《 Requiem #3 》 オルフェウスの恋歌
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私は、ゴールドブラッシュに仕上げられたケースの横に、大きくHOPEと名を刻み、その傍らに弓矢のレリーフを埋め込まれた、誇りあるZIPPO社のオイルライターだ。
私は、似た名を持つ煙草――あいつはショート・ホープ、短い希望だ。似て非なる名だ――の懸賞として生まれた。
私は、常に主(あるじ)の懐で暖められ、タンクのレーヨンボールには常にオイルが満遍なく滲みわたり、それを押さえるフエルトパッドの狭間には、二つのフリントロックが予備として仕込まれている。
私は、私を手にし、真のライターとして、いつでも本分を発揮できる状態に置く主に尽くす。
数多の先覚を受け継いで生まれ、尽くすべき主に恵まれ、私は形ある限り、希望の灯を点し続ける。
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私の主は希望の灯りを点す者なのだ。
※
主よ、今ひとたびその掌で私を握り締め、軽やかにリッドを開け、奏でるようにフリントホイールを回し、希望の灯りを点してくれ。
そして、ささやかながらも尊敬すべき志を、夢を、希望を、誰からも羨まれる家族との愛を、もう一度私に聞かせてくれ。
私が皆に伝えたかったのは、そんなあなたの物語なのだ。
我が主よ。
オルフェウスの如き、我が主よ。
あなたは愛しき奥方の面影を追うあまり、星になってしまったのか。
ならば、あなたの星は、今この宙の何処で詠う様に瞬いているのか。
せめてそこには、 奥方エウリディケの星が寄り添っていることを、切に願う。
我が主よ。
私はあなたの全てを忘れない。
あの渓流よりも川下の、見慣れぬ景色の中の川床で私を拾い上げ、宝物を見つけたように喜んだ笑顔を忘れない。
硫黄混じりの流れに翻弄され、燻されたようにくすんだ私を、大事に包んでくれた掌の暖かさを忘れない。
私を分解し、細かいツールとケミカルを遣って隅々まで掃除し、新品のウィックとレーヨンボールに交換し、隅々まで磨き上げてくれたことを忘れない。
煙草を喫わないあなたであったが、自らの裡の随分と高いところに私の居場所をあつらえてくれたことを忘れない。
百円均一店のオイルなどではなく、純正品のナフサをたっぷりとくれ、フリントホイールを回せば、灯台のレンズのように輝くチムニーに点る炎が希望であることを、我こそが希望の灯りを点す物であることを思い出させてくれたことを忘れない。
だから我が主よ。
お願いだからやめてくれ。
それに火を点けてはいけない。
私の炎をそんなことに使ってはいけない。
私は、あなたの愛した奥方の存在した証を燃やす為に、あなたに仕えたのではない。
私は、希望の灯りを点す物なのだ。
あなたは、希望の火を点す者なのだ。
だから、それだけはやめてくれ。
お願いだからやめてくれ……。
※
主よ。 あの日、私を拾い上げたあなたは、ご覧よと、タカラモノを見つけたよと、私を虚空に差し出した。
まるで、誰かがそこに寄り添っているかのように。
そう、たまの休みにあなたは、思い出の河原で、亡き奥方の幻と遊んでいたのだ。
どれほど楽しい日々だったのだろう。
あなたが奥方と過ごした日々は、例え僅かばかりだったとはいえ、どれほど倹しく穏やかで優しき日々だったのだろう。
小さな家の小さな部屋の、小さなサイドボードの上にある、優しき主にまったくお似合いの、柔らかく微笑む女性の面影を見るに付け、そう思う。
休みの度に主は河原へ行き、釣りをするでもなく、買ったまま積んである本を何冊か持って行って読むでもなく、何をするでも無しに、ただ草の上に腰を下ろす。
主は何をか想い、彼の岸を眺め、時折古い歌を口ずさむ。
それはおそらく、亡き奥方との思い出の歌であり、掌の中で私は、それを忸怩たる思いで傍聴するしかない。
いつしか主は目を瞑り、少しだけ昼寝をする。
頬を伝う一筋の涙と、口を開くだけの声無き叫びで、亡き奥方の夢を見ているのだとわかる。
夢の終りはいつも同じなのだろう。
愛しき奥方の笑顔が光に包まれ、輝きながら遠く離れていくのだろう。
抱きしめようにも叶わぬ、二度と手の届かぬ彼の岸へと。
生前、奥方は、いつもあなたを労い、癒したのだろう。
あなたも奥方に、そうしたように。
すべて。
そう、奥方はあなたのすべてだったのだ。
すべてを失くしたあなたの心情を、愛し抜こうと誓った奥方を亡くしたあなたを、如何に理解すれば良かったのか。
否、誰が理解出来ようか。
但し、理解したとしても、私に何が出来ただろう。
主がフリントホイールを弾いてくれない限り、私はただの揮発油臭い合金と化学繊維の塊に過ぎない。
だが、例え私に灯を点したとして、その灯は主にとって希望足り得ただろうか。
主よ、今此処では私はあなたに何もしてやれない。
だから、せめて私も連れてってはくれまいか。
あなたが行こうとしている彼の岸へ。
あなたに万全の手入れをされている私が、暗黒の黄泉比良坂にて、あなたの足許を照らそう。
愛しき 奥方を連れ、此の岸へ戻る時、迷わぬように。 帰りなば、慚愧の世に再び希望の灯を点すために。
なのに主よ。
あなたは私を置いて行ってしまった。
奥方が遺した服や写真や、交わした手紙や、誕生日に贈りあったお揃いのパーカーや、沢山の思い出を燃やし尽くす絶望の炎の中に、私を投げ捨てて行ってしまった。
私には、あなたに箴言するにも口が無く、あなたを止めるにも腕が無く、あなたの後を追うにも足が無い。
私は如何に無力であるか思い知った。
※
星々が煌めき降り注ぐ夜、今宵も向こう岸の彼方から、せせらぎに乗って恋歌が流れくる。
あの優しき旋律が、主のものであればと願う。
主よ見られよ。
あなたがたの瞬く宙から見られよ。
月や他の星々が、草や木や虫たちが、あなたの奏でる旋律に聴き入る様を。
無心に遊ぶあなたがたの幻をその水面に映し、咽び泣くようにせせらぐ川を。
あなたがたの仲睦まじき姿を偲び、涙のように夜露を降らせる大気を。
主の帰りを願いながら、私は遠い恋歌と夜露を褥に、今再び永き眠りにつく。
了
《 Requiem #3 》 オルフェウスの恋歌