ブラザーズ×××ワールド A6
戒人(かいと)―― 06
「阿呆か」
戒人は思わずつぶやいていた。
「あぁン!?」
トリス=トラムと名乗った牙男が、目を吊り上げて戒人を見た。
「……っ」
軽く息をのむ戒人。
聞こえたのか……。いましがみついている屋根の端と、トリスの立っている場所とはそれなりの距離があるというのに。
見れば、トリスの頭から生えた獣の耳がぴくぴくと動いている。
人ではない……戒人はあらためてそのことを思い知る。
「てめぇ、神饌! いまオレのことをアホっつったのか!? オレに食われる分際のくせしやがってよ! おらあっ!」
「………………」
戒人は、言葉を返す気になれなかった。
内容以上に、そのしゃべり方からにじむ〝頭の悪さ〟が戒人の癇に障った。
傲慢。不遜。無駄に騒がしい。そんなトリスによく似た『阿呆』を、戒人は他にも一人知っていた。
(麗人……)
脳裏をよぎる弟の面影。
生意気で手のかかる弟。しかし、離れ離れとなったいま、何としても探し出して守らなければならない。それが兄の務めだ。
視線の先にいる牙男が別人だということはわかっている。
それでも、なぜか麗人のことを思い起こさせ、戒人は胸をつまらせた。
一方のトリスは、
「けっ、シカトかよ。ま、あとで食うとき、泣きながらワビ入れさせてやんよ」
そう言い捨て、中年男へ視線を戻した。
「てめえ、魔術師よお。オレの神饌になに手ぇ出そうとしてんだぁ?」
(おい……!)
いつおまえのものになった!? 思わずそう口にしそうになる戒人。
人外の存在。しかし、その言動を前にして、戒人はどうしても緊張感を保つことができなかった。
「おい、オッサン!」
トリスが声を荒げる。
「………………」
中年男は、無言のまま、手にしたランタンを眼前にかかげた。
「ハン!」
放たれた火球を、トリスは鼻で笑いながらかわした。
人をはるかに超える俊敏さを持つ彼にとって、それはまったく脅威とならない攻撃のようだった。
と、中年男が、再び早口で意味のとらえられない言葉を口にする。
直後、
「なぁっ!?」
驚愕の声をあげるトリス。
火球が弾けた。拡散した炎は、しかしすぐに寄り集まり、真っ赤な大蛇のような形をとってトリスに襲いかかった。
「魔術師がぁ!」
避けられない――
炎の蛇がトリスの身体にからみつく。
「!」
戒人は息をのんだ。
噛んだ。
トリスはなんと、炎の蛇に噛みついてみせたのだ。
「ぐううううううううううううっ!」
苦悶の声が響き、肉の焦げるにおいが漂う。
信じがたい暴挙――
「うぐ……ぅあああああああああああっ!!!」
噛み裂いた。
苦痛に顔をゆがめながらも、トリスは炎の蛇を真っ二つに噛み千切ってみせた。
「……!」
中年男も、さすがに目を剥く。
直後――
「オッサン」
「!」
トリスが中年男に肉薄していた。口の端から薄い煙を立ち昇らせながら。
ドグッ!!!
