明智サトリの邪神事件簿
その頃、帝都中の町という町、家という家では、二人以上の人が顔を合わせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、「怪人」の噂をしていました。
怪人というのは、毎日毎日、新聞記事を賑わしている、夜な夜な人をさらったり襲ったりするという怪物のことです。
このお話は、恐ろしい怪人たちと、日本一の怪奇探偵──明智サトリ(あけちさとり)先生との大闘争の物語です。
明智先生には、わたし──小林芳乃(こばやしよしの)という助手があります。このわたしの活躍も、ぜひご覧くださいね。
さて、前おきはこのくらいにして、いよいよ物語に移ることにしましょう!
明智探偵事務所
帝都東京はお茶の水。
風光明媚な神田川沿いにそびえる白亜のお城──「開花アパート」は、広い青空に良く映えていた。
震災後に建てられ、最新の設備が揃った日本初めての洋風アパートメントで、外国人や上流階級の方が住んでいる。
アパートなんてわたしたち庶民にとっては、まさに高嶺の花。でもわたしは最近、そんな場違いなところに住まわせてもらっていた。
小さい部屋が上下に動く、この「エレベーター」という最新の機械も、乗るたびにちょっと怖いけどワクワクする。
二階で降りると、身なりのいい紳士のおじさんとばったり。慌てて挨拶すると、にこやかにおじさんも返してくれた。
わたし、ここに不釣り合いな格好してないかな?
先生から頂いた、星型の銀の髪飾り。シックでお洒落な、黒いセーラー服。腰のベルトに輝くのは、誇り高き我らが茗渓高女の校章。左手に教科書を入れた鞄、右手に寄り道して買った牛肉。
うん、完璧!
……あ、お肉が変かな?
わたしはそそくさと奥へ進み、「明智探偵事務所」の表札の前に来た。合鍵を取り出し、ドアを開ける。
「明智先生~! ただいま帰りました~!」
一ヶ月前、明智先生に助けられたわたしは、以後先生の力になりたいと思って、この事務所に住み込みでお手伝いさせてもらっていた。ここからなら学校へも近いしね。
内装は純洋風で、基本的に椅子式で生活するようにできている、なんともモダンなお家だ。
「ピッポー!」
客間に入ると、奥から太った鳥──「ピッポちゃん」が元気に飛んできた。
「ピッポちゃんもただいま!」
わたしが手の平を差し出すと、ストンととまった。よしよし。
一見鳥みたいだけど、実は鳥じゃなくて、鳥の形になっているだけ。先生はわたしに、この子をいわゆる「使い魔」にする方法を教えてくれた。
この「ショゴス」という変な生き物は、もともと決まった形を持っていない。それは言い換えれば、どんな形にもなることができるということ。「ピッポちゃん」という名前も、鳥のような形も、わたしが決めて与えたものだ。ぐにょぐにょの黒い塊のままじゃ、いまいち親しみがもてないしね。
わたしはそのまま進み、奥の書斎に入った。先生の書斎は、窓とドア以外は高い本棚に囲まれている。
本棚には先生が集めた、様々な資料や図鑑がぎっしり。日本語の本はもちろん、欧米の本、アジアの本、何語で書かれてるのかわからないような怪しい魔術書まで。
「遅いぞ小林君。どこをほっつき歩いてたんだね」
分厚い本を閉じて、机に座っていた小さい女の子が顔を上げる。
彼女が明智サトリちゃん──通称「明智先生」だ。
波のように流れる、白銀の豊かな髪。紳士が着るようなワイシャツとベストは、おそらく特注のものだろう。大人用の机と椅子は、小五くらいの背しかない彼女にとっては大きすぎる気がする。だけど、鋭い目と落ち着いた雰囲気は、彼女が普通の子供ではないことを示していた。
実際、わたしも先生が何歳なのか、知らないんだけどね。本人は大人だと言い張ってるけど……。
先生は立ち上がり、ツカツカと歩いてくる。今日はズボンではなく、子供用っぽく丈の短い、赤のスカートをはいていた。わたしの足元まで来ると、顔を上げて睨む。
「探偵というのは、いつ仕事が入るのかもわからないんだぞ。君には助手としての自覚が足りないようだね……」
ああもう、また怒ってる。わたしの帰りが遅いからすねちゃったのかな?
「そ、そう怒らないでくださいよ~。ほら、今夜は先生にスキヤキ作ってあげようと思って!」
包みを空け、肉を取り出して見せた。
「ほう……君はそんなものまで作れるのか」
うんうん、先生も感心なさっているご様子。
さすがの明智先生も、私生活までは気が回らず、自炊もできないみたい。それに比べて、わたしは幼い頃から家の炊事を手伝ってきた。これだけでも女中代わりとして、先生のお手伝いができるよね。このアパートでは、確か家事も係の人に頼めるらしいけど、先生は無関係の人を部屋に入れるのを避けていたし。
「エヘヘ、わたしが来たからには、先生にはひもじい思いは──」
そこまで言って、ふと気づいた。
「って、そういえばなんで調理器具がこんなに揃ってるんです? お部屋の設備ですか?」
「……いや……」
先生は言いよどみ、目を逸らしてしまう。
そのとき、ドアをコツコツと叩く音がした。
うーん、先生の昔話が聞けたかもしれないのに。
先生はわざとらしく咳払いをする。
「来客だ。案内したまえ」
「は、はいっ」
わたしは着替える間もなかったので、制服のままお客さんを出迎えた。
今日の依頼人は和装の、美しい婦人だった。まだ二十歳くらいだと思うけど、よほど悩み事があるのか、少しやつれて見える。
彼女は客間の肘掛け椅子に座っても、不安げに室内を見回していた。
「それで……この度はどのようなお悩みで?」
テーブルを挟み、向かい合って座っている先生が聞くと、
「え? えっと……あの、明智先生は……?」
まあ、普通は目の前にいる小さい子が先生とは思わないよね。
「……私です。私がここの所長、明智サトリですよ」
不快そうに先生が言った。
「え、ええ!? うそ、あなたみたいな子供が!?」
この事務所に初めて来た人は、必ず同じ反応をするのだ。
わたしは笑いをこらえながら説明する。
「えっと、大丈夫ですよ。明智先生は魔法使いですから、ちゃんと怪奇事件だって解決できるんです。それに、先生はこう見えても一応大人なんですよ」
「一応は余計だぞ小林君。……まあ、私が信用できないというのなら、警察にでも頼んだらどうですか」
先生は機嫌を損ねたらしく、そっぽを向いてしまった。
「け、警察はもう行ったんです! でもそれだけじゃ安心できなくて……」
婦人は慌てて一枚の写真をテーブルに置いた。
「私は里見絹枝(さとみきぬえ)と申します。これは妹の芳枝(よしえ)です」
「え!?」
わたしは思わず写真と絹枝さんの顔を見比べる。写ってるのは絹枝さん本人みたいだけど?
