あの子たちの記録

猫の「定春」

猫の「定春」

 
 猫が死んだ。それは僕と五年間一緒に生きた猫だった。

 元々は公園に捨てられていたのを三つ違いの兄が気まぐれで僕の誕生日に拾ってきた生後一ヶ月の子猫。人懐こくて皆が皆、彼のことを好いた。

 彼は当時流行っていたアニメのキャラクターからとって『定春』と名付けられた。ヤンチャが大好き、棚の上の植木鉢を落としたり階段の間から人の足を引っ掻いたり、古参の大人しい飼い犬を追い掛け回したりしていた。好奇心旺盛で首輪を五キログラムの重石に繋いでも彼は引っ張って外へと遊びに行こうとした。

 とても手がかかるとても可愛い猫、定春。

 彼は生まれた時からその体に病気を抱えていた。病気というよりは病気になりやすい体、だった。だから捨てられていたのかもしれないね、獣医はそう言う。当時の僕も意味が分からなかった。病気でお金がかかるからと、こんな可愛い命を捨てる意味がわからない。

 けれど、今思えばそうなってしまう気持ちも分からないではない。彼は、兄の貯金を約四十万ほど一瞬で持って行ってしまったから。

 彼が生まれて五年目、僕にとって大切な夏休みの始まり。暑い日、彼は初めて高台からの着地に失敗した。家族皆で笑った覚えがある。それから彼は調子が目に見えて悪くなった。あまり走らなくなり、ジャンプが下手になり、トイレを失敗するようになる。これはおかしいと、病院に連れて行ったのが始まり。

 念のためと血液検査をした彼の血は、恐ろしく薄かった。

 遠心分離にかけた猫の地は本来であれば見せてもらった液体の半分を赤くするらしい。彼の、定春の血はその殆どが薄い黄色で赤い部分は五分の一ほどしかなかった。

 よく立っていられますね。

 獣医の言葉が未だに胸に残っている。

 彼は、元気だった。それだけ血を失っても彼は歩きまわり、犬にちょっかいを出す。犬はいつも呆れたようにその相手をしていた。毎日の動物病院を嫌がり、けれど少しずつ弱っていく彼はそれでも元気だった。元気な姿を私たちに見せてくれていた。

 二〇一四年、九月二日。忘れない。

 急に彼は立てなくなった。大好きなピアノの上に寝そべり、じっとこちらを見ていた。何を言いたかったのかは分からない。今日は動物病院に行かないのかと聞いていたのかもしれないし一緒に居て欲しいと訴えていたのかもしれない。もう動物病院は必要なかった。

 病気以外で食事が喉を通らなくなったのは初めてだった。

 夜、彼は横になったまま口を開いて荒く息をしていた。正直を言えば看取りたく無かった。けれど、彼は最期まで僕たちを見ていてくれたから、僕たちもずっと彼と一緒に居た。

 夜の十時。僕の母の腕の中、母の泣き声を聞きながら彼は全身をピンと伸ばし、視線を遠くへ飛ばして息を止めた。やめて息をして、と母が叫んだのを覚えている。彼はもう居ない。

 彼は死んだ。植木鉢を倒すこともしない、階段の下から人を引っかくことも飼い犬を追い回すこともない。平和な日常だった。つまらない、日常だった。

 彼は飼い犬に心配されて、冷たい体を飼い犬の暖かな体で暖められ、大学動物病院への紹介状の用意と似た症状についての学会への参加を決めていたかかりつけ獣医さんにたくさんの花をもらい、母が会社を休んで付き添い、火葬場で煙となった。

 定春享年五歳。幼く可愛い僕らのヤンチャな弟。

 さようなら、どうかアチラではもう少し落ち着きを持って生活できますように。
 

あの子たちの記録

あの子たちの記録

これは現実、私の前に居た犬猫たち、可愛いペットたちの記録。 生あるものには死がある。 とても悲しいことを中心に描くため、苦手な方は気をつけてください。 見なくても、悪いことはありません。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted