こぼれた行方

ぼくの涙に意味はない。

ぼくが流す涙の大部分に意味はない。
目からこぼれるこの水分に理由なんてものは存在しなかった。
人間が泣くにはいくつか理由があると、いつだったか理科の授業で習ったような気がするけれども、ぼくにおいていうなら、まるで意味のないものだった。
自分の眼球から水分がこぼれる仕組みでさえどうでもいいし、ぼくはできることならいつだってこぼれる涙を止めてしまいたかった。
目からこぼれた水は、頬を伝って重力に従い、落ちていく。その挙動がうっとおしくて、いつだって煩わしいと思うのに。
なのに、止まらない。
いつもいつも、ぼくは熱くなった瞼に危機を感じて、まずいと思っては、ほろほろと涙をこぼす。止めようと思っても止まらない涙に、ぼくはどうしようもないみじめさを感じるのだった。
それでも少し前までは、そんなわずらわしさも少しはましだった。こぼれる涙に手を伸ばして、泣いているのかと拭ってくれる手があったからだ。
しかし、もうそんな手は伸びてこない。
なんだ、また泣いているのかと言ってくれた彼は、ぼくの隣にはいない。
あんなことが起こってしまって、精神的に大きなダメージを負ってしまった彼は、他人とかかわることを避けるようになった。
それは、しかしながらどうしようもなく仕方のないことだった。
ぼくは他人を避けるようになってしまった彼を救うことはできない。
ぼくは彼の幸福と救済を願うけれど、それをなしえることができるのがぼくであったなら、それはとても素晴らしいことだけれど、ぼくでは彼を救うことなどできはしないだろう。
もちろん、あんなことを大したことじゃないとぼくは言わない。
そんな言葉では、ぼくは彼を救えはしない。それが救済になるのなら、ぼくはいつだって彼のために言葉を尽くすけれど、彼に必要なのはそんな言葉ではまるでないのだ。
だから、ぼくはあのことを大したことではないとは口が裂けても言わない。
あれは彼にとっても大事件で、そしてぼくにとっても痛ましいことだった。
けれどそれは世間一般から見れば、新聞の端にしか、あるいはまるで掲載されないものでしかないのもまた、覆しようのない事実だった。

ぼくの学校では、屋上は解放されていない。
だからどこかに行こうにも行けるところなどない。一人になろうにも、都合よくなれるところなど存在はしないのだった。
学校にある強制感は協調性を見つけろと押しつけがましい。それはただでさえ特異なぼくにとっては何かの苦行のようにつらいものだった。
これで個性豊かに、などと社会が叫んでいるのだから、その矛盾は愚かしいほどに明白だ。学校という場所は均一化を図ろうとする場所で、異才は排除される場所なのだから、そんな学校から優等生として排出された人こそ社会で優遇されるというのなら、個性の均一化はますますはかどることだろう。
一人を好むぼくにとって、集団性を強制されるのは苦痛以外のなにものでもない。これが生徒会の一員であったなら、きっと屋上に行けたりしたのだろうが、あいにくとぼくは怠惰な高校生でしかないのだった。
教室の端っこ。自分の机に突っ伏して、珍しく泣くこともなく、ぼけっと空を眺めていた。
休み時間であるから、別段おかしなこともない。
ぼくは残暑の厳しい外を眺めては、その光の強さに目を細めた。
「ねえねえ!なるちゃん!」
ぼんやりとして平穏を満喫していると、その穏やかな空気を壊すのは決まってこの声だった。
やかましい声に聞こえてないふりをすれば、ぐるりとぼくの視界に入ってきてくしゃくしゃな笑いを見せる。
「起きてるじゃん!ねってば!なーるうー」
「なあに」
不機嫌極まりない声を出してもおびえた様子はない。
付き合いが長いとそういう攻撃が効かないから嫌で仕方ない。
「ねえ、朝丘くんって彼女できたの?」
とくに悪意なくつぶやかれたあさおかという名前に、そして彼女という単語に引っかかって、ぼくはのそりと上体をおこした。
ぼくが座った分が全長になりそうな小さな体をしたのが、声の主で幼馴染だった。
いや、彼女が平均的より小さいかどうかについては論じる必要があるだろう。なにせぼくは、ぎりぎり二メートルはいかないという、日本人の中では巨人の部類に入るほどには身長がある。
そんなぼくと彼女との付き合いは、長いといっても小学校からだった。
しかしクラスはずっと一緒。そして中学校も同じくクラスが同じで、それがまた高校二年生になってまで続いていれば、ぼくとこいつは何か因縁があるのだろうと考えずにはいられなかった。あるいは何かに呪われている。
「・・・ナニソレ」
そして朝丘は中学校からの付き合いだが、学校が同じで他クラスにはいるのだが、付き合いが疎遠になってしまっている友人だった。
しかしぼくは朝丘の幸福をいつだって祈っているから、いまだに友人という表現をしてもよいと思う。
ともかく友人の朝丘が、彼が女の子と付き合えるのかと思って、ぼくは驚きとともに聞き返したのだった。ぼくは彼に起こってしまった悲劇を知っているから、彼が誰かと付き合えるということが想像できなかった。
だからとっさに相手の女の子は誰なんだと、そして何か事情があるんじゃないのかと、疑った見方をするよりほか、できないでいた。
「わかんないから聞いてるんじゃーん。知らないの?」
知っているわけがなかった。
彼がすまないといいながら他人とかかわるのをやめ、そして仲の良かったぼくを痛ましいような、傷ついたような表情で拒絶せざるをえなかったときから、ぼくは彼とほとんど話をしていない。
拒絶をせざるを得なかった彼は、拒絶をした彼のほうが傷ついたような表情をした。
それが彼のわがままであったなら、ぼくは彼を憎むことさえできたのだろう。
しかしそれができなかったのは、朝丘自身は好きで手を離したのではなかったからだ。
「知らないよ」
えーと彼女は口の先をとがらせたあと、じゃあさ、とあっさりとぼくに爆弾を落とした。
「聞いてきてよ」
ぼくは眉間にしわを寄せた。不機嫌そうな顔をすればさすがに慌てたような表情をする。
「だって、だって仲良いじゃん!」
それは、過去の話なのだ。
仲が良かった、のであって、今はもう、口も利かない。クラスが離れてしまったというのも何よりそうだし、彼が根本的に人というものに対して嫌悪感を抱くようになってしまったためだ。
それは仕方がないことなのだろう。
目の前の彼女、山科はぼくの幼馴染ではあるけれども、すべてを知っているほど仲が良いわけではない。
だから、ぼくの友人に起こったことを彼女は知らないのだ。
知らないというのはいいなと、ぼくは軽率にも彼女の無知を見下し、はいはいと適当にうなずいた。
「ほんと!?いいの!?」
「気が向いたらね。期待しないで、山科」
ぼくはあまりにも適当に返事してしまっていて、朝丘の彼女、という言葉に意識が向いたせいか、期待に満ちた山科の瞳と嬉しそうな表情を見逃した。
ぼくが耳にしたのはうん、と彼女は短い色素の薄い髪を揺らして大きくうなずいた声だった。


