しろとリク3

学生にとって四月は忙しい月だ。
大学生となった山岸志郎も例外ではなかった。
オリエンテーリングや授業説明会は意外と時間がかかる。
その日も朝早くにマンションの部屋を後にし、夕方遅くに帰ってきた。
玄関の扉を開けると、実家から預かった犬、リクがちょこんとお座りをして志郎を出迎えてくれた。
「お帰りなさい」
リクはそう言って、尻尾を左右に降る。
リクは人間の言葉が喋れた。
ほんの少しなら文字も読めるらしい。
「ただいま」
「今日も遅かったね。ボク、お腹空いちゃったよ」
「ああ、ちょっと待ってろよ」
キッチンの棚から固形のドッグフードを取りだして餌皿に盛り、犬用のヨーグルトをまわしかける。
飲み水も用意してやったが、リクはすぐに餌を食べようとしなかった。
涎を垂らさんばかりにドッグフードを見つめながらも、食欲を必死に抑えている。
「腹減ってるんだったら、無理せず食えばいいだろ」
「しろと一緒に食べるから、待つ」
「んなこと言ってるとまた吐くぞ」
そう言うと、リクは恥ずかしそうに体をくねらせた。
以前、空腹のあまり床に胃液を吐いてしまったことがあるのだ。
それからは、ふかし芋などの腹持ちのいい食材を、朝の餌に混ぜるようにしている。
志郎は冷蔵庫の野菜を手早く炒めて、自分用の食事を作った。
テーブルに皿を並べて「いただきます」と言うと、リクも同じように「いただきます」と言って餌に口をつける。
「しろ、今日はどんなことしてたの?」
口の端についたフードの欠片をぺろりと嘗めて、リクは志郎の方を向いた。
「健康診断と教科書販売。後はバイトの面接」
「バイト? 働くの?」
「生活費は稼がんとならんしな」
一応、実家から仕送りを貰っているがいざというときのため、ほとんど手はつけずに残してある。
「じゃあ、忙しいままなんだね」
「まぁな」
志郎の言葉にリクはくぅ、と小さく鼻を鳴らした。
耳をぺたんと寝かせ、上目遣いでこちらを見ている。
四月に入ってから、リクを部屋に残して外出することが増えていた。
留守番ばかりしている犬は、ストレスを溜めてしまうらしい。
志郎自身も罪悪感を覚えてはいたが、大学側のスケジュールはどうすることもできない。
「もう少ししたら落ち着くと思うけどな」
視線をリクから外したまま志郎が言うと、リクは再び鼻を鳴らす。
気まずい思いでいると、志郎のスマートホンに電話がかかってきた。
軽快な電子音が部屋に鳴り響く。
普段滅多に鳴らないので、リクは驚いて目を瞬いていた。
液晶画面には『山岸信幸』と表示されている。
志郎の父親だ。
志郎は、通話のアイコンを押して耳に宛がった。
「もしもし、父さん?」
「父」という単語を聞いたリクが、耳をぴんと立てた。
「もしもし、志郎君? 突然ごめんね」
リクがちょこちょこと傍に寄ってくる。志郎は少し考えてスピーカーモードで会話をすることにした。
「志郎君、元気? リクはどうかな?」
「ととさん! ととさん! 元気だよ、ととさんも元気?」
リクは喜んで大きな声をだした。
「あはは、リクは元気だね、よしよし。志郎君は?」
「俺も変わりないけど、急に何?」
「ちよっとねー、仕事の出張で東京行くから、志郎君の顔を見ようかと思ってるんだ」
「出張って、いつ?」
「明日から、二泊三日だね」
「もしかして、毎日来るつもり?」
「そのことなんだけどね、我が家は貧乏だよね」
何を言わんとしているのか察した志郎は、思わずテーブルに突っ伏してしまいそうになる。
「泊めろってこと?」
「話が早くて助かるなぁ。リクの様子も見たいし、ダメかな」
リクは何かを期待するように瞳をきらきらさせて、志郎の顔を覗きこんでいた。
出張でこちらに来た父親を部屋に泊めるのは初めてではないし、リクについて尋ねたいこともあるので、やぶさかではない。
「別にいいけど、俺の部屋には余ってる布団とか、ないんだけど」
「大丈夫、寝袋持っていくから」
そういえば、以前もそうして寝てたなぁと、志郎は思いだしたのだった。