「あ、私たちは双子なんです」
「わあ、どうりで!」
写真に写っている芳枝さんは、服装こそは洋装のモダンガールだけど、顔は絹枝さんとそっくりだった。
「芳枝は昨日、有楽町に出かけたきり帰ってこなくて……」
それを聞いて、わたしはピンときた。
「有楽町ってことは……日劇ですね?」
「いえ……事務員の面接に行ったんです。『稲垣美術店』というところへ……」
ありゃ、外れた。
「でも……お店に行って主人に聞いても、来ていないって言うんです。警察の方でも捜索を頼んだのですが……もしかしたら行く途中で怪人にさらわれたんじゃないかって話したら、この事務所を紹介していただいたんです」
「か、怪人ですか……」
この帝都で、怪人の噂を聞かない日はない。何か原因がわからないことがあったら、怪人のしわざかと疑ってしまうのも無理ないかも。
「明智探偵事務所」は警察では手に負えないような怪奇事件を扱っているので、そういう事件はこちらに回してもらうようになっているのだ。
「ふう……確かに最近、婦人の失踪は何件かあるようですが……」
先生は保管しておいた新聞を、ペラペラと流し見しながら言った。
「最近ちょっとでもわからない事件は、何でも怪人のせいにする傾向がありましてね。あなたもそうなんじゃないですか? 警察があなたにうちを紹介したのも、厄介払いってところでしょう」
「え……」
容赦ない先生の言葉に、絹枝さんはうろたえてしまう。さすがに絹枝さんがかわいそうだ。
「せ、先生! そんな言い方って──」
「第一、怪人のしわざだという証拠がどこにあるんですか? あなたがさらうところを見たとでも?」
「そ、それは……」
絹枝さんは言い返せず、うつむいてしまった。
「お引き取りください。私もヒマじゃないので」
「……はい……」
絹枝さんは力なく立ち上がる。そして、わたしに芳枝さんの写真を手渡した。写真の裏には彼女の連絡先が記されてある。
「あの……見かけたらご連絡を……」
「あ、はい……」
最後にそれだけ振り絞るように言うと、ドアに向かっていった。それを見て、わたしは耐えられなくなる。
「せ、先生ひどいですよ! 人探しくらい手伝ってあげれば──」
「ム!」
そのとき、急に先生は絹枝さんの背に走っていき、着物の帯を掴んだ。
「え!?」
何事かと絹枝さんが振り向く。わたしも駆け寄った。
「コイツがあなたに張り付いていたんですよ」
先生が掴んだ手を開くと、一匹の小さな紫色の蜘蛛(クモ)がいた。わたしも絹枝さんも、思わずアッと驚く。
「そ、そんな……気がつきませんでした」
確かに帯の上なら感触もないから、くっついていてもわからない。なんとも気味の悪い話だけど……。
「……ふむ……」
先生はしばらく手の上の蜘蛛を見て何やら考えていたけど、やがて足元の絨毯に落とし、そのまま皮靴で踏みつぶした。
「や~っもう先生ったら! 掃除するのわたしなんですよぉ!?」
わたしの嘆きも意に介せず、先生は絹枝さんを見上げて。
「気が変わった。お引き受けしましょう」
「!」
「先生!?」
どういう心境の変化だろう? 今の蜘蛛が、何か関係があるのかな?
「あなたはこちらから連絡するまで、自宅から出ないように」
「わ、わかりました」
指示を受けた絹枝さんは先生に一礼し、ひとまず帰っていった。
「もたもたするな小林君。捜査開始だ」
先生は玄関に掛けてあった帽子と黒いコートを取る。
「わ、ま、待ってくださいよ~」
わたしは慌てて普段着ている銘仙の着物に着替える。洋服を着てる人も増えてきたけど、日本人ならやっぱり和服でしょう。まあ、わたしが制服しか洋服を持ってないだけなんだけど……。制服だと入れる場所が限られるし、捜査には向かないんだよね。
着物の上から羽織を着て、ピッポちゃんをバッグに潜ませて。
「でも先生、捜査ってどこへ……?」
「君は彼女から何を聞いていたんだね」
先生は大きいリボンをあしらった黒い帽子を、目深に被って答えた。
「有楽町だよ」
稲垣美術店
わたしは先生と一緒にアパートを出た。
有楽町ほどの大きい駅なら、市電よりも省線電車で行ったほうが早い。
御茶ノ水橋を通って、左手の真っ白な聖橋を眺めつつ、神田川を渡ると、まもなく御茶ノ水駅に着く。遠くからでも目立つ緑色のドームは、神田のシンボルニコライ堂だ。
電車に乗ると、先生は依頼を引き受けた理由を教えてくれた。
「あの蜘蛛は本来、日本にはいるはずのない種だったんだよ。しかもピッタリと一人の人間に張り付いているとは、おかしいと思わないかい」
「ま、まあ確かに……?」
蜘蛛の習性なんてよく知らないけど、刺しもしないのに人にくっついてるというのも、変といえば変かも。
「あの蜘蛛は誰かの命で、彼女を監視していたんだよ」
「く、蜘蛛がですか……!?」
もちろん、そんなことは常識ではありえない。だけど先生が追うのは、そういった非常識な事件なのだ……。
電車を降りると、そこは大都会・有楽町だった。江戸城外濠に架かる数寄屋橋付近に、劇場や新聞社などの新しくて大きな建物が並んでいて、壮観だ。
大通りの中心に敷かれたレールの上を、チンチンとベルを鳴らしながら市電が走っている。自動車も市電の隣を走り、さらに自転車と通行人が行き交う。わたしは東京育ちだから慣れてるけど、上京してきた友達は道路を渡るのもおっかなかったみたい。
「でも先生、なんでわざわざ美術店に行くんですか? 芳枝さんは来てないんでしょう?」
絹枝さんがもう確認済みなのに、なんでまた?
