカフェラテを飲みながら話し始めた。
「あたし、できちゃった」
「検査して確かめたのか?」
「ん。産婦人科で診てもらったから間違いないよ」
華那は史朗が予想したより明るく史朗は安心した。
「結論出したのか?」
「史朗さんに話を聞いてもらってから決める」
「ご両親は何て言ってるんだ?」
「今夜話そうと思ってる」
「華那はどうしたいんだ?」
華那は遠くを見てしばらく黙っていた。
「あたし、産むことにした」
「ちゃんと育てられるのか?」
「今聞かれても分かんないよ。一応その方向で両親に話してみる」
「僕の意見を言ってもいいか」
「いいよ。聞きたい」
「僕は賛成だよ。これからすごい苦労があると思うけど、お腹の中の子がいずれ僕たちくらいの歳になった時産んで良かったと思うんじゃないかな。逆に堕ろしてしまったら、華那の中で一生悔いが残るような気がする」
「あたしはね、実の両親がいないから、自分勝手だけど自分と血がつながっている家族が欲しいと思ってる。多分苦労するだろうし育てる自信もないけど、精一杯頑張ってみる」
「当然進学は諦めるっかないよなぁ」
「出来ちゃったんだから産むなら仕方ないよ」
「そっちの後悔はないのか?」
「そりゃあるよ。でも初めてあたしの家族が誕生することと比べたら諦められる」
「随分考えたなぁ。華那は偉いよ。頑張れよな」
「ん。ありがとう。あたし頑張ってみる」
華那は既に心の中で結論を出していたが、史朗に賛成してもらって不安が少し軽くなったような気がした。
夜、父親の敏夫が夕食を済ませた後、
「お父さんとお母さんに相談があるんだ」
いつもはパパ、ママと呼んでいるが今日は改まってお父さん、お母さんと言った。
「進学のことか?」
と父は妻の君子の顔を見て聞き返した。
「それもあるけど」
「話を聞いてあげるよ。話してごらん」
「あたし、お腹に赤ちゃんが出来ちゃった」
「えっ、誰の子だ」
「それが、分からないの」
「華那、今自分が言っていることがどんなことか分かってるのか」
「分かってる」
君子はやはりと言う顔で黙っていた。
「今まで何人の男と付き合ってきたんだ?」
「あたし、恋人ってか彼は今まで一人もいないよ」
「じゃ、どうして妊娠なんかしてしまったんだ?」
「この前お友達と伊豆に行った時レイプされたの」
「レイプした男は知ってるやつか?」
「全然。警察で捜査してもらったけど手がかりなしでまだ見付かってない」
華那は今までのことを包み隠さず打ち明けた。父親の愕然とした顔が怒りに変わった。
「華那、可哀想に。一人で悩んでいたのね」
君子は華那を引き寄せて抱きしめた。
「ママは何も知らなくてごめんね。辛かったでしょ」
今まで堪えていた感情が吹き出して華那は君子の胸の中で泣いた。
「直ぐに堕ろしなさい。ぐずぐずしてると堕ろせなくなるわよ」
「そうだ。父親が分からない子供を産んじゃダメだ」
両親は強く反対した。
「あたし産むよ。産むと決めたの。産れてからしばらくの間お父さんとお母さんに応援して欲しいけど、その後はあたし一人で育てる。頑張るから産んでいいでしょ?」
「華那はまだ分かってないようだけど、育てるのって大変ですよ。結局お母さんが育てることになっちゃうわね」
「迷惑はかけないよ」
「子育てのお金はどうするの?」
「高校出たら就職して働く」
「華那、進学はしないのか? 華那は成績がいいから一流大学に進学させるつもりだけど。学校に通いながらは無理だよ」
「だからぁ、あたし進学諦めることに決めたの」
「華那の大事な人生だろ。勝手に決めちゃダメだよ。大学を卒業してからいい男に出会ってちゃんと結婚してから子供を産めばいいじゃないか」
「今あたしのお腹の中に居る赤ちゃんを殺してしまうなんて、あたしには出来ないよ」
「産みたくても流産してしまう人だって沢山いるんだから、華那も流産したと思えばいいじゃない。ママもパパの意見が正しいと思いますよ」
「あたし、絶対に堕ろさない」
「分かった、じゃ勝手にしろ。パパはそんな子は認めないからな」
敏夫はさじを投げたように言い捨てて書斎に引っ込んでしまった。
「華那、パパが珍しく怒ってるよ。パパの言うことを聞いて堕ろしなさいよ」
「ママ、あたしの味方になってくれない?」
「どうしようもない子ね。産んでから後悔したってママは責任とらないわよ」
「それでもいいからママだけは認めてくれない」
「華那がそこまで決心してるならママが何を言っても結果は変わらないわね。華那がそんな分からず屋だなんて信じられない」
結局君子を押し切って華那は産むことにした。もし自分が実の娘であっても同じ結果になったのか華那には分からなかった。
第三十四章 美津彦
新道美津彦は工業高校を卒業すると神奈川県東北部の中堅の電子部品メーカーに技術者として入社した。入社当時は従業員一〇〇名足らずの中小企業だったが、輸出が好調な映像機器用部品のお陰で業績を順調に伸ばしていた。入社して間もない一九七三年秋、オイルショックが勃発して経済界に嵐となって吹き荒れ対ドル為替相場は二百六十円代から一気に三百円代まで暴落したが、輸出中心だったため業績への影響は少なく、多忙な日々を送っていた。美津彦がようやく仕事に慣れてきた一九七九年夏、S社から発売されたウォークマンが爆発的に売れ始め、その部品の一部を担う会社の業績は更に伸びて、従業員は三百名以上に膨れあがりその頃美津彦は係長に昇進した。
毎日深夜近くまで残業している美津彦のテーブルに[お仕事お疲れ様]と書かれたメモをクリップで留めた紙袋が時々置かれていた。袋の中にはおにぎりが入っていたり、サンドイッチが入っていたりした。
「誰が置いて行ったんだろ?」
最初は何だか気持ちが悪くて食べずにそっとゴミ箱に捨てた。毒入り饅頭を連想したためだ。そんなことが何回か続いたある日、メモに初めて差出人の名前が書かれていた。
長谷部澄子と書かれていたのだ。[捨てずに食べて下さいね 長谷部澄子]
美津彦が知らない名前だ。
「誰だろう? 下請けの人かなぁ」
正門の守衛室に電話をして夜誰か入門しなかったか聞いてみた。
「男なら三名いますが、女の来客はなかったです」
仕事が多忙で長谷部と言う名前の女性を調べている暇がなかった。しかし、夜食の差し入れは時々ではあったが続いていた。美津彦は相変わらず食べずにゴミ箱に投げ込んだ。
第三十五章 意中の男
「あらぁ、もったいないわね。食べ物を捨てるなんて許せない」
工場内の清掃をしているパートのおばさんは仲間の顔を見て呟いた。
「あたしもこの前袋に包んだままのサンドイッチが捨てられてるのを見たわよ。こんな贅沢なことをしてるのは誰かしら」
総務部に在籍する池田澄子は清掃会社から派遣で来ているパートのおばさんから報告を受けた。詳しく話を聞いてみるとどうやら製造三課のゴミ箱に捨ててあったらしい。製造三課と言えば澄子が密かに夜食を差し入れしている新道美津彦の所だ。それで自分が差し入れした夜食が手も付けずに毎回捨てられていることを知って驚いた。
夜、製造ラインから戻った美津彦の机の上にまた紙袋が置いてあった。
「またかぁ。困ったなぁ」
相変わらずポイとゴミ箱に捨てようとして、メモに気付いた。
[どうぞ捨てないでお召し上がり下さい。
捨てられると悲しくなります 澄子]
「確か長谷部澄子さんだったな。どこの人だろう」
先日社員名簿を調べてみたが長谷部なんて名前の社員はいなかったし、正門の守衛室でも来客名簿に長谷部なんて名字の女性は一人もいないと返事をもらっていた。だが、今日のメモを見るとどうやら捨てていることを知っている様子だ。
「なんだか気味が悪いなぁ。誰かに監視されてるんじゃないかなぁ」
美津彦はミステリードラマを想像して怖くなった。そこで同僚の柏木と言う男に打ち明けてみた。
「確かに不思議だなぁ。うちには長谷部なんて女性はいないし、一体誰だろう?」
柏木は部下に長谷部と言う名前の女性に心当たりはないかと聞いてみたがやはり知らないと言われた。
仕事量が増えているのに増員を抑えているから皆多忙だ。それでこの話はうやむやに終わってしまった。美津彦は捨てられると悲しくなりますと言うメモが頭から離れず、その日紙袋を家に持ち帰った。帰宅後袋の中を覗くとカツサンドと牛乳パックが入っていた。可愛らしい花柄のティッシュがちゃんと入っている。多分手拭き用に入れたのだろう。
「係長、前に質問があった長谷部と言う女性ですが、名前は何て言うのか分かりますか?」
柏木の部下の青年が訪ねて来た。
「メモには長谷部澄子と書いてあったよ」
「澄子ですか……」
青年は少し思いを巡らせたあげく、
「多分人違いだとは思いますが、確か総務部に池田澄子と言う女の子がいます。もしかして彼女じゃないですか?」
池田澄子なら美津彦も知っていた。自分より三年か四年後輩のちょっと可愛らしい愛嬌のある子だ。
「ありがとう。今度それとなく聞いてみるよ」
二、三日後また差し入れが置いてあった。こうなると気になって仕方がない。そこで総務課に行こうとすると、たまたま池田澄子が書類を配りに製造部にやってきたのが見えた。美津彦は何だかドキドキしてきた。近くまで来た時、
「池田さん、ちょっといいかな」
と声をかけた。
「はい?」
その日各課に配布する社内報を両手で抱えて製造部に行くと、澄子がかねて気にかけていてこっそり差し入れをしている新道係長が近付いてきて、澄子の心臓はバクバクした。その新道に顔を見られて声をかけられ、返事がかすれ声になってしまった。
「聞きたいことがあるんだ。ここじゃなんだから、そこの会議室に来てくれないか」
「はい」
澄子は新道を追うようにと言うか周囲の目を気にしながらさっと会議室に入った。
「つかぬことで失礼だけど、長谷部澄子さんって人知ってる?」
「あ、はい。あたしです」
「えっ? どういうこと?」
「実はあたしの母方の姓が長谷部なんです。社内ですと噂が怖いから池田でなくて長谷部でメモを書きました」
「そうかぁ。前から誰だろうと探してたんだけど全然見当が付かなくて。最初から分かっていたら頂いた物を捨てなかったんだけど、食べ物は万一毒入りだったりしたら怖いから……」
「そうですよね。あたし気が利かなくて」
「いや、いいんだ。今度からあんな気遣いしなくていいよ。あなただと分かって良かったな」
「すみません。これ配らなくてはなりませんので」
澄子は人に見られるのではないかとあせった。
「ごめん。余計なことで」
「失礼します」
澄子は逃げるように会議室を出て行った。その後ろ姿を新道はしばらく見ていた。
第三十六章 相場との出会い
総務課の池田澄子の差し入れがきっかけで、新道美津彦との交際は始まった。澄子の度々の差し入れを澄子を知って以降美津彦は喜んで食べた。澄子の真心は次第に美津彦の心に入り込み、休日は社外で度々デートを重ねた。デートの誘いは大抵澄子の方から公衆電話で長谷部を名乗って美津彦を呼び出してもらったから社内恋愛だと周囲に気付かれることはなかった。こうして半年が過ぎた良き日に二人は結婚して会社からほど遠くない場所に貸家を見付けて新居を構えた。都内と違って庭付きの一軒家だが美津彦の給料で何とか家賃を払うことができた。
結婚して一年後懐妊を機会に澄子は退職して専業主婦となった。よくある平凡な出会い
で結婚したが夫婦仲は良く澄子は幸せだった。
長男美津男が誕生してから二年目に次男竜男が誕生、妻の澄子は子育てで多忙な日々を送っていた。
一九八三年、美津彦は課長に昇進したのを機会に銀行から多額の住宅ローンを借り入れて、小さいながら庭付きの新築二階建て一軒家を買って移り住んだ。
管理職に昇進して初めて受け取った賞与は美津彦の予想を上回り、妻の澄子は喜んだ。住宅ローンの月々の返済額はもらってくる給与の四〇%にもなったが今回受け取った賞与の一部を使って株式を買ってみた。澄子には内緒だ。だが、買ってみて驚いた。買った銘柄の相場は月々上昇を続け、二年後手持ちの残高は三倍にも跳ね上がり相場の面白さにすっかり魅せられてしまった。日本の経済は世の中でバブル景気と言われている大相場に突入したのだ。ローンで買った家も買った値段から評価額が五割も上昇した。
当時は証券会社に口座を開いて証券会社の担当者に売買を依頼していたので、美津彦は証券会社の担当者とも仲良しになり、電話一本で売ったり買ったりできた。
あれは忘れもしない一九八九年一二月末、日経平均株価は三万八千円以上に跳ね上がった。ところが、年明けから株式相場は下落に転じ、一時的に持ち直したものの、一九九〇年夏イラク軍が突然隣国のクエートに攻め入り中東地域で火の粉が舞い上がった。世の中で湾岸戦争と呼ばれている地域紛争は瞬く間に世界の国々を巻き込み大きな戦に発展し、株式相場は暴落した。バブルが弾けたのだ。
美津彦が持っている株式の価格も暴落して、あれよあれよと言う間に三分の一以下に減ってしまった。美津彦はこの時初めて相場の恐ろしさを知った。
第三十七章 携帯電話の出現
株価の暴落で恐ろしさを痛感している頃、世の中に今の旧型携帯電話、いわゆるガラケー(ガラパゴス携帯)の原型となる小型の携帯電話が発売された。それまでは携帯電話と言えば肩に背負う大きな物や重さが一キログラムもあるものばかりだったから今のガラケーよりごついとは言え革命的だった。
美津彦が勤める会社の研究開発部では携帯電話の将来性に着眼して、早くから携帯電話用小型パーツの開発を進めていた。それで一九九一年にNTTがサービスを開始したディジタルフォン(ムーバ)への部品供給に成功してウォークマンに続いて新しい分野で業績の礎を築いた。これが携帯電話から現在のスマホへと爆発的な普及につながるとはその時会社の誰もが気付いていなかった。そのお陰で失われた二十年と言われている長期の不況にもかかわらず会社の業績は順調に伸びていた。携帯用部品の他に一九九二年にリリースされたマイクロソフト社のウインドウズ3.1がリリースされた頃からパソコンが急速に普及し始めパソコン用電子部品の生産も拡大していた。
業績の向上に伴って会社も大きくなり従業員が倍増した時、美津彦は製造部長に昇進した。課長時代から始めた株式売買は証券会社の手数料が高く、株価が相当上がらないと利益が出ない。それで手持ちの銘柄の値上がりを待ち続けたが湾岸戦争以来国内の景気が低迷して売買できるチャンスがめったに来なくていわゆる塩漬けのまま眠ってしまっていた。ところが、ある日自分が勤めている会社の株価推移グラフを見て驚いた。不況下にもかかわらず湾岸戦争勃発後株価は二倍以上値上がりしているではないか。それに気付いて美津彦は手持ちの銘柄を全部売り払って自分の会社の株式を購入した。予感が当たって株価はその後二倍以上にもなった。
今では誰でも聞いたことがあるインターネットと言う言葉は美津彦が会社に入社した頃情報通信技術者の間で通信プログラム名の略称として使われていた用語だが、当時美津彦は知らなかった。だが一九八〇年代後半に現在のTCP/IPネットワークが世界的に広がりを見せ、パソコンの普及に伴って一般化してきた時、美津彦は仕事柄ネットワークについて勉強して社内の数名の技術者とウインドウズ3.1を載せたパソコンを使って通信を始めたがそれが良かった。早くから電子通信に慣れたため、一九九九年一〇月から株式委託手数料が自由化されたのを機会に国内のM証券会社が始めた株式のオンライントレードを知った。それで、二〇〇〇年後半、日銀が始めた〇金利政策で値上がりしていた手持ちの自分の会社の株式を全部売却してネット証券会社に口座を開設して資金を移し替えた。
自分の会社の株式を売却したタイミングは良かったのだが、デフレと景気停滞が重なり乗り換えた銘柄の株価があっと言う間に値下がりしてまたまた大損をしてしまった。翌年の二〇〇一年秋に世界中の誰もが想像すらしなかったあの傷ましい同時多発テロ事件があり、それまで急速に伸びたIT企業の株価が急落、ITバブルが弾けたのだ。そのめ美津彦の手持ちの残高は更に三分の一に減ってしまった。泣き面に蜂とはこのことだ。
第三十八章 資産作り
株式売買で何とか儲けてみたい。美津彦は毎日そんな事を考えていた。平日会社で勤務中は部長職は結構多忙だ。だから明けても暮れても相場、相場と言うわけにはいかないが、ネット証券会社を通じて株式取引を始めると、昼間仕事の切れ目の空き時間を利用して密かに相場を覗くことはできた。部長席は一般の社員の席より少し奥まった所にでんと構えており、誰かが故意に覗き見しない限り他人に机上のパソコンの画面を覗かれる心配はない。席を外す時は必ず仕事用の画面に切り替えたから部内の誰も美津彦が時々株式相場をチェックしているなんてことを知らなかった。
休日自宅で相場の一覧表をアップしてじっくりとローソク足と出来高表、それにチャート(株価推移グラフ)を銘柄毎に調べてみた。ローソク足とは一日の株価上下の振れ幅を示す棒グラフ線で株式取引をしている者なら誰でも知っている。
それで分かった事は銘柄によっては毎日上下大きく株価が変動するものがある。
「株式売買で儲けるってことは高く売って買値より安い値段で買うか、安く買って買値より高い値段で売り抜けるってことだよな。こんな単純なことがどうして上手く行かないんだろ」
美津彦は書斎で独り言を言いながら更に相場表を調べてみた。そこに襖が開いて妻の澄子が顔を出した。
「お隣から月餅を頂いたの」
お茶と月餅を乗せたお盆をテーブルの隅に置くと、
「また相場ね。あなたお金儲けが下手くそね。たまにはあたしにお小遣いくれるくらい稼いで下さらない」
といつもの皮肉が出た。
「分かったよ。そのうち儲けて見せるから楽しみにしててくれよ。邪魔だから戻っていいよ」
と澄子を追い払った。
色々相場表を見ている内に、毎日九時~十時半に殆どの銘柄がその日の高値を付け、後場、つまり午後の相場は値下がりしている。この傾向は殆どの銘柄が同じ動きをしている。だが日によっては前場は安い値段で推移し、後場徐々に値段が上がり高値引けする。
「何故日によって高値引けになるんだろ」
それでネット証券会社から毎日送られてくるその日の相場予想記事を読み返してみた。そうすると相場が強く、つまり誰もが買いたいと思うような相場を形成する日は高値引けすることが多いことが分かった。
美津彦の手持ち残高はたった三十万円程度に減ってしまっていた。だが、不景気で相場全体が低迷しているため、一つか二つの銘柄を買うことができた。そこで美津彦は毎日その日の高値付近で売って、後場値下がりした時に買い戻すようにした。このように毎日売買するやりかたを世の中ではデイトレードと呼んでいる。つまり美津彦はデイトレードを始めたのだ。相場が強いと思われる日は前日買い戻したものを前場に売らずに十五時近くに売る。
相場は毎日思った通りには動かないが、買値より十円以上上がれば売り、売値より十円以上下がれば買うと決めていた。一日の値動きが大きい銘柄を選ぶと大体思った通りに売買できた。
ネット証券会社の売買手数料は売買金額が小さければ手数料も安い。だから以前証券会社の担当者に売買を依頼していた頃に比べて売値と買値の差が十円以上あれば儲けが出た。仮に株価五八〇円前後の株を五八五円で売って五七〇円で買い戻せたとすると約二.五%の儲けとなる。売買手数料や取引税を差し引いても二%程度の儲けだ。
儲かった分は再投資して決して株式以外には使わないようにしてデイトレードを繰り返し一年が過ぎてみると最初の手持ち残高の7.5倍にも増えていた。
二年目が過ぎた。手持ちの残高は最初の五八倍にも達していた。つまりデイトレードの元手三〇万円だったのが一七〇〇万円を越えていた。三年目には八〇〇倍と少し、手持ちの残高は二億四〇〇〇万円まで増えていた。
「信じられんなぁ」
美津彦はパソコンの画面に映し出された証券会社の残高表を見て唸った。毎日たった十円の勝負なのに千株だと一万円の差になるのだ。もちろん十万株を動かすと百万円の差だ。出来高の少ない銘柄で十万株も売買すると相場が荒れる。だから取引量が増えるに従って銘柄数を増やし分散して小口で売買したり、出来高の多い銘柄に移したりそれなりに苦労をしていた。
第三十九章 子育ての始まり
大学への進学を諦めた華那は高校卒業後の五月に無事出産した。女の子だった。未成年だから自分の戸籍は持てない。それで産れてきた子供は父親の養子として戸籍に入れてもらうことになった。
病院のベッドで隣に寝かされた赤ちゃんを見て、華那は自分の血が流れた家族ができたと思った。小さな可愛い手、そっと触れると娘は華那の手をしっかりと握った。ママ、いつまでもこの手を離しちゃ嫌よとまだ目もはっきりと見えないかも知れない赤ちゃんが自分にしがみついて訴えているように思えた。
「大丈夫よ。ママは決してこの手を離さないから」
華那はそう呟いてこれから先どんなことがあってもこの手を絶対に離さないようにしようと決心した。
退院すると、母の君子は産後の養生はとても大切だからと華那の身体を労ってくれた。産む前まではそんなことはないと思っていたが予想に反して君子は優しかった。
「この子の名前だけど、考えてある?」
「まだ決めてない。あたし可愛らしい名前がいいな」
「華那は可愛らしい名前だから、そうねぇ、調べてみたら、華那の華と言う字は花が美しく咲き揃った枝って意味だそうよ。ママは美華にしたらどうかなと思うんだけど」
「ママ、それ素敵だぁ。パパがOKなら美華でいいよ。可愛い名前だな」
父親の敏夫に相談すると、
「僕はこの子を認めたわけじゃないから勝手にしてくれよ」
と素っ気なく突っぱねられた。
「華那ちゃん、美華にしましょう」
君子は不満そうに夫の顔を見た。敏夫は顔を背けると部屋を出て行った。
役所に敏夫の養子として美華の出生届を出すと華那の気持ちは落ち着いてきた。華那が成人になったら華那の戸籍を作って移籍するつもりでいた。
十日も過ぎると華那は美華の世話で忙しくなった。君子は自分の孫だと思って美華を可愛がってくれたから、毎日平和な日々を過ごすことができた。
第四十章 美華の成長
一年が瞬く間に過ぎた。美華は病気もせずすくすく成長し始めた。華那は美華の世話に慣れてくると、積極的に家事を手伝った。平日の昼間は君子がパートで働きに出ているから家に残るのは華那と美華だけだ。掃除洗濯を済ますと食料や日用品の買い物に出た。買う物は前日に君子に聞いてメモを取り、毎日メモを片手に買い物をして、ついでに図書館に寄ったりCDショップを覗いた。
高校生の時、時々立ち寄った花屋があった。
「随分歳が離れた妹だわね。あらぁ、可愛いじゃない」
花屋の奥さんはおんぶした美華の顔を見てあやした。
「妹じゃなくてあたしの赤ちゃんです」
「えっ、華那ちゃんの子供?」
「はい」
「あらぁ、いつ結婚なさったの。 言ってくれればお祝いを差し上げたのにぃ」
「結婚はしてません」
「そうなの?」
「はい。あたし、シングルマザーです」
花屋の奥さんは驚いた顔をして奥のお婆ちゃんを呼んだ。
「華那さんのお子様ですってよ」
「そう。可愛らしいね。あんたみたいに綺麗な娘に育つといいね」
お婆ちゃんは美華の手を握ってあやした。
「また遊びに寄りなさいよ」
「はい。失礼します」
花屋の奥さんもお婆ちゃんも華那のことは良く知っている。花屋に立ち寄るといつも良くしてくれた。それで時々立ち寄るようになった。
姉の咲恵は大学に通っていたが休日もお出かけして殆ど家に居ることはなくなっていた。相変わらず華那には冷たく、美華を蔑んだ眼差しで見た。
「ママ、来週から夜だけコンビニでアルバイトをするよ」
「美華はどうするの?」
「寝かしつけてから出るから、ママ、様子を見てよ。様子を見るだけでいいから」
「仕方ないわね」
予定通り一週間後から華那はコンビニに勤め始めた。午後八時から午前二時までだ。夜中に帰宅するといつも美華はすやすやと寝ていた。一ヶ月が過ぎて初めて給料を受け取った。わずか十万円しかなかったが、今まで小遣いに不自由して、美華の物を何も買ってやれなかったが、これで少しは買ってあげられると思うと嬉しかった。
こうして二年が過ぎて華那は二十歳の誕生日を迎えた。かねて予定していた通り、役所で岸田華那として住んでいた住所を自分の本籍地に決めて移籍の手続きをした。自分の本籍地が決まってから、娘の美華を自分の戸籍に移籍手続きを済ませた。これで晴れて美華は自分の娘だと実感が湧いてきた。
「ママ、相談があるんだけど」
「改まって、どうしたのよ。相談って何?」
第四十一章 新しい住まい
「産れてから、もう二年も経ったのにパパはまだ美華のこと認めてくれないしぃ……」
「だから?」
君子は怪訝な顔で華那を見た。
「あたし、家を出るよ」
「それって相談じゃなくてダメ押しに聞こえるわよ」
「ん。相談ってかママに許してもらいたいの」
「もう心に決めたのね」
「ん」
華那は言い出したら意外に頑固なことを君子は知っていた。でも一応問いただした。
「生活はどうするのよ?」
「美華を保育園に預けて働くつもり」
「あてはあるの?」
「ないけど大丈夫」
君子は家から出してもほんとうにやっていけるのか心配になった。
「ママ、こう言うことはね心配してたらいつまで経ってもダメだよ。あたし思い切って頑張ってみる」
「何かあったり行き詰まった時はママを頼っていいのよ」
「ママ、恩に着るよ」
結局君子は華那に押し切られた。
二日経って、父親の敏夫は華那と美華の顔が見えないのに気付いた。
「華那と美華は居ないのか?」
「家を出ましたよ」
「家出したのか? そんな大事なことをなぜ相談してくれないんだ?」
「家出なんて人聞きが悪いですよ。ちゃんとあたしに相談して出て行ったんですよ」
「おまえ、勝手に許したのか?」
夫の言い方に君子は戸惑った。いままで美華を無視していたくせに今頃になって何てことを言うんだろと思った。
「あなたが華那と美華に冷たくするからよ」
「……」
敏夫は決まり悪そうな顔をした。
「別に冷たくしてたわけじゃないけどなぁ」
夫は小さな声で独り言のように呟いた。
家を出ると。華那は先ず住む場所を探し歩いた。都心に出ることは既に決めていた。今自分が住んでいる街では知り合いに出会ってあれこれ後ろ指を指されるのが嫌だった。美華が物心ついた後では尚更厄介だ。物価が安い街と言えば下町がいい。
新宿で不動産屋を訪ねた。
「物価が安くて家賃も安い所、どんな所がありますか?」
「住み易くなくちゃな」
と応対した年配の男は華那を見て笑った。
「はい。買い物とか保育園とか色々含めて住みやすい所がいいです」
「そうだなぁ。赤羽、十条、成増、荒川区は全体的に安いね。他に大田区の蒲田駅周辺も住みやすいよ」
「蒲田なんて聞いたことありませんけど」
「都内は初めてかい?」
「いえ、高校はH高でしたから」
「へぇーっ、そりゃすげぇや。優等生だったんだろ。それなら都心には明るいんだね。蒲田はね映画が好きな人なら知ってるがな、その昔松竹蒲田撮影所があった所だよ。今は鎌倉に移ってしまったがね。一度行って見るといいよ。そうだな、物件ならここで紹介してあげるからそれを持って行くといいよ。近くの不動産店を紹介してあげるから先ずお店に行って案内してもらいなさい」
「家賃って高いんですか?」
「ここら新宿界隈と違って蒲田は安いから心配せんでもええよ。どれどれ」
男はパソコンの画面を見て、ここなんかどうだと華那に画像を見せた。
