不吉なアドバイス


 出かける前、八代真也は着替えをしてから考え事をした。
 それにしてもあの時、激しく怒ったものだった。元妻も離婚問題に悩まされていて、ひどいことを口にした。
「秋野美枝子さんがこう言うの。厚底の靴を履いているなんて、如何にも風采の上がらない小男って感じね」
 その言葉に火がついた。
「侮辱するのか。あの女、ぶっ殺してやる。お前もお前だ」
 彼は台所の包丁を手にして、思わず妻に向けた。
「やめて、私が言ったんじゃないわ」妻は悲鳴をあげた。
「秋野はまともじゃない。失言を訂正させろ」
「話しておくわ。包丁を元に戻して。とにかく冷静になって」
「分かったよ」
 どうにか理性を取り戻した。せめて何もなくてよかった。八代は写真が趣味でサークルに所属している。そこで妻と知り合って結婚した。会員の秋野美枝子は女医で妻と親しく、別れ話が持ち上がると相談した。だが良識のない女である。妻とは正式に離婚して一年が過ぎた。
「さて、出かけるか」
 独言を吐いて家を出た。よく晴れており、空は見事な濃紺で撮影をするにはもってこい。日暮里駅で待っていると、秋野美枝子が高価なイオスキスを手にして現れた。先に来ていたメンバーが、
「お早うございます」
「ご苦労様です」
 それぞれ挨拶をする。八代が会釈を省略すると彼女も無視した。谷根千(やねせん)散歩もしょっぱなから白けた。フォト真昼の会の十一人が集まると出発である。後ろのほうから歩調を合わせてついていく。
「ここにくると、心が洗われるわね」
 年配の女が周囲を見回す。
「そうよねえ。いい街ね」
 企画した吉田さんが相好を崩す。画一化していない、昔ながらの風景が好ましかった。歩いていると女のキンキンしたガナリ声が聞こえ、すぐに男の銅間声が響いた。
「何かしら」
「夫婦喧嘩でもしているみたいね」
「まあ」
 女同士が笑い合っていると、前から乙川広史が来た。
「調子はどうかね」
「何とかやっているよ」
「彼女とは進展しているのかい」
「良好だよ」一応そう答えておいた。
「その人と再婚するつもりかね」
「そうありたいけど、そこまでいっていない」
 それどころか、相手が自分に好意を持っているかどうかも分からない。彼女は会社の界隈にあるスナックに勤めていて、七美という三十七歳の女性である。色白の思慮深い性格で、水商売の匂いはしない。
「乙川さんはどうなんだい」
「三ヵ月前からOLと付き合うようになったけど、凄い素敵だから」
 その強調の仕方は如何にも乙川らしい。以前は秋野美枝子と親密だったが、今はどうなっているのか。彼女のことは棚上げにして、目下は新しい女性に夢中らしい。
「そのうち紹介するよ」
「お目にかかりたいね」
 変わり者の乙川がどんな女とつき合っているのか、関心をそそられる。他人事ながら秋野みたいな女でなければいい。彼によると、性格は上品だと言う。
「女医先生は別格だもんな」
「でも彼女なりに魅力があるよ」
 乙川は前のほうに戻っていく。バスツアーの仕事をしている吉田さんの案内のまま、皆はさかんにシャッターを押した。八代も愛用のカメラをそこここに向けた。学生時代は登山が好きで山ばかり撮っていた。社会に出ると好みが変わってきて街角が被写体になった。特にビルの合間に見かける祠や石仏、古い木造家屋、小公園、樹木と対比して撮り続けている。勤め先は食品会社である。このところ、多忙だったので会には欠席しがちである。秋野美枝子とは相変わらず暗闘している。といって最初から彼女を嫌っていたわけではない。彼のすぐ後から入会し、そして二次会の居酒屋で名刺を何枚か手にしていたので、
「私にも下さい」と所望した。
「ええ、どうぞ」
 気持ちよくくれた。肩書きは小児科医・写真家となっていた。医師は本業だろうが、写真家と名乗るほどではない。どことなく世間知らずである。医師といっても病院に勤めているとか、開業してるわけではなく、時々検診を頼まれるくらいだ。一時期、精神の病を患ったと聞いている。失墜した状況から抜け出せないのか、ひどく低レベルな一面があった。何度目かの会合の時、秋野がそこにいない会員のことを、
「彼、朝鮮人みたいな顔をしているわね」
 蔑んだような表情をした。会員達はハッとして沈黙した。八代はすかさず口をはさんだ。
「それは差別ですよ」
 美枝子は反論もせず、太めの体を揺すって笑った。気にそまない時はとかくオーバーな仕種をした。ある時、
「秋野さんはよく笑いますねえ」
 八代が何気なく言うと、そっぽを向いた。嫌味に聞こえたのだろう。確かに彼女の笑いは不自然で、露骨に優越性を誇示しているように見える。それから別の日に誰かの身体的な欠点を指摘したので軽く非難した。そんなことがあってから八代を避けるようになった。乙川とは気が合うのか、サークル活動以外の場所でも付き合っている。季刊のフォト真昼の会通信には、秋野の誕生日にホテルのレストランで花束を贈り、会食したなどと臆面もなく書いてあった。あの二人はできているのかな、と男たちは噂をし合った。
 根津公園ではツツジを見て、千駄木の喫茶店ではボルシチを食べた。お土産店で土鈴を一個買った。その間、誰彼となく言葉を交わしたが、美枝子とは一度も口を聞かなかった。
 次の日、スナックにいって七美にお土産を渡すと、顔をほころばせて受け取った。小さなものだが効果があった。
「ありがとう、可愛い鈴ね」
「今度、七美さんを写してあげるよ。おふくろが見たがっているから」
「人様にお見せするほどじゃないわ」
「素敵だよ。ぼくの好みだし」
 八代は意思表示したつもりだった。話しているうちに客が来てカウンターに座ったので、会話は途切れた。一人で焼酎のソーダ割りを飲みながら結婚できたらと空想した。七美は上背のない八代よりも背が高くてスマートだ。今は夫と別居しており、話がついたら正式に別れるつもりでいる。子供がいないのは幸いである。