「小林君……人の言うことを全部鵜呑みにしていたら、探偵なんて務まらないぞ」
「うう、そりゃそうですけど……」
ふと、先生が立ち止まり、横の建物を見上げる。入り口に「関東ビルディング」と記してあった。
「ここだな」
「あれ、場所知ってたんですか?」
「里見芳枝は事務員の面接に行った。ということは、当然新聞に募集の広告が出ていたはずだからね。その広告を見つければ住所はわかる」
「そっか、絹枝さんと話してるときに新聞を見ていたのは、そのためだったんですね!」
先生は最初から、絹枝さんを助けてあげるつもりだったのかも。
「広告自体は平凡なものだったが……とりあえず確かめてみよう」
ビルの中には様々な店舗が入っている。その中に、確かに「稲垣美術店」の看板を掲げた店があった。
だけどそのドアには、「閉店中」の札が掛けられている。
「おかしいですね、まだ夕方にもなってないのに……」
かまわず先生はドンドンと激しくドアを叩き始めた。
「せ、先生!?」
やがてドアを少し開けて、男性が顔を出した。鼈甲縁の眼鏡をかけ、気取った口ひげとあごひげを生やしたおじさんだ。
不機嫌そうに細い目でわたしたちを睨むと、
「……なんだね君達は。ここは子供の遊び場じゃないんだぞ。帰った帰った!」
すぐに強くドアを閉めてしまった。
先生はため息をつき、私を横目で見る。
「……小林君にもっと色気があればなあ……」
「わたしのせいですか!?」
確かにわたしも大人じゃないけど、子供に見られたのは先生がいたからじゃ……。
「仕方ないな……」
先生は周囲を見回して人がいないことを確認すると、何やらつぶやいた。
すると、その身が着ている服ごと銀色に輝き始める。
「おおっ、その手がありましたね!」
一瞬、ぐにゃぐにゃの粘土みたくなったけど、すぐに人の形に収束していく。いつ見ても不思議な、先生の魔法のひとつだ。
先生は、瞬く間に美しい婦人へと「変装」した。
髪型や服装は変装前とほぼ同じだけど、わたしよりも背が高くて、脚も長くて、胸も大きい……。
「ど~お、芳乃ちゃん?」
先生はわたしに色っぽくウインクして見せた。
「せ、性格まで変わってるんですけどっ!?」
いろんな意味でわたしは焦る。
「当たり前でしょ~? 変えないと変装の意味がないじゃな~い」
確かに声色や表情も変えないと、完璧な変装とは言えない。
でも、先生自身はどんな気持ちでやってるんだろう? 想像するとちょっと怖い……。
そうこうしてるうちに、先生はまたもドアを叩き始めた。今度はちょっと上品に。
ドアが開き、怒ったおじさんが出てきたけど、
「またか! 何度来ても──」
すぐに固まる。
「こんばんは~。閉店中悪いんですけど、ちょっと見せてもらってもいいですか~?」
先生は体を艶かしくくねらせながら、おじさんを見つめる。
おじさんはにやけて、
「え、ええ! どうぞどうぞ!」
「すみませ~ん」
わたしたちはあっさりと店内に案内された。
「今お茶を入れましょう!」
軽い足取りで奥へ消えていくおじさん。
さすがにわたしも呆れてしまう。
「露骨ですね……」
「男なんてこんなものだよ」
一瞬、先生から地の声が聞こえた。
店内にはさすが美術店らしく、美しい婦人や乙女をかたどった石膏像が並んでいた。マリア様やヴィーナスなど、西洋で有名な像の複製もある。
「うわ~きれいですね~!」
わたしは思わず感嘆する。裸の像も多いんだけど、いやらしい感じはしない。
先生はというと、像には目もくれず、部屋の隅に積んである大きい木箱を眺めている。
やがておじさんがお茶を持ってきた。
「見苦しいところをお見せしましたね。今日は早めに店仕舞いして、ちょっと在庫の整理をしていたんですよ」
わたしたちはテーブルを囲んで座った。
「私はここの美術商をやっております、稲垣と申します。今日はどんなものをお探しで?」
稲垣さんは、痩せ型で背の高い紳士で、40代くらいだろうか。
わたしのことは気にも留めず、変装した先生の方ばかり見ていた。
「ええ……実はこの子を探しているんですけど……この店に来ませんでしたか?」
先生はいきなり本題に入るみたい。芳枝さんが写っている写真をポケットから取り出して、稲垣さんに渡した。
「……この子ですか……?」
稲垣さんはしばらく写真を見つめた後、
「………ええ。確かにうちで預かっていますが」
写真を先生に返すと、ゆっくり立ち上がり、わたしたちに背を向ける。
「え、ええっ!? ど、どこですか!?」
意外な答えに、わたしは慌てて店内を見回す。芳枝さんを事務員に採用したってこと?
先生は驚いた様子もなく、黙ったままでいる。
「ハハハ。そんなに焦らなくても……すぐに会えますよ」
そして、稲垣さんが振り向くと──
その顔は豹変していた。
八つの赤い目が光り、口からは長い牙が生えている。
稲垣さんは怪人だった!
