僕と、君と、鉄屑と。

プロローグ

 また、目が覚めた。別に、覚めなくてもいいのに。
 ベッドの中の私は、昨夜のままで、タバコとお酒と香水が入り混じった、最悪な臭い。エアコンはつけっぱなしで、喉が痛くて、生暖かい空気に、自分の最悪な臭いが充満している。

 時計を見ると、午前十時。まだ寝ようかとも思ったけど、もう明るいし、臭いし、トイレにも行きたいし、仕方ない、起きよう。
 トイレに行って、シャワーを浴びる。汚い髪、傷んだ肌、やつれた体。シャワーを浴びたって、何も変わらない。ただ、ドロドロのファンデーションが落ちて、最悪な臭いがなくなっただけ。

 私の部屋には、何もない。あるのは、ベッドと、小さな座机と、少しの食料。私はただ、死んでいない。もう、この命に意味なんて、何もないのに、私はまだ、死んでいない。

 いけない、忘れてた。家賃、まだ振り込んでなかった。死んでいない限りは、ちゃんと、家賃を払わないと。
 私は、三着の内の、一番派手な、紫の『仕事着』を着て、傷んだ肌を隠すように厚いメイクをして、禿げたマニキュアは無視して、部屋を出た。いつの間にか、また冬になろうとしている。外は、北風で、この前バーゲンで買った、レオパード柄の、趣味の悪いコートのポケットに、手を突っ込んだ。

 振込を済ませ、部屋に帰る気も、ない。タバコの吸える数少ない、古ぼけた喫茶店に入り、サンドウィッチとコーヒーを注文した。入店時間まで、後三時間。ここで、過ごそうかな。タバコに火をつけ、置いてあった週刊誌を広げる。写真だけを眺め、ペラペラとページをめくるとすぐに終わってしまうから、二巡目、開始。

「ここ、よろしいですか」
顔を上げると、痩せた、神経質そうな、メガネの男の人が立っていた。
「他、空いてるけど?」
「ここに、座りたいのです」
変な奴。私しか、客、いないのに。
メガネの彼は、カシミヤの黒いマフラーを外した。スーツはたぶん、オーダー。ふうん。いいセンス、してんじゃん。

「失礼ですが」
「何?」
「ご結婚、されていますか?」
「はあ?」

「もし独身でいらっしゃるなら、契約、していただけませんか」

契約試験

 その女は、とてつもなく下品だった。
だから、僕は彼女に声をかけた。女は、すぐに僕の話に乗ってきた。なんの疑いもなしに、僕の車に乗った。
「どこ、行くんだよ」
後部座席から、タバコの煙が流れてきた。僕はその質問を無視して、この下品な女から一秒でも早く解放されたいと、そればかり考えていた。

「こちらで、お待ちください」
応接室の革張りのソファに座った女は、安物の香水を部屋に充満させ、テーブルの上のクリスタルのシガーセットを、剥がれかけた赤い爪で触っている。
「ねえ、喉、乾いたんだけどー」
「……コーヒーで、よろしいですか」
「あー、アイスコーヒーねー。シロップ多めでー」
女は、ソファに足を投げ出し、タバコを吸っている。
「かしこまりました」
僕は吐き気を押さえながら部屋を出て、秘書室にアイスコーヒー、シロップ多め、を持ってくるよう内線をかけ、社長室へ向かった。
「お連れしました」
「どんな様子だ」
「金さえ与えておけば、問題ありません」
社長は少し笑って、僕の肩を叩いた。
「さすがだな」

 応接室に戻ると、あの下品な女は、退屈そうにアイスコーヒーを飲んでいた。
「お待たせしました」
「おっそ」
社長は笑って、女の前に座り、名刺を出した。僕はドアのそばに立ち、その光景を、観察する。
「野間直輝と申します」
「どうも」
「お名前を、お聞かせ願えますか」
「サエキレイコ」
「レイコのレイは、どんな字ですか」
女は、社長の名刺に、乱雑に名前を書いた。『佐伯麗子』それが女の名前。
「あなたにぴったりのお名前です」
「そうね」
「年齢をお伺いしても?」
「二十八」
「そうですか」
麗子はぼんやりと、目の前に座る、社長を眺めている。おおかた、高そうなスーツだ、とか、イケメン(ああ、僕はこういう俗語がとても嫌いなのだが、このような知性も品性の欠片もないような薄汚い女は、他に社長を形容する単語を知らないであろうから、僕はそう、表現しているだけで、僕は決して、そのような単語は使わないということを、誰にでもなく断っておきたい)だとか思っているのだろう。
「早速、契約のお話をいたしましょう。私はまわりくどいことが嫌いなので、単刀直入に、ご提案します」
「うん」
「月、百、でいかがですか」
麗子は、何も言わない。不足なのだろうか。
「必要なものは、別に、実費でお支払いたしますよ」
「ふうん」
そっけなく頷き、新しいタバコに火をつけた。
「でも、意外ね」
「何がですか」
「『契約』とかいうから、どんなブサメンかと思ったら。結構イケてんじゃん、あんた」
「お褒めに預かり光栄です」
社長は優しく微笑み、軽く、頭を下げた。そして麗子は、突然饒舌に話し始めた。
「あ、もしかして、ド変態とか? あー、私さあ、シモは無理なのよ。SMなら……そうね、痛いとかは無理なんだけど、まあ、だいたいのことはしてあげるわよ」
「安心してください。私に性癖はありません」
「そうなの? じゃあ、ヅラだ。ねえ、そうでしょ」
僕はこの、ド下品な女にイライラしていた。しかし、社長はソファにもたれかかり、可笑しそうに笑った。
「おもしろいなあ、麗子さん。でも、残念ながら、それもハズレです」
「ふうん。まあ、いいわ。ねえ、部屋もあるんでしょ? そこのメガネがそう言ってたんだけど」
メガネ……僕のことか。
「もちろん、お部屋もご用意していますよ」
「そう、最高。で、どうすればいいの? あんたがやりたくなったら、その部屋であんたの相手をすればいいわけ?」
「いえ、そうではありません」
「え? だって愛人契約でしょ? じゃあ、他に何するっていうのよ」
「愛人、ではありません」
「はあ? じゃあ何? まさか、お友達、とか言わないわよね?」
「彼から聞いていないのですか?」
「契約、としか聞いてないわ」
「なるほど。では、お話ししましょう。あなたには、私の、妻になっていただきます」
麗子は、指に挟んでいたタバコを危うく落としそうになった。やめてくれ。下に敷いてあるカーペットは、正真正銘、本物のペルシア絨毯だ。
「ちょ、ちょっと待って。妻? 何? それって、まさか……」
「結婚、していただきます」
しばらく麗子は口をポカンと開けて、社長の顔を眺めていた。
「じょ、冗談、よね?」
「冗談、ではありません。とりあえず半年間、私の妻としてふさわしい女性になるよう、教育を受けていただきます。その間の契約料が百万です。半年して、妻としてふさわしい女性になっていれば、契約料の上限はなしにします。あなたは、一生、生活に困らない。優雅で、贅沢な生活を保障しますよ」
「……もし、なれなかったら?」
社長はその質問には答えず、僕に目で合図し、僕は、持っていたブリーフケースから、一万円札の束を六つ、テーブルに置いた。
「さあ、どうしますか?」
僕は冷静に、麗子に聞いた。
「どうするって……バ、バカバカしい! 帰るわ!」
麗子はタバコを灰皿に押し付けて、立ち上がった。ふむ。第一段階は、突破したか。

