14時まで

衣擦れの音が聞こえ、顔にかかった髪がゆっくりと払われた。湿った温かさを感じた直後、頬に柔らかい唇の感触がした。輪郭を確かめるように下へ下へと肌の表面を唇が滑る。口角のあたりで動きが止まり、二人の間に隙間が空いた。しかし、一呼吸も置かないうちに隙間は優しくぴったりと埋まり、私たちは同じ空気を吸った。そこでようやく身じろぎをし、眠りから覚醒したことを相手に伝えた。瞼を持ち上げると、薄暗がりの中ぼんやりと彼の瞳が私を捕らえていた。耳に浸み渡るほどの無音の中、私たちはお互いの目に大きな暗い穴が空いてしまうのではないかと心配になるくらい長いこと見つめ合っていた。ぬるりとしたよく知ったものが口の中に入ってきた。深く浅く、ゆるく素早く、リズミカルに温もりを楽しんだ。当然のごとく服の下にある身体を撫でられ、形だけの反抗が終わると、手は股の間を探った。ひとしきりその行為は続き、私がつい声を漏らすと手はぴたっと止まり引いていった。不安になり彼の表情を伺うと、優しく抱き寄せられ、赤ちゃんをあやすように髪を梳かれた。それに従い目を閉じて、また眠りに入ろうと深く息を吸った。

大学に入ってすぐの頃、私は初めて男に抱かれた。やたらと連絡がくるなと訝しんでいたらそういうことだった。容姿が好みだっただけに断る理由もなく、決定打に欠ける関係を数ヶ月間続けていた。その男はアーモンド型の形の良い綺麗な眼をしていた。知らぬ間に恋に落ち告白したが、結局はふられてしまった。今まで失恋はおろか恋すらまともにしたことがなかった私は、人に受け入れてもらえないという事実にひどくショックを受けた。手に入らないものにただ意地になっていただけかもしれないが、それは私にとって初めての恋と呼んでもよさそうな経験だった。あの晩、初めて恋の痛みというものを知った。まるで肋骨の隙間から胃のあたりに大量のオタマジャクシが入ってきたようで、息ができないほど胸がむかむかと痛んだ。オタマジャクシが変態するために私の内臓をきれいに平らげてムクムクと膨張してるのではないかと思った。その痛みは一晩では収まらず、新しい恋を見つけるまでしつこく私の中に居座り続けた。

「るい。続き、してほしい?」
数分後、待ちくたびれた彼の声に顔を上げた。
「どうなのかな、わからない。あなたはしたいの?」
お願いさせたくて焦らしたのだと気付いたが、主導権を握りたがる彼に仕返ししたくなり意地悪を言った。彼はしばらく沈黙して様子を見ていたが、私がこれ以上自分からは求めないとわかったのか無言で行為を再開した。奥に押し付けられる感覚が久しい。身体中を支配し始めた熱に酔いしれた。足が痺れて、芯から熱が溢れる。私たちはその行為には似つかわしくないくらい悪戯っぽい顔で終始見つめ合った。
そんな中ふと頭が冷め目の前の今繋がっている男を意識した。突然私は無防備な状態でポツンといるような感覚におちいった。私の胸と彼の腹の間には空気の層によって隔てられた、遠い遠い距離があった。その層は私たちの生い立ちの違いだとか、今まで誰とどんなセックスをしてきたかとか、コーヒーにフレッシュと砂糖をいれるか、トマトは嫌いかといった細かい生活習慣・嗜好の違いなどで構成されていた。それはついこの前まで決して交わることがなかったそれぞれが生きてきた時間の中の色々なものが圧縮されて作られた一種のブラックホールであり、何があっても侵してはいけない領域だった。二人はまったくの他人で、ひとつになろうとすれば余計に異質な切り離された存在であることを実感するのだ。不思議と私はこの諦めに似た切なさに居心地の良さを感じた。

新しい恋はいつも近くに寄り添ってひたすらに人肌の温ぬくもりをくれた。名前を呼べば必ず返事が返ってきた。笑いかければ彼も目を細めて笑った。もちろん私もそうした。求めて求められることが当たり前で、その煩わしさは二人でいることをより実感させてくれた。
「あなたのことを全て知った気でいたいの。なんでもかんでも教えてって言ってるわけじゃないのよ。ただ私があなたに関して知らないことがあるってことを少しでも悟らせないでほしいの。たとえ気付いても私ちゃんと知らんぷりするから。だってそういうのってお互いへの愛情だと思うし、マナーでしょ?」そう言った私に、彼は困ったようなちょっと嬉しそうな顔をした。それを見て私も照れくさくなって笑った。

彼が私の上から退くと熱がゆっくりと引いていった。息を整えていると、彼がティッシュで後処理をしてくれた。自分の体勢と彼の視線に居た堪れなくなり下着を探して服を整えた。喉が乾いたのでテーブルの上にあったペットボトルの緑茶を飲み干し、二人で布団に入った。いつものように顎の下に顔を埋めた。太ももの隙間に脚が入ってきて、お互いがしっくりくる場所を探して足を絡め合う。そうしていると自室のスピーカーで『Rummer has it』を聴きながらひとりぼっちでゲームをしている気分になった。実際流れているのは流行の男性歌手が歌ったバラードやポップスが何曲か入っているプレイリストだったし、家具の配置も私の部屋とはまるで違う彼らしい機能的なものだったが、そう思わずにはいられないほどその空間は私にとって無に近い状態だった。私の注意を引く刺激物は何もなく、彼の重さ、息苦しさだけを身体いっぱいに受け止めた。

彼の隣はすでに埋まっていた。それは付き合う前から分かっていたことなのでどうしようもなかった。私も彼も大きな変化は望んでいなかった。彼にとってパートナーは見つめ合うというより、背中を合わせて支え合うような自身の一部だった。一方で私は彼の全てを受け入れて一緒に人生を歩んでいく気はなかった。私たちにはあらかじめ決められた線引きがあり何をどうしたってそれを超えることは不可能だった。そのおかげで二人は、近付きすぎて衝突することもなかったし、離れすぎてすれ違うこともなかった。終わったら穴が空くのではなく、なかったことになるだけの手頃なものだった。お互いがお互いの人生に存在していなかった。そのためか、彼はひどく私に優しかった。
「私って二番目なの?」
「るいのことは一番好きだよ」
それはある意味では真実だったが、私が知りたくて質問した内容ではなかった。

寝がえりをうって仰向けになると彼の手が胸にのびてきて揉んだり先を抓ったりして手遊びを始めた。無反応でいるのもどうかと思ったため、身を捩ったり手を押し退けたりしたが、簡単に押さえ付けられたので諦めて好きにさせておくことにした。私は寝たかったが、彼がはっきりと覚醒していることもわかっていた。彼は意味のなさそうな質問をしては、私はそれに最低限の言葉で答え、そのあと同じことを訊き返すということを何回か繰り返した。
「誕生日はいつ?」
「六月だったかな」
「何日?」
「二十一」はじめは口ごもり、仕方なしに返事をした。その時はなぜか私の情報が彼に知られることに抵抗を感じていた。「そっちは?」と流れ作業のように言葉を発した。
「秘密。言わない」彼は訊き返されたことに少し驚いているようだった。
「なんでそんなどうでもいいこと秘密にするのよ」苛立ちが声に表れていたかもしれない。
「なら今思い出したんだけど、私の誕生日二十一日以外の日だったわ。いつかは忘れたけど」そう言って冗談っぽく誤魔化して、私はそっぽを向いた。
彼には人に訊くくせに自分のことは隠したがるという奇妙な習性があった。それは気まぐれで言っているだけかもしれないし、そんなふうに返すのが彼の会話のスタンダードな方法なのかもしれない。しかし私には何か具体的な理由があるように思えて仕方がなかった。特にふみこんだことでもなく隠す必要もなさそうな情報を教えてくれないのは、私のことをよく思っていないからだ、そんなことすら知る価値のない間柄だと言われているように感じてしまうのだ。私は彼との交際の中でこれだけが許容しがたい嫌な部分だった。
「嫌なんだよ。だってさどこからかこの情報が漏れたとして、たとえば挨拶もするかどうかあやしいクラスメートにだよ。勝手にウィキペディアで四月二十三日って検索されて、『君ってシャーリー=テンプルとか阿部サダヲと同じ誕生日なんだね』っていきなり話しかけられたら気持ち悪いだろう? だから個人情報は教えたくないんだ。どんな悪用のされ方するかわからないからね」
私はほっとしたような胸のつっかえが取れそうで取れないような複雑な気持ちになり、できるだけ楽しそうに声を出して笑い寝返りをうった。
「どの先生のゼミに入ったの?」彼はまたお互いに関係ありそうで全く関係ないことを聞いてきた。私は少し間を空けて答え、いつものごとく訊き返した。そして彼もまたいつものごとく秘密だ、と言った。
「嫌なんだよ」理由を聞くと、一言そう答えた。私はもう深く追求する気にはなれなかったし、そうしたとしても彼は答えてくれない気がした。相槌すら返さないことでこの会話を終わらせた。
私は空っぽになり、自分が空っぽであることに気付いた。自分を支えるためにしてきた色々なことが必要ないように思えてきた。しかし、私はこの先ずっとその支えなしには立てないかもしれなかった。ありもしない何かたいそうなものが崩れてしまうのではないかと、無意味な不安に囚われて必死に身を削る自分が目に浮かんだ。しょうがないのだ。だれかの力は借りれても、だれかの手を取ることは想像以上に難しい。
寝静まりかけると私は頃合いを見計らってゆっくりと腕の中から抜け出した。ドアノブに手をかけ少し振り返ると、彼と目が合った。アーモンド型の綺麗な目が眠たげに閉じ、彼は何も言わず布団の中心に移動した。それを見て部屋を後にした。
十三時四十五分、彼との約束の時間に遅れてしまわないかということだけが気がかりだった。

14時まで

うまく伝わったかどうか不安ですが、一文一文に気持ちを込めました。わざと名前を使わず『彼』という表現を多用しているので読みづらいかもしれません。

14時まで

正午過ぎ、カーテンを閉め切りベッドの上で二人は寄り添う。まだ恋愛といわれているものに手を出し始めたばかりのるいは、甘くもなく苦くもないが少し塩気のある経験をゆっくりと噛みしめていた。

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更新日
登録日
2015-02-17

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