青葉と青春
僕が二十一で大学生だった時、僕はある素敵な女の子と出会い、青春を過ごし、そうして彼女の死を体験した。そのころのことを今、僕はここに書いてみようと思う。これは、一種のレクイエムと言えるかもしれない。それはとても悲しい話だ。もしかしたら、これを読む人の内、何人かは途中で嫌になるかもしれない。それでもその話を僕は今、ここに書いてみようと思う。
彼女は、名前を今宮(いまみや)青葉(あおば)と言った。身長は160センチくらいで、短めの髪がよく似合う素敵な女の子だった。
そんな彼女と僕が知り合ったのは、新宿のとある公園でだった。その日は風が吹いていた。四月で春もたけなわの頃である。僕は、そこで、椅子に座り、絵を描いていた。ほんの気まぐれで始めたこの趣味は、僕に若々しい情熱を与えてくれた。僕が好んでいたのは、水彩画である。何かを背景にして空の青を塗るのが、僕はたまらなく好きだった。その日も僕は自分で買った椅子に座り、水彩画を描いていた。そこに彼女が近づいてきた。
「良い絵ですね」そう彼女は言った。突然のことで僕は驚いた。
「そうですか?たまにこうしてここで描いているんです」
そう言いながら、僕はどきどきした。いきなり女の人に話しかけられたせいもあるが、僕をどぎまぎさせたのは、彼女の容姿のせいだった。
彼女は美しい容姿をしていた。例えれば、六月に咲くアジサイのような美貌だった。
「学生さんですか?」そう言われ、僕は「K大学です」とだけ答えた。そういいながら僕は、絵に集中できなくなっていた。彼女ともっと話したい、彼女に自分のいいところを見せたいと僕は思うのだった。しばらく無言のまま、僕は絵を描き続け、彼女は黙ってそれを見た。
「名前いいですか?」そう勇気を振り絞って、僕は言った。
「青葉、今宮青葉です。大学生です。あなたは?」そう言われ、僕も「萩原(はぎわら)健一(けんいち)です」とだけ答えた。そうして僕達はその後も話しあった。
「好きな画家は誰ですか?」と彼女に聞かれ、
「ゴッホです。あと、デ・キリコ」と僕は答えた。
「私は断然、ラファエロとかダリですね。あなた、年は?」そう言われ僕は「二十一です」と答えた。そんな風にして僕達は知り合った。その日の内に僕達はメールアドレスと電話番号を交換した。彼女はどんな思いで僕と連絡を交換したろう。僕のことを可愛い男の子と思ったのだろうか?それとも僕の絵に興味を示したためだろうか?それも今になってみれば分からない。僕はそれを彼女が生きているうちに聞いておくべきだったのだ。しかしそれも今は遅い。真相は彼女の墓のなかに入っている。僕は今でも、ときおり彼女の墓に行く。そうして線香をあげながら彼女に話しかけてみるのだ。
そんな風にして僕達の付き合いは始まった。最初はデートをするだけだった。そうしてお互いのことを話しあった。僕が片親で、大学の近くで一人で暮らしていること、彼女が過去に付き合ったボーイフレンドのこと、絵のこと。そんなことを僕達は話しあった。
そうして僕は彼女と絵の展覧会に行ったり、公園を散歩したり、一緒にごはんを食べに行ったりするようになった。
しかし、彼女は僕と最後の一線を越えようとはしてくれなかった。あのことを当然二十一の僕は知っていた。それは、大人達が皆、するあの遊びだ。僕は当然そのことを知っていた。(僕には以前からガールフレンドが居た。青葉と付き合うころには、もう別れていた)
しかし彼女はその遊びをしてくれなかった。「前の彼にされたことにトラウマがあるの」
そう言い、彼女は僕とは寝てくれなかった。
ところが、ある日のことだ。僕は雨が降る中、彼女の家を訪ねていった。すると中から話し声がした。彼女と男の声だった。僕はひどくショックを受けた。そうしてそのままなんにもせずに自分の家へと帰って行った。
帰って、自分の家のベッドに横になって、僕は天井を見上げた。彼女は僕と誰かとで二股をかけていたのだ。きっと僕と出会う前からその相手と付き合っていたに違いない。そう想うと僕は苦しくなってくるのだった。そうして、以前、付き合っていた相手のことを思い、僕は彼女に電話をした。