結果、彼女がいるかどうかを聞いたかそうでないかといえば、ぼくは本人に直接聞くようなことはしなかった。
ぼくにだって友人はいるのである。
何人かの友人に聞いたところ、付き合っているみたいだよ、などといったあいまいな返事しか知ることができなかった。
付き合っているのかそうでないかというのは定かではないという、もはや最初からわかりきった答えしか得ることができなかったのである。
しかし狭い学校内で蔓延、というかはびこるような噂なので、相手は多分同じ学校の人だろうと思っていたのだが、ぼくの思い上がりのような推測は当たっていた。
朝丘の彼女としてうわさになっていたのは同じ学校の人で、しかも朝丘と同じクラスの女の子だった。
図書委員をしている、という情報を得て聞いたその日の放課後、一縷の望みをかけてぼくは図書室へと向かった。
いるかいないかを知れたわけではなく、また彼女がいつ図書委員として責務を果たしているかも知れたわけでもなかったから、ぼくがわざわざ図書室に赴いたのは、もしかしたらいるかもしれないというわずかな可能性に賭けたにすぎなかった。
がらり、と扉を開くと、ぴんぽーんという声がした。
「ふふ、しかし残念だね、成瀬くん。朝丘くんの彼女なら、今はトイレへ行ってしまっていて、ここにはいないよ。だが、君の賭けは成功だ。彼女は今日、図書委員の当番でね、成瀬くん、君、なかなかに博打センスがあるようだよ」
そういってぼくの知りたかったことから、ぼくが思っていたことをすべて言い当ててしまった声にぼくは足を止めた。
声の主は、受付カウンターの大きなテーブルの上に片方の膝を立てて座っていた。
もちろん制服なのだから、スカートからパンツが見えているのだが、全く頓着していない。
ちなみに水色の縞模様だった。
ともかく、彼女はガラ悪く受付のカウンターの上に片足を立てて、その片足を抱き込むように膝の上に頬を乗せていた。もう片方の足はだらりと垂らしている。
短い髪は少年のようだ。顔にかかった髪は色素が薄く、濁ったような金色だった。
だが髪の間からのぞく黒い目は濁ったような色をしていた。何か病気でも患っているのか、目の下にはうっすらと隈があるのがわかる。
まるで病的なほどに、短い髪の先からのぞくうなじから見る肌は白い。
しかしその病は、彼女を侵食しようとする懊悩にすら見えた。
そしてその病がちなことを気にしないようにか、にへら、とゆるんだ顔はずいぶんと締まりがなかった。
「・・・えと?」
彼女はぼくのことをあっさりと成瀬、と呼んだが、ぼくは彼女の名前はおろか、顔も見たことがなかった。だから彼女がぼくの名前を呼んだだけではなく、ぼくがこの場に来た目的すら言い当ててしまったことは驚愕以外のなにものをも覚えさせなかった。
この人はだれで、何がしたいというのだろう。
いや、なぜぼくのことを知っている?
「驚くのも無理はない。君のその驚きは間違っていないよ。私と君は間違いなく初対面だ」
ですよね、と同意すると、くく、と名前のわからぬ彼女は喉を震わせた。
「ああ、すまないね。悪いのは私のほうなんだ。悪い癖でね」
言い当ててしまったことすべてを悪いことだというのだろうか。
それにしては反省する様子はみじんも感じられなかった。
というか。
「貴女は誰です」
「聞くなら君が名乗りたまえ。君に自己紹介してもらった覚えは私にはない」
ぼくの名前を知っているというのに、そんなことを要求する彼女がよくわからなかった。
改めて自己紹介するまでもなく、彼女は僕の名前を知っているし、姿を見て名前を言ったのだからぼくにはその必要性がよくわからなかった。
しかし彼女はその思いを読み取ったのか、相変わらずへらへらと顔を緩めた。
「自己紹介は大事だ。なぜかというと、名乗りあうことでお互いの認識が発生するためだよ。私が君の名前を知っていたところで、君は私など知りもしないのだから、私はお互いの認識の必要性を感じるのだがね」
どうだね、と言われて、難しいことばはよくわからなくて、じゃあ名乗ればいいのかと思った。
ぼくは難しい言葉がよくわからなかったし、ぼくの名前から行動まで口にした彼女には従っておいたほうがいいような気もした。
「成瀬、なるせまさひと」
彼女は僕の行動に満足したように、目を細めてにっこりとした。
それは難しい言葉と病んだような影を宿すその姿と不似合いなほどに無邪気で、晴れ晴れとしていた。
「よろしく、成瀬くん。私は、クリス。栗栖澪」
「クリス?」
名字だけ聞くと、なんだか外国人みたいだった。
クリスは態勢を少しも変えないまま、けたけたと笑った。
おかしそうに、たぶんまたぼくの心でも読んだのだろうか、もはやその行為に慣れ始めてしまっているぼくがいて、すこしおかしいけれど、それでもこの現実は、居心地が悪くない。
「そう。クリス。外人みたいだという指摘は当たっている。私もそう思うよ」
やはりだと思って念のため、そんなこと言ったっけ?と思って、言ってないよなと思う。思い返してみても、ぼくはそれを彼女に対していっていない。
なぜなのか、と考えるより、一番初めの発言から聞いたほうが早いだろう。
そう思ったのと同時に、彼女は少しだけ目を丸くした。
「クリス、貴女は何者?どうして、ぼくが口にしていないことまでわかるの?」
心を読んでいるとしか思えなかったが、彼女がほかの何かだというのなら、納得できそうな気もした。あるいは特別な技術か力を持っているのかもしれない。
彼女の体の節々に見える病がその原因だというのなら、もはや何もかもよくわかってしまうのだ。
クリスは顔を持ち上げてのんびりと手をふらつかせて後ろに手をついた。そうすると彼女は意外と胸が大きいことを知った。
彼女は首でも回すようにだらりとしながら顎を上げて顔を横にした。

「私は、かみさまだから」

さらりと言われた言葉に、ぼくは驚くと同時に、なんだか納得してしまった自分を知った。
「・・・」
くく、とクリスは喉を震わせて笑った。
「なんで納得できるんだい、君。普通はさ、おかしいとか、何言ってんのって笑うところだと思うんだよ」
「うそなの?」
かくん、と顎を上に向けて、クリスは目を細めた。
そうしてみせた喉は、細くて折れそうに白い。その白さに病の影を感じ、そんな病がどうしようもなく嫌なものに思えてしまって、ぼくは彼女のそののどを折ってしまいたかった。
「どう思う?」
「質問返しはひきゅうだ」
噛んだ。
恥ずかしい。
はは、とクリスはおかしそうに笑った。
下を向き、いやと目を伏せる。
「そうか。私は卑怯か。いや、ひきゅうか。はは・・・まあ、分が悪いのは私のほうかな。ならば素直に言うとしよう。いやなことにね、ほんとなんだよ」
それが嘘であろうとどうでもよいというのが、ぼくの本当のところなのだろう。
「じゃあ、なんでも知っているの」
「・・・世の中。知らないことと、わからないことなんて、何もないよ」
神様はそんなことを言った。
それはやはり彼女が神様だからなのだろうかと、ぼくはすこしやさぐれた、とげとげとした感情を抱いた。
それはあまりにも八つ当たりが過ぎて、わがままを言っているのだし、クリスは何一つ悪くはないのだけど。
彼を、欠片も救えはしないぼくにとって、その言葉は鉛のように重い。
できることならぼくは彼を救いたくて、けれど何も出来はしないから、ぼくは彼女の言葉を重く感じてしまうのだ。
できることなら、何でも分かるなら、彼を救う方法を教えてほしい。
「・・・君は、彼を好いているのかい」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、ぼくは顔を上げた。
クリスは何かを探るような、けれどすでに分かりきっているように、黒い瞳をぼくへと向けていた。
「どうして君は彼に固執する?彼を救って、一体何になるというのかなあ」
はあ、とクリスは呆れたように、また膝の上に頬を乗せた、先ほどと同じような態勢に戻った。
呆れたようなその表情に、ぼくは突き放されてしまったような、拒絶されてしまったような心地になった。いっそ震えそうになってしまっているぼく自身がひどくばかばかしく思えて、笑いたいような気分になる。
「・・・だって」
「だっても勝手もないね。いや、勝手はあるか。君ね、人間を救おうなんて考えは、早々に失くしたほうがいいんじゃないのかなあ」
クリスはあきれたように、けれどそのすべてを分かっていて、ぼくの心の中まですべて把握しているんじゃないかとすら思った。それが怖くて、目をそらしたいけど、でも彼女が言っていることからは目をそらしてはいけない気がした。
「人間は、だれも救えないよ。救おうとして救えるなんて、漫画の見過ぎだよ、君。人間は、勝手に助かって勝手に死ぬのさ」
それだけだよ、と神様はそういって、けれどぼくはそれを痛いほどの思いで聞いた。
ぼく自身にとって、それは重たい言葉であったというのも本当だけれど、それよりも神様は泣きそうな顔で、いっそ病気がちな顔だちもあいまって、まるで死を悼むような顔をしていたからだ。
ただ泣きじゃくるでもなく、失われることを覚悟して、緩やかな死を待つかのような、そのことをかなしく思いこそすれど、苦しいことは何もないと言いたげな。
そんないっそ慈愛すらにじむような顔をしていた。
「・・・じゃあ、クリスは?」
人間は、人を救えないというのなら、貴女は、どうなんだ。
「神様は、すくえるの」
彼女はふ、と表情を消してうつむいた。
その横顔は寂しげで、けれどそれでもさみしさを隠すように笑った。
「・・・私は、そんなことはしないよ」
と、息を吐いた。
もっと簡単な方法がある、とかすかに笑う。
それは晴れやかにも見えたけれど、その奥でその回答をひどく厭うているような気さえした。
ぼくは彼女にそれを答えさせるのは、なんというか、酷なんじゃないのかとさえ思ってしまった。
「救う以前に、彼があったあの事件をなかったことにすればいいのさ」
私は神様だから、とクリスは目を見開いた。
とんでもないものを見てしまって、それでもこらえようとするかのような表情をしていて、ぼくはとんでもないことを聞いてしまったのだと思った。
それは、聞いてはいけないことだったのだ。
「それぐらい、造作はないよ。ひどく簡単だ。簡単に、過去を変えてしまえば、彼が君を拒絶することもなく、そして君は彼の救済を願うこともなくなる」
けれど、と彼女は顔を上げて、ぼくを見た。
ひどく嫌悪するような、侮蔑するように、ぼくを見た。

