水滸伝・青竜編

水滸伝・青竜編

碧空

 史進(ししん)は空を見ていた。白い雲がゆっくりと流れていく。
 足もとで土を踏む音が聞こえた。
 史進は思い出した。自分は今、戦っていたのだ。慌てて飛び起き、棒を構える。
 史進は強かった。まだ十七という歳で様々な武芸者を師にとり、近隣では敵無しの腕前となっていた。その引き締まった体には九匹の竜が彫られており、いつからか九紋竜(くもんりゅう)渾名(あだな)されるようになっていた。
 史進は確かに強かった。だが目の前の男はさらに強かった。目の前の男はじっと史進を見据えていた。この男に、難なく転がされたのだ。
 男は数日前、この史家村(しかそん)に宿を求めてきた。歳は四十すぎあたりだろうか。老いた母親も一緒だった。その母親は今、病で臥せっていると聞いている。
 ついさっきの事だ。史進がいつものように庭で棒を振っていると、史大老(したいろう)と呼ばれる父とともに男が歩いていた。男の声が聞こえた。自分の武芸は本物ではないという。
 史進は思い知らせてやろうと勝負を挑んだ。男は少し逡巡したが、父の許可を得てやっと棒を手に取った。史進は打ちかかったが、転がされた。何が起きたのかわからないほど鮮やかに。
 男の強さが理解できた時には遅かった。史進は何度も打たれ、何度も転がされた。血と土にまみれながらも史進は立ち上がった。棒を杖がわりにして、足の震えをこらえ何とか立ち上がった。
 対峙する男は、じっと史進の目を見据えている。まるで値踏みをされているようだ。
「どうした、終わりか」
「あんた、何者だよ」
 言うやいなや史進は渾身の力を込め打ちかかった。唸りを上げた棒は斜め上方から男を襲う。男はそれをいなそうとしたが、突然棒の動きが突きに変化した。棒の先端は矢のように男の額に襲いかかる。
 男は上体を反らし、寸前でそれをかわした。
「今のは良い手だった」
 男の棒が史進を襲う。眼前に迫る棒、口の中に広がる血の味、砂利が肌に食い込む感触。史進は敗れた。
 何年も修練をして、強さを求めた。史進は本当に強くなっていた。だがこの男に、手もなくあしらわれた。一体、男は実力のどれほどを出していたのだろうか。悔しかった。だが何故か嬉しくもあった。
 そして史進は意識を失った。
 男は家人に史進の手当てを頼んだ。
 史大老に非礼を詫び、場を辞そうとした時、ふと何かが滴った。地面に赤黒い染みを作ったそれは血だった。男の額から滴る血。
「あの一撃か」
 男はそう呟くと運ばれてゆく史進を見つめ、微笑みを浮かべていた。

 史進が目を覚ますとそこは寝室だった。男に敗れてからの記憶がない。おそらく気絶したのだろう。身体中に包帯が幾重にも巻かれていた。
 痛む体を何とか動かし、史進は廊下へと出た。夜の帳はすでに降りており、いくつもの提灯が中庭を照らしていた。
 ひと足ごとに身体に痛みが走る。男に会わなければならない。その気持ちが史進を突き動かした。
 ゆっくりと客間へ向かうと、父と男の声が聞こえてきた。
「昼間の無礼、重ねてお詫び申します、史大老どの」
「良いのですよ。進は儂が老いてから授かった子。妻も早くに亡くしてしまったゆえ、甘やかして育ててしまった。今ではこの父の言う事も聞きませぬ。武芸の腕を鼻にかけ、少々天狗になっておったところ、良い薬になった事でしょうて」
「申し訳ありませぬ。ですが史進どのの筋はかなりのもの、本格的に鍛えれば本当に敵無しになりましょう」
「いやいや、買いかぶりです。まあ母上のお身体が良くなるまで、もう少しゆっくりしていってくだされ」
 史大老はそう言って茶をすすった。男は自分の茶に目を落とすと、ゆっくり話し始めた。
「一夜の宿を借りるだけのつもりが、すっかりお世話になってしまい申し訳ございません。史大老どの、お話ししなければならない事があります。どうかお聞きください」
 史大老は黙って男を見ている。と、突然客間の襖が開かれ満身創痍の史進が転がりこんできた。
「そうだ、一体お前は何者なんだ。その強さ、ただの旅の者ではあるまい」
「こら進、お客様に向かって無礼だぞ」
「よいのです史大老どの。話とはその事なのです」
 男は姿勢を正し、二人を見据えた。
「私の本当の名は王進(おうしん)東京(とうけい)開封府(かいほうふ)にて禁軍の武芸師範を務めておりました」
「禁軍って皇帝直轄の精鋭軍じゃねぇか」
 史進は男の強さを理解した。
 一筋の汗が頬を伝うのがわかった。

 王進は話を続けた。
 数ヶ月前、殿帥府に新しい太尉が着任した。ところが折り悪く、王進は病で臥せており、挨拶に行く事ができなかったという。
 後日、太尉のもとを訪れた王進は理不尽な叱責を受けた。王進は気付いた。この太尉が何者であるかを。
 その男の名は高俅(こうきゅう)。若い頃ごろつきで、幇間などをしてあちこちの金持ちや有力者のもとを渡り歩いては悪事を働いていた。
 だが彼は多芸でもあり、特に蹴鞠の腕前は目を見張るものがあり、そのため高毬(こうきゅう)などと呼ばれていた。
 ある日、皇太子である端王の前で技を披露したことから気に入られ、見る間に出世街道を進んだ。その皇太子端王こそ、風流天子とも呼ばれる、この(そう)という国の第八代皇帝徽宗(きそう)であったのだ。
 高俅がまだ若い頃、捕縛された事があった。その際に棒叩きの計罰を与えたのが王昇であった。王進と同じく禁軍武芸師範を務めた彼の父である。
 高俅はそれを深く根に持っていた。この度の件にかこつけて王進に復讐しようとしているのだ。
 わが身ひとつならば問題はないが、昔から、官を怖れずその管を怖れるという。官職は怖れるものではないが、その手管が怖ろしい。王進の心配は母にまでその累が及ぶことだった。今の地位に未練はない。
 かくして王進は母を連れ東京を出奔し、延安府(えんあんふ)を目指した。そして途中、宿場を過ぎてしまい史大老が治めるこの史家村で宿を借りたのだという。
 なるほど名前を明かさなかったのも、この史家村に累が及ぶのを避けるためだったのだろう。
 史進は全身の痛みも忘れ、ひれ伏していた。
「先刻の無礼はなにとぞお許しください。どうかこの史進に武芸を教えてください、王進さま」
史大老は驚いた。史進が誰かに頭を下げる事など、あっただろうか。この王進はそれほどの男なのだろう。
「頭を上げなさい。昼間は思わず出過ぎた真似をしてしまった、すまない。私は逃げている身、弟子をとるつもりはないのだ」
 それでも史進は動かずにいた。しばらくの沈黙ののち、王進は言った。
「史進よ、なぜ強くなりたい」
「俺は頭は良くないが、武芸が好きなのです。俺にはこれしかないのです」
「武芸の腕だけではどうにもならない事が世の中にはたくさんある。この私がそうだったように」
「はい」
「腕を上げたためにかえって危難に巻き込まれ、困難に陥ることもある。その覚悟はあるか」
「はい、覚悟いたします」
王進はしばし黙考し言った。
「史大老どの、これも何かの縁でしょう。宿のお礼と言ってはなんですが、ご子息に指導をつける事をお許しいただきたい」
「この老いぼれからもお願い申しあげます。王進どの、ぜひ不肖の倅を鍛え直してやってください。王進どのの事は決して他言しませぬ。ほとぼりが冷めるまでこの史家村にご滞在ください」
「かたじけない史大老どの。史進よ、今から私とお前は師と弟子だ。これまでの師たちとは違うぞ。今日はゆっくり休むがよい、明日から始めよう」
「はい、ありがとうございます王進さま、父上」
 史進は叩頭し弟子の礼をとった後、部屋へと戻った。
「史大老どの、あなたはお強いですね」
そう言われた史大老は目を細め、黙って茶をすする。
「この時世、役人の権力は強まるばかり。庶民への横暴、不当な税の取り立ての横行がまかり通るなか、この史家村を地主としてよく守っていらっしゃる」
「はは、歳をとるにつれそんな事ばかり上手くなりました」
「それが強さというものです。武芸の腕があっても、そこから私は逃げてしまった」
「母上を守るためでしょう。それは逃げではありませぬ」
「あなたもこの史家村を立派に守っている。故にお強い」
 史大老は微笑むだけで答えず、家人を呼ぶと酒を運ばせた。二人は杯を上げ、それを飲み干した。
「進の事よろしくお願い申し上げます、王進どの」
「はい、この王進の全てを伝えましょう」
 二人はそれから数刻、杯を重ねた。
 春近しとはいえ、外ではまだ寒風が屋敷の周りの柳を揺らしていた。そして近くにそびえる少崋山が月光に照らされながら、静かに史家村を見下ろしていた。

 西の空に茜がほんのり射し始めていた。
 西日に照らされながら旅人たちが行き交っている。夏の盛り、暑さを避けるためこの時間に移動しているのだろう。
 その中に王進母子はいた。あれから半年、二人は延安府への道を歩んでいた。馬に揺られながら王進の母が言う。
「史進は強くなりましたね。見違えるほどに」
「そうですね、ですが史進は若く、まだ己の腕のみを信じている。世に出て壁にあたり、本当の強さというものを知るでしょう。そればかりは史進が自分で学ぶしかない」
「あの子を見ていると若い頃のあなたを思い出しましたよ、進」
「お恥ずかしい」
 馬を引いている王進がふと見上げると、まだ明るい西の空に星が輝いていた。
「陽の光に負けず輝く星か」
 そうつぶやくと王進は額の傷に無意識に触れ、馬を速めた。陽が高くなったとはいえ宿場まではまだあるのだ。
 陽が地平に沈み、徐々に暗さを増してゆく。空には待ちわびたように星が顔を出し始めた。数多ある中で、周りとは異彩を放つ星が百余り、妖しい光をたたえているように王進には見えた。

落草 一

 史大老(したいろう)が世を去った。齢六十を過ぎての大往生だった。
 葬儀はしめやかに行われ、史進(ししん)が家督を継いだ。人望が厚かった史大老と違い、武芸にばかり精を出す史進に史家村(しかそん)の人々は心配をしていた。
 はじめは何とか家業をこなしていた史進だが、ひと月も経たず王四(おうし)に任せるようになってしまった。
 王四は史大老の補佐もしており、実質的に史家村を切り盛りしていた男である。史進は元のように修業に明け暮れ、村人の心配は現実のものとなった。

 ここ史家村は、東京(とうけい)開封府(かいほうふ)から西に位置する華州(かしゅう)華陰県(かいんけん)の郊外にあり、地主である史大老の家によって代々治められてきた。現在は三、四百戸ほどで、近隣と比べると豊かといえる暮らしを営んでいた。
 とある昼下がり、修練を終えた史進は中庭の柳の木陰で涼んでいた。
 日射しはじりじりと地面を焼いている。師である王進(おうしん)は無事に目的地に着いただろうか。そんな事を考えていると、こちらをうかがう気配を感じた。
「誰だ、そこにいるのは」
「へへ、お久しぶりです、若旦那」
 壁の陰からひょっこりと顔を出したのは、兎捕りの李吉(りきつ)だった。
「なんだ李吉か。この頃さっぱり獲物を売りに来ないではないか。親父とは違うと俺を見くびっているのか」
「滅相もございません、若旦那。最近、獲物がめっきり獲れなくなっちまいまして」
「冗談を言うな。この広い少崋山にいない訳があるか」
 李吉は少崋山を仰ぎ見ると、心なしか声をひそめて言った。
「若旦那、知らねぇんですかい。少崋山に山賊が寨を構えていて、近ごろ五、六百人ほどに勢力を増しておりまして、俺たちも山中に入れねぇんです」
「なに、山賊の話は聞いていたが。それほどまでとは」
李吉が去ると、史進は屋敷に向かって叫んだ。
「王四、王四はいるか」
 屋敷の奥から返事が聞こえ、やがて王四が駆けてきた。
「旦那さま、いかがいたしましたか」
「おう、忙しいところすまん。今しがた李吉に聞いたのだが、少崋山の山賊の話は知っているか」
「山賊の件は耳にしておりました。三人の頭領が賊どもをまとめており、それぞれがかなりの腕前だとか。賞金がかけられておりますが、誰も立ち向かうものはなく、対策が必要かと」
 うむ、と唸り史進は腕を組んで考えだす。と、すかさず王四が提案する。
「旦那さま、自警団を作ってはいかがでしょうか。ですが村人たちは武器を持った事もございません。ぜひ旦那さまの武芸でご指導いただければと思います」
「うむ、県の役人どもは当てにならん。やはり自分の身は自分で守らねばならんな。師に授かったこの技がやっと活かせるというわけか」
「今晩早速、おもだった村人を集めます。そこで旦那さまから話を伝えてください。その後の手配などは私が」
「はは、さすが賽伯当(さいはくとう)だな」
「いえいえ、買いかぶりでございます。王伯等さまほどの才覚などとてもとても」
 史進は手にしていた棒で少崋山を指し、目を細めた。
「この史家村を侵す者は誰だろうと許さん。頼んだぞ、王四」
「はい、お任せ下さい」
 柳の枝にかけていた上着を取り、史進は屋敷へと戻った。残された王四は大きな溜息をつくと、少崋山を眺めた。
 こめかみのあたりを汗が伝った。暑さのせいなのか冷や汗なのかは、王四自身にもわからなかった。

落草 二

 ほの暗い部屋に三人の男たちがいた。灯火が揺れるたび彼らの影も揺れた。
 口ひげを生やした男が渋い顔をしていた。視線の先には書類のようなものがあった。
「うむ、食糧の調達が必要だな」
「では兄貴、俺が役人どもから借りてくるとしよう。奴ら、しこたまため込んでやがるからな」
 体格の良い男がからからと笑いながら言った。兄貴と呼ばれた口髯の男が答える。
華陰県(かいんけん)の役所へ行くには、史家村(しかそん)を通らねばならん。あそことはあまり事を構えたくないのだが」
「なに、心配する事はない。ちょっと敷地を通らせてもらうだけさ」
 色の白い、もう一人の男が言った。
「新しく家長になった九紋竜(くもんりゅう)史進(ししん)の噂は、近隣でも有名だ。若いがおそろしく腕が立つそうじゃないか。兄貴には悪いが、俺は遠回りした方が良いと思う」
「なんだと、楊春(ようしゅん)。お前は俺の腕が史進とやらに劣ると言いたいのか」
「やめないか陳達(ちんたつ)。お前の腕は認めているよ。一般人に手は出さぬ、それが我らの矜持ではないか」
「わかったよ、朱武(しゅぶ)の兄貴。そんなに言うなら遠回りで行くさ」
 陳達は言うと椅子から立ち、武器掛けから点鋼槍(てんこうそう)を手に取った。
「陳達、気をつけろよ」
「兄貴」
「じゃあ、行ってくる。宴の用意でもしていてくれよな」

 日が天頂にさしかかろうとする頃だった。
 小高い丘の上、陳達は馬上から史家村を見下ろしていた。百五十人ほどの手下が後ろに控えていた。
「朱武の兄貴と楊春はああ言っていたが、やっぱり面倒だな。行くぞ」
 部下を連れ、馬で山を下り史家村の入口まで来た。すると武器をもった小作人たちが現われた。統制のとれた動きが見て取れる。
「ほお、自警団か。なかなかの動きをしやがる」
 小作人たちは武器を陳達らに突き出す。彼らにおびえた表情はなかった。
 陳達は片手を上げ一騎、ゆっくりと前に出る。
「待ってくれ。俺たちは少崋山から来た。華陰県の役所へ行くのに通らせてもらいたいだけだ。お前たちに危害を加えるつもりはない」
 陳達の声が朗々と響きわたる。やがて村の奥から馬に乗った若者が現われた。
「たいした胆力だな、山賊風情が」
 陳達にも負けず劣らず良く通る声。まだ幼さを残す顔立ちながら、何かに飢えているような鋭い眼光。人馬一体となった、堂々とした風貌。
 これが九紋竜の史進か。陳達は、想像をはるかに上回る強さを史進から感じ取った。だが引く訳にはいかない。
「貴殿が史進どのか。俺の名は陳達。少崋山で第二の頭領をしている。役所に用があって行かねばならぬ。すまないが村を通してはくれぬか」
「華陰県の役所を襲うつもりか」
「奴らは、我らやお前らのような者から税と称し、必要以上にとりたてている。それを奪い返しに行くのだ、問題はあるまい」
「それこそ賊の言い分だな。この史家村を通すわけにはいかん」
「そうか、ならば力ずくでも通らせてもらうぞ」
 言うや陳達は馬を駆けさせた。史進もそれに向かって駆けだした。
 陳達が点鋼槍で突きかかれば、史進は三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)でそれを防ぐ。また史進の攻撃を巧みにかわし、陳達も反撃をする。お互いの武器が交差するたび、鋭い金属音が響きわたる。
 陳達は史進の強さを実感していた。地主の坊ちゃんのお遊び武芸だと思っていたが、これは本物だ。次第に槍を握る手がしびれてきた。
「どうした山賊」
 史進の勢いは衰えることを知らない。抗しきれぬと悟った陳達は、史進の馬に突きを放った。竿立ちになった馬から後方に飛び、地に降り立った史進。
「山賊め」
 風が駆け抜けた。身体に衝撃が疾り、史進はよろめいた。
「山賊ではない、俺の名は陳達だ。跳澗虎(ちょうかんこ)の陳達だ」
 鋼の槍を構えた陳達が史進と背中合わせに立っていた。

 頬から血が流れている。史進は振り向きざま、刀をなぎ払った。手ごたえがなかった。
 どこだ。一瞬、日の光が遮られた。
 上か。頭上から襲いかかる槍を、史進は紙一重でかわした。
「たいした若造だ。朱武の兄貴が怖れるのもわかるぜ」
 陳達と史進は徒歩(かち)で向き合っていた。
 史進が上着を脱ぎ捨て、武器を構える。
「さあ来い、陳達」
 たいした若造だ。陳達は改めて思った。
 陳達は短く気合いを発し、駆けだした。間合いはまだ遠い。陳達は槍の穂先を斜め前方の地面に突き立てた。しなる槍の柄の反動をつかい、人ではあり得ないほど中空へと跳躍した。
「なるほど跳澗虎とはよく言ったものだ」
 陳達の槍が唸りを上げ、頭上から史進に襲いかかる。史進は深く息を吸い込み、裂帛の気合を発した。互いの得物が交差する。激しい火花が生じた。
 飛ばされた槍が地面に突きささる。陳達はかろうじて着地した。両の腕が痺れている。そして膝をつき、史進を見上げた。
「これが九紋竜の史進か」
 陳達は思わず口に出していた。
「悪いが縄をかけさせてもらうぞ」
 史進の上半身に宿る九匹の竜が、陳達を睨みつけているようだった。

 朱武は腕を組み、渋い顔をしていた。
 陳達が史家村で捕えられたと、先ほど配下の者が伝えてきたのだ。
 楊春が卓の向かいに座っている。
「兄貴、どうする。こうなったら我ら総出で陳達の兄貴を救い出そうではないか」
 待て、と言い朱武は目を閉じた。しばらく思案すると、やがて薄く眼を開けた。
「まったく陳達もお前も、あの頃と変わっておらんな。あの頃と」
 そう言う朱武の顔は、どこか誇らしげでもあった。

 少崋山の頭領二人が、配下も連れずに史家村に来た。その報せを受け史進は村の入口へと向かった。
「賊め、わざわざやられに来たか」
 史進が姿を見せると、二人は馬から飛び降りその場で土下座をした。
 史進は馬を下り、怒鳴った。
「何のつもりだ」
「この度は弟分の陳達が無礼を働き、大変申し訳ございません」
 史進はいぶかしみ、その場を動かない。二人はその姿勢のまま続けた。
「この朱武と楊春そして陳達の三人、悪徳役人どもに追われやむなく賊となった身。その時、義兄弟の契りをかわし、死ぬ時は共に死のうと誓いを立てました。関羽、張飛、劉備ではありませんが我らも同じ志。命乞いをするつもりはございません。陳達と共に我らも役所へ突き出していただきたく参上いたしました」
 楊春も続けて声を上げる。
「史進どのの手にかかって死ぬならば本望。決して恨みはしません」
 見ると二人の目には涙が浮かんでいるようだ。
 陳達を奪い返しに来たのならばいざ知らず、まさか自ら捕まりに来るとは。こんな漢たちがいたのか。史進は、知らず笑みを浮かべていた。
「二人とも頭を上げてくれ。これほどの義侠の士を捕えるなどできん。この史進、末代までの笑いものにされるわ」
 二人は顔もあげず、その場で土下座を続けている。
 史進は王四(おうし)に命じ、陳達を連れてこさせた。
「朱武の兄貴、楊春、俺のために頭など下げないでくれ」
後ろ手に縛られたままの陳達が叫ぶ。その声に二人は顔をやっと上げた。額には土がこびりついている。
 史進は陳達の縄を解くよう命じた。
「九紋竜、お前」
「さっきも言ったが、お前らを捕えることなどできん。ぜひ酒をふるまわせてくれないか」
 史進のその言葉に、少崋山の三人は目を丸くして顔を見合わせるばかりだった。

落草 三

 定遠の小さな村、朱武(しゅぶ)はそこで生まれ育った。家は裕福とは言えなかったが、親が書物を与えてくれたおかげで読み書きも早くにできるようになった。
 書物の中でも特に戦記ものにのめり込むようになり、いつしか古今の軍略や兵法などを諳んじるようになった。長じると読み書きなどを村人にも教えるようになり、今は庄屋の子供たちの家庭教師となっていた。
 その庄屋は近隣でもあまり評判が良くなかった。庄屋は役人と昵懇で、事あるごとに小作人から搾り取っては私服を肥やしていた。
 朱武も遠回しに諌めたりしたのだが、たかが家庭教師ごときが、とかえって叱責をうける羽目になった。
 だが(そう)国全体の現状が同じであり、この事が村を存続させていたというのは皮肉以外の何ものでもなかった。
 ある日、朱武が庄屋に来ていた時である。屋敷内が騒がしくなり、使用人たちが子供たちを屋敷の奥へと連れて行った。何事かと尋ねると村に山賊が現われ、どうやらこの屋敷に向かっているらしいというのだ。
 庄屋がひきつった顔で現われると、朱武に向かって、兵法に詳しいのなら何とかしろ、と言い放った。そして奥へと走り去った。
 無茶な、と朱武は思ったが他の家人たちもすがるような目でこちらを見ている。
 覚悟を決めた朱武は二刀を腰にたばさみ、外へ向かった。

 跳澗虎(ちょうかんこ)。槍の柄の反動を使い、縦横無尽に飛び回るさまから陳達(ちんたつ)はそう渾名(あだな)されていた。
 白花蛇(はくかだ)。陳達と馬を並べている楊春(ようしゅん)の渾名である。大桿刀(だいかんとう)を振り回し、色白で繊細な見かけによらず、時に残酷な面をも見せることからそう呼ばれたという。
 陳達は鄴城(ぎょうじょう)の出、楊春は浦州解良の出身。共に重税に耐えかね流浪の身となっていたが、ひょんなことで出会った二人は意気投合。役人の横暴に対抗するため山賊へと身をやつし、各地で暴れ回っていたのだ。
「この村の庄屋もかなりの悪玉らしいな、楊春」
「ああ、役人と(ねんご)ろになり、小作人たちは悲鳴を上げているそうだ」
「そいつは退治しなくちゃいけねぇな」
 二人は屋敷の前まで来ると馬を止め、配下を後ろで待たせた。
「おい庄屋、お前が今まで小作人どもから借りていたものを返してもらいに来たぜ」
 陳達は大声で叫ぶが、返事をする者はない。
「無理やり奪ってもいいんだぜ」
 楊春が右手を軽く上げ、配下に突撃の準備をさせる。
「待ってくれ」
 朱武が平静を装い、屋敷の外に出る。手を刀の柄に添え、いつでも抜けるようにしている。
「お前がこの村の庄屋か。一人で出てくるとは度胸があるじゃねぇか」
「違う、私は庄屋ではない。ここで家庭教師をしている朱武というものだ」
「家庭教師が何の用だ。さっさと庄屋を出しやがれ」
「だから待ってくれと言っている」
「おい楊春」
 陳達は苛立って突撃の合図を出させようとした。
「義賊が人の話も聞かず、あまつさえ強盗を働くのか」
 朱武の言葉に楊春が手を止める。
「兄貴」
「聞いたか楊春。こいつは俺たちを義賊だと思っているらしい」
 朱武は陳達と楊春を見定めるように見ると言った。
「違うのか。お前たちはこの屋敷に着くまでに、他の人々や家を襲いはしなかった。狙いはこの屋敷だけだろう。そうでなければ今ごろ村中に死体の山が築かれていただろう」
 朱武はたたみかけるように言う。
「大方、やむなく落草した身とお見受けする。いつ何どき同じ目に遭ってもおかしくない今の世だ。いたずらに刃を血に染めることないその矜持、賊ながら敬意に値しましょう」
「兄貴」
 楊春は陳達の判断を待っている。陳達は眉にしわを寄せ、朱武を睨みつけていた。
「朱武とやら。いかにも俺と楊春はやむなく賊へとなり、悪徳役人や小作人を苦しめる地主連中から奪ってきた。なるべくそれ以外の者を傷つけるつもりがない事は確かだが、そいつらに分け与えた事はない。それでも我らを義賊と呼ぶのか」
「そうだ。だからこの場は私に任せてほしい。誰も死なずに済むならそれが一番よかろう」
「面白い男だ、朱武」
 そう言って笑う陳達を楊春は見ていた。なるべく傷つけたくはない、とは言っていたが陳達の気短(きみじか)な性格ゆえそうならない事が多かった。今のように話し合おうとした者もいたがことごとく交渉は決裂、槍の餌食となっていたのだ。
 単身で我らにむかう豪胆さ、陳達を説き伏せる手管、この朱武という男ただ者ではない。楊春は屋敷へと戻る朱武の背を見ながら思っていた。

「なんだと、馬鹿な事を言うな」
 屋敷の奥にある隠し間で庄屋は怒鳴った。
「庄屋さま、ご自分やご家族の命と金とどちらが大切なのですか。下手をすれば村ごと潰されてしまいます。そうなれば元も子もないでしょう、命はひとつしか無いのです」
 庄屋は渋い顔をしている。それでも金が惜しいというのか。そしてやっと決断をした。
「背に腹は代えられんか。だが、半分だ。わしが奴らに出すのは蓄えの半分だけだ。あとはお前が上手くやるのだ」
 半分だけだと。この状況でもこの男は命より、家族や村人の命よりも金を選ぶというのか。この男を守る必要があるのか。
 朱武はふと浮かんだ考えを振り払うように首を振った。

 人命を損なうことなく山賊を追い返した朱武に人々は賛辞を贈った。軍略や兵法を好む彼を、人々は神機軍師(しんきぐんし)と褒めそやした。
 朱武は思った。軍師と呼ばれるような策を使ってはいない。村人に手を出すつもりがない事を見抜き、陳達らを義賊と呼んだ。それを策と呼べるものか。朱武が謙遜すればするほど賞賛は高まった。
 面白くないのは庄屋だ。自分は財産の半分も奪われたのだ。それなのに一銭も出していない朱武が英雄扱いされるとは。そればかりか金を奪われたのは己の日頃の行いのせいだ、と揶揄(やゆ)される始末。
「なにが神機軍師だ」
そう毒づいていると、ひとりの小男が現われた。普段から庄屋の腰巾着をしている男である。
「旦那さま、ご機嫌よろしゅう」
「機嫌が良いように見えるのか。一体何の用だ。お前の相手をしている暇はないのだ」
「へへ、いいんですか。せっかく面白い話をお持ちしましたのに」
「面白い話だと」
「はい、あの軍師さまの話です」

 いつものように朱武は屋敷へ赴いた。だが部屋に入ると突然、取り押さえられた。抵抗したが縄をかけられ動けなくなった。
「年貢の納め時だ、神機軍師」
 頭上から庄屋の声が聞こえた。突っ伏したまま朱武が言う。
「何の話です」
「とぼけおって。お前があの山賊どもと通じていたという証拠があるのだ、観念するんだな」
 朱武は弁明の暇を与えられる事もなく役所へと連行され、知県の前に跪かされた。
「こ奴が朱武か」
「はい知県さま、何とぞお裁きを」
「朱武とやら、先日村を襲った山賊どもと通じているという事だが、間違いはないな」
「違います知県さま。失礼ですが、何を証拠に」
「この男が、おぬしと山賊どもの会話を聞いていたのだ」
 そこにいたのは庄屋の腰巾着だった。
「おぬしは山賊どもの事を義賊だと言っていたそうではないか。賊どもを持ち上げるなどそれだけで大罪。しかも一人で山賊の前に出て無事となると、奴らと通じていたという以外に理由はあるまい」
「朱武、山賊の一味とみなし極刑を申しつける。刑の執行は三日後とする」
「さすが知県さま、公正なお裁きで」
「そんな」
 馬鹿な。これは裁きではない。始めから結論ありきの茶番ではないか。
「わしの金を奪うからこうなるのだ。それとも何か策があるのかな、軍師どの」
 裁きの間に庄屋と知県の下卑た笑い声が響いていた。

 三日後。処刑場。
 首切役人が斧のような刀を研いでいる。柵の外には村人たちの姿が見える。
 朱武は空を見上げた。西の空に雲が出てきた。もうじき雨だろうか。自分でも驚くほどに冷静だった。
 処刑の時が近づいてきた。黒雲が空一面に広がっている。
「もう時間だ。早く刑を執行しろ」
 雨に濡れるのを嫌ったのか、知県が叫んだ。首切役人が刀を構える。
 ぽつり、ぽつりと雨が地面に染みを作った。そしてにわか雨。雨粒が痛いほどの勢いだ。朱武は待っていた。だが刀が振り下ろされる事はなかった。
 首切役人が倒れていた。いつの間にか柵が破壊されていた。雨音に混じって蹄の音が近づいてくる。
「朱武どの、危ない所でした」
 楊春が縄を切り、陳達が馬の上に引き上げた。役人たちはやっと事態に対応しだしていた。
「見ろ、やはり賊と通じていたのだ」
 庄屋が叫んだが、陳達の配下に切り殺された。陳達の馬が二人を乗せたまま駆けだした。
「あなたが処刑されると聞き、救いに来ました」
「なぜ私を」
 後方では楊春が追っ手を遮っている。陳達は配下を引き連れ駆け続ける。
「朱武どのは我らを、たかが山賊風情を義賊と呼んでくれた。俺は嬉しかった。楊春も同じだ。だからそれに応えたかったのだ」
 命を救ったはずの庄屋に裏切られ、山賊に命を救われようとは。
「ありがとう」
 朱武は知らず涙を流していた。だがこの雨では誰もそれに気づくことはなかった。
 やがて雨が上がり、楊春も合流した。追っ手の姿はもうない。逃れられたようだ。
 見ると目の前に大木がそびえ立っていた。陳達と楊春、そして朱武は馬をそこで休ませ、人心地ついた。
「あらためて礼を言う。ありがとう陳達、楊春」
「おいおい、やめてくれ」
 頭を下げる朱武を陳達が止める。
「あんたが思い出させてくれたんだ。俺たちは山賊ではないと、なあ兄貴」
「楊春の言うとおりだ。朱武どの、どうだ我らと義兄弟になってはくれぬか」
「私は命を救われた。否やがあるものか。桃園の誓いとまではいかぬが、おあつらえ向きに大きな木もあるしな」
「俺は木には登らんぞ」
 陳達の言葉に朱武は笑った。久しぶりのような気がする、心から笑ったのは。陳達、楊春も笑っている。
 年齢順で長兄が朱武、次兄は陳達、そして楊春の順になった。葉を杯がわりに、雨を酒がわりに三人が向かい合い、杯を交わした。
 空はすっかり明るさを取り戻していた。

落草 四

 あれから史進(ししん)との交流が続いていた。史家村(しかそん)からは王四(おうし)が伝令の役を負い、何度も少崋山を往復していた。
 時が過ぎ、やがて中秋の頃。史進は月を肴に三人と酒を酌み交わそうと思い立ち、王四を少崋山へ送った。
 少崋山でも知られた顔となった王四は朱武(しゅぶ)に手紙を渡した後、その配下たちに引きとめられた。それほど酒に強くない王四であったが、王四どの王四どのと持ち上げられ、かなりの量を飲んでしまった。
 何とか帰路についた王四だったが、千鳥足で足元がおぼつかず、次第に瞼は重くなるばかり。知らぬ間に道の()の草むらで寝息を立て始めた。
「あれは王四じゃねぇか」
 山中で兎を追っていた李吉(りきつ)は草むらへと近づいた。
「やはり王四か。おい、こんな所で何してる。山賊どもに襲われるぜ」
 李吉は揺するが、王四は高鼾(たかいびき)だ。ふと見ると王四の懐から光るものが見える。そっと取り出すと銀子(ぎんす)ではないか。さらに李吉は手紙らしきものを見つけた。字は読めぬが、朱武や史進などと書いてあるらしい事はわかった。
「史進め、山賊とつるんでいやがったのか。へへ、俺にもやっと運が向いて来やがった」
 手紙と銀子を袋に入れ、李吉は足音を消してその場を去った。
 数刻後、王四は目を覚ました。まだ酒は残っているが、何とか山を下りられそうだ。
 懐に手を入れると、朱武からの返書がない事に気づいた。冷や汗と共に一気に酔いが醒めてゆく。どこかで落としたのか。銀子はともかく手紙を誰かに見られては大事だ。
 来た道や草むらをくまなく探したが、紙切れ一枚見つからない。
「どうしたものか」
 王四は少しの間、思案し史家村へと戻った。
 中秋の宴に朱武、陳達(ちんたつ)楊春(ようしゅん)三人とも必ず来るという報告を受けた史進は喜んだ。史進に、返書はないのか、と聞かれた王四は言った。
 返書も礼の品も丁重に断りました、途中で間違いがあってはいけないと思いましたので、と。
「さすがは賽伯等、よく気が利く男だ」
 もったいないお言葉、と謙遜する王四だったが、嘘でごまかす才能は王伯等まさりかもしれなかった。
 場を辞した王四は、背中に絞れるくらいびっしりと冷や汗をかいていた。

 中秋の名月。
 満月が煌々と地上を照らしていた。地上では四人の男たちが月を愛でながら話に花を咲かせていた。
「その役人も庄屋も、身から出た錆だな」
 朱武の話を聞いた史進は、憤るように杯を干した。
「役人もそうだが、まったく庄屋どもにも碌な奴がいねぇ」
「兄貴」
 楊春の目配せに気づき、陳達が慌てて言う。
「おっと史進、あんたは別だぜ」
「はは、わかっている」
 楊春はほっと溜息をつくと酒を飲んだ。陳達も笑うと豚の足にかぶりつき、こぼさんばかりに杯をあおった。
「兄貴、落ち着いて食べなよ。せっかく中秋の宴なのに」
「ふん、月より飯だ。月を見てたって腹は膨れんからな」
「本当に昔からお前は変わらんな」
 朱武の言葉に一同が笑い声を上げた。
 月も位置を変え、(から)の酒瓶が増えていった。
 一同が武芸談話に熱を上げていると、ふいに屋敷の外で喚声がおこった。史進は何事かと席を立ち、塀の上から覗いて見た。
 外には幾つも松明が揺らめき、まるで昼のように屋敷を照らしていた。目を凝らすと華陰県(かいんけん)の県尉の姿が見える。県尉は都頭二人と兵たちに屋敷をとり囲むよう命じているようだ。
「賊は屋敷の中だ」
「生死は問わん。賊どもを逃すな」
 三、四百人ほどだろうか。兵たちがめいめい武器を持ち、叫びながら押し寄せてきている。
「一体どういう事だ。三人ともちょっと待っていてくれ」
 史進は門へ行くと、都頭の一人をつかまえ訪ねた。
「夜中に一体何の騒ぎです、都頭さま」
「史の若旦那、とぼけるんじゃない。今日、ここに少崋山の山賊の頭領が来ているのは分かっているんだ」
 史進は一瞬、言葉に詰まるが何とか平静を装う。
「何の根拠があるというのだ」
 もう一人の都頭が口を挟む。
「兎捕りの李吉から連絡があってな。山賊どもと旦那との手紙を、王四という男が持っていたとな」
 手紙だと。史進は都頭らを待たせ、奥へ戻った。
「王四、一体どうなっている。手紙は無いと言っていたな」
 やって来た王四は、全身から汗を流しながらもごもごと言っている。いえ、実は、手紙は、本当は、あの、帰りに、その、失くして、だから、えぇと。
「もういい」
 史進は最後まで聞くことなく、王四を殴り飛ばした。
「すまない、俺の手違いだ」
 朱武たちの前に戻ると、史進は膝をつき頭を下げた。
「我らに縄をかけ役人に引き渡すのだ、史進。我らはすでに覚悟はできている」
 朱武の言葉に、史進は慌てて顔を上げる。
「前にも言ったが、そんな真似はできん。何とかしなければ」
 屋敷はすでに十重二十重に囲まれている。中へ入ってこないのは、ひとえに史進の武芸を怖れているためである。
 唇を噛みしめ思案する史進。
 覚悟、か。
 す、と立ち上がると三人に向かって言う。
「ここから脱出する。俺について来てくれ」
 さらに史進は家人たちを集めた。
「すまない、俺たちはここを脱する。お前たちもここから逃げるのだ」
 朱武らが止める暇もなく、史進は行動を起こしていた。家人から受け取った松明で、屋敷に火を放ったのだ。
「無茶な、史進」
「三人とも準備を。突っ切るぞ」
 武器を手にした史進が叫ぶ。
「おい兄貴、四人で突っ切れるのかよ」
 陳達が叫び、楊春も心配そうな顔をしている。朱武は懐から何やら取り出し、間に合うと良いが、とそれに火をつけ夜空へと向けた。
 ひゅう、という音と共に火球が尾を引いて昇っていき、上空で破裂した。
 花火であった。
「行くぞ」
 まるでそれが戦いの狼煙(のろし)であったかの如く、屋敷の門が開かれた。

 兵たちの中を矢のように突き進んでゆく。
 三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)が唸りを上げるたび兵たちが倒れ、道が空く。点鋼槍(てんこうそう)と双刀は左右からの敵を寄せ付けず、追いすがる者は大桿刀(だいかんとう)で切りふせられた。馬は速度を落とすことなく駆けてゆく。
 後方で大きな音がした。屋敷全体に火がまわり、崩れはじめたのだろうか。
「史進、少崋山へ向かえ」
 史進は額に汗を浮かべながらも、その膂力に疲れは見えなかった。まるで竜の如く吼え猛りながら得物を振り回している。
 斬っても斬っても兵たちが襲い来る。
「兄貴」
 陳達は歯を食いしばり朱武を見た。
「信じるのだ」
 朱武は月明かりに照らされ、暗闇に浮かびあがる少崋山を見ている。
 さらに兵が追いすがる。楊春の大桿刀がそれを防ぐ。
 ふと視線の先で山が揺り動いた気がした。
「間に合った」
 朱武は双刀で兵を切り捨てると笑みを浮かべた。

「さっさと賊どもを捕えろ。たった四騎に何を手こずっているのだ」
 華陰県の県尉は遠くから怒鳴っていた。横には兎捕りの李吉が汗を浮かべている。
「県尉さま、懸賞金はいただけるんですよね」
「しつこい奴だ。奴らを捕えたらくれてやると言っておろうに」
 三百人近くからなる兵たちの包囲網の中を突き進んでくる史進たちを見ると、李吉は気が気でならない。
 いくら史進とはいえ、これだけの包囲を抜けられるはずがない。腕は立つといっても相手はたかが四人である。はじめはそう思っていた。
 屋敷から花火が上がり、門扉が開かれた。四騎が弾かれたように突進してきた。とり囲む兵たちを割りながら、四騎が駆けていく。彼らに触れようとする者は、ことごとく弾き返されていった。
 県尉の焦りが大きくなる。まさか。そんな馬鹿な。
 しかし史進たちにも疲れが見え始めた。徐々にではあるが、進む速度が落ちてきたようだ。ここが攻め時だ。
「総員押し包め。何としても逃してはならん」
 そう言った直後、背後から圧力を感じた。地面が小刻みに揺れている。地震か、いや違う。騎馬がいななきながら竿立ちになった。県尉は何とか態勢を整え、少崋山を見やった。
 山が動いている。いや違う、少崋山から大群が押し寄せてきている。その数、四百ほどか。
 県尉は思い至った。
 花火か。あの花火が危機を知らせる合図だったのか。
 山津波のように駆けてくる山賊に背を見せる形となってしまった。県尉は急ぎ、兵の三分の二を背後の山賊に充てた。
 兵たちとぶつかったのは二百ほどだった。賊の半分は兵たちを左右に大きく避け、燃え盛る屋敷の方へ突き進む。そして屋敷へと至ると反転、少崋山へと向かう史進たちの背後へとついた。
 挟撃。
 戦意を失い武器を捨て、多くの兵たちが逃げ始めた。雄たけびをあげ、山賊たちが前後から押し寄せる。残っている兵たちも、総崩れの様相だ。
 これが山賊の動きか。まるで訓練された軍ではないか。
 県尉は、朱武らがこれまで討伐されなかった理由を思い知った。
 いつの間にか史進が目の前にいた。
 県尉は見た。その後ろにいる、口ひげの男が松明を振って仲間に指示を出しているのを。
 神機軍師(しんきぐんし)、この男か。
 ひっ、と李吉は短い悲鳴を上げ、その場から逃げようとした。だが足がすくんでしまった。
「ものども、この男を」
 県尉の声と同時に馬が馳せ違い、刃が閃いた。
 県尉と李吉の首が、中を舞っていた。

落草 五

 手が震えている。
 屋敷から少崋山まで、休むことなく得物を振るっていたからだろうか。
 呼吸はやっと落ち着いてきたようだ。
 まだ手が震えている。
 史進(ししん)はじっと手を見つめる。掌、指、あちこちに乾いた血が残っていた。
「史進」
 楊春(ようしゅん)が部屋に入って来た。
 部屋の外では宴が行われている。その喧噪はまるで別世界のように感じた。
「史進、あんたでもそうなるんだな」
「そうなる、とは」
 史進は座ったまま楊春を見上げる。
「その手さ。はじめてだろ、人を(あや)めたのは」
 史進は己の手をじっと見た。まだ震えている。
 人を殺めた。この手で命を奪ったのだ。
 楊春が近くに腰かけた。
「やらなきゃ、こっちがやられていた。仕方ないのだ。いつも自分にそう言い聞かせているよ、俺は」
 楊春も己の手を見つめていた。
 史進は噛みつくように言い返す。
「ちょっと興奮しているだけだ。すぐに慣れるさ」
「馬鹿を言うな」
 立ち上がり楊春が怒鳴った。
 初めて見る、楊春の怒りだった。
 楊春はすぐに表情を戻し、座りなおした。
「慣れるものか、慣れてはいけないんだ。重かった。命を奪うという事は、そいつの命を背負(しょ)うという事だ。その重さを忘れてしまった時、人は人でなくなると思うのだ。あんたにはそうなって欲しくないのさ」
 どうも喋りすぎた、酔ったのかな、そう言って楊春は宴へと戻って行った。
 史進の手は、もう震えてはいなかった。

 王進(おうしん)に会いたい。
 一晩考えて、そう決めた。
 朱武(しゅぶ)らは、自分を頭領にしたいと言った。
 屋敷を焼いてしまい、官兵たちを敵に回した。もう史家村(しかそん)には戻れない。自分の軽率な行いがもたらした結果だ。山賊になるしかないのではないか。そうも思ったが、どこかに未練があった。
 陳達(ちんたつ)はどうしても行かせない、と言った。
 朱武は、そんな陳達を諌め、待っていると言ってくれた。
 楊春は黙って見つめるだけだった。
 史進は旅立った。
 王進に会って、どうするのか。会ったところでどうなるのか。分からない。分からないが、会えば何かが分かるかもしれない。
 強さゆえに危難に巻き込まれることがある。その覚悟があるか。
 晴れ渡った秋空を見上げながら、王進の言葉を思い出す。
 史進は掌を見つめ、歩を止めた。
「覚悟、か」
 そうつぶやくと拳を握りしめ、歩き出す。
 そろそろ刈入れの時期か。ふと、そう思った。
 草むらから兎がひょっこりと顔を出していた。

破戒 一

 渭州(いしゅう)に着いた。
 華陰県(かいんけん)から西に半月余りの距離である。
 思い返すと、王進(おうしん)の行先を聞いてはいなかった。ただ、経略府のある所、そして(ちゅう)という人物を尋ねる、という言葉だけを頼りにここに来た。
 おぼろな記憶だけで少々無謀だとは思ったが、今さら仕方あるまい。
 史進(ししん)は開き直ると茶屋で一休みする事にした。
 茶を頼もうと小僧を呼ぼうとした時だ。人の波から頭ひとつ飛び出した、大きな男が店へ入って来た。
 眉が太く、顎が四角く、そこに豊かなひげを蓄えていた。胸板が厚く、腕も足も太かった。男はどっかりと座ると店の小僧に茶を持ってこさせた。
 史進も注文をすると、小僧に男の素性を尋ねた。男はここの経略府で堤轄(ていかつ)を務めているという。軍の関係者ならば王進の事を知っているかもしれない。
「堤轄どの、どうぞこちらでお茶を召し上がってください」
 男は人好きのする笑みを浮かべ、礼を返してきた。
「いやあ。ありがたくいただくとしよう。どうやら旅の方らしいが、あんたは」
「これは失礼。華陰県から来た史進と申します。故あって人を探しております」
「もしかして、あんたは九紋竜(くもんりゅう)の史進か」
「はい、そのように呼ばれております」
「なるほど、噂通りの男だな」
 男はしげしげと見つめていたが、史進の視線に気づくと言った。
「おお、すまない。わしの名は魯達(ろたつ)。ここの堤轄だ。ところで人探しと言ったが」
 史進が王進との事を伝えると、魯達はひげを捻りながら唸った。
「王進どのとは、あの八十万禁軍教頭の王進どのか」
 魯達も、高俅(こうきゅう)と王進の確執は聞いていたという。同じ武官だからだろうか、話しぶりから王進の肩を持っているようだ。
 魯達は言った。王進はここではなく、延安府(えんあんふ)の种老相公どのの元に仕官したと聞いていると。渭州はその息子の种小相公が任に就いているという。
 落胆の色を隠せない史進に、魯達はとりあえず酒でも飲もうと言った。
 落ち込んでも仕方あるまい。二人は茶屋を出て歩き出した。

 往来に人だかりができている。
 その向こうから、ひゅんひゅんと風を切る音が聞こえてくる。
 興味をひかれた史進が人垣に分け入った。
 一人の男が棒を使い、演武をしていた。足元には掌ほどの容器が十余り並べられている。中身は膏薬の類だろうか。
 男の扱う棒がそのひとつを空中へと弾き上げた。ひとつ、またひとつ。全ての膏薬を弾き上げ、男は棒の回転を速めた。風を切る音も大きくなる。
 鮮やかな棒裁きで、十余りの膏薬は宙を舞い続けている。見物客は感嘆の声をあげた。
 男は気合を発し、大きく棒を一回転させた。膏薬がさらに宙高く放り上げられる。男は棒を横に構え、静止した。膏薬が地面に次々と落ちてゆく。そこは元あったのと寸分違わぬ位置であった。
 喝采が巻き起こった。男が礼を言いながらおひねりを拾っているところへ、史進が声をかけた。
「お師匠さま、お久しぶりでございます」
 男は眉間に皺を寄せていたが、はたと気付いた。
「お前は史進か。見違えたではないか」
「なんだ史進、知り合いか。わしにも紹介してくれ」
 魯達が人垣をかき分けて近づく。
「魯達どの、この方は俺の最初の武芸の師匠です」
 男の名は李忠(りちゅう)。棒術を得意とし、各地で武芸を見せながら、膏薬などを売り歩いている。史進がまだ竜を背負うか背負わないかの頃に史家村(しかそん)を訪れていたのだ。
「どうだ、あんたも一献やりに行かないかね、李忠どの」
「ありがたいが、もう少し路銀を稼いでからに」
「つれない事を言うな。いいから行くぞ」
 今日は(しま)いだ、と魯達は観衆を追い払ってしまった。
 なんと強引な男だ、と李忠は目を丸くした。魯達はさっさと先へ行ってしまう。
「お師匠さま、行きましょう」
 李忠は商売道具をまとめ、渋々後を追った。

 州橋のたもとの(はん)料亭。その一室に三人はいた。
 出会いと再会を祝し、杯を合わせ飲み干す。卓には酒や料理があふれんばかりに並べられていた。魯達は酒を水のごとく流し込んでいる。
「師匠は虎を仕留めた事があって、打虎将(だこしょう)と呼ばれているのです」
「ほお、そいつは大したもんだ」
「いやいや、偶然勝てただけで」
「わしも虎に会えば、この拳で殴り倒してやるものを」
 がはは、と割れ鐘のような笑い声をあげ、岩のような拳を握った。
 李忠は苦笑いを浮かべ、胸のあたりをさすった。虎につけられた古傷が痛んだ。
 酒が進み、武芸談議に花を咲かせていると、隣の部屋から何やら人声が聞こえてきた。それはか細く、次第にすすり泣くような声になった。
 はじめは気にせず酒を飲んでいた魯達だが、どうにも止む気配がない。給仕を呼び付け怒鳴った。
「おい、隣には一体誰がいるのだ。せっかく楽しく飲んでいるのに興醒めではないか」
 給仕が謝り、隣室から二人の者がやって来た。
 一人は白髪の老爺。もう一人は十八、九の若い女だった。女の目にはまだ涙が浮かんでいた。
「堤轄さま、誠に失礼いたしました」
「一体どうしたというのだ。何故泣いてなどいたのだ」
 老爺は金と名乗った。若い女は翠蓮(すいれん)といい、老爺の娘だという。
 家族で渭州へ親戚を頼って来たが、その親戚はすでに南京(なんけい)に越していた。さらに翠蓮の母が病で亡くなり、二人は頼るあてもなくさすらっていたところ、とある金持ちが翠蓮を見染めて(めかけ)とした。金老人は娘と引き換えに三千貫という高額の証文を受け取ったという。
「三千貫だと。わしは月に十貫ももらえぬというのに」
「まあまあ、続きを聞きましょう」
 李忠が憤慨する魯達をなだめ、話を促した。
 ところがいくらも経たぬうちに、金持ちの妻が翠蓮を追い出してしまったのだという。
 契約が反故(ほご)になったのだから、金を返せと金持ちが詰め寄る。ところが金老人は証文だけで現金は一切受け取っていなかった。(から)証文である。
 もらってもいない金を返せるはずもなく、老人と翠蓮はこの料亭で小唄を聞かせながら、何とか返済を続けているのだという。
 史進は金翠蓮(きんすいれん)の頬の涙の跡を見た。
「そいつはひどい話だ。それで泣いていたのだな」
「まったくだ、これは見過ごすわけにはいかんな。それでその金持ちとやらは一体誰なのだ」
「はい、鎮関西(ちんかんせい)(てい)大旦那さまです」
「なんだと、あの肉屋の鄭か」
 魯達は持っていた杯を卓に叩きつけ、立ち上がった。憤怒に満ちたその姿はまるで鍾馗(しょうぎ)のようであった。

 状元橋(じょうげんばし)のたもと。そこに鄭の肉屋があった。
 魯達は店先の腰掛けにどっかりと座っていた。店の中では(くだん)の鄭が肉を刻んでいる。
 肌はてらてらと脂ぎっており(ふと)(じし)だが、包丁さばきはなかなかのものだ。
「おいまだか」
「へい、もうじき終わりますんで」
 そう言った鄭の額から汗が流れ落ちる。
 あれから三人で金を出し合い、金老人と翠蓮に東京(とうけい)への路銀として渡した。史進、李忠とは再会を約束し別れた。
 翌日、金親子を見送った後に頃合いを見計い、魯達は店へとやって来たのだ。
「堤轄さま、こちらでございます」
 鄭が赤身肉を蓮の葉で包んでいる。ほっとした表情の鄭に魯達は言った。
「待て待て、次は脂身を十斤(じっきん)刻んでくれ」
 これもお前が自分でやるのだ、と念を押し魯達は腕を組んだ。
 鄭はしぶしぶ従う。
 さらに半刻かかり、脂身を刻み終えた鄭に、次は軟骨十斤だ、と畳みかける。
 ここで鄭はやっと(なぶ)られている事に気づいた。骨切り包丁を手に、魯達の前へ詰め寄る。
「おい、どうした。包丁など持って危ないではないか。まず汗を拭いたらどうだ」
「いくら堤轄さまと言えど、冗談が過ぎますぜ」
「冗談ではない」
 魯達は言い放ち、持っていた肉を鄭の顔にぶちまけた。
 声にならない叫びを発し、鄭が包丁を振り下ろす。
 魯達は左手でそれを受け止め、引き寄せると足を掛け、鄭を地面に転がした。
 抵抗する間もなく馬乗りにされる鄭。
「これは金老人と翠蓮を騙した罰だ」
 魯達は岩のような拳を握りしめた。

 三発だった。
 三発殴ったところで鄭が動かなくなった。
 気を失ったのかと思った。
 だが鄭はすでに息をしていなかった。
 店の者や、野次馬たちが異変に気づき、ざわつきだした。
「今日はこの位にしておいてやる」
 捨て台詞を吐き、その場を離れた。
 魯達は下宿へ戻り、急いで荷物をまとめると南門から城外へと一目散に逃げた。
 殺すつもりはなかった。ただ痛い目に合わせて、懲らしめようと思っていたのだ。だが後悔はない。あの親子の恨みを晴らしたのだ。鄭も報いを受けて当然だろう。そう考えると少しだけ気持ちが晴れた。
 牢に入れられても頼る者のない身ゆえ思わず逃げてきたものの、どこへ行けばよいのやら見当もつかない。
 あてもなく旅を続け、半月余り。やがて魯達はとある県城に着いた。代州(だいしゅう)雁門県(がんもんけん)。州や府にも劣らない賑わいぶりだった。
 通りを歩いていると人垣ができている。どうやら高札を見ているようだ。
 武官とはいえ武芸ばかりしていた自分は字が読めない。内容を聞こうと近づくと、後ろから袖を引かれた。
 そのまま魯達は角を曲がり、人気(ひとけ)のない所へ連れて行かれる。
「魯達さま、どうしてこんな所に。危ない所でございましたよ」
 顔を見ると、それは金老人であった。
 あの高札には魯達の手配書が張ってあったのだという。
「それは危ない所だった。しかし金老人、お主こそどうしてこんな所に。東京へ行ったのではなかったのか」
「話は後にしましょう。ご恩返しと言ってはなんですが、まずはあなたに会わせたい人がおります」
 やはり間違いではなかった。
 微笑みを浮かべる金老人を見て、魯達は改めてそう思うのだった。

破戒 二

「坊主になれ、ですと」
 魯達(ろたつ)は目を丸くした。
 県城から十里ほど行ったところにある七宝村(しちほうそん)の大きな屋敷、そこに魯達はいた。
「この先の五台山(ごだいさん)にある文殊院の智真(ちしん)長老とは兄弟のような仲。安心してください。私は翠蓮を救ってくれたお礼ができ、魯達どのは身を隠す事ができる。まさに一石二鳥ではないですか」
 優しげな目で、趙員外(ちょういんがい)が言う。
 渭州(いしゅう)から脱出した後、金老人は鄭の手の者が東京(とうけい)へ来るのでは、と考えて道を変えた。そして古馴染に会い、雁門県(がんもんけん)で趙員外を紹介されたという。
 員外は翠蓮を一目で気に入り、妾にした。
 鄭と違い、員外は本物の金持ちだった。着飾った翠蓮は見違えるように美しかった。
 金親子を幸せにしてくれた員外の提案。行くあてもないこの身にとっては渡りに船だ。
 人を殴り殺してしまった自分が僧になるとは、なんとも皮肉な巡り合わせではないか。
「わかりました。この魯達、よろこんで坊主になりましょう」
 魯達が大きな声で、がははと笑う。
 翠蓮も、くすくすと笑っていた。

 五台山。
 望海峰、桂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰の五つの主要な峰から成るこの山は、古くから文殊菩薩の聖地とされ、信仰を集めていた。
 魯達は、天に向かってそびえ立つ五台山を前に、畏敬の念を禁じえない。
「噂に違わぬ壮大さよ」
 峨峨たる山峰は人を寄せ付けず、頂は雲の遙か先。山肌から流れ落ちる瀑布は、地に達することなく霧となってゆく。
 生い茂る巨大な松たちは、一体どれだけの時を生きてきたのだろうか。時おり木霊する吠え声は仙猿のものか。
 二人を乗せた篭はやがて開けた場所に着いた。
 文殊院である。
 絢爛ではなく荘厳という感じだ。仏殿や宝塔、(あずまや)(くりや)など大小様々な建物が並び、その間を僧たちが行き来している。
 前方から一人の老僧が歩いてくる。
「あの方が智真長老です」
 かなりの高齢のはずだ。顔に刻まれた深い皺から七十、八十いやそれ以上にも見える。しかし、時おりその顔が童子のように見える一体、本当はどちらなのだろうか。
「こちらは魯達というものです」
 趙員外に紹介され、長老に挨拶をする。ほほ、と笑うその顔は、やはり童子のそれだった。
 二人は方丈へと案内された。智真長老が正面に座り、左右に多くの僧たちが控えている。趙員外は寺への寄進物を運ばせて、改めて長老に頭を下げた。
 僧侶の免許状である度牒(どちょう)を購入していたが、代わりに出家させるのに相応しい者がなかなか現われなかった事。しかしこの度、それに適う者が見つかり本願を叶えるためにやって来た。それがこの魯達である、という旨を説明した。
 話が終わり、智真長老は剃髪(ていはつ)得度(とくど)の手配をすると、二人を客間に案内させた。
 その時、高位の僧がやってきて、長老に耳打ちした。
「魯達とかいうあの男、立ち居振る舞いも粗暴で、顔も凶悪です。大方、人殺しでも犯したのでは」
 その進言を長老は一喝した。
「人を見た目で判断するものではない。あの男には数奇な命運が見える。将来、非凡な悟りを開き、お主らの及びもつかぬ人物となろう」
 必ず得度させるのだ、そう言って智真長老はその場を去った。

 魯智深(ろちしん)
 長老から「智」の一字をもらい、魯達は法名を授けられた。
 剃髪の際、ひげは何とか残してもらった。
 しかして僧になってはみたものの、一体何をすれば良いのだろうか。周りの僧はというと、一日中座禅を組んでいたり、経を読んでいたりするばかりだ。寺なのだから当たり前だろうが、もとより字が読めぬ魯智深は経も読めない。座禅も魯智深にとっては退屈極まりないものだった。
 趙員外の手前、はじめはそれでも何とか取り組もうとはしていた。字も少しずつではあるが覚えたようだ。
 やがて、ある冬の日。魯智深は懐かしい匂いを嗅いだ。鼻をくすぐる馥郁(ふくいく)たる香りが外から流れてきた。
 悩むまでもなくある一字が頭に閃く。
 酒、だ。
「おい、そいつは一杯いくらだ」
 飛び出した魯智深は、桶を担いできた男に尋ねた。天秤棒で大きな桶を担いだ男は、魯智真の勢いに戸惑いながらも、ご冗談を、と苦笑いする。この酒は寺で働く者たちへの売り物だという。
「冗談ではない」
 僧に酒など売ってしまえば、もうここで商売はできない。男も頑として、殺されても売らないと言い張る。
 もう幾日、酒を口にしていないのだろう。すぐ目の前にあるのに、と考えると魯智深はいらいらしてきた。
「殺しなどせんわ。頼むから売ってくれと言っているのだ」
 魯智深は思わず近くの木を殴りつけてしまった。人の腕ほどもあるその木は、みきみきと音を立て、簡単に折れてしまった。
 ひっ、と悲鳴を上げ男が逃げだした。
 むんずと魯智深は天秤棒をつかみ、引き戻す。そして男の襟首をつかみ、放り投げてしまった。
「はじめから売ればよいものを」
 桶の蓋をこじ開け、ぐびぐびと音を立てて飲み始めた。
「酒代は明日、取りに来い」
 魯智深が言うが、酒売りの男は他の僧にばれてはまずいと、ほうほうの体で逃げ帰った。
 まるまるひと桶飲み干した魯智深はすっかり良い気分になり、やにわにもろ肌脱ぎとなった。
 魯智深の胸から肩、そして背中一面には刺青が彫られてあった。血色の良くなった背中で、真っ赤な牡丹の花が雪中に映えていた。

 二度目は赦されなかった。
 先日、酒を飲んだ魯智深は酔ったまま門番を殴り飛ばし、院内で数十人と乱闘騒ぎを起こした。
 智真長老にたしなめられたが、それは赦してもらえた。
 だが、酒の味の忘れられぬ魯智深はしばらくして街へ下り、そこでしこたま飲んでしまった。酔った魯智深は、今度は山門の金剛像に喧嘩を売り、その拳で粉々に破壊してしまったのだ。
 さらに本堂に入り、手当たり次第に暴れまくる始末。まるで本物の金剛のようではないか。
 喝、と長老の声が響いた。
 はたと気付き、手を止める魯智深。困り果てた表情の長老と目が合った。
「智深よ、もうやめよ。こっちへ来るのだ」
 全身の力が抜け、酔いも醒めた。見回すと十数人の僧たちや下働きの男たちがうずくまっている。建物のあちらこちらも壊れていた。
 またやってしまった。この時ばかりは魯智深も深く反省せざるを得なかった。
 長老の部屋で向かい合って座る。
 長老の悲しげな瞳が魯智深を見つめ、やがて語り出した。
「智深や。これほどの事をしでかしたからには、もうここに置いてやる事は出来ぬ。新しい落ち着き先を手配しよう。員外どのにはわしから連絡しておく」
 魯智深は、すみません、と頭を深く下げるしかなかった。
 長老は続ける。
「お主は将来、大事(だいじ)を成す者。いずれはここから出て行く定めにあったのだ。我ら僧の本分は世の衆生を救う事。智深よ、その目で世の中を見よ。その耳で人々の声を聞け。お主にはわしらと違う方法で出来ることがあるはずだ。本意ではなかったといえ、お主も僧の端くれ。それを忘れるでないぞ」
 そして長老は満面の笑みを浮かべた。
 それは魯智深が初めて会った時の、童子のそれだった。

 東京開封府(かいほうふ)にある大相国寺(だいしょうこくじ)
 智真長老の(おとうと)弟子(でし)である智清(ちせい)禅師の元へ行くことになった。
 魯智深はもう一度、五台山を振り返った。
 まるであの騒動など無かったかのように悠然とそびえている。
 世話になったな、がはは、と東京への道を大股で歩き出した。
 手には水磨(すいま)の禅杖。|(くだん)の騒ぎで下山した際に鍛冶屋に打たせていたものだ。その重さ、実に六十二斤。十歳児ひとりほどの禅杖を片手で軽々と握っている。
 別れに際し、長老が()を授けてくれた。

 林に()って()
 山に遇って富み
 水に遇って(おこ)
 江に遇って(とま)

 魯智深にはさっぱり何の事か分からなかった。歩きながら反芻してみるが、やはり意味が分からない。
 まあ、そのうち分かるだろう。からからと笑いながらそう思った。
 空は晴れ渡り、時おり(とび)の声が聞こえていた。

破戒 三

「ついに今夜か」
 冷や汗を流しながら、(りゅう)太公がつぶやいた。
「お父様」
 娘が心配そうな顔で見つめ返す。目には涙。
 今夜、娘が嫁にゆく。本来ならば慶事だが、これは凶事だ。
 よりによって何故、うちの娘なのだ。
 よりによって何故、相手は山賊なのだ。
 刻一刻と時間が迫る。もうじき山賊がこの屋敷にやって来る。
 劉太公は祈るしかなった。
 神よ、仏よ、一体私が、娘が何をしたというのですか。どうかお救いください。
「太公」
 下男が劉太公を呼ぶ声を上げた。
 玄関の方が騒がしい。来たか。
 だが、玄関に立っていたのは山賊ではなかった。
 巨大な禅杖を携えた、巨大な僧侶だった。
 僧侶らしからぬ怪異な風貌。あまつさえひげまで蓄えている。
「すまぬが、一晩宿を貸してくれぬか」
 劉太公は、その仁王のような僧を、仏の使いだと直感した。

「そういう事ならば、わしが何とかしよう」
 訳を聞いた魯智深(ろちしん)は、そう答えた。手には大ぶりの杯を持っている。
 劉太公の娘を見染めたのは、なんと山賊なのだという。山賊は、この桃花荘(とうかそう)の近辺にある、桃花山(とうかざん)に寨を構えている。今夜、屋敷に来る婿は、そこの二人の頭領の一人であるという。
「わしは魯智深と申す。五台山(ごだいさん)智真(ちしん)長老の直弟子です。たとえ山賊だろうと、わしの説法で説き伏せて見せましょう」
 がはは、と笑い酒を飲む。
 あまりに風変りな僧である魯智深に困惑した劉太公だが、五台山の智真長老と言えば、その高名を知らぬものはない。大事な一人娘のためだ。魯智深に全てを委ねることにした。
「あんたたちは危ないから隠れていなさい。それと、もう少し酒はあるかね」
 魯智深が仏の使い、という直感を信じるしかなかった。

 日が暮れた。
 桃花山の方から太鼓や銅鑼の音が聞こえてきた。何やら歌声も聞こえてくる。それが徐々に近づいてくる。屋敷にいる劉太公や下男たちの心臓も早鐘のようだった。
 やがて山賊たちが姿を現した。四、五十の松明を手下どもがかざし、山道はまるで昼のようだ。その明かりの中心、馬上の若者が新郎だ。
 花模様の頭巾をかぶり、堂々たる体躯。涼しげな眼もとを見ると、一見好青年のようだ。しかし、彼こそ小覇王(しょうはおう)と名乗る、桃花山の頭領がひとり周通(しゅうつう)であった。
手下どもに囃したてられ笑う周通の頬がほんのり赤い。すでに酒が入っているのだろう。
「お待ちしておりました、周通どの」
 平伏し、震える声で迎える劉太公。周通は馬から慌てて降りる。
「やめてください、親父どの。今日からあんたは俺の親父なのだ」
 周通は劉太公を起こし、屋敷へと案内される。
「さて、俺の嫁はどこだい」
 頬を赤く染めた周通が、きょろきょろとあたりを見回す。
「それが恥ずかしがって、出てこないので」
 それじゃあ、まず酒を、と言って周通は考えたが、やはり娘の顔を見たいと思った。
 案内された周通は、真っ暗な部屋の中へゆっくりと入る。
「どうして迎えに出ないんだ」
 布の擦れる音がした。寝台の方にいるようだ。手探りで近づく周通。(とばり)が手に触れ、それをまくり上げる。すぐそこにいるようだ。
「恥しがる事はないだろう」
 ふと手が人肌に触れた。ぴんと張った毬のような感触だが、これはどこだろうか。
「意外と毛深いんだな」
 おや、と周通は襟元を掴まれ引き寄せられる。
「女房の腕前を見せてやろう」
 耳元でだみ声が囁きかける。顔に酒臭い息がかかる。周通は逃れようとするが、(かせ)でもはめられたように動くことができない。
「な、な、な、お前は誰だ」
 顔面に激痛が走る。さらにふらついた所へ何発かくらった。
 周通は寝室の扉ごと吹っ飛ばされ、庭に背中から落ちた。
 起き上がれずにいる周通は見た。寝室からぬっと現われた大入道を。ひげ面の入道の頭が、月明かりでてらてらと光っていた。
 大きな音を聞き、駆け付けた劉太公は目を見張った。説き伏せると言っていたが、なんと腕力で殴り伏せているではないか。
「どうした、人の腹を撫でておきながら、ただで済むと思うなよ」
 庭に下りた魯智深は、ぺきぺきと指を鳴らし始める。
 さっき触れたのはこいつの腹だったのか。暗闇でのやり取りを思い出し、周通の顔が真っ赤になる。
「ふ、ふざけるな。野郎ども、こいつを片付けてしまえ」
 周通の命令で、手下どもが駆け付ける。
 魯智深がむんずと禅杖を掴み振り回すと、唸りと共に風が起きる。
「さあ来い」
 なんだ、あの化物入道は。手下どもはすっかり縮み上がっている。
 意を決して十数人が遅いかかるも、禅杖の一振りで弾き飛ばされてしまった。
 む、と魯智深は周通が消えているのに気付いた。今の機に乗じて逃げたのか。
 残された手下どもも、捨て台詞を吐き逃げてゆく。
「和尚どの、なんという事を」
 劉太公が慌てている。
「太公どの、これがわしの説法なのです」
 と、魯智深は岩のような拳をぐっと握った。
「やつら、援軍を呼んで来るでしょう。そうなればもう終わりだ」
「心配めさるな。山賊の千や二千、ものの数ではありません。太公どのと娘さん、この桃花荘は約束通りわしが守ります」
 一人で山賊の相手をするとは、なんという僧だ。しかし先ほどの戦いを見ると、不可能とも思えない。
 とりあえず飲み直そうか、という魯智深を見て、劉太公は深いため息をついた。

 (うわばみ)か、と思うほど酒を飲んでいる。
 そろそろ桃花山の山賊たちが襲ってきてもおかしくない頃だが、魯智深はまだ酒を飲んでいる。
 しかし、何故か安心感も与えてくれるのだ。つくづく不可思議な男だ、と劉太公は思った。
 山賊たちが、と下男が報せに来た。
 来たか、と魯智深がのそりと腰をあげる。手には水磨の禅杖。劉太公も後を追い、外へ出た。
 山賊たちの表情は一様に凶悪だった。先ほどの婿入り時の陽気さの欠片も残ってはいない。
「兄貴、奴だ。あのくそ坊主だ」
 周通が指を指して吼えたてる。
 兄貴と呼ばれた男が、手にした棒を構える。この男が桃花山、第一の頭領だ。
「凶暴そうな坊主だな。ぶちのめしてくれる」
 魯智深が禅杖を地面に突く。鈍い響きと揺れが山賊たちの足元まで伝わった。
「さあ、覚悟しておけ。わしの説法はちと骨身に染みるからな」
 がはは、と一歩踏み出した時だ。
 待て、と第一の頭領が叫んだ。
「聞き覚えのある声だ。坊主、名はなんと言う」
 魯智深は、山賊め怖気づきおったか。といぶかしみながらも答える。
「わしは五台山の魯智深だ。東京(とうけい)へ行く途中、この太公に助けを求められたのだ」
 頭領は眉に皺をよせ、何やら考えている。後ろで周通が、兄貴どうした、とけしかけている。
「姓が魯、だと。俗名は何という」
「俗名だと。出家前の名は魯達(ろたつ)というが、何の関係がある」
「やはり魯達どのか。お久しゅう、私を覚えておいでか」
 突如、頭領は棒をしまい、魯智深の前で拱手した。
 周通と劉太公は二人とも、ぽかんと口を開けるばかりだった。

 桃花山の第一の頭領。それは打虎将(だこしょう)李忠(りちゅう)であった。
 渭州(いしゅう)の料亭で別れた翌日、李忠は魯達の噂を耳にした。なんと人を殴り殺したというではないか。どうしたものかと史進(ししん)を訪ねるも、すでに旅立っており、李忠も渭州を離れることにした。
 旅の途中、この桃花山で周通に襲われた。だが李忠はそれを一蹴、周通を打ちのめしてしまった。
 ぜひ頭領に、という誘いに李忠は乗った。行くあてもなく、町にいては、詮議をかけられるかもしれないからだ。
 周通は李忠を兄貴と慕った。
 つい先刻まで自分が第一の頭領だったにも関わらず、である。手下たちの反対もなかった。周通がそう言うなら、という感じだった。周通は若く、手下たちとも友人のように接していた。
 李忠は一度、どうして山賊になどなったのかと聞いた事がある。
「男に生まれたからには、やっぱり天下を目指さなくちゃ」
覇王とはいかなくても、だから小覇王なんだ、と照れくさそうに言った周通の顔を覚えている。

 三人は桃花山で酒を酌み交わした。
 李忠が話し、魯智深も経緯(いきさつ)を話した。
 周通は李忠が親しげにしているので困惑していたが、理由を知り納得した。
 魯智深が、劉太公の娘をあきらめてくれと、言った。その時も少し悩んだが、兄貴の友人の頼みなら、と承知した。
 この割り切りの良さ、気持ち良いくらいの潔さは自分にはないものだ、と李忠はいつも思う。しかし、もう少し物事に固執しても良いのではないか、とも思うのだった。
 しばらく逗留していた魯智深が出立するという。
 李忠と周通は別れの宴の手配をするから待っていてくれ、と出かけて行ったが待たなかった。止める手下を押しのけ、二人によろしく伝えてくれ、と脇道の草むらを下っていった。
 桃花山の山容を振り返る。
 何事にも慎重で細かい李忠と、良く言えば潔い周通との妙な組み合わせを思い出し、苦笑した。
 魯智深は達者でやれよ、と呟き、じゃらんと禅杖を打ち鳴らした。

破戒 四

 腹が()いた。
 昨日から何も食べていなかった。桃花山(とうかざん)での別れの宴を辞した事を悔やんだが、もう遅かった。
 日も暮れかけた頃、大きな建物が視界に入った。近づいてみるとそれは寺院らしかった。だが塀はひび割れ、門扉さえも開け放たれたままだ。門の上には朱塗りの額が架かっている。額には金文字で、瓦罐(がかん)之寺と書かれていた。
 魯智深(ろちしん)は門をくぐり、石橋を渡った。目の前にそびえる寺院はすでに廃墟と化していた。土塀は崩れ、窓や壁も壊れたままだ。建物の中にも塵が厚く積もり、兎か狐の足跡が点々と残されるだけ。天井には綿のように蜘蛛の巣が張られている。寺の守護神である羅漢像もすでに首が落ち、風雨にさらされるままだ。
 寺のあちこちを覗いて見るが人の気配がない。一縷の望みを託し、魯智深は奥にある厨房へと向かった。その奥の小屋に食べる物があるかもしれない。
 近づくと、そこに数人の老僧がいた。
 何だ、人がいるではないか。魯智深は言った。
「わしは五台山(ごだいさん)からの旅の者だ。すまぬが飯を一杯いただけませぬか」
その声に驚き、老僧たちが一斉に魯智深を見る。皆、痩せこけ骨と皮ばかりで、着物もぼろぼろになっている。座したまま手で這っている者や、何とか立ち上がろうとする者もいたが、一様に足腰が悪いようだった。僧の一人がかすれた様な声を出した。
「五台山からの、お方に、大変、申し訳ないのですが、この寺には、もう、食べる物が、ないのです」
「こんな大きな寺に、食い物が無い訳があるか。何でも良いのだ」
「うちは、檀家を、持たない、托鉢の寺、なので」
 そこへ何かの匂いが漂ってきた。魯智深が奥へ行くと、そこで(かゆ)が煮られていた。
「嘘を申すな、ここに粥があるではないか」
 ああっ、と老僧たちが魯智深にすがりついてきた。さながら地獄の餓鬼のようだ。思わず後ずさる魯智深。
「すみません、それは、托鉢で、やっと、手に入れた、米、なのです。わしらは、三日も、何も、口に、していないのです」
 老僧の一人が息も切れ切れに訴える。
「ええい、わかった。粥はお前らが食え。しかし、一体何が起きたのだ、この寺に」
 粥をかきこみながら一人が答えた。
 この寺は、僧に乗っ取られたのだ、と。

 瓦罐寺(がかんじ)は由緒ある古刹(こさつ)で、かつては僧も大勢いた。
 ある時、二人の男が寺へやって来た。一人は雲水、もう一人は道人だった。彼らが住持(じゅうじ)に居座ると、この寺の崩壊が始まった。
 寺の装飾品や仏像などを売って金にしては、酒や肉を飲み食いするようになった。二人は横暴を極め、諌める者は容赦なく殺された。だから多くいた僧も逃げ出してしまった。残されたのは足腰の弱い老僧たちのみであった。
 彼らはそれからも、どこからか金を手に入れ、毎日酒盛りをしているという。近頃は若い女を攫ってきて側に侍らせてもいるという。
 雲水の名は崔道成(さいどうせい)堅肥(かたぶと)りで、肩や腕は筋肉が盛り上がっており、肌が黒光りするほどで、生鉄仏(せいてつぶつ)と呼ばれている。
 道人の名は丘小乙(きゅうしょういつ)。青白く幽鬼のような顔だが、背が高く敏捷な事から、飛天夜叉(ひてんやしゃ)と呼ばれているという。
 彼らの正体は山賊だった。この瓦罐寺を根城とし、近隣で強奪を繰り返していたのだ。
「あ、あれが、そうです」
 老僧の指さす先に、一つの影があった。天秤を担いだ背の高い男。飛天夜叉の丘小乙だろう。
 天秤には蓮に巻かれた肉と魚が乗っているようだ。もう一方は酒の瓶だ。
 鼻歌を歌いながら歩く丘小乙の跡をつける魯智深。
 丘小乙が方丈の塀の後ろへと消えた。魯智深が覗くと、そこは開けた場所になっており、大きな(えんじゅ)の木があった。その木の下に卓が据えられていた。その上には所狭しと料理や酒が並べられている。
 魯智深は思わず唾を飲んだ。見るとすでに腰かけている色の黒い男がいた。あれが崔道成だろう。側にいる女が酒の酌をさせられている。攫われたという女だろうか。遠目にも、嫌々という感じが見てとれる。
 魯智深が姿を現すと、驚いて崔道成が立ち上がった。
「お前らが生鉄仏と飛天夜叉か。この寺を荒らした報いを受けてもらうぞ」
「どこのお方か存じないが、同じ出家の身同士、まずは話を聞いてください」
 崔道成が笑みを浮かべて言った。酒で焼けた、かすれた声だった。
「寺を荒らしたのは奥にいた老僧たちの方なのですよ。わしらはここを修復しようとしているのです」
「よくもそんな大法螺を吹けたものだな。お前たちの正体は聞いておるわ」
 魯智深は気付く。一人いない。天秤を担いでいた男が消えた。
 背後に気配。風を切る音。
 魯智深は身体を捻りながら、禅杖を横薙ぎに払った。
 丘小乙は大きく後方へ飛びすさり、魯智深と距離をとる。
 またも背後に気配。崔道成が鉄杖で打ちかかってくる。横に転がり、一撃を避けた魯智深。先ほどの口上は時間稼ぎか。
 鉄杖を握る崔道成の筋肉が盛り上がる。黒光りする体躯に血管が浮き上が る。なるほど生ける鉄の仏とは、うまく言ったものだ。吼える生鉄仏。
「おとなしく成仏しやがれ、くそ坊主が」
「ふん、こんな奴が僧を名乗るとは、長老さまが嘆き悲しむわ」
 互いの鉄杖がぶつかり合う。
 次第に生鉄仏は魯智深の膂力に押されはじめ、防戦一方となった。
「成仏するのは、お前だったようだな」
 禅杖を振り上げた魯智深の背後を、再び丘小乙の白刃が襲った。
 なんとかかわした魯智深。丘小乙は魯智深の間合いぎりぎりの所で駆け回り、隙を見ては刀を閃かせる。
 さらに、息を整え態勢を立て直した崔道成が襲いかかる。
 魯智深も吼え猛り奮闘していたが、旅の疲れと空腹がたたり、次第に腕が重くなる。
 一対一ならば負けはしないが、これでは分が悪い。
 魯智深は気合一閃、禅杖を大きく振り回すと二人を遠ざけた。
 そして一散に門を目指し、駆けた。

 赤松の林だった。
 はるか頭上を覆い隠すその様は、紅の竜の如く。張り出す枝は蛇さながらで、まるで血をぶちまけた様な赤い樹皮に、魯智深は息をのんだ。
 どうしたものかと腰を下ろすと、木々の間に動く影を見た。また山賊か、返り討ちにしてくれると身構えるが、襲ってくる気配がない。
 坊主と分かって襲うのをやめたのか。
 怒りのやり場を失った魯智真(ちしん)が叫んだ。
「おい、こそこそしてないで出て来い」
 影が再び姿を現した。
「見逃してやろうとしたのに、命が惜しくないらしいな」
 月光は鬱蒼と茂る松に遮られ、男の顔が判別できない。声からすると若いようだ。
「わしは今、機嫌が悪い。手加減はできんぞ」
 二人は暗闇の中、打ち合った。
 影の刀が縦横に閃く。丘小乙などとは比べものにならない使い手だ。
 影の攻撃を凌ぎ、距離を置く魯智深。二人は睨みあう。
 さあ続きだ、と一歩前に出た魯智深を影が制した。
「待ってくれ。あんたの声に聞きおぼえがある。和尚、名は何というのだ」
「む、近頃よく名を聞かれるが、まずは自分から名乗ったらどうだ。山賊ごときに名などないか」
 がはは、と豪快に笑う魯智深。
 弾かれたように影が身を乗り出してくる。
「やはりあんたは。私です、渭州(いしゅう)でお会いした史進(ししん)です」
「何と史進か。李忠(りちゅう)に続き、あんたにもまた会えるとは」
 急に魯智深が座り込んでしまった。怪我を負わせたのでは、と慌てる史進に言った。
「会って早々すまんが、なにか食い物を分けてくれんか」
 魯智深の腹の虫が大きく鳴いた。
 史進と魯智深は目を合わせ、笑った。

 王進(おうしん)には会えなかった。
 史進は渭州で魯智深らと別れた後、延安府(えんあんふ)へと向かった。だが折悪しく、王進は公用で長期不在中だった。
 縁があればまた会えるだろう。
 史進は、見聞を広める意味も兼ね、各地を旅する事にした。延安から北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)、はては東にある東平府(とうへいふ)にまで足を運んだ。
 半年あまりの旅程で、路銀も底を尽き、この赤松林(せきしょうりん)で強盗まがいのことをしようとしていたという。
 魯智深は乾し肉をかじり、焼餅を頬張りながら聞いていた。史進から分けてもらったものである。
「女か」
 史進は苦笑した。
 実は東平府の、とある娼妓にのめり込み、金もほとんどそこで使い果たしたのだという。
「あまりのめり込むなよ。女は怖い。後々、痛い目を見ることになるぞ、気をつけろよ」
 はは、と史進は笑って言う。
「すっかり坊主らしい事を言うようになったな」
「がはは、よせよせ」
 腹を満たした二人は、得物を手に瓦罐寺へ戻った。
 史進は門の外で様子を窺いながら待機する。
 魯智深は足を忍ばせ、まずは残された老僧たちを逃そうと厨房へと向かった。
 そこは目を覆いたくなる惨状だった。老僧たちは皆、頭をかち割られており、脳漿が床にこぼれ、血の跡がそこかしこに飛び散っていた。
 禅杖を握る魯智深の手に力が入る。
 魯智深は合掌し、すまない、とつぶやくと生鉄仏と飛天夜叉がいた場所へと駆けた。
 案の定、二人はのうのうと酒宴を再開していた。
 生鉄仏の足元に女が倒れていた。顔面は蒼白で、首がぱっくりと斬り裂かれていた。女は自らの血だまりの上で事切れていた。
「貴様ら、命乞いは聞かぬぞ。あの世へ逝く準備はできたか」
 二人を睨みつけ、魯智深が吼える。寺全体がびりびりと震えるような咆哮だった。
「死にぞこないの坊主め。地獄へ逝くのはお前の方だ」
 二人が一斉に飛びかかってくる。魯智深は崔道成に狙いをつける。禅杖と鉄杖がぶつかり合う。崔道成が後ろによろける。驚いた顔で魯智深を睨む。
「さっきのわしとは違うぞ。観念せい」
 魯智深が一歩踏み出す。
 背後から風を切る音。魯智深は振り向く事もできない。
 もらった。丘道乙が思った時、目の前に人影が飛び込んできた。
 激しい火花と共に刀が弾かれる。丘道乙の手が痺れ、刀を落とさないようにするのがやっとだった。
「正々堂々、一対一同士と行こうじゃないか」
 助太刀に入った史進が、はっ、と気合を込めて踊りかかった。

 劣勢の崔道成だったが、何とか禅杖の攻撃を防いでいた。周りには魯智深の禅杖の巻き添えを喰らった卓や石燈籠などが散乱していた。
 寺の先にある石橋で二人は戦っていた。
「しぶとい坊主だ」
 魯智深の渾身の一撃が崔道成を襲う。かろうじて受け止めたが体勢を崩し、片足を踏み外してしまった。
「ぬあっ」
 崔道成はそのまま橋の下へ落ちてしまった。
 魯智深はそれを追い、橋の下へ回り込んだ。崔道成は足を捻り、動く事ができない。
「罪もない老僧や女を手にかけたな」
 禅杖を構えゆっくりと近づく。
「お前のせいなんだぜ、くそ坊主。爺どもが、助けが来ると騒ぎだし、女も生意気に言う事を聞かなくなり、天罰が当たると喚きやがる。どっちもうるさいから黙らせただけよ」
 さらに近付く魯智深。ゆっくりと禅杖を上げてゆく。
「こう見えても、わしは本物の坊主でな。その女の言う事は正しかったな」
 ぱん、という破裂音がした。
 頭部を失った崔道成がゆっくりと崩れ落ちる。
「これでお前も、本当の仏に成れたな」
 魯智深は禅杖の血をふるい落とすと、寺へと戻って行った。

「思いあがるなよ、若造」
 飛天夜叉の名に恥じぬ俊敏さで、史進を狙う白刃。
 丘小乙のどの攻撃も必殺だった。一太刀でも当たれば致命傷は免れない、はずだった。
 だが、助太刀に現われたこの男の腕は尋常ではなかった。どれもかわされ、弾かれ、いなされる。ついには相手の刃を防ぐので精いっぱいになっている。相手は笑みさえ浮かべている。
 崔道成も防戦一方になってしまう。
 崔道成が橋の下に落ちるのが見えた。
 もうだめだ。丘小乙は残りの力を逃亡に使う事にした。背を見せ、一散に走りだす崔道成。だがそれを見逃す史進ではなかった。
「逃さん」
 丘小乙は胸に熱いものを感じた。
 見るとそれは刀だった。背中から胸を貫いた、史進の刀だった。
 ゆっくりと熱さが痛みに変わってゆく。脈が激しくなり、それに応じて痛みも大きくなる。
「思いあがっていたのは、どっちかな」
 丘小乙は、俺か、と思った。
 史進の刀がもう一度、丘小乙の体を貫いた。

 二人は厨房のかまどで火をとり、松明を灯した。それを使って寺のあちこちに火を点けてゆく。
 風にさらされ、乾ききった建物はあっという間に炎に飲み込まれてゆく。
 老僧と女の遺骸とともに、寺そのものが荼毘(だび)に付された。
 それを見つめる二人の顔が、赤々と照らされている。
 折からの強風で、火は一気に勢いを増し、紅蓮の炎は天をも焦がすようだった。
 魯智深は禅杖を立て、片手で合掌の姿勢をとっていた。
「史進よ、今の世をどう思う。旅の中、その目で何を見た」
 魯智深はじっと炎を見つめながら聞いた。
「何を見た、って。まあ、どこも役人が威張りちらしていて、庶民が泣きを見ている、とか。どこにでも山賊が出るから、おちおち安心して旅もできない、とか」
「うむ、僧の姿のわしを見ると、助けてくれと人が寄ってくる。そもそも僧は人々を救うためのもの、寺から出もせずに念仏を唱えるだけでは、何も救えない」
 魯智深はやにわに歩き出した。史進も後を追う。
「わしが山から出された意味が、これだったのかもしれんな」
「救う、って。魯達(ろたつ)、いや魯智深どの一人でか」
「わしとてそれは無理だ。だが同じ思いを持つ者が星の数ほど集まったら、どうなるのだろうか。お主や李忠と一度は別れたが、こうして再び会えた。坊主のように言うのなら、これも仏のお導き、という奴だ。この世の縁はまこと奇なり、という長老の話が少しだけ分かったような気がするよ」
「同じ思いを持つ仲間、か」
 二人はしばらく歩き、街道へたどり着いた。
 史進は少崋山へ戻るという。屋敷は失ったが、彼の帰りを待つ者たちがいるというのだ。
 東京(とうけい)への道を踏み出した魯智深が振り向いて言った。
「もう寄り道はするんじゃないぞ」
「わかったよ、和尚。なんだかあんたには、また会えるような気がするよ」
 魯智深は史進の背中を見て、今日の借りは必ず返すと誓い、旅の無事を祈った。
 禅杖を立て、片手で合掌している自分の姿に気づいた魯智深は、本当に坊主らしくなってきてしまったな、と照れ笑いをした。
 明け始めた空に、魯智深の大きな笑い声が響いていた。

破戒 五

「へぇ、さすが兄貴ですね。まさにこの世に降りてきた羅漢ですな」
 過街老鼠(かがいろうそ)張三(ちょうさん)が言う。目の大きな男だった。
「まったくだ。知っていればあんな事はしなかったのに」
 青草蛇(せいそうだ)李四(りし)が頭をかく。細長い舌をぺろりと出した。
「それぐらいにしておけ。自慢話をしている訳ではないのだ」
 魯智深(ろちしん)が手にした杯を空ける。
「わかりました。ならば俺らの自慢は、魯智深どのに会えたって事で」
「まったく、口の減らない男だ」
 どっ、と笑い声が上がる。
 三人の周りでは三十人ほどの男たちが、同じように酒を飲んでいる。
 どれも、ならず者、といった言葉がぴったりするような顔立ちだった。

 史進(ししん)と別れた魯智深は、無事に目的地である東京(とうけい)開封府(かいほうふ)は大相国寺へとたどり着いた。そこで智真(ちしん)長老の弟弟子にあたる智清禅師と会い、役職を与えられた。
寺から離れた、酸棗門(さんそうもん)の外にある菜園の管理という仕事だった。下の役職から勤め上げ、徐々に高位に上がるのだ、と説き伏せられたが、(てい)の良い厄介払いだった。
 魯智深は気にすることもなく、菜園へと向かった。
 菜園はこれまで老僧が管理していたため、常にならず者たちが出入りしていた。野菜を盗んで金にしていたのである。
 張三と李四は、そのならず者たちの(かしら)だった。
 新しい管理人が来ると聞き、早速痛めつけてやろうと考えたが、魯智深に敵うはずもない。あっけなく返り討ちにされてしまい、魯智深を親分、兄貴と慕うようになってしまったのだ。
 そうして春の陽気の中、菜園の(かたわ)らで、一同は魯智深の武勇譚を聞いていたのである。
 張三が東京の出来事を面白おかしく話し、李四が合の手を入れる。
 酒もすすみ、魯智深も上機嫌だ。
「しかし、みな大層な渾名(あだな)を持っているものだ。生鉄仏(せいてつぶつ)飛天夜叉(ひてんやしゃ)小覇王(しょうはおう)などという者もいたな。お前らでさえ、過街老鼠に青草蛇か」
「へへ、まったく名前負けで、申し訳ありません。では兄貴は何と呼ばれているので」
「わしか。わしは渾名などいらんよ」
「何をおっしゃいます。好漢に渾名は付き物、俺が考えましょう」
「おい李四、お前の頭で思いつくのかよ」
 張三の言葉に、笑い声が上がる。
 その時、ふいに門外で(からす)が鳴いた。
 すると一同がぶつぶつと何かを唱え始めた。何だ、と聞くと、厄払いの(まじな)いだという。烏が鳴くと悶着が起きる、と信じられているのだ。
 門を出ると脇に大きな柳が生えていた。大人の男の胴ほどの太さはあろう柳の上の枝に、確かに烏の巣があった。
 張三が梯子を取りに行かせようとしたが、待て、と魯智深が進みでた。
 酔って上機嫌の魯智深は上着を脱ぎ捨てる。赤く染まった肌に牡丹が咲き乱れている。
 両手でさかしまに抱きつくと腰を落とし、力を入れる。肩や腕の筋肉が盛り上がり、柳が悲鳴を上げ、地面から引き抜かれた。魯智深が柳を放り投げ、地響きが起きる。
 李四が叫んだ。
「さすがは花和尚(かおしょう)
 花和尚、刺青(いれずみ)和尚か。
 金剛、羅漢などの大層な渾名より、よっぽど自分らしいではないか。
 魯智深はあご髭をさすりながら、満更でもない様子でにやりと笑った。

流転 一

 林冲(りんちゅう)は、奇っ怪な男を見た。
 妻と嶽廟(がくびょう)参りの途中だった。
 通りかかった菜園の中から、(ごう)と渦巻く風の唸り声を聞いた。妻と女中を先に行かせ、足を止め中を覗いた。
 禿頭(とくとう)の巨漢が上半身を露わにし、巨大な水磨禅杖を振り回していた。背中には牡丹の刺青。
 ここは大相国寺が管轄しているはずだ。とすれば、あの男は僧なのか。
 見物しているならず者たちが、花和尚(かおしょう)、花和尚、と囃したてている。
 やはり僧らしい。
 それにしても何という怪力だ。禅杖が木でできているのではないかと思わせるほど、軽々と操っている。力だけではない、確かな腕前も持ち合わせているのが分かる。
 取り巻きの一人がこちらへやって来て、中に招かれた。
 林冲が拱手して言う。
「申し訳ない。あまりの腕前に見蕩れてしまい、失礼をしました」
「いえいえ、ほんの手慰みです」
 林冲と魯智深(ろちしん)は互いに名乗り合った。
 魯智深は若い頃、東京(とうけい)にいた事があり、堤轄をしていた林冲の父の事を知っているという。なんという巡り合わせだ。
 林冲は禁軍で槍棒(そうぼう)術の教頭をしていた。愛用の得物は蛇矛(だぼう)
 凛とした風貌とは裏腹に、こと戦いに関しては獣のような面も見せることから、同輩や部下たちから豹子頭(ひょうしとう)と呼ばれていた。同じく蛇茅を得意とした、かの張飛(ちょうひ)を想起させた。
 魯智深と林冲、彼らが意気投合するのは必然で、すぐに義兄弟の杯を交わした。歳の順で林冲が弟だ。
 強さを求めることに貪欲で、また腕のある者との交流を願っていた林冲にとって、この出会いは至福の喜びとなった。
「旦那さま、奥様が」
 女中の錦児(きんじ)が息を切らせて駆けこんで来た。
 慌てて嶽廟に駆けつけた林冲は妻を探した。
 五嶽楼の欄干に数人のごろつき達がいた。めいめい物騒な物を持っている。その向こうに妻がいた。そして向かい合う若い男が引きとめている。
「なあ、良いだろう、話をするだけだ。ちょっとあそこの二階まで一緒に行こう」
 言い寄る男に林冲の妻は毅然と言い放つ。
「やめてください。私は夫のある身です。恥を知りなさい」
「怒った顔もまた綺麗だなぁ。嫌よ嫌よも、なんだろう」
 若い男は、まだ雀斑(そばかす)の残る顔をにやつかせ、手を伸ばす。
「貴様。人の女房に手を出すとは」
 林冲が飛び込み拳を振り上げ、男を睨む。
「お前は」
 その顔に見覚えがあった。
 東京の太尉である高俅(こうきゅう)の養子であった。
 林冲の拳は行き場を失い、震えていた。

 花花太歳(かかたいさい)高衙内(こうがない)、そう呼ばれていた。女たらしの疫病神という意味だ。
 子の無かった高俅は叔父の子を養子とした。それが高衙内だった。
 高俅は彼を甘やかし、また高衙内も養父の権勢を笠に着て、やりたい放題だった。誰もが高俅を怖れており、火中の栗を進んで拾う者などいなかったのだ。
 高衙内はますます増長し、ついには他人の妻にまで手を出すようになっていたのである。
 禁軍教頭の林冲ではないか。この女は、こいつの女房だったのか。知っていれば手を出さずにいたものの、時すでに遅し。
 だが林冲は自分を殴れなかった。高衙内はにやりと笑う。
 心中、冷や汗をかきながらそれをおくびにも出さず、林冲に指を突き付けた。
「林冲ではないか。なんだその手は」
 林冲は口を固く結び、睨みつけている。その目は獣のようだった。
「ちょっと声をかけていただけではないか。もういい、興ざめだ。行くぞ」
 体の震えを何とか抑え込み、体面を保つ高衙内。そんな事だけは一流だった。
 手下どもを連れ、その場を去る高衙内。林冲はその背中を睨んだままだ。
 あなた、と妻が傍へ寄る。
「私は大丈夫です。気になさらぬよう」
「すまない」
 気丈な妻だ。誇らしく思う。
 その後、助太刀に駆けつけた魯智深をなだめ、嶽廟を後にした。
 林冲はじっと拳を見る。
 殴ろうとした。
 殴りたかった。だが殴れなかった。
 負けた。青白い若造ひとりに、負けた。
 高衙内の背後にある、権力というものに負けた。
「官を怖れず、ただ管を怖れる、か」
 林冲は王進(おうしん)の事を思い出していた。
 禁軍最強とも讃えられた王進も、高俅から逃れるため都を去った。
 林冲はゆっくりと拳を開くと歩きだした。
 妻が心配そうな顔で見つめている。
 俺は妻を守ったのだ。そう言い聞かせるしかなかった。
 今夜は飲もう。
 我を忘れるくらい飲もうと、林冲は決めた。

流転 二

 病です。
 富安(ふうあん)はそう言った。
 高衙内(こうがない)はあの日以来、鬱々として心が晴れなかった。
 目を閉じれば瞼の裏に、ある顔が浮かんでくる。五嶽楼で見つけた、林冲(りんちゅう)の妻である。
 澄んだ目もと。柔らかく弧を描く眉。ほどよく膨らんだ、艶やかな唇。たおやかな体つき。白魚のような指先。嫌がって怒った表情もまた美しかった。
 気晴らしに女遊びをしてみたが、かえって違いを痛感するばかりだった。飯も喉に通らず、日がな溜息ばかりつくようになった。
 それを見た太鼓持ちの富安は、高衙内の心中を看破した。
「若さま、それが恋の病という奴でございます。よっぽど美しい女性なのでしょうな」
「おい乾鳥頭(かんちょうとう)、これが恋だというのか」
「そうです。その方を想うだけで、胸が痛みましょう」
「その通りだ。どうすれば治るのだろうか」
 胸の辺りを押さえる高衙内。
「それがしに良い考えがございます」
 富安は下卑た笑いを浮かべ、手を揉んだ。

 林冲は友人と飲んでいた。
 虞候(ぐこう)を務める陸謙(りくけん)という男で、兄弟のような間柄だった。
 陸謙はここしばらくふさぎ込んでいた林冲を樊楼(はんろう)に誘った。
 二階に上がり、酒を飲む。
 二人は四方山話に花を咲かせていたが、酒が進むと林冲の言葉数が減り、溜息をつくようになった。
「どうしたのだ。しばらく姿を見ないと思ったから誘ったのだが、何かあったのか」
「うむ」
 と、林冲は一気に杯を干すとおもむろに語り出した。
 先日の五嶽楼での件である。そして、どうしたものか、とひときわ大きな溜息をついた。
(こう)の若さまも、お前の女房だと知らなかったのさ。もう済んだ事だ、さあ飲もう」
 陸謙の酌を受け、それを飲む。
 すると突然、旦那さま、と呼ぶ声がする。窓の外を見ると、錦児(きんじ)が血相を変えた様子で立っていた。
「旦那さま、探しましたよ。奥様が、奥様が」
 錦児の言葉に、林冲は外へ飛び出す。
「妻はどこだ」
「陸謙さまの」
 家に、という言葉を待たずに林冲は駆けだした。
 最初、陸謙は自分の家で飲もうと誘ってきた。だから妻も錦児もそう思っていたのだ。だが、途中で場所を樊楼に変えた。はじめから仕組まれていた事だったのか。
 陸謙の家に着き、破らんばかりの勢いで戸を叩く。
「開けろ、開けるんだ」
 林冲はついに戸を破り、中へ飛び込む。人の気配が二階からする。梯子段を一足飛びに駆け上がると、その勢いで部屋の戸を開けた。
「あなた」
 力なく床に座り込んだ妻がいた。他には誰もいない。
 林冲は妻の肩を抱き寄せる。
「梅雪、大丈夫か。奴は、どこへ行った」
 ゆるゆると窓を指す梅雪。
 窓が開いている。どうやらそこから逃げ出したようだ。
「すまなかった」
 貞操は奪われなかったというが、林冲の怒りは心頭に達していた。
 近くにあった棒のようなものを手にすると、部屋の調度などあらゆるものを力任せに破壊した。近隣の者も、関わり合いになるのを怖れて戸口を閉めている。
 追いついた錦児に妻を任せ、林冲はそのまま樊楼へと戻った。
 すでに陸謙の姿はなかった。
「陸謙、覚えておけ」
 そう叫ぶ林冲の目は獣のようなそれだった。

 本当に胸が痛い。
 林冲が倒れたと偽り、陸謙の家までおびき出したまでは良かった。だが、あの女はどんなに優しくしても、どんなになだめすかしても、決してなびこうとはしなかった。
 堪忍袋の緒が切れ、ついに実力行使に及ぼうとした時、あの男が現われた。
 獣のような目。
 五嶽楼で見たあの目が、高衙内を怯えさせていた。
 高衙内はますますやつれ、部屋からも出てこなくなってしまった。
「どうするのだ、富安」
「陸謙どの。若さまにこれ以上何かあれば、わしもあんたもただではすまんぞ」
「お前がうまくゆくと言ったから、俺は友を裏切ってまでこんな事をしたのだ。あれから外を歩く事もできん」
「ふん、金と地位に目がくらんだくせにいまさら何を言う」
 相談する二人の元へ報せが届いた。
 高俅(こうきゅう)の執事が、高衙内の見舞いに来るというのだ。
 こうなれば隠す事はできない。
 毒を食らわば皿まで、だ。高俅の力で何とかしてもらうしかない。
 富安は、見舞いを終えた執事を待ち伏せた。
「執事どの、若さまの件でお話がございます」
「おお、若君は一体どうしたのだ。あんなにやつれられて」
「医者には治せぬ病にございます。しかし、たった一つだけ治す方法がございます」
 富安からの方法を聞いた執事は、高俅の元へ向かった。
「どうだった、息子の様子は」
 眉に皺を寄せ、深刻な顔をする執事。
「あまり(かんば)しくございません」
 なんだと、と言いかける高俅を制し、執事は続けた。
「太尉さま、禁軍教頭の林冲という男をご存知ですか」
 ぴくりと高俅の眉が動いた。
 また禁軍教頭か。王進(おうしん)という男といい、どうにも自分とは奇縁があるようだ。
 息子と武官ひとりとどちらを取るのか、考えるまでもなかった。
 高俅は不敵な笑みを浮かべていた。

流転 三

 誰か訪ねてきた。
 林冲(りんちゅう)は手に得物を握り、身構えた。
 魯智深(ろちしん)だと錦児(きんじ)が告げた。
 ふう、と溜息をひとつつき、肩の力を抜く。
 友に裏切られたあの日から、どうも過敏になっているようだ。気にしないようにと妻の梅雪はなだめるが、怒りはふつふつと胸の内で煮えたぎるばかりだった。
「どうした林冲。しばらく顔を見せなかったではないか」
「申し訳ありません。少し仕事でごたごたが続きまして」
 二人は居酒屋に場所を移した。
 魯智深に迷惑をかけてはならない。そう林冲は決めていた。
 だが酒が進み、目も座ってくると、つい愚痴が口をついて出る。
「どうして今の世は文官ばかりが威張り散らしておるのだ。国を荒らす賊どもや、辺境の異民族を制しているのは、我ら武官ではないか。堤轄だった兄貴なら分かるだろう、この思いが」
「おいおいどうした、今日は荒れておるではないか」
 質問を肯定するでもなく、魯智深は林冲に酒を()いだ。
 (そう)以前の王朝では、有力な軍人が皇帝に取って代わることが何度も行われてきた。宋を興した趙匡胤(ちょうきょういん)はそれを嫌い、軍人の権限を削ぐ事に注力した。かくしてそれは成功した。
 役人登用試験である科挙(かきょ)の重要性が一段と増し、採用された文官の地位が向上する事となった。特に高官の権力は留まることを知らず、積極的に身内を登用したり、賄賂の横行が暗黙の了解となり、やがて政治は腐敗を極めた。
 彼らの気に入らない者は、誰であれ首が飛ぶ。禁軍の教頭であった王進(おうしん)が、まさにそれであった。陸謙(りくけん)もまた、高俅(こうきゅう)の権力に負け、林冲を裏切った。
 この国は腐っている、と林冲が乱暴に杯を置いた。
 林冲の身に何か起きているのか。魯智深は自分の杯に酒を注ぎながら静かに言う。
「わしはお主の味方だ。何が起きようと、どんな時でもな」
 ぐい、と飲み干すと
「いずれ綻びは繕われるのが定め。国も、人も、それが世の常だろうよ。おっと、坊主のような事を言ってしまったか」
 がはは、と笑う魯智深につられ林冲も笑う。
 曇天の雲間から、陽光が差し込んだ気がした。

 林冲は魯智深と別れ、帰路へついた。
 帰り道、刀を目の前に置き、ぶつぶつと言っている大男を見た。
 刀には札がつけられており、売り物として置いているようだ。男は汚れた戦袍を着ており、どうやら武官のようだった。
「この東京(とうけい)に目利きはおらんのか。この刀はむざむざ埋もれてしまうのか」
 林冲の心が動いた。武芸に関わる者で武器に興味のない者などいない。特に林冲は名剣、名刀の類を自らも収集するほどだった。あまりの熱中ぶりに、新婚時は妻に呆れられたほどだ。
 しばらく封印していた気持ちが首をもたげる。
 大男は林冲の視線に気づくと、ゆっくりと刀を鞘から抜いて見せた。
 林冲の背筋に冷気が走る。
 覗いた刀身からは気が立ち昇るようだ。林冲の視線は刀に釘付けとなった。まぎれもない業物(わざもの)である。
「いくらだ」
 思わず口走っていた。
「三千貫、と言いたいが、二千貫にしておこう」
 高い。だがそこまでの価値はある名刀には違いない。
 欲しい。林冲は悩んだ。
「確かに二千貫の値打ちはあるな。だがわしもそこまでは出せぬ。どうだろう、一千までなら出せるのだが」
「なんだと、(いにしえ)の名剣、太阿巨闕(たいあきょけつ)莫邪干将(ばくやかんしょう)とまではいかんが、この先祖伝来の宝刀を一千と申すのか」
 男は刀身を鞘に収め、じっとしている。しばらくぶつぶつと何やら呟いていたが、林冲を見ると、仕方ない、と言った。
 平静を装ってはいるが、心中では飛び上がるほど嬉しい林冲。
 男を待たせ、家から銭を持ってくると、刀と交換した。両手で感じる刀の重みに、おお、と感嘆の声を漏らしてしまう。
 先祖の名は言えないという。落ちぶれて金に困って売るのだ、恥はさらしたくないとの理由だった。
 家に帰ると部屋にこもり、ずっと眺めていた。
 見れば見るほど名刀だ。刃の鍛え方、刀身の素晴らしさ。柄や鞘の造形に至るまで見蕩れるしかなかった。
 すっかり、林冲は刀の虜となってしまった。
 夜明け前に起き出し、飽きることなく眺めている林冲に、梅雪は呆れるばかりだった。
 だがそんな子供っぽい夫を見て、梅雪は思わず微笑むのだった。

 翌日の事である。
 高俅の使いと称する者たちがやって来た。
 高俅が自分の持つ宝刀と、林冲の手に入れた宝刀とを比べたいので屋敷に来るように、という通達だった。
 どこぞのお喋りが高俅の耳に入れたのか。高衙内(こうがない)の一件もあり、あまり気が進まない林冲ではあったが、太尉の命令であれば仕方あるまい。林冲は正装し、高俅の屋敷へと向かった。
 大きな屋敷だった。その大きさは高俅の持つ権力の大きさそのものなのだろう。
 奥の間にいる、と使いの男は言った。屋敷の奥へ入り、さらに二つ三つ、部屋を抜けてゆく。どれだけ部屋や広間があるのだろうか。
 取り次ぐのでここで待つようにと言い、使いたちが奥へ消えた。
 白虎節堂(びゃっこせつどう)、と書かれた額が見えた。周りは全て翠の欄干である。
 待てと言われたが、使いも戻って来ず、高俅も現われない。
 ふと、林冲は気付いた。ここは軍の大事(だいじ)を評議する場所だ。いくら高俅に呼ばれたからとはいえ居るべきではない。
 と、堂の外へ出ようとした時である。
 高らかな靴音と共に高俅が堂に現われた。
 林冲は近づき、礼をする。高俅の顔がこわばった。
「貴様、何故この白虎節堂におるのだ。ここは評議時以外立ち入ることは赦されておらんのだぞ。法度(はっと)を知らぬのか、林冲よ」
「お言葉ですが、太尉どの。私は使いの者に呼ばれ、太尉どのが刀比べをご所望とお聞きして参上した次第」
 林冲は持ってきた刀を高俅に見せる。
「刀だと。む、貴様その刀でわしを斬ろうというのか。謀反を起こす気だな、この林冲を捕えよ」
 白虎節堂の脇から二十人ほどの兵が飛び出し、林冲を囲む。
 悲しいかな、これが武芸者の性(さが)か。林冲は身の危険を察し、手にしていた宝刀を思わず抜いてしまった。
「見ろ、刀を抜いたぞ。やはり謀反だ。わしを殺す気なのだ」
しまった、と刀を鞘へ戻すが時すでに遅し。林冲は取り押さえられ、床に這いつくばる。
「違う、濡れ衣です。私はあなたに呼ばれて」
「わしはそのような申し出をした覚えはない。第一、その使いの者とやらはどこにいるのというのだ」
「その者たちは、この白虎節堂の奥へと入って」
「馬鹿を言うな。この奥へは、わしのような高官のみが立ち入れる場所。使いのような者など入れる訳がなかろう」
 しかし確かに、と林冲は続けようとするが、兵たちに抑えつけられ声も出せなくなった。
 どうしてこんな事を。なにかの間違いだ。説明すれば、分かってもらえる。
 高俅が近づいてくる。顔をそっと林冲の耳元に寄せ、彼だけに囁いた。
「林冲よ、お主が悪いのだぞ。女房の事など目をつむっておけば良かったものを」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
 花花太歳(かかたいさい)か。息子のためか。
 全てが仕組まれた事だったのか。
 どこまで非道なのだ。どこまで非情なのだ。
 赦さぬ、赦さぬぞ、高俅。
 歯を食いしばり、歯の根元から血が滲みだしている。充血し、手負いの獣よりも凶暴な目が高俅を睨みつけている。
 拘束している兵たちに恐怖と焦りが見える。
 恐ろしいほどの力を感じる。唸り声を上げながら立ちあがろうとする林冲。
 二十人の力を押し返している。ついに腹が床から離れた。
 どこからこんな力が。
 あり得ない光景を目の当たりに、高俅は驚愕した。
 兵たちも食いしばる。だがこれ以上、押さえることはできない。
 その時、林冲は再び頭に衝撃を感じた。今度は本物の鈍器だった。
 林冲は小さく呻くと気を失った。支えを失った兵たちが林冲の体を押しつぶした。
 高俅は命令を出し、林冲を役所へと送った。
 冷や汗をぬぐいながら、安堵の息を吐く。
 しかしこの時見た獣の目に長い間悩まされる事になろうとは、高俅はまだ知る由もなかった。

流転 四

林冲(りんちゅう)どのは濡れ衣を着せられたのです。彼を救ってやるべきです」
 孔目の孫定(そんてい)は憤慨していた。
 この孫定、孔目(こうもく)いわゆる文書係を務めており、善を好み剛直な性格でよく人助けをしていた。そのため仏の孫さん、孫仏児(そんふつじ)と慕われていた。
 府尹は困っていた。
「林冲の罪はすでに指定されておるのだ。凶器所持の上、不法侵入。さらに高太尉の殺害未遂。ゆえに死罪にせよ、とな」
「この開封府(かいほうふ)は太尉の私物なのですか」
 う、と言葉に詰まる府尹。
 府尹も、高俅(こうきゅう)が権力を振りかざし、好き放題している事は腹に据えかねるところではあった。あご髭を捻りつつ孫定に尋ねる。
「ならばこの一件、どう決着をつけるのだ」
 孫定は、得たりという顔をする。
「ありがとうございます、府尹さま」
 林冲は死罪から免れることができた。
 しかし、謀られたとはいえ、帯刀したまま白虎節堂に立ち入った事は揺るがない事実である。その点を林冲に認めさせた。だが、あくまでも誤って、という事を考慮し、棒打ち二十回の上、流罪という判決になった。
 屋敷で報告を受けた高俅も承知するしかなかった。
 今回は分が悪かった。普段から品行方正な林冲には、孫定をはじめとして味方が多くいた。
 だが、あの男は殺しておかなくてはならない。何としても、だ。
 あの目、今にも襲いかかってきそうな目。あれから幾度夢に見た事か。
 高俅は目を開けると、陸謙(りくけん)を呼べ、と命じた。

 流罪先は滄州(そうしゅう)と決まった。
 北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)から北東、渤海(ぼっかい)の近くにある州だ。
 董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)、二人の護送役人が林冲を連れている。大きな首枷をはめられていた。
 妻がいる。舅の張教頭がいる。錦児(きんじ)がいた。近隣の親しい者たちも心配して駆け付けてくれたようだ。
「婿どの、大事ないか」
 張教頭が優しげな目で言う。妻、梅雪の父である。
「孫孔目のおかげで罪が軽くなりました。棒打ちも大したことはありません」
 林冲は一度、目を伏せると義父に告げた。
義父上(ちちうえ)、この度は思いもよらぬ災難に会い、滄州へと流される事となりました。この先どうなる事か生死もおぼつかない次第。妻の若い身空を想うと、あまりに不憫。つきましては離縁のお赦しをいただきたい」
「な、馬鹿な事を申すな。わしらはお主が無実だと知っておる。ひとまず災厄が通り過ぎるのを待ち、戻ったら再び娘と添い遂げるのだ。天は決してお見捨てにはならんさ」
 林冲の胸に熱いものが込み上げる。
 本当にありがたい、だが己も決めたのだ。
「不安なのです。会う事ができないものを、互いに(いたずら)に待ち続ける事になりそうで。どうか私の願いを聞いてください。そうすれば安心して目もつむれましょう」
 張教頭も知っていた。自分も頑固だが、林冲もそれに輪をかけて頑固なのだ。
 お互い武の道を進む者。口にした事を曲げはしない。
「そこまで言うのなら、わかった。娘は錦児と共にわしが引き取ろう。あとの事は心配せず、安心して行きなさい」
「あなた」
 梅雪は錦児に支えられ、大粒の涙を隠そうともしない。
「良い相手を見つけるのだぞ」
 離縁状を書き上げ、押印し張教頭に手渡す。
「確かに受け取った。だが、安心しろ。娘はどこにもやらん。お主ほどの男が他にいてたまるか」
「ずっとお待ちしております。道中のご無事をお祈りしております」
 ふいに梅雪の顔が土気色になりよろめく。錦児が慌てて支えた。
 林冲は駆け寄りたかったが、二人の護送役人に阻まれた。
 早くしろ、と急かされる。
 林冲は一同を振り返ると、深々と頭を下げた。
 必ず帰ってくる。
 梅雪のためにも、義父(ちち)のためにも。
 信じてくれている人々のためにも。
 そして自分を陥れた高俅に会うため。
 復讐のために。
 長い旅になりそうだ。
 林冲はゆっくりと、その一歩を踏み出した。

 董超と薛覇は目を合わせ、何かを確認するようにうなずいた。
 前日の事である。一人の男が、彼らの元にやって来た。
 黒ずくめの恰好で、頭巾をかぶり目元のみが見えていた。男は二人を酒食でもてなした後、おもむろに切り出した。
 林冲を殺してほしい、と。
 顔を見合わせる董超と薛覇。男は高太尉の密命だ、と続けた。
 さらにうまくいけば報酬も出るという。二人には一生かかっても手に入れられないほどの金額であった。
 枷をつけているとはいえ、林冲は武芸の達人。かたや董超と薛覇は素人同然。下手はできぬ、と方法を考えあぐねていた。
 滄州までおよそ千二百里。長い旅だ。
 さすがの林冲も刑罰で受けた傷が痛みだし、足を引きずるようになった。夏の暑さもじりじりと林冲の体力を奪っていった。
 ある夜、宿屋での事である。
 薛覇がたらいにお湯を張って持ってきた。
「長旅で疲れているだろう。俺が足の汚れを落としてやるよ」
「いえいえ、そんな事させられません」
「なに、遠慮する事はないさ。俺たちは旅の道連れじゃないか」
 では、と足を伸ばした林冲。
 激痛が走る。
 お湯は煮えたぎるほどの熱湯だったのだ。薛覇が足を、董超は肩を掴み林冲を押さえる。
 何とか足を抜いた時には、すでに真っ赤に腫れあがっており、皮膚が脈打つのが分かった。あっという間に水ぶくれができ、唸る林冲。
「なんだ、せっかく好意でやったのに、文句があるのか」
 文句を言う薛覇に林冲は、いえ、と言うしかなかった。
 翌朝、董超が新しい草鞋(わらじ)をくれた。
「前のはかなりくたびれていたろう。これを使うと良い」
 礼は言ったものの、ぴんと突き出た麻がひと足ごとに刺さる。
 水ぶくれがつぶれ、血が流れ出る。
「どうだ新しい草鞋は良いだろう」
 董超はいやらしい笑いを浮かべる。
 歯を食いしばり歩こうとするが、足が出ない。痛みは増してゆき、まるで足を炭火の中に突っ込んでいるようだ。
 薛覇はふらふらと歩く林冲の手をとった。
「辛そうだな。手を貸してやるよ」
 そう言って、無理矢理に歩かせる。
 気を失いそうだ。血まみれの足が見えるが、もはや感覚もなくなった。自分の足ではないようだ。それでも耐えなければならない。
 絶対に帰るのだ。梅雪よ。
 ぶつぶつとうわごとを言いだした林冲を見て、二人は顔を見合わせた。
 頃合いか。
 道の先に林が見えてきた。煙と霧に閉ざされた、鬱蒼と茂る野猪林(やちょりん)
 東京(とうけい)と滄州間の第一の難関であった。