「どうしたの?」そう彼女は言った。
「いや、実はね・・・」そう言って、僕は新しい彼女に二股されていたことを話した。
「それで、どうするの?私とまたやり直したいの?その子と別れるの?」
「それは別れるさ。あと君にも会いたい。今夜がいい。無理?」
「今夜はちょっと、友達と飲みにいく約束があって」
「頼むよ、香乃。今日だけでもいいから、僕の話し相手になってくれ?」
「セックスは無し?」
「それは無しでいいよ」
「わかったわ。じゃあどこで会う?」
「新宿でもいいかな?」
「わかった。じゃあ新宿に八時」
そう話して僕は電話をきった。そうしてその日の夜、僕は香乃と会ってお酒を飲んだ。
彼女は以前のままの彼女だった。不意になぜ香乃と別れたのだろう、と僕は考え出した。彼女だって十分可愛い女の子だ。そうして僕のことを別れた今も気遣ってくれる。青葉と別れて、香乃と付き合おうか。そんなことを思いながら、その日、僕達は話しあった。
そうして数日が過ぎたあと、青葉から会おうとメールが来た。僕は当然、無視した。僕はもう彼女に会う気は無かったし、彼女と話す必要も無かった。なにしろ彼女には恋人がいるのだ。そうしてメールを無視していると、数日たって彼女から連絡が来た。
「どうしてメールを無視するの?」
僕はここぞとばかりに言ってやった。
「だって君、他にも恋人がいるんだろう?だから僕と会うのは止めた方がいいよ。恋人にばれたら大変だからね」そう僕は言い、すぐに電話を切った。
それから一週間がたった。彼女は「一度でもいいから、会いたい」と僕にメールしてきた。僕は勿論、無視した。そうして僕は香乃と再び、会い付き合うようになっていった。
そうして僕は青葉のことを忘れるようになっていった。香乃と会い、話しをし、寝るのが僕の新たな日常になっていった。
そんな日々が続いた、ある日のことだった。
その日は雨が降っていた。僕はいつもどおりに大学から帰ると、自宅でひとり、絵の勉強をしていた。そこに、誰かが訪ねてきた。僕はインターホンを押されて、話しをすると、それは青葉だった。僕は断ろうとしたが、ある悪魔的な復讐を考えて、僕は彼女と会うことにした。
「どうしても、話したいことがあるの」そう彼女は言った。
「もういいんだ。僕達は。僕達の関係はもう終わったんだよ」
「私にも色々事情があるの。それは、どうしても言えないんだけど、でも・・・私があなたのことを誰よりも愛していることを信じてほしいの」
「そんなことは信じられない」そう言って、僕はドアを閉めようとした。青葉はそれに抵抗した。
「悪いね。でも僕にはもう新しいガールフレンドが居るんだ。ご愁傷様」
そう言って僕はドアを閉めた。これが僕が青葉と交わした最後の言葉になった。
それから一か月がして、僕はある日、誰かから手紙をもらった。差出人を見ると、今宮青葉と書いてある。僕は最初、また例の催促だと思った。僕がメールを着信拒否して電話にもでないため、彼女がまた会いたいと手紙を送ってきたのだと思った。その手紙を僕はしばらく読まなかった。けれど捨てる気もしなかった。香乃と会ったときにでも、その手紙を一緒に読んで笑ってやろうかとも考えた。
そんなことで数日間、僕は彼女からの手紙を読まなかった。しかしいつかは読まなければならない。そうして僕はその手紙を読んだ。手紙にはこう書いてあった。
「拝啓 健一へ
こうして今、手紙を書くことになりましたが、それでも私はまだ悩んでいます。あなたと会い、本当のことを全部言ってしまいたかったけれど、結局、手紙という形になったことを申し訳なく思っています。
私には確かに他にボーイフレンドが居ました。それも、あなたと会う前からです。でもそれにはある事情があるのです。私には、病気の母がいます。それも腎臓の病です。そうして母の通う病院には、私の付き合っている人の父親が院長をやっているのです。母の腎臓は私と合いません。それが、合いさえすれば私も健一とだけ、付き合ってずっと仲良く一緒に居られたと思います。
