シューティングハート 黄金の魔女
完結
鷹千穂学園高等部の中央館二階の南側、日当たりのよい部屋がある。
幼稚舎から高等部までの経営を掌握する学園理事長室で、多忙を極める鷹沢グループ会長でもある理事長は、浮かない顔で正門まで続く並木道を見つめていた。長身の細身で質の良い背広を着こなし、長い指先を所在無げに動かして、時折爪をはじく。窓から差し込む陽光に柔らかい栗色の髪が淡く金色に光り、色白の額にかかる。
約束の刻限。
大きな観音扉を開ける理事長秘書に目配せをして、腰にまで伸びる真っすぐな栗色の髪をなびかせて、一人の女子生徒が入って来る。
だが、理事長は背を向けたまま、振り返ろうとはしない。
歓声の声が上がったのは、理事長の立つ窓から少し離れた大きな机の傍だ。部屋の主を無視して、恰幅のいい紳士は両手を広げて明るく言った。
「やぁ、元気そうで何よりだね。月日を重ねる毎に母上に似ていくようだ。末が楽しみというものだな。聞けば、生徒会長になったとか。まったく、その辺りは父上似で、忙しい身が好きなのかな」
一見眼光鋭く、とても堅気には見えない紳士が、まるで好々爺に一転する。
満面笑顔の紳士に、メガネ越しに微笑をする女子生徒は、涼しげに前置きを聞き流した。
学園の中枢であるこの中央館は、一階と二階を教職員及び学園事務局が占め、三階と四階には、高等部生徒会及び文化部が占めていた。その三階北西の端に、高等部生徒会長室があった。
小さなスペースの中に、大きな机と革張りの椅子。そして小さな応接セットが置かれていた。代々その中央に座するのは、何らかのクラブ活動において部長の肩書きを持つ、二年生の男子であった。
入学式に続いて、親睦球技大会が終わると、生徒会総選挙が行われ、生徒会長以下七役が選出される。
今年は、副会長と書記が、立候補者一名につき信任投票とされた。その他の役員は例年通り、二名もしくは三名で争われた。
その中で、生徒会長に立候補したうちの一人が、ダントツの得票数でその存在を学園内に示した。
名は、鷹沢綾。鷹千穂学園理事長、鷹沢士音の一人娘である。
幼稚舎から高等部まである鷹千穂学園は、決して単純なエスカレーター式ではない。幼稚舎に入園する時はもちろん、小等部、中等部、高等部に進学する時に、簡単とは言い難い試験を受けなければならない。この時、在学中の生徒の半数が落とされ、残りの半数を外部からの一般入試で取る。
その中で、鷹沢綾は、幼稚舎から高等部まで、この鷹千穂に在学している。
しかし、彼女が一年生ながらも生徒会長に当選した理由には、彼女が理事長の娘だということも、在籍期間の長さも関係なかった。
スラリとした長身で、濃い栗色の髪が真っすぐ腰のあたりまで伸びて、無駄一つない動きに華を添える。反面、その容姿は堅苦しいメガネで損なわれ、近寄り難い雰囲気を一層強めていた。
鷹千穂学園女子の制服である、濃い茶色のブレザーにフレアースカート。白いブラウスに濃い茶色のリボンを結ぶ。背筋を伸ばさなければ野暮ったく見えるこの制服に、堅苦しいメガネときては、決して愛嬌があるとは言えない。
それにも関わらず、彼女が演壇中央に立ち、その低く澄んだ声で朗々と語ると、その場にいる全ての者には、彼女以外の姿が見えなくなる。彼女と同様に会長に立候補した二年生二人も、気付くと彼女に投票していた。
こうして鷹沢綾は、学園史始まって以来の一年生女子生徒会長となった。
その経緯をどこで仕入れて来たのか、紳士は大袈裟な動作で一通り感嘆した後、
「まったく、いい娘になったものだ」
と小さく付け加えた。その口調からは、喜びの後ろ側にちらほらと、寂しさのようなものが感じられた。
鷹沢綾が苦笑する。
「ご多忙の県警本部長殿が、このような所まで私の顔を見に来られたのには、何か差し迫った要件でもおありなのでしょう。できれば本題に入っていただきたいのですが」
低く澄んだ声が、部屋に響く。
本多県警本部長は、肩をすくめて窓辺に立つ友の背中を見た。
その部屋の主である鷹千穂学園理事長、鷹沢士音は、大きな窓の向こうの正門を見つめたままだ。それはあたかも、これから交わされる会話をすべて聞き流す決意に密かに燃えていると言ってもいい態度だった。
本多は苦笑で数歩、綾に近づいた。
「では、話そう。近頃、極めて精巧な改造拳銃が出回っていることは、キミの耳にも入っていることと思う」
「それが、何か」
話の内容に臆した風もなく、綾は先を促した。本多が続ける。
「当局としては、暴力団関係を調べていたわけだが、どうも出所が違うようなのだ。洗いなおしてみると、意外な場所が浮かんだ」
「それで」
「学校だ」
本多の短い答えに、綾の瞳が大きく開いた。
「学校、ですか」
「そうだ」
そう言いながら手渡した書類を、綾はしばらく無言でめくった。
「その学校のリストについては、まだ裏が取れているわけではない。ただ、そこにはないが、不確実な報告の中に、鷹千穂学園の名前があった」
「・・・・・・」
「不確実ではあるが、真偽はさておき、学園にとってはあまり良いことではないだろう。私としては、親友の経営する学園には、優秀な模範校でいてもらいたいのでね」
本多は、真っすぐに綾を見ると、次の反応を待つように目を細めて間を置いた。
「それで、私にどうしろとおっしゃるのですか」
綾はゆっくりと、窺うように問うた。
「そこに書かれていることが本当かどうかを、キミに調べてもらいたい。こちらとしても、キミの望む通りに動くつもりだ。どうかね、やってはくれまいか。勿論、事が発覚しても、この学園の名前に傷がつかないように処理しよう」
答えはすぐには返ってこなかった。
綾は軽く考えるように本多から視線を反らせ、ややあって、もう一度本多を見た。
「本当に、それがお出来になるので?」
「キミが危険な目に合うことに比べれば、私の進退問題など取るに足らぬことだ。この一件に関することについて、鷹千穂学園の 名が公にならないよう約束しよう。ただ、もし関係者の中に鷹千穂を知る者がいれば、その行為も徒労に終わる可能性がないではないが」
自信の揺らぐ一言に、綾はきっぱりと言い切った。
「いえ。そちらのほうは、私が消しましょう。ですが、鷹千穂が警察沙汰になることだけは、避けていただきたい」
それを本多に「守れ」というのが、危険の代償である。本多はにこやかに頷いて、言った。
「期待しているよ。暴走族を相手にするのとは勝手が違うだろうが、頑張ってくれたまえ」
「では」
短い返答の後、軽く礼をして、秘書の開けた扉の向こうに消える長い髪を見送って、本多は窓辺を振り返った。
「まったく、お前の娘はたいしたものだ。事の大きさを把握してなお、平然としているとは恐れ入る。小さな頃からの訓練の賜物とは言え、あれほどの素材には、滅多にお目にかかれるものではないよ。今すぐにでも、俺の部下に欲しいものだ」
ため息混じりの言葉に、窓辺から離れ、鷹沢は大きな椅子に沈んで顔を曇らせた。
彫りの深さといい、瞳と髪の色が微妙に違うことから、鷹沢士音の中には明らかに、欧米の血が流れていることが窺えた。
「どこの世界に、我が娘が、暴力と凶器を相手に戦うのを見て喜ぶ親がいる。ましてあのように、ただでさえ危険と隣り合わせで生きねばならない娘に、無理難題を押し付ける親友がいるのは、まったく頭の痛いことだよ」
柔らかなトーンを落として言い返す鷹沢に、本多は苦笑で近づいた。
「そう言うなよ、シオン。俺だって、あの子が可愛いよ。できれば温室の中で、美しく咲き誇る薔薇の相手だけさせておきたいさ。だが、あの子が戦う姿を見たら最後、魅せられずにはいられないよ。実際、魔神も恐れをなすだろう」
「・・・・・・」
「ただ一つの『約束』を守る為とはいえ、よくあれほどまでに強くなれるものだ。多くの影たちが、あの子に従う理由がわかる。まっ たく部外者の俺でも、何かしてやりたくなるよ」
本多は遠く、澄んだ空を仰いだ。
そして鷹沢も、ただ無言で、遠くを見つめるほかなかった。
桜の花が香る、春盛りの頃。
咲久耶市を拠点とし、その名を県内外に轟かせた暴走族が、幹部は元より、その名を掲げる最下層の構成員に至るまで壊滅状態と表現するに相応しい状態で、警察当局へと引き渡された。
『赤い梟』。
凶悪さにおいても、構成員の数においても、この集団に並ぶものはなかった。
勿論それまでにも、警察当局による一斉検挙や、一般市民に対する保護が行われていたが、『赤い梟』の規模は増大するばかりで、対策は決定的に遅れをとっていた。
なぜ、当局さえも手が出せなかった集団が突然壊滅状態になったのかは、いまだ不明である。何故ならば、警察へと連行され尋問を受けた者は、一様に襲撃されたと思われる時の記憶を失っていた。
ただ、一つ。
彼らの脳裏に浮かぶ影があった。
黄金の光りに包まれた、神々しいまでに美しい女。
その女が、『赤い梟』を壊滅させたのだろうと誰もが噂したが、事の真偽は問われぬまま、女のことは有耶無耶になった。
そうして、いつしか一つの伝説が生まれる。
黄金の肢体を微動だにせず、闇をバックに浮かび上がった女。
人は彼女のことを、『魔女』と呼ぶ。
六月恒例の水無月祭の準備に追われている鷹千穂学園中央館三階の生徒会室の隣、生徒会長室で、成瀬愛美はボ――ッと窓辺に頬杖をついていた。
この春、書記として信任された彼女もまた、生徒会長同様、ピカピカの一年生だ。
彼女は他中学から一般入試を経て、この高等部へと入学した。身長は百五十センチもないが、豊かな胸とくびれた腰、背筋がピンと伸びており、身長を少々多めに見せている。
クルクル巻き毛のトップを、軽くリボンで結わえて、肩のあたりまで伸ばしている。丸顔で可愛らしいイメージが強い女の子だが、どこにでもいる普通の女子高校生とも見える。
彼女が何故、いきなり生徒会に立候補したのか定かではない。
ともあれこれが、彼女の穏やかで平凡な学園生活を、一気に、弾丸飛び散るハードボイルドな世界に変えてしまうきっかけとなった。
その部屋の主、生徒会長は先程理事長に呼ばれて、同じ中央館二階の理事長室へと行ったきり帰って来ない。
窓の外には、常緑樹の大木が生い茂り、景色が良いとは言えないが、狭い部屋に閉じ込められる圧迫感はない。
愛美の視線は、専ら、大木の根元より少し離れた所にたむろする一群に向けられていた。その華やかな集団のためか、時折、愛美の小さな唇から、口笛ともため息ともわからぬ音が聞こえる。
羨望の眼差しと、夢うつつの問いかけを一身に受けて、一人の男子生徒は多くの女子に囲まれていた。取り巻く女子の中には、愛美と同じクラスの者もいる。
野球部のユニフォームとグローブ。背はスラリと高いが、どちらかと言えば筋肉質で、長めの足にもしっかりと筋肉がついている。やけに男らしく、はっきりとした顔立ちは、決して人混みに紛れることがなく、ハンサムと称しても言い過ぎではなかった。
「私も、滝口さんの傍に行きたいよう」
愛美は泣き真似をして、窓枠に突っ伏してしまった。どうやらそのハンサム、滝口守に片想いの最中というところのようだ。
ノックの音と共に、速水介三郎が入って来たことには、まったく気付いていないようだ。
同じく一年生にして副会長で信任投票を受け、無事当選したのが、バスケット部のホープと目される彼である。
速水介三郎は、中等部時代より生徒会に関わってきた。百九十センチの長身に、十人並みの間延びした顔がのっている。特注であろう詰襟の襟元をきちんと止めて着ているのが目につくが、ヒョロリと長いその容姿は、どこかヌけていそうで、完璧すぎる生徒会長の付き合いにくい雰囲気を、上手くカバーしていた。
介三郎は、窓際の成瀬愛美の後ろ姿を見て、一瞬赤面し鼻の下を伸ばしたが、それもすぐ情けない顔に変わる。
窓の下から聞こえる黄色い声の中に、滝口を賛辞する言葉を見つける。愛美がなぜ自分に気付いてくれないのか、察しがついた。
先日、彼女が、
「野球部のエースの滝口さんって、すんごくカッコイイの」
とはしゃいだ時は、正直、目の前が真っ暗になった。
滝口守は高等部二年で、野球部のキャプテンを務め、エースでもある。派手な容姿と、その巧みな話術も手伝ってか、学園の内外を問わず、大勢のファンがいるアイドル的存在だ。ミーハーを自称する愛美が、惹かれるのも無理はない。
片想いって、哀しいよな。
介三郎は、彼女の可愛い巻き毛を見つめてため息をついた。実は、入学式で彼女を見かけて以来、心には秋風が吹いていた。
夏も近いというのに・・・。
本来ならばクラスが違うので、話すことすらないだろうに、幸運にも彼女が役員に立候補してくれたおかげで、辛うじて友達になれた。しかし・・・それ以上先へ進まない。
出るのは、ため息ばかりなり。
そこへいきなり、後頭部に衝撃を受けて、彼はその場にうずくまった。
「あっ、悪い」
勢いよく扉を開け、障害ブツがあったことを知った鷹沢綾が、顔だけ覗かせて足元を見下ろす。
「なんで、ノックしないんだよぉ」
したたか打った頭を撫でながら、介三郎が抗議すると、
「そんな所にボ――ッと突っ立っている、お前が悪いのだ」
と冷めた口調が返ってくる。
書類を片手に入ってきた綾は、立ち上がった介三郎に一瞥をくれた後、窓際の愛美に気付いた。
「なんだ。成瀬もいたのか。二人っきりで何をしていたんだ」
よく通る低い声に、介三郎は思わず赤面してしまう。
「ナッ・・・ナニッて・・・」
『ナニ』を考えているのか、口ごもって続きが出ないところへ、冷水。
愛美は不思議そうな顔をして、
「介三郎くん、いつからそこにいたの?」
と小首を傾げている。哀れ介三郎の頭の中では、葬送の鐘の音が鳴り響いた。
綾はメガネ越しに介三郎の横顔を見て、処置なしという顔をしている。会長用の大きな机に半分体重を預け、メガネにかかる細く長い髪を指先で軽くといた。
愛美の巻き毛とはまったく趣きの違う真っすぐな髪が、絹のような光沢を放って、サラリと音を立てる。
愛美は、その場の雰囲気など気にせず、介三郎の間抜け顔を尻目に、仕事に移った。
「綾。水無月祭に参加する各団体のリストができたわ。一応クラスとクラブに分けて、具体的な内容も書き込んでおいたの。わからないことがあれば、訊いて」
愛美に手渡された書類を、綾は微笑で受け取った。
見ると、彼女の性格を表すような丸っこくて可愛らしい文字が、几帳面に並んでいる。それを一行ずつチェックしながら見ていくうちに、ある一行で綾の視線が止まった。
愛美は書類に補足するように、個人的意見を言った。
「やっぱり、どこもたいして変わらない出し物だけど、滝口さんのいる野球部は『おもちゃ屋』なんだって。戦隊ものや特撮もののグッズとか、他にもオリジナルの商品とかを置くんですって。ちょっと変わってて面白そうでしょう?」
満面笑顔で楽しそうに話す愛美に、綾の微妙な表情の変化はわからない。
何を思ったのか書類を机の上に置いて、綾は、長くなりそうな愛美の話を止めた。
「ご苦労。目を通した後、問題のあるものには再検討を命じる。ひとまず、成瀬は介三郎を手伝ってくれ。こいつの仕事が、一番はかどってないからな」
最後の方は、少々冷たい口調だ。
介三郎は思わず、間延びした顔を歪ませて抗議した。
「お前が、あれもこれも俺に押し付けるから、はかどらないんじゃないか。その上俺、バスケ部の方も手伝わなきゃならないんだぞ」
生徒会副会長は、バスケ部でもある。実際、毎日忙しさに目を回している介三郎は、ここぞとばかりに捲くし立てた。
「せめて、生徒会関係の仕事を半分にしてくれるか、バスケ部だけでも今回の水無月祭に参加しなくていいことにしてくれよ。俺はこれ以上、手が回らないぞ」
「ならば、腕の一本や二本増やして、せいぜい頑張ることだ」
長身から繰り出される熱弁に、返ってきた答えは、限りなく冷たい。
綾と介三郎の付き合いは、中等部時代から数えて四年目。さしたる接点もなかったであろう二人は、なぜか学園中が公認するパートナーである。
介三郎は、情けない顔をして見せ喚こうとしたが、止めた。
言いたいことはヤマのようにある。しかし、相手の性格がわかっているだけに、腹は立つが諦めも早い。
「だけど本来、水無月祭は、秋の文化祭の予行演習みたいなものなんだから、もう少し手を抜いてもいいんじゃないか? 自由参加でさ。日程も、三日から二日に減らすとか」
これは副会長としての意見であり、参加を強制された各クラブ、各クラスの意見でもある。
綾がメガネ越しに鋭い目を上げて、介三郎の顔を見据えた。
「打ち上げのフォークダンスが決まった時、『やったぜ、ラッキー』と叫んだのは、どこの誰だ。言っておくが、私ではないぞ」
介三郎が、降参のヒョットコ顔。
「どうせ俺だよ。だから、後夜祭の指揮は全部、俺が取ってるじゃないか」
「その調子で、全てのプログラムをこなせ。成瀬と一緒にな」
同意を求めるように愛美を見て、綾は一層真顔になった。
「それで、二人で何をしてたんだ」
それは、からかっているという口調でもないが、真剣という口調でもなかった。
介三郎は赤面で冷や汗をかきながら、口ごもってしまう。
「だっ、だから、ナニって・・・」
「何って。お前はナニを考えているのだ」
即座に言い返されて、介三郎は絶句した。視線が自ずと愛美に注がれるが、愛美は頬を赤く染めて、窓の外を見つめている。
青く生い茂る樹木の向こうから、黄色い声が聞こえた。
「また、滝口か」
うんざり顔の綾が、眉を少し動かせて呟いた。
途端にご機嫌斜めの表情だ。一転、介三郎は蒼ざめて、綾のメガネの奥の瞳を見下ろした。
嵐の前の静けさにも似た恐怖が、その場にあった。
しかし、愛美の頭はすでに鳥。
「そうなの。見てみて、この写真。ある女の子が隠し撮りしたのをもらったのよ。カッコイイでしょう」
愛美ははしゃぎながら、胸ポケットから取り出したパスケースを綾に渡して見せる。写っているのは、窓の外で多くの女子に囲まれているハンサムと、他校生二人。
綾と介三郎の厳しい視線など、ものともしない。
「背が高くて、ハンサムで、スポーツ万能で」
「当たり前だ。奴はピッチャーの素質を買われて入学したんだ」
綾が素っ気なく話しを折ろうとするが、そんなことで挫ける愛美ではない。
「優しくって、明るくって、話し上手で。ユニホームを着た時の厳しい目が、とっても素敵なの」
小さな紅葉のような手を胸の前で合わせ、夢見心地に意中の男を賛美する。そんな彼女に介三郎は、いつしか茫っと見とれてしまっていた。
かわいいよなぁ・・・。
「私も傍に行きたいな。そしてお話を沢山するの。差し入れなんかして。クラブが終わるとタオルを持って行って、それで汗を拭いてもらったりなんかして」
その場面でも想像しているのだろうか。大きな瞳が、宙を舞う。
綾の肩が一瞬すくみ、口元には苦笑。
「クズの傍にいたところで、何の得にもならないぞ。貢いで、遊ばれて、ボロボロになって、捨てられるのがオチだ。その上、どこの誰ともわからぬ男に払い下げられては、たまったものではないそ」
身も蓋も無い言葉が、部屋に響いた。冗談を言う時のような穏やかな表情とは裏腹に、言っていることが厳しくて、愛美は怒った。
「どうして綾は、そんな酷いことばかり言うの。滝口さんのことをクズだなんて、いくら綾でも許せない」
幼い高音が、真っ向からぶつかった。
それを平然と受け止めて、綾はまるで、楽しんでいるかのような微笑を浮かべた。
「クズをクズと言ったのだ。つくづくお前の目は節穴らしいな」
愛美も負けじと、スカして答えた。
「生憎、自慢じゃないけど、男の子を見る時は、五.〇くらいになるのよ」
「ほぉ。無いものまで、あるように見えるというわけか。どうりで、男の趣味が悪いと思った」
白を黒とも言い通してしまうような、説得力のある低音が不敵だ。
愛美はたまらず、小さな巻き毛を振り乱して、激しく反論した。
「違うったら、違うの。どうして綾は、そんなに意地悪なの。いつだって、私の気に入らないことばかり言って、喧嘩ばかり売ってるわ。滝口さんのことなんて、悪口しか言わないじゃない」
「本当のことを、言ったまでだ」
「違う。勝手に決めないで。だいたい、滝口さんは特待生でしょ。学園側が頼んで入学してもらってる人じゃない。理事長の娘の綾が、その滝口さんの悪口を言うのは、おかしいと思うわ」
いつにない白熱した議論に、二人の間に立つ介三郎は、オロオロしてしまう。なまじ図体がデカイだけに、みっともないこと甚だしい。
「あのさ、綾も止めろよ。言い過ぎだって。成瀬もさ、そんなに怒らずにさ。もっと穏やかに・・・」
遥か高みから、少女二人を見下ろして、どちらにも同じ分だけ声をかけた。いつもの間抜けた顔が冷や汗をかき、一層頼りなく、声も上手く出ないようだ。その為、仲裁の役にはたたず、まったく相手にされていない。
延々と続くかと思われた激論に、決定的ダメージを与えたのは綾だった。
「とにかく」
と一つ大きな声で言うと、手に持っていた愛美のパスケースから、問題の滝口の写真を抜き取った。
「やだ、何するのよ」
この暴挙に、黙っている愛美ではない。
「返してよ。その写真、手に入れるの大変だったんだから」
愛美は手を伸ばして奪い返そうとするが、しかし、十五センチの身長差のある綾が、高々と掲げているのだ。いくら背伸びをしたところで、届くはずも無い。
