セラルフィの七日間戦争

第一章:七日間の心臓


「ふん、これが|《再生の臓器》ですか」
 そこは火の海に包まれていた。
 闇と紅を纏う森。低い男の声が灼熱の壁に消えていく。相対するは、片膝をついて睨み続ける金髪の少女。苦しそうに首に巻いている包帯を触るが、外そうとはしない。
 彼女の体には、禍々しい魔の術式が張り巡らされていた。
 満月が火の大地を照らす。密集する木々の中、円状に切り取られた平地には、弱々しく喘ぐ残り火が踊っていた。
 周囲では樹を媒体に桁違いの燃焼を続ける業炎。まさに灼熱の壁。
 腰まである長い金糸を携える少女の顔は、今にも気絶してしまいそうな程に歪んでいて、それでも切れ切れな言葉で立ち向かう。
「……返し、てっ。私の――」
 私の――心臓ッ!!
 目前の片眼鏡を掛けた燕尾服の男は、冷淡な笑みで少女を一瞥した後、大事そうに持ち上げている右手に視線を移した。
 収縮と膨張をせわしなく繰り返すソレに。純白の手袋に掴まれているソレ。
 少女の心臓。
「実に美しい! 生に執着する卑小な臓器。せわしなく繰り返す運動。死を感じ取る度に、恐怖を流し込む度に加速する鼓動!」
 狂ったような笑みに、少女セラルフィは歯軋りする。
 相手はどんなトリックを使っているのか、自分の放つ攻撃が一切通用しない。あまつさえ、『心臓を掴み出されてしまった』のだ。
 赤いマントに刀身の細長い長剣(ロングソード)。燃え盛る紅の光をゆらゆらと反射する。
 白を基調とした薄手のコートは、花弁のように膨らむ純白のスカートの、後方部分を大きく被さる形で鋭い薄羽のように突き出ていた。
「……さて」
 そう言い、肩まである濁った銀髪が小さく揺れた。死にかけの少女など、もはや眼中に無いと言う風に。燕尾服に刻まれる禍々しい笑み。
「終わらせましょうか」
 男の右手が高く掲げられた。
 セラルフィの心臓が握られた右手が。
 心臓の上で積み重なるように展開される、紫の三連魔法陣。
 セラルフィにはこれから起こる事象が分からなかった。今の今まで自分を殺すものだと思っていたのだ。あのまま右手を握れば、自分の心臓は潰れると。
 男の紫眼が、紅の光を反射して妖しく揺れる。
「圧縮しなさい――『チャイム』」
 刹那、天に向いた三連魔法陣から――セラルフィの心臓ごと――紫の閃光が迸った。
 紫の奔流は闇夜を目指し、ある地点で激突したように四散した。
 次第に球体を象っていく紫球。奔流が終わりを迎えると、紫の球体は殻のように幾筋もの光を解放し、いとも簡単に砕け散った。
(女神の……像?)
 光から現れたのは見上げる程に(そび)え立つ、頭上に大きな鐘の浮かぶ女神像だった。石膏(せっこう)で出来ているそれは、まるで生きているかのように苦悶に歪んだ表情で自分の体を抱きしめている。
期限計測(カウントダウン)』」
 言下、心臓が女神像の左胸へと吸い込まれていく。よく見ると像の左胸には大きな風穴が空いていた。小さな心臓が左胸へ納まった瞬間、地面から白い(いばら)が女神像の身体を蝕んでいく。食い込んだ茨がそうさせているかのように、女神像は大きく口を開け、上空へ耳をつんざくような悲鳴を飛ばした。同時に、女神像の首元にまばゆい光が灯る。【168:00:00】とデジタル表記された算用数字が、セラルフィの首元へ浮かんだ。まるで、女神像とセラルフィがリンクしているかのように。
「これがどういう意味か、分かりますか?」
 不適な笑みでセラルフィを見つめるが、生憎反応出来るほどの余力は残っていない。いや、攻撃以外に余力を使うつもりはない。ただひたすらに、睨み続けるのみである。
「……ふん、もはや言葉も失いましたか。哀れですね」
 誰のせいだと思っている、と言いたかったが、自制する。相手のペースにハマれば、それこそ勝機を失ってしまう。
 それよりも気になったのは、『なぜ心臓を失った自分が今も生きていられるか』と言う事だ。
 まるで見透かしたように男は笑う。中性的な微笑も、見知らぬ女性からは黄色い嘆息が洩れそうだが、生憎自分は奴の事を好きになれそうもない。
「んふふ……理解不能と言った様相ですねえ。哀れで愚かなあなたに教えて差し上げましょう。どうせもう死ぬ運命なのですから。喉元に浮かぶそれは、あなたの寿命を示しています。一六八時間。つまり七日。その時がくれば、あなたの心臓は爆散し、同時にあなたも死亡する……ふふふ、さぞ美しい恐怖に歪む顔が出来上がる事でしょう。是非写真に収めたい。でも安心していいでしょう。七日の間はどうやっても死ぬことはできませんから」
 言動も性格も非常にふざけた男である。セラルフィは今すぐにこの男をロングソードの血錆へと変えてやりたい衝動にかられた。
 嘲笑う男。しかし、その顔は驚きに満ちている。
「心臓と肉体は異次元に繋がっているわけですから、血液循環機能は失われていないわけですけど……しかしなかなかどうして、根性がありますね。そろそろ気絶してもおかしくないと言うのに」
 今気絶したら確実に死ぬだろう。助け人が居ない今、あがく以外の選択肢は無いのだから。
 セラルフィは、腿の後ろに隠している右手に集中した。ロングソードを手放し、手のひらサイズに展開した赤い魔法陣に意識を送りむ。
 イメージを構築する。あの男を焼き殺したいと言う強い思いを。
「それに、さすが〝|《マヨイビト》〟と言ったところでしょうか。同じ魔術師と言えど、異界のあなたが持つ魔力量はどの異端者よりも桁が違う」
 そう言えば、あの男は先の戦闘でも同じようなことを口にしていた事を思い出す。
 ――|《マヨイビト》。
 異界から迷い込んでくる高位生命体。確か彼はそう言っていた。
 それが何を指すのかは不明であるが、今の少女にはそれを考えている余裕が無い。
「本来心臓に詰まった魔力量と言うのは、換算して十二時間分。最長でも一日が限界のはずです、それが七日。まったく、世界を焼き尽くすほどの代償が七日とは――それは果たして長すぎるのでしょうかね」
 知ったことか。
 楽しそうに笑う男に、セラルフィはとうとう口を開いた。
「だったら……今終わらせてあげますっ」
「――ッ!」
 刹那、セラルフィの右手が大きく突き出された。展開された一つの赤い魔法陣から、竜の頭を模した業炎が射出される。
 今持てる最大限の力を込めた、フルパワーの『炎竜』。まもなく男の目の前まで迫ると、
「――――」
 詠唱し終えた男が、右腕を突き返す。同時に、『透明な壁が出現したかのように、手の位置を境に業炎が垂直方向へ逸らされた』。
 たまらず炎竜の姿はただの炎へと還元される。
 少女には相手の力が読めなかった。
 ――恐らく奴は、不可視の壁を展開する魔術を所有している、が。あの時奴は白兵戦に於いても攻撃を全て受け付けなかった。否、届かない。どころか、同値の力でそのまま真逆の方向へ押し返されたような……言うなれば、『突きを突きで返されるような感覚』。剣尖が剣尖に激突するような、鋭い感覚が右腕に残っている。
「どうやら終わったようですね」
「く……」
「おやおや、こんな夜中に。しかも野外で睡眠ですか? 野盗が来たら即おしまいですよ、あなた。ああそうだ、無駄な労力をかけるのも難ですから、一つだけ助言をしておきましょう。『その女神像は破壊できない。心臓を取り返したければ、女神像の召喚者を殺すしかない』……と、もう起きてはいませんね」
 もはや男の声すらも耳に入って来なくなっていた。
 殺してやる。最後にそう吐き捨て、セラルフィは草原に顔を埋めた。
「…………さて」
 男は踵を返して歩き始める。女神像が男を引き留めるように苦しんだ表情を浮かべていたが、気にかける様子はない。
 そうして男は、眼前に伸びる小国への道を、単調な足取りで歩んでいった。

第二章:残り七十五時間




「ここは?」
 目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは規則的に並べられた、不規則な木目であった。
 セラルフィはそれが天井だと悟る。規則的な配置の板、自然豊かな木目。
 上体を起こすと、ふと横の扉が目に入った。
「…………」
 剣がある。
 細長い赤みを帯びた鞘。
 サーベルのような護拳――半円状の大きな鍔――があり、すぐに自分のものだと理解した。
 ゆっくりとベッドから降りる。ご丁寧にシーツを掛けられているところを見ると、誰かに拾われたか。
 しかも驚くことに、ありったけの薬用ハーブがベッドに敷かれていた。恐らく、今の自分はハーブ臭が尋常じゃない。どのくらい寝ていたのか知らないけれど、ハーブの匂いに慣れてしまったせいか、もはや鼻も利いていなかった。
 ひた、と裸足で床に降り立つ。冷たい。足元には一足のブーツと、ブーツのつま先に白いニーソックスが、畳まれずに乱暴に置かれていた。
 どうやら応急処置を施されていたようである。とは言え、脚や腕、頭に包帯が巻いてあるぐらいだが。
 剣を握り、恐る恐る扉を抜けると、家の廊下に出た。数ある扉のうち、光の差し込む半開きの扉に向かう。
 そこは書斎だった。
 床一面に散乱しているのは医学関係の資料。
 小さなステンドライトに照らされているのは、分厚い医学書に顔を埋める少年だった。
「ん……やあ。起きたのかい」
 寝ぼけ眼で振り返る少年。ボサボサに跳ねた黒髪を撫でつけると、バッと剣の柄に手をやるセラルフィを見て、椅子から転げ落ちた。首にぶら下げた大槌のネックレスが床を這い、主人のもとから逃げていく。
「ちょっ……ええ!?」
「あなた何者? あの男の仲間ですか?」
「へ? 誰、あの男って……ぎゃあ! 待って待って剣抜かないで!」
 抜き身のロングソードを突きつけられた少年は、まるでこの世の終わりと言わんばかりに取り乱し始める。
「と、隣町まで買出しに出かけた子が助けを呼んだんだよ。君が倒れてるって。深夜でこの町の医者は森の反対側にいたからね。僕の家が一番近かったんだ。……そういえばあの森、一帯焼け野原だったけど、何があったの?」
 どうやら『あの男』の仲間では無いらしい。
 そう判断したセラルフィは、納刀して少年が落とした大槌のネックレスを拾う。
 すると急にぐらりと体が傾き、バランスを崩した彼女は盛大に転倒した。
「大丈夫ですか!? 急に動いちゃ駄目ですよ。丸三日寝てたんですから」
「まる……みっか?」
 丸三日。
 必死に立ち上がろうとしていた少女の脳裏に、あの男のセリフが過ぎる。

『一六八時間。つまり七日。その時がくればあなたの心臓は爆散し、同時にあなたも死亡する』

「ッ……!」
 こうしては居られない。丸三日も寝てしまったのかとセラルフィはいっそう腕に力を込めた。
 しかしすぐに力尽きる。丸三日も寝ていたと言う事は、丸三日何も食べていないと言う事だ。
「とりあえず安静にして下さい。すぐに朝食の用意をしますので」
「そんな、悠長に」
 待っていられるか、と言いたかったが、腹は正直である。
 弱々しく鳴く腹の虫に、少年はくすくす笑う。
 しかし少年も同じだったようで、セラルフィの腹の虫に呼応するように、少年のお腹もぐるる、と唸った。
「ね?」
 照れ隠しか、色白の顔が赤く染まりつつも、少年は砕けたような笑顔でそう言った。


     
       /1



 居間。
 彼の作る料理は早かった。所要時間十分弱。
 こんな時の為に下準備をばっちりしていたらしい少年は、あっと言う間に次々と、白い皿の上に料理を乗せていく。
 テーブルに全て並べると、着席し、セラルフィに促した。
「どうぞ」
 二脚の椅子がテーブルを挟む。テーブル一杯に広がる料理を見て、セラルフィは少年の言葉を聞く間もなく手を伸ばした。
 さながら飢えた獣のような食いつきに、少年も目を見開く。
 三日間なにも食べていなかったせいかは知らないが、肉料理にしろ野菜にしろ。兎に角少年の料理は旨かった。
 一瞬にして数枚の皿を片付けると、次は大きなパンへ。しかしセラルフィの顔が急に険しくなった。喉を詰まらせたらしい。
 トントンと胸を叩くセラルフィに、少年はすぐさま牛乳瓶のふたを開けてグラスに注いだ。
 グラスを渡そうと思ったのだろうが、少年よりも早くセラルフィの手が牛乳瓶を掴み取る。
 喉を鳴らして瓶の中身が減っていく。排水溝に吸われているかのようなスピードで牛乳が無くなると、落ち着いたのか、エチケットペーパーを容器から取り出して口周りを拭った。
「すみません、見苦しいところを」
「あ、いえ。そんなに気に入ってくれると僕としても嬉しいと言いますか」
 そこまで言って、少年も落ち着いてスープを飲み始める。ふとした時に、扉を開けた少女の方を見て、
「あ、リラ。お姉さんが起きたよ」
 手招きしたがリラはおびえたように扉の向こう側に隠れた。その割りに何度もセラルフィの方をうかがっている。
「気にしないであげて。あの子、極度の人見知りなんだ。僕が最初に会った時もあんな感じだったから」
 肩をすくめて少年は言う。
「あなたが私を助けてくれたのですか?」
 話しかけると驚いたように引っ込んだ。が、すぐに扉につかまるようにして覗いてくる。仕方なしにこちらから近づいた。一瞬逃げるような素振りを見せたが、覚悟したようにセラルフィを見上げた。
「ありがとう。リラ」
 笑って、腰付近で見上げて来る少女の頭を撫でた。一度方を揺らしたが、すぐに収まった。撫でたおかげか、隠れたり逃げたりするような様子は消え失せたようだ。
「驚いた。こんなに早く初対面の人に慣れたのは君が初めてだよ」
「これ」
 視線を戻すと、リラが青く光る石のネックレスを差し出してきた。宝石の原石だろうか。ゴツゴツしているが表面は綺麗に磨かれている。
「あげる」
 森の付近から見つけたのだろうか。か細い声だったが、元気づけようとしてくれるのは分かった。
「いいの?」
 返事の代わりに頷きで返した。
「本当にありがとう。私はセラルフィ。今のところ恩を返せるようなものを持ち合わせてはいないのですけど……何かあったらいつでも言ってください。助けになれることがあればどこにいても飛んでいきますから」
 とはいえ、自分の余命も限界に近いのだけれど。
 ネックレスを包帯の上からかけたセラルフィに小さく頷いた少女は、果物いっぱいのカゴを抱え、リンゴを一つ。テーブルの上に置いた。
「トト兄ちゃん。そろそろ帰らないとだから」
「うん。ありがとうねリラ。風邪薬はそこの棚にあるから」
 棚から薬を取ったリラは、二人に一礼した。ちらりとセラルフィの喉元を伺ったが、何か言うでもなく部屋を後にした。
「トトさんでしたっけ。あの子は」
 慌てて片手を振り、もう一方を後頭部にやるトト。
「ところでセラ、君はどこから来たの?」
「それは……あの、覚えてなくて。自分の名前と、誰かに追われていたことしか覚えていないんです」
「記憶喪失か。町の医術書に書いてあったよ。大変だね。身元が分かるまで、この家を使ってもいいよ。僕も生まれが分からなくてさ。この町で知り合った友人に、色々と世話になってるんだ」
 どうやら向こうも訳ありのようである。ふと気になる事を質問した。
「ところでトト、ここはどこなのですか?」
「ユーリッドって言う田舎町だよ。ここは親切な人ばっかりだし、活気があるから今度街を観光してみるといい。あ、シルヴァリー国王が毎日広場にやってくるから、そこだけは行かない方がいいね」
「シルヴァリー? なんでその人が来ると行かない方がいいのですか?」
「それは……」
 急に押し黙ったかと思うと、トトはパンに手を伸ばし、何故か慌てた素振りで話を逸らした。
「そうだ。ずっと気になってんだけど、きみの喉元に浮かんでるそれ、なんなの?」
「喉……ですか?」
 ぎょっとして包帯が付いているかを確認してみる。しっかり巻いてあった。どうもセラルフィの心配している事とは関係が無いようだ。首を傾げてみる。
「あっれ? おかしいなあー?」
 言いながら、テーブルに身を乗り出してセラルフィの首に手を伸ばした。
 たまらず身を引くセラルフィ。
「あのすみませんが、おふざけに付き合っているほど暇では無いので」
「ああっ、いやいや。誤解だよ、ほら」
 慌ててトトは立ち上がり、台所に立て掛けてあった手鏡を取り上げた。それをずいっとセラルフィに突きつける。
「……ッ!?」
 忘れていた。否、すっかり胃が落ち着いていたため、危機感が薄れかかっていたと言った方がいい。

 【80:42:03】

 喉と胸の間あたりにある、小さく刻まれた数字。
 反対向きになるので読むのに少しかかったが、金色の光文字にはそう表記されていた。
 それは、女神像に浮かんでいたものと同じ。今は、セラルフィを絞殺するかのように秒単位でせわしなく数字が減っている。
 それが意味するものは――余命。
「そん……な」
 驚愕と絶望が脳内で渦を巻く。あと八十時間。残された日数を時間に換算すると、より現実味を痛感してしまう。
 試しに振り払おうと手を伸ばすが、触れた部分が煙のように霧散して、また戻った。
 動揺は更に増す。
「どうしたの? いや、それよりもその文字……まさか魔法でできてるの?」
「これについて、何かご存じですか」
「いや、あいにくだけど分からないな。」
 心配そうに見つめるトトを見返し、淡い期待に胸を締め付けながら、消え入りそうな声で恐る恐る訊いた。
「あなた、知らない? 肩まである銀髪にマントの付いた紳士服。片眼鏡をかけた、私たちより背の高い男」
 返答は、意外なものだった。
「知ってるも何も……『シルヴァリー国王』だよ、それ」



       /2



 有力情報から所変わって噴水広場。
 トトの発言の真偽を確かめるべく、ローブ姿の二人は果物屋付近で積み上がった木箱に身を潜めていた。
 初めて彼に会ったとき、医学書の山を目にしたのでトトが医者を目指しているのか訊くと、どうやら違うらしかった。
 なんでも、あの町の端に追いやられたような家も、彼のモノでは無いらしい。彼自身よそ者だったため、この町で知り合った気のいい友人に「空き家だから」と貸してくれたそうな。
 医学書は彼に医療の知識が無かったため、セラルフィの治療のために読みあさっていただけで、小心者らしいトトは、ろくに衣服も脱がすことができなかったらしい。
 仕方がないので取りあえず即効性の薬用ハーブを濡らし、セラルフィを横にしたとの事。
 これはまた随分と迷惑を掛けてしまった。もし生きていれたら何か恩返しをしてやらねば。
「でも、なぜトトまで変装を?」
 首に包帯を巻き、何とか忌々しい余命計測器を隠しているセラルフィが、目深にフードを被るトトにそう訊いた。
 セラルフィは被っているフードに埴輪(はにわ)を模した小さな人形を縫い付けられたいた。どうやらセラルフィの喉元に浮かぶ魔力のエネルギーを、シルヴァリーに気付かれなくするためのものらしい。奇天烈な格好でむしろ周りの視線を集めそうだが。
 トトは単にフードを被って素顔を見せないようにしているだけだった。
「僕はシルヴァリーが大嫌いでね。あいつ、町の住人から金品もろもろぶんどってるんだ。偉そうに衛兵なんか引き連れちゃってさ。これじゃあ誰が治安を守るんだって話だよ、ったく」
 嫌な奴だということだけは理解できた。
 セラルフィが対峙した男と良い勝負かもしれないと思った。とりあえずは同一人物であることを祈るばかりである。
「来たよ」
 トトが囁く。視線は右に向いているが、男の姿が見えるわけではない。なぜ分かるのか問いかけようとしたところで、人の列があからさまに列を割った。
「――!」
 現れたその男は、セラルフィの目を見開かせるの十分な要素を(はら)んでいた。肩まである銀髪にマント付きの紳士服。片眼鏡をかけた、セラルフィたちより背の高い男。完全に一致する容姿。セラルフィはその姿をとらえた瞬間、胸の内に湧き上がる灼熱のような感情で斬りかかりそうになった。
「しっ」
 その暴挙を止めてくれたのはトトだった。少女の前に出て、ゆっくりと後退を促す。そのまま果物の屋台に身をひそめた。
「国王様」
 側近二人を引き連れていた彼は、一人の護衛兵に耳打ちをされている。何度か首肯を繰り返していると、不意に目の前に小さな女の子――リラが飛び出した。
 単に、カゴから果物を零しただけだったのに。
 単に、お遣いから帰路へ着く途中のことだっただけなのに。
 単に、零したそれを拾いに出ただけなのに。
 紳士服の男は、『果物に伸ばした手を踏みつけた』。
「ッ――」
 冷たい瞳に見下ろされている少女は、人込みから自分の名を叫ぶ声で痛みに騒ぐことを阻止された。
 群衆から飛び出す二人の男女。少女の両親であることはすぐにわかった。足を退けたシルヴァリーと手から血の(にじ)む少女の間に割って入った母は、守るように娘の体を抱き締め、父は青ざめた表情でシルヴァリーの前に膝をつく。
 最初に口から出たのは国王の人間性を責め立てるものではなく、恐怖の色に染まりきった「申し訳ありません」のただ一言だった。
「貴様らッ、薄汚い手で国王様に触れたな!!」
「娘はただ果物を拾おうとしただけです! 決して国王様に無礼を働くつもりでは」
 兵団用に統一された高価そうな剣を引き抜き、国王の側近は父の額に切っ先を向けた。そこから波紋のようにして、現場からざわめきが広がる。が、国王の前だからという理由なのか、その波は数秒待たずして静まった。
「どけ。みっともない」
 今にも首を落とさんとする兵士の肩に手を置き、国王が前に出る。「立てるか」シルヴァリーの気遣うような声。父が安堵の息を吐き、二つ返事に立ち上がろうとした時だった。
 革靴が父の後頭部を捉え、鈍い音とともに大地に額を叩きつけた。
「パパぁ!!」
 何が起こったかわからない父親。額から伝う血に、自分が何をされたのか、どういう状況にあるのかを思い知らされた。
「あー。また靴が汚れてしまいましたね。これは誰の血ですか? あなたのですか? どうしてくれるのですか? あなたのような庶民に弁償できる金など無いでしょう?」
 感情の感じ取れない罵声をはさみながらも、それでいてはっきりとした悪意を、その丸まった背中へ何度も蹴落とす。ガムの貼り付いた靴を擦り落とすように。何度も。何度も。
 傍観する住人は、時が止まったようにその光景を眺めている。誰もこの状況を止める気配がない。それ以前に止める意思がないように。
「なんで……皆黙ってみてるの!?」
「言っただろう。近づかない方がいいって。こんなの、よそ者の僕らがわざわざ見に来るような場所じゃないんだ」
 きっと、自分なら――シルヴァリーに心臓を奪われる前の自分なら、一瞬で奴らを焼き払えるだろう。リラを巻き込むことなく、的確に、確実に。今の自分にそれだけの力は無い。まわりの人間と同じ、無力だ。
「リラは私を助けてくれたじゃない! それなのに、なんで何もしないのッ」
「中途半端は逆効果なんだ! あの兵士に止められたらどうなる? 無駄にシルヴァリーの機嫌を損ねるだけだよ。下手したらもっと酷くなるかもしれない。早く終わらせたほうが良いんだ」
 トトも止めようとはしなかった。まわりの無表情な人間よりも、ずっと苛立ちが顔に貼り付いているのに。服を破き掌に爪が食い込むほど、首飾りを握りしめているのに。すぐにでも飛び出して殴りかかりそうに唇を噛んでいるのに。血を流すほどに、我慢しているのに。
 なんで。
「止めるだけが。たった一つの行動が――難しくてたまるか」
 気づくと、引き返していた。逃げるためじゃなく。止めるために。
 店番のいない果物屋の屋台から乱暴に一つのリンゴを取り上げる。あわてて制止するトトの声を振り払い、前へ。人混みの中心では、シルヴァリーが高々と構える長剣。切っ先はうずくまる父親の首に。構っている暇などない。大きく踏み込んだまま腕を振り抜いた。同時に魔法陣が浮かび上がる。
 途端――果実が加速した。赤い残像を引き、音速へ。狙いは正確に、国王へと。
「死になさい」
 長剣の力が真下に向いた瞬間。国王の横で何かが弾けた。間違いなくセラルフィの投げたリンゴである。が、誰が止めたでもなく、そのリンゴは不可視の力で砕けた。破片が頬に付着し、べっとりと落ちた。足元には、『二つのリンゴ』。やがて一つが消滅する。
 一連の出来事を眺めている市民は、それでも無表情で、まるで夢でも見ているように呆けている。唯一トトだけは、セラルフィの行動に焦燥していた。
「……!!」
 顔を横にして目を見開いていた父親は、その片目で見ていた。皮一枚を挟んで制止した長剣を。浮かぶ脂汗。死ぬ寸前に立った父親は、今自分が生きている事実を信じられないでいた。
「出てきなさい……そこの金髪」
「――!?」
 見つかった。ローブを被っていたのに、自分だと分かっているかのような言い方。どころか、目があった。住人が国王とセラルフィの前からどいたのだ。間に誰も挟まない状況では、人混みに隠れようもない。父親の死刑を止めたセラルフィと、その娘の視線が重なった。不思議なものを見るような目だった。トトが自分の大槌のネックレスを握りしめる。同時に、トトがセラルフィの手を取り走り出した。
「何やってんのさ、あんなの死罪どころじゃ済まないよ!?」
「あんなのを黙って見過ごせって言うんですか!? 死罪上等ですよあの腐れ外道!」
「あーあーもう! ホントに……まいったなあ」
 追跡を振り払うように路地を曲がり、走り抜けながらトトは困ったような顔をする。しかし、どこか可笑しそうにこらえていた。
「でも、なんだかスッキリしたよ」
「――?」
 自分までも危険な状況に巻き込まれたのに、トトは嬉しそうに笑っていた。
「それより、君が探していた人はシルヴァリー国王だったのかい?」
「確証はありませんが、間違いないです。あれほど嫌いになれる人はアイツしかいません」
「そう。じゃあ今は逃げようか。もうまわりの衛兵にはこのことが出回っているだろうからね。まだだいぶ走り回るけど、大丈夫?」
「愚問です」
 少年少女は暗がりの中を遁走した。
 一方。一家から興味が失せたように、シルヴァリーは長剣を投げ捨ててその場を後にした。後についてくる衛兵に指示を飛ばす。無論、トトとセラルフィを捕らえるように。
「|《マヨイビト》……どうやら、動きだしたようですね」
 不敵な笑みを浮かべ、シルヴァリーは町の奥へと姿を消した。



