死んだ方がまし
「これはいったいどうしたことで」末吉は突如にして目の前に広がった景色に驚き、呟いた。
真っ白な床。真っ白な壁。右手の大きな窓からは赤い光が射し、十畳ほどの決して広くはない部屋の中には末吉を含めて十人前後の人間がいた。自分は何をしていたのだろうか、と思いながら横たわった体を起こそうとした末吉の体には両腕がなかった。それどころか両足も見当たらない。このため末吉は体を起こせずにただ体を左右に揺らした。
そこで末吉は思い出した。何日も食べることができずにいて、二軒隣の家から金やら米やらを盗んだこと。それが見つかり、周囲の者に袋叩きにされ、両手両足を切り落とされてしまったこと。
誰かが助けてくれたのだろうか。ここにいる他の奴らは誰なのか。末吉は周囲にいる人間の顔を見回したが、どれも彼の知らない顔だった。その中のひとり、末吉から五歩ほどの位置にいた男は、末吉と目を合わせると小さく微笑み、それから叫ぶように大きな声をあげた。「みなさん、よろしいですか。お聞きください」
全員の視線がその男に集まり、末吉も彼を見つめた。大柄で頭部には長く黒い髪を備えている。白いローブを着ているが、それは窓からの光に染まって淡い赤色にも見えた。
「簡単にご説明いたします。ここはいわゆる地獄です。みなさんは死にました。わたしはここの管理を任されている者です」
周囲でどよめきが起こり、地獄の管理者だという男は、そのどよめきが収まるのを待つかのように言葉を止めた。末吉はなんとなく自分が死んだことを理解していたので、やはりな、と思ったのみで男の次の言葉を待った。
「心当たりがある方もない方もいらっしゃるでしょうが、みなさんは生前に何かしらの悪事を行いました。人を傷つけたり、人を騙したり、人の物を盗んだり、そういったことです。その罰として、みなさんにはここで労働をしていただきます。これは罰であると同時に、みなさんの魂を清める行為でもあります。清められた魂は、また新たな生命として生まれ変わります。みなさんが少しでも早く生まれ変われるように、我々が全力でサポートいたしますのでご安心ください」
ここで男、管理者の近くにいた女が何やら声をあげて管理者に掴みかかろうとしたが、彼の手前で動きを止めてしまった。
「まだ話の途中です。最後までお聞きください。ご覧になったように、ここでは自分以外の者に触れることはできません。わたしだけではなく、みなさんが互いに触れることもできないのです。これも罰のひとつです。また、ここでは排泄や睡眠、食事なども不要となります。しばらくの間は生前の記憶があって、それらの欲を感じることがあると思いますが、排泄はできませんし睡眠もとれません。食事は一切提供されません。眠ることも休むこともなく、食事もとらずに、ただ労働をしていただくことになります。すぐに慣れると思いますので、ご安心ください。そして、その労働についてですが、全員が同じ労働をするわけではありません。いくつかの種類があります。作物の栽培や牧畜が主なものになりますが、手紙や荷物を届けたり山林に道を拓いたりといった労働もあり、これらの中からみなさんに最も適していると思われる労働をこちらで選択いたします。そのため、これからみなさんの面接を行います。ひとりずつお名前を呼びますので、呼ばれたら担当者の案内に従ってください。別室での面接となりますので、ご質問などはその際に担当者までお願いいたします。では早速始めます」管理者はこう言うと一礼して部屋の端に移動していった。
地獄というのも意外と大したことはない。その程度の労働ならば生きている時の方が余程辛かったではないか。食事も睡眠も必要がないのなら、さほど問題ではないだろう。生まれ変われるのか。やり直せるのか。末吉は管理者の話を聞いて、むしろ喜んでいた。
「末吉さん」管理者が末吉を呼んだ。
気づけばその部屋には管理者と末吉のふたりだけになっていた。
「末吉さんが最後ですので、この部屋でわたしが面接を担当いたします」といって管理者は末吉の横にあぐらをかいて座った。
「はい、よろしくお願いします」末吉は寝転んだまま首を曲げて会釈をしてみせた。
「では始めましょう。末吉さんはどうしてこの地獄に来たのか、おわかりでしょうか」
「物を盗んだからで」
「その通りです。それで、その手足についてですが、人は亡くなった際の姿で地獄に来ます。手足がないのに物を盗めたのでしょうか」
「いやいや、これは盗んだあとで他の人間に見つかって切り落とされたんです」
「なんということを……。では、どうして人の物を盗んだのでしょうか。悪いことだと思っていましたか」
「もちろんです。そんなことをしちゃあならないと思っていましたがね、腹が減ってしょうがなかったので。すみません」
「悔いる気持ちがあるのなら大丈夫です。仕事はしていましたか」
「大工をしていましたが、ずっと仕事がなくて……」
「なるほど。わかりました。では、ご家族はいらっしゃいましたか」
「いえ、ずっと独身で」
「親や兄弟はいかがでしょうか」
「両親と兄が三人、姉が四人おりましたが、こどもの時分に捨てられましたので」
「なんと……。それはおいくつの時ですか」
「よく覚えてやいませんが、確か五つか六つの頃だったと思います」
「ふむ、それからどうしたのですか」
「しばらくは山で木の実や葉、虫なんかを食べたり、物乞いをしたりしていましたが、そのあとで寺に拾われました」
「ほう、お寺に。それは幸いでしたね」
「ええ、でも三年ほど経った時でしょうか、寺が燃えちまって、自分以外はみんな死んじまいました」
「それはお気の毒に。その後はいかがでしょう」
「また物乞いを始めましたがね、寺を燃やしただの悪霊が憑いてるだのって噂が流れていたようで、どこに行っても追い返されました。見かねて拾ってくれたのが親方です」
「大工の親方さんですね」
「そうです。親方の仕事を手伝って小遣いをもらって、初めは嫌な顔をしていた大工仲間の奴らとも少しは仲良くなったりして……、あの時分は楽しかったですね」
「なるほど。それで仕事がなくなって盗みを、というわけでしょうか」
「ええ。親方が流行りの病で急に死んじまったんです。それで、あいつを拾ったからだ、なんて言われてしまって、大工仲間も離れていって……」
「もう結構です。わかりました。大変辛い人生だったのですね」
それから管理者は目を伏せて何やら考え始めた。末吉もまた同じように目を伏せて、生前の自分を思い返していた。しばらく経って管理者は顔を上げ、末吉の姿を見つめて小さく頷いてから言った。「末吉さん、天国へ行きませんか」
その言葉に末吉も顔を上げ、管理者を見て首をかしげた。
「極楽、と言った方がいいのでしょうか。罪のなかった者や、この地獄での労働を終えた者が行く所です」末吉が不思議そうな顔を見せたので、管理者は天国について説明した。
しかし、それを説明をされても末吉は、何を言っているのかわからない、といった様子でさらに首をかしげたのみだった。
「確かに物を盗んだ罪はあります。しかし、あなたはそれを悔いる気持ちがあります。また、生前のあなたは非常に辛い人生を歩んでおり、さらにはその両手足を落とされることで、必要以上の罰を受けています。ですから、すぐにでも天国へ行き生まれ変わりの準備をされるべきだと考えました。それに……、大変失礼ですが、正直に申しますとその体でできる労働はこの地獄にはないのです」
地獄ですら必要とされないのか、と末吉は自嘲したが、何もせずに生まれ変われるというのなら願ってもないことだ。
「はい、それなら、お願いします」
「わかりました。では早速」
体が上に引っ張られるような感覚がしたあとで、ふと気づくと末吉はまた先ほどと同じような部屋にいた。違っているのは窓からの明かりが薄い緑色だったことだ。末吉の目の前には、地獄の管理者と同じようなローブを来た小柄な老人がいた。ここは天国でこの老人が天国の管理者か何かなのだろう、と末吉は考えた。
「末吉か。ここが天国であることはわかるか。わしはこの天国の管理者にこの部屋を任されておる面接官だ。おまえのことは地獄の管理者から情報が送られてきておる」老人は末吉を見てすぐに話を始めた。
末吉は、生まれ変われること、不自由な手足から解放されるだろうことを喜んで、浮き浮きした調子で老人に「はい、お願いします」と返答した。
