告発者
告発者(仮)
月曜日 am12:00
――許さない。――絶対に、許さない。
全身の毛穴がプツプツと泡立ち、怒りが熱い息となって、噛み締めた歯と歯の間から、フゥゥ、フゥゥ、と漏れ出す。
私は女の眼を真っ向から睨む。
冷たい眼。感情のない眼。色のない眼。
その眼に私は映っているのか。それすらもわからない焦点の定まらない目。
女の体がふらふらと揺れ、右手に握られた包丁が青白く不気味な光を反射した。
女は私の横を、私の存在など意に介さないとでもいうように通り過ぎ、おぼつかない足取りで玄関のドアへ向かう。
——行かせない。
私は女の背中に掴みかかり、立てた爪を首元にめり込ませた。
「なッ」
女は不快感を露骨に表して、ばたばたと暴れた。私を引き離そうと、壁やキッチンのシンク、食器棚などに私ごと体を打ち付け、その度に私の背中には重たい稲妻のような衝撃が走った。
女の力は予想以上に強かった。年老いた私の力では到底かなわない。
私は容易に振り払われ、無理な体勢のままフローリングに倒れた。
「なんなのよあんたは……。邪魔なのよ」
女が吐き捨てるように言った。
脇腹にじわりと熱のような痛みを感じた。フローリングに血が広がっていく。どうやら振り向き様に、包丁で切られたようだ。
薄れていく意識のなか、私は女の後ろ姿を見た。
——ああ。
女の体がドアの向こう側に消え、ガチャリ、外側から鍵のかけられる音が聞こえた。
火曜日 pm2:30
フローリングの床の冷たさを頬に感じて、私は目を覚ました。
体は完全に冷えきっていた。
夏場はこのフローリングの冷たさが気持ちよくて、よく寝転がって昼寝をしたものだが、今ほどこの冷たさを残酷に感じたことはない。
私はどれくらい気を失っていたのだろう。このアパートの部屋に一つだけある窓はカーテンで閉め切られていて、今が昼なのか夜なのかもわからない。
幸い、切られた脇腹は、痛みがあるものの血は止まっている。それほど深い傷ではなかったようだ。
身を起こそうとすると、背中に意識が飛びそうになるほどの激痛が走った。こちらの方が脇腹よりよっぽど重傷のようだ。
それに、下半身に力が入らない。というよりも、力の入れ方を忘れてしまったような感覚に近い。
私は、まるで自分のものでないかのような、ピクリとも動かない自分の足を眺めた。
いったい、私の体はどうしたというのか。
身動き一つ満足にとれない。
水曜日 pm9:30
一度眠った。しかし、それはわずかな時間で、ほとんど起きていたように思う。目をつむっていても、痛みと寒さを余計強く感じるだけだ。
あれから3日くらいたったのだろうか。時間の流れがひどくのろまな感じがする。
誰も訪ねては来ない。
ドアの向こう側で人の行き来する足音はあった。
隣人の足音。隣人を訪ねてくる者の足音。
あの女の足音。
私の存在を誰かに伝えなくてはならなかった。しかし、満足に身動きも取れない私にその術はない。私がどれだけ泣き叫ぼうと、そのか細く弱々しい声が何者かに届くことはないだろう。
寒い。私の吐く息は、一瞬白いもやになって空中に霧散していく。
足先は氷のように冷えきっていることだろう。しかし、私の下半身はその温度すら感じることができない。
知らぬ間に便を漏らしていた。私はにおいでそれに気付いた。普段なら恥ずべき事態だが、そんな羞恥心を抱く余裕すら私は持ち合わせていなかった。
相変わらず身動きをとろうとすると、背中に意識が飛んでしまいそうなほどの痛みが走る。だんだん痛みが大きくなっているような気さえする。
私は何をすることもできない。ただ助けを待つばかり。果たして私を助けてくれる者などいるのだろうか。
金曜日 pm4:00
途方もない時間が流れたような気がする。
私は死ぬのだろうか。もう一度、眠りに落ちたら二度と起きられないような気がする。
お腹がすいた。喉もからからだ。
滑稽だ。こんな身動きの取れない状態でもお腹はすくのだ。
キッチンが見える。キッチンのシンクはあんなにも高いものだっただろうか。水が飲みたい。
シンクの手前には買い置きの缶詰が積まれている。缶詰などとうの昔に飽きていたけれど、その缶詰の蓋を開けることさえ叶わない。
痛みを我慢してなんとか動こうと試みてもみた。少しでも気を抜いたら意識が飛んでしまいそうだった。結果、僅かに移動することはできた。本当にわずかな距離だ。だが、移動したところでどうなるというのか。私は缶詰の蓋さえ開けられないのに。
私は死ぬのだろうか。
そんなことを考えてしまう。
だが、死ぬのはそれほど怖くはない。
私は長過ぎるほど生きてきたし、それなりに幸福な人生を送ってきた。食べることには困らなかったし、眠りたいときには眠ることができた。
最愛の人に巡り会い、子宝にも恵まれた。子供たちは立派に育て上げたつもりだ。
それに……、主人から私にはもったいないくらいの愛をもらった。おかげでこんなにも長生きすることができた。
主人との出会いは、大きな河にかかる橋の下だった。私が雨宿りをしながら、ぽーっと河を眺めていたときに、気さくに話しかけてきたのが主人だった。本当に偶然の出会いだったのだろうけど、主人はあんなところで何をしていたのだろう。結局、聞けずじまいだった。なんだか、とても昔のことのように感じる。
私の愛する主人。
年老いてこんなにも不細工な私を、「かわいい」といって頭をなでてくれる主人。
主人は先に逝ってしまった。
殺された、あの女に。
だから、私はまだ死ぬ訳にはいかない。あの女がのうのうと生きているのを許す訳にはいかない。それだけは絶対に許さない。
だけど……、私に何ができるのだろう。この体で何が……。
急激な眠気が私を襲う。眠っては行けない。必至に抵抗するのだけれど、反発するように重い瞼が落ちてくる。
私は死ぬのだろうか。
くやしい。何もできず死ぬのか。
くやしい。くやしい。
土曜日 am12:00
ドンドンドン。
「お母さん!」
ドンドンドン。
「お母さん! いないの?」
誰かがドアを叩いている。
ドアの向こうで誰かの話し声がする。
「やっぱり、留守みたいねえ」
「開けてください」
ドアの鍵が開けられる音。
どたどたと、複数の足音が部屋に入りこんでくる。
「……お母さん!どうしてこんな……、お母さん!」
悲痛な叫び声。
体が浮いたような感覚がする。誰かに抱き上げられたのだ。
「かわいそうにねえ。いったい誰がこんなことを……」
——この声、この声は……!
私は重たい瞼を持ち上げる。
薄暗くはっきりとしない視界の中で、私は先程の声の主を捜す。
主人の亡がらにすがりつき、泣きじゃくる人の姿が見える。おそらく、主人の娘さんだろう。
それをなだめるように娘さんの肩に手を置いた、紺色の帽子と制服を着た人の姿もある。知らない顔だ。
誰かが私の額を数回なでる。
「かわいそうにねえ……」
——この声……、私を抱いているのは、あの女だ!
「月曜日に伺ったときには元気にしてらしたのよ」
——ウソだ!
——伝えなければ! この女のしたことを伝えなければ!
全身の力を振り絞って、私は声を出そうとする。
「ヒュッ、ヒュッ」
私の喉から力のない空気がもれる。
——私はもう助からないだろうけど、それでもいい。この女だけは……!
——どうか神様、どうか私の声を、誰でもいい、人間に伝えてください。この声を人間に!
そのとき、一瞬だけ、私の喉にすっと空気の流れるような感覚があった。
「にゃあ」
完
告発者
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