花の盛り
ゆめのはなし
そこには、六つの芽が生えている。
いずれも形は異なるが、同じように小さく、踏めば潰れてしまいそうな花の芽たちはそれぞれ主張していた。
見つけてくれたきみに頼みたいことがある。
わたしたちは、うつくしい花を咲かせたい。
そのために水を与え、自分たちを愛でてほしいのだ。
そう囁くように小さな芽を精一杯揺らしている。
返事をしようと、口を開いたところでふと気づく。自分の後ろに誰かが立っている。
だけど、誰か、というのは分からなかった。振り返る前に、けたたましい目覚まし時計のベルが私を夢心地から現実へと引き戻したからだ。
「なんて、花だったかな」
夢は、目覚めたあとにも残っている。机上に乗ったエプロンと母から渡された地図によって、ようやく意識がはっきりしてきた。母の代わりに、行かなければならない。
春の訪れ
古風な佇まいの木造二階建ての屋敷だった。庭には縁側があり、手入れの行き届いた花壇やたくましく育った木々が誰よりも早く花森ひなたを迎えた。薄紅色の花弁が朝露にひかり、息を吸うと梅の香りに肺が満たされる。
ひなたは、恵に渡された手書きの地図と表札を見比べる。玄関先には一月と彫られている黒い表札がぶら下がっていた。インターフォンを押す前に掌を握りしめる。汗がじわりと滲んだ。
この日のために何度も頭の中で練習したのだ。自信をもって目の前のインターフォンを押せばいい。
人差し指でインターフォンを押すと、だんだん足音が近づいてくる。引き戸が開かれた先に、姿を現したのはよれた浴衣を着ている男性だった。年齢は、母親の恵と同じくらいだろう。しかし、その風体から少々幼いようにも見える。
ひなたに気付いた男性は、あちらこちらに跳ねている黒髪を撫でつけて微笑んだ。
「花森恵の代理で来ました、花森ひなたです」
「君が秘密兵器ちゃんだね。初めまして、わたしは一月織と言います。さぁさどうぞ、中に入って。朝ご飯ぐらい自分たちで作れって言ってあるから、君には洗濯物から……」
織と名乗る男性は、ひなたを快く家の中に招き入れた。家に入ると部屋の奥が騒がしく、荒々しい声が廊下に響き渡る。
「朝食も、お願いしようかな。あの子たちが材料を全部使う前に」
「わかりました。すぐに用意します」
「はいはい君たち、調理の手を止めてくれるかい。それ以上は材料が可哀想だ」
織に続いて部屋に入ると、顔を突き合わせて円卓の前に座っている六人の青年たちと焦げた匂いが出迎えた。十二の視線が注がれるなか、ひなたの目を惹いたのは本来であれば台所と呼ばれるだろうこの部屋の風景だった。
ボールや鍋は部屋の奥に設けられた流し場に乱雑に積まれ、大小様々な皿が部屋の左右にある戸棚からはみ出している。焦げた匂いの出所は、コンロの上のフライパンか。はたまた六人の目の前に置かれた皿に乗っている消し炭か。いずれにせよ、この光景はなによりも戦場という言葉が似合う。
「親父、また随分若い嫁を連れてきたな。どう頑張っても犯罪だろ」
六人の一人、真ん中に陣取って座っている黒髪の青年がふんと鼻を鳴らす。嫁とは、自分のことだろうか。ひなたが首を傾げていると、織は慌てて首を振った。
「ち、違うよ、新しい家政婦さんの代理で来てくれた花森ひなたさんだよ」
「家政婦って……織さん、若すぎませんか。純や深月くんと同じくらいに見えますよ」
「仕事ができないからキャンセル料を支払うって言われたのだけれど、それよりも家政婦さんが必要だろう?」
円卓に乗っている皿や、流し場に積まれたボールと鍋のオブジェ。織はその二つに視線を落とし、大きく肩を落とす。
「時間がありません。朝食を作らせていただきます」
ひなたの発言により、意気消沈していたこの空間の雰囲気が変化する。壁に掛けられている時計は、既に七時を過ぎている。急いで用意しなければ彼らは学校に遅れてしまう。ひなたは持ってきたエプロンを身につけて、冷蔵庫の前に立つ。前任の家政婦が買っていたのか、冷蔵庫の中には材料がぎっしり詰め込まれていた。野菜、肉と卵、必要な材料を手に取り、調理を始める。
* * *
母の花森恵から家政婦代理を頼まれたのは、昨日の昼間だった。朝になってもなかなか起きてこない恵の様子を見に行くと、林檎のように頬を赤くしてうなされていたのだ。病気であることは一目見て明らかだった。
ひなたの気配に気付いた恵は、熱に浮かされた瞳でひなたと名前を呼んだ。普段は病気にかかりにくい彼女の、弱々しい視線に枕元へと近づく。
「ごめんひなた、風邪、ひいちゃったみたい」
「見ればわかるよ。今日と明日、明後日も休まないといけないね」
「やっぱり一日じゃ直らないかなぁ……明日は仕事に行かなきゃいけないんだけど」
恵から渡された体温計を見てみると、そこには仕事が好きでたまらない彼女にはつらい現実を突きつけるデジタルな数字が表示されていた。
恵の仕事は家政婦を必要としている人々の下へ、彼女たちを派遣させることだ。前は家政婦として働いていたらしく、そのとき出会った家政婦業の師匠とは今も交流が続いている。春の陽光が似合うような人だった。皮膚の厚い掌で頭を撫でられたことも覚えている。
「せめてパソコンだけでも持ってきてよ」
「駄目。病院に行くなら用意するよ」
「しっかり者の娘っていうのも、こまりものだわね」
いい大人が病院に行きたくないと駄々をこねる。ひなたは恵の言葉を一刀両断し、柔らかなベッドの海に沈めた。林檎の頬を膨らませ、文句を言う声を遮る。
「卵粥と月見うどん、どちらが良い?」
「月見うどん!」
食欲があるのは良いことだ。恵から言われた月見うどんを作りに、部屋をあとにした。
依頼者のニーズに合わせて、満足のいく仕事をこなす家政婦を送り出す。それが恵の信条らしい。今回のように、風邪を引いて仕事に支障が出てしまうのは彼女の信条に反するのだろう。
月見うどんを食べ終わると、依頼先に連絡を入れるため携帯電話を手に取った。
「明日から家政婦としてお世話になります、花森です。大変申し訳ないのですが、身体を壊してしまったので明日、明後日分の依頼料を全額返金……はい、他のものも出払っておりまして、今回も前任の方からのご依頼だったんです」
電話相手との話を続けていると、恵の顔色が悪くなってきた。身体の具合が悪いというよりも、会話の内容に表情を暗くしている。
「他の家政婦を派遣することは可能ですが、明日すぐには……私の責任とは理解しています。しかし」
恵は言葉を詰まらせつつ、電話の向こうにいる依頼者に頭を下げた。通信を切っても恵は変わらず神妙な顔つきのまま黙っている。話を聞いていただけでは悪いことを言っているようには聞こえなかった。
「叱られたの?」
「叱られる方がまだ良かったわよ。なんだか電話の後ろががやがやしてて、どうにかお願いできませんかって言われちゃった」
「私が行こうか。お母さんの代わりに」
「あのね、ひなた。何度も言ってるけど、私は……」
「わかってる。冗談、だよ」
恵は握りしめている携帯電話の画面を眺め、深く息を吐いた。その先は口にせず、電話帳との睨み合いが始まった。
恵が仕事をする背中を見て育ったためか、自分も同じような職業が向いているように思えた。帰りの遅い恵の代わりに家事をこなすのは嫌いではないし、これといってしたいことがあるわけでもないからだろうか。進学を控えた友人たちが内申書に慌てふためいていた頃、卒業前最後のテスト勉強をしていたのは記憶に新しい。
「一日だけ、お願いするわ」
「行っても、いいの?」