「地獄からの情報だと、おまえは他人の物を盗んだとあるが、間違いないか」
「はい、その通りです」
「ならば残念ながら天国に罪人の居場所はない。生まれ変わりもできん。地獄の管理者も勝手なことをしてくれるわ」
「え。でも。ですが。そう言われて来ましたので」
「わかっておる。だが、わしの立場でこの天国のルールを変えることもできん」
「それなら、どうすればよろしいので」思わぬ展開に戸惑いながら末吉は面接官に尋ねた。
「本来ならばまた地獄に戻すところだがな、そうするといろいろと面倒が出てくる。よって末吉、おまえを生き返らせることにした」
「生き返る……ですか」
「そうだ。またいつか会うこともあるだろう。それ」
再び先ほどと同じように体が引っ張られるような感覚がして、それから末吉は周囲を確認した。そこは林の中で、末吉には覚えがあった。末吉はその場所で袋叩きにされ、手足を切り落とされたのだ。傷はふさがっていたが、やはり末吉に手足はなかった。
「本当に生き返った。けど、これでいったいどうしろと……」
末吉が下草の中をもぞもぞと這って、近くの道まで何とか辿り着くと、ちょうどそこに男が通りがかった。その男に何か手伝ってもらえやしないか、と末吉は声をかけようとしたが、男は末吉の姿を見るやいなや、短い悲鳴を上げて走り去ってしまった。それも仕方のないことだ、と末吉は道を進み始めたが、不自由な体で思うように進むことができない。いっそ転がった方が早いかと横向きに転がってみたが、転がるにも相当な体力が必要で、その上ほとんど進むことができない。
そうして末吉が思案していると、数人の男たちが声を上げて走り寄ってきた。末吉は彼らに見覚えがあった。末吉を何度も殴り、手足を鍬やら鎌やらで切断した男たちだったからだ。
「末吉だ」
「生きていたのか」
「どうやって出てきやがった」
「悪霊だ。悪霊の力だ」
「殺せ」
末吉は男たちに取り囲まれ、首に縄をかけられると、再び林の中に連れ込まれ、彼らの掘った穴に生きたまま放りこまれた。
窓から赤い光が射しこんでいる。また地獄に来たな、と末吉はすぐに判断した。前回と同じように周囲には十人ほどの人間がおり、その向こうに管理者が立っているのが見えた。
管理者は、末吉を見ると目を見開いて驚いた表情を見せたが、その後は淡々と前回と同様の説明を行った。
「末吉さん、これはどういうことでしょうか」他の人間が担当者との面接のために別室に移動すると、それを待ちきれなかったかのように、やや早口に管理者が末吉に問いかけた。
末吉は天国でのこと、生き返ったあとのことを管理者に説明した。
「そうですか。天国への説明が不十分だったのかもしれません。申し訳ありませんでした。もう一度天国に送ります。よろしいですか」
管理者は末吉の返答を待たずに、再び彼を天国に送った。
窓からは薄い緑色の光。末吉は再び天国にやってきた。
「末吉よ、またおまえか」先ほどと同じ面接官が末吉を見てうんざりしたような表情を作った。
末吉は顛末を説明しようとしたが、面接官はそれを止めるように手を開いて出した。
「語らずともよい。今度は生き埋めにされて、また地獄からここに送られたということだな。しかしだ、地獄の管理者がどんな理由をつけようともルールは変わらん。ここにおまえを置くわけにはいかんのだ」
「それならどうすればよろしいので」先ほども同じようなことを言ったな、と思いながら末吉は面接官に尋ねた。
「当然、また生き返らせることにする。今度は死ぬなよ」
それは勘弁してくれ、と末吉が言う前に彼の体はまた引っ張られるような感覚を味わった。
末吉の体は林の中に転がっていた。またここか。ここに戻ってくるのが一番辛いな。地獄でも天国でもいいから置いてくれないものか。人前に出たらまた殺されてしまうかもしれない。さて、どうしようか。空を見上げながら末吉は悩んだ。
末吉がちらりと横を見ると、ふたつの石が積まれ、欠けた茶碗が置かれていた。それは末吉の墓だった。そら、もう死んだことになっているんだ。この世に生き返っても迷惑をかけるだけだろうに。末吉は短くため息をはいた。
「誰かいるのか」ふいに声がした。