取り縋る小さな少女に、綾はこの上なく冷めた口調で言った。
「こんなものを持っているから、男運が悪くなるのだ。安心しろ。これは丁重に弔っておいてやる」
それは決して冗談ではなさそうだ。
愛美は、直訴が無駄と見るや、傍でうろたえている丈高い少年の袖に縋って、精一杯の背伸びをし、ほぼ真上にある間抜け顔に訴えた。
「介三郎くん、お願い。あの写真、取り返して」
小さな身体を抱きとめて、介三郎はいささか鼻の下を伸ばしながら、しばし茫然としてしまった。愛美の真剣な瞳に見つめられ、差し詰め蛇に睨まれたガマガエルだ。
「介三郎くんは、どっちが悪いか、わかってくれるわよね。第一、私が誰を好きでも、誰の写真を持っていても、それは私の勝手だと思わない?」
縋りつく甘い声を聞いて、頭の中はクラクラだ。
介三郎は、辛うじて頭の片隅で考えた。
確かに、誰が誰を好きだろうと、それは自由だ。知ったこっちゃない。しかし、愛美が自分以外の男を好きだというのは、いただけない。
片想いなんてよぉ。
丸顔に大きな瞳。抜けるような白い肌にクルクル巻き毛。小さな背の割には、介三郎好みのグラマラスな体系。
それが入学以来、胸から離れない。その彼女がこんなに近くにいるというのに、話題は別の男である。
片想いなんてよぉぉ。
何も声に出せず茫然としていると、愛美は哀しそうに目を伏せて、彼の腕から離れた。
「そう。介三郎くんなら、私の人権を守ってくれると思ったのに」
全てを諦めたようなか細い声が、一層彼女を小さく見せた。
介三郎は慌てて弁明する。
「イッ・・・いや。成瀬が誰を好きでも、俺は、か、かまわないよ。うん、だからその・・・仲直りしろよ」
最後の部分は綾に向けられたが、綾は介三郎の頼りない顔に一瞥をくれて、窓辺に行ってしまった。その態度に、珍しく怒りを覚えるが、それどころではない。
可愛い瞳が、恨めしげに睨んでいる。
「いいのよ、別に。介三郎くんの顔に、ちゃんと書いてあるわ。『あんな奴、やめとけ』って」
哀しい視線が、心をえぐった。
そこで『そんなこと無いよ』と、言い返せばいいものを、介三郎はわざわざ部屋の壁に打ち付けられた鏡を覗いて、自分の顔を確かめた。
うん、書かれてないよな。
窓の外を見ていた綾が、処置なしと呆れた。
一瞬、座がシンとする。
「で、でも、成瀬の言うことは、わかっているんだけどね」
あたふたと取り繕ってみても、すでに手遅れだ。両手で支えていた柔らかい身体が、スッと離れ、大きな瞳は反らされる。
「もう聞きたくないわ。どうせ写真は返してくれないんでしょう。私、帰るわ」
最後に綾の背中を睨むと、愛美はさっさと出て行った。少々荒っぽく扉が閉まる。
介三郎の行き場を失った手が、扉に向かって伸びたまま、止まってしまった。
「明日は、扉の閉め方を教えねばならぬな」
どうでも良さそうに、綾は苦笑で介三郎を見た。介三郎の目が、珍しく釣り上がっている。
「そういう問題じゃないだろう、綾。なんてことするんだよ。あんなに怒らせて、どうしようっていうんだ」
愛美を前に、成す術もなく立ち尽くしていたウドの大木は、ここぞとばかりに窓辺の少女を咎めた。
「滝口のことは、まだはっきりしてないことだろ。それで、あんな風に傷つけることないじゃないか」
なおも喚き散らす介三郎に向かって、綾は顔色一つ変えないで、言った。
「では、2-Aのさやかちゃんや1-Cのくみちゃん、他、可愛い数名の他校生の涙は、何だったのだ。あまりにも非道だから、奴を懲らしめてくれと、私に頼みに来た多くの女子生徒の声を、真面目に聞いてやれと言ったのは、お前ではなかったのか。成瀬を、彼女たちと同じ目にあわせても良いと言うなら、あえて黙っていてやるが」
言われて、介三郎も黙った。
滝口に泣かされた女たちが、どんな思いで綾の所まで来たのかは、察して余りある。さして気が無さそうに聞いていた綾に、滝口の処分を迫ったのも、介三郎だ。
もちろん、心のどこかでは、恋敵がいなくなればと思っていただろう。
「でも、だからって、いきなり写真を奪うことはなかったんだ」
それでも介三郎は、愛美本意だ。
綾は平然として、問題の写真を彼の前でチラつかせた。
「これが目障りなのは、私ではなく、お前の方ではないのか」
冷めた流し目を受けて、うろたえながら介三郎は苦し紛れに怒って見せた。
「な、何を、バカなことを」
綾が片方の眉を微かに上げて、言った。
「いい加減、打ち明けたらどうだ。先があると思っているうちに、他の男がさらっていくぞ。成瀬は結構狙っている奴が多いからな」
介三郎としても、それは本気で心配している。
しかし、今は愛美の気持ちの方が大切だ。無理やり滝口の写真を取り上げてまで、愛美の想いを踏みにじりたくはなかった。
「嫌われるぞ、綾」
他に言い返す言葉も浮かばず、咎める口調で睨んだ。
「心配するな。すでに、嫌われている」
美しい口元からこぼれた微笑が、当然だと言っている。
介三郎は大きくため息をついた。
「とにかく、その写真、返してやれよ」
介三郎は目前でヒラヒラしている一葉の写真を見つめた。愛美の哀しそうな顔がダブって見えた。綾に言われるまでもなく、出来れば破って踏みつけて、火でもつけてやりたいのだが。
一方綾は、そんな情にかまっている暇などないと言いたげだ。写真に写る三人の男を見据えて言った。
「駄目だ。これは要りようでな」
珍しく本気の声に、介三郎が訝しむ。
「いつから滝口のファンになったんだよ」
皮肉混じりの言葉に、綾は苦笑した。
「くだらないことを言っている間に、仕事がこなせるぞ。明日から、成瀬に手伝ってもらうのだろう。下準備だけでもしておけ」
「あの調子で、俺の手伝いなんてしてくれるわけないだろう。第一、可哀想だよ。役員の中じゃ、俺たち除けば、成瀬一人一年生なんだ。彼女、中学は外部だったんだぞ。俺やお前のように、鷹千穂にずっといたわけじゃないんだ。なのにいきなり副会長補佐だなんて、酷だよ」
中等部でも生徒会に関わった介三郎としては、一番気になるところだ。
綾は幼稚舎からずっと鷹千穂にいる。介三郎は中等部からだ。鷹千穂の内情はよく知っているし、周囲の覚えも目出度かった。
しかし、愛美は数ヶ月前に鷹千穂学園生になった、まったくの新参者であった。
たとえエスカレーター式ではないとしても、やはり鷹千穂学園の制服を着た年数は、役目柄おおいに影響する。
「実際、彼女、肩身の狭い思いをしてると思うよ。書記のおおまかな仕事だけ、こなしてもらえばいいんじゃないか」
どこまでも愛美本意だ。
綾が厳しい流し目で、遥か高みの頼りない顔を見返す。
「私は、成瀬に手伝ってもらえと言ったのだ。そのことで、誰かが成瀬に八つ当たりでもしようものなら、お前が庇ってやればいい。わかったら、明日一番に成瀬を捕まえて相談しろ。今年の水無月祭は、何としても成功させる」
低音の凄みを増した声が、反論を許さない。
これ以上、何を言っても無駄なのは、百も承知だ。愛美のことは早々に諦めて、副会長の顔になった。
「何でそう、水無月祭にこだわるんだよ。変だぞ。今回は軽く流して、秋の文化祭で頑張ればいいじゃないか」
「水無月祭にこだわっているわけではない」
綾は介三郎の咎めも冷たく流して、写真を見つめた。滝口に見惚れているという表情ではない。それどころか、憎くてしかたがないという表情だ。
介三郎のため息。
「どうでもいいけど。厄介ごとに成瀬を巻き込むのだけは止めような。滝口が絡んでるなら、尚更さ」
不満と不安の入り混じった表情でボソボソ言うと、鬱陶しいという手振りが返ってくる。
「わかっている。わかっているから、さっさと行け。お前には時間がないだろう」
そのまま綾は、そっぽを向いてしまった。当分何も取り合ってはくれないだろう。
介三郎は肩を落とし、ため息三つ残して会長室を出て行った。
綾が四つ目のため息をつく。介三郎の消えた扉を見つめ、世も末という顔で大きく呟いた。
「まったく。成瀬のことになると、あの調子だ。そのくせアプローチがなってない。先が思いやられるな」
冷め切った声に、笑い声が混じる。
和んでいた空気が不意に張り詰め、綾のメガネの奥の瞳が鋭く光った。
「・・・蛍か」
おもむろに窓の外を見ると、姿はなくとも、微かに人の気配がした。
「いつからそこにいたのだ。気付かなかったぞ」
綾が微笑を浮かべ、そう褒めると、もう一度笑い声が聞こえた。
『お嬢様は相変わらず、介三郎さんに弱くてらっしゃいますね。お嬢様は過保護だと、藤也さんも仰ってましたわ』
楽しげに笑う影につられるように、綾が美しい眉を微かに上げて、肩を落とした。
「私が過保護? それは新しい見解だな。今泉まで、そんなことを言っているのか」
『ですが、成瀬さんに片想いの介三郎さんを黙って見ていることができず、強引に成瀬さんを生徒会役員にしてしまったのは、やはり過保護かと存じますわ』
少しからかうような明るい声に、綾は手をかざして異議を唱えた。
「あれは、介三郎のためを思ってしたわけではない。生徒会を動かすために、一人でも多くの人材を育てておきたいだけだ。次の世代を育てるのは、早いうちが良い」
蛍という名の影が、笑う。
『では、そういうことにしておきましょう』
ひとしきり穏やかな雰囲気を楽しんだ後、綾は表情を凍らせた。
「それで、滝口のことだが」
打って変わった真剣な声に、蛍も緊張する。
『調べたところによりますと、人身売買行為に関することは当初、滝口個人のものだったようです。しかし、近頃ではそれに野球部部員が多く関与しているらしく、このことが表沙汰になれば、鷹千穂の名に傷がつく程度では済みますまい』
綾は蛍の声を聞きながら、机の上に投げられた書類に目を落とした。
そこには、先程理事長室で聞いた、滝口の新しい商売のことが書かれている。
綾が無表情で、呟いた。
「自分に群がる女を、金と引き換えに遊び仲間に売る滝口も問題だが、騙される女たちが後を絶たないのも、困ったものだ」
『しかし、好意を寄せている滝口に呼び出されれば、やはり応じてしまうでしょう。それを人気のない場所まで連れて行き、複数の男の手に渡すことこそ、恥ずべきことです。しかも、他の野球部部員までもが加担するとは』
珍しく声を荒げている蛍が、木にでも八つ当たりしたのか、青い葉を茂らせた枝が一本、ボキリと折れて落下した。
内々に相談に来た女子生徒の中に、蛍のクラスメイトがいたことを、綾は思い出した。
「どちらにしても、このままでは済まさない。万里子もお前と同じ意見だ。有耶無耶で終わらせるようなことはしない」
軽く目を閉じて耳を澄ますと、微かにピアノの音が聞こえる。
曲は、モーツァルト。弾いているのは、美しい女子生徒。
数人の女子生徒に見守られている様子は、彼女が、綾とはまた別の意味でこの学園の一角を担っていることが窺える。
「これまで、この学園を統治していた万里子だ。この度の滝口の悪事発覚には、ほとほと呆れている。仁義を重んじる真行寺一家の後継者としては、当然の感情だろう。その上、奴が新しい商売を成功させれば、真行寺一家といえども、黙って見ている訳にはいかなくなる」
そう言いながら、綾は机の上に投げ出されている書類を取って、窓の方へ差し出した。手の中の書類は一瞬のうちに消え、代わりに微かに紙を握りしめる音がした。
『お嬢様。これが、先程理事長室で会われた方から受け取られたものなのですか』
辛うじて問いかける声に、綾は頷くと、ゆっくりと会長席である大きな革張りの肘掛椅子に腰を下ろし、間をおいて言った。
「学校というところは、至って閉鎖的だ。警察が踏み込めるのは、大事が起こってからのこと。その書類に書かれていることが本当ならば、ことは大掛かりだ。早急に対応せねば、取り返しのつかないことになる。まして、その件にもしも我が学園の者が関わっているのであれば、対岸の火事では済まない。それで私に調べて欲しいと、本多の叔父上がわざわざ出向いて来られたのだ」
『この件に、滝口が絡んでいるとおっしゃるのですか』
「おそらく、な。そうでなければ良いと思っていたが、さすがだ。こちらが不快になることばかりしてくれる。元より、奴本人の処分を考えていたが、その商売に関するすべてのことから、鷹千穂の名を抹消しなければならない。時間が限られる」
『では、早速調べて参ります』
いつのまにか机の上に書類が置かれ、声は今にも立ち去りそうだ。それを引き留めて、綾は言った。
「私が受けたことだ。まずは、私が調べてみよう」
『お嬢様が、ですか』
問い返す声を笑って、綾は窓の外に視線を向けた。穏やかな表情の奥で、瞳が光る。
「不服だと言うのか」
『いえ、ただ、『赤い梟』の時のようにお一人で動かれるようならば、何があっても止めるようにと、申し付かりましたので』
「誰にだ。伊集院にか、それとも千住院か」
鷹沢家の執事とメイド頭の名を並べる令嬢に、影は恭しく、
『旦那様にございます』
と答えた。
綾が気を殺がれたような表情で、一層深く椅子に沈むと、小さく呟いた。
「私に、直接言えばいいものを」
先程理事長室にいた、スマートな背中が脳裏に浮かぶ。
『お嬢様も旦那様もお忙しくて、ゆっくりお話しなどされることがないからです。せめてお嬢様だけでも大人しく、かつ女らしく、一つ所に留まっていただければよろしいのにと、蛍は毎日聞かされております』
「伊集院にであろう」
『はい』
蛍は軽快に笑う。
『どのみち、止めても聞いてはくださらないでしょうから、何も申しません。くれぐれもお気をつけくださいますように』
わかっているという言葉の後、短い返事で気配は消えた。
しばらくは茫と虚空を見つめていたが、やがて、椅子に深く沈んで指を組む。
一見白く滑らかに見えるが、実際は決してそうではない硬い指先と手の平は、彼女の『希望』を守る為の代償であった。
ノック三回で、介三郎が冴えない顔を覗かせた。まだ先程のことを悩んでいるようだ。
「水無月祭で、体育館の使用許可を申請している団体の代表が、すべて集まったぞ。議事進行くらい、お前がやれよな」
気の抜けた声で、言うだけ言って消えた。
うわの空の介三郎など、議事進行どころか、会議の内容すら頭のどこにもないであろう。
「成瀬抜きの会議などで、お前をアテにはしないよ」
綾が、愛美から奪った写真を光にかざして苦笑する。
二枚目と称しても決して言い過ぎでない容姿の鷹千穂の制服を着た男子生徒と、明らかに一般生徒ではないと見える、厳つい顔の他校生が二人。
他校生はグレイのブレザーにスラックス。胸には、金の円の縁取りに『青』の文字。
それは、名ばかりの小さな川を越えた所に建つ、言わばお隣と言ってもいいほどの距離にある工業高校の制服だ。
あまり良い噂は聞かない高校の生徒と、鷹千穂の問題児が、一緒に写っていることになる。
メガネの奥で、美しい顔が輝いた。
「これを撮ったやつに、感謝したいよ」
翌日。
愛美は朝から、たいして席を離れず、机に踏ん反り返っていた。
「どうしたの、愛美。今日は朝から、ご機嫌ナナメじゃない。速水くんと何かあったワケ」
クラスメイトの吉村里美は、巻き毛に縁取られた顔を覗き込んで問う。
このホームルームが終われば、忙しい放課後だ。愛美たちのクラスは、水無月祭で人形劇をやることになっている。とは言っても、愛美は生徒会が忙しくて、あまりクラスの方には関わっていなかった。
何かあったことを期待する明るい声に、笑って答える気分になれず、
「別に」
と素っ気なく返して、愛美は視線を背けた。
すると、追い討ちをかけるように、幸せ一杯の顔をした女子生徒がいる。昨日、滝口の傍にいた、砂原弥生である。
愛美同様、中学は他校であった彼女は、入学式が終わってすぐ、滝口にアプローチをかけた積極的な少女である。
「そういえば昼に野球部の子が、彼女に何か言ってたけど。いい話でもあったのかな。自分一人幸せですって顔してさ」
やっかみ半分で里美が言っている。
愛美は思わず、里美を睨んだ。
「いいじゃない。幸せなら」
「あんたは、不幸を一人で背負ってるって顔だもんねぇ。可愛くないなぁ。生徒会に立候補する勇気があるんなら、速水くんとさっさとくっつく段取りでもしたら」
「どうして、介三郎くんが出てくるのよ。私が憧れてるのは、滝口さんです」
言い切る愛美の後方の席で、小柄な美少年が笑っている。
里美は惚けた顔を作って、大きくため息をついて見せた。
「あんたさ。あんなに速水くんにベッタリで、よくそんなことが言えるわね。愛美がいるおかげで、速水くんに近寄れない奥ゆかしい女の子がゴマンといるのよ。あんた、知らないでしょ」
「知らないわよ」
売り言葉に買い言葉の調子で言い返す愛美に、里美は肩を落とす。
「そっか。あんた、彼がバスケやってるとこって、見たことないもんね。B組の梶原くんやD組の巽くんも凄いけど、速水くんあってこそだもんね。あんたも一度、練習覗きに行けばいいのに」
大袈裟に嘆いている里美を見ていると、介三郎びいきの髪の長い美人を思い出す。すると、大切な写真を奪われたことまで思い出し、胸焼けを起こしてしまった。
「帰ろう」
いつのまにか終わってしまったホームルームの号令に合わせて立ち上がると、愛美はさっさとカバンを持つ。
「あれ、クラスの出し物、手伝うんでしょ」
当然顔で言う里美に、
「生徒会が忙しいのよ」
と言い捨てて、愛美は教室を出て行った。勿論、生徒会室へ行く気など、まったくなかった。
鷹千穂学園高等部では、水無月祭の準備が急ピッチで進められ、放課後ともなれば、校舎中に活気というより殺気が満ちていた。
今年の水無月祭は三日間。学園の隅から隅までを使い、催しが盛り沢山だ。ちょっとした大学祭くらいの規模になるだろう。ということは、それだけ生徒は忙しいということだ。もちろん生徒会役員などは、目が回ってもおかしくないだろう。
当然、目が回っているであろう生徒会副会長の介三郎は、そんな周囲に気を配りながら、目当てのクラスに顔を出す。
「成瀬、いる?」
手近の生徒に問うと、首を傾げられてしまった。
「まだ、生徒会室には来てなかったんだけどな」
ボソボソと呟きながら、教室の中を見回すが、愛美の影は見当たらない。
介三郎は、広い肩を大きく落として、ため息をついた。
「やっぱ、怒って帰ったのかな。昨日の今日だもんな」
滝口の写真を取り上げたことが、そんなにショックなのかと思うと、余計虚しくなる。
「よぉ、暇そうだな。とても、水無月祭を前にした鷹千穂の生徒会副会長殿には見えないね」
甘い声がすぐ下から聞こえた。見ると、傍に小柄な美少年が立っていた。
介三郎が一点破顔して、愛想を振りまく。
「なんだ、藤也はいたのか。お前こそ、写真部の展示で忙しいんじゃないのか」
見下ろすと、冷たく澄んだ瞳で流し目が返ってくる。
今泉藤也。
介三郎とは、中等部二年の時、鷹千穂に編入して以来の凸凹コンビである。
百六十五センチの細身で、手も足も細くて華奢である。そして、その顔立ちは肌の白さもあってか、美しい造形物である。
細い眉、高くすんなり伸びた鼻筋、長い睫毛が影をつくり、薄い唇は皮肉げに結ばれている。
どこか現実を超越しているこの美少年に、どうやら介三郎は弱いようだ。ただひたすらに、藤也の言葉を待っている。
藤也は、丈高い頼り無い顔を見つめ返した。
「俺はもう、自分のノルマを果たしたよ」
そう答えた後、周りを見渡す。
教室の中では、眉間にシワを寄せた生徒たちが、右往左往している。勝手のわかっている二年生や三年生ならば、春の始めの新クラスでもさして戸惑いはないかもしれないが、一年生は違う。クラスの半数は、この春初めて出会った一般入試者である。
統制が取れない分、教室は戦場だ。とにかく何とか水無月祭に参加できるようにすることしか頭にない。
「どこかの誰かが、水無月祭を盛大にしようなんて言うから、どのクラブもクラスもてんてこ舞いだ。なんで、秋の文化祭でもないのに、ここまで盛大にするんだよ。しかも全クラブ全クラスに参加強制なんてさ」
すっきりと長い首筋を軽く撫でながら、藤也は冷たく言った。介三郎の苦笑。
「それはそうだけどさ。綾には綾の考えがあるんだよ、きっと。それに、確かに皆殺気立ってるけど、まとまって行動するには祭りが一番便利なんだ。これが無事終われば、学園も丸く治められるだろ」
「そうやって、お前があいつの言いなりになってるから、あいつが好き勝手するんだよ。何の為の副会長だよ。副会長ってのは、会長の暴走を止めるのが役割だぞ」
いつもの小言だ。美少年は、その顔に不似合いな口調で介三郎に説教するのが、常のようである。
介三郎は、藤也の説教が長くなる前に、話題を変えた。
「まぁ、そんなことよりさ。成瀬を知らないか?」
「成瀬?」
「そう。ちょっと、相談があるんだ」
藤也は軽く腕を組んで、首を傾げた。
「そう言えば、成瀬の奴、今日は朝からご機嫌ナナメだったな。授業が終わるとすぐ、カバン持ってどっか行ったよ」
帰ったのだろうと、藤也は続けた。
「そうか」
介三郎は俯いて、呟いた。他に言葉が浮かばない。その顔を見上げて、藤也は問いかける。
「どうかしたのかよ」
「ん、実はさ」