わたしが叫ぶ間もなく、彼は両手を突き出す。左右の手の平から白い何かが飛び出した。
視界が回り、体が床に叩きつけられる。
え、い、今、何が──
状況を把握しようにも、体が動かない。声も出ない。
どうやらわたしは、何かで全身を縛られているようだ。これは……縄?
いや、糸だ! 怪人が両手から出した大量の糸に、わたしはすっかり絡みとられてしまっていた。
隣を見ると先生も、私と同じく芋虫のような情けない姿だった。
「う~!」
わたしは口も縛られていて、しゃべることもできない。
わたしたちを見下して、怪人が不気味に笑う。その声は別人のように甲高くなっていた。
「バカな人たちだ。自ら私の『巣』に入るとは……」
怪人は動けない先生の頬をいやらしくなでる。
「しかしあなたは美しい……。いい『素材』になりそうです」
「…………」
わたしと同様に口を縛られている先生は、無言で彼を睨みつける。
素材って何のこと? 先生をどうするつもり……!?
「ん~!」
わたしが必死にもがくと、怪人はわたしをモノのように足蹴にした。
「君はまだ幼すぎですねえ。まあ使える『部分』はあるかもしれませんが」
そ、それどういう意味……!?
やがてわたしはすまきのまま、大きい木箱に入れられ、視界は闇で閉ざされた。頼りの先生も見えないし、不安と恐怖でもう何も考えられない。
わたしを入れた箱は持ち上げられ、しばらく宙を浮かんだ後、ドスンと落とされた。
そしてエンジンの音が聞こえ、振動が伝わる。自動車に積まれたんだ!
わたし……これからどうなるの……!?
牢獄
自動車はしばらく走った後どこかで止まり、わたしを入れた箱は運び出された。わけがわからないけど、車の中で転がってあちこち体をぶつけてるよりはいい。
木箱のフタが開かれ、わたしは床に放り出される。
よかった、そこにはちゃんと先生もいた。先生も縛られたままだけど、一人ぼっちよりはずっと心強い。
怪人はわたしたちを見て薄気味悪く笑う。
「あとでゆっくり可愛がってあげますよ……」
そして、鉄格子に鍵をかけて去っていった。
って、鉄格子!? 必死に転がって部屋を見回すと、そこは本当に牢屋だった。廊下から漏れる電燈の光が、無機質なコンクリートの壁を照らしている。あの人が警察なわけはないから、ここは個人的に作った部屋だろうか。だとしたら悪趣味すぎるんですけど……。
とりあえず、これからどうしよう。
先生に指示を仰ごうとすると、先生を包んだ繭は見る見るうちに縮んでいく。
そっか! 先生は大人に変装していただけだったんだ。やがて糸の束から、いつも通りのちっちゃい先生がよちよち這い出した。
「やれやれ。『素材』にするならもっと丁寧に扱ってほしいものだな……」
先生は呑気に屈伸なんかしちゃってる。
「ん~ん~! ん~んん~んん~んんん~んんん~!」
訳:先生、早くわたしを助けてくださいよお!
先生はようやくわたしに気付いた。
「ン? いつまで芋虫ごっこしてるんだ小林君。さっさとショゴスで切りたまえよ」
「ん!」
そうだった! わたしにはピッポちゃんがいたんだ。気が動転してすっかり忘れてたよ。
心の中で念じると、ピッポちゃんはスルスルとミミズのように細くなってバッグから抜け出し、そのままわたしの身を包む糸からも抜け出した。
「ピッポー!」
そして獣のような手を生やして、鋭い爪で糸を切っていった。
ぷはっ!
わたしはようやく、口と体の自由を取り戻した。
あああもう、体中痛いよ……。
「ありがとう、ピッポちゃん」
「ピッポー」
ピッポちゃんは鳥の形に戻っていく。
「ふむ……車の進行方向と走行時間から考えて、ここは麹町区の屋敷町だろう。この辺りは寂れているし、人目もつきにくい。隠れ家にはうってつけだ。しかもここは地下室のようだな。これも『蜘蛛の支配者』の習性か……?」
先生は何やらぶつぶつ推理している。
「も、もう、先生ったらなんでわざわざ捕まったんですか!?」
先生はいつでも抜け出せたはずだ。怪人に捕らわれることなく、あのときやっつけちゃえばよかったのに。
「奴の隠れ家を突き止めたかったんだよ。あの場で下手に退治すると、里見芳枝の居場所はわからないままになってしまうだろう?」
「あ……た、確かに……」
さすがは先生だ、ちゃんと計算した上での行動だった。わたしは危機に陥ると、何も考えられなくなってしまうのに。
「もちろん、あの蜘蛛男も放っておくつもりはないよ。だがまずは失踪者を捜そう」
「は、はいっ!」
しっかりしろ、わたし! これでも先生の助手なんだから。
「でも先生、どうやってこの部屋から……?」
「ショゴスを鍵代わりにするんだ」
あ、そっか。ほんとピッポちゃんは便利だなあ。万能七つ道具みたい。……でも。
「ショゴスじゃないですよぉ、ちゃんとピッポちゃんって名前が──」
「ピッポー」
「どっちでもいいから早くしたまえ……」
ピッポちゃんは鉄格子の隙間から廊下側へ抜け出すと、錠前の穴にぐにゅっと体の一部をねじ込んだ。私は鍵の形を想像する。ピッポちゃんが何度か体を回転させると、ガチャッと錠前が開いた。
「あ、開きました!」
「よし、行くぞ」
わたしたちは静かに牢屋を抜け出した。
閉じ込められていたのは、わたしたちだけじゃなかった。廊下に沿って牢屋が並んでいて、若い婦人が何人も閉じ込められていた。
わたしたちは次々と鉄格子を開き、その身を縛っている糸を切ってまわった。こんなところに閉じ込められて、さぞかし怖くて、心細かっただろう。助けられた途端に、泣いて抱きついてくる人までいた。わたしだってこんなところに放り込まれたら、すぐにおかしくなってしまう。