「家賃は五万円、管理費なし、敷金は五万円、礼金はなしだ。東京じゃ安いと思うよ。三階建てのマンションで最上階ってものいいね。お勧めだよ。バス・トイレ付き、エヤコンも付いてるよ。洗濯機置き場もあるしな。これ以上いい条件の所はここくらいかな」
「あのぅ、駅から遠いですか?」
「遠いも何も、この辺りじゃ鉄道の便がいいから心配は要らんよ。大森駅まで歩いて八分、あんた自転車に乗るのか? 蒲田駅までは歩くと二十分はかかるがね、自転車なら数分だよ」
「自転車、乗る予定です」
「ああ、この物件は駐輪所も付いてるからぴったりだな」
「兎に角、行って見ます」
「そうだ。それが一番だよ。目でしっかり確かめてきなさい」
「ありがとうございました」
京浜急行大森駅前の不動産屋を訪ねると、
「ああ、先ほど新宿から電話してもらった方ね。どうぞこちらへ」
応対したのは四十歳過ぎと思われる婦人だった。
「この物件、まだ空いてると思うけど、ちょっと待ってね」
そう言うと電話をかけた。
「大家さんに連絡したら、今日ならいいそうよ。ご一緒に行って見る?」
「はい。お願いします」
案内されたアパートは新宿で説明を聞いた通り陽当たりが良くて周囲の感じも良かった。バルコニーも付いているから洗濯物を干すのにもいい。
「気に入りました。直ぐに契約します」
敷金と一ヶ月分の前家賃を支払って契約は成立した。
「あのう、お店の方の手数料はおいくらですか?」
「あなた、お若いのに随分律儀な方ねぇ。ご心配は要りませんよ」
不動産屋を出ると、保育園探しをした。アパートの周辺に大きな保育園が三軒もあった。今住んでいる所とは大違いだ。それで一軒、一軒回ってみた。その結果全部満員で直ぐには入園出来ないことが分かったが、二軒目で、
「区の施設は待機児童が多くて、直ぐには入園できませんのよ。毎年一二月早々までに来年四月入園予定の児童の申し込みを受け付けています。ご希望でしたら早めに区役所で手続きをなさって下さい。その場合、就労証明書や納税を証明する書類も必要になります」
と言われた。華那は明日こちらに住所移転するものの、就労証明や納税証明が必要なのに戸惑った。案内所のパンフレットを受け取って聞いてみた。
「区の施設以外で預かって下さる所はないんですか」
「それでしたら認証保育所があります。ただ……」
「何か?」
「料金が高いんですよ。あなたの場合、多分こちらでお預かりする場合毎月三千円~四千円くらいで済みますけれど、認証保育所の場合は毎月五万五千円~七万円位かかります」
それを聞いて華那は気が遠くなった。アパートの家賃より遙かにお金がかかるのだ。
仕方なくとぼとぼと駅まで歩いて帰宅した。帰宅すると疲れがどっと出て、美華と一緒に寝てしまった。明日は引っ越しだ。美華をどうしよう。疲れているのに考えれば考えるほど頭が冴えてきて寝付けなかった。
第四十二章 引っ越し
母親の君子に強がりを言ってしまった手前、美華の保育園が見付からないからと引っ越しを諦めるわけにはいかなかった。君子はパートに出て不在だ。華那は母親に宛ててメモを残し、美華をおんぶし、衣服や化粧品など最低限必要な日用品を古道具屋で買ってきた旅行鞄に詰め込むと家を出た。アルバイトで稼いだお金を少し貯めていたがアパートの家賃と敷金に十万円を使ってしまったから手持ちの現預金は二十万円余りしかない。これでやって行けるかなんて考えても仕方がない、当たって砕けるわけには行かないけれど美華の将来を思ってどんなに苦労しても乗り越えて行こうと気を引き締めた。
家を出ると地元の役所に行って転出届けを提出した。印鑑登録をしていないが認め印でも受け付けてくれた。国民健康保険とか子育て医療助成について聞かれたが、健康保険は父親の扶養家族のままだし、子育て医療助成なんてものがあるのを知らなかった。兎に角転出届けは無事に終わった。
大森のアパートに荷物を置くと、直ぐに区役所に出向いて転入手続きをした。運転免許は持ってないし携帯電話も高校卒業後解約したから普通の人より手続きは簡単だ。
「あのう、健康保険証お持ちでないですか?」
「いいえ」
「では加入手続きをして下さい。あなたの場合、お父様の扶養を外れた時に加入すべきでした。お子様が産れた時も手続きをしなくてはなりませんけど、今度あなたの扶養家族になりましたのでそのように手続きをなさると良いと思います」
加入申請用紙を提出すると、
「あなた、子育て支援制度をご存じ?」
「いいえ。あるらしいことは知ってましたけど」
「失礼ですが、シングルマザーでいらっしゃいますよね」
「はい」
「昼間お子様をどこかに預けられてお仕事をなさるんでしょ」
「食べて行けませんから」
「保育園、空きがないでしょ?」
「はい。認定保育園を訪ねましたら来年四月以降に入園する手続きを今しなくちゃならないと言われました」
「大変ですよね。先ず、ひとり親家庭に対する医療費助成の申請をして下さい。お子様の医療費負担がかなり減ります。それから、児童育成手当の申請もして下さい。区が制定した特別な制度であなたは条件に合います。申請が受理されますと、お子様に対して月額一万三千五百円が支給されますよ」
「そんなに? 助かります」
「まだありますよ」
華那はなんだか気持ちが少し楽になった。
「まだって?」
「認定保育園じゃ収入証明とか厳しい審査があります。あなたの場合これから就職口をお探しになられるので条件的に無理ですよね」
「はい」
「大田区定期利用保育室をご存じ?」
「いいえ」
「これから直ぐに訪ねてみるといいわよ」
応対した区役所の職員は三十歳前後の女性だがとても親切にしてくれた。
「はい。直ぐに行ってみます」
「パートさんやあなたのような求職中の方、学生さんなんかが対象ですから、空きさえあれば施設と直接契約して入園できますよ」
転入手続きとか色々な手続きを一度に済ませて華那は紹介された定期利用保育室を訪ねた。借りたアパートから大分距離はあるが、自転車なら十五分以内には行けそうだった。
「生憎今空きがありませんのよ。一週間ほど待って下されば、丁度転勤で他所へ移られる方がいますので、手続きだけ済ませて下さい。費用は認定と変わりませんが、お近くの保育ママが見付かるまで頑張ったらいかがですか?」
「保育ママって?」
「ああ、お役所の許可を頂いて子育てを手伝って下さるご婦人のことです。保育ママなら費用は月額二万三千円と決められていますから随分ご負担が減りますよ」
「そんな制度もあるんですかぁ」
華那は必死だった。アパートからなるべく近い場所に住んでいる保育ママを訪ねて美華のことを頼んでみた。
「今の所手一杯ですけど、空きがでたら直ぐにご連絡させて下さいね」
とても感じの良い婦人でこの人なら美華を預かってもらってもいいと思った。
役所の手続きが終わると、今日から都民になったんだと、なんだか誇らしい気持ちになった。
急に空腹を覚えた。気付いたら朝から食べていない。それで近所のスーパーで食料を買い、古道具屋を覗いてみた。自転車、自転車……。キョロキョロしているとあったぁ! 使い古しの自転車が三台あった。一番程度が良くて子供を乗せられるものを選んだ。一番値段が高かったが四千五百円だった。
「こいつはね、あの先のマンションの奥さんが子供が大きくなったからと置いて行ったもんでね、程度がいいよ。買い得だよ」
少ない予算をやりくりしている華那には高価な買い物だが買ってその場から自転車に乗って帰った。
アパートに戻ると、大家さんの家に美華を連れて挨拶に行った。
「若いのに偉いわねぇ」
大家さんはいい人で良かった。引っ越しの挨拶を済ますと美華を寝かせて夕食の支度を始めた。
「明日からお仕事探しだ。華那ガンバッ」
第四十三章 職探し
「あんた花屋の仕事、経験あるんか?」
「はい。地元のお花屋さんのお手伝いをしてましたから」
「そうかい。うちは時給七五〇しか出せんがね、それで良かったら明日から来ていいよ。九時から夕方六時までで一日八時間。店は夜八時まで開けてるが子供さんの心配あるだろうから六時で上がっていいよ。定休日は毎週火曜日」
「あのぅ、保育園に入れるのが一週間後なんです。一週間後からでもいいですか?」
「ああ、いいよ。あんた大森西四だったな。来る時に大きな病院があっただろ」
「はい。T大付属の」
「うちはあそこへ見舞いに行く客が多いんだよ。アレンジメント、もちろん出来るよな」
「はい。アレンジメント、大好きです」
「そうかい。頑張っていい仕事をしてくれよ。お彼岸やお盆の季節、この辺りは寺が割合多くてな、その頃は忙しいよ」
「では、よろしくお願いします」
「あんた、携帯持ってないのか?」
「はい。お金かかるから」
「連絡はどうするんだ」
「……」
蒲田駅周辺には花屋が十軒もあった。最初の二軒は断られたが三軒目の大きな花屋の旦那が来てもいいと言ってくれた。今時時給七百五十円は安すぎるが蒲田界隈は物価が安く、それでお給料も安くせざるを得ないのかと思った。背中におぶった美華は大人しくしていてくれるから助かった。親孝行な子だ。
「仕事用の携帯が一個あったな」
と言いながら旦那は奥の事務室に入った。
「型は古いけど、連絡だけならこれでいいだろ。貸してあげるよ。原則仕事以外には使わんでくれよ」
「ずっとお借りしてていいんですか?」
「ああいいよ。会社辞める時はちゃんと返却してくれよ。ここの番号は登録してあるよ」
図らずも携帯を貸してもらって助かった。実は保育ママとの連絡をどうしようかと悩んでいたのだ。携帯を買えば毎月最低二千円位かかるから今の懐具合ではとても無理だと諦めていた。
家に戻ると月々の収入を計算してみた。フルタイムで働いても毎月十三万円程度で区からもらう児童育成手当を入れても十五万円弱にしかならない。もう五万円位あれば何とかなるのにと思うと悲しくなった。
それで午後から、コンビニのアルバイトを探した。なかなか条件に合う店がなかったが、Mハンバーガー店で夜十時からの仕事が見付かった。
「十時から午前一時までの三時間でもいいですか?」
「いいですよ。明日からいらっしゃいますか?」
「はい。お願いします」
時給は八七〇円×1.25倍で時給一〇八〇円だった。毎日勤めて月に七万円位になる。花屋の給料と合わせると毎月二十万円と少しになるから、これなら何とかやって行けそうだ。美華に申し訳ないけれど、十時から一時までは寝ててもらうしかない。店はアパートから自転車で五分位の場所だから、何とかなりそうだった。
夕食を済ますと湯船にたっぷりお湯を溜めて美華とお風呂に入った。保育園も仕事も目処が付いた。やれやれ。
湯船から上がるとふと鏡を見て驚いた。まるで四十歳くらいのオバサンの顔が映っていた。
「たまにはお化粧をしなくちゃ」
その夜は美華を抱きしめてぐっすり眠った。
第四十四章 生活のリズム
美華を定期利用保育室に預かってもらえるまでの一週間、昼間は美華をおんぶして街の中を自転車で走り回った。美華は自転車に取り付けてある子供用ベンチに乗せるにはまだ早い。自転車で走って見ると行動半径が広くなり、蒲田駅前の区役所にも直ぐに行けた。スーパーは元住んでいた地元に比べてどこも値段が安い。1.5キロメートルほど東に行くと美しい海浜公園があった。しばらくぶりに美華と一緒に海を見て過ごした。駅前の区役所から少し南に行くと大きな駅前図書館があった。
「近くに色々な施設がまとまってて便利がいいとこだなぁ」
華那は過ごしやすい街に引っ越してきて良かったと思った。
夜は美華を寝かし付けてから予定通りハンバーガー屋にアルバイトにでかけた。最初の日だけ落ち着かなかったが少しずつ生活のリズムが整ってくるように思えた。洗濯機や冷蔵庫、掃除機はまだない。不便だが買えないから仕方がない。なので傷みやすい食料品はその日に使う分だけにした。掃除は狭いから箒で十分だし洗濯は手洗いした。美華ははいはいを始めてからパンツタイプの紙おむつにしたが、三日で千円くらいかかるからおむつ代は大きな負担だ。
夜アルバイトに出かけて、四日間は何事もなく夜の一時半に帰宅した時美華はすやすやと眠っていて問題はなかったが、五日目の夜ドアの外から美華の泣き声が聞こえた。ドアを開け電灯を点けるとすぐ前に美華がママ、ママと泣きじゃくる姿があった。華那は息が止まるのではないかと思うほどで、美華を抱きかかえると、
「ごめんね、ごめんね」
と自分も泣いてしまった。
「どうしよう。アルバイトは無理かなぁ」
第四十五章 新しい仕事
二歳の娘を抱えて、独りぼっちで家に置き去りにする勇気が萎えて、華那は夜のアルバイトを断った。急に辞めると言われても困ると叱られたが強引に辞めてしまった。
明日は定期利用保育室に美華を預けて花屋さんのお勤めが始まる。なので、今日一日はずっと美華と一緒に居てやることにした。はいはいが日毎に上手になり、少し伝い歩きするのを見て可愛らしさが増した。
翌日定期利用保育室に出向いて手続きを済ませ、その日から美華を預けた。保母さんに美華を引き渡すと美華は泣いてママ、ママと叫んだ。小さな子供でも環境の変化を察しているのかも知れない。後ろ髪を引かれるとはこんな場合を言うのかと思いながら、美華の顔を見ないようにして逃げるように施設の外に出た。まぶたにうっすらと涙が滲む。
「華那、頑張れ」
と自分に言い聞かせながらペダルをこいだ。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
瞼に浮かぶ美華の泣き顔を振り払って元気な声で店の中に向かって挨拶した。
「ああ、来たか。待ってたぞ」
生花店の旦那は愛想良く華那を迎えてくれた。
「経験者なら教えることはないだろう。お客様が来店したら早速応対してくれ」
「はい」
先輩の女性が近付いてきて、てきぱきと包装紙やリボンの保管場所、レジの取り扱いなどを教えてくれた。
その日華那は精一杯頑張った。応対したお客様は十名を越えていたが手違いはなく夕方六時に帰宅の支度をして旦那に挨拶に行った。
「働いている様子を見ていたよ。思ったより上手に仕事をこなしたな。助かるよ。明日からも頑張ってな」
華那は旦那に合格と言われて安心した。店を出るとうっすらと汗をかくほどペダルをこいだ。一応午前七時半から二十時まで保護預かりをしてくれる契約だから時間には余裕はあったが美華に早く会いたい気持ちで急いだ。
保育室に着くと保母さんが美華を抱いて連れてきてくれた。華那が手を差し伸べると美華はしっかりと華那に抱きついた。
「特に何かありました?」
「最初はどこのお子様も泣いたりしますけど、美華ちやんは直ぐに慣れて大人しくしてましたよ」
それを聞いて華那は一安心した。
「美華、頑張ったね。ママはいつも美華のことを思ってるからね」
まだ言葉が分からない美華に、華那は自分に言いかけるように話した。
「美華ちやん、また明日ね」
と保母さんは美華の手を優しく握ってバイバイの仕草をした。
帰り道スーパーに寄ってその日の食料を買い込んだ。アルバイトを辞めたので生活費が足りない不安があったが、毎日の支出を抑えて乗り切ろうと思った。
第四十六章 加藤家の暮らし
咲恵は毎朝早く家を出ると、大学に登校する前に加藤利昭の家に寄った。合い鍵で勝手に上がり込み、朝食の支度を始めた。ダイニングに美味しい匂いが漂う頃、利昭が起きてきて咲恵の頬にチュッとして、
「おはよう。毎日ありがとう」
と洗面所に消えた。いつものパターンだ。顔を洗い終えると、利昭は翼と雛を起こして着替えを済ませて皆で食卓を囲んだ。
朝食が終わると、咲恵が後片付けをしている間に利昭は出勤支度を終えて、
「咲恵さん、行ってくるよ」
と必ず声をかけた。エプロンで手を拭いながら、
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
と利昭を送り出した。
「翼ちゃん、雛ちゃん、学校の支度早くしてよ」
翼と雛を学校に送り出すと、咲恵は登校支度を調えて家を出た。ここのとこ毎日のパターンになっている。まるで主婦だと言うより主婦をしていた。母親の君子が知ったら腰を抜かすかも知れない。
大学の授業を終えて利昭から預かっている食材費で買い物を済ませて加藤の家に戻ると翼と雛が飛びついてきた。この瞬間が咲恵にとっては至福の一時だ。ここのとこ利昭は帰りが遅い。遅い時は一二時近くにもなる。利昭は政府系事業開発投資銀行の部長をしているらしく、今は大きな案件をいくつか抱えて会議、会議で多忙だと言っていた。
「咲恵さんが来てくれるお陰で僕は仕事に集中できてすごく助かるよ」
利昭は最近口癖のように咲恵に頭を下げる。
「あたし、好きでやってるんだから気にしないで下さい」
毎日こんな生活をしているのに、利昭は未だに咲恵の身体に触れようとはしなかった。咲恵はそれだけは不満だった。若き情熱に焦がされて、咲恵はいっそのこと強行に出てみようかと何度も考えたが勇気が出ずにずるずると来てしまった。けれど、今では息子の翼と娘の雛がすっかり懐いてくれて、性への不満を少し和らげてくれるのだ。
子供たちは宿題を済ませてお風呂と夕飯が終わると寝かせ付けた。宿題は咲恵が丁寧に手伝った。だから二人とも学習塾に通わせていないが学校の成績は良かった。
雛のあどけない寝顔にチューをしてから子供部屋を出ると、自分の勉強をしながら利昭の帰りを待つ。
「ただいま」
夜遅く帰宅した利昭は咲恵の笑顔を見てほっとする様子だ。
「今夜も遅かったね。お疲れ様」
夕飯の支度を終わると、身支度をして家を出た。家路を急ぐ咲恵は幸せだった。
「毎日遅いわねぇ。いったいどこで何をしているの?」
君子はいつも同じことを訊く。父の敏夫はほったらかしで咲恵にそんなことを訊いたことがない。咲恵にしてみれば干渉されない方が良かった。
「今夜は友達の家に上がってビデオを見てたら遅くなっちゃって」
毎回違うウソをつくので、最近では帰宅途中に言い訳を考えていた。いつも同じ言い訳じゃなんとなく疑われるような気がする。なので毎回言い訳の内容を変えていた。母親は娘の言うことをそのまま信じているのか分からないが友達の家に確認の電話をするような詮索は一切しないので咲恵は助かっていた。一度でもそんなことをされたらウソがバレてしまう。
今夜も加藤の家で子供たちを寝かせ付けてから本を読んでいると突然電話が鳴った。
電話を終わると咲恵は子供たちを揺すって起こし、着替えを済ますと家を飛び出した。
咲恵に手を引かれて歩く翼と雛はいつもと違う咲恵の顔色を窺いながら黙って歩いた。
第四十七章 別れ
子供たち二人を連れて先を急ぐ咲恵は利昭の携帯に電話した。どうやら電源が切ってあるらしくつながらない。
「お仕事中はめったにかけないのに、困ったな」
仕方なく咲恵は至急携帯に電話を下さいとメールを入れた。
病院から香織の容態が急変して危ない。ご家族に至急来て頂きたいと連絡があってから咲恵は子供たちを連れて病院に行く途中だ。
バス停で待っていると雛が、
「お姉ちゃん、おしっこがしたい」
と言う。もう五分もすればバスが来る。夜中なので本数が少ない。咲恵は仕方なく辺りを見渡すと通りの向かい側にコンビニが見えた。小走りにコンビニでトイレを借りて外に出ると病院往きのバスは出てしまった。次のバスまで三十分もある。咲恵はタクシーが来るのを待ったが、こんな時に限って空車が来ない。一〇分も待って、ようやくタクシーを捕まえると、
「病院に急いで下さい」
と告げた。通り過ぎる町並みの夜景をぼんやりみながら、
「家族でもないのにあたしって、何やってんだろ」
と今自分がしていることがばかばかしくも思えてきた。
病院に着くと香織の病室に急いだ。病室に入るとベッドの上は綺麗になっていた。
「どこに連れて行かれたんだろ?」
看護婦を呼んで聞くと、
「加藤さんは容態が急変して救命救急センターの方に移られました。救急棟の二階に行って聞いて下さい」
看護婦は事務的な口調で話し終わると行ってしまった。
「行きましょう」
子供たちに話しかけると、
「僕、お腹が空いたぁ」
と翼が言う。病院の売店はもう閉まっている。自動販売機でアイスクリームを買って二人に与えた。
救急棟に行って病室を訪ねると、医師と看護婦が出てきた。
「もう殆ど意識がありませんが、お顔だけでも見てあげて下さい」
と言われた。
「ママ、雛ちゃんだよ」
「ママ、翼だよ」
と香織に縋り付く子供たちを見て咲恵は涙ぐんだ。しばらくすると、香織がうっすらと目を開いて咲恵を見た。香織は微笑んでいるようにも見えた。かすれる小さな声で何かを訴えている。咲恵が手を握り耳を近づけると、
「子供 たち を よ ろ し ……」
後は聞こえなかった。咲恵の手を気持ち強く握ったように思えたが直ぐにぐったりとしてしまった。
警報信号を受けて医師と看護婦が駆けつけて来た。必死に呼吸回復をしようとする医師を見て、咲恵はテレビドラマを見ているような錯覚を覚えた。
一時間も経って、額に汗を滲ませた医師が、
「手を尽くしましたが二十三時十分、お亡くなりになりました」
医師は自分を身内の者だと思っているらしく丁寧に頭を下げた。側に居る子供たちは自分たちの母親が今息を引き取ったことを理解していないらしく医師と咲恵の顔をぼんやりと見ていた。もう長い間一緒に暮らしておらず、今は咲恵が母親代わりをしているのだから無理もないと咲恵は思った。
時計の針が翌日に変わろうとしている時刻に、利昭から電話が来た。
「利昭さんのバガッ、肝心な時にご連絡下さらないんだからぁ」
咲恵はなじった。だが理由を聞いて利昭は、
「これから直ぐにそっちに行くから待っていてくれないかなぁ」
と哀願する口調で答えた。咲恵は今夜は家に帰れないと思って、また母への言い訳を考えていた。
香織の葬儀に、咲恵は出るべきか断るべきか考えたが、母親が亡くなった実感すらない翼と雛が不憫で翼と雛のために葬儀に行く事にした。
葬儀は利昭の親戚、友人の他に職場関係者が集まり思ったよりも弔問客が大勢いた。
弔問客の中に森口次郎の顔があった。咲恵は目が合わないように避けていたが、森口に見付けられてしまった。
「やぁ、ご無沙汰だな。ずっと加藤とラブが続いているらしいな。奥さんが亡くなってほっとしてるんだろ?」
相変わらず思ったことをズケズケと言う。
「失礼ですよ。あたし奥様がお亡くなりになって悲しいですよ」
咲恵はそう言い返してから、ふと自分の中にこれでやっと利昭が自分のものになるんだなぞと不埒なことを考えている自分がいるのを感じて戸惑った。
第四十八章 利昭の縁談
妻の葬儀が終わって、早いもので三ヶ月が過ぎた。妻の死後子供たちをどうするか親戚の間で葬儀の時からひそひそと利昭の縁談話が持ち上がっていたが、三ヶ月を過ぎたあたりから急に周囲が騒がしくなった。
「あんた、姻族関係終了届は出したの?」
お節介な伯母が利昭に電話をしてきた。妻が死亡すれば自動的に婚姻関係は消滅するのだが、死別したままにしておくと、妻の親戚関係と縁が切れておらず、再婚後死亡した妻の親戚の者が突然何か言ってくることがあったりする。伯母はそれを言っているのだ。
「そんなものを出さないといけないんですか?」
「あんた、再婚する気があるなら綺麗にしておいた方がいいわよ」
利昭は納得がいかなかった。長い間闘病生活が続いて、実質上利昭の妻としての役割を果たしていなかったとは言え、利昭は死後も毎日位牌に手を合わせているし、心の中ではまだ妻を想っていた。
「どうなの? 子供たちのために再婚するんでしょ?」
「はい。一応そのつもりですが、まだ気持ちの整理ができないですから」
「バカねぇ。いつまでくよくよしているの。そんなだと再婚は出来ないわよ」
利昭は電話を早く済ませたかった。この伯母は以前からお節介焼きで苦手だ。
「いい人がいれば……」
伯母はその言葉を待っていたかのように、
「橋本絹江と言う今年三十九になるいい子がいるのよ。先方ではあんたに会ってみてもいいって言ってるのよ。会ってみない?」
「子供が二人もいること、知ってるのかなぁ」
「大丈夫。葬式の時に呼んでおいたから子供たちを見てるわよ」
こう言う所が伯母の嫌いな部分だ。妻を見送る最中からそんなことをしていたなんて許せないと思ったが、ここで断ると後がうるさい。それで、
「会うだけでいいなら会ってみます。先方が気に入るかどうか分かりませんが」
さっさとお見合いの日程まで決められてしまった。
お天気の良い日曜日、利昭は伯母が指定してきた場所に出かけた。利昭の両親は他界していないので、独りで出かけた。子供たちは家で咲恵が面倒を見てくれている。
「ちゃんと時間通り来たわね」
伯母はご機嫌が良い。
「加藤利昭と申します。よろしく」
「こちらは前に言っていたお嬢さんよ。×なし、彼女は未婚だけどあんたと付き合ってもいいそうよ」
「子供がいますが、それでも?」
と絹江の顔を見た。
「お兄ちゃんも妹さんも可愛らしいじゃない。あたしは子供好きですから構いませんよ」
結局伯母に押し切られて結婚を前提にお付き合いをすることになった。利昭は今まで咲恵に良くしてもらって、このままずっと子供たちと一緒に居てくれればいいのにと思ってはいたが、おそらく咲恵の両親が納得しないだろうと考えて、この際咲恵にはっきりと話をして別れてもらおうと思っていた。
「咲恵さん、どうしても話したいことがあるんだ」
いつものように咲恵が作ってくれた夕食を済ませてから利昭は改まって咲恵に話を切り出した。
「何か特別なお話?」
咲恵はこの時、きっと自分との結婚についての話じゃないかと思った。
「今まで子供たちに本当に良くしてくれたけど、突然再婚の話が持ち上がってね、本当に済まないんだけど、僕と別れて欲しいんだ」
咲恵は仰天した。再婚するなら自分しかいないと信じていたからだ。
「あたし、翼ちやんと雛ちゃんと別れるなんて考えられないよぉ。どうしてあたしじゃダメなの」
「僕の本当の気持ちは咲恵さんが好きだし、子供たちも母親以上に懐いているから別れたくないんだけど、あなたのご両親がこんな男と結婚するなんて話には絶対に同意なさらないと思うんだよ。咲恵さんはご自分の気持ちに素直だけれど、ご両親にしてみれば晴天の霹靂でとても許せる問題じゃないと思うんだ」
「あたし、親が大反対しても絶対に利昭さんと別れたくないから」
利昭が予想した通りだ。咲恵はポロポロと涙をこぼして利昭に縋り付いた。
第四十九章 家政婦
利昭は橋本絹江の積極的な誘いに引きずられてその後何度かデートを重ねた。利昭の心の中では未だに他界した妻や好意を寄せてくれている咲恵について整理がついていなかった。だから、絹江とデートを重ねても今ひとつ心のときめきがなかった。絹江にしてみれば自分の歳を考えるとどうしてもあせりがある。
「利昭さん、お葬式の時にお見かけした若い家政婦さん、まだ子供さんたちのお世話もお願いされているんでしょ? 将来子供たちに自然な形で私を受け入れて頂くため、子供のお世話を早めに私にさせて下さらない?」
絹江は利昭を紹介してくれた利昭の伯母に、家政婦に子供の世話を頼んでいて、先日葬儀で見かけた若い子がその家政婦よと教えられていた。彼女たちから見れば咲恵は家政婦だ。家政婦と言われて利昭は戸惑ったが説明が面倒なので何も言わずに聞いていた。
「今度子供たちと一緒に遊園地にでも出かけません? 子供たちと仲良しになって、昼間は私が子供たちのお世話をします」