「けれど、そんなことに何の意味がある?」

意味などないと、彼女は鮮やかに笑った。
原色に彩られた鮮やかな笑みはいっそ見とれるほどに美しかった。
正直、ぼくはこのとき、彼女のもろもろ、話されたことも、ぼくの目的も、彼女の存在意義すら忘れて、そのきれいな鮮烈な笑みに見入っていた。
それは激情が色を持ったように、ぼくにとっては鮮烈だった。
「過去を変えて、君の苦しみも、彼の苦悩も取り去って、いったい何の意味があるというのだい。今こうしている間にも誰かは死んで、誰かは生まれてきて、そして誰かは喜んで、誰かは苦しんでいるのに」
そして。
「最後には人間は勝手に苦しみも喜びも抱いて、勝手に死んでゆくのに」
意味などないという言葉は身勝手で、ぼくには神様の気持ちがわからなかった。
残念ながらぼくは人間で、そんな難しいこともわからない怠惰で愚図な高校生に過ぎなかった。
「神は平等だ。ゆえに救いもしないし、試練を与えもしない。人は救われた時に神に感謝し、苦しんだときは神の与え給う試練だと神のせいにする」
しかし、と彼女は愛しいものを見るように、そして愚かしいものでも見るかのような、ぐちゃりとした瞳を丸めた。
まるで、熟れた果実を踏みつぶすように、そこにはやさしさも、愛おしさも、まるであたたかな感情はないように見え、それでも無邪気には見えた。
ぼくの目にそう見えたということは、彼女はきっと、無邪気な表情をしていたのだろう。
「それでいいんだよ。神は人にとって、都合のよい存在であればいいのさ。そんなものなんだよ、見えない神様というのはね」
だから、と神様は慈悲のない冷酷な表情でうつむいた。
ひどく冷たい表情で目を伏せ、まるで何も興味がないというように黒い目は静かな色をしていた。
あれだけ鮮烈で美しい顔をしておきながら、こうしてひどく冷たい顔をする。
「救いもしないし、できもしない。平等だから」
ぼくは心底愚かしい質問をして、たぶんたいそう彼女を傷つけてしまったんだと思った。
ぼくはあまりにも軽率で、考えなしだということが露呈し、そして彼を救いたいと願うことがいかに思い上がりであるかを知った。
「・・・帰ります」
おや、と彼女はにへら、と締まりのない顔をした。
それはくるくると表情を変えていたクリスとは思えないほど、初めて見たときのように病的で、そして軽やかなものだった。
「君が見たいと思っていた彼女はあと二分十六秒でここにたどり着くよ」
いいえ、とぼくは彼女に背を向けた。
「反省したいことも、ありますから」
そうかい、と彼女は笑って、ぼくを責めることも、そして憤ることもしなかった。
「・・・ごめんなさい」
と、それだけ伝えて、ぼくは図書室を後にした。
途中、髪の長い女の子とすれ違ったけど、急ぎ足で教室に戻った。
ああ、ああ、なんてばかなんだろう。ぼくはどうしていつもいつも軽率で、簡単に人を傷つえてしまうのだろう。いや、彼女は人ではないから、神でさえも傷つけてしまったのか、ぼくは。なんて尊大なやつなんだ。
瞼が熱かったけど、抑える気もなく、ぼくは目からこぼれて重力に従って落ちる水分をそのままにした。
ほろほろとこぼれる涙はあまりにも無意味で、ぼくのこの水分にはまるで価値がない。
かなしいわけでもつらいわけでもまるでないのに、ぼくは目からこぼれる涙の止め方を知らなかった。
ああ、聞いておけばよかったと、ぼんやりと思う。
この意味のない涙の止め方を。


「おはよー」
と言って教室に入り、がたりと窓際で後ろから二番目の自分の席をひくと、ぼくのことを何気なく見やった、後ろに座っていた友人が、ぎょっとしたように目を丸くした。
「おは、うわ!また泣いたのか、お前!目元赤いぞ!」
うん、とぼくの後ろの席に座る高橋に朝の挨拶をして、ぼくはめそり虫になっていたせいで赤いといわれた目元をこすって、席へと腰かける。
「あんまりこするな、ひどくなるぞ」
「しってる」
神さまと名乗った女の子と話をした後、ぼくは止まらなくなってしまった涙をどうすることもできず、仕方がないからめそめそ泣いていた。
ぼくがめそめそ泣いているのは全くいつものことなので、クラスメイトもあまり動揺せず、またか、ちゃんと冷やせよという言葉を投げてくる。
これがぼくの、協調性を嫌ってすこしだけ自分が息苦しくて、特異な理由。
ぼくはストレスがたまると涙腺が崩壊して、かなしくもないのに、ましてや苦しくもないのに涙が出て止まらない。悲しくもないし、苦しくもなく、感情の高ぶりで泣いているのではないのだから、表情筋は動くことはなく、無表情でぼたぼたと涙をこぼすだけのおかしな人間になるのだ。
しかたない。
ぼくは自分で涙の止め方を知らないのだから。
しかし、とにもかくにも意味がない。
こんなことはまるで生産もなく、本当に価値がない。
けれどぼくはこの涙の止め方を知らないんだ。
そんなぼくの泣き虫も一晩すれば引っ込んでしまう程度には意地などなく、つまるところぼくは一晩めそめそと枕を濡らせば十二分に気分はすっきりとするのだった。
はあ、とぼくは息を吐く。
ひどく、寒いような気さえして、けれど今は残暑も残る九月で、もうすぐ十月に突入しようかとしているけれど、十月まであと一週間もある。まだまだ十分に暑くて、衣替えは十月になるだろう。
寒くなんて、ないはずなのだ。
だからこれはぼくの思い過ごし。
からり、と静かに扉が開いた音を聞いた。音につられてぼくは本当に何気なく、特に深い意図もなく反射的な動作のようにそちらへ目をやった。
ぎくり、として体が固まり、ぼくはその姿を目に留めた途端、動くことを忘れてしまったし、喉を震わす音の出し方さえも一瞬にして忘れてしまったように、ぼくは言葉を失った。
そうしてわりと大柄な部類に入るぼくが小動物のように哀れに動きを止めてしまったのは、間違いなく彼女のせいだった。
ドアを開けたのは、一人の女の子だった。
黒い、墨のような混じりけのないきれいな闇の色。きれいに手入れされた、そんな色をした髪はだいぶ長かった。目がぱっちりとしているせいか、華のある顔だちをしているように見える。しかし、アイドルほどかといわれるとそれほどかわいいといえるかどうかは微妙だった。
ただ、彼女には清楚というか、そう、ちがう。もっと彼女に会う言葉がある。
それは清楚というモノじゃなくて、そう、『高潔』という文字だ。
きれいだった。
美人とかいう意味でなく、ぼくは彼女に対してそういう印象を受け、またそれゆえに言葉をなくしたのだった。
似ていた。
あまりにも似ていた。
拒絶するような闇の目の色はきれいで人嫌いの彼に、その女の子は本当に似ていた。
「せーじ」
と、彼女は軽やかに誰かの名前を呼ぶ。
後ろでガタリと反応したのは高橋だった。
「っと、高里?」
たかさと、彼女の名前はたかさとというのか。
それを知って、どくり、と心臓が血を吐き出す音が大きく響く。これはときめきでも何でもない。ときめき?覚えられるはずがない。
あんなによく似た子が、そんな子がいるなんてぼくには信じられないことでしかなく、疑いはぼくの中に動揺しか残さなかった。
「どうしたんだ、珍しいな、お前のほうからなんて」
高里さんはすたすたと教室の中に入ってきて、その身のこなしたるや動揺で動けないぼくとは大違いで、いや、たぶんぼくが動けないから余計そう思うのだろうけれど、彼女はさらりと電子辞書貸してくれない、といった。
「うっかりしちゃって。今日、朝からあたるの・・・」
彼女は話し終えるとぼくに気づいて、何やら観察するようにじっとぼくを見た。
何を言うでもないそのしぐさに、ぼくもじっと見返してみる。
間近で見た彼女の瞳は黒く澄んでいた。品定めするようでいて何かを思い起こそうとするかのような目は、不思議と媚びた様子がない。
だからこそ彼女はきれいだという印象を受けるのだろうか。
「今日は、泣いてないのね」
そしてぽつりと、彼女はどこか寂しそうに、それでいて特に深い意味はないと言いたげに呟いた。
ああ、彼女もぼくが泣いているのを見たひとりかと思って、けれど今の僕に何が言えるとも思えず、まあね、と笑いもせずに肯定した。
「こいつ、いつものことだから気にすんなよ、高里」
高橋は鞄をあさりながら笑ってそういって、その言葉に彼女は少しだけ気分を害したように瞳を濁らせた。
だけど高橋は悪くないし、むしろその通りだと思って、そうなんだよねとぼくもまたそれを肯定した。
「ぼく、泣き虫なんだ。なんだか、かなしくもないのにすぐ涙が出て」
「・・・かなしくないの」
本当に、と聞かれている気がして、本当なんだと思って笑ってうなずいた。
本当なんだよ、高里さん。だからぼくの涙には意味なんてないし、泣くことで何かが救われるわけでもないし、助かるわけでもない。
ぼくの涙には、意味も価値もない。
「昨日、図書室から出てきたでしょう」
そういわれて、それすら見ていたのかと思って、もしや図書室を出てすぐにすれ違ったのは彼女だったのではないのかと思ったけれど、ぼくには昨日すれ違った女の子の顔は思い出せなかった。
そうだったら朝丘の彼女というのはもしかしたらこの子なんじゃないのかと思った。昨日すれ違った女の子は図書室の方向に向かって歩いていて、昨日、朝丘の彼女は、ぼくが出ていった二分十六秒後に図書室に戻っていたはずなのだから。
しかし、何よりも昨日といわれて思い出すのは、図書室でだらしなく座っていたひとりの女の子だった。
そう、だってぼくは昨日、神様を傷つけてしまって、なんてやつなんだろうと思い、そしてそれゆえになぜか涙がこぼれてしまったのだから。
「うん、そこで神さまにあったんだ」
病的な影を宿す彼女。
『私は、かみさまだから』
そういったクリス。彼女はいろいろなことを分かっていて、いろんなことを知っていて、助け方さえも知っていた。
一晩空けても、思う。
彼女がいろいろなことを理解するというのならばそれならば、じゃあ、彼女は。