「待て」
社長の顔から、笑みが消えて、視線が鋭く光った。
「気に入った。俺の女になれ」
「冗談じゃないわ!」
「金ならいくらでもやる。俺はお前に何も求めない。ただ、俺の横で、俺にふさわしい女のフリをしておけばいい」
「……ど、どういうこと……」
「それさえ守れば、自由だ。どうだ? もうあんな店でくだらない男の機嫌をとらなくてもいいんだぜ? フェイクファーじゃない、リアルファーのコートも買える。悪い話じゃない」
麗子は、ポリエステル製の、レオパード柄の、下品なコートを握りしめた。
「でも、結婚って……」
「どうせ、このままいっても、ロクな男と結婚しないだろう。それなら、この俺と『契約』したほうが、よほど利口だと思うがな」
「それは……」
「一つ、話しておこう」
社長は、麗子の傷んだ茶髪を優しく撫でた。
「俺はお前のカラダには興味はない。お前自体に、興味はない。他の男とセックスしようが、何しようが、構わない」
「なに……それ……」
そして、乱暴に掴んだ。
「ただ、俺に服従しろ。俺の命令は絶対だ」
社長は、冷たく、まるでその女を、ゴミか何かのように、粗雑に扱った。さて、泣くか、詫びるか、すり寄るか。佐伯麗子は、どうするかな。

 しかし、麗子は、今までの『候補者』とは違っていた。
「ふざけんな! てめえ、何様だよ!」
社長の手を払いのけ、ツバを吐きかけた。こんな、こんな女……初めて見た……僕は、正直、焦った。こんな展開は、予想できていなかった。
「社長、もう、この女は……」
社長は、僕の差し出したハンカチで、胸元にかかった、汚らわしいツバを拭い、笑い出した。
「申し訳ありません」
僕の言葉に、社長はふっと笑い、麗子に向き、優しく言った。
「手荒な真似をして、悪かった。もういいよ。村井、送って差し上げろ」
「はい、社長」
「これは、車代だ」
財布から三万を出し、麗子の痩せた胸元にねじ込んで、席を立った。社長は少し俯いて、麗子の横を通り過ぎようとした。

「……ねえ、あんたさ」
「何だ」
「カノジョ、いないの?」
「残念ながら」
「どうして? そんなにイケてんのに、モテんでしょ?」
「女は、仕事の邪魔でしかない」
麗子は社長の顔をじっと見て、言った。
「タイプ、なんだよね」
「それはどうも」
「……いいよ、契約、してあげる」
そう言って、麗子はソファに座って、札束を六つ、カバンに入れた。
「賢明な判断だ。後のことは、村井に聞け。村井の命令は、俺の命令だ。いいな?」
「わかった」
社長は、僕に頷いて、部屋を出て行った。
「村井祐輔と申します。何かあれば、私になんなりと」


 さて。どうしたものか。自分で連れてきたものの、こんなに粗雑な女、どうしろっていうんだ。
「で、何をすればいいの?」
「まずは、言葉使いですね。それから、マナー、ファッション……その前に、その髪とメイク、どうにかしましょうか」
僕は麗子を車に乗せ、社長行きつけのヘアサロンへ向かった。
「ねえ、何が目的なわけ?」
「社長は、あの通り、仕事しか興味のない方なんです。でも、社交界では、やはりパートナーがいた方が、見栄えがする。今の時代、ビジネスとプライベートは、両立することが必須要件ですから」
「ふうん。それで、嫁さんを買いに来たってわけ」
「そうですね」
「あの人、何歳?」
「三十二です」
「へえ、三十二で、こんな大きな会社の社長なんだ。あ、二代目とか?」
「この会社は、社長が学生時代に起業したんです。……社長のこと、ご存知ないようですね」
「知らない」
知らない……まあ、その方が、都合がいいかもしれないな。

 野間直輝。ビジネス誌やサイトを見ていれば、どこかに必ず出ている。学生時代にIT企業を立ち上げたが、時代はもうITではなくなっていた。ITに固執する企業に見切りをつけ、人材ビジネスにいち早く切り替えた彼は、『ITオタク』を寄せ集め、『プロフェッショナル』を売る。それが彼の、ビジネス。不況の時代に売れるもの、それは、情報と人間。野間直輝は、社会の片隅で蹲っていた人間達を、仕入れ値ゼロで、高値で売りさばいた。今では、誰もが知る、いや、知らない人間が僕の後ろでタバコを吸っているけど、まあ、だいたいのビジネスマンなら知っている会社に、瞬く間に成長させた。
 
 サロンの店長に、十八時に迎えに来ると伝え、僕は近くの、もちろん、禁煙の、カフェに入った。今時、禁煙でない店があるなど、僕には信じられないが、そういう場所にこそ、僕の求める『人材』はいる。さて、あの女のリサーチでもしておこうか。
 
 佐伯麗子。意外にも、麗子は四大卒の、普通の家庭で育った女だった。さらに意外なのは、二年前まで、大手航空会社のCAだったことだ。それがなぜ、あんな場末のキャバクラで、しかも二十八にもなって、安ホステスをしているんだろう。まあ、下手な男にでも騙されて、結婚しようとして退職したけど、結局捨てられた、とか、そんなところかもしれない。よくある話だ。二年前はCAだったかもしれないが、今は下品と書いたタスキを肩から掛けた、薄汚れた女でしかない。金でどうにでもなる、薄汚い、女でしかない。僕の、最も軽蔑する、底辺の人種でしかない。

 気が付くと、十七時五十分になっていた。僕としたことが。時間に遅れるなど、絶対に許せない。僕は急いでカフェを出て、麗子を迎えにサロンへ向かった。

「あら、村井さん」
麗子はとうに施術が終わっていたらしい。鏡の前には、違う客が並んでいた。時間は十七時五十八分。よかった。間に合った。
「麗子さん、奥にいますよ。どう? 結構イメチェン、したと思うんだけど」
店長はそう言って、奥にいる、麗子らしき女を指した。麗子らしき女は、随分変わっていたが、まぎれもなく、麗子だった。
「おっそ」
「遅刻はしていませんよ」
麗子の髪は短くなっていて、下品なメイクは薄くなっていて、錆びたような茶髪は、上品なダークブラウンに染められていて、剥げかけた赤い爪はパールピンクに光っている。普通。麗子は、『普通』の女になっていた。
「なんか言えよ」
ふむ。こういう場合、なんて言えばいいのだろう。確か……
「お似合いです」
「てめえは、店員か!」
麗子は笑って立ち上がった。ここに来た時は全く違和感のなかった下品な紫のスーツが、どうも似合わなくなっている。
「ねえ、必要なもんは買っていいんだよね?」
「ええ」
「じゃ、服、買いに行こうよ」
「わ、私と、ですか?」
「誰が支払いすんだよ」
「わかりました」
とはいえ、女性の服など、どこで買えばいいのやら。

