鮫島さん会社辞めるらしい
「鮫島さん会社辞めるらしいですよ」
倉谷にそう教えてくれたのは、営業二課の柳沢だった。
「え、だってあの人あと三年で定年だろう」
「そうなんですよ。三年辛抱すれば退職金を満額もらえるのに、なんでだろうってみんな言ってますよ」
「うーん。何かあったんだろうな」
会社を辞める理由は人それぞれである。
中でも一番多いのは『人間関係』に悩んで、というものだ。表向きは別の理由であっても、実は『人間関係』という場合も含めると、理由の大半を占めると言ってもいいだろう。
倉谷だって悩んだ時期があったが、辞めて今の『人間関係』をチャラにしたところで、次の勤め先でまた新しい『人間関係』に悩むのは目に見えている。辞めずに今の『人間関係』を改善する方が得策だと思って、今日まで我慢してきたのだ。
一応、鮫島と同じ営業三課の人間にこっそり聞いてみた。
「いやあ、それはないと思うね。あの人は図太いというか、無神経というか、厚顔無恥というか、まあ、そんなタイプでさ。むしろ、周りの人間が悩んてたくらいだよ」
次に多いのは『家庭の事情』というやつだ。家業を継ぐためとか、配偶者が転勤になったとか、子供の進学先に一家で引っ越すとか、内容は様々である。
別の人間に聞いてみた。
「あの人はバツイチで、お子さんもいなくて、ご両親もとっくに亡くなっていて、一人暮らしですってよ」
意外に少ないのが『独立起業』だ。結局、資金的なアテがないと莫大な借金を背負ってのスタートになり、リスクが大きいからだろう。
念のため聞いてみた。
「独立するようなお金も信念も、あの人にはないと思いますよ」
理由が何であれ、いずれ人事課長の倉谷のところに来るはずである。
「倉谷課長、営業三課の鮫島係長がお見えになってます」
ついに来た。とりあえず、何も知らないフリをしようと、倉谷は考えた。
「応接室にお通ししておいてくれ」
応接室では、かなり頭髪の薄くなった鮫島が待っていた。
「お待たせしました」
「とんでもない。こちらこそ突然押しかけてすまん。忙しいんじゃないかね」
「ご心配なく。ちょうど手が空いたところです。何かありましたか」
「いやいや、別にトラブルとかじゃないんだ。ちょっと、その」
「遠慮なさらずに、何でもおっしゃってください」
「うん」
鮫島は、なぜか頬を赤らめている。
はて、これは意外な理由かもしれないぞと、倉谷は思った。お金持ちの家に婿入りでもするのだろうか。それとも、宝くじでも当たったのか。
「何かいいお話のようですね」
「そ、それほどでも、ないんだが」
倉谷はちょっと焦れてきた。
「何でしょうか」
「ああ、うん。実は、会社を辞めようと思ってね」
「え、どうしてですか」
ちょっと驚き方が足りなかったかなと、倉谷は反省した。
「笑わないでくれよ。来月、デビューすることになったんだ」
「デビュー?」
鮫島は真っ赤になった。
「あの、ほら、倉谷くんも知ってると思うけど、テレビによく出るダンスグループがあるだろう」
「はあ」
「そのオーディションに受かったんだよ」
今度は本当に驚いて言葉が出ない。かわいそうに、妄想にとりつかれているようだ。
しかし、倉谷は心を鬼にした。この際、辞めてもらった方が会社のためだ。
「それは、良かったですねえ。がんばってください。応援しますよ」
「ありがとう、ありがとう。君ならきっとわかってくれると思っていたよ」
倉谷は鮫島の退職手続きを淡々と進めた。
倉谷が腰を抜かすほど驚いたのは翌月である。
テレビで華麗なステップを披露する鮫島を見たのだ。今の世の中、何が起きるかわからない。
「倉谷課長、営業部の吉岡部長が来ておられます。会社を辞めたいそうです」
(おわり)
鮫島さん会社辞めるらしい