「稲垣は表向きは美術商だが、夜な夜な蜘蛛男となり街を徘徊して、気に入った女性をさらっていたんだ。ところがある日、事務員募集に来た里見芳枝を気に入り、その場で捕まえてしまった。早くから店仕舞いをしていたのは、足がついてしまったあのビルから撤退する準備をしていたからだよ」
「そして、わたしたちを入れた箱と一緒に、この隠れ家に帰ってきたってわけですね……」
「怪人になった時点で、人間の生活などいつでも捨てられたのさ」
先生は一人一人助けるたびに指示した。
「ここで騒がずに待っていてください。我々が退路を確保しますので」
そう、蜘蛛男もいるし、外にはどんな危険があるかわからないのだ。うかつにみんなで一斉に出るわけにはいかない。
やがて、わたしたちは見覚えのある洋装の婦人を見つけた。わたしは走り寄る。
「里見芳枝さんですね? 絹枝さんからの依頼で助けに来ましたよ!」
糸を切ってあげると、彼女は少し驚いて、
「あ……ありがとう……。あ、あなたたちは……?」
確かに、わたしたちは見た目、謎の少女二人組でしかない。先生とわたしは声を揃えて答えた。
「探偵です」
地獄
廊下を出ると、円形の広間に出た。まるで何かの展覧会のように、石膏像のジオラマが一面に広がっている。
だけどそれは……とても見世物にするようなものじゃなかった。
血の池地獄、熱湯地獄、針の山、剣の山、業火の焔……様々な地獄の責め苦の名を冠したジオラマは、無数の悶え苦しむ裸婦像で表現されていた。作り物とわかっていても、あまりに凄惨な光景で、とても直視なんてできない。
先生はそれらを興味深げに眺めながら、堂々と歩いている。わたしはいつのまにか、震える手で先を進む先生の肩を掴んでいた。
「み、店にあったのと全然ちがいますね……」
「こちらが本性だろうね。なかなかいい趣味じゃないか」
「そ、それ本気で言ってるんですか……?」
確かに、猟奇趣味っていうのは最近の流行だけど……さすがに女子供のわたしには理解できないし、理解しちゃいけない世界だと思う。いや、それを言ったら先生もなんだけど……。
部屋の中には通路らしい通路はなく、ジオラマの中を像の合間を縫って進んでいくしかない。足元にも像が這いつくばっていて、気持ち悪いし歩きにくいし……。そんな中先生は小柄なせいもあり、ひょいひょいと先に進んでいく。
「ま、待って先生……!」
こんなところに置いていかれたら、それこそ地獄に落ちた気分になってしまう。
慌てて走ると、ドンッと台の上の像にぶつかった。ぐらりと像が倒れ、床に落ちる──
静寂の中に、耳を裂くような音が響き渡った。
あああ、やっちゃった! せっかくコソコソ進んでたのに、もう気付かれても仕方がない。
「小林君……」
先生が非難の眼差しを向ける。
「す、すみませんっ……!」
わたしが何度も頭をペコペコしてると、先生は何かに気付いたらしく、床にしゃがみこんだ。そして粉々になった像の破片を拾いあげ、ジッと見ている。
「どうかしたんですか?」
わたしもつられて、しゃがんで破片を拾い上げる。
「あれ……?」
暗くてよくわからないけど、像の破片は外側は硬く、中はぐにゃっと柔らかい。どうやら石膏の内側は別の素材らしい。先生は破片の断面に舌を入れ、ペロペロ舐めていた。
「ちょ……せ、先生!?」
さすがにそれは、危ないんじゃ……。やがて先生は破片から口を離すと、言い切った。
「これは……本物の人肉だ」
「ひゃあああー!」
わたしは思わず破片を放り出した。
う、うそ、ま、まさか、本物の、人間の体……つまり、し、死体を、石膏で包んだモノだったなんて。
わたしは息を飲み、震えながら周りを見回す。部屋中に乱立する他の像も、そうなのだとしたら。
一体、何人の死体に囲まれているのだろうか──
「は、あ、あ、う、あ、」
視界が滲む。わたしはただ、無我夢中で先生に抱きついた。
先生はそんなわたしに呆れて、ため息をついた。
「しっかりしろ、小林君。震えてる場合じゃないぞ」
先生は立ち上がり、奥の扉を睨む。
遠くに誰かの靴の音が響いている。それは次第に大きくなり──やがて力強く扉を開き、あの蜘蛛男が出てきた。
「誰だッ! そこで何をしているッ!」
ここではもはや隠す必要もないのか、堂々と蜘蛛の顔をしていた。
「な……!?」
蜘蛛男はわたしたちを見つけると、言葉を失った。なにしろ大人だったはずの先生が、子供になっているのだから。
先生は蜘蛛男に向き合い、帽子を上げて言った。
「残念だったね。あれは私の変装だよ。女を見る目がまだ甘いな」
「貴様……ただのガキではないな……。だが何者だろうと……私の殺人芸術を邪魔する奴は許さん……!」
わたしは情けなくも、先生の後ろに隠れていた。先生はその場から逃げようともせず、毅然とした態度で。
「像を作りたければ勝手に作ればいい。だが生身の女を像にする必要はないだろう」
「フッ、しょせん人の作った空想の産物など、本物の美しさにはかなわないのだよ」
先生はそれを聞いて、突然嘲ったように笑った。
「ハハハハ、本当にそうかな。君の腕が悪いだけじゃないのか? それともやはりただの××××か」
「……このガキ、言わせておけば……!」
蜘蛛男は両手を突き出し、さっきと同じように糸を出そうとする。しかしそれよりも早く、先生はピストルを抜いていた。
銃声がけたたましく響く。
顔に数発の銃弾を受けた蜘蛛男は、そのまま後ろへ吹っ飛んで倒れた。
先生は彼に銃口を向けたまま立ち尽くしている。
「せ……先生……? 終わりました……?」
「いや……これからだな」
「え──」
蜘蛛男はゆっくりと起き上がってくる。やっぱり、怪人の生命力は普通じゃない……!