「っ!」
目を見開く戒人。
トリスの腕が、中年男の腹部を貫いていた。
力強さとはほど遠い細い腕。それが人の胴体を易々と貫いている光景は、戒人にとってまったく現実感のない光景だった。
「いつまでもオレらが奴隷と思ってんじゃねえぞ……クソが」
憎しみと共に言い捨て、
「ハンッ!」
トリスが無造作に腕をふるった。
中年男の身体がふり払われ、屋根の上を転がり地上に落下した。
「……!」
戒人は、思わずそれを追うように地上に飛び降りた。落下地点に、馬のための飼い葉とおぼしき藁が積まれているのは確認していた。
「お……おいっ!」
身体を包みこんだ藁を払って、戒人は路上へ飛び出した。
男が倒れていた。
石畳に見る見る広がっていく大量の血は、もう助からないと確信させるのに十分な量と言えた。
「おい……」
男が、消え入りそうな声をしぼり出した。
戒人への言葉かはわからない。男はうつろな視線をさまよわせ、
「あいつ……に……」
「あいつ?」
「アリ……サ……。アリサに……おまえ……の……」
そこまでだった。
すうっと息がこぼれ、男の目が動かなくなった。
「……!」
死んだ。
命の火が消えた。
そのことが、はっきりとわかった。
テレビなどの映像を介したものとはまったく違う。腕の中で熱が失われていく。その感覚はおそろしくリアルで、戒人は自分でも驚くほどにうろたえていた。
「邪魔者は消えたなあ」
耳元にかかる熱に濡れた声。
戒人は、
「………………」
ふり返れなかった。
理屈ではない。すぐ先の事実として戒人は悟っていた。
自分は――喰われる。
「あぁーん」
間の抜けた声と共に、大きく口を開ける気配が伝わってきた。
長い舌が戒人の首筋を這う。
指一本動かせないまま……戒人は――
「――!」
牙が触れたと感じた瞬間、
「っ……痛ぇーーーーーーっ!!!」
絶叫が戒人の鼓膜をふるわせた。
驚き、目を瞬かせながら脇を見る戒人。
そこでは、トリスが口もとを押さえながらのたうち回っていた。
「あー、くそっ! なんでこんなに口の中が痛ぇーんだよ! これじゃせっかくの神饌が喰えねーだろーが!」
(な……)
戒人は言葉をなくす。
思い出す。トリスが炎の蛇を食いちぎるという無茶をしていたことを。
「っきしょー」
無念さをにじませつつ、トリスが立ち上がる。
「おい、神饌」
「……!」
「おまえを喰うのはあとにしといてやる。それまで他のやつに喰われるんじゃねーぞ」
言い捨て、トリスは背を向けた。
「な……」
あぜんと立ち尽くす戒人。
そんな戒人を置いて、トリスは四肢に力をこめると――
「おっと」
跳躍しようとした寸前、トリスは動きを止めた。
そしてふり向き、戒人をぎろりとにらむ。
「てめー、カン違いしてんじゃねーぞ」
「何……?」
「またオレのことバカだとかアホだとか思ってんだろ! 喰いてえなら、お持ち帰りしてあとで喰えはいいってな!」
「……!」
正直、戒人はそう思っていた。
図星と察したトリスは、いっそう声を張り上げ、
「てめーをつれてかねえのは、そばに置いといたら喰いたいのを我慢できなくなるからなんだよ! カン違いすんじゃねえ!」
「………………」
ならどこか手の届かないところに隔離すればいいだけの話ではないか……。戒人はやはりこの獣人が『足りない』のではと感じてしまう。
「ンだ、その目は! てめー、とことんムカつくんだよ!」
声をはりあげ踏みこんできたトリスが、戒人にぐっと顔を近づけた。
「おい、夜中は出歩くんじゃねえぞ」
「何……!?」
「てめぇを喰いてえのはオレだけじゃねえんだ。獣人全部がてめぇを喰いたくて仕方ねえんだからな」
「………………」
戒人は思い出す。
トリスが先ほど言った――
喰らえば、不老長寿になれるという言葉を。
「………………」
まるで西遊記だ……。戒人は笑いたい気分だった。
そんな戒人をよそに、トリスは言葉を続け、
「俺はやつらと違う。日が昇ってようと関係ねえ。けど夜は獣人の時間だ。てめえらヤワな人間は家にこもるしかねえんだよ」
(そうか……)
戒人の中で、いくつかのことが同時に不意に落ちた。
石造りの堅牢な街並。昨夜の異形の者たちの襲撃。そして街の者たちの反応――
すべてがトリスの言葉を裏付けていた。
「トリノヴァントゥス……」
戒人は、女に教えられたこの街の名前をつぶやく。
そして、
「トリス=トラム……」
名を呼ばれたトリスが、にやりと笑う。
「おまえたちは……一体……」
「知るか」
トリスが、べろりと舌を見せた。
「オレはおまえを喰う。それだけだ」
思慮の浅い、それだけに雑念のない強さを感じさせる言葉だった。
そして――
トリスは消えていた。
「……!」
かすかに空気のゆらぎを感じる。
動いたのだ。
おそらくは戒人が知覚できるレベルをはるかに超える速さで。
「………………」
冷たい汗が吹き出す。
安堵はどこにもない。あの男はまた必ず来る……その恐怖だけが際限なくふくれあがっていく。
思い知る。自分はまったく救いのない場所にいるのだと。
逃げ場は――ない。
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