 僕は、とりあえず麗子についていくことにした。
「ねえ、あの人の、タイプって?」
「タイプ、ですか?」
「そう、どんな感じの女が好きなわけ?」
どんな……どんな女が……?
「あの人に似合う女にならなきゃいけないんでしょ?」
「はあ……」
はっきり言って、わからない。社長は、どんな女が好きなんだろう。
「真面目そうな方が……いいのではないかと……」
「なるほどね」
麗子はそう言って、店員に、真面目そうに見える服を五着ほど用意しろ、と言った。
ふむ。女性はそうやって服を買うのか。実は、僕は女性と交際をしたことがない。なので、こうやって女性と買い物をするのも初めてだし、
「ね、どう? 似合う?」
こんな風に、フィッティングルームから笑顔で聞かれたこともない。
「よく、お似合いです」
結局その店で、五着ほどの服を購入し、他の店で靴や鞄を購入した。その度に、麗子は鏡の前に立ち、僕に、似合う? と聞き、その度に、僕は、よくお似合いです、と答えた。
「あー、こんなに買い物したの、はじめて!」
紺色のスーツと、黒いハイヒールに着替えた麗子は、後部座席でタバコを吸っている。
「もう、よろしいですか?」
「うん、今日は、もういい」
今日は……まあ、いいか。
「ねえ、荷物、取りに行きたいんだけど」
「どちらへ?」
「家に決まってんじゃん」

 麗子の家は、駅から少し離れた古い、ワンルームのアパートだった。どうせ荒んだ生活をしているんだろうと思っていたが、中はすっかり片付いていて、数時間前の麗子のイメージとは、全く違っていた。
 ふむ。女性の部屋とは、こういうものなのか。当然、女性の部屋に入ったのも、初めてで、なんとなく部屋に漂う、甘い香りが、僕の鼻をついた。
 麗子は下着や部屋着や化粧品を紙袋に詰め込み、お待たせ、と言った。
「他の荷物は?」
「もういいの。この部屋、引き払うんでしょ? ついでに、全部処分してよ」
そう言って、麗子は、僕に部屋の鍵を渡した。先に外に出ようとする麗子に、ふと目に入った、手帳らしきものを見せた。
「これは? よろしいんですか?」
なぜ、それが目に入ったのか、気になったのか、わからない。麗子は、それをじっと見て、捨てて、と言った。そのまま、麗子は外に出て、鉄骨階段を降りる音が、カンカンと響いた。
 僕はその手帳らしきものを、丸めたティッシュとレシートが少しだけ入ったゴミ箱に入れようと思ったが、やはりなぜか、気になって、ブリーフケースに入れた。ああ、処分業者を手配せねば。僕は手帳を広げ、間取りと、もうすぐゴミになる荷物をチェックすることにした。そして、同時に、この部屋に入った瞬間に感じた違和感の原因を突き止めた。
 ない。この部屋には、テレビも、パソコンも、ラジオも、電話も、ない。そう、この部屋には、通信機器、と呼ばれるものが一切ない。あるのは、最低限の家具と、食器と、日用品。造り付けのクロゼットの中にも、下品な仕事用のスーツが数着あるだけで、ガラガラに空いている。
「早く来いよ! 寒いんだけど!」
外から麗子の声が聞こえた。確かに、寒い。玄関を出て、鍵を閉めて、僕も階段を降りた。吐く息が白く染まり、空にはオリオン座が光っている。季節が流れて、夏になる頃には、佐伯麗子は、野間麗子になる。ふむ。結婚か……社長も、結婚するのか……
「麗子さん、携帯をお渡しいただけますか」
「そんなもん、持ってないよ」
「新しいものを用意しますから、安心してください」
「だから、持ってないって」
驚くべきことに、麗子は本当に、携帯を持っていなかった。この時代に、そんな人間が生息したのか。
「では、明日、新しいものをお届けします」
「いらない」
「連絡ツールとして、必要ですので」
麗子はもう何も答えず、窓を少し開けて、タバコを吸い始めた。つい半日前まで、あんなに下品だった女は、今はもう、二十八歳の、普通の女性に……戻っていた。

崇高な恋人

 麗子を用意していたマンションへ送り届け、本日の業務終了。さて、僕も、帰るとするか。

「帰ってたんだ」
「ああ」
「送ってきたよ、彼女」
「そう、ご苦労さん」
僕は彼の隣に座って、今日購入した、真面目そうに見える服、などの領収書を並べた。
「まだ、買う気だよ」
「いいじゃないか、別に」
「経費にする?」
「任せる」
彼はそう言って、僕の肩を抱いて……キスをした。
「初めて合格したな」
初めてだった。今まで、何人も候補者はいたけど、あの『テスト』に合格したのは、佐伯麗子が初めてだった。
「おもしろい子だ」
彼は、何か思い出したのか、ふふっと笑った。彼がそんな風に笑うなんて、滅多にない。僕は……嫉妬していた。
「風呂、入ってくる」

 僕達は、社長と秘書の関係で、大学の先輩と後輩の関係で、一緒に起業し『大人社会』と闘ってきた同志。
 そして、僕達は、愛し合っている。僕は、彼を愛している。彼も、僕を愛している。でも、それは、許されない。決して、知られては、ならない。僕達の本当の関係は、知られてはならない。世界に羽ばたく『社長 野間直輝』は、スタイリッシュで、ハンサムで、スマートなビジネスマンでなくてはならない。センスのいい、上品で、華やかな美人と並ばなくてはならない。
 風呂場の鏡に映る僕は、紛れもなく男で、ひどく痩せていて、胸も尻も、丸くない。足の付け根には、女にはないものが、ついている。僕が女なら。いや、僕が女だったら……僕は彼に愛されなかった。僕も、彼を愛さなかった。僕達は、男だから、愛し合う運命だった。

「気に入らないのか?」
ベッドの中で、直輝が心配そうに、僕の目を覗いた。
「別に」
「お前のテストに合格したじゃないか」
そう。あれは、僕が作成した、テスト。一言一句、僕の書いた、シナリオ。
「……髪型がかわって、随分、マシになったよ、彼女」
「そうか」
「会いたい?」
直輝は、答えなかった。その代わりに、優しいキスをくれた。
「祐輔、だけだよ」
僕は、その彼の言葉を、信じることにした。そうだよね、僕達には、女なんて、存在しないよね。あんな薄汚れた女、ただの、飾りだよね。