「向こうの人が半人前以下でもよければね」
皮肉を呟き、リダイヤルを押す。依頼人は快諾し、そして現在に至る。
* * *
味噌を溶いていた手を止める。フライパンをコンロから下ろし、七人分の皿にそれぞれ切り分けた卵焼きと鶏肉を盛りつけた。
「おいしそうだね、深月」
「はじ兄が作ったのより、おいしそう」
並んで鍋を覗き込んでいるのは、ひなたとそう歳の変わらない男の子二人だった。一人は、黒髪に人懐っこそうな目をしていて、もう一人はうっとおしそうに長く垂れている前髪を左に流している。餌を待つ子犬と子猫のようだ。
「純くん、深月、先に席に座っていてくれ。今からいつきと持っていく」
「朝からバランスのいい食事がとれそうですね。これも運ぶますよ家政婦さん、時間がない」
「すいません、お願いします」
名前を呼ばれた二人と立ちかわり、兄らしい二人がおかずの載っている皿を両手に運び始めた。ひなたは二人に頭を下げ、お椀に味噌汁やご飯を盛りつけた。時間は止まってくれやしない。
「おっ、肉だ肉だ」
先程鼻を鳴らしていた青年は運ばれてきた皿を見るなり目を輝かせた。対して箸を並べている青年の眉間には皺が寄っている。
「肉が残ってるなんて聞いてないぞ!」
「悪いな、シロ。俺は好きなものは最後派なんだ」
「さあ、みんな座って座って。学校に遅刻するよ」
いただきます、と各々の掛け声を聞きながら、ほっと胸をなでおろす。まずは、一つ。仕事を終えた。
「本当に助かったよ」
慌ただしい朝食を終え、淹れたての緑茶を織の前に置く。彼は湯飲みを手に納め、確かめるように側面を撫でた。
ひなたは、流し場に残っている食器や調理器具を洗うために再び立ち上がる。まだ仕事は残っている。恵の代わりとして仕事をこなす以上、母の顔に泥を塗るようなことはできない。
「電話でお話しされていると思いますが、今日一日よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそよろしく」
洗濯を終えたことを知らせる軽快なメロディが居間まで聞こえた。洗濯物を干して、午後は夕食の買い出し。洋服が乾いたら畳んで家族ごとに分ける。頭の中で仕事のスケジュールを組み立てて、洗濯機が置いてある脱衣所まで急いだ。
男七人の洗濯物は多い。浴室から庭まで何往復もしてようやく籠の中が空になった。洗濯物が色とりどり庭の物干しにずらっと並ぶ。
「深月、はじ兄、純くん、いつき、シロ」
六人分の呼び名を指折り数える。一人、足りない。料理を運んでくれた、真っ直ぐに整った黒髪の青年。織の面影があった、彼の名前だけ知らない。
「洗濯物も終わったのかな」
「はい、これで全部です」
「それは良かった。一緒にお茶に付き合ってくれないかな?」
身なりを整えた織が急須と二人分の茶碗の載ったお盆を持ってやって来た。
「仕事が残っていますので」
「まあまあ。そう言わずに一杯だけでいいから、おじさんに付き合ってよ」
縁側に二人分の茶碗を並べ、隣へ座るように手招きする。手首に巻いた腕時計は、まだ十時を回ったばかりだった。折角のお誘いを袖にする理由はなさそうだ。
織の隣に座り、並べてある茶碗の一つを手にする。
「男ばっかりで驚かせてしまったんじゃないかな」
「いえ。皆さん、とても元気があって良いと思います」
「元気はありあまってるみたいだからね。いつでもこき使って……いや、お手伝いさせてくれていいからね」
「そんなことはさせられません。私は家政婦ですから」
底に残った緑茶を一気に飲み干し、頭を下げる。息を吸い、細く吐きだしてから顔を上げると織は何度も瞬きをしていた。
「仕事に戻ります。お茶、とても美味しかったです」
ああ、と気の抜けた織の声を聞く前に廊下の角を曲がった。
花の盛り