アサガオの咲くとき 第1話
第1話「18」
アサガオの花言葉には、「はかない恋」という意味があるらしい。
ここ、非常階段の踊り場は普段なら立ち入り禁止の場所だ。でも僕と村瀬は決まって昼休みの午後一時過ぎ、南京錠のかかった柵を越えてここでお昼を食べている。別にわざわざここまで来て食べる理由なんて何にもないのだけれど、僕らはこの誰も入れない特別な空間で共有される時間に、いつしか子ども心をくすぐられていたんだと思う。
七月の茹だるような暑さも、耳が痛くなるほどに五月蠅い蝉の鳴き声も、日陰になったこの場所ではそこまで感じられない。地べたに座ると、コンクリートからじわりと冷たい熱が掌に伝わってくる。村瀬は自販機で買った紙パックのコーヒー牛乳のストローをくわえて、踊り場の手すりにもたれながら蜃気楼の向こうにある街並みをぼんやりと眺めていた。
僕が購買で買ってきたサンドイッチの包装を破ろうとした時、村瀬がふと呟いた。
「もう夏だな」
「え?」
蝉の鳴き声なんて関係なく、村瀬のその一言が僕には鮮明に聞こえてきた。
「そう、だな」
唐突すぎた村瀬の一言に僕は一瞬だけ反応に困って、喉を詰まらせたような返事しかできなかった。
「なんかさ……」
村瀬のコーヒー牛乳のストローが紙パックの底に近づいて、大きくズズズと音を立てる。
「こうやってお前とここで昼食ったり、クラスの奴とバカみたいな会話したり、そんな毎日があと半年くらいで終わっちまうんだなと思うとさ、あーあってなるんだよ。部活ももう終わって、皆もそろそろ自分の進路に真剣に向き合おうとしてきててさ。だから、なんかこう……俺だけ取り残されてるような気がしてさ……」
そこで村瀬は大きなため息をついた。
「珍しいな。村瀬がそんなこと言うなんて。僕なんて、そんなこと今言われて初めて気が付いたよ」
僕はサンドイッチの包装を破って、ハムサンドを一つ取り出す。
「村瀬は大学行っても音楽やるみたいなこと言ってなかったっけ?」
ハムサンドを一口食べる。
「まあな。でも別に、専門的にそっちの道に進むとかそういうわけじゃなくて、軽音サークルとかあったら入るかぐらいの気持ちだしな。レコーディングとかして本格的なバンド活動してくのかどうかって聞かれると……」
「でも、この前聴かせてくれたオリジナルの曲、凄い良いと思うけどな、僕は」
「あー、あれな」
村瀬がこちらを振り向く。
「そんなに良かったか?」村瀬は少し訝しんでいた。
「本当だよ」
「はは、そりゃどうも」
あまり信じてもらえてなさそうだったけれど、村瀬はどこか納得したような笑みを浮かべていた。それから村瀬はコーヒー牛乳を飲み干して、パックをつぶす。僕もハムサンドをもう一口含む。
「まあ、また曲できたら聴かせてやるよ」
「楽しみにしてる」
僕はそう答えてペットボトルのお茶を開ける。
「なあ、何か曲かけようぜ」
村瀬はそう言ってスマホをズボンから取り出して曲を探し始めた。
「え、それはさすがにマズイんじゃ……」
「何で?」
「いや、ここって一応生徒は入っちゃいけない場所だしさ……」
「なに言ってんだよ。ここに居る時点でそんなもん関係ねーだろ?」
気持ちの良いくらいの笑顔で村瀬はそう言い放って、スマホを手すりの上に置く。途端に大音量の曲が流れ出した。思わず僕は両耳を塞ごうとしてしまう。
その曲は、とても元気の良い曲という印象を受けた。でも、最初は何にも心配事なんてなさそうなのに、聴いているうちに、実は脆くて簡単に崩れてしまいそうな、そんな繊細さもその曲にはあるように思えた。普段はあまり曲なんて聴かない僕が、自然とその曲が届けようとしているメッセージを受け取ろうと必死になっている。その必死さに、気付けば僕は、夏の暑さも、五月蠅い蝉の鳴き声も、さっきまで感じていた不安でさえ、もう思い出せないくらいにすっかり忘れてしまっていた。
曲が終わって、僕はおもむろに空を見上げる。
そこには、一筋の飛行機雲が世界の縫い目を辿る様に、駆けていた。
アサガオの咲くとき 第1話