 翌朝、麗子のマンションへ行くと、彼女は素顔で僕を出迎えた。化粧をしていない彼女は、本当に、普通、だった。
「おはようございます」
「おはよう」
麗子は笑顔で、コーヒーを淹れてくれた。
「で、今日から何をするの?」
僕は、英会話やお稽古のカリキュラムを広げた。麗子はそれを見て、アメリカ人とフランス人とつきあっていたことがあって、英語とフランス語は話せるから、やらなくていいか、と言った。もちろん、多分それは、麗子の悪ぶりで、CAだから、当然至極、話せるんだろう。他のお稽古も、CAだった彼女には、無用のものに思われた。しかし、僕はあえて、彼女の過去に触れなかった。彼女の過去を認めてしまうと、結婚の時期が早まってしまう。だから僕は、彼女の過去を、直輝にも、報告していなかった。僕は初めて、直輝に、隠し事をした。
「ビジネス英語ができないと困りますので、レッスンは受けてください」
僕はわざと、彼女のハードルを、高く、遠く、設定した。

 薄々予想はしていたが、カリキュラムをこなす麗子は一生懸命で、真面目で、優秀だった。予定より彼女は早く、『理想の妻』に近づき始め、しかも、彼女は、どんどん……愛らしくなっていく。明るくて、無邪気で、素直で、彼女はどこに行っても、人を惹きつける何かを持っていた。僕にも、彼女は屈託なく、その笑顔を見せた。そして、僕の顔を見るたびに、無邪気に、僕に聞いた。いつになったら、あの人に会えるのか、と。

 ふむ。そろそろ、社交界デビューさせてもいいかもしれないな。あの様子なら、彼の恋人として、世に出しても、問題ないだろう。もうすっかり、野間直輝に似合う女になった。
「来週、パーティがありますので、社長に同伴していただきます」
「えっ? 本当? やっと? やっとあの人に会えるのね?」
麗子は嬉しそうに笑って、僕に、抱きついた。
「ちょ、ちょっと、麗子さん……」
「嬉しいの! ね、何を着ればいい?」
ふむ。女というのは、わからないものだ。髪型と化粧と、着ている物が変わっただけで、中身まで変わってしまうものか。
「イブニングパーティですから、少し、華やかなものを」
「華やかな、ね」
季節は、桜が散って、夏に移ろうとしていた。佐伯麗子は、僕が思っていた以上に、野間直輝の妻に、相応しくなっていた。

 パーティの夜、僕は直輝を後部座席に乗せて、ヘアサロンへ麗子を迎えに行った。サロンには、麗子がヘアセットを終えて、紅茶を飲みながら、僕達を、いや、野間直輝を、待っていた。
「おっそ」
嬉しそうに笑う麗子は、黒いホルターネックのドレスで、僕達の前に立ち、くるり、と回って見せた。
「どう? 似合う?」
それは、明らかに、僕ではなく、後ろに立つ、『恋人』に言った。直輝は、麗子をじっと見て、微笑んで、
「綺麗だよ」
と言い、行こうか、と麗子の手を取り、二人は腕を組んで、僕の前を通り過ぎた。僕のことを、少しも見ることなく、直輝は、笑いながら、麗子と言葉を交わしながら、僕の前を、通り過ぎた。
「村井、何してるんだ」
立ちすくむ僕に、ドアから、直輝が言った。
「はい、ただいま」
 ハンドルを握る手が、震えている。後部座席では、二人が楽しそうに言葉を交わしている。まるで……恋人同士のように……僕には、許されない。僕には、できない。本当の恋人の僕には、許されないのに、たった、半年前に、一度会っただけの女が、金で買っただけの薄汚い女が、まるで、本当の恋人同士のように、楽しそうに、笑っている。

 パーティの間も、ずっと麗子は直輝の隣にいて、直輝は麗子を恋人だと、紹介した。きっと、誰も疑わない。誰が見ても、直輝と麗子は、恋人同士だった。
 告白すると、僕は、わざと、下品な女を選んでいた。野間直輝の妻になど、到底なれないような、最低な、下品な女を選んでいた。そうすることで、僕は任務を果たしながら、直輝を独占することに、成功していた。佐伯麗子を選んだのも、そんな理由だった。残念ながら、優秀な僕は、やっと、そのミッションに成功してしまった。

 パーティが終わり、直輝は仕事があるから、オフィスへ戻ると言い、先に車を降りた。麗子は少し寂しそうな顔をして、彼を見送った。直輝が降りると、さっきまで饒舌だった麗子は、急に黙ってしまった。
「お疲れになりましたか?」
「ううん」
その声に、ふとバックミラーで後部座席を見ると、横顔の麗子の頬には……涙が流れていた。
「大丈夫、ですか?」
「あれ? 酔ったのかな……」
慌てて彼女は涙を拭い、また、饒舌に話し出した。でも、彼女は、完全に上の空だった。ただ、声を発しているだけで、話す内容に、聞くべき内容は、全くなかった。もちろん、僕はどうすればいいのかわからなくて、上の空で、相槌をうっていた。

 麗子をマンションまで送り届け、直輝に電話をかけた。直輝はオフィスにいるから、迎えにきてくれと言った。

「楽しそうだったね」
助手席に座る直輝は、うとうとしていたようで、僕の声に、はっと顔を上げた。
「何が?」
「君も、麗子も」
「そのために金を払ってるんだろう」
「芝居って、こと?」
「当たり前だろ。お前がそうしろと言ったんじゃないか」
そうだった。これは、僕が書いたシナリオだった。でも、少なくとも、麗子は、そうじゃなかった。麗子は心から、君との時間を、楽しんでいた。
「……僕、だけ?」
「お前だけの、俺だよ」
直輝の手が、僕の太ももの間に入った。
「ダメだよ、誰かに見られたら、大変だよ」
「誰も見てないよ」
「ダメだって」
僕が直輝の手を離すと、直輝はちょっと拗ねた顔をした。
「早く、帰ろう」
 そして、僕達は、激しく愛し合う。人前で愛し合えない分、僕達は、深く、強く、二人の世界で、二人だけで愛し合う。だけど、僕は……麗子のあの横顔が、あの涙が、僕の頭から、離れなかった。わからない。なぜ、彼女が、泣いていたのか。どうして、泣いていたのか。僕は直輝の腕の中で、麗子のことを、考えていた。

 僕の、ハードル設定も、もう限界となり、夏が終わる頃、僕の恋人は、契約を成立させた。直輝はグレーのタキシードを着て、麗子は真っ白なウエディングドレスを着て、二人は、契約した。二人の新居に、都心のマンションを購入したが、そこには、麗子が一人でいた。直輝はずっと、僕の部屋で、過ごしていた。何も変わらない。直輝は、何も変わらず、僕を愛してくれて、僕も直輝を愛していた。
 でも、僕は……直輝の代わりに、麗子の部屋へ、通っていた。なぜなら、彼女は、ずっと、待っているから。