「こ……こんなところで、死んでたまるか……」
先生は引き続き、蜘蛛男に容赦なく弾丸を浴びせる。
「ようやく……力を手に入れたのに……」
しかし彼は体中を撃たれても倒れず、逆にじわじわとこちらに近づいてくる。
「そうだ……俺は力を手に入れたんだ……人間を超えた『怪人』になったんだ‥‥!」
そして天を仰ぎ、叫んだ。
「神よ! 我にさらなる力を──ヴッ! ウ、ウブウゥウ!」
蜘蛛男の全身が、急激にブクブク膨らみ始めた。服が弾けとび、全身が黒い毛で覆われていく。あまりにおぞましい光景に、わたしは思わず吐きそうになる。
やがて頭を残して風船のようになった体から、血やら内臓やらを噴き出して、何かが次々と生えてきた。
──脚だ。太く大きい、蜘蛛の脚。先端の鋭い爪が床を砕く。
いつのまにか怪人は、巨大な蜘蛛の怪物になっていた。中途半端に人間の形を留めた顔が、かえって嫌悪感を催す。
「ギギキギキキギギキキギギ……!」
大蜘蛛の甲高い産声が、広間の空気を揺るがした。
「ひ、ひいいっ……!」
「やはり蜘蛛の支配者『アトラク=ナクア』か」
「な、なんですそれ!?」
「地底でひたすら巣を作っているという『邪神』だよ。こんなところに呼び出され、あんな男と合体させられ……さぞかしご機嫌斜めだろうね」
邪神。
この地球上に人間よりずっと前から存在する、強大な存在。その多くは人知れず眠りについていたけど、彼らは徐々に目覚めつつあった。
帝都に現れる「怪人」の正体は、邪神やその配下の種族が、人間と同化したものなのだと先生は言っていた。
今、わたしたちの目の前に復活した邪神の一柱──アトラク=ナクアは、その場で狂ったように脚を振り回し、あれだけ精巧に作ったジオラマを、惜しげもなく破壊している。
裸婦像はバラバラに砕かれて、手が飛ぶ。足が飛ぶ。頭が飛ぶ。わたしは生きながらにして、地獄の光景を目の当りにしているようだった。
そして獄卒はこちらに気付くと、亡者の残骸を踏み砕きながら向かってきた。
「気をつけろ小林君。我を失った奴は見境ないぞ」
そう言って先生は銃撃を続けた。
どのみち、こんな怪物が外に出たら大変なことになる。わたしも先生を手伝わなきゃ!
「ピ、ピッポちゃん!」
「ピッポー!」
わたしが合図すると、ピッポちゃんは果敢にもアトラク=ナクアを目指して飛んでいく。
しかし、先生の銃撃も、ピッポちゃんの爪も、足止め以上の効果がない。
アトラク=ナクアは牙で囲まれた大きな口を開き、先生に向けて糸を吐いた。それは滝のように大量に放出され、一瞬で先生を飲み込み、そのまま後ろの壁に叩き付けた。
「せ、先生!」
壁に貼り付けられた先生目掛けて、鎌のような脚が振り下ろされる──!
しかし先生は臆することなく、目を見開いて叫んだ。
「目覚めよ! 旧(ふる)き神──『ノーデンス』!」
刹那、先生の体から眩しい電光が走った。それは糸を伝わって、アトラク=ナクアを感電させる。
「ギキイイイイイイイ!」
先生を包んでいた糸が内側から切り裂かれる。
先生の右腕は、銀色に輝く雷光の剣に変わっていた。
彼女自身も、ある強大な存在と合体していて、それ故に様々な知識や力を持っているのだ。
先生はそのまま痺れて動けないアトラク=ナクアに飛び込む。
「大いなる深淵の大帝の前に──滅せよ! クラウ・ソラス!」
剣から放たれた光の扇は、一瞬でアトラク=ナクアを両断する。
邪神は少し震えた後、閃光を伴って爆発し、その身体はバラバラに飛び散った。
広間の中は土煙と霧状の血に包まれていた。
その中で先生は立ち尽くしている。剣になっていた右腕が元に戻っていく。
「……明智先生……」
わたしはただ、その場から先生を見つめていた。
先生があの力を使うのを見るたび、彼女も一種の「怪人」なんだということを思い知らされて……不安になる。
先生もいつか怪物になってしまう……そんな気がして……。
先生と合体しているノーデンスは、いわゆる邪神ではなく、邪神と対立する陣営に属する神で、その力を利用すれば、人間でも邪神と戦うことが可能になるという。だけど、恐ろしい力を持ったよくわからない存在という点では、邪神と何も変わらない……。
そんなわたしの不安に気付いたのか、気付いていないのか、やがて先生はこちらに歩いてきて。
「ほら、何ぼさっとしてるんだ小林君。他に敵がいないか確認するぞ」
「あ……は、はい!」
いつも通りの態度に、わたしは安堵した。
這い寄る混沌
地上に上がり隠れ家を出ると、外はもう真っ暗だった。
わたしたちは周囲に敵がいないことを確認すると、牢屋で待っていた芳枝さんたちを誘導し、広間に連れてきた。
気がついたら、ピッポちゃんが何かをガツガツ食べている。
って、それアトラク=ナクアの脚じゃない!
