殺意
タイ・シリーズ(1作目)
セキが横たわっていたベッドのシーツは、
彼が作った寝皺を細かく刻んだまま乱れている。
その上にある淡いグリーン色をした毛布も、
セキが起きがけに剥いだままの姿で、幾重ものひだを作っていた。
白と淡いグリーンの布は、既に懐かしくなってしまった彼の匂いを、
微かにだが放っている。
ファーイはそこに頬と鼻を犬のようにこすりつけ、
自分の躰をシーツの寝じわに合わせながら、
残り香の中にそっとうずくまった。
セキが生まれ故郷の日本に帰る度に、ファーイはひとり
小さなマンションの一室にこもり、こうして男が残した
愛しい痕跡の中にうずくまる。
すると、ほんの少しだが独りの痛みが和らぐような気がするのだ。
たとえその後に惨めさが一層胸を締めつけようとも、
その行為を止めることが、自分ではどうしてもできない。
(私がひとりでこうしていることを、
セキは知らない・・・・)
そう考えた途端、躰の奥から激しいものがわき起こり、
ファーイは思わずシーツに爪を立てた。
ガリリッ、と布が鈍い音を立てる。
(これが、セキの悲鳴だったら
よかったのに・・・・)
ファーイは、セキの胸板から流れる四筋の爪痕、
その傷の先から流れる赤い液体を想像して、
くすり、と口元を歪めた。
今頃、彼は日本で何をしているのだろう。
もちろん、セキはビジネスマンなのだから、
毎日オフィスへ行って仕事をしているのだろう。
ファーイの好きなセキのスーツ姿と、
きびきび動く彼の動作を思い、柔らかい微笑みが
彼女の口元に一瞬、戻る。
けれど、仕事を始める前の朝は、仕事を終えた夜は、
休日は、彼は一体何をしているのだろうか。
そう考えると、彼女の心は、たちまちのうちに
真っ黒に塗りつぶされてしまう。
(そう、決まっている。
仕事以外の時間は、日本にいる家族と
一緒に過ごしているのだ・・・・)
まだ一度も見たことのない、セキの妻の輪郭が、
ファーイの目の裏にぼんやりと浮かび上がってくる。
セキとさほど年は変わらない筈だから、
きっともう四十半ばを過ぎているだろう。
若さと美しさは衰えてしまったが、愛する男と所帯を持ち、
子供を産み育て、充実した笑い皺をたたえた、日本の中年女。
子供は三人いるという。長男、長女、そして次女。
家族五人の三か月ぶりの団らん。
自分の手の届かない国、手の届かない家族という枠の中に、
彼は再び戻ってしまった。
二週間経ったら戻ってくる、ただそれだけを言い残して。
ファーイの目に、涙がせり上がってこぼれ落ちた。
「二週間したら戻ってきます」
電話口のセキの声に混じって、彼のオフィス内の
雑然とした様子が、あの時のファーイの耳に伝わってきた。
セキはオフィスから電話してくる時、
わざと事務的な口調になる。
ファーイも、自分が今勤務中であり、
周囲のスタッフの目があることを意識して居ずまいを正した。
紺色のタイトスカートの裾をきゅっと引っ張り、
パンプスのつま先にまで緊張感を走らせる。
だが、その居ずまいに反し、彼女の心は大きく揺れていた。
彼は、ファーイに会わずに今夜日本へ発つつもりでいるのだ。
彼女は、セキの事務的な口調の中から、
家族に再会する喜びが、どこかに潜んでいやしないかを、
必死に嗅ぎ取ろうとした。
だが、それを探る前に、「それでは、また」という言葉を残して、
電話は突然切れてしまった。
ツー、という、冷たい機械音だけが残酷に耳に響く。
ファーイは、死んでしまった電話の前で、
必死になって胸の痛みに耐えなくてはならなかった。
近くのタイ人スタッフが、そんな彼女の様子を見て、
怪訝そうな顔をする。
チャイ・イェン・イェン・ナ・ファーイ
(気を落ちつかせて、ファーイ)。
彼女は自分自身にそう言い聞かせ、
固く握りしめていた受話器をふるえる手で置いた。
セキが帰国直前に会いたがらないのは、
ファーイの以前の態度に原因があるのだ。
「日本へ帰らないでほしいの」
三か月前、セキが日本へ帰国する時、ファーイは
泣きながら彼に訴えたことがあった。
だが、セキは困ったような、苦々しいような表情をして、
「無茶を言うな」とだけ、ぼそりと言った。
「仕事で帰るんだよ。帰らないわけにはいかない」
「でも、嫌なの。
あと少しでいいから、そばにいてほしいのよ」
偶然見てしまったセキの手帳。
スケジュールノートの十六日の欄には、日本語で
