滝
城下町の裾に広がる海岸線を、北に少し走ったところに、その川がある。
少年時代を、その町で過ごした先輩に、すごい穴場を知っているから釣りに行こうと誘われた。
他の職員があらかた盆休みを取り終わったあとに、示し合わせた私と先輩は連休を取り、釣具一式とキャンプ道具を車に積み込み、三百キロほど離れたその城下町へと向った。
先輩が子供の頃、特別な日に利用していたという洋食屋で昼食を済ませた後、食料を買い込み、キャンプ地に予定していた川の河口に着いたのは、午後三時を少しまわった時間だった。
「どうする? これが終わったら、川を遡ってみる?」
テントを張りながら先輩が聞いてきた。
「ポイント(釣り対象魚の多い場所)まで、どのくらいかかるんですか」
「終点に滝があってね、そこまでの間にポイントが幾つかあるんだ。だいたい片道一時間てとこだな」
「じゃあ晩飯にちょうど良い時間に帰って来られそうですね」
「よし、行こうか」
川幅は広いところで三メートルあるかないかといった、本当に小さな川だったが、人の手が全く入っていない為、水量が多く、蛇行もきつく、カーブでは水深が優に一メートルを越えていた。
また、上流に人家や畑、牧場が無いので、水質はとてもきれいだった。
私達が川へ入った途端、五十センチ近くある魚影が、幾つもうねって散らばっていった。
「アメマス(イワナの降海型)だよ。もう産卵に帰って来てるんだな」
「ああびっくりした。想像以上に大きいですよ」
「大きいから一匹か二匹獲れたら十分だろ。それ以上は二人じゃ食いきれないよ、きっと」
対象をアメマスに絞り、釣り竿はテントに置いていくことにした。
それぞれがヤスと大きな網袋を持ち、更に水中眼鏡とシュノーケルを持った。
魚釣りというより、魚獲りだ。
「ちょいストップ。そこ、一番目のポイントだから」
二十分ほど歩いたところで、先輩が後ろから声を掛けてきた。
「その辺で網を持って待ってて。追い出すから」
先回りしながらそう言って川面の下にある石の隙間に手を入れる。
私は、下流側の一メートル近い深さの淵に浸かり、網袋を広げて待ち構えたが、どうにも心許ない。
「先輩、逃がしちゃったらごめんね」
「いいよ。まだポイントはあるから……あっ!」
「うわっ!」
驚くほどの大きさの魚影が幾匹か飛び出してきた。そしてその動きは想像以上に速い。
全て取り逃がしてしまった私に、先輩が声を掛けてきた。
「大丈夫……今……なんとか……一匹掴んでる……よいしょっ!」
掛け声と共に、先輩は五十センチオーバーのアメマスを引き抜いた。
上手い具合にエラ部分に指が入ったのだそうだ。
そのポイントでは殆どを逃がしてしまったが、確実に一匹を仕留め、士気が高揚した私達は、さらに上流のポイントへと遡った。
しかし途中、少し開けた河原で熊の足跡と糞を見つけたり、大物を一匹キープしていることで気が抜けてしまい、次々と魚を取り逃がしながら、終点の魚留めになる滝に着いた。
落差は五メートルも無いのだが、水量は多い。
その滝壺に、最も魚が多いのだと聞かされていた。
「カシワクラ君、潜るでしょ」
先輩は随分と離れたところから滝壺を指差し、私に言った。
先輩も水中眼鏡とヤスを持ってきているのだが、潜る気はないようだ。
私は競泳の経験があることから、泳ぎに自信もあり、何しろ黙っていても体の浮く海よりも、流れの強い川で泳いだり、淵に潜って魚獲りをするのが好きだった。
この滝壺は深さはどれくらいだろうか。落差と同じかそれ以下だろうから四メートルくらいか。
七メートルくらいまでしか潜ったことは無いが、水量は多くとも大丈夫だろう。
しかし水温が低い。体は遡行で火照っているから、いきなり潜るのは危険だ。少し冷やす必要がある。
私は、曇り止めに水中眼鏡のガラスにヨモギの葉をこすり付けながらそう考えていた。
それにしても、妙な感覚が疼く。
先輩は何故あんなに離れたところに立ってこちらを見ているのだろう。
表情も、何とはなしに、暗い。
私は水中眼鏡を付け、服を着たまま、滝壺に入り、浅いところで水温に身体を慣らした。
そして、いざ潜ると、妙な感覚は更にその疼きを増した。
魚は、小さいのが数匹見える。そのまま滝壺の深みへと潜る。水の冷たさが一層増す。
突如、先程まで疼いていただけの妙な感覚が、これ以上無いほどの恐怖感に変わった。
何かが見える。実際に目に見えるのは水中の景色だが、それと重なって見えるものがある。
頭の天辺を剃り上げた生首だった。
無念に目を瞑ったような、斬首された生首が幾つも見える。
月代のあるざんばら髪の生首。
侍なのか町人なのかわからないが、時代劇でよく見るような顔、というか首、というか。
そして私は……深みに吸い込まれ、滝の水圧に押し潰されそうになる。
このままでは息が続かない。先輩が助けに来る気配も無い。
私は、おかしなものを見るのはそれが初めてではなかった。
そのことと川での泳ぎに慣れていたことが幸いし、自由の利かない滝壺でも、パニックにならないよう何とか努めることが出来た。
とにかく、彼らの眼が開く前に、“自分たちの無念を感じ取れる者が居る”と気付かれる前に、ここから離れなければならない。
強く渦巻く水流をゆっくりと回避し、端の柔らかな流れに乗って、半円を描くように岸へと泳ぎ着いた。
「魚、いた?」
先輩がそう尋ねてきた。
「魚は……でっかいのは見当たりませんでした。ちっちゃいのばかりで」
「うん、水温低すぎかもな」
「それと生首のオバケがいました」
「ああ、やっぱり……」
「やっぱり、って先輩、知ってたから潜らなかったんでしょ。すっげぇ怖かったですよ」
「うん、実はここ、○○藩の首切り場だったんだよ。そして、生首の血をその滝壺で流したんだって。カシワクラ君なら大丈夫かと思ったけど、だめだったか」
「勘弁してくださいよ……」
私達は首洗いの滝を後にし、翌日は別の川でヤマメを釣って遊んだ。
了
滝