介三郎は、昨日、滝口の写真を愛美から綾が奪った経緯を、掻い摘んで説明した。
藤也が呆れた顔で眉を上げる。
「まぁ、いいんじゃないか。成瀬も可哀想だけど、ここは一つ惚れた相手が悪かったと、思ってもらうしかないよ」
その美しい顔を見つめていた介三郎は、激しく瞬きをした。
「お前が、綾の意見に同意するなんて珍しいな」
心底意外そうに言うと、
「俺はあいつに同意したんじゃない。成瀬にとっては良かったことだと言ったんだ」
綾と同じだなどと言われたのがそれほど嫌なのか、藤也は力一杯否定した。
介三郎の間抜けた顔。
「どっちでもいいけどさ。それじゃ俺は、成瀬を追ってみるよ」
とにかく愛美を捉まえたかった。
早々に立ち去ろうとする介三郎の腕を、細く長い指先で引き留め、藤也は声のトーンを落とした。
「ところで、介。お前、野球部について何か、ヤバイ噂を聞かないか」
「野球部? 滝口って、女の売り買い以外にも、まだ何かやってるのか?」
怪訝な顔で問うと、藤也が少し黙り込む。
「そうか。知らないならいいんだ」
痺れを切らして立ち去ろうとする介三郎の背中に、藤也の小さな声が聞こえた。
介三郎は全速力で走った。
日頃バスケット部で鍛えている足は、伊達ではない。
愛美の通学路は知っている。
咲久耶市南区の中心部とベッドタウンの狭間に位置する鷹千穂学園の生徒は、ほとんどが電車通学だ。最寄りの駅は二つ。
学園を出て五分歩くと大きな公園があり、そこを通り抜けて、県道を隔てた商店街を最短距離で十分歩くと、西駅につく。一方、東駅へは、住宅地を通り抜けていくコースとなり、遠距離通学の生徒には不案内な為、避けて通りがちだ。介三郎のように、住宅地に住む生徒でなければ通らない。
愛美は電車通学であり、西駅を利用していた。
案の定、介三郎は、公園を入ってすぐに愛美に追いついた。
公園は広く、噴水広場や遊具のあるスペースと、林道や植え込みなどのある緑地スペース、小さなお店が集まった休憩所スペースがあり、林道に沿った植え込みの中は、芝生が手入れされ、夜ともなればアベックが点在するが、今はまだ夕刻だ。確かに学生たちが所々にたむろしているが、怪しい雰囲気はなかった。噴水広場の方も、穏やかな散歩風景と談笑で和んでいる。
介三郎は、広場の一角で愛美を捉え、その背後から顔を出した。
「昨日のこと、まだ怒ってるの」
恐る恐る尋ねると、冷たい視線が返ってくる。
「介三郎くんには、関係ないことだわ」
素っ気ない言葉を並べる愛美。小柄だが、気迫は介三郎を凌いでいる。思わず介三郎は身を引いた。
「私、当分生徒会室には行かないから」
眼光鋭く虚空を見つめ、愛美は唸った。
慌てて介三郎が、愛美の前に立ちはだかる。
「そ、それって、俺、困るよ。成瀬に手伝ってもらいたくて、下準備して待ってたんだ。お願いですから、手伝ってください」
口ごもりながらもそう懇願するが、小さな少女からは、明らかな侮蔑の笑いが返ってきた。
「介三郎くんが手伝って欲しいんじゃなくて、綾がそう命令したんでしょ。いくら生徒会長だからって、横暴だわ。私なんかじゃなくて、他の二年生の役員に手伝ってもらえばいいじゃないの。滝口さんの悪口を言って、私から写真を奪って、それで介三郎くんを手伝えなんて、身勝手過ぎるわよ」
公私混同しているが、綾に対する怒りが、今まで積もっていたのだろう。すべて吐き出すように、愛美は介三郎に食ってかかった。
介三郎が、ドギマギしながらも、愛美の顔を覗き込むように背を丸めて、
「そりゃさ、写真のことは綾が悪いし、確かに強引で、身勝手で、横暴かもしれないけど。でも滝口に関しては、・・・どう言ったらいいかな・・・とにかく、成瀬が心配だから、あんな言い方をするんだと思うよ」
そこだけは理解して欲しかった。
「とにかく、どっか座って話さないか。ポップコーンでも買ってさ」
怒りで煮えたぎっている愛美を、何とか宥めすかして、介三郎は林の一角に誘う。
「食べ物くらいで、機嫌は直らないわ」
咬み付く愛美に、特大ポップコーンを買って来て、二人並んで座った。
食べ物に釣られないと言いながら、いざポップコーンを手にすると、笑ってしまう。
愛美はしばらく、無言でポリポリ食べていた。
介三郎が長い足を抱えて、横目でそれを見ている。何か眩しいものでも見ているように、目を細めて。
愛美がおもむろに、ため息をついた。
「こんなことなら、役員になんかなるんじゃなかったわ。一年生は私一人だし」
「俺と綾も一年生だよ」
「介三郎くんと綾は別格よ。中等部から鷹千穂にいて、生徒会にも関わってきたんだもの。私は新参者でしょ。介三郎くんがいなかったら、とっくに役員なんて辞退してるわ」
これを聞いて、介三郎の鼻の下がいささか伸びた。しかし愛美は気付かず、一層憂鬱そうに踏ん反り返る。
「だいたい綾ってば、無理やり立候補届けにサインさせてさ。どうせ投票で落選すると思ったら、いきなり書記立候補は私一人になって、信任投票なんだもの」
そして、あれよあれよと言っているうちに、当選してしまった。元より、信任投票とは名ばかりで、立候補者が一名になった時点で当選したも同じだ。介三郎もそれで副会長になった。
「滝口さんを見ることが、唯一のストレス解消法なのに。それをあんなデタラメを言って、ぶち壊すんだもの」
愛美はそう言うと、ヤケ食いの如くポップコーンを口一杯に押し込んだ。そんな彼女を見ていると、黙っているのが苦痛になる。
周囲の植え込みが、外界と二人を隔てている。
言うなら今だ、今しかないぞ。桜咲く季節から抱いている想いを打ち明けるんだ。
とにかく、言おう。
長い身体を小さく折り畳み、密かに握り拳を振りながら、決心。
「成瀬、実はな」
と意気込んで、彼女の方を向くと、彼女も彼の方に身体を寄せて、
「そう言えば、さっき滝口さんがどうとか言ってたけど、何?」
と、さして聞く気もないが、知らないのも癪という顔で問う。その瞳に介三郎の顔が映りこむほど、二人の顔が接近してしまった。
介三郎は思わず、生唾を飲み込んだ。
「ねぇ、介三郎くん。何なの?」
なおも、真顔で詰め寄る愛美。
可愛い・・・。
大きくて綺麗な瞳が、まっすぐ自分を見ている。甘い香りは、コロンかな。あと少し、ほんの少し手を伸ばせば、白い頬に触れられる。
「? 介三郎くん、どうしたの?」
愛美は小首を傾げて、目前の少年の瞳を覗き込んだ。
この状況で黙っていられるはずはなく、介三郎は意を決したように息を飲み込み、想いを達そうとした。その時、突然植え込みがざわめき、何かが飛び出して来た。
愛美は、公園中響き渡るほどの悲鳴を上げて、手に持つポップコーンごと介三郎の腕の中に逃げ込んだ。
それを受け止めて、闖入者を見た介三郎が、上ずった声で指を指した。
「あっ、綾ぁ?」
勢いよく飛び込んで来たのは、紛れもなく綾だった。全身黒ずくめの軽い服装で、いつもの野暮ったいメガネを外している。
「綾なの?」
なおも介三郎の胸にしがみ付いたまま、愛美は顔だけ闖入者に向けた。
驚いたように目を丸くして立ち尽くしている長い髪の美人は、確かに綾だ。綾は静かに二人を見下ろしている。
「お邪魔だったかな」
惚けた声に二人が気付き、互いに抱き合った状態にあることを認識して、離れた。
どこからか野太い声が幾つも聞こえる。
「おい、綾。なんだよ、あれは」
問うと、綾は軽くレーダーのように頭を振った後で、
「こっちへ来るようだな」
と呟いた。
「追われてるのか?」
介三郎もまた、辺りを見回す。植え込みの向こうに、人影がちらほら見える。その体格と野太い声から察して、上品なお嬢様たちとは言い難い。
「成瀬の悲鳴のせいで、こちらに来るんだ。責任を持って、追い払ってくれ」
「そんなぁ」
冷めた綾の口調に、愛美が立ち上がり抗議しようとするが、即遮られる。
「介三郎。私はここに来なかった、お前は私を見なかった。いいな」
そう言い含めて、彼女はまるで猫のような身軽さを見せて、二人の脇にある大木の上に消えた。野太い声が、異様な圧迫感と共に近づいてくる。
「成瀬だけは、巻き込むなって言ったのに」
不可抗力とは言え、間違っても避けたかった事態にやや閉口して、介三郎は愛美を見た。かつて感じたことのない緊迫した空気に怯えているのか、彼女は身体を縮めて辺りを見渡している。
「追い払えって言われても、困るよぉ」
愛美の責任と言われては、さっさと逃げるわけにもいかないのか、彼女は心細い声を出す。
そして、介三郎は再度決心するのだ。
想いを打ち明けつつ、彼女を守る。これで、一石二鳥だ。
何の疑問も持たず、介三郎は行動に移った。愛美は近付いて来る遥か丈高い少年を見上げて、眉をひそめる。
「どうするの。介三郎くん」
そう問う愛美に、両手を差し出しながら、介三郎は真顔で答えた。
「こういう時って、ラブシーンでやり過ごすのが一番だと思う」
一点の曇りもない。
愛美はこれを聞いて、唖然と彼の顔を見上げた。
何考えてんの、こいつ。
植え込みを踏み倒すようにして、男四人は狙い定めた場所へ飛び込んだ。
どの顔も厳つく、猛者という感じで、体つきも大きくブレザーの肩は盛り上がっていた。
走りこんだ場所にいたカップルのうちの男は、間延びした顔で四人を凝視している。驚いた風で、四人を見つめているが、少なからず「邪魔をされた」苛立ちが見えなくもない。何かを抱き抱えるようにしているが、その丈高い身体に隠れているスカートが見える。
「確か、こっちで声がしたよな」
猛者の一人が赤面しながら、他の三人を見る。その問いに他の三人が頷いた。
「あぁ、俺もそう聞こえた」
「俺もだ・・・。もしかして・・・」
四人の猛者の視線が、介三郎の視線と合う。介三郎がビクリと硬直して口ごもる。
「なっ、何か用ですか」
怖気づいたような声でそう答えながら、胸に抱いた愛美の身体を、一層男たちから隠すように背を向けた。
愛美は、介三郎の心臓の音が聞こえるほどに抱きしめられ、気が気でなかった。
背丈があまりにも違い、愛美は爪先立ちだ。それでも介三郎の胸は覆いかぶさるように愛美を包み、細く長い腕が背を回り、大きな手の平を肩と腰に感じる。介三郎の心臓同様、愛美の心臓も早鐘を打ち、身体が震える。
何よ、これ。
介三郎は、必死に言い訳するように、四人に言った。
「僕たちは、何もしていませんが・・・」
そう言い逃れながらも、介三郎は素早く男たちの格好を見た。
グレイのブレザーにスラックス。胸に「青」の校章がついていた。
鷹千穂学園とは狭い川を挟んだ位置に建つ、青島工業高校の生徒だ。素行の良くない生徒の割合が異様に高い問題校である。
相対している四人の男子生徒には、顔の所々に傷がある。
「お前たち、鷹千穂の奴らか。いつからここにいるんだ」
男の一人が遠慮がちに言う。厳つい顔に似合わず、耳まで真っ赤な奴だ。
ふと、愛美は介三郎の影に隠れながら、猛者たちを見た。そのうちの二人を、どこかで見たことがあるような気がする。
「えっと・・・いつからって・・・。授業はちゃんと出ましたが・・・」
「授業が終わってすぐ、彼女を連れ込んだってことか?」
「連れ込んだって・・・」
介三郎が赤面して言い返す。少し怯えた様子を見せて、
「いきなり現れて、なんですか。もしかして、僕たちのことを学校にバラすんですか? 見たところ、青島工業の人たちのようですけど」
と言って反応を見る。案の定、学校名が出たとたん、猛者四人の態度は一変して凶暴になり、顔は鬼面となる。
「余計なことは、言わなくていい」
「いつまでそうやってくっ付いている気だ」
「さっきから隠しているその女を、こっちへ渡せ」
四人がかりで詰め寄って、介三郎から強引に愛美を引き離した。
「彼女に何をするんです」
「嫌よ。離してったら」
介三郎の驚愕と、愛美の抵抗。
猛者たちは、抗う愛美の手を双方から捉えて、顔を見た。
「違うぞ」
誰かが呟く。
「こいつじゃない。確かもっと髪が長かった」
一人が言うと、他の者も思案顔になる。
「そうだな。そういえば、こんな縮れ毛じゃなかったようだ」
「背ももっと高かったぞ。こんなチンチクリンじゃねぇ」
「もう少し、痩せていたようにも思うし・・・」
愛美は、頭越しに聞こえる失礼な言葉に憤慨した。
・・・勝手に言ってよ。
猛者たちの言葉は、コンプレックスという形で、いつも重く彼女に圧し掛かっているものだ。少なからず傷ついてしまう。
「まぁ、いい」
愛美を離しながら、一人が気を取り直すように言った。
「お前ら、こっちに女が一人逃げて来なかったか。髪が長くて、女にしては背が高い」
大きな図体の奴が、身振り手振りで女の特徴を教える。
「さぁ、わからないな」
介三郎は惚けながら、愛美を再度引き寄せて、自分の背後に隠した。
「僕たち、そんな周囲のことなんか、・・・見てなかったし・・・」
頭をポリポリかきながら照れて見せる介三郎を、「そうだろう、そうだろう」と猛者四人が納得して、
「かまわず続けてくれ」
「邪魔したな。俺たちのことは忘れろよ。いいな」
その場を立ち去りかけた。猛者四人はすでに、介三郎も愛美も眼中にない。一人が背を向けながら、眉をひそめて呟いた。
「何としても、ヤツを捕まえないと。試作品を持って行かれたんだ。ただでは済まん」
遠ざかる声は、確かにそう聞こえた。
介三郎は、四人を追い払ったことに満足しながらも、一抹の不安を拭いきれずにいた。
「ご苦労だったな。助かった」
降って湧いたように現れた綾に、思わず迫ってしまう。
「いったい何をやったんだ。奴ら、一般生徒じゃないぞ」
「ちょっとな」
まるで世間話の綾の態度に、介三郎が喚こうとした時、愛美が握り拳を振り上げて、叫んだ。
「どうせ私はチビで、縮れ毛で、太ってるわよ。綾みたく美人じゃないし、介三郎くんみたく背も高くないわ。だからって、どうしてあそこまで言われなきゃならないの。何で、介三郎くんに抱きしめられなきゃならないのよ」
綾の眉間にシワが寄る。
「成瀬、少し声を下げろ。せっかく追い払ったのに・・・」
「うるさいわね。介三郎くんとのラブシーンは、綾がやればよかったのよ。どうせ、そういう仲なんだから」
「なんで、そうなるんだよ。俺は・・・」
介三郎はムキになって言い返す。
「だから、そういう話はだな・・・」
綾はこめかみを押さえながら、ぼやいた。
二人のやり取りを聞いている暇はない。先程の追っ手が、引き返して来ないとも限らないのだ。
「とにかく、急いでここを離れろ。次はラブシーン如きでは騙せない」
言っているところへ、先程の猛者の一人が顔を出す。
「見つけたぞ」
野太い声が、限界とばかりに叫んだ。他の三人が、呼応するのが聞こえる。
「そら見ろ、逃げるぞ」
低い声は、切迫していた。
「どうして私まで、逃げなきゃならないのよ」
綾に引きずられるように右手を掴まれ、愛美は思わず抵抗した。介三郎が愛美を宥めようとした時、反対側から怪力が迫る。
「お前ら、グルだったのか。さぁ、盗んでいったモノを返してもらおうか」
猛者の一人が愛美と綾の間に割って入り、その大きな手で愛美の巻き毛を鷲掴みにした。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」
愛美の悲鳴が、公園に響く。
「なんてことするんだ」
狼狽する介三郎の叫びと、綾が動いたのはほぼ同時だった。
忿怒形の猛者の手首を掴み、ねじ上げて、愛美から引き離す。
「女の扱い方を勉強するんだな」
低音が冷たい。その細い腕にどれほどの力が入っているのか。猛者は顔をしかめて、綾を睨んだ。
「お前も、鷹千穂か」
苦し紛れの問いは、綾の放った手刀で途切れた。
助けられ、介三郎に向かって放り出された愛美は、大きな瞳を見開いて、その光景を凝視した。
想像したこともない光景だ。
普段の冷ややかな態度は常に最小限に止められ、落ち着いた、緩慢とも見える綾が、目前で大男を軽々と捕らえ、打ちのめした。猛者は殴られた顔を押さえて、地面にうずくまっている。
「奴らに捕まって痛い目を見たくなければ、走れ」
綾は視線で介三郎を促し、冷めた口調で呟く。一人は倒しても、後三人残っている。尋常ではない気配を察してか、三人ともこちらへ向かって来ている。
愛美は綾に釣られて走った。そうせずにはいられない何かがあった。介三郎が二人をフォローするように、後に続いた。
公園の中は、少ないなりにも人目があった。それらを横目に、追う方も追われる方も全力で走り抜ける。
倒れた仲間を叩き起こし、男三人は決して諦めない決心でもしているのか、死にもの狂いの形相で追ってくる。
「撒けそうにないな。成瀬には悪いが、少し恐い思いをしてもらうぞ」
後方を見やりながら、息一つ乱さず走る綾に、介三郎が抗議。
「あれほど、巻き込むなって言ったのに」
「グダグダ言う前に走れ。いざとなったら奴ら、抜いてくるぞ」
綾は迷わず、人気のない方角を目指した。すぐに鬱蒼とした森を思わせる敷地へと、足を踏み入れる。
神社だ。
照明のない場所を選ぶように、綾は走り、二人が続く。
夕暮れ時だ。
公園とは違い、こちらは人っ子一人いない。
小さな祠が脇に並び、古びた大きな社が、周囲の生い茂ったクスノキの中で、侘しく闇に沈んでいる。社務所は固く閉じられており、ずっと以前から使われている様子はない。
三人の男は辺りを見渡した後、お互い顔を見合わせて一様に頷いた。追い付いて来た一人も、無言で答える。懐から取り出した四つの鉛色の塊。温かさのカケラもない。それに細い筒を接続して構えた。
バスッ。
鈍い音と共に、愛美の前方で木の枝が弾けた。
「奴ら、サイレンサーまで持っているのか」
愛美を庇うように走りながら、呆れ返っている綾が呟く。介三郎のこめかみに冷や汗が浮かんだ。
「あ、綾、あれって・・・」
走る速度を落とさず問うと、答えは後方にいる猛者三人がしてくれる。
次々と、周りの樹木が削れていき、時折、足元を何かがすり抜けていく。
「何なのよ。いったい・・・」
尋常でない事態に、パニック状態の愛美が耐え切れず叫んだ。
まるで追い討ちをかけるように、大きな枝が炸裂し、愛美の頭上目掛けて落ちてくる。
「危ない」
間一髪で綾が愛美を横抱きにしてかわし、物陰に入った。介三郎もそれに続く。その瞬間、建物に何かがかすった。
綾の舌打ち。
「あれが滝口の友人かと思うと、腹が立つ前に呆れるな」
耳元にあった綾の口から、そんな言葉。
愛美は、思い出した。
そうだ。あの男たちのうちの二人。どこかで見たことがあると思ったら、昨日、綾に奪われた滝口の写真に写っていたのだ。親しい様子で。
愛美は、自分を抱き留めている綾の顔を見上げた。厳しい瞳を周囲に配り、キツく唇を結ぶ。その美しい顔の向こうに何かが見えた。今まで気付かなかった、何かがある。
まさか・・・。
「おい綾、説明しろよ。あいつらが持っているのって、拳銃じゃないのか」
事態の深刻さに介三郎は詰め寄ったが、答えの代わりに愛美を渡された。
「黙って成瀬を守っていろ。奴ら、分かれたな」
呟きながら、脇に下げたポーチから手榴弾のようなものを取り出す。
「おい、お前。それって、バクダン?」
介三郎は、ただただ絶句した。
綾が一発、介三郎の頭を殴った。
「お前は声が大きすぎる。心配するな。これは、鷹沢の技術スタッフが開発してくれたストロボ光弾だ。ピンを抜いて3秒で発光する」
鷹沢グループと言えば、学校や病院の経営などは、ほんの一端でしかない大手企業だ。いくつもの分野で業績を伸ばしている。その大手が研究と目して、玩具から護身具に至るまで開発していたとしても、あまり驚きに値しない。
鷹千穂学園理事長は、その鷹沢グループの会長でもあった。そして会長の娘は、学園経営だけでなく、グループの経営についてもかなりの発言権を持っていることは、介三郎の知る所だ。
しかし、
「そんな光り弾で、どうやって拳銃相手に戦うんだよ」
と介三郎は、一般的な意見を言った。
介三郎の腕につかまっている愛美も、同じ意見のようだ。
綾が、いつもの冷めた顔で言い返す。
「見ていればわかる」
「あのな、『赤い梟』をやった時とは違うんだぞ。わかっているのかよ」
顔だけ派手に怒り、声はひたすら小さくした介三郎が、高みから睨んだ。
自信に満ちた微笑が返ってくる。
「簡単だということは、わかっている。相手はたかだか四人だ」
「全然、わかってないぞ」
介三郎は唸った。
猛者たちの気配が四散する。
「来るぞ。伏せていろ」
綾は声だけで制した。
介三郎は愛美を守るように身を伏せる。その長い腕の中で、愛美は耳を塞ぎ目を閉じて、介三郎に身を寄せた。
綾は呼吸を整えて、気配を感じた。
その長く美しい栗色の髪が、暗がりの中で光を帯び、その双眸が妖しく光る。
標的が動いた。
右に一人、左に二人。一人は回り込んでくるのか・・・。
「介三郎」
「何だよ」
「成瀬から離れるな」
綾は、手の中にあるストロボ光弾のピンを抜いて、物陰から投げた。それに向かって何発か発射されるが、当たらない。
一.
綾は、ウェストポーチの中から黒い歪な塊を取り出し、右手に握る。
二.
黒い塊は歪な形の為か、それは綾の手の平にしっくりと馴染み、親指と人差し指の間から短い鏃が突出し、小指から手首にかけては、太めの丸みを帯びた形状が、手刀を放つ時に手を保護する。
三.