彼女は、だれに理解されるのだろう。

「はあ?かみさまあ?なんだそれ」
といって高橋は黒い電子辞書を取り出した。
そんな高橋とは反対に、かみさま、という一言に、高里さんは微笑んだ。
それはひどい笑みだった。
少なくともぼくはぞっとして、彼女のその表情をおどろおどろしいとか、ともかくそう表現したいような気にかられた。
黒い花が咲くような、どこか悪意の秘められた、けれどやはり美しい顔が笑ったその表情は美しいとしか表現のしようがなく、ぼくはその笑顔をきれいだと思わずにはいられなかった。けれどどこか、残酷な酷薄さがにじみ出ていて、彼女のきれいさは、その足元に根付く黒さから来ているのだろうと思った。
その中身が何かはわからないけれど、彼女は黒いからこそ美しく、高潔であり続けるのだ。
それはどこか、ぼくを拒絶した彼に、よく似ていて、でも決定的に違うのだと思う。
「・・・みーちゃんの言ったとおりだった」
彼女はそのおどろおどろしいとしか表現できないような笑みで、無邪気に微笑む。
みーちゃんが誰なのかは問うまでもなかった。
「・・・クリスは、なんて」
「なんて言ってたと思う?」
彼女は楽しそうに笑うので、意地悪しないで、と苦笑した。
「彼女のことだから、ぼくがこういうのも知っていたはずだよ」
「それは買いかぶりすぎじゃない?」
彼女はまるで肉食動物のように、ぼくを突っついて遊んでいる。
わあ、この子おっかない。
「まさか」
ふふ、と彼女は頬を緩めた。それでも黒い花は大輪のように咲き誇っているのだろう、たぶん彼女の本来はきっと、こちらなのだ。
「・・・あんまりいじめるなよって言われてしまったの、まったく、みーちゃんはほんとよくわかってるのね」
「だってクリスだよ?」
まあね、と彼女は肩をすくめた。
初めて見たときが嘘のように、ずいぶんと生き生きとしている。
まったくなんて子だ。
あの高潔さが表の顔でしかないとするなら、彼女のその黒い大輪のような花はどんな計算や怨嗟で構成されているのだろう。いや、けれどもこちらの、この彼女が持つ黒さも、ある意味ではものすごく純粋なのだろう。それでていて、その二面性が彼女自身なのだ。
だから彼女にはこんなにも、『高潔』だという印象が強く残る。
「私、あなたみたいなの、いじめたくなっちゃうの。悪い癖」
「ひどい、いじめだ」
ごめんね、と彼女はわびれもなく笑って、ほっとそりとした手で、黒い電子辞書を手に取った。
「私のことは澪と呼んで構わないよ、成瀬くん。ところで、君の彼に対するその執着は、いったい何だい?」
ああ、なんて神様は残酷なのだろう。
朝丘の彼女かもしれない、彼によく似た彼女にそんな伝言を頼むなんて。
けれどこう思うのはぼくが勝手に思っているだけなんだろうか、神様に対して、理不尽にも憤っているにすぎないのだろうか。
「・・・ありがと、高里、さん」
ぼくはそうして彼女にお礼を言うのが精いっぱいで、澪にぼくのことはナルでいいよと伝えようか迷ったのだけど、けれど口にはできなかった。
彼女の、神様の向き合えと言わんばかりの伝言は、とてもとてもぼくには重かった。
じわり、と目が熱くなるほどには。
「いいえ。・・・みーちゃんが名前を許すなんて、めったにないことだから」
仲良くしてあげてね、と彼女は言うと、ついでのようにせーじありがと、と言って身軽に、さっさと自分のクラスに戻って行ってしまった。
「・・・なんなの、お前ら、知り合い?」
高橋の不思議そうな、不機嫌そうな声に、違うよ、と返した。
しいて言うなら、今知り合いになったに過ぎない。
「共通の知り合いがいるってだけ」
へえ、となんだかほっとしたような声を出すので、ちょっぴり首を傾げた。
「高橋は?高里さんって・・・彼女?」
うぐ、と声を詰まらせて、彼は何かを言いたそうに口を開き、そして何も言わずに閉じた。そして高橋はす、と視線をそらして口の端を持ち上げた、なんだか嫌な笑い方をした。
「・・・幼なじみだよ、ただの」
そういう高橋はなんだか悲しそうで、でもそれ以上に、その笑い方はやめろと言いたくなるぐらい、ふだんの明るい彼には似合わないような嫌な笑い方だった。
「あー・・・まあ、どこにでもあるよねえ、腐れ縁」
ぼくにもいるのでそういってごまかすと、彼は明るくにかあっと笑った。
ぼくはなによりも彼の嫌な笑い方を見ずに済んでほっとした気持ちしか抱けないでいた。
「ところでさあ、高里さんって彼氏いるの?」
そういえば朝丘の彼女なんじゃないかというのは希望的観測に過ぎなかったので、ここで確証を得られるならと聞いておくことにした。
ぼくは彼に対しての執着に向き合うように言われていて、もちろんそう思うのはぼくの勝手なのだけれども、しかし向き合うために必要というのなら、それを知っておきたかった。
「なんだよ、惚れたか?」
にやにやとした笑みを貼りつかせながら、どこか寂しそうに聞いてくる高橋に、違うよと笑った。
「・・・あさおかの、彼女って聞いたから」
「なんだよー、知ってるんじゃないかよ!」
と、笑って肯定されてしまって、ぼくは笑おうとした。
たぶん、うまくはいっていないのだ。
それでも笑おうとした。
でも、じわりとぼくの瞼が熱をもって、ぐらと視界が揺らいだ。
まずいと思う。
けれど、あふれる水分の止めるすべを知らないぼくは、ぼとりと眼球から水をこぼした。
一度皮膚の壁を乗り越えてしまった涙はほとほと、と、頬を伝って滴り落ちていった。
高橋は目を丸くしていて、は、はは、とぼくは笑った。
笑うしかできなかった。
鎌をかけただけなのに、ぼくの予想は肯定され、推論のなにもかもを肯定されてしまった。つまり昨日、図書室から出たときすれ違ったのは彼女だったのだ。
美しくて高潔で、黒い大輪の花ような彼女。
彼に似た彼女と出会って、彼に何が起きたというのだろう。
わからない。
わからないけれど、ぼくはもう、彼には会えそうにもない。
だって、向き合うもへったくれもないのだから。
向き合うも何もなく、ぼくの中で彼に対する執着の答えというのは、とっくにわかりきっていたことだった。
ぼくがしなければいけないことは、ぼくの答えを彼女に告げてしまうことだけだった。