「こんばんは」
「……今日も、あんたなんだ」
「社長は、お忙しいんです」
ダイニングテーブルには、夕食が並んでいる。僕と麗子は、黙って向かい合って、夕食をとる。とりたてて、美味いわけでも、不味いわけでもない。その夕食は、麗子の手作りの、夕食。
「他に、いるんでしょ?」
「何がですか」
「直輝さん。女がいるんでしょ?」
女、はいない。
「いませんよ」
「ウソ」
「ウソではありません。社長は……」
「もういいよ!」
麗子はテーブルを叩いて立ち上がり、寝室へ駆け込んだ。ふむ。これは……
「麗子さん」
閉じたドアの向こうからは、返事はなかった。
「入りますよ」
麗子は、クイーンサイズの大きなベッドに、横たわって、うつ伏せで、泣いていた。
「バカだよね」
バカ……?
「マジになっちゃった」
「どういう、ことですか」
「契約なのにね」
「好きになった、ということですか」
麗子は、起き上がって、赤い目で僕を見た。あのパーティの帰りのように、麗子の頬に、涙が流れていた。
「あんた、彼女いるの?」
彼女、はいない。
「いません」
「あんたも、仕事命なんだ」
 何を言えばいいのだろう。どうやら、麗子は直輝を本当に好きになってしまい、他に女性がいるのではないかと疑い、嫉妬し、家に『帰って』こない彼を待って、寂しがっている。目の前のこの僕が、その『他の女』だと知ったら、彼女はどう思うのだろう。気持ち悪がるだろうか。そうだ、きっと、普通の女のように、僕達のことを、気持ち悪がって、バカにして、差別的な目で見るんだろう。
「社長に、お伝えしておきます」
僕は最善と思われる返答をして、寝室を出た。麗子は黙って僕の後を追い、リビングで僕に、抱きついた。
「抱いてよ」
「は?」
「他の男と寝てもいいんでしょう?」
「私と、セックスをしたいということですか」
 麗子は俯いて、ため息をついて、冗談、と呟いて、夕食の残りをゴミ箱に捨て、食器を洗い始めた。
「お望みであれば、男性をご用意いたしますよ」
「イケメンでお願いね」
「具体的なイメージをいただけますか。イケメン、だけでは、ご要望に沿えない可能性があります」
「冗談だって」
麗子は寂しげに笑って、もう帰って、と言った。

 どうしたものだろう。今まで、どんな問題でも、どんなトラブルでも、僕は解決してきた。だけど、こんな問題は、扱ったことがないし、マニュアルもセオリーも、わからない。
 ちょっと、整理してみよう。麗子は今、直輝のことを好きになっている。直輝はハンサムだし、優しいし、その逞しい体からは想像できないほど、抒情的。女性なら、好きになって当然だろう。だが、麗子はカリキュラム中から、直輝に会いたがっていた。そして、初めてパーティに出た夜、一人になって、泣いていた。応接室で、手荒な扱いを受けて、帰ると言ったのに、急に、やはり契約すると言った。あの時は、金が目的かと思ったが、違ったのかもしれない。
 ふむ。問題は、その辺りにありそうだ。僕はふと、麗子の部屋から引き上げてきた、あの手帳らしきものの存在を思い出した。結局広げることもなく、デスクに入れっぱなしになっている。

 オフィスに戻り、デスクから、それを出した。これはいったいなんなのか。レザーの表紙を開くと、中は手帳ではなく、アルバムだった。何枚かの写真があって、そこには、CAの制服を着た麗子が笑っている。そして隣には、パイロットの制服を着た男がいる。どうやら、この男は、麗子の恋人のようだ。そして、最後の写真を見て、僕は、はっとした。最後の写真だけ、その恋人らしき男は帽子をとっていて、顔がはっきり写っていた。
……似ている。その男は、直輝に、よく、似ている。写真の日付は、三年前。ふむ。そうか。振られたのか。振られて、ヤケになって、CAを辞めて、荒れた生活を初めて、でもこの恋人が忘れられなくて、顔の似ている直輝を好きになった。単純だ。くだらない。やはり女は、くだらない。
 僕は部下として、状況を正しく直輝に伝えることにした。

「めんどくさいな。だから女は嫌なんだよ」
僕は本当に面倒だった。でも、直輝は、その写真を見て、ため息をついた。そして、いつものように、ポケットからロザリオを取り出し、握りしめ、許したまえ、と呟く。
「どうすればいいのか……」
なぜ? なぜそんな風に、悲しそうな目をするんだ、君は。僕は苛立ちを隠せなくなった。
「……君が、抱いてやればいいんじゃないかな」
僕はまた、おかしなシナリオを書いている。
「祐輔?」
「それで、気が済むだろ、あの女も。どうせ、溜まってるだけさ」
直輝は僕の、下品な発言に、また悲しげな目をした。
「俺が、あの女とセックスをしてもいいっていうのか?」
「仕事だと思えばできるだろう」
「祐輔……なんてことを……」
「嫌なら、構わないよ。他の人間にやらせるから」
僕は、ビールを飲みながら、明日の予定をチェックした。
「明日は早く帰れるよね。仕事が終わったら、麗子の部屋へ行って。多分、夕食を作っているから、それを食べて、美味しいって言えばいいよ」
「そんなこと、彼女を傷つけるだけだ!」
「じゃあ、他の人間にさせるよ。その方が、傷つけることになると思うけど」
僕は、最善の解決方法を提案しているだけだ。僕は間違っていない。僕は正しいんだ。なのに君は……何を、迷うことがあるんだ。何を、悩んでいるんだ。僕の言うとおりにしておけば、何の問題もないんだ。君を導くのは、君を救うのは、そんな小さな鉄屑じゃなくって、僕なんだ。
「……わかった」
直輝は項垂れて、深くため息をついて、寝室へ行った。彼は、僕のシナリオに、疲れている。でも、彼は僕のシナリオを演じる。なぜなら、僕を愛しているから。君が一番大切なものは、そんな鉄屑でも、どこを探しても見つからない神様でも、ない。目の前にいる、この、僕、なんだから。

幻影

 インターホンが鳴って、カメラを覗くと、そこにいたのは、村井さんじゃなくて、直輝さんだった。
「お、おかえり、なさい」
すごく緊張して、彼のカバンを受け取る手が、少し震えた。
「ただいま」
そんな私に、彼は、いつもの通り、優しく微笑んで、カバンを差し出した。
「いい、匂いだね」
「あ、今日はね、ハンバーグなの」
 彼がこの部屋に来るのは、この部屋を契約した時以来で、もう、一ヶ月が経とうとしていた。