また見つかってしまう、と末吉は逃げようとしたが、不自由な体を揺らすことしかできず、かえって体の下にあった木の枝を鳴らしてしまった。その音を聞いて近づいてきた男は末吉の姿を見ると、息を呑み呆然となった。それから故意に大きく呼吸して呟いた。「墓を建てて供養すれば大丈夫じゃなかったのか」
自分に言っているのだろうか、と末吉は思ったが、うまく答えられずにただ黙って顔を背けた。
「やっぱり悪霊は死なないんだ」男は叫ぶように言うと、末吉への供物だったのだろうか、握り飯を放り投げて走り去っていった。
そして再び数人の走り来る音が末吉に聞こえた。
「どうする」
「とにかく殺そう」
「燃やしちまおう」
「そうだ燃やせばもう戻って来られないはずだ」
「燃やそう」
末吉は林の中で燃やされてしまった。
三度目の地獄。仏の顔も三度までと言うが、地獄の場合はどうなんだろうか。早くも見慣れたような気がする赤い光の射しこむ部屋で末吉は考えていた。末吉の体には相変わらず四肢がなく、その上焼けただれて頭髪もなくなっていた。
地獄の管理者が末吉を部屋に残すのも三度目だった。
「末吉さんですね。ひどいお姿になられてしまって。今度はいったいどういうことでしょうか」
末吉が管理者に事情を説明すると、管理者は末吉に近づき肩に手を置いて言った。「今度はわたしも行きます」
天国も三度目だ。こちらはまさしく仏の顔も三度まで、だな。ええい、どうにでもなれ。末吉はもうやけになっていた。
「地獄の管理者よ、これはどういうことかな」天国の面接官は、末吉と管理者の姿を見てすぐに管理者に尋ねた。
「面接官さん、どういうことなのかはわたしが聞きたい。すべての情報はお送りしましたが、ご覧になっていないのでしょうか。こちらの末吉さんには地獄での労働は不要です。生まれ変わりの準備に入るべきです。それなのにあなたは哀れなこの方にさらに二度までも死の苦しみを与えた」管理者は少し語気を強めて面接官に詰め寄った。
「末吉を殺したのはわしではない。殺した者たちもいずれ地獄に行くであろう。その時に十分罰を与えるがよい。そしてその者たちと同じように末吉もまた罪人なのだ。天国にいることはできんよ」
「ですから、末吉さんの事情はすべておわかりでしょう。この方にこれ以上の罰は必要ありません。心の優しい方で悔いる気持ちも強い」
「末吉の事情はわかっておるが、ルールなので仕方のないことだ。地獄での労働を課せばいいではないか」
「ルールはそうかもしれませんが、救われるべき者だってあるのです。どうしてわからないのですか」
「例外を認めるわけにはいかないのだ。ルールが何のためにあると思う。そちらこそどうしてわからないのか。少しでもいい。地獄で労働をさせろと言っておる」
「あの体でどんな労働ができると言うのですか」
「それを決めるのが管理者の仕事ではないのか」
「それで決めたことが、天国に行かせることでした」
「無理だ。労働のない罪人は受け入れることができない。労働ができないと言うならずっと地獄に置いてやればいいではないか」
「それでは生まれ変わりができない。末吉さんにずっとあのままでいろと言うのですか」
「それも仕方のないことだ」
「生まれ変わりの道を決めるあなたがそのようなことを言わないでください」
「生まれ変わりの道を決めるにあたって、末吉には地獄での労働が必要だ。だが地獄に戻すと管理者どの、あなたがまたここに戻してしまうだろうと思ったからな。生き返らせて善行を積む機会を与えたのだ。善行を積めば地獄に行かずにここに来られるかもしれないからな」
「あの体で生き返っても何もできないことはおわかりでしょう」
「それがわしにできる最大の譲歩だ。そうでなければやはり地獄での労働しかあるまい」
「それは無理だと言っているのです」
地獄の管理者と天国の面接官は、互いに譲らず言い合いを続けた。末吉もさすがに黙っていられなくなって、ふたりに割って入って大声を出した。「ちょっとよろしいですか。お願いがあるので」
言い合っていた両者はその声に言葉を止めて、末吉の方を見やった。
「天国にも地獄にも、生き返っても居場所がないということですよね。それならいっそのこと殺してくれませんか」
死んだ方がまし