「ちょっと疲れたな。ここでひと眠りしてゆこう」
 林へ入ると、董超はそう言って荷を下ろした。
 薛覇が林冲を見ながら言う。
「こいつが逃げ出さないか心配だな」
「何をおっしゃいます。この林冲、逃げも隠れもしませんよ」
 痩せても枯れても禁軍教頭の誇りは持っている。
 そうかい、と薛覇は続ける。
「だが、縄をかけさせてくれれば安心できるのだがな」
「お好きなように」
 董超が縄を取り出し、林冲を近くの木に縛りつける。
 すまんな、と言い二人が水火棍(すいかこん)を手にする。
「おい林冲、俺たちを恨むなよ」
「俺たちは高太尉の命令で、仕方なくやるんだからな」
 董超と薛覇がじりじりと近づく。
 すでに高俅の手が回っていたのだ。彼らの責任ではない。彼らが高俅の命令に逆らえるわけがないのだ。
「董どの、薛どの。私たちは何の恨みつらみも無い者同士。命を拾い上げてはくださらぬか。一生の恩に着ましょう」
 うう、と董超が呻く。薛覇も渋い顔をしている。
「すまんな林冲、あんたに恨みはないのだ。頼むから化けて出るなよ」
 薛覇が水火棍を勢いよく振り下ろす。狙いは林冲の脳天だ。
 もはやこれまで、と林冲は目を閉じた。
 次の瞬間、激しい音と共に水火棍が弾き飛ばされた。
「危ない所だったな」
 はっと目を開く林冲。
 (まご)うことなきその声は魯智深(ろちしん)のものだった。
 二人は木の後ろから現われた大入道を見て驚く。
「なんだ、この坊主は」
「お前らの企みは全部聞いていたぞ」
 禅杖を大きく振りかぶり、董超と薛覇に狙いを定める。
「待ってくれ、魯の兄貴」
 む、と魯智深が手を止める。
「彼らは高俅の命令に従ったまでの事。勘弁してやってくれないか」
「林冲よ、優しすぎるぜ。だが、そこが気に入ってるんだがな」
 魯智深は董超と薛覇に向かって吼える。
「兄弟の取り成しがなかったら、お前ら今ごろこうなっているところだ、林冲の兄弟に感謝するんだな」
 そう言って、近くの大木を禅杖の一撃で叩き折ってしまった。
 二人は声も出せずに固まった。
 魯智深は縄をほどき、林冲を解放する。
 林冲が投獄され、魯智深は救う手立てを探っていたという。そして高俅の屋敷から出てきた黒ずくめの男の後を追い、居酒屋に入った。そしてそこで暗殺計画を聞いた。決行するならばこの野猪林だろうとふんで、先回りしていたのだという。
 魯智深には感謝してもしきれぬほどだ。思わず目頭が熱くなる。
 ふと、気が遠くなりかけた。魯智深に救われた安心から、これまでの疲労がどっと押し寄せたのだろう。
 魯智深は董超と薛覇に命じて、交代で林冲を背負わせることにした。そうして滄州への旅が再開された。
 まるで俺たちがあの坊主に護送されているみたいだ。董超はそう考えるも、魯智深の監視の目は厳しく、気の休まる暇もない。
 薛覇と董超は思い当たった。近頃、大相国寺の菜園に魯智深というとんでもない坊主が来たと聞いた。もしやこの坊主がそうなのではないのか。
 あの時、林冲も魯の兄貴と叫んでいたようだ。だとすればますます逆らう事などできはしない。
 二人は高俅にありのまま報告する事に決めた。金も返そう。命あっての物種だ。
 そうして旅をするうち、林冲の火傷も体力もすっかり回復したようだ。
 魯智深が林冲を護衛して半月少し、滄州まであと七十里あまりとなった。人家が目立ちはじめ、林冲に手を出せそうな場所はもう無さそうだ。すでに手を出す気は無くなっているようだったが。
「ここらで良いだろう。あとは二人とも下手な考えを起こすのではないぞ」
「滅相もございません」
 二人は震えるばかりだ。
 林冲は枷をしたまま拱手する。
「本当に何と礼を言ったら良いのか。魯の兄貴、高俅の手の者が兄貴を狙うかもしれん。十分気をつけてくれ」
「そんな目に遇ってもわしの心配をするのか。まったく敵わぬな」
 がはは、と笑って魯智深は立ち去った。
 大きな背中を見て、林冲は心中で感謝していた。
「林冲どの、あの方はもしかして」
 董超が恐る恐る聞いてきた。
 そう彼こそ花和尚(かおしょう)の魯智深だ、と答えた林冲はどこか誇らしい気持ちになった。

 滄州の郊外にたどり着いた三人は、路傍の居酒屋に入った。
 魯智深の監視から解放され、董超と薛覇は久しぶりに落ち着いた気持ちになった。
 店内では給仕が忙しそうに走り回っているが、一向に注文を取りに来ない。いらいらした林冲は、俺が罪人だから高をくくっているのか、と考えたが実情は違った。
 店主の話では、この横海群(おうかいぐん)に、とある大金持ちがいるのだという。
 彼は武芸を好み、あちこちから流れてくる好漢たちの面倒を見ているのだという。だから罪人などが店に来たら屋敷へ行かせるようにしているのだ。酒など飲んでいたら、金に不自由していないと思われ相手にされないだろうから、という店主の好意だったのだ。
 その男の名は柴進(さいしん)。土地の者は柴大官人とも呼んでいる。
 東京にいた頃、林冲もその名を耳にした事があった。これも何かの縁、と三人は屋敷を訪ねる事にした。
 二、三里先にさっそく大きな屋敷が見えてきた。
 四方を川が取り巻き、両岸に(しだれ)(やなぎ)が茂っている。まるで柳林の中に屋敷があるようだ。
 石橋を渡り、下男に柴進への取り次ぎを頼む。だが、折悪しく柴進は朝から狩りに出かけて留守だというのだ。
 酒食にあずかろうと目論んでいた董超と薛覇は、あからさまにがっかりした顔を見せる。
 仕方あるまい、ともと来た道を戻ると、遠くの林から人馬の一隊が駆けてきた。
 刺叉(さすまた)を持った男たちが駆けており、足元に猟犬を連れている。馬上の人々は一様に矢を背負い、弓を肩から掛けている。
 そしてその中央に、守られるようにして馬を駆っている男がいた。
 年の頃は三十四、五だろうか。瀟洒な衣装に身を包み、宝玉を散りばめた帯をしている。端正な顔立ちで、遠目にも高貴な雰囲気が漂っているのが見てとれる。
 この人物が柴進なのだろうか。
 一団が近づいて、林冲に声をかけてきた。
「どうやらお困りのようですね。私は柴進と申します。あなたの名は」
 やはり、この馬上の男が柴進だった。
「もと東京禁軍教頭、名は林冲と申します」
 おおあなたが、と柴進がにこやかに微笑んだ。
 傍らで、小さなつむじ風が巻き起こっていた。

貴人 一

 四つの人影があった。それぞれ卓の四方に座していた。それほど大きくない部屋である。窓が閉ざされ光が遮られていた。
「聞いたぞ、高俅(こうきゅう)。また勝手に禁軍教頭の首を飛ばしたそうではないか」
 上座の男がしわがれた声で言う。顔には深い皺が刻まれ、かなりの高齢のようだ。皺に隠れた目だけが異様にぎらぎらしていた。
「宰相どの、お言葉ですがあれは謀反です。私はそれを未然に防いだまでの事」
 普段は高圧的な高俅も委縮しているようだ。目の前にいるのは蔡京(さいけい)。この国において皇帝以外では権力の頂点、宰相の地位にある男だ。
「まあ良い。わしには関わりがない事だ」
 組んだ指は枯れ枝のようだ。
 妖怪め、と腹の中で高俅が毒づく。
「わしの方には十分関わりがありますがね」
 大きな声だ。蔡京は左に視線を送った。
「禁軍の人事はわしの管轄だ、高俅。次は赦されぬと思え」
 筋骨隆々な軍人。禁軍を統べる枢密使(すうみつし)である童貫(どうかん)が吼える。
 立派なあごひげまで蓄えた彼が宦官(かんがん)だというのが未だに信じられない。
 怪物め、と蔡京は思う。
楊戩(ようせん)よ、お主こそ近ごろ済州(さいしゅう)の湖あたりで、よからぬ事をして私腹を肥やしているそうではないか」
 高俅は追及を逃れようと、矛先を変えた。
 楊戩が答える。
「何を言っておる。近ごろ国の財政がどうなっておるのか(けい)らも知っておろう。それを埋めるのは税しか無かろうに。私は取るべき所から取っているに過ぎぬわ」
「何やら、税を払い切れない者たちが集まり、山賊と化していると聞くが」
蓼児洼(りょうじわ)あたりの事であろう。ならば放っておいても害は無いわ。奴らはただの烏合の衆よ。幾ら集まろうと我が官軍には敵うはずもあるまい。のう童貫どのや」
「その通りだ」
 成り上がり者め、というように青白い顔を歪ませて笑う楊戩。彼もまた宦官だった。
 どうにも好きになれない。宦官特有のすえた匂いが高俅の鼻をつく。この毒虫が、と心中に思う。
 蔡京がとんとん、と卓を指で叩く。
「まあ良い。知っての通り、帝は己の趣味に没頭して(まつりごと)に興味を失っておる。この国はすでに我ら無くては立ち行かぬのだ。他人が何と言おうと、わしらの気苦労はわかるまい。いや、分かってたまるものか。無能な皇帝を支える困難の、わずかな見返りを得て何が悪いというのだ」
 蔡京は一息つくと、目を閉じる。目が皺に隠れてしまった。
「良いな、我らが仲違いしてはならぬのだ。すべてはこの国と臣民のためぞ」
 蔡京は心の中で思う。
 全てはわしの富と地位と名声のためぞ。
 はっ、と三人が応えた。
 そろそろ朝議の時刻だ。
 高俅、童貫、楊線が場を辞して出てゆく。
 蔡京は手を組み座したまま見送り、思う。
 寥児洼の山寨か。大したことはないと言っていたが、余計な芽は早めに積んだ方が良い。一度、調べさせるか。
 蔡京は不気味な笑みを浮かべた。
 妖怪じみた黄色い歯が並んでいた。

貴人 二

 五代(ごだい)十国(じっこく)時代最後の王朝、後周(こうしゅう)。その随一の名君と呼ばれた世宗(せそう)の跡を継いだのは、僅か七歳の恭帝(きょうてい)であった。
 世宗の死を知った諸国は後周を攻撃。皇太后らは迎撃を命じたが、幼帝に不安を抱いた軍は反乱を起こした。そして近衛軍の将校であった趙匡胤(ちょうきょういん)を擁立し、開封を占領した。かくして趙匡胤は恭帝から禅譲され、(そう)を興した。
 趙匡胤は、これまでの王朝交代劇とは違い前帝を(しい)することなく、手厚く保護し丹書鉄券(たんしょてっけん)という不可侵のお墨付きを与えた。
 世宗の本名は柴栄(さいえい)といい、柴進(さいしん)はその末裔であった。
 丹書鉄券により柴進の屋敷は治外法権となり、罪人を匿おうと役人たちも手出しはできなかった。
 柴進自身、武芸はできないが故に彼らと交わることが好きだった。そのため彼の屋敷には腕に覚えのある、名の知られた者からごろつきまで集まることになる。
 柴進も強く言えずに全て受け入れてしまうから始末が悪い。まさに十把一絡げの様相だ。
 実るほど(こうべ)を垂れる稲穂かな、とは実に的を射た言葉だ。今日も柴進の屋敷では、自称豪傑たちがふんぞり返っていた。
 林冲(りんちゅう)は彼らを横目に部屋へと案内される。董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)らも同席して酒食に興じていると、下男が柴進に告げた。(こう)教頭が見えました、と。
 入ってきたのは頭巾を歪めてかぶった大男だった。胸を反りかえらせ、林冲の挨拶を鼻であしらい答礼もしない。
 柴進が改めて林冲を紹介した。すると洪が言う。
「大官人どのは人が良すぎるから、こういった連中が教頭の名を(かた)り、酒や銭をさらってゆくのです。どうして真に受けなさるのか」
 柴進は反論すると、洪が言った。
「わたしは信じられませんがね。何なら勝負しましょうか。それとも化けの皮が剥がれるのが怖いのかな」
 と、林冲を横目で見やる。
 だが、それを断る林冲。面白くないのは柴進だった。
 この洪という男、少しばかり腕が立つからといって威張りくさり、いつも上からものを言う。教頭と名乗っているが、実際は怪しいものだ。
 林冲の腕をこの目で見たいのと、洪にひと泡吹かせたい柴進は林冲に囁く。
「林冲どの、遠慮する事はない。この洪という男、少々天狗になっているようだ。ぜひ鼻をへし折ってはくださらぬか」
 そういう事なら否やはない。
 棒を手に中庭で対峙する二人。
「やめるなら今のうちだぞ」
 洪教頭はにやつきながら挑発する。
 月明かりの(もと)、はじめ、の合図がかかった。

 枷が邪魔だ。林冲はそう告げた。
 少し打ち合ったが、なるほど確かにこの洪教頭、筋は良いようだ。負けはしないにしても、枷をつけたまま勝ちにゆくのは難しいと言えた。
 柴進が董超たちに金を渡し、林冲の枷を外させた。さらにこの勝負に賞金をかけた。なんと目方二十五両の錠銀(じょうぎん)。高級官僚ひと月の給金にも値するほどの額だ。
 目の色を変えた洪だったが、枷を外した林冲と相対して瞬時にその実力を悟った。まるで鎖を解かれた猛獣がそこにいるようだった。 
 今さら逃げる訳にもゆかぬ、だが賞金は欲しい。こうなれば全力でかかるしかあるまい。
 柴進は腕を組み、勝負の行方を興味津津で見守る。下男が手を振り、再びはじめ、の合図がかかった。
 洪が示すは把火(はか)焼天(しょうてん)(せい)。一方、林冲は撥草(はっそう)尋蛇(じんじゃ)の勢。
 隙がない。洪教頭は焦りつつ、大声を上げ突っ込んだ。
 上段から二連続で打ちこむ。颯々(さつさつ)とかわす林冲。
 さらに何度も攻め立てる洪教頭だが、林冲にはかすりもしない。周りでくすくすと笑う者までいる。
 ええい、と力を振り絞り、突きを五月雨(さみだれ)に放つ洪教頭。
 林冲は、すっと右足を下げ初めて反撃に出た。
 林冲が放ったひと突きは、無数の棒をすり抜け、狙い(あやま)たず洪教頭の胸元に突きささった。
 洪教頭の呼吸が一瞬、止まる。
 その手を返し、洪教頭の棒を跳ね上げると、さらに向う脛を薙ぎ払った。洪が地面に転がる。林冲が洪の顔面に棒を突きつけると、勝負あり、の声がかかった。
 洪は起き上がろうとするが、足がもつれてうまくゆかない。観衆に笑われながら、やっと起き上がると顔を真っ赤にして、外へと逃げて行った。
 柴進は胸のすく思いで、林冲の勝利を讃えた。
 洪もまた教頭の名を騙っていた(やから)に他ならなかったのだ。
 こんな豪傑を殺そうとしていたのか。
 林冲の実力をその目で見た董超と薛覇は、互いに顔を見合わせ、身震いするばかりであった。

貴人 三

 地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったものだ。
 今さらながらに林冲(りんちゅう)はそう痛感していた。
 柴進(さいしん)の屋敷から滄州(そうしゅう)へは何事も無く着いた。
 董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)は林冲を引き渡すと安堵の表情を浮かべて東京(とうけい)へと戻って行った。
 そして林冲は独房へと入れられた。はじめ投獄された林冲に番卒(ばんそつ)たちは厳しく当たったのだが、賄賂を渡した途端、態度が豹変した。掌を返したように、とは正にこのことだ。
 典獄(てんごく)の計らいで棒打ちの刑も免除となり、追加の賄賂で首枷も外してもらえた。林冲は安心すると共に、この世は金が全てか、と嘆息するしかなかった。
 柴進直筆の手紙も功を奏した。林冲は天王堂(てんおうどう)堂守(どうもり)という労役をあてがわれた。この仕事は堂の掃除や朝晩の線香番などの楽な仕事であった。

 何日か過ごしたある冬の日。
 牢城の外をぶらついていた林冲を呼びとめる者があった。見覚えがあった。李小二(りしょうじ)という名だった。
 東京にいた頃、酒屋に勤めていた小二は出来心で主人の金に手を出してしまった。役所へ訴えられそうな所に林冲が行き合った。林冲は代わりに詫びを入れ、弁償金まで出して事を内々ですませてやった。さらに身の置き場の無い小二に旅費まで渡したのだ。
 年端も行かない彼を路頭に迷わせるのが忍びなかったのだ。
「本当にありがとうございました。あの時の事は一度たりとも忘れておりません」
 小二もひとかどの青年になっていた。流れ着いた滄州の居酒屋で主人に見込まれ、その娘と結ばれたという。今は主人も亡くなり、夫婦二人で店を切り盛りしているという。
 小二の居酒屋へ行き、妻を紹介された。純朴そうな良い娘だ。
 思わず梅雪の事を思い出してしまった。
 達者でいるだろうか。いや妻とは離縁したのだ、と自分に言い聞かせるが思いは募るばかりだ。林冲は酒で紛らわせる事にした。
 なるほど一心に修業したと見え、料理も美味い。羊肉をむしり五香粉(ごこうふん)をまぶして頬張る。花椒(かしょう)の刺激が舌に心地よい。また木耳(きくらげ)の炒め物や豆腐料理に舌鼓をうつ。
 小二と昔話や滄州の様子などを聞きながら、林冲は久しぶりに落ち着いた時を過ごしているのを感じた。酒が進む。
 締めに出てきた吸い物がまた格別だった。これを目当てに来る客がいるというのも頷ける味だ。
 はっきり言って小二の件は今まで忘れていた。だが小二の方は一時(いっとき)も忘れなかったという。(えにし)はいつか巡ってくるのだな。良い事も、悪い事もすべからく。林冲は救われた思いだった。
 林冲の目頭が熱くなる。
「酒のせいかな」
 そう言って小二の店を後にする林冲だった。
  
 妙な客だった。
 黒ずくめの男とその連れだ。黒づくめは軍官のようだ。連れの小男はその従者といったところか。
 しばらくして典獄と番卒(がしら)が現われた。二人に呼び出されたようだ。
 男の声が聞こえた。東京訛りだ、間違いない。
 黒ずくめの軍官は酒と料理を運ばせると、勝手にやるから近づくなと言う。
 ふと小二は、高太尉、という言葉を聞いた気がした。林冲が無実の刑に処せられた経緯を聞いていた小二はいよいよいぶかしんだ。そっと女房を奥へ行かせ、聞き耳をたてさせた。
 一同はそれから半時ほどで店を後にした。
 小二は急いで女房に確かめるが、密談のように声をひそめておりさっぱり聞こえなかったのだという。だが典獄たちが袱紗(ふくさ)に包んだ物を受け取るのを見ており、それは音と形から金銀の類ではないかというのだ。
 小二は林冲の件ではないかと考えた時、
「毎日よく流行っているな」
 と、当の本人が現われた。
 難しい顔をしている小二に訳を聞くと、今起きた事を説明してくれた。
 陸謙(りくけん)に違いあるまい。死罪にできなかった自分を亡き者にするため、何か企んでいるのだろう。
 小二に礼を言い、その日から護身用に短刀を持つようになった。そして暇を見つけては陸謙の姿を探したが、見つけることはできなかった。
 四、五日たった頃、典獄に呼び出された。配置替えをするのだという。東門から十五里ほど先にある、(まぐさ)置場の管理という労務だった。
 小二に聞くと、そこでは定期的に秣を受け取るだけで、しかも役得の金も懐に入り、天王(てんおう)堂よりも良い仕事では、という。
 荷物を整えた林冲は番卒と共に秣置場へと向かった。
 日が傾き、空が急に黒雲に覆われ始めると、見る間に大雪となった。 何とか辿りついた林冲は、老囚人と交代の引継ぎをするとひとり小屋に残った。
 風で小屋ががたがたと揺れている。吹雪が収まったら修理させなければならないな、と火にあたっていた林冲だが、いかんせん寒さに耐えきれなくなった。
 街道を東へ行った所に酒が売っていると老囚人が言っていた。前任が使っていた瓢箪を槍の穂先にかけ、笠をかぶると林冲は外へ出た。
 行きしなに見た古い廟で加護を祈り、歩いてゆくと店の明かりが見えた。
 飯を食い、酒を買って戻った林冲が見たのは大きな雪山だった。なんと雪の重みに耐えかねて小屋が潰されていたのだ。あのままいたら、と思うとぞっとする。
 さっそく加護があったのか。
 雪を凌ぐため、林冲はさっきの古廟で一晩過ごす事にした。明日には晴れるだろう、典獄に報告しに行かなくては。
 内側から重石(おもし)を置き、扉をふさぐと酒を飲んだ。
 そろそろ寝ようかと思った時だ。秣置場の方からぱちぱちと爆ぜる音がする。壁の隙間から見ると秣が音をたてて燃えているようだった。
 暖をとっていた火が消えていなかったのか。林冲は慌てて槍を手にし、火を消しに行こうと扉に手をかける。だがその時、外に人の気配を感じた。
 林冲は扉の裏で気配を殺し、じっとする。
 男たちが廟の方へやって来た。中へ入ろうとするが林冲が置いた重石で扉が開かないため、軒下で火事を眺め出した。
 人数は三人。一人は知らないが、二人の声には聞き覚えがあった。
 番卒頭、そして陸謙。
「せめてもの情け。骨でも拾ってやるとするか」
 陸謙の後ろで、廟の扉が勢いよく開かれた。
「拾うのはお前の骨だ、陸謙」
 獣の目をした林冲がそこに立っていた。
 林冲の復讐の炎が、秣の大火よりも赤々と燃え盛っていた。

「俺のせいではない。高太尉の命令で仕方なかったのだ」
 林冲に胸を踏みつけられ身動きが取れない陸謙が必死に弁明した。槍が顔に突きつけられている。
「後生だ、林冲。幼なじみではないか」
 廟の側で小男が倒れている。
 胸に風穴をあけられた富安(ふうあん)だった。秣置場での暗殺を考案した張本人である。その少し先で番卒頭の首が転がっていた。
 獣の目は陸謙を睨みつけたままだ。
「そうだ、若君に諦めるよう太尉に言ってもらおう。俺が取り持ってやる」
「陸謙、哀れだな」
 陸謙の胸に短刀が深々と突き刺さる。林冲が護身用に持っていたものだ。
 林冲は短刀を一気に引き下ろす。胸から腹まで大きく裂け、生温かい血が噴き出した。
 陸謙はすでに白目をむいている。林冲は裂け目に腕を突っ込むと、ひとつの肉塊を引きだした。
 林冲の手の中で脈動するそれは陸謙の心臓だ。力任せに引きちぎり、陸謙の体がびくびくと痙攣する。
 陸謙の口から、ごぼごぼと血の泡が噴き出す。そして大きく一度痙攣したきり、動かなくなった。
 林冲は三人の首と陸謙の心臓を廟に奉げると、あらためて加護に感謝した。
 もう後戻りはできない。この先どこへ行こうか、あては無い。このままのたれ死ぬのも良かろう。梅雪よ、達者でな。
 林冲は笠を深くかぶり直すと、雪の中を歩きだした。また風が強くなってきた。
 陸謙への復讐は果たした。だがまだ高俅(こうきゅう)がいる。
 晴れぬ気持ちは、この吹き(すさ)ぶ吹雪のようだった。

 翌日、死体を発見した役人たちは林冲を下手人と断定した。
 だが、足跡は昨夜の吹雪にかき消され、その行方は(よう)として知れなかった。

貴人 四

 ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。
 秣が業火に包まれている。
 見回すと男が三人倒れている。皆、首がなかった。
 三つの首は古い廟に供えられていた。滴った血が廟の床を濡らしている。
 林冲(りんちゅう)、と呼ぶ声がする。人気(ひとけ)は無い。
 林冲。また呼ばれた。
 呼んでいるのは首、だった。
 白目のままの首が口を動かし、林冲の名を呼び続ける。
 林冲は動く事ができなかった。
 廟が炎に包まれた。三つの首は炎に焼かれながら呼び続ける。
 林冲、林冲、林冲、林冲。
 動けない林冲の体に火が移った。あっという間に全身を炎が舐めつくす。
 ひときわ大きな声で首が叫んだ。
 林冲。

「林冲」
 跳ね起きた林冲は辺りを見回す。
 どうやら部屋のようだ。自分は夢を見ていたのか。
 全身が汗にまみれていた。
 側に火が焚かれ、ぱちぱちと音を立てていた。
「よかった、林冲さま」
 見覚えのある声と顔だ。
 そうだ、居酒屋の李小二だ。小二が心配そうな顔で見ている。
「うなされていたが、もう大丈夫でしょう。後は私が」
 その後ろにいるのは後周の末裔、柴進(さいしん)だ。
 ゆっくり起き上がると、改めて周りを見回す。
「ここは私の東の別荘です」
 柴進が先回りして言った。
「昨晩、林冲どのは雪の中に倒れていたのです。それをこの小二が見つけ、私の元へ連れて来たという訳です」
「危ない所でした。身体中が凍傷になる間際でした。本当に良かった」
 そう言う小二は目に涙を溜めているようだ。
「しかし、一体どうして」
 柴進の疑問に、今度は林冲が答えた。
 小二の居酒屋での件。秣置場への配置換え。そして雪の中での復讐。
「このままではあなたにもご迷惑をかけてしまいます。身体が回復次第、出てゆきます、柴進どの」
 柴進はにっこり微笑んで言う。
「心配めさるな、林冲どの。私に与えられた特権はこういう時のためにあるのです」
 役人さえも手出しできぬという(そう)の太祖からのお墨付き、丹書鉄券(たんしょてっけん)
 だが林冲は知っている、過信してはならない事を。太祖から数えてすでに百五十年。奸臣(かんしん)たちにしてみれば、それを果たす義理などとうの昔に無いのだから。
「いえ、いつまでもお世話になる訳にはまいりません。どこか身を置く場所があればよいのですが」
「そこまで言うのなら、わかりました。良い所があります。私が一筆したためましょう」
 柴進は柔らかな笑みを浮かべた。

 すでに滄州(そうしゅう)中に手配書が貼られていた。
 殺人および軍の施設への放火。林冲は無実の罪からついに賞金三千貫の大罪人となってしまった。
 四六時中、役人が街を見回っている。この屋敷にはさすがに入って来られないが、少しでも外へ出ようものならば、確実に捕縛されてしまうだろう。
 そんな中、柴進はいつものように狩りに出かけた。
 供の者を二十人ほど連れて滄州の関所にさしかかる。
 門の横にも林冲の人相書きが高札に貼り出されてあった。
「柴大官人、いつものお楽しみですか」
 軍官が一行を止める。彼は屋敷にも来たことがある顔馴染みだった。
「大官人さまには申し訳ないが、決まりなんで調べさせていただきますよ」
 すっ、と笑みを消す柴進。
「よく調べてください。この中に噂の林冲を紛れ込ませておりますから」
 その言葉に軍官が笑った。
「ははは、大官人さまもお人が悪い。ご冗談が好きなお方だ」
 どうぞお通りください、と一行を通す軍官。
 関所を越え十四、五里あたりで一行は止まった。
「もう大丈夫でしょう」
「柴進どの、危険な橋を渡らせてしまい申し訳ありません。このご恩は必ず」
 林冲が笠を取り、顔を露わにする。柴進が軍官に言った通り、下男の恰好をさせ紛れ込ませていたのだ。
 だが本当に危険な賭けだった。
「道中、達者で。また何かあればお力になりましょう」
「かたじけない。小二にもよろしくお伝えください」
 わかった、と柴進一行は違う道へと進んで行った。
 林冲は拱手したまま見送った。やがて一行が林の中へと消えた。本当に狩りでもするのだろう。
 柴進からの手紙を確かめる。南への道をとり、新雪にその一歩を踏み出した。
 空には雲ひとつない冬晴れの朝だった。

 滄州の関所を抜け、済州(さいしゅう)へ入ってから十日あまり。
 冬の末、雪雲が厚く空を覆った。雪が舞い始めたかと思うと北風が吹き、あっという間に大雪となってしまった。
 一面の銀世界の中、林冲は歩き続けた。
 どれくらい歩いただろう。ふと見上げると、吹き(すさ)ぶ雪の向こうに大きな山影が聳え立っていた。
 ついに辿りついた目的の地。
 周囲に広大な水を湛えた圧倒的な偉容を誇る天然の要害。
 そこは、梁山泊(りょうざんぱく)と呼ばれていた。

試練 一

 深々(しんしん)と降りしきる雪を眺めながら酒を飲む。
 視線の先にそびえる梁山泊(りょうざんぱく)の姿はまったくに壮大だ。だが、それに興趣を感じている面持ちではなかった。
 どうやって行ったらよいものか。
 湖の(ほとり)にある居酒屋で、林冲(りんちゅう)は一人思案していた。
 過去、柴進(さいしん)はこの梁山泊の頭領を世話してやった事があるのだという。今も連絡を取っており、この推薦状があればきっと受け入れてくれるとは言うが、さてどうやって行ったものか。
 雪はまだ降り続いている。
 このまま飲んでいても仕方あるまい。思い切って、店の者に聞いてみる事にした。
「すまないが、梁山泊まではどう行けばよいのだ」
「梁山泊ですか。あそこは山賊の巣窟ですよ、一体どうしてあんな所へ」
「どうしても行かなくてはならんのだ」
 店の者はしきりに、やめろと言ったが林冲も引く訳にはいかない。どうにか聞き出したのだが、問題は大きくなるばかりだった。
 梁山泊への陸路はなく、水路しかない。だが船がない。いくら金を積まれても、梁山泊へ船を出そうという者など見つからないのだという。
 ならばどうやって行けばよいというのだ。もう目の前にあるのに手が届かないとは。林冲は酒を一気にあおった。
 先ほどから視線を感じる。店の奥からのようだ。
 林冲は気付かぬそぶりで飯を注文し、酒を追加する。すると奥から鋭い目をした男が現われた。感じていた視線だった。
 男は店の者と何か話をしている。小声で聞こえないが、どうやらこの居酒屋の店主のようだ。男が手ずから酒を持ってきた。
「お待たせしました」
 低い、深みのある声だった。一介の居酒屋の店主とは思えない風格だ。
 黙って受け取り、手酌で飲む林冲。男は卓の横に立ったままだった。
「先ほど、梁山泊の事を聞いていたようですが」
 林冲はあくまでも黙っている。
「一体、梁山泊へ何用(なによう)ですかな、豹子頭(ひょうしとう)どの」
 杯を持つ手をぴくりとも動かさず、平然と飲み続ける。
「人違いですよ」
「まったくいい度胸だな、林冲。お前には三千貫もの賞金がかかっているというのに、こんな所で悠々と酒など飲んでいるとは」
 男の口調が豹変した。堅気ではない、緑林に属する者のそれだった。
 いつの間にか男の手に幅広の包丁が握られていた。
「私を捕えようというのか」
 林冲は横目で武器の位置を確認する。手を伸ばせば届く距離にあるが、男の方が近い。
 どうする。やるか。
 だが、張りつめた空気は一瞬で弾けてしまった。
 男が笑った。
「お前を捕まえるには、わしも大怪我をしかねん。話がある、こっちへ」
 そう言って背を向けると、奥へと歩いてゆく。
 呆気にとられた林冲だったが、荷物と武器を手にすると後を追った。
 奥の間は湖上に張り出した水亭だった。梁山泊が、よりはっきりと一望できる。
「まあ、座ってくれ」
 目礼をし、席に着く。
「この辺りにも手配書が出回っている、気をつけるんだな」
 すでに男から殺気は消えていた。口調こそ変わらないが、人の良い店主の顔に戻ったようだ。
 男は林冲に尋ねる。
「さっきも言ったが、どうして梁山泊へなど行きたがる。行ってどうしようというのだ」
「あなたも知っての通り、私は大罪を犯し追われる身。もはやあの山寨に入るしか身の置き場がないのです」
小旋風(しょうせんぷう)の柴進どのか」
 ここを紹介したのは、という意味だろう。林冲は、はいと答え手紙を見せた。
「なるほど、本物だな。よしあんたほどの好漢だ、頭領も喜んで迎え入れてくれるだろう。ちょっと待っていてくれ」
 この男は一体何者だ、と林冲が訝しんでいる間に、男は鳴り鏑矢(かぶらや)を取りだし窓から湖面に向けて放った。
 ひょう、という音が寂寥(せきりょう)とした景色に響いた。
 しばらくして彼方から一艘の船が近づいて来た。水亭の窓に寄せると、男が船に乗り込む。
 ここが梁山泊の入り口だったのだ。そしてこの男が門番だったという訳か。
「名乗り遅れたが、わしは朱貴(しゅき)旱地忽律(かんちこつりつ)の朱貴だ」
 朱貴の目元が鋭く光り、再び裏世界のそれに変わっていた。

 船はゆっくりと湖上を進む。
 山寨へと近づいてゆくと、その全容がはっきりしてきた。
 そびえ立つその様は天をも突き刺すようで、葉を落とした古樹はまるで巨大な逆茂木(さかもぎ)だ。
 奇岩を連ねる稜線は、その姿を湖面に映し自らを誇っている。
 広大な湖は天然の堀と化し、何人(なんぴと)たりとも寄せ付けない態度で、逆巻く白波は一体どれほどの命を喰らってきたのだろうか。
 梁山泊、まこと聞きしに勝る要害の地だ。
「見えたぞ。金沙灘(きんさたん)だ、あそこから上陸する」
 そう言った朱貴の顔も誇らしげだ。
 船を手下たちに任せた朱貴に続き、林冲も梁山泊にその一歩を記した。
 朱貴が先導して歩いてゆく。中腹にある断金亭(だんきんてい)をすぎると、大きな関門があった。その前には槍、刀、剣、矛など幾多もの武器が倉に並べられ、また投石、投木が積み上げられ、外敵に対する十全な備えである。
 第一の関門を抜けると頂上の聚義庁(しゅうぎちょう)まで続く道だ。道の両側にはおびただしい数の隊伍の旗が並べられていた。林冲たちはさらに二つの関門を抜け、ようやく山頂の正門に着いた。振り返り見下ろすと改めてその広大さが理解できた。
 頂上は広く四、五十丈平方もあるだろうか。その中央に聚義庁があった。
 朱貴が林冲を導き、中央の間に続く扉をくぐる。
「ここだ。頭領にはもう伝わっているはずだ」
 朱貴の言葉通り、正面にはすでに三人の男たちが座っていた。二人の巨漢を左右に従えた、中央に座する白衣の男。
 その男が、白衣秀士(はくいしゅうし)王倫(おうりん)
 この梁山泊の頂点に立つ男であった。

試練 二

 俺の梁山泊(りょうざんぱく)だ。この座は誰にも渡す訳にはいかん。豹子頭(ひょうしとう)林冲(りんちゅう)だと。罪を犯し逃亡しているとはいえ、東京(とうけい)で禁軍の武芸師範を務めていた一流の男だ。この梁山泊に誰ひとりとして敵う者はおるまい。こ奴を入山させてしまえば、この男は手下どもを掌握してしまうだろう。そうなればこの俺の立場が危うくなる。それはだめだ、絶対に避けねばならん。 俺がこの梁山泊の頭領なのだ。今までも、これからも。
 王倫(おうりん)はゆっくりと立ち上がり、両手を恭しく広げて見せた。
「ようこそ、梁山泊へ。林冲どののお噂はこの梁山泊にも届いておりますよ」
 笑みを浮かべてはいるが、目だけは冷めている、と林冲はそう感じた。
 王倫はさらに両手を左右に示し、脇にいた男たちを立たせた。二人とも、挟まれた王倫が子供かと見まごう程の体躯だ。
 向かって左が摸着天(もちゃくてん)杜遷(とせん)、右が雲裏金剛(うんりこんごう)宋万(そうまん)。紹介された二人が林冲に挨拶をする。
 杜遷は王倫と同じかそれより少し年上で、肩幅の広い筋肉質の巨漢だった。
 宋万も長身であるが、細長い印象だ。だが引き締まった体をしており、まだ若いようだ。
 杜遷と宋万、好対照の巨兵をしたがえた王倫は満悦の表情だ。
 王倫は柴進(さいしん)の手紙を受け取ると、軽く目を通し林冲に尋ねる。
「柴大官人どのはご健勝かな」
「はい、毎日狩りを楽しんでおられます」
「はは、相変わらずですか。では、まずは酒でも」
 王倫は酒食を運ばせ、考える。
 どうしたものか。柴進には恩義があるし、かといって林冲を入れる訳にはいかぬ。まったく金持ちの道楽か知らぬが、どこの馬の骨とも分からぬ(やから)ばかり世話しおって。もともと連中は罪人やはみ出し者だ、必ず災いの種を運んでくる。柴進はお墨付きの丹書鉄券(たんしょてっけん)があるから飄々としているが、周りではいつも厄介事ばかり起きている。それを皮肉って小旋風(しょうせんぷう)と呼んだのだが、柴進め、意味も知らず喜びおって。そうだ、俺に非は無い。受け入れたくとも、林冲がこの梁山泊の器ではないのだ。そうすれば、柴進にも義理が立ち、俺の立場も守られる。
 林冲が入山の話を切り出そうとした時だ。王倫が手をぽんぽんと叩くと、脇から手下が数人現われた。手には盆を持ち、その上に白銀と反物が乗せられてある。
「林冲どの、どうかこちらを受け取っていただきたい」
「どういう事ですか、これは。私はこの梁山泊に入山したいのですが」
「柴進どのの推薦もあり、私としても受け入れたいのは山々なのです。しかしいかんせん糧食も足りず、建物も整わないのが現状。どうぞこちらをお納めいただき、もっと大きな山寨をお訪ねなさった方が、林冲どののためには良いかと思います」
 王倫は冷たい目でそう言った。笑みは消えていない。
 なるほど体よく入山を断ろうというのか。この王倫という男、なかなかの食わせ者だ。
 だがここまで来て林冲も引き下がるわけにはいかない。
「はるばるここまで来たのです。この林冲、一命を投げ打ってでも梁山泊のために尽くしましょう。どうか、お考え直しを」
 林冲の横にいた朱貴(しゅき)がそれに続いた。
「兄貴、口出しして申し訳ない。確かに今ここは糧食も建物もぎりぎりだ。だが足りなきゃ役所から借りてくれば良いし、なによりこの梁山泊には広大な土地がある。開墾して田畑を増やせばもっと人員も増やせるだろう。また幸いこの山には木がいくらでもある。木こりや大工でも呼んで建物を作れば良い。この林冲どのの腕は確かだ、きっと梁山泊の名も天下に轟くようになります」
「朱貴、ここでは頭領と呼ぶのだ」
 王倫が諌めるが、杜遷が割って入る。
「ひとりくらい増えても変わりあるまい。兄貴、いや頭領、わしらは柴大官人に大恩のある身。ここで断ってしまえば忘恩負義の徒だと悪評が立ってしまいます」
 宋万が杯を空け、笑いながら言う。
「柴進どのへの義理もあるんだろ。林冲どのほどの好漢が仲間になってくれるなんて願ったりじゃないですか。こんな好機を逃してしまえば、天下の笑い者になってしまいますぜ」
 む、と王倫は唸った。悪評が立つ事や笑い者になること、それは王倫が最も嫌う事のひとつだった。
 この王倫という男、実に小心で狭量だが杜遷や朱貴、宋万といった頭領がそれを良く理解し、支えているのが分かった。三人の意見も王倫の自尊心を上手く利用したものだ。
 王倫は顎に手を当てしばし思案すると、ゆっくり林冲の方を向いた。どこまでも芝居がかった動きだ。
「皆がそこまで言うのならば仕方あるまい。だが本気で入山するとなれば、投名状を見せてもらわねばならん」
 では紙を、と言う林冲に朱貴が教えた。
「いやいや違うのです。ここでの投名状とは首のこと。誰かの首を取って来て、それを投名状と成すのです」
 なるほど人を殺させる事で、抜ける事のできない意識を植え付ける訳か。
 顔色を変えない林冲に向かって王倫は言い放った。
「ただし三日だ。三日の刻限を過ぎれば、この梁山泊からは出て行ってもらう」
 王倫は腕を伸ばし、指を三本立てた。
 やはり芝居がかった動きだった。

「すまない、林冲どの」
 通された部屋で休んでいると杜遷が入って来た。慌てて拱手し、迎え入れる。
 これを、と杜遷は酒と杯を差し出す。乾杯すると、杜遷が話し始めた。
「王倫の兄貴も、昔はああじゃなかったんです」
 と、一気に杯をあおった。
「わしと兄貴は昔からの腐れ縁でな、二人とも若い頃はそれなりに大志を持っていたものだ。兄貴が科挙(かきょ)に落ち、自棄(やけ)になって柴進どのの屋敷に転がり込み援助をしてもらい、この梁山泊に居を定めた。その時も、ここで大事(だいじ)を成し遂げるのだと息巻いていた。科挙に落ちたとはいえ、兄貴の知恵でここも徐々に大きくなっていった。朱貴や宋万が参加し、今や七、八百を抱える大所帯となった。もはや官軍さえ恐れをなし、近づいても来ない」
 そこまで言うと、深いため息をついた。
 空いた杯に林冲が酒を()いだ。
(とりで)が大きくなればなるほど、兄貴の頭領の座への固執も大きくなっていったようだ。傲慢さが目立ち始めた兄貴を諌める者も、やはりいたが彼らは山から追放されてしまった。梁山泊の名声も高まり、正直嬉しくない訳がない。兄貴のおかげだ、と持ち上げ続けたわしらも悪かったのだな」
 今度は杜遷が林冲に酒を注ぐ。林冲は黙って話を聞いている。
「林冲どの、わしはあんたに仲間になってもらいたい。そろそろこの梁山泊にも新しい風を入れなければならない。兄貴にはあの頃の気持ちを思い返してほしいのだ。これは朱貴や宋万も同じ思いだ」
 杜遷が去り、林冲は思う。巨躯に似合わぬ気の遣い様。なるほど杜遷がいたからこそ、この梁山泊もこれほどまでに大きくなったのだ。王倫が狭量だとしてもそれを見限らない義理にも厚い男だ。
「三日か。やるしかないな」
 杯の中で月が揺れていた。

試練 三

 初日は誰も通らなかった。
 二日目は旅人達が、なんと三百人もの隊を組んで通って行った。
 こんな事があるのか。林冲(りんちゅう)もこれには手を出す事ができなかった。
 そして三日目。
 林冲は朱貴(しゅき)の店にいた。朱貴が言うには、何故かこのところ旅人も見かけないのだという。
 運がない。高俅(こうきゅう)に陥れられ、友人に裏切られ、妻とは離縁までした。大罪を犯し、ここまで来たが、こんな所で果てるのか。
「今日で三日ですな。投名状を用意できなくば、そのまま戻って来なくて結構。楽しみにしておりますよ」
 脳裏に王倫(おうりん)の言葉がよみがえる。悶々とした思いを振り切ると、店を出て待ち伏せを始めた。
 朝から雪が降っており、そのまま昼近くになった。いまだ人の気配すら感じない。どうしたものか、本当にこのまま終わってしまうのか。朱貴からもらった饅頭をかじりながら嘆息する。
 それでも待ち続けると、ようやく雪が()み、うららかな日が射してきた。
 日が暮れる前に、荷物をまとめようか。そう考えた時である。一緒にいた朱貴の部下が、見てください、と指をさした。向こうの坂の下を旅人が歩いている。
 林冲は思わず天に感謝すると、朴刀を手に駆けてゆく。男との距離が縮まる。申し訳ないが、苦しませはしない。一撃で決める。
 だが、旅人は林冲の姿を見るなり悲鳴を上げ、もと来た道を飛ぶように去って行ってしまった。林冲は茫然と立ち尽くす。
 ついに運に見放されたか。
 うなだれた林冲の足元には旅人が落とした荷物があった。
 手下が追いつき、それを拾う。
「林冲どの、大丈夫です。これで投名状の代わりになります。王倫さまには、あっしが説明しますんで」
 林冲は顔を輝かせた。
「そうなのか、よかった。ではお前は先に戻っていてくれ」
 へい、と手下が走り去る。
 直後、林冲は聞いた。旅人が去った方から、雪を踏みしめる音がする。
 目を閉じ、耳を澄ます。一定の間隔で踏み込むその音は、聴きなれていたものだった。堅気の人間ではない、訓練された者のそれだ。
 林冲は視界に一人の男をとらえた。笠を深くかぶっており表情は良く見えない。
 向こうもこちらを見つけ、歩く速度を速めた。
「山賊め、そこにいたか」
 男は走りながら雄叫びを上げた。
 殺気が林冲を襲う。この男、只者ではない。
 林冲が朴刀を上段から振り下ろす。
 いつの間にか男が刀を抜いていた。男は林冲の攻撃を受け止めると、笠の下でにやりと笑った。
「この俺に挑むとは良い度胸だ。返り討ちにしてくれるわ」
 目と目が合った。笠の下から見えたその目は獣のようだった。

 思わず息をのんだ。
 手下の連絡を受けた朱貴が木陰からその戦いを見ていた。
 刀と刀が流星のように乱れ飛ぶ。互いにどれも必殺の手だ。雪上だというのに、まったくそれを感じさせない足さばき。朱貴は拳を握りしめていた。
 林冲は誘いの手を放ち、男がそれに乗った。林冲の返す刀が男の笠を切り裂いた。だが男の刀も鼻の先すれすれを通る。男は誘いに乗ると見せかけ、逆に林冲を誘ったのだ。
 何者だ、この手練(てだれ)。相当の実戦を経ている。
 林冲は一歩下がると、朴刀を構え直す。
「ちっ、半歩足りぬか。ええい邪魔だ」
 と、笠を大きく放り投げ、その顔を陽光の(もと)にさらした。
 蓬髪を後ろで束ね、笑みを浮かべている。林冲は感じる。純粋に戦いを楽しんでいる顔だ。
 その顔の右半分ほどは大きな青痣に覆われており、獣のような目がこちらを見据えている。
 男も刀を構え直し、笑う。
「あんた強いな。山賊にもこんな男がいたんだな。だが俺の方が上だ」
 私は山賊ではない、言いかけた言葉も刀に遮られる。再び戦いが始まった。
 林冲は思う。いや、もう山賊なのだ。この男の言う通りだ。こいつは強い、一瞬でも気が抜けない。投名状云々の件は一旦忘れよう。
 覚悟は決まった。
 林冲の目が獣のように鋭い光を放ち始めた。
 あれが、豹子頭(ひょうしとう)。朱貴が拳を震わせる。
 男の笑みが一瞬だけ消えた。だがすぐに笑う。
「いいぞ、そうこなくては。殺すには惜しい男だが、行くぞ」
 男の刀が林冲を襲う。疾風の如き速さだ。
 林冲は紙一重でそれをかわす。頼りなげに見えて、その実しっかりと地に根を張った動きはまるで柳のようだ。
 風は速度を増し、ついには嵐となった。だが柳は逆らうことなくそれをいなし、反撃の隙を待つ。
 静と動。雄叫びや気合を常に発し続ける男と、呼吸さえしていないのではないかと思わせる林冲。
 二匹の獣は山道から、谷川へと場を移し死闘を演じている。
 すでに百度近く斬り結んだだろうか。互いに傷一つつけることもできない。あまりに実力が拮抗しているのだ。
 勝負は一撃で決まる。
 両者が、ふっと息を吐き、刀を構えた。これで決まる。朱貴が身を乗り出した。
 その刹那。
「待たれよ、ご両人」
 林冲と男が声の方を同時に睨む。
 崖の上に大きく手を広げた王倫が立っていた。
 林冲は飛びすさり、刀を収める。張りつめていた殺気が霧消してゆく。
「何だ貴様は。邪魔をするな」
 怒りの矛先が王倫へと向いた。この男、本当に戦いを楽しんでいたのかもしれない。
「私の名は王倫。この梁山泊(りょうざんぱく)を治める者だ」
 王倫の左右には杜遷(とせん)宋万(そうまん)が控えていた。聚義庁(しゅうぎちょう)で見た立ち位置である。
 林冲はつくづく思う。この王倫、己を大きく見せる演出に関しては一流だ、と。
 そして、あの笑みを浮かべ王倫が言った。
「ようこそ、梁山泊へ」 
 
 聚義庁で一同が向かい合っていた。
 王倫が大仰な仕種で拱手する。
「旅の御仁には大変失礼をいたしました。しかしまったく大した腕前。ぜひともお名前をお聞かせ下さい」
 青痣の男は無造作に酒を飲むと、にやりと笑って言う。
「俺の名は楊志(ようし)。令公楊業(ようぎょう)からの三代にわたる武門の家柄だ」
「なんと青面獣(せいめんじゅう)どのか」
 王倫が驚くが、楊志は素っ気なく返事をしただけで続けた。
「ところであんた、何者だ。あんたも武人か何かだろう。どうしてこんな所で山賊など」
 楊志は林冲に興味があるようだった。
「私は林冲。もとは東京(とうけい)開封府(かいほうふ)で禁軍の教頭をしておりましたが、やんごとなき事情でここまでたどり着いた次第」
「あんたが豹子頭の林冲どのか、強いはずだ。東京で武官をしていた頃、何度も噂を耳にしていたよ。一度、勝負してみたいと思っていたが、こんな形で叶うとは」
 乾杯しよう、と楊志が杯を上げる。
 楊志と林冲は先ほどの死闘の話に花を咲かせ、宋万がそれに合いの手を入れる。朱貴も二人の対決の一部始終を皆に聞かせ、杜遷も二人を褒めたたえる。
 王倫が楊志の行くあてを訪ねると、東京へ戻るのだと言った。
 少し前、大事な職務で失敗し、身を隠していたのだという。この度、恩赦が出たことでそれも許されただろうから、復職するために戻るのだという。その途中でここを通りかかり、運ばせていた荷物を林冲に奪われたというのだ。
 それを聞き、王倫が思案する。
 楊志の名は、自分が科挙(かきょ)を受けに東京を訪れた際に聞いた事があった。林冲に勝るとも劣らぬ腕前と聞いていたが、これほどまでとは。投名状の件はうやむやになってしまったが、これで林冲を追い出す事はできなくなってしまった。ならばこの楊志も引き入れ、林冲を牽制するのが得策だ。いかにも武芸に自信を持つ、粗野な奴だがしかたあるまいて。しかし二人の名だたる豪傑を配下にした、この俺の名声も高まろうというものだ。よし。
 そう決めると、王倫がゆっくりと立ち上がる。
「楊志どの。今の東京は高俅のものと聞きます。実際この林冲も奴にはめられ、流浪の憂き目にあった事は衆目の知る所です。復職を希望しているというが、おそらく高俅はそれを赦してはくれないでしょう。それならばいっそこの梁山泊に残り、楽しくやろうではありませんか。皆、喜んで歓迎いたしますよ」
 林冲の眉がぴくりと動いた。
 なんと自分が入山を希望した際はにべもなく断ったというのに、楊志に対しては喜んで迎え入れようとするとは。だが息を深く吸い込み、怒りを抑える。
 大方、自分と争わせようという魂胆なのだろうが、高俅に関する意見だけは林冲も同意できるものだった。
「その申し出、ありがたく受けたいところなのだが、俺も由緒ある家系だ。このまま死んではご先祖に申し訳が立たんのでな」
 王倫の幾度の説得にも、楊志の決意は固いようだった。
 翌日、楊志は朱貴と共に湖を渡って行った。林冲は去り際に、高俅には充分注意しろと警告したが、楊志は大丈夫だと笑うばかりだった。
 遠のく船を見送り、林冲は思う。紆余曲折あってこの梁山泊に落ち着いた。ついに山賊となってしまったが、もう受け入れるしかあるまい。
だが王倫を見ていると、高俅を思い浮かべてしまう。官僚と山賊の違いはあれど、権力にしがみつき、それを思うまま振るう様は、同じ穴の(むじな)だ。
 達者だろうか、ふと妻を想った。
 冷たい風が湖面を波立たせていた。

試練 四

 まったく頭が痛い。
 高俅(こうきゅう)はしきりにあご髭をさすりながら唸っていた。
 林冲(りんちゅう)を処分できなかっただけではなく、梁山泊(りょうざんぱく)にまで入山させてしまうとは。蔡京(さいけい)に冷笑されたが、林冲を仕留められなかったのは、富安(ふうあん)の作戦が甘かったからであり、陸謙(りくけん)の腕が足りなかったからだ。
 わしのせいではない。
 楊戩(ようせん)の奴めがあの辺りで不当な搾取をしているから、梁山泊などに賊が集まるのだ。
 護送役人の董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)からの報告も問題だ。
 暗殺の邪魔をした魯智深(ろちしん)とかいう僧がいる大相国寺の菜園へは捕り手を差し向けた。そいつは、なにせ化物のような坊主だというから通常の五倍もの人員を動員した。だが多数の負傷者を出し、魯智深はどこかへ姿をくらましたという。何と腐抜けた捕り手どもだ。
 これもわしのせいではない。
 息子も、まだ林冲の妻を狙っているらしい。奴が都におらぬので前よりかは元気になったようだが、完全に息の根を止めねば、いつか目の前に現われる気がする。
 この確信にも似た思いは、裸一貫で鳴りあがって来た高俅が養った嗅覚のようなものなのだろう。この嗅覚で権謀術数の中を生き抜いて来たのだ。
 しかしいらいらする事ばかりだ。酒でも飲もうか。
 と、そこへ部下が入って来た。
「大尉どの、面会のお約束の者が来ておりますが」
 そう言えばそんな約束があった。相手はかつて東京(とうけい)で武官をしていた者だという。
 また軍人か、と渡された上申書に目を通す。
「舐めておるのか、こ奴は。却下だ、却下」
 高俅は語気を荒げ、それを引き裂かんばかりに怒りを爆発させた。
 通された男は、その決定に、何故だという顔をしているばかりだった。

禍福 一

 事の発端は蔡京(さいけい)だという。
 風流天子とも呼ばれる徽宗(きそう)帝は国を治める事ではなく、書画や骨董収集などにその手腕を発揮した。
 蔡京がある日、奇石を献上した。もちろん帝の機嫌を取り、へつらうためである。この奇石が徽宗の心にはまった。以来、帝は造園に使用する奇石や珍花、名木などを集めるようになり、官僚たちはこぞってそれらを求め始めた。
 見つけられた花木奇石は都に運ばれる事になる。そのための船団が淮河(わいが)汴江(べんこう)に縷々と連なった。これを花石綱(かせきこう)と呼んだ。
 この花石綱の調達方法は、民意をまったく無視したものであり大いに不満を買った。
 陸路で運ぶ際に輸送の邪魔になる民家があればそれを取り壊し、また巨岩などが多いため運河を使用するのだが、生活物資などよりも花石綱を優先とした。またその対象物を損傷させないための梱包など多大な労力と時間がかかった。そしてそれは庶民の負担でもあったのだ。
 この花石綱、主に江南(こうなん)地方を中心に行われた。
 蔡京に代わって主宰したのが宦官の朱勔(しゅべん)という男だった。朱勔の花石綱は横暴を極め、今まさに江南地方では民衆蜂起の萌芽が確実に育っていたのである。

 当時、楊志(ようし)は花石綱の任務についていた。だが黄河にさしかかった所で、風にあおられ船は転覆。巨岩は川の底へと沈んだ。
 共に任務についていた他の者たちは都へ無事到着し、任務の失敗の責任をとり罰を受けた。だが失敗した楊志は処罰を怖れ逃亡し、雲隠れしてしまったのだ。
「今さらのこのこやって来て、職務に戻らせてくれとは、虫が良すぎるのではないのか。たとえ恩赦が出たからとはいえ、お前に任せる役など無いわ」
 高俅(こうきゅう)は立ち尽くす楊志に吼えた。
「しかし、大尉どの」
「まだいたのか。とっとと出てゆくのだな」
 高俅は一切聞く耳を持たず、楊志は仕方なく外へ出た。
 正論だ。悔しいが、高俅の言っている事は間違ってはいない。あの時、素直に戻って謝辞していれば、とも思うがすでに過去の話だ。
 ついていない。
 腰に手を当てる楊志。そこには肌身離さず持っている家宝の刀があった。
「先祖伝来の刀だが、背に腹は変えられぬ、か」
 楊志は刀に売り札をつけ、道端で買い手を待ったが一向に現われない。
 王倫(おうりん)の言った通りになってしまうとは。これならば梁山泊(りょうざんぱく)に残って、と途中まで考え、首を振る。
 いや、自分は辺境で(りょう)国と戦った英雄楊業(ようぎょう)の子孫だ。山賊などに落ちぶれてたまるものか、と待ち続けた。
 しかしいくら待てども買い手がない。これほど往来が多いのに何故だ。場所を変えようか、と立ち上がった時だ。
「虎だ、虎が来るぞ」
 と、通りの向こうから叫び声が上がり、それを聞いた人々は一斉に逃げだした。
 この街中に虎だと。いぶかしんでいた楊志が見たのは実に奇怪な虎だった。

 没毛大虫(ぼつもうたいちゅう)牛二(ぎゅうじ)。それが虎の名前だった。
 楊志は一瞬、鬼かと思った。しかし虎ではなく鬼でもなく、それは人だった。
醜悪な面相に、隙間だらけの歯。髪がまばらに残っている頭もなにやら(いびつ)な形をしている。肩や背に瘤が盛り上がり、はだけた胸には黒々とした胸毛が渦を巻いていた。
 この牛二、開封府(かいほうふ)でも有名なごろつきで、する事と言えば乱暴と喧嘩。役人も手を焼くほどの男で、人々は牛二を見ただけで逃げるようになってしまっていた。
 牛二は手に瓢箪を持ち、通りの真ん中を吼えながら歩いて来た。いつの間にか周りには誰もおらず、そこには楊志だけが残されていた。
 牛二が近づいて来た。この男、酔っているな。
 酒臭い息が楊志の顔にかかる。
「おいお前、そこで何を売っているのだ」
 面倒くさいのに絡まれてしまった。適当に対応して立ち去ろう。
「これは家宝の刀だ。お前には売らんよ。では」
 去ろうとする楊志の着物を引っ張る牛二。思ったより強い力だ。
「いや、俺が買ってやる。いくらだ」
「三千貫だ」
 露骨に嫌そうな顔をする楊志。だが牛二はお構いなしだ。
「何だと、そんな刀が三千貫だと。こないだ|三十文(さんじゅうもん)で買った刀でさえ、肉でも魚でも切れるんだぞ。その刀にそんな値打ちがある訳ねぇだろうが」
 楊志の目の色が変わった。
 これは先祖から伝わっている宝刀だ。馬鹿にする者は誰であろうと赦されぬ。例え取るに足らないごろつきでも、だ。
 楊志は、自分がそれを売ろうとしていたことなど棚に上げ、牛二に向き直った。
「こいつをそこらの鈍刀(なまくらがたな)と一緒にするんじゃない」
 楊志は説明を始めた。
 第一に、銅や鉄を斬っても刃こぼれがしない。
 第二に、吹きつけるだけで毛も斬れるほど鋭い。
 第三に、人を斬っても血がこびりつかない。
 そう言って誇らしげに刀を見つめる。
「そんな刀がある訳ねぇ。証拠を見せろ」
 怒鳴る牛二に、不敵に微笑む楊志。
 はじめは牛二を怖れ、避難していた人たちが二人のやり取りを見て集まりだした。
 牛二が持っていた銅銭を十枚ほど橋の欄干に重ねて置き、楊志が狙いを定める。
 気合一閃、銅銭は綺麗に真っ二つとなった。もちろん刃こぼれは無い。
 これに見物人は喝采を送る。さらに物見の客が集まりだす。
 次に楊志は刃を立てて、牛二に促す。
 牛二は自分の残り少ない頭髪を引っこ抜くと、刃に向かって吹きつけた。毛は刃に当たると二つになり、はらはらと地面に落ちていった。
 喝采が大きくなる。牛二はいよいよ面白くないが、この刀がどうしても欲しくなってしまった。
「やい、三つ目は何と言った」
「最後は、人を斬っても」
 楊志はそう言いさし、慌てて言い直す。
「おいおい人を斬れる訳がないだろうが。どこかから犬でも連れて来い。それで証明してやる」
「なんだとぉ、人を斬っても、と言ったじゃねぇか。犬じゃねぇだろぉ。できないなら俺に刀をよこしやがれ」
 難癖をつけやがって、このごろつきめ。
「聞き分けのない事を言うな。どうして俺に絡むんだ。あまりしつこいと、俺も黙ってはおらんぞ。もういいだろう、あっちへ行ってくれ」
「なんだと、こいつ。俺を殺そうってのか。いいぜ、そいつでばっさり斬ってみろよ」
 楊志はうんざりした。もう道理も理屈も通じない。
「おら、どうした。さっさと刀をよこせ」
 牛二が岩のような拳を振り上げ襲ってきた。それをかわす楊志。
 今度は両手を広げ突進してくる。再びかわそうとしたが砂利に足を滑らせてしまった。
 牛二は身体ごと楊志にぶつかり、二人はもつれあって倒れた。
 素早く起きた楊志だったが、手にしていた刀がないのに気付いた。
 観衆がざわめいている。
 楊志は見た。うつ伏せで倒れている牛二の首の後ろから、刀が顔を出していた。
 牛二は口から大量に血を流したまま絶命していた。自分に何が起きたのか、知る由もなかったろう。
 何という事だ。
 つくづく、ついていない。
 牛二の首から抜いた刃には、血の一滴もこびりついてはいなかった。

