魅力的な死顔
「はい、できました」
香山克弘は二十歳になっても、ろくに定職にもつかず、公園のベンチに座っては通りかかった人々の似顔絵を描いて、暇をつぶしていた。
「本当にお金いらないんですか?」
「ああ、いらない。代金の代わりに君の似顔絵を描かせてもらったんだから」
彼の描いた似顔絵は目の前の女性と瓜二つであり、ものの数分で描き上げたとは思えない程の出来だった。
「…じゃあコレ」
彼女は事前に選らんでおいた風景画を手に取り、機嫌良さそうにその場から去っていく。
香山は街の中央に位置する公園の、人通りの多い場所を選び、購入者の似顔絵を描いては、それを代金代わりに自分の絵を売っていた。
持参した鞄に、彼女の描かれた絵を大事そうにつめ込んでいく。
彼が通りすがりの女性の顔を描くのにはある理由があった。
ただでもいいから自分の描いた風景画を持ち帰ってもらいたい、という理由からではなく、風景画を餌にして多くの女性の似顔絵を手に入れたかったからだ。
「あの…わたしも描いてもらってもいいですか」
また似顔絵を描いてもらいたいと訴える女性が現れる。
ここ最近巷では、公園にとても上手い絵描きがいる、しかも描いた絵を無料でくれる、という噂が流れ、それに引き寄せらた女性がこぞって現れるのだ。
香山は新しいスケッチブックを鞄から取り出し、目の前に律儀に座っているお客の顔を描きはじめる。
スラスラと流れるように動く彼の筆さばきは、絵について何も知らない素人が目にしても、その凄さを実感できるだろう。
「はい、できました」
さっきと同様、人間離れした速さで絵を完成させた香山は、それを鞄にしまいこみ、自分の持っている風景画を渡す。
「ありがとうございます」
「最近は物騒だからね」
「何がですか?」
「連続殺人事件」
「…ああ、五人の男性がこの近くで立て続けに殺されたっていう」
「そう、君も気をつけないといけないよ。特に夜道は危険だからね」
「わたしは大丈夫だと思います」
「どうして?」
「犯人は男しか狙わないようですからね」
「そうとは限らないんじゃない。いつ気が変わって女性を狙うかわからない」
「…そうですね」
「まあ、とりあえず、これ絵。大事に飾っておいてください」
「…はい」
彼女は絵を受け取り機嫌よさそうに公園を後にする。
香山は確かに連続殺人事件について多少は気にかかっていたものの、恐れてはいなかった。
自分も同じ殺人者だったからだ。
殺人者といっても人を殺したのは、今から何年も前のことで、彼にとっては過去の出来事の一つに過ぎなかった。
「克弘君。わたしの似顔絵描いてくれる?」
香山が中学二年の頃、美術部に所属していた彼に好意をよせていた女性がいた。
友人の佐藤美咲だ。
彼女は容姿端麗、性格も明るく、誰からも好かれる好印象な女子生徒だった。
香山にも、その気があり所属当時から彼女と接する中で、だんだんと相思相愛の仲になっていった。
美咲は香山の実力を一番に認める人物であり、彼に自分の顔を描いてもらえることを何よりもの誇りにしていた。
彼が描く似顔絵は単に現実に忠実というだけではなく、美しい色彩と線の力強さによって、まるで現実を超えてしまったかのような情景を描き出すのだ。
「できた」
出来上がった絵を手にとった美咲は言葉が出ないほどの感激をあらわにし両目に涙を潤ませた。
「これ、僕がもらうね?」
「…え、どうして。せっかく描いてくれたのに、わたしがほしい」
「いいじゃん。また描いてやるよ。今日のはいつもより良く出来たんだ。それにもう少し描き直したい所があるからね」
美咲は戸惑いながらも絵を返し、帰り支度をはじめる。
香山は嬉しそうに鞄に絵を仕舞いこむ。
二人で談笑しながら帰宅の途につき、それぞれの自宅へと戻っていく。
香山は両親が夕食に誘ったにも関わらず、それを無視し急いで二階の自室へと駆け込んだ。
彼の自室には沢山の絵が飾られている。
美術部の応募のため描いた風景画や、にわかには理解しずらい抽象画、その他様々な絵が壁の四方を所狭しと彩っている。
「克弘、ご飯よ」
「うん、ちょっと待って、今いく」
香山はポケットに隠しておいた鍵を勉強机の引き出しの鍵穴に差込み、何やらそわそわした風に開いていく。
引き出しの中に入っていたのは、女性の似顔絵が描かれたスケッチブックだった。
その数、数百は下らない。
彼は中の一枚を取り出し、目の前にかざしマジマジと嘗め回すかのように見つめる。
それは奇妙な絵だった。
人間の死顔である。
しかも綺麗な人間の死顔ではなく、皮膚がだだれ、骨が砕け、目玉の飛び出した、悪魔の如き世にも醜い顔なのだ。
「かつひろ」
「分かった今いく」
香山はそれを、大事そうに同じ位置に戻し、夕食をとるため、一階のキッチンへと向かった。
…彼には死者を愛好するという特異な性癖があった。
彼が美咲の似顔絵を持ち帰ったのも、そういった理由が大きく働いたからだった。
…夕食を取り終え、もう一度二階に戻ると、持ち帰った美咲の似顔絵を鞄から取り出す。
鼻息は非常に荒く、表情は高揚感に満ちており、それが逆に不気味でもあった。
青ざめた頬、死んだような目、まるで悪霊にでも取り付かれたような顔面は、学校で滲ませる無垢のそれとは明らかに異なっている。
彼女の顔面に向かって鼻を近づけ、くんくんと犬のような仕草で臭いを嗅ぐ。
香山は立ち上がり、おもむろに出入り口の扉の鍵をかける。
電気を消し、蝋燭に火を灯し、床には部活動で使う筆やインクを無造作にばら撒く。
まるで儀式でも執り行うような異様な雰囲気が室内を包み込む。
今彼の脳内にはどんな感情が去来しているのだろうか。
まず取り出したのは赤いインクである。
それをおもむろに彼女の顔面にぶちまけると、握った筆で滅茶苦茶に広げていく。
その速さは尋常ではなく、まるで制御不能に陥った機械のよう。
愛と憎しみは紙一重と言われるように、彼は彼女に対して、大いなる憎しみでもぶつけているかのような態度だ。
ものの数分で、その死体は出来上がった。
…凄まじい出来。
飛び出した脳みそ、つぶれた眼球、引き裂かれた口元、剥がされた皮膚。
可憐だった佐藤美咲という人物があられもない姿に変貌している。
…その時、部屋のドアからトントンとノックする音が聞こえた。
「克弘、風呂、用意できたわよ」
香山は両肩をビクッと震わせ我に返る。
さっきと同じように返事をし、改めて出来上がった絵を見澄ましていく。
彼は両腕を組み、実に満足気。
自分の大好きだった佐藤美咲が、己の手でまるで悪魔のような形相に立ち代っている。
…俺がやった…俺がここまで彼女を犯したんだ…という痛烈なまでの快感と激しい達成感が脳の神経を刺激しアドレナリンを分泌していく。
彼のコレクションに新しい絵が加わった。
大事そうに引き出しの中に詰め込み、しっかりと鍵を閉め、風呂に入るために一階へと向かった。
「…はい、いらっしゃい」
香山は五年たっても、あの時の快感が忘れられずにいた。
特に佐藤美咲という、かつて自分にとって憧れとも希望とも形容でない絶世の女性を自分の物にした、という記憶は、彼にとって強烈な印象を与えていた。
…見ず知らずの女性の顔をこの公園で描く。
あの時の強烈な快感と比べると多少もの足りないものがあるにしても、持ち帰った女性の顔を犯すという行為は未だ変わらず続いていた。
「克弘君、わたしの似顔絵できあがった?」
佐藤美咲は次の日の放課後の部活動で香山にこう尋ねる。
「…いいや、まだ」
「そう、出来上がったら言ってね。あれ、わたしとても気に入ってるんだ」
それから一ヶ月が経っても、彼はあの絵を渡さなかった。
いや渡せるわけがなかった。
あんなおぞましい絵を彼女に渡しでもしたら、自分はどんなに彼女に嫌われるか。
いや、嫌われるだけでは済まない。
きっと絶交されるに決まってる。
………やはり、それは常軌を逸した世界だった。
まるで現実の光景とは思えなかった。
人間が描いた絵にしても、ここまで醜いことができるだろうか。
香山は中学卒業を間近に控えたある日、彼女を自分の家へと誘った。
誘った、というよりも、無理やりにでも彼女が来たいとせがむので、使用が無く招待した。
あの引き出しの鍵はきちんと制服のポケットにしまってあるから問題はなかった。
好奇心を露にした美咲は、楽しそうに鼻歌を歌いながら二階の香山の自室へと向かっていく。
香山の母親が一階からジュースを持ってきて彼女に振舞うと、美咲は実に愛想よく、それに応じた。
部屋で一人になった美咲は、立ち上がると、壁に飾ってある絵画を丹念にチェックしていく。
美しい絵の数々は、美術部である彼女に感銘を与え、まるでロマンチックな姫にでもなったかのような優雅な居心地を与えた。
彼女の視線が勉強机にたどり着く。
実を言えば、彼女がここに来た真の目的も、単なる好奇心から、というだけではなく、あの絵を取り返そうという魂胆を胸に秘めていたからだった。
今日、今ここで彼女の手があの引き出しに伸びることは、必然といってもよかった。
が勿論、そこが開くことはない。
ベッドの下、タンスの中、いろいろな場所を調べるが、絵は中々見つからない。
最後に残ったのが、やはり密閉された引き出しだけだ、というので美咲は、そここそが目的の品の眠る真の場所だと断定したのだった。
「何してるんだよ」
香山が帰ってきての最初の一言だった。
その声は裏返るような、叫び声のような、一種の戸惑いがのぞいていた。
それもそのはず、彼女はその引き出しを両手で握り、壁に足の裏を引っ付け、無理やりにでもこじ開けようとしていたのだ。
「あ、克弘君。ごめん、ちょっと探し物があって」
「探し物って何だよ。ここ僕の部屋だよ」
「…わたしの似顔絵」
「……ああ」
香山は彼女が何の目的でここへ訪れたのか、最初から若干気付いてはいた。
そのために鍵をちゃんとポケットの中に仕舞い込んでいたのだから。
「あの絵、もうないよ」
「え?」
「捨てたんだ」
「………嘘」
「嘘じゃない。もう随分前のことだけどね」
「………ひどい」
「ぶっちゃけ言うと、絵なんてどうでもいいんだ。あんな絵よりも、実物の君の方が何倍も好きなんだ」
二人に沈黙が訪れる。
まるで凍りついたかのような空気で満たされた部屋の中。
静かで、それでいて緊張感の漂う、異様な雰囲気。
その時、階下から声がこだました。
「克弘、ちょっと来て料理、手伝って」
香山は絶望した、大いに絶望した。
母親のあまりにものタイミングの悪さに。
「分かった今いく」
急いで階段を下っていく香山。
残された美咲は一人たいくつそうに両脚を絨毯の上に伸ばしていた。
すると目の前に香山の制服を発見する。
彼は忘れていた。
最前のあまりにもの、緊張感と脱力感とで制服の中の鍵の存在をすっかり頭の中から消し去ってしまっていた。
…残された場所はここだけ。
…きっと彼はまだ絵をどこかに隠している。
…わたしに渡したくないために、あの絵を独り占めするためにあんな嘘を言ってるんじゃないか。
美咲はこう勝手に妄想を膨らまし、期待を膨らまし、当てずっぽうにポケットの中をまさぐってみる。
するとまさか、目当ての物がそこに本当に眠っていたのでビンゴと言わんばかりに飛び上がる。
喜びいそしみながらも香山が上がってこないことを確認し、そっと手に入れた鍵を引き出しの鍵穴に入れる。
回す。
ガチャリ、と音がし、見事引き出しが開いていく。
そして現れる恐ろしい世界。
普通の人間が絶対に見てはいけない世界。
彼女は飛び出しそうになった叫び声を止めるため、思わず両手で口を覆った。
頭をハンマーで思いっきり叩かれたかのような衝撃が脳内にほとばしった。
冷静になるために、まず一呼吸おき、そして恐る恐る中の絵を手にとってみる。
「美咲、料理もってきたよ」
両手に皿を持ち、こう声をかける香山。
扉を開くと、彼の視界に衝撃の光景が飛び込んでくる。
あまりにもの驚愕のため、持っていた食事を取り落としてしまい、床に着地した皿が音をたて粉砕する。
「…凄い絵だね」
美咲の黒い後頭部がワナワナと震えていた。
香山は自分でも不思議なくらい冷静な口調で言葉を返す。
「…僕が描いたんだ」
「何の絵、コレ?」
「死体さ」
黙りこむ美咲。
それもそのはず、友人の、いや世の中で一番好意を寄せている人間の自室に入り込み、あろうことか彼の隠された狂気とも呼ばれる精神世界を目の当たりにしてしまったのだから。
しかし、まだ救いはあった。
彼は単に芸術家としての類いまれなる才能が特出している人間で、それが爆発し、このような他の人間にはできない、すばらしき芸術作品を生み出してしまったのではないかという。
だが、その救いも彼女の求めていた目的の物を目にした途端に、あっけなく崩れ落ちる。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
美咲が手に持っているのは、紛れも無く彼女自身の似顔絵だった。
…それも惨たらしく惨殺された後の。
香山の熱意と情熱、狂気が入り混じった迫力がその絵には込められている。
思わず手から取り落とした絵がひらひらと彼の足元に着地する。
香山は冷静にそれを拾い、彼女に返そうとする。
すると、再度叫ぶ。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
まるで汚物でも見るかのような訝しげな表情で、彼の顔を睨みつける。
「こ…これ、何なの?」
香山には答えることが出来なかった。
冷静さを保っていたにも関わらず、顔を死体に描き直す、という奇妙な行為を、自分自身でもどう説明していいか分からなかった。
実際、これをやっている時には、脳内が興奮のるつぼを彷徨い、説明しがたい感覚に陥っているのだ。
彼は分かる部分だけ出来るだけ丁寧に説明する。
「綺麗にしたかったんだ」
「…綺麗に」
「だって、この顔の方が魅力的だろ?」
「…そんな」
「この世の女はみんなそうだ。いざ男の前に出ると、自分の姿を相手の望む姿に変身させる。自分の顔を化粧で誤魔化し、自分の性格を演技で誤魔化す。まるで自ら男の妄想の体現者になったかのような存在になる。…普通の人間はそんな女性に満足するかもしれないけれど、僕はそれじゃあ満足できないんだ。僕の求めるのは女性の自然な姿なんだ。何の偽りもない、嘘もない、本当の姿なんだ」
「死顔じゃなきゃ満足できないってこと?」
「うん」
美咲はどうしても理解できなかった。
いや理解してしまえば、彼が好む自分の顔が、こともあろうか死顔になってしまうので。
「…馬鹿じゃないの」
彼女は落ちていた食事を構わず踏みしだき、部屋から飛び出していった。
自分自身が狂っていることなど、百も承知だった彼に追いかける気など起きなかった。
「この絵…すばらしいですね」
香山は公園で絵を描き続ける。
また今日も、一人の客が目の前に現れる。
その女性は実に美しい容姿をしていた。
美しいだけではない、一言では説明しがたい、不思議なオーラを持っていた。
「タダでいいですよ」
「本当ですか?」
「……ええ。ただし、君の似顔絵を描かせてもらえれば」
いつもと同じ提案を快く了承してもらい、さっそく準備したスケッチブックに筆を走らせる。
彼女は興味深く香山の筆の行方を追い、真剣に彼に好かれる表情を作っていた。
香山もいつもとは雰囲気の違う客に若干とまどいながらも、親身になって顔を描く。
数分が経過し絵が出来上がると彼女は喜びの声を上げる。
喜びの声を上げるのは、いつもの客と変わりなかった。
…すると彼女の方から自己紹介が始まる。
「わたし、最近この街に引っ越してきたんです。昔からあなたと同じように絵を描くのが趣味で、毎日ひきこもって筆を握ってるんです」
「…そうですか。あなたも絵を描くのが好きで。どうりで、いつもの客とは雰囲気が違うわけだ」
「もしよかったら、わたしに絵を教えてくださいませんか?」
「え」
「絵って一人で描き続けていても、時が経つとだんだんと、本当にこれでいいのかって不安になってくるんです。誰か他の人に見てもらって評価してもらいたい、と思うようになるんです」
「確かにそうですね。僕が自分の作品を売り始めたのも、それが理由だったと思います。いいですよ。僕が評価しましょう」
「本当ですか?」
二人は意気投合する。
もちろん、自分に死体愛好の趣味があることなぞ、暴露できるはずもなく、とりあえず体のいい理由を作り了承した。
彼女に興味が沸いたのは、自分と同じ芸術家だったからと理由よりも、その姿がどことなく、昔殺してしまった佐藤美咲に似ているからだった。
…殺した。
そう、彼はあの後、佐藤美咲を殺したのだ。
佐藤美咲は家を出た後、急いで自分の家に走った。
あまりにも気が動転し、何が何だか分からないまま、足を動かした。
真っ暗な夕闇の中、公園に差し掛かると、心を落ち着かせるためいったんベンチに腰をかけた。
心拍数も緩やかになり、だんだんと呼吸が元の鞘におさまっていく。
全てが終わってしまった絶望感と寂しさ……まるで悲劇のヒロインになってしまったかのような情けない自分。
静かな公園内には人の気配はまるでない。
まだ脳内にあの部屋で見たおぞましい死顔がこびりついており、それを振り払おうと必死に頭を左右に振る。
「美咲、何で逃げるんだよ」
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
三度悲鳴が彼女の口からこだました。
ふと思いなおし後を追いかけた香山が、彼女を発見し声をかけたのだ。
「こないで」
「…どうして?」
「あなた、わたしの死顔が好きなんでしょ」
「…うん」
「じゃあ、わたしを殺したいと思ってるんでしょ」
「………」
「わたし、あなたの望むような女にはならないわ」
………その言葉に頭の中が真っ白になっていく。
それからの記憶は、曖昧でよく覚えていない。
両手で彼女の首を掴み、息の根を止めている光景が呆然と脳にこびりついている気がする。
しばらくして、ハッと気付いてみると彼女の青ざめた死顔が地面の上に無造作に転がっていたのは覚えている。
「……ここです」
さっき公園で出会った彼女が自分の住むアパートを紹介する。
香山は画材を買ったり明日の準備のため忙しく来訪を拒否したが、彼女はそれを断りどうしても今日見てもらいたい、と言った。
それで仕方なく付き合うことになったのだ。
彼女はポケットから鍵を取り出しゆっくりと穴に差し込んだ。
扉が開き中の景色が彼の視界に飛び込んでくる。
それは圧倒的な光景だった。
香山自身も部屋に自分の描いた絵が所狭しと占領しているが、彼女の部屋はそれを上回るほどの壮観と言わざるを得なかった。
中でも窓を遮るようにして立てかけてある巨大な風景画は、彼の心に衝撃を与えた。
青々と流れ落ちる壮大な滝に、曲線を描く七色の虹。
一人の人間がこれほどまでに巨大で美しい絵を描けるものかと、心の底から深く感心してしまった。
「…すごいですね。こんな素晴らしい絵、見たことない」
心が癒されるようだった。
まるで童心に戻ったかのような無垢な精神はあの、死顔描き、という不気味で醜い心持とは正反対の心情であった。
両目から自然と涙がこぼれ落ちる。
自分は今ままで何て愚かな心を持っていたのだろうか、という恥の感情すら沸き起こるくらいだった。
「…どうでしょうか?」
「これ、君一人で描いたのかい?」
「ええ」
「凄いよ。こんな凄い作品見たことない」
………それから二人は仲睦まじい関係に落ちていった。
ただ趣味を共有する存在としてではなく、恋愛関係すら生まれていったのだった。
彼女は言う。
「香山さんは、わたしの作品を純粋な目で見てくれた。友人や両親からはお前の絵はデタラメだ、何を描きたいのか分からない。なんて文句ばかり言われてたんです」
微笑む。
「でも、香山さんに、わたしの本当の趣味を理解してくださるかしら。…いや、きっと無理だわ。わたしの趣味、他の人とは少し違ってるから」
…その後、香山克弘という男をあの公園で見かけた人物は一人もいなかった。
──魅力的な死顔──終わり
魅力的な死顔