『優子誕生日』と書かれてあった。
十五日は、セキが日本へ渡る、その次の日の日付である。
『子』という漢字を読んで、それが女の名前であること、
そして誕生日という日本語の意味を理解したファーイは、
たとえそれがセキの妻の誕生日でなかったとしても、
セキに日本で自分の見知らぬ女の誕生祝いなど
して欲しくない、させるべきではない、と強く感じたのだった。
だが、そんなことはセキに言えない。
言いたくない。
ファーイはひたすら子供のように、男にすがりついて泣き続けた。
(その時の、セキの顔。セキの私を見る目つき・・・・)
このようにして、ファーイが自分の苦しみを表面に出す時、
セキは急に他人の表情になる。
愛情のこもった眼差しが虚ろな空洞へと変わり、
まるで仮面をかぶせたかのように顔から表情が
すうっと消え、皮膚に血が通わなくなる。
(セキは、私がごねることを一番疎んじ、
また恐れている)
幾度もの言い争い、喧嘩の繰り返しから、
ファーイはそのことを嫌というほど思い知らされていた。
セキのつたないタイ語の中からも、
ファーイを自分のどの位置に定めているか、
定めておきたいか、
そしてタイの女のことをどのように考えているのか、
日本では自分のような立場の女が
どのように見られているかを、少しずつ知っていった。
セキとファーイは、セキがタイに居る間は
一緒に暮らしているのだから、タイでは
『結婚している』という認識をされる。
しかし、日本では決してそうではない。
タイのミヤ・ノーイ(妾)と日本のミヤ・ノーイは、
はっきり違うのだ。
それを理解するまでに随分時間がかかったが、
今は嫌でも受けとめざるを得ない。
それは、周囲の人間に二人の関係を打ち明けられない、
その苛立ちがファーイをがんじがらめにし、
彼女をひどく苦しめ続けていたからだった。
この苦しみに直面する度に、ファーイは、
タイとは違う日本の価値観と慣習を、
ひりひりと痛いほど肌で感じ取っていった。
ファーイは小さな繊維工場の社長を父に持ち、
そこそこ裕福な家庭で育った。
まじめな彼女はバンコクの国立大学に合格し、
そこで日本語を学び、学歴と語学の知識を買われて、
八年前、大手の日系企業に就職した。
日本語の知識といっても知れていたが、
日常会話で最低限必要な単語だけは頭の中に入っていた。
五年の間に何度か職場を変え、
一度は大学に入り直して日本語の勉強を重ね、
再び就職して落ちついた先が、今勤める日系S社だった。
そして三年前のある日、オフィスで彼女の日本人ボスから
来客を紹介された。
「得意先のN社社長のミスター・関」だという客は、
笑顔が印象的な中年男性だった。
自分とは随分年が離れているセキを見て、最初、
ファーイは彼を男性として見ることは、全くなかった。
しかし、会社の夕食会の後、客として呼ばれていたセキに、
自宅まで送ってもらったことがきっかけとなり、
二人は急速に親しくなっていったのだった。
「クン・スーアイ・ナ・クラップ(あなたは綺麗ですね)」
ハンドルを握っているセキから下手なタイ語で言われ、
印象的だと思った笑顔で見つめられた時、
単なるパーク・ワーン(お世辞)だと軽く流せない自分に、
ファーイは初めて気づいたのだった。
セキのゴルフ焼けした褐色の肌、太い眉毛、
白髪まじりの短い髪、いかつい肩。
中年の男性だけが発散する、働き盛りゆえの
自信とゆとりの雰囲気。
その雰囲気にしっくりと合った、高級そうなスーツ。
セキの下手な褒め言葉と笑顔は、ファーイの躰に
じわじわと時間をかけて入り込み、彼女の警戒心を
柔らかく溶かしていった。
そうして少しずつ心の扉を開け、セキに誘われるまま
躰を開いた自分自身に、ファーイは驚いていた。
二十七歳で初めて恋を知った女が、
こうもたやすく男に心を許すものなのだろうか。
だが、理屈ではなく、ファーイの生理が
最初からセキを受け入れていた。
言葉では説明しきれない、急激な自分の変化に
戸惑いながらも、ファーイは女としての幸せに
あっと言う間に呑み込まれていった。
日本の男と関係を持つことは誇らしく、
リッチで、あらゆる好奇心が湧き出ては満たされる、
素晴らしいものであった。
家族や友人とは決して行くことのできない、
高級レストランでの食事。
ベッドで戯れながら、お互いの国の言葉や
習慣を教え合う、知的で楽しいひととき。
