晴れだけ坂

〈登場人物〉
・海瀬真斗-かいせまなと-   …まなとだよ、まことじゃないよ、まなとだよ♪
・天野陽依-あまのひより-   …空眺めるの大好き
・亀井壮真-かめいそうま-   …かめってダッシュすると速いんだよー
・青城理玖奈-あおぎりくな-  …三分の一の確率で女子だと思われる
・街中一磨-まちなかかずま-  …たまには誰か下の名前で呼んでよ
・前田武博-まえだたけひろ-  …タケでもヒロでもちゃん付け可能
・比嘉七海-ひかななみ-    …海なし県住みです



小学校の帰り道に晴れだけ坂と呼ばれる大きな坂があった。
並木がアーチのようになっている一本道の長いゆるやかな坂。
なぜその坂が晴れだけ坂という名前なのか、俺は知らない。
木のトンネルになっていて雨が降っても濡れないからとか(実際は木の葉を伝って雨粒が落ちてくる)、昔坂の下にアイス屋さんがあってそこで売っていたハーゲンダッツがなまって”はれだけ”になったとか(だったらガリガリ君坂でいいと思う)、坂を登ってすぐの言えにハーレーダビットソンがあってハーレー坂から変形したとか(ハーレーがあるのは本当だけどそれ坂の名前にするか普通?)、説はいろいろとあるけど実のところはよくわからない。じいちゃんが通っていた頃からここは晴れだけ坂だったそうで、そのじいちゃんでも由来を知らなかったんだから、俺達が知らないのも無理ないと思う。
晴れだけ坂は晴れだけ坂。それだけだ。
小学生の頃、俺達はいつもこの坂を登って下校していた。
…いや、いつもってことはないか。家の方向も違うし、高学年になってからはまったく来なかったから。
でも、あの頃、毎日のように遠回りしてこの坂に寄っていた時期があった。俺と、タケと、理玖奈と、マチと、七海と。陽依と、あとは……あいつと。いつも、七人で。
今日はなんとなく久々に通ってみようと思っただけだ。
七年前、ゆっくりと歩いていた晴れだけ坂を、中三になった真斗は自転車で駆け抜ける。
蝉の声が聞こえた気がした。