禍福 二

 死罪は免れた。
 情状酌量の余地を認め、北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)への流罪と決まった。
 被害者が厄介者の牛二(ぎゅうじ)である事と、あくまで事故で偶然に刺し殺してしまった、という多数の証言者がいたためでもある。家宝の刀は証拠品として没収されてしまった。
 だが牛二には悪いが、彼を取り除いた楊志(ようし)が罪人の身ながら、英雄扱いされたのは皮肉なものであった。
刑が執行されるまで、獄中の楊志へ差し入れする者や、獄卒や府尹に(まいない)を出して刑を軽くするよう取り計らう者までいたという。
 高俅(こうきゅう)もこの話を聞きつけ、早速楊志を迎え入れようとした。心の広い事を知らしめようとしたのだが、開封府(かいほうふ)尹が却下した。あくまでも刑を受けさせなければならない、というのだ。
 大方、孫仏子とやらの提案だろうが、気に食わん。いつか痛い目に合わせてやろう。高俅はそう考えるが、ここは楊志への寛容な態度を示しただけで十分良しとした。
 護送の任に就いた張竜(ちょうりゅう)趙虎(ちょうこ)は、仲間の董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)から散々に脅されていたため不安で仕方なかった。だが反して北京までの道中は平和そのものだった。
 道々で、楊志の噂を聞きつけた人々が彼らに酒食を提供してくれたり、心付けをくれたりしたのだ。
 護送の任を終え、東京(とうけい)へ戻った彼らの話を聞いた董超と薛覇は悔しがるばかりであったという。

 北京大名府の留守司は梁世傑(りょうせいけつ)といった。梁中書(りょうちゅうしょ)とも呼ばれる彼は、有事には軍を統帥し、また平時は民事行政にあたる非常に大きな権力を有していた。
 また彼は、宰相である蔡京(さいけい)婿(むこ)でもあり、その権勢を確固たるものとしていた。楊志は彼の元へと送られたのだ。
梁世傑は自ら軍を指揮する立場もあって優れた武人、軍人には目がなかった。楊志の話を聞くとすぐに目を輝かせ、自分の膝元で召し使う事とした。
 楊志も反省し、朝な夕な真面目に勤めていた。それを見て、一層彼を取り立ててやりたくなってしまった。だが罪人の身の楊志を簡単に取り立てては、周りが黙ってはいないだろう。誰にも文句を言わせない名目が必要だ。そこで一計を案じる事にした。
 二月、とある小春日和の朝にそれは行われた。
 東郭門の練兵場での武芸の調練であった。
 梁世傑が楊志をつき従え練兵場へと入る。兵たちはすでに二列で待機していた。(よろい)(かぶと)を身に纏い、身に帯びた傷の数々は歴戦を物語るに相応しいものばかりだ。
 彼らの先頭で指揮台に控えているのが天王(てんおう)李成(りせい)大刀(だいとう)聞達(ぶんたつ)だ。いずれも万夫不当、一騎当千の猛将で、その活躍ぶりは楊志の耳にも伝わっている。楊志は思わず胸の高鳴りを覚えた。
 梁世傑が手を上げ、鳴り響いていた(がく)()が止まる。李成、聞達が(とき)の声を上げ、梁世傑が命令を下した。
「このよき日に、調練を取り行う事ができて誠に幸いだ。まずは副牌(ふくはい)軍の周謹(しゅうきん)、前へ出てその武を見せてみよ」
 はっ、と応えた周謹が進みでる。練兵場に響き渡る大声はその胆力のほどを伺わせた。
 指名された周謹は副牌軍つまり副将軍である。ここは梁世傑の目に留まる好機とばかり、馬を右へ左へと馳せ巡らせ、槍の妙技を披露する。演武を終えた周謹に大きな喝采が贈られる。
「次に東京からの流人(るにん)楊志よ、前へ出よ」
 俺が、と慌てて梁世傑を見る楊志。彼は目で、行けと言っている。
 楊志だと、誰だそいつは、流罪人だと。ざわつく場内に楊志が現われた。
 鎧甲を纏った堂々としたその姿に、場内が一瞬にして水を打ったように静まりかえった。
 梁世傑だけが満足そうな笑みを浮かべていた。

 楊志と試合をして、そして勝った方に副牌軍の職を与えるというのだ。周謹は考える。何故だか知らんが、この楊志と言う男を登用したいらしい。この試合はその名目にすぎないのだろう。どこの馬の骨か知らないが、職を奪われる訳にはいかぬ。なに、かえって痛い目を見せてくれるわ。
 一方の楊志も、ここが正念場だと気合を入れる。勝負方法は槍と弓に決まった。
 聞達の提言で槍の穂先が外された。代わりに羅沙(らしゃ)布を巻き付け、それに石灰をつけた。これで相手の体に当たれば石灰の跡が残ることになり、その結果は一目瞭然だ。
 調練で大怪我を負い、不具になっては本末転倒だ。聞達の好判断と言えよう。
「俺は全然かまわんのだがな」
 と挑発する周謹に微笑みを返す楊志。
 喧騒に包まれたまま試合は始まった。
 馬上で向き合う二人。槍に絶対の自信を持つ周謹が先に駆けた。楊志も馬を駆けさせる。雄叫びを上げ、周謹が突進する。楊志も槍を構え突っ込んでゆく。馳せ違う二つの騎馬。観衆は目を見張り、石灰の跡を見る。まだどちらにも付いていない。
 両者とも馬首を返し、再び駆ける。今度はすれ違わず接近戦となった。
 必殺の技を繰り出す周謹。無数の槍先が楊志を襲う。しかし楊志は乱すことなくその全てを弾き返す。
 楊志はお返しとばかりに突きを無数に放つ。周謹もそれらを弾く。だが楊志の突きは()むことなく周謹を襲い続ける。
 防戦一方となった周謹だったが、歯を食いしばり負けじと槍を繰り出した。馬も興奮し、足元の土を蹴り上げ、砂煙を舞いあがらせる。二人の攻防に兵たちは息も忘れて見入っていた。
 槍が幾度交差しただろうか。ようやく離れた二人を見て、兵たちも思い出したように息を吐き出す。梁世傑が身を乗り出す。砂煙が徐々に収まってくる。
 ああっ、と練兵場に悲鳴のような声が上がった。周謹の体には花を咲かせたように、十幾つもの白い斑点が刻まれていた。一方、楊志は肩にひとつだけ跡があっただけだ。
「ぐ、貴様」
 歯を砕かんばかりに噛みしめる周謹。
 一礼をする楊志に拍手を送る者は、梁世傑だけであった。

 続いて弓術の勝負が始まる。矢は三本とされた。
「梁中書どの、矢も当たってしまえば無事ではすみません。いかがしましょうか」
 楊志の申し出に周謹が吠えた。
「俺は構わん。戦場(いくさば)では死が隣り合わせなのが日常。ここは戦場も同じ。楊志とやら、怖くばやめても良いのだぞ」
 大恥をかかされた。次の勝負は何としても勝たなければならぬ。あわよくば射殺してやろうと周謹は虎視眈々と狙っていた。
「よし、そちらが良いのであれば問題はない。さあ勝負といこう。はじめは周謹どのからどうぞ」
 楊志はあっさりと承諾した。拍子抜けした周謹は気を取り直し、馬に乗りこんだ。
 逃げる楊志を追う周謹。矢をつがえ弓を引き絞る。楊志の背に狙いをつけ、放つ。
 観衆がどよめく。だが楊志は馬の横に身体を隠し、矢をかわしてしまった。しかも後ろも見ずに、である。
 二の矢はたたき落とされ、三の矢は、何と素手で掴み取られてしまった。矢を素手で取る、だと。馬上で愕然とする周謹。
 楊志の攻撃となった。前を駆ける周謹は気が気ではない。
 揺れる馬上で背を伸ばし、弓を引き絞る。ひょう、と空気を切り裂き飛んでゆく。
 周謹は避けられない。鈍い音と共に矢が周謹に当たり、その勢いで馬から転がり落ちる。誰もが惨事を思い浮かべた。楊志は悠々と馬を止める。
 救護班が駆け寄ろうとした時、倒れていた周謹が起き上がった。無事なようだ。見ると、矢は肘からかけた楯に突き刺さっていた。
 青ざめる周謹は痛感していた。手心を加えられたのだ。
 楊志が進みでて礼をする。衆人には聞こえないような声でぼそりと、
「良い勝負だった。あんたが(やまい)明けじゃなかったら危なかったかもな」
 この男、自分の体調まで見抜いていたとは。これでは勝てるはずもない。周謹は負けた悔しさもあったが、同時に楊志への畏敬の念も感じていた。
「二人ともよく戦った。約束通り、副牌軍にはこの楊志をつけるとしよう」
 梁世傑が高らかに宣言する。
「しばし待たれよ。中書さまにお願いがございます」
 長年生死を共にしてきた兵たちの結束は固い。もし周謹が破れるような事があれば、異議を申し立てよう、と誰もが考えていた。
 しかし誰よりも早く声を上げたのは、正牌(せいはい)軍の索超(さくちょう)という男だった。

 急先鋒(きゅうせんぽう)、そう呼ばれていた。
 索超は短気で、すぐに頭に血がのぼってしまう性格だった。正牌軍となってからは、こと国家の体面に関する事になるとその傾向が強くなったようだ。
 だがそれだけではなく、戦場でも誰よりも先に敵陣に突入してゆく怖れ知らずでもある。仲間の危機には己の危険を顧みず、その命を救った事も多々ある。敬意と親しみを込め、急先鋒と呼ばれる事が、索超は嫌いではなかった。
「何だ索超。願いとは」
「は、この周謹は病後間もなく、気力十分ではありませんでした。故にこの楊志どのに後れを取ったのでしょう。また彼は長年副牌軍を務めた身、そう簡単に異動させられては兵たちの士気にも影響を与えましょう。お許しいただければ、もう一度だけ、今度はこの私と勝負をさせていただきたい。私が負ければ、この正牌軍の職を彼に与えて構いませぬ」
 索超の進言に李成が助け船を出した。
「中書どの、聞けばこの楊志、東京で殿帥軍制司(でんすいぐんせいし)を務めていたとか。周謹の腕が劣るのではありません、この男の腕が非凡すぎるのです。この索超であれば良き勝負が期待できるかと」
 不満げな梁世傑。まだ楊志を認めないというのか。だが確かに圧勝すぎたところはある。索超と楊志との勝負は確かに見てみたい。知らず口元を綻ばせる梁世傑。
「よし認めよう、索超。楊志に異存はないか」
「はい、ご命令とあらば喜んで」
 笑顔で索超を見る楊志。索超は口を一文字(いちもんじ)に結び、肩をいからせ楊志をにらみ返す。
 筋骨隆々の体躯は楊志の一回りも大きいだろうか。二人は支度を整え、再び場内へ入って来た。
 太鼓が打ち鳴らされ喝采が起きる。兵たちの期待を受け索超が、梁世傑の期待を受け楊志が、馬上で向き合った。
 二人の手には武器が握られている。模擬戦ではない、真剣勝負だ。
 静まりかえる場内。はためく旗の音と馬の鼻息だけが聞こえる。
 開始の旗が振られた。
 それを待ちわびていたようにふたつの人馬が同時に動いた。

 金蘸斧(きんさんぷ)という、槍のような長柄の先に斧が据え付けられている武器だった。索超は金蘸斧を軽々と舞わせ雄叫びを上げる。戦場で一番槍、索超の場合は一番斧といったところか、その栄誉を最も多く得てきた急先鋒の名に恥じぬ騎乗だ。
 かたや楊志が手にするのは槍だった。先ほど周謹戦で用いたものに穂先を戻したものだ。
 練兵場のおよそ中央で二人は激突した。
 陽光を照り返し、金の斧が煌めく。負けじと銀の槍も華麗に舞う。
 斧を紙一重でかわし、放った槍も索超が微妙に身体を捻りかわす。斧と槍がぶつかり合い、すれ違い、弾きあう。両者の軍服が破けている。腕、足、脇など徐々にそれが増えてゆくが、どれも決め手にはならない。
「はは、強いな。先走るだけじゃないんだな」
「抜かせ。だが貴様も大した腕よ。周謹が負けるのも」
 頷けるわ、と索超が力押しで楊志を突き放す。なんとか馬を踏みとどまらせ、にやりとする楊志。
 誰ひとりとして野次ろうとする者はいなかった。索超と楊志が刃を交えて既に五、六十合になろうか。両者一歩も引かない戦いぶりに見蕩(みと)れ、声を発する事さえ憚られたのだ。
 楊志の実力は本物だ。一流は一流を知る。李成も聞達も、そして索超こそが、この楊志の実力を実感しているのだ。
 梁世傑もこの希代の名勝負に口を開けたまま見入っていた。瞬きする間も惜しいとばかりに目を見開いている。
 一旦離れた二人が機を窺っている。次にぶつかった時が決着の時だ。
 李成は終了の銅鑼を鳴らさせた。
 このままではどちらか重傷を負ってしまう。実力が拮抗した者同士の勝負は得てしてそうなる場合が多い。索超はもちろん、楊志もこの北京軍の強大な戦力となろう。今、どちらかを失う訳にはいかなかったのだ。
 だが二人は止まらなかった。戦いに集中していて聞こえなかったのか。はたまた武人の矜持がそれを良しとしなかったのか。
 索超は楊志だけを、そして楊志も索超だけしか見ていなかった。
 これで決まる。両者がそう思った刹那、二人は目の前に割り込んできた影を見た。

「そこまでだと言ったろう。聞こえなかったのか」
 目の前には聞達が両手を広げて立っていた。
 聞達の肩口に金蘸斧が、背中の中心あたりに槍が布一枚の所で止まっていた。
「聞達どの。飛び込んでくるとは、危ない所でしたぞ」
「お主に言われたくはない、索超」
 聞達は楊志と索超の顔を順に見やり、
「悪かったな。お前たちほどの腕なら止めてくれると信じていたよ」
「しかし、この男との決着が」
「勘違いするなよ、索超。我らは同じ軍人だ。味方同士傷つけあってどうする。やるなら(そう)に敵する者にその技を発揮せよ」
「申し訳ございません」
 うつむく索超を尻目に、聞達が言う。
「見事だった。お主の登用に誰にも文句は言わせない。そこの李成と、この俺が約束しよう」
「楊志、索超ともに素晴らしい戦いぶりだったぞ」
 梁世傑が言うと、堰を切ったように喝采が起こる。索超、楊志両者を褒めたたえる喝采であった。聞達が微笑んでいる。
「ようこそ、北京大名府軍へ。青面獣(せいめんじゅう)
 楊志の背筋が震えた。索超といい、この聞達といいこれほどの豪傑に会えるとは。牛二を殺してしまった時はどうなるかと思ったが、運は(ひら)けるものだ。
 聞達に微笑み返した楊志は、ふと周謹の方を見た。索超は楊志に負ける事はなかった。したがって周謹も副牌軍を奪われる事はなかった。
 しかし失態を演じた周謹はそれを恥じ、辞退しようとした。
 索超が周謹を制し、言った。
「病み上がりだろうが、いついかなる時も戦場(いくさば)に向かうのが我ら軍人だ。恥じる気持ちは充分わかる。だがお前がいなくてはこの軍は成り立たぬのだ」
 顔を伏せ、震える周謹。
「申し訳ございません、索超どの。大きな借りを作ってしまいました」
「はは、そうだな。では、その借りは戦場で返してもらう事にしよう。頼んだぞ、周謹」
「はっ、必ず。この借りは必ず返します」
 立ち去る索超に、片膝をつき見送る周謹。
 強くなる。必ず強くなって、この借りをお返しします。周謹は歯を食いしばりながら、そう心に誓った。
 周謹の足元の砂が、所どころ濡れているようだった。

禍福 三

 (よもぎ)で作られた人形が飾られ、門には菖蒲(しょうぶ)が捧げられている。邸宅内の大きな卓で梁世傑(りょうせいけつ)と妻の(さい)夫人が端午の節句を祝っていた。
 (ちまき)や酒などを運ぶ女中たちが忙しく立ち働き、やがて二の膳となった頃、夫人が言った。
「早いもので、もう端午ですわね。ところであなた、お忘れではありませんよね」
「もちろん、覚えているさ。来月の十六日、義父上(ちちうえ)の誕生日の事だろう。私は木石(ぼくせき)ではない、義父上のご引き立てで得られた、この功名と豊かな暮らしのご恩は忘れるものか」
 北京(ほくけい)で権力を握る梁世傑も、蔡京(さいけい)の娘であるこの妻には頭が上がらない。自身の実力もさることながら、今の地位につけたのは蔡京の力によるところが大きいのだから。
「安心しなさい。もうひと月前から準備はしてある。ただ心配なのは、昨年のようにならないか、なのだが」
 梁世傑は、昨年の蔡京の誕生日にも贈り物をした。この生辰綱(せいしんこう)と呼ばれる誕生日祝いは、いわゆる賄賂にすぎないのだが、それが東京(とうけい)への道中で賊に奪われてしまったのだ。
 梁世傑の落胆はもちろん、蔡京の怒りはいかばかりか。徹底した捜索にもかかわらず、未だに強奪犯はただのひとりも捕える事ができないでいるという。
「今回は同じ轍を踏む訳にはいくまい。どうしたら良いものか」
「あなた、お忘れですか。今年はあの男がいるではありませんか」
 蔡夫人が、ふふふと微笑んでいた。

「お言葉ですが、それではお受けする事ができません。誰か他に相応しい方をお探し下さい」
 楊志(ようし)は梁世傑の依頼を断ると、渋い顔で心に思う。
 昨年は賊に強奪されたというが、それも当たり前だ。なにせ大仰な荷車に誕生日祝いの旗を立てて行くというのだから、奪ってくれと言わんばかりではないか。いかに己の武芸に自信があろうと、そんな狼の群れの中を裸で歩くような真似はできない。
「何故だ、楊志よ。この生辰綱を無事届けたあかつきには、お前をさらに引き立ててやろうと、蔡京さまへの手紙もしたためておるのだぞ」
 楊志は警告する。
「梁中書さま、東京への道のりは陸路のみ。そしてその道中にある紫金山(しきんざん)二竜山(にりゅうざん)桃花山(とうかざん)傘蓋山(さんがいざん)黄泥岡(こうでいこう)白沙塢(はくさう)野雲渡(やうんと)赤松林(せきしょうりん)はまさに盗賊どもの巣窟となっております。たとえ五百の兵をお付けになっても、賊を見れば先を争って逃げてしまうでしょう」
 腕を組み思案する梁世傑。
「ならばどうすれば良いというのだ」
「よろしければ、私に策がありますが」
「わかった。楊志よ、お前に一任するから引き受けてくれぬか」
 はい、と楊志は引き受けた。
 楊志にはある秘策があった。これならば、うまくいくはずだ。
 三日後、梁世傑が見守る中、生辰綱が出発した。
 楊志の頭に花石綱(かせきこう)の失敗が思い浮かぶ。生辰綱の額は十万貫。途方もない莫大な金額だ。今度は失敗できない。失敗すれば確実に死罪が待っているだろう。
 いや、大丈夫だ。きっとうまくゆく。
 
 待ちうけるは悪鬼羅刹か、魑魅魍魎か。
 だが進むしかないのだ、いま目の前にあるこの道を進むしかないのだ。
 楊志は己を鼓舞し、迷いを断つように頭を振ると、力強い一歩を踏み出した。

北斗 一

 梁世傑(りょうせいけつ)が生辰綱の品物選びに奔走していた頃、済州(さいしゅう)鄆城県(うんじょうけん)に新しい知県が赴任した。
 名は時文彬(じぶんひん)惻隠(そくいん)の心を持つ、この時分には珍しい男だった。
 時文彬は引継ぎの業務を終え、早速配下に命じた。
 近ごろ、この済州管轄にある梁山泊(りょうざんぱく)に盗賊どもが集まり略奪を繰り返しており、官軍さえも寄せ付けぬ勢力と聞く。また近隣の村里でも賊徒が横行しているとか。手間をかけるが見回りをしてきてほしい。
 それを受け二人の都頭が配下の民兵二十人ほどを連れて巡察に出た。まだ日が昇るには早い刻限であった。
雷横(らいおう)、我らは西門からゆく。大丈夫だとは思うが気を抜くなよ」
「いらぬ世話だ。賊徒など俺一人でふん(じば)ってやるわ。じゃあな、朱仝(しゅどう)
 朱仝は溜息をつく。背が高く、黒々とした長い髯が自慢で美髯公(びぜんこう)と呼ばれる騎兵都頭である。朱仝は髯をなでながら、では、と西門へと向かった。
 雷横はそれを見送り、民兵らと東門へ向かう。背は低めだが肩幅があり、大きな目と跳ねあがった髯と揉み上げが印象的な雷横は歩兵都頭であった。これまで鍛冶屋、米()き、屠殺などさまざまな職についていた。
 朱仝、雷横ともに鄆城で生まれ、ここでは有名な二人であった。温厚で面倒見も良く金に淡白な朱仝と、義侠心厚いが意固地な面があり博打好きな雷横は、水と油に見えてその実お互いを補い合う好対照でもあったのだ。
 雷横は意気揚々と暗い道を歩いてゆく。あちらこちらと見回り、異常の無い事を確認する。だが東渓村(とうけいそん)に入った時である。通りかかった霊官廟の社殿の門が開いているのに気付いた。
「む、ここには廟守りもいないはずだよな」
 雷横は朴刀を手に足音を忍ばせて中へと入る。民兵たちもそれに続いた。
 前をゆく雷横が手を開き、止まれと合図する。奥の方から地鳴りのような音が聞こえてくる。
 民兵たちが幽霊だ、と騒ぎだす。雷横はそれを鎮めると、松明をかざした。
「なんだこいつは」
 廟内の供物台の上、そこに大きな男が寝そべっていた。
 男が息をするたび地鳴りが聞こえる。露わになった胸をぽりぽりと掻き、雷横たちにも気付くことなく高鼾をかいていた。
 松明を近づけ面相を確認する。赤茶けた髪と太い眉を持ち、口の中に見える牙のような歯は凶悪そうで、近隣では見た事のない顔だった。
「やれっ」
 雷横は有無を言わさず男に縄をかけさせ、取り押さえた。
「な、なんだ手前(てめえ)は」
「なんだとはこっちの台詞だ」
 目を覚ました男は縛られながらも抵抗する。ぴちぴちという音とともに縄の一部がほつれ始めた。
 なんという力だ。急いでありったけの縄をかけ、やっと男は動けなくなったようだ。幾重にも巻かれた縄で、もはや首から上と足しか見えていないありさまだ。
 大手柄だ、と雷横は役所へと戻ろうとしたが、ふと思い立った。この東渓村の自治責任者である保正(ほせい)を務める晁蓋(ちょうがい)にこの一件を報告しておこうと思ったのだ。
 夜明けにはもう少しかかる時刻だったが、あにはからんや晁蓋の邸宅の明かりが灯っているではないか。
 晁蓋は常日頃から気風(きっぷ)の良い男で、雷横も一目置いていた。何より顔を見せるたび、労をねぎらって酒をご馳走してくれるのだ。
 雷横は緩んだ口元を引き締め、晁蓋宅の門をたたいた。

北斗 二

 庭で夜空を眺めていた。
 美しい。
 後ろに手を組み、飽くことなく星を眺めていた。いったいどれくらいの時間そうやっていたのだろうか。
 おかしい。
 晁蓋(ちょうがい)は気付いた。星の位置が変わっていないのだ。あれほどの時間が経ったにもかかわらず星が動いていない。まるで夜空に貼り付けられたかのように、星はその動きをやめていた。夜空のあちこちを見回すがどの星も同じだった。
 これは一体、と北を見上げた時だった。星が動き始めた。
 自分の勘違いだったか、と安心したのもつかの間、それが思い違いであると悟った。
 動いていたのは視線の先にある星だけだった。その数は八つ。
 北斗七星とその脇に鈍く輝く小さな星だった。動いているといっても、西へと動いている訳ではない。徐々にその姿が大きくなっているのだ。
 瞬きすら忘れ、晁蓋は茫然とたたずんでいた。そうしている間にも北斗と小星は大きさを増してゆく。
 いや、大きくなっているのではない。天空からこちらに落ちてきているのだ。
 今や視界いっぱいに八つの星が広がっていた。晁蓋の顔が星たちの明かりで煌々と照らされている。だが晁蓋は目を閉じる事がなかった。眩しくはないのだ。
 立ち尽くす晁蓋に八つの星たちが降り注いだ。もはや何も見えない。目の前が白い輝きで包まれる。
 晁蓋は叫んだ。
 目の前は暗闇だった。
 目を開けたのに暗闇だった。闇に慣れ始めた晁蓋が見たのは、いつも使っている布団だった。
 夢、だったのか。
 上を見ても暗い天井が見えるばかりだった。障子の向こうも暗い。まだ朝には早いようだ。深呼吸をしてもう一度目を瞑ったが、眠りにつける気配がない。完全に目が醒めてしまったようだ。
 晁蓋は服を着替え、溜まっていた仕事でもしようと書斎へと向かった。蝋燭(ろうそく)に火を灯し、卓に向かう。
 書類に目を通しながらも、夢の事が頭から離れない。北斗七星と小星に何の意味があるのか。
 書類から目を離し、座ったまま両手を上げ、背を反らせる。
 門の方で何か音が聞こえたようだ。耳を澄ませると確かに門が叩かれている。
 こんな時分に気の早い者がいたものだ。
 晁蓋は席を立ち、来客を迎えようと門へと急いだ。

「こんな時分に申し訳ない、晁蓋どの。役所へ戻るにはまだ早かったし、ここの明かりが灯っておったので寄った次第で」
 雷横(らいおう)が頭をかきながら挨拶をする。
「なに、遠慮なさるな。日頃から近隣の警備に努めている都頭どのを追い返すはずがないでしょう。丁度、目が覚めておって良かったわい」
 晁蓋は雷横一行を招き入れると下男たちを叩き起こした。さっそく酒と軽い食事を用意させた。
「ところで何かあったようですが」
「さすがは托塔天王(たくとうてんおう)どの」
「やめてください、その渾名(あだな)は。お恥ずかしい」
 数年前、川を挟んだ隣村の西渓村(せいけいそん)に幽霊が出るという騒ぎがあった。
 幽霊は昼間でも現われ、村人を川に引きずり込んでいたという。だが通りがかった僧侶の助言で宝塔を建ててから、幽霊騒ぎはぴたりと止んだ。
 しかし困ったのは東渓村(とうけいそん)だった。なんと幽霊が今度は東渓村に現われるようになったのだ。
 晁蓋は東渓村を預かる保正(ほせい)の身。憤慨した彼は西渓村に建てられた、重さ百数十斤もの宝塔を独りで持ち上げ、東渓村側に運んでしまったのだ。
 この一件以来、村人たちは畏怖を込めて晁蓋の事を托塔天王と呼ぶようになったのだ。
 だが再び西渓村が被害にあうようになり、晁蓋も自分の短慮を反省した。そして身銭を切り、同じ宝塔を作る事でこの件は落着したのだった。
「ははは、謙遜なさるな」
 と笑うと、雷横はふいに真顔になり、今晩の不審人物捕縛の顛末を語った。聞くと、男は晁蓋宅の門長屋(ながや)の軒に吊るしてきたという。
 一体どんな男なのか。興味をそそられた晁蓋は便所に行くふりをして、門長屋へと向かった。
 異様な面相の男がそこにいた。逆立った赤茶けた髪、太い眉、こちらを睨む(まなこ)は鬼のようだ。口元からは牙のような歯が覗いている。
「お前は何者だ。ここへ一体何をしに来たのだ」
「俺はある人を訪ねてきたのだ。盗みも何もやっちゃねぇのに、あの都頭の野郎が有無を言わさずふん(じば)りやがった」
「わしはこの屋敷の(あるじ)だが、お前の名はなんという。そして会いに来た人物とは誰なのだ」
「ふん、俺の名は劉唐(りゅうとう)赤髪鬼(せきはつき)の劉唐だ。この村に天下の義侠、晁蓋どのがいると聞いてやって来たのだ」
 自由を奪われ、軒に吊るされているというのに少しも怯まない豪胆さ。まさに赤髪鬼の名に恥じぬ男だ。こういう男は大好きだ。晁蓋は思わず微笑むと正体を明かした。
「あんたが晁蓋どのか。こんな上から申し訳ない。あんたに話があって来たのだ」
「何の話かな」
「莫大な金蔓(かねづる)さ。この縄を何とかできねぇかい、晁蓋どの」
 そうだな、と晁蓋はしばし思案し告げた。
「お前はわしに会いに来た甥という事にしよう。あまり席を外していて不審に思われるといけない、わしはもう戻る。上手く口裏をあわせてくれ、良いな」
 晁蓋は門長屋の扉を閉めると部屋へと戻った。雷横はひたすら酒を飲み、部下と話をしており、こちらを疑ってもいないようだった。

 一番鶏が鳴いた。
 雷横は口惜しそうに杯を置くと、晁蓋に出立の意を告げた。
「長い事お邪魔しました。晁蓋どのも不審者を見たらすぐに連絡してください」
 門長屋の方から劉唐が引っ立てられてくる。
 大人しくしていたか、と雷横が劉唐を引き取った。ふと劉唐が顔を上げ、晁蓋を見た。
「叔父さん、俺です。お忘れですか」
 雷横は驚き、その目線が晁蓋と劉唐を何度も行き来する。
 驚いたのは晁蓋も同じだった。迫真の演技ではないか。この劉唐という男、粗野なだけではないようだ。
 晁蓋は眉根を寄せ、劉唐の顔をしげしげと見聞する。
「おお、お前は王小三(おうしょうさん)か。幼い頃に会ったきりだったが、その髪の色と、尖った歯で思い出したわ」
「そうです、小三です。お懐かしゅう」
 王小三こと、劉唐は事の成り行きを話しだした。
 この東渓村に晁蓋を訪ねてきた事。村に着いたのが夜明け前だったので、廟で一夜を過ごしていた事。そしてそこで雷横に縄をかけられてしまった事。
 雷横は目を丸くして立ち尽くす。捕まえた男は晁蓋の甥だったというのか。確かにこの男が何かを盗んだという訳ではない。誰も立ち入る事のない廟の中で寝ていたので、不審者とみなしたのだ。
 雷横が対応を考えあぐねていると、晁蓋の手にいつの間にか棒が握られていた。部下に持たせている棒だった。
「この馬鹿者め、都頭どのに迷惑をかけおって」
 晁蓋はそう叫ぶと、雷横が止める間もなく、小三を殴りつけた。
 慌てたのは雷横だ。
「や、おやめください晁蓋どの。甥ごどのは何もしていないのですから」
「いえ、雷横どのに捕縛されて当たり前です。家族の恥はわしが責任を持つ」
 そう言って再び棒を構える。雷横が急いで縄を解くよう、部下に命じる。
叔父(おじ)さん、すまない。そして都頭どのも」
 手首をさすりながら、小三が頭を下げる。
 雷横も申し訳ない思いで、心地よい酒の酔いなどどこかへ飛んでしまった。
「いやいや、わしも悪かったのだな、よく確かめもせずに。晁蓋どの、甥ごさんを赦してやってください」
「何を言いますか。雷横どのは職務を果たしただけの事。誠にお騒がせをいたしました」
 晁蓋は下男に銀を取りに行かせ、それを雷横に渡した。
 雷横は断ったが、晁蓋が何度も勧めるので仕方なく懐にそれを仕舞った。
 雷横の背には、そのやり取りを見ていた劉唐の視線が注がれていた。

 生辰綱を奪う、と劉唐は言った。
 十万貫という、にわかには信じ難い額だった。北京(ほくけい)の留守司、梁世傑(りょうせいけつ)が義父である東京(とうけい)蔡京(さいけい)のために贈る誕生日祝いの金銀珠玉だというのだ。
 劉唐は言う。
「いいですかい、晁蓋どの。それらも元は貧しい民草から捲き上げた不義の財宝だ。だから俺らが奪っても、お天道様が見てたって咎めるはずがありません。あんたを義侠と見込んで話を持って来たんだが、どうですかい」
 晁蓋は腕を組み、唸った。
 確か昨年の生辰綱は賊に奪われ、いまだに犯人が見つかっていないと聞いた。ならば今回も多くの賊たちが手ぐすね引いて待ちかまえているだろう。
 また梁世傑とて、同じ轍は踏まずに何らかの策を練ってくるだろう。その十万貫は不義の財には違いあるまい。心は動かされるが、一筋縄でいく案件ではない。
 結論は明日という事にして、劉唐は部屋へと案内された。寝台に腰かけ、劉唐は手首を見た。縄の跡がうっすらと残っている。
「あの野郎、思い出すだけで腹が立つわ。どうして俺があんな目に会わなきゃならねぇんだ。役所へ行くと言っていたが」
 まだそう遠くへは行っていまい。思うが早いか、劉唐は部屋を出て外へ駆けだした。手には槍架けにあった朴刀が一本握られていた。
 屋敷から南へ数里行った所で雷横一行を発見した。劉唐が吠えた。
「おい待ちやがれ、貴様」
 振り向いた雷横は、朴刀を手にした鬼を見た。鬼は更に吼えたてる。
「晁蓋どのから捲き上げた金を返しやがれ」
 雷横は部下を下がらせ、自らも朴刀を構える。
「捲き上げたとは人聞きの悪い。こいつはお前の叔父さん、晁蓋どのからいただいたものだ。お前には関係あるまい」
「確かめもせずに人を一晩吊るしやがって。おまけに俺の叔父から金をせしめやがって、貴様の方こそ盗っ人ではないか」
 売り文句に買い文句、雷横も黙ってはいない。
「何だと、晁蓋どのの甥というから解放してやってだけの事。さもなくばお前など今ごろ牢の中よ」
「ふん、盗っ人猛々しいとは正にこの事だな」
 追いついた劉唐が朴刀を振り下ろす。それを迎え討つ雷横。
 だが雷横はそれを受けず、身をかわした。長年の戦いで培った一瞬の判断が生死を分けた。
 雷横はぞっとした。突風の如き一撃は、己がいた場所の地面を深々と抉っていたのだ。劉唐の肩口から見える腕と肩の筋肉が隆起し、血管が縦横に走っている。
 何という膂力なのか。触れれば骨ごと斬られてしまう。さらに劉唐の刀が唸り声を上げた。
 雷横は後方に飛び、距離をとった。劉唐が横薙ぎに払った刀は空を斬ったが、傍らの塀にしっかりと深い刀傷が残されていた。
「鬼め」
 雷横が唾を地面に吐き捨てる。
「どうした、そっちからもかかって来いよ」
 劉唐の挑発には乗らない。奴の刀に触れた時点でお終いだ。だが威力は確かにあるが、技術はそれほどでもないようだ。
 朴刀を構え劉唐に向かって駆ける雷横。駆けだして三歩、雷横は地面を蹴るようにつま先に力を込める。
 次の瞬間、雷横は跳んだ。矢のような勢いで劉唐に向かって真っ直ぐに跳んでゆく。
 充分な距離があり、鷹揚に構えていた劉唐は目を見張った。
 この距離を跳ぶだと。しかも駆けるよりも早く跳んでくる。跳躍というよりも射出という感じだった。
 雷横と劉唐が交差する。劉唐は辛うじて防ぐ事しかできなかった。
蟋蟀(こおろぎ)手前(てめえ)は」
 毒づくが、朴刀を持つその手がじんじんと痺れている。その時、見たのは蟋蟀などではなかった。
 劉唐は虎を見ていた。
 牙を剝き、襲い来るその虎は、大きな翼を持っていた。

 雷横と朱仝(しゅどう)が強盗の一味を追っていた時の事である。
 首尾よく一味を取り押さえたかに見えたが、首領格の男がいないことに雷横は気付いた。
 隠れていた首領は雷横に見つかると寨のある山へと逃げた。雷横はそれを追ったが、男は足が速く、雷横も見失わないようにするので精いっぱいだった。
 先を行く男は、深い谷に架かる吊橋を渡り終えると、それを落としてしまった。
 騎馬で追いついた朱仝は見た。雷横がそれでも速度を落とさずに谷に向かって駆け続けるのを。
 跳ぶ気か、まさか。
 雷横は足に力を込め、速度を上げた。
 跳ぶ気だ。よせ雷横、無理だ、と朱仝は叫んだ。
 跳んだ。
 雷横はまったく躊躇することなく、跳んだのだ。
 朱仝は思わず手を伸ばしたが、届くはずもない。
 時の流れが緩やかになったように感じた。見えるもの、聞こえるもの全てがゆっくりだった。風の音が耳鳴りのようだ。
 雷横は宙をゆっくりと駆けるように跳んでいた。朱仝は手を伸ばしたまま雷横の行方を見つめる事しかできない。
 雷横、と叫んでいた。
 雷横、雷横、と何度も何度も叫んでいた。だがそれに反し、言葉はゆっくりとしか出ず、身体も水の中にでもいるかのように緩慢にしか動かせない。
 雷横、とやっと声に出た途端、時の流れが戻った。枷を外されたようにつんのめる朱仝。手を伸ばした先に雷横はいなかった。
 雷横、もう一度叫び目を凝らす。
 いた。
 断崖の向こうで、雷横が首領に馬乗りになっていた。
 跳んだのか。
 断崖の幅は四間(よんけん)ほどもあろうか。馬ならば跳べもしよう、また平地ならばその幅を跳べる者もいるだろう。だが平地ではないのだ。まさに一歩間違えれば奈落の底である。
 ほんの少しの躊躇(ためら)いが命取りだというのに、雷横は逡巡することなく跳んで見せた。
 朱仝はその胆力と脚力に敬意を払い、それ以降、雷横の事を挿翅虎(そうしこ)と渾名するようになった。

 劉唐が見たのはその挿翅虎だった。
 驚いた劉唐だったが、(くぐ)った修羅場の数では負けていない。にやりと笑ってみせると、人差指で招くそぶりをする。
「へへ、もう一度来いよ、蟋蟀野郎」
 雷横は呼吸を整え、朴刀を構え直す。同じ手は通用しない事はわかっている。だがやるしかない。ひゅっ、と息を吐き雷横が駆けた。
 本当にもう一度やる気なのか。お互いに駆け引きが得意ではないことは確かだ。ならば持てる力をぶつけるしかないのだろう。
 いいだろう、受けてみせよう。劉唐は腰を落とし、左手を前に出す。朴刀を逆手に持ち、身体を(はす)に構える。
「来い」
 劉唐の叫び声とほぼ同時に雷横が跳んだ。射出点の地面が深く抉れていた。
 眼前に迫る空駆ける虎。
「来い」
 劉唐は腰をさらに落とし、力を溜める。
 今だ。劉唐が溜めていた力を爆発させる。朴刀が烈火の勢いで雷横を襲う。
 それと同時に、挿翅虎は右腕を伸ばし、朴刀を劉唐に向かって突き出した。
 二つの刃が交差した。
 そしてその刃は劉唐と雷横、どちらに到達することもなく弾け飛んだ。回転した二つの朴刀は、民兵たちの目の前に落ちた。
 ひっ、と民兵たちが飛びのく。
 二人の手から朴刀が失われた。
 劉唐の手は空を斬り、雷横がそのままの勢いで激突する。もんどりうって地面を転がる両者。
 民兵が落ちた朴刀を見ると、刃が突き合せになったままでひとつになっていた。そこには銅の鎖が巻きついていたのだ。
「誰ですか、こんな早くに騒がしい。少し静かにしてくれませんかね」
 上体を起こした二人が見たのは書生風の男だった。
 どうやら二人が戦っていたのは、彼の家の門前だったようだ。
「ああ、壁にこんな傷までつけて」
 と言って、劉唐と雷横を見る。
「おぉい呉用(ごよう)先生、わしだ。王小三もやめるのだ」
 晁蓋どの、と男が声の方を向いた。
 呉用先生と呼ばれたその男の手には、朴刀に絡みついているのと同じ銅鎖がぶら下げられていた。

北斗 三

「はは、晁蓋(ちょうがい)どのが来てくれなければ、どうなっていた事やら」
 呉用(ごよう)は茶をすすりながら笑った。晁蓋と劉唐(りゅうとう)の前にも茶が置かれている。
 晁蓋は生辰綱の件を呉用に相談しようとしていた。だが家を出る際に、槍架けの朴刀が無くなっている事に気づいた。もしやと思い、急いで劉唐を追ってみると、案の定という様相だった。
 その後、晁蓋の取り成しで王小三こと劉唐と雷横(らいおう)の喧嘩は、一応の解決を見た。
 晁蓋は劉唐、呉用と屋敷へ戻り、雷横は役所へと戻ったのだ。
「晁蓋どの、申し訳ありません。それに呉用どのも。晁蓋どのの金をとり返してやりたくて」
 劉唐は横目で呉用を見やる。
 呉用はあの家を間借りして私塾を開いており、晁蓋とも親交が深いという。色白で華奢な体つき、およそ武芸などには縁遠い、まさに先生という風貌だった。
 だがあの時、雷横との戦いを止められた。朴刀が重なった瞬間に銅の鎖を巻きつけるという妙技を、呉用はしてみせたのだ。
 劉唐も江湖を長年渡り歩いて来た男。呉用から一介の私塾の教師ではない何かを十二分に感じ取っていた。
「まあよい、わしのために良かれと思ってしたことだ。雷横どのにも、この劉唐にも怪我がなくてよかったわい」
 わはは、と豪快に笑い茶をあおる。呉用が湯呑みを置く。
「ところで晁蓋どの、私に相談とは何事ですか」
 うむ、と姿勢を正し、晁蓋は腕組みをした。
「先生、実は昨晩奇妙な夢を見ましてな」
 と、晁蓋は訥々と話し始めた。

「なるほど、わかりました。不肖この私も協力しましょう」
 呉用は快諾した。劉唐もその決断の速さに驚くほどだった。
「しかし俺と晁蓋どの、そして呉用どのの三人では心もとない。あとどれくらい集めたら良いだろうか」
「八人」
 劉唐の問いに、呉用は即座に答えた。
「八人です。晁蓋どのの見た夢はおそらく吉兆」
「なるほど、北斗七星と脇の小星あわせて八人という訳ですな、先生」
「そうです。私に三人ほど当てがあります」
「では人を遣って、迎えに行かせましょう」
「いえ、私が直接話しに行きます。しばらく会っていなかったので、丁度良い機会です」
「それでその当てというのは」
 劉唐の問いに呉用が答える。
石碣村(せきけつそん)の三人の死神たちです」
 口元をほころばせながら、呉用は羽扇をゆったりとくゆらせた。

 呉用は石碣村を歩いていた。晁蓋宅での密談の翌日である。日は中天を過ぎたあたり、心地よい暖かさだ。
 石碣村は東渓村(とうけいそん)から百里ほどの所にある、梁山泊(りょうざんぱく)とつながった石碣湖のほとりに位置している村だ。村人は主に漁業に従事しており、今も湖面に浮かぶ舟がいくつか杭に繋がれているのが見える。
「ここを出てから二年か。懐かしいな」
 呉用はそうつぶやきながら迷うことなく歩いてゆく。
やがて一軒の草葺きの家に着いた。山を背に湖に臨んだその家は十間(じっけん)余りだろうか。外の生け垣には網が干されている。
 門をくぐり、呉用は奥へ声をかける。
小二(しょうじ)さんはおられるか」
「誰だい」
 奥からのそりと男が出てきた。額のあたりに手拭いを巻き、伸びた髪をおさえていた。手拭いの下から覗く目の辺りがやや窪んでいた。素肌に袖なしの着物をひっかけただけで、足もむき出しのままだった。だが袖から見える腕の筋肉や張りつめた太もも、節くれだった指が、男の経歴を雄弁に物語っていた。
 小二と呼ばれた男は呉用をみとめると一瞬呆けた様な顔になった。
「先生ですか。いやぁ、お懐かしい。一体どういう風の吹きまわしで」
 凶悪そうな顔が一転、満面の笑みを浮かべる小二。
「おい(りょう)、先生がいらっしゃったぞ」
 奥から少年が駆けてくると、呉用に飛びついた。
「先生。覚えていますか、良です」
「もちろんだとも、阮良(げんりょう)。大きくなったな」
「うん、もう父ちゃんと一緒に漁に出てるんだ」
「まだまだお前なんぞ、ものの役にも立たんわ」
 そう言いながら、阮小二(げんしょうじ)は満更でもないようだった。
「すまないが、お父さんと話があるのだ。ちょっと借りても良いかな」
 阮良を家に残し、阮小二と呉用が家を離れる。阮小二の妻は近隣の村へ買い出しに行っているという。
「それで先生、話というのは」
「うむ、私は今ある金持ちの家を借りて私塾を開いているのだが、その方が今度宴会をやりたいというので、どうしても目方が十四、五斤ほどの鯉が欲しいのだ。そこであんたの顔を思い出したという訳なのだ」
「ありがたい話だが、久しぶりの再会だ、まずは飲みましょうや」
「うむ、私もそのつもりだよ。ところで五郎さんと七郎さんも変わりないかね」
「ええ、相変わらずです。そうだ、二人も呼んで皆で飲みましょう」
「それはこちらも願ったり叶ったりです」
 目じりを下げた呉用が口元で羽扇をくゆらせた。
 呉用と阮小二が乗りこんだ舟が湖上を走ってゆく。向こう岸にある料亭へ行くためである。阮小二の腕が櫂を操るとあっという間に岸が遠のいてゆく。
 湖心あたりで阮小二が声を上げた。
「おおい、小七(しょうしち)小五(しょうご)の奴を知らんか」
 呉用が見ると、葦の茂みから一艘の舟が出てきた。船上の青年は兄弟の三番目、阮小七(げんしょうしち)である。
 日焼けした顔にはまだ幼さが残っているが、目元には意思の強さが現われていた。阮小二と同じく袖なしの着物を羽織り、太股までの短い物を履いていて裸足だった。手に竿を持っており、どうやら釣りをしていたようだ。
「大兄貴、小五兄貴に何か用かい」
 舟を寄せてきた小七に呉用が声をかけた。
「七郎さん、用があって来たのは私だよ」
「やあ、先生じゃないか」
 小七が少年のような笑顔になった。
 二艘は並んで湖上を進んでゆく。
 遠くの方に大きな山影が見える。梁山泊の姿を懐かしがる呉用とは反対に小二と小七はつれない返事をするだけだった。
 やがて岸に着いた一行は丘の上の一軒家に向かった。
「おふくろ、小五はいるかい」
 そこは兄弟の生家だった。小五と小七が母と共に住んでいるのだ。
「おや小二、小五なら博打に出かけちまったよ。最近、魚も取れないから一文無しだとか言って、あたしの(かんざし)まで持って行っちまったよ」
「まったく小五の奴め。わかった捕まえてくるよ」
 呉用が母に挨拶をし、一行は再び舟に乗り込む。
 目に入る家が次第に増えてきた。村の中心部に近づいたようだ。小二と小七が舟を(もや)い、三人は賭場へと向かった。
「おお、小五。俺だ、小二だ」
 丸木橋のほとりで舫を解いていた男が顔を上げた。阮小五(げんしょうご)である。
 兄弟順は二番目だが、一番大きく筋骨隆々の体躯。胸には黒豹の刺青がされている。首に手拭いを巻き、褌一丁の姿も様になっている。
「五郎さん、勝ちましたか」
「やっぱり先生か、二年ぶりかね。橋の上から兄貴たちだと思って見ていたよ」
「おふくろが、兄貴が賭場に行ったと言うから、追いかけて来たんだぜ」
「小五、先生が俺たちに話があるそうだ。再会を祝して料亭で一杯やろうという話なのだが」
「そいつは丁度良い。今回は俺がおごるぜ」
 阮小五が手にした銅銭の束を揺らして見せる。
「やるじゃないか、兄貴もたまには」
「たまに、は余計だ」
 と小七を小突く小五。ふふ、と笑い先へ行く小二。
 本当に仲の良い兄弟だ。呉用も思わず微笑んでいた。

 四人は料亭に入った。上座を辞する呉用を尻目に、小七はさっさと小二を上座に据え、酒食を運ばせた。
 餅菓子のような牛肉を肴に四人が杯を傾ける。脂ののった牛肉を呉用は二、三切れしか口にしなかった。だが、むしゃむしゃと食べ続ける三人を見て、相変わらずだなと目を細めて酒を飲んでいた。
 やがて日が暮れはじめ、四人は場を変える事にした。この店は人が多く、例の話ができないとみた呉用がそう誘導したのである。
 酒と鶏を買い、舟で阮小二の家へ帰った。小二は戻っていた妻に酒食の用意をさせ、一同を湖上に張り出した(あずまや)へと案内した。暗がりの中でも梁山泊の山影はうっすらとではあるが見えていた。
 ひとしきり酒が進んだ頃、阮小二が呉用の用向きを二人に話して聞かせた。
「いつもなら四、五十匹はざらに獲れたんですが、今は十斤のでも難しいんですよ」
 困った顔の小七に小五が付け加える。
「しかし遠くから見えられたんだ。せめて五、六斤ぐらいのでも用意してやらねぇとな」
 だが呉用はにべもなく言う。
「それは困る。どうしても十四、五斤の鯉が必要なのだ。金はいくら出してもかまわないのだ」
「先生、小五と小七も言ったが、今は他の魚さえ獲れなくなってきてるんだ」
 阮小二が杯を置き、神妙な面持ちで言った。
「どうしてです。これほど広い湖なのに大きい魚がいなくなったというのかね」
「いいえ、先生の言うほどの大きさになると、この石碣湖ではなく梁山泊の方にしかいないんです」
「梁山泊は水続きのはずだが」
「それが行けないのです、先生」
 阮小二は語り出した。小五も小七も酒を飲む手を休め、聞いている。
「梁山泊の山賊どもが勢力を増してきて、俺たち地元の漁師にも魚を獲らせないのです」
 それを小五が受ける。
「そいつらの頭領は落第書生の王倫(おうりん)。その下に杜遷(とせん)宋万(そうまん)朱貴(しゅき)って奴らがいるが、こいつらは十人並みだ。だが近ごろ入山したのがとんでもねぇ野郎さ。東京(とうけい)で禁軍教頭をやっていた林冲(りんちゅう)という奴さ。こいつらが何百人も手下を引き連れ、近隣を荒らしまわってるんだ。だから俺らもここ一年以上向こうでは漁ができねぇんだ」
「その話は初耳だが、それほどの賊に対してお(かみ)は何をしているのです」
 呉用の質問に小七が答える。
「先生、お上なんかにそんな肝っ玉はありゃしないぜ。おいらたちからふんだくるばっかりで梁山泊になんか近づきもしねぇんだ。まぁ、梁山泊のおかげで役人たちにやられる事も減ったけどね」
「なるほど、事情は分かった。しかしそうなると梁山泊の賊たちは痛快だろうな」
 小五が杯を引っ掴み、ぐいっとあおる。
「まったくその通りだぜ、先生。奴らは天も恐れず地も恐れず、お上も恐れずだ。俺たち兄弟も腕はあるのに、こいつを振るう場所がないのが残念なんだよな」
 小五が座したまま、上半身だけで拳を振るってみせる。
「兄貴の言う通りさ。おいらもあいつらみたいにひと暴れしてみてぇな」
「小五、小七」
 と小二が騒ぐ弟たちを目で制した。小二がちびりと杯に口をつける。
 それを見た呉用は、小二に向けて言った。
「そうです、あんな連中の真似をしてどうなるというのです。捕らえられれば死罪は免れないでしょうに。やっぱりお上には逆らえませんからな」
 小二は杯を静かに置いた。そして絞り出すように話しだす。
「しかし先生、今どきの役人など碌なものではありません。金の有る無しで裁きは決まり、えらい罪を犯した奴が罰も受けずにのうのうと暮らしていやがる。わしとて本当は面白くない。世を変えるためにでも、この力を誰か使ってはくれぬかと思う事があるのです」
「ほお、誰かそういう人物がいれば従うというのですか」
「そうさ、俺たちを認めてくれるんならたとえ火の中水の中さ」
 小七の言葉に、小五もそうだそうだと腕を振り回している。
 呉用は心の中で微笑んだ。
 大きな魚が餌に喰らいついた。だが焦ってはならない。急いて手繰っても糸を切られてしまう。
「なるほど、では三人とも梁山泊へ行って仲間にしてもらったらどうかね」 
「そこなのです、先生」
 小二が渋い顔をする。
「わしらも同じことを思っておりました。ですが頭領の王倫の噂を聞いたんです」
 呉用は黙って続きを促す。
「なんでも王倫という奴はとんでもなく狭量だとか。さっき言った林冲も入山はしたものの、それまでに散々酷い目にあったそうです。それを聞いてわしらも二の足を踏んでいるのですよ」
「まったく、王倫とかいう野郎に先生ほどの度量があったなら迷わず行っているものを」
「はは、私など物の数ではないが、この山東(さんとう)河北(かほく)にはいくらでも英雄豪傑がいるではないか」
 呉用が小七の言葉を受けた。それに小二が残念そうに言う。
「わしらはこの村から出た事が無く、彼らに会った事もないのですよ」
「ではこの近くの東渓村の晁蓋という男の事は知らんかね」
 呉用の問いに、三人とも口をそろえて、知っているが縁が無く会った事が無いという。
「実は私が私塾を開いているはその東渓村なのだ。それで聞くところによると、晁蓋どのが莫大な金蔓を握ったらしいのだ。そこで相談なのだが、そいつを私らで奪うというのはどうかね」
 だが三人は呉用の提案を否定した。
 曰く、晁蓋は義を重んじ、財を疎んじる人物、そんな彼の足を引っ張るような真似をすれば天下の英雄たちから笑い者にされるというのだ。
 呉用の思った通り、晁蓋の威名はこの石碣村にも轟いていた。
 魚はついに網の中に入った。
「すまぬ、阮の兄弟たちよ」
 呉用はいきなり床に手をつき、ひれ伏した。
 突然のことに戸惑う兄弟たち。
「三人の心の中がはっきりと分かった。私も本当の事を言おう」
 呉用は顔を伏せたままゆっくりと語り始めた。
 鯉の買い付けは作り話で、実は六月十五日の生辰綱、それを強奪するために三人の力を借りようと赴いた事。そして北斗七星の夢の事。そして騙すような真似をした事を詫び、この計画に参加すれば、もう後戻りはできない事を告げた。
 呉用は何よりもそこを伝えたかった。梁山泊の賊に向けた、捕まれば死罪という言葉は、そのままこの件にもあてはまる。
 去年、生辰綱を強奪した賊はいまだに捕まらないというが、今回もそうとは限らない。成功しても加担したと露見すれば、元の生活には戻れないという覚悟が必要なのだ。
「先生、わしらで良ければ力になりましょう」
 阮小二が呉用を助け起こしながらそう言った。妻と子供のいる小二が始めに意思表明するとは意外だったが、それだけ世に不満があったのだろう。
 阮小五と阮小七は表情を引き締め、自分の首筋を叩きながら言った。
「俺たちに流れる(たぎ)る血は、俺たちを本当に知っている人のためにあるのさ」
「ありがとう小二さん。五郎さんに七郎さんも」
「水臭いこと言うなよ、先生。さ、そうと決まれば乾杯だ」
 小七がさっと皆に酒を注ぐ。四人が杯を上げ呉用が乾杯の言葉を告げる。
「では、生辰綱に」
 乾杯、と四つの杯が音を立てる。
 湖上の亭ではその後も笑い声が絶えなかった。
 ちゃぽん、と湖面で音がした。
 どうやら鯉が跳ねたようだった。

北斗 四

 阮小二(げんしょうじ)は今でこそ妻を娶り、子も授かって落ち着いたが、若い時分は弟たちに負けず血の気の多い男だった。
 毎日の漁で鍛えた太い両腕は、生半(なまなか)な賊など返り討ちにするほどだった。そして次第に、地に降りた疫病神、立地太歳(りっちたいさい)と呼ばれるようになった。
 阮小五(げんしょうご)も生来気性が激しく、なにより博打が好きで、それが元で揉め事を引き起こす事がしばしばあった。
 そしてどんな不利な場面でも、大怪我をするのは大抵相手の方だった。それゆえ他人の命を縮める次男坊、短命二郎(たんめいじろう)と呼ばれたのだった。
 兄弟の末っ子である阮小七(げんしょうしち)はまだ若く、小二とは(とお)ほども離れている。小二、小五と比べても体格も小さく、精悍ではあるが顔もどこか優しげだった。三人の中でも一番の母親思いでもある小七だが、しっかりと阮家の血を引いているようだ。
 兄二人が留守中の事である。独りで漁場を守っていた小七の元へ、他の漁師たちがそこを荒らしに来た。どれも小七より大きく、年も上の連中ばかりだった。
 知らせを聞いて駆け付けた母親と兄たちが見たのは、ほうほうの(てい)で逃げてゆく漁師たちの姿だった。血を流しながら猟師たちは口々に閻羅(えんら)だ、閻羅だ、と言っていたという。
 それから小七は、現世の閻羅、活閻羅(かつえんら)と誰からともなく呼ばれるようになった。
 
 翌日、東渓村(とうけいそん)で挨拶を交わした晁蓋(ちょうがい)劉唐(りゅうとう)と阮三兄弟はひと目でお互いを気に入った。
 好漢は好漢を知るという。六人はまるで旧知の仲であったかのように打ち解け、酒を酌み交わしていた。
 こういう場では必ず話題になる托塔天王(たくとうてんおう)の由来に、晁蓋が苦笑しながら首を振り、阮三兄弟の渾名(あだな)の理由に一同が感心し、劉唐が話す放浪の旅での出来事に耳を傾け、また先日の雷横(らいおう)との対決時の呉用(ごよう)の腕前に喝采を送る。
 酒宴もたけなわとなり、必然と話は生辰綱へと及ぶ。
梁世傑(りょうせいけつ)が集めた金銀財宝は、もとは民百姓の血と汗だ。俺もあちこちで不満の声を聞いて来たぜ」
「まさしく、劉唐どのの言う通りだ。わしらがお上の喰うもんを獲ってやってるのに、それを当たり前のように思っていやがる」
 阮小二が吼える。こうやって晁蓋や劉唐などと会うと、やはり昔の熱い血が蘇えったようだ。そんな兄を小五と小七は嬉しそうに見ている。
 そこへ下男がやってきて、晁蓋に告げた。
 道士が門前に来ており、晁蓋に会って(とき)をもらいたいという報告だった。
「今は大事なお客様が来ているんだ。お前らで上手く対応せんか」
 宴の場に水を差された晁蓋は怒りながら下男を追い払った。一同に向き直り、下男の非礼を詫びる晁蓋。
だがしばらくして門の方が騒がしくなった。何かぶつかる物音と、ぎゃあぎゃあという悲鳴が聞こえる。
 何事かと門へと向かった晁蓋が見たのは、地面にうずくまる十人あまりの下男たちと、その真ん中に立っている白髪(はくはつ)の道士だった。
 道士は下男たちに向かって言った。
「何度も晁蓋どのに用があると言っておるのに、聞かぬからそうなるのだ」
 不思議な男だった。顔は若いのだが、醸し出す雰囲気が自分よりも年上のような気にさせる。晁蓋はその道士に声をかけた。
「道士さま、お斎ならお渡しいたします。どうしてそのようにご立腹なさります」
 道士は晁蓋を見やると言った。
「私の要件は斎などではない、晁蓋どのに大事な話があって来たのだ」
「道士さま、私が晁蓋です」
 道士は、はっとなり礼をとる。
「あなたが晁蓋どのか。いや申し訳ない、何とぞ許していただきたい」
 ははは、と笑い晁蓋は道士を小部屋へと案内した。
「私の名は公孫勝(こうそんしょう)、道号は一清(いっせい)と申します。薊州(けいしゅう)で生まれ、そこで道術の修行をしていましたが、世の中を見る事も必要と、師から命じられ下山。こたびは晁蓋どのにお目にかかれて光栄。実は十万貫の贈り物を手土産に参ったのです」
 一清道人という名は聞いた事がある。何でも彼の使う道術は風を起こし、雨を呼び、また雲に登ることができる事から入雲竜と渾名されているという。その道士が十万貫という言葉を口にしたのだ。
「一清先生、そいつは梁世傑の生辰綱の事でしょう」
「なんと、何故それを」
「はは、当てずっぽうですよ」
 公孫勝も笑い、続けた。
「話というのは、まさに晁蓋どのが言った生辰綱の事。薊州からここまでの道中でも、世の中を見ろと言った師の言葉が身に染みてわかりました。すべてとは言わんが、役人は己の利益と上役の顔色ばかり伺い、民草の事など毛ほども考えてはいない。一体いつからこの国は腐ってしまったのだ、と愁うばかりであった」
 晁蓋も腕を組み、公孫勝の話に首肯する。
「そこで耳に入ったのが(きた)る六月の生辰綱の話だ。これは安寧を貪る輩にひと泡吹かせられると思い、ここに来た次第。晁蓋どのはいかが考えなさる」
「聞きましたよ。大胆不敵な道士もいたものですね」
 いつの間にか戸口に呉用が立っていた。
 慌てて立ち上がろうとする公孫勝だったが、晁蓋は悠然と笑っている。
「はは、先生もお人が悪い。こちらは一清道人こと公孫勝どのです」
「ほう、あなたが。入雲竜の名は聞き及んでおります。私は呉用という者、以後お見知り置きを」
「おお、あなたが呉用どのか。諸葛孔明もかくやという、智多星の名は各地で耳にしましたぞ」
「智多星などと大げさな。所詮、浮かぶのは浅知恵ばかり、諸葛亮などに及ぶべくもありません」
「まったく奇縁とはこの事ですな。実はわしらも生辰綱の話をしていたところなのですよ」
 と、晁蓋は一同がいる部屋へ戻り公孫勝を紹介した。
 誰もが公孫勝を見るなりその力を感じ取り、参加を歓迎した。
 阮小七などは、道術が見たいとはしゃぎ、兄に(たしな)められていたが。
 七人は乾杯をし、話は再び生辰綱に戻る。
 劉唐が調べたところによると、生辰綱は黄泥岡(こうでいこう)の街道を通る予定だという。それを聞き、思い出したように晁蓋が言った。
「そうだ、黄泥岡から数里行った所に安楽村(あんらくそん)という所がある。白勝(はくしょう)という男がそこにいて、むかし面倒を見てやった事があったな」
「なるほど、その白勝という男にも協力してもらいましょう。北斗七星脇の小星というのは彼かもしれません」
「して先生、我らは腕で取るのか、それとも頭で取るのか、どっちですかい」
 阮小五が尋ねる。
「昨年は腕で奪われたと聞いていますが、我らは頭で取りましょう」
 一同は顔を寄せ、呉用が作戦の概要を語り出した。
 晁蓋が北斗七星の夢を見てから数日、ここに七つの星が集結した。
 晁蓋、呉用、劉唐、阮小二、阮小五、阮小七、公孫勝そして白勝。いずれもひと癖もふた癖もある顔ぶれだ。
 作戦の決行まであとひと月あまり、一同は再開を約束し、杯を干すと散開した。

 それぞれがそれぞれの思いを胸に抱き、瞬く間に日は流れた。
 かくして約束の日、安楽村は白勝の家に彼らはいた。
 白勝の妻が、質素ではあるが酒肴を準備してくれた。
 一同は作戦の成功と決意を誓い、天に祈りを捧げた。
 折しも北の夜空には、北斗七星と脇の小さな星が(またた)いていた。

智取 一

 旅商人と人足(にんそく)たちが山道を歩いていた。人足たちは荷を背負っており、全身の汗がその重さを物語っていた。
 一行を太陽が厳しく照りつけていた。
 先頭を行く商人が笠を少し上げ、目を細め太陽を見る。汗が滴るその顔には大きな青痣があった。
「遅れているぞ、もう少し急ぐのだ」
 商人の恰好をした楊志(ようし)は後続の人足たちに(げき)を飛ばした。その人足の後ろに使用人二人に付き添われた、老商人が見えた。
 楊志は老商人を睨むと、深く溜息をついた。
 楊志は生辰綱を運ぶにあたって、商人と人足に扮する作戦をとった。自分が商人に変装し、屈強な護衛官たち十一人のうち一人を用人に、残りの十人を人足に仕立て上げた。
これならば生辰綱の運搬だと露見する事はない。だが用心に用心を重ねて過ぎることはないが、唯一つ楊志の気がかりは最後尾の三人だった。
 老商人に扮したのは、(しゃ)という名の都管(とかん)だった。謝都管は乳母の夫である奶公(だいこう)で、二人の虞候(ぐこう)とともに梁中書の意向で加えられた者たちだった。
 楊志はもちろん反対した。人選は楊志の命令を聞く者ばかりであったが、自分よりも高位の者たちを連れていては、計画に支障をきたす恐れがあるからだ。
 しかし結果として、梁世傑(りょうせいけつ)が三人に楊志の命令を聞くように厳命する、という条件付きでしぶしぶ承知させられたのだった。
 はじめは順調に思えたこの任務も、楊志が懸念した通り、綻びが見え始めた。
 北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)を出立して十日余り、二人の虞候が不満を漏らし始めたのだ。
 始めの五日ほどは日射しを避けるため暗いうちから歩き出し、昼の暑さの盛りを避けて休む行程だった。しかしさらに五、六日たち次第に民家も少なくなり、ついに本格的な山道へと入った。
 道中、二竜山(にりゅうざん)の方向へ向かう熊のような僧侶を見かけて驚いた事はあったが、ここまでは比較的平穏な道のりだった。
 だがここからはいつ山賊に襲われてもおかしくない場所である。そのため楊志は日が昇ってからの安全な時間帯を歩くようにした。
 謝都管はもちろん二人の虞候も、自ら荷を担いで長旅などした事などない。楊志に急かされると、わざと遅れている訳ではない、暑さのせいだと弁明する。だがそれが余計に怒鳴られる原因となった。虞候たちは謝都管に楊志を諌めてもらおうとするが、梁閣下の命令だからもう少し辛抱するように、と言われるばかりだ。
 しかし頼みの綱の護衛官たちまで日影があれば我先に駆けこんで休む始末。楊志は(とう)の鞭を手に、彼らを追いたてた。
そして護衛官もついに不満を漏らし始めたが、謝都管は任務達成の暁には充分な褒美を与えよう、と護衛官たちの怒りを抑えていた。時ここに至り、護衛官たちの心さえ完全に楊志から離れてしまっていたのだ。
 楊志はただ一人、任務の遂行に躍起になるあまり、彼らの事を考えられなかったのだ。いや考える余裕が無かった、と言った方が良いかもしれない。花石綱(かせきこう)での失態が、楊志の心に深く傷をつけていたのだ。この生辰綱に文字通り命をかけて取り組んでいたのだ。
 だが楊志は強すぎた。
 獅子が兎の心を知る事ができない様に、謝都管や虞候はもとより、護衛官たちよりもはるかに(まさ)っていた楊志は、彼らの気持ちを知る事ができなかったのだ。
 さらに幾日か、楊志が振るう鞭を怖れ、そして都管の言葉を励みに何とか一行は進んで行った。
 やがてこの旅、最大の難所である黄泥岡(こうでいこう)が、一行の前に姿を現した。

 老竜のような松が一行の行く手を阻むように生えている。先に岡へと登った護衛官たちは一斉に荷を下ろし、松の木陰に寝ころび始めた。
「待て、ここをどこだと思っているのだ。狙ってくれと言っているようなものだ。さあ、起きて早くここを抜けるのだ」
 楊志は籐の鞭を手に護衛官を叱り飛ばす。だが彼らは、八つ裂きにされても動けない、と立ち上がろうとしなかった。
 そこへ謝都管と二人の虞候が這い上がるように遅れてやってきた。鞭を振り回し(おめ)く楊志を制して、謝都管は言った。
「楊志どの、少し休ませてやりなされ。この暑さでは思うように動くこともできまい」
「謝どの、あなたはこの黄泥岡の恐ろしさを知らぬからそう言えるのだ。ここら一帯は昼でも盗賊の出る危険な場所なのです」
「口を開けば賊、賊と、その言葉は耳にたこができるほど聞いたわ。じゃが、ここまで鼠一匹出てこなかったではないか」
「今ままでは、です。しかしいつ襲われても本当におかしくはないのですよ」
 ここで護衛官たちが謝都管の味方についた。その一人が楊志に楯突く。
「楊志どの、俺たちは百斤もの荷を担いでいるんだ。手ぶらのあんたとは訳が違う。梁中書さまがご自分で指揮をしていても言い分を聞いて下さるだろうに、あんたときたら鞭を振り回し、怒鳴り散らすばかりだ。俺らは牛や馬じゃないんだ、もう少し人間扱いしてくださいよ」
 じりじりと焼けつくような暑さに誰もがぴりぴりとしている。
 謝都管も、老人の言う事は聞くものだ、と楊志に言う。だが楊志は失敗する訳にはいかないのだ。
「今は平穏な時世ではないのですよ」
 楊志が思わず漏らした言葉に謝都管が顔をしかめる。
「貴様、今の帝の世が泰平ではないと申すのか。聞き捨てならぬ言葉じゃぞ」
 知らぬのだ、謝都管は。楊志は思う。
 都管も各地を旅したというが、それはかなり前の話だ。今は違うのだ。
 この太行山系にも桃花山(とうかざん)、二竜山、赤松林(せきしょうりん)と数えればきりが無いほど山賊たちが巣くう寨がある。今はそれが全国に広まっており、喰いつめた民衆たちが山賊や盗賊となり、集結しているのだ。自分が訪れた梁山泊(りょうざんぱく)もそうだったが、すでにお上の手に余るような巨大な賊たちが存在しているのである。
 しかしその山賊たちを討伐し、民衆を守るのが楊志たちの役目。天下が泰平ではないと言えば、己の職務怠慢のように思われても仕方がない。
 なんとか言い返そうとした楊志。だがその時、松林の向こうで影が動くのを目の端で捕えた。急ぎ、その方向を向くと影は林の奥へと消えて行った。
 とうとう出たな山賊め。
 楊志は鞭を朴刀に変え、勇ましい足取りで林の中へと分け入った。
 そこで楊志が見たのは、木陰で涼をとっている上半身をはだけた男たちだった。男たちは七人。近くに手押しの荷車が置いてある。
 楊志が見ていると、朴刀を持った赤茶けた髪の男がこちらに気づいた。その男が近づいて来た。
「何者だ、お前たち」
 楊志が威嚇する。男たちは、ひっ、と跳び起き、朴刀の男が叫ぶ。
「お前こそ何者だ」
 何度か同じような問答を繰り返し、互いの素性を話しあった。
 男たちは七人兄弟で、(なつめ)を売りに東京(とうけい)へ行く途中だったのだという。楊志も商人と名乗り、勘違いを詫びると一行の元へと戻った。
 心配そうな顔の都管が急き込むように聞いてくる。
「山賊か、賊ならば早く逃げねば」
「いえ、大丈夫です。棗売りの商人たちでした」
 安堵の表情を浮かべ、都管は楊志に皮肉を送る。
「ほう、何と恐ろしい山賊がいたものだ」
 護衛官たちもくすくすと笑う。ばつが悪い楊志は一同に言った。
「わかった。ここでしばらく暑さを凌ぐ。涼しくなったら出発だ」
 そうこなくっちゃ、と護衛官たちは手足を伸ばし、寝ころび始める。楊志も朴刀を地面に刺し、木の幹にもたれかかった。張りつめていた気が解けたのか、少しうとうとし始めた時、岡の下から歌声が聞こえてきた。
 すわ今度こそ山賊か。楊志は朴刀に手をかけ、じっと待つ。
 その男は天秤棒を担いでおり、両端にはその体躯に似合わぬ大きさの桶がぶら下げてられていた。悠々と楊志一行の側までやってくると、松の木陰に天秤を置き、腰を下ろした。
 男はちらりと楊志たちへ目礼すると、煙管(きせる)をふかし始めた。大きな二本の前歯が邪魔そうだったが、器用に吸っている。
「おい、その桶の中身は何かね」
「こいつか。こいつは白酒だよ」
 人足に扮した護衛官に、酒売りは答えた。ひと桶の値は五貫だという。
 喉が渇いて仕方のない護衛官たちは、めいめい金を出し合い、酒を買う事に決めた。だが気付いた楊志がそれを咎める。
「俺たちが身銭を切るだけです。旦那には迷惑はかけないですから」
「だめだ、お前らは旅の道中がどれほど危険か知らぬのだ。しびれ薬を盛られ、あげく殺された者がどれほどいると思っているのだ」
 それを聞いていた酒売りが言う。
「おい、お前さんも見て来た風な事を言うんじゃねぇ。おいらの酒にしびれ薬が入っているだって。冗談も休み休み言うこったな」
 楊志たちと酒売りが口論をしていると、先ほどの棗売りたちが朴刀を手にやって来た。
「一体なんの騒ぎだ」
 長兄らしき男が楊志と酒売りを睨む。酒売りが事の顛末を語ると、末っ子らしき若者が喜びながら言った。
「酒だって。ちょうど俺たちも喉が渇いていたんだ。ひと桶売ってくれよ」
「だめだ。この酒にはしびれ薬が入っているんだ。売る訳にゃいかねぇよ」
「まあまあ、ちょっとした冷やかしなんか気にするなよ。ちゃんと銭は払うから」
 酒売りは渋々、ひと桶を彼らに売る事にした。
 男たちの一人が荷車から椰子の碗をふたつ持ってきて、棗を肴に代わる代わる飲み始めた。喉を鳴らしながら飲む様子に、護衛官たちは指をくわえるばかり。
 七人はあっという間にひと桶を開けてしまった。兄弟の一人が酒売りに銭を払っている時である。
 赤茶けた髪の男がそっと残りの桶に近づくと、碗を入れて酒をすくって、一口飲んでしまった。酒売りが気付くと、その男は碗を持ったまま逃げてしまった。酒売りが追うと、今度は松林から色の白い男が駆けてきて桶の酒をすくった。酒売りは色の白い男から碗をひったくると、酒を桶に戻して毒づいた。
「とんでもねぇ連中だな。汚ねぇ真似しやがって」
 酒を飲みたくてうずうずしていた護衛官たちは、謝都管にとりなしてもらうよう頼んだ。都管の頼みに、楊志は考えた。
 見ていたところ、棗売りの連中は何ともないようだ。残りの桶も手をつけたが平気なようだ。考えすぎだったか。先ほどは護衛官たちに怒鳴ってしまったが、彼らもここまでよく耐えてきたものだ。
 楊志は許可を出したが、酒売りはまだごねていた。この酒にはしびれ薬が入っている、と頑として売ろうとしない。困った楊志だったが、棗売りたちがなだめてくれたおかげで、何とか酒を買う事ができた。碗も彼らが貸してくれ、大量の棗まで分けてくれた。
 楊志の前にも酒が置かれたが、用心のため口は付けなかった。しかし、周りが飲んでいるのと、この暑さでの喉の渇きはさすがに耐えかねた。そこで楊志はひと口だけ酒を飲むと、杯を返した。
 いくらもかからず護衛官たちは桶を空けてしまった。酒売りは空の桶を担ぐと、はじめと同じように歌いながら、もと来た道を戻って行った。
 棗売りたちが松にもたれてこちらを見ている。何故かにやにやと口元を歪めている。彼らを見ていた楊志の視界がぼやけて来た。墨絵に水を落としたように、すべてが滲みはじめ輪郭がなくなってゆく。
 朴刀はどこだ。手の感覚がない。体全体が宙を漂っているようだ。
 しびれ薬。馬鹿な。彼らも飲んだではないか。
 この酒にはしびれ薬が入っている。酒売りの言葉は本当だったのか。
 運がない。楊志はつくづくそう思った。
 どこも動かせない。思考もぼんやりと霞がかかったように曖昧になってきた。
 滲んだ世界で、誰かが近づいてくるのが辛うじて分かった。
 そいつは何か話しかけているようだ。だが聞き取れない。
 安心しろ、命までは取らない。
 男はそう言っていたのだが、楊志はそれを知ることなく意識を失った。

智取 二

 男が飯を食っていた。
 黄泥岡(こうでいこう)から南に二十数里離れたあたりの小さな居酒屋である。
 男は黙々と飯を頬張り、酒でそれを喉の奥に流し込んだ。牛肉と根菜を甘辛く炒めたものだったが、美味かった。こんな辺鄙な所にも美味い物はあるものだ。
 男は笠をかぶり店を出る。
「つけにしておいてくれ」
「あんた待ちな。うちはつけはやってないんだよ」
 叫ぶ女将(おかみ)を尻目に男はさっさと道を歩いてゆく。追ってきた若者が腕を掴むが、腹に拳を喰らい道端に転がされた。
「おい、待つんだ」
 さらに店から追っ手が現われた。
 大きな肉切り包丁を持った店の主人らしい男と、(さすまた)を持った男だった。
 主人は口元に髯をたらした巨漢で、肥満だがその下にはかなりの筋肉が隠れているようだった。袖を捲り上げているが、それが太い腕ではち切れそうなほどになっている。
 男は構わず歩き続ける。
「待てと言っているんだ」
 主人は包丁を構え、駆けた。背を向けた男に包丁を振り下ろす。
 男は振り向きざま、手にした朴刀でそれを受けた。手が軽く痺れる。なかなかの膂力だ。しかも何のためらいもなく包丁を振り下ろした。油断はできない。
 男は笠を外し、道の脇へ(ほう)った。男の顔には大きな青痣があった。
 青痣の男、楊志(ようし)と主人は二、三十合ほど渡りあった。かたや朴刀、かたや肉切り包丁である。膂力では勝る主人も、楊志の武芸には敵わない。勝てぬと見るや、さっと飛びのき距離をとる。
「大した手練だが、あんた名は何と言う」
「逃げも隠れもせぬ。青面獣(せいめんじゅう)の楊志とは俺の事だ」
「なんと東京(とうけい)殿帥府の制史の楊志さまか」
 昔の話だがそうだ、という楊志に主人は平伏してしまった。
「何故、俺を知っているのだ」
 主人を起こした楊志が尋ねる。
 居酒屋の主人の名は曹正(そうせい)といい、何と林冲(りんちゅう)の弟子だったというのだ。
 もともと開封府(かいほうふ)に住んでおり、林冲にはその頃世話になっており、楊志の名も聞いていたのだという。
 曹正は代々肉屋を営んでおり、屠殺の腕前も確かで操刀鬼(そうとうき)と呼ばれているという。
 若い頃、ある分限者(ぶげんしゃ)から五千貫を預かり、山東(さんとう)で商売に出たが元手をすってしまった。帰るに帰れなくなり、この居酒屋の婿になったという。先ほどの女将が妻で、杈を持った男はその弟だった。
 楊志と曹正たちは店に戻り、改めて酒が運ばれてきた。奇縁を祝し、杯を上げると曹正はこれまでの経緯(いきさつ)を尋ねた。
「生辰綱を知っているか」
 楊志は杯を空けると、目を細めて訥々と語り出した。

 目が醒めた時には、あの七人は姿を消していた。頭の中で鐘が鳴っているようだ。
 ゆっくりとまわりを見ると、謝都管と虞候(ぐこう)、そして護衛官たちはまだ昏倒したままだった。自分は一口しか酒を飲んでいない事が幸いし、早く目覚めたようだ。
「何という事だ。またしても大任を失敗してしまうとは」
 楊志は歯ぎしりをして悔しがった。そして楊志は倒れている一行を指さして怒鳴った。
「お前らが俺の言う事を聞かないから、こうなったのだ」
 一体どうしてくれる。朴刀を手に楊志はその場を離れた。
 あてもなく黄泥岡をさまよい、やがて切り立った断崖へと出た。
 覗きこむと、そこはまさに千尋の谷。この失敗では死罪は免れないだろう、たとえ死は免れても立身は叶うまい。楊志は谷へ身を躍らせようとした。
 こんな事なら梁山泊(りょうざんぱく)王倫(おうりん)の誘いを受けていれば良かった。
 と、楊志は林冲の顔を思い浮かべた。断崖の端で足を踏ん張り、考える。
 あの男も、濡れ衣ではあるが、死罪から逃れ、自ら道を切り開いたではないか。このまま死んでは、楊家の名が地に落ち、ご先祖様に顔向けができんな。
 そう決めると楊志は黄泥岡を下りる道をとった。
 死んで花実が咲くものか、とはよく言ったものだ。
 生きてやる。こうなれば、浅ましくとも生きてやる。
 花石綱(かせきこう)と生辰綱を失敗した。これ以上、怖れるものがあろうか。
 運がない。そう思うのが癖になっていた。
 そうではない。己から運を逃がしてきたのだ。
 笠を深くかぶり、山路を行く楊志。
 日射しは盛りを過ぎ、風が少しだけ出てきたようだった。

 話を終え、目を開けた楊志は無銭飲食の件を詫びた。
 曹正は笑って、それを許し、酒を()いだ。しかし、これからどうしたものかと、楊志はその杯を一気に空けた。
済州(さいしゅう)になりますが、梁山泊という所が近ごろ隆盛だとか。そこへ行ってみては」
 楊志は笑って、梁山泊での顛末を話した。林冲との決闘、王倫という男、そして入山を断った事。
 林冲の入山の件は曹正も噂を聞いていたようだ。王倫の狭量さは伝わっているらしい。一度断った手前、やはり今さら梁山泊に入れてくれとは言いにくい。
 それならば、と曹正は語り出した。この近くの二竜山(にりゅうざん)金眼虎(きんがんこ)鄧竜(とうりゅう)という男が寨を構えており、このところなかなか勢いがあるという。
 鄧竜はもともと二竜山にあった宝珠寺(ほうじゅじ)の住職であった。だが突如、還俗すると他の僧侶ともぐるになり、ならず者たちを集め近隣を荒らし回っているという。
 生辰綱運搬に際して盗賊、山賊たちの情報は得ていた。桃花山(とうかざん)赤松林(せきしょうりん)、二竜山は特に用心していたが、よもや宝珠寺が山賊の巣窟となっていて、頭領の鄧竜がもと住職だったとは。やはり、今の世は泰平などではないのだ。
 楊志はそこで身を立てる事を決め、その翌日、曹正の店を出た。
夕闇が迫る頃、ようやく山の麓に到着した。山を登るのは明日にしよう、と楊志は野宿のため林へと入って行った。
 だがそこには先客がいた。肥った僧がもろ肌を露わに、木の根もとで涼んでいたのだ。僧の背中には紅い牡丹の花が咲き乱れていた。
「誰だお前は、どこから来やがった」
 僧が起き上がり、吼えた。
 楊志は思い出した。生辰綱運搬の途中で見かけた、熊のような僧ではないか。やはり二竜山へ来ていたのだ。
 僧の言葉に生まれ故郷の関西訛りを聞いた楊志は、僧に尋ねた。
「おい、あんたはどこの」
 僧かね、と言い終わらぬうちに、その僧が巨大な禅杖で打ちかかって来た。
 避けた楊志は見た。楊志の背後にあった樹が粉々に砕け散ったのを。
「化物坊主が」
 楊志は朴刀を抜き、僧に斬りかかる。打ちあうこと四、五十合。互いの力と技は拮抗し、勝負がつかない。
 突然、熊のような僧が飛びのき、楊志に勝ちを譲った。
「あんたなかなかやるではないか。名は何と言う」
 楊志が名乗ると、僧が豪快に笑いだした。
「あんたが開封府で牛二(ぎゅうじ)を殺した男か」
 楊志が驚くと、僧も名乗った。楊志はその名を知っていた。
 禁軍の林冲と同じように、その名は東京開封府に知れ渡っていたのだ。
 この花和尚(かおしょう)魯智深(ろちしん)の名は。

 野猪林(やちょりん)で林冲を暗殺の魔の手から救った魯智深は、東京大相国寺へと戻った。
 いつものように菜園で酒盛りをしていると、張三が駆けこんで来た。
 例の護送役人たちが戻ってきているというのだ。数刻のち、今度は李四が駆けこんで来た。咳き込むように言う。取り手たちがここに向かっていると。
 董超(とうちょう)薛覇(せっぱ)滄州(そうしゅう)から戻ると、決めていた通りありのままを報告した。
 暗殺を果たせなかった高俅(こうきゅう)は二人を叱責すると、魯智深に捕り手をさしむけ、また陸謙(りくけん)富安(ふうあん)に林冲の暗殺を命じた。
 だがこれで捕えられる魯智深ではなかった。張三、李四らの協力もあり、東京から脱出したのだ。
 しばらくあちこちを流れていた魯智深は、孟州(もうしゅう)十字坡(じゅうじは)にある一件の居酒屋へと足を踏み入れた。
 そこの夜叉のような女将にしびれ薬を盛られ、あやうく殺されそうになったが、運よく亭主が戻って来たため事なきを得た。
 二人は追い剥ぎ居酒屋をやっており、亭主は、僧侶は殺すなと厳命していたのですが、と苦笑して詫びた。その女房は、どうやらあまり言いつけは守っていないようだった。
 その夫婦と義兄弟となった魯智深はそこにしばらく逗留し、二竜山の話を聞いた。いつまでも二人に迷惑をかける訳にはいかない、と考えた魯智深はここへとやって来たのだ。
 しかし、と魯智深は続ける。
 鄧竜は魯智深の入山を断ったのだという。思わず鄧竜を蹴りつけたが、手下どもに取り押さえられ、放りだされたというのだ。そして力では敵わぬと見たのか、門を閉ざして出て来ようともしないという。
 鄧竜も、王倫と同じく狭量な男なのか。楊志と魯智深は一度、曹正の店へと戻り、策を練る事にした。
 曹正に魯智深を紹介し、卓に杯が並べられた。
 夜はとうに更けた。だが二人の武勇譚は尽きそうにもなかった。

 二竜山、宝珠寺の門の前に数人の男がいた。
 門の上の男と何やら話をしている。
「お前は何者だ。で、その坊主をどこで捕まえた」
「おいらはこの先で居酒屋をしている曹正って者だ。そこへこの坊主が酒を飲みに来て暴れやがったから、酔ってつぶれたところを縛り上げたんでさぁ」
 古びた服を着た曹正は縄を持っている。縄の先には両手を後ろに縛りあげられた魯智深が繋がれていた。魯智深は曹正の連れに武器を突き付けられ、動けない様子だ。
「こいつは先日、この二竜山で騒いでいたとか。頭領にお伝えください。こいつを差し出しますので、どうかおいら達にお目こぼしをいただきたいと」
「でかしたぞ、待っていろ」
 と、その男は注進に消えた。
 しばらくすると、門がゆっくりと開かれ、山賊たちは曹正たちを招き入れた。勇壮な宝珠寺も今は山賊の寨と化していた。
 一行は仏殿へと通された。仏像は取り払われ、虎の皮の床几にもたれた一人の男がそこにいた。二竜山の頭領、鄧竜であった。
 鄧竜は魯智深を見るや、目をむいて怒鳴った。
「このくそ坊主め、貴様に蹴られた所がまだうずくわ。生き胆を取り出して薬にしてくれる」
 鄧竜が手を振ると、左右に居並ぶ手下が武器を構える。
 縄に縛られたままの魯智深が近づき、吼えた。
「民の苦しみを無くすために祈る僧が、民の苦しみの元になるとは笑止千万」
 曹正が縄をぐっと引っぱった。すると縄が一瞬にして解けた。曹正が仕込んだ(から)結びだったのだ。
 腕が自由になった魯智深に、連れの百姓たちが禅杖を手渡す。
 目を丸くした鄧竜は手下たちに指示しようとするが、できなかった。
 仏殿に立っている手下は一人としていなかった。
 立っていたのは、血のついた朴刀を手にした、百姓の身なりをした楊志だけだった。
 この数瞬のうちに、すべて斬り倒したというのか。
 鄧竜に、魯智深が迫る。腰を浮かせかけたその刹那、鄧竜の頭部は禅杖で破壊された。
「降参しろ。刃向かう者は、斬り殺すぞ」
 頭領を殺された山賊たちは烏合の衆だった。魯智深の怪力と、楊志の技を見た一同はすぐに戦意を失い、ひれ伏した。
「これで悪僧を退治したのは二度目だな。わしが僧になったのはこの為かもしれぬとつくづく思うわ」
 魯智深は冗談なのか本気なのか分からない口調でそう言うと笑った。
 鄧竜の亡骸を火葬にした後、二人が曹正の作戦に感心していると、曹正の義弟が慌てて駆けて来た。
 案内された一同は目を見張った。庫裡に積まれた眩いばかりの数々の金銀財宝。それは紛れもなく、昨年奪われた生辰綱だった。
 楊志はつぶやいた。
「まさか、鄧竜が奪っていたとは」
 二竜山が近ごろ隆盛だった理由はこれだったのだ。使いきれぬほどの、莫大な資金を手にしていたのだ。
 生辰綱護送に失敗した自分が、昨年強奪された生辰綱を発見し、その犯人を図らずも見つけてしまうとは。 
 運が良いのか、悪いのか。
 狂喜する曹正や魯智深の後ろで、楊志は苦笑いするしかなかった。

智取 三

 まだ痺れが残っているようだ。
 しかしそんな事はどうでもよい事だった。生辰綱が奪われたのだ。
 痛む頭を押さえながら、謝都管はゆるゆると身体を起こした。周りではすでに護衛官たちが回復しつつあった。
 楊志(ようし)の事を、心配し過ぎだと言ってしまったが、結局あの男の言う通りになってしまったではないか。
 賊どもはすでに姿を消し、どこへ行ったのやら皆目見当もつかない。
 見ると楊志もいなくなっている。賊どもに連れ去られたのだろうか。考えるほどに謝都管は怒りが込み上げて来た。護衛官たちに向かってそれをぶつける。
「貴様らがあの男の言う事を聞かんから、こんな事態になってしまったではないか。わしも貴様らもこうなれば命はないと思え」
 護衛官たちも事の重大さに気づいたようだ。謝都管もどうしようどうしよう、とうろうろするばかりだ。
 そこへ一人の護衛官が近づいて来て言った。
「都管どの、(はばか)りながら提案が」
 というその言葉に、謝都管はうむ、と唸った。

「忌々しい賊めが。今年も、わしの大切な生辰綱を奪いおって」
 生辰綱強奪の報は、すぐさま蔡京(さいけい)の元へ届けられた。蔡京は報告書を読むなり破り捨て、そう怒鳴った。
 皺の奥の瞳が爛々と輝いている。(そう)の宰相という地位に昇りつめたのは、権力と何よりも金への常軌を逸した執着心がなせる業(わざ)だったのかもしれない。
 枯れ枝のような指を使者につきつけて叫んだ。
「この楊志とかいう者と、その共謀者を何としても探しだせ。生死は問わぬ、指一本でも髪の毛一本でも良い、わしの前に持って来い」
 (めい)を受けた使者は慄きながら場を辞した。
 護送責任者である楊志は強盗と共謀し、生辰綱を奪うと行方をくらませた、とその報告書に書かれていた。
 護衛官が謝都管に、姿を消した楊志に罪をかぶせる事を提案したのだ。都管も、己にも非があるとはいえ、命は惜しい。その提案に乗る事にしたのだ。
 知らぬは楊志ばかりなり。楊志と、共謀者八人には莫大な懸賞金がかけられる事になった。
 生辰綱強奪犯を捕えよ、という蔡京および梁世傑(りょうせいけつ)からの命は黄泥岡(こうでいこう)を管轄する済州(さいしゅう)府に届けられていた。
 書を読みながら済州府尹が、眉間にしわを寄せている。そこへこの件を担当している捕り手役人が呼び出されてきた。
「その方、名は何という」
「は、三都緝捕(さんとしゅうほ)使臣(ししん)何濤(かとう)と申します」
「何濤、生辰綱強奪事件の進捗はどうなっておる」
「はい、怖れながら我々は夜も寝る間を惜しみ、手掛かりを求め駆けずり回っているのですが」
「先ほど、開封府(かいほうふ)より使者が来て、犯人捕縛まで期限を切って来たのだ」
 何濤は嫌な予感に、唾を飲み込んだ。
「期限内に犯人を捕えなければ、わしはおそらく沙門島(さもんとう)へ流罪。使者自身の命も危ういだろうと言っておった。わしらだけではない、何濤よ、お前にも相応の責任を負ってもらうぞ」
「は、この何濤、何が何でも賊どもを捕える所存であります。して、その期限とは」
 府尹は確かめるように令書に目を落とし、はっきりと言った。
「そんな無茶な」
 何濤は思わず漏らしていた。
 事件解決までに定められた期限は、たったの十日だった。

追跡 一

 迭配(てつはい)某州(ぼうしゅう)
 何濤(かとう)の顔に刻まれた刺青である。
 万が一失敗したら、雁も飛ばぬ辺境の地へ送ってやる、と府尹の(めい)で入れられたものだった。某の箇所は空白、そこに流刑先が刻まれるという訳だ。
 その日の捜査を終え、何濤は帰宅した。今日も手掛かりなしだ。妻に刺青の件を聞かれ、なおさらげんなりするばかりだ。飯も喉を通らない。膝を抱えて座り込み、出るのは溜息ばかりだ。
 翌朝、弟の何清(かせい)がひょっこり顔を出した。何清は日がな博打ばかりやっており、金が無くなると何濤の元へ普請(ぶしん)に来ていた。
何濤はいつにも増して機嫌が悪い。
「何をしに来た、また博打か」
 と、素っ気ない態度だ。気を利かせた妻が何清を裏口へ通す。
「おいおい、冷てぇな兄貴。人の顔を見ると盗っ人みたいな扱いしやがって」
「しっ、聞こえるよ。今、大変な時なんだから」
「何だってんだい」
 妻は何清に話した。生辰綱の件で期限を切られ、刺青まで入れられ、命の瀬戸際だという事を。
「へへへ、何だそんな事かい」
「そんな事とはなんだい。あんたの兄さんなんだよ」
「そうさ、おいらは弟さ。普段から弟らしく扱ってりゃ、こんな事にならなかったかもしれねぇのにな」
「あんた、何か知ってるのかい」
 何濤の妻は怪訝そうに何清の顔を覗き込む。
「おいらにもちょっと儲けさせてくれるんなら、あんなこそ泥、屁でもねぇんだけどな」
 生辰綱の強奪犯をこそ泥だと言い放った。
妻は何濤の元へ行き、急いで耳打ちする。何濤は聞くなり、掌を返したように笑みを浮かべる。
「何だ人が悪いな。(せい)よ、何か知っているのなら教えてはくれぬか。礼ならいくらでもするから」
「へへ、兄貴も現金だな。いつも邪険にするくせに、こういう時はすり寄ってくるのかい」
「頼むよ、清。女房に聞いたろう、命が懸かってるんだ。どんな手掛かりでも良い。(わら)にもすがる思いなんだ」
「へぇ、おいらは藁かい」
「すまん、お前は藁なんかじゃないさ。そう、困った時の神頼みだ」
 こうなれば矜持も何もあったものではない。命を無くすくらいならば、弟に媚を売るなど我慢できる。
何濤は、はぐらかす弟に何度も何度も頼みこんだ。その甲斐あってか、やっと何清は話す気になったようだ。
 これからはもう少し丁重に扱ってくれよ、と前置きをして何清は懐の巾着に手を入れた。
 何清が取り出したのは、とある宿屋の宿帳だった。

 その宿屋は黄泥岡(こうでいこう)から少し離れた安楽村(あんらくそん)という所にあった。宿屋は賭場も経営しており、そこへ出入りしているうちに、字の書ける何清は帳面をつける仕事を任されたというのだ。
 何清は帳面をめくり、六月三日の欄を示す。
「この日、七人兄弟の棗売りが泊まったんだ。名前は()と名乗っていたが、おいらはその中のひとりの顔を知っていたんだ」
 何濤と妻が身を乗り出し()かすが、何清はたっぷりと間をとって言った。
東渓村(とうけいそん)保正(ほせい)托塔天王(たくとうてんおう)晁蓋(ちょうがい)さ」
 何清はその昔、晁蓋の家に転がり込んでいた事があるというのだ。
 何清は続ける。
「そして宿の主人と賭場へ向かう途中、会ったのが村に住む白日鼠(はくじつそ)白勝(はくしょう)という男さ。白勝は天秤を担いで、酒を売りに行くと言っていたんだ。なぁ、兄貴、犯人はこいつらで間違いないだろう」
「でかしたぞ、清」
 何濤はそう叫ぶと何清を連れ、府尹の元へと急いだ。犯人の手掛かりの報に喜んだ府尹は八人ほどの捕り手を何濤に与え、安楽村へと向かわせた。
 何(か)兄弟と八人は夜通し駆け、安楽村に着いた。
白勝の家を見つけたのは真夜中丁度ごろだった。
「すまんが火を借りたいのだが」
 と何濤が戸をたたいた。
 戸を開けたのは白勝の女房だった。旦那は、と聞くと白勝は熱を出して寝込んでいるという。
 何濤と捕り手たちは家の中に押し入ると、白勝を布団から引きずり出した。何清に確かめると、間違いない、この男が白勝だ。
「何だお前らは」
 白勝は本当に熱でうなされており、弱々しい声だった。
何濤が胸ぐらをつかむ。
「黄泥岡では上手いことやらかしたもんだな」
「何の事だい。黄泥岡で何があったってんだい」
 あくまでも(しら)を切る白勝に、何濤はいらいらする。
「この鼠野郎。お前ら、探しだせ」
 何濤の命令に、捕り手たちが応ずる。かまどの中、天井裏、物置、あらゆる場所がひっくり返され、破壊されてゆく。
「ここも探すんだ」
白勝がいた寝台をどけると、地面があらわになる。よく見ると、地面がでこぼこしているようだ。何か埋めたのか。
捕り手たちが三尺ほど掘り返すと、硬いものにぶつかった。そして土の中から出て来たのは、ひと包みの金や銀だった。
熱のせいもあったが、白勝の顔がさらに青くなる。
「待て、そいつは」
 何濤は有無を言わさず、白勝に覆面をかぶせ縄をかけた。騒ぐ女房も同じようにし、何濤たちは白勝の家を後にした。
「ほら兄貴、言った通りだったろう」
「いつも悪かったよ。これからは兄貴らしく振舞うよ」
 十日の期限も、すでに二日が過ぎ三日目に入った。
 これで安心してはいられない。白勝の口から共犯者の行方を聞き出さなくてはならないのだ。
 例え、どんな手を使っても、だ。

 そこは一条の光も射さない小部屋だった。湿気が多く(かび)の匂いが鼻をつく。
 床に据え付けられた鎖が無造作に置かれ、その先の手枷や足枷にはまだ誰の者とも知れない血の跡が残されていた。
 壁には小さな燭台がひとつ。
 部屋の天井から吊るされた白勝の顔を、仄かな灯りが照らしていた。
 白勝の顔には血が滲んでおり、片目は大きく腫れあがっている。頬も赤く腫れており、歯が何本か白勝の足元に落ちていた。そしてその足は皮膚が破れ、肉も裂け、辺りには血が飛び散っていた。
 何濤はこの部屋が嫌いだった。いわゆる拷問部屋である。
 安楽村から取って返し、尋問を始めたのは夜明け前。白勝は一向に口を割る様子もなく、どんなに打ち据えても、知らねぇ、の一点張りだった。
すでに日は高く昇り、昼食も終わろうかという時間だ。
 何濤は袖口で鼻を押さえ、眉をしかめる。この男、ただのこそ泥ではなかったか。
「白勝、何度も言っているが、堤轄の楊志(ようし)そして東渓村の晁蓋が関わっているのは判明しているのだ。下手人はお前を入れて九人。残りの六人の居場所を吐けば、打つのは勘弁してやる。強情を張ることもあるまい」
「へへ、旦那。あっしはただの博打うちです。生辰綱の強奪など、大それたことなんかできませんや」
「あくまでも白を切るか、白勝」
 おい、と何濤は部屋の外の部下に声をかけた。
 数分後、部屋に連れられて来たのは白勝の女房だった。
 白勝が明らかに動揺の色を見せた。
「あんた、あたしには構うんじゃないよ。男なら意地を貫きな」
「黙れ」
 何濤は女房に猿轡をさせる。
「白勝よ、お前の男気は充分見せてもらった。私も女には手を出したくないが、こうなっては仕方あるまい。白勝、お前が悪いのだ」
 拷問係が殺威棒を振り上げる。
「やめろ、女房は関係ねぇ。頼む、やめてくれ」
「やめて欲しければ、吐くんだな。やれ」
 殺威棒が白勝の女房を打ちつける。
すぐに服が破れ、血が飛び散る。それでも白勝の女房は気丈だった。白勝の方を向いたまま拷問に耐え、その目は、言うんじゃないよ、と白勝に強く訴えていた。
 何度、殺威棒を受けたのだろうか。
ついに彼女は痛みに耐えかね、気を失った。
拷問係はそれでも棒を振り上げる。
「待ってくれ。頼む、もうやめてくれ。言う、言うからやめてくれ」
 何濤は返り血のついた顔を白勝に向けた。
「それで良い。それで良いのだ、白勝よ。お前は悪くない」
 すまねぇ、晁蓋どの。へましちまった。すまねぇ、女房の命には代えられねぇ。何とか逃げ延びてくれ。
 白勝は涙を流しながらゆっくりと口を開いた。
 蝋燭の火が消され、部屋は暗闇になった。
 黴の匂いと、血の匂いだけが部屋中に満ちていた。

追跡 二

 黄泥岡(こうでいこう)で生辰綱を奪った棗売りの七人は晁蓋(ちょうがい)呉用(ごよう)劉唐(りゅうとう)公孫勝(こうそんしょう)と阮三兄弟。そして共犯者の酒売りは白勝(はくしょう)だった。
 はじめ白勝の担いできた桶にしびれ薬は入っていなかった。まずは何でもない酒だと思わせる事が必要だった。
 七人は一つめの桶を空けてしまい、二つめに手をつける。
 劉唐が椰子の碗で酒をすくって飲んでみせる。白勝はそれに怒り、劉唐を追う。白勝が桶から離れた隙に桶に駆けよった色の白い男、それが呉用であった。
 呉用も同じように酒をすくった。だが飲む前に白勝に止められ、酒を桶に戻されてしまう。
 呉用の立案したこの作戦の仕掛けがここにあった。
 呉用の持っていた碗にしびれ薬が入っていたのだ。林の中でそれを仕込み、桶に碗を入れる。この時に、酒の中にしびれ薬が混入されてしまったのだ。
 先に劉唐が一口飲んでいるため、謝都管はじめ楊志(ようし)でさえ、この酒は安心だろうと判断した。その油断が命取りだった、という訳だ。
 東渓村(とうけいそん)、晁蓋の邸宅で劉唐、呉用、公孫勝の三人が酒を酌み交わし、強奪作戦の成功を祝っていた。
 劉唐が作戦の秀逸さを褒めそやせば、呉用は俗物の知恵だと謙遜する。今度は道術も使わせて下さいよと、公孫勝が言うと一同は笑った。
「大変だ、わしらだという事が露見した」
 来客で席を外していた晁蓋が庭に駆けこんで来た。
 どこから露見したのかわからないが、はじめに捕えられた白勝は拷問に耐えきれず、晁蓋らの名前を吐いたのだという。
 間もなく正式に手配書が公布され、この東渓村に捕り手が押し寄せる。
 先ほどの客はそれを知らせるために来たのだという。
 役人の身である彼だから知り得た情報を、己の命さえ危うくなるかもしれないのに、旧知である晁蓋に伝えてくれた。晁蓋ら一同は、その男に感謝の念を禁じえなかった。
「来るなら来てみろ、だ。全員ぶった切ってやる」
 息巻く劉唐を制し、呉用が提案する。
「まったく血の気が多い人ですね。しかしこの人数では不利です」
「どうすりゃいいんだよ、先生」
「ここは定石通り、三十六計逃げるにしかずです」
 呉用と劉唐は、先に石碣村(せきけつそん)へ行き阮兄弟に知らせる事になった。石碣村にも捕り手は来るだろう。その時の対策をしておくためでもある。
 晁蓋と公孫勝は事後処理をしてから出発、石碣村で落ち合う事になった。
「これでこの家ともお別れか」
 目を細め、屋敷を見る晁蓋。保正(ほせい)という地位とも別れ、これからは追われる身だ。
「よいのですか」
「ははは、後悔はしてないさ。間違ったことをしたとは思っちゃいない」
 尋ねる公孫勝に、晁蓋は豪快に笑ってみせた。

 鄆城県(うんじょうけん)の知県である時文彬(じぶんひん)は、何濤(かとう)から文書を受け、驚くとともに大いに首をかしげた。
 晁蓋ほどの好漢が、このような大それた悪事をしようとは、にわかに信じる事ができない。しかし現に下手人の一人が捕えられ、加担したという証拠の供述はあるのだ。
 時文彬は二人の都頭、朱仝(しゅどう)雷横(らいおう)を呼び出した。晁蓋一味捕縛の命を告げると、やはり二人も同じように驚き、首をかしげた。
 命を受けた二人は総勢百人ほどの民兵を連れ、夜半に東渓村へと出向いた。
 月明かりに浮かび上がる晁蓋宅を見て、悩む朱仝。
 晁蓋どのほどの義侠が、生辰綱強奪の犯人だとは、いまだに信じられん。正直、何かの間違いであってほしい。
 朱仝は深く目をつぶり考えた。やがて目を開けると、口元を引き締め、民兵たちに指揮を飛ばす。
「見よ、あれが晁蓋宅だ。他の六人は知らぬが、晁蓋は相当の腕ききだ、覚悟してかかるように。奴らが逃げられないように、私と雷(らい)都頭とで挟み打ちの形をとる。まずは私が裏で待ち伏せをするから、雷都頭は合図をしたら表から攻め立ててくれ」
「ちょっと待ってくれ」
「なんだ雷横」
「朱仝、あんたは表から行ってくれ。俺が裏で待ち伏せする」
「雷横、お主は知らんだろうが、あそこには逃げ道が三本あるのだ。私は熟知しているから、私が行こう」
「うむ、そうか」
 と、雷横は身を引いた。
 晁蓋が生辰綱を奪ったのだとすれば、何か考えがあったのかもしれない。朱仝は、晁蓋を逃がそうと決めていた。だから自分が裏門に回る必要があったのだ。
 朱仝は三十人ほどの民兵を連れ、裏門へそっと回った。雷横らも表門へ押し寄せ、合図を待った。だが突然、屋敷から火の手が上がった。
「何事だ」
 朱仝と雷横は、図らずも同じ言葉を叫び、晁蓋の屋敷へと突入した。
 ふたりが屋敷を囲んだその時、晁蓋と公孫勝はいまだ身支度の最中だった。そこへ下男が、捕り手です、と報告に来た。晁蓋は捕まるものか、と屋敷に火を放ち、捕り手たちの混乱を誘ったのだ。
「こちらです」
 公孫勝を導き裏門へ回った晁蓋は、目の前にいる朱仝を見た。
「晁蓋どの」
「朱仝、か」
 晁蓋は朴刀を握りしめ朱仝に打ちかかる。朱仝は受けずに、身をかわし道を開ける形をとった。
「晁蓋どの、待つんだ」
 だが晁蓋は耳を貸さず、朴刀を振り回し、裏門から脱出してしまった。
 待ってくれ、晁蓋どの。
何故だ、何故こんな事をしたのか知りたいのだ。
「晁蓋が表の方から逃げるぞ」
 朱仝はそう叫ぶと、闇の中、晁蓋を追った。

 一方の雷横は表門から火の手の上がる邸宅へと斬り込んだ。邸宅内で雷横は探すふりをして、適当に朴刀を振り回していた。
 朱仝が晁蓋を逃がそうと考えていたように、実のところ雷横も同じ考えだったのだ。日頃から尊敬し、世話になっている晁蓋がこんな悪事を働くはずはない。雷横もそう考えていた。
 火の手は強くなるばかりで、晁蓋たちの姿は見当たらない。もしかして朱仝が捕えてしまったのでは。そう思った時、裏から朱仝の声が聞こえた。
 表の方へ逃げた、と聞こえた。
 ここは捕まえるふりだけして、逃がしてしまおう。そう考え、また朴刀を振り回していたが、晁蓋たちは一向に現われなかった。
 朱仝は裏門から単身、晁蓋を追っていた。
 公孫勝は下男たちと先を駆け、晁蓋が殿(しんがり)を務める形だ。追う朱仝は振り返り、人がいないことを確かめると叫んだ。
「晁保正、まだ分からんか。私はあんたを逃がすつもりなのだ」
「何だと」
 その言葉に晁蓋は速度を緩めた。
「走りながら聞いてくれ」
 朱仝はあくまでも追っている風を装う。
「本当にあんたが生辰綱を奪ったのか」
「そうだ。わしらがやった」
 夜道に晁蓋と朱仝の息遣い、そして砂利を踏む音が響いている。
「なぜ」
「義のため」
 晁蓋は短く言った。
「これからどうするのだ。あんたは名の知れたお人だ。どこへ行ってもすぐに見つかるぞ」
 晁蓋は無言で駆けている。すでに屋敷からかなりの距離だった。
梁山泊(りょうざんぱく)へ、行くと良い」
 朱仝が告げる。
「今、あそこは官兵も手が出せない所だ、残念ながらな」
「はは、そう言えば先生も同じような事を言っていたわ。梁山泊か」
 急に晁蓋が振り向き、足を止めると、朱仝に拱手をし、頭を下げる。
「すまぬ朱仝。この礼は、必ず」
「晁蓋どの、ご達者で」
 晁蓋が再び駆けだす。
 もういいだろう。朱仝は道端の側溝にはまったふりをして、転んだ。その拍子に松明も消え、辺りはまったくの闇となった。
(しゅ)都頭」
 やっと追い付いて来た民兵たちが晁蓋を探すが、既にその姿を追う事はできなかった。
「逃げられたか」
 憤慨する朱仝の口元が綻んでいた。だが、この闇では誰もそれに気づく事はなかった。
 雷横は無事だろうか。朱仝は、ふとそう思った。

追跡 三

 晁蓋(ちょうがい)一味、逃亡。
 期限まであと五日の朝、報告を受けた何濤(かとう)は愕然とした。
 白勝(はくしょう)の供述を得ると鄆城県(うんじょうけん)へと向かった。知県の時文彬(じぶんひん)に命令書を提出し、あとは万事うまくゆくものと思っていた。
 どうして失敗したのだ。しかし、考えている時間も惜しい。
 次に何濤は、石碣村(せきけつそん)へ向かう準備を始めた。
 白勝の話によると、共犯者のうちの阮という三兄弟がこの村にいるという。
 石碣村の湖は深い入り江と入り組んだ水路が多く、葦の生い茂る広い湖。さらに梁山泊(りょうざんぱく)とも接しており、普段から強盗の出る物騒な地域だ。
 何濤は充分な装備を整え、五百の官兵と共に村へ乗り込んだ。
「だめです。いません」
 阮小二(げんしょうじ)という男の家はもぬけの殻だった。妻子がいたはずだが、それらも消えている。
 東渓村(とうけいそん)の時もそうだったが、こちらの行動が読まれているようだ。まさかとは思うが、情報が漏れているのか。
 何濤は家の中をつぶさに調べた。つい先刻まで生活していた跡が残っている。遠くへは行っていない。まだこの近くにいるはずだ。
 次に捕り手たちは阮小五(げんしょうご)と小七の家へと向かう。二人がいなくとも、彼らの母親を捕える事ができれば。
 二人の家へは舟でなければ行けない。何濤は村の舟をかき集め、見張りを数名残して舟に乗り込んだ。
 百余りもの舟が湖上を進む。入り組んだ水路の両脇は、丈の高い葦に覆われ見通しが悪い。慎重に舟を進め、五里ほど行った時だった。
 葦の茂みから歌が聞こえて来た。
「俺は漁師さ、この蓼児洼(りょうじわ)で。稲も植えなきゃ、麻も植えぬ。悪い役人みな殺す。それが俺の奉公さ」
 官兵たちが、ぞっとしながら見ると、男が舟を操っている。
「あいつは阮小五だ」
 顔を知っている官兵が叫び、一斉に小五の方へ漕ぎだした。阮小五は櫂を操りながら吼えたけた。
「この泥棒役人め、のこのこ来やがって。まだ俺たち百姓を苛め足りねぇのか。後で吠え面かくんじゃねぇぞ」
 弓部隊が小五に狙いを定める。それを見て、おっと、と小五は水の中へと飛び込んでしまった。矢は無人の舟に突き刺さるばかりだ。
「先へ向かうぞ」
 何濤の号令でさらに入り江を進む。
 官兵たちは、葦の茂みを注意深く観察する。その入り江の奥へ入ると、今度は茂みから口笛が聞こえて来た。
 葦の向こうで、二人組が舟を漕いでいる。また歌が聞こえて来た。
「石碣村で生を受け。人を殺すが、おいらの定め。まずは何濤の首を斬り。そいつを天子の土産(みやげ)にしよう」
 何濤は背筋が寒くなるのを感じた。確かに自分の名を言っていた。首を斬る、だと。寒村の漁師風情がつけあがるな。
 阮小七(げんしょうしち)が歌をうたい、阮小二が船を操っていた。
 捕えろ、と何濤が叫んだ。
 それを合図に、官兵たちの舟が押し寄せる。
「へへっ、捕まるもんかよ」
 阮小七は笑うと船は舳先の向きを変え、水路の奥へと逃げてゆく。櫂を操る阮小二の膂力は尋常ではないようだ。
 何濤たちは懸命に追ったが、すぐに距離を離されてゆく。
 入江はさらに狭くなり、舟一艘がやっとという幅になる。阮小七と漕ぎ手を乗せた舟は、すでにその奥へと姿を消していた。
「待て、岸へ寄せるのだ」
 深追いは危険だと判断した何濤は岸に上がり辺りを見渡した。そこは一面の葦の原で、道一つ見当たらない。どうするか。
 何濤は舟を二艘出し、偵察に行かせた。
 しばらく待つが一向に戻ってくる気配が無い。仕方なく、もう一度送りだすが、それも戻ってはこない。
 日は既に暮れ始めている。
 日が落ちては、ますます危険だ。何濤は自ら舟に乗り込み、入江の奥へ行くことにした。同行した捕盗巡検を残し、舟には手練を選んで乗せた。
 進むこと五、六里。西の空が赤くなってきた。
 ふと見ると岸にひとりの百姓が歩いていた。
「おい、お前は何者だ。ここは何という所なのだ」
「おいらは村の百姓だ。ここらは断頭溝(だんとうこう)といって、先は行き止まりだ」
 百姓は肩に担いだ(すき)を揺らしながら答えた。
「先に来た舟を見なかったかね」
「それならこの先の森に行ったよ。誰かを追っかけて行って斬り合いをしてるみてぇだが」
 偵察隊が、阮兄弟の誰かを見つけたのだろう。何濤は加勢に行こうと舟を岸に寄せさせた。二人の官兵が先に岸へと上がった時、百姓が鋤を振り上げた。二人の官兵がもんどりうって水の中へ落ちる。
「貴様」
 立ちあがった何濤だったが、そこから動けなかった。誰かが足首を掴んでいたのだ。手の主がゆっくりと水から顔を出した。
「へへっ、捕まえたぜ」
 阮小七か。何濤は叫ぶ間もなく、そのまま湖の中へ引きずり込まれた。
 罠か、罠だったのだ。何濤は必死に抵抗したが、水の中では阮小七に分があった。
 のこりの官兵は、百姓の姿をした阮小二に叩き殺されていた。
 湖面が西日と血とで赤く染まっていた。
 
 遅い。
 日はとうに暮れ、空には星が輝いていた。
 偵察隊と同じように、何濤も戻って来ない。賊を見つけたのなら良いが、もしや。
 捕盗巡検は首を振ると、湖を見た。
 葦がゆらりと揺れたと見るや、背後から突如強風が吹いてきた。
「何事だ」
 満天の星空は消え、いつしか黒雲が空を覆っていた。
 巡検が風の吹く方に目を凝らすと、ぼんやりと光が見えた。それは徐々に大きくなり、こちらへと向かってくるようだ。
 それらは何艘もの小舟だった。小舟を二艘ひと繋ぎにし、乗せられた柴に火がつけられていた。それが風上からこちらへと、強風に押されて近づいてくる。やがて火は周りの葦に燃え移り、煌々と巡検たちを照らし出す。
 水路は狭く、避けようがない。さらにこの強風で操舵もままならない事態だ。業火をたたえた船団の熱気は、すで巡検たちにも届いていた。
 官兵たちは我先に水へ飛び込み、逃れようとした。だが葦の原も、火の海と化している。
 すると風上からさらに一艘の舟が現われた。舳先に道士のような格好をした男が立っている。左手の人差指と中指を立て、もごもごと何か呟いている。そして右手の宝剣をさっと伸ばし、叫んだ。
「風よ吹け」
 道士の声と共に、風がさらに勢いを増す。火勢も一気に強くなった。
 あの男が風を吹かせていたというのか。本当に道術を使える者がいるとは。
 巡検は部下たちと共に葦のない泥沼へと逃げ込んでいった。乗っていた船はすでに火の中だ。
「一人も逃すな」
 道士が再び叫ぶと、両岸から武器を持った男たちが出て来た。戦意喪失している官兵たちになすすべは無かった。
 やがて最後に残った巡検が泥沼に倒れ、官兵は全滅した。
 血のついた刀を持った晁蓋が船上の道士、公孫勝(こうそんしょう)に合図を送る。
 公孫勝が剣をさっと振ると、燃え盛っていた火が一瞬にして消え去った。
「すげぇや、これが道術かぁ」
 感心する阮小七が舟で現われた。舟の胴には縄で固く縛られた何濤が寝かされていた。
 小七は何濤を岸へ引きずりおろす。そこへ晁蓋、阮小二、小五、公孫勝が集まって来た。
 何濤は惨劇を目の当たりにし、声も出ない。そこへ小七が指をつきつける。
「良民をいじめる毒虫め。本当は殺してやりたいところだが、あんたにはやってもらう事がある」
「うう、殺せ。さっさと殺せ」
 わめく河濤に、晁蓋が言う。
「まぁ、そう言うな。お前には伝えてもらわねばならんのだ。今後、わしらに手出しは無用とな。再び来た時は」
 くいっと晁蓋が顎で示す。その方向には官兵の死体が幾多も転がっていた。
「わかったな。お前は弟が送っていく。上役への伝言頼んだぜ」
 阮小二はそう言って、何濤の首筋に手刀を叩きこむ。
 潰された蛙のような声を上げ、何濤は気を失った。

 石碣村の外れの岸辺で、何濤は目を覚ました。
 夜が明けている。
「うう、なんという事だ」
 全滅。その言葉が胸に突き刺さる。
 だが、まだ生きている。犯人は晁蓋と阮兄弟たちだと完全に判明した。
 もう来るなと脅されたが、さらに人員と装備を増強すれば次は捕えられるだろう。入り組んだ水路も大体把握できた。
 殺された官兵たちのためにも、このままおめおめと引き下がる訳にはいかない。何濤は湖上を睨んだ。
 風の音が聞こえる。
 おかしい。葦の穂も揺れておらず、湖面にも波は立っていない。
 ぽたり、と肩に何かが落ちた。
 雨か、いや空は晴れている。今度は逆の肩にも落ちる。見ると肩が赤く染まっていた。
 風の音は大きさを増し、嵐のようになった。
 さらにそれが耳鳴りへと変わる。やがて両耳が心臓になったかのように鈍い鼓動を感じ始めた。
 何濤はおそるおそる両手を顔の横に持っていく。
 無かった。何濤の両耳が、そこには無かった。
 そんな馬鹿な、と何濤は水辺へ戻り、顔を湖面に映した。そこにいた何濤の両耳も、綺麗にそぎ落とされていた。
 痛い、痛い、痛い。頭が矢に貫かれたように痛い。
 許さん、許さんぞ。絶対に許さんぞ。
 石碣村に、何濤の悲鳴にも似た叫びが響き渡る。
 よたりよたりと、何濤は村を後にした。
 耳からの血は、やっと止まってきたようだ。
 だが風の音は、止みそうになかった。

慈雨

 役所で宋江(そうこう)は書類に目を通していた。
 だが集中できずに、窓の外に目をやった。そこに見える空には灰色の雲が垂れこめていた。
 それを見た宋江は、思わず溜息をもらしてしまった。
「どうされたのです」
 部下の張文遠(ちょうぶんえん)が尋ねてきた。何でもないと、宋江は微笑みを返す。
 上手く逃げられたのだろうか。
 宋江は、再び溜息をつきそうになるが懸命にそれを堪え、頭を振って意識を書類に戻した。

 鄆城県(うんじょうけん)宋家村(そうかそん)に生まれた宋江は家業を父と弟の宋清(そうせい)に任せ、胥吏(しょり)となった。
 胥吏とは庶民にとって知県や府尹へ訴え出るための窓口であった。胥吏は官職ではなかったが庶民から手数料を取る事が許されており、その事がまた往々にして賄賂の元になるのであった。
 そんな胥吏を束ねる押司(おうし)にまでなった宋江は、それでも清廉潔白なままでいた。
 困っている者がいれば手を差しのべ、頼ってくる者がいればそれを拒まない。金に執心せず、貧しい者にとってはまさに天の助けだった。
 宋江はいつしか、恵みの雨という意味の及時雨(きゅうじう)と呼ばれるようになっていた。
 だが宋江本人が言うには、周りにそういう者がいるのが落ち着かない性分なだけで、そんな大層な渾名(あだな)をつけられてむず痒い思いをしているという。