 日曜日にパソコンを開くと乙川からメールが来ていた。その中に、
「ぼくのフィアンセに真珠のネックレスを贈りました」
 書かれてある。資産家の息子だから金で勝負できる。が、髪が薄く、話す時グイと唇を曲げ、お世辞にも美男子ではない。どういうわけか、異性には絶大なる自信を抱いていて、人気があって愛されていると過信している。事実、女友達が多い。そして、そういう自分を自慢したがる性癖があった。八代にシンパシーを感じるのか、よくメールや手紙をくれた。スタンダードから相当はずれていて、仲間達からシュールとか、超現実主義者と言われている。何日かしてまた手紙が来た。文面を読んでいて悪寒がした。
「会のメンバーでは八代さんに多大な関心を寄せています。貴兄は異色で只者ではない。私とはほぼ同世代で結婚を望んでいる点では共通しています。今まで色々な分野の人たちとお付き合いをしてきましたが、真昼の会の女性との交流を記してみます。
 この間、山田真紀さんとは二十時五十五分まで語り合いました。向こうが電話を切らないので困りました。お互いに写真を批評し合っている能見山和子さんとはうまく行き過ぎて、ご主人が嫉妬して、彼女の日記を全部焼き捨ててしまったほどです。
 藤井衣世さんとは、深い愛情で結ばれています。
 亡くなった緑川さんとは清らかな交際をし、忘れられません。
 旧家の生まれの石井志津さんは、ぼくを弟のように可愛がってくれ、常々メールのやりとりをしております。
 なお、もっとも親密な秋野美枝子さんとは、この頃不協和音を奏でるようになりました。きっと将来を約束した女性が現れたからです。近いうちにぜひ未来の妻を見ていただきたいです」
 筆まめな乙川は海外旅行をする度に絵ハガキを書いてよこす。父親の経営している会社に勤めているので潤沢で自由がきくのか、しばしば出かける。通信のたぐいはモテる話が多く、「バレンタインデーには、チョコレートを四十個もらいました」というのもあった。頭がいいのか悪いのか、これでも一流大学を出ている。三流の私立で食品化学を専攻した八代とは比べものにならない。何かと差をつけられているが、負けてはいられない。もっと自分のグレードをあげなければならないと考えている。本社の研究室で新製品の開発をするのが夢だ。今は工場全般に渡って現場を見ている。会社のメインはインスタント麦茶だが、そのほかに油揚げの乾燥やダシの素の製造をしている。七美にも本社行きの話をしたら、
「そうなるといいわね」と言ってくれた。
「その暁には、七美さんにプロポーズするから」
「うふふ。八代さんって、冗談が好きね」
 流れで神保町には時々写真集を買いに行くという話をすると、私もいってみたいと表情を輝かせた。いつでも案内するからと答えた。あの時は気さくに会話ができたので満足した。多少でもこちらの気持ちを汲み取ってくれたのかもしれない。

 フォト真昼の会にも独身者が沢山いる。二次会の喫茶店に立ち寄ってその話題になった。
「乙川さん、結婚のほうは進展しているのかい」四十代の会員が聞いた。「時間の問題だね。今年は勝負をかけるから」
「でもこの人、その女性とうまくいくとは思えないわ」
 秋野美枝子が笑った。
「結婚できそうもない人から、言われたくないね」乙川は言い返す。
「自分だって同じよ。幼児的な半大人のくせに」
「そういう秋野さんは、欲求不満を持て余しているじゃん」
「断っておくけど、私には彼氏がいるのよ」
「どうせ、幻想の恋人だろう」
 回りの者は呆気にとられた。ひところは人が羨むほどだったのに、雲行きが変わってきた。
「あんたら、一体どうなっているの」
「これくらいは、いつものことよ」と美枝子。
「本当は気が合うのよね」
「そうなのよ」
「どういう事情だろうと、喧嘩はしないでね」吉田さんがなだめる。
「八代さんも結婚願望が強いよ」
 乙川が矛先を向けた。すると秋野が肉付きのいい体を前後に揺すって笑い声を立てた。
「そんなにおかしいかい」
 八代はムッとした。すぐに四十代の女性が別の会話に持っていった。
「こんな時代だから、温かい家庭がほしいわね」
「そうだよ、でも女は結婚したがらないよ」
「条件さえ揃えば、したいわ」
「それがうまい具合にいかないだろうな」
「ぼくは絶対にするから」乙川は威勢がいい。
「自信満々だね」
「着々と進めているよ。いつか婚約者をこの会に連れてくるから」
 彼は大真面目な顔をした。八代も七美ともっといい間柄になって、恋愛関係にもっていきたかった。年も三十八になるので気持ちは急いていた。