「ねー、あんたがナルセマサヒトォー?」
そしてその日の昼、自分のクラスの教室で友人二人とくだらない話をしながら、ぼくは今日の昼食であるコンビニで買った市販のパンをまさに口にしようとしていた、まさにその時。
なんだかすごくカタカナっぽく名前を呼ばれて、たぶん僕がそんな気がしただけなのだろうけれども、ともかくそんな声に反応して、ぼくは口に運ぼうとしていたメロンパンを動かす手を一瞬止めて、傍らの相手を見上げた。
ぼくはそこで素直に口をきけばよかったのだろうし、それが彼に対する礼儀なのだろうけども、ぼくは目の前にある餌にあまりにも空腹を覚えていたために、あ、と大口を開けてパンをほおばった。
あぐ、とパンから大きな欠片を歯で切り離して口の中でもぐもぐと咀嚼しながら、ぼくは改めて相手を見た。
ぼくよりは背が高くないだろう、とは思って、そもそもぼくは二メートル近いバスケット選手並みの身長なので、大体の人より背が高いのであまり基準にはならないかと思い直した。
茶色い髪は不自然さがなく、同じ男として考えるなら、肩にかかるほどには長かった。しかし男かどうかぼくが不安になってしまうのは、彼は男物の制服を着てはいたが、顔だちは中世的で、すらりとした女の人にさえ見えたからだった。
さらに女なんじゃないかと疑うのを補強しているのは品定めするみたいなぎらぎらとした、少し薄いグレーがかった青い瞳は、狼みたいにぼくを見下ろしていたからだった。
制服はネクタイをだらしなく緩めていて、上履きの色が違うことから、ぼくの一つ下の学年であることが知れた。
けれどそれにしてはなんというか、大人びていて、それは多分顔だちもあるのだろうけど、表情が大人びているのだろうと思った。
「ちょっと、聞いてんの、あんた」
返事をせずに頬を膨らませたままもぐもぐとみていると、彼は不愉快そうに眉根を寄せた。
「ひいてふ」
もぐもぐと口に入れたままではろくな返事ができず、そのことでますます彼の不快感をあおったようだった。ぼくは机の上においたペットボトルのお茶に手を伸ばして、キャップをひねって開き、中身をごくりと飲んで、口の中のものを奥に流した。
「ごめん、聞いてる。朝から労力使って、おなかすいたんだ」
ちなみに労力とはぼろぼろと涙をこぼしたことであり、一年前から付き合いのある、目の前の机に座る友人はそれを正しく理解したようで、ぼくの言葉におかしそうに目を細めた。
朴訥としてあまり表情の変わらない友人は、年下の男が来たことにも動揺を示さず、それだけの反応をすると、やがて何事もなかったかのようにもくもくと食事を続けた。
唯一デバガメ根性を発揮したのは、近くから椅子を拝借して右手側、つまり年下の男の子のすぐ横に座っている友人だった。
こいつはちゃらっというか、へらっとしていて、軽く見られがちで、まあその通り本当に頭も思考も軽いが、ともかく傍らに立った男に興味津々で食事の手を止めていた。
この男はちゃらいしへらっとしていて、基本は悪いやつではないのはよく知るところなのだが、自分ルールが強すぎるのが玉に瑕である。それが常識とずれてなければいいのだが、こいつの自分ルールはたまに常識をけっ飛ばす時がある。
それらのことはともかくとして、ぼくに声をかけてきた推定男の子は、友人二者の反応などまるで関心を示さずに、不機嫌そうにぼくを見下ろしていた。
「で、成瀬雅人はぼくだけど、君は誰?」
すう、と彼は不機嫌そうに目を細めた。これから獲物をいたぶるような眼をしているのだが、それがあまり怖く思えないのは、高里さんという高潔さを見たせいだろうか。
「名乗る必要はない。俺は、お前に言いたいことを言いに来ただけだから」
言いたいこと?と首をかしげると、彼はひどくぼくを憎らしいような眼で睨みつけた。
名前も知らない相手にそんな反応をされるいわれはなく、しかし名前も知らない相手にそのようなことをされるのはこれで二度目で、ぼくは図らずとも澪を思い出していた。
「みーちゃんに近づくな。そばによるな不愉快だ。お前を殺したくなる」
みーちゃん、という単語は、今朝の高里さんにつながってしまい、ぼくは澪?と小さく名前を呼んでしまっていた。
火に油を注ぎこんでしまうような地雷だと気づいたのはそのあとだった。
イラァ、と目に見えて不愉快そうに目元をぎしりと軋ませて、彼は鋭い歯をむき出しにした。
「なに名前呼んでんだよ、近づくなっつってんだよォ、くそが!お前、コロス!」
す、とぼくの首元をひねりあげるようとしてか、一個下にしてはがっしりとした腕が伸びてきて、ぼくは伸びてきた手を反射的によけてしまった。
「あーはは。ナニ?ケンカァ?」
楽しそうにバカっぽいしゃべるのは、チャラそうで実際ちゃらくて頭も軽い藤村だ。
すか、と空を切った手を見て彼がますます不機嫌そうな顔をするので、ぼくはどうすればいいんだろう、と疲れたような気分になった。
「いいじゃん!やろ!なっるちゃんのーちょっとイイトコ見てみたい―!」
と藤村が馬鹿な歓声を上げたので思いっきりにらみつけると、あは、と楽しそうに笑った。
「いいね!その眼最高!」
なんなのこいつもう、死ねばいいのに。
「ややこしくなるから黙って、藤村」
えーやだあ、とくねくねしながら、藤村がもうほんと気持ち悪いぐらいのいい笑顔を見せるので、蔵元、と朴訥とした友人の名前を呼べば、すべてを察して藤村のお昼である焼きそばパンを口の中に突っ込んでくれた。
これで少しは黙るだろう。
うぐうぐと藤村がうめいているが、気にしたら負けだ。
いい仕事をしてくれた友人はちらりと少年を見上げた。
「コロスとか、安易に口にしないほうがいいんじゃない。人を殺すなんてリスク高いし、できもしないことを口にすると、すっごいばかっぽいよ」
その一言でイラア、としたのは間違いなく、まあまあ、と落ち着かせる目的で立ち上がった。立ち上がってみると彼は意外と小さく華奢に見えてしまい、弱そうな相手に何かするのも、と困ってしまった。
「・・・み、クリスに近づいてはいけないなら、君、とりあえず、クリスの名前を知ってるってことは知り合いなんだろ?じゃあ、伝言頼まれてくれよ」
ぼくは彼女に言わなければいけないことがあったから、それさえ伝えてくれればもう近寄らない、といえば、彼はチッと盛大に舌打ちしたが。
「なんだよ、早くしろよ」
というので、よろしくねと思わず笑みを見せてしまった。
意外と素直な性格であるようで、ぼくは彼に漢字二文字だけを告げた。
彼は不可解そうな顔をしたが、わかったといって、さっさと去ろうとし、ちょっと待って、とぼくはそんな彼を引き留めた。
「なんだよ。伝えればいいんだろ」
「そうだよ、ぼくにとってはそれで終わり。だけど彼女がぼくのほうに近寄ってきたその時は、君が彼女を止めてくれ」
彼女が、もしかしたらぼくの答えに納得しないという想定を頭に入れて言うと、彼は不機嫌そうにして、ふざけるな死ねと言ってさっさと教室から出ていった。
「・・・はあー」
どさり、と席に着くと、思わず重いため息がこぼれてしまった。
寒い、気がした。それはおかしくて、気のせいなのだ。だってぼくの席は窓辺で、今日はわりかし晴天なのだから。
思わずついてしまった溜息に、蔵元がくすくすと小さな笑い声を立てて口元を曲げていた。
横を見れば、むしゃむしゃと焼きそばパンをほおばりながら、藤本でさえもおかしそうに口の端を持ち上げている。
「なにしたの、ナル」
「そーそーナニアレェ?お前誰かの彼女横取りしたのかよォ」
やるじゃん、と笑う藤村をぎりぎりとにらみつける。
「お前はもう、とっとと死ね」
「あは、もっと!」
きもい、と頭の軽いドМの藤村の足を机の下で蹴っ飛ばすが、快楽主義のこの男には喜ばれるだけであり、つまり怒るだけ不毛だった。
「なに、フジ知らないの、あいつ」
蔵元は意外そうな顔をして頬杖をついた。
有名なのか?と思って首をかしげると、藤村は知ってるけどさぁ、とごくりと口にしていた焼きそばパンを飲み込む。
「アイツ、オレ好きじゃないしー?キモイしね?しかもオレの愛するナルちゃんにケンカ売ってきたから、もうアウトだわ―」
とかなんだかを、口の端を親指で拭いながらいうので、ぼくはとりあえず食べかけのメロンパンを食べる前に。
「キモイから死ね、すぐ死ね、さあ死ね」
と言って、ナルちゃん大好き愛してるという気持ち悪い主張を無視した。ぼくは空腹であったので、もぐもぐとメロンパンを食べる。
とりあえず藤村はもう、地獄に落ちて戻ってこなくていい。
手製の弁当をすっかり食べ終えた蔵元は、ナルは知らないんだ、と、今度は意外そうな顔をしなかった。
「まあ、お前は基本、他人に興味ないしね。あ、悪い意味じゃなくてな」
そうそう、と藤村はそれに同意して、へらりと笑う。
他人に興味ないって、悪い意味以外に何があるのかをぼくは知りたいし、藤村は目を輝かせるのをホントやめてほしい。
