...ああ、また来てしまった。


私は真っ暗な校舎を前に、またひとつ後悔をした。
露になった首筋を容赦なく夜風がすり抜ける。

2月の夜は、寒い。

駐車場に車を止めて、運転席のドアを開ける。
ドアを閉めるときに変に力の入った平手打ちをお見舞いしてみたものの、それは完全に扉をとらえることができなくて、ガション、と歯切れの悪い音を立てた。
ほんの少しの苛立ちと、でもそれでいてどこか楽しいような、でもやっぱりイライラする気持ちが擡げてきて叫びだしたくなる。
そんな不安定な気持ちを隠すように、別に誰に見られてるわけでもないのに、なんとなく居心地の悪さを感じながらドアを閉めなおした。

歩き慣れたはずの砂利道に、それでもやっぱり足をとられながら校舎を目指す。
いつも使っている出入り口は施錠されていて、ちっと舌打ちをしてみた。
なんとなくそんな気がしていたんだ。
もう、やだな。めんどくさい。

砂利を捉えてはよたよたとぶれる自分の身体。
それを結ぶ影もやはり軸という軸はなくて、それでも目の前で長く伸びるそれの方が、実体を持つ私自身よりもずっとずっと頼もしいような気がした。

がくん、と視界が揺れて、膝が崩れた。
とっさについた手が無意識に私を守る。
背丈のある照明が黄色く濁った光と虫の落ちる音を私に浴びせている。
両掌にそれなりにとがった石がめり込んで、ああ・・・結構痛いな、なんて思う。
その痛みは随分と懐かしい記憶を蘇らせて、ほんの少し切なくなる。
そんな私の視界には石、石、石。


「なに・・・やってるの」


聞きなれた声。
その声に鼓膜が震えて、私の身体全体がぶるぶると喜ぶのを感じた。
呆れたような、突き放すような、それでいて、微かに甘いそれに私は目を閉じる。
立ち上がろうと身体全体に力を入れた瞬間、さっきよりも深く、無数の石たちが私の左の掌にぐりぐりめり込んだ。


「行くって、」

「言ったよ?」


完全に立ち上がって、私は両手を叩く。
薄暗い視界の中でも、両の掌が赤く、そして歪に凹んでいるのがわかる。
立ち上がるときに体重をかけた左手が特にひどくて、あーあ、と心の中で呟いた。
でも、どことなくその凹凸には愛着が沸く。


「にやにやしないで、気持ち悪いから」


え?と首を少し傾げながら見上げると見慣れた男の顔がある。
私はもう何度もこうやって、首を傾げてこの男の顔を見上げてきたはずなのに。
どんなに会いたいと思っても、いつも一番最初に「ああ・・・そう言えばこんな顔だったなあ」と思う。
きっと頭の中で描きすぎて、この人はどんどん実体が無くなってしまうのだ。
頭の中でさえ、その正体を掴ませようとはしてくれない。
私は途端に不安になって目を逸らすと、さっきまで私の掌にめり込んでいたはずの小石を見つめた。
穴が空くほど見つめるけど、さっきまで私が手をついていたのがどの辺りだったのかももうよくわからなかった。
だんだん目の前の小石が全て同じような、でも全部違うような気がして来て、途方に暮れていたら、そのうち焦点が合わなくなった。


「なんで、そういうこと言うの」


私の目はまだ目の前に広がる無数の石たちをとらえている。
それはもう物質というより景色に近かった。境界線はない。


「真実を、ありのままに言っているだけだよ、俺は」


俺は、か。
声に出さず、反芻する。
彼に会うまで私は、社会で働く男の人はみんな、自分のことを僕とか私とか言うのかと思っていた。
私は彼の「働く社会」の外で会ったことがないから、彼が例外と言って良いと思う。
だからどんなときでも使うその一印象に、私は安心と、それでいて狂気めいた愛情を覚えた。
ちゃんと、社会で生きている姿を見ていたはずなのに。

人は、裏がなければ表もないんだろうか。
でもそんな人、いるだろうか。


「なんで、会ってくれるの」


もう、あなたの責任範囲ではないのに。


「来るって、言ったから。帰って良かったの?それなら帰るよ」


ポケットから何かを取り出して、2・3回揺すった。
試すような、探るような・・・それでいて少しも興味なんかないような目をしながら、煙草を取り出す。
カスッ・・・と渇いた音を立て飛び出した青白いそれに、ライターで火をつける。
ゆらり、と赤い火が生まれて、少しも面白くなんてないのに、私はその動作からいつも目を離せなくなる。
彼が2回目の紫煙を吐き出して、言葉を続けるまで。祈るような、恨むような目で私は男を見つめた。


「・・・で、何なの」


面倒くさそうに男は腰を落とした。
立っていれば私と頭一個分は余裕で違うくせに、屈んでしまうと驚くほど小さい。
私は下から見上げられることになんとなく居心地の悪さを感じて、口籠もってしまう。
もっとも、口にする言葉なんてないのだけれど。


「・・・・」


何、と聞かれて答えられるはずもなく。
煙草を吸い終わるまでのその間は、一緒にいてくれる。
そんな些細なことに頼り切って、言葉を探すことさえできない。


「お前も、飽きないね」


一本目の煙草を吸い終えたらしい。
片頬をわずかに引きつらせて、虚空を見つめながら男は呟く。
これは嘲笑、なんだろうか。だとしたら私はばかにされてるんだろうか。

別に、それでもかまわない。

そういう風になんとなくでも良いから、私がここにいることを捉えてくれているならそれだけで満足かもしれない、と思った。
男はずるい意味で頭が良かったし、実際色んな場面で要領が良かった。
嫌われることを平気でやったし、憎まれ役を好き好んでやっているようなところがあった。
その言動は時にひどく私を傷つけたし、私は何度もこの男を思って泣いた。頭の中で何度殺したかわからない。それでも。