 ある日、昼食もとらずに公務をしていると、緝捕(しゅうほ)使臣(ししん)何濤(かとう)という男に声をかけられた。
 済州(さいしゅう)府から来たという何濤は、この鄆城県の知県である時文彬(じぶんひん)に目通りしたいと言ってきた。何濤が渡そうとしている公文書の内容を聞き、宋江は内心息を飲んだ。
 先の六月に起きた生辰綱強奪事件、その下手人の一人が東渓村(とうけいそん)保正(ほせい)である晁蓋(ちょうがい)だと聞いたからだ。
 宋江と晁蓋は顔馴染みだった。同じく貧しい者の味方である晁蓋を、宋江は兄貴と呼んで慕っていたのだ。
 そんな馬鹿なと思ったが、同時にあの晁蓋ならばやりかねない、とも思った。
 晁蓋は常々、国の高官たちに対して批判めいた事を言っていたのだ。
 自分もその意見にはある程度同意していたが、晁蓋はより苛烈で、それを行動に移しかねないところがあった。それを宋江が何とかなだめすかしていたと言っても良い。
 そしてついに行動に移してしまったのだ。
 貧しい民から集めた税の塊である生辰綱、それを奪うのに何の否があるのか。彼ならばそう言うだろう。
 まずは事の真相を確かめなくてはならない。折よく、知県や他の役人は昼休みの最中だった。
 何濤を待たせると宋江は馬に乗り、東渓村へと急いだ。

「ちょっと一休みしようか。張文遠、一服してきて良いぞ」
「はい、それでは」
 宋江は張文遠を見送ると、再び大きな溜息をついた。
 晁蓋はやはり生辰綱強奪の犯人だった。
 宋江が駆けつけた時、晁蓋たちは酒盛りをしていた。強奪の話で盛り上がっていたようだ。
 中庭に村塾の教師をしている呉用(ごよう)がいた。他に道士風の男と、赤茶けた髪の凶暴そうな男がいたようだが知らない顔だった。彼らと共に強奪をしたのだろう。
 晁蓋が犯人だと露見した事を告げ、宋江は足早に役所へと戻った。何とか先手は打った。
 宋江は時間をかけて戻ると、何濤を時文彬に引き合わせた。
 彼が済州府に帰ると、さらに宋江は時文彬に進言した。
 確実な捕縛のため、捕り手を差し向けるのは夜の方が良い、と。もちろん時間稼ぎのためである。
 その間に晁蓋たちがうまく逃げてくれる事を祈るのだが、宋江は気が気ではなかった。
 結果、晁蓋は屋敷に火を放ち、夜陰に乗じて逃亡した。
 捕縛に向かったのは都頭である朱仝(しゅどう)雷横(らいおう)と聞いた。この二人も晁蓋とは懇意にしていた。
 二人が、いやおそらく朱仝がうまく逃したのだろう。
「しかし大それた事をしたものだ」
 自分にはそこまでする覚悟があるのか。
 いや決して、できまい。
 宋江は窓の外を見た。
 しとしとと雨が降り始めたようだった。

新生 一

 朝靄の中、船が湖上を進んでいる。
 丈の高い葦が多く、ただでさえ視界が悪いのだが、迷うことなく船は進んでゆく。まるで見えない道がそこにあるかのように。
 船を操る男を阮小二(げんしょうじ)は見ていた。朱貴(しゅき)というこの男が、梁山泊(りょうざんぱく)のいわゆる門番を務めているのだ。
 石碣村(せきけつそん)の目と鼻の先にありながら、ついぞこのような男の存在を知らなかった。
 横で末弟の阮小七(げんしょうしち)が、船べりから手を垂らしていた。指を水の中に入れ、小さな引き波をつくっていた。
 小七がぼんやりと眺める先に大きな魚影が揺らめいた。
 鯉だ、それもかなりの大物だ。
「やっぱりここにはいるんじゃねぇか」
 朱貴を睨みつける小七だったが、小二の制するような視線に気づき、それ以上言うのをやめた。
「けっ」
 と、それを見ていた阮小五(げんしょうご)が毒づいた。
 梁山泊がこのところ勢力をつけ、阮小二など地元の漁師に付近一帯で魚を獲らせないのだ。
 阮小二とてそれは苦々しく思っている。だが、今はその梁山泊へ身を寄せようというのだ。波風を立てる時ではなかった。
 同じ船の上にいる晁蓋(ちょうがい)らも神妙な面持ちだった。
 朱貴は一同に申し訳なさそうな顔を向けると、すぐに湖面に視線を戻した。

 緝捕使臣の何濤(かとう)をのぞいた官軍を全滅させた後、晁蓋と阮三兄弟、公孫勝(こうそんしょう)呉用(ごよう)劉唐(りゅうとう)と合流を果たした。
 家族や一緒に来た漁民たちは彼らが守っていたのだ。笑顔で駆けてくる阮良(げんりょう)を抱きしめ、阮小二もやっと人心地ついた。
 李家道(りかどう)の先にその店があった。梁山泊の門番である朱貴の居酒屋だ。彼はそこで入山希望者の選別と情報収集を担っていた。
 晁蓋の噂は朱貴の耳にも届いており、拍子抜けするほどあっさりと梁山泊行きの手筈を整えてくれた。そして翌早朝、一同は船へと乗り込んだのだ。
 腕を組みながら晁蓋は前方を見ていた。
 いつの間にか偵察船が四艘ほど付き従っていた。
 やがて晁蓋は靄の中に黒い影を見た。そしてそれが徐々に大きくなっていくのに気付いた。
金沙灘(きんさたん)だ。ここから上陸する」
 どこか誇らしげに朱貴が告げた。
 靄の中でも分かる梁山泊の偉容に、晁蓋はいつしか腕組みを解いていた。

 銅鑼や太鼓の音に迎えられ、一同は梁山泊の土を踏んだ。
 断金亭(だんきんてい)を過ぎ、三つの山門を抜けると大きな広場になっており、そこに聚義庁(しゅうぎちょう)と呼ばれる建物があった。
 鯉の一件はどこへやら、阮小七は目に入る物すべてに目を輝かせていた。
 聚義庁に梁山泊の頭領がいた。白衣秀士(はくいしゅうし)こと王倫(おうりん)である。
 宋万(そうまん)杜遷(とせん)という巨漢を後ろに従えた彼は、鷹揚に語り出した。
「ようこそ晁蓋どの。あなたのご高名はこの梁山泊にも雷鳴の如く轟き渡っておりますぞ。今日はいかなる訳か、このむさくるしい(とりで)へようこそおいで下さいました」
「いやわしはそのような大層な者ではございません。身の程をわきまえずここへ参上したからには、一兵卒として扱いくださいますよう」
「まあ堅苦しい挨拶はここまでとして、まずは酒でも」
 王倫が晁蓋を制し、一同を案内させた。
 席につき、梁山泊の頭目たちと晁蓋一行が挨拶を交わし、奏楽と共に酒食が運ばれてきた。
 乾杯に続き、晁蓋がここに至った経緯(いきさつ)を話した。
 東渓村(とうけいそん)での劉唐の勇猛ぶりを褒め、生辰綱強奪の件で呉用の知略を讃えた。
 阮三兄弟の湖上での戦いぶりを賞し、公孫勝の道術の神妙さに感嘆した。
 そして囚われの身となっている白勝(はくしょう)の身を案じ、救出と官兵へのさらなる復讐を誓った。
 宋万、杜遷そして朱貴は一同の八面六臂の活躍ぶりに感心し、俺たちもやってみたいものだ、と口惜しそうな表情で酒を飲む。
 頭領である王倫も始めは賞賛していたものの、官兵全滅の話になるに及び次第に上の空となり、返事も曖昧なものとなっていた。
 林冲(りんちゅう)はそれを横目で見ながら、ほとんど言葉を発することなく淡々と酒を飲んでいた。

新生 二

 やがて宴が終わり、晁蓋(ちょうがい)一行は宿舎へと案内された。
「いやはや、まったくすごい所ではないか、この梁山泊(りょうざんぱく)は」
 晁蓋が呉用(ごよう)たちと酒を飲んでそう言った。宴で残った酒を宿舎に持ってきたのだ。
王倫(おうりん)どのが歓迎してくれねば、わしらは行くあてもなかったのだ。この恩は忘れてはならぬぞ」
 杯を持って、晁蓋が一同を見渡す。それを冷ややかな声で呉用がたしなめた。
「晁蓋どの、あなたは本当に人が良い。あの王倫とかいう男、相当の食わせ者ですよ」
「どういう事です、先生」
 呉用が杯の酒を飲み干し、目を細める。
「私たちを仲間にするつもりが本当にあるのならば、すぐにでも言ってきたはずです。あの王倫、聞くところによると肝の小さな男だとか。先日入山した林冲(りんちゅう)どのとも、ひと悶着あったとか」
ううむ、と晁蓋が顎に手を当てて唸った。
「晁蓋どのが、事の顛末を話すにつれて、王倫の顔色が青ざめていくのが分かりました」
 呉用がそう続け、確かにと公孫勝(こうそんしょう)も相槌を打った。
「王倫には大志はないのでしょう。官軍と事を構えるなどもってのほか、この山の大将でありさえすれば満足なのです。だから私たちのような者を受け入れるはずがない」
 じゃあどうするんで、と劉唐(りゅうとう)が尋ねた。
「この梁山泊に味方がおります」
 呉用は目を細め、羽扇を口元でくゆらせた。

 林冲は部屋に戻っても落ち着く事ができなかった。
 思い返すだけで胸の奥がもやもやとする。宴での晁蓋たちに対する王倫の態度は、自分が梁山泊に来た時のそれと同じだった。
 このままでは晁蓋たちも体よく追い払われるのだろう。己よりも優れるものを認めようとしない王倫に、この数カ月なんとか我慢してきたが、それも限界のようだ。
 林冲は酒を手に晁蓋たちのいる宿舎へと向かった。
「お待ちしていましたよ、林冲どの」
 開口一番、呉用という男がそう言った。
 待っていた、だと。自分が来ることが分かっていたというのか。
「失礼ながら宴席で林冲どののご様子を見ておりましたが、何か思う所がおありのようだと感じておりました」
 林冲は素直に恥じた。王倫への不満を隠していたつもりだが、あからさまに態度や表情に出ていたようだ。
「いや、今夜の宴での非礼を詫びようと思いまして、やって来た次第です」
東京(とうけい)の禁軍教頭、林冲どのと言えば天下に名を知られた好漢。失礼ですがどうして第四席などに甘んじておられるのです。頭領の王倫どのがあなたを上回っているとはどうしても思えないのですが」
 豹子頭(ひょうしとう)林冲の名は、晁蓋はもちろん劉唐、公孫勝とて耳にしていた。彼らもひと目見て実力、人品ともに王倫をはるかに上回っている事を見てとっており、呉用に賛同の意を示す。
 しばしの沈黙の後、林冲が口を開いた。
「誠にありがたいお言葉だが、私は人を束ねるのには向いておりません。しかし、王倫の狭量さにはいささか|辟易(へきえき)していた所なのです」
 呉用は目を細め、羽扇をくゆらせている。
「実力のある者を妬み、己の地位を脅かす者を排除する。山賊に身を落としはしたが、これ以上奴の下では働けぬ」
 林冲は一気に杯をあおり、晁蓋を見据えた。
「この梁山泊には新しい頭領が必要だと思っております。そこへ晁蓋どの、あなたが来てくれた」
「わしが、ですと」
 突然の事に慌てる晁蓋。
 まずは梁山泊に入山できれば良いと考えていたが、自分が頭領になれと言われるとは。
 答えを待つような視線を送る林冲。
「晁蓋どの」
 呉用が口を添える。
「先ほど話していたように、やはり王倫は私たちを仲間にするつもりはないようです。このままでは我々は路頭に迷ってしまいます」
「そうだぜ晁蓋どの、あんたが頭領になれば面倒くさくねぇ」
 劉唐が吼え、公孫勝が首肯する。
「そうだよ。そうすりゃこの湖のでっけぇ魚が獲り放題だぜ」
「まったくだ、なあ晁蓋どの」
 阮小七(げんしょうしち)の言葉に阮小五(げんしょうご)が同意する。阮小二(げんしょうじ)も微笑んでいる。
「どうしますか、晁蓋どの。皆もこう言っていますよ」
「待て待て、気持ちは嬉しいがあまりにも急過ぎるのではないか。急(せ)いては事をし損じる、というではないか」
「晁蓋どのらしくありませんね。善は急げ、ですよ」
 呉用の言葉に唸る晁蓋。
「晁蓋どののおっしゃる事はわかりました。明日の朝、もう一度王倫と会う事になるでしょう。その時にあなた方を追い出すような事があれば、私が抗議しましょう。それでも聞く耳を持たないようであれば、その時は晁蓋どの、あなたが頭領になる時です」
 うむ、と晁蓋。
 では、と立ち去る林冲。
 一同は期待を込めた目で晁蓋を見ていた。

新生 三

 一体どういう事だ。あの林冲(りんちゅう)をやむなく入れてからというもの面倒事ばかりだ。杜遷(とせん)宋万(そうまん)もその気になりおって、生辰綱を奪おうなどと言い出す始末だ。なんとか俺が説得したから良かったものの、今度はなんだ。本当に生辰綱を奪いおった奴らが来てしまうとは。 晁蓋(ちょうがい)だと。東渓村(とうけいそん)保正(ほせい)風情が大それた事をしでかしおって。それに引き連れてきた連中も妙な奴らばかりではないか。赤茶けた髪の鬼のような男。近くの石碣村(せきけつそん)の三兄弟は梁山泊(りょうざんぱく)に良い思いを抱いておるまい。それに公孫勝(こうそんしょう)とかいう男は道術を使うだと、そんなものがあってたまるか。何より書生風のあの男だ。呉用(ごよう)とか言ったか、涼しげな顔をしておきながら何を考えているのかまるで分からん。だが俺とて伊達に長年ここで頭領をしてきた訳ではない。気をつけるのは呉用だ。あの目、心の奥で値踏みをしている目だ。明日の朝、体よく追い出してしまおう。あんな奴らがここにいては俺の権威などあっという間に奪われてしまう。それだけは避けなければ。俺は頭領なのだ。梁山泊の頭領なのだ。杜遷も朱貴(しゅき)も宋万も、林冲もだ。これ以上何を望むというのだ。お上に煩わされずに美味いものを食い、そこそこ良い暮らしをさせてやってるではないか。晁蓋らを受け入れては、官軍が押し寄せるのは必定。お上と事を構えるなど危なくてできるものか。大丈夫だ。いつものように追い払えば良いだけだ。この梁山泊は俺のものだ。疫病神どもは追い払わなくてはならぬ。俺の梁山泊に、奴らはいらぬ。梁山泊は俺のものだ。誰にも奪わせはしない。梁山泊は俺のものなのだ。

 やがて夜が終わり、東の空が白々と明るさを増してゆく。
 朝靄がほのかに残る中、雀たちの小気味よい囀りが聞こえる。
 寝台から起き上がった林冲は窓の外を見た。手下たちの住居が一望できる。ところどころから煙が立ち始めた。朝飯の支度を始めるのだろう。
 昨晩、晁蓋や呉用たちと話した事を思い返す。王倫(おうりん)が彼らを追い出すような事があれば、と言ったが、十中八九そうなるだろう。
 林冲は壁掛けから短刀をとり、それを懐へとしまい込んだ。
 外へ出て目を閉じると、新鮮な空気を吸い込み体に巡らせる。
 再び開いた林冲の目は青面獣(せいめんじゅう)と死闘を演じた時の、そして陸謙(りくけん)を殺した時と同じ、獣のものになっていた。

 山の南にある水亭で酒宴が行われるという。
 日も昇り、何度か使いの者が催促に来た後、晁蓋らはそこへ向かった。
 王倫や林冲らは既に揃っており、すぐに宴が始まった。
 晁蓋は景色の見事さを褒め、王倫の機嫌をとりつつ仲間入りの話を促した。だがやはり王倫はのらりくらりと話をそらし、核心には触れようとしない。
 呉用が横目で見ると、林冲が王倫を見据えていた。他の頭目たちもどこか不満げな表情のようだった。
 やがて昼を過ぎる頃、王倫は席から立ち上がり、大仰に両手を広げた。
「晁蓋どのとそのお仲間がこの山寨にやって来られた事は、誠に光栄の至りです。私としても、ぜひ迎え入れたいのですが、ここは糧食も十分ではなく、また建物も整っておりません。あなた方のような竜には、この水たまりは狭すぎましょう。もっと大きな寨へ行かれた方があなた方のためです。つきましては些少ではありますが、私からの気持ちです」
と、手をたたき手下を呼んだ。
 現われた手下の持つ大きな盆の上には、大きな銀塊が五つほど乗せられていた。
 ぴくり、と林冲の眉が動いた。
「王倫どの、どうかお考え直しを。われらは一兵卒としてここに置いていただければ、それで幸い。決して頭領を煩わせたりはいたしませぬ」
 晁蓋は、盆の上の銀塊を見て続けた。
「お気持ちはありがたいのですが、私らも小遣い銭くらいは持っております。お気遣いなさらぬよう」
 王倫は目を細め、思う。
 煩わせぬ、だと。すでに面倒事を背負いこんでるではないか。官軍がここを襲いに来たらどうするというのだ。しかも馬鹿を言うな、生辰綱を奪っておいてあれが小遣い銭だと。思い上がりもはなはだしいわ。
 王倫が口を開こうとした時、それを遮るように怒声が水亭に響き渡った。
「貴様はまた同じ事を言って、彼らを追い出そうというのか、王倫」
「な、林冲、貴様」
 なんとか王倫は怒りを押さえた表情だ。
「貴様、頭領に向かって、何という言い草だ。わきまえよ」
 林冲が椅子を倒し、王倫に掴みかかろうとする。まさに豹のような動きだった。
 だが素早く呉用が間に入って、それを制した。手にした銅鎖を回していた。
 それが合図だったかのように、彼らは動いた。
「仲間内での争いはおやめなさい」
 晁蓋と劉唐(りゅうとう)が王倫の脇を抑える。阮小二(げんしょうじ)は杜遷、阮小五(げんしょうご)が宋万、そして阮小七(げんしょうしち)が朱貴の脇につき、動きを抑える態勢となる。
「私たちのために仲間割れをしないでください」
 と、公孫勝もとりなすふりをして、手で印形(いんぎょう)を形作る。
 林冲が咆哮する。
「今日という今日は許さんぞ。柴大官人に恩義ある身でありながら、俺が来た時も何だかんだと御託を並べおって。また天下の好漢が来たのに、そうやって追い払おうとするのか。この梁山泊は貴様だけのものではない」
 王倫は蛇に睨まれた蛙の如く動けない。いや豹に睨まれた書生というところか。
 さらに逃げようにも晁蓋と劉唐に道をふさがれているのだ。
 進退極まった王倫は手下たちをけしかける。
「ええい、謀反だ。これは謀反だぞ、林冲。者どもかかれ、こ奴らを取り押さえるのだ」
 王倫の言葉もむなしく、誰一人として動く事がなかった。いや、できなかった。
 林冲の実力は誰もが知る所、あえて怒り狂う豹の前に身を差し出す者などいなかったのだ。
 杜遷、宋万、朱貴も林冲を止めようとしたが、動けなかった。阮三兄弟がそれをさせなかったためでもあり、また彼らの胸の内にも林冲の言葉に共感する所があったからだ。
 林冲が懐から短刀をとりだした。
 呉用が道を空ける。
 王倫の鳩尾(みぞおち)に深々と刃が突き刺さる。
 熱い。王倫はそう感じた。
「王倫、お前にはこの梁山泊は広すぎたのだ」
 林冲が再び手に力を込めた。
「俺の、俺の、梁山泊だ」
 王倫はそう呟いていたが、口から出る血で、ごぼごぼという音になり、やがてそれも聞こえなくなった。
 倒れた王倫の瞳には、広大な梁山湖が映っていた。

 不思議と悲しみはなかった。
 遅かれ早かれ、こうなる予感はしていた。
 杜遷が梁山泊に王倫と共に来たのは、何年前になるだろう。
 国の悪政に嫌気がさし、この梁山泊に旗を掲げた。
 お互い若かった。
 毎晩、酒を酌み交わしては、国を変えてやろうと夢を語っていたものだ。
 役所や悪徳庄屋を襲って金品や糧食を奪った。貧しい者のために、という思いが同調者を集め、入山希望者は日を追うごとに増えていった。
 五百人を越えたあたりだろうか。王倫の心に変化が現われたのを、杜遷は見逃さなかった。
 王倫は自分の事を頭領と呼ばせ始めた。
 杜遷は入山前から、兄貴と呼んでいたが、他の者に示しがつかないから、という理由で彼にも強要した。
 次第に役所だけではなく、通りかかる旅人まで襲うようになっていった。
 あの時の誓いは、貧しい者を助け、国を変えようという誓いはどうしたのだ。杜遷は一度本気で諌めたが、王倫は聞く耳を持たなかった。
 あの時、杜遷の知っている王倫は死んだのだ。
 王倫の心変わりを止められなかった杜遷は、それを自分の罪であるかのように感じ、元々寡黙だった彼をますます寡黙たらしめた。
 目の前に王倫が倒れている。
 林冲が短刀で王倫の首を掻き切り、それを掲げた。
 安らかに眠ってくれ、兄貴。
 杜遷の心の枷が、今はずされた。

 林冲の手首のあたりが血で染まっている。掲げているのは王倫の首だ。
「見よ」
 林冲が叫ぶが、群衆は黙したままだ。
「この王倫は梁山泊を私物化し、己の権力のためだけに利用していた。それでは国の奸賊どもと何ら変わりはない。私を含め、ここへ来た者たちは国から、世間から追われた者ばかりだ。この梁山泊は、ここに住まうすべての者たちのためにある」
 静寂の中、杜遷が林冲へと近づいて行った。
王倫の首を見やり、少しだけ悲しそうに口元を歪めた。杜遷が手下たちの方に向き直ると、右手を上げた。
「王倫は死んだ。いろいろ思う者もいるだろう。だが、この梁山泊は変わらねばならない時にあった。そして今、生まれ変わるのだ」
 王倫の横柄な態度、配下の者を駒としか見ていないようなその視線に、彼らも不満を抱いていない訳ではなかった。その不満を受け止め、和らげていたのが杜遷だった。
 その杜遷の言葉は重かった。王倫の側で、誰よりも耐えていたであろう彼の言葉は、何にもまして重みがあった。
 誰からともなく声があがりはじめ、やがてそれは梁山泊全体をどよもす歓声となった。
 杜遷の言葉は手下達に向けてというより、己自身に言い聞かせているようだ、と呉用は思った。
 頭領を殺された事で、予想されていた騒動が起きる事はなかった。多少の荒事は覚悟していたが、そこへ再古参の頭目である杜遷が手下に向けて言葉を送った。
 王倫の命ひとつ。
 結果的に、呉用が描いていたうち最上の展開となった。王倫の独善さが呉用の予想以上だったという事か。
 それでは仕上げだ。
 血に濡れた寨主の床几を林冲の側へ運び、呉用は叫んだ。
「今日からは林冲どのが、梁山泊の頭領だ」
 歓声が一気に大きくなる。
 ところが驚いたのは林冲だ。
 昨晩、晁蓋を頭領に、という話になっていたではないか。
「待ってくれ」
と、慌てて手を振り一同を静かにさせた。再び訪れた静寂の中、一同が林冲の言葉を待つ。
「私は決して頭領の座が欲しくてやったのではない。第一、私は棒や槍をいじくるのは多少できるが、人の上に立つなどもっての外だ」
 そして林冲は晁蓋を示した。
「今ここに晁蓋どのがおられる。名を聞いた者も多いだろう。東渓村で保正をしており、義を重んじ財を疎み、情に厚いお方だ。私はこの晁蓋どのを新しい頭領に、と考えているのだ」
 豪傑は、と問えば一番に出てくるほど、晁蓋の名は、梁山泊でも知らぬ者はないほどだった。しかもあの生辰綱を奪い取ったというではないか。頭領となるのに何の不足があろうか。一同は再び歓声を上げた。
 だが晁蓋は困った顔をして言う。
「いやいや、わしは昨日今日やって来た新参者だ。昔から言うではないですか、強い客も(あるじ)をしのがずと。そんな大それた事はできません」
 だが林冲とて引く訳にはいかない。何度かやり取りを繰り返し、結局は晁蓋が承知する形となった。
 寨主の床几から晁蓋が一同に向けて言った。
「わしはこの梁山泊を一目で気に入った。明媚な景色にして、堅固な要害でもある。ここをわしらのような者たちのために、さらに大きくしようと思っておる。だが、梁山泊の事については皆の方が良く知っている。托塔天王(たくとうてんおう)などと呼ばれてはいるが、わしとて人間だ。知らない事もあるし、間違う事もあろう。その時は上下の差など関係ない。厳しく諌めてくれるようお願いする」
 頭を下げる晁蓋を見て、林冲は間違いではなかったと思う。
 晁蓋自身も言ったが、昨日今日やって来た者を、たとえ名声があったとしても、頭領に据えるのには、心情的にも抵抗はあるはずだ。
 昨晩話したように、林冲自身は頭領になる気はない事は分かっていた。だからこそいきなり晁蓋を据えるのではなく、林冲をして一同を納得させ、保証を強くしておく必要があったのだ。
 歓声を上げる一同を前に、呉用も満足げな顔をしていた。
 だがその表情は揺れる羽扇に隠れされて、誰も伺う事はできなかった。

新生 四

 近くにいた猫を蹴飛ばした。
 猫は短く悲鳴を上げ、窓からどこかへ逃げて行ってしまった。
 文机(ふづくえ)にあった硯を床に叩きつけ、割った。
 だがこのいらつきがおさまる気配はなかった。
 きぃ、と金切声を上げ頭をかきむしる。
「己の誕生祝いを奪われたのだ、己でなんとかしろというのだ。まったく」
 楊戩(ようせん)は先ほどまで蔡京(さいけい)に呼び出されていた。
 梁世傑(りょうせいけつ)から蔡京への誕生祝いである生辰綱を奪った晁蓋(ちょうがい)一味が、梁山泊(りょうざんぱく)へ入山したという情報があったのだという。
 そこで普段、梁山泊近辺で私腹を肥やしている楊戩に、お前の管轄だからお前の責任だ、などという無理を言ってきたのだ。
 だが宰相たる蔡京の命令だ、何とかせねばなるまい。
 聞けば強奪犯の捜査を担当していた何濤(かとう)とか言う男は両耳を落とされ、見るも無残な姿で役所が保護したという。
 楊戩は思い出しただけで身震いをし、両耳を手で覆った。
「何とむごい事を」
 犯人捕縛に失敗した何濤には流刑が宣告されていたというが、どこへ流されたのか知る由もなかった。
 もっとも知ろうとも思わなかったのだが。
 梁山泊一帯は自分の縄張りだという気持ちはある。蔡京の命令もあるが、やはり何とかしなくてはならないだろう。これ以上、賊どもに力をつけさせては己の懐に入る物も無くなりかねない。
 楊戩は呼吸を整えると、髪を整え鏡に向かう。
 汗で乱れた化粧を一度落とし、白粉(おしろい)をたっぷりと塗り込んだ。
 そして頬と唇に紅を差す。
 割れた硯を片付けさせ、文机に向かう。筆にたっぷりと墨を含ませ、紙へと落とす。
 楊戩は書き上げたそれを、配下の者へ渡した。
 恭しく盆に載せられて運ばれてゆくそれは命令書だった。済州(さいしゅう)に宛てた、梁山泊への攻撃命令である。
 梁山泊を潰滅せよ、それは蔡京の命令でもあった。
 場合によっては自分の蔵からもいくらか出さなくてはならないだろう。楊戩は、この攻撃の成否よりも、その事が気にかかって仕方なかった。
 窓辺に、先ほど蹴飛ばされた猫が戻って来ていた。
 猫は背を伸ばすと、退屈そうに大きなあくびをして目を瞑ると身体を丸めてしまった。

交戦 一

 角笛の音が響き渡った。
 風に乗り、それは湖の端々まで届いているようだった。
 団練使(だんれんし)の黄安は船上で、ごくりと唾を飲んだ。だが喉はからからに乾いており、なかなか飲みこめずに顔をしかめた。
 船を進ませながら、黄安は何濤(かとう)の事を思い出した。晁蓋(ちょうがい)一味捕縛の任を負ったが、返り討ちにあい両耳を落とされたという。
 賊め、と黄安は吐き捨てるように言った。
 こちらは約一千の兵に、五百の船団だ。対する梁山泊(りょうざんぱく)は多くて八百ほどだろう。
 地の理があるとはいえ、負けるはずがない。いや負けてはならないのだ。楊戩(ようせん)ひいては宰相の蔡京(さいけい)からの命令なのだ。
 角笛の残響を聞きながら黄安は、行くぞ、と自らを鼓舞するように号令を発した。
 五百もの船団がゆっくりと動き出した。

 晁蓋が頭領となってひと月余り、やっと新しい体制が整い始めた頃だった。
 朱貴(しゅき)の配下から危急の報があった。
 官軍の攻撃が始まる。その兵数は約一千だという。
 軍議の中、呉用(ごよう)はしばし目を瞑り、羽扇をくゆらせる。
 晁蓋らが見守る中、すっと目を開けた呉用はまず阮三兄弟と林冲(りんちゅう)劉唐(りゅうとう)に指示を与えた。
「俺たちは」
 身を乗り出す宋万(そうまん)に呉用は告げる。
「慌てないでください、宋万どの。あなた方にはこの戦はもちろんですが、別の仕事をしてもらいたいのです」
 杜遷(とせん)、宋万そして公孫勝(こうそんしょう)に作戦を伝え、彼らはそれぞれの持ち場へと出動した。
「先生、いや軍師どの、わしはどこで戦えば良いのかね」
「晁蓋どの、あなたは頭領です。あなたの戦場(いくさば)はここです。どんな大群が攻めて来ても梁山泊は揺るがない、という士気の(かなめ)となってください」
「それだけか」
「はい、それがもっとも重要な事なのです」
 うむ、と晁蓋は床几に座りなおした。尻をむず痒そうにし、落ち着かない様子だ。
 それを横目に呉用は再び目を閉じた。
 何濤の時は今回の半数の兵力だった。しかもこちらが先手をとる事が出来たため、圧勝することができた。
 だが今回は向こうも充分な準備をしてくるはずだ。それでも呉用には勝算があった。
 丈高い葦に覆われた複雑な水路を持つこの梁山泊は天然の要害である。水上戦ならば阮三兄弟の右に出る者はいない。
 杜遷、宋万も人並み以上の腕だが、なによりこの梁山泊一帯を熟知している。
 公孫勝の道術は切り札になり、劉唐もああ見えて力だけではなく意外に器用な男だ。
 そして何より林冲の存在が大きかった。
 元禁軍教頭の名は伊達ではなかった。兵に訓練をつけているところを見たが、格が違うと感じた。武芸などには門外漢の呉用だが、素人目にもそれが分かるほどだったという事だ。
 騎馬に乗った林冲はまさに一騎当千。この広い国の中でも一、二を争う豪傑だろう。
 呉用は、不遜な考えだと自覚はしたが、嬉しかった。
 若い時分より孫子(そんし)呉子(ごし)の兵法を読みかじった。天才軍師と言われた諸葛亮(しょかつりょう)に憧れ、気付けば羽扇を持つようになっていた。
 村塾の教師でしかなかった自分が、実際に戦の指揮をとる事になろうとは。
 だがこれは実戦なのだ。命対命の戦いなのだ。己の作戦一つで命が生きもし、死にもするのだ。
 梁山泊の見取り図を晁蓋と共に見ながら、細かい指示を加え、伝令を走らせる。
 軍師となった、その喜びを胸の内にひた隠し、呉用はじっと地図を睨みつけていた。
 その表情は羽扇に隠されて、はっきりとは見る事ができなかった。

 黄安は石碣湖(せきけつこ)から進発し、軍勢を二手に分けた。もう一隊は副官が率いており東の入江へ、黄安の部隊は西の入江から金沙灘(きんさたん)を目指した。
 葦の茂みに難渋しながらも進んでいくと角笛の音が聞こえて来たのだ。
 気付くと三艘の船が近くに見えていた。それぞれ五人ずつ乗り込んでいるようだ。
 土地に詳しい者が、阮三兄弟だと叫んだ。
 来たな。
 追え、と叫ぶ黄安を尻目に阮氏の兄弟たちは背を向け、その場から離れてゆく。
「奴らを捕えるのだ、逃してはならん」
 黄安は手にした槍を振り回して兵たちを鼓舞する。
 矢が放たれた。しかし黒狐の皮で防がれてしまった。
 獲物がすぐそこにいるというのに、思うように進まない船に苛立ちを覚える黄安。
 湖面を走りだしたい気持ちを何とかこらえ、号令をかけ続けた。
 黄安は背後に船の気配を感じた。
 挟撃か。
 だがそれは味方の船だった。
「お待ちください、黄安隊長」
 船上でそう叫んでいたのは、東の入江へと向かったはずの副官だった。

交戦 二

「お待ちしておりました、お役人の皆さま。何もありませんが、お茶でも召し上がってください」
 梁山泊(りょうざんぱく)にほど近い居酒屋に、黄安の副官たちがいた。黄安隊が阮三兄弟を見つける二刻ほど前のことである。
 人の良さそうな店主がそう言って茶を運ばせた。
「湖の中にある寨へはどうやって行けば良いのだ」
「はい、何せここら一帯は丈の高い葦が多く、また水路も複雑で地元の漁師すら迷ってしまう始末で」
 そうか、と副官が茶をすする。
「梁山泊の奴らは横暴を極め、この貧乏人からもみかじめ料をぶん捕って行くんです。今日、お役人様方が来てくれたんで、もうひと安心でさ」
 店主は手を揉み、懇願するような目で副官を見ている。そしてすっと副官に近づくと声を落として囁きだした。
「実は、あそこへ行く抜け道があるらしいのです」
 なに、と副官は湯呑みを卓へ乱暴に置き、店主に顔を寄せる。
「壁に耳ありです、どうかそのままで」
 と店主にたしなめられ姿勢を正す副官。何事も無かったかのように湯呑みを手にした。
 話によると、梁山泊へは複雑な水路を抜けねばたどり着けないという。店主もその道筋は知らないが、東の入江あたりに、その入口となる場所がある事は確かなのだという。
 副官は居酒屋を後にすると、部隊を進発させた。
 まだあたりに影は見えない。充分注意しながら副官隊は船を進めていった。
 しばらく行くと確かに入口らしき場所を見つける事ができた。明らかに人為的に葦が刈り取られているのだ。
 ここか、と先遣隊を何艘か送りだした。
 静かだった。
 船に当たる波の音と、時おり鳴く鳥の声だけが聞こえていた。
 半刻ほどすると先遣隊が戻って来た。思った通り、梁山泊への入口らしい。
 水路は奥へと続いていた。号令は控え、なるべく静かに船を進めた。
 やがて開けた場所に出ると、前方に船影が見えた。
 二艘。それぞれ5人ほどが乗り、舳先には共に大男が立っていた。二人とも手に武器を持っており、こちらを睨みつけている。
「出たな、賊め。やれ」
 静寂を破る大声で副官が号令を発した。それに応じ、一斉に部隊が船の速度を上げる。
 驚いた水鳥たちが茂みから飛び立ってゆく。
 梁山泊の船がくるりと背を向け逃げてゆく。
 副官はそれを追ったが、慣れない上に狭い水路では二列並ぶのがやっとで、なかなか距離が縮まらない。
 三、四里ほど追った時である。水路の両側から小型の船が八艘ほど現われた。乗員は手に弓矢をつがえていた。
 しまった。思った時には遅かった。副官隊めがけて矢の雨が降り注いだ。
 船を展開する広さはなく、こちらが矢を準備する暇もない。必死に楯で防ぎながら、隊を進ませ、その場から急いで離れた。
 いつの間にか追っていた船は消えていた。
 何とか矢の攻撃からは逃れられたようだ。兵を見ると三分の一ほどが減っていた。
 くそ、と毒づく副官。
 腕に刺さった矢を折ると、それを湖へ投げ捨てた。
 負傷者に手当てをさせ、辺りを見渡す。すでに道を見失っていた。一旦、態勢を整えるべく副官隊は岸辺へと船を近づけた。
 だが突如、岸辺に大勢の人影が湧いて出た。
 岸辺の軍勢が何かを投げて来た。石や目つぶしだ。当たってもどうという事はないが、いかんせん煩わしい。
「子供じみた真似を。やれ」
 岸辺の軍勢を排除すべく、船をさらに岸へ寄せる。
 わあっ、と石を投げていた連中が下がると、入れ替わりで別の一隊が前へ出て来た。手に弓を持ち、矢がつがえられていた。
 またか、副官は急いで矢の準備をさせた。
 だが副官は違和感を覚えた。岸辺の敵がつがえている矢がおかしい。見ると矢の先に布のような物が巻かれている。
 先ほど後ろに退()いた敵兵が松明を手に戻って来た。そして弓兵の持つ矢の先に火をともした。
 火矢か。
 しまった、と思うと同時にそれは副官隊めがけて放たれた。船体にいくつもの火矢が突き刺さる。
「ええい、射ち返せ」
 火が簡単に船に燃え移る事はない。火矢の消火作業と同時に反撃しようとした時だった。突如、火の勢いが増した。
 何事だ。副官が炎から身をかわしたが、船に投げ込まれていた石を踏みつけ転んでしまった。
 くそ、と憎々しげに石を掴んだ。だがそれは石ではなかった。
 火矢の近くのそれが音を立てて燃えだした。よく見るとそれは、冷えて固まった油のようなものだった。
 船底には本物の石も落ちていた。それに紛れてこの油の固まったものも投げ込んでいたのだ。
退()け、退くのだ」
 岸から離れ始めた船団に、今度は本物の矢が襲いかかる。
 燃え盛る船は湖面を赤々と染め上げる。兵たちが矢に当たり、次々と倒れてゆく。副官自身が乗る船もすでに火に包まれている。
「飛びこめ」
 号令を発し、湖へと逃げ込む。頭上からは矢の雨だ。
 必死に潜り、何とかかわそうとする。何本か背をかすめたようだ。
 他の兵たちを気遣う余裕すらなく、副官はやっとのことで少し離れた岸へとたどり着いた。水から上がり、四つん這いの姿勢で荒く呼吸をする。
 軍服が水を吸い、重かった。
 副官は道に迷いながらも、陸で待機させている部隊の元へたどり着いた。
 だがそこで待っている者は一人としていなかった。
 六百頭余りの軍馬もすべて消え失せていた。
 そこで副官が見たのは、近くの沼で(むくろ)と化した兵たちの姿だった。
 何という事だ。目眩(めまい)を覚えた副官は何濤(かとう)の事を思い出した。
 梁山泊の恐ろしさを知らしめるために両耳を削ぎ落され、あえて生きたまま帰された何濤の事を。
 副官は絶望と共に、梁山泊の恐ろしさを今、実感する事になった。

 馬が軽く鼻を鳴らした。
()くな。私より気が短いな、お前は」
 馬上の林冲(りんちゅう)は愛馬の首をさすり、落ち着かせた。
 梁山泊へ来てから出会った馬だ。気性がやや荒いが、よく走り頭も良かった。
 王倫(おうりん)がいた頃も馬に乗ってはいたが、戦と呼べるようなものではなかった。
 杜遷(とせん)宋万(そうまん)が奪った糧食を運ぶ護衛や、金持ちそうな旅人を襲ったくらいだ。
 王倫は林冲の実力が疎ましかった。だからなるべく手柄を立てさせない様にしていたのだろう。
 頭領が晁蓋(ちょうがい)に代わり、梁山泊も変わり始めた。
 軍師というより参謀的な呉用(ごよう)の指示で強固な組織づくりが始められた。
 官軍などの外敵に対抗するため軍備を増強し、林冲は兵の調練を任された。
 また更なる増員を想定して宿舎を増設し、糧食までも自給の道をとり始めた。
 朱貴(しゅき)の店と連携し、まずは近隣に情報屋を送りこんだ。団練使である黄安出兵の情報をいち早く掴んだのも、その成果だ。
 兵数約千。相手にとって不足はない。
 王倫の元、煮え湯を飲まされてきた感のある林冲も、蛇矛を持つ手に力が入る。
 引き連れて来た軍馬を石碣村(せきけつそん)に係留して、黄安は湖上へと進発していた。
 斥候の報告では、見張りの兵は約百人。こちらは敵の半数にも満たないが精鋭だと、林冲は自負している。禁軍並ではないにしても、このひと月みっちりと仕込んだ者たちだ。
「行くぞ」
 馬たちが駆けだした。
 すぐに石碣村が見えてきた。
 敵の軍馬が見えた。
 驚く見張りの兵の顔が見えた。
 次の瞬間、その兵の首は宙を舞っていた。
 部下たちが敵兵を次々と襲っていく。
 軍馬を奪い、敵兵の死体を沼に片づけて、立ち去る。
 まさに突風のようだった。
 風が吹き抜けると、そこには馬の蹄と地面にしみ込んだ血の跡だけが残されていた。

交戦 三

 青ざめた顔で報告に来た副官以上に青ざめた顔で黄安は叫んだ。
「船を戻せ、奴らの罠だ」
 だが黄安の前に阮氏の三兄弟が戻って来ていた。
 いつの間にか十艘ほどの敵船が黄安たちをとり囲むようにそこにいた。
 遅かった、だがやるしかない。
 黄安は覚悟を決め、槍先を阮三兄弟に突きつける。兵と船の数では圧倒的にこちらが(まさ)っているのだ、臆する事はない。
「迎え討て。何としても奴らを捕えるのだ」
 舳先の阮小二(げんしょうじ)がにやりと笑った。
「さあ、弟たちよ思いきり暴れていいぞ」
「兄貴のお許しが出たぜ、小七」
「へへへ、言われなくてもやってやるさ、兄貴」
 兄弟の乗る船が真っ直ぐ黄安へと向かう。増援の船はゆっくりと包囲網を狭めてゆく。
「たかが十艘ごときで何ができる。怯むな陣形を固めろ」
 黄安を守るように、船は蓮の花のような形になる。
「俺から行くぜ」
 阮小五(げんしょうご)の乗る船が頭一つ抜けた。手にしているのは船を漕ぐための(かい)だ。
「せっかく忠告してやったのに、わざわざ殺されに来るとはな。もう容赦はしないぜ」
 阮小五が叫んだ。胸に刻まれた黒豹が吼えているかのような錯覚を覚えた。
 小五は軽々と櫂を振り回し襲いかかる。
 ある者は櫂で頭を破壊され、ある者は湖に叩き落とされた。そして水中の兵たちは、梁山泊(りょうざんぱく)軍に槍で突き殺されてゆく。
 あっという間に湖面が赤く染まり始めた。
「負けねぇぞ、兄貴」
 阮小七(げんしょうしち)は近くの敵船に飛び移った。足元が湖だとまったく思わせないほどの気軽さだった。
 小七は足を船の片方の(へり)に乗せ、体重をかけた。そして逆の足に体重をかけて船を揺らしだした。
 船上の敵兵は立っている事すらおぼつかなくなり、小七を攻撃することなど到底できないありさまだ。
 揺れはどんどん大きくなり、やがて船がほぼ真横を向いてしまった。悲鳴と共に官兵が湖へとなだれ落ちる。落ちた兵たちは、同じように突き殺されてゆく。
 よっ、と小七は自分の船へ戻ると、間をおかず次の獲物めがけて飛び移って行った。
 四百を超える兵たちがたったの五十人あまりに翻弄されている。
 黄安はますます青ざめるしかなかった。
「お前が黄安か、大人しく観念するんだな」
 (もり)を手にした阮小二が黄安を見据えた。
「黄安どの、お逃げください」
 副官の船が阮小二めがけて突進してゆく。
「すまぬ。行くぞ」
 無事な何艘かが黄安を守りながら向きを変え、包囲の薄い所を突破してゆく。
 副官は雄叫びをあげ、武器を振り回しながら黄安の退路を守る。
「通さぬぞ、賊め」
 阮小二は銛を肩に担ぎ、叫ぶ副官めがけて投げた。
 銛は深々と胸に突き刺さり、雄叫びは嗚咽に変わった。
 突き抜けた銛が船底に刺さり、副官の体を固定してしまった。
 だが副官の船は速度を落とさず突っ込んで来た。このままでは避けられない。
 血の泡を吐きながら、副官が必死の形相で睨みつけている。
「兄貴、こっちへ」
 阮小七の船が横を駆け抜ける。阮小二らが飛び移った瞬間、ふたつの舟がぶつかり大破した。
 船に縫いつけられた副官はそのまま湖底へと沈んでいった。
 黄安はすでにその場におらず、大破した船の破片だけが波間を漂っていた。
 指揮官を失った官軍たちは武器を捨て、降参の意を示している。阮小五が部下に命じ、官兵に縄をかけ捕虜とした。
「敵ながら見事な死に様だ、名も知らぬ男よ」
 阮小二は副官が沈んだあたりで浮かんでくる泡をしばし見ていたが、やがて部隊をまとめると、その場から離れた。
 ぷくり、と最後の泡が湖面で弾けた。

 黄安は全身に汗をかき、船底に両手をついて喘いでいた。
 何という事だ、千人からの軍がほぼ全滅してしまうとは。
 何濤(かとう)の事が思い出された。この戦の最中、何度思い浮かべた事だろうか。
 両耳から血を流し続ける何濤の姿。黄安は思わず両耳をおさえた。
 梁山泊からの警告は、はったりではなかったのだ。
「隊長、もうすぐ岸です」
 うずくまる黄安を何とか立たせ、部下が岸を指し示す。
 助かった。
 討伐失敗の罰は受けねばならないが、重くて棒打ちに加え流刑か。命を失うよりは今はましだと思えた。
 たどり着いたのはこの一艘のみだった。
 他の船は途中で梁山泊軍に襲われ沈められ、殺された。
 二人の部下が先に岸に上がり警戒する。そして黄安も、部下に両脇を支えられながら岸に上がった。
 地面だ。なんという安心感だろうか。思わず涙がこぼれた。
 長い間、水の上にいた疲労と安心感からか、支えを失った黄安は両膝をついてしまった。
 部下たちが心配の声を上げた。
「隊長」
 次の瞬間、四人の部下たちも地面に膝をつきだした。
 いつの間にか黄安の目の前に、別の男の足が見えていた。
「あんたが黄安とかいう隊長だな」
 見上げるとそこには、赤茶けた髪の凶悪そうな鬼が立っていた。
 肩に担いだ大きめの朴刀から血が滴っている。
 黄安は気付いた。周りの部下たちの首がない事を。
 一閃。
 黄安が膝をついたその時に、この男が部下たちの首を落としたのだ。
 地面に転がる部下の顔は、心配そうな表情をしたままだった。自分の命が失われたことすら気付いていないのだろう。
 黄安は襟首を掴まれて、無理矢理に引き起こされた。黄安の足が地面から離れてしまった。なんという腕力だ。
「お前が黄安か、と聞いているんだ」
 のぞく男の歯が、まるで牙のように見えた。
「そ、そうだが、お前は」
 力なく答える黄安。
 男は凶悪な笑みを浮かべて言った。
「俺は劉唐(りゅうとう)赤髪鬼(せきはつき)の劉唐だ。よくここまで来られたな、大したもんだ」
「何だと、ここはどこだというのだ」
 劉唐は片手で黄安をぶら下げたまま、振り返った。
 黄安の目に、そびえ立つ山容が飛び込んできた。山腹には巨大な門がいくつかあり、続く山頂に豪奢な建物が見えた。
「ここが金沙灘(きんさたん)だ。ようこそ梁山泊へ。たどり着いたのはあんただけだがな」
 黄安は目を見開き、声を発する事もできなかった。
 そしてまるで両耳を失ったかのように、何も聞こえてはいなかった。

交戦 四

 済州(さいしゅう)の城内を呉用(ごよう)が歩いていた。
 いつもの書生姿ではなく、どこにでもいる庶民の着物であった。肌身離さぬ羽扇まで、今は持っていなかった。
 その少し後ろに公孫勝(こうそんしょう)がおり、二人の後ろで杜遷(とせん)宋万(そうまん)が並んで歩いていた。
 三人とも呉用と同じような姿だった。ただ白髪が目立たぬよう、公孫勝は頭巾をかぶっていた。
 杜遷と宋万は、副官を水路に誘い込むと急いでこの済州までやって来た。そして小さな宿屋で呉用、公孫勝と合流した。
 四人が着いた場所は牢獄だった。
 呉用が目で合図をし、宋万と共に扉の陰に隠れる。
 公孫勝は杜遷の背後に隠れるようにしていた。
「いつもご苦労さまです」
 応対に現われた牢番にさりげなく金を渡す杜遷。
「ちょっと昔世話になった知り合いに頼まれて来たんですが。そいつの友人がいると聞きまして、代わりに恩返しを、と」
「誰だ、そいつは。もう閉めなくてはならぬ時間なのだ、明日出直してくるんだな」
「いやいやわしは明日にはここを()つ身なんです。どうかお慈悲を」
 そう言って懐からさらに金を出した。
ごくりと喉を鳴らし、牢番は他の者には見えない様に、それを懐へしまい込んだ。
「まあ、そういう事なら仕方あるまい。お前の義理深さに免じて面会をさせてやろう。で、何という名なのだ」
 へへぇ、とありがたがってみせる杜遷。
 長年、王倫(おうりん)の元で手下たちの不満をなだめすかしてきたこの杜遷という男、大きな体躯に似合わず、実に如才ない。
 公孫勝が右の掌を上にして、口元へ近づける。
 そっと杜遷の背から現われ、ふっ、と息を吹き出した。
 その息は小さなつむじ風となり、砂埃を舞い上げた。
「うわっ、痛てて」
 悲鳴と共に牢番が目をおさえる。
「大丈夫ですか旦那」
 杜遷がすかさず牢番の背から手を回して肩を抱くと、さりげなく入口から引き離した。
 その隙に扉の陰にいた呉用と宋万、そして公孫勝が中へと滑りこんでゆく。
 目をこすりながら涙目で牢番が言う。
「目に砂が入ったようだ、すまんな、もう大丈夫だ。それでそいつは何という名だ」
「ええと、何と言いましたかな。そうだ(りゅう)だったかな、()だったかな。ええと、そうだ李なにがしとかいったかな」
「李などという男は山ほどおるわ。名は思い出せんのか、名は」
 ええと、とありもしない名前を杜遷は言い続けていた。
 
 宋万が前に立ち、呉用がそれに続いた。
 薄暗い牢の中、二人が目指すのは一番奥の牢だ。
 壁に隠れ、見張りの隙をついては先へ進む。
 敵陣に裸で忍び込むなど正気の沙汰ではない。
 だが宋万は皮膚がひりつくのを感じながらも、胸躍る思いでもあった。
 数年前、一旗あげてやろうと息巻いて家を飛び出した宋万だったが、やがて行くあても無くなり途方に暮れていた。
 茶をすすりながら、路銀を確かめる。数日の内に尽きてしまうだろう。
 深い溜め息をつき、茶店を出ようとした時、客の話し声が聞こえてきた。
 梁山泊(りょうざんぱく)という所が、近ごろ勢いを増してきており、官軍さえも容易に近寄る事ができないという。
 梁山泊か。幸いここからそう遠くない所にあるらしい。
 宋万は荷物を肩に担ぐと、一路梁山泊を目指した。
 朱貴(しゅき)の店から金沙灘(きんさたん)へ、そして梁山泊に渡った。
 はじめは一般の兵卒をしていた。もっと大きな仕事がしたいと思ったが、しばらくは糧食の強奪などが続いていた。
 そしてある日、王倫の提案で勝ち抜きの試合が行われる事になった。
 力を持て余していた宋万は奮起した。
 もともと武芸にも多少の心得はあり、その長身から繰り出される技に古参の兵たちも舌を巻くほどだった。
 十人ほど勝ち抜いたところで王倫から中断の声がかかった。
 勝ち抜き試合はそこで終わり、杜遷が試合場へと降りてきた。杜遷と試合(しあ)え、という事なのだ。
 いつも王倫の側に控えているのを見ていたが、こうして目の前にするとやはりでかい、と感じる。
 体格では負けているものの、宋万の方が頭ひとつと少し上だ。やるしかあるまい。
 宋万は手にした棒を、ぐっと握りしめた。
 一同が見守る中、試合が始まった。
 いつも自分より小さな相手しかいなかった宋万は戸惑った。同じくらいの相手で、しかも筋力は杜遷の方が上だ。やはり踏んだ場数も杜遷が上で、戦い慣れている。
 しかし宋万も並ではなかった。すぐにこつを掴み、宋万の手数が増えてくる。
 何十合打ち合ったのだろうか、杜遷と宋万はほぼ互角だった。
 さらに打ち合った時、この勝負は王倫に止められた。
 棒を手に呼吸を整えながら宋万は王倫を見た。
「見事な腕前だ、宋万。まさに雲裏金剛(うんりこんごう)と呼ぶにふさわしい」
 王倫は鷹揚な態度で宋万に渾名(あだな)を付けると、杜遷と共に自らの側近に指名した。
 気分が良かった。一旗あげる、その目標が叶った気がしていた。
 だが宋万はただ王倫の側に控えるだけの日々が続き、それが間違っていた事に気がついた。
 二人の巨漢、摸着天(もちゃくてん)の杜遷と雲裏金剛の宋万、を横に侍らせる頭領の図。
 王倫はそれが欲しかっただけだったのだ。
 そして王倫がいなくなり、晁蓋(ちょうがい)が新しい頭領となった。
 軍師となった呉用は、杜遷と自分にも任務を与えた。もうお飾りの頭目ではないのだ。
 宋万は敵陣のただ中で、込み上げる嬉しさを噛み殺していた。

 牢獄の一番奥にその鉄の扉があった。
 呉用が気を引き、宋万が牢番を一撃で気絶させた。そして牢番を縛り上げると、奪った鍵で扉を開けた。
 二人の顔にすえた匂いが押し寄せた。血と汗と糞尿の混じり合った匂いだ。
 部屋の中央に男が吊り下げられていた。
 全身傷だらけで、こびりついた血はすでに乾いていた。
 既に死んでいるのではないか、と宋万は思った。
 宋万が外を見張り、呉用が男に近づく。
「助けに来ましたよ、白勝(はくしょう)
 死体のようだった男がぴくりと動いた。
 弱々しく目を開けるが、焦点が定まらないようだ。
「もう大丈夫です。ここを出ますよ」
 白勝は呉用の言葉を理解したのか、軽く頷いたようだ。そしてかすれる声で呉用に言った。
「にょ、女房を、俺の女房を」
「わかっています。そちらは公孫勝が上手くやっているはずです」
「すまねぇ、先生。あんたたちの事、しゃべっちまった」
 聞きながら縄を解く。傷が膿みはじめている、急がなくては。
「わかりました。とにかくここを出る事が先決です。謝罪は生きて帰れたらしてください」
「すまねぇ、先生」
 気絶させた牢番を代わりに牢へ放り込み、鍵をかける。
 途中で白勝の女房を連れた公孫勝と合流した。彼女はまだ歩けるほどの傷のようだった。
 杜遷はまだ入り口の牢番と揉めていた。
「ええい、俺を馬鹿にしているのか。今日しかないというから会わせてやろうと言っているのに、この木偶(でく)(ぼう)め」
 杜遷が、牢の奥から出てきた一行を見とめた。
「ああ、もう大丈夫です。そいつの方から出てきましたから」
 え、と牢番が振り向いた。
 牢番の首に杜遷の太い腕が絡みついた。瞬時に牢番は血の気を失い、白目をむくとその場に崩れ落ちた。
「お待たせしました、杜遷。行きましょう」
 そろそろ城門も閉ざされる刻限だ。
 荷車に白勝を隠し、城門の兵に驚くほどの大金を渡し、黙らせた。
 数里行ったところで早馬に乗りかえる。
 意識を失いながらも白勝は、すまねぇすまねぇ、と何度も繰り返していた。

交戦 五

「歯をくいしばれ」
 晁蓋(ちょうがい)はそう言うと、白勝(はくしょう)の横っ面を殴りつけた。
「あんた」
 駆け寄る女房を白勝が手で制した。
「女房のためとはいえ、お前はわしらの事をしゃべってしまった」
「すまねぇ」
 手をつき、深々と頭を下げる白勝。
「だが、お前がいなければ生辰綱の作戦も成功はしなかっただろう。これで貸し借りは無しだ」
 晁蓋が白勝を抱き寄せる。
「ようこそ梁山泊(りょうざんぱく)へ。よく耐えたな、白勝」
「晁蓋どの、すまねぇ。いや、ありがとうございます」
 すぐに白勝は治療のために宿舎へと運ばれ、女房もそれについて行った。
 これから官軍との戦いも多くなり、負傷者も増えるだろう。今は簡易的な療養所しかなく、本物の医者もいないのだ。
 戦いには勝利した。圧勝だった。だが、いつもこのようにゆくとは限らない。
 呉用(ごよう)は見えてきた課題を頭に刻みながら、自室へと足を向けた。

 捕虜二百人、奪った軍馬は六百頭あまりという戦果報告に晁蓋は皆をねぎらうための酒宴を開いた。
 縄をかけられたまま黄安が引き出されてきた。
「殺すならば、さっさと殺すが良い、賊め」
 率いてきた軍はほぼ全滅し、自らも捕虜の身となってしまった黄安。
 こうなれば覚悟を決めるしかない。黄安は精一杯の虚勢を張っていた。
「黄安よ」
 ずい、と晁蓋が近づく。
 こいつが生辰綱を奪い、梁山泊の頭領となった男か。目が大きく眉も太く、筋骨隆々とした偉丈夫だ。
 他の頭目たち、己を捕えた劉唐(りゅうとう)とかいう男をはじめ、元禁軍教頭の林冲(りんちゅう)、水上で刃を交えた阮三兄弟、そして巨漢の杜遷(とせん)宋万(そうまん)などどれもひと目で一筋縄ではいかない者たちと知れた。
 勝てるはずがない。黄安は今さらながらにそう実感していた。
「生辰綱は不義の財だ。世の人々の怒りの声を、わしらが代弁したまでだ」
 ぐ、と言葉に詰まる黄安。
「今後も攻撃されれば、応戦せざるを得まい。わしが頭領となったからには、ここにいる者たちはすべて家族同然と思っておるからな」
 そうして少し悲しそうな目をして言った。
「黄安よ、お前の耳にも届いてはいないか、民草の苦しみの声が」
 黙るしかなかった。
 黄安の耳にも、それは充分すぎるほど届いていたからだ。
 宴の準備が整い、黄安は裏手にある牢に入れられた。部下たちも殺されず、労役をさせられるようだ。
 静かな牢内で黄安はじっとしていた。本寨から離れたここにいても情報は聞こえてくる。
 呉用たちに救出された白勝という男も何とか回復したという。
 近ごろ通りかかった商人の一団から、反物などを大量に奪ったという。だが梁山泊の者たちには、一般人を殺してはならないという命が出ていたという。
 違う。
 聞いていた話では、梁山泊は女子供をもためらわず殺す、悪逆非道の連中だと聞いていた。
 あるいはそれは晁蓋が頭領となってからなのか。
 こうして見ると、彼を頂点とした梁山泊は、まるで小さな国だった。
 外の国、(そう)と異なるのは、ここには貧する者がいない事だった。
 誰もが働いた分に見合ったものを得られる。林冲や劉唐など頭目たちに分配される分は彼らより多いが、それだけの能力があるからだ。
 黄安は目を閉じてみる。
 宋では、今や金が全てだった。高い官職でさえ、金があれば得る事ができる。その職務をこなす能力がなくても、だ。
 本当に能力や才能がある者は、かえってそれが足枷となっているように思える。
 上官に疎まれるのを嫌って、あえて辺境の任務を志願しているという将軍がいるとも、風の噂で聞いた事がある。
 時おり面会に来る部下たちが笑顔になっている事が多かった。彼らのそんな姿を、ついぞ見た事があっただろうか。
 この梁山泊の内情を知ったならば、入山希望者が殺到するだろう。たとえ賊となっても、今の宋で暮らすよりはよっぽどましだと思えるからだ。
 少華山、二竜山(にりゅうざん)桃花山(とうかざん)の賊も、そうした(たぐい)のものなのだろう。
 しばらくして黄安は病にかかり、あっけなく息を引き取った。
 牢の中から、晁蓋に宛てた手紙が見つかった。それは部下を解放して欲しいという嘆願書だった。
 晁蓋らは黄安を丁重に葬り、彼の最後の願いを聞き入れる事にした。
 だが誰一人として、梁山泊から出たいという者はいなかったという。