       /3



「いたぞ! 裏へ回った!」
「うわ、もう見つかった」
 まるで内乱が起こったような警戒レベルである。トトがいくら追っ手を撒いてもすぐに逃げ場を潰される。幸いなことは、道中死んだように項垂れていた人たちがセラを捕まえようとしてこなかったことだろうか。きっとこの国の貧民層なのだろう。あんな男が国王なのだから、不幸な人間が多いのも致し方ないのかもしれない。
「トト! 次はどこにいくんですか!」
「いや、もう打つ手がないんだよ」
 どうやら完全に八方塞がりとなったらしい。追い込み漁が如く逃走経路が消えていく。
 やがて行き止まりに辿り着いた。
「ちょっと、どうするんですか」
「いやどうするって」
 高く伸びる壁、壁、壁。行き止まりまで逃げ込んだものの、じきに追手がここへ来るだろう。登って越えようにも壁はあまりにも高すぎる。焦っていると、遠くから追っ手のものであろう足音が重なってきた。
「そこの二人、壁の隅っこに屈んでろ」
 どこからともなく声が聞こえた。追っ手にしてはぶっきらぼうな、今から自分たちを捕らえようとする者の声音ではない。
「ライム! そこにいるのか!?」
「うっさいぞトト。騒ぐとバレる」
 何が起こっているのか分からないまま。壁の一部から穴が現れる。元から開いていた穴に板でもはめていたのだろう。そこから多数の木箱が大きな音を立てて落ちてきた。山のように積みあがる。ただ、木箱を重ねようにもあの穴には届かない。どうやら穴から逃がしてくれるわけではないらしい。
「その後ろに隠れてろ。あとは何とかする」
「なんとかって」
「来るぞ」
 追っ手の足音が大きくなってきた。視線を戻すと穴は消えている。言われるがまま気配を殺し、追手が見逃してくれることを祈った。
「いたぞ! ここだ!!」
「――ッ!」
 見つかった。セラルフィが慌てて立ち上がろうとしたところで、トトが手を掴み止める。
大丈夫だと言い聞かせるように目で訴えていた。きっとトトの方が自制に勤めていたのだろう。額に汗を浮かばせ、大槌の首飾りを握りしめていた。
 ぞろぞろと集まる兵団。自慢げに二人がいる方向へ指をさす男に、呼ばれてきた小隊長が頬を引きつらせながら近づいた。
「おいペジット。お前は俺をバカにしているのか?」
「へ?」
「|《トリックドール》だ! よく見ろバカ者が!」
 脳天直撃した拳骨と共に男が指をさしたのは、木箱の前で両手を上げる少年少女二人の姿だった。同じ姿勢のまま固まったセラルフィそっくりの人形には、生気が宿っていない。使用者の思い通りの形に姿を変えるカラクリ人形だった。
 殴った小隊長は、自分の剣をセラルフィの人形に突きさした。するとそれはバカにするように一気に膨張し、風船のように弾けて消滅した。
「あ」
「ペジット、お前最近調子に乗っとるんじゃないだろうな。お前がいくら飛び級で入隊した凶獣討伐のトップランカーだからといって、所詮は貧乏人が賞金稼ぎで狩りをしているだけの世間知らずだということを忘れるな。この部隊では俺がリーダーだ。いい加減立場をわきまえろ」
「いや、そんなつもりじゃあ。それにオレ、正義を貫く心構えだけは誰にも負けない自信が」
 小隊長が厳しく睨みを飛ばすと、ペジットはもはや黙るしかなかった。
「もっとよく見ろ。日が沈む前に見つけないと、シルヴァリー様にどんな罰を受けるかわからないぞ!」
 怒声に弾かれるように、追っ手は散りじりに来た道を戻って行った。
 やがて、再び壁に穴が現れる。ひょっこりと顔を出した少年の額にはゴーグルがはめられていた。ぱっと見でメカニックのような風貌をしている。
「……生きてるかお前ら。にしても誰だこの子。頭に浮かべてんのはアレか。新しいファッションってやつか? 俺は女の流行りとかファッションセンスとかわかんねえが、それがダセえことぐらいはわかるぜ」
「助かったよ。ライム」
 遠慮なしに自他ともに認めるダサい飾りを指摘されたセラが訊いた。
「彼は?」
「俺はライムだ。姓は無い。ただのライムな。こいつとは同じよそ者だけど、俺のほうがよそ者歴長いから先輩だぜ。で、なんでお前らは兵団に追われてるんだ?」
「話は後にしよう。ここにいてもいずれ見つかる。詳しいことはライムのアジトに着いてからだ」


 ――心臓爆発まで、残り七十五時間。

第三章:シルヴァリーの正体



 あの後すぐに苦しそうな素振りを見せたセラが倒れ、トトはアジト兼ライムの隠れ家まで彼女を運び入れた。魔法や奇病の類を初め、あらゆることの知識を有しているライムに応急処置を任せて今に至る。
 ライムにとって隠れることができれば他はどうでもいいようで、家の中は乱雑としていた。中途半端に開いた箪笥(たんす)や、カーペットのように床を埋め尽くす羊皮紙たち。その空間内でライム手作りの椅子に腰かけた二人の少年。セラルフィは無理に起き上がらせるのも身体にさわるため、上半身だけ起こしたままで話を進めることになった。
「とりあえずセラ。トト。お前ら面倒な事になったぞ」
「知ってるよ。だから困ってるんだ」
 薄汚れた緑髪がゴーグルに抑えつけられ、それを難しそうな顔でいじるライム。使用した聴診器はぶら下げたままで、頬についている(すす)(ぬぐ)い、続けた。
「お前が考えてる意味で面倒って言ったんじゃない。とりあえずまとめよう。まず、お前らが喧嘩を売ったのはこの町の最高権力者だってのはわかってるな?」
 それにはセラも頷く。やはり苦しそうだ。心臓を抜き取られているため当然の症状だろうが。
「ええ。それと、私が探していた男も彼でした」
「実はな、俺も裏でシルヴァリーについて調べていたんだ。あいつは昔からこの町の国王だと誰もが思い込んでいたんだろうがな。実際に奴がここの国王になったのはつい昨日の晩の事らしい」
 トトが目を大きく見開いて椅子から飛び上がった。
「ちょっと待って。昨日の晩? アイツはずっと昔に、この国の湖に住む水龍を封印したから国王になったって聞いたよ。それが昨日のことだったっていうのかい?」
「そうじゃない。確かに水龍は居たし、そいつを封印した男はここの国王になった。ただ、その男は昨日の晩、シルヴァリーに殺されたんだ。恐らくな。奴はもともとここの住民リストに載っていない、俺たちと同じよそ者だ」
 面倒な事とはこれを指していたようだ。シルヴァリーが王ではなかったということは納得できる。あんな人間が国民に支持されるとは到底思えなかったからだ。ともすれば、圧倒的暴力で全員を恐怖政治に(おとし)めたか。
「じゃあなぜ国王殺しのシルヴァリーを誰も(とが)めないの? それとも国王を殺した人はその町では次の国王になれるとでも?」
 セラの問いを予想していたかのように、ライムの答えは即座に返って来た。
「いや、恐らくアイツは住民になにか仕掛けたんだ。記憶を改ざんするような仕掛けを。お前ら気づいてるか? 気色の悪い森の女神像。あれは昨日の夕方までは存在していなかった。しかもあんな場所に建てること自体が不自然だ。町のシンボルにするような配置でもなければ、だれかのイタズラにしても度を越えてる。ところがどうだ。町の連中は『女神像は昔から代々受け継がれた町のシンボル』だと口をそろえて言いやがる。俺をだまそうなんて考える余地のないような目で、まるで俺一人がおかしくなっちまったみたいに言ったのさ。それがなによりの証拠だ」
 女神像。セラルフィはその正体を知っている。正体というよりは、どういった過程で生まれたのかを見ていた。自分の心臓が埋め込まれた女神像。人をそのままセメントで何重も塗り固めたような。あの巨大な呪い。
「一晩で一度に? そんなことが本当に可能なのか?」
「可能と言えば可能だが、俺たちの常識で考えると限りなく不可能に近い。やろうと思えば莫大なエネルギーが必要になる。トト。お前には前話したと思うが、魔術はいわゆる麻薬だ。エネルギー源はその精神で、使えば心がすり減る。路地裏で無気力にうなだれてる連中は皆そんな奴らだ。魔術で金を増やそうとか、出来もしないことを強引にやった結果がアレだ。それをシルヴァリーはやって見せた。でもどうだ? 性格はアレだが、モノを考え、言葉を話せている」
 そういえばシルヴァリーの寄越した追っ手から逃げる途中、あんな大騒ぎで見向きもしなかった男たちがいた。薄暗く空気の重い路地の影で、変わらない地面を穴が開くほど見つめていたが、あれが魔術を使ったなれの果てというのだろうか。自分が魔術を使ったのかは自覚がないのだけれど、炎を生成したり操ったりしたことはあった。シルヴァリーに心臓を奪われたあの夜もそうだった。森一帯を焼野原にしたあの夜。
「そうだな……飽くまでも仮説に過ぎないが、『異次元の向こう側にいる|《マヨイビト》の心臓』は、世界そのものを破壊できるほどの魔力量を秘めているらしい。世界を一からやり直せるから別名『再生の臓器』とも言われているらしいがな」
 その言葉にセラの眉が小さく揺れた。再生の臓器。膨大なエネルギーを秘めた心臓。特殊な破壊方法を行えば、世界規模で全てを壊し尽くすほどの威力を発揮する兵器。シルヴァリーはそれを使って世界を作り直すつもりなのか。
 ……何のために?
「それで、それを監視しているのがいわゆるDOSだ」
「でぃーおーえす?」
Dimension(ディメンション) Observe(オブザーブ) Service(サービス)の頭文字をとってDOS。異次元管理局だ。皆『ドス』って言ってるけどな。簡単に言うと、別世界から迷い込んでくる危険因子を元の世界に帰す。もしくは排除する機関だよ。異空間からやってくる危険生物に侵入されでもしたら、その世界のバランスが崩れるからな」
「…………」
 ライムはシルヴァリーについて良く調べていたようだが、そんな組織が存在すること自体初耳だった。いくらなんでも詳しすぎる。セラの中でライムに対する疑惑が膨らんでいく。
「本来は小屋と張り合えるサイズの大型の竜ぐらいじゃないと、異空間内の圧力でペシャンコになって自然に絶命するわけだが、それでも異空間内を生きたまま移動できるような、『人型の高位生命体』は一般的に人ならざる者。|《マヨイビト》って呼ばれてるんだ。こいつが特に、一番タチが悪い。人に紛れ、ある時、国が一つ滅んだ。誰の仕業だと思う? |《マヨイビト》だよ。原因は|《マヨイビト》の理性崩壊による暴走。用は、そんだけの力を持った生物の心臓を抜き取れば、あのシルヴァリーも国程度の人口なんざ記憶を塗り替えるのは簡単だってことだ」
 |《マヨイビト》。その呼ばれ方をしたのは三日ぶりである。シルヴァリーが自分のことをそう呼んでいた。あの時は何を指しているのかわからなかったが、ライムの話を聞く限り、決して良い意味ではないようである。危険生物の代表格。人類最強の隠語。
 ――殺戮者の代名詞。
「でも、そんなでっかい生き物がここに居たとしたら、昨晩は町が大騒ぎになってるんじゃないの? 全員そいつを殺そうとするだろうし」
 やはりそういう判断になるのだろう。存在するだけで自分たちの命が脅かされるのだから、害意があろうとなかろうと、始末するのは当然の(ことわり)だ。
 心なしか、セラの表情は曇っていた。不思議と身体が軽い。長らく抱えていた重荷をやっと下ろせるような、そんな感じだった。流れからして案の定というか、ライムの口ぶりからすると今がそういう状況に置かれるべきだということをわかっているわけで。ましてや危険因子が同じ屋根の下にいるとなれば、こんな茶番はさっさと終わらせたいに決まっている。つまり――
「トト、お前はほんとにニブイ奴だな。知らないのか? 昨日町の外れで、『森がまるまる全焼』したんだぞ。それも、地面が大きく(えぐ)れてたんだと。ただの人間の仕業じゃない。しかも、そこに巨大な生物なんていやしなかったのさ」
「ちょっと待って。それって……」
「セラルフィ。お前、なんで心臓が無いんだ」
 どう転んでも、自分という人間は生きていてはいけないということだ。



       /1



 何時間、こうしていたのだろう。トトが自分とライムの間に挟まれている状況で止まっている。否、『セラを殺そうと注射器を持ったライムの目の前に、素手のトトが立ちふさがっている』だけであった。何時間も経過しているわけがない。ただの数秒を、自分が永遠に感じていただけだ。
「騙すつもりは無かったの。ごめんなさい」
 吐く言葉は力ない。誰に向けるわけでもなかった。ただ、自分が『そういう生き物』だったことを知り、言葉が見つからなかっただけである。この期に及んで、トトは自分を守ろうとしてくれている。
「気にしないで。君に悪意が無いことはわかってるから」
 それでもトトは、セラにそう返した。こんな状況で、悪意や害意の有無を考える余地などないはずなのに。そんな精神論を挟める事態ではないはずなのに。それはいわば、『体内に核兵器を埋め込まれた一般人を守る』ことと同義。それ以上のことを彼はしている。その一般人を殺せば、億単位の人々を守れるのに、たった数日の間柄で、なぜここまでのことが言えるのか。
「どけよ」
「無理」
「お前頭沸いてんのか? コイツが生きてる間は、俺たちが死ぬ可能性を常に背負(しょ)っとかないといけないんだぞ!」
「そんなの皆一緒だよ! セラが……|《マヨイビト》がいなくたって、誰にでも死ぬ可能性は付きまとってる。だいたい、セラがそんな事をする子だって本気で思ってるわけじゃないんだろ?」
「コイツがするんじゃない! 他の人間がそうするんだよ! 現にシルヴァリーの野郎が再生の臓器を使おうとしてる」
「じゃあシルヴァリーを倒せばいい! 簡単な事だろ!」
「簡単な事? おめおめと逃げて、俺に頼ったのはどこのどいつだ! 仮にシルヴァリーを殺したとしよう。その後はどうする? またシルヴァリーと同じことをしようとする奴が出てきたら、お前はどうするつもりなんだ!?」
「――やめてくださいッ!」
 まるで死ぬ直前の一言のように、その声は力強く、虚しかった。自分が勝手に巻き込んで、それを他人が争うなんて、セラルフィには耐えられなかった。張り裂けそうだった。
「望むなら私はいつでも死にます。でも事態はそれほど単純でもないんです。彼は言ってました。七日経つまでは私は死ねないと。つまり、つまり……」
「シルヴァリーを何とかしないといけないんだね」
 トトの言葉に、黙ったまま首肯する。
「ライム、聞いただろ? シルヴァリーを何とかしよう。皆で協力すれば、きっと」
「ああそうだな。コイツを今殺しても問題は解決しない。どうせシルヴァリーを殺すのは確定事項だ。手間が省けて良かったぜ! ……クソ、面倒事を持ち込みやがって」
「おい、そんな言い方ないだろ!」
「だったら何て言うんだ? 『世界を救うヒーローになれましたありがとうございます』って言ってほしいのか? そりゃそうだよな! お前は一人じゃ何もできない臆病者だったもんな! 言えよ嬉しいって! |《マヨイビト》のクソ野郎が来てくれたおかげで僕も英雄になれますってさ!」
「この……ッ!」
「トト。お願いですから」
 裾を掴んだ|《マヨイビト》の手は、トトが少し振り返るだけで解けるほどに弱弱しい。
「厄介事を持ち込んですみません。こうなったのは勝手に迷い込んだ私の責任です。シルヴァリーから心臓を取り返せたら私はちゃんとケジメを付けます。せめてその間だけ、心臓を取り返せるまでは……手を貸してください」
 俯いたままだったが、ライムが扉の方に歩いていくのを感じた。背を向けたまま、腑に落ちないような声音で、
「……少し風に当たってくる。ここにあるものは好きに使え」
 後にはセラとトトだけが残された。
「ごめん」
「なぜあなたが謝るのですか。悪いのは私なのに」
「本当はさ、僕。楽しいんだ」
 申し訳なさそうに苦笑する。彼はもともと謝る癖があるようにも思えたが、今回ばかりは本気で申し訳なく思っている言い方である。
「アイツの――ライムの言うとおりだ。こんな状況なのに、君が死にそうだって言うのに、こういう事態が楽しくて楽しくてしょうがないんだ。あのとき君がリラを助けてくれたのには驚いたし嬉しかった。彼女は僕にとっても大事な友達――妹みたいなものだったし。でもね、兵士に追われてる時とか、シルヴァリーとやり合うんだって思うと、わけもわからずに楽しくなって、どうしようもなく舞い上がってるような、そんな気分になるんだ。酷いってのはわかってる。人でなしって言われても言い返せないけど、でも……ごめん。やり合う前に、ちゃんと言っておきたかった。これが僕だから。表面上誰にでもいい顔をするけど、どんな人間だったのか記憶もないけど、これが今の僕なんだ」
 まるで胸のつっかえを取るかのように自分の胸中を曝したトト。セラの心臓をめぐる戦いの前に、後ろめたさを拭い去りたかったのかもしれない。
「……たぶん、私も同じなのかもしれません」
「え?」
「楽しかったんです。私も。兵士に追いかけられたり、殺されそうになったりした時も、まるで友達のサプライズパーティーを計画してるみたいなワクワクが、あったのかもしれません。だからトトも、謝る必要はないし、私はあなたを軽蔑しません。その資格もありません。何も知らなかったとはいえ、本当は私が一番、そんなことを感じていいわけがないのですけど」
 |《マヨイビト》という存在がどういうものなのかわからないし、自分が世界を壊し尽くせるような力を持っているとは到底信じられない。ただ、ライムの言ったように自分は自分の意思で異界からここへ来たし、どんなに魔術を行使しても精神に異常をきたすような症状は無いと思っている。
「トト、こんな時に聞いていいのかわかりませんけど、もしかしてライムは|《マヨイビト》に恨みがあるのではありませんか?」
「どうして?」
「私が異次元から来たと知った途端、態度が変わったからです」
「あいつは……あいつの妹は、|《マヨイビト》って人に食われたんだ」
「食われた?」
「蛇の腕を持った男だったらしい。あいつの妹は、そうだな。ちょうどリラくらいの年齢だった。その時の新聞だけは書庫にとってあるよ。きっとライムはそいつを捜してるんだ。ある人は山の神を怒らせたとか、祟りだとか言っていたけど。ライムの住んでいた村がそいつに襲われて、妹もそいつに」
 異端者という存在によほどのことをされたのだろうと予想はしていたが、さすがに土足で踏み込み過ぎただろうか。そんな空気を察したのか、トトが強引に話を終わらせることにしたようである。
「ライムは、そいつが異空間に消えていくのを見たらしい。とにかく、今は下手にライムと顔を合わせないほうがいいかもね。あいつもあいつで、素直な性格でもないから」
「そうでも無いみたいですよ」
 セラが床に散らばっていた羊皮紙の中、たくさんの赤い線が引かれた一枚を手に取る。
「これは……」
「この国の古記録ですね。町長になった経歴、人物がリスト化されています。見てください。やはりシルヴァリーの名前がありません。これを住民の皆に見せれば、もしかすると催眠が解けるかもしれない。少なくとも、彼らにも記憶の矛盾に気づくはずです」
 さも自分の手柄のように話してしまったが、そうさせるほど、この資料はシルヴァリーを追い詰めるための可能性を秘めていた。
「ずっと漁っていたのでしょうね。国中の書物を何から何まで、一人で……」
 まるで雛鳥(ひなどり)への羽化に立ち会ったような、心躍る感覚をトトから感じ取った。その感覚は確かに、トトという少年の中で言いようのない感情が芽生えたことを示唆していた。
「僕、少し風に当たってくるよ」
 ライムの開いた扉を開き、親友の背中を追った。



       /2



「あれはまさか――」
 実に数分前のことである。この町の兵団に入って間もないペジットは、ライムのアジトを物陰からひっそりと観察していた。ライムがその建物から出ていくのも確認済みである。
 今回指名手配されているセラルフィとトトの二人は別として、小隊長からライムの動向についても探るよう指示されていたのだ。シルヴァリーのことを裏で嗅ぎまわっている人間がいるという情報を、シルヴァリー本人から知らされ、それを特定することがペジットの所属する部隊の役目だった。どうやらシルヴァリーはあえてライムを泳がせていたようである。まさか指名手配犯二人も彼と通じているとは思わなかったが。
 兎に角。
「どうしようか……オレ一人で突入して、みすみす逃がしたなんてことになったら困るしなあ。小隊長の拳骨も地味に痛いし」
 砂埃の目立つ、栗色の髪を撫でながら小隊長の拳骨を思い出す。少しして、青色の瞳に決断の色が宿った。
「オレだって伊達に凶獣狩りをしてきたわけじゃない。今家の中にいるのは最低でも二人。大丈夫。十人までなら絶対に負けることはないさ。足音からしても三人いたかいないかだったはずだし……」
 国からこの町に支給された装備でも一番安物の兵団服を纏っているペジットは、一振りの長剣を確認して、家の前に立った。
 貧乏人には違いないが、貧困生活から脱するために鍛えた剣術だけが、ペジットの自信となっていた。災害孤児だったペジットは、もともと正義感だけは人一倍あった。きっとあの三人はこの町を脅かすテロリストなのだろう。それでこの町の子供を人質に、シルヴァリーを殺せとか言ってしまうのだろう。脳内で勝手に膨らんでいく悪の存在が、ペジットの正義感を更に大きくしていく。
「許さんぞ悪党共……ッ! このオレが、町を――ユーリッドを救って見せる!」
 扉に手を掛けようとした瞬間、向こうから独りでに扉が開いた。



