Bar Raincheck
この男は一生、「常識」という言葉とは無縁なんだろうな。
6.曖昧なひとたち
「・・・何のようだ。」
もうすぐ14時になろうとした頃、ドアを開けた先には、見慣れた顔の男が立っていた。
「やあ、了。偶然近くに来てね。君の好きな店のガトーショコラ。買ってきたよ。」
にこやかに、俺にケーキの箱を手渡す。お前は俺のなんなんだ。その言葉を待たずに平は勝手に
俺の部屋に上がり込む。
「いやあ、相変わらず殺風景な部屋だねえ。清々しい。」
「お前、本当に暇なのか?」
昨日も店にきて、今日も顔を合わせるとは。この男は一応は俺の店のオーナーだから、「来るな」とは
言えないのだが。平はあからさまに眉をひそめる。
「そんなわけないでしょう、忙しい忙しい。今日はちょっとここでゆっくりしたら帰るよ、店には行かずにね。」
少しホッとした。昨日は結局店で女性客に絡み、女性客は泣いていた。いや、平が泣かせた訳ではないが。多分。
「ああ、そういえば。」
平が自分の家の様にリビングのソファに腰掛ける。俺は仕方なく、キッチンに行き、珈琲メーカーに粉を
セットする。
「昨日の子にさっき会ったよ。静ちゃん。」
水をセットし、スイッチを入れる。しずかちゃん?俺は頭の中でその名前の知人を探したが思いあたらなかった。
昨日の子?ああ、あの泣いてた客のことか。
「へえ、どこで?」
「一駅先のショッピングモールのとこで。」
「さすが、神出鬼没だな。」
「静ちゃんが?」
「お前だよ。」
平はこちらに背を向けたまま、はは、と笑った。
コポコポ、と珈琲メーカーは音を立てる。珈琲の香ばしい香りが部屋を満たしていく。俺は、
珈琲がすこしずつポタポタと下に落ちていくのを見ているのが好きだった。
「なんかね、昨日言ってた彼氏と別れてたよ。」
平は他人事みたいに言う。まあ、実際他人事なのだが。傍観者の立場でいつも話す。
「見てたのか?」
「うん、まあたまたまね。」
たまたまねえ。ふうん、と俺は呟く。
俺は平が買ってきたガトーショコラを皿に取り分ける。この店のガトーショコラはとても濃厚でチョコが好きな
俺は好物だった。甘さも控えめで食べやすい。
「また店に行きます、だって。よかったね。」
「へえ、嬉しいな。」
珈琲メーカーのコポコポという音に俺は集中していた。
「君さあ。」
その声が耳元でして、ハッと気がついたときは平はおれのすぐ後ろにいた。
「ああいう雰囲気の子好きだよね、違う?」
鼓動が早くなるのがわかる。平の息が耳にかかる。後ろから俺の手の甲の上に、平の大きな掌が乗る。
「別に、勘違いするなよ。」
俺は目線を合わせるのも怖くなって、平の掌を払い、キッチンからリビングに向かおうとする。しかし平に腕を
掴まれた。
「了。」
顔に手を添えられ、嫌でも平と目が合う。
鳥肌が出来る感覚。平の左目の下から耳の方に向かって、うっすらと傷の跡が残っている。夜は誰も気づかない
くらいの薄い傷跡だが、昼間の日の光の下ではよくわかる。
俺は目を逸らしたかったが平の掌が許さなかった。
「逃げるの?何で?」
平の目は冷たい。真っ黒だ。俺はこいつのこの目に捕われている。恐ろしくて、恐ろしくて仕方が無い。
「やめろっ・・・たいらっ。」
呼吸が乱れていく。この先の展開を予測できる自分がいる。
「たいら?僕の名前知ってるでしょ?了。」
「っ・・・、いつき。」
平は満足したように口の端を上げる。ゆっくりと平の顔が近づいてくる。
掴まれた腕は力強く、密着させた体同士は隙間なんて無かった。
いつからこの男が優位になったのか。この傷を作ったときからか、それともその前からか。
俺はこの男の心の闇を哀れんでいた。そしてそれを受け入れる自分自身の甘さも、最高に哀れだ。
俺たちの関係に「正解」なんてどこにも無い。
to be continued.
Bar Raincheck
連載シリーズ6話目。