退屈な天使たち
I そんな幾何学模様を形成しつつある壁を目で追っていた
コンクリートが剥き出しになった壁には、そこかしこに大小様々なひび割れが走っていた。壁の上部を見上げ適当に目に付いた亀裂をアミダクジのように下方へ辿ると、その先端へ行き着くまでに八本の新たな亀裂を発見した。これらの亀裂はこれからも進行し、いつかは一本の複雑な模様に変貌を遂げるだろう。
私は階段を一歩一歩確実に上がりながら、そんな幾何学模様を形成しつつある壁を目で追っていた。
II それはきっとこの扉の向こう側が綿菓子の世界だからだ
無作為に選択したビルの中は、その外観と同様に老朽化が激しかった。私の通う学校と同じリノリウムの床には綿埃が薄積しており、階段を一歩踏みしめる度にそれらは逃げるように浮動した。
時折頭上から、キラキラと輝く小さな砂粒が落ちてきた。私は一瞬だけその様を美麗に感じたが、それが単なる塵だとわかるや否や興味を失った。髪や制服にとまった塵を丹念に祓いつつ、壁の亀裂が形成する幾何学模様だけを目で追うことにした。
何時からか私自身の内部にも似たような亀裂が生まれていた。その発生の具体的な起因はわからないが、無数の亀裂が生じていることだけは確かだった。これが病なのか、それとも生育における必然的な現象なのかは私にはわからないが、ただ一つだけ断言できる事と言えば、ここが今の私に最も相応しい場所だという事だった。そしてその確信は階を増す毎に強まった。
私はこれから、一七年の凡俗な歴史を塗り替えるつもりでいる。或いはそれが文字や数式なのであれば、書き換えると表現すべきだろうか? 歴史の構築には気の遠くなるような時間を要するが、変更作業は僅か数秒で完了する。その事に気付くまでに、一七年も掛かってしまったのだ。
目で追っていた亀裂の果てに、鉄製の扉が見えた。それはまるで、行き止まりに迷い込んでしまい立ち竦む老人のように見窄らしかった。表面を覆っているブルーのペンキが無惨に剥脱し、そこかしこに錆び付いた地肌を見せていたからだ。
扉上部の小さな窓には擦り潰した綿菓子のような埃がこびり付いていたが、指が汚れてしまうのを承知でそれを拭った。
すると、ぼんやりと殺風景な風景が現れた。そしてそれは悲しい気分の時に見る風景に似ていた。
歪んだ世界。海底のようにゆっくりと揺らめいているようにも見えるが、陽炎のように小刻みに震えているようにも見える。霞んでいる部分と鮮明な部分の混在。それはきっと曇った窓ガラスのせいではなく、この扉の向こう側が綿菓子の世界だからだ。
III 水の中からあの空を見上げると
壊れかけたボイラーの音が聞こえた。
屋上に出た私は、瞬間的にこのビルのボイラー室らしき場所を探した。しかし、その音が遠方から聞こえてきているという事実に気付き、照れ隠し的な意味合いを込めてそのまま辺りを見回す振りをした。私以外に誰もいないこの場所で、私は一人芝居でもしているような気分になりおかしくなった。
どうせ芝居ならば、BGMも欲しいものだ。私はボイラーの音に規則性を探し始めた。三拍子だろうか? それとも四拍子だろうか? シュトックハウゼンの『ドクターK六重奏』という曲を思い出した。確信的認識はやがて不安に晒され、幾重にも重なった不協和音となる。そして巨大な固まりへと変貌し、ビルの頂点へ鎮座するのだ。
地上からビルを見上げた時は高さこそあれさほど大きくは感じなかったが、屋上へ出てみると自分が子猫になってしまったのではないかと錯覚するくらい広壮な印象を受けた。その印象は、遮蔽物がまったく存在していない事実に起因しているのだろう。
点在する変色した空き缶や紙切れ。私を遠巻きに包囲している錆びた鉄柵。その鉄柵の向こうには、このビルと似たような生死不明のビルが見える。右を見ても、左を見ても、前も、後ろも同じ光景。それらが、私の平衡感覚を阻害する。
上を見上げると、のし掛かるような曇り空が私を威圧した。もしも雨が降り出したら、ここはプールになるのではないだろうか? こんな広いプールを独占できるのならば、歴史の塗り替えは延期しても構わない。しかし平衡感覚の欠如が著しい私が、遊泳中に迷子になってしまうという危険性も十分考えられる。私は一瞬、この巨大な水の世界に閉じ込められた状況を想像した。水の中からあの空を見上げると、やはり綿菓子のように見えるのだろうか?
