― 久遠(くおん) ―

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白鳥の歌シリーズ4

香子は倦んでいた。
自分でも何に疲れているのか、何を恐れているのか、
判らなかった。
だが、確かに香子は倦んでいた。

香子は聡明な女性である。
ごく普通の家庭に育ち、優しい両親の愛を受けて育ってきた。
世間で言うところの一流の大学を卒業し、外資系の銀行に勤めている。
仕事は非常にハードだが、外資系の企業らしく、
仕事における男女差別は殆ど無い。
有能な香子は、企業の社債引受業務を行う部署の一員として
多くの顧客企業を抱えている。
私生活では、学生時代から交際をしている彼氏がいる。
彼は大学のゼミの先輩で、今は、商社に勤めている。
バスケット部に所属していた彼は、背中の広い大柄な男で、
決して美男子ではないが、意志の強さを感じさせる顔つきをしている。
その表情は豊かだ。
一方で彼は、年齢の割に、包容力にあふれ、非常に優しく、
常に香子のことを気使っていてくれる。
商社勤めの彼は、忙しく世界を飛び回っている為、
香子と過ごす時間が少々制限されている。
このこと以外、彼に対する不満など無いに等しい。
香子の日々は充実していた。
香子はまもなく二十七才になる。

この夜、香子は仕事を終えて、一人いつものように家路についていた。
地下鉄を降り、改札を抜け、歩く。
すでに、表通り沿いの店々はシャッターが下りていて、
香子の姿が、閉まった店のショーウィンドーに映っていた。
タクシーやバスが行き交う表通りを過ぎた所に、公園がある。
公園を抜けると、香子の家はもうまもなくである。
住宅地の中の狭く、暗い通りを歩いていくよりも、
街燈が並ぶ遊歩道があるこの公園の中を通るほうが、
安心で、少々時間も稼ぐことが出来る。

歩きながら香子は、彼のこと、仕事のことなどを考えていた。
同時に、ぼんやりとした疲労を感じていた。
自分が生きることに倦んでいることも。
何一つ不満など無いのに。

公園の真ん中ほどには噴水のある広場があり、
広場を囲むようにして段差の少ない石段がある。
香子はその石段に一人の老人が座っているのに気付いた。

老人は香子の自宅のそばに住む石井という男性で、
以前は船舶用のタービン・エンジンの開発技師をしていたという。
子供二人もすでに独立しており、石井は夫人と二人で暮らしている。
香子は子供の頃、日曜日になると近所の子供達の野球の練習に
ノック役を引き受けてくれていた石井を、
夏になると怪談話をしてくれた石井を思い出す。
香子にとって、中学卒業後は、挨拶を交わす程度の
ごく普通の近所のおじさんに過ぎない。

香子は石井に会釈をして、前を通り過ぎようとした。

「星がきれいだねぇ。」

ふいに石井にそう言われ、香子は夜空を見上げた。
確かに星が美しく輝いている。
久しぶりに見上げた夜空だった。

「ここに座って星を見てご覧。すごくきれいだよ。」

視線を戻した香子に石井が手招きをした。
促されるまま、香子は石井の横に座った。
しばらく二人は黙ったまま、星空を見上げていた。

石井は静かに香子に語りかける。

「この星はね、香子ちゃん、百年も、千年も、
いや、もっと前から輝いているんだねぇ。
子供の頃に、香子ちゃんが見ていていたのと同じ星なんだねぇ・・・。
変わらないものが有るんですよ。香子ちゃん。
元気を出さないとね。
わたしはね、この星を見るたびにね、
わたしらを、見守っていてくれてる方がいると思うんですよ。」

「ありがとう。」

と、一言告げると香子は立ち上がり、家に向かう。
その足取りはさっきまでのそれとは違った。
少し、軽やかに感じた。
澄んだ夜風が心地よかった。

夜空には、子供のときに眺めた北斗七星が変わらずに輝いていた。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、
地に落ちることはない。
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
だから、恐れるな。
あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
(聖書 マタイの福音書10章29-31節 )

(了)

― 久遠(くおん) ―

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-26

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