咲恵はその後も今まで通り家に来ているが、利昭は無理に追い出すようなことができなかった。長い間に情が移り邪険にはできない。曖昧なまま、ずるずる引きずってはいけないと思いつつ、さりとて咲恵がいなければ仕事中心配が増えて仕事に集中できない。
お天気が良い日曜日を選んで、利昭は翼と雛を連れて上野動物園に出かけた。
「咲恵さん、明日は親戚に子供たちを連れて行くからお休みしてくれないかなぁ」
婉曲的に咲恵に家に来るなと言う利昭の気持ちを察して咲恵は、
「はい。分かりました。お気を付けて行ってらっしゃい。何かあったら電話をしてね。約束だよ」
絹江には予め計画を話してあった。
動物園の表門入園ゲートの所に絹江が待っていた。久しぶりに来た動物園に翼も雛も興奮していた。ゲートを入ると雛は真っ先にライオンやトラが居る東の方に駆けだした。
「危ないから、走っちゃダメですよっ」
絹江は子供たちと手をつないでゆっくりと見て歩く光景を想像していたが、手をつなぐなんてチャンスはなく、期待が外れてしまい、結局子供たちの後ろを小走りで利昭と並んで走った。
子供は利昭と絹江の存在を忘れたかのように、二人で手をつないで次から次へと園内を進んだ。
ようやく子供たちが立ち止まった所で、利昭はアイスクリームを買ってきて二人に渡し、
「この人は絹江さん、今はパパのお友達だけど、そのうち新しいママになるかも知れないから大切にしてね」
利昭が絹江を紹介すると、子供たちはきょとんとした顔で絹江を見た。一瞬狼狽した様子で、
「お姉ちゃんは? どうして今日は来ないの?」
と答えた。利昭は慌てた。
「お姉ちゃんはもう来ないよ」
「お姉ちゃんじゃなくちゃ嫌だ。雛、行こう」
と翼が雛の手を引いて次のサルがいる所に走り出した。戸惑う絹江に、
「ごめん。まだ子供たちの気持ちは今までのままらしいね。絹江さんを受け入れるまで時間をかけて根気よく接してもらわないと難しいようだな」
「あたし、絶対に仲良くなりますから」
結局子供たちは絹江をよそ者のような目で見て利昭から離れず、お別れするはめになってしまった。
夜咲恵は利昭の家を訪ねると、翼と雛が飛びついてきて動物園に行った話を始めた。利昭はとまどった。咲恵には親戚に行くとウソをついたからだ。夕食が終わって、
「咲恵さん、悪いがもうここには来ないでくれないか」
「お仕事でお帰りが遅いのに子供たちをほったらかしにするんですか?」
「前に言ったけど、お見合いした女性が来るから」
「あたしは嫌。翼ちゃんと雛ちゃんが可哀想」
利昭は困ったが兎に角冷たく咲恵を遠ざけねばならなかった。
「もう僕らに構わないで咲恵さんは別の道を行ってくれよ」
咲恵を押し出すようにドアの外に出すと玄関の鍵を閉めた。雛は泣きべそをかいている。
第五十章 絹江と咲恵
習慣とは不思議なものだ。咲恵は今まで早起きをして利昭の家に出かけていたからいつものように朝早く目覚めた。急いで支度をしながら、
「あたしって何やってんだろ。もう雛に会えなくなったのにぃ」
気付いて出かける支度を止めたものの、早起きをしても何もやることがない空しさで落ち込んでしまった。
「今日は遅いわねぇ」
君子が気付いて咲恵の顔を見た。今にも泣き出しそうな様子だ。
「何かあったんでしょ?」
「……」
ぶすっとして自分の部屋に引っ込むと、君子がお茶を持って入って来た。
「ママ、あたしに構わないで。出て行ってよ」
君子は気になったが自分も勤めがあるので咲恵の言う通りにして自分の支度を始めた。
午前中は部屋で音楽を聴きながらぼんやりと過ごしていたが、お昼に携帯が鳴った。
「お姉ちゃん、今日はどうして来ないの? 雛、お姉ちゃんに宿題見て欲しいの」
雛の泣き声に咲恵は胸を締め付けられた。宿題は口実で家に来いと言っている様子だ。
チャイムを鳴らすと雛が飛んできてドアを開けてくれた。
「今日は学校お休みなの? お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんは学校。雛は宿題やってないから学校に行かなかったの」
「ダメじゃない。お姉ちゃんが居なくても自分で出来るでしょ?」
そこに学校から電話が来た。
「雛は家におります。これから宿題を済ませて学校まで送りますから」
最近は登下校中の児童の事故が多い。学校側でも届けがないのに登校していない生徒の様子に注意をしているようだ。
雛を送り届けて戻ると、咲恵は部屋の掃除と洗濯をした。もちろん利昭の下着も咲恵が洗濯をしていた。キッチンの流しを見て驚いた。汚れた食器が乱雑に積み上げられていた。
掃除と洗濯を済ませて一息ついていると、見知らぬ女が勝手に入って来た。咲恵の顔を見ても驚いた様子はない。
「あら、家政婦さん、今日からあたしが家の中のことをしますから、今日からいらっしゃらなくてもいいですよ。利昭さんから聞いていらっしゃるでしょ。帰って下さい」
咲恵の方が驚いた。家政婦なんて呼ばれて傷ついた。仕方なく咲恵は家を出た。
この一週間咲恵は利昭の面影を忘れようと心の整理に努力していたが、その後も雛から時々電話があり心が痛んだ。どうやらあのお見合い相手の女と上手く行ってないらしい。
絹江はあれから毎日利昭の家を訪ねた。咲恵は朝早く訪れて朝食の支度や子供たちが学校に行く準備をして、敏夫と子供たちを送り出してから家を出たが、絹江は午後に訪ねて来て子供たちの帰りを待った。夕食は買い置いたレトルトのカレーとか冷凍ピザなどを与え、余った時間はファッション雑誌を見たり、ウェディング雑誌を見て過ごした。利昭の帰りは相変わらず遅いので子供たちが寝ると家を出た。咲恵のように宿題を一緒に見てやることはなかった。
一ヶ月が過ぎた頃、利昭が家に帰ると家の中が乱雑に散らかっていて驚いた。絹江から時々掃除をしてくれていると聞いていた。絹江に自分の下着の洗濯まで頼みずらかったから、夜中に洗濯機を回した。乱雑に散らばった子供たちの下着やおもちゃを片付けながら、咲恵がやってくれていた時は一度もこんなことはなかったと思い出していた。
いつものように子供の下校を待ちながら、絹江は利昭の家で雑誌を読んでいると電話が鳴った。出ると小学校からだ。
「もしもし加藤でございます」
「加藤さんのお宅ですか? 私雛ちゃんの担任をしております教師です。つかぬことをお伺いしますが、最近ご自宅の方で何か変わったことがございますか?」
「いいえ。特に。私がこの家に来るようになってからは以前よりずっと環境が良くなったと思いますが」
「そうですか。原因、何でしょうね。実は最近雛ちゃんの成績が急に落ちまして。一度こちらにお越し願えませんか?」
絹江が学校の教室を訪ねると泣き顔の雛が教師と一緒に座っていた。他の生徒は皆帰ってしまって雛だけ残っていた。教師は絹江より十歳は若そうな女性だった。絹江の顔を見て驚いた様子だ。
「以前いらっしゃった土田さんはいかがなさいました?」
「ああ、あの家政婦、土田と言うんですか」
家政婦と聞いて教師は怪訝な顔をした。
「ご存じありませんでした?」
「顔は知ってますが名前までは」
「土田さんは雛ちゃんの家庭教師だとばかり思っていました。珍しく塾通いをしていないのにとても成績が良かったですから。失礼ですがそちらさまは?」
「申し遅れましたが加藤の許嫁の橋本と申します。今日呼び出された用件は何でしょう?」
「申し上げ難いのですが、雛ちゃんは最近成績が悪くと言いますか急降下しまして、宿題はやってきませんし、あなたにお伝えしていいものか分かりませんが今日は親しかったお友達に意地悪をして泣かせてしまって困りました。お父様の加藤様に近々こちらにお出で頂くようお伝え頂けませんでしょうか?」
「ああ、この程度のことでしたら、私から雛を叱っておきます。加藤は要職で多忙ですから今後は私が伺います。近々私がこの子の母親になる予定ですから」
「そうですか。よろしくお願いします」
教師は橋本が雛を叱ると聞いて不安を覚えたが黙っていた。担任教師といえども他人の家庭の中まで首を突っ込むわけにはいかないのだ。雛が荒れている原因が分かったような気がした。教師は子供を叱って解決する問題ではないと教師生活の経験上勘付いていた。
学校で事件があってから、絹江は雛を何かにつけ厳しく叱った。
「パンツを脱いでお尻を出しなさい」
雛がパンツを下げると、尻を平手で激しく叩いた。雛が泣き止まないと尻を抓った。子供の頃、絹江もそうして育てられた。子供は少しは厳しく育てた方が良いと思っている。
一週間も過ぎるとまた学校から電話が来た。今度は翼の件だと言う。
絹江が学校に行くと、友達とケンカをして相手に怪我をさせたと説明を受けた。
「相手のお子様は?」
「病院ですよ。大事をとって救急車の出動をお願いしまして。翼君は少し前まで優秀なお子さんでしたが最近極端に勉強をしなくなりまして。あなたはお父様の許嫁だとおっしやいましたね。まだご結婚なさっていませんよね。失礼ですが、お父様に至急お出で頂くようお伝えして下さい」
「私ではダメですか?」
「はい。ご家族でないと困ります」
「私は家族みたいな立場ですが。近々この子の母親になりますから」
教師の陰から翼が顔を出して絹江をキッと睨み付けた。教師は困惑した顔で、
「被害者のご両親が訴えでもしましたら保護者でなければ対応が難しいと思います」
相手に謝ることも忘れて、一緒に帰るのを嫌がる翼を引きずるようにして家に戻った絹江は学校で起こった事件を利昭には報告せず翼を激しく叱った。叩かれても翼は泣かなかった。絹江を睨み付けると
「おばさん、大嫌いだっ」
と叫んだ。絹江は思わず翼のほっぺたをひっぱたいた。その夜は子供たちに何も食べさせず絹江は憤りに震えながら家路を急いだ。
役所で会議中の利昭に知らない男から電話が来た。
「今会議中ですから、後ほどこちらから電話します」
と答えると、
「失礼な人だな。こっちだって忙しい中電話してるんだ」
と怒鳴り声で返って来た。利昭は驚いた。突然電話してきた相手は一体誰だろう?
第五十一章 後始末
「人の子を大怪我させておいて顔も見せないなんてどう言うことだっ」
電話の相手は相当に怒っている様子だ。
「失礼ですが、どう言うことでしょう?」
「あんたなぁ、自分の子供が何をしたか知らんとは言わせないぞ」
「ですが、お話の内容が全く分かりませんで、うちの子が何かしたんですか?」
利昭は絹江から何も聞いていなかった。つい先日デートをした時は上手く行っているから何も心配はないと言っていたが。
「あんたと話しても埒が明かんな。学校に明日一〇時に来てくれ」
そう言って電話は切れた。
利昭は困った。突然の電話だが先方は相当立腹の様子で会って話を聞かねばならないと思ったが、明日は事業方針と人事を決める大事な会議があって部下のためにも絶対に外せない。咲恵がいたら代わりを頼めるんだが、今更頼めない。仕方なく絹江に連絡をして明日の代役を頼んだ。
利昭から学校に出向くように頼まれて、絹江はここは利昭に自分をアピールする良い機会だと思って出かけた。
学校に着くと前に会った翼の担任の教師を訪ねた。そこに人相が悪い男が居た。
「あんたが母親か?」
「いいえ、加藤の代理の者です」
「おいっ、人をなめてんのか。本人が来なくてどうする。何の用で来たんだ? オレは保護者に出て来いと言ったはずだ。あんたには用がねぇ」
「先生よぉ、悪いが校長を呼んでくれ。それとあんたには用がねぇから帰ってくれ」
絹江はこの手の男は苦手だ。黙っていると教師が、
「橋本さんでしたっけ、済みませんが加藤さんにご連絡頂いて至急お越し下さるように伝えて下さい。このままでは学校側も対応できません。あなたは帰って頂いて結構です」
「加藤は今日外せない会議があって来られません。私がお話をお聞きします」
それを聞いた男が大声で怒鳴った。周囲に居た教師たちも何事かと一斉に男を見た。
「バカヤローッ 何様か知らねぇがあんたたちは加害者だぜ。なんなら校長だけじゃなく警察にも来てもらおうか」
教頭が出てきた。
「加藤さんの勤め先の電話番号は分かりますか?」
教師が番号を書いたメモを渡すと直ぐに電話をかけた。
翼の学校の教頭から電話を受けて利昭は仰天した。絹江は何も知らせてくれなかったが、相手の息子は頭に四針も縫う大怪我をして今日も病院らしい。怪我をさせたのは確かに息子の翼だと分かった。昨日の男からの電話は大げさな脅しだと思ったが事実らしい。
会議の途中利昭は理事長に急用ができたと断って役所を抜け出た。学校に着くと、教頭と翼の担任教師が待っていてくれた。
教頭に謝罪した後、教師に伴われて病院を訪れたが退院した後だったので相手の家を訪ねると雑貨を扱うやや大きな商店の裏だった。どうやら表の商店主らしい。相手の両親が揃った所で、利昭は平身低頭謝った。
「あんたが直ぐに謝りに来ておれば何も文句を言うつもりはなかったがな、聞き分けができん訳の分からん女を寄越すからオレも頭に来たんだ。治療費と慰謝料を払ってくれればそれでいいよ。あんたの息子が悪いわけじゃねぇ。あんたの育て方が悪いんだ。少し前まではあんたの息子は良い子だったよ。うちのとも親しくしてもらってよ」
「言いにくいですが、治療費慰謝料合わせて……」
「ああ、金の話だな。二百五十、そんなもんでいいよ」
二百五十と言えば二百五十万円だ。利昭は金額が妥当なものか分からなかったが、後遺症など後々のもめ事がないようにするため希望通り支払おうと思った。
「分かりました。恐れ入りますが振込先を教えてくれませんか? 本来は直接現金を持参すべきですが申し訳ありません」
「ああ、そうしてくれ」
男はメモ用紙に信金の口座番号を書いて寄越した。
「息子のことですが、これからもよろしくお願いします」
「奥様を亡くされたそうですわね。男手で子育ては大変でしょ。以前は塾に通ってないのに良く勉強が出来て大人しいお子様でしたからうちのドラ息子のいいお友達でした」
母親の方がそう言ってくれて利昭はほっとした。旦那の言う通り自分の育て方が悪いのだと素直に受け取った。
「翼ちゃんは私から良く言い聞かせて叱っておきましたわよ。最近悪くなったと先生は言ってましたけど、反抗期に入ったのかしら」
利昭は咲恵がいなくなったのが子供たちに影響をしているのかと薄々感じていたがそれを絹江に言うわけにはいかなかった。翼をどんな風に叱ったのか知りたかったがそれも言いそびれた。
学期末に受け取った翼と雛の成績表を見て利昭は驚いた。予想以上に悪く、教師のコメントの裏に家庭環境の変化が原因ではないかと察するような内容が書かれていた。利昭にとってはどうしようもないことだ。
翼が起こした事件以来、絹江は一週間に一度か二度しか利昭の家に来なくなった。食事の支度をするでもなく、部屋を簡単に掃除する程度だ。夕方帰宅した子供たちに小言を言い終わると家を出た。毎回叱るので翼も雛も家に帰るのが嫌になって寄り道してなるべく遅くに帰宅することが多くなっていた。
雛は最近しっかりしてきて朝食の支度をしてくれるし、学校から帰ると掃除洗濯もするようになった。母親が居ないので自然にそうなった。利昭は食事の下拵えや掃除洗濯は絹江がやってくれているものと思っていたが改めて絹江に様子を聞いたことはなかった。
そうこうしている間に、翼は中学生になり、雛は五年生になった。休日出勤が増えて子供たちと接する機会が減って、子供の様子は絹江を通して聞くしか方法がなかった。早めに帰宅した夜、
「今度家族揃ってディズニーランドに行かないか?」
と誘ってみた。
「あの人も一緒でしょ」
「そうだね。四人で楽しく見て回ろうよ」
すると雛が、
「おばさん大嫌い。パパだけおばさんと遊んできたら?」
と行かないと言い出した。
「どうして?」
「パパ、何も知らないんだからぁ。あたししょっちゅうオバサンにお尻を叩かれてるの。恥ずかしいったらありゃしない。ひどい時はお尻を抓るのよ」
「ほんとか?」
「あたしがウソ言ってると思うの。ほら」
雛はパンツをめくってお尻を見せた。赤い痣が何カ所にも付いていた。利昭は言葉を失った。絹江が時々叱っておきますと利昭に話していたのはこのことか。
「僕もオバサンと行くなら遠慮するよ。あんな人と行っても楽しくないよ」
雛は今でも時々咲恵に電話して会ってもらっていた。だが、会ったことは誰にも言わなかった。咲恵は雛の母親のように悲しい話も楽しい話も良く聞いてくれるし、抱きしめられた時の温もりが雛の心を慰めてくれた。雛の話を聞いて、咲恵はたまに翼を呼び出して悩みごとの相談に乗った。翼は咲恵には素直に色々な話をした。咲恵は子供たちが不憫で可哀想に思ったが、自分の立場では何もしてあげられないもどかしい気持ちになった。
時は流れて、梅雨が明けた頃利昭と絹江の結婚式の予定が進んでいた。利昭にとって絹江は妻として満足な女性ではなかったが、利昭には他に選択肢がなかった。
第五十二章 結婚式
梅雨は明けたもののどんよりと曇ったその日、利昭の親戚、友人、知人たちが三々五々結婚式場に吸い込まれていった。利昭の新生活の門出だ。
絹江は待ちに待ったその日晴れやかなウェディングドレスに包まれて控え室で昂揚を鎮めようと深呼吸した。翼と雛は控え室の片隅で浮かぬ顔をして座っていた。
式が始まった。翼と雛は叔母さんの隣に二人並んで着席させられた。司会が最初に新郎の入場を促し、続いて綺麗なウェディングドレスに包まれた絹江が満場の拍手の中父親と共に入場した。
利昭と絹江が並んで立ち満場の拍手が最高潮に達した時、二つの影が新郎新婦をめがけて動いた。翼と雛だ。会場ではこの微笑ましい光景にまた一層の拍手が沸き上がった。
拍手が鳴り止むと同時に雛が、
「このオバサン、大嫌いっ」
と大声で言い放った。すると、翼が新婦に飛びかかってブーケを奪い取り床に投げつけた。続いて雛が新婦のヘッドドレスの裾を思い切り引っ張りヘッドドレスを剥ぎ取った。そこに翼が隠し持っていた赤いペイントのスプレーをドレス目がけて放射した。
スプレー缶を投げ捨てると、
「雛行こうっ」
翼と雛は手を取り合って会場の出口に走り、ドアを開けると会場の外に逃げ去った。
会場に居合わせた親戚や招待客はこの予想もしなかった出来事に唖然として静まりかえってしまった。絹江は母親の元に行って抱きついて嗚咽した。
ただならぬ出来事に司会はどうしたものか戸惑っていると、誰かが司会に歩み寄りマイクをもぎ取ると、
「おいっ、加藤っ、お前何やってんだ。こんなことじゃ幸せにはなれんぞ。長年の親友だからお前のために言うが、こんな結婚、オレは認めんぞ」
次郎、森口次郎だ。次郎はマイクを投げつけるように置くと会場をすたすた出て行った。
仲人の杉山名誉教授が立って、会場を静めた。
「こんなことになり、頼まれたとは言え仲人として面目ない。今日はこの結婚を保留にして後日改めてお招きしたいので、今日のところはお許し願い皆様にはお引き取り願えればありがたい」
と挨拶した。招待客はご馳走にありつけず、引き出物も持たずにぞろぞろと会場から出て行った。
絹江を紹介した伯母が絹江の両親に謝ろうとして近付くと、母親が伯母の顔に水をかけた。それがきっかけで利昭側の親戚と絹江側の親戚の罵倒が始った。
騒動が終わって皆が引き上げると、がらんとした会場は乱雑に散らかっていた。その中に放心した顔で利昭が一人突っ立っていた。呆然と会場を眺めていると、出入り口のドアーが開いて二つの影が現れた。逆光で最初は良く見えなかったが翼と雛が走ってきた。
「パパ、ゴメン」
翼が利昭に謝ると雛がどっと泣き出した。
「パパこそ翼と雛の気持ちを何も知らなくてごめんね」
子供を抱きしめる利昭を遠くから咲恵が見ていた。
「おねぇちゃんが一緒だよ」
雛が指す方を見ると、咲恵が頭を下げた。
「お姉ちゃんお出でよ」
翼が咲恵に走り寄り手を引いて戻った。
「さっき雛が来てってお願いしたの」
「利昭さん、お久しぶりです。雛ちゃんたちお腹空いたでしょ」
「ん。ペコペコだよ」
と翼が答えた。
「じゃ、みんなで美味しい物を食べに行こう」
利昭と咲恵は子供たちを挟んで手をつないで会場を出た。どんより曇っていた雲の隙間から太陽が顔を覗かせ、その光が反射して利昭の頬に一筋の線が光った。
第五十三章 家計の|遣《や》り繰り
土田華那は花屋の仕事に精を出した。収入源は花屋からもらう給料と区からもらう児童育成手当だけだ。もしも花屋でもう来なくてもいいよと言われたらたちまち路頭に迷ってしまう。
美華を保育室に預けて一ヶ月は直ぐに過ぎた。毎日午前八時半から午後六時までが定時間でオーバーした場合は超過分を請求される仕組みだ。一ヶ月後の支払い請求額は定時間分四万八千四百円に超過分を足して五万二千六百円だった。後で聞いた所、美華のようにすんなりと入園出来るのはめったにないことで相当運が良かったらしい。待機児童が溢れかえっている状態でこの金額で何とかなったのは神様に守られているのよとも言われた。
しかし、アパートの家賃五万円と合わせると十万二千六百円が消え、立て続けに電気、水道、ガス代と次々に支払い請求が来たから華那の収入では日用品、食材代を入れると当然赤字だ。
華那は毎日節約を強いられていた。食事は毎日卵かけご飯に味噌汁、お昼はおにぎりと野菜スープを魔法瓶に入れて持って行った。卵とお米とお味噌と少々の野菜代は仕方がなかったが、食材費はそれ程かからなかった。美華のおむつ代を節約するために家ではなるべくトイレを使わせる訓練を早めに始めた。それが良かったのか今まで一ヶ月四千五百円もかかっていたおむつ代は殆どかからなくなった。一歳まではかぶれないように頻繁に取り替えてあげたから毎月一万円近くかかつていたのがウソのように思えた。
一ヶ月が過ぎて、以前から予約をしておいた保育ママに預かってもらえるようになった。こちらは一ヶ月二万三千円の他におやつ代などを入れて三万円前後に収まった。美華の洋服はリサイクルショップから安く買ってきたが肌着だけは新しい物を買ってあげた。
二ヶ月が過ぎて、切り詰めて切り詰めた結果ようやく赤字すれすれの家計になった。けれども給料は時給だから病気でもすればたちまち赤字転落してしまう。貯金は底を突いていたし、他に収入源がないから口で言うよりずっときつかった。
毎日必死に生活している間に年を越し初夏を迎え美華は満三歳になった。可愛くて、早く美華に会いたくて、仕事を終えて保育ママの所にお迎えに行く時は一生懸命ペダルを漕いだ。もし美華がいなかったらとても今みたいに頑張れないと思った。
二十一歳になった華那はとても二十一とは思えないくらい大人に見えるし逞しかった。背が高くプロポーションが良い華那は花屋の制服を着ててきぱき仕事をしていると魅力的な女性に見える。花屋の旦那も華那を気に入っているらしい。それを華那は感じていたが旦那を男として見ることはなかった。
「今出て行った客なぁ、あいつ毎日のように花束を買って行くだろ?」
旦那は出て行った客の方を顎で示した。
「はい」
「それもレジはいつもあんたをご指名だよ」
「何となく感じてましたよ」
「ああいう奴はストーカーになり易いから気を付けた方がいいよ」
「怖いな。社長にストーカーされるなら許せるかも。あのお客様はあたしのタイプじゃありませんから」
華那は冗談を言った。
「おいっ、冗談でも絶対にそんなことを言うなよ。女房に知れたらえらい目に遭うからさぁ」
旦那は見かけによらず恐妻家みたいだ。
「あんたみたいな可愛くて綺麗な子が店にいるだけで女房に目を付けられてるんだから」
旦那ははにかむような表情をした。華那は可愛い一面があるんだなと思った。はたで話を聞いていた先輩の店員が、
「あはは、社長は安全牌だよ」
と笑った。
旦那に注意されたストーカーの話は現実になって現れた。
第五十四章 ストーカー
一日頑張って働き、六時になった。
「お先に失礼します」
華那はいつものように明るい声で同僚たちに挨拶して急いで店を出た。美華が自分を待っていてくれると思うと心が弾んだ。
いつものように店の裏手に置いてある自転車を引っ張り出して通りにでようとした時、話題になったお客様がすっと華那の前に現れた。華那は咄嗟に、
「こんにちは。いつもお花を買って頂いてありがとうございます」
と挨拶した。自転車に乗ろうとすると、荷台を掴まれた。
「すみません、急ぎますので」
「ちょっとお茶する時間くらいあるだろ?」
「申し訳ありませんが急ぎますので」
と荷台に置いた男の手を払って自転車に飛び乗り保育ママの家に急いだ。客と店員の間だからか男は少し横柄に感じられた。
華那はいつも車道を走っている。最近道路交通規則が変わって、自転車も車と同じ方向で車道を走らなければならない。歩行者と自転車が両方走っても良い歩道なら構わないのだが、歩行者の多い夕刻は車道の方が早い。
華那の自転車を追い抜いて行った乗用車が前方で急ブレーキをかけて華那の進路をふさいだ。仕方なく歩道に自転車を持ち上げて出ようとすると、あの男が車から降りてきて華那の自転車のハンドルを掴んだ。
「明日か明後日お茶に付き合ってくれよ」
「お断りします。子供が居ますから」
子供が居ると聞いて男は一瞬躊躇ったが、
「子供も一緒でいいよ」
と言うではないか。華那は返事に詰まった。
「兎に角、あたし遊んでる時間がありませんのでほっといて下さい」
「今日のところは許してやるよ」
華那はちょっとむかついた。何が許すだ。
華那は美華を受け取った足で警察署に向かった。
「ストーカーで困ってます」
応対してくれた警官は少し先で事務をしている女性の警官を呼んだ。
「状況を詳しく説明して下さい」
年配の婦人警官はメモを取った。華那の説明を聞き終わると、
「今すぐにこちらで対応するのは難しいと思います。明日お茶に誘われるふりをして、待ち合わせの時間と場所を私に知らせて下さい。あなたがお茶に付き合われている所をこちらから観察していますからご安心して下さい。様子を見てこちらで判断してから今後どうするか検討いたします。最近事前に警察にご相談されていたにも拘わらず殺害されてしまった事件があるのご存じですよね」
「はい」
「そんなことにならないように努力します」
警察署を出ると、華那は花屋の旦那に報告した。
「僕の方も協力するから、あの男が店に来ても普通に応対してくれればいいよ」
警察に相談した日の翌日の午後、あの男は店にやってきた。いつものように華那がアレンジした花束を受け取ると、
「今日はダメ?」
と小声で囁いた。その様子を旦那が見ていた。
「七時十五分前まででしたらお話をお聞きします」
「分かった。じゃこの先のジュリーと言う喫茶店で会おう」
その日、華那は保育ママさんにお願いして七時半まで延長してもらうようにした。
「もしもし、橘さんをお願いします」
橘は昨日話した婦人警官だ。
「決まったの?」
「はい。午後六時過ぎから四十五分間位の間蒲田五丁目のジュリーと言うお店です」
「ジュリーと言うと、喫茶の他洋食もやってるカフェレストラン?」
「はい。そうです。よろしくお願いします」
「あなた、あたしの顔に気付いても知らんぷりをして下さいね」
「はい。分かってます」
仕事を六時で切り上げると、
「お疲れ様です。お先に失礼します」
と挨拶して店を出た。後ろで気を付けろと言う旦那の声が聞こえた。
第五十五章 婦人警察官