大学生の時には、決して下りなかった
日本行きのビザの発行。
セキと一緒に回った、京都の寺や庭園の美しさ。
高級なプレゼントの数々。
セキは紳士でスマートだった。
タイが初めての海外駐在だというが、
彼は英語が上手であった。
タイ語の覚えも速く、ファーイは専属の家庭教師として、
熱心に言葉を教えていった。
大柄で白髪まじりのセキが、無骨な手をあわせて
ワーイ(合掌)する姿がほほえましく、
一生懸命にタイの慣習を学ぼうとする彼の姿勢に、
ファーイはますます好感を募らせていった。
楽しかった時間に翳りが出始めたのは、
セキがお互いのオフィスの中間地点にある、
ラーマ四世通りにマンションを借りて、
そこに二人で暮らすようになってからのことであった。
「しょっちゅう会うのに、いちいち約束して
外で会うことは馬鹿らしいよ。
それに、郊外にある君の家まで
いつも送っていくのはしんどいしね」
と、セキが言い出したのだ。
だが、一緒に暮らすという、
うわずった喜びが引いた時、
ファーイは自分が狭いマンションでセキを待ち、
周囲の人たちに小さな嘘を重ねねばならないことに
戸惑い、少しずつ苛立ちを募らせていった。
二人のことはみんなに内緒に、
というセキの言葉を受けて、
誰にも打ち明けなかった二人の関係が、
一緒に住みはじめてから、
初めてファーイの負担になっていった。
会社から与えられたスクムウィットの豪華なマンションに、
セキは決してファーイを招こうとしなかった。
また、仕事の付き合いの飲み会や、
休日の接待ゴルフの回数も多く、
日本の本社や他の海外支社へ出張することも度々で、
ファーイはその間、実家に戻って、
恋人が不在の時間をやり過ごすしかなかった。
家族と一緒の時間は楽しかったが、
胸の中にぽっかりと穴が開いたような感覚は、
常に彼女につきまとって離れなかった。
恋人が不在の寂しさを突きつけられるたびに、
彼への想いと独りの辛さが、
ファーイの全身にじわじわと染みていく。
だが、それはまだいい。
実家から出る際に、自分の両親に嘘をついた時は、
もっと辛かった。
バンコク郊外から通っていたファーイは、
通勤時間の長さと渋滞のひどさを理由に、
実家を出る許可を得たものの、
友達と一緒に住む、と親に言った時、
後ろめたさで涙が出た。
マンションに電話があった時はファーイが出ること、
マンションを訪ねてくる時は、
必ず事前に電話をしてほしいと両親に念押しすることで、
セキの存在をどうにか家族に隠すことができた。
いつも一緒の二人は、しばらくすると
双方の友人と共に食事をしたりする機会が、
ぽつりぽつりと増えてきた。
二人の関係は敢えて言わず、友人たちも
敢えて確かめず、他愛もない話に花を咲かせ、
その場は何事もなく過ぎていく。
セキの日本の友人たちは、自分にも身に覚えのある
タイ女性との密やかな付き合いを思い、
含み笑いをしたまま口を閉ざし、
ファーイの友人たちは、タイの習慣で
お互いのプライベートには足を踏み入れずにいたので、
さほど苦痛な思いをすることはなかった。
もともと、タイの人間関係は複雑である。
その気質からか、血族以外のつきあいは流動的で、
従って離婚率が高く、行政指導が行き届かないため、
役所に入籍届けを出さない場合も多い。
また、タイ語の『フェーン』という単語は、
恋人間でも夫婦間でも使える便利なもので、
恋人、愛人、夫、妻すべての意味がこの一言に含まれる。
言葉ひとつからも、タイの人間同士のかかわりかたを、
透かして見ることができる。
このような環境の中で付き合いが長くなれば、
何がなんでも二人の関係を隠し通す緊張感が薄れてくる。
また、二人きりの時間に息が詰まる時は、
やはり誰かを交えたひとときを過ごしたくなる。
そうして二人の関係は、本人たちの自覚がないまま
少しずつ露呈していったが、それが表立って
問題になることはなかった。
逆にそれが、ファーイの苦痛を
強めることになるのではあったが。
セキのこうした要求にファーイがひとつずつ
答えていったのは、日本に彼の妻子がいることを、
セキ本人から最初に聞かされていたせいもあった。
だが、当時のファーイにとって日本は遠く、
側にいるセキが現実のすべてであった。
また、タイの慣習で自分を妻だと思うこともできた。
そして何より、一度でも男と共に過ごす