「どうしても、ダメなの?」


もう何度かわからないその言葉に、私はどんな願いを込めているんだろう。
本当は、どんな言葉を与えてほしいんだろう・・・と、いつ吸い始めたのかわからない2本目の煙草の灰が落ちるのを見つめながら思う。


「だって、ねえ・・・」


大の大人の男のクセして。
そう思うくらいに頼りなくて、掴みどころがないくらいゆらゆらと揺れている。
こんなときにこそ苛立ちたいのに、私の心はそれとは反対に、気持ち良いくらい、すーっ・・・と凪いでいくのを感じた。
アスファルトに押し潰されてへにゃへにゃになった残骸が、男の手から離れた瞬間に生き物みたいに動いて、止まった。


安心、してるんだ。


自分の心を責めた。
愛されることをまだ受け入れられない、弱い自分の心を。
「もう、違う」と、その一言さえ言えないことも。
この男はわかっている。そして私も。
わかっていて求めてるんだ。
それはこの男じゃない。未来でもない。過去でもないし、愛情なんかでもない。
必要とされること、大切に扱われることは、何故か私の心をひどく傷つけた。
それでも一人が寂しい夜は確かにあったし、ご飯を食べなければお腹がすいた。
どうしたら良いのかなんて、これっぽっちもわからなかった。


「なんで・・・」


なんで、なんで、と繰り返した。
男はもう何も答えようとはしなかった。
その沈黙が、もう私の言葉に答えと呼べる答えはなくて、口にした私自身がその答えを求めていないことを知っているのだということを伝えていた。
どこまで理解していて、どこまで受け止めくれて、どこまで一緒にいてくれるのかさえ私にはわからなくて、ただただ嗚咽が漏れた。


きっとこの男でなければ、「人生なんてそんなものよ」って笑っていられただろう。
だって私は他の男にはそうできるんだから。
一緒にご飯を食べても、同じ映画を見ても、指を絡めて隣を歩いても、真剣な面持ちで告白されても。
全部、私の心を躍らせてくれることはなかった。
それなのに。


「・・・殴って」


その声は嗚咽混じりに震えて、変なところで裏返った。
それでも絶対的な威圧感と、それでいて何も始まらない、終わることもない確かな不毛さがあった。
いまが満たされればそれで良いなんて、そんなはずはなかった。


だけど、


視界が、ぶれた。

鈍い音がして、頭の奥の方が重く痺れた。
目の前にはさっきと同じ、石の風景がおぼろげに見える。

ああ・・・やっぱりだめだ。

私は途方もなく、この手が愛しい。
私を平気で傷つけて、でも何も考えずに抱きしめてしまう、この身体が。
何度打ちのめされても、またここに戻ってきてしまう自信がある。
それは甘い毒のように、私の体内を駆け巡って、消えてくれない。
戻ることも、進むこともできない。立ち上がることさえ、嫌だ。


「これで満足?」


私の顔を覆っている髪を掻きあげて顎を上げる。そうすると目が合った。
すぐ目の前の見慣れた顔をぼんやりと見つめながら「ああ・・・そう言えばこんな顔だったなあ」と私はまた思う。
この男はふざけてるときしか、悲しそうな顔をしない。
きっとこの男の中には悲しみなんてないんだ。だから平気で人を傷つける。
ないのだから、それなら仕方ない。
大きく目を開いて無表情に私を見つめる男の喉下を見つめながら、この人もかつては誰かを愛したことがあったんだろうか・・・と考えた。
多分、あったんだろう。
そうでなくちゃ、私をこんなに深く傷つけて、惹きつけることなんて、できないだろうから。


「・・・帰るよ」


私を放り出すようにして立ち上がると、男は長い影を引き連れて車の方へと向かった。
自分が今座っているところを真ん中とすると、男が向かっていった正反対の方向に私の車があった。
立ち上がるのがひどく億劫で、でも触れられたところがひどく熱くて、そのエネルギーだけでなんとか動けるような気がした。


エンジンのかかる音が遠くで聞こえる。
目を向けると、「職員専用」という傾げた看板と、その少し右奥に「関係者以外 立ち入り禁止」の看板が、こちらもやっぱり傾いで佇んでいた。

運転席に座ると、どっと疲れが押し寄せた。
やりきったような、それでいてやらかしたような・・・なんとも言えない疲労感だった。
とりあえず、誰かに胸を張って「疲れた」と言えるようなものではないな、ということだけはわかる。


止まっている私の横を、すごい速さで男の車が駆け抜けた。
視線で追いかけたけど、もう私の視界には男の存在なんて跡形もなく、どことなく責めるような夜の街が広がっている。
前を向きなおして、目を閉じると真っ暗闇の中に煙草の火のようなものが一本横に伸びて、私の瞼の裏に残像として残ってしまった。



目を開けるとその光はふっ・・・と風に吹かれたように消えた。




関係者、か。それならば違いない。
私は憂鬱な面持ちで車のエンジンをかけた。

自分の心を責めた。 愛されることをまだ受け入れられない、弱い自分の心を。 「・・・殴ってよ」 その声は嗚咽混じりに震えて、変なところで裏返った。 それでも絶対的な威圧感と、それでいて何も始まらない、終わらない確かな不毛さがあった。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted