とんでとんで

 ある日突然、特殊な能力が開花することがある。ほとんどの場合は子供の頃の話で、急にすごい絵を描いたり、円周率を何十桁も暗記したり、といったことだ。大人になればそんなことはないだろうと、ヒロシは思っていた。
 あの日までは。

 一杯飲もうという先輩の誘いを断り、ヒロシは家路を急いでいた。その日はどうしても見たいテレビ番組があったのだが、予定より仕事が延びたため、時間的にもうギリギリだった。
 駅の改札を抜けると、できるだけ早足で歩いた。仕事で散々歩き回った後なので足が重い。パッと飛んで帰れたら、どんなに楽だろう。そんなことを考えているとき、最近できた高層ビルが見えた。ヒロシの安月給ではとても手が出ないような高級マンションである。
 その時、胃の辺りに変な感覚がしたかと思うと、しゃっくりが出た。
「ひっく!」
 次の瞬間。
 ヒロシはそのマンションのベランダにいた。
 ヒロシも驚いたが、ベランダの奥のリビングでくつろいでいたセレブ風の奥様は、目を見開いて口をパクパクさせている。
「あ、あなたは、いったい、どこから」
「いえ、決してあやしい者では、ひっく!」
 セレブ奥様を見てしゃっくりしたためか、ヒロシは奥様のすぐそばに移動した。
「ひえーっ、誰か来てーっ、変質者よーっ!」
「違います、違います。ひっ」
 ヒロシはあわてて自分の口を押さえ、しゃっくりを止めた。これ以上奥様に接近しては、本当に逮捕されてしまう。この場は逃げるしかない。ヒロシは窓の外を見て、口から手を離した。
「ひっく!」
 と、同時にしまったと思ったが、遅かった。
「わあああーっ!」
 真っ逆さまに空中を落ちながら、ヒロシは必死で目標物を探した。ちらりと市営プールが見え、本能的に水の方が安全と判断し、そちらを睨む。しゃっくりが出るまでが永遠のように感じられた。
「ひっく!」
 地面に激突する寸前、ヒロシは水中に移動していた。
 急に水中に入ったら溺れるかもしれないとの不安が一瞬よぎったが、体はまったく濡れていないようだ。ヒロシが改めて周囲を見回すと、自分を中心にした半径1メートルぐらいの空気の球の中にいた。もっとも、足はプールの底に着いているから、完全な球体ではない。
 考えてみれば、服を着た状態で移動しているのだから、ヒロシの肉体だけでなく、この球の範囲もいっしょに付いて来ているわけだろう。足の部分が下に着くのは、重力の関係か、あるいは物質の密度の違いかもしれない。
 まあ、おかげでしばらくは息ができるが、空気と水の屈折率の違いで球の外が見えにくい。目標が定まらなければ、しゃっくりが出ても動けない。だが、ヒロシが境目に近づこうすると球も一緒に動くため、堂々巡りである。
 立ち止まり、精一杯手を伸ばすと、何とか空気と水の境界に指が届いた。その途端、ばしゃっと球が崩れ、どっと水が押し寄せて来た。ヒロシは水中をもがいて、何とか水面に顔を出した。
「ぷはーっ。げほげほっ」
 何とかプールサイドまで泳ぎ着き、水から上がった。服がびしょぬれである。営業時間を過ぎているから周囲に誰もいないが、いずれ警備員が巡回に来るだろう。それまでに脱出しなければならない。
 柵を乗り越えるのはとても無理だ。できれば瞬間移動した方がいいだろう。だが、せきやくしゃみと違って、しゃっくりというのは自由自在に出せないものである。
 幸い月明かりがあるので、周囲はよく見える。そういえば、そろそろ満月だな、そう思って月を見た瞬間。
「ひっく!」
 ヒロシは月面にいた。
 パニックになりそうな気持を必死でなだめる。目には見えないがヒロシの周囲には球があって、指で触れない限り崩れないはずだ。だが、空気の量には限りがあるから、早くしないと大変である。
 ヒロシは地球を見上げた。夜の面が見えている。あのひときわ明るい部分が、おそらく日本だろう。もっとも、漠然としすぎて、どこに目標を定めればいいのかわからない。下手をして、上空何千メートルとかに出現したら一大事だ。目をつぶっても行けるような場所でなければ。
 それなら自分の部屋だ。ヒロシは必死で部屋の様子を思い出してみた。よし、行けそうだ。後は、何とかしゃっくりさえ出ればいい。だが、体が濡れたせいで盛んにくしゃみは出てくるが、しゃっくりは出そうもない。このままでは、月面で窒息死である。
 一か八か、ヒロシはしゃっくりのマネをしてみた。
「ひくっ、ひくっ、ひくっ、ひくっ、ひくっ」
 もうダメかと覚悟したとき、ついにしゃっくりが出た。
「ひっく!」
 見回せば、いつの間にか住み慣れた自分の部屋である。ヒロシは安堵のあまり、そのままベッドに倒れ込んだ。

 それ以来、ヒロシはしゃっくりを出さないよう気をつけている。もし、どうしても出そうな時は、なるべく足元を見るようにした。これなら、動いても数ミリだ。
 それにしても。
 近い将来、月面着陸が再開されたとき、そこにヒロシの靴跡が発見されたら、どういう解釈が下されるのだろう。ヒロシはひそかに、その日を楽しみにしている。
(おわり)

とんでとんで

とんでとんで

ある日突然、特殊な能力が開花することがある。ほとんどの場合は子供の頃の話で、急にすごい絵を描いたり、円周率を何十桁も暗記したり、といったことだ。大人になればそんなことはないだろうと、ヒロシは思っていた。 あの日までは…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-22

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