淡いパレット
第1話『白』
中学三年間、あたしはずっと彼の『想い』を見詰め続けてきた。
美術部にとってはまたとない芸術の祭典がある。全国中学校美術部作品展だ。日本全国の中学校の美術部員たちが参加し、日本一を決める。野球で言うところの甲子園のようなものだろうか。兎に角、元来絵画に目が無かったあたしは、入場無料という餌にまんまと釣られて、アートの甲子園に足を踏み入れた。
そこであたしは彼の作品と出会ってしまった。
一目惚れみたいなものだったと思う。彼の作品を見た瞬間に、中学一年生のあたしは画用紙の中に染み渡る水彩絵の具の瑞々(みずみず)しさに心を奪われ、その場に立ち尽くしてしまった。
綺麗な水彩画だった。テーマは恐らく『恋人同士』だろう。寝惚け眼(まなこ)をした裸の男女が二人、互いの肩に寄り添って座っている。その触れ合った肩はまるで融け合っているかのように繋がっており、そこを中心に桃色の波紋が美しいコントラストと共に広がっていた。でも、互いに完全には融け合わなくて。一つになりたいのになれなくて。それを憂(うれ)いでいるような哀しげな瞳が印象に残ってしまい、数日間忘れる事ができなかった。
後になって知った話だが、彼の作品が大賞に入選したと聞いた時は、「ああ、やっぱりな」と思ったのを覚えている。
たった一枚の水彩画との出会い。それがあたしの人生を変えたと言っても過言ではない。絵画は見る専門だったのだが、実際に筆を取ってキャンパスに走らせ始めた。勿論、彼と同じ水彩画だ。何度も何度も失敗しては描き直した。でも、彼のそれに近付ける気は、どうも少しもしなかった。
二年目。
やはり彼は大賞に入選した。二年連続は流石に話題になった。聞くところによると、彼は『文化の強豪』という異名を持つ、城尾(じょうお)中学校の生徒だったらしい。他の賞も彼と同じ城尾中学校の生徒たちが独占していた。
そして三年目。やはり彼は大賞に入選した。前例がなかった分、それは衝撃の事態だった。誰もが彼に称賛を浴びせた。誰もが彼の将来を有望視した。まさしく若き天才が誕生したと、誰もが思った。
翌年、あたしは高校生になった。
舞台はレベルが上がり、全国高等学校美術部作品展へ。その日もあたしは嬉々として会場に向かった。更に腕を上げたであろう彼の絵を見たかった。
でも……。
そこに、彼の絵はなかった。
第2話『桃』
正直、あたしは薄情な人間だと思う。
何故唐突に自分を卑下にするような事を自虐的に述べるかと言うと、それは簡単に過去の友人たちとの繋がりを断ち切れたからである。慣れ親しんだ土地から離れるのに一切の躊躇いは無く、引っ越し当日に至ってもついに旧知の友との別れを心底悲しむ事もなかった。
ただ、彼に会えるかもしれない、という漠然とした期待に溺れ、あたしの心はそれだけに囚(とら)われっきり。甘美な欲求に敗け、簡単に十六年の想い出を棄てたあたしを、薄情と言わずに何と言おうか。あたしのために泣いてくれた彼女たちには、ただただ申し訳無い気持ちで一杯だ。
あたしが生まれ、十六年の人生を歩んだ土地は、それほど不便のない、所謂(いわゆる)都市と呼ばれるところだった。欲しい物は徒歩数分先の店で簡単に買えるし、休日は友達と映画館に行けるし、学校だって綺麗で生徒数も田舎に比べれば膨大。部活のバリエーションも多く、先ず娯楽に困る事はなかった。
それがあたしには物足りなかったのかもしれない。
あたしは孤独だった。いや、前述した通り友達は確かにいたが、それでも彼女たちからしたら、あたしは『沢山いる友達の中の一人』でしかなかった。『誰かにとっての特別』ではなかった。それが足りなかったものだろうか、と今でも真面目に考える。馬鹿らしい話だ。本気で誰かと向き合おうとしない人間が、誰かの特別になれる筈がない。彼女たちの涙も一時的な不可抗力の現象みたいなもので、直ぐにあたしがいない生活に順応する事だろう。
故に清々しい気分だった。まったく新しい土地に引っ越し、ゼロからのスタート。身体の垢を全て洗い流したような心地よさが身体を満たしているかのよう。
そうか、と思った。あたしにとってあの生活は、ただの『垢』だったのか。ならば、あたしの十六年は何なのだろう。一体何をこの手で積み重ねて来たのだろう? 考えれば考えるほど、あたしには何もない。