気付くと中学校のそれとはひと味違う教室に立っていた。
「……えっと?…ここ、どこだ?」
周りを駆ける子供たちは真斗の腰あたりの背丈しかない。真斗に気が付かないのか、それぞれ無邪気にはしゃいでいた。
「なぁ、おい」
その中の一人に声をかけて、肩を掴もうとして――真斗の右手はその小さな肩をすり抜けた。
「え、」
見つめた自分の両手は半透明で、――ちょっと待って。なにこれ、俺、幽霊?
何が起きたのかとその教室を見渡す。小さな机、小さなイス、反対にやけに大きな時間割表。黒板に書かれた日付は七月十一日水曜日。時計の針は一時を指していた。
日付は、あれ、昨日?え、でも昨日は金曜じゃ……時間は……あれ、俺、なにしてたんだっけ。たしか、あのあと、真っ直ぐ家に帰って……
ふと見慣れた顔が前を横切って気が逸れた。目で追うと、その青いTシャツの少年は、窓際の席で空を眺めている、まっすぐな髪を高めの一本結びにした少女に話しかけていた。
「ひより、今日一緒に帰れる?」
ひより、と呼ばれて振り返ったその少女にも見覚えがあった。
「帰れるけど……今日りくなとマチが習い事だから、みんなバラバラで帰るよ?」
りくな。マチ。知っている名前だ。
少女が背を向ける窓からは、懐かしさの匂う中庭が見えた。
(……見たことある)
もう一度教室内を眺める。いくつもの小さな見知った顔。ロッカーに並べられたランドセル。カナヘビやアリジゴク、ザリガニがそれぞれ入った虫カゴ。担任に対するいたずらで教室の前のドアの隙間にはさんだ黒板消し。
ようやく気付いた。
これは、記憶だ。七年前の。小学二年生の。俺はこの場面を知っている。あの黒板消しは不発に終わって、怒られるだけの結末になるのだ。うまくあたんなかったね、じゃあ今度はチョークの粉たくさんつけとこうよ、当たらなくてもぶわってなりそうじゃん、いいねそれ明日やろう、そんな話をして、次の日は担任を真っ白にすることに成功した。そんな思い出の一場面だ。
そして、
「コンビニ行きたいからさ。ひよりんちのほう行くんだ。だったら一緒にっておもって」
ひより…小学二年生の小さな陽依に、そんなふうに話しかけている青Tシャツの少年は、
(俺じゃん)
今よりずっと幼く、丸い、小さな真斗だった。
「わかった」
陽依が頷く。リトル真斗くんの顔がでれっと緩んだ。
(あ、そっか。この頃は、陽依のこと好きだったんだっけ、俺)
今ほもう、思い出せないくらい遠いキモチだけれども。……いつから、どうして好きじゃなくなったんだろう。というより、どこが好きだったんだろう、かな。今じゃまったくわからない。
って、俺、そんな顔してたのかよ。でれでれしちゃって。下心丸見えじゃんか。そりゃみんなにバレるよ。
てかてか、そんなことよりそんなことよりだよ。これってなに?タイムスリップでもした?七年前の出来事を、幽霊みたいな第三者の位置から見つめているみたいな。正確になぞっているみたいな。こんなことってあるの?あ、もしやもしやのこれって走馬灯?もしかして俺、今死にかけてる?え、うそ、帰る途中で事故でもあった?思い出せない。
じゃあ……
考えてもしょうがないか。
無限ループしそうな思考を断ち切って、今はこの光景に浸っていることにした。声も届かない、何にも触れない幽霊に、できることはない。走馬灯なんだったら、折角だし懐かしさを存分に感じていよう。
そんなふうに思考を切り替えられる自分を、自分ではポジティブで前向きだと思うけど、他人からは脳天気の楽天家と称される。
「まなと、おかねもってきてるの?」
陽依に訊かれてう、と声をつまらせるリトル真斗。
おかね、か。持ってきてないよな。だって陽依と二人で帰れるチャンスだと思って、適当に言っただけだもんな。ただ送るよって言っただけだと陽依は断るもんな。方向逆だから悪いってそう言って。
「だめだよ、もってきちゃ。……なんてね。あたし、ランドセルの中にDS入ってるから」
にやっと笑う陽依は、要するにそれが言いたかっただけらしい。よかったね、真斗、追求されなくて。…って自分に向かってそう言うの、なんか変か?
「DS?バレたらとられるよ」
「この前まなとの取られちゃったもんね」
「そうだよ。父ちゃんに電話されてさ。すっげー怒られたんだから」
「そんなに?」
「そんなにそんなに。ほんと、鬼かと思った。DSも取り上げのまんまだしね」
「あたしはばれないようにするから大丈夫!」
小さな二人がそんな会話をしているのを少し微笑ましげに見守る。楽しそうなリトル真斗くんの表情をみてると、こっちまで楽しくなってくる。そういやこの頃はまだ、親父のこと父ちゃんってよんでたんだな。DSはニ学期になるまで返してくれなかったんだよなー。そんなことを一つ一つ懐かしみながら。えーっと、このあとってなにがあるんだっけ。知っている、なんて思ってみたけどやっぱり忘れてることは多い。
「あ、そうだ」
陽依がぱっとなにか思いついたように言う。
「そうちゃんも一緒に帰ろうよ」
その一言でどきんと心臓が跳ねた。そして、気付いた。
(…そっか。小二の七月だ)
もしこれが走馬灯で、この時間をもう一度見ることに意味があるなら、その意味は一つしかない。走馬灯の意味があいつって、なんか、ダジャレみたいだけど。
「ねぇ、そうちゃーん」
陽依が教室の隅に向かってよびかける。
「なぁにー」
ゆっくりとした返事がして、また心臓が飛び跳ねた。
「なぁに、ひより」
そう言ってふにゃりと笑うのは、会えなくなって久しい、懐かしいもう二度と会えない親友。
「壮真!」
当然のように真斗の声は七年前の壮真には聞こえない。それでも呼ばずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
「壮真、ばか、俺……」
泣きそうになる。例えこれがタイムスリップだとしても、走馬灯でも、俺が死にかけてるとしても、この一瞬に感謝したい。
何度戻りたいと願った光景だろう。何度やり直したいと縋った瞬間だろう。
また会えた。力の抜けた笑顔を見れた。ゆっくりのんびりの声を聞けた。
あぁ、こうなると、幽霊みたいな自分が恨めしい。壮真と話したい。ばかやろうって言いたい。
どうして、どうして、どうして。俺達みんな信じてたのに。いつかまた会えるって思ってたのに。どうして自分から……いなくなっちまったんだよ。
「そうちゃんもDS持ってきてるよね?」
「もってるよー」
「今日一緒に帰らない?DSしながら」
「オレひさしぶりに対戦やりたいんだ」
「いいよー。僕の貸してあげる」
「交代で貸しっこしながらでいいよ。あたしのも使お」
「わかったー。最初はまなととひよりでいいよー」
「いいの?ありがとー」
「サンキューそうま」
丸めた紙のようにくしゃくしゃな顔になった真斗を余所に三人は話を続ける。
瞬間、地面がひっくり返るようにして景色が変転する。
そこには、肩を並べてゲーム機を覗き込みながら、晴れだけ坂を登る三人の影があった。並木トンネルをくぐり、少し先のコンビニで三手に別れるまで、大きなランドセルを背負う小さな三つの背中をずっと見つめる。真斗の頬を、一筋のしずくが滑り落ちた。