 私と彼は、初めてテーブルを囲んで、初めて、この部屋で、夕食を食べている。彼はずっと優しくて、左手の指輪を見て、私は安心していた。
「忙しいんだね」
「ああ」
「美味しい?」
「美味いよ」
「今夜は、ここにいるんだよね?」
「そうだな」

 食事を終えて、後片付けをして、お風呂を済ませて、寝室へ向かった。初めてだった。彼とベッドに入るのは、今夜が初めて。キスですら、結婚式の『儀式』でしただけ。新しい下着と、新しいパジャマ。きっと、素敵な夜になるよね。

 ドアを開けると、彼はベッドで本を読んでいた。
「何、読んでるの?」
「知り合いに買わされたんだよ」
彼は少し寂しげに笑って、本を閉じて、私をベッドに引き入れた。でも、身を寄せた私を、彼は離して、悲しげな目で見る。
「話がある」
「何?」
「この男は、誰だ?」
なぜか、彼の手には、あのアルバムがあった。
「どうして……こんなものがあるの?」
「村井が持ってきた」
捨てなかったんだ……捨ててって、言ったのに……
「誰か、と聞いている」
「昔の、恋人よ」
「忘れられないのか」
「……死んだの」
「なるほど」
「初めて会った日、出て行くあんたが……彼に見えた。あんたといるとね、彼が、生き返ったように思うの」
彼は少し俯いて、やっぱり悲しげな目をして、私を突き放す。
「妄想や幻覚は自由だが、俺はその男じゃない」
「わかってる」
「麗子、お前は村井に、俺のことが好きになった、と言ったそうだが、それは間違いだ」
「……どうして?」
「お前が好きなのはその死んだ男であって、俺ではない。お前はその男の幻影を、俺にうつしているだけだ」
それは、自分でもわかっている。私はまだ、彼の幻に、囚われている。
「抱かれたいか? その死んだ男とよく似た、生きている俺に」
なぜ、そんな言い方をするの? そんな言い方をされたら、こう言うしか、できないよ。
「……いいえ……」
「そうか。なら、もう寝る。俺は朝が早いんだ」
そう言って、彼は私に背中を向けた。広い背中。まるで、あの人の背中のように、広くて……あったかい……
「こうしてても、いい?」
「勝手にしろ」
私の体は、彼の背中で温められて、そこには、私の涙の跡。会いたい。会いたいの……どうやったら、会えるの? 教えて……ねえ、教えてよ……
「どうしたら、いいんだ」
彼の低い声が、背中から響いた。
「わかんないよ……」
一瞬、彼の背中が離れて、気がつくと、私は、彼の胸の中にいた。彼の、心臓の音が聞こえる。生きてるんだ。あんたは、生きてるんだよね……
「麗子、一つだけ、話しておく」
「……何?」
「俺は、お前を愛せない」
「そう……」
「俺には……大切な人間がいる」
心臓に、まるでナイフが突き刺さったように、ズキっと、痛んだ。
「そいつだけは、裏切れない」
「愛してるんだ、その人のこと」
「そうだな。愛してる」
なんだ……やっぱ、そんな人いるんじゃん。そうだよね……
「その人と、一緒になればいいのに」
「なれないんだ」
「どうして?」
彼はもう、答えなかった。答えずに、私を強く抱きしめて、耳元で、すまない、って言った。その声は、とっても辛そうで、悲しそうで、いつもの自信家の彼の声とは思えないくらい、弱々しかったから、私はもう、何も聞けなくなった。

 翌朝、目が覚めると、彼はもう、いなかった。テーブルには、書き置きがあって、几帳面な字で、今夜から夕食は作らなくていい、って、書いてあった。もう、帰ってこない。彼は、この部屋には帰ってこない。また私は、一人になってしまった。そうだよね、だって、契約なんだもんね。何、盛り上がってたんだろう。バカみたい、私。
 
 ……あの人が、帰ってくるはずなんてないのに……


***


 直輝が帰ってきたのは、朝の六時だった。
「おかえり」
「ごめん、起こしたか?」
「もう、起きる時間だから。コーヒーでも、淹れようか?」
「いや、車で缶コーヒー、飲んだんだ。眠かったから」
直輝はいつものように、優しく笑って、僕を抱きしめた。その体からは、この風呂場にはない、ボディソープの匂いがした。
「祐輔……ごめん」
どうしたんだろう。いつもの、直輝じゃないみたいだ。いつものように優しいけど、なんだか……
「どうかしたの?」
「抱けなかった」
「……そう」
「着替えてくる」
そう言って、彼は部屋へ着替えに行った。

 告白すると、僕は、一睡もしていない。寝ずに待っていた、というより、眠れなかった。もちろん、毎晩、彼は僕の隣で眠っているわけじゃない。仕事でいない時もあるし、ゴルフや旅行の時もあるし、……誰かと、一緒の時もある。

 野間直輝は、俳優並みのルックスで、オシャレで、プレイボーイの、青年実業家。ビジネス誌だけではなく、ファッション誌や、トレンド誌、テレビやラジオにも、彼は華やかに登場する。そして、有名な女優だとか、高級クラブのホステスだとか、金と名声にしか興味がないような、くだらない女と、浮名を流し、その『セレブリティライフ』をアピールする。そんな野間直輝が、一般の、特に美人でも、ブスでも、派手でも、地味でもない、ごく普通の女と、結婚する。彼は、『普通の女』を妻にして、大人で、誠実なイメージを確立させた。そう、それは、全てシナリオ。シナリオ通りに、彼は『野間直輝』という男を作り上げている。そして、そのシナリオを書いているのは、この僕。僕は、直輝のために、この、俗的な、シナリオを、ずっと書いている。

「やっぱり、コーヒー飲もうかな」
新しいシャツに着替えた直輝は、ソファに座って、大きな欠伸をした。背中が、広い。僕は体質か、痩せていて、彼の逞しい体が羨ましい。
 マグカップで、コーヒーを二杯淹れる。僕はもしかしたら、もうこうやって、コーヒーを二杯淹れることはないんじゃないか、と思っていた。もう、直輝は、この部屋に帰ってこないんじゃないかって、一晩中、泣いていた。
「お待たせ」
「ありがとう」
彼はコーヒーを一口飲んで、美味しい、と言ってくれた。
「泣いてたのか?」
「……うん」
「バカだな」
また、僕の目から、涙が流れ始めた。グレーのスエットが、少し濃いグレーに染まっていく。僕は自分の勝手なシナリオに、勝手に巻き込まれていた。
「もう、帰ってこないんじゃないかって……」
「そんなわけ、ないだろ」
直輝は微笑んで、僕を抱き寄せて、キスをした。
「俺には、祐輔しかいない」
「もう、あの女の部屋にいかないで」
「そのつもりだよ」
「僕のそばにいて」
「いるよ」
「僕だけの、直輝でいて」
「お前だけの、俺だよ」
僕は、直輝の腕の中で、もう絶対に、直輝を離さないって、決めた。もう、こんなシナリオを書くのは、やめよう。もう、こんなこと、やめよう。直輝を傷つけることは、もう、やめよう。