「ピ、ピッポちゃん! そんなもの食べちゃだめだってば~!」
邪神にでもなったらどうするのっ。
まあピッポちゃんも、十分正体不明な生き物ではあるんだけど。
崩れた地獄の中を、恐る恐るみんなが進んでいく。
広間中に転がっている、人体の部位。そのすべてが本物の人間のものだったのかどうか……わたしは確かめる気にもなれなかった。
「……あの人は一体……なんでこんなこと……」
「確かに邪神は人智を超えた、恐ろしい存在だ。しかし、邪神よりも……人間の心のほうが、恐ろしいと思うときがある。あの男は邪神と合体して、気が狂ったのではない。もとからあのような殺人芸術を望んでいたんだよ。そして、誰かに『力』を与えられた……。何者かが邪神を人間に融合させ、怪人に仕立て上げているんだ」
「そ、そんなこと……一体誰が……?」
「待て、誰かいる」
「え……?」
広間の出口辺りに、さっきはいなかった人影が見える。きょろきょろと周りをうかがっているようだ。
わたしたちの後ろにいた芳枝さんが、突然叫んだ。
「姉さん!?」
「え……絹枝さん!?」
確かに絹枝さんだ。絹枝さんはこちらに気付くと、歓喜の声を上げた。
「ああ、芳枝……! 無事だったのね……!」
姉妹はどちらからともなく駆け寄る。
そのとき、突然銃声が響き──
絹枝さんが倒れた。
「え……」
芳枝さんは目の前で何が起きたのかもわからず、呆然としている。
わたしが後ろを振り向くと──銃口を向けた先生がいた。
「せ……先生……!? な、な、何やって……」
なんで、絹枝さんを。
頭から血を流して倒れている絹枝さんに向かって、先生は言った。
「困りますね絹枝さん。私は自宅で待ってるように言ったはずですが……」
すると──撃たれたはずの絹枝さんは、そのままクスクスと不気味に笑い始めた。
「う、うそ……!?」
彼女の笑い声は大きくなっていき、その額からは滝のように黒ずんだ血が噴き出していく。
それを見て芳枝さんは気を失い、他の婦人たちも恐怖してその場から一斉に離れてしまった。
黒い血だまりに浸かった絹枝さんは、真っ黒な影のようになると、やがてぐにゃぐにゃと何かの姿をかたどっていく。
影の中から現れたのは──少女だった。わたしと同い年くらいの……。
小さなシルクハットを被り、顔の上半分は仮面で覆われ、漆黒のドレスを身にまとっている。西洋のおとぎ話から出てきたような、現実味のない姿だった。
彼女が優雅な手つきで仮面を取ると、お人形のように白くて綺麗な顔が覗いた。
だけど……爛々と赤く光る双眸は、まちがいなく人間のものではなかった。
「あ……あ………」
わたしは心の奥底から沸き起こる得体の知れない恐怖で足がすくみ、その場にへたりこんでしまった。ピッポちゃんも私の足元で震えてうずくまっている。
「ごきげんよう、明智君」
少女は先生に向かい、優雅にスカートの裾を持ち上げ、西洋式のおじぎをした。
「……久しぶりだね、『怪人二十面相』」
先生は表情を変えずに答える。意外にも、二人は顔見知りのようだった。
「いやあ、ボクの変装を見破るとはさすがだねえ。いつから気付いたんだい?」
「蜘蛛男に捕まったときだよ。彼は誰であろうと店の中に入れることさえできれば、悲鳴をあげさせる隙もなく捕らえることができる。里見絹枝は芳枝と瓜二つだ。芳枝を捕らえた彼が彼女を放っておくわけがない。彼は訪ねてきた絹枝を私たちと同じように店内に招こうとしただろう。妹に会わせると言ってね。しかし彼女は店には入らず引き返した。入れば彼に捕まると知っていたからだ。蜘蛛男は後で彼女を我が物にするため、監視の蜘蛛を付けたのさ。そして絹枝はその蜘蛛をあえて放置したまま、私の事務所にやって来て、情報を提供した」
「そ、そんな……」
事務所でわたしたちと話した絹枝さんは、偽者だったなんて……!
「本物の絹枝は、そもそも芳枝が美術店に行った事すら知らなかったんだよ。知ってたらすぐ美術店に行ってるし、そのときに捕まっているはずだからね。芳枝の写真は、君が警官に変装して絹枝から入手したものかな」
「ハハハハ、よくできました」
二十面相は薄ら笑いを浮かべながら鷹揚に拍手して見せた。
でも、絹枝さんに変装してまでして情報をくれたってことは……この子はわたしたちの味方ってことなの?
「……一つ聞きたい。 二十面相君、君の目的はなんだ? なぜ人々を怪人にするんだ。『這い寄る混沌』の名の通り、帝都に混乱をもたらすためか?」
「フフフ……人には誰しも夢がある。ボクは人々が夢を叶えるお手伝いをしているだけなんだよ。今回もささやかな夢を持っていた男に、力を与えてあげただけなのさ」
怪人二十面相は堂々と、とんでもない事を言ってのけた。帝都の怪人は、みんな彼女が生み出しているってこと……!?
それに……あんな犯罪のどこが「ささやかな夢」だというのか。
「そしてわざわざ私に通報して、その夢を潰させるというのか?」
稲垣氏は二十面相によって怪人になったけど、結果的には二十面相によって破滅してしまった。
彼女の行動は筋が通っていない。
「ハハハハ、いやいやなかなか面白い見世物だったよ。この帝都は、ボクにとっては劇場みたいなものなんだ。君達は舞台の上で死ぬまで踊って、せいぜいボクを楽しませてくれればいいんだよ、ハハハハ……」
二十面相はなんら悪びれた様子もなく、無邪気に笑っている。
ひどい……。
この子は帝都の人々の命をもてあそんで、楽しんでいるんだ。
「まあ、今回の彼はうまくやっていたほうだよ。大抵は邪神の力に耐え切れず、すぐ壊れちゃうからねえ。『この娘』のように!ヒャハハハハ……!」
二十面相は自分自身を指して、哄笑を上げた。
どういう意味? 彼女は何を言って──
「き、貴様ああ!」
先生が声を荒げて、二十面相に走っていく。あの冷静な先生が……!?