「こちらナンバー01。今から作戦を開始する」
目をこすった一瞬の隙に、また場面が変わっていた。
リトル真斗は、何かを握った形にした右手に話しかけている。
周りにはそれぞれ物陰に隠れた壮真と、陽依と、理玖奈と、マチと、タケと、七海がいる。
(ここは……イチゴ農家の裏か。あの、晴れだけ坂のすぐ下の)
「こちらナンバー03。大通りに人はいない」
「こちらナンバー06。じいさんは家入ったよ」
同じくそれぞれの右手に話しかけるようにして、七海と…あぁこんなんだったんだっけ、あどけない顔の理玖奈が応答する。
(トランシーバーか)
作戦とか、ミッションとか、そんな言葉を使うのが好きな年頃だった。
やってることは単なるいたずらだったけど。
「今日のひょうてきはいちごだ!いくぞ!」
「「おうっ!」」
真斗の号令に応えた黄色い掛け声を合図に、一斉に走りだす。青い鳥よけ用のネットに覆われているイチゴを、それぞれが次々に口の中に放り込んでいた。壮真も嬉しげにイチゴに手を伸ばしている。でもすぐに、
「こっらぁ〜!!」
じいさんの怒号が響いた。やべ、と肩をすくめて、真斗達はまた駆け出した。
集合場所は決まっている。晴れだけ坂のてっぺんだ。
にやにやしながら走るリトル真斗達を見ながら苦笑した。
(俺達こんなことやってたんだっけ)
まぁ、熟れ過ぎていて売り物にならないものが残っているのをわかっていてやっているからまだいい。それでも、踏み荒らされた畑を掃除するのはあの腰が曲がったじいさんで、大変だっただろうなと今なら思える。ついでに、もっと大変大変だったのは、こんな悪ガキどもの世話をしなきゃいけなかった先生達だよな。
二年一組の担任だった髪の薄い先生の怒った様子を想像してみる。そういえば、あのザビエル頭のツルテカな真ん中部分を触るといいことあるって伝説を作って広めたら、すっげー怒ったよな。たこみたいに真っ赤になってさ。あれが一番怒られた。その時のことを思い浮かべて、愉快な気分になった。
くっくっと笑いつつ、晴れだけ坂のてっぺんで逃げ遅れた壮真とマチに手を振っている自分を見上げた。最後に到着した壮真は恥ずかしそうに笑っている。そのふにゃりとした笑顔が眩しすぎて――