 でも、それは、遅すぎた。直輝と僕と、麗子の運命は、少しずつ、狂い始めていた。

追憶の恋

 部屋から出てきた麗子は、随分、やつれた感じに見えた。
「お体の具合でも?」
「ううん」
あれ以来、直輝はこの部屋には来ていない。他の誰かと、一緒にいることもない。直輝は、完全に、僕だけの直輝だった。

 後部座席に乗る麗子は、もうタバコもいつの間にか止めたようだ。僕はタバコが苦手だ。あの煙は、とても俗的で、醜い臭いと色が、僕を侵食していくような気がする。

「言ってくれたんだね」
「何をですか」
「私のこと……」
「報告は、私の義務ですから」
「ご飯、もう作んなくていいって」
麗子は車の窓から流れる景色を、ぼんやり見ている。その目には、生きている人間とは思えないほど、光がない。
「大切な人が、いるんだって。その人のことは、絶対裏切れないんだって」
麗子の目に、光の代わりに、涙が溜まり始めた。
「写真、見たんでしょ?」
「ええ」
「元カレなの」
「そうですか」
「直輝さんから、聞いた?」
「いいえ」
「そう。別に、話題にする価値もない話だもんね」
麗子はグズグズと鼻を啜りながら、淡々と話していく。
「この話、していい?」
「どうぞ」
「彼ね、パイロットだったの。子供の頃からパイロットに憧れて、頑張って夢を叶えて……彼は飛行機に乗るためだけに生きてるような人だった。私は新米のCAで……彼と出会って、すぐに好きなったわ。真面目で、誠実で、イケメンで。私、彼と少しでも一緒にいたくて、認めてほしくて、一生懸命勉強して……やっと想いが通じて、私達は恋人同志になったの。フライトが一緒の時は、いろんな国の、いろんな所に二人で行ったわ。一緒に暮らし始めて、幸せだった。本当に、幸せだった」
麗子は一気にそこまで話すと、黙り込んだ。
「どうして、別れたんですか?」
「事故にあったの」
「事故?」
「乱気流に巻き込まれてね、取り乱した乗客を落ち着かせようとして……機体が揺れた拍子に、シートの肘掛に……目をね……」
「ケガを、されたんですか」
「失明は免れたけど、もう、飛行機には乗れなくなった。しばらくはね、パイロットの教官をしてたんだけど……彼は、飛べない自分が許せなくて……」
「許せなくて?」
「寒い日だったわ。二人でよく、飛行機を見に行ってた場所にね、彼は眠ってた。足元には睡眠薬が散らばってて……彼がドアを出る前に、彼ね、今日のフライトは何便かって聞いたの。そんなこと、聞いたことなかったのに……きっと、その飛行機を、あの場所に見に行ったのよ。見に行って、薬を飲んだ……あの時、私がもっと、ちゃんと彼を見ていれば……彼の言葉を、ちゃんと聞いていれば……」
「亡くなったんですか」
「凍死だった」
麗子はそう言うと、俯いて、肩を震わせた。
「私が殺したの……」
「違いますよ」
慰めとか、同情とか、そんなつもりはない。ただ、その彼が死んだのは、麗子のせいではない、と僕は言いたかった。
「似てるの」
「そのようですね」
「でも、彼は、彼じゃなかった。あの人は死んでいて、あの人は生きている」
麗子は哲学的な発言をして、バックミラー越しに、僕の目を見た。
「やっぱり、好きなの」
「……社長を、ですか」
「直輝さんは、私が好きなのは、その死んだ彼で、直輝さんには、その幻をうつしてるだけだって……」

 僕にとって、麗子は敵でしかない。本来なら、麗子よりも僕が選ばれたことを、喜ばなければならない。でもなぜか、できない。なぜなら、僕も、直輝を愛しているから。
 誰にも明かせない、知られてはならない、永遠に結ばれない恋に、僕はずっと、苦しんできた。直輝は僕を愛している。でも、それは秘密でなければならない。
 麗子は女であり、法的な妻であり、彼らは愛し合っていなければならない。麗子は直輝を愛している。直輝は麗子を愛していない。
 僕達は正反対だけど、同じ人を愛した、同志。麗子の痛みが、僕の痛みのように、僕の胸を締め付けていた。

「私でよろしければ、いつでもお話を伺いますよ」
これが、その時考えついた、最善の言葉だった。
「ありがとう。優しいんだね」
そのまま、会話は途切れて、パーティ会場へ着いた。
「社長は、ロビーでお待ちです」
「うん……帰りも、迎えに来てくれるの?」
「はい」
それは、直輝とは、一緒には帰らないということ。麗子は寂しげに頷いて、一人、ホテルの中へ消えて行った。

 僕が初めて、恋をしたのは小学校五年の時。相手は、クラスメイトの男の子だった。その頃の僕は、同性を好きになることが、おかしいとか、変だとか、全く知らなかった。だから、僕は素直に彼に気持ちを伝えた。でも、彼は、眉を顰め、僕の手を振り払い、キモい、と言った。その時、僕は、同性に恋をすることは、キモいのだと、学習した。
 しかし、僕は、同性にしか、恋をできなかった。僕が『キモい』人間であることは、すぐに広まり、徐々に僕は、友達もいなくなり、自分の部屋に篭るようになり、パソコンの画面の向こう側にいる彼らとしか、話さなくなった。
 高校一年だったか、僕は、初めてセックスをする。パソコンの向こう側の男と、その夜初めて会った男と、ハンドルネームしか知らない男と、セックスをした。そのセックスは、思い描いていた崇高な行為ではなく、痛みと苦痛しか感じない、ただの、セックスだった。でも、僕は、同じ彼らと離れたくなくて、その後も、ただのセックスをしていた。同じ彼らの中でしか僕の存在はなく、ただのセックスが僕を存在させていた。
 そんな僕が、直輝と出会う。直輝はいつも、図書館で本を読んでいた。哲学書や伝統的な小説、神話、聖書。彼は、クリスチャンで、同性愛者ではなかった。その本を読む姿がとても崇高で、僕は直輝に恋をする。人生で二度目の、告白をする。直輝は優しく微笑んで、君の孤独を埋められるなら、俺は幸せだ、と言った。『同じ彼ら』とは全く違う優しさで、僕を受け入れてくれた。
 そうだ。僕は、麗子なんかよりも、ずっと、ずっと彼を愛している。僕達は、強くて、美しい、崇高な絆で結ばれている。僕達の絆は、麗子のような女には、到底理解できないだろうし、切ることもできない。誰にも、僕達の絆は、切ることはできない。麗子になど、『同情』する必要も、義務も、僕にはないんだ。僕としたことが、あんな女に、金で買っただけの女に。