濃密な時間を経験してしまえば、
それを振り切って独りに戻ることが
恐ろしく感じられるのだった。
ファーイは美しい女であったが、自分が既に
三十歳であること、処女ではないことで、
セキを捨てて別な男とまともな結婚ができる、
という自信をすでに失っていた。
第一、セキを愛していたし、彼が持つ魅力を、
彼が既婚者であるというだけのことで、
振り切ることができないのであった。
セキのスマートさは結局、
豊かな国から来た者だけが持つセンスと、
物質的な面から来るものが多かった。
金銭面、物質面を除けば、
小さな失望の連続であったにもかかわらず、
物質的な恩恵は無視できないものがあった。
彼から受け取る愛情は、その場限りで将来がなく、
決して形を持つことはない。
しかも誰からも祝福されず、
秘密にしておかねばならない関係なのだ。
だから、金やプレゼントを与えられれば、
それが愛の形として、ファーイの心に認識されていく。
彼女はそれを当然だと思った。
男から受け取る金品の代償に、
女は自分の身をすり減らしていくのだ。
若い女の三年は男の五年、十年分にも相当する。
時期を逃せば、女としての幸せを掴むチャンスは、
あっと言う間に通り過ぎていってしまう。
(セキさえ目の前に現れなかったら、
今頃誰かと結婚していたかもしれない)
この関係がもう三年以上にもなり、
自分が三十歳になってしまったことに、
ある日、ファーイは気づいて愕然とした。
もう二度と戻ることのできない月日を、
どうしたら取り返せるというのだろうか・・・・。
ガリリッ。
再びシーツが悲鳴を上げた。
苦しみの中にいると、それから逃れたくて、
いろいろともがく。
ファーイは、セキが寝ていたシーツの中で
身もだえし、ううっと嗚咽を漏らした。
考えたくないことも、考えるようになる。
いつも探るような目でセキを見つめ、
苦しみの原因にぶつかると、
愛情が憎しみへと形を変えていくことを、止められない。
そして、憎しみという感情にまみれ、
どんどん嫌な女になっていく。
愛するセキだけでなく、周囲の人間に対しても、
暖かい目で見つめることが難しくなっていく。
日本の男と付き合う誇らしさは、
タイが後進国であると、自ら認めるその裏返しでもあった。
そして、セキがたまにうっかり日本語で漏らす、
『タイ人だから仕方ない』、『タイ人はこれだから・・・・』
という科白に、怒りと劣等感の混ざった感情を抱いた。
(私はタイ人だけど、上のステータスにいる人間なのだ。
タイ人は・・・・と、ひとくくりにして欲しくない)
そう強く思うことで自らの誇りを保ち、
その代わりに周囲のタイ人に対して、
冷たく対応するようになっていった。
(私は、あなたたちとは違うのよ)
そう誇示することで、自分を価値ある存在だと言い聞かせる。
だが、誇りの中に混ざっている、ひりひりとした劣等感は、
ファーイを常に刺激し続けた。
セキのような素晴らしい日本の男と付き合っている、
という誇りと、しかしミヤ・ノーイであるいう立場の辛さ。
タイ人の中ではステータスが上だという誇りと、
日本人に比べて自分が劣るという、払いきれない意識。
これらが混ざりあい、反発し合って、
それがファーイを不愉快な女に仕立て上げていった。
ファーイは日本人ディレクター付き秘書ということで、
一年前からタイ人スタッフ十五人のトップの地位に就いていた。
彼らと接する時の彼女は、背筋をピンと伸ばし、
眉をきりりと高く上げて慇懃無礼に応対する。
そして、まるでオールドミスの教師のように、
礼節を厳格に重んじた。
その態度を見て、すべてのタイ人スタッフは、
ファーイに対し深く合掌する。
ファーイに素直に従う者も大勢いたが、
鼻持ちならない態度の女だと、嫌われることも
度々であった。
他人から敬遠されている、嫌われているというのは、
彼らが何気ない態度を装っていても、
肌で感じるものである。
その反感を受ける重みは、日を追うごとに、
だんだんと強くなっている。
一方で、飢えたようにセキ以外の男を求める気持ちが、
ファーイを常に煽り続けていた。
何かのきっかけで好青年に出会うと、
自分の目が、躰が、態度が媚びてくることに、
ファーイは自分で気づいていた。
甘ったるい声が出て、相手の男を上目づかいで凝視する。
その無意識のうちに露出する媚びに、