ストロボ光弾が炸裂した。
拳銃を構え、物陰を凝視していた三人の猛者たちの目をくらませる。
「ぐわぁ」
人の声とは思えぬ叫びが、神社にこだまする。
猛者たちは、拳銃を握りしめた手で必死に顔を押さえ、一瞬視力を奪った光を追い払うように激しく頭を振った。
綾が、軽く地面を蹴り、攻撃に移った。
上体を低く保ちながら風を斬るように走り抜け、右手に握り締めた塊を一人の顎に向かって振り上げる。男は呻き声一つで地に伏した。その勢いを利用して、隣にいた男の鳩尾に放った。硬く丸みを帯びた部分が腹部にめり込み、男は嘔吐しながら倒れた。
介三郎が、愛美を腕に守ったまま物陰から出てくる。
遠く、綾の髪が光を放ち、まるで陽炎のように浮き上がった。
愛美は介三郎の腕の中から、黄金に輝く女を見た。確実に猛者を仕留めていく綾の表情には、自信に満ちた微笑があるだけだ。
威風堂々と立ち上がり、綾は三人目を見た。
かすむ視界を叱咤しながら、猛者は気配を感じる方向へ銃口を向けた。
「クソッ」
綾は咄嗟に上体を伏せ、右足を振り上げた。男は首筋を蹴られ、卒倒した。
綾は、倒した三人に一瞥をくれて、介三郎と愛美の傍に立つ、残り一人に視線を合わせた。
「そこまでだ、女」
猛者は、愛美を庇う介三郎の広い胸に銃口を当て、綾を睨んだ。公園で綾に打ち据えられた男だ。
「よくも土を舐めさせてくれたな」
呪い文句でも唱えるような、低く濁った声だった。
綾が眉を微かに動かして、悠然と構える。
「礼はいい。ここまでご足労願ったのだ。改造拳銃の仔細でも話してもらおうか。鷹千穂の滝口守は、いったいどこまでこの件に関わっている」
介三郎と愛美が人質になっているとは思えない、余裕のある声が続けた。
「滝口のいう『おもちゃ屋』では、お前の今持っているその塊も売るのか?」
猛者の方が、顔色を無くしている。
「貴様・・・・どこまで知っている」
「知らないから、訊いているのだ」
失笑する綾は、あくまでも悠然と立っている。
介三郎の背に隠れ、緊迫した状況を見つめる愛美の脳裏に、水無月祭のリストがよぎる。
喫茶室、焼きそば店、お化け屋敷などと並ぶ中、野球部の出し物は『おもちゃ屋』・・・特撮ものなどのグッズに紛らせてオリジナル・・・。
「まさか」
滝口は水無月祭で、改造拳銃を売ろうとしているのか。問うように介三郎の腕を引くが、答えは返らない。
介三郎の脳裏には、今泉藤也の思わせ振りな言葉が浮かんだ。野球部のヤバイ噂。新しい商売。それを答えれば、自然愛美を巻き込み、傷つけてしまう。それだけは何としても避けて通りたい。
綾も、それは同じだろう。
「お前たちの言う試作品とやら、誰に売るつもりで大量生産している。堅気の生徒を巻き込もうって言うなら、こちらにも考えがある」
「どうするつもりだ」
「叩き潰すまでだ」
揺るぎ無い答えが、届いた。猛者に握られた拳銃が、介三郎の胸に突き付けられる。
「状況が分かっていないようだな。もし、盗んでいったものを返さないと言うなら、こいつの胸に風穴が開くぞ」
「それがどういう意味か、分かって言っているのか。そういう行為を一般に、殺人というのだ」
「うるせぇ。その手に持っている変な道具を捨てて、試作品を持って来い」
猛者の大きな怒声に、足元に倒れている男たちが反応し始めた。じきに目が覚めるだろう。
綾は、降参の意味で左手を上げ、右手をゆっくりと差し出し黒い塊を落とした。
それを見て、介三郎から銃口を外し、猛者は自分の持っている銃を綾に向ける。
綾の黄金の瞳が、暗がりに光った。
「介三郎!」
綾は一言叫ぶと、手首に仕込んでいたナイフを猛者の右肩に投げ、地面を蹴ると、落とした武器を拾って猛者に向かった。
その一瞬の間に、介三郎は背にいる愛美を抱えて逃れた。
猛者は、右肩に刺さったナイフを抜くと、向かってくる綾に銃口を向けて、撃った。
咄嗟に耳を塞いだ愛美の視界の端で、弾丸を難なく避けた上、男の顎に一撃を加える黄金色の瞳の女が映る。
「ゴガッ」
鈍い声を発して、男は意識を失った。血と涎で汚れた顎は、おそらく砕けているだろう。
綾は軽く息をつくと、足元に転がる拳銃を拾い上げた。
「こんなものを持ったからと言って、強くなるわけではないのだ」
吐き捨てるような小さな声を、愛美は茫然と見つめていた。
カタが付いたのを見越して、介三郎は離れた場所に転がる三挺の拳銃を拾って、綾に差し出した。
「これで全部だろうな」
呆れた口調で差し出す手から、綾は拳銃を受け取ると、ポーチの中から布袋を出して収めた。
「相変わらず度胸だけはいいな、介三郎。この状況で、普段と変わらず動けるのは、堅気の男ではお前しか知らない」
黄金色の薄らいだ瞳が、満足そうに笑っている。介三郎はというと、少し居心地が悪いようだ。
「それを藤也に言ったら、緊迫感とかと無縁の極楽トンボだからだってさ」
「それは、あるかもしれないな」
真顔で同意して、綾は遠く聞こえる喧騒に耳を傾けた。
「これだけ騒げば、放っておいてはくれないか。警察も来るかもしれないな」
介三郎には聞こえないが、綾が言うからにはそうなのだろう。
「じゃ、事情を説明して、拳銃とこいつらを渡せばいいじゃん」
いつものあっけらかんとした介三郎の声を聞くと、綾の目が半分閉じる。
「成瀬を巻き込みたければ、そうするが」
綾は、少し離れて茫然とこちらを見ている愛美を見た。
「学生とはいえ、ことは拳銃だぞ。只では済まない」
介三郎は黙った。黙るしかなかった。
改造拳銃だけでも厄介なのに、この件に愛美の想い人である滝口が関わっているかもしれない。愛美の泣き顔など、見たくなかった。
「行くぞ」
綾の声に、二人は続いて走り出した。
神社を抜けて雑踏に紛れると、綾はおもむろに携帯電話を取り出して、どこかへ電話する。
「でも、どうするんだ、綾。警察には行かないんじゃ、あいつ等のこと野放しにしとくってことなのか」
なおも愛美をフォローするように立ちながら、綾を見る介三郎の顔が不安そうだ。
綾が電話を終えて、介三郎を睨んだ。
「冗談ではない。あ奴らを野放しにしたままでは、おちおち寝てもいられない。だからと言って、あんな雑魚の為に鯛や鮪を逃してたまるか。いずれケリはつける」
「でも、拳銃だぞ。単なる喧嘩じゃ済まない。危険すぎる」
介三郎の口調には、微かに切羽詰ったものを感じる。綾のことが心配で、綾しか見ていないという声だ。
「私、帰るわ」
恐怖と不快感がゴチャマゼになっている愛美は、早く帰って気持ちの整理をしたかった。
滝口がこの一件に関わりがあるのか、それとも綾に奪われた写真に写っていた青島工業の生徒が、先程の四人の中にいるのかどうか、・・・確かめたい。
綾はまた、どこかへ電話をしながら、
「いや、自宅に帰るのは危険だ。成瀬、今日は念の為、安全な家へ行け」
と言いながら、車の通りに出た。
「それって、どこだよ」
介三郎の方が気になって問うと、意地悪な顔が返って来る。
「万里子のところだ」
「マドンナ?」
と、愛美は呟き、
「ゲッ、マドンナのところへ行くのか」
と、介三郎は怯えた。
マドンナこと真行寺万里子といえば、鷹千穂学園高等部三年生で、地元をまとめる真行寺一家の跡取り娘だ。その美しさ優雅さから、慕う生徒も多いが、一方で、そのお家柄に恐れを抱く者も多い。
ミーハーを自称しているとはいえ、愛美は後者の部類で、万里子に近づくことはないだろうと思っていた。
「介三郎、成瀬をちゃんと送り届けろ。それから、先程のことを万里子に報告しておいてくれ、何もかもな」
携帯電話でやり取りをしながら素っ気なく言う綾に、ベンツが近づき停車した。
「これに乗れ。成瀬、今夜はもう、何も考えるな」
介三郎の心配顔には、手をかざして制止し、
「万里子の家に泊まるのは、成瀬一人だぞ。お前は万里子に送ってもらえ」
これに複雑な表情を浮かべ、介三郎は言い返した。
「お前は、どうするんだよ」
ベンツに押し込まれながら喚く介三郎に、綾は一言、
「私のことは、気にするな」
と流し目をくれて、その場を離れた。
ベンツに乗って大きな日本建築の門を二つくぐると、そこは別世界だった。
車寄せにベンツが止まると、見るからにテレビの中の悪役といった感じの男たちがズラリと並び、恭しく後部座席のドアを開けてくれた。
愛美は、思考回路が止まっているような顔だが、一方介三郎も引きつったような笑顔を浮かべて適当な挨拶を返している。
数いる男衆の先に立ち、威風堂々と構えていた黒いスーツの男前が、介三郎の前に進み出て、軽く礼をした。左頬に十文字の傷があり、それを隠すように無造作に髪を伸ばし、毛先近くを朱色の紐でくくっている。おそらくは二十代半ばだろう。しかし貫禄は率いる男衆の誰よりも抜きん出ていた。
「先程、鷹沢の令嬢より連絡がありました。こちらへ」
二人に向かって礼をし、先にたつ。
つい目を見張ってしまうほどに威厳すら感じるこの男が、真行寺一家の若頭、五十嵐飛水である。
介三郎はすでに顔見知りであるせいか、通り一編の挨拶を返したが、愛美は思わず口をポカンと開けて、雰囲気が尋常ではないこの男を見つめてしまった。
飛水の後について、檜の匂いが漂う長い廊下を何度か曲がり、飛水はやっと止まった。
「こちらでお待ちください。じきにおいでになります」
飛水は、介三郎と愛美が部屋に入ると、襖寄りに膝をつき、それだけ言って下がっていった。
何畳あるのだろうか。気の遠くなるようなだだっ広い居間に、二人取り残されて、愛美は途方に暮れていた。介三郎も、どう言えばいいのか分からない様子で、立ち尽くしている。
「介三郎くんは、マドンナとは親しいの?」
愛美は俯いたまま、問うた。愛美から見れば、先程からの介三郎の態度は、頼りなげではあるが、どこか慣れを感じる。
介三郎は、どう答えようか迷った後、頭をポリポリかきながら、言った。
「マドンナと綾は、鷹千穂の幼稚舎から一緒で、家ぐるみの付き合いがあるから、よく知ってるんだ。それで俺も、綾に連れられてマドンナのサロンには行くけど、この屋敷は数えるほどしか来たことがないよ」
言葉には嘘はないだろうが、どこか違うような気がした。
「本当は、介三郎くんも、マドンナとかなり親しいんじゃないかな」
「え」
「さっき、綾にマドンナのこと訊き返した時、そう思ったの。介三郎くんは、マドンナのことすごく苦手そうだった。ってことは、苦手意識を持つくらいには、親しいってことでしょ」
介三郎は、二の句がつげない。
変なところで、とても勘の良い愛美である。それはすぐに証明された。
飛水がもう一度、襖寄りに現れた。
その後ろから居間に入ってきた女人は、校内で見るよりも数段美しい。高等部三年生であるが、いくらか大人びて見える。
艶やかな振袖に身を包み、裾を長く流して歩く度に衣擦れの音がする。豊かに波打つ髪を結い上げて、簪を一本粋に挿していた。背は綾と同じくらいだろう。
真行寺万里子である。
学園内ではマドンナの愛称で呼ばれ、彼女が好むグランドピアノのある教室は、特別に彼女のサロンとして、学園側が使用を許可していた。
世にも美しい女人は、甘えるように白い指先を伸ばして、介三郎に近づいた。
「綾からの連絡を受けてから、時計ばかり見ていましたわ。介三郎さんがいらしてくださることなんて、滅多にないことですもの。綾にしては気の利いたお遣いですこと」
頼りなげに立ち尽くしている丈高い少年が、それほどまでに愛しいのかと疑いたくなるような羨望の眼差しが、彼女の美しく整った容姿を一層艶やかなものにしていた。
一方、甘い声と真っすぐ見つめる眼差しを間近に狼狽して、介三郎はひたすら視線が定まらず、後ずさりしていた。
どうやら介三郎は、心底この万里子が苦手のようだ。白い指に取られた腕を離したいようだが、しかし振り切ることもできそうにない。同じ場所に一人立ちつくし、この光景を遠目に見ている愛美は、段々胸の奥が煮えたぎるようで、心持が悪い。
飛水はといえば、女主人の興じように苦笑を向けただけで、どこかへ行ってしまったようだ。どうもいつものことらしい。
尚も続けようとする万里子に、介三郎は真っ赤な顔のまま勇気を出して、話を切り出した。
「マドンナ、俺のことよりも、成瀬のことなんですけど」
裏返った声。介三郎が少し愛美を気遣うように視線を向けたが、その様子も今の愛美には鬱陶しいだけだ。
すると、万里子は一層艶やかに微笑み、介三郎から離れて愛美の手を取った。
「貴女とは、一度ゆっくりとお話したいと思っていましたのよ。綾には何度も、わたくしの所へ連れて来てくださるようにお願いしていたのだけれど、まったく取り合ってはくださらなくて」
間近に見る学園の憧れの女性は、想像とはまったく違っている。
少なくとも愛美は、万里子のことを「恐い女」と思っていた。家柄もあるが、学園側に特別待遇を受けているということもあった。しかし実際は、穏やかで明るい聖女のようだ。
万里子のサロンに、何故少々内気な普通の女子生徒が集まるのか、分かるような気がした。
厳しく冷たい綾の雰囲気とはまったく別の、柔らかで温かい表情が、万里子の美しさを人懐っこいものに変えていた。
ならば、もっと好感を抱いても良いはずだ。なのに、何故か愛美の胸の中には、彼女を遠ざけたい何かがあった。
万里子は、愛美の表情を読むふうもなく、どこか羨望するようにその丸く可愛い顔を見つめた。
「介三郎さんが好きになった方ですもの、どんな方か知っておきたかったのです。介三郎さんに見初められるなんて、羨ましいわ。わたくしが二つも年上でなければ、貴女のライバルに立候補しますのに」
「マ、マドンナ!」
介三郎が途端に口ごもる。
「はぁ・・・」
一瞬、愛美は何を言われたのか分からなかった。思わず間の抜けた声を出してしまう。
万里子は笑顔で続けた。
「介三郎さんったら、会えばいつも貴女のことばかりおっしゃるわ。わたくし、時折憎らしくなって、つい介三郎さんを苛めてしまいますの」
まだ充分飲み込めないのか、愛美はポカンとして万里子の顔を見つめていた。
高い場所で、頼りない間抜け顔がうろたえている。
「マドンナ、落ち着いてください。滅多なことはいわないように」
介三郎がアタフタと騒ぎたてても、もう遅い。こんなことならば、先程意を決した時に思い切って告白しておくのだったと、後悔するばかりだ。
愛美は、万里子の言葉にどう返せばいいのか分からなくて、茫然としてしまう。
介三郎の居直った咳払い。
「マドンナ、とにかく。綾からの話があって来たんです。俺の話は、後回しにしてください」
すでにゆで蛸と化している介三郎は、愛美を見ないように言った。
万里子が鮮やかな笑顔を作り、軽く手を叩いて合図する。また、襖寄りに飛水が現れて、一礼する。
万里子はそれを確かめて、愛美を見た。
「成瀬さん、貴女少し席を外してくださいませんか」
「何故ですか」
思わず、逆らってしまう。
万里子は一度、介三郎の顔を見上げた後、愛美を見つめ、
「貴女がいらっしゃると、介三郎さんが緊張して上手くお話してくださらないのです。いつまで経っても肝心なことが聞けませんわ。そのまま夜が明けても、わたくしは構いませんが、介三郎さんはお困りでしょう?」
意味ありげに笑う万里子は、何ともなまめかしい。介三郎はただひたすら絶句するだけだ。
この様子では、自分がいなくなっても同じか、それ以上にお話にならないのではと思ってしまう。
そんなことを考えていると、傍に、剃りの入ったパンチパーマの若衆が二人もやってきて、膝をついて愛美を見上げた。
「あちらに食事の用意ができました。あっしらがご案内いたしやす」
とドスの効いた声で低く言われた。
チラリと万里子を見ると、笑って促している。介三郎の間抜け顔など見たくないので、愛美はそのまま二人の若衆に従った。
思わず追いかけようとした介三郎に、一転して厳しい雰囲気を纏った万里子が、さっさと上座に着きながら、言った。
「そのような心配そうな顔をしなくてもよくてよ、介三郎さん。貴方が彼女をここに連れてきたということは、綾が彼女を私に預けたということでしょう?」
万里子が押え付けるように言う。
介三郎は、万里子の前に正座をし、軽く頭を下げて答えた。
「察しの通りです」
打って変わった万里子の厳しい口調に、介三郎の顔から赤みが取れる。
「それで、お話とは何ですか。綾からは、すべて介三郎さんから聞くようにとだけ言われました。何があったのか、詳しく話してください」
傍らの脇息に軽く腕を預けて、万里子はゆったりと構えて促した。
介三郎が、慎重に切り出す。
「かねてより問題になっていた滝口守の件なのですが」
「滝口がどうしたと言うのです。女の子が数名、あの者に騙されたという話は、すでに聞き及んでおります」
「今日は、拳銃の話なんですけど・・・」
「拳銃とは、・・・穏やかではありませんね」
微かに眉をひそめた万里子に頷いて、介三郎は先程の銃撃戦の様子を、細かく話した。
万里子の表情が一層曇る。
「それでは、滝口は、改造拳銃にまで手を出しているというわけですね」
「野球部は今年の水無月祭で『おもちゃ屋』を出す予定になっています。おそらくそのおもちゃに紛れて改造拳銃を売るつもりではないかと、綾は見ているようです」
薔薇のような唇から、ため息が漏れる。
「本当に困ったこと。か弱い婦女子を商売道具に使うだけでも許せないのに、この上鷹千穂に、改造拳銃など持ち込もうとは、外道の極み。特待生だからと大目に見ていた自分に腹が立ちますわ」
煮えたぎるものを押さえるように、万里子は着物の胸元を強く握り締めた。
「綾も、そう言っていました」
介三郎が呟いた。
「青島工業がどのような気持ちで滝口に加担するのか知りませんが、とにかく放っておくわけにはいきませんわね」
おもむろに立ち上がり、広縁に向かい万里子を視線で追いながら、介三郎は問うた。
「マドンナも、動かれるのですか」
答えはすぐには返ってこなかった。
何を考えているのか、万里子は広縁の縁で立ち止まり、夜に溶け込んでいく庭を遠く見つめた。
介三郎が言いにくそうに続けた。
「綾は、滝口のことを話した後、マドンナに伝えてくれと言いました。『真行寺は手を出すな』と」
物音一つしない時間が過ぎた。
万里子が大きくため息をついて、瞳を半分閉じると、何かを思うように顔を天に向けた。
「本当に困った人だこと。『赤い梟』の時もそう。いつもわたくしに釘ばかり刺して、すべて自分一人で片付けてしまう」
「あの時は、俺も釘を刺されたクチです」
頭をかきながら苦笑すると、万里子が破顔一笑する。
「当たり前です。綾が、大切な介三郎さんに危険なことをさせるはずがないではありませんか」
「はぁ」
「忘れてはなりません。綾が貴方を片腕に選んだのは、決して危険なことに貴方を巻き込むためではないのです。貴方は、状況を把握して、生徒会運営を円滑に行ってくだされば、それで良いのです」
立て板に水で言われると、介三郎としては少々気に入らない。
「そりゃ、まぁ、俺は喧嘩できませんから、いざとなれば足手まといにしかならないでしょうけど」
ふて腐れた口調で反論する介三郎に、万里子が声を出して笑った。
「またそのように、ご自分を卑下なさる。おやめなさいと、何度も言っておりますでしょ」
「しかし」
なおも続けようとする介三郎を、万里子は軽く睨んで止めた。
「綾は、そんなに甘い方ではありませんわ。一時の感情で、鷹千穂を統べる役員を決めたりなどいたしません。綾に何かを任されるということは、褒められていると解釈なさってよろしいのですよ」
そう言って、万里子は手を二回鳴らした。襖越しに、飛水ではない若衆が二人跪く。
「介三郎さんがお帰りになります。車を用意して、送って差し上げて」
短い返答で、一人が下がり、一人が介三郎に近づいた。
「あの、マドンナ」
咄嗟に介三郎は腰を浮かせ、万里子を見た。
「成瀬に会って帰りたいんですけど。どこにいるんですか」
場所を聞けば、すぐにでも飛んで行きそうな面持ちで自分を見る介三郎に、万里子は無邪気な笑顔を見せて、帰るように続けた。
「彼女のことは、心配なさらなくて良いと、先程申し上げたでしょう。真行寺が責任を持って預かります。明日、学校でお会いなさい」
軽く指をひるがえすと、控えていた若衆が介三郎に声をかける。
なおも言いたい表情で万里子を見たところで、聞き届けてもらえないのは百も承知だ。この辺り、綾と万里子はよく似ている。そして、どちらにしても介三郎は、この二人に反論する気はない。
介三郎は万里子に礼をすると、若衆に従って部屋を出た。
その広い肩を見送って、万里子は些か不機嫌な視線を暗がりに向けた。
「そこにいるのでしょう、飛水。笑っていないで、出ておいでなさい」
冷めた口調が、決まりの悪い苦笑を抑えている。
飛水は咳払いで誤魔化すように拳で口元を隠しながら、ゆっくりと女主人に近づいた。
「何がそんなに可笑しいのですか、飛水」
「いえ、ね。本当に介三郎さんには意地悪ですねぇ。おやすみの挨拶くらい、させてあげればいいじゃないですか」
言いながら、肩を震わせて笑い始めた。
「まったく、疑問ですよ。お嬢さんにしろ鷹沢の令嬢にしろ、どこが面白くて、あの堅気の坊やに構うのか」
内心その理由を理解していながら、飛水はからかう様に万里子を見た。
万里子は登り始めた月を見上げるふりで、飛水の視線をかわす。別に、怒っている様子はないが、ご機嫌麗しいというわけでもないようだ。
「すべて、聞いていたのですか」
小さな問いに、飛水は形ばかり真面目になり、
「拳銃がらみでは、真行寺としても黙っているわけにはいきませんね」
「綾は、あくまでも滝口守という個人レベルで解決しようとしています。真行寺一家が動けば、事は大きくなるだけ」
諦めの微笑が、飛水の苦笑を促す。
「まぁ、令嬢にしてみれば、このくらいは朝飯前ってヤツでしょうが」
「当たり前ですわ。このくらいのことで動ずるようなら、あの方は今頃生きてはいらっしゃいません」
撥ね付けるような強い語気を軽く流して、飛水はチロリと女主人を見た。
「では、まったく動かれないので?」
その言葉は、どうせ黙っていないだろうと言っている。
万里子は不機嫌そうに飛水に流し目をくれると、
「飛水は意地悪ね」
と呟いた。飛水が声を出して笑った。
「お嬢さんほどじゃございませんよ」
爽やかな声が静かな屋敷に響き、何事かと駆けつけた若衆たちが、襖の陰から恐る恐る覗いている。
万里子は、飛水の笑いが下火になるのを無言で待ち、真顔に戻ったのを見越して背を向けた。
「上手く動いてください。滝口の関わる改造拳銃が、暴力団に渡ることだけは、真行寺が食い止めねばなりません」
「では、そのように」
威儀を正して短く答えた飛水は、一礼してその場を去った。
万里子はまた、月を見上げた。脳裏に浮かぶ髪の長い少女は、厳しい視線を遠くに向けて、哀しい横顔をしている。
「本当に困った方。何もかも一人で背負われるつもりなのでしょう。もっとご自分のことを考えてくださればよいのに」
介三郎は、送ってくれたベンツに礼を言うと、トボトボとした足取りで自宅に入った。
小さな声でただいまを言うと、台所から威勢のいい母が顔を出す。
「帰ったのかい、介三郎。夕食の支度ができてるから、着替えて下りておいで」
いつもなら今日のおかずのことでも問い返すが、その気にならない。スニーカーを脱いでいる時も、出るのはため息だけだ。
「どうかしたのかい、介三郎」
速水夫人は、玄関先の息子を覗き込んだ。その後ろから、小柄な女の子と見紛うばかりの少年が顔を出す。
「元気がないじゃないか。何か困ったことでもあったのかい」
そう言いながら、いつもより小さく見える丈高い息子を見る。女性としては大柄で、肝っ玉母さんという感じだ。「昔は美人だった」が自慢の母だ。顔の作りは、良い。
速水家の世帯主は、小柄で地味な顔なので、介三郎は父親似の地味な顔と母親譲りの背丈ということになるだろう。
介三郎は苦笑で誤魔化した。
「なんでもないよ、母ちゃん。水無月祭の準備に追われてるだけなんだ。メシできてるんだろ。着替えてくるよ」
速水夫人はしばらく息子の顔を見つめていたが、おもむろに肩をすくめてまた台所に引っ込んだ。
残った少年が介三郎を見上げる。母親似の綺麗な顔とまだ育ちきっていない華奢な体型の少年は、容姿とは正反対のぞんざいな物言いが大好きな速水家の末弟・京四郎である。小学校五年生だ。
「京四郎、一太郎兄ちゃんは帰ってるのか?」
介三郎は二階に上がる階段に向かいながらそう問うと、京四郎は仏頂面で腕を組み、一言問い返した。
「介兄ちゃん、フラれたのかよ」
単刀直入に言われ、思わず介三郎はその場にうずくまる。
「お前は、どうしてそういうことばかり言うんだよ。そんなに俺がフラれるのが楽しみなのか」
実は、毎日言われているのだ。
京四郎は、情けない兄の顔を間近に喚いた。
「心から、介兄ちゃんが成瀬って女にフラれるのを待ってるよ。だってそうだろ。兄ちゃんのことなんか、これっぽっちも見ない女に、何で介兄ちゃんが気を遣わなきゃならないんだよ」
「いいだろ、俺の勝手だよ」
すでに迫力負けしている介三郎だが、一応反撃してみた。しかし百倍返ってくる。
「だいたい惚れてるって言ったって、介兄ちゃんの関心のあるのは、胸のデカさと背の低さじゃないか。自分がズンドーのウドの大木男だからって、単純すぎるぞ」
「いいじゃないか、好みなんだから」
と言い返す。台所から速水夫人の怒鳴り声が聞こえた。さすがに四人の息子の母親らしい勇ましさだ。これで黙らなければ、次は母の愛の鉄拳が飛んでくる。
「それみろ、また怒られただろうが」
介三郎が小声で言うところへ、二階から次兄・総二郎が降りてきた。介三郎と同じくらいの背丈と、京四郎と面差しの似た青年は、弟たちの飽くなき議論に終止符を打つのが日課である。
京四郎は総二郎に向かって、
「総兄ちゃんは、俺と同じ意見だよね。介兄ちゃんは趣味が悪いよね」
苦笑混じりに立ち尽くした総二郎が、答えに窮している。その視線が介三郎のものと合うと、軽く頷くように細くなった。京四郎の頭を撫でながら、総二郎は笑う。
「介三郎は今、片想いを満喫してるんだ。そっとしとくくらいの心配りは、京四郎ならできるだろ。介三郎の趣味が良いか悪いかは、この際置いておこう」
あまり救いはないが、ともかく京四郎は黙った。
「総兄ちゃん。一兄ちゃんは部屋にいるかな」
とっとと京四郎をうっちゃって、介三郎は階段を上りかける。
「いるけど、兄さんがどうしたんだ?」
「一兄ちゃんなら、拳銃の本とか持ってるだろ。見せてもらうんだ」
言いながら、とっとと行ってしまった。
「そんなものどうするんだ、介三郎」
背中に向かって言ったが、答えはなかった。
「どうしたんだ?」
京四郎に問うと、京四郎は面白くもない様子で、ツンと顎を出し、
「フラれたわけじゃないようだね」
と答える。総二郎が苦笑した。
「お前もしつこいぞ。介三郎が誰を好きでもいいじゃないか」
「やだ。介兄ちゃんをないがしろにする女なんか、絶対嫌だ。介兄ちゃんを大事にしてくれる女じゃないと、俺、認めない」
拳を振り上げて喚く京四郎の小さな頭を、総二郎は大きな手で撫でた。
「はいはい。お前が介三郎を好きなことはちゃんと分かってるよ。だから、あまり苛めてやるな」
いつもの調子で言い含め、日課は終了する。
コンクリートに囲まれた部屋のボロボロのソファに、滝口守は座っていた。対峙して座っている胸に『青』の校章が入るブレザー姿は、青島工業高校の番格、本郷である。
男らしい顔立ちと整った体型の滝口に対し、ゴツゴツとした顔立ちと盛り上がった筋肉が目立つ本郷。二人は対等に座っているように見えるが、どちらかと言えば滝口の方が本郷よりも態度が大きかった。
引きつった本郷の顔を嘲笑うように、滝口が悠然と正面から見据えている。
「それで、四挺持って行かれた上に、試作品まで奪われたのか」
問う口調には、厭味がある。学園で女子生徒に囲まれている時には決して見せることのない嘲る様な微笑は、どこか狂気を含んでいた。
本郷が、忌々しげに頷いた。
「奴らに持たせるべきではなかった。よもや、早々に事を起こすとは思っていなかったのでな」
吐き出すような言葉は、陰湿で寒気をもよおすものだ。その場の空気が、一気に下がる。
「仕方あるまい。アレを持てば、誰でも使ってみたくなる」
滝口は嘲った。本郷もそれには同意しているようだ。
「それで、お前を呼んだのは他でもない。奴らが言うには、その逃げ去った者たちは鷹千穂の制服を着ていたというのだ」
本郷は、部下から聞きだした『三人』の特徴を細かく話した。滝口が神妙な顔で流し目をくれる。
「・・・心当たりがある。確かめてみよう」
「そうか、頼む」
滝口の一言を受けて、まるでやっと息をついたように、本郷はボロボロの椅子に深く沈んだ。
「で、試作品の量産は上手くいっているんだろうな。いつ納品してくれるんだ。祭りは近い」
「まぁ、待て。急がせている。期日までには揃うはずだ」
本郷は苦笑で宥めた。滝口もそれ以上は言わない。
「しかし、お前もよくよくとんでもないことを考えつくな。自分に群がる女を野郎に売る。その上、工業高校の旧工作室で改造拳銃を作らせ、学園祭で売ろうとは、どこからくるんだ、その発想は。誰に教えてもらったんだ」
皮肉な口調で本郷がいうと、滝口も不敵に笑って問い返す。
「あの試作品のモデルになった四挺の拳銃は、お前が買ったものだろう。いったいどこで手に入れたんだ」
「さぁな。俺は仲介役の男しか知らないんだ」
「いい加減だな。それでよく危ない橋が渡れるもんだ」
呆れて返した滝口。
「それは、こちらの台詞だ。お前は、金になれば、女だろうと改造拳銃だろうと手をつける。初めてこの話を俺にした時は、鳥肌がたったぞ。しかもそれを学園祭で売ろうとはね」
呆れて言い返す本郷の顔は、嘲笑に近かった。滝口も同様に笑った。
遠くで女の悲鳴と幾つもの咆哮が聞こえる。滝口の目が不潔な澱みを増し、傍に置かれた分厚い封筒に注がれる。
それが女一人分の報酬である。
「俺は、金さえ入れば、誰がどうなろうと気にしないね。たとえそれが母校でもだ」
「特待生の吐く台詞じゃないな」
その言葉は、滝口の癇にさわったようだ。歪んだ口元が毒を吐く。
「俺は、あの理事長の娘が一等嫌いでね。特待生になったのは、あの鷹千穂が名門校の一つだからだ。金持ちの生徒も多い。ゆくゆくは学園を牛耳って、もっと金儲けをしてやるよ」
「大きな口を叩く前に、今の鷹千穂を押さえているマドンナとやらを追い落とすんだな。聞けばその女、仁義が売り物の真行寺一家の跡取りだって言うじゃないか。いかなお前でも、名門極道の娘には、おいそれと手が出せそうもないか」
嘲る口調に、滝口は苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。憤慨している。
「ふん。真行寺万里子など、所詮は鷹沢綾の手下にすぎん。たとえ、この町を統べる真行寺一家の娘でも、俺たちが持つ改造拳銃と兵隊があれば、叩き潰すには造作もない。しかも真行寺を疎む輩は多いからな」
「では、お前が恐れているのは、真行寺ではなくその鷹沢という女か」
神経を逆撫ですることを楽しむかのような本郷の台詞に、滝口は唸った。
「言葉に気をつけろ、本郷」
まるで、地獄の底から響くような声だ。本郷は謝るように両手をかざすと、肩をすくめて苦笑で返した。
「悪かった。この話はここまでだ。ともかく水無月祭だろ」
滝口としても、この話は避けたい。大きくため息をついて、異議のない手振りで受けた。
「分かっている。儲けは五分だ」
「期待してるぜ。・・・だが、ちょっと気になるんだが」
本郷は、一瞬間を置いて言葉を濁し、考え込んだ。
「何だ」
「試作品を盗んでいった女の容姿を聞いていると、あの伝説を思い出してな」
「伝説?」
滝口の問いに、本郷は一層声を落とした。
「魔女だよ」
黄金の魔女。
咲久耶市一体を拠点に県下に名を知られた暴走族、赤い梟を壊滅させた女。
闇夜に浮かぶ黄金の陽炎。武器らしいものは何も持たず、彼女がどうやって並み居る猛者たちを倒したのかなど、誰も覚えていない。残っているのは、恐怖と、彼女が身に纏っていた黄金の光のみ。
以来、魔女は姿を現すことはなく、伝説として過去にうずもれようとしていた。
「その魔女に、似ているような気がする」
「まさか」
「気のせいだと思うが。アレ以来、魔女の噂は聞かないからな。ただ、大事の前だ。神経質になっているのかもしれない」
神経質という言葉など似合いもしない容貌が、苦笑で流した。
滝口も、一瞬顔を強張らせたが、それも次の瞬間には緩み、敢えてゆったりと笑った。
「逃げた女と魔女を一緒に考えるのは、馬鹿げているぞ。そんなことは有り得ない。とにかく、改造拳銃の方は急がせろ。逃げていった三人は、俺が何とかする」
「頼む。品物は期日までには間に合わせる。期待しているぞ、滝口。お前は俺の金づるだ」
「お互い様だよ、本郷。せいぜい甘い汁を吸おうじゃないか」
尋常とは思えぬ哄笑が、コンクリートの壁に反響した。
その部屋の真下で、数名の男子生徒が右往左往している。手に鉛色の冷たい塊を持っている姿は、まるで邪鬼のようだ。
真行寺邸の客間の縁側に立ち、愛美は東天の月を眺めていた。
眼前に広がる日本庭園は闇に沈み、所々外灯で照らされて、星空が眼下に広がっているようだ。だが、それを楽しむ心の余裕などなかった。
先程、部屋の外で愛美を見張るように立っていた若衆に介三郎のことを訊くと、介三郎は早々に帰ったという。万里子のことを訊くと、じきにここへ来るとだけ答えが返ってきた。
それから待つこと久しい。
じっとしていられず、部屋の中を熊のように歩き回ったりしたが、それも疲れて止めてしまった。
月ばかりが天頂を目指して急いでいた。
無性に寂しくなって、視界がぼやける。
廊下で何か応対する声がして、万里子が一人入って来た。
「隣の部屋に床をとりました。疲れたでしょう。もう、おやすみなさい。ここにいれば大丈夫です。明日は、わたくしと一緒に登校しましょう」
近づいて来る万里子が、愛美の横に立ちながら、月を見上げた。
「今日の月は、本当に哀しいくらい美しいのですね」
端整な顔立ちを、月の蒼い光が照らしている。まるで幻のように見えるその美しい横顔を、愛美はしばし見つめた。
「介三郎さんを帰してしまったことを、怒っていらっしゃるのですか」
万里子は敢えて愛美から視線を逸らして、問いかけた。
愛美は微かに首を横に振る。
「綾が、介三郎くんに言っていました。マドンナに送ってもらえって。介三郎くんは、綾の言うことなら何でも聞くから」
言葉は震えていた。
万里子が苦笑して、愛美に視線を向ける。
「あなたは、介三郎さんがお嫌いなのですか。それとも、綾がお嫌いなのですか」
突然そう訊かれると、どう答えていいか分からなくなって、愛美は黙った。
万里子は、心細い微笑を浮かべる。
「あなたに一目会って帰りたいという介三郎さんを、早々に帰してしまったのはわたくしです。ですから、介三郎さんのことを悪く思うのは止めてください。それから、綾のことも。綾は貴女が憎くて、厳しいことを言うのではありませんわ」
「・・・・・・」
「介三郎さんから、すべて聞きました。恐い思いをなさったようですね」
その言葉に、そうだと答えようとして、また愛美は少し考え込んだ。
本当に、恐い思いをしただろうか。傍には誰がいた? 後ろには誰が立っていた?