 残業してバスを待っていた。昨日、病院で苦手の胃カメラの検査をした。ゲッと来たとき、医師に「溜息をつくように息を吐いて下さい」と指示され、その通りにしたらスムーズにいった。溜息をついてくださいか……これはいいぞ、これからはそうしよう、彼はすっかり気に入った。その時、ふいと七美の姿が目に留まった。彼女は反対側の歩道をトートバッグを下げて歩いていた。
(チャンスだ!)
 八代はとっさに道路を横切った。七美は急いでいるのか早足である。バス通りを曲がり、人通りの少ない路地に入ると、三階建てのクリーム色のマンションの建物に着いた。中に入っていこうとした時、追いついた。
「七美さん、ぼくです」彼は声をかけた。
「あら。でも親と一緒に住んでいるから、上がってもらうわけにはいかないわ」
「そんなつもりはない、ただ話したくて」
「駄目よ。忙しいんだから。お店に来て」
「少しだけだよ。立話でいいんだ」
 七美の手を握った。
「人が見ているわ、放して」
 振り切って中に入っていった。握った時の柔らかい感触がたとえようもなかった。そのまま抱き寄せて唇を奪えばよかった。
 二日後、何食わぬ顔をしてアオイに飲みにいった。いつもと変わらない様子だった。七美は八代を胡散臭い人間に見ていないようである。雑談をしてから双方の私的な話になり、
「前の奥さんと完全に切れたの」と聞かれた。
「うん、とっくに」
「すっきりしていいわね。私はその辺が曖昧なの」
「旦那さんのほうに未練があるわけ」
「うまく言えないわ」
「けじめがつくといいね」
「そうね」
 こんな話をしたので二歩も三歩も前進したような気がした。
 十日後、乙川からメールが来た。
「恋人を紹介しいたから、時間を作って下さい。八代さんもガールフレンドを連れてきたらどうですか」
 さらに六月のある日、携帯がかかってきて、場所と時間の打合せをさせられた。ただし、都合がつかなければお互いにすっぽかしても構わないことにした。七美には神保町にタンゴの喫茶店があるからいってみないかと携帯をかけた。
「タンゴって好きよ。確約はできなけど、都合がついたらいくわ」
 感じのいい口調だった。八代は神保町にいく度にアルゼンチンという喫茶店に立ち寄った。案内したいところの一つだった。
 約束の日、そこでコーヒーを飲みながら待っていると、間もなく携帯が鳴った。ところが、
「用事ができたの」七美が小さな声で断った。
「そんなこと言わないで、来て下さい」
「夫がね、大切な話があるというの」
「ご主人のことは諦めたらいい」
「勝手ね。そうはいかないわ」
「七美さん、ぼくのこと、どう思っている?」
「この間のことで、イメージが変わったわ。八代さんって、怖いところがあるわね。いきなり人の家に来たりするんだから。あなた、思い詰めるタイプでしょう」
「そりゃ好きだからさ」
「私は落ち着いた紳士的な男性が好きよ」
「ぼくだって、マナーは心得ているよ」
「あなた悪い人じゃないわ。でも……私は結婚まで考えていないの。忘れて下さい」
 急に心が冷えてしまった。七美は自分のことを好きではないのだ。今までの経過を見ても距離があり過ぎる。やっぱりダメか。コーヒーは半分も残っているが飲む気がしなかった。携帯を切った後、乙川と会うのが厄介になった。履行する必要がないので、このまま帰ってもいい。だがせっかくだから女を見てみたい――気持ちを切り替えて店を出た。乙川は誇示するつもりだろうが、こっちも厚かましく拝顔させてもらおう。九段坂を上り、堀に沿って歩いていく。
(おや、おや、美人が歩いて来るぞ)
 三十代の女性は何故か手ぶらで、物思いに耽っているような、ゆっくりした足取りである。淡い水色のスーツが細身の体を浮き立たせていた。女優の誰かに似ているが、名前が思い出せない。女はすれ違い際に立ち止まると、
「あの恐れ入りますが」話しかけてきた。
「……」
「こんなことをお願いして何ですが、あの男からハンドバッグを取り返していただけませんか」
「ハンドバッグを?」
「はい」
「いいですよ」
 彼は快く引き受けた。トラブルがあったに違いない。未知の奇麗な女性に頼まれて自尊心をくすぐられた。三メートルほど先にある円形の石のベンチに目をやると、男が座っていた。その特徴のある顔を認めると、笑いそうになった。なんと乙川がうなだれていたからだ。八代は歩み寄った。「やあ、待たせたね。俺、頼まれてね。あんたの持っているバッグのことだけど」
「八代さんには関係ないよ」
 乙川はむくれた顔つき。その時、背後で足音がして香水の匂いが漂った。さっきの女が八代を盾にして立った。第三者がいるので安心したのか、物静かな口調で言った。
「返して下さい」
「嫌だ」
「返さなきゃ訴えるわよ」
 そんなやり取りを二、三度繰り返してから乙川は手にしている物をサッと突き出した。これ以上抵抗しても無駄だと観念したのだろう。女は素早く受け取った。
「乙川さん、先ほども申し上げましたが、今後、手紙や贈物をしないで下さい。私は近々結婚するのよ。今日、お目にかかったのは、それをハッキリさせるためよ」
 眉が形よく、目が澄んでいる。言うべきことを言うと、表情が穏やかになった。八代は立ち去ろうとする彼女をエスコートしていった。途中で女は立ち止まり、腰を折り曲げた。
「申しわけありません。助かりました」
 上品な身のこなしに見とれた。見送ってから引き返して、乙川の横に座った。彼は顎に手を当てて、ぼんやりと堀を見下ろしていた。池には二組の男女がボートに乗り、キャッキャッとはしゃいでいる。
「ガールフレンドはどうしたの」乙川が聞いた。
「振られたよ」
「ふーん」
 多くを語ろうとはせず、口を閉ざしている。相当ショックだったようだ。
「おい、元気を出せよ」
 肩を叩いた。どう見ても釣り合いがとれない。面目ないところを見られたのか、目を合わせようともしなかった。昼間から飲む店に誘ったが、これから行くところがあると断られた。真昼の会の連中が婚約者を連れてくるのを待っていると言うのだ。
「えッ、そんな約束をしていたのか」
「悪いけど八代さんは、はずさせてもらった。秋野さんはあんたが苦手だからさ」
 忌ま忌ましい女である。乙川が口添えをしてくれてもよさそうだ。相手は医師だから隠然たる力を持っている。もっとも肩書きだけでまともな診察はできないが。
「そろそろ出かけるよ」
「俺も帰るか」
 乙川と八代は同時に立ち上がった。九段下駅に向かいながら言い知れぬ寂しさを覚えた。あの女が陰で仕切って俺一人を除け者にしているのだろう――