自分自身で嫌悪感を持っていたが、これも止められない。
セキとの関係に絶望し、しかし愛し続け、
その純粋な気持ちの裏側で、物質面の恩恵に対して
どこか計算しているところがある。
セキとの愛を失いたくないのに、他の男に強く救いを求めている。
苦しみから逃れるために、探り当てた自分の偽わざる気持ちが、
既にファーイの意識上で明らかになっていた。
しかし、気づいても、自分ではどうしようもないのであった。
いつか、セキが言っていた科白を、ファーイは思い出していた。
「タイの女の子は、明るくていいね。
それは、あんまり深くものを考えないせいだろ」
ジョークのつもりだったのだろう。
だが、ファーイには、南国の女に対するイメージを、
直接彼女にぶつけたように思えた。
タイの女は単純だと、言いたいのだろうか。
また、セキの奥さんの存在が苦しい、と打ち明けた時、
「可愛いよ、ファーイ」
と言って、セキがほほえんだことがある。
満たされない愛に苦しみ嫉妬する女を見て、
自分は深く愛されているという満足から、
可愛いいという科白を吐く男。
確かに愛し合っているはずなのに。
純粋な愛であったものが、次第に色褪せ、
形を変えていく過程を、ファーイは独り、
苦しみとともに味わっていた。
涙で曇った目で近くの時計を見ると、
既に午後九時を回っていた。
貴重な休日を、こんなつまらないことに使ってしまったのだ。
昼近くに目覚めてからずっと、この狭い檻の中で、
ひとり嗚咽し続けていたことになる。
軽いめまいと吐き気で、食事を摂っていないことに
気づいたが、食欲は全くなかった。
気分を変えるため、ファーイはバスルームへ向かい、
服を脱いでシャワーの前に立った。
冷たい水を浴びていると、今日一日の退廃の跡が
洗い流されていくかのようで、少しだけ気分が
落ちついてきた。
彼女はシャワーの水圧をいっぱいに開いて、
強い水しぶきの中でしばらく頭を冷やした。
気分がいくぶんすっきりすると、ファーイは水を止め、
バスタオルを取りあげた。
タオルで躰の水滴を拭き取りながら、
彼女は裸の自分の躰を大きな鏡に写して眺めた。
まだ十分に若く美しい女が、そこに立っていた。
弾力のある浅黒い肌が、水分を吸収して
しっとりと光っている。
黒く長い髪は、豊かでつややかだ。
大きな瞳が、きらきらと光ってこちらを見つめている。
だが、二十代の頃とは確実に異なる、
熟して重みをつけはじめた躰に、ファーイは気づいていた。
固かった蕾が開き、満開となる季節がやって来たのだ。
そして数年後には、花びらが開ききり、
朽ちていく秋の季節へと入っていく。
ふと、ファーイは、セキに殺意を感じた。
その瞬間、電話のベルがけたたましい音で鳴り響いた。
はじかれたようにファーイはうなだれていた頭を起こし、
バスタオルで躰をくるんで受話器へ駆け寄った。
すぐに受話器を取ろうと手を伸ばしたが、
そのまま三回、ベルが鳴り終わるまで待ち、
その間に乱れた呼吸を整えた。
「ハロー」
心の中の嵐とは裏腹に、いつもの
柔らかい声が出て、ファーイはほっとした。
「ハロー、ファーイ、元気かい?」
思った通り、セキからであった。
「元気よ、トーキョーは寒い?」
「今日、少し雪が降ったよ。
でも、ほんのちょっとだったから、
積もらなかったけどね」
明るいセキの声。
私の幸せの分まで、全部、
独り占めしているような、淀みのない・・・・。
「予定より、三日ほど早く帰る。
二十五日の夜八時には戻れるから、
待っててくれよ」
「分かったわ」
「早く会いたいよ、ファーイ」
「・・・・」
生ぬるいその声は、男の狡さを露呈していた。
そして、その声に嫌悪感と憎しみを感じたことに、
意地の悪い喜びと、どうしようもない寂しさを、
ファーイは感じた。
「そうね、私も」
調子を合わせた言葉の裏で、ファーイは幾度も
セキの幻影にナイフを突き立てていた。
殺意を感じたのは今日が初めてであった。
あと一週間とちょっとで、セキは
ファーイの元に帰ってくる。
この一週間は、どうやってセキを殺そうか、
ひそかに計画を立ててみよう。
いつか来る、二人の関係の終わりのために。
少しでも早く、その日が来るように。
「愛しているよ、ファーイ」
セキが気持ちを込めてそう言った。
「私もよ、セキ」
ファーイも、ありったけの気持ちを込めて、
そう返した。
【了】
殺意