世の中ではストーカー事件で警察の対応が悪くて殺害に及んだなどと言われるが、婦警の橘はストーカー事件の対応は世の中で考えられているよりもずっと難しいのだと思っていた。橘が過去に経験したストーカー事件でも女性側がストーカーだと名指した男は実は告訴した女性の彼氏で別れるのは嫌だとしつこく迫られていたと言うが本当のところは別れたくなかったなんて言うよくある男女間の痴話喧嘩だったりした。だから土田華那と言う女性からの訴えでも事前にストーカーだと言う客との間の男女関係を確かめてからでないとおいそれと動いてはいけないと思っていた。
華那が電話で連絡してきたジュリーに、橘は早めに出かけて予め警察手帳を店主に見せて張り込みするのだと伝えた。橘は和服姿に変装して先輩の刑事に相手役を頼んだ。先輩刑事はカジュアルなスーツ姿で現れ、誰が見ても年配の男女がお茶しているように見えた。
華那は仕事を六時に終えるとジュリーに行って客を待った。待つこと五分、あの男が入って来て華那を見付けるとテーブルの向かい側に座った。
「会ってくれてありがとう」
「あたし忙しいですから、六時四十五分前には店を出ますから」
「分かってるよ。まあそんなに急かさなくてもいいじゃないか」
「話したいことがあるって、用件はなんですか?」
「僕と付き合ってくれないか?」
「ダメです。あたし子供が居ますから」
「子供が居てもいいよ。今度子供さんも一緒に遊園地にでも行かないか?」
「あたし、あなたと付き合う気は全くありませんし、お誘いもお断りします。用件を聞きましたし私の考えもはっきりとお伝えしましたので帰らせてもらいます。今後絶対に付きまとわないで下さい」
そう言って華那は立ち上がった。華那が立ち上がると同時に男も立ち上がり、華那の手首を掴んだ。引き寄せようとするので華那は男の手を払った。
「乱暴だなぁ。いっそのこと抱きしめてやろうか? 久しぶりに男の香りを嗅がせてやろうか」
「……」
華那は男を睨み付けた。男は執拗だ。華那は勘定を済ますと店を出ようとした。だが男は華那を抱きすくめて離さない。
「やめて下さい。警察に通報しますよ」
「やれば。警察じゃ男女の恋愛には基本的に首を突っ込んで来ないよ。電話してみろよ」
華那が携帯を取り出すと携帯を奪った。
「返して下さい。ストーカーの他に窃盗罪も付きますよ」
華那が携帯を取り戻そうとすると、男は手を高く上げて、
「取り返したければ僕に抱きつけよ」
男が高く上げた手首を店から出てきた男が掴んだ。
「いてて、何するんだよぉっ」
店から出てきた男は携帯を取り返すと華那に渡し、
「行っていいよ。ここはこちらで対応するから」
華那は自転車にまたがると後ろを振り返らずに保育ママのお宅を目指してペダルを漕いだ。
男の手をねじり上げた男は、
「警察の者だ。署まで来てもらおうか」
とストーカーの男を引っ張った。和服の婦人も一緒にストーカーの男を警察署に連れて行った。
「現行犯で逮捕します」
和服の婦人がそう言うと、
「あんたも警察官?」
とストーカーの男は怪訝そうな顔をした。
「そうよ。さっき女性との様子を一部始終見てたわよ。あなた被害者の言う通りストーカーね。携帯を取り上げたのは彼女が言う通り窃盗よ」
男は観念した様子で大人しく取り調べを受けた。
華那の携帯が鳴った。橘と言う婦人警官からだ。
「ご苦労様。あのストーカー男、逮捕したわよ。安心なさい」
華那は橘がちゃんと自分を守っていてくれて嬉しかった。
「ありがとうございました」
橘婦警の説明に拠ると、ストーカー規制法は平成十二年に施行されたそうで、つきまといとストーカー行為に分かれていて、つきまといには男女の恋愛感情のもつれが原因の場合も適用されるのよと言われた。具体的にはつきまとったり、待ち伏せて立ちふさがったり、あなたの場合のようにお勤め先で見張りをしていたり、お前はオレに見張られてると自転車のかごにメモを入れたり電話やメールで監視してるぞと脅したり、今回のようにこちらが拒否しているのに会ってくれとしつこく迫ったり、相手を罵倒したり、無言電話とかひどいのは汚い物を送り付けてきたり、いやらしい写真を送ってきたりブログなんかで性的しゅう恥心を感じるような書き込みをしたり、大抵の悪さは含まれていて告訴があれば罰せられるのよ。今は法改正されて警察でストーカーを止めろと命令できますし、命令を聞かなければ罰金を取ることも出来ますわよ。今回の場合は事前にあなたから告訴されましたので逮捕して懲役になる可能性が高いわね。
華那はあの男が現在のストーカー規制法を知らないのじゃないかと思った。婦警の話を聞いて、普通の男性が考えている以上に男性にとって厳しい法律だと感じた。たとえ彼女が恋人であっても、彼女が訴えればつきまといを理由にストーカー法が適用されるのだ。
第五十六章 資産運用
新道美津彦はその後も株式市場でデイトレードを続けていた。手元の資金は二億四千万以上、だが金額が大きくなると売買が難しくなる。まとめて大きな金額で買いを出すとたちまち価格が跳ね上がるし、逆に大量に売りを出すとストンと株価が下落してしまう。小口の売買で相場が形成される銘柄は案外多いのだ。ネット売買が定着してきた今、プロの投資家はプログラム売買をする。プログラム売買とは一定以上現物の株価が下落すると自動的に売りを出すようなもので、プログラムにより先物に大量の売りを出すと、先物価格が下落してそれが現物の相場に跳ね返ってきて予期せぬ暴落を招いてしてしまう。美津彦のように毎日自分の相場観で売買している者にとって理由が分からない動きをするのだ。コンピューターから自動的に売買注文がアウトプットされるので人間の入力操作よりも遙かに高速で瞬時に売買が成立してしまう。
美津彦は自分の売買で株価がそんな動きをしないように取引する銘柄を増やし一度に大きな売買をしないようにした。そうすると沢山の銘柄の値動きを常に見張っている必要が出てきて、モニターを数台に増やしたため取引時間帯中は目が回るほど忙しくなってきた。つまり前場は午前九時から十一時まで、後場は十二時半から午後三時までの間はパソコンのモニターに釘付けになってしまう。だから会社勤めをしながら片手間に売買するのは難しくなり、思い切って退職願いを出した。
突然の退職願いを受け取った上司の常務取締役は驚いた。
「おい、おまえ、こんな忙しい時に何で退職するんだ。オレは受け取らんよ。おまえくらい仕事ができる男はそうおらんからな」
「一身上の都合じゃダメですか?」
「ダメだ。オレが納得する理由を持って来い」
押し問答の末、美津彦は妻の澄子を重い病気にするしかなかった。
「実は家内が末期癌で医者が言うには後一年か二年しかもたんだろうと宣告されまして、自分としては今まで苦楽を共にしてきた妻と最後まで一緒に過ごしてやりたいんです」
これには常務も折れざるを得なかった。
「仕方がない。万一奥さんが他界されたら、その時はもう一度現役に復帰してオレの下で働いてくれ」
「今日で会社を辞めたよ」
「えぇーっ? 突然どうなさったの?」
「定年前に自分がやりたいことをやろうと思ってさ、澄子、すまんね」
「突然辞職したら会社が困らないの?」
「最初は常務に絶対に辞めさせないと言われたよ」
「よく辞められたわね」
「澄子を重病人にしちゃった」
「えっ、あたしがぁ? で、どんな病気にしたの」
「癌」
「ひどおーいっ、あたしこんなにぴんぴんしてるのに」
「すまん。それしか理由が見付からなくてさ」
「じゃ、あたし今日から寝込まなくちゃ」
澄子は舌を出して笑い、急に倒れるふりをした。
美津彦が退職した時、五十八歳にさしかかっていた。退職すると、次の日から美津彦は株式売買に全勢力を注ぎ込んだ。それで年末が近くなった時、手元の資金は十億以上に膨らんでいた。
二年が過ぎて美津彦が六十歳を迎えた時、手元の資金はようやく三十億を越えた。世の中で現預金など可処分の資産が三十億を越えると一応金持ちの仲間入りとなる。それを機会に美津彦は自分の終の棲家を考えてみようと決心した。
第五十七章 美津彦の息子たち
美津彦には美津男と竜男の二人の息子がいた。長男の美津男は大学の工学部を卒業すると就職難の中なんとか名古屋の自動車部品メーカーに就職、親元を離れて名古屋に引っ越した。部品メーカーに勤めて七年後、名古屋在住の女性と知り合い、恋に落ちて結婚し、名古屋郊外の賃貸しマンションに移り住んで落ち着いた。一年に一度くらいは実家に帰ってくるが、女房が一人娘で息子は自分の実家より女房の実家の方が居心地が良いらしく、今では養子に取られてしまったようになっている。
次男は大学の経済学部を卒業すると一年間就職浪人をしたあげく、大阪の中堅商社に就職した。当然のように大阪に出て一人暮らしを始めたが福岡から大阪に出てきた女性と知り合い兄より一年遅れて結婚、大阪郊外の貸家を借りて移り住み実家には殆ど顔を出さなくなっている。
結婚後長男には息子に続いて娘が誕生したが、夫婦共稼ぎのため、孫は妻の実家の母親が育てているので自分の孫とは思えないほどに疎遠だ。兎に角美津彦は孫の顔すら写真で見て覚えているような始末だ。
次男には娘が誕生したが夫婦共稼ぎのため美津彦の妻の澄子が二年間泊まり込みで子育てを手伝い、その後は保育園に預けて共働きをしているので澄子は用無しになってしまった。
最近では子供たちが家を出たまま、たまにしか実家に帰ってこないため家族の絆が薄れてしまった話はよく聞く。美津彦の家も今では家族と言えば女房の澄子くらいで寂しい所帯となってしまった。
美津彦夫婦は最近老後をどうするかなんてことを話題にするようになった。自分の家を処分して介護付きの高級マンションに移り住む高齢者が増えているが、美津彦はまだ隠居暮らしを考えたことはなかった。世の中にはお金がなくて介護付きマンションに住むような贅沢が出来ない者だって大勢いる。大した年金すらもらえず、子供たちと疎遠になった老夫婦はどうし生計を立てて行くのだろう?
澄子は借金がなく自分たちが住む家があれば何とかなるわよと楽観的だ。美津彦は株式相場で手元に溜め込んだ資産について女房の澄子には何も話をしていなかった。だから、澄子は住宅ローンを返し終わった今住んでいる家で死ぬまで細々と年金暮らしをして行く計画でいた。だが美津彦は澄子には内緒で自分が思っている通りの終の棲家を建てる準備に取りかかった。
第五十八章 土地探し
澄子は夫が突然退職してしまい、年金が入るまでまだ七年も先だから、生活費をどうするのかが一番の悩みだった。二十五年返済で借りた住宅ローンをようやく完済して一息ついた途端にこれだ。だが、退職して間もなく澄子にしてみればかなり大金の夫の退職金が振り込まれてきて安堵した。
息子たちは二人とも独立して家に寄り付かなくなっていたから、美津彦と自分が細々食べて行ければ良いのだ。そんなことを考えていたある日、
「僕の給料がなくなって心配してるんじゃないのか?」
と美津彦が珍しく心配してくれた。今まで給料は銀行振り込みになっていたからまるまる澄子の懐に入ってきてその中から月々五万円を小遣いとして夫に手渡してきた。五万円が多いのか少ないのか澄子には分からなかったが美津彦から一度も文句を言われたことはない。
「あなたこそ、お小遣いがなくなって困っているんじゃないの?」
「僕はへそくりがあるから大丈夫だよ」
と美津彦は笑った。
「でも、本当の所は退職なさる時ご自分のお小遣いまで気が回らなかったんじゃないの?」
「確かに自分の小遣いのことまで全然考えてなかったなぁ。でも大丈夫だから。それより生活費は今まで通り必要だろうからこれからは僕が直接渡すよ」
澄子は美津彦が大したダメージを受けていないのを不思議に思った。
「これ一年分前払いだ。銀行にでも預金しておくといいよ」
澄子は包みを開いてみてびっくりした。包みの中に帯封をした小束が十束あったからだ。
「あなた、こんなお金どうしたの?」
「アハハ、毎日パソコンと睨めっこしてるだろ」
澄子は株式の譲渡益だと直ぐに納得した。
「毎年この位稼いで下さると助かるわ」
美津彦は東京に出ると大手の不動産会社を訪ねた。
「閑静な住宅地で百五十~二百坪の土地を探して欲しいんだが。傾斜地、海抜が低い土地、北傾斜や陽当たりが悪い土地、電車の駅から遠い土地はダメだな」
「お客様、ご予算は?」
「予算はないが、気に入った所なら直ぐに買いたい」
応対した社員は美津彦の様子からとても億単位の買い物をするようには思えなかったが、兎に角探してみますと約束した。
一週間が過ぎて、
「お探しの物件ですが、二件ほど候補があります。古い家がそのままになっている空屋でもかまいませんか?」
「ああ。空き家は取り壊して更地にすれば良いから場所が良ければ構わんよ」
「では明日にでもご案内します」
不動産会社の社員の案内で現地に行ってみた。最初は地下鉄丸の内線の東高円寺駅と方南町駅に挟まれた所で杉並区だった。
「百坪以下なら物件がいっぱいあるんですが、お客様のご希望の百五十を越えますと丁度良い物件が少ないんですよ」
行って見るとまあまあな物件だった。だが、地下鉄のどちらの駅までも一キロメートル程度離れていて少し不便だ。
「このあたりだと一坪どれ位かな?」
「百七十五万です。ここは百八十坪ありますから、大体三億一千五百、まあ地主と交渉して三億ってとこですね。土地バブルの頃は坪五百もしてました」
「すまんがもう一件案内してくれないか?」
不動産会社の営業車で一時間ほど走った末、久が原と言う街に入った。
「この近くなのか?」
「はい。もう直ぐです」
第五十九章 大きな買い物
不動産会社の営業社員が二つ目に案内してくれた場所は東京急行池上線の久が原と言う小さな駅から歩いて七分程度の閑静な住宅街の中にあった。比較的落ち着いた家並みで環境は悪くない。
「このあたりは金持ちつまり富裕層の邸宅が多く周囲に高い建物がないので陽当たりは良いです」
道路は都内では珍しく東西南北に整然と区画されており、勧められた物件は敷地の南側に広い道路があり、北側は車は通れるがやや細い道路に面している。
「いいじゃないか。坪あたりどれくらいの相場になっているんだ?」
「この辺りは大体坪百五十八万です。敷地面積は百六十五坪となってますね」
営業員は細々と数字を書き込んだ地図を拡げた。
「じゃ計算すると二億六千万位だな?」
「そうです。大体その価格で買えると思います」
「ちょっと聞きたいが、ここは事故物件じゃないだろうね」
不動産会社の社員は一瞬ぎょっとした顔をした。事故物件とはその場所で自殺や殺人があったり変死体が発見されたり要は気持ちが悪い物件のことで一般的な相場よりかなり安く取引されている。美津彦はそれを心配したのだ。
「新道さん、もしもですよ予め事故物件だと分かっていたらうちの会社のように大手の不動産会社は必ず事前に説明して納得してもらってから仲介します。ここは絶対に事故物件じゃないです。もしご心配なら契約書にちゃんと条項を入れさせて頂きます」
「違うならいいんだ。そう言うことを考えておたくのような信用できる大手の不動産会社に探してくれと頼んだんだよ」
営業員は胸をなで下ろした様子だ。
「ここは気に入ったよ。早速売買契約をしたいから手続きを急いでくれないか?」
二億六千万もする買い物を簡単に契約したいと言う新道に営業員は驚きを隠さなかった。
「何かおかしいか?」
「いえ、こんな高額の取引は普通は何回も交渉を重ねて契約が決まるケースが多いものですから。銀行のローンを組まれるのですか?」
「いや、僕のポケットマネーで即金で買うよ」
美津彦は格好を付けてポケットマネーなどと言ったのではなくてこれから先の一年間の譲渡益を考えてみると大した金額ではないと思っていた。
土地の持ち主は名の通った中堅の機械メーカーだった。
「あの土地は社員寮の建築を考えて昔買ったものですが、ご存じの通りこの不景気続きで社員寮どころでなく手放すことにしたんですよ」
総務課課長と言う肩書きの社員が応対した。美津彦はこれなら事故物件だと心配しないで良さそうだと思った。
契約は滞りなく終わり、権利書を不動産会社から受け取るとこれで自分のものになった実感が湧いた。考えてみると一坪で百五十万以上もする値段はべらぼうだ。自分が長年住んでいる地方の都市では一坪大体二十万前後だ。同じ買値なら千坪以上も買える。
全て終わると不動産会社の社員は部長同伴で挨拶に来た。
「所で、新道様は建物はどうなさいますか? 出来れば手前どもに任せて頂ければ立派な邸宅を建てて差し上げますが」
「お気持ちはありがたいですが、僕は設計は名の通った建築設計事務所にお願いして、工事は大手の住宅建設会社にお願いしようと思っています」
「そうですか。では設計事務所が決まりましたら教えて頂けませんか?」
「競争入札みたいなことは考えておりません。ですから設計士と相談して工事の請負先を決める予定です」
美津彦はこれ以上先の話をするつもりはなかったので頃合いを見て不動産会社から立ち去った。
第六十章 終の棲家
美津彦は会社で製造部長をしていた頃に知り合った建築金物を扱っている商社の社長と久しぶりに酒を飲んだ。
「社長は建築に詳しいそうですね」
「それほど詳しいわけではないが、仕事柄苦労している間に自然に知識が増えましたよ」
と謙遜気味に笑った。
「建築設計事務所に知り合いはいませんか?」
「それなら大勢いるよ。なんたって設計屋さんは建築金物や建材について色々話を持ってくるからね、自然に仲間が増えるんだよ。逆に言うとそう言う仲間がいない設計屋さんは実力がない人が多いとも言えるね。この業界はこんなことをしたいが良い素材はないかいつもお互いに情報のやりとりをしてるから協力者が沢山いればそれだけ仕事の能率もいいってことですよ」
「なるほど」
「それで、あんた何か頼みたいことがあるんか?」
「実は自分の終の棲家を作ってみたいと思いまして、久が原に百五十坪少しの土地を買ったんですよ」
「そりゃすげぇなぁ。あの辺りじゃ坪二百位するんと違いますか?」
「さすが詳しいですね。駅前あたりで二百前後です」
「分かった。ちゃんとした設計ができる男を知っとるから話をしておくよ。自宅の電話番号でいいのか?」
「もちろん」
三日ほどして、村瀬と言う男から電話が来た。
「建築金物の河埜社長から紹介されました村瀬です。一度お目にかかれませんか?」
「連絡をお待ちしてました。どこに行けばいいですか?」
「遠い場所で恐縮ですが、青山の事務所までお越し頂けませんでしょうか? こちらにお越し下されば資料が豊富にありますからお考えを具体化しやすいと思います」
翌日美津彦は澄子に小用があるからと断って家を出た。
村瀬の事務所は青山と言っても赤坂見附に近い場所にあった。村瀬は四十代半ばの感じの良い男で事務所には三十名ほどのスタッフが忙しそうに働いていた。
「この辺りに事務所を抱えている設計屋はマンションやオフィスビルなど大型物件を手がける所が多いんです。小口の住宅ですと相当量を稼ぎませんと採算が合いません。しかし量を稼ごうとして無理をするとどうしても丁寧な仕事ができません。一種のジレンマです」
と村瀬は笑った。美津彦は相手が誠実そうで気に入った。
「インテリアも同じ担当者がデザインをなさるんですか?」
「物件によります。私どもでは大体半々です」
「センスの良い女性のインテリアデザイナーさんはおられますか?」
「はい。私どもの社員に二名、外部者が一名います。その中でセンスが良いのは外部者ですが佐々木と言う女性です。殆どうちの専属みたいなものですが、会社に縛られるのは嫌だといいまして」
村瀬は苦笑した。
「河埜社長からご希望は概略聞いておりますが、新道様の担当にと考えている者と佐々木を呼んで顔合わせに夕食をご一緒しませんか?」
結局四人で夕食を囲んで美津彦の希望を聞いてもらうことになった。村瀬が予約を入れておいてくれた店は赤坂の天麩羅屋で、奥まった座席に通された。
「すぐ佐々木が来ますから」
そう言っている時、
「お待たせ」
と言って女性が近付いてきた。美津彦の顔を見ると改めて、
「大変お待たせしました。佐々木でございます」
と角を丸めた小さめの名刺を差し出した。名刺には佐々木邦子と書かれていた。多分四十少し前だろう。デザイナーらしく作るのが難しそうなデザインの短めのワンピース姿で座卓に座る時太ももを気にして裾を引っ張ったのが印象に残った。
酒が少し回ったところで、村瀬は朝倉健司と言う設計士を紹介した。
「彼のお父さんは故郷で材木商をやっておられまして、個人の邸宅向けのとても良い材木を扱っているんですよ。私どもでも時々彼の実家から材料を取り寄せていますが、間違いがないです」
美津彦は佐々木と朝倉に顔を向けて、
「よろしく」
と頭を下げた。佐々木の手を見ると、リングを嵌めてない。それで、
「もしかして佐々木さんは未婚でおられますか?」
と聞いてみた。
「あらぁ、そんな風に見えます? おっしゃるとおりまだです」
「実は、あなたが僕の娘だとして妻と三人、あなたがご結婚なさって旦那さんと孫娘一人、五人で仲睦まじく楽しく暮らして行けるような家を作りたいと思っています」
「お子様はおられないのですか?」
「息子が二人居てそれぞれ結婚してますがね、家に寄り付かないので無視して考えてます」
と美津彦は笑った。
「将来ご同居はなさらないのですか?」
「しません。いやするつもりはないなぁ。家内と二人っきりじゃ寂しいが仕方ないですよ」
村瀬はどう話を合わせれば良いのか迷っている様子だ。
第六十一章 家の形
インテリアデザイナーの邦子は美津彦のような客は初めてだった。仮に自分が客の娘だったとして両親と一緒に自分が棲んでみたいと思う家をデザインしてくれと言うのだ。予算を聞くと、
「僕はね、一介のサラリーマン生活が長くずっと貧乏をしてきたから今更贅沢をしたいとは思わないんだ。ある程度お金がかかってもいいから、何て言うか住んでみて家族全員の心がほっこりするようなそんなイメージのデザインをしてくれないか?」
「間取りとかのご希望はありますか?」
「家内の部屋は南東側、朝日が射し込む位置に十二畳程度、僕の仕事部屋は十畳北側でも構わない。真ん中に五十畳程度のダイニングキッチン、隣にあなたの将来の娘さんか息子さんが使う十畳程度の部屋、あなたが将来夫婦で住む部屋は西側になるが十二畳くらいかな。それに風呂場は広くゆったりとした感じがいいね。二人一緒に入っても余裕があるくらいかな。他にあなたが洋服をいっぱい持っているとして、八畳くらいのウォークインのクローゼットが欲しいな。クローゼットは北側がいいね。勝手口と玄関は広くしてほしいね。車を止める場所は三台分、車庫の上は庭だな。緩やかな南傾斜だし隣の敷地が一メートルくらい盛り土しているから、南側二・五、北側が二メートル程度盛り土をすると庭は車庫の上でも平坦にできそうだね」
「車庫は三台も必要ですか?」
「一台は僕、もう一台はあなたの車、それに来客が駐車できるように」
「大体間取りのイメージは考えておられたんですね」
「ん。黙ってお任せすると狭い案が出たら困るから」
と美津彦は笑った。敷地は既に案内してもらって確かめてある。小さな家なら三軒分もある。
「建坪を概算すると、七十~八十坪くらいになりますが、二階建てなら広いお庭になりますね」
「年寄りの使い勝手や耐震を考えると朝倉君は平屋がいいと言っていたな。僕も平屋に賛成だよ。昔の日本家屋は平屋が多かったそうだね」
「客間がありませんが、来客を泊めるのはどうなさいますか?」
「そうだな、ダイニングの上にロフトみたいなスペースを作ってベッドを置いてなんてことは出来ますか?」
「いい考えですわね。広いロフトで天井を高めに設計すれば快適な客間ができます」
「邦子さんのお友達を誘ってお泊まりして頂く場所のイメージがいいね」
話をしているうちに、邦子は自分が美津彦の娘になって一緒に棲んでみたい気持ちになっていた。
「僕は大きな音で音楽を聴きたいと思ってるんだよ。だからダイニングは全体的に防音構造がいいね。知り合いのアーティストを呼んでミニライブなんてこともやってみたいな」
「どんなジャンル?」
「ジャズ」
「やっぱり」
二人で顔を見合わせて笑った。邦子もジャズは良く聴く。父親と一緒にジャズを聴いている光景を想像してみた。
「あたし、新藤さんと一緒に棲みたくなったなぁ」
「本気にですか?」
「はい」
「佐々木さん、ご両親は健在ですか?」
「はい。田舎にいます」
「ご一緒には棲まないの?」
「親と同居なんて今まで考えたことがありませんの」
「時々実家へ帰られるんでしょ?」
「いいえ。めったに。親不孝してます」
「ダメだなぁ。僕の息子どもと同じだね」
邦子は痛いところを突かれたと思った。新道と一緒に棲みたいなんて言ってから本気かと聞かれ、はいと答えたものの自信はなかった。
第六十二章 終の棲家の完成
デザインが決まり工事が始まって半年が過ぎた。工事は大手のMハウスが担当したが、下請けとして朝倉の紹介で下町から腕のいい棟梁が何人かの職人を連れてきたので丁寧な造りになっていた。ささやかな竣工式が終わり後片付けを済ますと美津彦の終の棲家は完成した。盛り土のお陰で陽当たりが良く南側の眺望もまずまず、明るい家となった。
一緒に棲みたいと言っていたデザイナーの邦子は、
「やっぱ自信がないからやめときます」
と気まずそうに頭を下げた。美津彦は邦子のような可愛い娘が欲しかったが無理強いはしなかった。
家具会社から家具が届き、家電の量販店から電気器具が届くと家らしい雰囲気になった。庭には知らぬ間に雑草が育ち始めて、草むしりも一仕事だ。
「あなた、最近よくお出かけするわねぇ。外にいい女でもできたの?」
「バカいっちゃいけないよ。この年で不倫なんてしている元気はないよ」
「ほんとかしら?」
「何年夫婦やってんだ? 今更澄子を裏切ってまで遊ぼうなんて考えてないよ」
田舎町の家に帰ると妻の澄子は最近ちよくちょく出かけるので訝った。だが、美津彦は終の棲家が完成したことは伏せていた。
広い家に一人で居ると家事が苦手な美津彦は掃除洗濯に困った。それにやや広くとった庭の手入れも気になった。雑草は容赦なく生い茂ってくる。そこで、お手伝いさんを雇おうと決心した。
一日殆ど自分の仕事部屋で過ごす美津彦は株式相場が終わるとお手伝いさん募集の公告案を考えてみた。
お手伝いさん募集
年齢を問わず、ガーデニング、掃除、洗濯
が好きな方
給与は月額二十万円、賞与は夏冬各一ヶ月
分程度
勤務時間はフレックス制で一日五時間程度
社会保険(厚生年金、健康保険、雇用保険)
及び有給休暇有り
子育て中のシングルマザー歓迎
ご希望の方は電話を下さい。〇三・××××・××八八
株式会社ミツシン
美津彦は資金管理を目的としてミツシンと言う屋号の法人登録をしていた。週に一回程度契約している会計事務所から若い女性がやってきて伝票整理などをやっている。半田世里子と言う名の未婚女性だ。
街の広告代理店と相談した結果、久が原だと蒲田に近く、蒲田界隈の方が適任者が見付かり易いと言うのでその辺り限定で新聞の折り込み広告を出すことにした。
折り込み広告を出すと直ぐに反応があり、十三名もの応募者があった。美津彦は蒲田駅前の小さなカフェーを借り切って面談をすることにした。当日会計事務所の女性に手伝いを頼んだ。
「久が原の駅前の洋菓子店でロールケーキを二本ずつ入れた紙袋を十二個頼んでおいてくれないか」
「はい。今度の日曜日ですよね」
「ん。それと封筒に五千円を入れてそれぞれの袋に入れておいてくれ」
「交通費としてですか?」
「経費で落とせれば何でもいいよ」
