浮いている男
わたしの大学時代の友人であるTはいつも浮いていた。気持ちが浮いているだとか、仲間の中で浮いているだとか、そういったことではなく、常に体が地面から離れていた。本人曰く「物心がついた時には浮いていた」そうで、彼が両親に尋ねたところ、生まれた時は浮いていなかったが立って歩くようになった頃にはもうわずかに浮いていたらしい。また、周囲でも浮いているのはTだけで、両親もふたつ歳下の妹も、親戚の誰もが浮いていないとのことだった。
大学に入学して初めてTを見た時は驚いたが、浮いていることを除けば彼はまったく普通の男で、強いて特徴を挙げるならば明るくとても優しい男だったので、好奇心で近づいたものがいつの間にか友人になっていた。もちろん、最初はTに根掘り葉掘り尋ねたり、彼には申し訳ないが、様々な実験をしてみたりしたものだ。大概の実験は、Tが小学生から高校生に至るまでの間にやりつくされていたようだったが、彼は嫌な顔もせずに我々の実験に付き合ってくれた。
「おれもよくわからないが、これのおかげで人が集まるから楽しい」とTは言っていたが、そんなに簡単な一言で済ませられるものだろうか。
詳しくは聞いていないが、幼少時にはどこかの大学だか研究施設だかで、いろいろと研究をされたそうだが、結局は原因不明のまま研究は放棄されたらしい。
Tに関してわかっていることは、まず、年々浮遊している高度が増していることだ。大学時代のTは、地面から十センチメートルほど浮いていたが、小学生の頃はその半分ほど、幼児の頃などは周囲の大人の多くが気づかない程度にしか浮いていなかったそうだ。単純に考えると、二年で約一センチメートルの上昇となるが、上昇したからといって何かが変わるわけでもなく、空高く昇ってしまうわけでもない。百歳まで生きても五十センチメートルだ。
また、これがおもしろいところだが、Tには浮いているというよりも見えない足がそこにあるといった感覚があるようで、わたしを含む友人たちでの実験の結果、それは間違いではないと思われた。本当に浮いているのならば摩擦がないだろう。それならば、Tを横から押したら、スライド移動していくのではないか。こう考えた友人が、Tに断った上で彼を左側から押してみたが、彼は右足を軽く踏ん張っただけでその体が移動することはなかった。
わたしはTに自分の足を軽く踏ませてみたが、そこには何も無いはずなのに、靴で踏まれるような感覚があった。しかしそこに何も無いのは間違いがなかった。Tの足と地面の間にあるその空間に手を突っ込んでみても何の感触もなく、ただ手が空を切るだけだったのだから。
興味深いことはまだたくさんあった。Tの“見えない足”は、地面やわたしの足を踏むことはできても、靴や靴下は受け付けないらしい。大学では足の見える部分に靴を履いていたし、人に家にあがる際はその靴を脱いでいた。
「雨でも靴が濡れないから便利だよ」とTは笑っていたものだ。
珍しく雪の積もった日は、Tの足跡がしっかりと雪についていた。残された足跡は、Tの履いている靴の底の模様をしており、彼が言うには裸足で歩いたら裸足の足跡が残るらしい。“見えない足”には感覚がないそうで、雪が冷たいということはないらしかったが、こちらが見ていられないので、雪の上で裸足になってみせようとするTをわたしたちは慌てて止めた。
この頃にはわかっていたのだが、“見えない足”に側面から触ることはできないが、底面はわたしの足を踏んだり雪に足跡を残したりしたように、何かに触れることができるようだった。Tに足を上げてもらえば、手で“見えない足”の底面に触ることもできた。
また、Tが言うには足の裏を地面につけたことは一度もないらしい。わたしは友人たちとTの肩を上から強く押してみたことがあるが、彼は痛がるだけで足と地面の距離は少しも縮まることがなかった。Tに体重が三桁におよぶ巨漢を背負わせたこともあった。わたしは、そのまま十数歩進んだTの足元を見ていたが、やはり足は地面から十センチメートルほど浮いたままだった。
しかし、わたしたちがTの足の裏、それは“見える方の足”だが、そこに触ることは簡単にできた。試しにくすぐってやったこともあるが、足の感触はわたしたちと同じそれであったし、Tの反応もまったく普通だった。
もちろん、特殊な機械や体の器官などは見当たらない。未知の力が働いているとしか思えなかったし、それがTの言う“見えない足”なのだろう。
やがてそれは、T本人が「最近足に構ってくれない」などと言い出すほどに、わたしたちにとっても当たり前のものになり、大学生活も二年目になった頃には、新入生が奇異なものを見る目をTに向ける以外には、他の学生たちと変わらない生活をTもわたしたちも送っていた。
