音のない部屋
1
少しずつ水が私を浸していった。最初は足元だけが水に浸かっていたのに気付けば、私はもう水に溺れるところだった。
昨日までのこの世界で生きていく自信は、いつのまにか消え去っていた。
「どうも、ユウさんですか?」
新宿東口アルタ前、まだ禿げてはいないけど少し薄くなった頭、中肉中背の40代半ばあたりの男だった。
「ユウです。」
そう答えると、その男はニタっと口の端で笑った。しかし、すぐに冷静な顔になり周囲を少し見回してから私に聞いた。
「ホテルにすぐ行く?それともちょっとご飯食べてからとかのほうがいい?」
突然されたその質問に、私は機械的に答えた。
「ホテル」
「いきなりでいいの?買い物とかでもいいよ、少しリラックスしてからとかのほうがいいんじゃない?」
「ホテルでいい」
男は少し残念そうな顔をした後、「じゃぁ行こうか」と言った。
「飲み放題2千円でいかがですかー」
「それまじやばいね、めっちゃうけるんだけど」
「いまどこ?俺アルタ前にいるんだけど」
「それで今日さ、めっちゃむかつくことがあって」
夜8時の新宿駅前は仕事終わりのサラリーマンや大学生がたくさんウロウロしている。待ち合わせ相手を探す人や、キャッチのお兄さん、居酒屋の客引きを必死にやるバイトの男の子たち。たくさんの視線が交わる中で私は誰にも見られずにいた。
「本当に25歳なの?実は高校生だったりしないよね?なんかすごく若くみえて、不安なんだけど」
一瞬自分に話しかけているのかそれとも独り言なのかわからないぐらいのトーンだった。
「本当ですよ。心配なら身分証明書でも提出しましょうか?」
「いや、そこまでしなくていいんだけどさ。ごめんごめん。若く見えたからさ。」
安っぽいスーツ、猫背で歩く彼の後ろ姿はあまりに虚しかった。
知らない男と寝るのもこれで4回目だ。
初めての時は、相手が来る前に逃げ出そうかと思うぐらい不安で緊張していた。それと同時に、すこしだけワクワクしていた。それを終えたあとには、どこか全く違う自分になっているのではないかと期待していた。
実際、はじめて知らない男と寝てみると、あまりにもつまらなく呆気ないものだということがわかった。結局誰も私の変化には気がつかなかったし、自分でも誰かに気づかれるほど何かが変わったわけではないということがわかりきっていた。私が言わなければ、きっと誰もしらないまま。この世界は変わらない。
そもそものきっかけはなんだろうかと思えば、もてあましていた時間だったのかもしれない。
大学3年の夏、誰もが忙しくしていなくてはいけない時期。
夏休みは海外旅行にいくとか、サークル活動をするとか、バイト三昧だとか。
誰もが言葉を重ねて、夏休みの忙しさをアピールしていた。
そのなかでユウは1人置いてきぼりをくらったのかのように、周囲の人たちを見つめながら何も言わなかった。
サークル活動は、1年の冬に辞めていた。
大学にはいってすぐにあった新歓コンパでは、入学式で隣に座っていた花梨に連れられて色々なサークルのコンパに参加した。
「どこでも無料で飲めるからとにかくたくさん参加しよう!それで、良さそうなところがあったらはいろう!」
花梨は、いかにも大学生になったばかりですという雰囲気の女の子だった。
まだまだ私服に慣れていない雰囲気を醸し出す服装は、流行りのものを着ていているのだが、少しチープな感じがした。化粧にまだ慣れていないその顔は、アイラインだけが目立ちすぎて目の周りがいつも黒かった。でも私はそんな花梨が嫌いではなかった、彼女の必死に背伸びした雰囲気が、滑稽だが可愛さをもった滑稽さだった。
結局、五月の半ばには、一番大きな団体だったフットサルサークルに所属した。所属したといっても正式に入部とどけなんかをだしたわけではなく、いつも活動にさんかしているうちにそのサークルに所属した子だとみなされたようだった。この曖昧さが大学生ということだったのかもしれない。
目の前を歩いていた男がホテルの前でとまり、こちらをふりかえった。
ここでいいか?と身振りで聞いてくる。私はかすかに頷く。
自動ドアをくぐると大きなパネルがあり、いくつか電気が灯っていた。それの下にはそれぞれの部屋の写真が飾ってあった。値段は宿泊で7000円から12000円、休憩はその半額ほどの値段。男は空いているなかでいちばん安い部屋のボタンをおし、ゴトンと音がして、おちてきた鍵を大切そうに取り出した。どうやら誰にも会うことなく部屋へとたどり着けるらしい。エレベーターで5階までいき、エレベーターを降りると部屋の入り口が光っている部屋があった。
下のパネルと連動し、これから客が来る部屋は光る仕組みになっているようだった。客は部屋を間違えることも迷うこともなく、すんなりと部屋までたどりつく。なんだか、全部の構造が見えている迷路を走らされるネズミになった気分だ。人間が上から観察していて、行かせたい方向に餌をおいたりする。