「っつーかぁ、オレとしてはこれ以上他人に興味持たなくていいと思うんだよォ、くらもっちゃんはそう思わねえ?」
「え・・・悪い、俺はナルのこと友人としてしか見れないから、その発想はなかったわ・・・大丈夫、お前がホモなのは、知ってた」
表情が変わらないままにそういうので、冗談でしかないのはまあ、声音でわかるのだが、ほんとにこいつはこいつで表情筋をもっと鍛えてほしい。
「ちっげぇよ!マジメに!チョーマジで!」
「言い方がバカっぽいからわかんなかったわー」
「うわあ、くらもっちゃんヒドイ!興奮する!」
「キモイわ」
いつものやり取りを聞いているとどこかほっとして、ああ、神様な彼女に会ってしまったことはえらく非日常だったのだと実感した。
まあ、これが日常というのも悲しいものがあるけれど。
「・・・まぁ。まじめな話。俺も、フジに賛成だよ、ナル」
蔵元はぼくの目をまっすぐに見て、澄んだきれいな黒い瞳でそういうので、ぼくは首を傾げた。
「・・・蔵元までぼくのこと大好きとかいうわけ?」
「茶化すな」
すぐに見破られて、ぼくはうつむいた。
「なんで、二人はそう思うの」
「えーそんなん簡単じゃん!オレらがナルちゃん大好きだからだよォ」
藤本はにこにことそういって、蔵元はその言葉に否定せず、藤本に視線を向けた。
「お前がいらんことまで勝手にいろいろ吸い込んで、ぶっ壊れそうになってからだろ」
その言葉はちょっと難しいと思って、ぼくはメロンパンを食べ終えて、べろりと口の周りを舌で拭った。
ぼくは、少なくとも壊れてはいないだろうし、何も吸い込んではいない。
だからわかりにくくて、でも蔵元の指摘はなんだかとても手痛いもののように思えてしまった。
「しかもお前は無自覚だからタチワリイの」
はあ、とため息をつかれて、それは呆れを吐き出したようでもあって、ひどく心苦しいものに思えて仕方なかった。ぼくは蔵元にそう思わせてしまった自分がなんだかとてもいけないものに思えてしまったのだ。
「あー、ナルちゃん?勘違いしたらダメだよ?オレらは、ナルちゃん大好きだからね?」
こいつはちゃらくて頭も軽いのに、ぼくよりいろいろなことを理解していて、たぶん心根とかそういうのはすごく優しいやつなのだ。
人の機微に敏感で、どう思っているかをしっかりと把握できるのだろう、だから、ちゃらくてへらっとしていても、あまり人に嫌われることはない。
ぼくは、たぶん、そういうところに鈍いのだ。
だからたまに、難しいとわからなくて、全然鋭くない自分に嫌気がさして、人より少し特異な原因が疎ましい。
「・・・うん?」
「うーわーぁ、納得してなさそぉ」
でもだめ、と藤村は楽しそうに笑った。
「これはいくら愛するナルちゃんでも教えてあっげねーの。オレらの愛ゆえにィ♪オレらがなあにを分かってるか、ナルちゃんは思い知って」
「さっきから、どさくさにまぎれてらって言ってんじゃねえよ、変態」
「えー照れなくてもいいのにィ」
と、気持ち悪い声を出す藤村に蔵元は不機嫌そうに突っかかっていく。
ぼくはメロンパンが最後だったので食べ終えて、こくりとお茶を飲んだ。
二人が言うことは、難しくてわかりにくいとしか思えなかった。
しかしぼくは自分自身についての言葉を考えるより先に、ぼくにケンカを吹っ掛けそうになったあの男の正体のほうが気になった。
「ところで、あの子誰なの?」
ぼくの言葉に二人は顔を見合わせ、藤村は白けたように椅子に深く腰掛けた。
「まあ、そのことは歩きながら話そうよ。そろそろ体育館向かわないとまずくない?」
蔵元の言葉にそーだなァ、という同意を示して藤村は立ち上がり、ぼくもまたそれにならうように体育館で使う靴をもって、立ち上がる。そして藤村とぼくは食べ終わったあとのごみを袋に入れて縛り、ごみ箱に袋ごと入れ、教室の入り口で席から離れていった蔵元を待った。
次の授業は体育だったので、ぼくらはすでにジャージに着替えて食事をしており、そんな蔵元も弁当箱を戻すついでに体育で使う靴をとって、すぐに合流した。
「クリス」
体育館に向かって歩き出していたというのに、あろうことか、名前を聞いてぼくは動きを止めてしまったし、藤村の言った言葉が、よく理解できなかった。
「は?」
だからあの少年の名前、と蔵元はあっさりといい、いやいや、たかが一個下じゃないか、それなのに少年なのにと思ったのに、ふだんならきっとそんなことも言えるのに、ぼくはこのとき何も言えなかった。
進んでしまった二人に追いつくように足を動かすのを再開する。
「クリス、マオっていうんだぜ、あいつ」
それだけでつながりそうな気がして、いやたぶん、澪と兄弟なのは間違いないのだけれども、しかしなんで近づくなといわれたのか、ぼくには見当がつかない。
いや、一つだけ、思い当たりはなくもない。
それは彼女が『神様』であるということで、彼女はできないことは、あるのかどうだかしれないが、ともかく彼女は分からないことのほうが少ないのだから、その力を利用されまいとして、ぼくに『近づくな』といったのだろうか?
だとしたら、彼があれだけ不機嫌なのも納得できるが、しかし、ぼくにはもうその真意を確かめるすべは残されていない。
クリスの弟とは、ぼくからは彼女に近づかないという約束をしてしまったのだし、ぼくは彼女にそれを聞きに行くことはできない。
高里さんを経由すれば教えてくれそうな気もするが、ぼくは正直、あの子にはすすんで会いたくはない。あまりに彼に似ているというのもそうだし、その高潔さはとてもじゃないが偉大なものに思えてしまって、ぼくには恐ろしいものにしか見れそうにないのだ。
それに、クリスの弟自身に聞きに行ったとしても素直に答えてくれそうにもなければ、もうぼくは彼女に解答を示したのだから、ぼくはこれ以上彼女のことを知るべきではない。
ぼくが彼女に対して思っていることに、彼女は答える必要など、ないのだから。
これで終わりなんだと思うと、確かに『神様』と名乗る子と出会ったことは衝撃だったけれど、ぼくの生活にも人生にもさして影響のない、小さなものでしかなかった。
ぼくはこれからも涙の止め方がわからずに、意味がない水分を目からこぼす。
きっとそれは、『神様』と出会わなくたって、続いていた。
「あのさ、あの子さ、お姉ちゃんか妹いるでしょ?」
あれ、なんだ、知ってるの、と目を丸くしたのは蔵元だった。
「そっちには会ったから」
「「だからだよ」」
と、二人は声を重ねて、藤村だけがハッピーアイスクリーム!という。
蔵元は悔しそうな顔をして、す、とぼくに視線を向けた。
「クリス マオって、弟なんだけど、俺らの学年に姉がいて、その姉に近づくやつがいるとこうしてくるわけ」
「いわゆるチョーシスコン。オレ、そういうのムリ」
ああ、なるほど、と納得もできたし、真意は『神様』の力を利用させないことではないのか、と思ったけれど、それは確かめるすべもなく、またぼくには確かめる必要もないのだった。
体育館に向かって歩いていると教室という箱がひしめく廊下で、「あら、」という声を拾う。
拾ってしまったというほうが正しくて、彼女は教室を出たばかりだったのだろう、同じジャージ姿だから、隣のクラスに違いなく、そんなことを知りたくはなかった。彼女は彼と同じクラスで体育は二クラス合同で行うから、彼女と会う羽目になったのだろう。
「嫌そうな顔をしないで」
ぼくは表情筋をまるで動かしていないのに、彼女は何をどうやって知ったというのか。いや別に嫌いではないのだけれど、そして今はあの黒さがないのだから、なおのこといいのだけれど、ぼくはいつあの黒い大輪の花が現れるかと気が気ではないのだ。
「してないよ、高里さん。朝ぶりだね」
「自己紹介する必要もなかったわね、成瀬くん。朝ぶり」
誰から聞いたのかは候補が絞り切れないので、推測をめぐらすのはやめておいた。
「誰から聞いたの?」
「ふふ、誰かしら」
楽しそうにごまかすので、ぼくは肩を落とした。
「・・・高橋かな」
あてずっぽうに言うと、残念ね、と彼女は目を細めた。
「ミーちゃんよ」
あれれ、とぼくはおどけて笑ってみせて、彼女によろしく言っといてね、と言って、去ろうとした。
「いやよ。自分でよろしく言いにはいかないの?私の伝言は?」
「ああ、あれ。澪の弟にお姉ちゃんとらないでって泣きつかれたから、彼にお願いしたよ。近づいたら処刑されるから、ぼくはもう彼女に会うのはやめにする」
ぶ、と少し後ろで藤村が吹いた音が聞こえ、く、くく・・・という蔵元でさえ笑う声が聞こえた。
いいんだ、気にしたら負けだ、ぼくらは箸が転げても笑うお年頃だから。
「まったく、相変わらず情報が早いのね。気持ち悪い」
と、高里さんは笑顔でさらりとそんなことを言った。
相変わらずおっかないなあ、と苦笑して、フォローしようかどうしようか悩んでいると、ねえ、と高里さんは目を伏せて、穏やかな顔をした。

