Bar Raincheck
映画の約束は、今日だった。
5. Time will tell
頭が重い。
目が充血している。というか痛い。コンタクトつけっぱなしで寝てしまった。それどころか
化粧も落としていない。
気がつくと、朝だった。
慌てて時計を見ると、11時あたりを針が指している。
回らない頭を必死に回す。とりあえず今日は仕事が休みだった事を思い出してほっとした。
アルコール臭のする重い体をひきずり、洗面所へ向かう。顔を洗うだけのつもりだったが結局
シャワーも浴びる事にした。
熱い蒸気の中で、ゆっくりと首を傾ける。酒臭い体がリセットしていくのを感じる。
さて、昨日は色々あったぞ。
まず、そうだ、いちから思い出そう。
仕事が終わった後、彼の部屋に行った。他の女といちゃついていた。そのまま帰ろうとして、バーに酔って
呑んで、絡んで、泣いて。確か最終的にタクシーに乗せてもらって、帰ってきたんだろう。最後の方は推測である。
長いため息を吐く。最悪だ。
しかし、とてもすっきりしていた。あのふたり。平さんと羽柴さん。ただのかわいそうな女を歓迎してくれた。
もういちど行きたいな、と思うバーだった。
そこでふと、もう1人の男のことを考えた。
そうだ、もともと今日映画を見に行く約束だった。13時にショッピングモール前集合。
どんな顔をして会えばいいんだろう。知らないふりして会えば、このままの関係が続いていくのだろうか。
そんな事を望んでいる?そんな訳無い。耐えられる訳ない。こんな感情に。
きちんと向き合わなければならない。
シャワーの蛇口を締める。鏡に映った女の顔を見る。
その映画館はショッピングモールの中にある映画館だった。
入り口の噴水前に集合ということで意味も無く15分前から私は待っていた。
何度もコートのポケットの中を確認する。
彼の部屋の合鍵が入っていた。何度も触っているから、暖かくなっている。
私の目の前を何組もカップルが通りすぎる。みんな幸せそうな顔をしている。そう思う私は
ひがんでいるのだろうか。
「しずか。」
横から声をかけられる。横を向くと、当たり前の様に和哉が立っていた。シャツの上からパーカーを着た
カジュアルな格好。人なつこそうな顔。和哉はいまさらだけどモテるんだろうか、とかそんな事を考えてしまった。
「かずや。」
「早いな。待った?」
和哉はふう、と白い息を吐き出すとさみい、と呟いた。
和哉は私が働いている場所に出入りしていた、宅配業者の人間で、私より2つ年下である。年下だけど、仕事に
対して真面目で、頼りがいのある人だと思った。
「しずか?」
「え?」
「どうしたの?ぼーっとして。」
和哉は不思議そうな顔をして1人で歩き出す。私は後を追わない。数歩行ったところで和哉がそれに気づき、
後ろを振り返る。
「早く行こうよ。寒い。」
「待って。」
「え?」
和哉がまたこちらに近づいてくる。
「何?映画館だろ。」
「誰?」
「え?」
「昨日、誰といたの?」
和哉の顔に緊張が走ったのがすぐにわかった。
私たちのいる場所は公園のような開けた場所になっていて、その隅にいたせいか、私たちのまわりは人があまり
いなかった。こんな話、カフェだのレストランだの、人のいるところでしたくなかった。かといって和哉の部屋で
するのなんて絶対に嫌だ。
「何?昨日って?」
「私、昨日ね、たまたま和哉の家に行ったの。」
「・・・・・・・。」
「誰かと一緒だったよね?」
自分の声がどんどん震えていくのがわかる。事実を突きつけながらも、否定してほしいと全力で願っている
自分がいた。
「ごめん。」
和哉は下を向いて呟く。
「え。」
「ごめん。」
認めた?認めた。認めた。そうなんだ。やっぱり。そうなんだ。
何かが、足下で音を立てて崩れていく感覚がした。
「お前、なかなか会えなくてさ。」
和哉がはあ、と息を漏らしながら顔を上げる。悪い事をした子どもが一生懸命いい訳を探しているときの顔だ。
「休み全然合わないし、なんかもうあんまり意味ないかな、と思って。」
え、と小さく声が漏れる。私が悪いの?少なくともそう聞こえる。
「だから、浮気したの?」
自分でも驚くくらい鋭い声がした。和哉ははあっとため息をつく。
「浮気っていうかあれは、ただの友達だよ。」
「は?」
「ただうちで映画を見てただけ。」
「え?」
嘘か本当かわからない。ただ、わかったのは、この男が思ったよりもしたたかな男だということ。この言い方に
前科もある様な印象をうけた。
「何も無かったって言いたいの?」
「無かったていうか、別にただの友達ってことだよ。」
「答えになってないよ。」
「はあ。もう、俺はお前が一番好きだよ。それじゃ駄目なの?」
目眩がした。会話が成立していない。ただ、お前が一番という言葉が尚も私の心を掴む。
ふりはらえ、ふりはらえ、私!
あの声がしたのはそんな時だ。
「いやあ、お待たせー!静ちゃん。」
その通る声に私も和哉もビクッと肩を震わせた。肩に体重がかかり、誰かの手が添えられたと気づいた。
「たっ、たいらさん!」
横を振り向くと昨日バーで出会った男が立っていた。昨日は暗がりで気にならなかったが、明るい太陽に
照らされた髪は思ったより茶色く、あらためて整った顔だと思った。視線のかなり上に顔がある。
180cmはあるのだろう。
私の肩を当然の様に抱いた平さんは私に微笑みかけた後、和哉を一瞥する。和哉は訳が分からないという感じ
で私たちを交互に見る。
「ごめんね、待たせて。じゃあ行こうか。」
そう言って、私の体を180度回転させる。
「えっあっ。」
「待てよ!」
和哉が平さんの腕を掴む。掴んだ瞬間に乾いた音がして、思い切り平さんは和哉の手をはじいた。
「さわるなよ。」
聞いた事のない平さんの低い声。その目は確かに和哉を睨んでいた。正直、カジュアルな格好をした、そんなに
身長の高くない和哉と、スーツ姿の平さんでは、まさに「大人と子ども」という感じだ。
「後は?何か言う事ある?しずかちゃん。」
平さんが私に笑いかける。昨日とおなじ平さんだ。
「えっと、あの。」
たくさんある。バカとかアホとか。そうじゃない。そうじゃなくて。
私はポケットから鍵を取り出し、それを思い切り和哉に投げつけた。
「いたっ。」
和哉の腹部に命中し、平さんがはは、と乾いた声で笑う。
「ばいばい、こんな別れ方で残念だけど、今までありがとう。」
最後まで言うと私は歩き出した。和哉の開いた口からもうなにも聞きたくなかったから。
その場所からしばらく歩いたところに駅がある。
そこまで来て、ようやくしゃがみ込んだ。息を整えてから後ろを振り向くと、平さんが息一つ切らさず、
にやりと笑って立っていた。
「お疲れさま。」
to be continued
Bar Raincheck
シリーズ5話目。