自分は確かに、守られていたではないか。
「いえ・・・。介三郎くんと・・・綾がいたから、恐くはありませんでした」
震えながらもそう言い切る愛美を、万里子が微笑で受け止める。
「貴女、やはり思った通り強い方ね」
「私が・・・強い?」
「そう。そして、頭もいい。だからもう分かっているはずです。貴女が想う滝口が、本当はどういう男なのか」
窺うような流し目は、愛美の心に楔を打つ。
「でも、私はまだ滝口さんを信じています。だって・・・だって、ずっと好きだったのよ」
愛美の中にある滝口の映像は、マウンドに立つ勇姿か、多くの取り巻きに囲まれる穏やかな美男子。
「きっと、思い違いをしてるんです。綾も介三郎くんも、そしてマドンナも。滝口さんが悪いことをしているとこなんて、私、見たことない」
心の中は疑念で一杯だ。
しかし、どうしても自分の抱いていた思い出を庇ってしまう。
万里子は、そんな愛美の気持ちを見透かすように、無表情を作った。
「では、ご自分の目で全てを確かめなさい。滝口守がどういう人間なのか、どういう考えを持っているのか」
「マドンナ・・・」
「貴女が滝口に心魅かれた時から、今日のような日が来ることは分かっていたのです。綾も介三郎さんも、滝口がどんな男であるか知っていて、敢えて黙っていたのは、ただ、貴女に辛い思いをしていただきたくなかったから。でも、貴女は本当は、とても強い方。涙を恐れて、真実から目を背けるような方ではないはずです」
穏やかな言葉が、胸の奥にまで染み渡り、澱んだ感情を浄化する。
万里子は、絶句のまま立ち尽くす愛美に一瞥をくれると、月光に背を向けた。
「貴女が、一日でも早く、介三郎さんを理解してくださることを祈ってますわ」
影に解けた口元から、ポツリと呟く声がした。
「何故、ですか」
そう問うことが、愛美の精一杯であった。愛美には分かっているのだ。
冗談ではなく、この淑女は、あの茫洋とした気の好い丈高い少年を愛しているのだ。もう一人の、美しく厳しい少女同様に。
それなのに、何故、自分を介三郎に向けさせたいのか。
万里子はゆっくりと遠ざかりながら、哀しいまでに穏やかな微笑を浮かべ、小さく言った。
「それも、ご自分で確かめなさい。言葉にして教えて差し上げるほど、わたくしの心は広くありませんわ」
それに返す言葉は、なかった。
鷹沢綾は、水無月祭の準備の為、連日朝早く登校していた。
ロールスロイスの後部座席から降りて、中央館を見上げると、どこからか鋭い視線を感じるようだ。
ドアを開けた運転手が、深々と礼をして、声を落とした。
「何やら不穏な様子でございます。お気をつけて」
綾はそれに軽く頷いて、歩を進めた。
「行っていらっしゃいませ」
運転手がもう一度礼をするその横を、見えない影が二つ通り抜けた。
中央館三階の生徒会室には、誰も来てはいない。一通り白板と掲示板を見て、生徒会長室へ通じるドアを開けた。
案の定、昨日の会議やその他の嘆願書を含めて、書類が山のように積まれている。
綾は苦笑で机に近づくと、その中の一枚を手に取った。某クラブの水無月祭辞退の嘆願書である。
例年であれば、水無月祭は秋の文化祭の予行演習という形の為、各団体の参加は自由であった。それを今年は、生徒会側の一方的とも言える決議により、すべてのクラス及びクラブに対して、参加を強制した。
よって、人員の豊富な団体には造作もないことだが、ユウレイ部員の多い団体などには、参加自体が苦しい。その理由で参加を辞退したいという嘆願書が、若干ではあるが提出されている。
「まったく。肝心なところで活動がストップする団体に、予算を回せると思っているのか。金が欲しければ、死に物狂いでやってみればよいものを」
経営者の不満をのぞかせ、綾はぼやいて嘆願書を放る。窓辺に寄り添って外を見ると、気配が二つ感じられた。
『お嬢様。滝口守が先程より、ここを窺っております』
声は蛍のものだ。綾はそれを微笑で受け止める。
「分かっている」
『これまでお嬢様を恐れて、避けて通っていた男にございます。よほどの覚悟でございましょうか』
笑って続けたのは、蛍とは別の声だ。綾は肩をすくめた。
「覚悟が出来ていれば、それに越したことはない。どのみち引導を渡さねばならぬからな。お前は最初から、ヤツを退学にしたがっていただろう、桜」
桜と呼ばれた影は、明るく笑って肯定する。
『でも、いくら悪事を働いているとはいえ、特待生を退学にさせては、校内に不満もありましょう。かといって、理由を一一説明するわけにもまいりませぬし』
「だから水無月祭を盛大にしたのだぞ、蛍。この機に乗じて動くのは、こちらも同じだ。皆、強制参加を切り抜けるのに必死で、滝口どころではない。気がついた時にはもう、ヤツはここにいない」
長い間の鬱積が解放されるように綾が冷めた口調で言った直後、その表情から微笑が消えた。
影二人も緊張している。
「介三郎が、ヤツにつかまったな」
何を見つめながら、そう言っているのか。目前にあるのは、会長用の大きな机と応接セットだけだというのに。そして、また窓の外にいるはずの二人も察している。
『介三郎さんならば、滝口の口車に乗ることはないかと存じますが』
蛍が、少し庇うように口を添える。
『でも、その分、顔が正直ですよね、あの方』
と、桜が不安を倍増させる。
綾は片手を振って、動いた。
「放っておくわけにはいかない。私が止めに行こう」
介三郎は、いつもより早く登校し、愛美の教室へ顔を出した。愛美と一緒に登校するだろう万里子は、この時間にはすでに教室にいるはずだ。とすれば、愛美も登校していていいはずだが、その姿はなかった。
不思議に思って、中央館三階の生徒会長室に行く途中、滝口に出くわした。
あまり見たくない色男が、行く手を遮るように立っている。
「やぁ、速水。そんなに急いで、どこへ行くんだい」
流暢な口調は、蛇のように身体にまとわりついて、気持ちのいいものではない。
「あ、おはようございます。滝口さん。そちらこそ、こんなに早く中央館に用事ですか。珍しいですね」
介三郎は、気のない様子でそう言った。もちろん、滝口が綾を疎んじていることは察している。
「水無月祭のことで生徒会に用事なら、一緒に生徒会長室まで行きますよ。綾ならもう、登校してると思いますから」
綾の名が出て、滝口は微かに顔の端を歪めた。
「いや、生徒会に用はないよ」
余裕の微笑を浮かべて威嚇する滝口を、介三郎は高みから見下ろして、仏頂面を返した。
「用がないなら失礼します。急いでるもんで」
できれば顔も見たくない相手だ。早々に背を向けて会長室へ急ぐ介三郎に、滝口は一言呟いた。
「拳銃・・・」
「え」
「野球部が企画している『おもちゃ屋』は、生徒会を通りそうかね」
本当に問いたいのは、まったく別なことだろう。窺うように介三郎を見る目が、執拗に纏わりつく。
介三郎は一瞬、拳銃という言葉から、昨日の銃撃戦を思い浮かべた。知らぬうちに、絶句してしまっている。
滝口は、その間の抜けた顔を見て、確信を抱いた。
「昨日、公園の中で抱き合っていたのは、キミと・・・誰だったかな」
既にペースは滝口のものだ。介三郎は耳まで真っ赤になった自分に気付きもせず、ただ狼狽えて答えた。
「だっ、誰だって、関係ないでしょう」
滝口の顔が鮮やかに笑う。我が意を得たりという顔だ。
「関係あるかどうかは、俺が決めるよ。その相手が誰であるかということは、いささか興味のあるところだ。特にそれが『成瀬愛美』であればね」
威圧的な視線が、容赦なく突き刺さる。
介三郎は何も言い返せぬまま、滝口を凝視した。胸の奥はどす黒い感情で一杯だが、それを言葉で表現できるほど、介三郎は口が上手くない。
滝口は完璧に、昨日の銃撃戦の折に居合わせたカップルは、介三郎と愛美だったことを確信した。そして、残るもう一人の女。
試作品を持って逃げ、青島工業の四人を倒した女。・・・おそらく。
「介三郎、何をしている」
声は、会長室の扉付近からかかった。
鷹沢綾だ。
理事長の娘であり、実質的にはこの学園の経営に多大な影響を持つ生徒会長。
滝口は特待生という立場ながら、否、特待生であるが故に、この実権を握る小娘が嫌いだった。
「せっかくここまで来たのだ。書類の整理を手伝え」
ゆらゆらと流れる髪をなびかせながら、綾は介三郎の傍に立ち、滝口を見た。
「邪魔・・・だったかな」
皮肉を込めて言うと、色男はただの男の顔になる。
「いや、話は終わったよ。昨日提出した企画書は、いつ採決するんだ?」
「今日中には採決が下りる。却下の場合、新企画提出は明日放課後までだ。よほど問題がなければ、通過するだろう」
それだけ聞くと、滝口は態度を崩さず方向を変えた。
綾の瞳が、メガネの奥で光る。
「滝口、『問題なければ』・・・だぞ」
滝口の歩が一瞬止まり、その後で肩越しに微笑を浮かべる。
「あぁ、問題がなければ・・・だな」
言い捨てる滝口が消え、綾は介三郎を睨んだ。
「これで、成瀬が関わっていることが、ヤツに知れてしまったな」
「どうして」
介三郎は気色ばむ。迫る長い顔を押し退けて、綾は当然の如く答えた。
「お前は、昨日公園で、成瀬と一緒だったことを否定しなかっただろう。ヤツのペースにハマッテ、知らぬ内に答えていたのだ。おそらく昨日追って来た奴らから、お前の特徴を聞いて、当たりをつけて来たのだろう。あの場所にいたのがお前で、傍にいたのが小さな巻き毛の娘と分かれば、自然成瀬が浮かぶ」
「大変じゃないか! 早くヤツを何とかしなきゃ、成瀬が」
勇んで行動に移ろうとする介三郎の襟を掴んで、綾が笑う。
「待て。その前に、気になることが浮かんだ。ヤツを泳がせる。お前は、溜まっている仕事をこなせ。成瀬には、何も悟られるな」
言われて、当初の用事を思い出し、介三郎が綾に挑んだ。
「その成瀬だけど、まだ登校してないようなんだ。マドンナのところで何かあったのかな」
結局、愛美の心配しかしない。
「さぁな。どうせ万里子のことだ、ここぞとばかりに嫌がらせをしているのであろう」
「って、誰にだよ」
「決まっている。お前にだ」
「どうして?」
「自分で考えろ」
そう言うと、軽く指で生徒会長室を指す。暗に手伝えということだ。言葉を重ねて辞退しようとしても、聞き入れてもらえないのは百も承知だ。
介三郎は、大きく肩を落として歩き始めた。その背に、声がかかる。
「成瀬愛美」
その言葉に飛び上がって立ち止まり、振り返って凝視した綾の顔は、メガネの向こうで苦笑している。
「名前を言われたくらいでその反応では、まだまだ修行が足りないな」
からかう口調にムッとして、介三郎は口を尖らせた。顔はといえば、茹蛸だ。
「悪かったな。どうせ俺は、ボンノウが顔に出るスケベなお荷物ですよ」
珍しく言い捨てると、大きなストライドで会長室に向かい、瀕死の様子で消えた。
「救いがないな」
綾はため息混じりに呟いて、窓の外を見た。
中央館は、巨大な回廊の構造をしている為、四方を巡る廊下はすべて中庭に面している。窓から見えるのは、地上のテラスと、向側の廊下だ。
その丁度真向かいに、人影が二つあった。まるで隠れるように立っている。
「聞いていたな」
綾の声は、傍にいてさえ聞き取りにくいものであったが、それに確かな返答が返ってくる。
「滝口が動く。注意してくれ」
微かな唇の動きが止まるのを見定めて、影は疾く消えた。
「これで、本当の黒幕が分かればよいが」
滝口の消えて行った方向を見つめ、呟く言葉には、微かに投げやりなものがあった。
始業のチャイムスレスレに登校した愛美は、一限目が終わるとすぐ立ち上がったが、後ろ髪を引かれて、もう一度座ってしまった。
「ねぇ、愛美。今日、マドンナの車で登校したって、本当なの?」
吉村里美が身を乗り出して、そう問いかける。愛美は眉間にシワを寄せた。間近で見る里美の目が、憎たらしいくらいにキラキラと輝いている。
愛美はため息をついて、鬱陶しいと言わんばかりに睨んだ。
「関係ないでしょ」
昨夜の万里子の言葉が、心の奥底で燻っている。返す言葉は見当たらない。聞いたことは信じられない。それならば、すべてを自分の目で、確かめるまでのことだ。
まずは、昨日の銃撃戦の時に見かけた青島工業の生徒が、本当に滝口と知り合いなのか確認しよう。
愛美は綾に奪われた写真をもう一度焼き増ししてもらう為、急いで他のクラスに行きたかった。
あの写真は女子の間で好評で、知っているだけでも二十枚は出回っている。事情を話せば、なんとかしてくれるだろう。交渉の相手は、まんざら知らない仲ではない。
そんなことを考えていると、写真に写っていた滝口の顔が脳裏に浮かぶ。
愛美にとって滝口は、中学時代からの想い人である。当時、野球部のマネージャーをしていた友人に連れられて、よく練習試合を見に行った。そこで見かけた対戦相手のピッチャーは、愛美の中学が誇る三割打線をものともせず、完封試合をやってのけた。以来、憧れのピッチャーが進学した高校に入りたくて、猛勉強した。そして念願かなって、この鷹千穂学園高等部に入学したのだ。
そのピッチャーが、滝口守である。憧れの男に、一歩近づいた。それなのに・・・。
「あのさ、話は違うんだけどね。砂原さん、どうしたと思う?」
マドンナのことが聞けないと分かると、里美はさっさと話題を変えた。
「砂原さんが、どうしたの?」
クラスメイトのことに反応すると、里美が顔を曇らせる。
「実はね、昨日の夜、友達が彼女とすれ違ったんだって。それで何か言おうとしたんだけど、彼女、どこで転んだのかしらないけどボロボロで、声をかけようとすると睨まれたんだってさ。今日休んでるのって、転び方が酷かったからかな」
空席を視線で示し、里美は心配そうにため息をついた。普段話もしないような女の子のことでも、こうして心配するところは、里美のいいところだ。
愛美もまた、里美同様顔を曇らせた。脳裏には、昨日の校内で幸せ一杯の砂原弥生の顔が浮かぶ。そして、その後ろで不気味に笑う男がいた。
憧れの男が、半身を闇に沈めて笑っている。
何か胸騒ぎがして、愛美は里美を置いてきぼりにすると、戸口に急いだ。
そこへ、大きな壁が立ち塞がる。
「あ、ごめん」
聞き覚えのある声が、遥か高みから聞こえる。見上げると、介三郎が狼狽えていた。
「あ、あの・・・。成瀬、元気?」
精一杯笑顔を作って、介三郎は問う。
しかし、愛美には返す言葉がなかった。愛美自信、自分が元気なのかどうかなんて分からない。
二人、無言で立ち尽くしていると、教室の一角から小柄な男子が近づいてきた。
今泉藤也だ。綺麗な顔の端が、状況を楽しむように笑っている。
「何やってんだよ。注目の的だぞ、介」
切れ長の目で、悩ましげに介三郎を見上げた。
「あっ、藤也。お前に用があったんだ」
助かったという顔で、介三郎が続けようとしたが、それは愛美の咳払いで止まった。
介三郎が硬直する。
「悪いけど、通りたいの。そこ、どけてくれない」
この上ない冷たい声に、藤也もからかうような顔を引っ込めた。
「どうかしたのか、彼女」
愛美の遠ざかる背中を見ながら、藤也は問うた。
「いや・・・。ちょっと・・・」
言い澱んで、介三郎は肩を落とす。藤也は何と無く察して、多くは問わなかった。
「ふむ。いいけどさ。あのまま放っておいていいのかよ」
「うん。まぁ、よくはないんだけど。それより、藤也。会長室で綾がお前を待ってるんだ」
愛美にそっぽを向かれた悲しさから抜けきれぬ顔で介三郎が言うと、あからさまな不満顔が返ってくる。
「これ以上、まだ盛り上げようっていうのかよ」
うんざりとでも言いたそうだ。介三郎の苦笑。
「たぶん、滝口のことじゃないかな」
小声で昨日の銃撃戦のことを、掻い摘んで話すと、
「へぇ、あれってガセじゃなかったんだ」
切れ長の目を細めた。小気味よい笑顔が憎らしい。
「お前、知ってたのか」
介三郎の目が睨む。勿論迫力はない。藤也は平然とうそぶいた。
「あぁ、ガセだと思ってたよ。でも、ヤツは金の為なら何でもやるからな。たとえ人身売買でも改造拳銃でもな。何も知らず、ヤツに群がってる女は滑稽だよ」
相変わらず冷めた口調に、介三郎は愛美の代わりに泣きまねをした。
「そこまで言うなよ。女の子だって、真剣なんだ。それを騙す滝口が悪いんだよ」
「ほう、介ちゃんって優しいね。その調子で成瀬に当たってくれると、傍観者としては面白いんだけどね」
からかうと、景気の悪い顔が返ってくる。
「どうせ、俺はマが抜けてるよ。綾が滝口の写ってる写真を成瀬から取り上げた時、もっと気の利いたことを言ってれば良かったんだ。それを・・・」
それを、気の利いたことをするどころか、反対に墓穴を掘ってしまった。最悪だ。
「滝口の写真?」
藤也が美しい眉をひそめた。
「おい、介。その写真って、滝口と青島工業の奴が写ってるヤツか」
「うん、そうだけど。どうして藤也が知ってるんだよ」
当然の問い。しかし、それに答えるのももどかしげに、介三郎の言葉を半ばで、藤也は介三郎の脇を抜けて廊下に出た。
「どうしたんだよ、藤也」
「綾が呼んでるんだったな。急ごう。俺もあいつに話がある」
思いがけない藤也の答えに、介三郎の顔が伸びる。
「へぇ、珍しいな。藤也が綾に会いたがるなんて」
空を見上げれば槍でも降ってきそうな雲行きだ。実は、藤也は鷹千穂学園に転入してきた中等部二年生の時から、綾を毛嫌いしていた。一方綾は、藤也に嫌われていることを楽しむようなところがあるので、結構いいコンビかもしれないと介三郎は思うのだが。
藤也は鋭い半眼を、遥か高みの頼りない顔に向けて、唸った。
「俺はね、介ちゃん。あいつに会ったことを後悔しない日はないんだよ。今だって、できればあいつになんて会いたかないね」
「じゃ、なんで情報屋なんてやってるんだよ」
思わず問うて見ると、牙を向かれた。
「やってるんじゃねぇ。訊かれたことに答えてるだけだ」
「なんだ。いいように使われてるんだ」
空笑いをする親友の胸倉を掴んで精一杯背伸びをすると、藤也は低くドスの効いた声で、凄んだ。
「おめえはよ。喧嘩売ってるのか」
思わず、間近に見る綺麗な顔の鬼の形相に、介三郎が生唾を飲んだことは蛇足である。
一方、愛美は、介三郎に対する自分の不当な態度に自己嫌悪しながら、階の違う同じ一年生のクラスへと行った。
目当ての女子生徒は教室にいた。廊下へ呼び出して、写真のことを訊ねようとしたら、反対に小声で詰め寄られてしまう。
「昨日、成瀬さんのところに、野球部の人が行かなかった?」
椎名優紀は、愛美の顔を覗き込むような仕草を見せながらも、視線は始終廊下の端から端を窺っている。
愛美が面食らった状態で否定すると、優紀は少々心細い声で、
「実は、昨日の放課後、野球部の人達が写真部まで来たの。それで、出回ってる滝口さんの写真とネガを渡せって言われて」
「ネガも?」
愛美が問い返すと、優紀は震えながら頷いた。その時のことがよほど恐かったのだろう。
小柄だが、元気ハツラツの愛美とは正反対で、女子の平均身長をやや超すものの、神経の細さが身の細さに比例する優紀である。そんな彼女も、いったんカメラを持つと人が変わり、精力的に被写体をファインダーに収めていく。
滝口の写真も、彼女が撮った。
「それで今日、学校に来てみると、あの写真をあげた女の子のほとんどが、昨日野球部の人に取り上げられているの」
「私は、他の人に取り上げられたのよ。だからもう一度、あの写真をもらえないかと思って来たんだけど・・・」
滝口守と一緒に写っていた他校生が誰なのか、確かめたかったのに。
思い詰める愛美を目前に、優紀は心配そうな表情で言った。
「あまり、首を突っ込まないほうがいいわよ」
「え」
「同じクラブの今泉くんが言ったの。もう誰に頼まれても、滝口さんだけは撮るなって。昨日も、今泉くんがいなかったら、私、野球部の人に連れて行かれるところだったのよ」
「そう・・・今泉くん、ね」
先程、介三郎が彼を呼びに来た理由が、何となく分かった。おそらく呼び出した本人は、生徒会長室で踏ん反り返っているのだろう。
「ありがとう、椎名さん。ごめんね」
これ以上、優紀から取れる情報はない。しかも教室の一角から、ずっとこちらを窺っているのは野球部部員だ。これ以上ここで長話をしては、優紀に迷惑がかかる。
愛美は、まるで笑い話を締めくくるように晴れ晴れとした笑顔を作ると、辛うじて聞こえるほどの小声で、
「絶対、一人きりになってはダメよ。人気の多いところを選んで歩いてね」
と言い残して、その場を後にした。
生徒会長室の扉を開けた介三郎と藤也の目に、その黒光りするものが焼き付いた。
それは小さくても、れっきとした拳銃である。
「ば、ばか。何を学校に持って来てるんだよ」
慌てて扉を閉め、綾の手の中にある拳銃を奪おうとする介三郎を片手で制し、綾は藤也の視線を正面に受け止めた。
「お前が持つと、その小さな拳銃が、大砲に見えるな」
皮肉混じりに藤也が言って、応接セットに腰を下ろす。
綾も、狼狽えている介三郎を促して、藤也の前に座ると、テーブルの上に置いてある木箱を示した。
「相変わらず、正確な情報だな、今泉。滝口は、改造拳銃に手を出していた」
「お前に褒められても、たいして嬉しくないね」
藤也は優雅に微笑を浮かべた。その澄んだ瞳は、まったく嬉しそうには見えない。
「それで、その手に持っているのが、問題のヤツか」
藤也は、たいして興味もなさそうに続けた。木箱の中の四挺は、かなり目を引くリボルバーで、綾の持つ一挺はオートピストルだ。
「へぇ、パイソンだ」
介三郎は感嘆して、四挺のリボルバーの中でも一際目立つ拳銃を手に取った。昨夜、兄一太郎の部屋で見た専門誌の巻頭を飾っていて、かなり気に入ったものだ。
「で、そっちが確か・・・」
綾の手にあるオートピストルを指差して詰まると、綾の苦笑が返ってくる。
「コルト・ガバメント」
「そうそう。軍用拳銃とかなんとか、本に書いてあった。一兄ちゃんが、それのエアガン持ってるんだ」
うろ覚えが当たって、介三郎は満面笑顔だ。とてもじゃないが、先程これらを見て狼狽えた少年と、同一人物とは思えないノリの良さだ。
持っていたオートピストルをテーブルの上に置き、綾はソファに埋もれた。