       /3



 トトが部屋から出ていったと思ったその直後である。
「セラ! 来るな!」
「やはり居たか、テロリスト共!」
 物騒な物言いにセラが扉の方に視線を向けた。
「テロリスト!?」
 聞き返した瞬間。騒がしい声が交差したと思うと、冗談のような速度で一つの影がこちらへ吹き飛んできた。
 扉の先から覗くのはこの町の兵士特有の鎧を纏った青年。情熱に満ち溢れる顔には鋭い刀傷が流れている。赤い短髪を掻き、切っ先をこちらに向けた。まさかずっと跡をつけられていたのか。単身で乗り込んできたということは、まだシルヴァリー達にはここのことはバレていないはず。
 トトの方に目を向けた。彼の服は破れているところもなければ兵士の大剣に血が付いている様子もない。自分の身長と大差ない大剣で人間を吹き飛ばしたようだ。細い線からは想像もできない筋力を持っている。
 トトも打ちどころが良かったようで、後頭部を抑えながらも立ち上がった。
「トト! あなた彼に何を言ったんですか!」
「知らないよ! コイツが変な妄想をしてるだけだ!」
 赤い瞳が怒りに揺れる。
「妄想だと!? この期に及んで保身をはかるつもりか!」
「あーもう面倒くさい! ちょっと話聞いてよ」
 無駄に正義感のあふれている青年剣士。説得さえできれば何とかなるかもしれない。トトも同じことを思っていたのだろう。抵抗する様子は見せなかった。
 流れに任せて和解する方向へと持っていこうとしたセラルフィだったが。
「そうです! そこの兵士! あなたシルヴァリーの正体を知らな――」
「問答無用だ。悪は殺す」
 呆れるほど頭の固い男だった。
 他の兵士はゴロツキの制圧と自己防衛を両立させるために剣と盾を両方備えているようだが、この赤髪だけは両手剣のみの攻撃的な武装を施している。今こちらが対抗できる手段はセラルフィの持つ細剣と無制限の魔術行使のみ。あいにく魔術行使をしようにも心臓を奪われている今ではまともな力を発揮できないでいた。
「くそっ! やるしかないのか」
 手に(ほうき)を取るトト。ただの掃除道具で大剣を相手にできるハズはなかった。
「無駄な足掻きはやめろ。時間の無駄だ」
「うるさい!」
 大声をあげながら扉の男へ飛びかかるトト。どう見ても勝ち目はない。にもかかわらず、青年は大剣すら構えずに一歩後ろに下がった。
「いけない、止まって!」
 遅かった。あのまま屋内で青年と対峙していればわずかにも勝てる可能性はあったのに。一般的に大剣は大振りの武具。そういったタイプの相手には狭い場所での戦闘に持ち込むのがベターだったのだ。ただの特攻兵かと思っていたが、想像以上に戦い慣れしている。
 完全に誘い出された。
「一人目」
 足を掛けられたトト。体勢はあっけなく崩される。(かわ)す時間は無く、受け流す武器は無い。無意識に突き出した箒は刃によって豪快にへし折られる。
 セラルフィに助けられる力は無い。臓器一つ無いだけでこうも無力を痛感した日は無かった。声を上げる間もなく、
 ――凶刃の動きは停止した。
「トト、それは――」
 時間的な意味ではない。物理的な意味で、ペジットの大剣は勢いを殺されたのだ。金属と金属がぶつかり合うような不快音を発し、今まで無かったはずのソレは現れた。
「かな、づち……?」
 青い光を内包する、酷く機械的な大槌だった。
 ひび割れた装甲を纏っていると考えてもおかしくないその外装は、柄の着いた巨大な手榴弾(しゅりゅうだん)を思わせた。
 幾つもの筋が通った大槌。心臓の様に脈動している。溢れんばかりの光が外へ出ようと膨張し、それを留めようと大槌が収縮する。心臓。まさに生き物の臓器をそのまま武器へと変換したような禍々しい物質が、二人の間に鎮座していた。
『使用コード〝トレイル〟。所持者ノ生命活動ヨリ危険性ヲ感知。防御態勢ヘ強制移行シマス』
 無機質な女性の声が大槌から流れ出る。その大槌は間違いなく、トトの首元で揺れていたはずのネックレスだった。
 異様な光景を目にし、ペジットは悟ったように唇を震わせる。 
「なぜお前が魔道武具を! この国の中でも国王だけしか持っていないはず……始めは生け捕りにしておこうと思っていたが、事情が変わった。今ここで消してやる!」
 大きく踏み込んだペジット。大剣と鎧を纏ったその体はしかし、重量を無視した動きで瞬く間に肉薄した。
 再度追撃を狙う。胴ではなく、首へと。剣腹ではなく、刃によって。
 呼応するように大槌がしなる。
「ガッ」
 装甲が大きく膨張。空気を吐き出すのに酷似した音がこちらまで届く。大槌が砂煙を巻き上げ、トトの鼻先をかすめてその場を大きく旋回した。
 飛び込んだペジットは否応なく大槌に弾き飛ばされる。もと居た位置まで綺麗に吹き飛ばされるも、体勢を立て直して着地した。
「一、二回なら――ッ」
 躊躇をしている余裕が無いといった顔で、ペジットは両腕を突き出した。数秒で詠唱を終える。掌に浮かぶ黄色い歪み。蜃気楼のように揺れ、はっきりとした色が浮かび上がる。ソレが危険性を伴った何かであることだけはセラルフィにも分かった。
「下がって!」
 片手を突き出すセラ。ペジットよりも強い紅蓮色が魔法陣となって展開。ペジットとほぼ同時に魔術は発動した。
 黄色い光の奔流(ほんりゅう)がトトへ迫る。へたり込んでいた状態のトトが回避できる速度ではない。大剣の時以上の速度で、吸い込まれるようにトトの心臓へ照準が定まっている。
 セラの手から放たれたのは巨大な炎竜、ではなく――小さな火の粉だった。
(しまっ――)
 過信はしていなかった。それでも一介の兵士が使う魔術に劣るなどと、心臓を奪われただけの自分が。ライムから聞いた危険生物に含まれる自分が。炎を操るどころか、火の破片しか生み出せなくなっていたなどとは、欠片も思っていなかったのだ。
 虚しく目の前を通り過ぎる光線を追う。届くはずの無い恩人の元へ駆ける自分を責め、走る。二歩目に達するか否かのところで、
 ――またも大槌が動きを変えた。
「なにッ!?」
 大槌の装甲が大きく開き、身代わりとなるようにトトの目の前へ躍り出た。青い光がより一層漏れ出すと、ペジットの放った熱線はスパークをあげて衝突した。散る火花。青と黄色の交錯する空間で、セラルフィは目撃した。
 熱線を喰らう瞬間を。
 空腹を満たしたように蒸気を噴き出す禍々しい大槌を。次の瞬間、
「――ッ!」
 黄色い熱線をそのまま吐き返した。
 勘が働いたのだろう。ペジットは吐き返される前に射程から離脱し、横跳びに転げ回避した。
 興味が失せたのか、大きく開いた大槌の装甲は大人しくなり、先の脈動へと落ち着いた。迎撃のみが自分の仕事だと言わんばかりに、ペジットへの追撃は無い。いつの間にかペジットの顔にあったはずの落ち着きや正義感といったモノが消失していた。人ならざる者に出くわしたような、そんな目でトトを見ている。
 セラルフィも同じだった。奇怪な行動を起こす大槌。明らかにトトの意図した動きから外れている。たまらず訊いた。
「なんなんですかソレ!」
「僕もよくわからないよ! でも、」
「やるしかない」言いながら大槌を手に取り、トトの身体以上あるソレを軽々と持ち上げた。
 ペジットと同じように構える。
「セラは下がってて!」
「魔術も効かないのか……仕方ない」
 小さくつぶやくと、ペジットは(おもむろ)に鎧を脱ぎ捨てた。大剣を地に突き立て、小さく詠唱する。
 足元に黄色の光が灯る。光から文字が浮かび、それは円を組んで自身の足に纏わりついた。
「どこでもいい。切り落としてやる」
 光の尾を引いた。残像が引き延ばされ、人類の出せる速度を二段階ほど越えた走り。生物の移動速度を増加させる魔術。
 初めは勧善懲悪を行動原理にしていたはずの男の顔が、今や新しい玩具に対する嬉々とした笑みへと変貌している。殺すことを楽しむように。ライムの言っていた、『|《マヨイビト》を除く人間が魔術を使うと心がすり減る』というのはこの事を言ってたのだろうか。
 残像を目で追う。肉眼で追うことが限界の状況下に投げ出されたトト。気付けば、トトの背後まで忍び込んでいた。トトは気づいていない。
 それすらも大槌は捉える。
 独りでに動く大槌を手放さなかったトトは、妙な動きをしながらもペジットの剣を全て受け流していた。
「そんな単調な受けで――」
 大槌が動きを変えた。大剣の射程外へと弾き飛ばすつもりらしい。横殴りに大槌が回ると誰もが思った。現にペジットは半身を反らせてそれを避けようとした。その最中。上空を通り過ぎようとした横方向のベクトルが真下へ向き、ペジットの上半身へ振り下ろされた。
「ぐ、ぁっ」
 受け止める。生身の体と大槌の間に大剣を差し込んだ。咄嗟の行動は仇となる。大剣の重量と大槌の重量を上半身に一挙に受けることとなったペジットは仰向けのまま大地に叩き付けられた。
 小さな陥没が起こる。
 このまま再度大槌を振り下ろせば仕留められる、が。
「あづッ!?」
 大槌を持つ腕が急に変な方向へと曲がる。関節が持っていかれそうなところで、トトが慌てて大槌を放棄した。今まで軽々と振り回していた大槌が、急に重力に従い地に落ちる。
「何でだよ、クソッ! 動け……!」
 力一杯柄を引くが、地面を小さく抉るだけで満足に持ち上げることさえかなわなかった。急に主人の意思に反する大槌に、ペジットが薄く笑う。
「そこらの市民が慣れない獲物を使おうとするからだ。まして魔道武具なんてゲテモノを扱えるのは国王くらいだ」
 足払い。隙を狙われたトトは無様に横転する。ペジットは立ち上がり、トトの胸を踏みつけ動けないようにした。
 目が泳いでいる。口元が緩む。歯が覗いた。声が漏れた。だらしなく。
「正義のぉ……鉄槌だぁあああははははは!」
 容赦のない切っ先は命を奪い取る瞬間のソレだった。セラが何度も経験してきた殺し合いのほんの一シーンの光景。鍔迫り合いの最中、留めの一手。セラにはコレがどういう状況なのか知っていた。そうだ、殺し合いと言っても、殺すつもりで殺したのではない。全力の一撃が偶然に、あるいは計画的に決まっただけであって、それが命を奪えるものなのかは確信できなかった。分かるのは、いつも相手が絶命した後――
 死ぬ――まっすぐ心臓へと振り下ろされた大剣。
 死ぬ――水面を通したように歪む視界。
 死ぬ――脳内をかき乱す膨大な情報量。
 死ぬ――速度を落とさない刃。
 トトが――死ぬ?
 巨大な火柱がペジットを吹き飛ばした。
 音も無く、熱の化物は生身の人間を喰らい、遥か後方へと消える。大剣がトトの服を破る寸前の出来事だった。
 動いたつもりがないのに、気付けばトトの前に自分が立っていて。突き出した右手からは残り火が(きぬ)のように柔く揺らめいていた。ダムが決壊したと思うほどに、今までにない威力で業火を開放したのだ。
「セラ!」
 トトの声を耳にした時にようやく正気を取り戻す。魔術を使えた自覚は無いが、結果的に自分がトトを助けたことに代わりはない。
「殺させません。彼は私の命の恩人。言葉による解決が不可能なら結構。この剣であなたの目を覚まさせてあげます」
「チッ。オレは女を切る趣味なんてないんだぞ」
 再度加速する。|《マヨイビト》と呼ばれたセラルフィでさえ目で追えなかった相手だ。口上では剣士同士の切り合いをにおわす発言をしてしまったが、まともに刃を打ち合うことはできそうもない。
 セラルフィは行動を一つに制限した。博打に近い攻撃手段にされているが、使えない訳ではない。
 右前方に現れるペジット。セラは目もくれなかった。初手の攻撃は高確率で誘導である。ペジットのように速攻で決めに来るタイプならば、次の手は大振りかつ広範囲の攻撃のみだろう。真反対の左前方に手をかざした。
 一か八か。相手をひるませることのできる威力が出せれば。そう願うだけの賭けの一撃だったが。
「ぐゥッ」
 今度はロクに火を生成することもできない。予測通り左前方に現れたペジットだったが、ペジットの魔術を止められなかったセラが何度も同じことをできないと予測していたのだろう。顔面を掴まれ、そのまま大木へと沈められた。大木か自分の骨か、どちらか分からないような不気味な音を発して制圧された。
 追撃を阻止しようとトトが前に出る。大槌を掴む手を目視したペジットは一度大きくステップし後退した。 
「ダメだ。あいつ見た目以上の怪物だぞ。僕やキミじゃ――今のキミじゃ、まともにやりあえない。お願いだから逃げてくれ」
「悪いですけど、まともにやりあうどころか、まともに逃げきれるかも怪しいです。今のあなたのほうがまだ逃げ切れるかもしれません。逃げてください」
 一時睨み合いの状態だが、そんなに長くはないだろう。無駄に互いの身の安全を優先するところ、ペジットを倒す算段はもう尽きたことを暗示していた。
「なあ、勘弁してくれよ。そんな取ってつけたような思いやりなんて、オレは見たくないんだ。悪は悪らしく、卑怯な手でも使ってくれないとやり辛いんだよ」
 向こうも正気を取り戻したのか怪しい。人を殺めることに躊躇しているところを見ると、魔術を行使したとはいえ精神の鍛えられた人間ということなのだろう。情緒の不安定状態から安定するまでの間が短い。
 しかし、殺すという目的だけはやはり覆らないようだった。
「ああ、畜生。せめて二人同時に切り落としてやるから……動くなよ」
 ゆっくりと近づいてくる死。シルヴァリーに課せられた寿命よりも早く、自分が死んでしまうなら良い。だが死ぬのはトトだけだ。シルヴァリーの言っていたことが正しいなら、自分はどんなに腕をもがれようが足を切り落とされようが死ぬことができない。心臓は奴の手の中だ。異空間でつながっているとは言っていたが、恐らく致死量までの出血に至らないのだろう。あるいは、|《マヨイビト》の特性とも呼べる異常性がそうさせているのかもしれない。
 あと数歩。大剣の射程圏内に入るところで、
「やめてお兄ちゃん!」
「お兄ちゃん?」
 聞き覚えのある幼い声。その女の子の声によって、二人の(特にトトの)寿命を延長することが出来た。
 ペジットはその少女の方へ意識を向ける。剣を握る手は自然、緩んでいた。
「リラ、なんでお前がここに……って、そのケガどうした!? 誰にやられた? まさかうちの兵団のやつらか? わかった! こいつらだろ!? 今ちょっと大事な話してるから、兄ちゃんが良いって言うまで裏でまってろ」
「なに言ってるの? この二人はシルヴァリー達から私を助けてくれたんだよ!?」
「バカ言うなよ。こいつらがそんな……本当なのか?」
 考える素振りを見せるペジット。少しの間唸るようにしていると、信じたのだろう。大剣を背に納めた。
「命拾いしたなお前ら……。完全に信じたわけじゃないが、リラはお前たちの知り合いでもあるみたいだしな」
「……その前に、さっきまでの横暴について謝罪してほしいな」
 痛そうに後頭部をさするトト。ペジットは特に悪びれる素振りもなく背を向けた。
「バカ言うな。テロリストの疑いが晴れたわけじゃないんだぞ。一時休戦ってやつだ」
「はいはい。まあいいや、それよりもリラ。君もだけどお父さんお母さんは大丈夫だった?」
「うん。お姉ちゃん、あの時は助けてくれてありがとう」
 セラも剣を納める。リラが現れてくれたおかげで、ペジットもただの真面目な一兵士へと正気を取り戻したようであった。彼女がいなかったら自分たちもただではすまなかっただろう。
「いえ、助かったなら何よりです。今後は更に兵士達の動きが激しくなるでしょうから、リラはご両親と一緒に家から出ないようにしてくださいね」
「うんっ」と、引きつった笑みで返した。リラがやせ我慢をしていることは明らかである。少しだけ膝が震えている。シルヴァリーに付けられた傷やアザが痛々しく小さな体に刻まれていた。セラ達に心配をかけまいとしているのだろう。
「可愛そうに。私たちはあまり表に出られませんから付き添えませんが、ひとまず彼と一緒に両親の元へ行った方が」
 突如。
「行った方が良い」と言い切る前に、リラとセラルフィの間で陽光が歪んだ。蜃気楼を思わせる歪み。あるいは風にはためく暖簾(のれん)のように、ソレはゆらゆらとはためき始める。ある範囲だけ肉眼で認識できるほどに、穏やかな景色が折れ曲がり、
 巨大な爪が飛び出した。
「なんだッ!!」
 分厚い空間の膜を引き裂き、強引に頭部をあらわにした赤い生物。この生物は、ペジットの言葉を借りるといわゆる、
「魔獣だ! なんでこんなタイミングで」
 魔獣である。通常両生類と爬虫類など、異種間での肉体的合体を果たした奇怪な生物を魔獣と呼んでいるが、アレはそういう類のものでは無かった。
 竜の頭部だった。身体が巨大すぎるのだろう。空間の裂け目から無理やり押し広げた腕だけでも、セラルフィの体を優に越えているくらいだ。無理やり体をねじ込もうとしているが通れるはずがない。何を目的にして来たのか、堅牢な赤い鱗を持つ竜は、宝石のように透き通った黄眼を一周させて一人に焦点を合わせた。
 アザだらけの小さな体。リラである。
「下がれ! 食い殺されるぞッ」
 ペジットの怒声。ノコギリよりも鋭く並んだ歯から火の粉が漏れ出す。全盛期のセラルフィにも匹敵するような熱量でこちらを睨んでいた。
「なんなんだコイツ! どっから出てきた!」
「恐らく異空か――」
 言い切ろうとして口を閉じる。ペジットは|《マヨイビト》のことを知らない。そこへ新たな声が飛んできた。
「異界の侵入者だ! うかつに近寄るな!」
「ライム! お前今までどこに行ってたんだ!」
「野暮用だ。それよりもコイツを何とかするぞ」
 ペジットは落ち着いた様子で、しかし切っ先を竜から外さない。
「近づかなければ問題ないだろう。よく考えればあの大きさの……穴? か、分からないが。とにかくコイツはここまで出てくることはできないはずだ。見たことのない魔術を使っているようだが、どうやって来たんだ?」
「……いや、放置しておくのはマズイ。コイツはこの空間にヒビを入れる事が出来る生物。しかも異空間の圧力で圧死することなくここまで来れたということは――」
 空間に立つ竜のかぎ爪。氷塊にヒビが入っていくような不穏な音が広がる。
「この世界まで侵入する恐れがあるってことだ」
 咆哮。
 同時、薄赤色の空間がセラルフィとリラ。そして赤竜の三者を招き入れ、その他全てを弾き飛ばした。
「これは……結界ですか」
 発動者の指定した生物、物質以外の全ての侵入を拒む固有領域。人間なら良くて意識障害も避けられないレベルの膨大なエネルギーを必要とする術である。赤竜の生成した空間はまさにそういうモノだった。
 背後ではトトやペジットが必至に声を上げている。それでも外部の声はここまで届かない。何とか結界の内部に入ろうと必至に武器を叩きつけているが、ヒビの一つも入ることは適わない。
 彼らの言わんとすることは分かっている。人間においても結界を構築するということはそれだけ『緊急の事態』であるか、そうしなければいけない相手と戦闘になっているかの二パターンしか無い。この巨大な生物は結界を構築することに人間ほどの〝覚悟〟は必要ないだろう。それだけの生命力が宿っているのだから。
「お姉ちゃん」
「心配しないで。出来るだけ後ろに下がっててください」
「でも」
「信じてください。絶対にリラを傷つけさせませんから」
 赤竜が意図的にセラルフィを結界へと誘ったことは明白。その理由は無論、人ならざる者の力をセラルフィが有していると認識したからだ。とどのつまり、〝危険生物〟とみなされたわけである。
 リラが数歩下がったと同時、赤竜の眼が黄金の輝きを放った。
「――ッ!」
 得体の知れない力の塊を感じる。セラルフィはほぼ無意識に火球を生成し、ぶつけた。
 先ほど放った火球がある地点で停止。そのまま動かなくなり、やがて消失した。
「まさかシルヴァリーと同じ……いえ、別物ですね。捕縛の類ですか」
 どうやらあの眼には対象の動きを制限する能力があるらしい。リラを封じ込めようとしたのだろう。
「早急に始末した方が良いですね」
 静かに、魔の術式が全身を侵す。それは、膨大な力を発動する前の、|《マヨイビト》という高位生命体特有の症状。
 帯剣していた直剣を抜く。顔の前に直剣を構えると、一気に炎が立ち上った。
 一閃。波状に伸びる火炎の刃が相手の首を狙う。しかしその刃は鋭利な歯によって受け止められる。直後の爆発。赤竜の視界を覆うように高熱の光が広がった。
 狙ったように飛び出した人影。光の膜を切り裂き、迫る。獲物を狩る瞳。赤竜の眼球へと伸びる切っ先は鋭い。
 赤竜の瞳孔がひときわ細くなった。強引に火炎を吐き出す。放射状に吹き荒れる火の嵐はセラルフィの体を完全に取り込んだ。
「これが竜の炎。なるほど、〝良く馴染(なじ)む〟」
 直剣が大きく旋回したと思うと、先ほどまでセラルフィを覆っていた攻撃的な業火は完全に直剣の支配下に置かれた。
「あなたと遊んでいる時間は一秒も無い。帰ってもらいます」
 莫大に膨れ上がった火球はさながら隕石の様に、更に形を変え、巨大な槍と成ってゼロ距離で突き――

 セラルフィの腕は槍ごと食いちぎられた。

「――――」
 息を呑むリラ。声の上がらない光景。地に膝を付くセラルフィ。
 よく見れば、その腕は完全に食いちぎられてはいなかった。寸でのところで手を引いたのだろう。しかしあの鋭い歯でズタズタに筋肉まで引き裂かれていることは明白である。少し引っ張れば簡単に肘から剥がれ落ちそうなほどに、赤く濡れた細腕は情けなくぶら下がっている。
 それでも赤竜は大口を開け、セラルフィの首を喰おうとしている。異空間に掛ける爪はさらにヒビを深くさせる。頭部に迫る歯。垂れる唾液。炎混じりにかかる息。その顎がセラルフィの頬に触れた時、『妙な音』がした。
 絶叫。
 しかしそれは人間の出す叫びではない。これは間違いなく、およそ内臓の底から湧き上がるような、巨獣の出すソレだった。
 セラルフィはぬぐった。口の端から垂れる、ゼラチン質と赤土色が混ざった何かを。
 消えた赤竜の左目。そこにあるはずだった眼球。
 リラの視界に映ったのはそういうモノだった。獣の眼球を喰らう人間の――
「喰らえ」
 赤。ただひたすらに赤。真紅に濡れたセラルフィの右腕が強引に持ち上がる。血よりも赤いその液状の炎は、口づけをするように赤竜の鱗に垂れ――大きく燃え上がった。
 もがく赤竜。異空間に掛けた爪に力が入る。大きく空間が引き裂かれ、その巨体が侵入できるほどの大きさになる。それでもこちらの世界に侵入することは無い。悲痛の咆哮がセラルフィの体を突き抜けた。その身をよじり、赤竜はその巨体を退け異空間へと姿を消した。
 ガラスが砕け散るような音で徐々に結界が剥がれ落ちていく。真紅に染まった景色が青々とした空間に変わったとき、真っ先にトトが駆けよって来た。
「セラ!」
 向こうではペジットがリラの元に付いている。どうやらリラの方も無事のようだった。ただ唯一、視線だけはセラルフィの右腕から外れない。
「セラ、その腕」
 ライムも少し離れた位置で観察しているが、傷の具合は察しているようだ。
「出血の量がひどい。もう死んでいてもおかしくないぞ」
 相変わらず無感情に分析してくる。|《マヨイビト》相手だとそうなのだろう。
「心配は要りません。よりにもよってシルヴァリーに助けられることになるとは思いませんでしたが」
「心臓爆破の呪いか」
「ええ、彼から心臓の呪縛が解けない間は死ぬことは有りません」
 トトが不安そうにセラを見ている。
「でもセラ。死なないとは言ってもその右腕の治療はした方が良いよ。はやく家に戻ろう」
「それなら」
 言い終わるより早く、セラルフィの右腕を激しい炎が喰らった。魔術の暴発ではない。意図して傷だらけの右腕を襲わせたセラルフィはしかし、その熱さに眉ひとつ動かすことなく右腕を振りぬいた。貼り付いていた火炎は空気に溶ける。ぎょっとしたトトの眼先には、傷口の塞がったセラルフィの右腕があった。
「火でふさげば治ります」
「セラ……」
 塞がった傷。しかもただ止血されたのではなく、始めから傷などなかったかのように完治している。歪みを見ているようだった。兵士達から追い回され、気絶していた時のセラルフィとは何かが違っていた。
「本当に、大丈夫と思っていいんだね?」
「ええ。見ての通り。何かおかしいですか?」
「…………」
 トトが何も言えないでいると、セラルフィは特に気にする様子もなく、気を失ったリラの元へと行ってしまった。
 そんなセラを見て、トトは口にしてはいけないと思った。
 少しずつ。それでも確実に。セラルフィとしての人格が欠落していることを。


       /4


 すっかり疲れて眠ってしまったリラを抱き上げ、ペジットはライムの隠れ家の前で家主と何かを話していた。
「お前が国王を……シルヴァリーを疑う理由はなんだ」
「俺の口から言っても信じないだろ」
 ぶっきらぼうにライム。シルヴァリーが本当の国王ではないよそ者だということを説明しているようだった。しかしライム自身この正義心の塊に訴えかけたところで考え方が変わるとは毛頭思ってないようだが。
「当たり前だ。そもそも悪党の言うことなんて聞く前から切り捨ててる」
「だろ。でもアンタは俺たちを斬らなかった。リラを守ったセラルフィに恩があるからな」
 当の本人であるセラルフィはここから少し離れた川の前で座り込んでいる。酷く疲れた様子だった。トトはセラルフィの元に行こうとしていたが、ライムが「そっとしておけ」の一言で留守番役を任されることとなった。
「……お前はストレートにモノを言うな」
「遠回しに言っても面倒だからな」
 ライムの言った通り、ペジットは相手が誰であれ恩を仇で返すような人間ではなかった。妹であるリラをたった一人で守ってくれたのだ。だからライムの話も仕方なく聞いている。
「証拠は割と持ってるんだが、たぶんアンタの耳で直接シルヴァリーに訊いた方がいいだろ。俺が過去にあったことを全部言ったら『暗示をかけられた』とか言って言いくるめられそうだからな」
「訊くって何をだ? 俺はもともとシルヴァリーの下で動いてる一般兵だぞ」
 首を振ってため息を吐く。もともと疑いを一枚挟んでこちらの話を聞いているのだから、否定的な態度を取るのは分かっていた。
 ライムも適当に返す。
「逆に訊くが、その一般兵であるアンタはいつからそのシルヴァリーの下で働いてるんだ? どういう人間なのか知ってるのか? どうやってあいつが国王になったのか説明できるか? 俺の持ってる証拠品の中では国王とよく接触していたみたいだったぞ」
「…………」
「例えばアレだ。アンタと国王はだいぶ親しい間柄らしいから、国の後ろめたいこととか一つや二つあるだろ。そういうのは急に国王に成り代わった人間じゃ知らないことだ。後は自分で考えるんだな」
 そう言って壁に体をあずける。腕を組んで諦め気味に笑った。
「ま、自分の社会的立ち位置も大事だからな。怖いなら無理に訊けとは言わないさ。どうするかは自分で決めてくれ」
 しばし沈黙。ふと腕の中で眠っているリラを見やる。その腕に出来たアザに眉根を寄せた。
「……助けてくれたことは礼を言う。ただ、指名手配犯をかばうような真似はできないな」
「じゃあやっぱりシルヴァリーに付くんだ」
 ライムは組んだ手を後頭部にあてがい、つまらなそうに言った。
「そんなことは言っていない。オレはもう上の奴らに顎で使われるつもりはなくなった。ライム。お前にあれこれ言われる前からな。だいたい想像はついてる。お前ら悪党は国王の首を取って何かしらの手段で国の主導権を握るつもりなんだろう? もっとも、その国王が悪党だったようだがな。だったら俺は俺のやり方で悪党共を根絶やしにするだけだ」
「……何をする気なんだ?」
「決まってる。シルヴァリーを討つんだ」


       /5


「話とは何ですか? ペジット」
「シルヴァリー殿。いや、シルヴァリー」
 上下左右とも広い謁見室。そこにシルヴァリーとペジットはいた。ステンドグラスが至る所に貼られたこの空間は、一見すると協会のようでもある。
 王とどこぞの一般兵が二人きりで、しかも城の一室をまるまる貸切で使う事例などただの一度もなかった。本来は警護兵は最低二人以上は王の後ろ――少なくとも扉の向こうに付いているものなのだが、このような状況を作ったのは紛れもなくシルヴァリーである。ペジットの呼び出しに素直に応じたこの男に、妙な違和感を覚えていた。
 違和感に構わず話を切り出す。
「失礼を承知でアンタに訊きたいことがある。もしオレの不安が当たってなかったら、打ち首だろうが八つ裂きだろうがどんな罰でも受ける所存だ。単刀直入に言う。貴様、何者だ」
 その言葉に動揺の素振りは無い。むしろこう質問されると分かっていたかのような笑みを浮かべている。そしてあらかじめ決めていたかのような返答を提示してきた。
「どうやらネズミの――ライムに何か吹き込まれたようですね。大方私が本当の王ではないとでも(うそぶ)いたのでしょう?」
 ペジットの予想した答えが返って来た。教科書通りの返答すぎてむしろ疑わしい。
 こちらはリラを傷つけられたという第三者からの情報。それもペジットの言う『悪党ども』から得た情報のみで王に反抗意識を向けているのだ。無論証拠はない。しかし現にリラは目も当てられないような外傷を負っている。悪党どもにつけられた傷かもしれないといった考えは確かにあった。それでもその悪党どもがリラを助けてくれたのも事実。
「ああ、そうだ。オレは信じるに値しない悪党どもから信用に足る情報を貰った。それを信じるオレはもう主たる貴様に忠誠を誓う資格はない。質問を続ける。貴様がこの国の王位についたのはいつだ? どうやって王になった。いつ国民の信頼を得た」
「本当に疑い深い男だ。ペジット。あなたは知っているはず。私がどれだけ国民のことを思っていたか。国民にどれだけのことをしてあげたのか」
「その国民を踏みにじったのはどこのどいつだッ!!」
 とうとう背に掛けていた大剣を抜く。両の手から伸びる切っ先はシルヴァリーに。
 やはり無駄話をする必要は無かった。白々しい態度。見透かしたような笑み。周りに警護兵を置かなかったのはやましいことがあったからに違いない。しかもあの様子だと始めから自分が何かに気づいていることを知っていたようだ。不利な立場になる前に自分を始末しようという算段なのだろう。だが、ペジット自身剣術の素人であろうシルヴァリーに劣るほど腐ってはいない。
 ペジットの腹の底から湧き上がる疑惑の波が荒れ始める。次第にペジットは激しい頭痛に襲われ始めた。立っているだけで精一杯なほどに、脳を襲う痛みは『記憶の矛盾』を砕いていく。
 ――そもそも気付くのが遅すぎたのだ。あのテロリスト達が現れるよりもずっと前からこの国はおかしかった。少し考えれば分かったはずだ。『国王たるシルヴァリーについての記憶が全員曖昧だった』ことに。そもそも自分はこの男を知らない。知るはずがない。まるで初めからこの国を統治していたかのようにすり替わった国王シルヴァリー。国民全員がそれを当たり前のように受け入れていたから。自分自身も同じようにこの異様な日常を認めていたのだ。そうなるように仕向けたのもシルヴァリーの仕業だったのだろう。
「誤魔化すのも大概にしろ。オレは貴様の悪行を知らなかった。いや、忘れていたんだ! 貴様の奇怪な術で、国民全員がおかしくなった。オレがアンタのことを知っている? 違う。オレはアンタなんて知らない! 何も、シルヴァリーという男を一切知らないんだ! 全部そうだ。言葉で自身を表現して、耳にした人物像だけを信じ、その実態を目にしたことなんて無かった。他人からの情報だけで、オレだけじゃない。オレ達国民はアンタに泳がされていたんだッ!」
「その他人の情報とやらで悪党どもに踊らされているアナタはどうなのですか? 冷静に考えても見てください。奇怪な術を使ったのは本当に私なのか。知らぬ間にその悪党とやらにたぶらかされていないのかを」
 これでもまだペジットを御する自身があるのか。シルヴァリーは穏やかな声音で撫でるようにペジットをなだめる。
 しかしペジットはその茶番を終わらせた。
「――『水龍を封印した』のはいつだ」
「……なに?」
水神様(みずがみさま)を退けたのはいつだと訊いたんだ! 年に一度、生け贄に捧げなければならなかった生き物。洞窟につながる湖で息を潜めた海蛇の魔獣がいたハズだ! そいつを討伐すると最初に言い出した男に、オレは。オレを含めた男たちは心を動かされ、そいつを洞窟の大岩に封印したんだ! あれだけ熱意を持って説得した男が、国王になった男が、その歴史的な一夜を忘れる道理があるか! 答えろ、シルヴァリーッ!」
 怒声に近い訴え。相手はしばし沈黙し、やがて、笑みを消した。
「まったく」
 懐にしまっていた懐中時計を取り出す。時刻を確認しているようには見えない。
 その時感じた。シルヴァリーの発する空気が一気に冷えていくのを。そして、今度は困ったように笑う。
「熱意ある部下ほど有能で――扱いにくいものは無いな」
「ッ!」
 一度自分の手甲を見やる。大剣を握る手に一層の力がこもる。
「今一度思い出すといい。あなたの国王が誰だったのか。その手助けをして差し上げましょう」
「笑わせるな!」
 怒声の直後。脚に流した力が床に停滞。そのまま一気に蹴り上げ接近する。奴は奇怪な術を使い人を惑わす力がある。ならば長期戦は無意味。今更距離を取るのは愚策に近い。やるならばこちらから仕留めにかかるしかなかった。
 あと数歩で刃の届く範囲に立つシルヴァリーだったが、いたって冷静に思考をしている。ペジットとの戦闘など眼中に無いと言わんばかりに、面倒くさそうに吐き捨てた。
「まずは、あなたの知っている国王と出会う前まで記憶を巻き戻さないといけないようですね。やれやれ、面倒だ」


       /6


 ライムの隠れ家から少し離れた河川。小さな光の粒が薄暗い風景を漂っている。淡い光は一度セラルフィの指先に留まり、また飛んでいった。
「トト、私はやっぱり、何か変でしたか?」
「気配で誰かを特定してるとこを見ると見違えるほど強くなってるよね」
 まさか声をかける前から気付いていたとは。何と声を掛けようか考えていたトトにしてみれば完全に意表を突かれていたし、むしろ呆れてしまった。つくづく分からされる。|《マヨイビト》というのは生物として異常に高い能力を持っているらしい。
 隣に腰かけ、ぼんやり浮かんでいる蛍の光を目でなぞる。
「正直アレは驚いたよ。あんなにひどいケガだったのにさ。自分を焼いて治すなんて」
「……私はそんなことをしていたのですね。他には何かしてました?」
「なに? もしかして覚えてないの?」
「いえ、ぼんやりとは覚えている気はするのですが。ペジットがトトを殺そうとしたときは無我夢中で」
「ドラゴンのことは?」
「…………ドラゴン、ですか?」
 記憶が錯乱しているのだろうか。とは言っても忘れたというような顔ではなかった。まるで夢遊病のように、気づいたらここに居たとでも言いたげな顔をするセラルフィ。
「右腕のケガはドラゴンと戦った時に負わされたんだよ。って言っても、今は無傷だったね」
「そういえば右腕を斬られたような、殴られたような……なんとなくですけど」
 何も覚えてないらしい。
「もしかしたらだけど、セラルフィは|《マヨイビト》の恩恵を一時的に失くしているのかもしれないね」
「恩恵ですか」
「ほら、ライムが言ってたやつだよ。魔術は麻薬。これは仮説でしかないけど、心がすり減って廃人になっている人たちがいるよね。それに比べてキミはどんなに魔術を行使しても人格を保っていられたんでしょ? でもそれは心臓あっての事だった。心臓が膨大なエネルギーを秘めていて、人格を保たせてくれたのは全部その心臓。生物的に生きてこそいるけど、心臓の主導権はシルヴァリーに奪われた。だから魔術をうまく使えなかったし、使った途端人格が代わった」
「一体……どんな風に?」
 そんなことを訊かれ、トトは一瞬言葉を詰まらせた。実は結界を破ろうと大槌を打ち付けていた時、外で見ていたのである。正確には見えてしまった。人並み外れた動きでドラゴンを制圧しようとしたところもそうだが、なにより、竜の眼球を瞼ごと噛み千切った瞬間を。
「まあ、格好良くなった。かな」
「なんだかふわふわしてますね。ソレ」
「今のキミほどじゃないよ」
 今のセラルフィは、自分が知っているセラルフィなのだと思う。なんというか、ちゃんと不安定というか。ちゃんとというのも変だし、まだ数日足らずの関係で何が分かるわけでもないのだが。
「ねえ、セラはなんでここに来たの?」
「え?」
「|《マヨイビト》って、何か目的があって異空間を渡ってるってライムに聞いたんだ。セラも、何か大事な用があってここにいるのかなって」
「私は……」
 河川の向こうで水を飲みに出てきた二匹の狐を見る。親子らしかった。傷を負っている子狐を親狐が舐めて励ましている。足取りがおぼつかない子狐は、親の横を必死について行っていた。
「実は、この世界には迷い込んだわけではないんです」
 トトは頷いてそれを聞いた。
「姉を捜しているんです。旅の途中で別れてしまって」
「お父さんやお母さんは?」
「殺されました」
 訊か無い方が良かったと、トトは後になって悔やんだ。姉の話が出て両親の話が出ないということはそういう意味もあっただろうと、鈍感な自分に嫌気がした。
「|《マヨイビト》が忌み嫌われているのは、ライムの言った通りです。たぶん異次元管理局の人たちなのでしょう。危険だから殺される。当然のことです」
「そんなこと……」
「いえ、現に私はそういう目に合わせているようなものですから。とにかく、私たちはそういう人から逃げて、ある場所で姉とはぐれてしまった……。姉を見つけられたら、今度こそ二人で、誰にも見つからない世界で暮らしたいんです」
「今となっては、それどころではないのですけれどね」と言いながら、近くの小枝で清流を混ぜるセラルフィ。
 特に気を害している風ではなかったが、やはり何か別の話で気を反らした方がいいかもしれないと思い、適当な話を振ろうとしたが、
「トト。私はやっぱり、一人で戦った方がいいのかもしれません」
 唐突に、セラルフィが言った。
「魔術を使うのが怖い?」
「分からないんです。私がドラゴンからリラを守っていたというなら、たぶん無我夢中でリラを守ったのだろうとは思います。でも心なしか、リラを守るために戦ったというよりは、邪魔者を追い払うことを主として動いていたような気がするんです。恐らくこのまま戦いが長引いていたら、私がリラを焼き殺していたかもしれない」
「うん。そうだろうね」
 淡泊に言うトトに、リラは苦笑した。
「否定はしないんですね」
「いや、そうじゃなくてさ」
 自分の首にかけていた大槌のアクセサリーを取り出す。
「僕もこんな物騒なものを持ってたんだ。勝手に巨大化して暴れまわるなんて、君を殴り殺してたかもしれないだろ? あの場合だと下手したらペジットも無事じゃなかったかもしれない。殺し合いだから当然だったけれどね。でもリラは間に割って入ってそれを止めてくれたんだ。だったら僕も、リラの間違いを止められるかもしれない。心臓を失くした|《マヨイビト》なら尚更だと思わない? 今のキミは言わば、心臓が無いことを除いて僕たち人間と同じなんだよ」
 同じ人間だと言われ、また黙り込む。もしかしたら自分は酷いことを言ったのかもしれないと、トトは不安になった。セラはどこをどう見ても人間と同じだ。|《マヨイビト》と知っているだけで、自分は心のどこかでセラのことを人間以外の何かだと思っていると。捉え方によってはそうセラルフィに見られてもおかしくはない。
「そうですよね。何かあれば、トトが何とかしてくれますよね」
 不安がバカバカしくなるほどに、セラルフィは笑っていた。
「なんだか前より僕に頼り切ろうとしてない?」
「信頼してるだけですよ」
 トトは「そっか」と、軽く笑うと立ち上がって伸びをした。無駄な心配だったかもしれない。なんだかんだ言ってセラルフィはちゃんとリラを守っていたではないか。人格が消えかけているなど過ぎた不安だった。
 すっかり安心しきったトト。あとはライムとも関係の修復をしておかないといけないな。そんな事を考えていると、
「お前らここにいたか!」
 ちょうどライムが現れた。
「あ、ライム。ちょっと話したいんだけど」
「んなもん後にしろ! さっさと家に戻れ!」
 やけに焦っている。セラルフィは小首を傾げた。
「どうかしたのですか?」
「囲まれてる。シルヴァリーの寄越した追っ手だ」
「――!」
 なぜシルヴァリーが隠れ家の位置を知っているのだろうか。この場所を知っているのはここまで跡をつけてきたペジットだけのはず。
「まさかペジットが」
「いや、あいつはシルヴァリーと戦ったはずだ。リラを傷つけたのはシルヴァリーだったんだからな」
「じゃあなんで!」
「やられたんだよ。シルヴァリーに。|《マヨイビト》の力を奪えるあいつなら、ペジットほどの兵士でも劣ることは無かったんだろう」
「じゃあペジットはもう……」
 敵だった相手を心配している状況でもない。そう言いたげなライムは、その話を遮った。
「今は家に戻るのが先だ。裏道を用意してある。さっさと行くぞ」


       /7


 アジト内に戻った三人。明かり一つない空間で、静かに外の様子をうかがっていた。
「何人来てる?」
「さあな。こんな真夜中じゃ相手が人かも分からねえよ」
 ライムの言う通り外は月明かりすら届いていない。(うごめ)く影は禍々しく、それでも次第に大きくなっていることだけは分かる。影の塊は確実にこの隠れ家へと迫っている。
「それよりも、これだ」
 床に敷いていたカーペットを剥がす。そこから鉄の輪でできた取っ手が現れた。数回重心を後ろに掛けると、高い音を立てて床の扉が大口を開けた。
「お前らは先に行け。ここを通れば街近くの林に出られる。少し狭いが通れない程じゃない」
「ライムはどうするつもりなんだ?」
「誰かがあいつらを足止めしないとこの抜け道も見つかるだろ。後から行くさ」
「だったら僕も残るよ」
「あほか。お前はセラルフィを守れ。……もう時間も無いんだろ? じゃあ今からでもシルヴァリーをやらなきゃならん。それができるのは|《マヨイビト》とお前だけだ」
 セラルフィも分かっていた。自分の心臓が爆発するまでもう時間が無い事を。前までは死にたくないという思いばかりが先行して動いていた。しかし今では自分の生死は問題ではない。
 トトと話していて、なんとなくだが気付いた事がある。心臓を奪われ四日が経ち、その状態で魔術を行使した。そのせいで記憶が錯乱している。自分ではない自分が現れ始めているのだ。とどのつまり、人格の喪失。
 だがライムは自分の身を案じているような言葉を吐く。喜んでいいことなのかは分からない。とはいえ喜んでいる暇も、猶予も無い事は事実だ。
「ライム」
「勘違いするな。|《マヨイビト》を許したわけじゃない。ただお前がこの戦いに必要なだけだ」
 バカにするように口角を上げて来る。彼も彼なりに考えがあるのだろう。
「トト、これやる」
 ライムは小汚い巾着袋を手にぶら下げ、ずいっとトトに差し出した。
「お守りだ。これがありゃ何とかなるだろ……。うし、さっさと行け。この家も、家に仕掛けた道具も、知り尽くしてるのは俺だけだ」
 セラルフィが黙ってトトの手を握る。いつまでもここで喋っていられるほど余裕は無い。トトはセラルフィの手を強く握り返し、地下へと続く階段に足を踏み入れた。
 降りようとしたトトは、一度立ち止まる。
「ライム」
「なんだ」
「あの時は悪かった」
「水臭いこと言わんでいい」
 お互い顔を合わせることは無かったが、二人とも肩越しに手だけは振っていたのを、セラルフィは見逃さなかった。


       /8


 円く切り抜かれた草のカモフラージュを押し上げて地上へ出ると、周りは不気味なほど静まり返っていた。
「この先を抜ければシルヴァリーの城がある」
 ふと、先ほど通ってきた地下道を振り返る。セラルフィは複雑な顔をしていた。
「ライムは何とか生きてるさ。信じよう」
「ええ、そうですね」
 まるでまだ生きていると知っているかのような声音だった。それはそれで安心するわけだけれど。変な感じがする。妙に緊迫しているような。
「トト、先に行っててくれませんか」
「どうしたの急に?」
「追っ手がここまで来てるみたいです」
「え、さっきまでライムの隠れ家に集まってたんだよ? それがもうここまで来たの!?」
「ソレとは別みたいですね。微かにシルヴァリーの魔力を感じます。それが何体も」
 帯剣していた直剣を抜き、後ろを振り返る。
「遠隔的に操る力を使ったのでしょう。連中から意識は感じられないみたいです。きっとライムの|《トリックドール》と似たような人形を使ったのだと思います」
「僕はまだしもキミは城に忍び込んだことが無いんだろ!? 一緒に逃げた方が良い」
「今の私ならあなたの魔力も感じ取れます。むしろまとまって二人ともやられるよりは生存率が高くなります。それに、私はたかが操り人形相手に殺されるほど弱い種族でもないのでしょう?」
 確かに今の自分がセラルフィと一緒に戦ったとして、役に立つとは言い難い。むしろ足手纏いになる方を気に掛けるようなレベルだ。シルヴァリーの居場所を自分が見つけ出してセラルフィに伝えた方が効率的かもしれない。
「トトはシルヴァリーを見つけ出してください。私は危険因子を排除して、安全を確保したら向かいますから」
 本当にこのまま置いて行っても良いのだろうか。実のところセラルフィの言う追っ手の気配はトトでは感じ取れていなかった。それほど遠い位置にいるのか、セラルフィの感覚が異常に研ぎ澄まされているのか。いずれにしてもセラルフィが遠い人間になっていくようで不安だった。一人で戦っても死ぬという心配は無用である。ただ、一人で戦わせるともっと良くないことが起こりそうでたまらなかった。
「信じてください」
 逡巡(しゅんじゅん)した後、決断をさせたのはセラルフィの言葉だった。まっすぐに自分を見るその目は、とても真っ直ぐで、揺らぎは無い。
 結局。トトは行ってしまった。セラルフィを信じ、シルヴァリーを探す決断を下した。時間は無い。早々に奴の居場所を特定し、倒さなければ。

 取り残されたセラルフィは静かに息を吐く。やがて、ゆっくりと閉じた瞼を開け。
 ――眼前に広がる人形の集団を見据えた。
「シルヴァリーの下僕達」
 一言。
 発したその一言で、一定の距離を保っていた人形の足は動いた。
 発したその一言で、セラルフィの直剣に火炎の渦が昇った。
「私には時間が無い」
 まるで人間のような人形達。一人目の人形はセラルフィの正面に迫ると、首に手を掛けた。直後、焼却。
 迷いのない一閃は人形の腕を切り落とす。同時に引火。食い荒らす業火。樹液の様なモノが肌を伝う。暗闇で色までは分からなかった。
 立て続けに迫りくる脅威は、一瞬にして焼き払われた。直剣の薙ぎが波状の火炎と成って襲った。
 ただそれだけ。
 ゴミの処分をしているような気分だと。セラルフィは思った。自分の足元に流れて来る人型の有機物。それを消し炭にする行為が、ただただ空しかった。
 そう思い、直剣を納め、己の右腕に火を点ける。
 静かに。膝を折って地に右腕を沈めると、激しい火の海が現れた。
 その海は後方に居る人形にまで及び、一瞬にしてそれらの動きを殺した。鈍い音を立てて地を鳴らしていく消し炭。
 ふと、自分の左脚に妙な感触を覚えた。見下ろすと、小さな人形がセラルフィの服を引っ張っていたのだ。
「――――」
 何かを訴えているようにも見えた。セラルフィからしてみれば、それは本当に『時間の無駄』でしか無い。
 顔の無い子供の人形に、まるで慈悲をかけるかのように優しく。なおも暴力的に。
 子供型の頭に手を乗せると、爆発的な勢いで。火がかつて無いほどに燃え盛った。
 おびただしい量の死体を背に、|《マヨイビト》は恩人の跡を追う。
「……うッ」
 途中。セラルフィは心臓を抑え屈みこんだ。先ほどの光景がフラッシュバックする。幻覚の類なのか。取り返しのつかないような事をした気がしてならない。
 視界がグラつく。脳を左右に振られているような感覚で、とうとう姿勢を維持できなくなってしまった。
 横倒れになったまま、息は荒く。意識は薄れていき、やがて――気を失った。

 苦しそうに顔を歪ませていたのかもしれない。その時は聞こえなかった絶叫が。断末魔が。人形たちからは到底発せられたと思えないようなその叫びが、セラルフィの頭の中で残響のように染み付いていた。


 ――心臓爆発まで、残り二十六時間。

第四章:死刑執行




「ここは?」
 目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは不規則に並べられたレンガであった。
 セラルフィはそれが天井だと悟る。橙色に包まれる人工的な土塊。
 トトに助けられた初日のことを思い出した。確か自分は気絶して、そこをトトに助けられ、今のように屋内で休ませられていた。
「起きたか」
 ただ一つ、違う点があるとするならば。ここがどこかの地下牢獄であるということだけである。聞き覚えのある声の主を捜そうと、床の上で仰向になっていた体を起こし、鉄柵に近づこうとした。
 両腕の違和感。
 背中に回された両手が手錠で拘束されていた。ご丁寧に手錠からは大きな鉄球が伸びている。牢屋から出ても走って逃げることは不可能なようだ。
 先ほどから力が入らない。魔術でどうにかしようにも、思うように力を使えない。今の自分では何もできなさそうだった。
「|《マヨイビト》のあんたでも捕まったってことは、トトもどっかに閉じ込められてんだろうな」
「ライム、無事だったのですか」
 問うと、「始めから知ってたみたいな口ぶりだな」とばつが悪そうに笑った。
「シルヴァリーの奴この国の住人ほとんどを暗示にかけてやがった。まだ殺されることは無かったが、それも今だけだ。いずれにしても俺たちは殺される」
「トトは?」
「さっき言っただろ? どっかに閉じ込められてるんじゃねえの。いや、そもそもなんであんたが知らないんだよ。一緒に行ったんじゃないのか」
「いや、私は――」
 言葉が止まる。
「わた、しは……」
「どした」
 疑わしそうにこちらを見るライム。
「思い出せない」
「あ?」
 記憶が無くなっていた。数分前なのか、数時間前なのか分からないが、ライムと別れた後の記憶が無くなっていた。まるでずっと眠っていたのに、起きたら違う場所だったと言わんばかりである。と言うよりセラルフィにとってはソレでしかなかった。
「気付いたらここに居たとしか答えられません」
「使えねーな」
 憎たらしい口の利き方はそのままに、ライムはこれからどうしようか考えることに没頭し始めたようだ。
「ライム」
「考え事してんの。今」
「じゃあ今時間を少し頂けますか?」
「やだね」
「私の残り時間を見てほしいのですが」
「人の話を聞けよ。ってお前自分で見れねえのか」
「前はトトに鏡を見せてもらって確認できたのですけど、ちょうど自分からじゃ死角になってて」
 申し訳ない風にそう答えると、ライムはやれやれと壁に預けた頭を起こした。
「どこ見りゃいいの」
「胸の辺りです」
「ふざけろ露出狂め」
「大真面目です」
 真顔で即答すると、ライムは小さく舌打ちを零して鉄格子に顔を押し付けた。片目をつむり「どこ」と不機嫌そうに訊く。
「喉と胸の間あたりに光った数字が見えませんか」
「えー……」
 一応読むことは出来たのだろう。数字を確認すると、ライムは少し眉根を寄せた。決して見えなかったからではなく、残された時間に対して複雑な顔をしていたのだ。
 言うべきか言わざるべきかを考えている。
「あと一日無い」
 ほとんどため息で教えるような答え方だった。
「そうですか」
 心なしか声のトーンが落ちているセラルフィに気づいたのだろう。ライムはこちらに背を向け、壁に向かって口を開いた。
「あん時は悪かったな」
「はい?」
「|《マヨイビト》って理由であんたに八つ当たりしてた。あんたが良い奴ってのはリラを守ってくれたの見りゃ分かる。そりゃあ、あんたに親切にしてやる義理なんてないわけだが。もうじき死ぬ奴に冷たく当たってたらこっちの寝覚めが悪いんでな。一応謝ったからな。変に恨むなよ」
「ライム」
「なんだ」
「あなたは素直な人間ではありませんね」
「うっせえよ」
 強く吐き捨てるとふてくされたように横になってしまった。もうこれ以上声を掛けても返る言葉は無いだろう。そう思った矢先、
「……時間は無いが、諦めるなよ。人間生きようとしてりゃなんとかなるもんだ」
 寝言のつもりなのだろうか。そこまで気を使ってもらうつもりは無かったのだが、結局はっきり喋ることにしたらしい。
「あと少ししたら俺たちの処刑が始まるらしい。シルヴァリーが一番近くに出て来るタイミングだ。そっちもそっちでどうするか決めとけよ」
 牢獄に閉じ込められたまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。



       /1



 夜中なのか夜明けなのかは分からない。セラルフィ達を閉じ込めていた牢屋が開き、兵士によって麻袋に頭を覆われた。ライムとセラルフィは、お互いが人質の状態で、成すすべなく連行された。
 前後を兵士に挟まれたまま歩いていく。鎖は恐らく繋がれたまま。セラルフィはどのようなことが起こっても受け入れる覚悟だった。今更逃げることなどできない。
 そうして進み、麻袋を剥ぎ取られた。
 眩しい光に目を細める。
 そこは協会だった。ステンドグラスが張り巡らされた屋内。以前トトが言っていた城の内部なのだろう。そしてここは協会と言っても裁判を執り行われる場。
 周りには国民と鉄兜で表情のうかがえない兵士達。とはいえ国民全員が見物に来ているほどの人数ではなかった。セラルフィが広場に居た時はもっと大勢いたはずである。
「ようこそ、反逆者諸君」
 目の前には勝ち誇った表情のシルヴァリー。
「やっと会えましたね、シルヴァリー」
「随分と余裕な応答ですね、|《マヨイビト》。あれから何時間ですか? いえ、『あと何時間』ですかねえ?」
 片メガネの奥の瞳が嬉々とした色で満ちている。これから行われる茶番を少しでも楽しむつもりなのだろう。
 隣を見ると、ライムは憎らしそうに眉根を寄せていた。
「アンタに会えて嬉しいのはコイツだけじゃないぜ」
「ライムも元気そうで。といってももうじき死にますか」
 抵抗するように「けっ」とそっぽを向く。そっぽを向いているように見えて実は何か利用できるものを探しているようにも見えた。相変わらず諦めの悪い少年である。
「早速ですが、既にあなた方の死刑は決定しています」
「じゃあこれから何をするんだ? 殺し方でも話し合うってか」
「そのつもりでしたが、あなたと今の|《マヨイビト》を同時に殺すと矛盾が生じそうなので、執行する順番を決めようと思います」
 矛盾。シルヴァリーの掛けた心臓爆破の呪縛。外部による殺害では死ぬことが無いため、ライムと一緒に殺害されるとセラルフィだけが生き残ってしまう。
 矛盾が生じてはいけないというのはペジットとやりあった時に分かっていた。過去との矛盾にペジットが気づいたとき、シルヴァリーに掛けられた催眠が半ば解けたのである。もともと魔術に耐性があったこともあり、他の住民ほど狂信染みた行動を見せては居なかったが。
 それらを考えると、やはり先に殺されるのは、
「ライム、あなたを絞首刑に処す」
 流石にここまでの流れは読んでいたようで、シルヴァリーの言葉には注意せず、ライムはしきりに上を気にしていた。
「チッ、まだかかんのかよ」
 セラルフィは首を傾げる。一体何を待っているのだろうかと。まさかトトがこの城に息を潜めているのだろうか。だとしてもここに飛び込んで暴れるなど出来るはずがない。あの奇妙な大槌は受動型の暴力しか振るわなかった。自分から能動的に戦おうとすると重量が跳ね上がったかのように言うことを聞いていなかったのだ。彼一人ではどうすることもできない。
「ライム!」
「くそっ、引っ張んじゃねえよ!」
 後ろに立っていた兵士がライムの鎖を引く。視線を移すと黒い布に覆われた台があった。大きな絞首台である。
 少しでも時間を稼ごうともがくライム。
 兵士はライムの鳩尾(みぞおち)に勢いよく拳を沈めた。一度小さく唸ると、力が抜けたように膝を折る。引きずるようにして絞首台まで運んだ兵士は、とうとうライムの首に縄を掛けた。
「あなたとはあまり交流はありませんでしたが、別れというのは得てして虚しいものですね」
「待ちなさいシルヴァリー!」
 叫んだところでどうしようもない。足元の仕掛け床が開けばライムの首は全体重を支え、やがて息絶える事となる。
 セラルフィに応じることなく、シルヴァリーは手を挙げ――

『――水龍を封印したのはいつだ』
 どこからともなく、機械を通した声が教会の中を駆け巡る。
 シルヴァリーは下げようとした手を止め、周りを見回した。声の主を捜しているのだろう。その表情はやや焦りの色を孕んでいる。
「この声……」
「おせえんだよ、いよいよ死ぬかと思ったぜ」
 ライムが不敵に笑う。
 間違いない。ペジットの声だ。
水神様(みずがみさま)を退けたのはいつだと訊いたんだ! 年に一度、生け贄に捧げなければならなかった生き物。洞窟につながる湖で息を潜めた海蛇の魔獣がいたハズだ! そいつを討伐すると最初に言い出した男に、オレは。オレを含めた男たちは心を動かされ、そいつを洞窟の大岩に封印したんだ! あれだけ熱意を持って説得した男が、国王になった男が、その歴史的な一夜を忘れる道理があるか! 答えろ、シルヴァリーッ!』
 周りの兵士、住民の目の色が変わり始めた。生気を失っていた人形のようなその顔に感情が宿っていく。
『まったく。熱意ある部下ほど有能で――扱いにくいものは無いな』
「何をしている! 誰かこの音声を止めろッ!」
 シルヴァリーが声を荒げる。今更国王の真似ごとで指示を飛ばされようとも、従う兵士は居ない。
 と言うより従えない。動揺し始める住民がいれば、痛みに頭を抱えうずくまる人間まで出始めたのだ。
 二人の会話を記録した音声。紛れもなく、ペジットとシルヴァリーの会話である。その内容は住民の、少なくとも大人達は知っている者の方が多いらしい。嘘のように静けさを保っていたこの教会は、徐々に騒がしさをにじませていく。
『まずは、あなたの知っている国王と出会う前まで記憶を巻き戻さないといけないようですね。やれやれ、面倒だ』
「止めろと言っているんだッ!!」

「無駄だ、シルヴァリー」
 落ち着きを取り戻したライムは、勝ちを確信した様子で視線を巡らせる。
「周りを見ろ。お前のかけた催眠が解けたんだ。直にお前は国民全員の手で殺される」
「……ッ!」
 シルヴァリーの目が大きく開く。呼吸が荒い。周りの声が波となって大きく膨らんでいく。自分の改ざんされた記憶と事実が激しい摩擦を引き起こし、混乱を生んでいるのだ。
 やがてシルヴァリーから小さく途切れた笑い声が漏れ、鋭くライムの足元を睨んだ。
「せめてあなただけでも殺しておくとしましょう」
 言下、ライムの立つ仕掛け床が一瞬にして腐りきった。
 嫌な音を立てて、床に亀裂が入る。
「ライム! そこから離れて!」
 ライムはこちらに視線を向けることなく、気まずそうに言う。
「……ダメだ、体が動かねえ」
「何を……ッ!」
 ライムの鎖を持つ兵士が微動だにしない。その下で待機しているもう一人の兵士はおろおろとその様子に動揺していた。
 ただし、原因は鎖を持つ兵士にあるわけではなかった。彼の時が止まっているように見える。それが、ライムの肉体を縛っているものと同じ術なのだと悟った。
「クッ」
 セラルフィにできることは一つしかない。
 絞首台の床が朽ち果てるよりも早くライムの元へ辿り着く。
 力を込めた脚。立ち上がろうとした時、強力な力で引き留められ腰を打ち付けてしまった。
「あなた方を自由にするはずがないでしょう」
 シルヴァリーが二人の鎖を持つ兵士を止めてしまったのだ。彼らの時を。
 時の力は腕力でどうこうできる代物ではない。故にライムを助けるどころか、そこへ向かうことすら適わないのだった。
 破砕音を立てて、絞首台の床が割れた。
 ライムの体が死へと引き落とされる。その死を見届けられず、思わず目を反らした。
「うぐぁああ!」
 首を絞められているような声では無い。すぐに「いってええええ!」と大声でのたうち回る声が聞こえ、視線を戻した。
「これでいいんだな、ライム」
「腰を打ち付けないような方法だと完璧だったんだがな」
 そこには、ライムを殺す縄を切断していたペジットと、盛大に床へ腰を打ち付けたライムの姿があった。
「ペジット、貴様……!」
「始めはあなたが国王ではないと知った時、疑い止まなかったがな。この騒動で誰が悪でどうするべきかは把握できた」
 大剣は背負っていない。ライムの鎖を握っていた兵士がペジットだったのだろう。兜を被って即時行動できるようにしていたのだ。
 警護団の振るうその国独自の直剣。その切っ先をシルヴァリーに向ける。
「国王――コウナギの仇だ。容赦など期待するなよ」
「なぜだ! なぜ始めからライムの横に潜んでいた! お前は国の警備に着くよう命令していたはずだぞ! まさか……この音声はお前の仕業かッ!」
「訊かずとも分かるだろう。お前のことはこの少年から聞いている。『時を操作し、国王と出会う前の相手を自分とすり替えていた』と」
「だがあの時、貴様の記憶は私が」
「記憶を消されるのは想定の範囲内だった。俺が手甲をはめる前にメッセージを残しておくところまでな」
 彼は手甲を外し、その手の甲に書かれた魔術の文字を浮かばせた。『録音機を確認しろ』とだけ書かれたメッセージ。『シルヴァリーは国王ではない』と直接的に書くよりは、記憶を改ざんされた後のペジットにとっては核心を突くまではいかずとも、懐疑心を抱かせるには充分だと判断したのだろう。
 彼の従順な性格上、直接的なメッセージはメッセージそのものに懐疑心を抱きかねなかったのかもしれない。
「準備にやり過ぎなど無いんだ、シルヴァリー。今回もそうだ。ライムの肉体を止めて殺すよりも、隣に居た俺ごと止めて動けなくした方が良かったんだよ。それとも――人数に限界があったか?」
「……付け上がるのもいい加減にしたまえ」
 その時、ざわめく人混みの中からローブを纏った少年が飛び出した。
「ライム!」
「全員離れて! 何か来るよッ!」
 シルヴァリーの眼前へ躍り出るトト。しかしあのアクセサリーは大槌へと成り代わっては居なかった。
 シルヴァリーの眼はトトの動きを凍てつかせるほど冷酷に赤く。魔術の陣を浮かばせる。
 首に手を掛けるよりも早く、トトの体は宙で停止した。
「ンフフ。ペジット。あなたの言う通りだ――準備にやり過ぎなど無い」
 直後。教会の内部に真紅の魔法陣が出現した。一層のざわめきを呼び起こすような禍々しい光。大気を震わすエネルギー。
 ざわめきが波紋のように広がる――はずだった。
「……いない?」
 セラルフィが瞬きを始めるより早く、その景色にいた男は始めからいなかったかのように消失したのである。
「ちょっと待て。やけに静かすぎないか?」
 ライムの言う通りだった。周りを見渡す。
「皆――止まってる?」
「おいペジット、聞こえるか」
 言いながら、ライムがペジットの横顔に軽く平手を打ち付けた。反応は無い。どうやら自分とライム以外は完全に時間を止められてしまったらしい。
「トトは?」
「ここに居るよ」
 後ろから聞こえた声に振り返ると、トトが首飾りの変化したらしい大槌を引きずりながらこちらへきているところだった。
 途中でばしゅ、と空気の抜ける音がし、大槌は小さなアクセサリーへと姿を戻した。全体重をかけて引きずっていたトトは「うわっ」と、盛大に体を打ち付けた。
 原理は不明だが、どうやらまた大槌がトトを守っていたようである。
「二人とも無事?」
「悪いが、俺は立ってるだけで一杯だ。俺は後からすぐに向かうさ」
 ライムがあたりを見回しながら言う。
「それよりも、シルヴァリーがいないぞ。どこに行ったんだ」
「居場所は任せてください」
「分かるのか?」
 セラルフィは一度目を閉じ、意識を集中させた。すぐに目を開けると、東の方を指さす。
「東の森。ここから遠くないです。そこにシルヴァリーの魔力を強く感じます」
 そう言い、後ろ手に手錠をかけられたままのセラルフィは立ち上がる。
「オイ、鍵だ」
「いえ、大丈夫です」
 言うと、手首の回りの鎖が赤く熱されていく。瞬時に液状にまで融解すると、埃を払うように手から綺麗に崩れ落ちてしまった。
「時間がありません。急ぎましょう」
 無い心臓の辺りを強く握る。
 当然のように魔力を抑える手錠を溶かしてしまったセラルフィを見て、トトの不安げな瞳は一層曇っていった。


 ――心臓爆発まで、残り一時間。

第五章:時の女神



 真夜中の森。セラルフィによって焼き払われたその場所は、六日前。心臓を奪われた場所である。
 ライムは時を止められた住人達を解放しようと何かを施してくれている。セラルフィたちの戦闘に彼らを巻き込むべきではない。
 湖の前で待ち構えているシルヴァリーは、観念したというよりも覚悟をしたと言うべき顔つきでそこに居た。
 追いついたセラルフィとトトの姿を目視すると、やや苦しそうな表情で言う。
「よくも私をここまでかき回してくれたな、異端者にロストナンバーか。いや、ロストナンバーは私も同じことだったな」
「何を言っているッ! 全てを失くして可笑しくなったか?」
「可笑しい? そうですね。哀れすぎて愉快という意味では、正しいですよ。ロストナンバーの鉄槌使い君」
 トトの方を睨み、全てを見透かしているような笑みを浮かばせる。
 動揺するトトをなだめるため、セラルフィが耳打ちした。
「トト、彼はあなたを惑わそうとしている。耳を貸してはダメです」
「分かってるよ。何よりも、僕たちの大切な人を傷つけたツケがまだだからね。一発入れてやらないと気が済まない」
 そうは言うが、トトの大槌はまだアクセサリーの姿をしたまま。拾ってきた直剣では剣術の素人であるトトが扱える代物でも無い。
「記憶を失って随分と正義感の強い少年になったようですね。トト。いえ、『元異次元管理組織、五のナンバーを与えられていた大量殺人者』トレイル。人殺しが今更、他人を裁こうというのですか?」
 一瞬、空気が凍り付いた。聞いてはいけないものを耳にしたような気がしてならなかった。
 人殺し? トトが? 否、トトではない? トレイル? 元異次元管理組織? 情報の波がセラルフィの脳内をかき乱す。拒絶反応を起こしたように呼吸が荒くなっていた。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。
「言っている意味が分からない」
 冷たく。いたって冷静に。冷静すぎるほどに冷え切った声で、そう返した。
 力なく直剣を下げ、無意識に大槌のアクセサリーを握る。
「その手に握っているモノ。元はアクセサリーでしたね。自分の身が危ないとき、大槌へと急に巨大化しませんでしたか? もしくは、使用者権限を剥奪されたせいで、思うように扱えなかったりとか」
 まるで初めから見られていたような言い方。そうではない。『もっと昔から知っていた』ような口ぶりだ。
 そう、まるでかつて同じ職場で働いていた同僚のような――。
「気付いているんでしょう? 『おかしい。こんな物騒な、高価な魔道武具をなぜ自分が持っている』と、少なからず疑問に思っていたはずです」
「違う」
 シルヴァリーを見る気力を失い、泳ぐ目は焼け野原を無意味に見回している。
「違うことがありますか。あなたは人殺しだ。その大槌が何人の血を吸ってきたか忘れたのですか? トレイル」
 違う名で呼ばれ、知らない過去を流し込まれたトトは耐えられず不安な感情を叫んだ。
「違うッッ! 僕はトトだ! トレイルなんて名前じゃない!」
 必死の抗議も意味を成さない。動揺したトトの姿を見て、何かを確信したように口角を吊り上げる。
「トト。くふふ。トトねえ。その名前。一体いつ思い出したんですか? いえ、『いつからトトに成りきっていた』のですか? もしかして、ライムとかいう得体のしれない少年にでも名づけられましたか」
「トト! だめ!」
 これ以上は危険だ。シルヴァリーの催眠から解ける時とは異質な症状が起き始めている。このままではトトが壊れかねない。
 しかし、シルヴァリーは近づいてきた。一秒もかからず、それこそ一瞬もかからずに。跪いたトトの前へと。
 力なく握られた直剣を蹴り飛ばされ、正気に戻る。それはあまりにも遅すぎた。
「仕方がない。元同僚のよしみで、今回に限り私が思い出させて上げましょうか」
 かざされた手。その時、トトの手中に納まっていたアクセサリーが輝き、瞬時にあの暴力的な大槌へと姿を変えた。
「来るな!」
 抵抗手段を得たトトは大槌を振り牽制しようとする。が、想像以上の重量。土を数センチ削るだけに終わる。
『認証エラー。使用権限ガ無効デス』
 無機質な声。そんな声に構っている状況ではない。
「うるさいッ! この、動け……!」
「良いことを教えてさしあげましょうか。異次元管理組織から支給されているその魔道武具。使用者権限の認証を破棄して起動できますよ。もっとも、安全装置(リミッター)を外して自分の命を原動力に作動しますがね。もともと命をかけて戦うつもりだったのでしょう? 試してみてはいかがですか? ……ああ、そうか。トレイルには、そんな度胸なんてありませんでしたね」
 もはや抵抗の(すべ)は無い。片手で頭部を掴まる。その手の甲に不気味な魔法陣が浮かび上がった。
「圧縮しなさい」
「……がぁッ」
 直接電気を流されているようだった。体中を痙攣させ、口の端からは唾液が漏れ出す。大槌を握る手は離れ、大きく体を反らし、力なく倒れた。
「トト!」
 愛用の直剣でシルヴァリーに向かい薙ぐ。既に彼は遠く離れていた。時を操作する人間相手には距離を詰めることさえままならない。
 開放されたトトの元へ駆け寄り、抱き起す。
「トト……私のこと、わかります?」
 腕の中でゆっくりと目を開けるトト。どうやら動けるらしい。安心したセラルフィの横で、無機質な音声。
 ――いつの間にか、トトは大槌を握っていた。
安全装置(リミッター)解除。強制行使モードヘ移行。対象ヲ排除シテ下サイ』
 暴力的な殺意が、腕の中から迫る。
 本能的な何かが警笛を鳴らした。トトから離れなければいけないと。論理的な思考を放棄して、抱き起していた手を離し、大きく後ろへ飛ぶ。
 直後、激しい打撃音が地鳴りとなって足を震わせた。
 自分が居た場所を中心に大きく地割れを起こしている。小規模の隕石が襲来したかのような現象。それを理解する暇など与えられず、爆発的な速度で接近。トトが大槌を振りかざしてきた。
「――《マヨイビト》!」
「なっ!? トト! 私です、セラルフィです!」
 直剣でその大槌を受け止めた瞬間、もう言葉はトトに届かないのだと悟った。
 目が赤く血走っている。獣のように、もしくは、目の前の仇を殺す復讐者のように。
「よくも村を……家族をッ!」
 横薙ぎの一撃。まともに喰らえば首が吹き飛だけでは済まない。先ほどまで岩を動かそうとするように重かったはずなのに、今では人殺しを目的に、セラルフィの直剣よりも数段速く振るえている。
 その様子を見て、シルヴァリーは安全な位置から言った。
「無駄ですよ。私はトトを洗脳したんじゃない。失くしていた記憶を思い出させてあげただけです。彼の村人、彼の家族が、|《マヨイビト》の劫火によってに殺戮されたことをね」
 なおも追撃は続く。どんなに剣で受け流そうとも、攻撃の手が休まることは無い。恐らく、こちらがトトを殺さない限り永遠に。
「くっ、シルヴァリー!」
「さあ選びなさい。トトに殺され、彼に仇討ちを任せるか。それとも、あなたがトトを殺し、私に手を下すか。時間は待ってくれませんよ?」
 鍔迫り合い。二人の顔が至近距離にまで迫る。ぶつかる肩。ふと、トトの冷たい目と自分の視線が交錯した。
 直剣が火炎を纏う。かつてない熱量。トトの冷え切った視線を溶かそうとするように、意思の塊となって辺りを紅く照らした。
 ――殺すなど有りえない。かと言って自分から命を差し出すわけにもいかない。答えなど訊かれる前から決まっている。
「愚問、どちらも選ぶつもりは毛頭ありません……ッ。トト、お願いです、私を」
「だから無駄だと言ったはずですよ。彼はもうトトじゃない。家族を殺した|《マヨイビト》に仇討ちする、元異次元管理組織のトレイルだ」
「そんな――ッ!」
 直撃。体の芯を捉えた横殴りの一撃は、火炎の残像を引きずりながら遥か先の岩壁までセラルフィを吹き飛ばした。大気を震わす破壊音。やがて、音は空気に溶けて消えた。
「素晴らしい! ただその大槌、認証プロセスを破棄して発動していますね。安全装置なしでの操作は使用者の命に関わる。これだと、あなたを殺したと同時に彼も死にますよ。あなたが楽にしてあげたほうがいい。その凶悪な力で……おや、もう動けないようですね」
 言葉通り、トトは大槌に寄りかかったまま、片膝を着いている。肩で息をし、シルヴァリーの方へ顔を上げる力も持っていないようだった。
「情けない」と、吐き捨て、シルヴァリーは湖の方へと体を向ける。
「最後の仕上げだ」
 何かを小さく呟く。大きな魔法陣が湖面を覆った。大地を揺らしながら現れる巨大な《女神像》。その中心部では、水晶に閉じ込められたセラルフィの心臓がある。
「発動に時間を食うのが難点ですが、五体不満足のままそこで大人しく見ているといい。自分の心臓が破裂する瞬間を――ッ!?」
 言い切る前に、背後から迫る暴力的な業火を横跳びに回避した。シルヴァリーが居た場所には、火炎を纏った大槌を肩に担いでいるトトの姿があった。
 その姿に目を見開く。大槌だけではない。トト自身の体が炎の一部となっていたのだ。服や髪。それがゆらゆらと紅く燃え盛りながら、まるで熱を感じていないように平素な顔で、それでいて攻撃的な視線は緩ませずにシルヴァリーを睨んでいる。
「これで終わったと思うなよ。シルヴァリーッ!」
「なぜ貴様が……! いや、違う。その炎、まさか」
 背後から足音が聞こえ、振り返る。
「無駄なのはあなたの方です。シルヴァリー」
 先ほど岩壁まで吹き飛ばされたはずのセラルフィは、無傷の状態で剣を構えている。
「アンタに思い出させてもらったおかげだ。こいつの扱いは僕が良く知っている。人の力を借りて自分のモノにもできる」
 アレはトト自身が実際に燃えているわけではない。大槌から噴き出すエネルギーの波が所有者の身に纏わされているのだ。借りた|《マヨイビト》の力――火炎を操る力を身に纏って。
「|《マヨイビト》の炎を吸収していたのか……しかしなぜです! あなたは彼女に――|《マヨイビト》に恨みがあったはずだ!」
「そうだよ。僕は|《マヨイビト》に恨みがある。殺しても殺しきれないほどの怒りがある。でもね」
 両手で大槌を構える。
「|《マヨイビト》と過ごして分かったんだ。|《マヨイビト》そのものが悪なんじゃない。家族を殺した張本人こそが僕の殺るべき相手なんだって」
 その言葉にシルヴァリーはバカにするように言う。
「綺麗ごとを。|《マヨイビト》は災厄をもたらす存在です。存在そのものが悪。存在してはいけない者。私たちは組織でそう教わったハズです。それに何より」
 立ち上がり、トトの眼を見て怪しく笑んだ。
「あなたの目、まだ完全に恨みの炎が消えていないようですが?」
「ああ、殺したいよ。今すぐにでも。生まれてきたことを後悔するほどに(はずかし)めて、死ぬギリギリまで苦しめて、苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて。……ぐちゃぐちゃにぶっ潰してやりたいよ」
「だったら」
「でもその張本人はここに居ない。僕にはわかるんだ。彼女がそんなことを出来る人間じゃないって」
 シルヴァリーの眼が嫌悪感に満たされた。後ろに立っている少女を指す言葉に、眉根を寄せる。
「人間……? 記憶を取り戻してもなお、まだそんな口が聞けるのか! こいつは人間じゃない! |《マヨイビト》だ! 正真正銘の化物なんだよ! 心臓をえぐり取っても、相手が死ぬまで戦い続ける畜生だ。我々人類とはその根底が違うッ」
 静かに、その言葉を受け入れる。怒りも、トトにとっては理解ができないものでは無い。そもそも彼らの居た組織は『そういう感情のもと成り立っていた』のだ。
「僕が事故にあう前。お前がなぜ命令でもなかったのに組織から飛び出したのか。お前を見て思い出したよ。異次元管理組織は皆、|《マヨイビト》に恨みを持っただけの殺戮集団だ。 世界の平穏? バランス? そんなのはただの飾りだ。大義名分を振りかざして殺したいだけの畜生だ」
 聞くまでもないと、シルヴァリーは視線を逸らした。
「そうですね。確かにそうです。でもあなたはどうです? その殺戮集団の一員として|《マヨイビト》を殺せばいずれ仇が取れるでしょう」
「それはあんたも同じはずだ。シルヴァリー」
「…………」
「本質を見失っていたんだろ? あいつらは。善も悪も関係なく、『偶然彷徨(さまよ)っていたいただけの|《マヨイビト》』でさえ問答無用に殺していたのを、お前も見ていたんだ。それに対して僕たちは……何もできなかった」
「……れ」
 セラルフィには分からない話。二人にしか分からない話。ただ、シルヴァリーはその話を聞くことに異常な抵抗を感じているようだった。
 そしてトトは核心を突くようなことを言う。
「シルヴァリー。今の僕と同じことをして、今ここいにいるんじゃないのか? ……親友から一つ、噂を聞いたことがあるんだ」
「…………黙れ」
「最近行方不明になったメンバーの一人だった。とある|《マヨイビト》を守ろうとしたそいつは、裏切者として仲間から排除対象と見なされ、|《マヨイビト》ごと――」
「黙れと言ってるんだガキがあぁああああああああッ!」
 殺気。シルヴァリーを中心として爆発的な広がりを見せる、異様なエネルギーの波を感じた。
 思わず数歩、後退する。
「私はッ! 私は……組織の連中を殺したいだけだ。そのためには|《マヨイビト》の臓器が――再生の臓器が必要なんだよぉ!」
「たとえアンタの目的が僕と同じ復讐だとしても、僕はそれを手助けできない。もう、大切な人を殺させはしない」
「殺す……。殺してやる……ッ!」
 もはや聞く耳など持っていなかった。先のトトと同じ、復讐者の眼で、自分たちを見ている。
「シルヴァリー! アンタはこんなことになるなんて思ってなかったはずだ! 復讐に取りつかれているだけなんだよ。本当は自分が守りたかった存在と同じ人間を殺すことに躊躇したくないから、|《マヨイビト》を殺すことが正しいことなんだって。自分のしていることを正当化したいがために僕にセラを殺させようとしたんだろ!?」
 返答は攻撃的呪文、ただ一つだった。
「圧縮しろ――チャイムッ!」
「潰せ――クラッシュ!」

 ――セラルフィの介入できる隙間など無かった。
 力を与えたトトと、セラルフィの心臓から恩恵を受けているシルヴァリー。戦闘の様子をうかがえるのは、二人が激突し、遥か上空まで舞い上がる業火の切れ端のみだった。
「ここに時間を圧縮した。コンマ一秒前の私は更にコンマ一秒前の私を呼ぶ。過去の私達は一つの目的に向かい活動を開始し、お前を殺す」
「僕だってもう戻れない。記憶喪失だった頃の、平和な日常に居たトトではいられない。それでも、組織を抜けたトレイルとして、今はセラを守るッ」
 大地を蹴る足は土を吹き飛ばし、素手のシルヴァリーと大槌を持つトトが打撃と殴打を互いの肉体へ交換する。
 大槌と、時間停止により強引に硬化させた素手での戦闘。
 時間を操るシルヴァリーは、過去の自分を現在に呼び出す。実質五十人の異次元管理組織の人間を相手にトトが相手をしているようなものだ。
 全員に囲まれ、時には腹部を、時には顔面を、時には背中を殴られるトト。

 これはセラルフィが初め、シルヴァリーを相手にしたときと同じ戦い方だと悟った。自分の放出した火炎と同じものを過去から引き出し、返す。

 ただし、セラルフィの力を受けているトトにとっては、数は問題ではない。数十人もの自分を今に留めているのには、相当の力を必要とする。シルヴァリーの呼び出した過去の彼は、火炎の一撃でも与えればバランスを崩し消滅した。
 そのダメージは現在のシルヴァリーへと還元される。偽物も本物も無関係に、その力は諸刃の剣と言っても過言ではないほどに、強力で虚弱な代物だったのだ。
「|《マヨイビト》の力を取り込んだだけ有りますね。微量のエネルギーでこれだけの力。臓器を破壊すればあるいは――組織そのものを潰せるかもしれない」
「そんなことはさせない。セラも守るし、組織は僕の手で潰してやる。村を壊した|《マヨイビト》も、この手で殺してやる!」
「ガキが。そんな生半可な覚悟で望みが達せられると思うなよッ!」
 負ったダメージも、疲労から見ても、優位性ではトトの方が上なのは明らか。
 戦闘を重ねているうち、シルヴァリーの動きが徐々に鈍くなっていった。動きでさえもトトが上回り始めたのである。

 ――ただし、火炎を吐き出す推進力で速度を得ているトトに対し、時間そのものを味方にしているシルヴァリーにとって、速さは問題ではなかった。
「トト――」
 ある地点での鍔迫り合いで、セラルフィは言いようのない不安を感じた。力のほとんどを分け与えたセラルフィは、自分の無力さを(かえり)みず、一歩。前へ踏み出してしまった。

 その瞬間。三人を取り囲む魔法陣が姿を現す。
 シルヴァリーを除く二人の時は、完全に止まってしまった。


     
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「これは……ッ」
 足元に描かれている巨大な魔法陣が、二人の動きを完全に封じてしまっていた。|《マヨイビト》と人間の違いなのだろう。セラルフィに対し、トトの意識はもはやこの場所から消えてしまっている。
「本当は組織の連中に使いたかったのですが、こうなっては致し方ない」
 懐から壊れた懐中時計をぶら下げる。異様に曲がった針が激しく回転し始める。 
『使用者権限認証。干渉座標ヲ確定――起動完了』
 拘束力がさらに激しくなる。荒々しい重力に体を押し付けられているのに、時の制御で膝を折る事が出来ない。
「シル、ヴァリー」
 気力のみで手を前に出そうとする。が、肘を少し曲げたところから先に進めない。
「|《マヨイビト》のあなたでもここまで動けるとは、やはりその力、計り知れませんね」
「ぐっ」
「あなた方の時間は完全に停止した。|《マヨイビト》までいると意識ごととはいきませんがね。まあ」
 言いながら、懐から何かを取り出す。精巧に作り上げられた、芸術性を重んじているような作りの銃身。同じ魔法陣の中にいるのに、シルヴァリーだけは自由に行動を許されていた。
「な、にを」
「おや? まだ口がきけるんですか! 素晴らしい! 予想をはるかに越えている! ハハハッ、これならもしかすると、本当に奴らを始末できるかもしれない」
 銃創の長い凶器に弾丸を込めながら、魔法陣を沿うようにしてシルヴァリーは歩いていく。
「私たち異次元管理組織は、命を犠牲に規格外の力を発揮することが可能ですが……あなたたちのような魔法を使う生命体は、何を原動力に力を使っているかご存知ですか?」
 セラルフィの隣に立つと、その肩を抱き、良く見えるようにセラルフィの横から銃を突き出した。
「心です。精神力、想像力とさまざまな要因が重なりますが、何よりもそのリミッターを外すことを可能にしているのが」
 銃口がトトを捉える。
「怒りだ」
 銃声。あまりにも短い、中途半端な破裂音に、トトが撃たれてしまったとほんの一瞬だけ想像してしまったが、すぐにそうではないと悟る。
 弾丸だけが宙にとどまり、銃弾らしからぬ緩慢さで、極めてゆっくりと回転していた。
 進行方向は、トトの胸部。心臓へ。
「これからトレイルを殺害する。時間は十分。十分後にこの弾丸はトレイルの皮膚を切り裂き、やがて筋肉を食い破り、骨を砕き、臓器へと達します。ゆっくりと、痛覚を撫でまわすように、永遠に近い苦痛を感じながら、微動だにできずに死んでいく。そうさせたくなければ――私を殺してみろ」
 耳元で囁く悪魔の声。
 殺せ。その言葉だけが、頭の中を殴り、反射し、増幅していく。
「たかだか数日間の間柄です。もちろん過剰な怒りを期待しているわけではないですが、力の増幅には役立つでしょう。なにせ彼は、あなたの恩人なのですから」
 しかし、セラルフィはそうしようとはしなかった。
「や……め」
「はい?」
「やめ、て、くだ、さ、い」
 懇願する。もう自分の命などどうだっていいと。トトだけは殺さないでくれと、
「何か勘違いしていませんか? 既に弾丸は放たれている。あなたがどう請おうが、どうしようもありませんよ?」
 シルヴァリーは言葉を発するたびに弾丸を浮かせて行った。もう十発以上は放たれている。足も、腕も、耳も、眼球も、弾丸とトトを結ぶ死の直線が繋がってしまっていた。
「わたしの……心臓を、あげます、からッ。彼は……彼だけは」
 目に涙を浮かべ、請う。言葉を話すだけで数キロを全力疾走したような疲労が襲ってくる。それでもなお、助けるように頼むしかできない。もう自分に戦う力は無いと悟っていた。
「……失望させないでくださいよ。人類最強とまで言われている|《マヨイビト》がみっともない」
 呆れたように肩をすくめるシルヴァリー。
「そうだ。あなた、自分の心臓の所有権を奪われた後、相当の魔術を行使したようですね」
 思い出したように言う。
「魔術は麻薬だと、ライムに教わっていたと思ったのですがねえ。覚えていますか? あなた方を襲わせたあの夜。あなたの眼には木でできた人形の兵士を葬ったように映っていませんでしたか? 焼き払った後、あなたは魔術の過剰行使で耐えられず、倒れましたね」

 嫌な予感がした。

 自分がその事実を知っていたのだと、認めたくなかったのかもしれない。あまりにも少なすぎた教会の傍観者。必至に抑え込んだ事実を、シルヴァリーによって突きつけられるのではないかと、そんな予感がしていた。抵抗できない体で、震える手が耳をふさごうとする。
「あの少女。名前はなんと言いましたか。私もあの手を踏みつけた当人ですから、あどけないあの顔はよく覚えていますよ」
 悪魔のように口角を吊り上げ、絶望するセラルフィの顔を覗き込む。
「そうです。あなたの焼き払った人形達は、国の住民。特に、最後に焼き殺したあの子供は――」
 耳元でささやかれた少女の名。焼き殺した人形の姿が、肉を得て、自分を正気に戻そうと最後まで笑っていたあの瞬間の顔がフラッシュバックした。
 リラ――。
「う、わ、ぁ、ああああああああああああああああ――ッ!」
 殺されようとしているトトの姿から目を反らすこともできず、目を開けたまま、涙を流したまま絶叫した。
 その時。
「セラアァアアアアアアアアッ!」
「ふむ、邪魔が入りましたか」
 ライムの声。住人の解放は済んだのだろうか。もしくは、手立てがなくこちらへ向かって来てくれたのかもしれない。
 今となってはもはや遅すぎたが。
 肩で荒い呼吸をしているライム。この現状を見て、魔法陣を見て、叫んだ。
「お前何突っ立ってんだ! トトが目の前で死にそうになってんのに、黙って見殺しにする気かよッ」
「ライ、ム……」
 喋るだけで精一杯なのだと知ったライムは、魔法陣の方へ視線を向ける。
「クソ、こんなもんッ」
 トトが落していた直剣を拾い、魔法陣へ突き立てようとする。直後激しいスパークが立ち上り、侵入者を弾き飛ばした。
「無駄です。私の許可なくして外部からの侵入は許されない。|《マヨイビト》ほどの力でもないと、このエリアには入れませんよ」
 魔法陣から受けたその衝撃は、常人では気絶してもおかしくないようなものだった。現に立ち上がろうとしても上手く力が入っていない。
「セラ。なあお前、トトがどんな思いをしてお前に力を貸したかわかってんのかよ。あいつはな、|《マヨイビト》に家族を殺されても、それでもお前を信じてたんだぞ。それを……お前は裏切るのかよッ」
 知っている。その話はシルヴァリーから嫌と言うほど聞かされた。自分もトトも。
「……あいつは初めから知ってたぜ。お前が|《マヨイビト》だったことも。治療してた時、お前のうなじにお前のうなじに赤いバラの刻印があったんだ。生まれついて刻まれてるそれは、|《マヨイビト》の証だって知ってて、お前を助けたんだぞ……お前と出会う前から、『|《マヨイビト》は危険な奴だから絶対に関わるな』って何度も言ってやったのにだ。眠ってるお前をいつでも殺せたのに……あいつはそれもしなかった」
 這いつくばりながらも、なおも魔法陣へ近づこうとするライム。息も絶え絶えに、再び剣を握る。
「たぶんリラに言われたんだろうさ。『悪い人には見えない』って。なんの根拠も裏付けもない子供の戯言一つに、あいつはバカ正直に信じたんだよ。あいつにとってはリラも大事な妹みたいなやつだったから、そんな子供が信じた奴を、あいつも信じることにしたんだ。現に、お前はリラを助けた。たったそれだけのことが、あいつにとっては信じるに値する出来事だったんだ」
 その子は私が殺してしまったんだよ、ライム。そう言ってしまいたかった。自分が殺した少女。自分をいたわってくれていたあの少女。罪も無く、ただ巻き込まれただけの国民も皆。皆殺してしまった。中途半端にしか使えない力で、自分を失くしたために。目の前のトトも、自分のせいで殺されようとしている。
 気力を失いかけているセラルフィに、自分だけ必死なのがバカらしくなってきているライムが怒りに震えながら、土を握り込んでいた。
「おい。聞いてんのかクソ野郎……。黙ってねえで何とか言いやがれッ! ……頼むから助けてくれよ。アイツは俺の親友なんだ。代わりなんていないんだよ。そりゃあ数えきれないほど喧嘩もしてきたさ。それでも……それでもトトを死なせたくないんだよ。お前|《マヨイビト》だろ!? 世界ぶっ壊せるだけの力持ってんだろ!? だったら、こんなクソ魔法陣、さっさとぶっ壊して助けやがれェええええええッ!!」
 ずっと不安定だった。獣殺しにしか振るえなかった力。人殺しにしか使えなかった力。こんなにも力があるのに、誰かを守れた試しなど無い。
 それでも、せめて目の前の彼だけは。彼だけでも救わなければいけない気がした。今更人殺しの罪を清算できるなどとは考えていない。せめて、死ぬ気でも――否。
 〝殺す気〟で助けなければ。
「な、んだ。コイツ……ッ! 心臓を抜き取られてるんだぞ!? どこにそんな力が……ッ」
 魔法陣が激しく揺れ動き始めた。セラルフィを中心に、得体の知れないオーラが立ち上る。時間の制約が崩れはじめる。
 そのまま灼熱の炎を鞭のように形成し、シルヴァリーの首を狙った。焼き切り、首をはねようとする。
 しかし寸でのところでシルヴァリーが消え、数歩先のところに現れた。
「だが私を殺そうとしたのは間違いでしたね。トレイルは――」
 開放された弾丸。殺そうとその場で焦らされていた鉛の殺意は一気にトトの肉体へ迫り、その皮膚を――
 破る前に消失した。
 シルヴァリーを襲う火炎とは別に、灼熱で形成された炎竜が竜巻となってトトの周りを覆っていたのだ。
「まさか銃弾を喰ったのか!? 有りえない、そんなことが」
 瞬時に鉛を溶かす熱量。その高熱の液体さえも大気に散らすほど、膨大なエネルギーをセラルフィは発していた。
 しかし、その膨大なエネルギーを|《再生の臓器》無しに行使し続けるのは甚大な被害が伴う。その症状が顕著に表れるのは、人格の欠落。
「――――」
 人の発するような音ではなかった。水面に小石を投じたような、透き通ったその音がセラルフィの口から洩れ出す。音は魔力と成って、シルヴァリーの魔法陣に干渉した。
 時の呪縛から完全に解放されたトトは、今起こっている状況を瞬時に理解し、セラルフィの方へ走り出す。
 魔法陣から赤いドーム状の結界が伸び始めた。
「セラ、それだけはだめだッ! ――うわっ」
 止めようとするトトだけを結界から弾き飛ばした。
「これは、私の魔法陣を上書きしたのか!」
 セラルフィとシルヴァリーの二人だけが結界の中に閉じ込められる形となる。セラルフィの瞳は既に色を失くしていた。

 元来、人一人分の力で固有の結界を構築することは『特例』を除き、一般的には禁忌とされていた。そもそも結界というのは新たな世界を生み出す神の真似事と同義なのだ。人間の扱って良い代物ではない。
 |《再生の臓器》を失った|《マヨイビト》も例外ではない。ソレを生み出す代償は計り知れない。故に『特例』として発動を許される瞬間は――
 ――〝道連れ〟。
「貴様ァ……ッ。自分がどうなってもいいのか!?」
 怒りに任せ叫ぶシルヴァリーに、セラルフィは。
「――溶かせ」
 楽しそうに笑った。



     
       /2


 辺りはマグマの海と化していた。大地が焼け、液状の火炎が泡を噴きながら二人へと迫っている。結界の中では逃げ場など無く、それでもセラルフィにとって脅威には映らない。一方的な虐殺。
 しかし残された時間は三十分も無い。それを理解しているのかいないのか。少女の形をした抜け殻は。|《マヨイビト》と呼ばれた抜け殻は。大量殺人を成した抜け殻は。結界という死そのものの檻の中で、灼熱の劫火を容赦なく走らせていた。
「止まれ!」
 指を弾き、迫り来る炎の波を魔法陣を介して停止させるシルヴァリー。結界用に魔法陣の術式を上書きされたとはいえ、元の術式を完全に消し去らない限りその力は顕現し続けるようだ。
「まるっきり人を捨ててしまったようですねぇ……。厄介だ」
 シルヴァリーが腕を横に薙ぐと、その軌跡から五匹の炎竜が姿を現した。
 旋回。セラルフィの位置を中心に、這うようにして旋回する炎竜。それはセラルフィが心臓を奪われる前に発動した力だった。ある地点で進行方向を急転換させ、一気に喰らう。ただし、過去の術を引き出したところで、火炎を操るセラルフィにとっては逆効果でしかない。
 遅い来る炎竜を片手で抑え、その顎を大地へ叩き付けた。爆音が結界を揺らす。大気がびりびりと振動し、肌さえも刺すような衝撃を起こした。
「ハァ、ハァ……ッ! くそ、このままでいるのも危険か」
 結界を使う特例が道連れだと言われているのは、呪いに近い行為であるからに他ならない。自分の魂を捧げ世界を作り出す禁術。そこに巻き込まれた生物は、発動者が意図的に解除するか、どちらかが死ぬまで消えることは無い。
 魂をささげた術者は思念の実体を授かり、対象を殺すための化物へと成り果てる。人格は呑まれ、ひたすらに暴力を振るう。

 これはセラルフィが炎竜を退けた状況と同じである。
 ただし、セラルフィの場合、前者は有りえない。|《再生の臓器》を失った状態で発動したこの結界で、セラルフィは今、魔力――思念の実体として活動している。
 つまり今の彼女は死んでいることと同じ。暴力で制圧されない限り、対象を抹殺するという目的を持った化物として戦い続ける。
「まさか心臓に課した呪縛がこのような形で仇となるとはね。とても後悔しているよ」
 心にもないことを言うが、セラルフィは聞いていない様子だった。否、聞こえていない。もはや人の言葉を解す人格が消えかけていた。
 シルヴァリーが懐中時計を取り出し、セラルフィを完全に停止させようとした時。
「――――」
 目の前から少女の姿が消えた。慌てて辺りを見回そうとした――が。
「なっ」
 突如真横から妖艶に笑う少女。紛れもなくセラルフィだった。その細く、白い両手がシルヴァリーの肩を抱く。手が顔に伸びた。
「溶カセ」
 絶叫。セラルフィの両手が溶け、一気に熱を帯びたのである。血の混じったそれは炎よりも熱く、掴まれていた顔は一気に(ただ)れ煙を上げた。
 転げまわるシルヴァリーの横で、自分の融解した両手を眺める少女。真っ赤な血が溢れ出る中、一切の動揺を失くし傷口を――焼き塞いだ。
「モウ一回」
 言葉を覚えたばかりの赤子のようにうわごとを垂れ流している。叫びながら顔を覆っているシルヴァリーの元へ再び近づく。無い腕を伸ばした。
 切断。
「化物が」
 シルヴァリーは片腕を天に振り上げていた。時間停止により自信を硬化したのと、セラルフィの腕の時を進め、枯れ枝のように萎縮させたのである。切断というよりは、〝折り飛ばした〟ような感覚だった。
 セラルフィは自分の右手を色の無い瞳で見る。何が起こっているのか理解できないというよりは、余っていた玩具が壊れてしまったというような顔だった。呆けたままで、今度は傷口をふさごうともしていない。
 対するシルヴァリーの爛れていたはずの顔は元に戻っていた。何のことは無い。時を戻したのである。
 外部の要因では殺害されなくなったセラルフィは、いつの間にか仰向けに倒れていた。出血の量と魔術行使がここにきてセラルフィの体を蝕み始めたのだ。火の粉が飛び散るように、ゆっくりと、少女の体が火となり千切れていく。
「思念で形成した肉体と結界。|《マヨイビト》の限界をこの目に収めることができて、大変良い収穫でしたよ」
 そもそもこの結界を作り上げた時点で、心臓の呪縛に関わらず彼女は死亡していた。シルヴァリーの掛けた魔術以上のエネルギーで自身を殺したのだ。心臓は戻らないが、このまま思念体として消滅すれば、シルヴァリーに奪われた心臓も朽ち果てる。
 時間がゼロになろうとも、この世の人間が全員死ぬことは無くなる。
「まさかあなた、『自分が死ねば|《再生の臓器》は力を失う』とでも思っていませんか?」
「――ッ!」
「瞳孔が開きましたね。図星ですか? 人格が消えていたと思っていたのですが驚きです。まだ少しばかり意識があったようだ」
「ウ、アア」
 セラルフィの頭部に手を乗せるシルヴァリー。
「言ったでしょう。『魔術は麻薬』だと。それを使う精神は、|《再生の臓器》によって補われていると。あなたの思念体。つまり精身体が消えなければ、『肉体的な死』は関係なく術式を続けられるんですよぉ」
 もはやセラルフィにとっては水の底で声を聴こうとしているような状態だった。人格が底に沈みかけている。
「あなたを停止させる」
 ――トト。
 闇の底に沈んだはずの人格。セラルフィの額に手をかざそうとしたシルヴァリーの横で、小さく。少年の名を呼ぶ声がした。人知れず結界が剥がれ落ちていく。セラルフィの意思とは関係なく。もしくは、そうするべきだと結界自身が自壊したかのごとく。
 ――壊れた結界の膜からトトが飛び出した。
「セラッ!」
 シルヴァリーの時の制約の領域(テリトリー)に入ってしまった。構わず大槌を振りかざす。シルヴァリーは不敵に笑い、指を弾こうとした、が。
 大槌が突如輝き、形態を変える。殴るというより突き刺すような鋭さを以て、時の束縛をまるで打ち砕く様に、虚空のある一点を殴り、破壊する。途端、シルヴァリーの片目に亀裂が入った。
「あ、がぁああ……ッ!」
 隙を狙いセラルフィの体を抱き、瞬時に魔法陣から離脱する。
「トレイル! 貴様ァ!」
 既に精身体を留めていたセラルフィも限界が来ていた。
 心臓の爆破が起きる前にその灯も消えかけようとしている。
「セラ大丈夫!?」
 色の無い瞳はトトに焦点を合わせられない。虚空を見つめ、半分火炎と化した少女の体は風に消されそうなほど虚弱なモノとなっていた。
「トト、ごめんなさい。こんなことに巻き込んで……」
「何言ってるんだよ、改まって。僕の方こそキミに助けられてばかりだ」
 小さな声に答える。とは言っても、この体が消滅するまで、もう長く無いことは目に見えて分かっていた。
 天に伸ばされた手を掴み、自分はここだと強く握る。炎の手は不思議と熱くなかった。
「もう、時間がありません。精身体の私が消えれば、心臓の効力は無くなります」
「ダメだ! 勝手に死ぬのは許さない!」
 握る手が、どんどん冷たくなっていく。火炎の体をしているのに、それほど力が弱くなっているのか。そんな、どうしようもない顔でセラルフィを見ていた。
「聞いたんだぞ。君が……」
 本当は言うべきではないのだと、彼自身躊躇するように言葉を詰まらせていた。セラルフィを最後まで追いつめてしまうのではないかと。
 それでも、ここに留める時間を伸ばそうと、必至に意識を手放させないように全てを口にした。
「君が、リラを殺したんだって」
「――ッ」
 トトの手から逃れようと、その拒絶反応は顕著になった。
 異次元管理局だったトト――トレイルは、精身体と成り果てた|《マヨイビト》の症状を少なからず理解していた。
 |《マヨイビト》の意識が完全に消えれば思念体も消滅する。トレイルのしている行為は今のセラルフィにとって最善であり、残酷な手段だった。
「君は生きていなきゃいけない。殺した人たちの分まで、生きて戦うんだ」
 記憶を失う前のトレイルは、確かにリラと親しかった。家族のように。そのリラを殺した張本人が目の前にいる。怒りが無いわけではなかった。同情しているわけでもない。ただ、勝手に死なれるのは許せなかった。如何なる理由であれ、人を殺めた罪を償う前から逃げるのだけはさせるわけにはいかなかった。
「僕を見ろッ! 勝手に逃げるのは許さない!」
 掴んでいた手を大槌に持たせる。
「君はもう精身体だ。僕の大槌は魔力を吸収できる。魔力は精神の源。言っている意味は分かるね?」
「ダメ……そんな事したら、心臓……時間が」
「シルヴァリーの思うようにはさせない。僕を信じて」
「…………」
「お願いだ。リラのためにも」
 その名前に、セラルフィの瞳がわずかに揺れた。



     
       /3


 魔法陣の反動で動けないでいるライム。遠くで何かやり取りをしているトトとセラルフィを見て、何もできない自分が情けなくなった。
 元来ライムは戦闘向きの部類ではない。どちらかと言えば情報収集として暗躍する側の人間だ。
 直剣を立て、立ち上がろうとする。すぐに力が抜け、無様に倒れた。
 倒れたところで、顔を上げた瞬間。目の前の光景に愕然とした。
「なんだ……あれ」
 セラルフィの体が大きく燃え上がり、大槌に取り込まれる。更に大槌が姿を変え、装甲のような外郭を押し広げた。
 激しく火を噴く大槌。その火炎はトトの体を覆い、肉体と同化させた。
「やってしまいましたね、トレイル。そのまま殺せば良かったものを」
 狂ったように笑うシルヴァリー。自身の描いた魔法陣に手を着いた。
 直後。蛇のように魔法陣の術式が腕を伝い、眼球へと集約される。壮絶な痛みが襲っているのか、シルヴァリーは呻きながら、上着を破り捨てた。
「もはや、お互い人のまま戦うことはできそうにありませんねぇえへへへへへ!」
 あらわになった上半身。禍々しく刻まれた術式。焼けるように煙を上げ、流血していたその瞳には激しい炎のような光が紫に灯っていた。
「邪魔者を先に始末しておきましょうか」
「ッ!」
 ライムの方を向くことなく呟くシルヴァリー。それでも自分のことを言っているのだと悟ったのは、右腕に空間の歪みを感じた後だった。
「ぐ、あッ」
 右腕が歪み、ねじ切ろうとする。嫌な音を立て、腕があらぬ方向に――
「下がって」
 鈍い音が虚空を穿った。遥か先にいたはずのトトがすぐ目の前にいる。
 その声と同時に右腕の歪みが消失。トトがその大槌で防いだのだろうか。隣にいると、炎と化したトトの体の熱がより伝わった。
「ライム」
 何かを言おうとするトトをライムは遮った。
「……いい。分かってる。ぶっ倒せ」
 今更言われなくても良い。言いたいことはお互い同じだと自然分かっていた。
「悪かった」
「バカ言うな。お互い様だ」
 一歩ずつ、右腕を庇いながら後退する。ライムが安全な位置まで下がったことを確認すると、トトの柔和な表情は一瞬にして厳しいものに変わった。
「時間が惜しい。三分で殺す」
「三分? クフフ……! 仮にも組織の|《マヨイビト》を専門としていた人間を相手にですか? ……付け上がるのも大概にしろよ」
 苛立ちにも似た声音。
 地面に落ちている、シルヴァリーがずっと携帯していた懐中時計を見て、トトは悟った。
 トトの大槌と同じように、彼にとってはあの懐中時計が魔術行使の代価を担っていたはず。湖に(そび)える女神像も、懐中時計を破壊しておきながら存在を維持している。
 それを放棄した上で、ライムを襲えた意味。
「シルヴァリー、お前まさか」
「……や、やっと分かりましたか。けけ、契約したんですよ。うふふふふ! |《マヨイビト》を殺すことでねぇ! あはははは! で、でなければ。でなければでなければでなければ! 国レベルの人口、全ての時を止めるなど! いくら寿命があっても足りない! もっとも、再生の臓器は消えてしまいましたがねええええ! アハハハハハハハハ!」
 シルヴァリーは狂ったように笑った。楽しそうに。悲しそうに。

 ――心臓爆発まで、残り十分。

間章:シルヴァリーとチャイム


 シルヴァリーが|《マヨイビト》とコンタクトを交わしたのは、彼もまた次元の狭間に迷い込んだ時だった。
「ここは一体」
 灰のような砂漠の地平線と、砂に沈んだ鐘楼の台座が一つ。ぽつりと置かれた殺風景な世界だった。暖色と寒色の混ざった空の中に大きな石の塊や、重力に逆らって浮遊する枯れ木。実に奇妙な世界である。とても生物が住めるような環境ではなく、故に背後から掛けられた人間の声に心臓が委縮した。
「お客さんなんて珍しい」
 富裕層の人間を思わせる黒塗りのドレス着た女性だった。極力人に肌を見せまいとする、指先まで届く袖に、黒い手袋。その顔は血が通っていないのかと疑問を抱くほどに白く、そのせいで人形染みた不気味ささえも感じる。
 シルヴァリーは組織の命令でよく異空間の異常を調べる、いわば調査員のような役職に就いていた。そのため、今回のような奇妙な人間を見かけることは少なくない。故に珍しくとも何ともない。
 のだが、どこか感心を抱かせ、離さない不思議な空気を放っている。
「あなたは?」
 思わず問いかけ、しまったと頬を引きつらせた。組織に居た時、自分たちの存在を他者に知られぬよう念を押されているのだ。『異空間渡航の能力』が明るみになると、異世界全体の均衡が崩れてしまう。|《マヨイビト》のような高位生命体を排除しているのは、そのものが天災レベルで危険を孕んでいる以外に、そういった理由もあった。
「キームとでも呼んでください。前の客人にもそう呼ばせていましたから」
 唐突にこの世界へ出現した自分のことなど一切興味がないように、彼女は日傘をいじる。
「私の他にもここへ来た人物がいたのですか」
「ええ。あなたと同じ異次元管理局のメンバーですよ」
 そのようなことを言われ、また心臓が縮む。冷や汗を浮かべながら、小さく微笑んだ。
「……ばれていましたか。その方は今どこに」
「無事返しました。普通の方法ではここへこれないのですが、帰るのは簡単ですので」
 『無事』と言うくらいだから、その人物は傷一つ負うこと無く帰れたのだろう。変則的だが、当面はここの調査をして本拠地に帰還することにした方がよさそうだ。
「そうですか。ならば安心です」
「あなたはもう少し人を疑うことを覚えたらいかがですか?」
「あなたのような人が嘘をつくとは思えません」
「あら。口説いてるつもりですか?」
「まさか。本心ですよ」
 感情の起伏が無い女性、キームは、作り物のようなサファイアの瞳を鐘楼の方へと向ける。
「一体ここで何をしていたんですか?」
「実は、つい先ほどここに小鳥が迷い込んできてしまって」
 そう言い、砂漠に沈んだ鐘楼へ腰かけるキーム。広がったドレスの横には、傷一つ無い小鳥が魂を抜かれたように力を失っていた。
「おや、これは……」
 そっと首元に触れてみる。死んでいるわけではないらしい。
「治療の仕方がよくわからなくて。肉体だけ時間を戻したのですが、どういうわけか、元気にならないのです」
「時間を戻した? そんなことがこの世界では可能なのか」
「いえ、使えるのはわたくしだけです。訳あってここに滞在しているのですけれど」
 どうも話が見えない。キームはこの世界で何かを待っているのだろうか。考えていても仕方がない。シルヴァリーは片膝を突き、小鳥の体を両手に包んだ。
「この小鳥。任せてもらえますか」
「何をなさるつもりですか?」
「少しばかりショックを与えるんです」
 不安そうに目を細めるキームの目の前で、シルヴァリーは古びた懐中時計を取り出して見せた。正体さえ知ってしまえば別段珍しくない。魔術行使の代償を身代わってくれる便利道具である。
 目を閉じ、小鳥の異常をきたしている気管を探る。数秒後それを見つけ出すと、小さなエネルギーの塊をその部位に流し込み、風船が割れる程度の衝撃を与えた。
 直後ぐったりしていた小鳥が、驚いたように暴れはじめる。すぐに飛び方を思い出したように羽を広げ、どこかへ飛んで行ってしまった。
「まあ」
 驚いて口にしているのか分からないような声音を上げるキーム。
 膝辺りに付着した砂を払い落とし、モノクルのメガネを押し上げた。
「あなたの力は素晴らしいですが、あの鳥には負担になっていたようですね」
「わたくし、あまり器用ではないので」
「見てわかります」
「何か言いまして?」
「いえ、独り言です」
 懐中時計をしまい、また周囲を見渡す。何もない。彼女はどうやってこの世界で生活しているのだろうか。そんなことを考えていると、キームが思いついたように提案してきた。
「そうだ、もし時間が許してくれるようであれば、手伝ってはいただけませんか?」
「どうかしたのですか」
「ここの鐘楼(しょうろう)が壊れてしまって、この空間から自由に動けないんです」
「はて、それはまた奇妙な」
 奇妙な世界に奇妙な女性。しかも壊れた鐘楼のせいで自由に動けないと言う。別に同情してそんなことを行ったわけでは無いのだが、キームは両手を合わせ、無表情のまま頼み込むように顔を傾けた。
「でしょう? どうかお力添えいただけませんでしょうか」
 どちらにせよ、この世界の調査はしておきたいと思っていた。この女性に興味があって留まろうというわけではないと、シルヴァリーは自分に言い聞かせながら頷いた。
「そうですね、良いでしょう。実は少し厄介な仕事を押し付けられておりまして。ここは相棒(バディ)に任せるとします。さて、それでは具合から確認しましょうか」
 懐に入れた懐中時計を、再び取り出してみた。



       /1



 鐘楼を直そうと試みるも、なにか複雑な術式が組み込まれているのか、上手く音が鳴らない。ここの世界では時間の流れが遅いらしく、それならば自分が数日くらいいなくても支障はないだろうと判断した。このキームという女性も話し相手が無くとても暇だったと言っていた。話し相手をしている内、互いのことを語り、次第に『仲のいいおしゃべり相手』の関係にまで発展していた。本当はこの世界の仕組みも粗方理解したため、彼女の悩みを解決して帰るつもりだったのだけれど。
「昔からここで?」
「そうなんです。わたくし、外の世界から来るものしか見たことが無くて、上も周りも殺風景でしょう? 地面なんか灰みたいで」
 無表情で寂しそうに言うキーム。当初は感情の起伏が無い女性などと思っていたが、案外そうでもないのだと気付いた。長い間彼女は一人で生きていて、感情を見せるような相手が居なかったのである。ただ、彼女の喜怒哀楽の変化は不思議と感じ取れるようになっていた。
「そうですね……。少しお時間をいただけますか?」
「ええ」
 鐘楼を公園のベンチのようにして並んで座るのが二人のベストポジションという奴だった。一番話しやすく、なにより、この鐘楼しかここには無い。
 そこから立ち上がり、部下を教育する上官のような立ち方でまた懐中時計をぶら下げるシルヴァリー。
「キームさん、あなたは時間を操る術を使えるようですが、時間を早めることは可能ですか?」
「もちろんです」
「では、ここに」
 こくりと頷く彼女に、シルヴァリーは背中に回した手から一輪の青い花を差し出した。
 一種の召喚術だ。花のように小規模なものならば、シルヴァリーにでも簡単に取り出せる。趣味でガーデニングの類を(たしな)んでいるシルヴァリーが、とっておきのモノを自室から召喚したのは体面上伏せておく。
「あらまあ。綺麗な……なんでしょう、これは?」
 小首を傾げる人形のような顔立ちで、シルヴァリーの手の中を見つめる。やはり、キームはこの世界にあるもの以外は知らなかった。当然と言えば当然だが。
「花ですね。ブルースターと言います」
 五枚の海色をした花弁。星のような形をしているそれを、キームは興味深そうな無表情で注視した。
「あら、素敵な名前。本当に星みたい」
 まるで知っていたような口ぶりで褒めるので、驚き顔で訊いてみる。
「星を見たことがおありで?」
「とても遠くですけれど。空間の裂け目でよく見えるんです。いつかちゃんとした場所で見てみたいものですわ」
 そういえばこの前の小鳥も異空間からやってきたのだった。それを考えると、星やそういったものを記した紙切れなどが飛んできても不思議ではない。
「ならばいつか連れて行ってあげますよ。川のように星の連なる綺麗な場所があってですね」
 そんな誰でも知っていてキームが知らないことを語りだすと、キームはいつも楽しそうな無表情で聞いてくれる。とりあえずは無表情なのだが、それでも声のトーンが高くなったりするので、興味の有無を判断しやすい。
「そうだ。花言葉というのをご存知ですか?」
 また小首を傾げる。あまり傾げさせると首筋を痛めさせそうだったので、反応を見る前に教えることにした。
「植物を象徴する言葉です。例えばこのブルースターは、『信じあう心』という花言葉があります。よく結婚式などでブーケにするといいと言われていますね」
「シルヴァリーさん」
「はい」
「あなた、やはり私を口説こうとしていません?」



       /2



 鐘の調子は以前変わらず。どうにも厄介な仕組みをしている。シルヴァリーがここに来て実に半年の時が流れていた。組織側では一日の時が流れている。時間のずれでシルヴァリーの感覚は鈍っていた。とはいえまだ大丈夫だろう。この空間では時間は待ってくれる。
「そろそろお昼にいたしません? 菓子というものを作ってみましたの」
「ほう。キームがそんな器用なことをできるとは思えませんが」
「何か言いまして?」
「いえ、独り言です」
 珍しく、彼女の方から自分のために何かを作ろうと頑張ってくれていたらしい。
 ところで、半年以上この世界で暮らしているわけだが、空腹などというものが無いことに気づいたのはずっと前のことだった。原因はやはり、時の制御がそうさせているのだろう。肉体的な衰えや、成長というものがここでは意味を成さないようである。最も、既に大人になっているので困ることは無いのだけれど。
 故に睡魔も無ければ、睡眠や食事をとる必要も無かったりする。恐らくこの世界に侵入してしまった時からこの肉体の時間は止まっているのか、もしくは巻き戻しによってその状態を維持されているのか。それでも気持ちの面ではベッドに横になりたかったりするわけで。その流れで、シルヴァリーはキームの助力を得て、『家の無い家』を作ってしまった。
 用は、『壁も屋根も無いが、中身たる家具だけをこの世界に呼び出した』というところである。
 砂漠地帯なのでさすがに床の代わりとなる板くらいは敷いているが。
 眠るときはソファの上でキームが毛布を掛けて眠り、シルヴァリーは床の上で毛布に抱かれながら眠るのが通例となっていた。シルヴァリーの自室にはベッドが一つしかなく、横に慣れればベッドも要らないか、と自己解決させて。図らずも一般家庭のような暮らしに染まっている気がする。
「こんな感じでどうかしら」
 ブランケットに包まれたアップルパイが背の高いテーブルに載せられた。甘酸っぱいリンゴの香りがする。木のスプーンで外の皮を割ると、果実の香りを包んだ湯気が立ち上った。手ごろな大きさですくい取り、口に運ぶ。
「驚きました。以外とこの手の料理は得意なのですね」
 ちょっと照れくさそうに笑い、上品に口元を抑えるキーム。
「実は初めてなんです、これ。作り方はあなたの料理本に書いてあるアップルパイと同じなのですけれど、全く同じだとつまらないですし。隠し味に異界から紛れ込んだ巨大芋虫(ワーム)の血と、一つ目コウモリの眼球のエキスと、甘いリンゴを混ぜると芳醇な香りを放つなんて初めて知りまして。おいしいなら良かったですわ」
「少し席を外します」
 隠し味なら最後のだけにしておいて欲しかった。そもそもリンゴは隠し味ではないけれど。

 と、文句を言おうと思っていた今日。しかし文句を言う気が失せてしまった。その理由を一人考えていると、この日が、初めてキームが笑ってくれた日なのだと。毛布の中で眠っているキームを見て気づいた。
 また笑ってほしいと、ほんの少し思っていたりする。



       /3



 もう一年は経過した。組織側では二日経ったのだろう。まあ一週間以上相棒と離れ離れになることなど日常茶飯事だったので(主に相棒の方がいなくなるのだが)、まだ気にする必要はない。鐘ももう少しで直りそうだ。直ったらこの世界に用の無いシルヴァリーは必然的に残る理由がなくなる。が、ここから立ち去りたくないと思っている自分がいた。
「キーム」
「なんでしょう」
 二人でも充分座れるであろうソファを前にして、二人は鐘楼の台座に腰かけていた。他所から見れば奇妙な光景だろうが、彼にとっては最初の日を思い出させてくれるベンチのようなものだったのだ。
 無表情で小首を傾げる仕草を見るのはもう数えきれない程である。そうやって覗き込んでくるキームから顔をそむけるように、モノクルのメガネをしきりに押し上げながら、
「私は、あなたのことがその……好き、なのかもしれない」
 と、人を散々不器用呼ばわりした男が不器用な言い方をしたのである。
「あら、やはり口説くつもりだったじゃないですか」
 無表情で散々言ってくるセリフも、もう数えてはいない。よく考えれば当初の不思議な感情は愛情に近しいものだったのかもしれないと、今更ながらに思った。
 妙に興味を持ってしまっていたとは思っていたが、と、頭の中で伝わりもしない言い訳をしている。ただ口に出さないと伝わらないので、両手を振って誤解を解こうと必至になった。
「いや、違うんだ。あのときはその、親切心というか。そうだな」
 気の利いた一言でも考えようとしていたが、思い浮かばず、その猶予ももらえないうちにキームは困ったような無表情で返した。
「ダメですよ。その、理由は言えませんが」
 言えない理由にそっぽを向くキーム。代わりにシルヴァリーが答えた。
「あなたが|《マヨイビト》だからと言うことがですか?」
「知ってらしたんですか」
 目を丸くする彼女に、大した事でもない風に返す。
「気付いたのは一か月過ぎたあたりからですがね。この目で『|《マヨイビト》特有の、呪われた薔薇の刻印』を見たのは更に半年過ぎた頃です」
「でも、あなた方は私たちのような種族を危険視しているのでしょう? なぜ殺そうとしなかったのですか」
「あなたに害意が無いと分かっていたので。それに、あなたは他の|《マヨイビト》とは雰囲気が違うようだ」
「それは褒めているんでしょうか。バカにしているんでしょうか」
「さあ。それよりも、あなたの返答がまだです」
 なんとか会話の主導権を握ろうとしていたキームだったが、最終的に観念したようにそっぽを向いた。
「…………なんと言うのでしょうか。こういうのは初めてで、あまり器用ではないのです」
「知ってますよ」
「ですよね。私もおそらく、あなたのことを気に入ってると思います」
「あやふやな返答は困ります。それはイエスなのですか、ノーなのですか」
「そんなに迫らないでください。恥ずかしいです」
「あなたの数倍私だって恥ずかしいですよ」
 当初出会った時以上に、キームの表情の変化は大きく、いつもより血の通った薄赤色の頬をしていた。
 恐らくその数倍自分も血の通った色で頬が染まっていたのかもしれない。
 キームがシルヴァリーの方を向いたかと思うと、目を合わせるわけでもなく、瞳は泳ぎっぱなしだった。
「『イエス』トコタエマス」
「なぜ片言なのですか」
「恥ずかしいからです。しかし、つまりあれですよね。この瞬間から恋人ということになるのでしょう? なんてお呼びすればいいのですか? あなた、とかですか」
「発展しすぎです。普通に名前でいいでしょう。お互いそのほうが呼びやすい」
「ですね、シルヴァリー。仮にこの鐘楼を直してくださったとして、その後はどうしますか? |《マヨイビト》と仲の良くなった異次元管理局メンバーなんて、あなたの上司が許してくれるとは思えませんが」
「構わないさ。その時はどこまでも逃げ続ければいい。一緒に」
「そう簡単に言いますけど」
 隣の男のはっきりしない未来予想に、呆れ顔で空を仰ぐ。
 と同時に、キームの表情が強張った。シルヴァリーも同じだった。得体の知れない力の塊が、遥か上空から降りかかるのを感じたのだ。

――それは音も無く舞い降りた。
右腕を鞭のように、否。大蛇へと変化させ、砂漠に叩きつけて衝撃を吸収した黒服の少年。姿を目視した直後には大きく舞い上がった砂煙に隠れてしまった。
即座に砂煙を蛇の右腕で払う。風圧は軽く殴られたような衝撃でこちらまで飛んできた。好戦的な目つきでこちらを見ている。そして、シルヴァリーを見ると馬鹿にするように笑った。
「随分と仲が良くなったもんだね、相棒」
「アロノア! なぜここに」
 その少年を、シルヴァリーは知っていた。初めてこの世界に迷い込む前に、『相棒』と別の空間へ調査をしに向かっていたのだ。
「それはこっちのセリフだイモ野郎。面倒事押し付けやがって、それに……|《マヨイビト》までいるじゃねえか! 大手柄だなおい! さっさとブッ殺」
 |《マヨイビト》の発見に大手柄だと喜び近寄ってくる少年、アロノア。
 キームの目の前に歩み寄ろうとした少年の前に、庇うようにシルヴァリーが立った。
「なんのマネだ」
「この人はやらせない」
 変なことを言う同僚に、アロノアが眉根を寄せた。
「何寝言いってんだイモ野郎。バカですか? アホなんですか? ターゲットがそこにいんだろうが! 忘れたのか。『害を及ぼすか否かの判断を挟まず、|《マヨイビト》は発見次第始末する。困難だった場合、応援を要請する』そう組織から教わっただろうが能無しが。お前三日間俺に隠れて何してたんだよ。殺す機会を伺ってたんだろ? もう『討伐役』の俺様が来たんだからターゲットを油断させる演技なんて必要ねーの。オーケー? さっさとそこでアホ面かましてる女ぶっ殺すぞ」
「悪いがこれは冗談じゃない。ましてや演技でもない。お前の思う我々が過ごした三日間は、私たちにとっては大事な二人だけの一年なのだよ」
 アロノアという少年を見て、キームはわずかな恐怖を無表情の中に浮かべる。この少年とは会話をしてはいけない。目を合わせたらそこで終わりだと、どこかで理解しているようだった。
 そしてそれは間違いではなかった。シルヴァリーの所属する異次元管理局では、最低二人での行動を義務付けられる。索敵・調査に特化した『補助役』。そして戦闘による人、街の巻き添え対策を補助役に全て任せ、脅威を排除する事のみに専念する『討伐役』。
アロノアは間違いなく後者だった。
 「……あー。完全にイッちゃってるわ。こいつ、精神支配の能力でもあるワケ? どうでもいいけど、邪魔すんなら公務執行妨害でぶっ殺すぞ」
 シルヴァリーは何も言わない。否、何も言えない。長年の付き合いで、口を開く隙を見せれば、即座に自分の首が跳ぶと分かっていたのだ。冷や汗のみが頬を伝う。
「やるんだな。あーわかったわかった。わかっちゃいました。もう手加減とかしてやんねえから、二人仲良く生首並べて死ねッ!」
 アロノアが跳びだすよりも早く。意を決したように、懐中時計を突き出した。表面に亀裂が入る。シルヴァリーは眩暈がしたように倒れかけた。
 その首を大蛇の腕が噛み砕こうと迫ったとき、キームごと煙のように揺らめく。二人は完全に姿を消した。
「チッ、幻覚とかせこいことやってんじゃねえよ」
 家具も鐘楼も全て見えなくなる。アロノアは面倒くさそうに大蛇の腕を振り上げた。



       /4



 シルヴァリーの精神は限界に達していた。『結界』を構築したのだ。ただし、人格の欠落という代償を代わりに支払う懐中時計によって、その意識はまだ消えてはいない。
 亀裂の入った懐中時計。数多の魔術代償を受けてきたその魔道具も、『死と隣接する力』までは受けきれなかった。
 半壊し、受けきれなかった代償の半分を払ってしまった。
結界を構築するということは、神の世界創造の真似ごとと同じ。人間が手を出して良い領域の力では無かったのだと、シルヴァリーは改めて理解した。
「すま、ない。キーム。私のことはいい。先にいけ」
「だめですよ! あなたが死んでしまう!」
 随分と感情を出せるようになったものだ。
無表情の中、涙を零す彼女の顔を見て、シルヴァリーは必至に声を絞り出す。
「だめなんだ、もう。魔道具を介さずに魔法を使ってしまった。正気では、いられない」
 キームの頬に伝う涙を拭い、最後の会話を永遠に続けるため、意識を手放さないよう、能動的な動きを止めまいとしていた。
 キームは覚悟したような瞳でシルヴァリーを見る。涙を拭う手を取り、強く握った。
「私に出会ったことが全ての原因です。ここに来る瞬間まで、あなたの時間を戻します」
「ダメだ! キームとの記憶まで……消えてしまう」
「それでいいんです。もともとあなた方組織と|《マヨイビト》は相容れない。本来この力はわたくしの寿命を奪う。でも、あの鐘楼が近くにある限り、私は時間に殺されることはない……。もう逃げられないんです。ここからは。鐘楼が直らない限り、あれと一緒に空間を渡れない」
 キームは時間操作の|《マヨイビト》。ただ、代償を受け入れる心臓――|《再生の臓器》は、その力によって寿命を奪われる。彼女の力の特異性はそこにあった。精神ではなく、生命を代償にする力。
 それを防いでいたのは鐘楼だった。つまり、人間以上の力を持ちながら、人間同様の弱点を持つ|《マヨイビト》だったのだ。
「あれが転移装置の役割も担っているなら、今からでも直しに」
 気力もない体を起こそうとするシルヴァリーの肩を静かに抑える。
「アロノアと言いましたね。彼は|《マヨイビト》の力を持っています。それも二人分。彼は『|《マヨイビト》を手にかけることで、|《マヨイビト》の力を得られる』と知っている。力の全てを受け継げる契約です。そんな中、彼のいる場所で攻撃を退けながらなど、ほぼ不可能です。あの言動、彼の性格上あなたを仲間と思うことも無いでしょう」
「だったら――」
「私を殺してください」
「そん、な」
 できるわけがない。愛する人を殺すくらいなら、自分が死んだ方がマシだ。
 きっとキームもシルヴァリーの言いたいことは分かっているだろう。それでも淡々と、無表情で説明を続けた。
「わたくしを殺せば時間を操る力を得られます。あたな専用に作られたその魔道具があれば、私のように鐘楼に頼る必要もないでしょう。お願いですから、生きてください」
「いや、だ。キームを、忘れたくない」
「安心してください。時の制約は使用者を殺せば解除されます」
「そんなの意味がない! 記憶が戻っても、キームがいないなんて……耐えられない」
 もはやキームを見る力も、その視力も衰えていた。焦点は合わず、瞳に色は無い。
虚空を見つめ、涙を零すシルヴァリーの手を取り、優しく、覚悟させるように言った。
「人間そんなに(やわ)な生き物ではありません。時の流れが苦しみを消してくれます」
「消えるわけないだろッ! 消させないぞ、絶対に、キームのことを忘れたりなんか、できない……ッ」
 轟音。アロノアからは見えていないはずの結界に、亀裂を入れられた。あまりにも対応が早すぎた。
キームの体に魔の術式が伸びる。それは顔にまで及んだ。|《マヨイビト》が固有の魔術を使用するときに現れる症状。
「時間です。彼が来ます」
「頼む……。消えないでくれ。キーム。キームとなら、共に死んだって構わないから」
「そんな悲しいことを言わないでください。一瞬だけ。もしくは永遠かもしれないですが、わたくしのことを忘れてしまっても、私の分まで愛する人が生きていてくれるなら本望です。あなたには多くのことを教わりました。あの青い花も、人を愛する感情も。遠い昔に失くした感情は、どれも新鮮で、かけがえのないものでした」
「よせ――!」
「さようなら」
 額に感じる、冷たい手。一粒の雫を頬に感じ、やがて。意識を失った。



 精神を侵すレベルまで魔術を行使し、強引に時を戻されたシルヴァリーはある程度までその精神を。人としての一線を越えない程度の精神を取り戻すことに成功した。
 ――取り戻した。組織としてのシルヴァリーを。
「なっ、ここはどこだ……!? 貴様、その紋章ッ。|《マヨイビト》だな!」
 正座している形で、茫然と見上げて来る女性。その顔には魔の術式が浮かんでおり、異次元管理局が排除すべき災厄だとすぐに理解した。
 見渡すと得体の知れない世界。シルヴァリーの混乱は激しい危険信号を放つ。
「シルヴァリー……」
「なぜ俺の名を知っている! くそ、もうコイツの術中にはまっているのか!?」
「愛しています。いつまでも」
「黙れッ! 災厄をもたらす化物が! ここで死ねッ」
 『補助役』とはいえ組織のメンバー。対象を制圧するだけの力を持っていないわけではなかった。
ひび割れた懐中時計を突き出し、掌に魔法陣を浮かばせる。
光の熱線が黒いドレスを貫いた。


 直後、膨大な時の流れが映像となって脳内を巡った。濁流のような荒々しさは、かけがえのない記憶を暴力的に呼び戻す。
目の前には、心臓を貫かれ、冷たくなった女性。
「キー……ム?」
 咆哮。喉が千切れそうなほどに。枯れた空に向かい、いつまでも叫んだ。暴走した力は強大だった。この空間を駆け巡り、侵入したアロノアを異界に弾き飛ばすほどに。
 ――|《マヨイビト》は世界に災厄をもたらす者。生まれながらにして危険。そう宿命づけられた存在。それを排除するのは異次元管理局。一体、どちらが正しいのか。考える余裕など無かった。自分以外のモノは、全てが敵に見えるほどに、取り残されたシルヴァリーの心は侵されていた。
 故に。行動原理は単純なものへと書き換えられる。
「殺す。一人残らず」

第六章:異次元管理局


「トト、奴の人格は完全に侵されている。恐らくセラと出会う前のどこかで重大なショックに見舞われたんだろう。……分かってるだろ! もう説得の余地はない! やれ! 時間が無いぞ!」
「分かってる……分かってるんだよそんなことはッ!」
 火炎と同化したトト。その大槌には、セラルフィの思念体が吸収されている。彼女の喉元に浮かんでいた時の光文字は、大槌に刻まれていた。
残り五分。
火炎の噴き出す推進力は音速。それでも時の前では無力だ。シルヴァリーの瞳はその火炎を捉える。直後、転倒。宙に取り残された火炎と切り離されたトトは、激しく体を打ち付けながら地面を転がる。
一切の工程を無視し、ソレを発動。時間停止の能力を見ただけで発動するにまで変貌していた。
「ヤヤヤ、や、はり、こここのてて程度か。大槌ををを振り回すだけで、で、ででワタシが――がっ!?」
 途端、苦しそうに体を丸めるシルヴァリー、魔道具無しの魔術行使による反動に、内容物を吐き出した。
受け身を取っていたトトは、即座に立ち上がり、走る。
「気付くのが遅すぎたんだ。シルヴァリー。お前はもう魔術を行使できるほどの冷静さは無い。トラウマに、復讐に縛られすぎたんだ。もう僕が手を出す必要がなくなるほどに、自我を失いかけているッ」
 彼は、自分の記憶を巻き戻していたのだ。自分自身が言っていた、『力の源は怒り』だと。大切な人間が死に、その瞬間を忘れないために、色あせてしまわないように。シルヴァリーは怒りを原動力にするために、毎日その時の記憶だけを巻き戻して。
「う、うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウウウウアアアアアアアアアアア――ッ!」
 ――すまない、キーム。
 聞こえた。確かに、そう言った。自我を失った男の唇から。怒りや疲労で切れた唇が、そう動いたのをトトは目にした。大きく振りかざした大槌は正確にシルヴァリーの背中を目指し――。

 振り返った眼によって、トトの時は完全に停止した。

「――うおおおおおおおおおッ!!」
 インパクト直前に停止したトトの反対方向から降りかかる咆哮は、紛れもなく、戦いを終わらせる寸前のトトの声そのものだった。
「――ッ!」
 振り返ろうとした。獣のように獰猛な表情を張り付けたシルヴァリーはしかし、灼熱の炎により視界を遮られ、左側面からまともに大槌を喰らう。インパクトの瞬間シルヴァリーが目にしたのは、時を止めたはずのトト――否、『トトを模したトリックドール』が、その役目を放棄した後の姿だった。


 紅蓮の軌跡を引いた人影は湖面を打ち、柱のような水飛沫を上げて巨石を粉砕した。まるで蓋をしていたかのように立ちふさがる大岩は、音速を超えるシルヴァリーの体により打ち砕かれる。そこには大口を開けた洞窟が覗いていた。



       /1



 生きていた。虫の息と言っても大げさではないほどに、シルヴァリーは衰弱していた。
彼を生かしたのは強大な魔力。時を操る、命で出来た魔力だった。かつてシルヴァリーが愛し、愛された相手から受けた魔力。それが反射的に作用し、シルヴァリーの肉体的な時を止め、岩で頭蓋を粉砕されるという結果を退けたのだった。しかし、シルヴァリーの意識は朦朧としている。セラルフィの心臓を破壊するという目論見も打ち砕かれ、今から挑みかかるほどの体力もない。
「殺す……ッ。殺してやる、あのガキも、あの連中も、組織も。全員、潰してやる……ッ」
 気付けば、涙が浮かんでいた。声が震えていた。悔しさで歯を食いしばっていた。息は漏れるばかりだった。
 そこへ現れたのは、かつてユーリッドという小国を脅かしていたという水龍。十年前に大岩で洞窟へと追いやられた魔獣は、何も口にせず今も生き続けていた。それが今、その封印が今、解かれたのだ。
 大口を開けた海蛇。十年ぶりの食事となるのは、自分よりも遥かに小さい、とても小さな、ちっぽけな生き物。
 無力な男だった。
「――キーム」
 己が喰われるその直前に吐いた言葉は、|《マヨイビト》という、生まれた時から忌み嫌われる存在の名。しかし、人生で最も愛することができた人の名だった。



       /2

「セラ、そろそろ時間だ」
 七日を過ぎ、十日目を迎えた朝。今、自分は生きている。トトという恩人であり、友人を前にして、セラルフィは改めて自分が生きていることを分析した。
同時に失ったものもある。体だ。今は大槌の中に取り込まれ、精神のみがその中で息づいている。
あの日、トトに治療された部屋で二人は――一人と一振りは、ベッドに座り、あるいは立て掛けられて、言葉を交わしていた。
「まさか、誰もシルヴァリーのことを覚えていないなんてね」
「ええ、もともと魔法を使用しないような人間だったり、膨大な力に耐性がある人間でないと、シルヴァリーの時の制約を受けた間の記憶は無かったことにされるようですね。|《マヨイビト》と契約した人間の魔力量は計り知れませんから。記憶を失くした方々は反射的に自己防衛機能が働いたのでしょう。時間の矛盾を都合のいいように修正されていてもおかしくはありません」
「でも、やっぱり混乱はしてるみたいだよ。夢だったって言う人もいたし、全く覚えていないって人もいた」
「リラは、やはり私が殺したのですね」
 ふと、そんなことを言う。『感情の無い声』で。正確には、感情を失っていた。
 大槌から出される声は、いつかトトが振るった大槌の放つ機械的な声とあまり変わらなかったのだ。ただ、セラルフィの声にすり替わっただけのように。
結界を構築した影響だろう。生きていて死んでいる。表情すらうかがえない大槌の彼女は、そんな状態だった。
「不思議です。悲しいという感情は分かるのに、もう感じることができない」
 その声は無感情だったが、どこか苦しそうだと、トトは思った。
シルヴァリーの時の制約が解除され、それが良い方向に転んだと言っていいのかトト自身分からないが、セラルフィが手に掛けた人たちの記憶も無かったものになっている。
――ペジットも例外ではなかった。彼らはリラのことも忘れ、自分たちの事も覚えてはいない。
やはり都合の良い修正だったとは言えない。それはリラが――彼女たちが生きていた証を奪ったのと同義なのだから。
彼らの死体は焼き払い、火葬した。
 自分たちはそれも含め、彼らが生きていたと知る唯一の二人として、これからも生きていなければならない。
「気にするな、とは言わないよ」
「ええ。勿論です。トト、あなたの方こそ大丈夫なのですか。ライムが居なくなって」
「いいんだ。アイツは昔からの親友だったって、思い出せたから」
「やはり彼は」
「うん、異次元管理局の同期だったよ」
「ですよね。私が知らないことを彼が知っていたり、何より、シルヴァリーの、時の制約を受けて記憶を改ざんされずに行動できたのは、それだけの能力があったからでしょうし」
 ライムもまた、トトと同じ組織の人間だった。トトが気づいた時にはその姿は無く、捜しても結局見つからなかったのだ。
「しかし、それならなぜトトの前から姿を消したのでしょう」
「僕を生かすため、かな。たぶんあいつはシルヴァリーを始末しに来ていたんだと思う。そこに僕まで迷い込んだから、僕も始末するように組織から言われたんだろう。当時は僕も同じように組織から逃げてきた身だからね。でも、あいつはそうしなかった」
「親友、だからですか?」
「それもあるかもしれないけど、何よりも自分から力を一時的に閉じ込めた所為(せい)だろうね。魔道具の起動式を書き換えて、組織の命令であっても使えなくしたんだ。まあそれがセラの訊いた理由につながるわけだけど。あのメンバーの中では僕とライムは一番仲が良かったから。そのせいでシルヴァリーを殺せなくなった。それで僕の記憶を取り戻して共に協力して、シルヴァリーを始末するって言うのが筋書きだったのかな。それで逃亡した罪を許してもらうとかして。まあ、そんなことで許してくれるほど情に熱い組織でもないんだけどさ」
「そうですか」
 あっさりと返されたが、別段気にする様子も無く、トトは「うん」と頷いた。
「あの」
「うん?」
「あの時の事、やっぱり」
「僕の家族が|《マヨイビト》に焼き殺されたこと?」
「…………」
「正直、犯人の顔を僕は覚えていないんだ。君が炎を操る|《マヨイビト》だったとしても、それが僕の村を襲った証拠にはならない。確かに覚えてるのは、あの炎の熱さだった。痛かった。息がうまくできなくなるほど苦しくて、喉が千切れそうなほどに叫んだあの炎は、記憶を失っていたあの時も、実は頭の奥底では覚えていたんだと思う。でもね、キミの炎を直に感じて、僕は君のことを犯人だとは思えなかったんだ」
「なぜ?」
「何て言うのかな、君の炎は、優しかった。人を殺す炎じゃなかった。少なくとも君が君である瞬間までは……。上手くは言えないけれど、君は――君の炎だけは、嫌いだとは思わない」
 おかしなことを言うと、セラルフィは分析した。自分はリラを殺したのに。リラだけでなく、国の人もたくさん。ただ、トトもトトなりに自分を気遣っているのだろうと分析し、それ以上は訊かないようにした。
「そう……ですか」
「それよりも、これからどうするつもりなの?」
「この体をどうにかした後、姉を捜そうと思ってます。ずっと行方知らずでしたけど、十日前、姉がここの世界のどこかにいると、強く感じました。大きな力を感じたんです。きっと、異次元管理局の人たち追われてるんだと思います」
「だったらここでじっとしてられないね」
「ええ……あの?」
 急に体を持ち上げられる感覚がし、それがトトが大槌を担いだのだと察した。
「何をしているんですか?」
「ライムが僕たちに残したバイクがあってね」
「僕たちって……。同行してくださるんですか?」
 てっきりこの国の魔道具店にでも行って代わりの体を探すものと思っていたのだが、そういう言い方ではなかった。
「今更何言ってるんだよ。お互い組織に追われる身になったのに。別行動で一人になったら、それこそ危険だよ。というより、今は離れられないし」
「ですが、私は|《マヨイビト》で――」
「また狙われるかもしれないって言いたそうだね。それはそれで都合がいいんだ。君が|《マヨイビト》を捜しているなら、僕が探している|《マヨイビト》とも合える可能性はあるからね」
 確かにそうかもしれないと、セラルフィも合意した。異次元管理局の人間と出会えれば、姉の情報も聞き出せるかもしれない。



そういう流れで、今はバイクで国を後にしている。海に沿った一本道を走り、アクセサリーとして首に掛かっているセラルフィ。ゴーグルをはめて前を見ているトトが、ふと声をかけた。
「結果的には良かったのかもね」
「何がです?」
「シルヴァリーのことだよ」
「やはり彼はまだ、生きているんでしょうか」
「たぶんね。捜索隊があの湖まで向かったけど、水神様は洞窟にかじりついたまま固まってたらしいし。それ以外は誰もいなかったって言ってたから、たぶん最後の力を使ってあのサイズの魔獣を止めたんだろう」
「よくわからないんです。私たちが正しいのか、シルヴァリーが正しかったのか」
「どっちでもないと思うよ。僕たちは僕たちの目的のために戦っただけだし、勝ったのが僕たちだってだけで、正義とか悪とか、そんなものは意識してなかったでしょ?」
「そう、ですね」
「いいんだよ、それで。どこの世界でも、突き詰めれば同じことなんだ。互いに目的があって、偶然それが互いの邪魔をするなら、どちらかの目的が叶うまでは戦い続けないといけない。それが正しいか間違ってるかなんて考えてたら、その瞬間だけは絶対自分が正しいって思いこむんだから」
 何も返さず、小さく胸元で揺れるセラルフィに、安心させるように言った。
「セラはセラの思う正しいことをすればいいよ。間違ってると思ったらその時は、僕がちゃんと邪魔するから」
「……すみません」
「キミって僕に謝ってばっかりだけど、そんなに気を遣わなくてもいいんだよ。普通に仲間として接してほしいっていうかさ」
 感情の無いセラルフィは、それでも、感情があった記憶を頼りに、どう返すかをできるだけ普通になるよう考え、適切だと分析した言い方で返した。
「わかりました。トト」
「なに?」
「これから先、よろしくお願いします」
 それが初日に出会った、セラルフィとしての人格のものだと受け止めたトトは、静かにうなずいて返した。
「うん。よろしく」


 セラルフィの七日間戦争――了。

セラルフィの七日間戦争

セラルフィの七日間戦争

世界と世界を繋ぐ次元。その空間を渡ることができる数少ない高位生命体、《マヨイビト》は、『世界を滅ぼすほどの力を持つ臓器』を内に秘めていた。各世界にとって彼らは侵入されるべき存在では無い。そんな危険生物を排除する組織《DOS》の一人が、《マヨイビト》である少女、セラルフィの命を狙う。ある日、組織の男シルヴァリーに心臓を抜き取られた彼女は、残り『七日間しか生きられない体』になってしまった。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-02-23

Copyrighted
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  1. 第一章:七日間の心臓
  2. 第二章:残り七十五時間
  3. 第三章:シルヴァリーの正体
  4. 第四章:死刑執行
  5. 第五章:時の女神
  6. 間章:シルヴァリーとチャイム
  7. 第六章:異次元管理局