突然一陣の風が吹いた。私は情景を振り払いつつ若干前屈みになり、両手で髪と制服のスカートを押さえ、その悪戯好きな風をかわした。風は私を翻弄し損ねた腹いせに、空き缶や新聞紙を蹴散らし去って行った。
「何をしているの?」
私が髪や制服についた砂埃を祓っていると、どこからか声がした。透き通るような細い声だったがどこか芯の強さが感じられ、一瞬母親に悪戯を窘められた時の事を思い出した。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
辺りを見回してみると、向かいのビルの屋上に私と同じ制服を着た少女が立っていた。髪は肩にかかる寸前で綺麗に切り揃えられており、栗色のそれは曇り空の下では妙に鮮やかに見えた。
まさかこんな場所に、私以外の誰かがいるとは思わなかった。しかも同じ学校の生徒が。彼女も歴史の塗り替えに訪れたのだろうか? しばらく動揺を隠せずに少女を凝視していたが、少女は微動だにしなかった。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
少女は、先程と何ら変わりのない口調で繰り返した。私は可能な限り間近で少女を確認するために、鉄柵まで近づく事にした。どの道歴史を塗り替えるためには、あの鉄柵を乗り越えなければならないのだから。
IV 少女はペロペロとソフトクリームを舐めながら
私たちは、ボンヤリと信号を待つ迷い子のように向かい合い立っていた。少女はガムを噛んでおり、時折風船を作ってはパチンと弾けさせ、その度に口の周りに張り付いたガムを舌先で器用に剥がしていた。
このビルと向かいのビルは細い路地を挟んでいるだけなので、私と少女の距離は二メートルくらいに思えた。男性ならば飛び移る事が出来そうだ。
少女の顔はハッキリと見て取れたが、見覚えはなかった。ウサギのようにあどけない顔を心持ち傾げ、細い顎でガムを噛み続けていた。声の印象からは上級生を想定していたが、多分下級生だろう。
「先程あなたが取っていた行動の意味は?」
間近で聞いた少女の声は、確かに芯の強さが感じられたが、私は少女の存在が未だに信じられないでいた。
「あなたは、自らの歴史を塗り替えようとしているわね? それなのに、服や髪についた埃を気にしていた」
少女は見透かしたように目を細め、再び風船を作った。確かに矛盾している。これから歴史を塗り替えようとする人間が、身なりなど気にするはずがない。私は心の中で苦笑した。
「迷夢は捨象した方が良いということよ」
外見からは似つかわしくない言葉で言い捨てると、少女は目の前の柵に飛びついた。そして片足を柵の上に掛け、軽々と乗り越えてしまった。
「さあ、あなたも柵を乗り越えるのよ」
三十センチほどの出っ張りの上に立った少女は、息を切らすわけでもなく言った。私は本来の目的を他者に促されたことに少々の苛立ちを感じたが、世界の秩序は神が予め定めた結果だというライプニッツの唱えを暗唱し、柵に手をかけた。
するとまた突風が私を襲った。目に入った砂埃のせいで瞬きを何度も強制させられた。そして眼孔内の異物を排除するために、一気に涙腺がゆるみ出した。
「あなたの行動は無駄ばかりね」
目の前の少女は、壊れたミルク飲み人形のように何度も瞬きを繰り返す私を見てケラケラと笑い、パチンと風船を弾けさせた。
「早く行動を開始しないと、日が暮れてしまうわよ」
実際、空は相変わらず曇っていたが、その重苦しさは微妙に陰鬱さを増していた。しかし塗り替え作業をするにあたって、例え真夜中であろうが雨が降っていようが天候は全く関係の無い話しだ。
「ちょっと待って」