「こちらの四挺は、青島工業のヤツらが持っていたもの、かなり優れた改造拳銃だ。鷹沢の技術部に鑑定してもらったところ、最近出回っている改造拳銃の何倍も高性能だという」
綾の声を上の空で聞きながら、藤也は介三郎の手からパイソンを奪った。シリンダー、バレル、トリガーなど、丹念に眺める手つきは慣れたものだ。
一通り眺めると、さも面白くなさそうにそれを綾に放る。綾がそれをすぐ撃てる状態で受け止めたのは、さして驚くほどのことではない。
「問題は、こちらのガバメントだ。奴らが試作品と呼んでいたものだが、今これが、急ピッチで量産されている。学内の旧工作室でな」
「それって、青島が学校がらみで犯罪犯しているのかよ」
素っ頓狂な声で、介三郎が口を挟んだ。綾が手を軽く振って、否定する。
「いや、学校側は関係ない。単に、番格を野放しにしているだけだ」
「あんまり、誉められたもんじゃないな」
嘲るように吐き棄てて、藤也は視線を変えると、コルト・ガバメントを手に取った。今度は眉を微かに動かしただけで、何もせず、右手で構えて綾に標準を合わせた。ウィンクするように片目を閉じ、少し首を傾けた仕草が絵になる。
銃口を向けられている綾が、悠然と構えて藤也の言葉を待った。
「青島で作られているのは、このガバメントの方だけだな」
「なぜだ」
綾の短い問いを、鬱陶しげに片手で払いのけ、ガバメントを介三郎に放り投げた。介三郎が両手で受け止める。
椅子に沈んだ藤也の瞳が、鋭い光を発し、介三郎の手の中を見ている。
「そのガバメント、銃身がズレてるぞ。たとえ、一発目が上手く発射されても、二発目の保証はない。一発目の反動で、それ以上のズレが生じる。暴発するぞ」
「ほ、本当かよ」
自分の手に爆弾でも抱えたような顔で、介三郎が口ごもった。
「嘘だと思うなら、試してみろよ。お前、バスケが出来なくなるぞ」
美しい顔が冷めた瞳を加えて凄みを増す。介三郎は生唾を飲み込んで、ガバメントを机の上に置いた。
「や、やめとくよ」
藤也が、当然という顔で、微笑する。
この小柄な美少年は、どういうわけかとんでもなく機械に強かった。
藤也が壊れると言えば、新品のバイクも一夜で壊れる。どんなに部品が傷んでいても、藤也が直ると言えば直るのだ。
藤也の見立ては、絶対だ。
「まぁ、ガキってのは、こういうものを持つと、一度に強くなったような気になるからな。バイヤーとしては、嬉しい心理だけどね」
この言葉に、綾がメガネの奥の美しい瞳を光らせた。
「滝口が、この粗悪品をどうやって売るつもりかわかるか? 野球部が水無月祭で『おもちゃ屋』をするそうだ」
あらかじめ用意しておいた書類を、綾は藤也に渡した。
ほうっ、と大きく息を吐いた後の藤也の不敵な笑い。
「特撮もののグッズに、オリジナル・・・ね。表向きは子供が好む変身ベルトや銃を置いて、どさくさ紛れに改造拳銃を売るか。普通は考えないぞ」
「普通ならば、改造拳銃を作ろうとも思わない。どのみち女癖の悪さに閉口していたのだ。退学にするいい口実ができたと喜んでいるよ」
藤也が、片方の眉だけ動かした。
「だからって、単に退学届をださせるだけじゃ済まさない気なんだろ。警察に渡すのか」
無表情の少女が、視線を藤也から外す。
「そして、鷹千穂学園内の悪党を、れっきとした犯罪者として世間に公表するのか。冗談ではない。滝口如き輩の為に、我が学園の名を汚してたまるか」
「じゃ、闇から闇ってやつだな」
当然顔の藤也は、視線のみで介三郎に同意を求めた。気は進まないが、それしかないだろうという顔が返ってくる。
介三郎を見定めて、藤也は大きく身を反らせ、
「と、いうわけで、成瀬。悪いけど、滝口のことは諦めてね」
と喚いた。
突然の大きな声は、重く閉ざされた扉の向こうに向けられた。藤也同様、綾もまた、同じ表情で扉を見つめている。
「まさか」
介三郎は、蒼白と化した長い顔で、扉を開けた。そこにあったのは、大きな瞳を見開き、震える手で口元を押さえて立ち尽くす、成瀬愛美の姿だ。
「いつからそこにいたんだ。成瀬」
そう問いかけるのが精一杯だ。
愛美は、何も答えない。滝口が昨日の銃撃戦に関係しているだろうとは思っていた。しかし、真実は愛美の想像を遥かに超えたものだった。
「まさか、お前ら知ってて話してたのか」
介三郎は愛美から視線を反らせ、部屋の中で傍観している二人を見た。どちらもまるで、肯定するかのように介三郎を見ている。
介三郎はもう一度、愛美を見た。自分の半分くらいしかない少女が、こちらを見上げている。それが救いを求める瞳だということは、いかに鈍感な介三郎にも分かった。介三郎には、綾や藤也を責めるよりも、愛美を慰める方が優先だ。
「だからな、成瀬」
愛美の聞いた話は本当だ。だから、どうか分かって欲しい。滝口にはとうてい許されるものではない罪が幾つもあるのだ。
言葉は、出ない。
愛美は、介三郎の開いた口を見つめ、激しく首を振ると、全てを振り切るように走り去った。
「成瀬!」
遠ざかる小さな背中に呼びかけて、介三郎もその場を離れた。
「成瀬に説明する手間が省けたとでも思おう」
綾はため息をつきながら、顔を曇らせた。
藤也が柔らかい髪を細い指でかきあげて、同意するように半分目を閉じた。
「ところでお前、このリボルバーの方がどこで作られたのか、知ってるのか」
木箱の中の黒光りする四挺を示した。
「それは、明らかに玄人の仕事だぞ。この一件には、大きな組織が絡んでいる」
「そうだ。だが、滝口がどの組織と関わりがあるのかまでは、まだ調べがついていない」
途端に藤也の目が釣り上がる。
「それで、俺にそれを調べろって言うのか。そういうことは、窓の外の美人に言ったらどうだ。本職だろ」
どうして分かるのか、気配を消した影二つを指して、藤也は唸った。
「今泉、時間は限られている。こちらが遅れれば、介三郎と成瀬に害が及ぶのは必定だ。滝口がどのような手段で二人に近づくか分からない」
頼んでいるとは到底思えない冷めた態度は、藤也の一番嫌いなものだ。それでも協力してしまうのは、被害が必ず綾ではない第三者に及ぶからだ。
しかも今回は、その第三者が介三郎と愛美の二人ときている。そして、もう一人・・・。
「分かったよ。引き受けてやる。その代わり、頼みがある」
藤也はおもむろに立ち上がった。その美しい顔を微かに歪め、敢えて綾から視線を反らせた。
綾が笑って、目を丸くする。
「珍しいな。お前が私に頼みごととは」
藤也の流し目が、光る。
「交換条件を出すのは、当たり前だろ。写真部の椎名優紀に、護衛をつけてくれ」
「椎名に?」
綾は問いながら、机の引き出しから一葉の写真を取り出す。
「まさか、この写真を写したのは、椎名なのか」
それは、愛美から取り上げた滝口の写真だ。藤也は頷いた。
「その写真のことで、椎名が野球部に目を付けられている。滝口も大きなヤマを前に、気が立っているんだろう。それこそ、何をしてくるか分からない」
綾が長い指で、口元を押さえた。
「さすがの今泉も、椎名には甘いな。ホレているなら、自分で護衛してやればよいではないか」
藤也は鬼面で噛み付いた。
「そんなんじゃねえよ。とにかく、堅気の女が狙われてるんだ。面倒みてやれよな」
「分かった。お前からの依頼だと、はっきり椎名に言っておいてやる」
「んなこと言ってみろ。ぶっ飛ばすぞ」
低くドスの効いた声が部屋の空気を和ませ、綾はひとしきり笑って、軽く窓の外に合図した。
介三郎は、小さな背中を全速力で追いかけて、階段の踊り場で愛美の前に立ち塞がった。バスケのディフェンスのように、長い腕を一杯に広げて、止める。
小さな肩が息を切らして激しく上下し、肩にかかる巻き毛が小刻みに震えていた。
「成瀬、全部聞いていたのか」
恐る恐る訊ねる声もまた、震えていた。
愛美は俯いたまま、肯定も否定もしない。何かを待つように、また、何かを拒むように、黙って俯いていた。
「本当に、成瀬にだけは知られたくなかったんだ。ずっと、黙っていたかった」
「それで、私が有頂天になっているのを、笑ってたってわけ」
不似合いな大声が、介三郎の胸を貫いた。激痛が走る。苦痛に歪んだ表情を睨みつけ、愛美は唸った。
「さぞ、滑稽に見えたでしょうね。面白かったでしょ」
「成瀬、違う」
「聞きたくないわ。介三郎くんは、綾がいればいいのよ。綾が黒って言ったら、白も黒って答えるんだもの」
すでに思考は薄れ、ただ、言葉だけが口から吐き出される。
「私は信じないわ。自分の目で見ない限り、綾の言うことなんて信じない」
「まさか、自分で調べる気なのか」
「そうよ」
釣られて叫んだ愛美の肩を、介三郎は両手で鷲摑みにすると、激しく揺すった。
「ダメだよ、成瀬。危険すぎる」
今、滝口に近づけば、どうなるか分からない。
「もし成瀬に何かあれば、綾が困る。ただでさえ、今回の件は危険なんだ。綾ですら保証はない。その上、成瀬が人質ってことにでもなれば、身動きが取れなくなって、あいつは」
嘆きにも似た叫び。
綾しか見ていない。綾の心配しかしていない。分かっていた。分かりたくなかった。
愛美の表情は、一層険しくなった。その大きな瞳は、涙で揺れている。
「だから、嫌いよ」
「成瀬」
「介三郎くんなんて、大っ嫌い」
力一杯叫んだ小さな少女は、大きな手を振りほどき、そのまま階段を駆け下りた。
そしてその言葉を絶句のまま受け止めて、介三郎は立ち尽くすしかなかった。
数日は、まるで嵐の前の静けさという言葉通り、何事もなく、ただ水無月祭の準備に追われていた。
滝口を部長とする野球部の企画『おもちゃ屋』も、生徒会を通過した。
綾の指示通り、愛美は副会長補佐ということで介三郎と組んだ。愛美は拒否はしなかったものの、必要最小限の返事しかせず、殺伐とした雰囲気の中で介三郎と仕事をこなした。
里美が、毎日のように砂原弥生の欠席理由を問いかけるが、それも愛美にとってはあまり触れたくない問題の一つのようだ。弥生の顔を思い出せば、自然、傍に立っていた滝口の顔が浮かんでくる。
介三郎もまた、必要最小限のこと以外は言えなかった。『大嫌い』が相当効いている。
生徒会長はといえば、このクソ忙しいのに、会長室に籠もったまま、一向に出てこない。勿論呼び出しに行く者などいるはずもなく、介三郎は機械的に、生徒会長分の仕事もこなしていた。
愛美の視線が、一瞬、壁に掛けられた時計に向けられる。
時間だ。
愛美は、一枚の企画書を取り上げて、介三郎に差し出した。
「介三郎くん、これ、よく分からないから、説明してくれないかな」
突然話しかけられると、動揺してしまう。介三郎は赤面状態で絶句して、辛うじて紅葉のような可愛い手から企画書を受け取ると、神妙な顔を作った。
だが、眉間にシワを寄せても、わかるものではない。
「これは、綾でないと処理できないよ。しかも理事長決裁だ。後回しにするしかないね」
早々に答えを出して、投げ出そうとする介三郎を正面に見据えると、愛美は事務的に言った。
「今すぐ綾のところに行って来て、処理してもらってくれないかな。仕事はつかえてるんだもの。後回しにすれば、手落ちになりかねないでしょ」
口調は決して反論を許さない。
会長室は『入室厳禁』の札が掛かっている、と言いたくても、言葉はすでに失ってしまっていた。
愛美が命じるままに、介三郎は企画書を持って会長室に向かう。その両腕に、見る見る未決の企画書が積まれていく。皆、この時とばかりに、介三郎に押し付けようというのだ。
それを見送って、愛美は仕事の手を止めた。誰もが忙しく、周囲に気を配っている余裕はない。
愛美は軽く見渡して、皆が仕事に没頭しているのを確認すると、悟られぬように生徒会室を出た。
「で、どうだった」
薄暗い生徒会長室で、綾は藤也と向かい合っている。綾は窓を背に立っている。
一方、藤也はソファの肘掛に腰を下ろし、背丈の割には長い足を投げ出していた。
「お前は、労いの言葉を知らないのか」
不機嫌極まりない声で、藤也が言い返す。偵察の結果を知らせに来たのを、あからさまに後悔している様子だ。
綾は微笑すると、威儀を正して訂正した。
「では、言い直そう。この度の一件については、今泉殿に大変世話になった。礼を申します」
似合わぬ口調に、藤也が居心地悪そうに背をよじる。
「もういい、止めろ。背筋が凍る」
噛み付くように言うと、綾の方も姿勢を崩して窓辺に寄り掛かった。苦笑が漏れる。
「私もだ。で、どうだった」
態度のでかい美人の影に、藤也は冷ややかな流し目をくれた。あまり感じの良くない斜視だが、藤也がやるとどこか色っぽい。
「性能のいい改造拳銃は、どうやら青島工業の番格本郷が購入したようだ。取り巻きの話だと、取引は一回きり。売人の方から連絡があり、コインロッカーを介してやり取りをする」
「売人の方は、調べがついたのか」
「そっちは無理かもな。本郷自身、はっきりとしたことは知らないんじゃないか」
綾の気が抜ける。
「知らない奴と、そのような危ない取引をしているのか」
ポツリと呟く綾に、藤也の嘲笑。
「そりゃ、『滝口の友達』だからな」
理由はそれで充分だ。
「呆れるな」
心底呆れたように、綾が惚けた。
「ともかくもう少し調べてみてくれ。組関係でなければ、万里子ではなくお前の領分だ」
「お前はいつも、マドンナの領分だろうと、俺に回すじゃないか」
事実が違うと憤慨する。
「当然だ。万里子にはモーツァルトと、か弱い女が良く似合う」
「そしてお前には、血に染まった凶器が良く似合うぜ」
皮肉を言ったところへ、ノックの音が重なり、介三郎が両手一杯に書類を抱えて入って来た。
「なんだ、藤也か」
気の抜けた声でそう言うと、会長の机に書類を置いて綾を見た。
「お前の仕事だ。皆がパニック寸前だ。このままじゃ、水無月祭は忙しいばかりで、楽しいことなんて一つもない、最悪なものになるぞ」
「滝口の件が終われば、不眠不休でやってやる。それまで、お前が持ち堪えろ」
微かな労いの情がちらほら見えるが、『微か』では、今の介三郎のプレッシャーはまったく軽くならない。
「いっそのこと、副会長辞めれば。介」
あっけらかんとして言ってのける藤也に、介三郎の間抜け顔。
「そういう反撃があったのか。それはいい」
「こらこら」
介三郎の意見に異議を唱える綾に、介三郎は寝不足の据わった目を向けた。
「こらこら、じゃないぞ。藤也はたまに良いことと言う」
口調がジジくさい。
「介三郎、成瀬はどうしている」
「勿論隣にいるよ。当たり前だろ、忙しいんだから」
いつになく強気の口調に、綾は苦笑した。
「それなら別に構わない。滝口が成瀬に目を付けていることは明白だ。しかも、成瀬のことだ、自分で調べると言ったら、その通りに行動するだろう。せいぜい気を付けてやるのだな」
あくまでも成瀬のお目付け役は介三郎だという持論でもあるのか、綾はどうでもよさそうにそういって、肩をすくめた。
介三郎は、大きくため息をつく。
「あれほど、成瀬は巻き込まないようにしようって言ったのに。あいつに何かあったら、どうするんだよ」
尖らせた口からこぼれるのは、愚痴ばかりだ。
「そんときゃ、介ちゃんが白馬の騎士の如く駆けつけて、滝口を一刀両断にでもするんだな」
藤也があっさりと答える。
「どの道、成瀬は自分の目で確かめなければならない。介三郎に介三郎の想いがあるように、成瀬には成瀬の想いがある」
窓から入る爽やかな風に、長い髪をなびかせて、綾は呟いた。
藤也の失笑が重なる。
「ほんと、お前らしくない言葉だこと。滝口に泣かされた女の悲恋話には、無関心だったのにさ」
「まさか、成瀬は特別だって言うことなのか」
次の瞬間、空気が一気に張り詰めた。
綾の目が光り、藤也の表情が無くなる。一転笑顔だった介三郎にも、その声は聞こえた。
『申し訳ございません。滝口を見失いました』
気配を消すことなど、忘れてしまうほどに動揺しているのか、咳き込むような蛍の声が大きく響いた。
綾は無言で、生徒会室へと抜ける扉を開くと、広い部屋を見渡した。
会長が姿を現したことで、大勢の役員は皆、動作を止めて見守っている。
「誰か、成瀬愛美を知らないか」
珍しく大きな声で問い質す綾に、答えられる者はいなかった。
綾はそのまま部屋を突っ切ると、廊下に出て階段へと向かう。
顔色を変えた介三郎が早足でその後ろを追い、気のない素振りを見せながら藤也も後を追う。
「何なんだよ、おい、綾」
「成瀬が動いた」
「は?」
「まさか、これほど早く行動するとは思わなかったな。おそらく滝口に直接罠をかける気でいるのだろう」
「綾。それじゃ、成瀬が滝口を呼び出したのか。ヤバイよ、そんなの」
後ろから声をかけるが、綾はまったく聞いていない。階段は目前だが、突然立ち止まって方向を変えた。
「面倒だ」
小さな呟きを残して、綾は中庭に面した廊下の窓に手をかけた。
「おい、バ、バカ。ここ三階だぞ」
そうでなくても鷹千穂学園の校舎は、天井を高く造ってある。中でも中央館は、他の校舎よりも天井が高い。三階とは言え、普通の四階くらいの高さにはなる。
綾は身軽に窓枠を越えて身を翻し、銅像を一つクッションに使い、難なく中庭に飛び降りると、そのまま突ききり正門へと向かった。
窓から身を乗り出して見ていた介三郎も、同じように飛び降りようとしたが、それは藤也に引き留められる。
「お前は無理だよ。堅気のスポーツマンは、大人しく階段を使え」
バスケット部のホープに、むざむざ怪我をさせたくないというのは、密かなファンとしては当然だ。介三郎も素直に思い留まって、階段へ急いだ。もちろん階段を一段ずつ下りたわけではない。
ちょうどその時、理事長室から出て来た鷹沢士音は、落下していく娘を見て、傍の秘書に微かな指示を出した。
目を見張るような速さで走り抜ける綾に、二つの影が従う。
『申し訳ございません。ほんの一瞬、目を離した隙のことでございました』
綾とあまり体型が変わらず、髪を肩の下までなびかせた蛍が、表情を曇らせて詫びる。
その横を、女子にしては丈高い短髪の桜が続く。腕につけた銀色の篭手が目を引いた。
『しかし、成瀬さんはお嬢様の選んだ方。その成瀬さんをどうする気でいるのでしょう。まさか滝口は、本気でお嬢様に楯突くつもりなのでございましょうか』
信じられないと付け足して、桜は肩をすくめた。走る速さなど微塵も感じさせない仕草だ。
綾が笑う。
「アレは既に常軌を逸している。鷹千穂には不要だ。最後くらい、本気で相手をしてやるのが手向けというものだろう」
そう言って、真っ直ぐ前方を見据える瞳が、微かに金色に光った。
愛美は、想い焦がれた滝口を前に、高鳴る胸を押さえていた。
二人きりで話しがしたいと書いた手紙を、滝口は忠実に実行してくれた。
ここは先日銃撃戦になった神社の境内。昼間でも人気はない。空気は清浄で心地よいが、しかし目を凝らせば至る所に、弾丸がかすった跡があるのが分かるだろう。
愛美は思い出していた。
あの時の恐怖と、二人に守られる安堵感を。
「どうかしたのかい」
愛美の思考は、滝口の声で止まった。
「いえ、何でもないんです。それより、呼び出したりしてごめんなさい。いつも傍にいる方たちは怒るでしょうね」
努めて明るく言うと、滝口が気障な笑いを浮かべる。
「キミが気にすることじゃない。キミとは一度、話してみたいと思っていたんだ。いつも生徒会室から僕の方を見ているね。どうして話しかけてくれないのか、色々考えていたんだ」
「私なんかが傍にいては、迷惑だと思っていたから」
愛美は目を伏せて、軽く口元を押さえた。肩にかかる巻き毛が、彼女の白い肌を一層透明に見せていた。大きな瞳が物憂げに潤んでいる。赤い唇も、ブレザーにガードされている豊かな胸も、生贄の羊としては上物だ。
滝口の片目が、不気味に光った。
「ところでキミは、あの速水介三郎と何かあるの?」
「はぁ」
意外な問いに、思わず口をポカンと開けてしまう。滝口が苦笑で言い足した。
「いや、いつだったか、あいつと一緒に公園にいただろう。何か意味深な様子で、植え込みの中にいたのを見た奴がいてね。速水に訊いてみると、どうやら本当らしい・・・と」
探るような視線に、愛美は気付かないようだ。パッと明るく笑って、軽く流す。
「え、アレを見てたんですか」
愛美は、即座にそう返した。
滝口の口元から、微笑が零れた。予想通りの答えのようだ。
しかし、注意をして彼女の瞳の奥を見つめれば、分かったはずだ。愛美は明らかに、滝口の言葉の裏側を見ている。
「やだな。介三郎くんとは、なんでもないですよ」
愛美がすかさず加える。
滝口はその反応に、晴れやかに笑って見せた。
「そうだろうね。速水は中等部時代から鷹沢綾と噂のあった男だ。あの二人の仲の良さは有名でね。生徒会を仕切っていた速水と、理事長の娘である鷹沢。キミがどれほど速水を想っても、その想いは鷹沢によって簡単にねじ伏せられるよ。あの二人に近づくのは止めたまえ」
「滝口さん・・・」
「先日も結局、鷹沢に邪魔されたんじゃないのかい」
愛美の微かな表情の動きを、滝口は気付いていない。
「・・・どうして、そんなこと訊くんですか」
愛美は静かに問う。滝口の苦笑。
「ただその時、キミや速水と一緒に、鷹沢がいたかどうか訊きたかったんだ」
息苦しい沈黙が流れた。鬱蒼とした樹木がざわめく中で、愛美はその憂鬱げな瞳を厳しい表情で押し潰した。
「もし、あの時の銃撃戦に、綾もいたと言えば、どうなさるおつもりですか」
打って変わった愛美の声に、滝口は不敵な微笑を浮かべて軽く手を振った。
合図だ。
どこからともなく現れた男たちが、愛美を取り巻く。どこかで見たことがあると思ったら、その内の二人は野球部の一年生だ。
「残念だよ。キミは少々気に入ってたんだがね。どうやらお別れらしい」
滝口の哄笑が、愛美の耳に響く。
「こうやって、何人の女の子を傷つけたの。皆、滝口さんが好きだったはずだわ。その気持ちを幾つ潰してきたの」
愛美は叫んだ。
「私だって、大好きだったわ。ずっと、ずっと憧れてきたのに」
真剣な言葉に、滝口は高らかに笑った。狂った声が、鬱蒼とした神社の樹木を鳴動させた。
「すでに過去形になっているよ、成瀬。所詮、女の気持ちなど、空模様ほどに変わる。いちいち付き合っていられるほど、僕は暇じゃない。まぁ、頑張って抵抗してくれたまえ。その方が、こいつらも喜ぶ」
その時、滝口の脇を何かが掠った。
「殺してやる!」
そう叫ぶ声が、悲しく響いた。
紙一重でかわした滝口の掴んだのは、ナイフを持った女の右手だ。
「砂原さん!」
目を見張って、愛美は呆然と女の横顔を見つめた。同じクラスの砂原弥生である。
その細い腕や首筋や足。服で隠せない場所に、包帯が巻かれている。顔には大きな絆創膏が貼られ、可愛いはずの細面を醜く引きつらせていた。
「お前は、確か」
まるで汚らしいものでも見下すように、嫌悪に歪む滝口の顔は、鬼にも等しい。その顔に、弥生は左手を振り上げたが、届かない。反対に、高々と振り上げられた滝口の手が、弥生の頬を恐ろしく打ち据えた。
弥生の身体が藻屑のように崩れて、愛美の足元まで吹き飛ぶ。
「女の子に何をするの!」
弥生を支えながら、愛美は滝口を睨んだ。
それを小気味良く眺めて、滝口は弥生に言った。
「馬鹿馬鹿しい。僕がお前のような面白くない女を、本気で相手にすると思ったのか。まして、何人の男に犯されたのか分からない女など、醜悪極まりない」
澄まして笑う滝口を、涙の溜まった瞳で弥生は見返した。
「あんたがお金と引き換えに、私をあいつ等に渡したんじゃないの」
「あぁ、ブスの割りには意外に高い値段だったな」
凍て付くような言葉に、弥生はただ、茫然と虚空を見つめた。まるで狂う寸前の奇妙な表情だ。何が善で何が悪なのか、見失ってしまったような瞳が彷徨っている。
愛美もまた、自分の中で何かが崩れていく音を聞いていた。大きく見開いた目で、滝口を見つめるだけだ。
滝口は一層楽しげに肩を震わせて笑っている。
「滝口さん。この女たち、『後で使う』んですか。それとも・・・」
取り巻く男たちの一人が、立ち去りかけた滝口を呼び止めた。
金と引き換えに誰かに渡すのか、それとも・・・。
「お前たちの好きにすればいい。その後は、僕の為に働かせよう。これで生徒会に僕のコマが一つできるわけだ」
その時のことでも考えているのか、滝口は笑いながら、大きなストライドで去って行った。
残ったのは、指を鳴らしながら獲物を狙う猛獣と、動くことができず、ただ茫然と立ち尽くす少女が二人。
樹木が一斉にざわめいた。
獣の咆哮が、境内に轟いた。だが、それは忽ち絶叫に変わる。
愛美たちに伸ばされた手が、風の音で自由を奪われ虚空で切り刻まれて震える。鮮血が飛び散る寸前で、男の顔面に銀の篭手がめり込んだ。
怯んだ男たちの鼻先を、黄金の光がかすめる。女の髪だと分かった瞬間、顎や鳩尾に衝撃が加わり、吹き飛ばされた。相手を確かめる余裕はなく、ただ、砕かれた顎や嘔吐をもよおした腹部を押さえるのが精一杯だ。
襲われると思い、弥生を庇うように身を伏せた愛美には、何が起こったのかすぐには把握できなかった。
絶叫の響く中、支えていた弥生の身体が目前から消え、自分もまた、何かにすくい取られるように地面から離れた。
「野球部が、揃いも揃って恥さらしなことが」
声はすぐ傍から聞こえ、男たちの真っ只中にいたはずの愛美の視線は、遠目に男たちの群れを見つめていた。自分を支える細い腕を追うと、淡く薄らぐ視界の中に髪の長い美人がいる。
「綾」
瞬間の浮遊感は、綾に抱き上げられたためだと初めて理解する。見ると弥生は、銀色の篭手をはめたサングラスの女に抱き上げられていた。どうやら弥生は、気を失っているようだ。
もう一人、サングラスをはめて両手を広げる女がいた。その指先からきらめく糸が無数に、男たちに向かって伸びている。男たちの身体を冷たい光が取り巻くと、女は手に含んだ何かを綾に手渡した。
綾の纏う光が、鮮やかに輝く。
「貴様たちに汚された女たちの痛みに比べれば、これしきのこと仕置きにもならぬ」
言うが早いか、綾は拳を握り締めそのまま腕を振り上げた。
男たちの身体から血飛沫が舞い上がり、絶叫を上げて気を失った。
「よく見ておくのだな、成瀬。多くの女が、こいつらの汚らしい手で汚された。その手引きをしていたのは・・・」
愛美が首を横に振る。
「言わなくていいわ、分かってるから。滝口さんが、私をこの場所を選んだ時から、分かっていたから」
愛美の言葉に嘘はない。小さな身体を震わせながら、しかし彼女は、毅然とした表情で綾を見ている。
綾が微笑で返した。
「介三郎がお前を選んだのは、間違いではないようだな」
心からの言葉は、愛美を一層苦しめた。
「からかうのは止めて。介三郎くんが好きなのは、綾だわ。皆、そう思っている」
愛美もずっと、そう思っていた。
綾は大きく息をつくと、一つ伸びをして視線で示した。
「それこそ、自分の目で確かめるのだな。介三郎がどうしてああまで血相を変えて駆けつけてくるのか」
示された方を見ると、丈高い少年が全速力でこちらに向かってくる。
「介三郎くん・・・」
息を切らし、這いつくばっている男たちを踏み倒しながら、介三郎は駆け寄り愛美の肩を掴んだ。
「成瀬、怪我はないのか」
顔色を無くし、今にも抱きすくめるような勢いで迫る介三郎の瞳に、愛美は思い当たることがあった。
この瞳だ。入学以来感じている熱い視線は、この瞳から発せられたものだったのだ。
自分はいったい、何を見ていたのだろう。
長い身体を折り曲げるようにして問いかける青ざめた間抜け顔が、すぐ傍にあった。
万里子の言葉が、綾の微笑が、静かに胸の闇を溶かしていく。
介三郎に遅れて到着した藤也は、愛美に迫る介三郎の横顔を眺めて、口元に微笑を浮かべた。
桜から弥生を受け取った綾は、傷だらけの少女を胸に、高まる怒りを辛うじて抑えていた。
「砂原さん、大丈夫かしら」
愛美が小さく問いかける。気絶する直前の弥生の目が気になった。介三郎にもそう問いかけるが、答えはない。
傍観していた藤也が、おもむろに近づいて綾を見る。
「忘れられるものなら、忘れさせてやれよ。これから先のことを考えれば、今回の記憶は辛過ぎる。砂原は思い詰める性質だ。汚い記憶は、害になる」
まして、相手が滝口のような男であれば尚のことだ。
藤也は静かに付け加えた。綾も思いは同じようだ。
「そうだな。その方がいいだろう」
呟きながら、綾が視線を遠くへ向けた。理事長秘書である中津が、ゆっくりと近づいてくる。
「父上から離れるなと、いつも言っているであろう。早々に帰れ」
咎めると、中津は笑顔で威儀を正し、一礼した。
「会長のご命令でここまで参ったのでございます。手ぶらで帰っては、会長のお叱りを受けますので」
澄まして言ったその腕が、綾の腕の中の弥生を軽々と引き取った。
「そちらに転がる者たちは、影が責任を持って処理いたします。この少女は病院へお連れしますが、消すのはこの数日の記憶でよろしいので?」
事も無げに言う中津に、綾は苦笑で頷いた。
「傷の手当もしておいてくれ。跡形も残らぬようにな」
「承知いたしました。お任せください。お嬢様はどうやら今夜、お帰りが遅くなるようでございますが、くれぐれも羽目を外さぬようにとの、会長からのご伝言にございます」
それでは、と飄々として言うだけ言うと、中津はさっさと踵を返す。
「まったく。可愛くない奴だな」
綾が小さく呟くと、藤也の片眉が上がる。
「お前、他人のことなんか言えないぞ」
確かに。
「それは言えるな」
軽く同意して、綾は介三郎の傍らにいる愛美を見た。
「怪我はないな」
短い問いに、大きな瞳がしっかりと頷いた。綾が微笑で介三郎に視線を移す。
「介三郎、成瀬を家まで送ってやれ。明日からもっと忙しくなる。今日はゆっくり休んで、何もかも忘れろ」
「やっと、仕事する気になったのか」
胸を撫で下ろす介三郎の傍で、愛美は唇を噛み締め決意した。
「綾、今夜、青島工業を潰しに行くんでしょ。私、ついて行くわ」
「成瀬!」
途端に青ざめた介三郎を、愛美は厳しい瞳で制した。
「このまま、引き下がらないわ」
それが彼女の『儀式』の始まりの言葉だ。
介三郎も綾も、そして藤也も、無言でその言葉の意味を見つめた。
愛美は虚空を凝視し、握り締めた小さな手を胸に当てて、誓う。
滝口が関わるすべての悪事を、この目で見るの。そうして、ずっと大切にしてきた偽りを、罪に変えて一身に受けよう。
このまま、目前の丈高い少年に甘えるわけにはいかないわ。そんなこと、綾も万里子も許さない。まして自分が納得するとは思いたくない。
「介三郎くんが止めるのも分かるわ。相手は拳銃を持ってるんだもの、恐くないって言えば嘘になる。でもね、私、見てるだけなんて嫌よ。あの人がやってることを止めるの。砂原さんの為にも、あの人が人形のように扱った女の子たちの為にも、そして自分の為にも、このまま黙っているわけにはいかないのよ」
小さな身体を奮い立たせて、大きな瞳に並々ならぬ決心を込めて、愛美は言い切った。
介三郎はまた、心のどこかが彼女の虜になったことを自覚した。
藤也が無表情で、小さな丸顔を見つめている。
綾が妖しい微笑を浮かべる。
「いいだろう、成瀬」
「な、綾。どうして止めないんだよ」
慌てて喚いた介三郎を制し、綾は続けた。
「言っただろう。成瀬には成瀬の想いがある。それを止めることが、どうして私に出来るのだ。ただし、成瀬。連れて行くには条件がある」
「何なの」
「介三郎がお前と一緒に行くと言えば、の話にしよう」
その美しい微笑が、柔らかい瞳の色と重なる。静観していた藤也の唇から、艶かしいため息が漏れた。
「そ、それって、俺も行って良いってことなのか?」
意外そうに問うと、肩をすくめられた。
「お前の他に、誰が成瀬を守るんだ。私は忙しいんだ。それに、来ると言うなら、相応に働いてもらわねばならない。護衛を付けるのは当たり前だろう」
絶対の信頼が、綾の言葉の裏側にあった。
介三郎が満面笑顔で親指を立てる。愛美のことは任せておけと言わんばかりだ。
綾が眉を微かに動かせて応える。
そして愛美は、滝口と滝口を信じていた自分に対する憤りを力に変えて、目指す相手を脳裏に浮かべた。
「やっぱり、過保護だな」
一部始終を見ていた藤也が、呆れたように呟いた。
「何故だ、今泉。過保護だとは思わないが」
惚けた声が笑っている。
藤也はまるで言い含めるように、綾を睨んで言った。
「いいや、お前は過保護だ!」
苦笑したのは綾で、ふんぞり返ったのは藤也。介三郎と愛美は、何のことかさっぱり分かっていなかった。
青島工業高校は、土手ばかりが広い川の傍にあり、普通校舎二棟、技術工作室などが入っている専門棟一棟があるが、その他に廃屋となっている工作室があった。
その旧工作室は、現在番格のたまり場になっていて、教師や一般生徒は近づかない。その旧工作室で、改造拳銃が急ピッチで作られている。番格の根城は、その二階にあった。
おそらく本郷は、その二階奥で、あぐらでもかいているだろう。
綾は、黒い軽装に身を包み、肩に革のリュックを下げている。介三郎も愛美も同様に、闇に沈む色の服に着替えている。
三人はまず、明かりの少ない裏門から入った。
校舎にはまだ、あちらこちらに明かりが付いているが、それほどの人の気配はない。
「こっちだ」
綾は二人を促すと、闇に紛れて一つの棟を目指して走った。草むらを抜けると、古い建物があった。身を潜めて窺うと、見張りらしい学生が二人、周囲に気を配りながら通っていく。
どちらも、先日公園で出会った猛者だ。
建物の中には、何人もの生徒がいるようだ。窓には皓々と明かりが灯り、地面に伸びる光に、多くの影たちが行き交っている。
「主犯格の者どもが皆、二階に集まっていれば好都合だがな」
風に紛れる小声で、介三郎に説明する綾が、おもむろに肩に下げたリュックを下ろす。
「どうするんだよ、これから」
傍にいる愛美を気遣いながら、介三郎も小声で問いかける。差し出されたのは、鉛色の太い筒だ。
「何だ、これ」
「発煙筒だ。音センサーがついていて、ある一定の音に反応して自動的に煙を出す。これを安全装置を外した状態で、建物に取り付けていってくれ」
発煙筒は、十本あった。
「建物を取り囲むように、仕掛ければいいんだろ」
自信ありげに念を押す介三郎に頷いて、綾は愛美を見た。
「成瀬は、介三郎の仕事を手伝ってくれ」
「え。それだけなの」
不満顔で呟くと、笑われた。
「この作業が一番重労働なのだ。介三郎一人にやらせるのは、酷というものだろう」
綾はそう言うと、リュックを愛美に手渡した。それはズッシリと重く、愛美の力では片手で持てない。これを担いで動き回るのは、確かに介三郎と言えど酷な話かもしれないが、同時に、こんな重い物を担いで、普段と変わらない動きが出来る綾に呆れてしまう。
「さて、始めるかな」
気軽に笑って、綾は立ち上がった。また、見張りがこちらに向かって来るようだ。
「お前は、これからどうするんだよ」
愛美からリュックを受け取りながら、介三郎が問う。綾はゴーグルをつけて、口元に微笑を浮かべた。
「主犯格の捕縛と、証拠の隠滅。それから、加担した者どもの記憶の消去。ついでにひと暴れでもすれば、お前たちの仕事も容易いだろう」
「おおい。そんなにやることがあって、一人で大丈夫なのか」
「造作もない」
心配顔を一言で制し、ウエストポーチの中から歪な黒い塊を取り出して、右手に持つ。
「始めるぞ。二人とも、ここが終わったら、すぐ裏へ回って土手の橋の下へ行くのだ。いいな、介三郎。成瀬を守れ」
憎らしいくらいカッコつけて、それだけ言うと、介三郎の答えを待たずに綾が動いた。
こちらに向かってくる見張りに突っ込むように走ると、狼狽える二人の肩を土台に跳躍した。身が軽いと言えばそれまでだが、並の運動神経ではない。
長い髪が見張りの脇を掠めた時、微かに痛みを発し、頬が数センチ切れていた。
「てめぇ、何者だ」
鋭く誰何する声を微笑で受け止めて、綾は軽く膝を折って沈むと、まるで重力を感じさせない跳躍で、傍の大木の枝に飛び上がり、そのまま向きを変えて二階の窓に突っ込んだ。
激しいガラスの音が響き、建物の上部が騒然となる中で、閃光が炸裂する。おそらくストロボ光弾でも使ったのだろう。
唖然とそれを見送った見張りは、一転我に返ると、破壊音の轟く二階へと急いだ。
「ノッてるなぁ」
間抜けな顔で感嘆している介三郎の横で、愛美も呆然と言葉を失っている。
いつの間にか階下の工作室も騒がしくなり、窓から伸びる影の数がかなり減った。おそらく二階の騒ぎを聞きつけて、応援に行ったのだろう。
「それじゃ、見張りもいなくなったことだし、俺たちも始めようか」
「そうね、そうしましょう」
どっと疲れた様子の二人が、ドッコイショと草むらから出て建物に近づいた。
今ではお祭り騒ぎと言っても過言ではない喧騒をBGMに、二人は至って機械的に、発煙筒を仕掛けていった。
綾は、八方から襲い掛かってくる学生たちを、一笑の元に殴り倒していく。
十名は下らない男たちが、息をもつかせぬ攻撃を仕掛けながらも、拳一つ蹴り一つたりと、しなやかな身体に掠りもしないのは、決して男たちが弱いせいではないだろう。
綾の体術は完璧だ。一縷の隙もない。
そして、一人また一人と倒していくうちに、激しい動きになびく長い髪が、微かな光を発し始める。
取り巻く学生の動きが止まった。四人の男子生徒が一歩前に出た。
試作品を奪った時、追いかけてきた猛者たちである。
「また、会ったな」
一人が凄む。
綾が微笑を湛えたまま、ゴーグルを外した。
普段は栗色のはずの瞳が、美しい黄金色を発している。風のない廊下で長い髪が、瞳と同じ色を発してざわめく。
「確か、お前たちの記憶は消していなかったな。好都合だ」
低く響く声が、笑う。
言葉の意味が理解出来ず、思わず惚けた表情のまま立ち尽くしていた男たちの目前で、黄金の光が煌いた。
「ま、まさか。魔女・・・」
誰ともなく呟いたのが、最後であった。
すべてを吸い尽くす光が、茫然と立ち尽くす者たちの頭の片隅に、伝説を刻んだ。
介三郎と愛美は、慎重に発煙筒を仕掛けていった。介三郎が差し出す発煙筒を、愛美が一つセットする間に、介三郎が二つセットする。二人で建物を一周するのに、十分はかからないだろう。
建物の二階は、蜂の巣をつついたような騒ぎである。おかげで、階下にはほとんど人気がない。念の為、窓を横切る時は身を沈めて慎重に進むが、それほどの危機感はなかった。
介三郎が最後の一本を仕掛けている時だ。
数人の話し声が近づいて来た。校舎の方角だから、おそらく旧工作室の騒ぎを聞きつけた教師か一般生徒だろうか。
「ヤバイな」
介三郎は小さく呟いて、身を縮めた。その傍らで愛美も息を潜めている。
「今来られると困るんだよな。タイミングが狂う」
頭をかいて愛美を見た時には、すでに介三郎の意志は固まっている。
「悪いんだけど、成瀬」
言いかけた言葉を、愛美は視線で制した。
「分かってる。介三郎くんが、囮になるんでしょ。でも、大丈夫なの?」
頷きながらも、大きな瞳が心配している。暗がりに寄り添っている状態なので、二人の間は三十センチもない。長い腕にかけられた白い指先が、小刻みに震えているのが分かった。
介三郎は真顔で頷いた。珍しく頼もしい表情である。
「大丈夫だよ、成瀬。だから先に、土手の橋の下へ行っててくれないか。綾もじきに終わると思うし、俺もすぐ後を追うよ」
「わかったわ。気をつけてね」
他に何か言おうとしたが、咽喉が詰まって上手く言えなかった。素早く介三郎の手にある最後の発煙筒を引き取ると、俯いて小さく「行って」と呟く。
時間は、ない。
介三郎は立ち上がり、近付いて来る足音に向かって走り去った。
愛美はその大きな背中を、しばらく見送っていた。奥歯を噛み締めておかないと、涙が零れそうだ。一人ぼっちになったのが、不安なのではない。おそらく彼が、自分の傍から離れたことが辛いのだ。
その事実が一層彼女の胸を締め付けた。
あまりに身勝手な想いだ。昨日まで、彼の目の前で別の男を賛美していたというのに。
介三郎の消えた方向から、誰何の声が上がり、愛美の頭上でガラスの割れる音が響く。幸い割れた窓は、愛美の真上ではなかったが、それでも中で繰り広げられている喧騒の激しさは充分理解できる。
愛美はほんの少し零れた涙を拭うと、抱き締めていた発煙筒の安全装置を解除して、建物に取り付けた。
「これで、最後ね」
これで、終わる。
心の中で小さく呟いて、愛美は立ち上がると、来た道を急いだ。
その時、階下の工作室に一人、鷹千穂の制服を着た男子生徒が、窓の外を横切った影に気付いた。
介三郎は、追ってくる学生たちを引き離さない程度に力を抑えて走っていた。どうやら相手は、一般生徒ではなく、本郷配下の者たちのようだ。在校生の半分以上が本郷のような問題児という青島工業だ。
「こんなに大勢が関わっていて、証拠隠滅なんてできるのかよ」
半ばヤケクソ気味に呟きながら、とにかく走っていた。だが、じきに自分の間抜けさに頭を抱えることになる。
「ヤバイ。行き止まりだ」
目前に高い壁がそびえている。退路はすべて、学生たちで塞がってしまった。わずかに五名とは言え、明らかに喧嘩慣れしている様子が窺えた。逃げ足以外に自慢するところのない介三郎では、次の一手が思い浮かばない。
「ホント、情けないのなぁ、俺って」
壁を背に、惚けた口調で頭をかいている長身に、五人が一歩進み出た。
「お前、どこのモンだ」
ドスの効いた声が響く。だが、誰も介三郎の素性になど興味はないようだ。殴って、蹴り飛ばして、黙らせればいいとしか考えていない。
五人が一斉に動いた。
介三郎は身を沈めて、冷静に五人の隙を探した。バスケで相手のディフェンスを縫う時の感覚に似ている。
案外、突破口を見つけるのは容易く、自分の実力から言っても、出来ないことではなかった。だが結局、カッコ良く決めさせてもらえなかった。
ダッシュしようと姿勢を低くした直後、目前に突如甘い香りの影が立った。
その影は、突進して来ている五人を難無く片手で払いのけると、白い指先に煌く光をその身に纏った。
「あれ、お前は確か・・・えっと」
唖然とした顔で突っ立っている介三郎の前で、蛍の冷めた表情が月光に映える。
「確か、えっと。何てったっけ」
介三郎はどうやら、彼女の名前が思い出せないでいた。といっても昼間、学園内で呼ばれている名前は分かっているのだが、学園を一歩出るとその名前は禁句である。
「だから、えっと」
「蛍」
「そう、蛍だ。どうしてこんなところにいるんだよ」
見かねて蛍が答えると、介三郎は状況も無視して質問する。
蛍はそんな長身を見上げて苦笑すると、ある方向を指した。
「あちらに正門がありますから、あなたは早くここから去りなさい」
「でも、そいつらはどうするんだ」
心配して問うと、怒られた。
「成瀬さんをお守りするよう、お嬢様と約束なさったでしょう。早く行きなさい」
蛍に叱責されて、介三郎はヘコヘコしながら頭をかき、そのまま無言で示された方角へ走った。
残った蛍が、裂けた頬を押さえて立つ五人に視線を向ける。
「どうやら、少々凶暴な方々のようですね。悪事の記憶と共に、他人を傷つける方法も忘れさせて差し上げます」
「何・・・」
言われた意味が理解出来ず、凄んだ学生の前で、蛍の美しい顔がスローモーションで笑いかけ、その周りを甘い香りが取り巻いた。
まるで、夢へと誘われるように、学生たちの表情が虚ろになり、奇妙な笑顔を浮かべたままその場へ崩れ落ちた。
介三郎は全速力で疾走しながら、正門を出て裏の土手へ向かう。愛美の待つ橋が、町の明かりをバックに黒く浮かんでいる。
気が急く。
介三郎は、走る速度を限界まで上げた。
滝口守と共謀し、改造拳銃の指示を出していた本郷は、コンクリートで囲まれた部屋にいた。
その戸口に立った綾の髪が、黄金色の光を発してざわめいている。彫りの深い顔立ちが、輝く瞳でより一層美しさと妖しさを増す。長い髪をなびかせて近づく綾は、ただ静かに見ているだけというのに、本郷は明らかに怯えていた。
「お前は、誰だ」
本郷は、咄嗟に懐からジャックナイフを取り出すと、低い姿勢で構えた。
「答えろ」
獣の咆哮が、部屋にこだまする。綾が笑った。紅の唇が動く。
「魔女」
澄んだ声には、揺るぎのない自信があった。
本郷から失笑が漏れる。
「俺も名を上げたじゃないか。まさか、魔女に目をつけていただけるとはな。これで俺にもハクがつく」
綾が、微かに眉を動かして、笑う。