そうして母の腎臓のドナーを最優先でもらう為、私はその男と付き合いました。一緒にホテルに行ったりもして、辛い思いもしました。でもそれらはすべて、母の為です。あの日、自殺すら考えていた私は偶然、あなたが絵を描いているところに出くわしました。そうして自分でも驚くほど素直にあなたに話し掛けました。あなたとは何かの縁があったのかもしれません。前世で兄妹でもあったのかもしれません。しかし私はもうあなたとは会うことはしません。いさぎよく身を引こうと思います。私の戦いはまだ終わっていません。それが何年かかるかも私にはわかりません。
ひょっとしたら三年、五年くらいかかるかもしれません。私は母のことを恨んだりもしました。あなたとの残酷な別れも母を恨む原因になりました。でももういいんです。それらをすべて背負い込んで私はこれから、生きていこうと思います。こうして事情を打ち明けるからにはもうあなたと会うこともできません。万一、彼に知られたら私の今ままでの努力は水泡に喫します。最後に私と話してくれてありがとう。大好きだよ。
青葉
そうして僕はその手紙を読み終わった。知らなかった。こんなことは知らなかった。そうして僕は少し涙を流した。彼女の背負っているものを思って僕は彼女に対した態度を後悔した。青葉、君はこれからもたった一人で戦っていくのだろうか?そう考えると僕は彼女に会いたくなった。しかしもう会うことはできない。僕は僕達の運命を呪った。三年か五年、彼女には会えない。三年、石の上にも三年という言葉があるがそれだけの年月、僕は彼女に会えないのだ。僕はその手紙を手に取り再び、読んだ。そうして机の左側の抽斗の一番奥にその手紙をしまった。
そうしてそれから三年が経った。僕はある会社に通いながら、相変わらず絵を描いていた。長年の努力が実り、僕の絵も少しずつ売れるようになってきた。
そうして僕は、久しぶりにあの青葉と出会った場所で、また昔と同じ風景がに取り掛かった。そうして昔と同じように空を描き、青の絵の具を薄く塗りたくっていた。すると、
「こんにちは」そう僕を呼ぶ人が現れた。僕は振り返ってその人を見た。
彼女だった。昔のままのあの青葉だった。
「またここで、絵を描いているの?」
「青葉、君は・・・・もう終わったのか?」
「ええ、すっかり。別れるときにははっきりこう言ってやったわ。あんたなんか大嫌いって」
そうして僕達二人は同時に笑った。全てが戻ってきた。あの頃のすべてが。僕はあの頃の失われた青春を取り戻そうとした。青葉も勿論、それに賛成だった。そうして僕達二人は再び、付き合いだした。全てが晴れやかにうまくいっているように思えた。僕の絵はだんだんと売れるようになっていたし、彼女も戻ってきた。僕と彼女は三泊四日の旅行に行ったり、遊園地に行ったり、また例の千葉のテーマパークにも行ったりした。幸せだった。僕らは互いに二十五の時に結婚した。そうして子供もできた。僕はもう一人の立派な大人だった。そうして彼女も立派な母親だった。そうして家族の思い出も増え、僕達は仲良く十年も暮らした。そんなことがあった、ある日のことだった。青葉が突然、交通事故で亡くなったのだ。近所に買い物に行った帰りに彼女は交通事故に会い亡くなったのだった。僕も江美(僕達の子供だ)ももちろんそのことを悲しんだ。そうした悲しみは人生につきもののことだよ。とある知人は言った。確かにそうだろう。僕も彼女もいずれは死ぬのだ。彼女の方が少し先だったというだけだ。そうして僕は今も江美と共に、今という時間を送っている。僕は五十過ぎまで生きるのだろうか?それとももっと長生きするのだろうか?
青葉の墓に毎年行くたび、僕は彼女に尋ねてみる。僕はいつになったら、君の元へいくんだろう?そうすると、彼女はいつも、微笑んでこう言うのだ。「あなたが好きな時にいらっしゃい」と。
青葉と青春