practice(169)




 くすぶる一本を灰皿から摘んで,いたずらのように息を吹きかける女の狙いは実のところ,部屋に取り付けられたあの換気扇の働きによって邪魔されているのだと説明した。きーきー,と定期的に高い音を立てる様子には,設置当初の時代が横たわり,油っぽさが四枚それぞれに残った感じが,雑な部屋の出入りの多さが物語る,そこかしこの痕跡の散らかり具合には似合っている。カーペットのシミも大小さまざま,虫が出て来ないだけマシといえる。換えられたシーツの新しさをくしゃくしゃにして,作っておきたい親密な雰囲気の,あからさまな裾をやっぱり引っ張る。強く掻いた肩の赤みとか,何かの拍子で剥がれた女の爪の下地とか,ごみ箱代わりのコンビニ袋の演出まで,裸足で用を足しに行けば,決して遠くない人気スポットの海岸から運ばれたと思われる砂っぽさと混じって,生々しく感じられる。水洗トイレのタンクに水が溜まる速度が遅いのがネックだ。男が言って,女がそれに同意した。部屋に置かれたベッドの上部に,お客様の声を求めるアンケートが筆記用具立てに窮屈に入れられ,筆箱の中からようやく見つけ出したような,汚れた鉛筆が短く一本。端も端に備え付けられている。男がそれを目ざとく見つけ,女が姿勢を変える。「良い」,「悪い」,「まあまあ」の選択肢が各項目に用意され,「住所」,「氏名」などを書く箇所は無い。用紙との関係で,はたまた,実は書いたりする人を想定していないような,中途半端な最後のフリースペースは,誤って溢したコーヒーを上手に拭いて乾かした様な跡があった。女はそれを自然だと言った。じゃなきゃ,捨てるでしょ,普通?筋は通っていると,男が思った。チェック項目を適当に埋め,最後の自由な枠に書き込む。スムーズに用を足せない。そこが頂けない,と。意見は見事に収まった。だから色々とそのせいにした。
 テーブルの上に広げて置いて下さい。係りの者が,責任をもって回収します。行の隙間を縫うように,そう書かれた回収方法を男が読んでも,狭い部屋のどこにもテーブルがないことははっきりとしていた。女に言われるまでもなく,男はそれを二つ折りにして,女との間のスペースに放った。女がそれに目をやり,興味を直ちに失い,より足元の方に放り投げる。風に乗らずに,すぐに落ちた。女はブランケットから勢いよくすべてを捲って,向こうにやった。元に戻したら,一枚のアンケートはどこにも見当たらなかった。多分そこだと,クリーム色とペパーミントのラインが目立つ壁を男が指を差して,女が意味を理解した。遅れて返事をした。
ーあとで拾えば。
 冷たい風が中に入り込んでいた。あるいは,こもった体温が逃げていた。女が足の甲を,もう片方の足の裏で擦る。灰皿から何も溢れていないことを,二人で確認した。
 その後,新しく時間が経って,底に押し付けられた一本のフィルターを摘んで,振り回す。思い出せそうなことを思い出す,例の仕草に似ている。どちらかがそう思った。
 肺に溜まった息を吹きつけ,匂いも苦手な女を咳こませてから,眉を吊り上げた,じゃれ合いにでも転がり込めば,なんてことを男は考えた。都合よく,入室後から一度も点けていない黒のテレビともども,必需品以外の物は一段と控えている。ちりちりとした埃,乾燥した室内で,薄い壁が叩かれる。ノックのようだ。箒を立て掛けたような。
 目的とする,細い背中を見せる女は灰皿を目の前にして,思い出せそうなものを思い出す,例の仕草に似た行為をする。煙を振り回す。睫毛が密な,大きい目が真剣に行き先を追い出して,換気扇は回っていた。女は睨んでいた。男が思うに,彼女は,最初にした説明を信じたのかもしれなかった。
 ー睨んでも,飛んでいったりしないぜ。
 ー分かってるわ。
 女が両足を曲げたのを,男は感じ取った。どちらかが曲がり,どちらかが伸ばされたまま。
 ー体,起こすのか?じゃあ,灰皿寄越せよ。
 男は言った。
 ーなんでよ。私がまだ使うし。うつ伏せしてる方が楽だし。
 女はそう反発して,灰皿を引き寄せ,枕に顔の半分を埋めた。さっきまで換気扇を睨みつけていた視線は,男の方に止め置かれた。指はフィルターを忘れている。灰が先から少し落ちた。
 ーそもそもさ,
 女は言う。
 ーなんで換気扇があんなところにあるの?目立ち過ぎじゃない?
 頭を持ち上げた女の顔が全部見えた。眉がゆがんでいるのは,意地半分の,気持ちの表れだろう。空き箱をトンと叩き,男は灰皿を使う必要が無くなったことに気づいたが,それを口にせずに,質問に答えることにした。
 ー昔は流行ったんだろうさ。おしゃれな空間になったんだろう。
 ーリゾートちっくに?どこがよ。
 女はすぐに訊き返す。男は言う。
 ー昔は,だろ。時代によって演出の受け止め方も変わるさ。
 ーそれっていつ?
 ー車がガソリンだけで走ってた頃,とか,もっと不便な時代じゃないか。
 ー不便って?
 その質問に男は答えを詰まらせたが,どうにか答えてみた。
 ーチャンネルをがちゃがちゃ回してたとか,小銭がもっと重宝されていたときとか。
 ー小銭は今でもあれば便利でしょ。
 ーもっとだよ。これとか。
 そう言って男は受話器の形を手で作った。なーんだ,と女はがっかりしたようだった。もっと違うものを想像していたのに,と女は男に言った。男にはそれが何なのかが分からなかった。分からなかったが,尋ねてみるつもりもなかった。かさかさと這う虫が逃げる機会を窺うように,カーペットを横切るものもあった。四角いものが動く,唐突でぎこちないものだ。今になって床に落ちたのかもしれない。さっき答えたアンケートだ。灰皿を取り上げながら,男がそう思った。意表を突かれた形で,女は一本を取り損ねた。
 ーまだ思い出してないのに。
 女はそれを口にした。
 男は灰皿と空き箱を端に寄せて,他のアンケートたちを無視しながら,丁寧な説明を心掛けようと,思い付くところから始めた。ワイヤーで吊るされたカモメの形をした板が,室内の風に揺られて,きしきしと軋んでいる。青を基調とした周囲は,発泡スチロールの船に,綿毛の雲がビニール袋に入れられたまま,準備中なのか,片付けているのか判断しにくい。貼り付けやすい状態で,ガムテープもそのままだ。赤いコーンが重なって,土台の角が欠けている。乱暴に使われた証拠だろうが,仕切りに使ったりするコーンである以上,しょうがないと言わざるをえない。男はそれを女には言わなかった。女の方でも,それを特に気にかけたりはしなかった。ただ一つ,女は訊いた。
 ーいつの頃の話なの?
 男は女に言った。
 ー便利な頃さ。駅前の伝言板に何でも書いていたんだから。
 何かがカサカサといった。しかしお喋りに夢中になった男は,一番最初にそれを忘れた。換気扇がきいっと止まり,電気が瞬く。壁のクリーミーな暗やみが,ペパーミントの直線に阻まれて,照明の具合に影響する。一段と暗くなったか,さっきまでと変わりないか。人気スポットの海岸線に沿って,音楽とか小規模な花火が打ち上げられたとしても,男にも女にも届かない。入った時から閉め切られた西側の間取りには,もとより朝が来ない。ノックがしても,ノックのような音が聞こえても,一晩中が長くなる。クローゼットは見当たらない。ハンガーの数は気にされない。余りがちな回線は繋がっているのだが,問い合わせが少ない。
 ーコール,コール。延長はできますか。
 ーそれもマネなの?
 ーあった話さ。覚えているだろ?
 男は言う。
 ぱらつき出した砂が零れる。汗ばんだ裸足の格好が不意に現れたからだった。それが女のでも,その男のものでも。一方で,近郊の路上では駐車違反の切符がワイパーで留められ,発進するタイヤが静かに路上を踏んだ。深夜の出来事だ。ランプが回らないのがフェアじゃないなんて,斜めに傾いだ標識に凭れても,誰も考えはしなかった。





 

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-19

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