「あのう、十三名応募がありましたよね。十二でいいんですか?」
「ああ、内定者には渡さないつもりだ」
世里子は会計事務所の社員だけあって税理にも詳しい。
土曜日の夕方若い女性から電話があった。
「お手伝いさんの募集、まだ間に合いますか?」
「応募者が多くて締め切ったよ」
「あたし、どうしてもやらせてもらいたいです。ダメでしょうか?」
女は食い下がってきた。
「仕方がないですね。じゃ、明日日曜日の午後一時に蒲田駅前のサロメと言うカフェーに来て下さい。遅刻はなしだよ」
「嬉しいっ、あたし絶対に行きます」
第六十三章 盗難
華那は保育ママのところから美華を受け取って家に帰ると、いつも戸締まりを忘れないドアーの鍵が何故か開いていて、入ると家の中が荒らされていた。華那は慌てた。預金通帳や印鑑を入れた引き出しはひっくり返され、虎の子の通帳や印鑑、それに健康保険証まで無くなっていた。鏡の下に隠していた一万円札一枚も盗られていた。華那の財布には六千五百円と小銭しか入っていない。華那は呆然としたが気持ちを取り直して一一〇番に電話をした。
美華は一歳半頃からよちよち歩きを初め、四歳に近くなった今は良く歩けるし言葉も覚えて可愛さが増していた。目の前で起こっていることを何も知らない美華は散らばった衣類や書類を掴んで楽しそうに遊び始めた。華那の方に手を差し伸べた美華を抱きしめると目に涙が溢れた。
「よりによって、こんな貧乏なところにどうして泥棒が入ったの。あたしどうしよう。明日からどうやって生活すればいいの?」
華那の涙が涸れた時、刑事が二人やってきた。刑事は先ず華那を疑った。
「土田さん、あんた自作自演やってんのと違うか? 帰って来る前何をしていた? 説明してもらおうか」
「六時まで花屋さんでアルバイトをしてました。六時で仕事を上がって、保育ママのところにこの子をお迎えに行きました。それから真っ直ぐに七時少し前にここに戻り、家の中が荒らされていましたから一一〇に電話をしました」
「その花屋と保育士のところの電話番号をここに書いてくれ」
華那が電話をしようとすると、
「ダメだ。口裏を合わせられたら面倒だからな」
刑事は花屋と保育ママのところに電話を入れた。
「どうやらあんたにはアリバイがあるな」
別の刑事は先ほどから指紋の採集をやっていたが、華那と美華の指紋も採られた。
「調査は終わったよ。これから犯人を追跡するが、何かあったらここに連絡を下さい」
刑事は華那にアリバイがあったことから少し丁寧な口調に変わっていた。
月末には保育ママへの支払い、電気、水道、ガスなどの請求書が続々と届く。華那はどうしていいのか分からなくなった。
翌日花屋の旦那に昨日泥棒に入られてわずかな蓄えを全部盗まれたと説明してから、
「すみません、来月のお給料を前借りできませんでしょうか?」
と相談した。旦那は、
「構わんが前借りをどう返済するんだ?」
と聴かれた。毎月二万円づつ六ヶ月でお返しします。ダメですか?」
「あんたがこの先半年うちで働いてくれる保証はないからなぁ。分かった、半分の六万だけ前払いしてあげるよ」
普段は優しい旦那でもお金のことになると厳しいことが分かった。やはりこれだけの店を切り回しているだけはあると思った。
アパートの家賃は五万円だ。保育ママの所には月々三万円は払わないといけない。それだけで八万円、貯金を盗まれてしまった今、花屋から前払いしてもらった六万円ではどうにも遣り繰りができない。
翌朝、今日からどうして暮らして行こうかと考えながらゴミ出しに行くと、他所のゴミ袋から出たらしい黄色いチラシが目に留まった。
「ちゃんと袋に入れてもらわないとダメねぇ」
ぶつぶつ独り言を言いながらチラシを拾ってゴミ袋に入れようとした。
「あら、何かしら?」
第六十四章 チラシ
チラシはどうやら求人広告みたいだ。内容を見て、華那はこの仕事を絶対に取ろうと思った。月額二十万円、しかも勤務はフレックスタイム制で一日五時間程度と書かれている。これが本当なら今の生活は充分やって行けそうだ。
美華のお迎えに行く前に駅前の公衆電話で電話をかけようと寄り道した。花屋から借りている携帯電話は持っているが原則仕事だけ使って良いことになっていて、先日も私用に使うなと全員に注意があった。だから緊急以外には私用には使えない。まして給料を前借りしたばかりだ。
何度か電話をかけてみたがどうやら留守らしい。むしゃくしゃした気持ちで自転車にまたがり商店街の歩道を走っている時、突然文房具屋から子供が飛び出し、子供を避けようとして年配の男と接触、事故を起こしてしまった。どうにか許してもらったものの、ついてない時は本当についてないものだと落ち込んだ。
求人広告の内容だと、今日土曜日が締め切り日だ。華那はどうしてもこの仕事が欲しかった。それで美華を引き取ってからもう一度駅前の公衆電話まで行って電話をかけた。今度はつながったが、応募者が多くてもう締め切ったと言われた。華那は必死だった。その結果どうやら面談は受けられることになった。
第六十五章 面談
日曜日午後一時に駅前のサロメ、その日は朝から華那の頭の中にそればかりが回っていた。問題は午後お休みをもらうことだ。給料を前借りをしたばかりで、私用で半日お休みとは言い出しにくい。まして日曜日の午後は一番忙しい。華那は困った。
「すみません、忙しい時に大変申し訳ありませんが、急にお腹が痛くなって」
華那は顔をしかめて旦那に訴えた。
「困ったなぁ、仕方ない、直ぐに病院に行きなさい。おいっ、カヨさん、彼女を病院に連れて行ってくれ」
旦那は先輩に病院に付き添うように指示した。華那は困った。仮病がバレてしまう。それで真っ青になったのを先輩は具合が悪くて顔色が悪いんだと思ったようだ。
「大丈夫? 直ぐ支度するから待っててね」
華那はあせった。
「先輩、お店が忙しいですから、あたし一人で行けます」
もしもどうしても付いてくると言われたら断りようがない。
「本当に大丈夫? 何かあったらあたしの携帯に必ず電話をして下さいね」
華那は内心助かったと思った。お昼少し前だが、華那は店を出た。
一時近くまで本屋で時間をつぶし、駅前のサロメに行くと既に十名以上の女性が集まっていた。どうやらお店は貸し切りらしい。入った所で若い女性に、
「お手伝いさんの応募者でいらっしゃいますか?」
と聞かれた。
「はい。そうです。ここでいいんですよね」
「奥の方にどうぞ」
皆のところに行くと、全員ライバルが来たと言う顔で華那を見た。
一時になった。店のカウンターのところから年配の男が皆の前に出てきた。洗い晒しのワークシャツの上に黒っぽい古びたジャンパーを羽織り、ボトムは裾がほつれた薄汚れた茶っぽいチノパン姿だ。隣に居た女性が、
「あの人が社長さん? 本当にお給料払えるのかしら」
と呟いた。その隣の女性が、
「そうねぇ、援交みたいだと困るわねぇ」
と囁いた。
「向かい側に座っている女性が、Hなことされたらセクハラで訴えればいいわよ」
と笑った。
美津彦は皆の顔を一渡り見回して、
「今日お集まり頂いたのは僕の家のお手伝いさんをして下さるお気持ちがある方々です。大勢お集まり頂きましたが残念ながら採用はお一人です。今日履歴書を見て面談させて頂いてから候補者を選ばせて頂きます。候補となった方は一ヶ月程度試用をさせて頂いてからその中から採用者を決めさせて頂きます」
誰かが手を挙げた。
「どうぞ」
「試用期間のお給料はどうなります?」
「複数の方になると思いますが、全員に一ヶ月分の給料はお支払いします」
すると別の女性が、
「本当にチラシの通り支払って頂けますの?」
と質問した。半田世里子が何か言いかけたのを制して、
「こう見えても向こう十年間払い続けられる程度の蓄えはありますから、ご心配しないで下さい」
と言った。また別の女性が質問した。
「お宅は社長さんお一人ですか?」
「はい。今のところは。申し遅れましたが僕は新道美津彦と申します。新道は新しい道です。会社の名前はミツシン、分かりやすいでしょ」
「男一人のところじゃなんか嫌らしくない」
とひそひそ声が聞こえた。それを聞いて美津彦は、
「僕はセクハラするような男に見えますか?」
と言うと誰かが、
「見えますっ」
と少し大きな声で答えた。
「参ったなぁ、こう見えてもセクハラなんてしないよ」
と言うと、
「男は分からないものよ」
と四十前後の女性が言った。それで全員が笑い出し、雰囲気が一気に和んだ。
「分かりました。もし僕がセクハラとか嫌らしいことをするんじゃないかとご心配な方は帰って下さい」
と美津彦が言うと三名ほど腰を浮かせたが思いとどまったのか席に着いた。
世里子が履歴書を集めて美津彦に渡した。
「あれっ、どなたか履歴書を持ってこなかったのかなぁ」
美津彦が呟くと、若い女性が手を挙げて、
「はいっ、あたしです」
と答えた。美津彦がその女性を見て、
「あっ」
と声をあげた。同時に手を挙げた女性も、
「あっ」
と狼狽する表情で顔を伏せた。
第六十六章 候補者選び
「あんた、あの時の……」
「お怪我をさせてしまってすみませんでした」
「今日はどうして履歴書を持って来なかったの?」
「すっかり忘れてました」
「面接を受けるのに履歴書を持って来なかった人は珍しいと思うけど、忘れたなら仕方がないね。不合格だな」
華那は慌てた。額の冷や汗を拭うと、
「そんなぁ、後で絶対にお届けしますから不合格にしないで下さい」
思わず手を摺り合わせて懇願した。
美津彦は手元の履歴書を順に見て、名前を読み上げた。名前を呼ばれた女性が返事をすると、健康状態、特に過去に罹った疾病、家族関係や趣味など一通り質問した。華那を除いて全員の質問が終わると、
「今からお名前を呼ばれた方はこちらの女性から紙袋を受け取って帰って頂いて結構です。中にささやかですが今日の交通費と応募のお礼を含めて五千円が入っています。どうぞお受け取り下さい」
紙袋を受け取った者は全員店を出て行った。華那が、
「あたしは五千円頂けないんですか?」
と聞くと、
「ああ、あんたね。あんたは不合格だけど夜遅く申し込みがあったんで用意できなかったよ。後で渡すからこのあと一緒に来なさい」
と言われた。要は不合格になってしまったのだ。不合格でも五千円もくれるなら、華那はどうしても五千円は欲しかったから素直に一緒にくっついて行くことにした。
「桑原さん、どうぞ一緒に拙宅までお出で下さい」
桑原と呼ばれた女性は華那と同じくシングルマザーで中学生の息子が一人居た。アラフォーの落ち着いた雰囲気の女で、ガーデニングの質問に的確に答えていたし、夫とは十年前に死別して現在は息子と二人で大森のマンションに住んでいると答えていた。
新道が選んだ候補者はこの女性一人だけのようだった。
第六十七章 仕事の条件
蒲田から電車に乗って、久が原駅で降りると美津彦は、半田世里子、桑原八代衣、土田華那の三人の女性を連れて家に戻った。
家の佇まいを見て、桑原と華那は驚いた。周囲の家に比べて敷地が広く、建てたばかりの豪邸がそこにあった。庭には雑草が生い茂っていたが、玄関の周囲は草むしりされて綺麗になっていた。玄関の扉を開けると、上がり框の先に幅一間半位の衝立風の壁があり、壁に沿って立てかけた大きなウェストミンスターの振り子がゆっくりと揺れていた。玄関ホールの両脇に幅一間の廊下が延びていて、左右ガラスの引き戸で区切られていた。
衝立の裏側にガラスの引き戸があり、開けるとそこには広い居間があった。居間の東側の隅にグランドピアノが置いてある。
静かだ。そんな顔で周囲を見回している桑原に、
「静かでしょ。この家は全体的に防音の造りにしてあります。中の大きな音が外に漏れないようにね。外の騒音も入ってきません。さ、そこのソファーに座って下さい。コーヒーを淹れましょう」
すると世里子が、
「私が淹れます」
とコーヒーの支度を始めた。しばらくするとコーヒーの良い香りが漂ってきた。
「土田さんは不合格だけどね」
華那は自分の名前を突然呼ばれてはっとした。先ほどから家の中を見てあれこれ考え事をしていたのだ。
「あ、はいっ」
「失敗続きで落ち込んでると顔に書いてあるよ。なんだか泣き出しそうな顔だね。あんたも良かったら桑原さんと交代で試用期間お手伝いをやってみないか?」
「いいんですか?」
華那の顔がぱっと明るくなった。
「いいよ」
「あたし、頑張ります。よろしくお願いします」
華那は美津彦と桑原の両方に向かって頭を下げた。
「やってもらいたい仕事は、先ず見ての通り庭が草茫々だから草むしりからだな。フレックスタイム制だから、明るい内に来られないことがあると思うけど、二人で相談して週に一回位は草むしりをしてよ。掃除は各部屋掃除ロボットが定期的に掃除をしてくれるからあまりやらなくてもいいよ。汚れた食器を片付けるとか、トイレや風呂場の掃除、それに洗濯もお願いしたいね。洗濯物は僕の物しかないけど……下着を洗うのが嫌なら自分でやるからほっといていいよ」
「下着をお洗濯するの、構いませんよ」
桑原が言うと華那も同意した。
「そうか、ありがたいね。この隣の部屋は僕の仕事部屋で昼間はそこで仕事をしているけど、仕事部屋は掃除をしなくていいよ」
「どんなお仕事をなさっていらっしゃるの」
「あはは、秘密」
と美津彦は笑った。
「冷蔵庫の中は空っぽだけど、後でお金を渡すから適当な物を買ってきて入れて下さい。内容はあなた方にお任せするよ。勤務時間が食事時になる場合は良かったら冷蔵庫の中の物を使ってここで食事をしてもいいよ。子供さん、土田さんはお子さんはまだ小さいでしょ。必ず子供さんも連れて来なさい」
「子供を連れて来てもいいんですか?」
「もちろんだよ。連れて来ない時はどこかに預けるんだろ、僕はね、それは子供には良くないと思っているんだよ。大変でも子守をしながら家事をするんだ。子供はね、母親と一緒に居る間に自然に学ぶものが沢山あるんだよ。最近変な性格の子供が増えているけどね、自分の子供を他人任せにすることも原因じゃないかと思うんだ」
美津彦は持論を展開した。だが、桑原も土田も反論はせず、土田はその方が助かるとも言った。
「今日はご苦労様。明日からお願いします。この先の一番西側の部屋をあなた方で使って下さい。ちょっと小休止したり居眠りしたりしてもいいよ。東側の部屋は使わないで下さい。さて、最後になりますが、ここに就業規則があります。要するにやって欲しいこと、やってはいけないことが書いてありますから読んでおいて下さい。後日社会保険の手続き用の書類に必要事項を書いてもらいます。お給料は前払いします。今日は月初めだから一ヶ月分ここに入れてありますから後で確かめて下さい」
華那が給料袋の中を見ると約束通り二十万円入っていた。華那は夢ではないかと思った。
第六十八章 試用期間
「あたし、花屋さんの定休日が毎週火曜日なんです。なので、出来ればガーデニングは毎週火曜日にして頂けません?」
「そうなの。私は土日がお休みなので土曜日にお庭のお手入れをさせて頂くわ」
華那と八代衣はお互いに家事の手分けを話し合った。火曜日と土曜日以外は一日おきにした。二人とも仕事持ちなので掃除、洗濯などは夜やらせてもらうことにして、美津彦のところに案を持ってきた。
「無理なく家事をやってくれるならそれでいいよ」
美津彦は特に異論はなかった。翌日の初日は土曜日で八代衣が息子を連れて朝からやってきた。息子は中学二年生で守ですと自己紹介した。素直に育っている様子で、八代衣の子育ては上手く行っているのだと思われた。
「進学志望校はもう決めているのかね」
「はい。都立の大森です」
「そうか、確か西蒲田で池上に近かったな」
「家から自転車で通うつもりです」
「お母さんが庭の手入れをしている間、隣の部屋で遊んでいてくれ。教科書を持ってきたなら静かで勉強が捗ると思うよ」
「はい」
「パソコンやコンポが置いてあるが好きに使っていいよ」
「はい」
守は無口な少年だ。
土曜日は相場がないのでお昼まで美津彦は八代衣と一緒に庭の手入れをした。
「薔薇を植えたいんだが、ご存じの通り薔薇の移植は一月の寒い時期がいいから、一通り整理ができたら草花の花壇でも作りたいね」
「それでしたらハーブを中心になさったらいかがですか?」
美津彦はハーブなんて殆ど知識がなかったから、八代衣の言う通りにしようと思った。
お昼になると、八代衣がキッチンで手料理を作り始め、間もなく居間全体に美味しそうな香りが漂ってきた。なかなか手際が良い。食後のコーヒーは美津彦が淹れた。
昼食が終わると、八代衣は息子を連れて帰って行った。帰りがけに守は、
「ありがとうございました」
と礼儀正しく頭を下げた。
翌日の夜は華那が五月で四歳を迎える娘を連れてやってきた。
「こんばんは。お邪魔します」
「可愛いじゃないか」
娘は人なつっこく美津彦を見るとニッと笑った。夜は美津彦は暇だ。それで華那が掃除や洗濯をしている間美華の相手をした。世の中では孫は可愛いと言うが、こうして遊んでやると本当に可愛らしい。母親の華那に似て器量よしだ。
「この子にピアノを教える気はないか? 四歳ならお稽古を始めるには丁度良い年齢だね」
「新道さんが教えてくれるんですか?」
「僕はダメだ。聴くのが専門だ。前に会った半田世里子さん、彼女は上手だから教える気があるなら頼んで見てもいいよ」
華那にしてみれば生活環境が急変して戸惑った。まさか美華にピアノのお稽古をさせるなんて、つい先日まで想像もしてなかった。
「少し考えてからお返事をします」
「ん。それでいい」
経ってみれば一ヶ月はあっと言う間だ。今まで八代衣と華那で手分けをして交代交代だったが、来月からはどちらかが毎日家事をしなくてはならなくなる。華那は条件的に自分が残りたいと思った。
第六十九章 華那の決断
「今日で一ヶ月経過したから試用期間満了となるね」
「はい」
日曜日の夜、八代衣と華那に来てもらった。それで美津彦の話に華那と八代衣が同時に返事した。
「それでだ、僕としてはお二人ともよくやってくれて、どちらが良かったと優劣を付けられなくて困っているんだ」
「はい」
「八代衣さん、気分を悪くしないで聞いてくれないか?」
「何でしょう」
「華那さんの話を聞いてみると、娘さんはまだ小さいし、経済的にもこの仕事がないとホームレスになってしまうそうなんだ。慈善事業じゃないんだが、華那さんが不憫でね、どうだろう、ここはあなたが譲って華那さんに残ってもらってもいいかな?」
八代衣は仕事を継続することよりも、美津彦の誠実な人となりに好意を持ち始めていて、出来れば将来一緒に暮らしてみたいと思っていた。だからこれで縁が切れると思うと悲しかった。淡い恋心を断ち切られてしまうのが辛かった。夫と死別してから十年間息子と二人で頑張ってきたが、男が居なくて寂しい思いをしたことは何度もあった。美津彦と一緒に楽しく庭の手入れをするだけでも生きがいを感じられた。
「あたし、新道さんとお別れするなんてとても辛いです。週に一日でもこのまま続けさせて頂けませんでしょうか」
八代衣は正直に自分の気持ちを言ってみた。
「そうなんだよ。僕も寂しくなるなぁ。僕が独り身だったら八代衣さんにプロポーズしたかも知れないね。でも華那さんとずっとお二人に家事をお願いするのは贅沢過ぎるしなぁ。どうだろう、ここは心を鬼にして華那さんに残ってもらうことに同意してもらえませんか」
八代衣はポロポロ涙を流した。美津彦はこんな場面に慣れていなかったから、どうしてよいものやら途方に暮れた。
「あたしはどうしても残りたいです。八代衣さん、ごめんなさい」
華那は残りたいと必死だった。美津彦は華那の気持ちが分かっていた。だから八代衣に譲れと頼んだのだ。このままではどうにもならない。それで、
「八代衣さんのお気持ちはわかるけど、どうにもならないんだ。世の中には手切れ金と言うのがあるよね、どうだろう少しまとまった額をお払いするから華那さんに譲ってくれませんか」
八代衣はこれ以上は無理だと察した。
「私、そんな手切れ金など頂けません。今の気持ちを大切に心の中にしまってお別れさせて頂きます」
結局すっきりとしないまま美津彦は八代衣と別れた。八代衣は泣きはらしたまま静かにドアを開けて去って行った。
八代衣が立ち去るとしばらく沈黙が続いた。
「華那さん、これで良かったんだよね」
美津彦は自分に言い聞かせるように呟いた。
「あたし、今まで以上に頑張りますから」
「所で華那さん、今アパート住まいだね」
「はい」
「失礼だが家賃は幾らだ?」
「月々五万円です」
「どうだろう、そのアパートを引き払ってうちに引っ越してこないか。今まで通り娘さんと二人西側の部屋で暮らしたらどう?」
「それだと助かります」
「家賃も食事代もかからなくなったら、今の花屋の仕事を辞めてずっとここで家事をしてくれるとありがたいんだが。月々今の給料があれば楽に暮らして行けるだろ?」
華那は美津彦の仕事部屋に入ったことはなかったから美津彦が昼間どんな仕事をしているのか知らなかった。だから、条件はいいのだが、この先ずっと今の状態が続くのか不安だった。仮に二、三ヶ月でお払い箱になったらまた大変なことになる。それが不安だ。
「ずっと今の条件で続けさせてもらえるんですか?」
「ん。前にも言ったがこの先十年以上びくともしないよ」
美津彦は自信ありげに答えた。華那は迷ったが、美津彦の話を信じて従う決心をした。
第七十章 華那の新しい生活
翌日華那は花屋の旦那に辞職を願い出て、アパートの解約をした。これからは毎日一日中美華と一緒に過ごせると思って、保育ママの方も解約した。
こうして、華那は身の回りの荷物をまとめて新道の所に転がり込んだ。冷蔵庫も電話も洗濯機、掃除機、テレビもない。身の回りの物と言えば美華と自分の洋服、歯ブラシや少しある化粧品くらいだ。だから前にリサイクルショップで買ったバッグ一つで全部まとまった。最後なのでタクシーを止めて美華と乗り込むと新道の家に行った。
美津彦は嬉しそうに出迎えてくれた。
「今日から新しい家族だと思って美華ちゃんと一緒に幸せに暮らすんだよ」
「はい。よろしくお願いします」
一通り持ってきた物を整理すると華那は美華の手を引いて新道の仕事部屋のドアを開けた。ドアを開けてみて驚いた。部屋の中にはパソコンの大きなモニターが五台も並んでいて、どの画面にもチラチラと数字が目まぐるしく変わっている。美津彦はそれらの数字を真剣な目差しで睨んでいて、華那たちが入ってきたのを気付かない様子だ。あまりの凄ましさに声もかけられず突っ立っていた。
「よしゃぁっ」
突然大声で美津彦がガッツポーズをしたので美華は泣き出し、華那は尻餅をついてしまった。
「なんだ、来ていたのか」
美津彦はいつもの穏やかな顔に戻って二人の側に来ると二人を抱きしめた。
「いやね、たった今五千万ほどの利益が確定できたんだよ」
「五千万って五千万円のことですか?」
「そうだよ。十億円の五%」
「すごいですね。あたしなんか一生かかっても触れないお金ですもの」
「その内華那さんもそんなお金を手にすることができるようになるよ」
華那は信じられなかった。
「もう落ち着いたのか」
「はい。それでご挨拶にきました」
「そうか、少しいいかな?」
美津彦と三人居間の方に移った。
「これからのことだがね、預金通帳と印鑑、それにキャッシュカードとクレジットカードをあなたに預けるから、あなたの物や美華ちゃんの物、それに毎日の食材や日用品なんかを自由に買うといいよ。クレジットカードは三万円を越える場合は何に使ったか報告をして下さい。お金があるからって贅沢をしちゃダメだよ。すまんがついでの時に僕の下着も買っておいてくれると助かるなぁ」
「はい」
午後華那は美華を連れて買い物に出かけた。キャッシュカードで二万円を引き出して驚いた。残金が五百万円以上もあったからだ。
これからはこのカードを自由に使えるのだと思うとなんだか今までとは別の世界に踏み込んでしまったような気がした。
夕食は買ってきた食材で少し贅沢な内容にした。
「これ、全部華那さんが調理したの?」
「はい。下手くそですけど」
「下手? 上手だよ。隠れた才能だな」
思ったより美津彦が沢山食べてくれて嬉しかった。夕食が終わって美華をお風呂に入れてから寝かし付けると美津彦に呼ばれた。
「これからの相談だけど、華那さんは高校しか出てないよね。大学に進みたい気持ちはあるの」
「余裕があれば行きたいです」
「だったら今から受験勉強をして来春大学に進みなさい。美華ちゃんは幼稚園だから送り迎えは僕がするから大丈夫だよ」
美華はもう四歳だから本来なら幼稚園だが、送迎ができないし、時間的に面倒を見られなかったから今まで無理を言って保育ママに預かってもらっていた。
「何から何までいいんですか?」
「ん。直ぐに幼稚園の編入手続きをしなさい。費用は心配しなくていいよ。公立が無理なら私立の良い所と交渉して入れてもらいなさい」
翌日華那は美華の幼稚園の編入手続きに出かけた。幸い私立久が原幼稚園に空があり直ぐに入園できた。入園費用は十六万円、月謝は二万八千円だった。区から入園費の補助金十一万円が出ると聞いて驚いた。実質的に五万円で入園できる。美津彦に報告すると、
「やってみれば出来るものだね。送迎バスはないそうだから華那さんが行けない時は僕が車で送迎してあげるよ。ところで華那さんは免許を持ってなかったね。大学に入ったら二週間くらい合宿して取ればいいよ」
第七十一章 大学生活
華那は高校時代成績が良かった。卒業してから何年か過ぎてしまったが改めて受験勉強をしてみると元の勘が戻ってきた。翌年の二月、国立のT大を受験して三月に無事合格した。家事をしながら通学するのはきつい面はあったが、美津彦の応援で大学生活が始まった。美華はすっかり美津彦に懐いておじいちゃま等と呼んでいる。
ある日いつものように夕方帰宅すると、美華も美津彦もいない。車庫を覗くと車はある。
「散歩にでも出てるのかしら?」
着替えてからもう一度部屋中を探してみたがいない。華那は少し不安になった。トイレに行こうとすると浴室の中から美華がケラケラ笑う声が聞こえた。浴室のドアを開けると、美津彦と美華が湯船の中ではしゃいで笑い合っていた。美華がいち早く華那の姿を見付けて、
「ママも一緒に入ろうよ」
と手招きした。華那が躊躇していると、
「良かったら一緒に入るかい」
と美津彦が誘った。
「あたしも入ろうかな?」
トイレを済ませて服を脱ぎ華那は浴室に入った。美津彦は華那の方を見ないようにしていたが、欲望に抗えずつい華那の身体を見てしまった。
「恥ずかしいから見ないで下さいな」
美津彦が初めて見た華那の身体は美しかった。すらっとした脚線、くびれたウェスト、思ったよりふくよかなバスト周り、ヒップもほどよく整った形で引き締まっていた。美津彦も男だ。ほんの一瞬見てしまっただけで華那の美しい体型にほれぼれした。
美津彦は美華にせかされて美華と二人で華那の背中を流してやった。華那はそうされている間生まれて初めて家族の温もりを感じながら黙っていた。
美華を真ん中に三人で湯船に浸かった。美華は相変わらずはしゃいでケラケラと笑った。
「美華ちゃんと先に出るよ」
バスタオルで美華を包んで美津彦は美華と一緒に浴室を出て行った。
大学に通学するようになって、華那はクラスメイトが自分より二~四歳年下のため最初は馴染めなかった。特に男子学生はどいつもこいつも嘴が黄色く見えて男として見ることが出来ず我ながら苦笑してしまった。一ヶ月もすると、何人かの女子学生と親しくなり、華那は自然にお姐さまと呼ばれるようになった。華那が通学しているT大は最近金持ちの子弟が多くなっている。昔は苦学生も多かったと言われているが今ではキャンパス近くに月額三万五千円前後の月極駐車場を借りて車で通学している学生もいる。
夏休みが近付いたある日、華那はなぜか寂しさを感じていた。夜はいつも美華を抱いて寝ているが、その日は美華が眠ってから枕を抱えて美津彦の仕事部屋に入ってみた。仕事部屋にはめったに入らない。美津彦はBSで午前〇時から始まるビジネスニュース番組を見ていた。
「そんな格好でどうしたんだ?」
「なんだか眠れなくて」
ビジネスニュースが終わると美津彦は居間に移ってワインを勧めた。特に話題があるわけではないが、学校での出来事などを美津彦に聞いてもらった。
「学校の帰りにお友達のショッピングに付き合ってもいいかしら?」
「そんなことは断らずに自由にしていいよ。帰りが遅くなるなら連絡だけはしてくれよ。美華ちゃんを寝かせてやったり、戸締まりもあるからね。恋人を作るのは好きにしていいが、一つだけ頼みたいことがあるんだ」
「何かしら?」
「僕はね、このままずっと華那と一緒に暮らして行きたいと思っているんだ。だから、将来結婚するつもりならここで同居してくれる男にして欲しいね」
華那は今は男を作るなんて考えたくもなかった。あの悍ましいレイプ事件以来男嫌いになってしまっていた。美津彦と出会って、最近になって、美津彦のような男なら受け入れても良いと思うように気持ちが変化してきた自分に気付いていた。
お喋りが終わって、
「遅いからもう休みなさい」
と美津彦に言われた時、
「あたしも一緒に寝かせて下さい」
と思わず言ってしまった。ワインで少し酔ったのかもしれなかった。美津彦はいつも仕事部屋のベッドで寝ているが、華那は美津彦にくっついて一緒に部屋に入った。
美津彦がベッドに入ると、華那も美津彦の隣に潜り込んで抱きついた。
「僕には奥さんがいるからHはダメだよ」
そう言って美津彦は華那を抱きしめてくれたが、何もせずに眠ってしまった。
翌朝美津彦が目を覚ますと華那は朝食の支度をしていた。美津彦はそろそろ妻の澄子を呼び寄せようと思った。最近は久が原の生活に忙しく、ここのとこ田舎には帰っていなかった。妻とは時々電話をしているが、相当に怒っている様子が伝わってきた。ずっと妻をほったらかしにしていたのだから無理もない。
第七十二章 夏休み
華那の部屋には最初からパソコンが置いてあった。自由に使って良いと言われていたから今では自分専用になっていた。建築時家屋全体にLANケーブルが張り巡らされていて、各部屋にパソコンがある。一年半前の生活環境と比べると雲泥の差だ。
華那は美華を寝かせてから予習復習を済ませパソコンに向かった。最近の生活パターンだ。夏休み自動車の運転免許を取るように美津彦に勧められてネットから資料請求をした。夏休みだから日常の生活から解放されてみたい。それで北海道を合宿先に決めていた。
資料は二日後に届いた。内容を良く見て釧路の学校が良いと思った。札幌市内にもいくつかあるが、免許の習得ついでに北海道の自然に触れてみたいと考えて美津彦に相談した。
「ん、いいと思うよ。予約はまだ間に合うのか?」
「大丈夫みたいです」
「あのう、免許を取ってから何日か北海道を旅行して来てもいいですか? 美華の世話で迷惑をかけちゃうし」
「家族ってものはお互いに支え合ってこそ結びつきが強くなるんだよ。美華にも幼い時からそれを教えておく必要があるよ。僕が困った時に華那と美華が応援してくれる気持ちがあればそれでいいよ。それに、来年以降夏休みには海外に出てもらいたいと思っているんだ。僕も仕事で何度か海外の国に出たけど、華那のように若い頃に沢山経験していれば自分の人生観、世界観が全く変わっていたと反省してるんだよ。今になってあの時無理しても行っておけば良かったなんて後悔しても仕方がないしね」
華那は目に涙を溜めて美津彦を見た。
「ありがとう……お父さん」
この時小さな声で呟くように思わずお父さんと言ってしまった。言ってしまってから、感情がこみ上げて美津彦に抱きついた。美津彦はそんな華那の頭を自分の胸に引き寄せ抱きしめた。
「華那、泣くなよ。華那がここに美華と来た時から僕は華那のお父さん、美華のお爺ちゃんだと思っているよ。美華も今じゃ僕のことをごく当たり前におじいちゃまと呼んでくれてるだろ?」
それ以来、華那は時々美津彦のベッドに潜り込むようになった。美津彦に抱きしめられていると本当の父親の温もりを感じることができた。
合宿費用は四十万円と少しかかったが、戸籍抄本、健康保険証、印鑑など忘れ物がないか点検後華那は美津彦と美華に見送られて羽田空港を飛び立った。生まれて初めて飛行機に搭乗した華那は、来年はヨーロッパへ旅行に行こうと先のことを考えていた。
釧路での合宿生活は快適だった。同年代の学生が多く、十六日間で卒業できた。卒業後以前から行ってみたいと思っていた旭川動物園を見学した後、札幌と小樽の市内を見物して羽田に戻ってきた。美津彦と美華が出迎えてくれた。
「お父さん、ただいま。美華、お利口さんをしていた?」
「美華、お利口さんだったよ。ママ、お土産は?」
翌日、華那は鮫洲運転免許試験場で学科試験を受けて合格、十日もすれば免許が下りることになった。
「華那、自分用の車を買いなさい。自動車会社のカタログをもらってきて決めたら報告してくれよ」
「えっ? あたしに車を買って下さるの?」
「ん。外車にするならBMかベンツだな。僕は国産車の方がいいと思うが華那の考えでいいよ。金はかかるが華那の機動力を考えると車は必要だね」
ばたばたしている間に夏休みは終わりに近付いた。華那は教養課程が終わる来年から経済学部経営学科に進む計画を持っていた。以前は理工系に進みたいと思っていたが気が変わった。
第七十三章 母親
毎週日曜日はなるべく美津彦と一緒に半日ガーデニング、庭の手入れに費やした。その甲斐があって、新道家の庭は随分綺麗になった。庭の西側に植え込んだラベンダーはまだ綺麗に咲いている。中央のフェンス沿いにナスタチュームが咲き乱れ、南側の車庫のシャッターの上まで垂れ下がって咲いていて綺麗だ。東側はサルビア・コスメティックブルーや赤いチェリーセージが咲き乱れ、庭の中央はヒナ草を円形に囲むようにして色とりどりのロベリアが咲き乱れている。
美華は最近毎週三日間一日おきに半田世里子に来てもらってピアノの練習を始めた。美華は幼稚園に通うようになってから、すっかりお姉ちゃんっぽくなり、ピアノの上達が早い。たまに幼稚園の友達数名を招待して演奏を披露するまでになった。子供と一緒にやってきた母親たちは口々に庭が綺麗だと羨ましがった。そんな時母親の華那は大学に出かけていて不在で、仕方なく美津彦が相手をした。
華那は十八歳で出産したから、美華のお友達の母親たちは皆華那より五歳以上も年上の女性が多かった。しかし、美津彦は華那の方が大人と言うか年上に感じた。華那の容姿は綺麗だが苦労した分話す内容が大人じみている。
毎日決まった時刻に帰宅する華那がいつものように美華を寝かせて居間に戻ると美津彦が待っていた。
「華那、ちょっと話をしている時間あるかい?」
「はい。大丈夫です」
「僕のように比較的大きなお金を動かしているとね、株式の運用だけでは資金が大き過ぎてやり難いことがあるんだよ。それで最近街の金融業者と付き合いができてね、言ってみればサラ金業者に金の一部を貸しているんだ。」
「へぇーっ、怖くないんですか?」
「あはは、借りる側なら怖いけどね、貸す側は万一全部紙切れになってしまうリスク以外は怖いことはないんだ」
「そう言うものなんですね」
華那は感心している。
「実は最近華那に関係がありそうな噂を耳にしてね、業者の紹介である人と引き合わせてもらったんだ」
「あたしに関係があるって? あたしサラ金に近付いたことは一度もないわよ」
「華那のお母さんの名前は?」
「土田君子です」
「いやその人でなくて華那を産んでくれたお母さんだよ」
華那はその話にギクッとした。捨てられてからもう二十年近くも経ってしまったが、その間一度も会ってない。
「岸田有華です」
「結婚前は副島有華だったんじゃないのか?」
「あ、はい。その通りです」
「その副島有華さんに会ってみたんだ。華那が今でも会ってみたいと思っているなら、会ってみるかい? 僕の気持ちを言うと、会ってみた結果華那が悔やんだり悲しんだりするんじゃないかと少し心配しているんだが、華那が会いたいなら機会を作ってみるよ」
「あたしを産んでくれた母に間違いないんですか?」
「間違いはないと思う。華那は知らなくていいが、金融業者は問題があると分かると個人情報をきっちり調べるんだ。本人だけでなくて、親子親戚はもちろん交友関係にまで手を広げて調べ上げてあるんだ。もちろん絶対に公開されない情報だから僕のような立場の人間以外には情報を漏らさないんだよ。世の中には悪いやつがいてね、金貸しにお金を巻き上げられないように親子や親戚知人に金や資産を預けて隠してしまうことがままあるんだ。だから個人情報は銀行や役所なんかよりずっと細かいんだ」
「それであたしと母の関係が分かったの?」
「まあそう言うことだね」
「あたし、会ってみます」
「本当にいいのか?」
「はい」
華那を産んでくれた母親に会う日が決まった。当日は美華も連れて三人ででかける予定だ。美津彦は以前お手伝いさん募集の時に着ていたよれよれの上下を着た。
華那と美華が部屋から出てきた。
「お待たせ」
「おいおい、そんな格好じゃ拙いよ」
「えぇ~っ? どこが拙いんですか?」
「それじゃ金持ちのお嬢様に見えるじゃないか。うちに転げ込んできた時のような感じでなるべく貧乏しているように見える洋服にしてくれよ。それと化粧も落として髪の毛なんかぼさぼさで見るからに生活にくたびれている感じがいいね」
華那と美華は美津彦に言われた通り着替えて出かけた。
「お母さんっ」
有華を見付けると華那は駆け寄った。だが有華はきょとんとして、
「あなた誰?」
と怪訝な顔をした。
「華那よ。忘れたの? 信じられない。この子は美華、お母さんの孫娘よ。ほら、ご挨拶なさい」
美華は華那にせかされて頭をちょこんと下げた。
「あなたなんか知りませんよ。初めて見る顔だわね。どこから来たの?」
「お父さんの名前は均よ。自分の夫の名前まで知ってるのにあたしたち誰だか分からないの?」
「しつこいわね。娘に会わせるって言うからもう少し金持ちらしい格好の女の子が来るのかと思えば薄汚い子を寄越すなんて何考えてるんだろ。もう行くわよ。あなたたちには関係ないから」
華那は呆然としてその場に立ち尽くした。母親の姿が遠ざかった時、急に感情がこみ上げてきてその場にしゃがみ込んで泣いた。
華那の肩に置かれた手を見ると美津彦だった。華那は何も言えなかった。二十年ぶりに再会した実の親子なのに。
美津彦は先ほどから少し離れて再会の様子を見ていた。思った通り酷い仕打ちだった。華那と美華が可哀想で美津彦も言葉を失っていた。
家に戻ると美津彦は泣きはらした顔の華那に話しかけた。
「実は有華さんはサラ金でお金をかりまくって、僕の所に話が来た時には六百五十万円近くの借金を抱えて追い込まれていたんだ。それで業者は取り立てのために調べて華那の名前まで探し当てたんだ。恐らく土田さんにも取り立ての話が行っているかも知れないね」
「そんなに借金を?」
「信じられんだろうが生活費をサラ金から借りたら一千万位の借金にすぐになるんだよ。それで返せない場合は風俗で荒稼ぎさせるとかひどい場合は臓器を取られたりするんだ。男なら外国の鉱山とか外国籍の遠洋漁船に売り飛ばされたりするんだ。有華さんの場合はまだそこまでは行ってなかったようだね」
「お母さん、これからどうするんだろ?」
やはり実の母親だ。華那は心配した。
「華那には言わなかったが、僕の方で全額肩代わりして綺麗にしてやったよ。でもね、それだけじゃまた直ぐに借金漬けに逆戻りしてしまうんだ。それで、横浜で売りに出ていた小さい賃貸しマンションを買って、家賃で楽に暮らして行けるようにしてあげたよ。二階建ての小綺麗な建物で十戸あるから月々家賃収入が百万近く入るし、管理はマンション管理会社に頼んでおいたから毎月五十万位はお母さんの銀行口座に振り込まれるはずだ。そのマンションの一戸をお母さん用に使ってもらうようにしたんだ。マンションの名義は華那にしたが、華那は何もしなくてもいいんだ。またパチンコ、競馬なんてバカな賭け事に手を出さなければよいけどね。その点は僕がきっちり説教をしておいた」
「そうだったんですか。お父さんありがとう」
「ついでに言っておくが、もしもあの時華那が綺麗な格好をして行ったら、恐らくお母さんは華那を娘でなくて金蔓にしたいと思って華那を自分の娘だと言い張っただろうね。それじゃこれから先華那の腐れ縁になると思ってね貧乏くさい姿で再会してもらったんだ」
華那は美津彦の考えが正しいと思った。
第七十四章 澄子の気持ち
一年ぶりにもなるだろうか、美津彦はしばらくぶりに神奈川県東北部の田舎町にある自分の家に帰った。時々電話をしているものの、当然のことながら妻の頭には大きな角が生えていた。
「ただいま。帰ったよ」
だが妻の澄子は返事もしない。月々の生活費は十分なものを渡していたから生活に困っているわけではないが、長い間ろくに理由も説明せず顔を見せなかった夫に怒っても当然だ。美津彦は澄子が相当ご機嫌が悪いことは分かっていたが、実際の場面に出会すとこんな時どう宥めれば良いのか戸惑った。
自分でお茶を淹れようとする美津彦を制して、
「この家にはあなたが飲むお茶はありませんよ」
と言いながら渋々とお茶を淹れて美津彦に差し出した。こんな時はだんまりを続けるのが得策だと思って黙って新聞を読み始めた。しばらくすると澄子は出かける支度をして、
「買い物に行ってきます」
と出かけてしまった。小さな庭を見ると澄子が手入れをしているコスモスが咲き始めていた。庭を見ながら結婚以来長い間息子たちと家族で過ごしたこの家はやがて住む者がいなくなってしまうが、びっしり詰まっている思い出を手放してしまうのには惜しい気がした。
「ここは売らずに改築して別荘にでもしよう」
一人で呟いていると、澄子が帰ってきた。
「今夜はここで寝て行くんでしょ?」
「自分の家だから当たり前じゃないか」
この返事がいけなかった。
「家をほったらかしにして、あたし一人を残して、あなた一体どこで寝ていたの? 女でしょ。きっとそうよ。以前は浮気なんかしたことがないのにこの年で色狂いなんて気持ちが悪いわね。そんなにいい女がいるなら帰ってこなくてもいいですよっ」
澄子は目に涙を溜めている。
「……」
澄子の怒りの中には息子たちが母親をほったらかしにして家に寄り付かない分も含まれているのだと思った。
美津彦は久しぶりに戻ってみたものの、することがない。澄子に話しかけようにも取り付く島がない。時間を持てあましてテレビを点けてみたものの、昼間はニュース番組の他は見る気がしない。仕方なく書斎に入って座布団を枕に眠ってしまった。
何時間転た寝していただろうか、澄子に揺すられて目を覚ますとあたりは薄暗くなっていた。澄子が怒った顔をしていなかったので少し助かった気がした。
「夕飯、できましたよ。顔でも洗ってきたら」
顔を洗って食卓に行くとご馳走が並んでいた。多分先ほど食材の買い出しに出かけたのだろう。
「お前の手料理、久しぶりだなぁ」
食べ始めると、
「あなたの女の手料理と比べているんでしょ」
「バカ言うんじゃないよ。澄子が想像するような女なんていないよ」
美津彦は怒った顔を作って少し強く出た。それで澄子の怒りはほんの少しだが後退したように思えた。
夜、久しぶりに妻を抱いた。澄子は大人しく美津彦の好きにさせていた。
「本当に不倫をしてなかったの?」
「可愛い澄子がいるのにどうして他所の女が要るんだ?」
「まだあなたのここが元気だから心配して当然よ」
と澄子は美津彦のものをつまんだ。
「いてて、あまり拗ねるなよ」
翌日澄子に東京の久が原と言う街に新しく家を建てたから引っ越してこないかと誘った。最初は今住んでいるここがいいと言っていたが、渋谷や新宿の繁華街に出やすいからこれから先ショッピングを楽しんだりのんびりと人生を過ごすにはいいじゃないかと説得して引っ越すことに同意させた。
「ここはどうするのよ」
「美津男と竜男が帰ってくる家がなくなったら可哀想だろ。部屋数を減らして別荘風にリフォームしてたまに帰って来てのんびりできるようにするつもりだよ」
「あら、その考えいいわね。夫婦喧嘩しても行く所ができそうだわ」
澄子はまた皮肉を言ったが本心ではない様子だ。
美津彦は久が原の家に戻った。
「お父さんが居ないとなんか寂しいよ。ねっ、美華も寂しかったでしょ」
華那は美華に同意を求めた。美華はたった一晩不在だっただけなのに美津彦にまつわりついて離れなかった。華那が学生になってから、美華はすっかりお爺ちゃんっ子になってしまったようだ。
「今日僕の家内の澄子に来てもらうんだ。美華のお婆ちゃんになってくれる人だから大事にしてくれよ」
「あたし、大切にします」
「最初慣れるまではぎくしゃくすることがあると思うけど、根は優しい人だから根気よく尽くしてくれると嬉しいね」
日曜日華那に出かけないように頼んで澄子を美華と三人で出迎える心の準備をした。午後一時頃久が原駅に着く予定だから昼食後三人揃って駅に向かった。
第七十五章 新しい出会い
十三時五分に澄子は約束通り久が原駅に着いた。美津彦はきょろきょろ周囲を見ている澄子に、
「こっち、こっち」
と手招きした。美津彦を見付けると、澄子は大きなバッグを下げてやってきた。
「へぇーっ、久が原は変わってないわね。大昔一度だけ通ったことがあるのよ」
駅を下りて少し歩くと静かな住宅街になった。人通りが少ない。先ほどから美津彦の後を追うように付いてくる綺麗な女の子と娘と思われる子供を横目で気にしながら澄子は何も聞かずに美津彦と並んで歩いた。美津彦が澄子のバッグを持つと思ったより重かった。多分当面使う衣類だけ持って来たのだろう。
「ここが僕らの新しい家だ。さ、入ってくれ」
澄子は玄関で靴を脱ぐとそっと向きを整えてから立ち上がった。
「随分大きな家だわね」
あちこち珍しそうに眺めている。
「澄子の部屋は東側の陽当たりがよい所にしたよ。こっちだよ」
華那と美華は緊張した顔をして居間で待っていた。やがて美津彦と澄子が居間に入って来た。澄子は華那の顔を見ると睨み付けた。
「あなたが主人の女ね。道理で、最近家に寄り付かない理由が分かったわ。妻がいる男と平気で不倫する若い子、汚らわしいわ。どうやって主人を誘惑したのっ」
「おいっ、いきなりなんてこと言うんだ。人の話も聞かないで失礼じゃないか」
「失礼はどっちよ。この子の方でしょ」
美華が突然泣き出した。
「お爺ちゃま、美華怖いよぉ」
「えっ? お爺ちゃま? パパじゃないの?」
「改めて紹介するよ。こちらは土田華那さんでこの子は華那さんの娘の美華ちゃんだよ」
「よろしくお願いします」
華那はこんな場面を予想していたらしく、冷静だった。
「この子はあなたの隠し子でしょ? 誤魔化したってダメ、あたしの目は誤魔化せませんよ。お爺さんと呼べと言い含めておいたんでしょ」
「立ち話じゃなんだから皆座って話そう」
美津彦はソファーを澄子に勧めた。
「僕たちには娘がいないだろ、だから娘のように接してくれそうな人を募集してたまたま華那さんに出会ったんだよ。可哀想な人でね、この美華くらいの時に母親に捨てられて、高校を卒業するまで華那の母親の知り合いのご家庭で養女として育ったそうだよ。大学に進学予定だったのにレイプされて美華を身ごもってしまって、出産後家を出て一人で働きながら子育てして、お手伝いさんに応募した時はもし僕が見放したら路頭に迷う寸前だったんだ。最初は本命の桑原八代衣さんと二人で交代で来てもらったんだが、事情を聞いて桑原さんに辞退してもらって華那さんに残ってもらったんだ。もう一年半以上ここで一緒に暮らしてみたんだがね、貞節な子で今まで一度だって変な関係にならず、いまじゃ僕のことを父親のように思ってくれているんだ」
澄子は信じられないと言う顔で聞いていた。華那の顔に一筋の涙がこぼれていた。
振り返ってみれば娘に恵まれず息子たちは家と疎遠になって澄子は寂しい思いをしてきた。もし目の前の女の子たちが自分たちの娘になってくれたらと一瞬だが欲が頭の中を過ぎった。
「わかったわ。今日のところは主人の話を信じてみましょう。でも、もし今後変なことがあったら絶対に許しませんよ」
「あはは、やっと分かってくれたか。四人で仲良く暮らして行くのが一番だよ。家族だから変だと思ったら何でもずけずけ言い合うのがいいね」
「あたし、可愛がって頂けるよう頑張ります」
華那が付け加えた。子供は空気に敏感だ。大人たちの顔が和んだのを見て、
「お婆ちゃま」
と言って美華が澄子の膝に這い上がった。これには澄子は驚いたが明るくて可愛らしい美華を手で支えると息子たちが幼かった頃の子供の心地よい感触が蘇ってきた。
「あらまぁ、可愛いわね。あなた何歳?」
美華が指を四本差し出すと、
「そう、四つにしちゃしっかりしてるわね」
と頭を撫でた。
夕食の支度は華那がやると言い張って澄子は折れた。
「すみませんが美華をお風呂に入れて頂けません?」
美華の入浴を澄子に押しつけると華那は夕食の支度に専念した。手早く夕食の支度を済ませた頃、浴室から美華のきゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえてきた。美津彦が様子を見に来て、華那の顔を見て微笑んだ。
華那が浴室を覗くと、
「ママ、一緒に入ろ」
と美華が誘った。
「いいんですか?」
華那は澄子の顔を伺った。澄子をどう呼べばいいのか分からない。おばさまでもないし、澄子さんはおかしい。お母様と呼びたいがまだ呼べるようにはなってない。
「よかったらいらっしゃい」
予想外の返事が戻ってきた。華那は洋服を脱ぐとするっと浴室に入った。
美華と二人で澄子の背中を流してあげたが、澄子は黙っていた。
夜、華那は澄子に大学に通わせて頂いていると打ち明けた。T大の教養学部に通っていて来年から経済学部経営学科に進む予定でキャンパスは文京区に変わりますと説明した。
「そう? あなた優秀なのね。美華ちゃんはわたしがお預かりしますから安心して行ってらっしゃい」
「土曜日と日曜日はお休みなので、ご一緒にお庭の手入れをしたり、お買い物をしたいわ。いいでしょ?」
もちろん澄子は同意した。先ほど夕食を食べている時にスーパーで買ってきた出来合いの総菜ばかりを食べさせられるだろうと思っていたのに全部自分で調理をしたものばかりだと聞いて少し安心していた。
澄子が来てから数日後、朝大学へ出がけに突然華那が玄関で倒れた。真っ青な顔をして震えている。澄子が額に手を当てると熱い。
「あら、お熱が高いわね」
美津彦が華那を抱き上げてベッドに運んだ。澄子は手際よく衣服を脱がせてから美津彦に解熱剤がないのかと聞いた。
「この辺りで往診して下さるお医者様はいないの?」
「今まで病気したことがないからなぁ」
美津彦はネットで調べた後、近くの病院に電話をした。医師が看護士を連れて直ぐに訪ねてきた。
「お嬢様は過労による貧血で心配はないでしょう。熱は風邪からきていると思います。最近強いストレスがかかるようなこと、ありませんでしたか? 兎に角安静が必要です。今日一日寝かせておいて下さい。解熱剤の注射が効いて間もなく熱は下がるでしょう」
華那が目を覚ました時、ベッドにもたれて澄子が転た寝をしていた。華那が動いたのに気付いて目を覚ますと、
「あら、お熱下がったわね」
と額とほっぺたを撫でた。
「ずっと見てて下さったの?」
「そうよ。突然で心配したわよ」
「ありがとう……お母様」
華那は小さな声でお母様と言った。澄子が優しい目で、手をそっと華那の首に回して抱きしめてくれた。華那は嬉しくて泣き出してしまった。
「お母様、ありがとう」
第七十六章 咲恵の結婚
華那の姉、咲恵は加藤利昭の結婚式がめちゃくちゃになった後、利昭と子供たちと一緒に四人で過ごすことが多くなった。利昭と身体で結ばれたことは無かったが、心はしっかりと結ばれていた。
咲恵が大学を卒業すると利昭は初めて咲恵の気持ちを受け入れて男と女の関係になった。利昭は咲恵の中からこみ上げて迸る情熱をしっかりと受け止めた。
「咲恵、結婚しよう」
ずっと待っていたこの言葉を咲恵は自分の身体の反応で応えた。
利昭は今の日本の法律では成人男女は親の同意がなくとも自由に結婚できることは分かっていたが、それでも咲恵の両親の理解を得て咲恵が両親に祝福されて結婚するのが咲恵の幸せにとって大切なものだと思っていた。
「咲恵、近い内にご両親に会おう」
「会っても無駄だと思う。反対されること分かってるもの」
「それはどうかな? 僕は翼と雛の親だから親の気持ちはある程度分かっているつもりだよ。親になってみると、やはり自分の子供が幸せに暮らして行けるのか、世間の目から見て道徳に背を向けていないのか、たとえ自分の欲目が強かったにせよ、最後にはそう言うことが決め手になるように思っているんだ」
「ママ、あたし結婚するよ」
「咲恵、急に何言ってるの? いい人ができたの?」
君子は突然娘がそう言い出して驚いた。
「ずっと前から付き合ってる人がいるの」
「あなたそう言うこと、全然話してくれなかったからママは驚いたわよ。彼を連れていらっしゃい」
「ママ、仮にだよ、仮に子供がいる人でも許せる?」
「えっ? あなたの恋人って子連れなの?」
「子連れなんて変な言い方だな。白状すると子供が二人いるの。可愛いよ」
「ダメ、ダメですよ。あなた何考えてるの。何で子供がいる人を好きになったのよぉ」
君子は咲恵の背中を軽くぶちながら狼狽えているようだ。
思った通りだ。母でさえこんなだから父は絶対に許してくれないだろう。
「兎に角、一度会ってよ。いい人だよ。子供だってすごく可愛いから」
「パパは何て言うかしらねぇ。多分怒るかもしれないわよ」
「ずっと前から覚悟できてるから」
「じゃパパに会うだけ会って下さいって言っておくから、日にちが決まったら連れていらっしやい」
咲恵の父、土田敏夫は突然君子から咲恵の縁談話しを聞かされて、一瞬喜んだが、子連れと聞いて頭から反対した。だが咲恵が泣いてすがってようやく会ってくれることになった。
その日は生憎雨模様で咲恵の心も冴えなかった。咲恵の家は予め利昭に略図を書いて渡してあった。お昼前、十一時頃に来てもらう約束だ。君子も咲恵も朝から落ち着かなかった。敏夫はどんな風に応対すればいいのかまだ心が決まっていなかった。咲恵の話では自分より少し年下だが弟みたいな感じでとても婿として受け入れ難かった。
十一時少し前に車の音がして続いてチャイムが鳴った。
「来たっ」
君子と咲恵は同時に同じことを心の中で呟いた。
「お邪魔します」
玄関に中年の誠実そうな男と高校生らしい男の子、中学生らしい女の子が入って来た。
「待ってたわよ」
咲恵は君子が驚くほど落ち着いた様子で迎え入れた。君子は男が自分の弟くらいの年齢だったので戸惑ったが、子供たちは咲恵が言っていた通り礼儀正しそうな感じで安心した。敏夫は出迎えに出てこなかった。