 真昼の会には出席しなくなった。七美とも縁が切れて店には行かなくなった。その代わりカメラをもって都内を駆け巡った。撮り続けていると癒され、執念も湧いてきた。
 しばらくして意外な報せが舞い込んだ。びっくりするような内容である。乙川と美枝子が結婚したと言うのだ。二人は九月の半ばにハワイの教会で式を挙げた。彼らが結ばれるなんて予想だにしなかった。十日ほどして電話がかかってきた。
「結婚生活って悪くない。美枝子はあっちのほうが強いしね」
「毎晩かい」
「まあね」
「結構なこった」
 美枝子の体つきは色気よりもタフネスのイメージである。乙川も上背があり、七十五キロあるからいい勝負だろう。あたかも怪獣同士の交尾を想像させた。怪獣のキスとか抱擁とはどんなものだろう。同人の情報によると、仲睦まじく過ごしているという。
 それから二ヵ月ほどすると、乙川が電話で愚痴をこぼすようになった。このところよく喧嘩をするようになった。
「お互いに向きになって、譲らないんだ。モメ事になると、美枝子はガンガンとまくし立てるよ」
「まだ新婚じゃないか」
「そんな甘いものじゃない、かなわないよ」
 それ以来、電話を度々寄越すようになった。よほど苛立っているように見える。八代は舌嘗()めずりするように耳を傾けた。そして親身になってアドバイスをした。喫茶店でも会って丁寧に聞いた。
「乙川さんは根が優しいから、つけ込まれているんだよ」八代はコーヒーをすする。
「それもあるな」
「たまにはぶん殴ってやるんだ。あの手の女性は、暴力も辞さないくらいでないと駄目だ」
「そうだろうな。だけど、手をあげるのはよくないと思うんだ」
「俺だったら、黙っていないな。簡単にやられるわけにはいかないよ」
「それは同じだ。八代さんは気持ちが分かってくれて、嬉しいね」
「いつだって、味方になるから」
「励みになる」
「この際、腕力を行使したらどうだい」
 八代まで興奮してきた。
「いつかやるだろうな」
「思い切って、強烈な一打を見舞ってやれよ」
「しかし……」
「何を躊躇しているんだ」
 喫茶店で憎しみを(たぎ)らせながら二時間も喋った。その間、しきりに煽ってやった。何日かしたら乙川は携帯でこう報告した。
「とうとう張り手を食らわしたぞ。あいつ、泣きそうになった」
「そうだろう、時と場合によっては体罰は必要だ」
「少し自信がついた」
「男らしいよ。あんたが怒ったら怖いからな」と、おだてた。
 さらに十日間が過ぎてから、こちらから電話をした。
「美枝子はひるんだかい」
「それが、前よりも三倍くらいに強気に出てくるんだ。侮辱的な言葉を浴びせやがってね、低能とか禿げとか短小とかさ」
「ひどいね、それでも女か」
「医者の家に生まれて、自分も医師のくせに、品格がないよ」
「そのうち、降参するから、弱気にならないほうがいいね」
「いや、ならないね。怒りや憎しみが増幅してきて、歯止めがきかなくなるくらいだ」
「がんばれよ」
 八代は心からエールを送った。一ヵ月ほどして乙川からかかってきた電話はさらにエスカレートしていた。八代は耳に強く押し当てて聞いた。
「美枝子も手を出すようになってね、カウンターパンチを浴びせてくるんだ。まるで狂暴な豚だ」
「そこまで来たら、トドメを差すしかない」
「俺も引くに引けなくなった」
 双方の人格は崩壊しているのではないかと思わせた。夫婦の抗争はそれだけで終わらなかった。最後の電話はことのほか悲痛だった。
「俺、とうとう()っちまったよ」
「えッ! ほんとか。警察に通報したのか」
「さっき、電話をした」
 その時、受話器を通してピンポーンとドアホンが鳴った。
「誰かきたぞ」
「お巡りだ。俺は逮捕されるよ。どうしたら、いいんだろう」
「電話を切って、玄関に出な。早く、早く……」
「俺は破滅だ!」
 事件は新聞の社会面に報道された。八代は言葉もなくその記事に目を通した。

不吉なアドバイス

不吉なアドバイス

エキセントリックな男の末路

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-22

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