あまかつた
過剰には書いてはいませんがグロい表現があります。苦手な方は注意してください。
ある寒い日のことであった。
彼女である女の家に行く約束をしていたので、いつも降りる駅より2つ前の駅で降りた。女の家に向かう道はどこもバレンタインという行事で騒がしい。可愛らしい雑貨屋の前では女子高校生が今年こそは好きな人に告白すると意気込んでいる。どこもかしこもバレンタインに洗脳されていた。かく言う僕も今日はチョコレートを貰えると期待して女の家へ向かっている。おかしな話だ。期待していると悟られるのは恥ずかしいので、女が住むアパートの階段を上りながらバレンタインなんて全く気にしていませんという顔をつくる。前回のデートで会った時に渡された合鍵で玄関を開けると甘ったるい匂いがした。靴を脱ぎすてて家に上がると、キッチンに近づくたびに強くなる匂いに嬉しいと思いながらもそれを隠すために顔を顰めた。
「何しているの?」
キッチンに立つ女に問う。女の左手にはボウル、右手にはヘラがある。
「バレンタインのチョコづくり。」
あっさりと答える女に、それは彼氏のいる所でつくるものなのかと疑問を抱く。女は作業をする手を休めなかったので、キッチンに立ってその工程を眺めることにした。
女はチョコレートが溶けたボウルを置き、生クリームの入った計量カップを手に取った。チョコレートと生クリームがねっとり混ざってそれに蜂蜜を流しいれるところで、欲情した。女の手に零れた蜂蜜をじっと見つめていると、女は笑った。
「生チョコできるまでまだ時間かかるから、もう少し我慢して。」
ね?と可愛く小首を傾げる女に、首を横に振った。待てなかった。
「今、食べる。」
女の手を引き寄せて指先に舌を這わせる。口の中で甘ったるい味が広がった。
「何をしているの!?」
「あっま…」
手を引っ込めようとする女の腕を掴んで阻止した。それでも女は逃げるのをやめない。
だから、顎の力を強めた。女の指に歯が食い込むのがなんとなく分かった。
「…いっ!」
短い悲鳴を上げる女を尻目に、細いなと思った。もっと肉がついていればいいのに。これじゃあ、ただの骨をしゃぶっているみたいだ。指を食らおうとしたのが間違いだったか。
なんとなく損をした気持ちになっていたら、ぷつりと何かが切れる音がした。
それと同時に口の中に広がる鉄。微かに鼻をかすめる香りに頭がくらくらする。
これ以上は…。
歯を立てていた彼女の指を静かに放した。指には歯型がくっきりとついて青くなっていた。
僅かに滲んだ血に申し訳ないな、と思う反面で沸々と湧き上がる感情に目をつぶる。
女の歪んだ顔をみていると湧き上がってくる狂気を悟られてはいけないと思い、女に背を向けて去ろうと足を進めた。
「ねえ、もう終わり?」
ひどく冷たい声が鼓膜を揺らす。振り返ると女はにったりと口を歪めた。いつもの優しい色をしている黒い目は据わっていて、白い顔には影がかかっている。女の赤い唇がやけに目についた。今まで見たことない女に畏怖し、押し黙ると女は愉しそうに嗤った。
「甘いのよ。」
女は、血の滴る自分の人差し指を口にふくむと食いちぎった。どっと溢れ出す赤い液体は僕が噛んだ時の比ではない。女の行動に思わず目を見開いた。じわりじわりと侵食してくる恐怖は僕の足を動かなくした。
ゆっくりとした動作で近づいてくる女。伸ばされる四本指の手。それが肩に触れると女の手の冷たさに僕の血が吸い取られていくような気がした。
「首筋って噛み付きたくなるのよね。」
妖艶に嗤う女はそっと僕の首筋に口付け、歯を立てた。声が出なかった。
血が滲むまで強く噛まれるのだろうか。それとも、女の指のように食いちぎられるのだろうか。あるいは…。
女は首筋からそっと顔をあげた。ただ、甘噛みされただけだった。状況が呑み込めなくて呆然としていると、女は明るい声を出した。
「冗談よ、冗談!」
あっけらかんとチョコをつくる作業に戻る女に、悪い冗談だと心の中で毒づいた。それと同時に女がくるりと振り返ったので、声にしてしまっていたのかと焦る。
「バレンタインって日本では女が男にチョコレートを渡す風習があるでしょう?」
「あ、ああ。」
女はいきなりバレンタインについて語りだした。女が男にチョコレートを渡す。そんなの物心ついたときから当たり前に行われていたことで、それに違和感を覚えたことなどなかった。朝からそわそわして、好きな子からのチョコレートを期待して。貰えないと分かっていても、僅かな希望を捨てられなかったあの頃が懐かしい。そんな思い出に触れながら女の声を聞いた。
「でもね、外国では男の人が女の人に贈り物をするのよ。」
嫌な予感がした。
「日本の男ってダメね。貰う事が当たり前だと思って、女を喜ばせようとしない。」
反論すべきところであろうが、それどころではない。脳が何かを察知し危険信号を発している。次の言葉を聞くべきではないと本能が告げていた。早く逃げなくては。
キッチンを飛び出して玄関まで一直線に走った。靴なんかどうでもいい。靴下のままドアノブに手をかけた。
「貴方は私を喜ばせてくれる?」
鈍い音と痛みに腹部を見れば、銀色の塊が自分を貫通していた。全身から力が抜ける。腹部を抑えて玄関に倒れこめば、血が大きな水たまりを作っていった。女は、僕の背中に刺さった包丁を引き抜いた。
呻いていると仰向けにさせられ、腹を引き裂かれた。腸がずるりと地面に落ちた。
女は僕と視線を交わらせるようにして、赤い肉の塊を口に含んだ。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
女の手も口元も僕の手も服も床も壁も。どこも赤一色で目が痛い。
「おいしいよ」
耳元で囁く女の声。甘ったるいチョコレートと血の混ざった香り。抉り取られた腹の肉。引きずりだされた内臓。
意識を失う中で僕が見たのは、嬉しそうに微笑む女の姿であった。
好きだった男はカニバリストだった。自分の狂気を私に悟られないように必死に隠している姿が愛おしかった。男は私を普通だと思っていて、怖がらせないようにと気を配ってくれていた。それでも、欲を抑えきれなくて指を食らってきたときはどうしようかと思った。私は普通に振る舞った。普通なら拒むと思い拒んだ。
すると、まったく面白くなかった。まさか、あれだけの狂気を見せておきながら自制するなんて腰抜けだ。腹が立ったから、私が食べてしまった。思った通りあまくおいしかった。
翌日、大学に向かい、食した男の友達を呼び出した。
「好きです。」
恥ずかしげに微笑みながら彼にピンクのリボンでラッピングされたものを手渡した。彼は優しく笑いながら受け取ってくれた。目の前でラッピングを解きチョコレートを食べる彼。おいしいと一言。
そりゃあ、そうでしょう。
彼は気付いていない。そのチョコレートの隠し味が、友人だということを。
(了)
あまかつた
拙い文章を読んで下さりありがとうございました。