あるのは彼に対する敬意だけ。あたしと同い年の男の子。全国中学校美術部作品展にて、三年連続大賞入選を果たした、文化の強豪・城尾中学校出身の彼。高校進学と共にぷっつりと姿を消してしまった彼が、もしかしたら転入先の高校にいるかもしれないのだ。
県立藤代(ふじしろ)高校のホームページを閲覧していた時、美術部の部員紹介の欄にて、彼の名前があったのをしっかり覚えている。
会いたい。
ただそれだけだった。暖かくも少し悲しい、あの水彩画たちを描いた彼に会いたい。その気持ちだけは本物だ。何もない、空っぽの心に芽吹いたこの気持ちだけは、確かなものだ。
荷物は既に業者に運んでもらっており、あたしと両親は父親の乗用車に乗り込んでゆったりと新たな町へと向かう。
藤代町は自然に囲まれた、所謂田舎と言ったところだった。どこを見渡しても在るのは鬱蒼(うっそう)と茂る緑たち。高層ビルなんて物は勿論なく、町で一番高い建物と言えば、五階建ての病院くらいのものだ。それ以外は特に秀でた代物もなく、寂れた商店街が微かな賑わいを見せる程度である。あたしたち家族が住む事になった平屋の一軒家も、台風が過ぎたら跡形も残っていないのではないかと懸念してしまう程、おんぼろにも程があった。が、これで家賃が月一万円なら贅沢も言えないだろう。実際、築三十年が経過しているが、こいつはしぶとく生き残っているのだから、死にはしない、と思いたい。
父親が運転していた車から降り、新たな我が家を中心に藤代町を見渡す。少しばかり高い丘のところに家が建っているため、藤代町の町並みは鮮明に視線で巡る事ができた。四方八方を山で囲まれ、西から流れる恩恵(めぐみ)川が藤代町を南岸と北岸に二分している。二つを結ぶ橋は、高良(たから)橋と呼ばれているらしい。あたしが住むのは南岸にあたり、こちらには新学期から通う事になる藤代高校がある。対する北岸には商店街があり、病院があるのもあちらだった。買い物とかには不便だなと思うが、相棒のマウンテンバイクがあれば苦ではないだろう。
田舎だと思っていたが、こうして町を一望してみると、意外にも多くの車、人の姿が見受けられた。こんな物も何もない場所で彼らは幸せなのだろうか。不意にそんな疑問が浮かび上がる。以前あたしが住んでいた街とは比べ物にはならないくらいに辺鄙(へんぴ)な町。ここに住む人は、何を幸せにして生きているのだろう?
……あたしが言える立場か。物や友人に囲まれても幸せと思えなかったのに、先入観でここが幸せではないと決め付けるのは、なんて馬鹿げた事だろう。反省。
「夏美(なつみ)」
背後から女性の声が掛かる。母さんだ。
「学校まで時間もないんだから、引っ越しの準備くらい手伝いなさい。特に画材くらいは自分で持っていきなさいよ」
そう言って指差しているのは玄関に山積みにされた段ボールだった。その一つ一つに『母さんの』『父さんの』『夏美の』と書かれた付箋(ふせん)が貼られている。きっちりした家族ですこと。
「分かってるわ」と言って、あたしは自分の名前が書かれた付箋の段ボールを手に取り腰を上げる。「ぐっ、重っ」
二秒で降ろす。
何だこの重さは? あたし、こんなに重いもの入れたっけ?
「どうせ画用紙を詰め込んだんじゃないのかい? 段ボールいっぱいに」と父さんが苦笑を洩らす。「そりゃ重くもなるよ」
「恨むわ、一週間前のあたし」
歯軋りしながら再度持ち上げる。今度は何とか踏ん張り、やっとの事で自分の部屋に運ぶに至った。
他の段ボールは軽く、部屋に運び入れるのにさほど時間は要しなかった。疲れた身体を休ませるため、運び終えるなり八畳程度の部屋の畳の上に寝転がる。
暖かな風が舞い込む。
もう春だ。
ふと覗いた藤代高校は桜で満開だった。
ああ、早く会いたいな。春の字を持つ、彼に。
怠惰な時間は颯爽と過ぎていく。それこそ逆転劇の無い兎と亀の物語のように、残酷に、しかし自然の摂理に従って。それは止まる事のない運動。口を開けば規律やら法やらルールやらと口五月蝿い真面目な兎さんを、渋々追い掛けていく不真面目な亀さん。それがあたしだ。
引っ越しの準備が終わると、早速あたしは怠けた。勉強の復習もせず町を散策し、家に居たらテレビを観るか漫画を読むか絵を描くかの三択(無論生理現象はカウントしてない)。常に走り続ける兎さんを、亀さんはただ呆けて眺めている。そんな下らない春休みだった。
「夏美の耳に孔はあるのかしらね?」
語彙能力皆無のあたしからしたら、我ながら素晴らしい比喩をしたじゃないか。そう得意になってほくそ笑んでいたところに、母さんの毒舌が降り注ぐ。
「実の娘の身体障害すら把握できていないようじゃ、育児放棄も甚だしいよ」
布団にくるまりながら毒舌をお返し。
途端に脇腹に痛みが走った。
「うぐっ」と間抜けな悲鳴が口から出る。「待った待った! 脇腹に蹴りは反則っ」
「聞こえてるならさっさと起きなさい。さっきから目覚まし時計のアラームが鳴りっぱなしで五月蝿いのよ。よくこの音で起きないものね」
「起きてたけど無視してただけ」
「それもどうかしてるわ」
布団から顔を出すと、母さんは長い前髪を鬱陶しげに掻き分けながら、あたしの部屋のカーテンを開け放つ。その拍子に春の木洩れ日が部屋に入り込み、光と影のアートを畳の上に描いた。
描きたい。
どっと湧き出る欲求。直ぐ様枕元に置いてあったスケッチブックを手に取り、目の前の芸術を真っ白な紙に刻んでいく。
くすっ、と母さんが笑った。
「中一の頃からよね、夏美が絵を描き始めたのって」
「よく憶えてたわね」
「憶えてるわよ」母さんは窓の外の深緑と、どこまでも続く空を眺める。「展覧会だったかしら? それを観に行ったと思ったら、突然『あたしも描くんだ!』って騒ぎ始めて……」
あたしが絵を描き始めたきっかけ。その想い出は幾度思い返しても色褪せる事はなかった。
全国中学校美術部作品展で、あたしは牧野春也(まきのはるや)の水彩画と出会い、その絵に恋をした。触発されたと言ってもいい。兎に角あたしは彼の作品に触れ、彼のような絵を創作したいと思った。そして全てを真似た。画材を、作風を、色合いを。でも、何年経っても彼のそれには近付けなかった。追い求めてもあたしの力不足で、彼の成長速度の速さで差を広げられてしまう。それでもあたしは中学卒業まで彼を追い求めた。高校生になっても背中を追おうと決めていた。
だが、高校生になると共に彼は美術界から消えた。今では違う城尾中学校出身者が名を馳せている。一年が経過し、もう名前すら囁かれていないが、あたしは亡霊を探し求めるように絵を描き続けている。今この瞬間も。全ては彼に近付くために。
「ねえ、夏美」
随分集中しているためか、母さんの声が遠くに感じる。
「私がなんで夏美を起こしに来たのか分かる?」
「お節介?」
「まあお節介ね」
返事こそできているが、あたしの意識はすっかり深い森へと持っていかれている。『集中』の状態だ。雑念が多いほど線は狂う。それこそ直線が曲線になるくらいに。人によって『集中』の仕方は異なるが、あたしの場合は兎に角心を無にすること。無と言っても真っ暗闇じゃない。深く、青々とした美しい森を進んでいる感じ。だから言葉だって届く。
「今、八時五分よ」
「いぃっ?」
言葉が届くという事は、いつでも森から引き返せるという事でもある。それくらい浅い冒険が、あたしの『集中』だ。
森から帰ってきたあたしは布団を剥ぎ取り、急いで新しい制服に手を伸ばす。藤代高校の制服は男女共にブレザーだ。紺色の上着に、黒いスカート。男子はネクタイ、女子はリボン。まったくもって普通の学生服だ。ただ少し違うと言えば、肩に装飾が施されているくらいのもの。
なのにあたしが手にしているのは黒のスカートと、男用の大きなブレザー。
「ごめんね夏美。うっかりあの馬鹿兄貴が注文ミスをしたせいでブレザーだけ男物になっちゃって。新しく買いたいのも山々だけど、今回の引っ越しで大分諭吉さんが飛んでいかれたから」
「別にいいよ。馬鹿兄貴に買ってもらうから。意地でも」
「でも例によって馬鹿兄貴は行方不明だしねえ」
「まさかアパートまで変えて逃げるとは思わなかったよ」
「夏美がキレたら怖いのを一番知ってるのは、幾度となく殴られてきた本人だものね」
そう、こうなった全ての原因は馬鹿兄貴にある。
あたしの兄・通称馬鹿兄貴は四つ年上で、今は製造会社に就職して生計を立てている。あたしが転入するに際して、多忙な両親に代わって制服の注文を行った本人が馬鹿兄貴だ。しかしどういう訳か届いたのはLサイズの男物のブレザーと、同じくLサイズのスカート。注文を受けた衣料品店の方(老夫婦が営んでいる)曰く「最近は色んな趣味の殿方がいらっしゃるから、不思議に思いませんでしたよ」。そんな広い器は要らない。
残念ながら返品もできず、こうなったら馬鹿兄貴に新しく買ってもらうしかないと家族会議で決定した矢先に、奴はあたしらに何の報告もしないままアパートを出て引っ越してしまったらしいのだ。何故かって? 深くは語らない。ただ、中学生の時に兄貴と喧嘩して病院送り(全治一か月)にした武勇伝があるとだけ述べておこう。
取り敢えず先日の家族会議で決定した意向がこちら。『兄貴、見付け次第拘束並びに財布強奪の刑』。犯罪ではない。
「まあ馬鹿兄貴への制裁はまた今度でいいや。抵抗感があるけど、こうなったら腹を括(くく)るしかないよね」
深い溜め息を洩らしながら例の制服に手を伸ばす。カッターシャツは前の学校のもので代用するとして、次にスカート。正直ぶかいが、別に履けないでもない。丈は膝くらいまで折っておけば上等だ。問題はブレザー。でかい。肩幅も背丈も何も合っていない。然りとて文句は言えないため諦めて袖に腕を通す。
うわあ。
母の第一声がそれだった。
会社員ばりに綺麗に結んだ緑のネクタイ。深紫のブレザーはサイズが大きすぎるが故にあたしの両手とスカートの大部分を隠している。あと少しスカートの丈を短くしたら、履いてない女の称号を得るに間違いないだろう。何よりの問題は男物のブレザーは胸元が開きすぎていること。妙に胸が強調される感じになって恥ずかしい。仕方がないので第一ボタンの上を更に安全ピンで留めるようにした。
うら若き乙女にかような辱しめを受けさせよってからに。今度帰ってきたら覚えておけよ馬鹿兄貴め。
初めての通学。春の暖かな陽気と少し冷たい風にさらされながら、ゆっくりとペダルを踏み込む。通学ともなると流石にマウンテンバイクに乗って行く訳にもいかず、あたしは無難に自転車を走らせていた。移り行く風景は田んぼや神社、住宅街、森など様々だ。田舎だと馬鹿にしていたが、こうして見ると興味深い物が沢山あるのも事実。スケッチのいいモチーフになるかもしれない。
ふと、あたしはある場所で自転車を漕ぐのを止めた。
桃色の花びらが散っている場所。そこは神社だった。ひび割れて雑草がところどころに生えている長い石段。その両脇に等間隔に植えられた桜の木。ここからでは神社の様子は伺えないが、神秘的なところなんだろうな、とは嫌でも分かった。
ぼうっと眺めていると、不意にごりっ、とタイヤが何かを踏んだ感触が伝わってきた。おもむろに視線を地面に向ける。あたしが踏んでいたのはかなり古ぼけた鉛筆だった。それも相当高級そうな。
「これ、デッサン用だ」
しかも全然使用された形跡がない。削られてはいるが精々一回か二回程度のもの。小さな傷が刻まれている真っ黒な外装を眺めていると、ある面にローマ字で名前が彫られているのに気が付いた。
『Dear,Haruya Makino.』
親愛なる牧野春也へ。
あまり勉強が得意でないあたしでも、その程度の英文は難無く訳せる。が、問題はそこではなかった。
どくん、と心臓が脈打つ。今にも爆発しそうな程、心が衝撃と歓喜を叫んでいる。
これは憧れの人の私物だ!
何故ここにあるのかは分からない。が、それ以上にあたしは舞い上がっていた。憧れの人に会えるかもしれないと頭で思っていても、考えれば考える程現実味のない妄想のような気がして、半ば『会える』という事実を受け入れられないでいたのだ。まるで一般人がアイドルに会いに上京するようなもの。結局はただの他人でしかないあたしは、会うどころか、学校で一目見る事すら叶わないのではないかと、そんな思いが無意識の内に沸いてきていた。
でも、今ここに、あたしの手のひらに彼の鱗片がある。ずっと憧れだった人に会いたいという願いが叶う直前にまできていると、やっと私は自覚し、急に動悸が激しくなった。
まるで恋する乙女じゃないか、と苦笑を洩らす。
でも、あたしは恋をしている。
彼の絵に恋している。
鉛筆を目の高さにまで掲げ、まじまじとそれを眺めるあたし。朝日の光を受けてきらきらと輝いているのを見ると本当に宝石のような気がして、つい遅刻ぎりぎりだという現実を忘れそうになる。
見惚れるのもいいけど早く行かなきゃ。
鉛筆をブレザーの右ポケットに入れ、再度自転車に跨(またが)りペダルに足を掛ける……。
「ねえ、そこの貴女」
不意に頭上から若い女の声が降り注ぐ。
微かに肩を揺らす程度に驚きながらも、至極落ち着いた心地で頭上……つまり神社へ続く階段へと目をやる。
女の子が立っていた。
淡いパレット