六畳間で小さなテーブルを囲んで席に着いた。
「咲恵の母です。咲恵さん、お父さんを呼んでいらっしゃい」
間もなくすると敏夫が部屋に入ってきた。ブスッとしていたが、利昭が名刺を差し出すと、
「ああ、こちらにお勤めでしたか」
と利昭の顔を見た。政府系のこの企業を敏夫は知っていた。しかも目の前の男の肩書きは理事となっている。この手の事業で理事と言えばどんな立場かも分かっていた。それで利昭の気持ちは揺らいでしまった。
君子は子供たちに話しかけた。
「お嬢さんはお幾つ?」
「中二です。よろしくお願いします」
「娘、咲恵のこと、どう思っていらっしゃるの?」
再婚相手に娘がいれば、娘との間がぎくしゃくして上手く行かない例をいくつも知っていたから君子が一番聞きたかったことだ。
「信じて頂けないかも知れませんが、咲恵おねぇちゃん大好きです。あたしたちのママになってくれるといいなとずっと思っていました。パパと結婚したらお婆ちゃんになって下さるんですよね」
君子はお婆ちゃんと言われて、そうか自分はこの子たちの祖母になるのかと気付かされた。息子の翼は無口だったが、咲恵が大好きですと言うので安心した。
お昼は宅配寿司店から寿司を取り寄せて皆でつつき、食事が終わると雑談になった。利昭は以前結婚式を挙げている最中に子供たちの不意打ちで破談になり、結婚話が持ち上がる前から子供たちに良くしてくれている咲恵の世話になっていると説明した。
「子供たちが咲恵さんにすっかり懐いてしまって、勝手な言い種ですが今ではすっかり家族になっていただいて……」
「加藤さんのような誠実な方なら咲恵をお預けしましょう。実はお目にかかる前はどんな方か知らされていませんで、この縁談を絶対に許すものかと思っておりましたが、お目にかかって気が変わりました。君子、今言った通りだ。お年を考えると同意し難い面もあるけれど、子供たちにも慕われているようだから、気持ちよくお受けするのがいいと思うよ」
突然夫の敏夫がそう言い出して君子はびっくり仰天した。だが考えてみると、最近茶飲み友達が集まると孫の話ばかりでいつも君子は蚊帳の外で寂しい思いをさせられていた。だから急ではあるがこんな可愛い孫が出来ても悪くはないと気持ちが変わった。
「咲恵さん、やはりご両親に会って良かっただろ?」
「はい。父がすんなりと承諾してくれるなんて全然予想が外れました」
咲恵は喜びを隠しきれない。その後結婚式の話は順調に進んで、都内のホテルで挙式、土田咲恵は加藤咲恵となった。
結婚後の生活は今まで通りで違うことと言えば利昭がいつも優しく包み込んでくれるようになったことで、一年経った今、咲恵のお腹の中で利昭の子供が育っていた。
君子は咲恵がしょっちゅう子供たちを連れて遊びに来て、
「お婆ちゃん、お婆ちゃん」
と呼ばれることにすっかり慣れてしまっていた。
第七十七章 華那の卒業式
華那は予定通り経済学部経営学科に進んだ。美津彦に買ってもらった車は通学には使わなかったが、土曜日か日曜日澄子と美華を乗せてショッピングに行ったり、公園に行ったり楽しみが増えた。澄子は大学生の華那と一緒に買い物をする時幸せを感じていた。息子たちが結婚した時、嫁と一緒に買い物に行ったり音楽会に行けることを夢見ていたが、嫁たちは実家の母親にぴったりとくっついて澄子とはずっと疎遠になっていて叶わぬ夢となっていたから自分を大切にしてくれる華那とこうして一緒に歩けて嬉しかった。美華も目の中に入れてもいいくらい可愛らしくなっていて、買い物で出歩くと店員に綺麗な娘さん、可愛らしいお孫さんと言われて誇らしかった。
「あなた、華那さんを正式にあたしたちの娘にしたらいかがかしら?」
「養女にするってことかい?」
「そうよ。手続きが難しいの?」
「華那が了解してくれれば手続きは簡単だよ」
華那が喜んだので話が具体的になり、華那の戸籍謄本を取り寄せると直ぐに手続きして華那は正式に美津彦の養女となった。証人は美津彦の友人二人に頼んだ。当然のこと、土田華那は新道華那に変わった。大学の方も改名手続を済ませ華那は新道家の愛娘として人生を歩むことになった。美華もなかば自動的に澄子の孫娘になった。人の心は面白いもので正式に娘と孫になると澄子の可愛がり方も倍増し、澄子は今まで華那さんと呼んでいたが自然に華那と呼び捨てするようになった。
「華那、ちょっとここ見てみない?」
澄子は華那に声をかけた。華那と一緒に庭いじりをしていると昨年植えておいたチューリップの球根から芽が出ていた。その年の一月に薔薇の苗木を沢山植え込んだが、もう新芽の先の蕾が膨らんでいる。
「華那、来月から株式会社ミツシンの取締役にするよ。月給は二百万だ」
美津彦は半田世里子に社員になってもらっていたから世里子にも事前に話を通してあった。世里子は美華にピアノを教えているうちにすっかり美華と仲良しになっていたし、華那とは姉妹のような付き合いをしていたからこの話を快諾した。普通の会社員が突然身内の会社で高額の給料をもらえば税務署は黙ってはいないかも知れないが、役員であれば世間一般と比べても不審なことはない。美津彦は無理がない形で資産を華那に移そうと計画していて、取締役就任も計画の中に含まれていた。
「それとだ、大学を卒業したら華那に事業を始めてもらおうと思っている。最初から立ち上げるのは大変だからどこか適当な会社を買収して社長を務めてもらう計画だから本気でどんな企業を買収するか検討しておいてくれ」
華那は大学に進んだ時、将来美津彦の会社を引き継ぎたいと思って経営学科を目指したが、会社を買収して社長におさまることは想定外だった。
大学で留学生のモニカと言う女性と親しくなった。彼女は英国籍で実家はロンドン郊外だと話してくれた。華那と同学年だが、向こうの大学を出てからこちらに来たので年は華那より一つ下だが、同年代だから仲良しになった。
「そのモニカさん、うちでステイして頂いたらどうかしら? あなたと美華の語学教師をして頂く代わりに無料で」
「ん。一度彼女に話してみるわ」
モニカは生活費が節約できると喜んでくれた。将来美華が使う予定の部屋が空いていたから週末に引っ越して来てもらうことになった。
モニカが越してくると家の中が一層賑やかになった。澄子はまた一人娘ができて嬉しくてたまらない様子だ。その後モニカのお陰で、華那も美華も英会話が達者になった。
楽しい大学生活は残り少なくなった。美華はもう小学生だ。華那は在学中国家公務員総合職試験(旧国家公務員Ⅰ種試験)を受けて無事に合格した。腕試しで受けたつもりが合格したのだ。合格すると国のいくつかの省庁から誘いが来た。女性職員の採用枠を増やす政策が進められていたからかも知れない。だが、華那は公務員になる希望は持っていなかったから全部断った。
クリスマスが終わると直ぐに正月が来た。この年はモニカも一緒に家族揃って雪国の温泉に浸かって過ごした。世里子も一緒だったから澄子は女性四人に囲まれて温泉に浸かり、この年になってこんな幸せが訪れるなんてと感激していた。
三月下旬、華那の卒業式に美津彦、澄子と美華の三人が揃って華那の晴れ姿を見に来た。華那は卒業したら直ぐにオランダに本部がある中堅の種苗会社に留学することが決まっていた。華那はミツシンが買収する企業として国内の中堅種苗会社の他野菜料理のレシピを公開しているネット企業、花や野菜を配送するネットビジネスを展開している企業などいくつかの企業を買収して株式会社美華と名付けた企業をミツシンの子会社にして統合する企画案を美津彦に提出していた。美華は美しい花と言う意味で娘の名前を借りた。本格的に動き出すのは華那が留学先から戻ってからだ。
第七十八章 再会
大学卒業後一週間ほど美華と楽しく過ごしたあと、かねて美津彦が知人の商社マンに紹介してもらったオランダのロッテルダム郊外にある種苗会社に向かって成田を飛び立った。夏休みに澄子と美華を連れて何度かヨーロッパへ小旅行に出かけたから海外旅行は初めてではなかった。
ロッテルダムまで直行便がなかったので、ドイツのフランクフルトで乗り継いでロッテルダムに入った。目的の企業はロッテルダムから西に約三十キロほど離れた場所にある。華那はロッテルダムのホテルに一泊したあと、ホテルからタクシーで田舎町のデ・リエ(De Lier)に向かった。車は市街を出ると高速A20号線に入って西に走った。三十分ほど走ったらノルベグ(Nolweg)と言う所で一般道N213号線に入ったようだ。その道を一キロほど走って右折、N223号線に入ると直ぐデ・リエの町に着いた。予め聞いている住所を運転手に見せると大きな建物の前で停まった。受付で来意を説明すると若い男性の社員が案内してくれた。予め連絡が付いているようで、宿泊施設にも案内してくれた。
華那が研修に出かけた先の企業は主に野菜の種苗を開発、販売している世界的企業で規模は小さいが良い品種の野菜を出している。華那は学生時代に予て調べてからこの会社を選んだ。
次の日に朝から施設を案内してもらった。大きな直営農場があり、新鮮な野菜が沢山育っていた。昨日の青年は試験農場だと説明した。
三日目から研究室に入って女性の研究者に付いて仕事を始めた。現在では品種改良は遺伝子レベルで行うので製薬会社の研究室のように感じられた。
こうして、毎日開発の仕事を皮切りに農場や種苗の輸出業務まで色々なことを教えてもらった。そんなことをしていると時間が経つのが早い。直ぐにクリスマスが近付いて、クリスマスが過ぎるとしばらく休暇がもらえた。それで華那は久しぶりに東京に戻り正月を家族水入らずで過ごし、一月下旬再びロッテルダムに向かった。三月、最後の日に、会社で親しくしてくれた社員がささやかなお別れパーティーをやってくれた。研修期間中、華那は努めてマネージャーと親しくしたから、パーティーには何人かのマネージャーの姿もあった。
華那は折角の機会だからオランダの観光に三日費やして首都アムステルダムからフランクフルトに向かった。ドイツもめったに来られない所だから、空港を出て二日間フランクフルトに投宿し、ワンデーツアーバスで市内観光をした。
「終わったな」
華那は一年間を振り返って自分にお疲れ様と囁いた。翌日フランクフルトの空港で出発待ちをしている時どこかで会った記憶がある男性を見付けた。華那は本能的に立ち上がって男に近付いた。近くで見てびっくりした。
「失礼ですが、もしかして山形史朗さん?」
男は華那を怪訝な顔で見ると、
「どうして僕の名前を知ってるの?」
と聞く。間違いない史朗さんだ。華那は、サングラスを外してにっこり笑った。
「あたし華那です。覚えていらっしゃいます?」
「へぇーっ、偶然にしては出来すぎだな。華那さんかぁ。見違えるように綺麗になってるから分からなかったよ。これから成田へ?」
「そうよ。今から東京に帰るところ」
「時間あるの? できれば明日の便に変更できない? 僕も東京に戻るんだけど、明日の便に変えられるよ」
「大丈夫。直ぐにキャンセル手続きをしてきます」
史朗が乗る予定の飛行機と華那が乗る飛行機は航空会社が違っていた。それで、お互いに手続きが終わったらこの場所に戻ろうと約束して別れた。
第七十九章 熱いキス
搭乗券の変更手続きを終わって元の場所で待っていると史朗が小走りにやってきた。
「待った?」
「丁度今戻ったとこよ」
「じゃ、街に出ようか」
華那は史朗の後を追って外に出た。タクシーに乗ると、
「ホテル・ゲルツに行ってくれ」
と言った。
「近くにパルメンガルテンって言う公園があって大きな植物園もあるんだ。明日は午後八時過ぎのフライトを予約したから午前中ゆっくり散歩しないか?」
「素敵。相変わらず史朗さんは気が利くなぁ」
ホテルは中心街から少し離れているがとても良い感じだった。二人はホテルのレストランで夕食を食べてからカフェに入った。
「ロッテルダムは行ったことがないけど、どんな街?」
「パンとチーズがとても美味しい街」
と華那が笑った。
「アムステルダムも行ったんだろ?」
「水の街って感じかな。食べ物は美味しいわね」
「アハハ、いつから食いしん坊になったんだ」
「知らなかった? 子供の時からよ」
「今夜、部屋はツイン一つにしたけど気分悪くしないでくれないかなぁ」
「あたし子持ちだから平気よ」
華那は悪戯っぽい顔をした。
「子供さん、もう大きくなったんだろ?」
「娘、可愛いわよ。史朗さんが五万円出してくれた時、とてもありがたかったわよ。今でもあの時のこと忘れないよ」
「あれからどうしてたんだ? 実を言うと一度会いたくてご自宅に電話をしたんだ。そうしたら、華那は家を出て今どこに住んでいるか分かりませんなんて言われて驚いたよ。普通娘が家を出てもどこで暮らしてるくらい分かっていそうなものだからさ」
「あたし、出産してから家にいずらくなって、二歳にもならない娘を連れて家を出たの。東京に出て蒲田で、苦労したな」
華那はその頃を思い出すように遠くを見た。
「僕はね、大学を卒業して四年目に親の勧めである女性と結婚したんだ。お見合いの後三ヶ月間付き合った時は普通の女の子だったんだけど、結婚すると人が変わったみたいにカードはバンバン使うし掃除洗濯をしないものだから家の中は汚れ物がごちゃごちゃ散らかったままで参ったよ。資産家の一人娘なんだけど、どんな育て方をしたのか我侭でさ、気に入らないと直ぐに物を投げたりわめいたり、そんな生活だから本当に参ったよ。そのうちカードはいくら足しても直ぐに残高不足になっちゃってさ、破産寸前まで行って、もう金がないと言ったら、貧乏人と結婚するんじゃなかったなんて言われて僕は我慢の限界を超えて切れちゃった。それで一年も経たずに離婚したよ」
史朗もその頃を思い出すように遠くを見た。
「華那さんは? 今は苦労してないように見えるけど」
と華那が着ている洋服、持っているブランド物のバッグを見た。
「あたしね、福の神様に出会ったの」
「男性?」
「ん」
「で、結婚されたの?」
「娘になったの。レイプされてから男の人と親しくなるのが怖くて」
「へぇーっ? 幸運の神様かぁ。今は神の子なんだ」
「大学まで出して頂いて、今は幸せ。養父母がとてもいい方で」
「大学はどこ?」
「T大の経済学部」
史朗は驚いた様子だ。
「華那は勉強をよくしてたからなぁ。就職は?」
「学生の頃から就職してるよ。養父がやってる会社の役員にしてもらったの。実態のない会社だけど、これからM&Aをやってね、あたしが代表になるつもり」
「なんだか分からないけど、凄いね。オランダには何しに行ったの?」
「研修よ。新しい事業を立ち上げるために勉強してきたのよ」
史朗は華那の話がよく見えなかった。しかし、今は幸せで溌剌としていることは確かだ。
「史朗さんもお仕事でしょ?」
「就職先が商社でさ、ここに出張」
しばらく二人でビールを飲んだ。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
「はい」
部屋に戻るとどちらからでもなく二人は抱き合った。華那は男はゴメンだが、史朗に限って許せた。昔史朗が大好きだったが、その頃は恋愛感情はなかった。
史朗は華那を抱きしめると華那にキスをした。華那はずっと封じ込めて来た男に愛されたい気持ちが緩み、史朗の唇を吸った。
ベッドに倒れ込むと、史朗は長い間凍り付いていた華那の気持ちを少しずつ溶かすようにゆっくりと愛撫し始めた。
第八十章 華那の結婚
自分の中にこんな激しい感情があったのかと思うほど華那は史朗の心地よい愛撫に応えて燃えた。二人は窓の外が薄明るくなるまで愛し合った。
何時間眠っただろう。
「もう十時過ぎだよ」
華那は史朗に揺り起こされてやっと目が覚めた。遅い朝食か早お昼か、兎に角二人はレストランに行って食事を済ませると、近くのパルメンガルテン植物園に歩いて向かった。エントランスまで三百メートルくらいしかない。公園は綺麗で静かだった。
「華那さん、結婚しないか? 一度失敗したけど、華那さんとなら上手くやって行けると思うんだ」
「あたしも、史朗さんの奥さんにならなってみたいな。でも条件があるの」
「どんな条件?」
「養父母と同居して欲しいの。この条件がダメだったら、あたし結婚できないよ」
「それなら大丈夫。僕は次男だからさ、しかも一度離婚してるから親は反対しないと思う」
二人は同じ飛行機で隣り合わせの席にした。成田に着くまで、史朗は華那の手をずっと握っていた。華那はもし史朗と結婚したらこの手を絶対に離すまいと思った。
成田に着くとまた近々会う約束をして華那は史朗と別れた。
久しぶりに家に戻ると美華がくっついてきて離れなかった。
「美華、ずっとお留守してごめんね。お利口さんしてた?」
「美華はお利口さんしてたよ」
両親と世里子と皆で夕食を済ませた。澄子はご苦労様パーティーをしている気持ちで華那をもてなした。史朗のことは明日打ち明けることにしよう。そう思ってその夜は美華を抱いて眠りについた。
史朗と華那はお互いに良く知っている仲だから、結婚前にデートを重ねる必要はなかった。
「お父さんとお母さんにお話したいことがあるの」
「なんだね? 改まって」
「実はフランクフルトで昔勉強を見て下さった方に偶然出会ったの。それで彼にプロポーズされたんだけど一度会ってくれない?」
「そう、良かったじゃない。わたし、あなたがずっとこのまま独身を続けるのか心配してたのよ。是非連れていらっしゃい」
数日後の日曜日、史朗は手土産を持って新道家を訪ねてきた。
「今どこにお住まいですか?」
澄子は史朗を見て第一印象は○だと思った。それで細々としたことを聞き始めた。離婚のことなどは予め華那から聞いていた。
「品川駅近くに1DKの小さなマンションを借りています」
「お勤めも近くなの?」
「はい。会社は芝浦にあるK松ですので山手線で二駅目です」
澄子は久が原から通うとすれば一時間はかからないと先回りして考えていた。
「K松とはあの大手の商社かね」
美津彦が初めて尋ねた。
「はい。その通りです」
澄子が続けた。
「華那のこと本当はどう思っていらっしゃるの?」
「華那さんとなら絶対に幸せになれると思っています」
「美華のことは?」
「娘さんが生まれた経緯は良く知っています。真っ先にどうしたら良いか相談を受けましたから。美華ちゃんが僕に懐いてくれるよう努力します」
「華那が相談した時、どうお答えになったの?」
「僕は本当に相手と愛し合っていたら産れてくる他人の子も一緒に愛するだろうなって言いました。でも両親が猛反対したら結婚は無理だとも言いました」
「そうだったの。あなたのご両親が華那との結婚をお許し下さることが大前提ってことですね」
「はい。親の反対を押し切って結婚しても華那さんが本当に幸せになれるとは思いませんから、その場合には別れるしかありません」
「で、今回はご両親は何て言ってらっしゃるの?」
「離婚してますから良い相手なら子供さんがいる人と結婚してもいいと言ってます」
「ご結婚なさったら華那と美華を連れて品川に住むおつもり?」
「いえ、華那さんのたっての願いなので、ご両親がお許し下さるならここに同居させて頂きたいと思っています。そのことは僕の両親にも言ってあります。華那さんが一人っ子だから仕方ないと納得してもらいました。もちろんご両親を大切にします」
「華那と結婚してやってくれないか? ただし華那は可哀想な子でね、もしも君が華那を悲しませるようなことをしたら僕は許さんぞ」
美津彦がはっきりと言った。
史朗の両親と顔合わせが済むと、山形家から結納が届けられた。結婚式は都心の神社で済ませた。史朗と華那の友人が大勢集まり賑やかな結婚式だった。
新婚旅行は華那の意見を入れて北欧にした。ベルギー、オランダを経由してデンマークからスエーデンを回りノルウェーまで二週間旅した。
新婚旅行から戻ると史朗は荷物をまとめて華那の所に越してきた。
その日から、家族五人の楽しい生活が始まった。心配した美華は史朗によく懐き、まだオジサンと呼んだが仲良く過ごし始めた。
華那は美華に素敵な父親ができて良かったと思った。
結婚後華那は早速新しい事業の立ち上げに邁進したが、史朗は不服を言わず華那を支えてくれた。
第八十一章 新規事業の立ち上げ
「婚姻届けを出すのを忘れていたよ」
「あら、あたしが忘れていたわ。ごめんなさい」
史朗が華那に言うと、
「あたしがあなたの籍に入れて頂くってことでいいのよね」
「僕が新道姓にしても構わないと思ってるんだけど」
その時横で美津彦と澄子が聞いていた。美津彦は、
「家族の絆ってものは心のつながりが大切だね。姓がどちらかに決まったからと言って今仲良く暮らしている僕らの家族関係が壊れてしまわなければどちらでもいいと思うよ。希望を言わせてもらうなら史朗君が新道姓に変わってくれると嬉しいね」
この問題は史朗と華那が話し合って新道姓で届けを出すことに決めた。
人の心はおかしなもので、史朗は新道姓で届け出てから何故か美津彦家の婿でなくて美津彦の息子になったような気がした。
史朗は結婚前に華那に約束した通り、美津彦にも澄子にも実の息子のように接した。子供は大人の行動に敏感だ。美華は史朗がお爺ちゃんとお婆ちゃんに良くしてくれていることが分かっていた。それで、史朗を自分の本当の父親だと思うようになり、自然に史朗をパパと呼ぶようになった。華那や史朗が無理にそう言わせたわけではないが、いつの間にか嫌がらず史朗と一緒にお風呂に入るようになった。新道家の浴室は広く作ってあり美津彦と史朗と美華が三人で入ったり、澄子と華那と美華の三人で入ったり美華を挟んで楽しく入浴した。澄子が来てからはさすがに華那と美華と美津彦が一緒に入浴することはなくなった。
華那は手始めに茨城県南西部にある大きな農家と交渉を重ね、農業事業法人を設立して出資、株式の五十二%を自分の持ち分とすることに合意を得た。思い切った設備投資をして、少人数で生産性を上げ、オランダの会社から優れた野菜の種苗を輸入して栽培、初出荷まで漕ぎ着けた。併行してネットで受注して配送している企業に出資を持ちかけてこちらも六十%の持ち分を得た。更に料理が好きな主婦を十名ほど集め、スマホのアプリケーション開発のベンチャーに投資して、レシピを中心とする調理指導ビジネスを立ち上げ五十三%の持ち分確保に成功した。
生産から加工、流通、消費者直結のレシピ開発まで手がけ生産から消費へと直結する第六次産業ビジネスを目指した。
生産と加工が安定したところを見計らって、銀座のデパートの食品売り場にアンテナショップを出した。生産効率が良く衛生的な野菜工場から出荷される新鮮で栄養価が改良された野菜はメディアに注目されテレビ放映されたことから一気に知名度が上がり、生産が追いつかない日々が続いている。デパートで販売すると通常販売コストがかさむが、原価率が良いためスーパー並の価格で販売しても利益が出た。
ネット販売では顧客に密着しているため、ニーズを的確に捉えることが出来た。華那は本部のミツシンの中にマーケティングのプロを数名雇い入れ、膨大な顧客からの情報(ニーズ)を分析させて現場にフィードバックする仕組みも整えた。
ようやく一息付いた時、華那は体調の異変に気付いた。
第八十二章 華那の懐妊
朝から胃袋が重く、気怠くていつものように起きられない。熱も少しあるように感じた華那はもしかして風邪かと思い薬を飲もうとしたが風邪薬が見当たらず目黒に新しく作った株式会社美華のオフィスに出かけた。午前中近くの病院に寄って診てもらうと、
「ご懐妊されてますね。気付きませんでした?」
と女医に言われた。
「えっ、あたし妊娠してますの?」
「これからはお身体を大事にして下さいね」
華那は仕事が多忙だし、出産後子育てして行けるだろうかと悩んだ。家に帰って皆が集まったところで懐妊したことを話した。もちろん史朗の子供だ。
史朗と澄子は相好を崩して喜んだ。
「仕事が忙しいし、産んでも育てられるか心配なの」
「そんなことで悩んでいたの? 大丈夫よ安心して産みなさい。あたしが育ててあげますよ」
澄子に背中を押されて華那は一安心した。史朗は、
「僕の子供だし、美華も一人っ子じゃ可哀想だから何も考えずに元気な子を産んでくれよ。僕も出来る限り協力するから」
先ほどから黙っていた美津彦が、
「華那さん、親と同居するってことは色々気遣いがあったり大変な面もあるがね、子供は一人で育てるのでなくて家族全員が支え合って立派に育てるって考え方が正しいと思うよ。今は親元を離れて一人で苦労して子育てをしているご家庭が多くなったが、うちは幸い家族がまとまって仲良く暮らしているんだから、ここは遠慮せずに史朗君やお母さんを頼りなさい。仕事が大変なことは分かるが、何年か経ってみれば産んで良かったと思える日が必ず来ると思うよ。美華だって、堕ろしていたら今すごく後悔をしているんじゃないかな?」
気持ち的に、家族に支えてもらっているありがたさを感じながら華那は無理をしない範囲で仕事に精を出した。一番安心なのは母の澄子が懐妊中気を付ける要点を教えてくれたことだ。一人では悩んでしまうかも知れない些細なことでも、母に相談するとそれだけで気持ちが楽になった。美華の時と比べて出産に至るまでの間家族全員の支えがどんなにありがたいものか思い知らされた。独立して親元を離れて暮らし、出産の時だけ手伝ってもらうのではなくて、親と同居してずっと一緒に居ることの方が自分にとっても生まれてくる子供にとっても好ましいものだと思った。
「仕事が辛い時は世里子さんに仕事を任せなさい。世里子さんには僕の方から頼んでおいたよ」
道理で、最近世里子は何かと自分に優しい。
不景気にも関わらず野菜や関連グッズの売り上げは順調に伸びていたので野菜の栽培と技術的に共通点が多い花卉の分野への進出を模索し始めた華那は大阪にも新鮮野菜のアンテナショップを出店させ、更に株式会社美華本社に貿易実務の専門家を数名雇い入れて製品の海外輸出プロジェクトを立ち上げさせた。ヨーロッパ地域へのデリバリーはオランダの種苗会社を拠点にする話も併行して進めていたし、中国や東南アジアそれにロシアへは日本を拠点にデリバリーしようと目論んでいた。そんな仕事を最近は半分以上世里子に任せた。
第八十三章 出産
華那は三十歳になった。美華はもう小学校六年生で最近は大人のような口のききかたをする。華那のお腹の子供は順調に育ち、来月の出産を控え華那は仕事の整理を始めた。出産前後十日くらいは仕事から離れるためだ。お腹が大きくなるにつれて毎日会社に出るのは辛いこともあったが、美華の時を思い出して頑張った。
史朗も澄子も華那の出産を楽しみにしている様子だが、一番希望を膨らませていたのは意外に美華だった。美華の周囲では最近一人っ子が多いが、美華は弟か妹が欲しいと言い続けていた。
月を越して、仕事中に産気づいて世里子に付き添われてタクシーを飛ばした。病院に着くと直ぐに分娩室に入れられて、その日の夜無事に出産した。男の子だった。世里子の知らせで、美津彦、史朗、澄子、それに美華が病院に駆けつけてくれた。華那は美華が誕生した時の寂しくて不安だったことを思い出していた。子供はやはり家族全員に祝福されて生まれてくる環境の大切さをしみじみと感じて美華には済まなかったと思った。出産は予定日より十日も早かったが史朗に似た元気そうな赤ちゃんだった。子供の名前は美津彦と史朗が相談して、威史と名付けられた。