目を閉じた。
まばたき程度のつもりだったのだが、その目を開けた時また別の場所にいた。
(校長室……)
職員室では俺達を持て余していたらしい。小二の途中から、怒られるときは必ず校長室になった。
古びた歴代の校長の写真が並べられた校長室は苦手だった。すべての目に見つめられている気がして息が詰まる。それらを睨み返すように校長室を眺めた。壁に掛けられた日めくりカレンダーは七月十三日を示していた。
「あのね、君たち。あのおじいさんは腰が悪くてね、それでも一生懸命に育てていたいちごなんだよ」
白髪の校長先生の諭すような声。七人は、正座して下を向いていた。その横に並んで座ってみる。
(うわぁ)
腕を組んで見下ろしているあの頃の先生達。金剛力士像みたいだ、とこの前の修学旅行を思い出して思う。これは怖いだろ。俺達、よくこんなの耐えられたな。それどころか、性懲りなく何回も繰り返してたしな。すげえすげえ、ちょっと見なおしたぞ、ちっちゃい俺。
それでも、多少はこたえているらしく、その日の帰り道はとんでもなく空気が重かった。じいさんちに寄って、謝って、怒られて、もっと空気が重くなる。
(こういうの嫌いだぁ)
晴れだけ坂を登るリトル真斗はチラチラと陽依を見ている。陽依もこういう重い空気は苦手みたいで、なんとかして、とアイコンタクトを送っていた。って俺、あいつの目見てるだけでなに言ってるかわかるんだな。七年も前のはずなのに。それとも、好きだった頃の陽依だからなのかな。
そんな二人を見ていた壮真が、昨日集合したハーレーの家の前で突然、
「ちょっと待ってー」
立ち止まってランドセルの中をごちゃごちゃとかきまわし始めた。
「どうしたのそうちゃん?」
「うん、ちょっと」
そう言って取り出したのは、算数プリントで折った紙飛行機。
そして、それを、
「えいっ」
今登ってきた坂に向かって投げた。紙飛行機はふらふらと不安定に浮いて、すぐ落ちた。
「ランドセル入れてたからかな。つぶれちゃってた」
へへっと壮真は笑う。
「あ、あたしも紙ヒコーキ飛ばす―!」
陽依が同じようにランドセルから取り出したプリントで素早く紙飛行機を作って、すっと飛ばす。それは坂の中腹まで飛んで、
「かった」
にっと笑う。その陽依のすぐ横でもうひとつ紙飛行機が飛んで、陽依のそれより先に降りた。投げたタケはVサインを見せた。
「あぁ!…リ、リベンジするよ!たけひろ!」
陽依が喚いて、七海がぷっと吹き出す。巻き込まれてみんなが笑った。
リトル真斗は呆気に取られてた。
(そうだよな。だって完全に空気変えちゃったもんな、壮真のやつ)
本当は陽依にいいとこ見せようと思ってどうにかしようとしてたけど、なんか怖くってなんにも言い出せなかった。それを壮真が簡単にやってのけちゃうんだもんな。
「オレも紙ヒコーキやる!」
「ななみも!」
「僕はもうプリントないよ」
「おれのあげるよ、ほら」
「ありがとうりくな」
「オレももう一回」
「つぎはあたしがかつからー!」
「まなともやろうよ」
「う、うん。やる!」
そのまま紙飛行機大会になるのを眺めながら、どこか切ないような気持ちになる。心の隅がキリキリと軋んでいるような。
(……あー、これが、最後なんだっけ)
”七人”の、最後の帰り道。
西の空が茜色に染まりかけて、真斗達は飛ばした紙飛行機達を拾い集め、いつも手を振るコンビニへ向かう。遠くで消防車のサイレンの音がしていた。
「ねぇまた明日もやろおよー」
結局タケに勝てなかった陽依が唇をとがらす。
「明日はないでーす。明日はどようびー」
「月曜日に!」
ちゃかす理玖奈に噛み付く陽依。壮真はまたあのふにゃりとした笑顔で、
「うん。また月曜日にやろお」
そんなことを言って。
その月曜日は来ないことを、俺は知ってる。
何度も願った。戻れたらって。今見ているこの光景に。壮真と過ごしたこの瞬間に。普段通りに来るはずだった、変わらずに迎えるはずだった”月曜日”ほど希求したものはない。
もう二度と、手に入らない。
だから、こうやって見れただけ幸せで……なんて、俺、そんなこと言えないよ。
「待て!」
お願いだ止まれ。進むな。頼むから。本当に一生に一度の頼みだから。
ずっと戻りたかった光景。でもこれが最後だなんて。やり直したいんだもう一度、たった一度でいいから。
「待てよおい!」
誰も振り返らない。壮真の腕を掴んだが、空気よりも感触が薄い。手当たり次第に掴んでみても、何にも触れない。全部すり抜けていく。誰も気づかない。まっすぐに帰路を辿る。もうあのコンビニが見える。
あぁ、どんなに願っても、どんなに頼んでも、祈っても縋っても喚いても叫んでも泣いても怒っても頑張っても諦めないでも。
「行くな!ばか!止まれ!なぁ頼むから、俺の声聞こえてくれよ!!」
――笑っても。
「お願いだから!いやだ!こんなの、こんなのいやだ!止まれ、止まれよ、時間止まれぇ!家帰るなやめろばか頼む壮真、そうまぁー!!」
あいつを思って、あいつのために、どんなにずっと、笑顔でいても。
届かないものは届かないんだ。届いてくれないんだ。こんなに、こんなに思ってるのに。
「じゃあね」
「バイバイ」
「またねー」
「また月曜日にー」
そう言って三手に別れていく。
真斗とタケは右へ。陽依と七海と理玖奈とマチは真っ直ぐ。そして、壮真は左へ。
また何度も会えるかのように。
「…あ、あぁ……うわぁぁぁぁぁ………」
悲壮なその慟哭に振り返るものはない。
そして、


そこは病院の一室だった。
真っ白な部屋。なんの飾りもない。壁も、床も、天井も、戸棚も、布団も、着ている服も。すべてが白かった。
見舞いに来た六人の顔も蒼白だった。
しんと静まり返ったその部屋でぽた、ぽたと点滴の音だけがやけに響く。
「………そうま…」
怒られた後よりずっと重いその静けさを破ったのは、今度こそ真斗の声だった。
「みんな、来てくれたんだ…」
壮真はたぶん、笑おうとしたのだと思う。けれど、その顔は引きつって不気味に歪み、後ろで誰かが息を呑んだ。
それでも壮真は笑おうとする。
「ごめんね。怖いよねこんな顔」
「そんなことないよ!そんな、怖いなんて……」
声を荒げたのは陽依だったけど、語尾は震えて聞き取れなかった。見ると、目から大粒の雨を降らせている。
壮真は困ったように、
「泣かないでよー」
いつも通りのゆっくり口調で言う。
涙が出そうになるのを必死でこらえた。
家には妹がいたそうだ。俺達も何度か一緒に遊んだことのある、おっとりとした年子の妹。その子は一時間早く家に帰って一人で留守番していたはずで、それを助けようとしたらしい。ランドセルを背負ったまま。紙飛行機を握ったまま。近所の人の制止も聞かずに。消防士が連れ戻そうとしたのも間に合わないくらいの早さで。
壮真は一人、飛び込んだ。
燃え盛る自分の家へ。
小学二年生がそんなことできるわけないのに。
火事の中の家から自分より幼い子を助けだすなんて不可能なのに。
結局炎の中から救助されたのは壮真だけだった。
その壮真も顔面に隠しようのない火傷を負って。
それなのに。
「…なんでだよ」
痛いに決まってる。泣きたいに決まってる。つらいに決まってる。自分はもう笑顔はつくれなくて、しかも家族を一人失った。もしかしたら自分のせいだと思ってるかもしれない。それが苦しくなくてなんなのだ。
それなのに、こいつは……
「なんで笑おうとするんだよ…!」
真斗の言葉が理解できなかったらしい。壮真はぱちくりとまばたきをした。
「そんな無理して笑うなよ!大丈夫だから!オレたち怖いなんて思わないから!気にしないから、だから…」
泣けばいいだろ。なんで悲しそうな顔すらしないんだ。そうじゃないと、俺が泣けないって……
「うーん、だってさー」
のんびりゆっくりの声は変わらない。
「みんなでしょぼんってしてたってつまんないよぅ。僕、みんなの笑ってる顔がすき」
だから、笑ってて。
壮真はそう言って。
ふにゃりと笑った。
表情に出なくてもわかった。壮真はそれでも笑ってた。
だから、
「……あぁそっか。つまんないか。オレも笑ってる顔のが好きだ」
あっけらかんと答えたつもりで。
たぶんちゃんと笑えたと思ったその顔は。
(完全に失敗じゃん、俺のバカ)
「そうだね。笑ってようね」
そう言いながら泣き笑いしている陽依のほうがまだ笑顔っぽい。
「うん。そうだよ」
七海も、
「オレも笑ってるの好き」
マチも、
「笑ってたほうがいいよな」
理玖奈も、
「笑お」
無愛想なタケだって、
ちゃんと笑ってるのにさ。
俺は笑えてなかったんだ。
ほんとのほんきの最後だったのに、ね。


そこは二年一組の教室だった。
黒板には"かめいそうまくん今までありがとう"の十六文字。
壮真は転校した。福岡の祖母宅に身を寄せるそうだ。
あの火事のあと、一度も学校に来ることはなかった。
壮真に会えたのは、病院に行った六人だけだった。
そしてこの日は……黒板をチラリと見る。
またね、と約束したはずの月曜日だった。変わらないと信じていた日常は、変わるなんて思いもしなかった日々はあっけなくなくなっていた。
真斗達は廊下にいる。黒板を、そして壮真のものだった机を、一瞥してから廊下に出た。
「いくよ」
とリトル真斗。たぶん笑っているつもりでいるのだろう。でも、寂しさも悲しさも隠せていなかった。
「うん」
「やるよ」
窓際に一列に並んだ真斗達は頷き合って、
「「せーの!!」」
真っ青な空に向かって紙飛行機を飛ばした。
六機の紙飛行機は風に吹かれ、互いに交差しながら飛んでいく。
そのすぐ後を追わせるように、真斗はもう一機を風に乗せた。その一機は滑るように飛行して、すぐに他の機に追いついた。
「……また会えるよね」
ぽつん、と陽依が呟いて、
――堰が決壊した。
「あっ…あえるよっ、ぜったい……ぜったい!」
(がんばったんだけどね)
泣かないつもりでいたけれど。無理だったよなぁ。そりゃそうだよ。だって悲しいもん。
(…あ、あれ。おかしいな。今のほうが…泣き虫だ)
ポロポロ、と何度目だろう涙を流す。
俯いて必死に涙を止めようとしている真斗がぼやけて見えなくなった。
「おれ…先に帰るね」
理玖奈の声。
「オレも」
「うちも」
「じゃあまたね」
足音が響いて消えて。
気付くと陽依と二人きりだった。
「まなと、」
「…なに」
「今日だけ泣こうよ」
「……うん…」
二人して廊下にしゃがみこんで。
窓から茜色の光が差し込むまでずっと、ずっと泣いていた。
「もう泣かないよ」
「オレも。ずっと笑ってような」
「うん」
「……かえろっか」
「うん、かえろ」
壮真のようにゆっくりと、ゆっくりと帰り道を辿った。
踏みしめるように一歩ずつ晴れだけ坂を登る。
「ねーまなといいの?つうがくろ、こっちじゃないじゃん」
送られるのを嫌う、いつもの陽依だった。もう涙の跡はない。
「いいよいいよ。オレんち、こっちからでも帰れるし」
「わざわざうちのほうまでこなくてもいいのに」
「大丈夫大丈夫。キョリもほとんどおんなじだし」
「まったくもー。怒られてもしらないよ?」
「へーきだって」
そう言って笑うと、陽依もふにゃりと笑った。どきん、と脈が跳ねる。でも……その笑顔は、お前のものじゃないよな。
ふと、真斗がハーレーの家の向かいに目をやる。空き地に作業服の人が何人かいた。
「あれ、ここ、なんかつくってるの?」
「あー新しい家できるんだって。この辺家ふえるよねー」
「へぇー…」
(壮真んちはなくなったのにって、そう思ったんだよな)
この場面ははっきりと思い出せる。思ったことも、言ったことも。
もしかしたら、明日は自分や陽依がいなくなるのかもしれない。壮真のように、遠く離れてしまうかもしれない。だったら伝えたいことがある。そう思ったんだ。
でも、いなくなるなんて思いたくなくて、まだ明日も明後日もその先もあるって信じたくて、微妙な、中途半端な言い方になってしまった。
「ねぇ、ひより?」
真斗、やめろよ。そのあとの言葉は続けないでやれ。
その子は、その一言を頼りにずっと追いかけてくる。
俺が他の人を好きになっても、そいつに彼氏ができても、俺のこと好きでいてくれちゃうんだ。
「ん?なに?」
首を傾げる陽依。決心したように小さな真斗が口を開く。
(過去は……変わらないか)
変わって欲しくないものは変わってっちゃうくせに。
諦めて、ぐっと目を瞑る。
蝉の声がこだました。


「あ、れ……」
起き上がって辺りを見回す。
「ここ、俺の部屋だよな」
見慣れた自室だった。カレンダーと時計を確認する。七月十二日土曜日、AM五時八分。一応、と年も確認したが、ちゃんと現在地点だった。
「あんな夢ありかよ……」
バタン、と真斗はベッドに倒れる。
怖いくらいリアルな夢だった。というか、現実だったぞあれ。本物そのものだったよ。本当に本当に、七年前の光景だった。
しかも、
「……明日は、命日か」
丸印のついたカレンダー。寂しさよりも悲しさよりも、ぶつけようのない怒りが込み上げる。そのはずだったのに、いざ目の前にすると涙しか出てこなかった。
今日のうちに花は買っておこう。そんなことを思いながら真斗はもう一度目を閉じた。


「あれ、真斗早いね」
次の日の早朝、シンプルだが華やかさを併せ持った小さな花束を持って晴れだけ坂に向かうと、そこには先客がいた。
「陽依こそ」
陽依も花束を持ってきていた。ハーレーの家の前にある木の下に二人分の花束を置き、そっと手を合わせる。
壮真の家があった場所は、コンクリートで埋め立てられている。代わりの場所は思い出のあるここにしようと言い出したのは陽依だ。
「もう三年たつんだね」
「そうだな。……まったくなにやってんだよ壮真のやつ」
「ほんとだよそうちゃんのばか」
陽依は唇をとがらす。並木がほとんど伐採されて、木が一本しか残らない晴れだけ坂を風が吹き抜けた。蝉の声はもう響かない。
壮真は、自殺した。
あの日からちょうど四年後に。
原因は、あの火傷の跡だったらしい。
あの火傷のせいで新しい学校で疎遠にされ続けたそうだ。それは、人の笑顔が誰より好きだったあいつにとってどれだけの苦痛だったのだろう。
でも、それとこれとは話が別だ。
あのばか。死んだら俺達と二度と会えないじゃないか。もう一度、紙飛行機を一緒に飛ばせる日を楽しみにしてたのに。会えるって、思ってたのに。
「真斗、泣いてる?」
陽依に言われて慌てて目をこする。
「ばか、泣いてなんかないよ」
「そうだよね。もう泣かないもんね」
「あぁそうだ。俺は笑ってるって決めたんだ。例えあいつが死のうとな!」
「あはは、ちょっとひどいよそれ」
陽依が楽しげに笑って、あぁそうか、今更だけど気付く。
俺、この笑顔が好きだったんだ。
壮真からもらったふにゃりとした笑顔じゃなくて、心底から楽しげな明るい笑顔が。小六の夏、壮真が永遠に会えない存在となったと聞いた時から、陽依はそれまでの明るく跳ねるように楽しげな笑顔を捨てていた。だから、たぶん気持ちが離れたんだ。こいつは俺の好きな人じゃないと、切り捨てたんだ。
でも、そんなこと気付いても、もう意味はない。
だってこいつ……一昨日ようやく好きな人が変わったとこなんだから。
あいつのおかげだよね。あいつと付き合って……陽依は自分を取り戻した。思い出に囚われていた自分を解放した。ようやく、自身の表情で笑えたんだ。そしてその笑顔はもう俺のためのものじゃない。
今更なんだ。なにもかも。
もう変わったんだ。変わってくんだ。晴れだけ坂がこの七年で大きく変わったように。並木トンネルの大きな坂が住宅地の中央を通るつまらない坂になったように。人の気持ちも、人と人の関係も。変わらないでほしいと願ったものほど、いとも簡単に変わっていく。
「じゃああたしもう行くね。ばいばい」
「うん。またな」
ひらりと手を振ってから、少し考える。
今の"またな"は約束に入るだろうか。
「まぁいっか」
言い聞かせるように呟いて、真斗は晴れだけ坂に背を向けた。

晴れだけ坂

晴れだけ坂

「もう一回だけでいい、会いたかった」 何度も戻りたいと願った七年前には、もう会うことのない親友がいた。 真斗視点で語られる『あの日』の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-22

Copyrighted
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