外からみているとものすごく滑稽なんだろう。
「先にシャワーあびてきたら?」
男はスーツを脱ぎながら背中越しにそっと言葉をかけた。
「じゃぁさきにもらいます。」
こういうホテルは、シャワールームだけはとにかくすごい。いちばん気合が入っているところだと思ってもいいかもしれない。このホテルもなかなかだった。ジャグジーとテレビのついたお風呂。電気をけすと、天井に星が現れた。これは恋人同士が一緒にお風呂にはいりながら楽しむのかもしれない。
そんな天井をながめながらさっとシャワーを浴びた。
お風呂でイチャイチャするのは、恋人たちの特権で、今回のような場合に出る幕はない。自分の身体を最終点検すると、ユウは置いてあったバスローブを羽織った。備え付けのパジャマはダサすぎて着る気がしなかったし、若くみられるユウはバスローブを羽織ると、そのチグハグさがとても魅力的だと言われたことがあった。
2
男の指が背中を這う。
その指先から肌が熱くなっていく。その熱さだけが、私と彼との間に隔たるもので、それだけが私が私であることの証だ。世界と私との隔たりは不確かで、でもやっとここでそれを感じられる。
つい熱い吐息が漏れる。
男はそれを私の快感だと勘違いして、荒い動作で唇に吸いつく。
私が必要とされていることを唯一感じられる瞬間。
指が少しずつ下りていき、ショーツを乱暴に脱がせる。
「とっても綺麗だ。」
私の耳元で囁いたその声に、ふふっと口元だけで笑って返す。
男は興奮して私の肌にむしゃぶりつく。
今度は本当の快感の声が漏れる。男は私の身体全てを点検するかのように少しずつ舐め回していく。快感から声を漏らす私は、意識が朦朧とし、それでも男が目の前にいることを確かめるために必死で彼の身体を指でなぞる。
私の中に彼が少しずつはいってくる。
その痛みは、異物が私の身体に侵入してきていることを感じさせる。
少しずつその異物は私の身体に馴染み、いつの間にかそれは私の身体のなかにあるべきものへと変化していく。
世界と私の隔たりはいつのまにか消え去り、世界と私が一つになっていく。
消えないで、どうか私が私であるように。
その願いは虚しく消え去り、私はこの世界の中へ溶けていく。
3
目の前に差し出された3万円を受け取ると、男は「それじゃぁ」と一言いい足早に去っていった。
ユウはいつものように、もらったお金を財布にしまうことなく、鞄にそのままつっこんだ。
早く変えなくてはいけない。
この紙切れを早く紙切れで、ないものにしなくてはいけない。
デパートにはいって、一階のブランド物が並んだ売り場にたつ。
店員というのは不思議なもので、私のように若い女でキャリアウーマンにも見えないような女でも、買いそうな客はわかるらしい。
すぐに、側に寄ってくる。
見ていたスカーフを店員がケースから出し、どうぞ合わせてみて下さいと差し出した。私はそれを手にし、手触りを確かめる。
ツルツルとしたスカーフは、その光沢と色の発色で高いということが一目でわかる。
私が身につけても浮くぐらいに高級そうだ。
実際の値段は、ちょうど私が手に入れた紙切れと同額だった。
「これにします。」
店員は、ありがとうございますと一言いうと、うやうやしく裏にさがり新しい箱に入ったスカーフを持ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「はい」
必要最低限の言葉を交わし、店員が会計を終わらせるのを待つ。
紙袋に入れられたそのスカーフを大切そうに差し出され、少し乱暴に受け取った。
「ありがとうございました」
その声を背中で聞きながし、紙袋を持って外にでた。
4
ツルツルとした高級なスカーフを箱からだし、鞄にくくりつけた。
合皮の安っぽい鞄に雑に結ばれたスカーフは、それ単体でみればものすごく高級な品であることが伝わってくるのに、かばんとともにみるとそれが高級だとは信じられないものになっていた。
何も変わっていないが、何か変わったのかもしれない。いや、何も変わっていない。
その事実がユウを少し落ち着かせる。
そのまま近くのカフェにはいり、カフェオレを頼んだ。
泡立てたミルクがたっぷりはいったカフェオレが運ばれてくる。
少し口にふくむと喉をとおり意をとおり体のなかでポタポタと温かいものがながれていく感覚があった。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。体のなかが空っぽだ。不体が軽いと気持ちが良かった。一回その軽さを感じてからは食べ物を口に含むことが億劫になった。少しだけ甘いものを食べるとか、少しだけスープを飲むとか、ほんとうに必要なものだけを体が欲するようになった。
食べる事が大好きだった、ユウにとってそれは新たな感覚だった。20代の前半はいつも何か食べたくて、大学でもつねに食堂にいたり、カバンの中にはいつもお菓子が常備されていた。
