-月夜-

-月夜-

白鳥の歌シリーズ2

月明かりだけが頼りの道を一人、女が駈けている。

彼女の家は貧しかった。
生きる為に彼女はさまざまな男に体を与え、
男達は、その体を弄んだにもかかわらず、
彼女を蔑みながら金を与えた。
寝息を立てている男の横で、彼女は闇の中に虚ろな瞳を
じっと見開いて、身じろがなかった。

イエスの事を彼女は誰から聞いたのだろうか。
どうして彼女はイエスを尋ねようと思ったのだろうか。
もしかしたら、ある夜、彼女を買った男から
イエスのことを耳にしたのかもしれない。
あるいは、湖畔の樹の下でじっと腰掛けている
疲れたようなイエスの姿を遠くから見たのであろうか。

自分の惨めさ、人々の自分に対する蔑み、
そうしたものに対して余りにも馴れてしまっていた彼女であった。
だが、それゆえに、彼女は真に"愛"を持つ人を
本能的に見抜く力を持っていたのだった。

イエス、その人と会った事など一度も無い。
しかし何故か彼女はイエスに会わねばならないと思ったのだった。
イエスは三日前にこの町へ、自らの使命として
神の愛を伝える為に来ていた。

目指す家の門に彼女は着いた。
その額には汗がにじんでいた。
家の中からは穏やかで美しい澄んだ声が聞こえる。

イエスがその晩、滞在していた家の主人は、
敬虔な信仰を持つ商人であった。
それゆえ、娼婦として悪評の立っていた彼女が
門をくぐろうとすると下男達がそれを遮った。
この時代、娼婦などは話し掛ける事すら避けなければならない、
賤しい、恥ずべき女とされていたからだ。
彼女達は、預言者達の呪いの対象とさえなっていた。
だが、彼女は下男達の制止を振り切り、広間に飛び込んでいった。
食卓に並んだ人々は驚き、彼女のほうに振り返った。
彼等の視線を一身に浴びながら、彼女はイエスの前まで
一直線に進んでいった。

イエスを前にして、彼女は何も言わなかった。
何も言わず、イエスを見つめるだけであった。
やがてその瞳から、泪があふれ出た。
その泪が、彼女の今日までの哀しみを示していた。
泪はイエスの足先を濡らした。

イエスはその泪ですべてを知った。
この女(ひと)が、これまでの半生に
どれほど人々に蔑まれ、自分の惨めさを噛しめてきたかを。

その泪で充分であった。
神がこの女(ひと)をよろこんで迎え入れるには。
それで充分であった。

"もう、いい。わたしは、……あなたの哀しみを知っている。"

イエスは彼女の手を取ってそう言った。

娼婦の名はマリア。
二人はしっかりと互いの手を握りしめ、泣いた。
落ちた二人の泪の滴は一つになっていた。

<了>

-月夜-

-月夜-

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-21

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