翌日、リクは朝から落ち着きなく部屋を歩きまわり、前足をぺろぺろと嘗めまわしていた。
志郎はこの日も大学に行くために、数時間ほどリクを部屋に残して外出した。帰ってきた志郎を迎えたのは、涎だらけの前足で部屋をうろつくリクであった。
「ばか、前足嘗めすぎるとふやけちまうだろが」
べたべたする前足を掴み、洗面所で軽く洗ってやる。
「まだかなー、あとどらくらいで来るのかなー?」
洗われている間もリクはあちこちに視線をさ迷わせ、音を探してしきりに耳を動かしていた。
「もうすぐだと思うけどな」
リクは志郎の顔を見つめた後、ほんの少し首を傾げる。
「しろ、学校で何かあったの?」
「いや、何もないけど」
「なんか、元気ないー」
それには応えず、志郎はすすぎ終わったリクの足をタオルで包んだ。
黙ったままでいると、リクが志郎の腕に顔をこすりつけてきた。
「足すっきりした。ありがとー、しろ」
「あともう少ししたら父さん来ると思うし、我慢してろよ」
「待ちきれないよぅ」
リクはうー、と唸って体を震わせる。
また涎だらけの足で部屋を歩かれても困るし、時間潰しで散歩に行くのもいいかもしれない。
志郎は洗面所でリクを待たせ、おもちゃのボールと青色のリードを取りに部屋に戻った。
不思議そうに志郎の様子を伺っていたリクは、ボールとリードを見て、瞳を輝かせる。
「お散歩? お散歩?」
「時間潰しにな」
志郎がそう言うと、リクは嬉しそうにワンと鳴いた。


陽が西に傾き、空が赤く染まるまで志郎とリクは公園で遊んでいた。
疲れた志郎は、紅色に染まった住宅街をゆっくり歩く。
対するリクは、ご機嫌な様子でお尻をふって歩いていた。
マンションに辿り着く頃になると、空は赤から濃い紫色へと変わっていた。
「父さん、もしかしたら部屋の前で待ってるかも」
志郎の呟きを聞いたリクは、急に早足になってエレベーターへと向かう。
ぐいぐいと綱を引っ張るリクの姿に苦笑しつつ、志郎も足を早める。
エレベーターで五階に上がると、志郎の部屋の前で、スーツ姿の男性が腕を組んで立っているのが見えた。
男の足元には大きなキャリーバックが置かれている。
男の姿を見たリクは高い声でひとつ吠え、男に向かって駆けだした。
犬の声に気がついた男がこちらを向く。
男は志郎とリクに気がつくと、瞳を細めて微笑んだ。
「志郎君、リク。待ってたよ」
「父さん、ごめん。リクの散歩に行ってたんだ」
志郎の父親である山岸信幸は、地面に膝をついて、懐に飛び込んできたリクの頭をよしよしと撫でる。
リクは尾を振りながら、信幸の顔を舌で嘗めていた。
志郎はその中に入ることもできず、父親と飼い犬の様子を眺めていた。


部屋に入った後も、リクは信幸にべったりとくっついたままであった。
「ととさん、久しぶりだね! 元気だったー?」
「うん、元気だよ。リクは元気だったかな?」
「元気ー」
リクの頭を撫でる信幸を、志郎は唖然として見つめる。
「あの、父さん?」
「何?」
「晩ごはん、まだ作ってないから、待っててほしいんだけど?」
「何か手伝う?」
「いや、まだ何も準備してないし、やってもらうこともないから」
志郎がそう答えると、信幸は気分を害した様子もなく、快活に笑った。
「じゃ、コンビニに行ってきていいかな? 買いたいものがあるんだ。リクも一緒においで」
リクは大きく頷いて「行く!」と答えた。
信幸とリクが部屋をでた後、志郎はぼんやりと信幸の姿を思い返していた。
優しく飼い犬の頭を撫でる、父親の姿。
ペットを飼うと、人は性格が変わるのだろうか。志郎の知る信幸はもう少し冷淡な人間だったのだが。
そこまで考えて、志郎は「違う」と自分の考えを否定した。
信幸は元々優しい人間であり、冷淡なのは自分に対してだけだ。
そうに違いない。
志郎は重たい息を長々と吐いた。
そして鈍い動作で立ち上がり、夕食の支度を始めたのだった。


コンビニでビールと週刊誌を買った信幸は、マンションまで戻って来るとエレベーターではなく階段の方へと向かった。
人が近くにいないことを確認して、段差に腰かける。
「ここなら、少し喋っても大丈夫だね」
信幸はリクの首筋を何度も撫でた。
「リク、志郎君は優しい? 普段は元気にしてる?」
リクは辺りに視線を走らせた後、小さな声で答える。
「しろは優しいよ。けど、不思議。ボクがお手とかしても、あんまり喜んでくれないの」
「志郎君は照れ屋だからね。照れてるだけで、本当は喜んでるんだよ」
「あと、今日は元気なかったー」
リクはくぅと鼻を鳴らして俯いてしまう。
志郎の妹である恵は、元気がなくてもリクが傍に寄ると笑ってくれた。
信幸も笑ってくれる。
けれでも志郎の場合は、こっちに来るなと追い払われてしまう。
「どうしたら、元気になってくれる?」
信幸は、自分の足元に視線を向けながら、ぽつりぽつりと答えた。
「志郎君が元気なかったのはね、私が会いに来たからなんだよ」
意味がわからず、リクは首を傾げた。
「どういうこと?」
「志郎君は、私に会いたくないって思ってるんだよ」
「どうしてー?」
リクは信幸の顔を覗きこみ、その頬を慰めるように嘗める。
信幸はリクを抱くように、小麦色の背中に手をまわした。そして、何も言わずにリクの背中を繰り返し撫でる。
その掌の暖かさを気持ちよく感じつつ、リクは顎を信幸の肩にのせた。
悲しいことがあったとき、恵も今の信幸と同じように自分を抱きしめていたことを、リクは思い出していた。
「ととさん、しろの所に帰ろ。しろも待ってるよ」
リクの言葉に、信幸は顔をあげて微笑んだ。
「そうだね、帰ろうか」
立ち上がった信幸は、そのまま階段で志郎の部屋へと向かう。
玄関を開けると、カレーのスパイスの香りが信幸とリクの鼻先をくすぐった。
「ただいま、志郎君」
「しろー、ただいまー」
そう声をかけると手に濡れタオルを持った志郎が玄関まで出迎えてくれる。
「今日はカレー?」
「ツナとキノコのね」
志郎から濡れタオルを受け取った信幸が嬉しそうな顔をする。
「志郎君のカレー、久しぶりだから、楽しみだなぁ」
「ボクも食べてみたい」
リクは元気よく自己主張したが、即座に「お前は無理だろ」と志郎に返されてしまった。
「きっとリクにもおいしいご飯をだしてくれるよ。ね、志郎君」
信幸はぽんぽんとリクの頭を撫でて笑う。
「あと少しでできるから」
「サラダくらいなら手伝うけど」
信幸の言葉に、志郎はほんの少し間を開けてから答えた。
「それじゃあ、お願いするよ」


志郎がカレーを作っている間、信幸はレタスを千切ってサラダを用意していた。
「ふたりで料理してると、志郎君が家にいた頃を思い出すよ。」
信幸が懐かしそうに呟く。
志郎の母親は家事もろくにしない、できない人だった。
信幸は仕事で忙しく、ほとんど家にいない。
志郎が料理や洗濯を覚えたのは、必要に迫られたからだ。
「地味に、お弁当が面倒だったんだよな」
志郎はできあがったカレーを皿に盛りながら、ぼんやりと呟いた。
食事をテーブルの上に置き、リクにも餌と水を用意する。
「いただきます」
リクが嬉しそうに言うのに続いて、信幸も「いただきます」と手を合わせた。
しばらくの間、ふたりと一匹は他愛もない会話をしながら料理を口に運んだ。
志郎は話が切れたタイミングを見計らって、気になっていたことを尋ねることにした。
「ねぇ、父さん。リクってどんな経緯で家に来た?」
「んー、恵がいきなり拾った来たんだよ」
餌皿から顔をあげたリクが、耳を立ててこちらを見る。
「ボク、恵に会うまでひとりだったんだよ」
つまり、野良犬だったということか。
「でも、もう家族だよ」
そう言って、リクは尻尾を振る。
「それは置いといて、リクって結局の所、何?」
見た目は犬だが、決して犬ではない。恵はおとぎ話に出てくる霊獣、変幻だと言っていたが、そんな話を信じる気持ちにはなれない。
信幸はしばしの間、虚空を見つめて考えていた。
「さぁ? わからないよ」
返ってきたのはしかし、そんなあっけらかんとした答えだった。
「不安とか、感じないんですか?」
「全然」
「だって不思議じゃん」
「不思議だね」
何だかこれ以上父親に尋ねても無駄な気がする。
喉の奥で唸る志郎の背中を、どんっと押したものがいた。
リクである。
「だーかーらー、ボクは家族なの」
尾をはたはたと左右に振るリクに、信幸は瞳を細めた。
「だってさ、志郎君。リク自身がそう言ってるんだから、間違いないんじゃない」
「うん。間違いない、間違いない」
リクと信幸は「間違いない、間違いない」と繰り返して笑い合う。
笑う父親と飼い犬に挟まれた志郎は、何だか困ってしまって、何度も瞳を瞬かせていた。

しろとリク3

なんと! 気がついたらもう2月も終わりではないか!
時間はあっという間に過ぎていくものですね。
光陰矢の如しって本当だったんだ! と改めて実感しました。
よし、これからは時間を大切に生きよう。
そう心に誓ったのは一週間前。
ついさっきまで忘れてました。

しろとリク3

犬が苦手な大学生と喋る犬の生活。 山岸家の問題がぼんやりと見えて参りました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-26

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