サークル活動をしている時もそうだった。フットサルサークルといいつつも名ばかりのそのサークルは、ことあるごとに飲み会が催された。その度にわたしと は、たらふく飲んでたらふく食べた。酔っ払って先輩たちに軽口をたたき、小突かれたりしながらも、所謂、大学生をやっていたと思う。
それが26になった途端あまり食べ物を欲さなくなったのだから不思議だ。
職場の隣の席に座る三つ下の女の子は、昔の自分のようにひたすら食べ物を口にした。ユウの勤める通信会社では、基本的に夕飯の時間はとることができない。
その時間は皆、記者たちの書いたゲラを前にして、文章のおかしいところがないか調べたり、記事に着く表や図の作成をしていた。
なので、夕飯は仕事をしながらということになる。
ユウの隣に座っていた美咲は、本当によく食べた。6時半ぐらいから夕飯を食べ始めると、持ってきたお弁当を食べ、カップのお味噌汁を飲み、買ってきたパンを食べていた。大体それらを全て食べるのに1時間ぐらいをかけるものだから、隣の席に座っているユウはそれを嫌でも目にすることになった。目の前にあった食べ物をどんどん口にふくみそれらが消えていくさまが気持ち悪くて仕方がなかった。
5
食べるという行為は、世界に紛れもなく存在していることを強調している感じがした。食べれば食べるほどこの世界から去ることを困難にするような何かがあるように私には感じられた。
ゆえに、隣に座る美咲がつぎつぎと口の中にものをふくんでいくさまは、自分とは違う何かを見ている気がしたし、しっかりと自分の存在の根っこを世界に植えつけているようで何故それが出来るのだろうと不思議で仕方がなかった。
気持ち悪い。それがユウにとっての美咲だった。
目の前に置かれたカップはすでに空っぽになり、読んでいた本はあとがきにたどりついてしまった。
困ったなぁ。午後3時、ユウの今日の予定は終わってしまった。
6
その日の最終電車に乗って家に向かった。
東銀座、銀座、新橋。
夜の23時を過ぎるとこの街はがらっと雰囲気を変える。
昼間に賑やかだったところは静けさを取り戻し、昼間は静かだった通りが賑やかになってくる。昼間にお買い物をしていた人々とは、また違う種類の人間たちが行き交う。着物姿の女の人や季節に合わぬ薄着のドレスを身にまとった人々がスーツを着た男の人の一歩後ろを付き添うように歩く。
そんな界隈に小さなケーキ屋さんがある。深夜の2時までやっているその店には、ハイヒールの形をした可愛いチョコレートが売っている。その小さなチョコレートの3個入りを買って帰ろうとお店にはいると、私の後ろから黒いスーツを着た男の人が一緒にはいってきた。「ホールのケーキを1つ、バースデープレートつけて」そう、その人が言い放つとお店の人は「どちらのお店までお持ちしますか?」と返答した。「美咲までお願い」というとその人は颯爽と店を去っていった。いわゆる、そういう使い方もされるお店だ。
私はそのお店でハイヒールのチョコレート3つ入りを買った。赤いハイヒール、白いハイヒール、キラキラしたラメがついたようなデザインのハイヒールの3つが入っていた。ほんの親指の先ぐらいの大きさの美しいチョコレートたちが綺麗にラッピングされて渡された。
7
26歳という中途半端な年齢に奈津は苛立っていた。
なにかわからぬ焦りを感じていた。
もっと若い時、それこそ高校生ぐらいの時に感じていた焦りとはまた違う種類の焦りだ。
あの頃は、周囲の友人たちと自分を比べて、強すぎる自意識に振り回されていた。
でもそれが不安とか焦りとかそういう言葉とははっきり結びつかず、なにかよくわけのわからないもやもやしたものだった。
でもいまは違う。はっきり思う。
もやもやした感じは同じだが、あの時感じていた自分への期待とか、イライラしたものと同時に感じていたワクワクがなかった。
結婚とか仕事とか少しずつ自分がしっかり見え始めてしまったことの焦り。
これ以上にはなれなそうな自分への苛立ち。
この世界を知り始めてしまったことの後悔。
そして、それを当たり前に受け止められる人間になっていくことの焦り。
そんなものがぐるぐると私の中に絡まっていた。
ただ、家に帰る気がせずに、しかしどこへもいく場所がなくひたすら歩き続けた。
新橋の駅をぐるりと2周し、途中の深夜まで営業しているカフェにはいった。
カフェ
カフェのオーナー
少しずつほどけていく
結局ねる。
何も変わらない。
8
写真を一枚一枚めくりながらあの人のことを思い出していた。
奈津はその名に反して夏が苦手だった。うだるような暑さは呼吸をするのさえだるいといった風情で、いつもクーラーががんがんにきいた部屋のなかにいた。
その家では奈津は特別で、彼女のために新たに最新のクーラーを一台かいたしたほどだった。
その消えてしまいそうな色の白さと、彼女が喜んだ瞬間の微笑みは周囲の人々を幸福にした。
音のない部屋