タッチ

 午後の外廻りは誰しも眠いものだ。缶コーヒーでも飲もうと、大久保が道路脇の自販機にコインを入れようとした時、ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、ひどく疲れた様子のサラリーマン風の男が立っていた。髪はボサボサ、無精髭を生やし、だらしなくネクタイをゆるめている。
(なんだかヤバそう感じだな。かかわらないのが利口だろう。缶コーヒーはあきらめて、早く立ち去った方がよさそうだ)
 そう思ったのだが、そいつが何かブツブツつぶやいているのが大久保の耳に入った。
「もう、もう、限界だ。早く誰か交代してくれ」
「えっ、何だって」
「頼む、タッチだ!」
 男が差し出した手のひらに、大久保は反射的にタッチしてしまった。
 その瞬間、視覚と聴覚に異常を感じた。ちゃんと見えているし、聞こえているのだが、妙に現実感がない。まるで夢の中にいるようだ。
 それだけではなかった。大久保の意思とは無関係に、口が勝手にしゃべり始めたのだ。
「ご苦労だったな。転送は完了した。ゆっくり休んでくれ」
 男は「やったー、ばんざーい!」と叫びながら走り去った。
(いったいこれはどういうことだ)
 しかし、大久保の体は何事もなかったように自販機にコインを入れ、出てきた缶コーヒーを飲み始めた。飲みながら、さりげなく周囲を見回している。
(どうなってるんだ、おれの体は)
「他に誰もいないようだから、今から説明しよう。いいかね」
 確かに大久保がしゃべっているのだが、明らかに別の存在の意思である。
(じゃあ、おれはどうやって返事をすればいい?)
「ああ、返事の必要はないよ。きみの考えはこちらから見えるのでね」
(それなら、答えてくれ。これはいったいどういうことなんだ)
「まあ、簡単に言えば、わたしは宇宙人、ということだな。あまり詳しいことは言えないが、地球を監視するのがわたしの役目だ」
(役目だか何だか知らないが、その宇宙人が、なぜ、おれの体を乗っ取ったんだ)
「乗っ取った、というのは、少し語弊があるな。一時的に借りているだけだよ」
(貸した覚えはないぞ)
「タッチしたじゃないか。わたしの知識では、タッチというのは役目を交代する合図だと思うが」
(わけもわからず無意識にやっただけだ。元に戻してくれ)
「残念だが、転送してすぐに離脱すると、きみの脳に重大な障害が生じてしまう。まあ、しばらく辛抱してくれ」
(いやだいやだ。おれに自由をくれ)
「そんなに心配しなくていい。わたしがきみの体を借りるのは、必要がある時だけだ。説明が終わったら、一旦、返すよ」
(一旦じゃなく、ちゃんと「返してくれ、あれっ、声が出た」

 その日から、大久保の奇妙な二重生活が始まった。
 宇宙人の説明によれば、大久保の体の中に寄生しているというわけではなく『四次元空間を通して体の内側から操作している』のだそうだ。
 とにかくそれ以来、いつでもどこでも大久保の都合など一切おかまいなく、いいように体を使われているのだ。食事中にいきなり走り出したり、寝ている時にガバッと起きて電話をかけたり、入浴中にバスタオル一枚で外に出たりと、そんなことが頻繁に起こる。おかげで、周囲の人間から変な目で見られてしまうこともしばしばであった。
 それに、いつ体を乗っ取られるのか予測がつかないため、気の休まる時がない。一度など、さあ、これからトイレで用を足そうかという時、いきなりファスナーを上げられたため、危うく大惨事になるところだった。
 大久保はみるみるやつれ、目の下にクマができた。
 それに、地球の調査というが、何を調べているのかさっぱりわからない。
(最悪の場合、地球侵略のための調査かもしれないぞ)
 だが、それはすぐに否定された。
「心配しなくていい。きみたちには気の毒だが、地球という惑星は、わざわざ侵略したくなるほど魅力的な物件じゃない」
(それじゃ、何の調査なんだ)
「まあ、差しさわりのない程度に説明しようか。わたしたちが最初に地球に注目したのは、きみたちが月面着陸に成功した時だ。このまま宇宙に進出させて大丈夫かどうか、調べてみたのだ。調査結果は『きわめて危険』というものだった。そこでわたしたちは密かに地球の世論を操作し、宇宙開発に莫大な予算をつぎ込むのは税金の無駄遣いだと煽動して、人類の宇宙進出にブレーキをかけたのだ。だが、それ以上に干渉することは宇宙の倫理に反する。だから、その後は世界各地に駐在員を置き、経過を観察することになったのだよ」
(それで、いつ頃合格点が出そうなんだ)
「まだまだ、だな。少なくとも、他の惑星に迷惑をかけない程度にはならないと、宇宙開発を全面解禁にはできない」
(じゃあ、おれは当分このままなのか)
「いやいや、そんなに長期間じゃない。代わりの人間が見つかるまでさ」
 そんなある日、大久保は商店のガラスドアに映っている自分の姿を見て驚いた。髪はボサボサ、無精髭を生やし、だらしなくネクタイをゆるめている。あの時の男と同じ姿だ。
(ああ、お願いだから、誰かおれとタッチしてくれ)
 大久保は、あの自販機で今しも缶コーヒーを買おうとしている、見知らぬ男に近づいて行った。
(おわり)

タッチ

タッチ

午後の外廻りは誰しも眠いものだ。缶コーヒーでも飲もうと、大久保が道路脇の自販機にコインを入れようとした時、ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、ひどく疲れた様子のサラリーマン風の男が立っていた。髪はボサボサ、無精髭を生やし、だらしなく…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-19

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