 眩しいほどの月夜だった。
 ほんの少し欠け始めた月を見ながら、林冲は酒を飲んでいた。
 卓の上にはすでに二十近くも酒瓶が転がっていた。
 林冲は月を見ながら、ひたすらに酒を飲み続けていた。
「酔えぬのだな、林冲」
 戸口に晁蓋が立っていた。
「勝手に入らせてもらうよ」
 晁蓋の手にも酒瓶が握られていた。栓を抜き、空いた林冲の杯に注いでゆく。
東渓村(とうけいそん)、わしのいた村の地酒でな」
 ぐい、と林冲がそれを飲み干す。
 辛みが強いが、口の中に残る香りが心地よい。
 晁蓋も手酌でそれを飲むと、さらにもう一杯注いだ。
「心配していたよ」
 窓の外を見ている林冲に向かって言う。
「もっと激昂すると思っていたんだがね」
 林冲が杯を干し、かすれた声で言った。
「もう存分にしましたよ。梅雪は、妻は私のそんな所をいつもたしなめていました」
「そうか」
 再び林冲が目を外へ向けた。

 妻が死んだ。
 その報告を今朝ほど受け取った。
 晁蓋が頭領となり、妻を呼ぼうと決めた。離縁状を渡してはいたが、やはり事あるごとに、林冲の頭からは妻の顔が消えなかったのだ。
 妻への手紙を託し、ふた月ほどして朱貴(しゅき)の部下が戻って来て、そう告げたのだ。
 妻は、梅雪はみずから首を括って死んだという。
 高俅(こうきゅう)は息子の花花太歳(かかたいさい)と無理矢理に縁組を決めたのだという。義父の張教頭も必死に抵抗はしたのだが、太尉である高俅の権力には敵うはずもなかった。
 そして貞節を守るため、梅雪は己の命を断つ決意をした。
 それを気に病み、張教頭も間もなくこの世を去った。残された女中の錦児(きんじ)だけが、婿を取り無事に暮らしているという。
 すまぬ、梅雪。
 固く目を閉じ、歯茎から血の滲むほど奥歯を噛みしめ、林冲は暴れ叫び出したい衝動を抑えた。
 高俅だ。すべての元凶は高俅だ。必ず、必ず復讐を遂げてみせる。
 林冲は気合と共に、近くの木に槍を突き立てた。
 大人でふた抱えほどもある太い木にもかかわらず、槍の穂先が反対側から顔を出していた。
 木を貫いた槍を抜き取るのに、四人がかりで一刻はかかったという。
「林冲よ、必ずその時が来る。それまで(はや)らないで欲しい」
 晁蓋の言葉に、林冲は目を戻した。
「わしらはすでに国と戦を始めてしまった。だが地方の軍には勝てても、国が総力を挙げてしまえば、いかな弱体化した官軍とて、一網打尽だ」
 晁蓋が渇いた喉を酒で潤す。
「まずは力を蓄えなければならないだろう。そしていずれは都である開封府(かいほうふ)と戦をする時が必ず来るだろう。その時、わしらもあなたの復讐に助力したい」
 林冲は思わず目を見開いた。
 国と戦だと。
 攻撃してきた官軍を退けた、身に降りかかる火の粉を払った、としか林冲は考えていなかった。
 この国の広大な版図からみれば、小さな水たまりにすぎない梁山泊が国と戦をしているというのか。蟻が水牛に噛みつくようなものではないか。
 だが晁蓋は言った。
 蟻も大群になれば、水牛を倒せるのだ、と。
 その目は恐れを知らない子供のように無邪気に、そして獲物を前にした狼のように爛々と輝いていた。

密会 一

 卓の上の通達書に目を通しながら、宋江(そうこう)は溜息をもらした。
 先ごろ、済州(さいしゅう)の新府尹が着任した。何濤(かとう)、黄安と二度も梁山泊(りょうざんぱく)の討伐に失敗した前任者がどこかへ飛ばされたからだ。
 済州の現状を着任後に知った新府尹、(そう)なにがしと言ったか、は焦って各部署に通達を出した。
 (いわ)く、治安を引き締め、梁山泊の賊に警戒する事。
 また各郷村の住民は一致団結して警戒にあたる事。
 この文書が、ここ鄆城県(うんじょうけん)にも送られ、知県はお触れの文書を作成するよう宋江に命じたのだった。
 椅子に座ったまま宋江は腕組みをして、眉をしかめた。
 晁蓋(ちょうがい)たちが無事だったのは良かったが、梁山泊の新しい頭領となったというではないか。さらに討伐に送り込まれた官軍を壊滅させたという報告だ。
 虐げられている庶民たちは喝采を送っているようだが、宋江としては心配が深くなるばかりだった。
 生辰綱を奪い、さらに官軍を壊滅させ、隊長である黄安を捕虜とするとは一族郎党死罪は免れないだろう。
はたしてどうしたものか。
 宋江は部下の張文遠(ちょうぶんえん)に文書作成を頼み、気晴らしに外へと出る事にした。
「この昼間からどちらへ、(そう)押司(おうし)
 声をかけてきたのは騎兵都頭の朱仝(しゅどう)だった。腰ほどまである立派な顎ひげを撫でながら、にこやかな表情を浮かべている。
「いや、ちょっと仕事に煮詰まってな。気晴らしさ」
「晁蓋どのの件、大事になりましたな。あの時、わしが捕らえてさえおれば」
「晁蓋どのに天運があったのだ、仕方あるまい」
 仕方ないも何も、宋江自身が晁蓋に逃げるように進言したのだ。そして朱仝があえて捕らえなかったであろう事も推測している。
そして自分が朱仝の立場だったとしても、同じ事をしていただろうと考えていた。
 宋江と朱仝は、互いにそれ以上言わず別れた。
 まだ処理すべき仕事は山積みだったが、晁蓋の一件が頭から離れず、役所へ戻る気にもなれなかった。
宋江はそのまま半刻ほど所在なくぶらぶらとしていた。
 その時である。押司さま、とまた声をかけられた。
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには老婆がふたり立っていた。
声をかけてきたのは顔見知りの仲人(なこうど)をしている王婆さんだった。そして王婆さんがもう一人を紹介する。
 その老婆は(えん)といった。もともと東京(とうけい)開封府(かいほうふ)に住んでいたが、ある人物を頼って山東(さんとう)へ出たものの出会う事叶わず、この鄆城県に流れ着いたという。
 夫と十八になる娘がいた。娘は幼い頃より唄や芸事を修めていたが、この辺りではそういう粋な事があまり好まれていなかったため、日がな口をすすぐのに精いっぱいの生活なのだという。
 そして閻婆さんの夫が昨日亡くなった。しかし野辺送りをする金がなく、また借りるあてもないため王婆さんに仲人を頼みに来たのだ。
 なんとかしてやろうと思っていたところにちょうど宋江の姿を見かけ、地獄に仏と声をかけたのだ。
「仏などと。そんな大げさな者ではないよ、私は」
「いいえ、及時雨(きゅうじう)と呼ばれる押司さまの慈悲深さは鄆城に住む者、いや済州一帯に知れ渡っております。ここで会ったのも何かの縁、どうかこの閻さんに葬式代を工面してやってくださいませんか」
 王婆さんは宋江の手を握りしめ、まるで自分の事のように必死に頼み込んだ。
「わかった、わかったから手を離しなさい」
「ああ、さすがは押司さま。閻さん、よかったねぇ」
 閻婆さんも宋江の手を握り、ありがとうありがとうと涙した。
 苦笑いをしながら、宋江は思う。
及時雨などと本当にとんでもない。これは己の性分なのだ、すき好んでやっている訳ではないのだ。だがそう言うと、謙虚な人だ、とかえって褒めそやされてしまう。
 宋江は葬儀屋に一筆したため、さらに閻婆さんに生活の足しにと十両を渡してやった。
閻婆さんは米搗(こめつ)きばったのように何度も頭を下げ、生まれ変わったら騾馬(らば)になって恩返しします、とまで言い出す始末。
「何もそこまで」
 と宋江もさすがに気まずくなり、役所に戻って行った。

 その後、無事に亡き夫の野辺送りをすませた閻婆さんが宋江の家へやって来た。礼を言うためである。
宋江宅を見て閻婆さんがはたと気づいた。どうも女手がある気配がないのだ。
宋江は三十半ばくらいか、妻がいておかしくない年齢だ。もしかして、と閻婆さんは王婆さんに聞いてみる事にした。
案の定、宋江に妻はいなかった。閻婆さんはほくそ笑んだ。
来世で騾馬になって、と言ったがこれで現世での恩返しができるではないか。
閻婆さんは急いで家へ帰ると、娘を呼んだ。
「どうしたの、母さん。そんなに慌てて」
 戸口に姿を見せたのは、この簡素な鄆城県には似つかわしくない、美しく艶やかな娘だった。
 それが閻婆さんの十八になる娘、閻婆惜(えんばしゃく)であった。

 王婆さんの口添えが功を奏し、あれよあれよという間に閻母子(おやこ)のために家が借りられ、婆惜は宋江の妾となった。
 こんな男がいたのか、と婆惜は思った。
 東京で幼い頃より芸事を習い、妓楼にも出入りしていた。
目にするのは、己の欲を満たすために金を出す男ばかりだった。
閻婆惜は美しかった。そして誰もが彼女を求めた
 及時雨などと呼ばれているが、この宋江もそういう男なのだろうと思った。だが少し違うようだ。
そもそもこの話が決まった時、宋江は婆惜の顔すら見ていなかったのだ。
 宋江は、どちらかというと寡黙な方だった。
共に過ごしている時も、何か困った事はないか、などと自分の事よりも人の心配ばかりしていた。深酒はせず、朝になると早々に支度を済ませ、役所へと向かう。
 普通の男だった。
母や助けられた人々は神や仏のように崇めているようだったが、宋江は驚くほどに普通の男だった。おせっかい焼きが過ぎるだけの普通の男だったのだ。
 婆惜は、宋江がたまに棒を振っているのを見かけた。宋最大の都で数多の豪傑を目にしてきた婆惜にとって、これも素人に毛が生えた程度のものだと分かった。
それは宋江自身も分かっているようで、
「これでもある兄弟を弟子にとった事があるんだ。その兄弟は、私の評判を聞きつけて来たと言っていたが、まったく世間に流れている評判というのは信用ならないな」
 などと自虐的に笑って、婆惜にも簡単にではあるが、手ほどきをしてくれた。
 いつしか閻婆惜は、ありのままの宋江に何とも言えぬ安堵のようなものを感じ始めていた。
 ある日、宋江が珍しく客を伴って来た。
役所の部下である、張文遠という若い男だった。
 肴を並べ、酌をして下がる婆惜は、張文遠の視線を感じていた。
 上役の家に招かれ、緊張と感謝を装いながらも横目で婆惜に送っていた視線。
 それは東京で嫌というほど見てきた、まるで店先に並べられた商品を値踏みするような、それだった。

密会 二

 まったく分からない。
 何故、あの冴えない男がこうも持ち上げられるかが分からない。
 張文遠(ちょうぶんえん)は色街にある酒屋で取り巻きと酒を飲みながら考えていた。
「さすがは宋江(そうこう)さまの部下でいらっしゃる張さまですなぁ」
「ええい、もう良い。今日は帰るぞ」
 杯を投げ捨て、店を後にする。
 面白くもない。ふた言目には宋江さま、だ。
 いつも仕事を俺に押しつけやがって。俺がいなければ、奴など大した仕事もできぬ男だというのに。
「なんだ、今日に限って()いているのは一人もおらぬのか」
「申し訳ございません、張さま。折悪しく、先ほど埋まってしまいまして」
 むしゃくしゃする気持ちを晴らそうと入った妓楼だったが、なおさらいらいらが募るばかりだった。
 妓楼の二階から楽しそうな男女の声が漏れてくる。
「ええい、くそ面白くもない。何故に宋江の野郎にあんな美しい妾がおるのだ」
 張文遠は、はじめて閻婆惜(えんばしゃく)を見た夜の事を思い出した。
 もともと東京(とうけい)で唄などをうたっていたと聞いたが、やはりこの鄆城の女どもとは格が違う。宋江ごときがあの女を抱いているというのか。
 歌舞音曲にも明るく、遊びにも通じており、色男であると自他ともに認める張文遠にとって、野暮で若くもなく、他人の世話ばかりしている宋江の評判が高い事は理解の外であった。
 そしてここへ来て、閻婆惜という美しく若い妾まで手に入れたのだ。
 大方、金の力だけなのだろう。俺の方が、よっぽどあの女に釣り合うのだ。
 酔いの勢いに任せ、張文遠は閻婆惜の家へと向かった。
 息を整え、戸を叩く。
「こんな夜分に申し訳ありません。宋江さまがこちらに来ているかと思いまして」
「いえ、今日はこちらへは」
 張文遠は見逃さなかった。戸を開けた閻婆惜の表情が、自分を見た瞬間に落胆の色に変わるのを、見逃さなかった。
 それほどに宋江を待ちわびていたのか。煮えたぎる思いを隠しながら、張文遠は演技を続けた。
「そうですか。自宅にもいらっしゃらないのでこちらかと。緊急の言伝(ことづて)がありまして、少しこちらで待たせていただいてもよろしいですか」
「言伝ならば、私が」
「いえ、大変ありがたいのですが。これは国の機密にかかわる事なので」
 困った閻婆惜だったが、少しならばと客間へと案内した。
 灯りは少ししかついておらず、閻婆さんはすでに(とこ)に入っているようだった。
 茶を飲みながら、他愛もない世間話を続けた。
 東京の様子、得意な唄の話などを閻婆惜に語らせ、感心を装いながら張文遠はいかに自分が有能で粋な男かを。返す言葉の端々にさりげなくのせてゆく。
 徐々に笑顔が見えはじめ、警戒心が緩んだと見た張文遠は手を滑らせたふりをして、湯呑みを倒した。
 あっ、と声を上げ、手を伸ばすと二人の指先が触れあった。
 慌てて手を引く閻婆惜。
「新しいのをお持ちいたします」
 そう言って奥へ下がっていった。
残された張文遠はにやりと笑っていた。
 満更でもない顔だった。やはり、宋江などよりもこの俺の方が良いに決まっているのだ。
 その後、一刻ほど経ったが宋江が来る様子はなかった。
「仕方ありません、おいとまします」
 張文遠を見送ろうと、立ち上がった閻婆惜がふらふらとよろめいた。
「あっ、大丈夫ですか」
 張文遠の手が優しく体を支える。
びくんと体を震わせ、あえぐ様に婆惜が答える。
「大丈夫、です」
 熱かった。少し前から身体が火照ってきていたのだ。
 風邪を引いた時のように、ぼうっと熱でうかされたような感じが続いて、目元も潤んでいた。
 張文遠がいつの間にか、手を握っていた。
熱い。
「大丈夫ではないでしょう」
「やめてください」
「素直になりなさい。あの男のどこが良いのだ。私の方がお前を楽しませる事ができるのだ」
 (あらが)えない。体の芯がじんじんと燻ぶっていて、力が入らない。
 そのまま張文遠が閻婆惜に覆いかぶさった。
 効いた。
 先日、妓楼で手に入れた薬だった。
 いつか使う事もあろう、と懐に忍ばせていたものだった。陽穀県(ようこくけん)生薬(きぐすり)屋から手に入れた媚薬だと聞いていた。
 婆惜が席を立った隙に、彼女の茶に溶かし込んでおいたのだ。
 半信半疑だったが、高い金を出した甲斐があったというものだ。ここまで効果てきめんだとは。
 張文遠は慣れた手つきで閻婆惜の帯を解きはじめた。

 日が昇り始めた通りを、ぶつぶつと一人の男が歩いていた。
「昨日はまったくついてなかったなぁ」
 粕漬(かすづ)け売りの唐二哥(とうにか)である。ここでは唐牛児(とうぎゅうじ)という通り名の方が知られている。
 博打が好きで、いつも誰かに金をたかっており、特に宋江には大きな借りがあった。そのため何か事があるとすぐに注進に現われ、宋江のためならばたとえ火の中水の中という気概の持ち主でもあった。
 唐牛児は昨晩有り金をすってしまい、またぞろ宋江に普請しようとしていたところだった。
 閻婆惜の家から誰か出てきたようだ。上手い具合に宋江に会えたようだ。
しめた、と駆けだそうとした牛児だったが、慌てて物陰に体を潜めた。
 宋江ではない。背の高さが遠目でも違うのが分かった。
 足音が近づいてくる。
 その男は、唐牛児に気付く事なく通りを過ぎて行った。
 見覚えがあった。宋江と一緒にいるのを見た事がある。確か宋江の下役の書記だったか、名前は失念したが。
 宋江の妾の家で何をしていたというのか。
 宋江に報告すべきか。悩む唐牛児は、ひとまずその場を去った。

 人の口に戸は立てられぬ、という。
 張文遠と閻婆惜の一件、見ていたのは唐牛児だけではなかったようだ。
 噂はたちまちに広まり、もはや知らぬは宋江ばかりなり、という状況だ。
 閻婆惜も自責の念から、宋江の顔をまともに見る事さえできなくなってしまった。
「何か、気に障る事でもしたかな」
 心配そうに尋ねる宋江に、いいえ何も、と顔をそむける婆惜。
 悪いのは自分なのだ。あの晩、張文遠と関係を持ってしまった。
 媚薬を盛られた事とは知らない閻婆惜は、宋江の優しい態度にますます呵責に苛まれる事になってしまうのであった。
 するうち宋江も役所の仕事も忙しくなり、自然と足が遠のいてゆく。
 彼の庇護を受けられなくなると焦る閻婆さんから催促されるものの、顔を出す暇もないのだ。
 張文遠は宋江の目を盗んでは婆惜の元を訪れていた。しかしあの日以来、にべもない対応だった。
 まあ良い、宋江と閻婆惜の関係もぎくしゃくしているようだ。いくらでもつけいる隙はある。絶対に俺のものにしてやる。
 いや、すでに俺のものか。
「宋江さま、顔色が優れませんが体調でも」
「いや、何でもない。心配かけてすまぬな」
「ならば良いのですが」
 我ながら役者だ、と張文遠はほくそ笑み書類に目を戻した。

密会 三

 目まで隠れるほどの笠をかぶった男が、茶店の外に立って中を窺っていた。
 大きな包みを苦もなく背負っており、腰には刀を手挟(たばさ)んでいる。着物の上からでもわかる逞しい体から醸し出されるただならぬ雰囲気から、明らかに市井(しせい)の者ではないことが知れた。
 指で笠を上げ店内を見回し、宋江(そうこう)と目があった。男はしばし宋江を見つめ、店の前から離れて行った。
 誰だ。見覚えがある顔だ。どこだったか、思い出せないが確かに知った顔だった。
 勘定を卓に放り、宋江は男の後を追った。
 路地を曲がると、男が目の前にいた。
 驚く宋江を尻目に、男が恭しく拱手した。
「先日は誠にお世話になりました。本日はそのお礼をしたいとやって参りました、宋江どの」
 やはり男の方は自分を知っている。だが宋江が思い出せないでいると、男は笠を外し顔を見せた。
「そうか、まだ直にお会いした事はありませんでしたな」
 赤茶けた髪をした鬼のような男は、劉唐(りゅうとう)と名乗った。
 宋江が晁蓋(ちょうがい)捕縛の発令が出る前に知らせてくれたこと、その礼をするために鄆城県(うんじょうけん)まで遣わされたのだという。
 思い出した。その時に庭にいた男の一人だ。
「なんて無茶な事を。誰かに見つかったらえらい事になるぞ」
 慌てて笠をかぶせ、路地の奥へ連れてゆく。
「ご心配かたじけない。死も覚悟で来ておりますゆえ」
 にやりと笑う劉唐だが、その目に覚悟が見てとれる。言っている事は本気のようだ。
「わかった。立ち話も何だから、どこかへ入ろう」
 宋江は劉唐を連れ、町はずれの居酒屋へと向かった。
 二階の席をとり、人払いをする。
 笠を取り、改めて劉唐は宋江に礼を述べた。
「晁保正(ほせい)はご健勝かね」
 劉唐が語り出す。
 宋江の連絡で東渓村(とうけいそん)から脱出し、追っ手の何濤(かとう)を返り討ちにした事。その後、王倫(おうりん)を討ち、晁蓋が新頭領となった事。さらに黄安の討伐部隊を完膚なきまでに叩きのめした事をつぶさに語った。
「宋江どのには返しても返しきれぬご恩がございます。つきましてはこちらを」
 劉唐は晁蓋からの手紙を宋江に渡すと、背負っていた大きな包みを卓の上で広げた。中から出てきたのは、まばゆいばかりの金子(きんす)だった。
 宋江は手紙を懐にしまい、卓に手を伸ばすと小さな金子をひとかけらだけ掴んだ。
「劉唐どの、わざわざ来ていただき礼を言う。晁蓋どのと一同のお気持ちは受け取ったよ」
「そんな、そんな事をされては俺が晁天王(てんおう)に叱られてしまいます。どうか全てお納めください」
「いやいや、山寨も今は何かと物入りだろう。私も金には困っておらんが、受け取らぬのはかえって失礼だ。気持ちとして、これだけいだたく事にしましょう。残りは梁山泊(りょうざんぱく)のために使いなさい」
 しかし、と劉唐は何度も宋江に頼み込んだ。だが宋江も受け取らない、の一点張りだ。
「わかった、では晁蓋の兄貴宛に一筆書くから、それで良いだろう」
「それならば」
 これ以上言っても宋江は受け取らぬ、と感じた劉唐はそこで身を引いた。
 劉唐はこの後、朱仝(しゅどう)雷横(らいおう)にも礼の品物を届ける(めい)を帯びていた。だがそれを知った宋江は慌てた。
 やはり東渓村で晁蓋が逃亡出来たのは、あの二人のおかげという訳か。宋江は考える。
 推測通り、実際に逃がしたのは朱仝の方だろう。雷横は義理堅いとはいえ、それほど器用な男ではない。
「わかった。二人とも私の顔見知りだ。朱仝は物持ちだから金など必要ないだろうし、あの男の性格からおそらく受け取るまい。雷横の方は、博打に目がないから何かあった時に足がつく恐れがある」
 彼らには自分が伝えておく、と宋江は言った。
 自分が晁蓋に注進した事を朱仝は勘づいているかもしれない。先日会った様子からも何となく感じられたが、雷横はおそらく気付いていまい。
 これ以上、事を大きくはしたくなかったのだ。
 一旦、話を終わらせ酒と肴を運ばせた。
 酒を燗で頼み、大切れの肉や菜、ほかにつまみなどを並べさせる。
「今日は良いものがございまして」
 と給仕が言うので、それを頼んだ。
 しばらくして出てきたのは魚の餡かけ料理だった。
 大きな鯉だった。近頃ではこれほどのものは珍しく、宋江も思わず唸るほどだった。
「梁山泊で獲れたものです。ずっと漁ができなかったんですが、頭領が変わってから、一般の漁師たちにも開放されまして」
 給仕が微笑んで教えてくれた。
 なるほど、晁蓋のおかげという事か。
 その話を聞いている劉唐の表情は、どこか自慢げだった。

 ひとしきり飲んだ二人は店を後にした。
 八月半ば、もうじき月が昇る頃合いだ。
「近ごろ治安引き締めの令が出ていてな、もうあまりここへは近づかん方が良い」
「お気遣いかたじけない」
「うむ、晁蓋どのによろしく伝えてくれ」
 劉唐は拱手をすると、その大きな体躯を翻し、闇の中へと消えた。
 宋江は暗い通りを見つめ思う。
 白昼堂々と現れるとは大胆な男だ。
 今回は誰にも見つからなかったから良かったものの、と眉をひそめる。宋江の手は自然と懐をおさえていた。
「見つけましたよ」
 背後からの声に、ぎょっと驚いて振り向く宋江。そこにいたのは閻婆さんだった。
「ど、どうしたのだ、こんな時間に」
「なんですか幽霊でも見た様な顔をして」
 劉唐といたところを見られたのか。どうやって切り抜けようか。宋江の胸が早鐘のように高鳴る。
「やっと見つけましたよ、押司(おうし)さま。何度も使いの者をやっているのに、少しも顔を見せてくれないのですから。今日という今日は逃がしませんよ」
「その、ずっと仕事が忙しくてな。すまないとは思っているよ」
 どうやら心配は杞憂だったようだ。ここは勘づかれぬように、閻婆さんにおとなしく従った方がよさそうだ。
 閻婆さんは宋江の袖をひっぱり、あの子が待ってますよ、と急かす。
「わかった、わかった。行くから手を放しなさい」
「わかってくれれば良いんですよ。押司さまに見捨てられたら、わしら母子はまた路頭に迷っちまうんですからね」
 宋江は閻婆さんに引きずられるようにして家に連れて行かれた。
 そう言えば、ここしばらく訪れていなかった。
 王婆さんの、半ば強引な口添えがあったにしても自分で妾にしておきながら、と閻婆惜(えんばしゃく)にも申し訳ない気持ちになった。
 閻婆さんは宋江を案内すると、とっとと寝てしまったようだ。
「お変わりございませんか」
 閻婆惜は宋江の上着を脱がせてやりながら、小さな声で言った。
「しばらく来られずにすまなかった。何か不自由している事はないか」
 幾日ぶりだろうか。宋江は婆惜が注いでくれた酒を飲みながら言った。
「いえ、特に」
 婆惜が目も合わせずに言うと、長い沈黙が訪れた。
 やはり機嫌を損ねてしまっているらしい。本当に仕事が忙しかったのだが、一体どうしたものか。
 話しかけても短い答えが返ってくるだけで、それ以上続かない。
 閻婆惜も、何か言おうとしている様子なのだが、宋江はそれを上手く促してやる事ができないでいた。
 もっと女性の扱いに()けた者ならば、気の利いた話題でもできるのだろうが。
 宋江は、自分はまったく野暮な性格だと改めて痛感するのであった。
 気まずい沈黙の中、酒の量だけが増えていった。
「婆惜よ、すまぬな。明日も早いので帰る事にするよ。また近いうちに必ず寄るから」
 思ったより酔っていたようだ。立ち上がった宋江の足がもつれ、よろめいた。
 あ、と閻婆惜がそれを支えた。はからずも目と目が合う宋江と閻婆惜。
「すみません」
「すまない」
 二人がほぼ同時に言い、閻婆惜ははにかむ様に口元をほころばせた。
 宋江が帰り、婆惜は椅子に腰かけたまま身を固くしていた。
 いつの間にか部屋の中に男が立っていた。
「まったく危なかったぜ。いつ勘づかれるかと冷や冷やしたが、野暮な野郎で助かったぜ」
 額の汗を拭いながら男は閻婆惜に近づく。
 その男は、宋江の部下の張文遠(ちょうぶんえん)であった。

 その夜、張文遠は酒を飲んでいた。杯を重ねるごとに思い浮かべるのは閻婆惜だった。あの晩の閻婆惜の姿を思い出し、居ても立ってもいられなくなり婆惜の家へとやって来たのだ。
 二階に明かりが灯っている。閻婆惜は起きているようだ。だが家中には閻婆さんもいるようで、張文遠は陰に隠れて様子を見ていた。
 すると半刻もしないうちに、戸締りもせずに婆さんが外へ出て行った。張文遠は、それを幸いとばかりに二階へと上がった。
「やっと会えたな、婆惜」
 酒と興奮とで荒くなる呼吸を抑える事もせず、閻婆惜に近づいてゆく。
 驚く婆惜は声を上げる事もできず、動く事さえできない。ぎらつく視線が婆惜を愛で回す。
「やめてください。人を呼びますよ」
 閻婆惜は声を振り絞り、気丈にも言い放った。
 だが張文遠は唇をさらに歪めて笑った。
「呼ぶが良い。俺とお前との関係は周知の事実だ。恥をかくのは、何も知らないお前のご主人さまの方でも良いのならな。もっとも婆さんもどっかへ行っちまったし、叫んでも誰も来やしないぜ」
「この痴れ者、恥を知りなさい」
「ほう、そっくりそのままお前に返してやるわ。あの晩は、ずいぶん乱れたようだったがな。思い出させてやるぜ」
 張文遠に手首を掴まれ、ひっと短い悲鳴を上げる。
 その時であった、階下で閻婆さんの声が聞こえた。
「ちっ、もう帰って来たのか」
 誰か連れてきているようだ。
 張文遠が、ばらすんじゃないぞ、と寝台の下に隠れた。そして婆さんと共に現われたのは、宋江だったのだ。
 何度か閻婆惜は気付かせようとした。
 だが張文遠が部屋にいる事が露見してしまえば、どんな言い訳もできるものではない。たとえ潔白であっても、女の部屋に男がいる、という事実を覆す事は出来そうもなかった。
 何も言いだせぬまま時は過ぎ、やがて宋江は去った。
「まったく危なかったぜ」
 寝台から這い出た張文遠はまた同じ台詞を言いながら、背伸びをした。
「今度こそゆっくりとできるな」
 やめてください、と張文遠の手を払い距離をとる。
 後ずさる婆惜の背が衣桁(いこう)にぶつかり、掛けていた物が落ちた。
 宋江の上着であった。
 床の上に、ごとりと音を立てて落ち、中から袋が顔をのぞかせていた。
 やけに重たそうな音にいぶかしんだ張文遠が、さっとそれを拾い上げる。
 袋の中には手紙と小さな金子が入っていた。
「おやめください、それは宋江さまのものです」
 うるさい、とすがる婆惜を肘で遠のけると手紙を広げた。
 張文遠は目を疑った。
 なんと、梁山泊の頭領である晁蓋から宋江に宛てた手紙ではないか。
 鼻息を荒くしながら、張文遠が手紙を握りしめる。
「とうとう宋江の奴もお終いだ。婆惜、お前も知っていたのか」
「何の事です。宋江さまが何をしたというのですか」
 字は読めるだろうと笑い、張文遠は手紙を見せてくれた。
 そんなまさか、という思いだった。宋江が晁蓋を逃がすのに一役買っていたなんて。
 でもあり得る話だった。晁蓋と宋江は顔馴染みで、兄弟の付き合いだったと聞いた事がある。
「いつまで読んでいる、さっさとよこせ」
 手紙をふんだくると、張文遠は金子をしげしげと眺めた。
「手紙と金子、動かぬ証拠を手に入れた。あの野郎、及時雨(きゅうじう)と言われておきながら、裏では山賊とつながっていたとは」
 このままでは宋江は罪人となってしまう。何とかして手紙を奪い返さなくては。
閻婆惜は上着の側に落ちているもう一つの物に気づいた。
 素早くそれを拾うと、閻婆惜は張文遠に向き直った。
「そ、その手紙を返しなさい。何かの間違いです、宋江さまがそのような事をするはずがありません」
 婆惜の手には懐刀(かいとう)が握られていた。宋江が護身用に上着に入れておいたものだった。
「いい加減に目を覚ませ、婆惜。たった今お前もその目で見ただろう。これで奴は死罪となり、俺は昇進、そして正式にお前を手に入れるという訳だ」
 ははは、と笑う張文遠に懐刀を突き出す。だがおよそ武器など持った事のない婆惜は、簡単に避けられてしまう。
「やめておけ。奴の命運は既に尽きたも同然だ。おとなしく俺の物になるんだ」
 何とか体勢を立て直し、婆惜は再び刀を構えた。
 いつか宋江が武器の扱い方を教えてくれた事を思い出す。もっと真剣に聞いておくのだった、と婆惜は歯がみをした。
「その手紙を返しなさい」
「やめろ、怪我をするだけだ。それよりも」
 と、張文遠はにやにやしながら婆惜に近づいてゆく。
 呼吸が荒くなる。落ち着くのだ。懸命に自分に言い聞かせ、婆惜は刀を逆手に構えた。
 右手で柄を握り、左の掌を柄頭に添える。脇を閉め両手を胸のあたりに置き、祈るような構えになる。
 確か、こうだったはず。
 閻婆惜は渾身の力を込め、張文遠に向かって足を踏み出した。

密会 四

 まだ日が昇るには早い刻限、通りを宋江(そうこう)がひとり歩いていた。
押司(おうし)さま、今日はお一人ですかい」
 唐牛児(とうぎゅうじ)こと唐二哥(とうにか)だった。
 商売道具を一式担いでいる。仕事に向かう所だったのだろう。朝早くから健勝な男だ。
 しかし、よく声をかけられる日だ。
「なんだ牛児か。近頃はどうだ」
「なんだはないでしょう、押司さま」
 と笑う唐牛児。
「これからどこへ」
「うむ、少し飲みすぎてな。王爺さんの所で酔い醒ましの薬をもらおうと思ってな」
 宋江が来たのは婆惜の家がある方向だ。どうやら今日はそこで飲んでいたようだ。張文遠(ちょうぶんえん)の件を本当に知らないのだろうか。
 唐牛児は思い切って聞いてみる事にした。
「そうですか。ところで押司さま、その」
「なんだこんな時にまた普請(ぶしん)か。博打もほどほどにせんといかんぞ」
「あ、いえ、その」
「どうした歯切れが悪いな。そうとう負けたと見える」
 ふふ、と笑う宋江を見て、牛児はどうしてもしどろもどろになってしまう。
 そんな牛児をよそに、宋江は懐を探ると、目を大きく見開いた。
「しまった、上着を忘れてしまった」
 ちょっと待っていろ、と反転し駆けだす宋江。
「ちょ、宋江さま」
 叫ぶ牛児の声など聞こえるはずもない。梁山泊(りょうざんぱく)からの手紙と金子(きんす)を入れた上着を忘れてきてしまったのだ。
 婆惜にそれが見つかったらと思うと、八月の半ばだというのに身震いがした。先ほどの酔いもどこへやら。
 宋江は一散に閻婆惜(えんばしゃく)の家へ走った。
「宋江さま、待ってくだせぇ」
 取り残された牛児はしばし呆然としていたが、商売道具を放りだすと後を追いかけはじめた。

 ほどなく宋江は婆惜の家へと戻った。
 肩で息をしながら、二階に目をやる。明かりが消えている。すでに寝てしまったか。
 戸に手をかけると、すんなりと開いた。戸締りもしてなかったようだ。
 不用心だな、と思いながら階段を上がる。婆惜を起こさぬよう、猫のように慎重になる宋江。
 部屋の戸を開け、暗がりを探った。衣桁を探り当てたが、そこに駆けたはずの上着がない。
 冷や汗が滲んだ。
 部屋の奥へゆっくりと進むと、つま先に柔らかいものが触れた。
 手を伸ばすと、それは宋江の上着だった。宋江は冷や汗を流した。
 軽い。入っているはずの手紙と金子が抜かれている。
 宋江は、はたと手を止めた。上着が濡れているのだ。水ではないようだ。
 手についたそれを嗅いでみる。少し鉄錆びた匂いがした。
 まさか。
 宋江は燭台を探りあてると、それを灯した。
 闇が一瞬で追いやられた。だが宋江の目に飛び込んで来たのは、目を覆いたくなるような光景だった。
 寝台と衣桁の間、そこに閻婆惜がくずおれていた。
 彼女の腹のあたりから血が溢れており、着物と床を濡らしていた。
「婆惜」
 宋江はそう叫び、駆け寄ると彼女の首元に触れた。弱々しいが辛うじて脈があった。
「婆惜、私だ、宋江だ。なぜこのような事に」
 それに応えるかのように婆惜がほんの少しだけ瞼を開けた。
「すみ、ません」
 婆惜は、闇の中に消え入りそうなか細い声で囁いた。
 そして安心したかのように(つぼみ)のような唇をほころばせると、そのまま動かなくなった。
 婆惜、と誰に言うともなくつぶやく宋江は彼女の腹部に刺さっている刀を見た。
 それは宋江が護身用に持ち歩いていた懐刀だった。
 ゆっくりとそれを引き抜き、確かめるように顔に近づける。
 がたり、と背後で物音がした。
「お、押司さま、娘は、娘を」
 震える閻婆さんが、怯える目でこちらを見ていた。
 手には血に濡れた刀。着物も閻婆惜の血が染みて、返り血を浴びたようだ。
 まるで自分が閻婆惜を殺したみたいではないか。
「私が殺したようなものか」
 ぼそりと呟き、宋江は青白い顔でふらふらと立ち上がった。
 閻婆さんが、ひぃっと短い悲鳴を上げた。

 (かど)を折れ、閻婆惜の家がある通りへ出た時である。路地の陰に隠れるようにしている人影を、唐牛児は見た。
 牛児は、その人影を確かめようと自分も物陰に潜んだ。その人影は、閻婆惜の家の方向をちらちらと伺っているようだった。
 見た事がある風貌だ。まだ暗くて顔ははっきりと見えないが、牛児はそう直感した。
 しばらく見ていると、その人影は何かを確信したように頷くと、路地から出てその場を立ち去って行った。
 牛児の直感は正しかった。
 走り去る人影、それは張文遠だったのだ。
「あの野郎、こんな所で何を」
 牛児は、彼がいた所に行ってみた。
 そこの地面に小さな染みができていた。顔を近づけると、どうやらそれは血のようだった。張文遠のものなのだろうか。
 するうちに空がほんのりと明るくなり始めた。
 婆惜の家の戸が開き、宋江と閻婆さんが出てきた。閻婆惜は出てこない。
 駆け寄った牛児は言葉に詰まった。
 宋江の着物は血に濡れ、両手も血で染まり、顔面は蒼白になり歩くのもやっとといった様子だった。
「押司さま、一体何があったんで」
 閻婆さんが睨みつけてきた。
「なんだ牛児、お前には関係ない話さ。あっちへ行きな」
「なんだ婆さん。俺は宋江さまと話してるんだ」
「うるさい男だね。いいさ、教えてやるよ。こいつはね、あたしの娘を殺しちまったのさ。だからこうして今から役所へ突き出してやるのさ」
 馬鹿な、と牛児が怒鳴り返す。
「おい婆さん、出鱈目ぬかしてるんじゃねぇぞ。押司さまとはさっきまで一緒にいたんだ」
「出鱈目はそっちだろう。あたしゃこの目でしっかりと見たんだよ」
 言いあう二人を宋江が制する。
「牛児よ。婆惜の死は私の責任だ。申し開きはきちんと役所でするよ」
「そんな押司さま。さっきまで一緒だったんだ、あんたじゃねぇのはお月さまだって知ってらぁ」
 牛児が説得するも、宋江の意志は固かった。
 三人はやっと開いたばかりの役所へと着いた。
「人殺しがここにおるぞ。わしの娘を殺した悪鬼が、ここにおるぞ」
 突然、閻婆さんが目を剥き、叫び出した。
 役人や行き交う人々も、何事かと三人に注目し出した。
「やめなさい、閻婆さん。私は大人しく出頭すると言っておるだろう」
「お役人さま、この男を早く捕まえてください。この人殺しを」
 宋江の弁など聞く耳も持たず、閻婆さんは唾を飛ばす。
「やめろって言ってんだろ、婆あ」
 唐牛児が閻婆さんを引き離そうとするが、枯れ枝のような腕はしっかりと宋江の服を掴んで離さない。恐ろしいほどの力だった。
 取り巻きの人々は、渦中の人物が宋江だと知って、閻婆さんに冷笑を送っていた。
 常日頃から及時雨(きゅうじう)と慕われる宋江が殺人などするはずもない。大方、あの婆さんの狂言か何かなのだろう、と騒ぐ訳でもなく遠くから見るだけであった。
 閻婆さんを抑えている牛児が突然叫び出した。
「奴だ。押司さま、奴です。奴が婆惜を殺したんです」
 牛児は通りを歩いていた男に掴みかかった。
「見てください。婆惜をやった時に怪我したんですぜ」
 その男は張文遠だった。
 牛児は彼の左手首を掴んで、袖を捲り上げた。手には包帯が巻かれており、かすかに血がにじんでいた。
「押司さまが婆惜の家へ行った時、路地の陰からこいつが伺っていたのを、おいらは見てたんです。こいつが去った後に行ってみると、そこに血が落ちてました。きっと閻婆惜に斬られたんでしょう」
「なんだお前は、離せ」
 唐牛児を振りほどこうとするが、その手はしっかりと張文遠を捕えて離さない。
 そこで張文遠は役所の捕り手を呼んだ。
 彼らに取り押さえられる牛児。さらに張文遠は捕り手に命じる。
「おい、ぐずぐずしないで、そこの人殺しとやらを捕まえるんだ」
 だが捕り手たちも宋江の人柄は知っている。互いに顔を見合わせ、どうしようという表情だ。
「押司さま、今だ。とりあえずここから離れてくだせぇ。後の事はおいらが」
 宋江も困惑していた。
 牛児は張文遠が閻婆惜を殺したと言っている。本当にそうなのか。
 閻婆さんは、牛児と張文遠のやり取りに注意が向いていた。それに気づいた宋江は、閻婆さんの手をひきはがし、駆けだした。
「すまない、牛児」
 そう叫ぶと人混みに紛れ、姿を消してしまった。
 はっ、と我に返った閻婆さんは唐牛児を指さし罵りだした。
「お前が余計な事をするから、あいつが逃げちまったじゃないか。お前も人殺しの仲間だよ」
「よし、その男を引っ立てよ。婆さん、あんたは証人だ。一緒にこっちへ来てくれないか」
 張文遠が叫び、捕り手は唐牛児を引き離すと連行した。閻婆さんもそれについて行く。
 宋江は逃げたが、すぐに捕まるだろう。
 唐牛児に怪我を暴露された時は冷や冷やしたが、少し痛めつけて宋江が犯人だと言わせれば一件落着だ。
 張文遠は掴まれていた手首をさすった。
 包帯がさらに赤く染まっていた。

密会 五

 張文遠(ちょうぶんえん)は急ぎ、閻婆さんの代わりに訴状をしたためた。
 現場の検証のため検死役人や関係者たちが送られ、再三の検死が行われた。
 宋江(そうこう)のものである懐刀が床に落ちており、閻婆惜(えんばしゃく)を殺した凶器だと断定された。また金子(きんす)も落ちており、証拠品として押収された。
 閻婆惜はすみやかに柩に納められ、寺へと運ばれた。
 報告書を見て張文遠はうなった。晁蓋(ちょうがい)との関係を示す手紙が証拠品にないのだ。一体どこへ行ってしまったのか。まさか宋江が隠滅したのだろうか。
 世を騒がす梁山泊(りょうざんぱく)との繋がりが露見するのを怖れ、口封じのために閻婆惜を殺害した。そうなれば宋江の死罪は間違いないと踏んでいたのだが、仕方あるまい。それでも捕まれば流罪は免れまい。 
 閻婆惜の死は張文遠にとっても望ましい事ではなかった。手紙と金子を突きつけ宋江を脅すつもりでいたのだが、まさか閻婆惜が奴の見方をするとは。
 とっさの事で反応が遅れた。張文遠は体をかばうようにした左手を斬られた。
 しかしそれに逆上した張文遠は刀を奪い取り、彼女の腹にそれを突きたてた。
 うろたえた張文遠だったが、それを宋江の仕業にする事に決め逃げ出したのだ。
 張文遠は左手首をさすりながらほくそ笑むと、閻婆さんを炊きつけるために出かけて行った。

 知県は腕を組み、眉間に皺を寄せていた。宋江の人となりは知っている。彼は人殺しをするような男ではない、はずだ。
 閻婆さんは直接犯行を見ていた訳ではなく、唐牛児(とうぎゅうじ)こと唐二哥(とうにか)の証言も気になる。
 彼は張文遠こそが犯人だと言っているのだ。
 閻婆惜との痴情のもつれで殺害という線も考えられたが、これも確たる証拠はない。唐牛児の目撃証言による推論にすぎないのだ。
 知県は宋江を罪人にしたくはないため、唐牛児を一時拘留し、ほとぼりが醒めてから釈放してやるつもりでいた。
だが閻婆さんが役所へ来ては宋江を捕えろとわめき散らし、張文遠も彼女の擁護をする。しかし唐牛児を何度打ち据え、詮議したところで彼の主張は変わらない。
 仕方なく知県は唐牛児に罪を着せる事にしたが、張文遠は宋江が犯人だと言ってはばからず、宋家村(そうかそん)にいる家族を人質にしておびき出そうと主張する。
 宋江の父である(そう)太公の弁によれば、宋江は家の仕事を嫌い、勝手に役人になったため三年前に親子の縁を切り、籍を抜いているのだという。その証拠の文書があり、その写しを知県に提出してきた。
 そのため知県は賞金をかけ、全国に手配書を交付する事でこの件を終わらせようとした。
 しかしまた閻婆さんが役所に、髪を振り乱しながら泣いて訴えに来る。さらに張文遠も、そんなものは捏造(ねつぞう)だと言い、婆さんが州に訴え出たら我々の責任が追及されますぞ、と脅すような事を言ってきた。
 魂が抜けるような溜息をつき、知県はしぶしぶ宋江捕縛の捕り手を出す事を決めた。
「おい、聞いたか。俺たちが宋江どのの捕縛に派遣されるらしいぜ」
 部屋に駆けこんで来た雷横(らいおう)の言葉に、朱仝(しゅどう)は微笑んだ。
「誠か」
 それは良かった、と腰ほどまであるひげをゆっくりと撫でながら言った。

 背がぴんと伸びた老人だった。
 白髪ではあるが、杖もつかず足取りもしっかりとしている。いまだ現役で宋家村を治める宋太公であった。
 朱仝と雷横は、率いてきた兵を控えさせ、太公に拱手した。
「ご苦労様です(しゅ)都頭、(らい)都頭」
「突然申し訳ございません、太公。ご子息の宋江どのの事で参りました」
「先日も役人が来て説明したはずだが、あれとは家族の縁を切っておる。すでに宋家の者ではない」
「ええ、それは伺っておるのですが、私たちも公務なもので念のため家の中をあらためさせていただきたい」
 構いませんよ、と宋太公は二人を屋敷へと導いた。
 朱仝が門を見張り、雷横が邸内の捜索に入ってゆく。兵たちはすでに屋敷を取り囲んでいる。
 宋太公はというと、顔色ひとつ変えず悠然と構えている。
「中には誰もいなかったぜ」
 しばらくして出てきた雷横が言った。
「納得していただけましたかな、お二人とも。わしも法は知っている身、匿いなどいたしませんよ」
「ちょっと待ってください。私にも確かめさせてください」
 朱仝はそう言うと、雷横に宋太公を見張らせ、邸内へと赴いた。
 門を閉めると、内から(かんぬき)をかけ、奥へと進む。
 朱仝は家探しをせずに、ある場所を目指していた。
 迷う事なく歩き、やがてその場所へと着いた。
 そこは仏間だった。
 正面に鎮座する金色(こんじき)の仏。そしてその前には供物台が置かれている。線香立てにはすでに灰となった線香がその形を残したまま横たわっている。
 朱仝は供物台へ近づくと、それを横へのけた。仏像が柔和で厳格な視線で朱仝を見下ろしているが、朱仝は意に介する様子もない。
供物台があった床に扉のようなものが現われた。その隙間からは紐のようなものがはみ出していた。
 朱仝は手を伸ばし、ほんの一瞬だけためらうと唇を固く結び、その紐を引いた。
 床下で鈴らしき音が聞こえた。
 扉がゆっくり持ち上げられると、中から人が顔を覗かせた。
 朱仝と目が合い、驚いた男は誰あろう及時雨(きゅうじう)の宋江、その人であった。

 (かん)になるは(やす)()になるは(かた)し、か。
 宋江は暗い地下室の中で、一連の事を思い起こし溜息をついていた。
 実力がなくとも高官の縁故者でありさえすれば官となり、権力を欲しいままにできる。
 しかし自分のような小役人が、ひとたび問題を起こしてしまうと軽くて流刑、ともすれば家財没収の上、死罪もおかしくないのが今の世だ。
 ふと梁山泊討伐に失敗した何濤(かとう)や、その上役であった前任の済州(さいしゅう)知府を思い出した。
 生辰綱を二年連続で強奪された梁世傑(りょうせいけつ)は何の咎めもなく、責任を取らされるのは下っ端の者なのだ。
 三年ほど前、戸籍を抜き地下室を用意してくれた父に向かって、そんな事は必要ないと笑っていた自分を恥ずかしく思う。
 穴の中で、宋江は父の思慮深さに感謝した。
 宋江は動かずにじっと考え続ける。
 あの時、自分は言い逃れせずに身の潔白を証明しようとして役所へと向かった。しかし唐牛児の言葉を聞き、その場から逃げた。
 牛児の言うように、閻婆惜を殺したのは張文遠なのか。
 婆さんが騒いでいたとはいえ、有無を言わさず自分を捕えようとしたあの様子からすると本当かもしれない。
 すまない、婆惜よ。
 唐牛児にも申し訳ない事をした。今ごろ痛めつけられているのだろうか。真相を暴き、必ず牛児に報いなければ。
 すると入口から下がっている鈴が鳴った。父からの合図だ。捕り手たちが去ったのだろう。
 喜んで扉を開けた宋江だったが、そこにいたのは都頭の朱仝だった。
「やはりここでしたか、宋江どの」
 宋江は口を開けたまま固まっていた。
「心配しないでください。あなたを捕えに来たのではありません」
 朱仝の優しげな目を見て、ようやく宋江は警戒を解いた。
「しかし、どうしてここが」
「深酒には注意した方が良いですぞ、宋江どの。人助けばかりしているから、いろいろ溜まっているものを吐き出してしまう事もある」
 どうやら酒の席でうっかり漏らしてしまったらしい。今後は気をつけなければならないだろう。
 うなだれる宋江に、朱仝は続ける。
「知県さまも私たちも宋江どのを捕えたくはないのです。ですが閻婆さんと張文遠が毎日のように騒ぎ立てるものですから、我々も動かざるを得ない状況なのです」
 しばしの沈黙の後、朱仝は続けた。
「一度だけ伺います、宋江どの。閻婆惜を殺したのはあなたですか」
 宋江は真っ直ぐに朱仝の目を見つめ、きっぱりと言った。
「違う。私ではない」
 朱仝の表情が緩み、場の緊張も一瞬で解けた。
「その言葉で確信しました。後の事はうまく処理します。あなたはどこかへ身を隠して下さい、宋江どの」
「この恩は必ず返させてもらう。そうだ朱仝、やはり晁蓋どのもお前が」
 みなまで言わせず、朱仝は長い髯を撫でながらにっこりと微笑んだ。人好きのする優しい顔だった。
 何事もなかったように仏間から出た朱仝は、雷横と宋太公の元へ戻った。
「うむ、やはりどこにも潜んでいないようだ」
 ほら見ろ、という顔で雷横が見てくる。
 朱仝は眉間に皺を寄せ、険しい顔で言った。
「こうなれば仕方あるまい。宋江どのの代わりに、父君と弟君に役所へご足労願わねばならんな」
 すると朱仝と宋太公との間に割り込むようにした雷横が言う。
「おい、待ってくれよ朱仝」
「何だ、雷横」
押司(おうし)どのの人柄を知ってるだろう。あの人が人殺しなどするはずがねぇ、きっと何かの間違いだ。太公どのの書類だって本物だ。ここは引き下がろうじゃねぇか」
 む、と渋い顔をする朱仝。
 聞けば宋江の弟である宋清(そうせい)も近くの村へ農具を手配に行っており、ここにはいないという。
 雷横に疑われないようにわざと厳しい事を言ったのだが、と朱仝は心中でほくそ笑み、
「わかったよ。お前がそこまで言うのなら、私だって憎まれ役にはなりたくないさ」
と、書類の写しをもう一度取り、兵を引き連れて役所へ報告に戻る事にした。
朱仝はつくづく良い相棒を持ったものだ、と雷横の顔を見ていた。
「なんだ、俺の顔に何かついてるのかい」
 ははは、と朱仝が大声で笑い、雷横はきょとんとした顔をしていた。
 屋敷の前では、一行が立ち去ってもなお、宋太公が礼の姿勢のまま二人を見送り続けていたという。

 朱仝と雷横の報告を受け、知県はこの件を全国に手配書をまわすのみで終わらせる事にした。閻婆さんには今後の生活の金を渡し、州役所への上告を思いとどまらせた。
 唐牛児は宋江を逃した罪のみを問われ、遠方への流罪に処される事になった。朱仝は護送役人たちに賄賂を渡し、道中間違いがないように手を回した。
 張文遠も、これ以上閻婆さんの協力が得られなくなった事もあり、大人しくなったようだ。
 やがて人々は忙しい日常に追われ、この事件も記憶から薄れていくようであった。

 鄆城県(うんじょうけん)から少し離れた夜の林道を、闇に紛れるように二つの人影が移動していた。
 木々の向こうから気の早い(ふくろう)の声が聞こえてくる。
「お前にまで迷惑をかけてしまったな、(せい)
 先を進む宋江が振り返り言った。
「仕方ないさ。兄さん一人では心もとないからね」
 弟の宋清がそう答えた。
 家の仕事を継ぎ、家族もいる宋清だったが、父の命令ではなく自分から同行を申し出たのだ。妻と幼い息子は村で宋太公が面倒をみる事になっている。
 農業に従事する彼は宋江と同じくらいの背丈だが締まった身体をしており、背負う重そうな荷を苦もない様子でしっかりと歩いていた。
 荷には旅に必要な銭や着物類、雨具、予備の草鞋(わらじ)など一式が詰め込まれていた。他に父が渡してくれた、かつて親交があったという名医の処方薬も入っていた。
「ところで兄さん、どこへ落ち着くのか決めたのかい」
 あまり表情が変わらない宋清だが、これでも自分の事を心配してくれているのはよく分かっている。
 宋江が考えていた行き先は三ヶ所。
 まずは滄州(そうしゅう)、横海郡の柴進(さいしん)の館。柴進も世話好きで知られ、宋江はかねてより手紙のやり取りをしていたのだ。
 次に青州清風寨(せいふうさい)。宋江が若い時分、青州のある将軍に学び、彼の息子と義兄弟の仲となっていたのだ。しばらく尋ねていなかったが、今はその息子がそこの副知寨(ちさい)を務めているという。
 最後に白虎山(びゃっこざん)にある富豪の屋敷。かつて宋江の元へ押しかけ弟子に来たのは、ここの富豪の息子たちであった。
「ああ、決めてある」
 二人は黙々と歩き続ける。
 夜歩くのは危険だが、今晩の内に少しでも鄆城からは離れておきたかった。
 月明かりを頼りに二人は少し小高い丘の上にたどり着いた。
 宋江は立ち止まり振り返ると笠を上げ、目を凝らした。遠くに宋家村の明かりが見えた。
「すまぬ、父上」
 宋江は唇をかみしめ、目を閉じると生まれ故郷に別れを告げた。
 この先は木の生い茂る林を抜けねばならない。
 宋清を伴い林へと入った宋江は、この真っ暗で見通しが利かない道を、まるで己の人生のようだと感じた。
 横を見ると宋清が何事もないように、黙々と歩いていた。
 思わず拍子抜けした宋江は、弟の顔を見て考えた。
 己だけではない、誰もが生きてゆく先など分かるはずもないのだ。ならばあれこれ考えても仕方ないではないのか。
「どうしたんだい兄さん」
「ん、いや何でもない」
 まったく頼もしい弟を持ったものだ。
 気持ちも軽くなり、背中の荷も心なしか軽くなったような気がした。
 もう溜息をつくのはやめようと、宋江は思った。

夜雨

「しかし蔡京(さいけい)の奴め、勝手な真似を」
 童貫(どうかん)は馬に揺られながらひとりごちた。
 生辰綱強奪に関し、晁蓋(ちょうがい)らと共謀したとされる楊志(ようし)という男が、二竜山(にりゅうざん)いるという事が判明した。
 晁蓋および梁山泊(りょうざんぱく)討伐に失敗した蔡京は、今度は楊志の首を取ろうとしたのだ。
 失敗する事は許されない。そこで蔡京は国で最強の軍である禁軍の出動を要請した。
 もちろん禁軍を束ねる童貫はそれに難色を示した。
 いくら宰相の地位にあるとはいえ、己の恨みを晴らすために出動させるなど。禁軍は帝ひいては東京(とうけい)開封府(かいほうふ)を守るためにあるのだ。
 そして童貫は強く思う。なによりも禁軍はわしのものなのだ、と。
 頑として拒み続ける童貫に蔡京は囁いた。
「次の朝議で帝に申し上げるつもりだ。近ごろ太行山系の山賊どもが連合を組み、この東京開封府を狙っている、と。そやつらが大きくなる前に叩きつぶすには、禁軍の力が必要であります、とな」
 童貫は二の句が継げなかった。
 無言の童貫を尻目に、蔡京が続ける。
「今の帝は臆病な男だ。この奏上を退けるはずがあるまい」
 案の定、その奏上は通った。
 だがさすがに禁軍の出動が許可される事はなかった。
 禁軍の実権を握る高俅(こうきゅう)がそれを拒んだし、徽宗(きそう)も実のところ禁軍を都から離れさせる訳にはいかなかったのだ。
 だが蔡京の思惑通り、討伐隊の司令官には童貫が指名された。百戦錬磨の童貫であれば、失敗などございません、などと思ってもいない事を皇帝に耳打ちしたのだろう。
 兵は二竜山の近くの孟州(もうしゅう)から、地方軍である廂軍(しょうぐん)を招集する事になった。
 だが童貫も使いなれない兵たちに己一人で指揮する事は心もとなかった。童貫がそれを奏上し、禁軍から二人の配下を連れる事を許された。
 御前大将軍の豊美(ほうび)畢勝(ひっしょう)である。
 王進(おうしん)林冲(りんちゅう)という名前に隠れてはいたが、この二将の実力は相当のものであった。
 林冲などに比べ、個人での武芸は劣るかもしれない。だが、こと戦の場においては彼らの力が勝るだろう。もちろん個人の武芸の腕も大切だが戦とは集団での力をより発揮した側が勝利を得られるのだ。しかしてこの豊美と畢勝は戦場でその才能をいかんなく発揮できる軍人なのだ。
 童貫はそう思いながら先頭を進んでいた。少し後方に(くだん)の二将。
竜を模した兜をかぶっているのが飛竜将(ひりゅうしょう)の豊美。隣の虎の兜が飛虎将(ひこしょう)の畢勝である。二人は無言で馬に揺られている。
 童貫は軽く鼻から息を吐くと、手綱を握り直した。

 すでに夜は更け、あたりは闇に包まれていた。だが部下たちに松明などは持たせていない。
 夜襲である。
 ほどなく二竜山の山影が見えてきた。
 道はさらに暗くなっていたが、それでも歩を緩める様子はなかった。
 言葉ひとつ聞こえない。ただ土を踏む足音と、擦れ合う鎧の音だけが規則的に聞こえてくるだけだった。
 月がいつの間にか黒雲に覆われていた。
 畢勝が目を細め、闇の夜空を確かめている。
「童貫将軍、来ます」
「うむ」
 と、童貫が低く答えた。
 雲の中で何かが光った。
 その一瞬のち、天を引き裂かんばかりの轟音が鳴り響いた。
 びりびりと空気も、そして体も震えるくらいの大音声(だいおんじょう)だった。
 豊美の鼻に雨粒が一滴、落ちてきた。
 そして兜にもう一滴。肩に、馬の背に、手の甲に。
 やがて無数の雨粒が童貫軍に襲いかかった。
 今度は雲の中に稲妻が走るのが見えた。一瞬、あたりが昼間のように明るくなった。二竜山の山影がくっきりと浮かび上がった。
 道は徐々にぬかるみだし、息の荒れる馬もいた。
 だが行軍は止まらない。
「童貫将軍、あれを」
 豊美の示す先に明かりが見えた。
 民家か。いや、ここは二竜山の麓だ。茶屋か酒屋だろうか。
「豊美、畢勝、まずはあそこからだ」
「はっ」
 号令を発し、部下たちをその家へと走らせた。
 また空が光り、童貫の顔を照らし出した。
 宦官とは思えない、ひげを蓄えた軍神の姿がそこにはあった。

 宝珠寺(ほうじゅじ)の扉が無残に破壊されていた。
 境内からは剣戟がぶつかり合う音、そして怒号や悲鳴が入り混じって聞こえてくる。
 また一人、水溜りの中に倒れ伏した。動かなくなった体に、折からの豪雨が容赦なく降り注いでいる。
 襲い来る官兵たちを次々に切り伏せてゆく。足もとがぬかるみ、不安定であるがそれを感じさせない太刀筋であった。
 雨で濡れた髪をかきあげ、顔を歪ませる。雨の音に混じって喚声があちこちで聞こえている。
 きりが無い、楊志はそう思ったが、その場を離れられないでいた。
「よせ、お前らの敵う相手ではない」
 馬に乗った将兵らしき男がそう言って近づいてくる。虎を模した兜をかぶったその男から途方もない威圧感を感じる。
 楊志は呼吸を整え、刀を握りなおし、将兵と対峙した。
「我が名は飛虎将、畢勝。青面獣(せいめんじゅう)よ、覚悟せい」
 言葉と同時に馬が駆け出し、楊志も畢勝に向かって駆けた。
 畢勝が刀を抜き、楊志と切り結ぶ。
 きいん、という音が境内に響き、楊志は泥の中を転がって勢いを殺しつつ態勢を立て直した。そして、すぐに立ち上がり刀を構えた。
 だが楊志の手にあった刀は、その刀身の半分を失っていた。
 折れたのではない、斬られたのだ。
「さすが宝刀と呼ばれるだけはある。楊志よ、こいつの真価はお前も良く知っているだろう」
 もちろん楊志は良く知っていた。
 畢勝が手にしている刀こそ、東京で牛二(ぎゅうじ)を刺し殺してしまった刀、楊家伝来の鉄をも両断する宝刀であったのだ。
 あの時、証拠品として押収されていたはずだったが、こんな形で再び出会うとは。
「何がおかしい、楊志」
 刀を斬られ、得物を失ったはずの楊志は、我知らず笑みを浮かべていた。

 建物の中も、あちこちが破壊されていた。壁、柱、卓や椅子も竜巻にやられたかのような有様だった。
 床には官兵たちが転がっている。その多くが頭を打ち砕かれていた。
 ごう、という唸るような音の後に破壊音が続く。官兵たちが四人ほどまとめて吹っ飛び、地面に転がった。
 魯智深(ろちしん)は禅杖を地面に突き立てた。地響きのような振動が響いた。壊れかけた壁や梁がびりびりと震えていた。
「まったく、きりが無いわい」
 ため息をついた魯智深は一人の男を視界に捉えた。
 竜を模した兜をかぶっており、偃月刀を手にしている。ひと目で他の官兵とは格が違うと知れた。
「ほう、骨のありそうな相手がやっと出てきたか」
 にんまりとする魯智深に対し、その男は無表情であった。
「我は飛竜将、豊美。いざ参る」
 がきり、と偃月刀と禅杖がぶつかりあう。
 魯智深は力で偃月刀を抑え込む。しかし豊美はその勢いを利用し、円を描くように反転すると上から刃をたたき込んだ。
 紙一重で魯智深はそれをかわした。僧衣の袖が少し切れていた。禅杖を横薙ぎに払い、距離を取る。
「おいおい、こいつは一張羅なんだがな」
 魯智深は笑みを浮かべたまま袖をつまんでみせた。豊美の表情は変わることがない。 
 気合と共に魯智深が豊美に向かって駆ける。豊美は動かずにそれを迎える。十合、二十合と打ち合うがどちらも決定打にはならない。
 魯智深が剛だとすれば、豊美は柔だった。圧倒的な力を頼りに打ち込む魯智深の攻撃をうまくいなし、豊美が隙を見ては刃を煌かせる。
「なかなかやるのう」
 そう笑う魯智深の耳に、遠くの方での戦闘の声が聞こえてくる。
 自分と楊志がいるとはいえ、二竜山のほとんどは訓練された者たちではない。このままでは全滅の憂き目にあってしまう。
 魯智深は禅杖を頭上で大きく振り回した。
「お主とは別のところで会いたかったぞ」
 ふん、という気合と共に周りの壁や柱を無差別に叩き壊しはじめた。予想外の行動に豊美は困惑の表情を浮かべた。
 みるみる壁や天井が崩れ落ちてくる。巻きあがる埃に魯智深の姿が薄れてゆく。
 豊美が魯智深を追おうとするが、そこに天井が崩れ落ちてきた。豊美は反射的に飛びのいた。目を細め、手をかざすがあたり一面に埃が舞い上がっており、何も見えない。
 しばらくして視界が晴れた時、そこには瓦礫の山があるだけで、魯智深の姿はやはりあるはずもなかった。

 雨が弱まる気配はなかった。
 暗雲の中を稲妻が駆け抜ける。一瞬だけ、昼よりも明るく一帯が照らし出される。
 蒼い顔の獣がそのただ中に立っていた。
 閃光の数瞬後に響き渡った雷鳴にも怯むことなく、飛虎将に向かって駆ける。目は畢勝が手にした、元は楊志のものである宝刀に向けられていた。
 脇から現れた官兵たちが楊志に斬りかかって来た。楊志は刃が半分しかない刀でそれらを蹴散らした。
 武器のあるなしではない、単純な技量の差のみで官兵たちを斬り伏せた。
 駆けながら身をかがめ、官兵が落とした刀を拾う。そして折れた刀を畢勝に投げつけた。
 馬上で首だけを(かし)げ、畢勝はそれを避けた。
「無駄なあがきを、何度来ても同じ事だ」
 再び宝刀を構える畢勝の目の前に影が飛び込んできた。
 影は大きな槌のようなものを持っていた。
 それを大きく振りかぶると、畢勝が乗る馬めがけて打ちつけた。
 馬上の畢勝にまで響く衝撃と共に、馬が膝から崩れ落ちた。馬はすでに白目をむいており、額には穴が開いていた。
 影の持つ槌は平面ではなく尖っていて、そこに血がついていた。
「すまんな、馬よ。お前に恨みはないのだが」
 そう言って男は畢勝に向けて槌を構えた。
 稲妻が再び天を駆け抜ける。
 男の顔が雷光に照らされる。
 楊志が叫んだ。
曹正(そうせい)、無事だったのか」
 曹正は体に包帯を何重にも巻いていた。包帯が雨に濡れ血が滲み、まるで全身が血に濡れているかのようであった。
 家畜を屠る際、その牛や羊の額を打ち抜く。操刀鬼(そうとうき)と呼ばれる曹正は屠殺にも精通しており、その体格に似合わぬ器用な男だった。先ほど畢勝の馬を一撃で倒したのはその技だったのだ。
「遅くなりました、楊志どの」
 槌を畢勝に振り下ろす曹正。
 しかし力を入れた刹那、泥に足を滑らせてしまった。体勢を崩しながらも懸命に打ちつけるが、畢勝の鼻先をかすめ、槌は地面の泥を跳ね上げただけだった。
 しまった、と焦る曹正。しかし、それで充分だった。
 楊志は、その一瞬で距離を詰めると畢勝に斬りかかった。畢勝は刀で防ぐので精いっぱいだった。
 楊志は刃ではなく斜めから刀の腹に叩きつけた。畢勝の手が衝撃で痺れた。
 さらに雨と泥で滑りやすくなっていたのか、宝刀は畢勝の手を離れ地面へと落ちた。
 楊志がそれを見逃すはずがなかった。しかし、楊志が刀に手を伸ばそうとした、その時だ。曹正が地面に膝をついた。顔色は青白くなっているようで、すでに腕は力を失い槌は泥の中で雨に打たれていた。
 楊志は伸ばした手の向きを変え、曹正の体を支えた。巨体の重みがずしりと腕にのしかかる。
「しっかりするんだ、曹正」
 楊志は曹正の腕を取り、自分の肩に回す。下から曹正を持ち上げるようにして、宝珠寺の本堂へと駆け出した。
 畢勝は刀を拾おうとしたが、手がまだ痺れておりうまく握ることができなかった。
 泥の中で立ち上がり、部下たちを集めた時には、すでに楊志と曹正の姿はそこになかった。

 本堂の奥に隠し通路があった。
 鄧竜(とうりゅう)からこの二竜山を奪った後、曹正が見つけたものだ。
 鄧竜の部下だった者も通路の存在は知らなかったようで、どうやら宝珠寺が建立された時には、すでに作られていたと思われた。
 気を失っている曹正を魯智深が担ぎ、生き延びた配下の者たちが続いてゆく。殿(しんがり)を楊志が務め、先頭は松明を持った曹正の義弟が進む。
 寺側からの通路の入り口はすでに壊してきており、追ってこられる心配はなかった。こういう場合のために、と曹正が工夫していたものだった。
 曹正の義弟が魯智深と楊志に向けて詫びた。
 童貫の軍勢は夜陰と豪雨に乗じて攻めてきた。見張り役でもあり、官軍が攻めてきたならばすぐに二竜山に連絡をしなければならない曹正だったが、その間も無く突然襲われたのだ。
 曹正の店は普通の居酒屋である。二竜山の頭領である魯智深、楊志と親交があるが、それは知る人ぞ知る話だ。
 しかし童貫は何の確証もなく躊躇(ためら)いもなく、曹正の店を襲った。
 虎が獲物を狙うのに、邪魔な枝を払うかのように、当然のことだと言わんばかりであった。
 曹正も店の者も必死に抵抗した。だが曹正は負傷し、店は破壊され燃やし尽くされた。
 何とか隠れた曹正の妻と義弟とが曹正を介抱し、この通路を逆にたどり宝珠寺へと向かったのだ。
 その頃には、童貫軍は二竜山を登り、宝珠寺を攻撃していた。そこに曹正が到着し、義弟を待機させ、楊志と魯智深の救出に飛び出したのだった。
「これからどうするんだ、青面獣よ」
 よっと、と曹正を背負いなおし魯智深が尋ねた。もうすぐ二竜山の裏手に出る。曹正の店があった場所の近くだ。
「うむ、すこし遠いのだが行く当てはない事もない。まずは雨がやむのを待ち、体を休めようではないか」
 そう言って前を歩く魯智深や配下たちを見ていると、ふと目の前に数か月前の自分が見えてきた。
 黄泥岡(こうでいこう)を必死に登る部下たちを鞭で追いたて、檄を飛ばす。休みたいと訴えてきても、許さなかった己の姿がそこにあった。
 誰もわかっていない。自分だけが必死に頑張っていると思っていた。
 それは違った。わかっていなかったのは自分だったのだ。周りの者の事を考える余裕すらなかったのが実情だったのだ。
 楊志は己が言った言葉を思い返した。
 雨がやむのを待ち、体を休めよう。
 ふ、と笑ってしまった。
 あの頃ならば、雨が降っていようと歩き続けろ、と言っていたのだろうと。
 そしてあの時、畢勝が落とした宝刀に手を伸ばした時、その手は何の迷いもなく倒れる曹正を支えたのだ。
 職を失い、地位を失い、宝刀を失い、そして命をも失いかけた。
 だがこの二竜山で多くのものを得た。共に苦労し、笑い合う仲間。人は決してひとりでは生きていけぬのだと楊志は、やっと気づく事ができたのだ。
 何故かふと、梁山泊で出会った林冲の顔が浮かんだ。
「外です」
 と、曹正の義弟が告げた。一行は出口付近で休むことにした。夜が明けるまでには時間がありそうだ。
 雨はまだ降っていたが、少しだけ雷鳴が遠のいたようだった。

 宝珠寺の本堂に童貫がいた。かつて鄧竜が座していたあたりに床几を持ち出し、そこに腰をおろしていた。
 童貫が来たのは先ほどだった。それまでは寺の外に幕屋を張り、雨をしのぎながら戦況を見据えていたのだ。
 そしてすべてが終わり、宝珠寺が静寂を取り戻した頃、童貫は重い腰を上げた。
 思っていたよりも損害が大きいようだった。だが己の軍ではない、それほど気にする事ではなかった。
 ただ豊美と畢勝がいながら、楊志の首を取れなかったのが悔やまれる。
「申し訳ございません、童貫将軍」
 二人もそれはわかっているようで、これ以上責めても仕方あるまい、と童貫も思った。
 撤収の準備にかかろうとした時である。一人の兵が慌てて注進に来た。童貫は面倒くささそうにしていたが、報告を聞いて思わず立ち上がっていた。
「さっさと案内しろ」
 その兵が先に立ち、奥へと進んでゆく。畢勝、豊美もそれに続いた。
「こちらです」
 案内された部屋を見て、童貫は目を丸くした。
 そこには宝石や骨董の(たぐい)、また金や銀がうず高く積まれていたのである。
「やはり、楊志が強奪犯だったのか。でかしたぞ」
 童貫は財宝の照り返しを受けながら満面の笑みを浮かべていた。

 翌日は快晴だった。童貫らは見つけた財宝をを取りまとめ、孟州を経由して東京へと戦利品を搬送した。
 それは二竜山を陥落させた手柄、そしてさらに生辰綱まで取り戻した、という凱旋の行軍だった。
 童貫は騎馬で先頭を行き、左右に竜虎の将軍、豊美と畢勝を引き連れている。実に堂々たる行軍だった。 
 もっとも、押収したのが実は昨年の生辰綱で、それも鄧竜が強奪したものであるという事実は誰も知る由もなかったのだが。
 そして中央に押し出だす荷車は煌びやかに飾られ、真新しい旗が立てられていた。
 そこには大きくはっきりと、生辰綱、という文字が躍っていた。
 東京で喝采に迎えられながら、馬上の童貫は満悦顔だった。
 これで蔡京も大きな顔はできまい。決して精鋭とはいえぬ軍を率いてのこの功績で、皇帝の覚えもめでたいはずだ。これで己の地位と名誉はまず安泰となった。
 さらに功績を加えるため、ついでに太行山系の他の山賊ども、桃花山(とうかざん)とかいったか、も殲滅してやろう。
 さして大物はいないと聞いているから、そこも攻め落とすに苦労はあるまい。そうすればますますわしの評価は上がることになろう。
 馬上でこみあげる笑いを噛み殺す童貫。
 その姿は、やはり狡猾でしたたかな宦官そのものであった。

遭遇 一

 想像していたよりも普通の男だ、と柴進(さいしん)は思った。
 この東の別荘に、宋江(そうこう)が訪ねてきたと聞いた時、柴進は自ら戸口まで迎えに出た。及時雨(きゅうじう)とまで言われるほどの人物に失礼があってはならないと考えたからだ。
 だがそこにいたのは、いかにも役人という風情の小男だった。共に来た男、弟の宋清(そうせい)といったか、そちらの方が逞しい体つきをしていた。
 いささか拍子抜けした感のある柴進だったが、ともかく二人に着替えを渡し、客間で待つ事にした。しばらくのち着替えを済ませた宋江と宋清が入って来た。下男が酒食を運び、三人は杯を交わした。
 謝意を示しながら、宋江がここに至った経緯を話してくれた。
 なるほどひどい目に会ったものだ。逃がしてくれた都頭の朱仝(しゅどう)という男にも興味がわいた。弟の宋清は黙って二人の会話を聞いており、時おり頷くだけだった。
 宋清にも、鉄扇子(てっせんし)という渾名(あだな)があるそうだ。
 大きな鉄扇で雨を降らせる鉄扇仙(てつせんせん)に由来しているという。宋江が恵みの雨、及時雨と呼ばれている事にちなみ、正直で勤勉なその弟にも、と村の誰かがつけたものらしい。
 はにかみながら、自分などにはもったいない渾名です、と言った宋清の顔は朴訥な農夫そのものだった。
 柴進も酒が進み、少し饒舌になって来たようだ。
 先の冬、林冲(りんちゅう)が訪れ、洪教頭を討ち負かした事を自分の手柄のように話し、下男に紛れさせて(せき)を越えた話を笑いながら語った。
 宋江は思う。なんと危ない事をするものだ、と。結果的に上手くいったから良いものの、一歩間違えれば林冲は捕えられていたのだ。
 丹書鉄券(たんしょてっけん)というお墨付きを持ち、不可侵が約束されているからこその大胆さなのか、宋江はそれとなくたしなめたが柴進はそれも笑い飛ばすようだった。
 酒が進み、宋江は小用のため中座した。秋も終わりに近づき、肌寒い時節だ。
 柴進の自慢話を思い出し、いつか痛い目に会わなければよいが、と手をさすりながら歩いていると、廊下の先に何者かが座っているのが見えた。
 中庭に向かい胡坐をかき、提げ火鉢を足元に置いている。目を半眼にし、どこか座禅でもしているような雰囲気だった。
 宋江はその男に興味を持ち、話しかけてみた。
 男はうっそりと目を開き、宋江を一瞥すると再び半眼になった。
 失礼しますよ、と宋江は男の隣に腰を下ろした。座ると宋江の頭が、男の肩あたりにあった。
 大きな男だ。腕は太く硬そうな筋肉で覆われ、血管が何本も浮き上がっている。腿のあたりにおかれた拳は異様だった。使い古された表現だが岩のようで、宋江と比べて倍ほどはあろうか。
ひとかどの豪傑に違いない。柴進の屋敷にいる者は、自分も含め、大抵は訳ありの者たちなのだ。
「すっかり涼しくなりましたな」
 宋江の言葉に、涼んでいるのだ、と顔を動かさずに男は答えた。野太いが芯の通った声だった。
 静かな夜だった。流れる雲の音さえ聞こえてきそうだった。
「人を殴り殺してしまった」
 ぽつりと男が話し始めた。
 男は清河県(せいかけん)の出だという。
 生来体が大きく、喧嘩にも負けた事がなかった。対照的に体の小さい兄をいつも助けていたほどだったという。性格も兄とは反対で、男はいつも暴力的な解決を好むようになっていた。
 これではいけないと考えた兄の勧めもあり、男は崇山(すうざん)へと入山した。力を持て余していた男にとって、それは水を得た魚だった。めきめきと腕を上げ、敵う者のないほど強くなっていった。
 しかし兄は、技よりも心を鍛えて欲しいと願っていたのだ。己の腕に慢心した男は、はからずも師に、心が鍛えられていないと喝破された。
 ある日、街で用事を済ませた男の肩に、役人がぶつかって来た。役人は自分の否を認めず、男に謝れと詰め寄った。
 虫の居所が悪かった。
 拳一発で役人は吹っ飛び、動かなくなった。
 修行で得た技を素人に用いてはならない、という掟を破ってしまった。
 男は逃げた。崇山にも戻らず、兄に別れも告げず、この柴進の邸宅へ一年前に流れてきたのだという。
 しかし最近、その役人が死んではいない事が判明した。罪に問われぬと知り、男は兄を尋ねようと考えていると言った。
 それが良い、と宋江は言った。
 宋江も身の上を男に話して聞かせた。
 閻婆惜(えんばしゃく)が殺され、濡れ衣を着せられた事。父や朱仝、唐牛児(とうぎゅうじ)のおかげで捕えられずに、ここにいる事。
 話すうちに宋江も改めて思い出し、彼らに感謝をし涙を浮かべた。酔いで涙もろくなったようだ。
「あんたみたいな役人もいるんだな」
 と、男は微笑んだようだった。
「及時雨の宋江という役人も、えらく大人物らしいな。俺の故郷でも噂は広まっていたよ。一度、会ってみたいものだ」
 そういう男の言葉に、そうですか、と宋江は困った様な顔をした。
「俺の兄貴も役人には随分いじめられていた。なあ、おかしくはないか、この国の役人どもは腐っちゃいないか。役人のあんたに言うのもおかしな話だが」
 ぐい、と男は胸元で拳を握りしめた。
 無数の傷で覆われた異形の拳が、めりめりと音を立てているようだ。
「もちろん暴力はいけない、わかっちゃいるさ。だがこの力を正しく使ってくれる奴に会いたいのだ」
 国が腐っている。
 国を否定する危険な考えだ、と少し前の宋江なら思ったかもしれない。
しかし追われる身となり、分かった事があった。あれほど尽くしてきたと思った国も上官も、宋江を救ってはくれなかった。手を差し伸べてくれたのは父であり、朱仝であり、損得ではなく義によって結ばれた人々なのである。
 宋江自身、困っている人々を何とかしてやっていたが、役人とはいえ胥吏(しょり)の身にすぎない。官職ではないのだ。つまるところは庶民同士が、官職の横暴から互いを支え合っていたにすぎないのだ。
 晁蓋(ちょうがい)が頭領になったという梁山泊(りょうざんぱく)も、元は重税や横暴に耐えかねた人々が寄り集まってできたものだ。さらに各地でも次々と大規模な集団ができつつあり、地方軍を圧倒する勢力まであるのだという。
 国のあり方に関わる問題に宋江は、そうかもしれませんね、と答えるにとどまった。
「ところで」
 と宋江が男の名前を聞こうとした時だった。
 男が目を見開き、ぶるぶると震えだした。両の拳は血の出んばかりに握りしめられ、歯の根も合わぬほどがちがちと震えている。
 一体何事だ。発作か。
 目が白目を向いた。
 熱い。熱があるようだ。
 宋江は袖を引きちぎると、男に何とか咥えさせた。舌を噛み切らないようにするためだ。
(せい)、清はいるか」
 宋江は客間の方に向かって叫んだ。男はまだ震えている。
 宋清が駆けてきた。
「どうしたんだい、兄さん」
「一体どうしたのです」
 下男に提灯を持たせ柴進もやって来た。
「柴進どの、話をしていたらこの男が急に震えだして」
 柴進は震える男を見た。
 その拳を見て、柴進は思い出した。
 一年ほど前にやって来た男だ。はじめは丁重に扱っていたが、一向に出て行く様子もなく、なにかと己の力を自慢するようなところがあったので、次第に扱いもおろそかになっていった。男もそれに気付いたのか出て行こうとしたのだが、その矢先に病にかかり、結局いままで逗留していたのだ。
(おこり)だ。その男は(おこり)にかかっていたのだ。良くなったと思っていたが、まだ完治していなかったのか」
「なるほど瘧ですか。清よ。あれを、父に預かったあれを持って来い」
 宋清はすぐさま荷物のある部屋へと駆けて行った。
 柴進は、もうすぐだ頑張るのだ、と男を励ます宋江を黙って見ていた。
 自然は人間を区別したりしない。
 厳しい冬も、芽吹きの春も、実りの秋も誰の元にも訪れる。
 雨も誰の上にも等しく降り注ぐ。
 貴賎、年齢、身分の差を問わず等しく降り注ぐ。
 無私、なのだ、この宋江という男は。
 己の力を鼓舞する者を好まないと自負する柴進も、少なからず彼らと同じであったようだ。
 恵みの雨、及時雨という渾名の本当の意味を、柴進はやっと理解した。

遭遇 二

 朝靄の中、雀たちが鳴き交わしている。
 夢うつつでそれを聞いていた宋江(そうこう)は、側に人の気配を感じた。
 夢なのか、と思いながらゆっくりと目を開けると、やはりそこには一人の男がいた。座しているが大きな男だとひと目で分かった。
「お目覚めですか。昨晩の一件、感謝してもしきれるものではありません」
 昨晩の件。記憶をたどる宋江。
 そうか目の前にいるのは、昨晩廊下で出会った男だ。
 宋江は昨晩の事を思い出した。

 宋清(そうせい)がほどなくして戻って来た。手に小さな袋を提げている。
 宋江は受け取ると、廊下に中身をぶちまけた。大小様々な紙に包まれたものだった。
 紙の表面には文字が書かれていた。提灯の明かりを頼りに宋江はひとつの包みを探し当てた。
「これだ」
 その包みには(おこり)と書かれていた。どうやら薬のようであった。
 宋江は男の頭を膝に乗せ、猿轡(さるぐつわ)を外して包みを口元へと近づける。
 す、と宋清が竹の水筒を差し出した。
 水が必要であったか。宋江は薬の事にばかり気が向いていたが、ぬかりなく水まで用意してくるとは。つくづく良い弟を持ったものだ。
 薬を何とか飲ませ、男は柴進(さいしん)の下男たちに運ばれて行った。
「効くと良いのだが」
 宋江は額の汗を拭い、一息ついた。
 そして安心したのか、旅の疲れなのか、宋江はそのまま崩れ落ちるように眠ってしまったのだ。
「それで体調は」
 と言い、宋江は男の顔を見た。
 朝の光の中、にこやかに微笑む男の顔は健康そのものに見えた。
 父のくれた名医の処方薬とやらが、早速役に立った。本当に感謝してもしきれない思いだ。
「いただいた薬が効いたようです。貴重なものだったのでは。お礼が言いたくて、失礼とは思いながらもここでお目覚めを待っておりました」
 本当にありがとうございます、と男が頭を下げた。
 宋江は慌てて起こすと、朝飯でも一緒に食べよう、と部屋を出る事にした。

 男は武松(ぶしょう)と名乗った。
 改めて見ると肩幅が広く眉も太く、無造作に伸ばしている長髪だったが、それが似合う野性味のある男だった。
「それで、故郷へ帰ると聞いたが」
 朝食の席を共にしていた柴進が尋ねた。
「はい、この方のおかげで病もすっかり治りましたし、兄に無事な姿を見せてやりたいと思います」
 そうか、と言いながら柴進は思う。
 この武松、これほど礼儀正しい話し方もできたのか。拳に頼るばかりの無頼者と踏んでいたが。と、今まで邪険にしてきた事を悔いはじめた。
 男は続ける。
「だが、その前に鄆城県(うんじょうけん)へ立ち寄ろうと思っております」
「鄆城県に何か用かね」
 宋江が箸を止め、尋ねた。
「はい、及時雨(きゅうじう)の宋江さまに会いに行くつもりです」
 その言葉に、宋江と柴進は顔を見合わせた。
 宋江どの名乗ってないのですか、と柴進の目が語っている。宋清は黙って汁をすすっていた。
 何故か、と聞くと宋江は天下に名だたる好漢だからだ、と武松は言う。
「そんな大げさな者ではない。噂が独り歩きしているだけさ」
 宋江の言葉に、男が吼えた。
「何だと。あんたは命の恩人だが、宋江さまの事を悪く言う奴は承知しないぜ。あんたは、あの人の何を知っているんだ」
 拳で卓をたたき、今にも襲いかかってきそうな勢いだ。
「何を、と言われても」
 口ごもる宋江に、柴進が助け船を出した。
「武松よ、この方が及時雨の宋江どの、その人なのだよ」
 武松は何を言われたのか必死で考えている様子だった。目を見開き、ぴくりとも動かない。
「あんたが、宋江さま、なのか」
 やっと言葉を絞り出した武松に、本当です、と宋江が答える。
「なんという奇縁だ、まさかここで出会えるとは思ってもいませんでした」
 武松は言うやいなや、椅子から飛びおり平伏してしまう。またもや慌てて引き起こす宋江。
 しかし、まさに奇縁と言うほかないのかもしれない。
 もし自分が宋家村(そうかそん)から逃げてここへ来なければ。もし武松が病にかからず旅に出ていたら。
 そう考えると人生の廻り合せに縁以上の何かを感じてしまうほどだった。

 その後、病の再発を危惧し、武松は幾日か柴進宅に逗留した。しかし怖れていた再発もなく、いよいよ出発の運びとなった。
柴進と宋江、宋清が門の前で見送っていた。
「柴大官人にはお世話になりました。ありがとうございます」
 武松は拱手して、別れの言葉を告げる。柴進も、達者でなと言い、餞別に銀子(ぎんす)を渡した。
「宋江どの、宋清どのにもお会いできて光栄でした」
 同じく拱手すると、力強く向きを変え故郷への道を歩き始めた。
 武松が門を出て、見えなくなると、
「柴進どの、ちょっとそこまで送ってきます」
 宋江が後を追いかけて行った。宋清も、私も、と行ってしまった。
 残された柴進は、午後から狩りにでも行こうかと思った。
 だが、すでに大きな獲物を逃してしまった。武松という、大きな獲物を、だ。
 目の前にいたのに、気がつかなかった。気がつく事ができなかったのだ。不機嫌で手のかかる山猫は、実は爪を隠し眠っていた虎だったという訳だ。
 やはり、狩りはやめた。
 柴進は、宋江が戻って来たら一緒に酒でも飲もうと決めた。

 自分が断らなければ、宋江たちはどこまで見送るつもりだったのだろうか。下手をすると旅路にまでついてきてもおかしくはない感じだった。
「旅のご無事を」
 と、宋江が別れ際に言っていたのを思い出す。罪を着せられ逃亡中の身でありながら、なお人の無事を祈るとは。よほどの馬鹿か、よほどの大物かのどちらかだ。
「兄貴がもう一人、できちまったな」
 別れの際、宋江と武松は義兄弟の契りを交わしたのだ。武松はもう一人の、本当の兄を思い浮かべた。
「しばらく顔を見せてなくてすまなかった。だが、良い土産話ができたな」
 時おり吹く北風を苦にする事なく、武松は軽快に旅路を進んでゆく。
 黄河を渡り、南へ向かう。兄は心配しているだろうか。元気に過ごしているだろうか。
 武松はそれから幾日か旅を続け、陽穀県(ようこくけん)へと入った。鄆城県の南西、東京(とうけい)開封府(かいほうふ)から北に位置する県であった。
 ここの景陽岡(けいようこう)という山を越えると、そこが清河県(せいかけん)だった。だが県城まではまだ距離があり、どうしたものかと思案する武松の前に一件の居酒屋が姿を現した。
 時分は昼どき。そう言えば、ここしばらく酒も飲んでいなかった。
 思い出すと急に恋しくなるのは、人も酒も同じだった。
 前祝いだ、と武松がごくりと喉を鳴らすと、腹の虫も大きく鳴いた。

遭遇 三

 喉がひりつくくらい強い酒だった。
 だが口あたりが良く、あとに残る芳醇な香りが、食欲をそそる。
 牛肉を甘辛く煮たものを頬張り、酒を喉に流し込む。
 武松(ぶしょう)はあっという間に二杯空けると、亭主に三杯めを注がせた。それを一気に飲み干し、肉をたいらげると唸るように言った。
「ううむ、このような所にこれほどの酒があったとは」
 空いた杯をしげしげと眺め、亭主に酒と肉のお代わりを告げた。すぐに肉の皿が運ばれてきたが、なかなか酒が来ない。客はほかにあまりおらず、忙しい風でもない。
 武松は痺れを切らし、亭主を捕まえた。
「おい、酒はまだか。美味い酒ではないか、早く飲みたいのだ」
 そう言われ、亭主は礼をすると言った。
「ありがとうございます。この酒はうちの自慢でして、ですがもうお出しできないのです」
「どういう事だ、酒がなくなったのか」
「いえ、この酒はもうお出しできないのです。他のならばお持ちしますが」
 俺はこの酒が飲みたいのだ、と掴みかからんとする武松に亭主がおそるおそる尋ねた。
「店先の(のぼり)をご覧になってないのですか」
 眉間に皺を寄せる武松。そういえば何やら幟に書かれていた気がするが、よく見もせずに店に入って来たのだ。
 亭主が改めて教えてくれた。
 酒の名は透瓶香(とうへいこう)、香りが瓶を透りぬけてくるほどという意味だという。そしてまたの名は出門倒(しゅつもんとう)、三杯以上飲むと門を出た途端に倒れてしまうほど強い酒だからなのだという。
 なるほど確かに強い酒ではあるが、門を出た途端に倒れるなど、武松は信じられなかった。例えそうであっても、これほどの銘酒には滅多にお目にかかれまい。三杯で我慢などできるはずもなかった。
 どうしても飲みたいのだ、とつめよる武松。酒を誉められた亭主はまんざらでもなく、しかも武松の顔色も変わっていない様子を見て、ついに折れた。
 あと少しだけですよ、ともう三杯注いでやった。
 武松は肴をつまみながらそれを飲み干すと、銀子(ぎんす)(ぎんす)を卓に放り出した。
「これでありったけ持って来てくれ、金は足りるだろう」
 亭主は止めるが、武松は吠える。
 酔っぱらいを怒らせるのが怖いことは亭主も重々承知。この太い腕で暴れられたら、誰が止められよう、と結局あるだけ酒を飲ませてしまった。
「いやあ、美味い酒だった」
 と武松は言うと、やにわに荷物と護身用の棍棒を提げ、店を出ようとした。それを亭主があわてて止める。
「お客さん、いったいどこへ行くんです」
「どこって、俺は陽穀県(ようこくけん)へ行かなきゃならんのだ。今日中には景陽岡(けいようこう)を越えられるだろう」
「もうすぐ日も暮れます。お客さんがいくら酒が強くたって、無茶ですよ」
 これを見てください、と亭主が一枚の紙を差し出した。それはお上の布告文の写しで、こう書かれてあった。
 近頃、景陽岡に夜になると白額(しらびたい)の巨大な虎が出没し、すでに三十人ほどがその虎に殺されている。そのため旅人に夜間の通行を禁じており、昼でもなるべく多くの者と一緒に峠を越えるように。
「今日はここに泊まって、明日の朝でも他の者と連れだって行った方が良いですよ」
 と亭主が親切に言ってくれたが、武松は酒で気が大きくなっていたせいもあり、その提案を蹴った。
「この峠は昔から何度も通っているが、虎の話などついぞ聞いたことがないわ。心配するな、そんな虎とやらは俺が返り討ちにしてくれる」
 わはは、と笑いながら武松はついに出て行ってしまった。
 亭主は卓を片づけながら、ため息をついた。
 まったくどっちが大虎だ、と暮れゆく景陽岡を心配そうに見つめていた。

 日はすでに落ち、峠の景色も見ることができなかった。もっとも今の武松では、昼だとしてもそれを楽しむことができなかったであろう。
 出門倒とはよく言ったものだ。武松がふらふらと坂道を歩いている。持っていた棍棒を杖代わりにしていた。
 店を出て、峠の入り口にさしかかるとお上の印が押された高札が立っていた。亭主が見せてくれたのと同じ内容だった。
 本当だったか、と店へ引き返そうとも考えたがやめた。大言を吐いた手前、武松の矜持がそれを許さなかった。あとで思い返すと本当に小さな矜持だったのだが。
 ともあれ武松は何とか峠を登っていった。しかし登るにつれさらに酔いが回り、体が熱くなってくる。
 すでに十月だというのに、武松は熱さに胸をはだけ汗をかいている。するうち強烈な睡魔が武松を襲った。
 必死に耐えながら、武松はふらふらと雑木林へと入って行った。そこには大きな青石がひんやりと涼しげに佇んでいた。
 武松が倒れこむようにその石に抱きつき、頬にその冷たさを感じた時だった。
 一陣の怪風が背をかけ抜けた。
 背が一斉に粟立(あわだ)ち、一瞬で汗が引いた。
 気配の方を向くと、そこに虎がいた。
 風と共に現れたかのように、いつの間にか、すぐそこに虎がいた。
 大きな虎だった。常人を凌ぐ体躯の武松が小さく見えるほど、その虎は大きかった。
 虎と目が合っていた。
 武松の酔いは一気に醒め、恐怖よりも冷静さが心を支配していた。
 どれくらいそうして見つめあっていたのだろう。
 前触れもなく虎が跳んだ。
 鋭い爪が武松を狙っている。巨大な釣針にも似たそれは、牛の皮でも簡単に引き裂いてしまいそうなほどだ。
 剥き出しにした歯も見えた。爪よりもさらに凶悪なそれに喰らいつかれたら最後、骨さえも粉々に噛み砕かれてしまうだろう。
 足が(すく)むことはなかった。
 自分でも驚くほど冷静に、襲い来る虎を仔細に観察し、駆けた。跳びかかる虎の下をくぐりぬけ、背後に回った。棍棒を持つ手に力を込める。
 着地した虎が、そのまま後ろ脚を蹴り上げた。爪が突っ込みかけた武松の胸を引っ掻いた。着物が鋭利な刃物で切られたようになり、胸に幾筋か血がにじんだ。
 危なかった、と思う間もなく横から風を感じた。
 武松は踏み込んだ足に力を入れ、後方へと跳んだ。そこへ横薙ぎに払われたのは虎の尾だった。女の太腿ほどもある尾が唸りをあげ、鞭のように通り過ぎた。
 虎が吠え、武松の方へ向き直ろうとする。
 いまだ、と武松は棍棒を虎の頭めがけて振り下ろした。
 がつん、という音が峠に響いた。
 武松の手には半分に折れた棍棒があるだけだった。暗くてよく見えなかったか、頭上の枯れ木を打ってしまったのだ。
 その隙に虎は体勢を立て直し、再び武松に狙いを定めた。
 それでも武松は冷静であった。
 一瞬だけ、崇山(すうざん)の師の顔が頭をよぎった。
 武松は折れた棍棒を投げ捨てると両の拳を握り、虎をじっと見据えた。呼吸を整え、半身(はんみ)に構える。
 風の音が聞こえる。風に揺れ、擦れる葉の音がわかる。ころろ、という虎の低い唸りが耳に届く。
 牙をむき、虎が低い姿勢になる。前脚そして後脚で土を蹴り、一気に跳躍した。十本の鈎爪が武松に向かう。
 武松はその一連の動きをはっきりと捉えていた。何もかもがゆっくりと見えた。
 武松はあせらずその場で反転し、虎の爪をかわした。虎の頭が右脇のそばを通り過ぎようとする時、武松はその太い首を抱え込んだ。さらに体重を乗せ、気合とともに虎を地面に押し倒した。
 丸太でも抱えているような太い首だった。
 渾身の力で締め上げ、左の拳を高々と上げた。おお、という雄叫びを上げ、その拳を虎の額へと打ち込む。
 虎は一瞬、悲鳴をあげたが大きな体を動かし、何とか武松の束縛から逃れようもがく。太い尾を振りまわすが、首元の武松には届かない。
 それにかまわず武松は拳を何度も打ちつけた。
 二発、三発。
 十発、二十発、三十発。
 七十発ほどだったろうか、虎の額の奥で割れたような音が聞こえた。
 見ると虎の目から血が流れ、口から泡を吹いていた。両脚がぴくぴくと痙攣し、尾はぐったりと地面に垂れている。
 そこではじめて殴るのをやめた。拳は虎の血で真っ赤に染め上げられていた。
 ゆっくりと虎から離れ、肩で息をする。虎は恨めしそうな目で武松を見ていたが、やがて動かなくなった。
 武松は吼えた。
 景陽岡中に響き渡るほどの声で吼えた。
 麓では、それを誰もが虎の咆哮だと恐ろしがっていたという。

遭遇 四

 景陽岡(けいようこう)の虎が退治された。
 その噂を聞きつけ、我先にと人々が集まってきていた。
 その虎は五、六人でやっと担げるくらいの大きさで、亡骸を見ただけでも子供は泣き出し、大人でさえも恐怖を禁じえないほどだった。
 武松(ぶしょう)は仕留めた虎を担いで峠を越えようとしたが、さすがにそれはできなかった。
 どうしようかと虎の傍らで休んでいると、地元の猟師たちが現れた。倒れている大虎と武松を見つけた彼らが麓から人を呼び、虎を運ばせたのだった。
 脚からは鋭い爪が出たままで、口からも大きな牙がのぞいていた。この爪と牙で一体どれだけの人間を喰らってきたのだろうか。人々は恐怖を感じると共に安堵していた。
 虎の少し後ろの(かご)には、窮屈そうに大きな男が乗っていた。人々は虎を、そして退治したというその男をひと目見ようと集まっていたのだ。
 道の両側は老若男女が七、八十人は集まっており、誰もが英雄だ英雄だと褒めそやしている。武松は何だかむず痒い思いだった。
 昔からこの拳で人を傷つけてばかりいた。だが奇しくも虎を退治したことにより、英雄と呼ばれることになろうとは。
 轎に揺られながら武松は拳を見た。
 拳には虎の血が乾いてこびりついたままだった。
 
 翌朝、知県からの使者が迎えに来ていた。
 武松は地元の金持ちの歓待を受け、一晩そこに泊まっていた。武松はのっそりと起き上がると金持ちに礼を言い、使者とともに知県の元へと向かった。
「このたびの虎退治の件、この陽穀県(ようこくけん)を代表して礼を言わせてもらう」
 知県は武松の顔を見るなりそう言った。
「誠に恐縮の至りです。今回は運が良かっただけでございます」
 武松は拱手してそれに答える。武松が組んだ手をしげしげと眺め、唸るように知県が言う。
「その拳で、虎を打ったのだな。大した豪傑よ」
 黙る武松を尻目に知県は続けた。
「そこでと言ってはなんだが武松よ、お主の功績を見込んでこの街の都頭として取り立てたいのだが、どうかな」
 思わず知県を見る武松。笑みを浮かべる知県の目は真剣だった。
 だが、武松はふと兄の顔を思い出した。
「知県さま、お申し出は大変ありがたいのですが、私は清河県(せいかけん)へ帰るところでして」
 と事情を説明する武松。
「そうか、しかし私はお主の力をぜひとも頼りたいのだ。清河県は目と鼻の先だ、少したったら暇を出そう、その時に兄に会いに行けば良いではないか。虎退治の勇名だけではなく、都頭になったと言えば、お主の兄もさぞ鼻が高いだろうて」
 知県のその言葉に武松の心が揺れた。
 兄には迷惑ばかりかけてきた。故郷へ戻っても仕事の当てがあるわけではない。ならば都頭の職に就き、自立している姿を兄に見せ、安心してもらうのも良策だ。
 そう決めると武松は顔を上げ、都頭となることを告げた。
 さらに武松には虎に懸けられていた一千貫の賞金が与えられた。しかし、武松はそれを地元の猟師たちで分けてもらうことにした。
 おかしなものだ、と武松は思った。
 本来粗暴であり、揉め事ばかり起こしていた己にこんな丁寧な言葉遣いができたとは。
 それに賞金の件も不思議だった。素直に、これまで苦労してきた猟師たちに還元しようと思ったのだ。
 無私。武松は思わず宋江(そうこう)の事を思い浮かべた。良い出会いは一瞬にして人生を変えるというが、これも彼に出会ったおかげなのか。
 ともかく知県はますます武松を気に入り、陽穀県の人々からも絶大な支持を得ることになり、陽穀県中に武松の名は広まることになった。

 ある昼下がり、武松は役所から出てぶらぶらと通りを歩いていた。道行く人々が気さくに声をかけてくれる。武松も笑顔でそれに応える。
「おい()都頭、このたびはえらく出世しやがったなぁ」
 その言葉に武松が振り返ると、一人の男が立っていた。
 背が低くずんぐりとしており、色が浅黒く人の良さそうな顔をしていた。武松は思わず声をあげていた。見まごう事も忘れるはずもない、目の前にいる男こそ、武松の兄であったのだ。
「兄さん」
 と、叫び武松は平伏していた。これまで兄にかけた迷惑の数々が思い起こされた。
「一年近く連絡もせずに、すみません」
「こんな道の真ん中でやめろよ、起きなってば(しょう)。確かにお前がやらかした事でだいぶ迷惑はかけられたが、そんな事で恨んじゃいないよ。ほら」
 兄はそう言って武松を立ち上がらせる。何と言って良いのかわからない武松に、兄が微笑んだ。
「せっかく久しぶりに会えたんだ。お祝いに一杯やろうじゃないか。よい酒を手に入れたんだ」
 そう言って酒瓶を見せた。
 武松は見覚えがあった。
 景陽岡の麓で飲んだ、透瓶香(とうへいこう)またの名を出門倒(しゅつもんとう)というあの酒だった。
 はは、と武松が笑い、兄も笑った。
 今日は倒れるほど飲んでやろうと、武松は思った。

 降り積もる雪を眺めながら、宋江がひとり窓辺に佇んでいた。
 弟の宋清(そうせい)は先日、鄆城県(うんじょうけん)の家へ帰らせた。残してきた父と宋清の家族が心配だったからである。
 そのついでにではあるが、宋清にはその後の情勢を手紙で知らせてくれるように言ってあった。
 宋江は手にした手紙をもう一度、広げた。
 宋清からのものではなかった。
 かつて宋江の元へおしかけ弟子にやって来た兄弟からの手紙であった。閻婆惜(えんばしゃく)にもそんな話をしたな、と思い出し胸が苦しくなったりもした。
 ここにいる事が世間に広まっているのか、彼らが柴進(さいしん)の宅へ送ってきた手紙だった。そこには、ぜひ彼らの家へ来てほしいという旨が書かれていた。かつての恩返しをしたいというのだ。
 彼らの住まいはここから西にあたる青州にあった。柴進までとはいかないが、父親がひとかどの金持ちで、その兄弟たちは暇があれば各地の好漢たちと知り合おうとしているという。
 その中にはいわゆる山賊と呼ばれる者たちも含まれており、晁蓋(ちょうがい)のいる梁山泊(りょうざんぱく)はもとより、生辰綱強奪現場の近くにある二竜山(にりゅうざん)桃花山(とうかざん)などにまで手紙を送っている事が書かれていた。
 なんと危険な橋を渡るものだ、と宋江はその手紙を燭台の炎の上にかざした。
 あっという間に手紙は燃え尽き、燃えかすが黒い蝶のように舞っていた。
 一通の手紙が人の生き死にを左右することがあるのだ。
 閻婆惜の顔が頭に浮かんだ。
 次に会う時には、師匠らしい言葉をかけてやろう、そう思いながら宋江は返事を書くために部屋の外へ向かった。
 黒い蝶がまだ部屋の中で揺らめいていた。

悲愴 一

 似ても似つかぬ兄弟だった。
 弟の武松(ぶしょう)は身の丈八尺の筋骨隆々な男であり、かたや兄の武大(ぶだい)は五尺にも満たない小男だった。さらに武大は色が黒いことから、地元のごろつきどもから三寸丁(さんずんてい)穀樹皮(こくじゅひ)などと呼ばれていた。
 武大は武芸とも縁遠く、争いを好まない男だった。
 だが、武松が起こした不始末にいつも頭を下げてかばってくれていた。兄を守るつもりで、守られていたのは武松の方だったのかもしれない。武松はそんな兄のためにも、と崇山(すうざん)で技を磨くことを決意し、故郷を去った。
 しかし故郷の清河県(せいかけん)にいるはずの兄が何故この陽穀県(ようこくけん)にいるのだ。
 武大は答えた。
「実は、嫁を貰ってな」
 武松が去ってからほどなくして、だという。
 妻の名は潘金蓮(はんきんれん)といった。
 清河県の、ある金持ちの小間使いであったという。年は二十歳(はたち)ほどで器量が良く、その金持ちは彼女に手を出そうとした。しかしそれを断ったどころか、金持ちの妻に告げ口してしまった。これに怒った金持ちは嫁入り道具一式を用意し、腹いせに武大にただでくれてやる事にしたのだ。
 何の冗談かと、驚いたのは当の武大だった。丁重に断りを入れたが、嫁入り道具などはすでに武大の家に運び込まれており、さらに身寄りのない潘金蓮のことも考えると、武大は彼女を娶ることに決めた。
 美しい潘金蓮が醜男の武大に嫁いだことで、羊の肉が犬の口に入ってしまったと、ごろつきどもは暇があれば武大をからかいに来る始末。彼らの嫌がらせは日を追うごとにひどくなり、さすがにいたたまれなくなった武大は仕方なくここへ引っ越してきたのだという。
 そんな事があったのか。
「今まで迷惑をかけ通しだった。これからは俺が守るよ、兄さん」
 よせよ水臭い、と笑いながら武大は家へと案内した。
 陽穀県の紫石街(しせきがい)に武大の家があった。戸を開け、奥へと声をかける。
「おい、帰ったよ。今日は一体誰を連れて来たと思う」
 武大の表情は本当に誇らしげだった。
「そんな大きな声を出して。一体、何の騒ぎなの。仕事はどうしたのよ」
 言いながら女が奥から出てきた。武大の妻、潘金蓮である。なるほど確かに美しい女だった。
 金蓮は武松を見ると、驚いたような顔をした。
「こいつが弟の武松さ。噂になっていた虎殺しの男とは、弟のことだったのさ」
「まあ、この人がいつも話していた弟さんなの」
 そうだ、と武大は武松を二階の客間へと案内し、金蓮に酒食の用意するように言いつける。
 だが金蓮は武大に言い返す。
「なにさ、せっかく弟さんが見えられたというのに、隣の王婆さんにでも頼めば良いじゃないの」
「そうだな、じゃあ弟のことは頼むよ」
 武大は妻の言葉に従い、階下へと消えた。
 武松は苦笑いしながら、その様子を見ていた。やはりというか、妻の尻にしかれているようだ。兄のお人好しぶりに安心する武松でもあった、
 横ではてきぱきと潘金蓮が皿や箸などを並べている。小間使いをしていただけあって、手際がよい。
 やがて武大が戻り、料理が卓に並べられた。潘金蓮が武松の杯に酒を注ぐ。透瓶香(とうへいこう)またの名を出門倒(しゅつもんとう)という地酒だ。強い香りが鼻をつき、食欲がそそられる。
 空いた杯に、また酒が注がれる。武大は一階と客間を行ったり来たり、忙しく走り回っている。
「まったく大した弟さんですこと。うちのとはまったく正反対じゃないの」
「いえ、兄さんは真面目な人なのです。私はいつも暴れまわって人様に迷惑をかけておりました。尻拭いをしてくれたのはいつも兄さんなのです」
 武松は潘金蓮に諭すようにそう言って、杯を空けた。
 武松は武大を座らせ、改めて再会を祝した。そしてこれまでの事を話して聞かせた。
 崇山での修業の事。役人を殴って殺したと勘違いしてしまった事。
 柴進(さいしん)の邸宅で尊敬する男と出会った事。そして景陽岡(けいようこう)で虎に遭遇し、図らずもそれを退治した事。
 その時、飲んでいたのがこの酒なのだと言うと、武大と潘金蓮は驚きつつも手を叩いて笑った。
 武大は本当に良かったと喜び、潘金蓮は頬杖をつき、うっとりと武松を見つめていた。
 そしてため息を一つつき、潘金蓮が訊ねた。
「そう言えば、今はどこに泊まっているんだい。来たばかりで家なんてないんでしょう」
「今は役所の一室を借りて泊まっております。身の回りの世話も従卒がやってくれてるので、不自由はしておりません」
 そうかそうか、という武大に潘金蓮が言う。
「あんた、なにぼんやりしているのさ。うちへ呼んだら良いじゃないの。じゃなきゃ、世間さまからなんて言われるかわかりゃしないわよ」
 は、と気づく武大。
「お前の言うとおりだな。(しょう)よ、うちへ来ると良い。ひと部屋くらいならすぐに空けられるし、役所で生活するのも何かと肩身も狭いだろう」
 二人がそう言うならば、と武松はその好意を受けることにした。
 兄を守る、と決めた。ここには清河県のようなごろつきどもはいないようだが、共に住んでいれば何かあってもすぐに守る事ができる。
 そう決まると、さっそく武松は手配のために役所へ戻った。運よく知県がまだ残っていて事情を話すと、
「なんとお前の兄はあの炊餅(すいへい)売りの武大であったか。役所前の通りで売っていて、私も何度か食べたことがある。なかなかの味だったよ」
 ならば遠慮することはない、と同居を許可してくれた。
 その夜から武松は兄の家で起居することになった。
「本当に良かったわ。兄弟なんだから、遠慮することないんだからね」
 と、潘金蓮は武大よりも嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 兄弟の再会からひと月あまりたった頃。
 その日は早朝から雲が低くたれこめ、北風が戸や窓をがたがたと揺らしていた。そして鈍色(にびいろ)の空がさらに暗くなったかと思うと、あっという間に雪が舞い始めた。雪は夜遅くまで降り続け、月の光を照り返して辺りはまさに銀世界であった。
 翌日、この大雪で腰を上げようとしない武大を急きたて仕事に行かせると、潘金蓮はそそくさと着替えを始めた。
 普段とは違う派手な着物をまとい、唇には濃いめの(べに)をさした。
 菜を切り、湯を沸かし朝食の準備を手際良く進めてゆく。
 準備を終えた潘金蓮は茶を飲みながら座っていた。外で物音がする度、立ち上がっては確認をしに行く。何度かそうしている内に朝餉どきは過ぎ、すでに昼近くになろうとする頃、雪を踏みしめる音が聞こえた。
 藩金蓮は顔をほころばせたが、すぐに表情を戻すと戸を開けに向かった。
「あら、お帰りなさい。遅かったじゃないの、どうしていたの」
 肩に積もった雪を払いながら入って来たのは武松だった。
「すみません、義姉(ねえ)さん。今日は役所の友達にご馳走になったんです」
「あらそうなの。寒かったでしょう、火を(おこ)しておいたからあたりなさいな」
 すみません、と言い武松は部屋に入ると、火鉢に手をかざす。
 ここに越してから朝食は家に食べに戻るように、と潘金蓮に言われていた。また飯の事だけではなく、何かにつけて世話を焼きたがる潘金蓮に、武松は少々居心地の悪さを感じていた。それでも兄夫婦の好意を無碍にする訳にもいかず、口には出さずにいたのだ。
 潘金蓮は用意していた食事を卓に並べ、燗をした酒を持って来た。
「兄さんはどこです」
「まだ仕事から戻ってないわ」
「じゃあ兄さんが帰って来てからいただきます」
 武松の言葉も聞かず、金蓮はさっさと杯に酒を満たした。
「いつになるか分らないもの、待ちきれないわ」
 そう言って、杯を武松に手渡す。仕方なく武松はそれを飲み干し、菜に箸を伸ばす。金蓮も杯を続けざまに空け、酒の香りのため息をつくと話を始めた。
 潘金蓮はあからさまに武松を誉め、夫である武大を貶(けな)すような事を言う。気分の良くない武松は、それに相槌を打つでもなく黙々と酒を飲んでいた。
 酔いのせいか、金蓮は次第に着物の胸元をはだけさせ、髷(まげ)も崩すと艶美な笑みを浮かべて武松を見つめるようになった。
 さらに酒が進み、銚子が(から)になると金蓮が新しい酒を運んできた。片手に銚子を持ったまま、金蓮は火箸をいじっている武松の肩口あたりを細い指で摘むようにした。
「こんな薄着じゃ寒いでしょうに」
 武松は目を閉じ、黙ったままだ。
 すると金蓮は火箸を強引に奪い、火鉢をかき回しだす。
「あんたは火の熾し方を知らないのね。わたしがあんたの火を熾してあげるわ」
 そう言って酒の香りのする吐息をもらした。
 武松は目を閉じたまま考えていた。なるほど、自分を武大の家に住まわせたのはこういう訳だったのか。清河県でも兄のいない間に男を作っていたのだろうか。だからこそ清河県で噂になり、武大への風当たりがさらに強くなったのだろう。おそらく兄はその事を知らず、妻を疑いもしなかったのだろう。
 雪のように心が冷めてゆく武松とは逆に、身中の炎を燃え上がらせた金蓮は酒で満たした杯を半分だけ空けると、それを武松の目の前に置いた。
 しなだれかかるように妖艶な声を出す。
「ねえ、その気があるなら残りを飲んでちょうだい」
 武松が、かっと目を見開いた。
 ごう、という風の唸りに続き、ぱんと何かが弾けるような音がした。
 見ると握られた武松の拳が、杯の置かれた場所にあった。
「義姉さん、恥知らずな真似はおやめなさい」
 す、と拳を上げるとそこには砂があった。いや、それは砂のように粉々になった杯であったものだった。
「もう一度言います。こんな真似は二度としないでください。もしわたしの耳に噂でも入ったならば、この拳が黙ってはいないでしょう」
 顔を真っ赤にして潘金蓮が立ち上がる。
「冗談を言っただけじゃないのさ。真に受けるなんて馬鹿にするにもほどがあるわ」
 そう吐き捨てると、急ぎ足で部屋を後にした。
 武松は鼻から深く息を吸い込み、心を落ち着かせた。
 火鉢の中の炭だけが赤々と燃え盛っていた。

「いったいどうしたんだ」
 昼過ぎに戻ってきた武大が、潘金蓮を見るなりそう訊ねた。妻の目は赤く腫れており、まだ涙の跡も乾いてはいなかったからだ。
「どうしたもこうしたもあるもんですか。あんたの弟に無理やり酒を飲まされて手を出されそうになったのよ」
 潘金蓮が一気にまくしたてるが、武大は眉間に皺を寄せている。
「そんな馬鹿な、あいつはそんな事をする男じゃあないよ」
「このおたんちん、女房と弟のどっちを信用するんだい」
 潘金蓮はそう言って、袖で顔を隠すと泣き声を上げだす。困った武大は仕方なく武松の部屋へと声をかける。
「おおい、松よ。頼むから話を聞かせてくれないか」
 部屋で物音がしたかと思うと、武松が笠と合羽(かっぱ)を引っかけて外へ出て行ってしまった。
 どうしたんだ、とますます困る武大に潘金蓮は、
「あわす顔がないからに決まってるじゃない」
 といきり立っている。
 やがて二人が言い合っているところへ武松が戻ってきた。駆け寄る武大を制して、武松は告げた。
「兄さん、聞かない方が良い。このまま行かせてください」
「なにも出ていくことはないじゃないか、待ってくれよ」
 武松は武大の言葉も聞かず、連れてきた従卒に荷物を運ばせ去って行ってしまった。
 がっくりと肩を落とす武大の横で、
「立派な弟だと思って世話したら、逆に噛みついてくるなんて。厄介者がいなくなってせいせいするよ」
 と藩金蓮が悪態をついていた。
 かくして武松は元のように役所で寝泊りをするようになった。
 武大はというと、弟に話を聞かなければとは思っていたのだが、女房にきつく止められており悶々としながら炊餅を売り歩く毎日であった。
 十日あまりたった頃、武松は知県に呼び出された。
 東京(とうけい)の親戚の家まで贈り物を届けてほしいという依頼だった。この知県は陽穀県に赴任してから約二年と半年、まもなく異動の通達が来るころであった。この任期の間、知県はたんまりと私腹を肥やすことができた。将来の、またもしもの時の蓄えのために東京にある蔵に隠そうとしたのだ。
 ここから東京まで危険な場所は少ないとはいえ、知県は先の生辰綱強奪の件がどうしても頭から離れなかった。必ず無事に送り届けねばならない。そこで巨大虎をも退治した剛の者である武松に白羽の矢を立てたのだ。
「はっ、必ず東京まで護り通してご覧にいれます」
 力強い武松の言葉に知県も、ほっと胸をなでおろすのであった。
 夕方近くに武大が家へ帰るとすぐに、武松が訪ねてきた。嫌悪を隠そうともしない潘金蓮をなだめ、武大は弟を客間へ通した。
 これから知県の使いで東京へ旅立つことを告げてから、武松は低い声で言った。
「兄さん、これから俺が言う事を絶対に守ってください」
 武大は、武松の説明を聞く前に、わかったと言っていた。
「一体何様のつもりだい。あんたも自分の頭で考えろというもんさ、何でも弟の言いなりになっちまって」
 金切り声をあげる潘金蓮だったが、武大は優しく諭すように言った。
「間違いないのだ。弟に任せていれば間違いはないのだ」
 武松が微笑み、武大も微笑んでいた。
 潘金蓮だけが横で、きいきいと悪態をついているばかりであった

水滸伝・青竜編

  1. 碧空
  2. 落草 一
  3. 落草 二
  4. 落草 三
  5. 落草 四
  6. 落草 五
  7. 破戒 一
  8. 破戒 二
  9. 破戒 三
  10. 破戒 四
  11. 破戒 五
  12. 流転 一
  13. 流転 二
  14. 流転 三
  15. 流転 四
  16. 貴人 一
  17. 貴人 二
  18. 貴人 三
  19. 貴人 四
  20. 試練 一
  21. 試練 二
  22. 試練 三
  23. 試練 四
  24. 禍福 一
  25. 禍福 二
  26. 禍福 三
  27. 北斗 一
  28. 北斗 二
  29. 北斗 三
  30. 北斗 四
  31. 智取 一
  32. 智取 二
  33. 智取 三
  34. 追跡 一
  35. 追跡 二
  36. 追跡 三
  37. 慈雨
  38. 新生 一
  39. 新生 二
  40. 新生 三
  41. 新生 四
  42. 交戦 一
  43. 交戦 二
  44. 交戦 三
  45. 交戦 四
  46. 交戦 五
  47. 密会 一
  48. 密会 二
  49. 密会 三
  50. 密会 四
  51. 密会 五
  52. 夜雨
  53. 遭遇 一
  54. 遭遇 二
  55. 遭遇 三
  56. 遭遇 四
  57. 悲愴 一