再び私が鉄柵に手をかけると、背後で声がした。対話の対象は前方ばかりと思っていた私は、不意を突かれて振り向いた。
いつからそこに居たのだろうか? すぐ側にソフトクリームを手に持った少女が佇んでいた。墨を塗り込んだかの様な黒髪は真っ直ぐに腰まで伸びており、目鼻立ちは小さく日本人形を連想させた。向かいのビルの少女と同じ制服を着ていたが、これは即ち私と同じ高校に通っているということを意味する。しかし、彼女の顔も見覚えがなかった。
「まるでお母さんに無理矢理手を引かれる子供みたいね。遅くまで外で遊んでいたものだから、叱られたのかしら? それとも欲しいオモチャを買って貰えなかったの?」
少女はペロペロとソフトクリームを舐めながら、子供に接するような優麗な口調で言った。しかし私は門限など破った事はないし、欲しい物を買って貰えなかったからと言って母親を煩わせた事もない。この少女の云わんとすることがわからなかった。
「あなたのその格好よ。両手で柵を掴んで、上半身だけこちらを向いているでしょう? だから、だだをこねる子供に見えたの」
少女は私の疑問を察したのか、クスりと笑い一歩私へと近づいた。ほんの数十センチ距離が縮まっただけなのに、私の心の中にはこの曇った空と同じ威圧感が生まれた。
「歴史の改竄なんて、馬鹿馬鹿しい事よ。止めておいた方が良いわ」
少女の顔からは微妙に笑みが消失したが、ソフトクリームは舐め続けていた。桜色の唇にうっすらとクリームが付いていた。
「改竄とは人聞きの悪い呼び方ね。この子は、自分の歴史を自ら変更しようとしているのよ? 何の問題もないじゃない」
向かいのビルの少女が風船を作りながら言った。風船は直径十センチまで膨らみ、パチンと弾け少女の口を塞いだ。
「いいえ、改竄以外の何物でもないわ。そんな事をしてはだめ」
背後の少女は、向かいのビルの少女を敢えて無視するかのように私に言った。
「だから、改竄という言い方はやめなさいよ。これは神聖な儀式なんだから」
口に張り付いたガムを剥がしながら、向かいのビルの少女はそう言った。しかし、神聖な儀式という表現は間違っている。これは清らかでもなければ、神懸かり的な行為でもない。単なる歴史の塗り替え作業だ。それは時計屋の主が、壊れた腕時計を修理するのと何ら変わりのないことなのだ。
「神聖な儀式ですって? 今時そんな事が本当に有り得るとでも思っているの? それはあなたの盲信に過ぎないわ」
背後の少女が少しだけ語気を強めると、向かいのビルの少女は楽しそうにケラケラと笑い出した。
「あなたも改竄という言葉を使うくらいだから、満更信じていないわけでもないのでしょう? 原書なくして改竄は有り得ないもの」
「それは……」
私は二人の少女を交互に見比べた。突然現れたこの二人は、いったい何を論じているのだろうか? いつだって世界は私の周りで、私とは無関係に騒いでいるだけ。この二人はその象徴的存在だ。
「とにかく……」
向かいのビルの少女は、一端風船を作るために言葉を切り、そして私に向かってこう言った。
「あなたが試してみたら?」
V それは胎児が初めてこの世界を体感した時の悲運の声に似ていた
私は他人に促されるまでもなく、その行為に憧れている。そして確信もしている。だから試すまでもない事なのだ。
さようなら、そしてこんにちは。確かそんな曲があったはずだが、この二人は知っているだろうか? 問いかけたら教えてくれるだろうか?
「でも、僅か一七年間の歴史なんて、わざわざ塗り替える必要があるのかしら?」
背後の少女がアイスクリームを舐めながら言った。溶け出したアイスクリームが、自分の手を汚していることに気付いているのだろうか?