「威と言う字の意味はね、人を自然に従わせるとか強い力だと言われるがね、調べてみると元々の意味は一家の権力を握っている女、つまり姑のことだそうだ。兎に角強い男に育って欲しいからね、そう言う願いを込めたんだよ。史は史朗君の名前の一字をもらったんだが、史はその昔、天体の動きから暦を作る人を史と言ったそうだ。その頃は暦を作る人は人々に崇められていたそうだよ」
と美津彦が皆に説明した。
「たけふみって名前、あたしは好きだな」
と美華は嬉しそうな顔をした。
退院後十日間ほどは家で暮らした。澄子が約束通り良く世話をしてくれるし、美華も手伝ってくれたから美華の時と比べると随分楽だった。
華那の仕事は多忙で会社からしばしば電話であれこれ聞いてくる。華那はいつまでもゆっくり休んでいるわけには行かず、体調が回復したところで出社した。乳児は母乳で育てるのが良いが、現実には時間的に無理があり、澄子に頼んでミルクで済ますことが多かった。しかし、保育園に預けずに済んだだけでもありがたい。
威史が満二歳を迎えた時、美津彦は久が原の家屋と土地の名義を華那に変えた。弁護士に相談して生前相続をしたのだ。血を分けた実の娘ではないが、美津彦の華那への信頼の証に他ならない。澄子も異論はなかった。美津彦が持っていた金融資産の殆どは華那がやっている事業への投資の形で少しずつ移されていた。だから美津彦の手元に残っている資産はほんのわずかになっていた。
華那は美津彦のように株式相場でデイトレードは出来ない。だから美津彦から自分名義に移してもらった株式は相場の大きな山と谷を見定めて山で処分して現金で持ち、谷で買い戻すリスクが少ない方法で運用した。事業を始めてから華那にも大きな収入が入る。だから、父親の美津彦から現金を預かり自分の口座で株式を買った。厳密に言えば贈与とか相続の問題があるが、少しずつ長期に亘って処理してきたので心配はなかった。
第八十四章 忍び寄る病魔
威史は三歳になり幼稚園に通い始めた。史朗に似て背が高くしっかりした男の子に育っていた。送迎は澄子の日課になっていたが、澄子にとっては生活に張りが出るし楽しみの一つでもあった。
澄子にとってもう一つの楽しみは日曜日に華那と美華と三人で庭の草花や薔薇の手入れをしている時だった。美華は中学への受験勉強に忙しかったが、日曜日の祖母や母との庭いじりを欠かしたことはなかった。
澄子にとって三つ目の楽しみは娘と孫を連れてショッピングに出かける時だった。自分が欲しい物は少なかったから、大抵華那と美華の物を買った。店を回ったり洒落た店で食事をしたりしていると楽しかった。
もう一つの楽しみはやはり華那と美華と並んでお喋りをしながらキッチンに立っている時だった。美華は明るい子でいつも冗談を言って祖母と母を笑わせてくれた。
澄子は中年を過ぎてから少し太りだして、医師に糖尿になりやすい体質だから食事に注意し適度の運動をするように勧められていた。澄子は医師の勧めを守っていたせいか体調が良かったため油断をしていたのがいけなかった。ある日目がかすみ何かおかしいと感じた。だが、年のせいだと思って美津彦や華那に話をしなかった。だが次第に悪くなってきたので病院に行くと軽度の糖尿病だと診断された。
そんなことがあって、気を付けていたがある日威史を迎えに幼稚園に出かけ幼稚園の門を入った所で急にお腹の上の方がさし込むように痛み、意識を失って倒れた。幼稚園から救急車で病院に運んでもらったと連絡を受けて美津彦が病院に駆けつけた時は澄子は譫言を続け意識はなかった。
「ご主人ですか? ちょっとこちらに」
医師は、
「病因は急性肝萎縮症と考えられます。糖尿病も見受けられましたが糖尿が原因ではないようです。急性肝萎縮症は治療が難しく、出来るだけの処置は致しますが、ご家族は覚悟を決めておかれるのがよろしいと思います」
「そんなに悪いんですか?」
「はい」
医師に告げられた通り、澄子は意識を取り戻さず、一週間も経たずにあっけなく息を引き取った。死に際にほんの少しの間意識が回復してしきりに華那と美華の名前を呼んだ。
華那が手を握って、
「お母さん、死んじゃ嫌っ」
と泣き叫ぶ間に、
「華那はわたしの本当の娘よ」
とかすかに聞こえた。華那と美華は澄子に抱きついていつまでも泣いていた。
美津彦は葬儀は家族葬にしたが名古屋と大阪にいる息子たちには連絡をしなかった。恐らく美津彦の心の中ではとっくに縁を切っていたのかも知れない。
史朗と華那に相談して、都内の小さなお寺に新道家の墓を建てた。墓の費用は全て美津彦が負担した。澄子を埋葬して四十九日は直ぐにやってきた。新しく墓を作った寺の住職の読経が終わって法事は滞りなく終わった。
「これでお婆ちゃんは仏様になったんだよね」
「美華、良く知ってるね」
「ん。お婆ちゃんが教えてくれたよ。四十九日までの間は仏様になれないんだって。だからお香典は御霊前と書くんだって。四十九日が過ぎたら御仏前になるんだよね」
美津彦はこんなことを生前孫の美華に教えていたのかと驚いた。
家の中は澄子がいなくなってなんだか寂しくなった。華那は家には仏壇がないので、澄子の部屋に写真と位牌を飾り、毎日欠かさずに澄子が好きだったお茶を供え、美華と一緒に手を合わせた。
澄子の遺産は銀行通帳の残高が八百三十二万円、生命保険が三千万円で合計三千八百三十二万円あった。相続税の基礎控除額は五千万+一千万×相続人の数で、基礎控除額以内であったから税金はかからない。美津彦は全額自分が受け取り現金化して、少しずつ華那の事業に投資した。投資した金は殆ど運転資金として使い資産として残さなかった。
第八十五章 寂しさを越えて
澄子が他界してから、威史の送り迎えは美津彦の日課になった。美華は二月にK大中等部を受験した。第一次試験は学科で国語、社会、理科、算数の四科目だったが、無事合格し合格発表があった二日後に体育実技と面接があり無事パスした。それで四月から電車で目黒に出て都営地下鉄に乗り換えて三つ目の駅までの間、電車通学を始めた。乗り換えは一回だけだから心配はなかった。美華は中等部が終わったら同じ学校の女子高に進み、そのまま大学まで進むつもりだった。
母の澄子を亡くしてからしばらくは悲しい思いがいっぱいだったが、美華と威史に気を取られて次第に悲しさが薄れ、続いて寂しさが押し寄せてきた。美華を産んだ時は自分の家族はこの子だけだと思っていたが、いつの間にか家族が増えて六人にもなった。それなのに六人の内の一人を亡くしただけなのにこんなに寂しいものなのかと家族の重みが身に沁みた。
寂しさは仕事が薄めてくれた。世里子は暇な時美華にピアノを教えてくれていたが、威史の出産を境に多忙になり今は先生役を辞めてしまった。
事業の方は順調で、ロシアに輸出した野菜は思いの外良く売れ、海外事業の柱に育ってきた。温暖な日本の農場から生産される品質の良い野菜は冬の寒い時期、ロシアの人々の食卓を潤しているようだ。特にいちごは格別で生産が追い付かないくらい出荷されていた。北極回りの航空貨物便を使うと翌日には向こうの空港に着く。貿易担当社員の努力で検疫は出荷前に国内で行われ流通のスピードに貢献していた。国内も順調で、この年の決算結果売り上げが初めて二百五十億を越えた。
夏休みに、久しぶりに史朗と一緒に家族揃って海外に旅行することになった。行く先は華那たちが新婚旅行に行った北欧からフランスを横断して地中海までの旅だ。美華は今まで何度か海外に連れ出したが、史朗と威史も一緒でとても喜んでいた。父の美津彦も一緒に行こうと誘ったが、
「家でゆっくり留守番をしているから、安心して楽しんで来いよ」
と出かけるのを拒んだ。大抵の場合一緒に出かけてくれるのだが、多分史朗に気を遣ってくれたのだろうと思い、美津彦に留守番を頼んで出発した。
旅行はトラブルもなく素敵な旅になった。特にパリで、以前新道家にステイしていた英国人のモニカがやってきて合流し美華をあちこち連れ回してくれた。美華はモニカに英会話を教えてもらっていたからモニカと親しいし、華那も安心して美華を彼女に預けた。
美華はお友達にとお土産をどっさり買い込み、華那も職場の親しい仲間へと美華に負けずどっさりお土産を買い込んで夕方久が原の家に戻ってきた。出がけに帰国予定日を美津彦に伝えてあったのに、珍しく外灯が点いていない。勝手口の鍵を開けて、
「ただいまぁ」
と大きな声を出したが、家の中は静まりかえっていた。
「おかしいな。お父さん、お出かけかしら?」
華那は家中の明かりを点けて部屋を覗いてみたが留守のようだ。念のため、父親の仕事部屋の扉を開けてみると、そこに美津彦が倒れていた。
「大変っ、あなた、あなたぁ、お父さんが……」
華那の悲鳴に近い声に驚いて史朗が駆けつけると冷たくなった父親の身体に華那が抱きついて嗚咽していた。
第八十六章 父の死
史朗は馴染みの医師に連絡して直ぐに来てもらった。以前母澄子の時に世話になった医師だ。医師は看護士を連れてやってきた。顔をしかめて美津彦の冷たくなっている身体の様子を見て、
「病院に移してちゃんと調べてみないと分かりませんが、恐らく脳溢血で亡くなられたものと思われます。お身体の様子から多分三日か四日前に倒れられたのでしょう」
医師は警察にも連絡して検屍官に立ち会う形で診てくれた。結果は最初の予測通り脳溢血で倒れ、家人が不在のために死亡したと断定された。
「ご遺体の状況から三日前に亡くなられたようです」
と刑事が史朗に説明した。華那たち家族は全員ヨーロッパを旅行中で領収書やモニカの証言もあり死亡には一切関わっていないことが証明されたので、警察では病死で発見が遅れたためと断定した。
葬儀は澄子の時と同様に家族葬にしてごく親しい人たちにだけ連絡した。葬儀が終わり火葬も済んで、骨は澄子と一緒に寺の墓地に埋葬した。
華那は義理の兄弟が居るらしいことをちらっと聞いたことがあるような気がしたが、戸籍謄本に出ていなかったので見落としてしまった。改めて家族全員が記載されている謄本を取り寄せて見ると、長男美津男、次男竜男、長女華那と書かれていた。長男も次男も転籍届けが出ていて美津彦の本籍から除籍されてしまっていた。
華那は自分の会社の顧問弁護士に相談した。
「要するにお父様、美津彦様の遺産は全部二人の息子さんに渡し、あなたは相続を放棄され、息子さんたちにはあなたのことは一切話をしないと言うことですな」
「はい。その通りです。遺産は先生の方で調べて頂いて遺産目録を作成して兄たちに渡して下さい」
年配のベテラン弁護士は華那の希望を聞くと早速翌日から作業に取りかかった。一週間ほど過ぎて、弁護士は書類を持ってやってきた。
「遺産の調査が終わりました」
弁護士によると、神奈川県東北部にある家と土地の評価額(時価)は土地が九百八十六万円、家屋は百五十七万円、合計一千百四十三万円。お父様の銀行預金は通帳から四十八万円、有価証券はゼロ、生命保険金は五千万円だったそうだ。
「以上でした。預金が少ないのは意外でしたな」
結局遺産の総合計額は六千百九十一万円だった。弁護士の話では息子さん二人合わせて七千万円以下であれば基礎控除額以下なので税金は払わなくて良いそうだ。
「明日と明後日息子さんの所に行ってきます。遺言がありませんし、配偶者のお母様は既にお亡くなりになられてますから、息子さんは折半で受け取られることになります」
三日後弁護士が再び訪ねてきた。
「結果をご報告しますと、家屋は売却せずお二人の共同名義に書き換えをすることになりました。預金と生命保険金は半分ずつお渡ししました。お二人共に母親の安否には一切触れられませんでしたので私は黙っていました。恐らくうっかり聞いて、もし生きておられるなら自分たちが扶養しなければならなくなりますのでそれが嫌で聞かなかったのでしょう。世の中は薄情なもんですな。その点、最後までご一緒されたあなたはご立派です」
「あたしのことは何も言ってませんよね」
「はい。お約束ですから、一切話をしておりませんので恐らくあなたの存在自体ご存じないものと思います」
「そう、ありがとう。では家屋の名義書換だけはお願いしますね」
華那はこれでさっぱりしたと思った。弁護士が言ったことがもしも本当なら華那は息子たちを許せないと思った。
第八十七章 今輝いている十名の女性
父、美津彦を亡くしたのを機会に華那は夫の史朗に父の会社を引き継いで欲しいと頼んだ。
「今のお仕事、辞められないの?」
「未練はあるけど、華那のたっての願いじゃ聞かなくちゃね」
「じゃ、お願い。決定ね。臨時の取締役会を開いて皆さんに図ってみます」
こうして、史朗は株式会社美華の親会社である株式会社ミツシンの代表取締役社長に就任した。
華那は株式会社美華の組織を一新し半田世里子を専務取締役副社長に昇格させた。美華の傘下には農業法人化した農園が三カ所、農作物の加工会社が一つ、販売と流通を担う企業が一つ、販売と流通を側面から支援するソフトウェア開発会社が一つ、海外貿易を担う商社が一つで研究開発と知財権の業務は美華の本部直属の部署にした。
起業当初目論んだ第六次産業化をほぼ達成し、株式会社美華のグループの総売上は年商二百五十億を越えてきたが、年度末には四百億まで伸ばす経営計画を立てていた。華那はこれくらいの数字は必ず出せると自信を持っていた。
華那が経営する農園の一番の特徴は子育てしながら働けるようにしたことだ。新鮮な野菜を生産する農園は害虫や有害な細菌を入れず空気は清浄で、温湿度は常に野菜が生育するにも人が生きて行くにも最適な温湿度に自動的にコントロールされているから、乳幼児が育つ環境として最適な環境だ。だから、子育てを保育所などに預け他人任せにせず、ここで働く女性は自分の手で育てながら作業をさせた。赤ちゃんは特別な部屋に入れる必要はなく、目の届く所に寝かせたり母乳を与えたり仕事中でも自由に子供の世話ができる。子供は作業員全員の宝物として全員で支え合う仕組みにして、親が手が離せない時でも他の作業員が代わっておむつの交換などをするようにした。子供が成長して小中学校、高校に通学するようになると、学校から戻ると親と一緒に作業ができるようにして、仕事量に見合った奨学金を支給した。親と一緒にアルバイトが出来るのだ。子供たちにとって一番大切な人と人が支え合うことの大切さを自然に学ばせ、従業員全員が家族のような付き合い方をさせ、家族の大切さも自然に学ばせた。華那は世の中で子育て支援が大きな問題になっているが、農業は自然と触れ合うことが基本だから何も子供を保育施設に預けなくともおんぶして作業をしたり目が届く安全な場所で遊ばせておけば親子にとってそれが一番良いと思っていた。それに、子育てを卒業した年配の従業員が色々教えてくれる利点もある。
この仕組みを導入した時、最初は反対者もいたが、作業規則ではっきりと全員が一つの家族だと規定した。考えてみれば、昔の農家の婦人は子供をおんぶしたり、畦道に置いて農作業をしたそうだが、村人は必要により他人の子供にも温かい手を差し伸べて子供は元気に育ったと言う。
華那は従業員の人間関係も重視した。農園の就業規則に他人の悪口を言ったり、意地悪や虐めをした者は厳しい処置を執ると明言した。逆に創意工夫や善行に対しては誠意を以て報奨する制度も定めた。
銀座に出店した株式会社美華の新鮮野菜のアンテナショップがメディアに取り上げられたことがきっかけで、華那はその後もメディア関係者との交友関係が続いていた。
ある日、テレビ局から[新道華那様がこの度今輝いている十名の女性のお一人に選ばれましたので××に是非ご出席下さい]と言う内容の封書が届いた。
「なんだか決まりが悪いわね」
華那は副社長の世里子に対応を相談した。
「美華のPRになりますし、いらっしゃったらいかがですか」
世里子の後押しで華那は晴れがましい舞台に登場した。
第八十八章 子育て支援シンポジウム(最終章)
今輝いている十名の女性の一人に選ばれたことがきっかけで、華那は八重洲口近くの東京国際フォーラムのホールAで開催される子育て支援シンポジウムの講師に招かれた。子育て支援に関係したことを何でもいいから話をしてくれと言うのだ。華那は何を話せばいいか考えてみたが、自分が美華を産んだ後の苦労話とそれからのことを赤裸々に話してみようと思った。
シンポジウムの会場に入って驚いた。一階席と二階席を合わせて五千人以上の座席があるのだが、ほぼ満席だったのだ。当日は内閣府特命の少子化対策担当大臣も出席していた。女性の大臣だ。
何人かの講師が講演した後、華那の番になった。講演に先立ち、司会者は華那の略歴を紹介した。
「次に講演をお願いしました講師、新道華那さんはテレビCMでお馴染みの新鮮野菜美華の社長でおられまして、起業してからわずか十年間で年商二百五十億円まで急成長させた辣腕の実業家です。先日今輝いている十名の女性の一人に選ばれたことはご存じの方も多いと思います。さて今日はそんな彼女からどんなお話を聞かせて頂けるのでしょうか楽しみです。では新道様お願いします」
満場の拍手の中、華那は壇上に進んだ。
「皆様、この中には子育てにご苦労されていらっしゃる方々も多いことと思います。私も子育てには大変苦労致しました。今日は皆様のご参考になるか分かりませんが、私の苦労話をありのままお話したいと思います。
さて、私は幼稚園児の頃産みの母親に捨てられました。産みの母親と顔見知りだった家庭に置き去りにされてしまったのです。何日経っても母は戻らず、仕方なく私を養女にしてくれました。養父母は自分の子供のように育ててくれ、高校三年生になるまでは普通の女の子のように育ちましたが、高校三年生の時にレイプされました」
レイプされたと聞いて会場はざわついた。
「見知らぬ男性に強姦されたのです。警察でその男を追って頂きましたが未だに逮捕されていません。
私は妊娠してしまいました。養父母は当然のこと私の将来を考えて堕胎するよう強く勧めました。でもその時、幼児の時に捨てられた自分に血を分けた本当の家族が欲しいと思って私は養父母の反対を押し切って産むことにしました。生まれてきた子供は娘でした。私は初めて見る自分の赤ちゃんの手を握って、ママは絶対にこの手を離さないからと誓いました。高校を卒業して間もなくでしたが、養母が働きに出ている昼間は家事をしながら赤ちゃんと一緒に過ごし、夜は養母に預かって頂いてアルバイトをして家計の足しにしました。
養父母の反対を押し切って私生児を出産したので出産後は何かと気まずい思いをしていましたから、娘が二歳になる頃私は本籍を移し、これまでは養父の養女として養父の籍に入っていた娘を自分の娘として入籍してから養父母に断って家を出ました」
ここでちょっと話を中断した。
「皆様、今この国で人工妊娠中絶つまり堕胎する女性が何人居ると思いますか? 調べてみますと、最近の統計では年間二十万名近くもいるのです。二十万と言えば一つの小都市ができる位の人数です。これだけの大切な命が失われているのですよ。最近の出生数、つまり新しく赤ちゃんが誕生した人数は百万人くらいです。ですから妊娠した女性の五人に一人が色々な事情で堕ろしてしまっているのです。この中には私の場合と同様、レイプされ妊娠してしまった方も居るでしょう。私はレイプした男の子供を産みましたが、レイプを決して容認するものではありません。レイプは非社会的な犯罪です。このような破廉恥な行いは絶対に許せないと思いますが、生まれてくる子供には全く責任がありません」
五人に一人と聞いて会場では周囲の人を見る者が大勢いた。
「私は丁度二十歳の時に家を出て二歳にならない娘と二人で生活を始めました。アルバイトで溜めた貯金が三十万円ほどありましたが、アパートの礼金と前家賃で十万円が消え、昼間働くために娘を預かってもらいたいのですが、ご存じの通り待機児童が多くてなかなか思うようになりませんでした。その後運良く娘を預かってもらえ、毎朝八時半から夕方六時までアルバイトでお金を稼ぎました。しかし、アルバイト代と区から支給される児童育成手当を足しても月々十五万円にもなりません。これでは家賃と保育園の費用を差し引くとどうしても暮らして行けません。それで娘を寝かし付けてから深夜四時間ほど深夜営業の飲食店のアルバイトをしました。でもある日、娘が起きてしまって大失敗して深夜の仕事を諦めざるを得なくなってしまいました。貧乏ですから、洗濯機や冷蔵庫なんてものはなく、自分の携帯電話も持てない状況です。財産と言えばリサイクルショップで四千五百円で買った自転車だけです。信じられないでしょうが毎日卵かけご飯とお味噌汁だけ、お昼はおにぎりだけの日々が続きました。節約しても節約しても赤字続きで貯金は減る一方です。
悪い時には悪いことが起こるものですねぇ。ある日泥棒に入られて貯金通帳やわずかの現金を全部盗まれてしまいました。こうなるとその日から食べて行けません。アルバイト先のお花屋さんから給料の半分の六万円だけ前借りさせて頂きましたが、これではとても足りません」
ここまで一気に話すと華那は水を飲んで一服した。会場の人々は華那が自分の体験談を話しているので興味深そうに聞いてくれており、会場がざわつくことはなかった。
「切羽詰まりましたが、どうすることも出来ず途方に暮れてしまいました。家賃が払えず追い出されてしまったら、文字通り路頭に迷うしかありませんものね。
ですが、世の中には福の神が居るんですね。偶然ですが、ゴミ捨て場で一枚のチラシを拾ったのです。そのチラシの求人と言う文字に目が張り付きました。お手伝いさん募集の求人広告だったのです。月給は二十万円と書いてあります。でも締め切りは何とチラシを拾った日ではありませんか。藁をも掴むと言いますけれど、自転車で駅前の公衆電話に十円玉を入れて電話しました。ですが、何度かけてもつながりません。お留守みたいでした。むしゃくしゃした気持ちで商店街を走っていると年配の男性と接触してお怪我をさせてしまいましたが、必死で治療費はお払いできませんと頼んで許して頂いただきました。夕方娘を保育ママの所から引き取った足でもう一度公衆電話に十円玉を入れました。電話はつながったのですが、応募者が多くてもう締め切ったからダメだと言われてしまいました。私は必死です。何とかお願いをして面接を受けさせて頂けることになりました」
華那はまた一息入れた。会場の人々は続きの話を聞きたい様子だ。
「面接は日曜日、駅前のカフェでした。でも日曜日は花屋はかき入れ時で、お給料を前借りしたばかりではとても休暇を下さいなんて言えません。仕方なく仮病をつかって半日お休みしましたが、行ってびっくり、私の他に十三名もおられました。合格は一人ですから大変です。いよいよ面接が始まり各自履歴書を出すように言われたのですが、どうしたことか私は慌てていたので履歴書を持って来ていません。それを聞いて募集をした旦那様は不合格と言って私の顔を見ました。私の方もお顔を見てびっくり仰天、旦那様は駅前でお怪我をさせてしまった方だったのです。運が悪いですねぇ。面接を終わると皆様に交通費として五千円が渡されましたが、不合格の私の分はありません。その時の私には五千円は大金です。実は交通費を渡されなかった方がもう一人いました。最初から合格者には渡さないつもりだったそうです。困った顔をしている私に旦那様はあなたも一緒にいらっしゃいと言うではありませんか。私は合格ですかと聞くと、不合格だよと言われてしまいました。それから、旦那様のご自宅に連れて行かれて仕事の内容を説明した後で、合格で残った方と私の二人が交代で一ヶ月間家事をするように言われました。試用期間だそうでした。旦那様は清潔な方で、男女関係の嫌らしいことは一切無く私は必死で働きました。その結果かどうか分かりませんが最後に私だけが生き残ることになったのです。その内、遠方におられた奥様がみえて、一年ほど過ぎた時養女にならないかと言われ、私は家族が欲しかったのですんなりと養女におさまりました。大学にも行かせて頂いて、父から起業、つまり自分で事業を立ち上げてみないかと勧められて現在まで走り続けました。その間養父母と同居する条件で構わないと言う方と結婚をしました」
華那はまた一服した。
「最近息子や娘に迷惑をかけたくないなどと言って子供と同居をしない親が増えていますよね。子供の方も都会で働くため田舎の親の面倒を見られない方々が多いです。私の養父母は親と子が同居してお互いに支え合い、子供は自分だけの子供でなくて家族全体が支え合って育てるのが良いと常々申しておりました。私も親と子は同居すべきだと思います。東京に出てたとえ六畳間に四人が寝泊まりしても、親と一緒だと子育ては随分楽になります。私の息子は養父母の助けで保育園には預けませんでした。年取った親の介護の問題を抱えていらっしゃる方もおられると思いますが、毎日の介護の大変さを同居していれば子供にも自然に伝わり、そのお子様が親になった時、皆様方を大切に介護してくれるようになると思います。私共の会社は現在地方に三っの農園を持っております。この農園では従業員全員が実質的に家族で、子供さんは保育園に預けず、会社に連れて来て全員の支えで子育てをしております。子供さんが高校を卒業されるまでは希望者には農園の仕事の手伝いをして頂いておりますが、大きくなった子供さんたちも全員から家族のように大切にされております。保育園に預けずにゼロ歳児から農園の中で目の届く所に置いて作業しておりますから、誰一人保育園のお世話にはならず、自分の手で育てております。このような皆さんの手で新鮮な愛情たっぷりの美華の野菜を作り出していますのよ」
華那がちょっと舌を出して微笑むと、会場から笑いが起こった。
「そんな農園ですから、噂を聞いて遠方から農園で仕事をしたいと子育て中の方が大勢いらっしゃいます。シングルマザーの方も多いです。私は採用枠が許す限りできるだけ受け入れるようにしております。
最後になりますが、私は今は幸せです。でも、あの時なけなしのたった十円で公衆電話からお手伝いさん募集に必死で応募していなかったら、今日皆様の前に立っていません。多分路頭に迷って、今頃どうなっていたか。レイプされて授かった娘は、その後可愛らしく成長して今はK大付属の中等部に通っております」
最後に華那は次の言葉で締めくくった。
「皆さん、たった十円で奇跡が起こったことを信じて頂けましたか?」
【了】
この作品はフィクションであり、登場する人物、企業団体その他は全て架空のもので実在するものと関係はありません。
あたし、頑張ったよっ
最後までお読み下さりありがとうございました。
若い女性の間では我慢・辛抱が美徳でなくなったように感じられるが、我慢・辛抱の先に幸せを見付ける構成で少子化に関わる子育ての意義、家族のありようなどを綴ってみたいと思っていて、今回の作品[あたし、頑張ったよっ!]もその一環として執筆した。
少子化は今や世界的な社会問題になりつつあるが、一つの家族が集まって隣組になり隣組が集まって町になり、町が集まって市になり、市が集まって県になり県が集まって一つの国が形成されている通り家族は国の大切な構成要素でその家族を末代まで繋げていく子供は国にとっても家族にとってもこれ以上大切なものはないと筆者は思っている。子供が産まれるためには男と女の愛の営みが欠かせない。だが世の中は愛がないのに子供が出来てしまったり他人が産んだ子供を育てることだってある。どんな場合でも子供が産まれ育ち大人になる過程にドラマが存在する。筆者はそんなドラマを今後も執筆し続けて行きたい。