先生は右腕を構えて剣を出そうとするが、二十面相を目の前にして固まってしまう。
「ん……? どうした明智君、斬らないのか?」
二十面相は余裕の笑みを浮かべ、先生を見下す。
突然、彼女のドレスの袖やスカートの中から何かが飛び出した。それらは瞬く間に先生の身体中に巻きつき、動きを封じる。
黒い縄……? それにしては体の一部のように、ぬらぬらと蠢いている。
あれは「触手」だ。イカやタコの脚のような。
二十面相はそのまま先生の身を自分に引き寄せる。
「せ……先生……っ!」
先生が危ないのに。早く助けなきゃいけないのに。
わたしは腰を抜かしたまま身動きができず、ピッポちゃんを操ることもできなかった。
「まだ忘れられないのかい?」
二十面相は先生の顔を見つめて、その頬を両手でなでるように包む。
「……かわいいわね、サトリ……」
突然声色を変え、そして──先生の唇を奪った。
「っ!」
目を見開く先生。
そのまま二十面相は先生の口の中に蛇のような舌を入れ、ぬちゃぬちゃとかき回している。
「な、な……」
わたしはあまりのことに声も出せない。
彼女は、なにを、やって……?
でも、少なくても、目前のこれは……活動写真で見るような、ロマンチックな愛の儀式なんかじゃない。
「……う……」
やがて先生の目は虚ろに光を失くしていき、手足は力なくぶら下がった。
このままじゃ、先生が……
わたしの先生が──!
──そのとき。
胸の奥で、何かが弾けた。
それは、「力」だ。自分の中にあるはずのない、膨大なエネルギーの奔流だ。それは全身を熱く駆け巡り、わたしの身を恐怖の戒めから解き放つ。
わたしはただ、先生を助けたかったのか。それとも、先生を奪った二十面相に嫉妬したのか。
どちらにせよ、両方にせよ──わたしは既に立ち上がって叫んでいた。
「先生を放してえっ!」
わたしの内側から湧き出す力が、漆黒の光となってこの身から噴き出す。
同時に、足元のピッポちゃんが飛び立ち、
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
ショゴス本来の声で鳴きながら、膨張し変形していく。長い脚を何本も生やしたその姿は、先ほど倒したばかりのアトラク=ナクアと酷似していた。
そして邪神と同様に糸を吐き出す。
「なに!?」
二十面相が驚いて先生を放す。
滝のような糸が二十面相を飲み込み、背後の壁に叩きつける。
触手から解放された先生が床に崩れ落ちた。
わたしはすぐに駆け寄り、ぐったりとしている先生の身を起こす。
「先生! しっかりしてください! 明智先生っ!」
わたしは先生の体を揺さぶりながら必死にその名を呼んだ。
やがて先生はゆっくりと目を開ける。
「……こ……小林君……?」
わたしは思わず、先生を抱きしめた。
「もう! 何やってんですか、先生らしくもない……っ!」
「……そう‥‥だな……」
先生は心身ともに疲れきっているようだった。
「ク……ククク……」
そのとき、あの子の不快な笑いが聞こえてきた。
「ハハハ……ハハハハハハ!」
二十面相は糸を破って飛び出し、空中に浮かび、わたしたちを見下ろした。
「素晴らしい成長ぶりだよ、小林君! この短期間でこれだけショゴスを操れるようになるとはねえ!」
「え、え……!?」
わたしのことを知っているの……!?
そう聞く前に、二十面相は仮面を付けて、
「今宵は小林君に免じて退散するとしよう。また会おう、明智君! ハーッハッハッハッハッ!」
高笑いしながら回転し、黒い渦巻きになる。そこから強い突風が吹き、思わず目をつぶる。
その間に、二十面相は姿を消していた。
広間に静寂が戻る。
先生は彼女が消えた虚空を見つめ、呟いた。
「………文代(ふみよ)………」
「え……?」
「………なんでもないよ」
それは誰の名前だったんだろう。
先生は立ち上がり帽子の埃を払うと、そのまま振り返らず、歩いていってしまった……。
エピローグ
ピッポちゃんはいつの間にかいつもの鳥の姿に戻って、わたしの肩にとまっていた。
さっきは蜘蛛みたくなったけど、まさかあの邪神の肉を食べたから……?
でも、もとからピッポちゃんは不定形だし、わたしが蜘蛛を見た直後だから、その印象が強くてあの姿になっただけかも。
私たちは捕まっていた人たちを警視庁のビルまで連れて行き、みんな無事に保護された。
連絡を受けた本物の絹枝さんも到着し、今度こそ姉妹は再会する。
泣いて抱き合う二人を見て、ようやく今回の事件は解決したんだと実感した。
でも……わたしは素直に喜ぶ気にはなれなかった。
先生は事件の後始末をいつものように警部に頼み、わたしと一緒に家路についた。
街灯もまばらな夜の歩道を、先生の後ろに付いて歩く。先生は何も言わず、無言で歩き続けた。
わたしは先生を慰めることもできない……。
その小さな背中に何を背負ってきたのか、先生は何も話してくれないから……。
もう一ヶ月も、先生のお手伝いをしてるのに。
まだわたしのこと、信じてくれてないのかな……?
……でも、当たり前だよね。わたしはいつも、先生の足を引っ張ってばかりだし……。
と、ふいに先生が立ち止まった。
「……小林君。そういえば腹が減ったんだが……」
「……え?」
突然、何を言い出すんだろう。
わたしが唖然としていると、先生は振り向いて微かに微笑んだ。
「作ってくれるんだろう? スキヤキ」
「あ……」
そういえば、捜査に出てからすっかり忘れていたけど、今日はそのつもりだった。
先生はそんな他愛もないことを、ちゃんと覚えててくれたんだ……。
「は、はいっ!」
わたしは精一杯の笑顔で答えた。
明智サトリの邪神事件簿
製作・著作 よもぎ史歌
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