「どうして人はどこでも神に祈ることができるのだと思う?」

そして穏やかな顔をしながら、ぼくにそんなことを聞いてきた。
ぼくはきっと、この言葉に反応せずに、ナニソレと返せばよかったのだろうと思い、それでもできない自分がまた愚かしいような気がした。
「・・・キリスト教は、教会で祈るんじゃないのかな」
そうね、と高里さんはぼくの回答のような言葉を、それも一理だといわんばかりに肯定した。つまるところぼくの言葉は、彼女が欲したのものではないのだった。
「私、いつもおかしいと思っていたの」
どうして。
「どうして、神様は万人から声を聴くために、その教会の門扉を開けているのかなって」
おかしいと思わない?と彼女は美しい闇の色をした瞳を少しだけ細めた。
「どうして、神様にはそれを拒む権利がないのかしら。そうしたら神様は、自分で行きたい人のところへ会いになんていけないじゃない?」
ぼくは彼女の言いたいことが、このときばかりはわかったような気がして、けれどそれはぼくが望んでいたことでもあったから、ぼくが都合よく解釈したに過ぎないのではないのかと思った。
「だって、かみさまは、人の願いを聞く存在でしょう。・・・それに神様に悪意を持つ人を遠ざけたいんじゃない。悪人は、自ら神様に近づこうとは、思わないだろうし」
「死神だって、悪の神だっているのに?」
彼女の言いたいことは、ぼくが望んでいることでもあって、そしてそれはあまりにも都合がいいと思った。
ぼくが、神様に会いたいと思うこと。
けれどそれは、クリス弟が嫌がることなのであり、出会っていくばかのぼくに対して彼が敵意を持つのは仕方ないことだ。
そんなぼくが、姉のことを守りたいと思う気持ちを簡単にないがしろにしていいはずがない。
「・・・困った顔をさせてごめんなさい。あまり、深く考えないでいいの」
高里さんはおどろおどろしさも一切見せず、からりと笑った。
「私が言いたいのは、あんなクソブラコン無視して、あの子と仲良くしてあげてねってことなの。あれはまったく気持ちの悪い理由だから、気にしなくていいのよ」
口汚くさえ思える言葉なのにあまり嫌な感じがしないのは、彼女には他に心を砕く悪意があるからだろうか。
それじゃあね、というだけいって、彼女はあっさりと去って行った。
蔵元と藤村はなんだあれ、という顔をしながらも、深くは訪ねてこず、行くぞと言って、ぼくらは体育館に向かった。
じわり、と肌にさえ走る寒さに、鳥肌が立った。
けれどそれは気のせいで、ぼくの杞憂だった。



神さまがいる教会の門扉は開いていて、いつでも万人の声を聴くというけれど、じゃあ彼女はぼくの声は聴いてくれるんだろうかと思って、それとも彼女自身の声は果たして神様に届いてはいるのかという疑問が残った。
そしてぐるぐると考えていると、ふと、あることに気づく。
ぼくが、彼のことを考えてはいない、ということに。
神さまとか、目まぐるしく考えなければいけないことがたくさんあって、ぼくは彼のことを考えずに済んだ。
いや、口にしたことではっきりと決着がついたのは言うまでもなかった。
ぼくには彼を救えないのはわかりきっていたことで、救いたいと願う心はあったけれど、それも彼と付き合っているという高里さんを見れば、何もかもどうでもいいような気がした。
二人でいる姿を見たいような気もしたのだけれど、ぼく一人では二人の姿を見る勇気は本当に起きなくて、しかし高里さんならば大丈夫な気もしたのだ。
彼とあまりにもよく似ていて、違うから。
彼の痛みを理解して、きっと高里さんは寄り添うことができるだろうと、そんな変な確信だけは生まれたのだ。
「ッオイィ!ナルちゃあーん!」
え、と思うと、バスケットボールが飛んできた。
ただいま、体育の授業中で、ぼくらはクラス対抗バスケ中。まだ暑いというのに、あまり広くもない体育館で、授業としてバスケをしていた。
ぼくは、ほぼ反射的にボールをキャッチすると、だんだん、と歩いて、ばあん、と飛び跳ねた。
運動能力と身長がそれなりなので、ぼくが飛び跳ねればバスケのゴールはすぐ近く。
だというのに、シュートを入れようとしたら、ゴールがゆらりと揺らいだ。
うそ、うそうそまって、泣きそうなのか、と思ってぼくは、じわりと肌に寒い思いがするのを感じながら、ゴールにシュートを決めた。
だあんと着地して、足場が揺らいだような気がした。
落ちるボールの音と、わああという歓声が遠い。
あれ、なんだこれ、おかしくないか、と思うとぐら、と体が傾ぎそうになる。だん、と片足で踏ん張ったけれど、足から力が抜けて、ぼくはがくんと崩れ落ちる。
おいおい、と他人事のように思って、ああ、もしかして寒かったのは熱があったからなのかと今更ながらにそんな事実に気づき、ばかだなあ、と思った。
ばかだなあ、ぼく。
ああ、もうばかすぎて泣きそうだ。
だけどぼくの涙には全くの価値もなく、そうして泣きたいと思うときに限って涙なんてこぼれやしない。
ああ、ぼくの体はどこかおかしいのだろうか。
やはり蔵元が言ったように、ぼくはどこか壊れてしまって生まれてきたのか。
そんな、ろくに思考が回らない中。
しゃ、とカーテンレールが滑る音を聞いた。そして、ひたりひたりと暗闇の中に、小さい足がぼくのほうへ向かってくるのを知る。
これは夢だろうか。
という思いとは裏腹に、ひたりと、ひんやりとした体温の低い手がぼくの額に触れた。
ああ、気持ちいなと思って、ぼくはうっすらと目を開けた。
たぶん、熱で揺らぐ視界には、『神様』がいた。
これがぼくの夢でないのなら、ぼくの目の前には神様である彼女がぼくの頭に片手を乗せて立っていた。
見慣れない天井は白く、しばらく起き上らずにいた間に意識を失っていたのだろう、どこかへと移動させられていたようだ。かすかにに鼻を突く匂いと仕切りとしてのカーテンの存在をみとめて、ああ、ここはどうやら保健室のようだと知る。
ぼくは重たい瞼をさらに開け、そばに人がいるということに安心してひどく締まりのない顔をして笑った。
「四十度を越して平然としているとか、君は阿呆か」
澪は無表情にいうので、昨日ぶりだけど、それを懐かしく思った。
「・・・会いたかったよ」
熱で侵された頭には、いろいろと彼女に聞きたいことがあったはずなのだけれど、ともかく彼女に会えたということがうれしかったという、それだけだった。
「馬鹿な、同じ学校なんだよ、いつだって会える」
「うん」
けれどぼくには、そのいつだって会える距離が、とてもじゃないが近くない。
ぼくにはクリスの弟の思いをないがしろにできるなんて、とてもじゃないけれど出来はしないから。
「・・・ありがとう、ミオ」
「・・・君、特に何も考えずにしゃべってるな?」
どうやら澪にはぼくの考えていることがわからないようだ。
「はは・・・うん。だって、ぼくは澪の、言葉で、おわれた、から」
彼に対して考えることを。
もう考えることは必要ないから。
「・・・『贖罪』か」
ああ、クリス弟はちゃんと伝えてくれたんだと思ったら少し笑えて、そうだよ、と言ったら、じわりと涙がにじんだ。
今、ぼくの体は重たくて、ちっともいうことを聞いてくれはしない。
こぼれる涙をぬぐいたいのに、それすらできやしない。
「朝丘はさ、事故だった。安っぽい小説みたいに、子供を助けて」
この際だから、とぼくはすべてを口にしようとした。
次に彼女に会えるという可能性が、今の僕にはまるで見えなかったためだ。
ともかく、助けたら、彼は。
「あいつ、ばかなんだ。体がぼろぼろになって、ぐしゃあって肉がひかれた。けがはもう、本当にひどくて、入院した」
ぼくさ、とそれでも口は動き続けた。
「お見舞いに行ったんだ。そしたら、あいつは恐ろしいものでも触れたかのように、ぼくの手をはねのけた」
あとで、彼の家族に聞いたのだけれど。
「そのあと、吐いたんだって」
ぼとり、と涙がこぼれた。
ぬぐおうとして、ぼくの体が動かなくて、情けなくて、ぼくは惨めだった。
「事故のショックで、あいつ、他人の体が触れなくなったんだ。自分の肉体が削られたのと、死にそうになった恐怖からだろうって」
それから、彼の体は回復したけれど、精神的な傷までは回復しなかった。
「だから、あいつ、本当は潔癖症で、とくに人間が触れないんだよ。人間の肉体が、怖くて仕方ないんだ」
それで、彼は他人を拒絶せざるを得なかった。
彼は、たぶん知りはしないだろう。
ぼくが彼の抱える心の病に配慮したのだということを。
「・・・ぼくは、そんな朝丘を助けてあげたかったんだよ。とても仲の良い、友人だったから」
でも。
けれども。
「・・・ぼくには何もできないんだ。知らないふりをして、離れることしかできなかった」
だから。
「助けてあげられやしないかと、彼には助かってほしいと、祈ってたんだ」
それも、全く価値がなかったけれど。
まったく、無意味だったけれど。
ぼくは、彼には助かってほしかった。
だって善意で死ぬかもしれなかった子供を助けたのに、どうして彼がそんな精神的な傷を負わなければならない?そんな、そんなのは、あんまりじゃないか。
「でも、ぼくがいなくても、朝丘は、助かったんだね」
高里さんという、彼に似た少女。
そんな少女と、付き合っているという。
ぼくのなにもかもは無意味だった。
けれど彼が救われたというのなら、それだけでもうどうでもいい。
ぼくの涙に価値も意味もないのだから、ぼく自身も意味などなくていい。

「君の涙は無価値なんかじゃないッ!!!」

そう叫んだ澪を見上げた。
彼女はなんだか悔しそうな、苦しそうな、泣きそうな顔をしている。
そう嘘でも言ってくれるのはうれしいと思って、それ以上に彼女にそんな顔をさせてそういわせてしまったことが申し訳なかった。

「・・・ごめんね、なかないで」
「泣いてない!泣いているのは君のほうだ!」

昨日と同様、くるくると表情を変える彼女のためだと思うと、重たい腕が、何とか動く。
よろよろと持ち上げて、涙にぬれてはいないけれど、悔しそうな苦しそうな顔をする彼女の顔に手を伸ばすと、彼女がぼくの大きな手を両手で握った。
「君はいっつもそうなんだ!他人の苦しみや悲しみとか、淋しさとか、そういうのを自分のことのように心を砕いて、いっつも泣くんだ!」
それは本当におもってもみなかったので、目を見開いてしまった。

「君は人間の信者だ!他人のつらいことに心を砕き、涙を流して、幸せを祈るんだ!平和主義も大概にしろ!気持ち悪い!お前は、そうして苦しみばかり背負って苦しんでいるかが、どれだけひどいことかわかってない!」

ヒドイいわれようだ。
そう思って笑ってしまった。

「じゃあ、ねえ、かみさま、教えてよ」

ぼくが苦しみを背負っているのは、どれだけひどいというのだろう。
涙に価値などないと思っていたけれど、意味などないと思っていたことすら、思い上がりだと糾弾するなら。

「どうしたら、あなたを悲しまずにすむの」

他人の悲しみをぼくが背負うというのなら、まずは目の前の泣きそうな、だれに理解されるのかわからない彼女の憂いを除いてしまいたい。
彼女は驚いたように目を丸くした。

「・・・どうして、また、そんな」

ああ、澪。それは失敗だよ。その一言はものすごく失敗だ。
だってそれは、ぼくには初めての質問だもの。

「・・・みお、君には何回目なの?」

澪は大きく目を見開いて、ぼくの大きな手を握る手に力を込めた。
「答えなくても、いいや。ああ、なんだ、そういうこと、か」
澪は多分、これがぼくの傷になることを知っていたのだ。
助けるとするなら、彼女はどうするのか、昨日、図書室で彼女は過去のことそのものをなかったことにするといった。
彼女はもしかしたら、ぼくより未来の人間とかそういうのかもしれない。そうしてやり直そうとしていたのだというのなら、ぼくの記憶に彼女の情報がないのも納得はできる。時間的に彼女がその力をふるったということなのだろう。
そして彼女のことを考えるのは、ぼくが潜在的に、忘れているなりに覚えているからだとするなら。
「ねえ、澪。もういいよ。君は繰り返して、苦しんだんでしょう?」
「未来なんかじゃない!あったのは、昨日が初めてだ!」
初めて、という言葉には笑ってしまった。
「それは、嘘でしょう。未来はともかく、初めてではないと思う」
彼女の気にかけるのは、何かしら理由があると思って訪ねてみると、彼女は観念したかのように、眉をへにゃりと下げた。
「私の話を、聞いてくれるか」
うん、と熱でだるい体を持ち上げて、彼女に微笑む。
「私は、『神』のごとき人以上の力を持っていた。これが何かはわからない。本当に目には見えないけれど実在する何かによる力なのか、それとも超能力的なものなのか」
わからないけれど、私には力があった、と彼女は言う。
「昔、私には、幼なじみがいた。その子の家では、父親が暴力をしていて、彼はいつもぼろぼろで、私はそれでも笑う彼を助けようと、初めてこの『力』を使った」
彼の父親が、そういうことをしない人間にした。
「『力』を使ったら、彼の父親は暴力をしなくなった。それまで『暴力をしていた』という事実もなくせた。けれど彼の感情経路は壊れてしまって、私はそれをどうすることもできなかった」
それは幼い、彼女の『神』たる彼女ゆえの失敗。
そして、私は彼から逃げた、と小さく口にした。
「彼の記憶から、私のことを消した。私は怖くて、だから何人もの人間を踏みにじって『力』のコントロールを覚えたよ」
二度と。
「もう二度と、彼に失敗しないために。彼を、救おうと、そう思って」
けれど。
「けれど、再び目にした彼は、普通に感情を表すことができていた」
ああ、とぼくは目を伏せた。
「私のことを、覚えていないだけだった。私が『神』と自称できるような、化け物になっていただけだった」
なあ、と彼女は手を離した。
一歩下がり、彼女は心底不思議そうに、それでいて苦しくて仕方ないというように首をかしげた。
病的に白い首筋が、あらわになる。
「フィクションだと思うか?なあ、どうして人間は、勝手に救われていくんだろう」
誰かを助けたいと願っても、この祈りはいつでも助けたい人には届かない。
彼女も痛いほどそれを分かっているのだろう。
ああ、きっと。
ヒトの涙は祈りなのだ。その祈りはこぼれて、誰かの幸せを願ったところで、行方知らずになってゆく。
「・・・助けられないのは、かなしいね」
「君は、他人を思わなければいい。他人のために幸せなど願わなければいい」
そうしたらきっと、少なくともぼくは、この祈りをなくして、他人を思わなければ、涙は止まるのだろう。
けれど、それは無理だ。
「・・・ふ、ああ、うん。無理だなあ」
ぼくは重たい体で、のろのろ彼女に手を伸ばした。
「なぜだ。君は、他人に優しくしなければいい」
彼女ものろのろと顔を上げ、どこか黒曜石のような硬質さをもってぼくを見て、その中にぼくは揺らぎを感じ取って、彼女を手招いた。
「無理なんだよ、それは」
彼女はぼくの心が読めないらしく、当然だ、ぼくは熱でろくに思考が回っていないのだから、ともかく彼女は素直に、少しだけぼくに近づいた。
だってさ、とぼくは彼女の手を握った。

「だって、これは愛だから」

は、と彼女は嘲るように、ひきつったように口の端を持ち上げた。
「愛?愛だって?馬鹿じゃないか、そんなもの」
それが理解されないことが、ぼくにはすこしだけかなしく思えた。
人を思うこと、人の幸せを祈ること、人のために涙を流せることは、たぶんやさしさで、誰かを大切に思う気持ちだから。
それをなくすなんて、ぼくにはできない。

「いとおしいから、泣けるんだよ」

ばかだと、彼女は顔をしかめた。
「これだから、お人よしの平和主義は、気持ち悪いことを」
ああ、と、じわりと目の端に水分がたまるのがわかった。
そして強く、強く、ぼくは彼女のために涙を流したいと思った。
お人よしでも、ぼくはみんなが大切なんだ。
そんな、ぼくが思う人たちの中の、いちばんを、彼女にしたい。
ある意味では、たぶんぼくがこうさせてしまった彼女を、幼い失敗のせいでこうなっている彼女に、ぼくは涙を流したい。
人の祈りの、こぼれた行方は分からないというのなら。
ぼくは彼女のために祈って、その行方を明確にしたいと思った。

「・・・ねえ、かみさま。これまでは、もう変えなくていいよ」
そのかわり。
「これからを、ぼくと過ごしてはくれませんか」

万人に教会の門扉を開けるというのなら、その扉を、ぼくが閉じてしまおう。
ふと、ぼんやりと見やった彼女は、かみさまは泣くようなことはしなかった。
ただやっぱり泣きそうな、苦しそうな顔をして、ぼくの手を振り払った。
拒絶かと、ふ、と保っていた意識が落ちそうになって、ぐらりと上半身が傾くと、ぼくは柔らかい何かに抱きしめられていた。
それは、かみさまだった。
泣きそうな、苦しそうな、それでいて愛おしいものを見るかのようで、慈悲深さが垣間見える、困ったような顔だ。
「・・・いいよ。君のかみさまに、なってあげよう」
ああ、とぼくは次第に重たくなる瞼に、とりあえずは寝るべきかと思った。
「だからもう、寝るんだよ」
「・・・もう、ぼくの記憶を、いじらないで」
かみさまのことを忘れたくなくてそういえば、彼女が小さくうなずいたことが触れ合った挙動で知れる。
「ぼくだけの、かみさまになって。そうしたら、ぼくは」

君のために、祈るから。
そう言えたかどうかは、わからなかった。
けれど彼女が強く抱きしめたので、大丈夫だろうと思う。
これからどうしようとか、次の休みには遊びに行こうと誘うかといろいろと思考を巡らせたが、はやく寝ろといいたげに彼女にさらに強く抱きしめられて、熱で意識がもうろうとしていなかったら、あるいはぼくじゃなかったらデレデレするんだろうなと思うとなんだかおかしかった。
とにもかくにも熱が下がらないことにはどうしようもないので、ぼくは体を休めるために目を閉じた。
ふわふわとした気分でなんだか涙がでそうになって、寝ている間ならいいかとぼくはずるいことを考えてしまうと、本当に閉じた目から涙がこぼれていった。
けれどその涙は、小さな彼女の手が拭って、彼女の手の中に納まった。
これからもその涙の行き先が、彼女のもとであればいいと、ぼくは愚かしくも祈った。

こぼれた行方

こぼれた行方

泣き虫な彼が、『かみさま』な彼女に尋ねるお話。 『よこしまの所在』のふんわり続編。読んでいると少し面白いかもしれません。 読んでいなくても、物語に支障はありません。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted