有限の恋
プロローグ
除夜の鐘が微かに聞こえる。そう一言だけ呟き、彼女はゆっくりと目を閉じ、耳を澄ませた。僕もつられて聞き耳を立てるが、どうも僕には聞こえないらしい。彼女ほど聴力が優れた人を知りはしないけれど、ほとんどの人が気付かないだろう。些細な音でさえ、彼女は機敏に反応する。そう遠い場所ではないと彼女は言うが本当だろうか。
「ねえ惟君、今から行く神社は屋台あるかな?」
「屋台を気にする辺り、庶民って感じだね」
寒さに耳を赤くしている彼女は僕に向き直る。
「庶民でいいの。平凡、安穏、些細な幸せ。それが私の好きな場所だもの」
波風立てぬ彼女の人生か。それはどんなに慎ましい人生なのだろう。波乱のない人生が本当にあれば、彼女はそれが全てだと受け入れて、ゆっくりと生きるに違いない。
若者の思考でないような気もするが、彼女の本質は一辺倒に平凡な人相なのだ。
「どうだろう、無いんじゃないかな屋台」
「うん?今向かってる所って大きくなかった?」
「実はあるよ」
「甘酒を飲もう。それで暖まったら手を握ってあげる」
彼女は手袋に包まれた手を僕の腕に絡ませる。少し恥ずかしい気持ちはあるけれど、周りに人もなし、暗がりで目立たないからと、彼女はより腕に手を絡ませる。
「早く甘酒とたこ焼きを食べよう。お腹空いたな」
「目的変わってない?」
「惟君知ってる?除夜の鐘って最後の一回は年越しの後なんだよ」
人の声が多くなる。ぼんやりと暗がりに浮く神社の灯りが、彼女との甘い一時が終わってしまう合図。
神社までそう遠くない道が、今日はやけに速く感じていた。彼女と居たから僕は、きっと内面で嬉しさにはしゃいでいたのだろう。
愛おしい彼女が向ける僕への眼差しは、いつだって優しい。どれほどの時間が経っても彼女は僕を、優しく見てくれる。
そうだ、今日はそれを神様にお願いしてみよう。
彼女がいつまでも僕を優しく見ていてくれるように。
腕に伝う彼女の温もりに、先走りながらも願い事を心に想う。そうしている内に、彼女の空腹は限界に来たらしい。一際大きい音をたてる彼女に向かって、僕は余計とも思える一言を言う。
「今、お腹鳴らなかった?」
「鳴ったよ?私だって鳴りますよ、人間だもの」
「恥ずかしいって感じじゃないんだね」
「恥ずかしいよ。でも恥ずかしい所はもっと色々と見せちゃってるし、今更だよ」
何気ないやり取りはきっと僕の幸せだ。彼女も望む平凡な幸せ。僕らの歩みは、人よりゆっくりなのだ。
「ほら、お腹が急かしてる。コンポタージュが飲みたいって」
「目的依然に誘惑多くない?」
「人間だもの」
僕たちはいま、幸せだ。
彼女と一緒に笑い合う。それが僕たちの幸せなんだ。
出来合い
「人のせいにすることは簡単だよね」
お弁当を膝の上に広げながら、僕は交際中の彼女、茜(あかね)と昼休みを過ごしていた。
普段から彼女は僕に対して何ともしない質問を繰り返す。それは時に僕の話題であるし、または彼女に密接な話の事であったりする。
「例えば、私が惟君の大切な物、もしくは人を壊してしまうとする。惟君は私を非難するし、嫌ってしまうかもしれない」
僕はこの場合、とても返答に窮する。僕ら大学生の悩める話題ではなさそうだし、そして彼女の無茶な話題の振り方に頭を悩ませるのだ。
「この場合、私情を挟んだとしても私は弁解の余地はないわけだよね」
「一応言っておくけど、その私情を聞くくらいには性格良いと思うよ」
「惟君は激昂すると周りが見えなくなるから。ううん、見なくなるの」
弁当箱の蓋にのせられた総菜に箸を付ける。茜が何気なく取り分けたそのおかずは、僕の好みのものである。
以前に聞いた話だが、これだけは茜お手製で、朝は母に聞きながら頑張って作っているらしい。
「対象が明確じゃないと続きは聞けそうにないね。大切なモノといっても多くて抽象的だ」
それで?僕は促す。
「何かやらかしたのかな?」
「実は昨日、家にお邪魔させてもらった時、あなたの携帯の上に座ってしまって」
「…だからこんなに画面が割れていたのか」
ポケットから携帯を取り出す。画面全体にひび割れが入ってしまっている。うん、初めて壊したな。
聞けば、僕が席を外そうと立ち上がった時、落ちた携帯が座布団の上に落ちたまま気が付かず、そのまま座ったとのこと。
「それくらいじゃ怒らないよ。むしろ謝ってくれたんだから不問にしない訳がない」
「続きは聞かなくていいの?むしろそっちが本題だけれど」
疑問符が頭に浮かぶ。無惨な姿の携帯を鞄に放り投げ、話の先を促す。
「まず、なんで惟君が使っていた座布団に座ったか。そして座るだけじゃあ、画面なんて割れるとは考えにくい。どうして疑問に思わなかったのかな」
「…うん、聞こうか」
「惟君が席を外している合間に本棚の一番上を確認しました。すみませんでした」
「……」
見たのか。いや、見られてしまったのか。
確かに考えれば迂闊であったし、安直だった。
木を隠すなら森にというけれど、そもそも森自体、伐採する勢いの本好きな茜が、本棚に興味を示さない訳がなかった。
良く本が話題にも上がるし、貸し借りもしている。彼女が部屋に来ればまず興味を引くのは本棚だろう。
「本当にすみませんでした。胸が小さくて」
「…う、うん。ちょっと待って目が回ってきた」
本に手を伸ばす姿も容易に想像が付く。何より僕が茜に本を貸さない道理がない。茜もそれを知っての事であり、手に取ったのだろう。
「それにしても、年上が好み?私は大丈夫でしょうかね」
「真面目に考えるな。というよりなんで手が届いたの?」
天井近くまである背の高い本棚に隠していたのだ。僕より頭一つ低い茜が、到底手に届くとは思えない。
「届かないから跳んでこう、ちょんちょんって触りながら落とす感じかな」
光景が鮮明に浮かぶ。状況が違えば微笑ましく、可愛い姿だっただろう。けれど、その行動が結果的に僕の痴態の露見に繋がってしまった。
「惟君、持ってることに対しては怒らないけれど、内容は看過出来そうにないの」
「…怒ってるね、すみません」
「怒ってないよ。ただ私への不満が集約されているように思えてならないんだ」
いつの間にか僕の謝罪話になっている。元々は彼女が僕の携帯を壊してしまい、見られたくない物を見てしまった事に対しての謝罪だったのだが。
いつもの事ながら、彼女に弱いのだな僕は。
結局その日、彼女の言及を免れるために、元凶を捨てることに同意した僕は、うなだれる一日となった。
友達から誕生日祝いに冗談で渡されたブツで、これほどに修羅を見るとは予想にもしなかった。
これからは十二分に気を付けなくては。買うことはないにしても、貰うことはあるのだから、上手い具合に隠さないとな。
そういえば一度、彼女が告知なく僕の部屋に訪れた事があった。合い鍵を持った彼女は、チャイムを一度鳴らし、直ぐにドアノブを回した。自慰していた僕は慌てて本を持ってトイレに駆け込んだものだ。下着を掴みトイレに逃げる僕を、彼女はため息一つで流した。仕方のないことだと認識する彼女に恥ずかしさを含めながらも、照れ笑いで誤魔化し、器の広さに感服した。
結局の所、僕が甘かった。あの出来事から、偏見を持たない女性だと勘違いをしたのだから。
男からしてみれば、何ともない出来事だが、やはり女性には心労となり得るものだった。僕は本当に迂闊であった。
推し量る事が出来ない僕は、唯悩むしか無かった。
有限の恋