大学生活の中でTはよく笑っていた。少し特殊な環境にありながらも、もしかしたらその環境にあるからかもしれないが、明るくてどこか飄々としていて柔和な男だった。その性格や見た目の印象から、ふわりふわりとしているようだが、意外にも足が早くスポーツは得意だった。しかし、やはりボールを蹴ることが難しいようで、サッカーは苦手だとTは語っていた。
中学生や高校生の頃にはバスケットボールをしていたそうで、同年代の男の中では標準程度の体格ながら浮いているという利点もあり、自称名選手だったが、その浮いていることに対して物言いがついたことがあるらしく、公式戦にはあまり出られなかったそうだ。その話を聞いた時の「浮いている人間に対してのルールはないよなあ」というわたしの妙な慰めの言葉に、Tは「生まれたのが早すぎた」と白々しく嘆いてみせた。彼は自分が浮いていることについて、進化を先取りした突然変異だと言っていたが、どのような環境に適応して進化をしたら人間が浮くというのだろうか。
Tにこどもができたら“見えない足”が遺伝するかどうかを話し合ったこともある。話し合ったといっても、文学部のわたしたちは遺伝というものについてまったくの門外漢であり、冗談半分で話していた。Tは、女の子だったら遺伝して欲しくないが男の子だったら遺伝して欲しいそうで、「男ならこの足の方が絶対楽しい」と力強く言っていたものだ。こどもを作る相手がいないだろう、と誰かが言うと「浮いているのに浮いた話はひとつもないね」とTはおどけてみせた。
Tは決して女にもてない男ではなかった。どちらかというといい男の部類に入る顔をしていたし、女の前で極度に態度が変わってしまうようなこともなく、何人か仲のいい女子学生もいた。しかし、確かに大学時代のTには浮いた話がひとつもなかったように思う。
そのTと会うのは、約八年ぶりだろうか。大学を卒業してからも何度か顔を合わせていたが、知らず知らずに疎遠になってしまった。大学時代の友人のひとりが街で偶然Tに出会ったらしく、久しぶりに酒でも飲もうということで、わたしにも声がかかったのだった。
わたしの自宅の最寄り駅から電車で約三十分ほどの郊外の駅、わたしに声をかけた友人もTもこの近辺に住んでいるらしかった。駅を出ると商業ビルが並び、思ったよりも栄えた街だった。その商業ビルのひとつ、居酒屋が数店舗入っているビルの下にいくと、先にふたりの友人が待っていた。ひとりはわたしを誘った友人だ。彼がTには場所を伝えてあるというので、わたしたちは再会の挨拶を簡単に済ませて先に居酒屋に入り、ビールを三つ注文した。
今は何をしているのか、などと近況を話していると、注文したビールがわたしたちの席に届く前にTが到着した。
「久しぶり」と笑顔を浮かべるT。
大学を卒業してから約十年。計算通りならば、あの頃より五センチメートルほど高く浮いているのだろうと思っていたが、彼は学生時代と変わらない高さに浮いていた。
そして、Tの隣にはわたしたちと同年代の女がいて、その女の手には、三、四歳の女の子の手が握られていた。
「悪いな。連れてきちゃったよ。嫁と娘です」Tは笑顔のままそう言った。
そうだろうとは思ったが、いつの間に結婚していたのだ。
「久しぶり。覚えているかな」とTの妻がわたしたちに小さく手を振り、わたしはようやく彼女が学生時代の友人のひとりであることがわかった。
わたしたちが先に注文したビールを持ってきた店員にT夫妻の酒と娘のジュースを注文し、いつ結婚したのか仕事は何をしているのか、とわたしはTに質問を重ねた。T夫妻は大学を卒業してからもずっと縁があり、たまにふたりで会うような間柄だったそうだ。それがいつの間にか恋仲になり、五年ほど前に結婚したらしい。Tの娘は三歳だった。
「女の子だったら遺伝して欲しくないと言っていたが、遺伝はしなかったようだな」わたしはその娘を見ながらTに言った。
「ああ、よかったよ。女の子は浮かない方がかわいいだろう」と言ってTは娘の頭を撫でた。
「まあな。Tはもっと高く浮いていると思ったが、変わらないな」
「さすがに成長期も終わったしな」
成長期。確かに彼はそう言った。年々高くなっていると聞いていたが、Tの“見えない足”は成長をしていただけだったのか。未知の力も「成長」というありきたりな現象、言葉が適用されるものだったのか。
Tは今、食品メーカーに営業として勤めているという。わたしたちと同じように働き、わたしも未経験の結婚をして、こどもを育てている。
わたしの大学時代の友人であるTは、ただ浮いているというだけの普通の男だ。
浮いている男