「気に入らなければ塗り替えるべきだわ。そう、何度でも。さあ、こっちへ来て」
一瞬、私の鉄柵を持つ手が緩んだが、向かいのビルの少女の言葉で再び力がこもった。手を緩めたり握りしめたりの反復動作で、剥がれ掛かった鉄柵のペンキが大量に指の隙間に入り込んだ。その結果、私の両手は赤茶色に変色しかかっていた。この鉄柵も私と同様に塗り直した方が良いようだ。
「あ、指がクリームでベトベト……」
背後の少女は、ようやく自分の手元に気付いたようだ。
「コーンをかじり過ぎたのね。何事も計画性を以て行動に移さないと、そういう結果になるのよ。ねえ?」
向かいのビルの少女は、茶々を入れつつ私に同意を求めてきた。これは私に対する皮肉だろうか? 無作為にビルを選択したとはいえ、計画ならば綿密に企てた。唯一の誤算が、この二人の少女たちだった。
「あなたの方こそ、口の回りがガムでベタベタじゃないの」
「自分を棚に上げるのは良くないわ。あなたの口の回りもクリームだらけじゃない」
「指を舐めると、お母さんによく叱られたわ」
私は授業中に指名されて答えに詰まった時のように俯き、会話が落ち着くのを待った。
「あなたの髪の色は校則に反します」
「あなたこそ、髪が長すぎるんじゃないかしら?」
「ガムの噛み方もわからないあなたに言われたくないわ」
「そういう事は手を洗ってから言ってほしいわね」
「あなたこそ口の回りにガムがついているわよ」
「ほら、そう言っている間にクリームが……」
「本当に口うるさい人ね」
「あなたこそ」
「そっくりそのままあなたに返すわ」
私は二人のやり取りを聞いている内に、偏頭痛に悩まされ始めていた。いつだって世界は私の周りで、私とは無関係に騒いでいるだけ。この二人はその象徴的存在だ。
「とにかく、早くこっちへおいでよ」
「だめ、行ってはだめ」
「早く。もうすぐ日が暮れちゃう」
「天候は関係ないわ。大切なのは……」
「綿菓子の世界を見せてあげる」
「そんな世界は存在しない」
「あなたが悲しい時に見る風景よ」
「悲しいのはこの世界自体」
「さあ、こっちへ……」
「たかが一七年の歴史なんて……」
「悲しい風景はもう見たくないでしょう?」
「まるでだだをこねる子供みたい……」
「そう、これは神聖な儀式よ……」
「私には叱られた子供にしか見えない……」
「あなたの行動は無駄ばかりね」
キリキリと頭が締め付けられる。屈強のレスラーに、両の拳でこめかみを圧迫されている様な気分だ。偏頭痛は早回しの観測映像のように急速に上昇し、やがて頂点に達した。そして私は、四方のビルディングに反響するほどの大声で叫び出した。それは、胎児が初めてこの世界を体感した時の悲運の声に似ていた。
VI 夏の日に嗅いだ校庭の匂いを思い出しながら
私は鉄柵の前に、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。右脚に新聞紙が絡み付いていたので拾い上げたが、紙面は茶色く変色し何が書いてあるかはわからなかった。多分世界中の出来事が、このちっぽけな紙切れに刻まれているのだろう。しかしそれ等は、当事者とは無関係に時と共に忘れられ風化してしまう。風化を見届けている当事者自身は、まるで慢性健忘症患者ばかり診察する医師になったような気分だろう。茶色い紙切れからは、そういった諦めにも似たやるせなさが伝わってきた。
我に返り周囲を見回すと、例の二人の少女はいなくなっていた。老朽化したビルの屋上はいつの間にか静寂に包まれていたが、遠くに聞こえるボイラーの音だけは相変わらずだった。
彼女達は一体何者だったのだろうか? 今度学校へ行ったら、一学年から三学年まで徹底的に捜索してみようと私は思った。意外と同じクラスなのかもしれない。そう思うと、微かに笑みがこぼれた。しかし彼女たちとは、例え百年間同じ学校に通ったとしても気が合いそうにもなかった。
ふと背後でカラカラと音がしたので振り向いてみると、少女が食べ残したアイスクリームのコーンが転がっていた。私はそれを拾い上げ、砂埃が付着していないことを確認し恐る恐るかじってみた。甘いクリームの味がした。そして風に乗り損ない私に捕らえられたコーンには、私の小さな歯形が半円状についた。私はそれを見て型抜きされ損なったクッキーを連想し、また笑みをこぼした。
しばらくその甘美な味を堪能していると、雨が降ってきた。出かける前に見た天気予報は曇りだったので、気象予報庁の言うことは金輪際信じない事に決めた。間違いだらけの情報に翻弄されるのはもう懲り懲りだし、物事の本質を探る頭脳ゲームにも飽きてしまった。
砂混じりの地面には直径五ミリほどの黒い染みが付き始めていた。私は女神のように両手を広げながら空を仰ぎ見て、頬や瞼に当たる冷たい雫を体感した。そして夏の日に嗅いだ校庭の匂いを思い出しながら、ふやけかけているコーンを再びかじった。
私は一瞬、この屋上がプールに変貌するまで斑模様の地面を見届けようかと考えたが、直ぐさまその着想を振り払いゆっくりと立ち上がった。
既に制服は水を吸って、砂埃がこびり付いていた。しかし私は、可能な限り丁寧にそれを祓った。そして、額に張り付いた前髪を横に分け、勢いよく鉄柵を飛び越えた。
退屈な天使たち