「残念だな。それを自慢することは一生ないぞ。必要なのは、改造拳銃に関する記憶だけだ。魔女の記憶など、お前には無用だろう」
「そんなことができるものか。この場でお前を倒す」
かなりナイフを使いこなしているのだろう。本郷は、威嚇するように、ナイフを左右自在に操りながら、綾の出方を見た。
それに対して、顔色一つ変えることなく、綾は無防備に立っている。
本郷が動いた。
風を斬るナイフの波動が、綾の顔面を直撃する瞬間、高い金属音が響いた。
「桜」
目前に立ち塞がる影に、綾の呟く声がかかる。本郷の振り上げたナイフを銀の篭手で受け止めたのは、武術を身に付けていると一目で分かる。
「お前も、魔女の仲間か」
ナイフを握り締めている腕に力を込める本郷を、難無く弾き飛ばして、綾を守るように桜は構えた。
よろめく足で、やっと壁に背をもたせかけ、辛うじて体勢を立て直した本郷が、袖で額の汗を拭う。
「どけろ、女。俺が用があるのは、その後ろの魔女だけだ」
「お前ごとき輩が、お嬢様のお相手を努められると思っているのか。おこがましい」
桜が、見下すように返した。
その時、本郷は気付くべきであった。自分の周りを取り巻く異様な光に。
「桜。何もお前まで来ることはなかったのだ。元より、私一人でことが足りる」
拍子抜けした形の綾が、軽く桜を睨んだ。心地よい破顔が返ってくる。
「そうやって何でも独り占めなさるから、旦那様が心配なさるのです。少しは桜たちに任せてくださいな」
まるで説教でもするような口調である。綾は肩をすくめて、ため息をつく。
「充分こき使っているというのに、これ以上まだ仕事がしたいのか」
和んでいく雰囲気の中で、本郷だけが常軌を逸していった。
「お前ら、まとめて切り刻んでやる」
唸る声に、綾と桜の視線が向いた。
「やめておけ。指がなくなるぞ」
綾がそう言って、微笑を浮かべた。優しさのカケラもない冷たい微笑で、桜が続けた。
「ご自分の周りをよく見て言うのですね。ま、腐った目では、蛍の糸は見えないかもしれませんが」
言われて初めて本郷は気付いた。
自分の腕を、何か光るものが取り巻いている。それは、全身にまでおよび、恐怖に怯えてもがく度、身体のどこかに亀裂が入った。
「じっとしていることだ、本郷。動けばそれだけ痛い思いをする」
だが、綾の忠告など、すでに本郷の耳には届かない。何とか振り払おうと必死になり、いつしか蜘蛛の巣に捕らわれた虫のように、光に絡め捕られていった。
綾が、こめかみを押さえて呟いた。
「蛍、鬱陶しいから、そいつを眠らせてしまいなさい。話を聞くのは、後でもできる」
どこからか、その答えが短く返って来る。
半狂乱の本郷の周りで、張り詰めた音が一つ鳴った。
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
この世のものとは思えない絶叫がこだまし、血飛沫が舞う。
持っていたナイフは重力に従って落下したが、本郷自身はうずくまることもできず、激痛の為、失神した。
「妖糸では、やはり、お前に敵わぬな」
そう言った綾の前に、忽然と影が現れる。
蝋人形のような現実味のない容姿の美女が、綾に敬意を表して立っている。
「ご苦労、蛍」
蛍はそれに一礼すると、項垂れた状態で宙に浮いている本郷を指して、問う。
「この者、いかがなさいますので」
「性能のいい改造拳銃は、この男が仕入れたものだ。たとえ相手の売人を知らなくとも、手掛かりになることぐらいは話せるだろう。記憶を引きずり出して、その後は改造拳銃のことも、滝口のことも忘れてもらう」
「では、この者の記憶を操作する役目は、この蛍がいたしましょう」
「なぜだ」
綾が問い返すと、その後ろで桜が笑っている。
「お嬢様のチカラは、強すぎます。本気になられると、記憶を根こそぎ奪ってしまうのですから。せっかくこの者が記憶している、大事な改造拳銃のことまで忘れてしまいます」
からかう口調の桜が、ウィンクで蛍に同意を求めると、蛍もまた頷いて、
「この男の始末は、私たちがいたします。お嬢様は、介三郎さんを追ってくださいませ。先程まで、滝口が工作室にいましたので」
最後まで言わず、綾の判断を待つ。
「分かった。では、ここはお前たちに任せよう。それから、五分後に警報機を鳴らしてくれ。それで、終わりだ」
すでに戸口に向かう綾に、一礼で蛍がそれを受ける。
「お気をつけて」
桜が明るく見送った。
「では、行きましょうか。桜」
蛍は、部屋の隅にあったぼろ布を取り上げると、血まみれの本郷に被せた。こうすれば、直接血で汚れない。
「私が持つわ」
自分より一回り大きな男を抱えようとしていた蛍に、桜が手を差し伸べた。
「こういうことは、私の方が適任ね」
そう言って、桜は倒れている本郷の巨体を、軽々と肩に担いだ。まるで重さを感じさせない動作だ。
「相変わらずね。桜は」
蛍が苦笑すると、桜も笑った。
「蛍のような小技が使えないのだもの、このくらいのことができねば、お嬢様のお側にはいられないでしょ」
当然のように澄まして答えた桜は、先に部屋を出て行った。
蛍はその後に続きながら、廊下に倒れ伏したままの男たちを見下ろした。おそらく彼らには、今夜の記憶はないだろう。記憶の消去は、綾の最も得意とするところだ。
「本当に。お怒りになられると、見境がなくなられるのだから」
蛍が半ば嘆くように呟いた。
「それくらいでなければ、我ら影を統べることなどできないでしょう。お嬢様はあれでよいのよ」
桜が明るく返して、先に立つ。蛍は肩をすくめて、息をつく。
後は一つ、ボタンを押すだけだ。
愛美がその影に気付いたのは、土手にかかる橋の下に着いてからだ。
その影は、ゆっくりと暗闇から分かれ姿半分を外灯に照らして、愛美の前に立ちはだかる。
「滝口さん」
愛美は驚愕の眼差しで、彼を見た。
滝口守。
彼女が憧れている、否、憧れていた青年。
「どうしてお前が、こんな所にいるんだ。今頃は、あいつらの餌食になっていると思っていたが・・・」
信じられないという声が、愛美の耳に届く。鷹千穂学園のアイドルは、静かに闇から離れながら、凶暴な表情へと変わっていった。
「成瀬だったのか。さっき工作室から見えた影は」
次第に大きくなるシルエットが、愛美を圧迫する。尋常とはいえない気配が、辺りに満ちた。
愛美は唇を噛み締めて、両手を握り、大きな瞳で睨み付けた。
敵意を受け止めて、滝口は笑った。
「少々キミを、甘く見ていたということか。まぁいい。俺の分が残っていたとでも思おう」
滝口の双眸に、息を呑むほどの邪悪さが満ちる。
愛美にできることといえば、逃げることくらいだ。しかし、それも容易ではなかった。視線を背けて後ずさる愛美の足に、恐怖が絡み付く。
「待てよ、成瀬」
滝口は難無く、愛美の細い手首を掴み、強引に引き寄せて、闇の中へ引きずり込んだ。
「嫌よ! 放してったら」
身体全体で拒絶するが、男の力に比べれば、愛美の力など非力に近い。滝口は悠然と見下ろして、続けた。
「お前、見たんだろう。あそこで何を作っているのか」
憧れの青年の双眸が、卑しく光る。すでに、愛美の知っている滝口ではない。手首を掴まれていることさえ、耐えられない。
早く逃げなければ。
「無駄だよ。逃がしゃしない」
抗う愛美に、無常の言葉。
「知られたからには、このまま帰すわけにはいかないんだ」
「逃げられないのは、あなたの方よ。滝口さんがやっていることは、すべてバレてるんだから。私を捕まえたって、どうにもならないのよ」
手の自由を奪われ、今では顔も固定されているおぞましさを払い除けるように、愛美は滝口を見据えて、強く言い放った。遠くの喧騒が、風にのってここまで聞こえる。
「まさか・・・。一緒に殴り込んだのは、鷹沢なのか」
一瞬、滝口の口調に脅えが浮かぶ。滝口がどれほど綾を恐れているか、愛美にも分かった。
隙をつくように、愛美は叫んだ。
「そうよ。綾は全部知っているわ。あなたを潰すと言っていた。もう逃げられないのよ」
憧れが嫌悪に変わり、ときめきが軽蔑に変わっていく。
滝口は愛美を捕らえたまま、しばし絶句した。やはり、相手が綾となると勝手が違うのか、しばらく考えていたが、しかし何を思いついたのか、吹っ切れたような高らかな嘲笑をあげた。
黒い雲から解放された満月が、滝口のシルエットを背後から照らす。
「それなら、お前を使って鷹沢を黙らせればいい。奴の弱点はお前だ。お前が俺の保身を泣いて頼めば、奴も俺には手が出せない。これで、鷹千穂は俺のものになる」
「馬鹿な。私は絶対そんなこと頼まない。あなたの言うことなんか聞くもんですか。悪いことは嫌だもの。いけないことは嫌だもの」
咽喉が潰れてしまうほどの大声で、愛美は叫んだ。これ以上、滝口の裏側を見たくはなかった。
しかし、そんな愛美の気持ちを一笑に伏し、滝口は愛美の身体をコンクリートの橋脚に押し付けると、身体全体で愛美を固定させ、無理やり顔を近づけた。
愛美の中の滝口が、大きな音をたてて崩壊する。彼にかかわる思い出すべてが粉々に砕け散る。
こんな人だったの。こんなヤツだったの。
心の叫びが、涙になって溢れてくる。尚も抵抗する愛美を、面倒そうに見据えて、唇を奪うタイミングを計っている滝口。
愛美の悲鳴。
誰かの怒声が、重なる。
滝口の行為は、愛美の唇に触れる寸前でとまり、目は薄闇に立つ丈高い少年に向けられた。
「速水・・・」
滝口が呟き、愛美の泣き顔が笑顔に変わる。
介三郎はまるで、周囲の気を自分の中に取り込むように、深い息を吸い込み、怒りに震える拳を辛うじて押し止め、昂然と立っていた。
「介三郎くん!」
滝口の腕から逃れようと精一杯抵抗しながら、愛美は叫んだ。
いつも綾の後ろに控えている間延びした少年が、白馬の騎士より頼もしく見えた。
介三郎は、愛美の身体をコンクリートに押し付け、陵辱せんとする滝口を睨み付けた。
これほどヤツが憎いと思ったことはない。
滝口に泣かされた女子生徒の話を伝え聞く度に、同姓として嫌悪した。大切な愛美がそんなヤツを想っているのかと思うと、虫酸が走った。
しかし、今日この時ほど憎いと思ったことはない。
「成瀬から離れろ」
地の底からの怒りにも似た、低く重い声が、滝口に届く。
「・・・騎士の登場か・・・」
不敵な笑みを浮かべてそう呟きながら、滝口は愛美の身体を反転させ、細い腕を後ろに捻り上げると、懐から取り出した拳銃を愛美の喉元に突き付けた。
藤也に『粗悪品』と言われたガバメントである。
「!」
途端に青ざめ、介三郎は絶句した。
銃身がズレていると言われたものだ。運良く一発目が発射されても二発目の保証はない。暴発すれば、銃口を向けられている愛美の頭も吹っ飛んでしまう。
これでは、手が出せない。
「卑怯な・・・」
「何とでも言え。こいつは俺の切り札だ。お前と鷹沢が、コイツにゾッコンで助かったよ」
「なっ」
この期に及んでこいつは、他人の想いを土足で踏みにじろうとするのか。
介三郎は、奮い立つ身体を必死に止めて、心の中で叫んだ。手も足も出せぬ介三郎を見て、滝口は高らかに笑った。
「愉快だな、速水。鷹沢の片腕とまで言われるお前が、何もできないままそうやって突っ立っている」
滝口は銃に力を入れた。
「いやぁぁぁぁぁぁ」
「やめろ!」
叫んだ声と、夜空に鳴り響く高音が、三人の視線を校舎に向けた。
高らかに響く火災警報器の音に合わせて、黒煙が濛々と吹き上がっている。先程仕掛けた発煙筒だ。
そして、暗く沈み土手の上、校舎をバックに浮かび上がった一つの淡い光。
「綾・・・」
介三郎の呟きに、滝口もまたその女を凝視した。
長い髪をなびかせて、全身を黄金の光に包んで立つその姿は、この世のものとは思えなかった。
「まさか・・・、あいつが魔女だったのか」
愛美の耳元に、滝口の震える声が聞こえる。
伝説の女。
淡い光に包まれた綾は、まさしく伝説の魔女そのままである。流れる髪一本に至るまで、淡い光を帯びていた。
滝口の気が殺がれた。
その一瞬を、介三郎は逃がさなかった。
銃を掻い潜るように身体を沈ませながら、滝口に突っ込み体当たりをかますと、愛美を抱きとめて素早くその場を離れた。
「っのやろぉ」
吹き飛ばされ地面に這いつくばった滝口は、怒りに顔を歪ませて、咄嗟に介三郎の背中に銃口を向けた。そのまま、トリガーにかけた指に力を入れる。
「やめろ!」
介三郎の叫び声が、逆上した滝口を追い詰めた。
一発目は、介三郎の背中にむけて発射されたが辛うじて反れ、介三郎は足をとられる形で、愛美を庇うように倒れ込んだ。その腕の中で硬直した愛美も同様につまずくが、倒れたのは介三郎の胸の上だ。
綾が、重さを感じさせない軽い動作で走り寄ってくる。まるでスローモーションでも見ているようだ。陽炎のように浮かび上がる姿が、闇の中を流れる。
そして、滝口はもう一度、トリガーにかけた指に力を込めた。
「もう、やめて!」
介三郎の胸に縋りつくように顔を伏せている愛美が、絶叫した。
同時に、銃声とは程遠い爆音。
綾は立ち止まり、目前の光景を凝視した。
滝口の悲痛な叫び声が、天に響く。
粗悪品は暴発し、滝口の右腕を焼いた。手首から先は焼けただれ、指はほとんど吹っ飛んでいるようだ。
綾は、のたうちまわっている滝口に、静かに近づいた。
その姿はまさしく、伝説の魔女。
「天罰だな、滝口。お前は、ピッチャーの腕を買われて特待生になった。その腕が使い物にならない今、もうお前が鷹千穂の制服を着る資格はなくなったのだ」
「い、いいのか、鷹沢。俺は色々顔がきくんだ。それに、俺に弱みを握られている奴がどれだけいるか、お前は知っているのだろう」
苦しい息の中、そう脅す滝口に、綾が微笑を浮かべる。
「滝口、お前は人を甘く見すぎている。お前一人消すことなど、造作もないことだ。ましてお前の記憶を奪うことなど、容易なことだ」
そう呟いた綾の髪が、風のない土手でざわめき、瞳が冴え渡る夜空の満月のように美しく光る。
すでに滝口の中から、すべてが消されようとしていた。自分がどこの誰かもわからない。何があったのかなど、永遠に思い出すことはないのだ。
遠く消防車のサイレンが響き渡る。それを追う様にパトカーのサイレンまで聞こえてきた。
「これで、一件落着か」
一息ついて滝口から視線を外すと、綾は、離れた場所の二人を振り返った。すでに全身の黄金色は薄れている。
「介三郎くん、大丈夫?」
広い胸から起き上がり、愛美は介三郎の顔を覗き込んだ。どうやらどこか打ったのか、介三郎は目を閉じたまま、一向に起き上がろうとはしない。
「どこか、撃たれたの? 介三郎くん、しっかりして」
半泣きでとりすがり、介三郎の頭を膝の上に抱いて呼びかけるが、介三郎の反応は無かった。
「成瀬。介三郎は、まだ起きないのか」
呆れ返った口調が、愛美の切羽詰った表情を憤怒に変える。
「どうして、そんなに悠長にしてるの。介三郎くんが目を覚まさないのよ。何とかしないと、死んじゃうかも」
愛美はチカラ一杯、介三郎の頭を抱き締めた。細い腕と豊満な胸が、介三郎の顔を赤く染める。
綾は、ため息を一つつき、流し目をくれた。
「介三郎。いい加減起きてこないと、成瀬の胸で圧死するぞ」
冷めた声で、愛美もやっと冷静に介三郎を見ることができた。間の抜けた顔が、自分の方を向いてニッコリ笑っている。鼻の下がいささか伸びているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「ひっどおぃ」
愛美は一つ叫ぶと、抱いていた介三郎の頭を投げ出した。後は重力に従って、介三郎は後頭部をしたたか打ち付ける。
「いってぇぇ」
と痛がってみても、もう心配はしてもらえない。それどころか、愛美は真っ赤な顔をお多福のように膨らませて、綾の傍に立っている。怒っているのは明らかだ。
「介三郎。もう少し、女心を研究するのだな。でないと、嫌われるぞ」
綾の流し目。介三郎は後頭部を撫でながら立ち上がる。
「どうせ、俺はね・・・」
いじけた声が、笑えた。
「まあいい。ともかく・・・だ」
「ともかく、何だよ」
二人のやり取りに、愛美が笑顔を浮かべた。
綾が目を細めて、見上げた。
「成瀬を守ったな。よくやったぞ」
介三郎が肩をすくめた。
「お前の褒め言葉が、一番恐いな」
それから数日は、水無月祭の準備に追われ、私情にかまけている暇はなかった。
青島工業高校は、旧工作室の小火騒ぎによって、警察当局の調べを受けたが、結局単なる不審火として処理され、学校側に問題はなかった。旧工作室から、発煙筒などという代物や改造拳銃などという物騒なものが発見されたという報道は、まったくなかった。
どう処理されたのかは、定かではない。
そして、週を明けて程よい頃、滝口守の退学が告知された。同時に、野球部の水無月祭不参加の嘆願書が提出され、生徒会は学園側の意向としてこれを受理した。
学園に動揺はあったが、皆あまりの忙しさに紛れ、いつしか忘れ去られていた。
後日、青島工業高校を退学処分された本郷が、警察に自首した。
本郷は、改造拳銃のあらましと売人について、かなり正確に話したが、その中に滝口守なるものの名前はなく、一通りの供述を終えた後は、そのことさえも忘れてしまった。
本郷の供述と、ある方面からのタレコミに基づいて、当局は総力を挙げて捜査した。
しかし結局のところ、改造拳銃売買の核心には触れることができず、捜査は暗礁に乗り上げた形で、棚上げとなった。
水無月祭。
三日の予定で組まれたプログラムは、すべて滞りなく進み、大成功に終わった。
そうして、後夜祭。
イルミネーションに飾られたオブジェを中心に、軽快なフォークダンスの音楽に合わせて、大勢の生徒がカップルを組んで踊っている。
「貴女の思惑通りですわね、綾。これで学園の掃除もできましたわ。水無月祭も成功に終わり、皆も満足しています」
執行部席で音楽の番人をしている綾に、万里子が声をかける。
傍のパイプ椅子をすすめて、綾が顔を曇らせた。
「結局、改造拳銃の黒幕は分からなかったのだ。良かったと手を叩ける気分ではない」
「そうですわね。あれほど近づきながら押さえられないのですから、どんなに大きな組織かわかりませんわね」
万里子もまた、顔を曇らせた。綾が思い出したように笑う。
「本多の叔父上が、よろしく伝えてくれと言っておられた。若衆を使って色々調べたのであろう。まったく困ったものだな、次期組長は」
「まぁ、何ほどもお役に立ってはおりませんのよ。こちらで調べられることだけを調べ、教えて差し上げただけのことです。危険な場所に趣く貴女に比べれば、造作もないこと。お言葉をいただいては、却って心苦しゅうございます」
ツンとした口調で言う万里子が、瞳で何かを物語る。メガネの奥の綾の双眸が、苦笑していた。
「怒っているのか、万里子」
仕方が無いという表情だ。万里子は一層、美しい唇を尖らせた。
「えぇ、ほんの少しですけれど。たまには、わたくしにも暴れさせてくださいな。じっとしていては、ストレスが溜まります」
「一家の総領は、一つ所におさまっておればよい。まして、万里子に戦場は似合わぬ。大人しくピアノを弾いていてくれ」
言い切られて、万里子はいつもの笑顔を浮かべた。
「そこまで仰るのなら、大人しくしておりましょう」
「そうしてくれ。気がかりはすべて、私が払おう」
万里子は、優雅な手つきで口元を押さえた。
「そんなことよりも、あの二人の心配でもしてらっしゃい」
万里子の視線の向こうに、ぎこちない動きの愛美と介三郎がいる。もっぱらダンスの足を引っ張っているのは、介三郎のようだ。
その少し離れたところで、砂原弥生が楽しげに踊っていた。すでに彼女の中に、滝口守に関する記憶は残っていない。全身にあった傷は、土手に転んで擦り剥いたものだと、級友に説明していた。だがその傷も、直に癒えるだろう。
綾は大きく息をついた後、輪の中で頭一つ抜きん出ている男子生徒を見た。
「あの二人は心配あるまい。介三郎は不器用な奴だが、意思表示だけは人一倍するだろう。成瀬のタイプだと思うのだが」
希望的観測を述べる綾に、万里子も笑って肯定した。
「確かに、介三郎さんはとても正直な方ですわ。うらやましいくらい」
穏やかな微笑で哀しい瞳を隠し、万里子は笑っていた。綾もまた、同じ表情で遠くを見る。
「そうだな。正直の前にバカがつく」
「だから、傍に置いておきたいのでしょう。貴女にもわたくしにも、あの方のような心を持つことは許されなかった」
俯いて笑う万里子の言葉を、綾は無言で受け止めた。
そう、許されなかったのだ。
『約束』を守るためには、心を殺さねばならない。無防備な素直さなど命取りにしかならないのだ。
だから、あの丈高い少年を選んだかもしれない。決して闇に沈むことのない穏やかな少年を。
そして、美しい一対を遠くに、愛美はあの日の綾を思い出していた。
黄金の髪。黄金の瞳。伝え聞く伝説。
「どうかしたの?」
介三郎が愛美に声をかける。先程から手に取っている小さな手が、介三郎の鼓動をいつもの二倍の早さにしていた。
間の抜けた顔の、一層頼りないこの少年が、またステップでつまずいた。
愛美は思い切って、介三郎に縋りつくようにして見上げた。
「ねえ、介三郎くん。綾って、まさか」
魔女ではないのか、という言葉は途切れた。
介三郎の鼻の下が伸びているのが、イルミネーションの淡い光でもはっきりと分かる。自分の身体を抱きとめるようにしている介三郎に、愛美は流し目をくれた。
「何を、考えてるの」
「え・・・。いや」
言い澱んで、つい本音が零れた。
「成瀬って、胸がでかいなと思って」
ばか正直な言葉で、愛美の眉間にシワが寄る。
返す言葉はただ一つ。
「介三郎くんって、スケベ?」
問い返されて初めて、自分の失言を自覚した介三郎は、硬直したまま絶句した。
軽快な音楽が、虚しく流れていく。
「やっぱり、介三郎の介は、スケベのスケだったのか」
綾と万里子の間から、ヒョイと顔を覗かせた藤也が、遠い一対を冷ややかに見つめてそう呟いた。声自体は聞こえないが、何を言っているかは、口元を見れば分かる。
綾も万里子も同様に、聞こえない会話を察して呆れ、綾は頭を抱えて処置なしとばかりに目を閉じ、万里子は笑いが止まらなかった。
どうやら、まだまだこの二人の心配をしなければならないようだ。
シューティングハート 黄金の魔女