***


「お待たせ」
彼に会うのは、二週間ぶりだった。彼は私の顔を見て、少し痩せたのか、と言った。やっぱり、彼は優しい。そして、あの夜、私が聞いた弱々しい声はどこにもなくて、いつもの、自信に溢れた、逞しい、『夫』だった。
 
 私達は腕を組んで、色んな人に挨拶をして、少しお酒を飲んで、一時間ほどして、彼は仕事があるから会社へ戻ると言った。
「私も、行く」
ワガママを言ってみる。彼は優しく、私の髪を撫でて、そんなこと言うなよ、と、まるで子供を諭すように、優しく、優しく、微笑んだ。

 フロントで彼を見送り、私はサロンで村井さんを待つことにした。約束の時間まで後一時間。何をするでもなく、ぼんやり、サロンに一人座って、コーヒーを飲んだ。
「失礼ですが」
知らない男の人が、私に声をかけた。
「野間社長の、奥様ですよね?」
「ええ、そうです」
「お一人ですか?」
「主人は仕事で、先に失礼させていただきました」
「そうですか。ああ、申し遅れました。私はニュースタイムズの関口と申します」
関口という彼は、名刺を出して、座ってもいいか、と聞いた。私はどうぞ、と言い、彼は、私の前に座って、ウエイターにコーヒーを注文した。
「記者さん、ですか?」
「ライターといったところでしょうか」
どう違うのかはわからないけど、それ以上この話題は面倒なので、私は、そうですか、と言った。
 関口さんは、年は三十くらい。このホテルにはあまり似合わない、紺色のマウンテンコートに、カーキのチノパン。手には大きなカメラを持っていて……自由人な感じがする。
「野間社長とは、古い付き合いでして」
「そうなんですか」
「結婚されるような恋人がいるなんて、全くわからなかったなあ」
関口さんは、ジロジロと私を見て、運ばれて来たコーヒーをずずっと啜った。
「ところで、村井さん、ご存知ですよね」
「ええ」
「村井さんと野間社長の関係、ご存知ですか?」
「大学の先輩後輩だと聞いていますけど」
「それだけ?」
「何が、おっしゃりたいのかしら」
「あなた、いつ社長とお知り合いになったんですか?」
私はもう、答える気がしなくて、失礼、と席を立とうとした。
「いいこと、教えてあげましょうか」
「結構です」
「あなた、金で雇われた、フェイクなんでしょう?」
心臓が、早く、強く打ち始めて、私の手は、ガタガタと震え始めた。
「失礼な方ね」
「その様子だと、ビンゴってとこですね」
「お話しすることはありません」
「……知りたくないですか? なぜ、野間社長が、家に帰ってこないのか」
「主人は多忙なんです」
「どこに泊まっているのか」
「会社で契約したマンションがありますから、そこで……」
関口さんは、私の後ろを見て、舌打ちをした。
「また君か」
後ろに立っていたのは、村井さんだった。
「どうも」
「取材は、私を通してもらわないとね」
「取材じゃありませんよ。奥様がお一人で寂しそうだったから、お茶のお相手をしていただけです。では、奥様、失礼します。コーヒー、ご馳走さまでした」
関口さんは、ニヤニヤと笑いながら、席を立ち、ホテルを出て行った。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「何を、聞かれましたか」
「……何も。世間話」
なぜか、本当のことは言えなかった。
「麗子さん、あなたはもう、一般人ではありません。あのような薄汚い人間が近づいてきますから、軽々しく口をきいたりしてはいけません」
「わかった」
「それに、あのような部類の人間は、あなたの心を操って、お金に代わるような情報を集めようとしてきます。惑わされてはダメです。いいですね」
「……うん」
「では、行きましょうか」
村井さんは私のバッグを持って、歩き出して、私達は無言のまま、マンションに着いた。

「では、おつかれさまでした」
「ねえ、これから仕事なの?」
「いえ、違います」
「なら、ちょっと上がって行ってよ……一人になるのが、不安なの」
それは、正直な気持ちだった。ああいうの、パパラッチっていうんだよね。まさか私が、あんなのに追いかけられるなんて……
「構いませんよ。車を停めてきますから、先に部屋へ行っててください」
私は車を降りて、一人で部屋へ向かった。エントランスにはちゃんとセキュリティがあって、コンシェルジュもいるのに、私はとても不安で、エレベーターに乗れなくて、村井さんを待つことにした。

「先に行っててくださいと言いましたよね?」
村井さんは、少しイライラして、私を見た。
「怖いの」
「慣れてください。相手にしないのが一番です」
エレベーターが来て、私達は二人だけでエレベーターに乗った。私は本当に怖くて、俯いて身を固くしていたら、冷たい手が、私の手を握った。
「大丈夫ですから」
その手はまるで女の人のように細くて、繊細で、柔らかい。
「うん」

 この部屋は冷え切っていて、すごく寒い。私はほとんど一日中、この寝室で過ごしている。リビングもキッチンも、他の部屋も使わない。私は一人で大きなベッドで目を覚まし、適当な物をベッドで食べて、一人でベッドで眠る。テレビも、パソコンも、スマホも、何も見ない。これからも、私はただ、起きて、食べて、寝て、時々着飾って、つかの間の夫との時間を過ごす。一言も、誰とも交わさない日もある。
 私は多分、こうやって、時間を過ごして、きっと、そのうち、あの人のところにいく。今に始まった生活じゃない。あの人が消えてしまってから、私は、その時のために、ただ、時間をすごしている。前の小さな部屋でも、私は、毎晩、どこかの男の人とバカ騒ぎをして、お酒を飲んで、時々ベッドを共にして、明日の朝は、もう目が覚めませんように、と祈って、眠りについた。
 でも、毎朝、目が覚める。たった一人の朝を、毎日、迎えている。

 着替えようとしたけど、背中のファスナーが噛んでしまったらしく、どうしても下がらない。
「村井さん、ファスナーが下りないの」
村井さんは、失礼しますと言って、寝室へ入ってきた。彼は一生懸命ファスナーを直そうとしてくれたけど、どうやら、不器用らしく、なかなか直らない。
「難しい……ですね」
「不器用なんだ」
「慣れていないだけです」
「なんか、意外」
私はちょっと笑ってしまって、村井さんはむっとした様子で、深呼吸をして、もう一度ファスナーに挑み始めた。
「布地を外しながら、強めに下ろして」
「わかってますよ」
珍しく悪戦苦闘している村井さんが人間ぽくて、私は少し……。
「やっと外れた……」
私はそのまま、ドレスを床に落として、村井さんの胸にうずくまった。
「麗子さん?」
「寒い」
「そんな格好だからですよ。何か着ないと」
「あっためて」
村井さんは、やっと意味がわかったらしく、私の背中に、そっと腕を回した。エレベーターで冷たかった手は、すっかり熱くなっていて、素肌の背中には、スーツの袖のボタンが、少し冷たい。
「寂しい」
「そうですか」
「ずっと、一人でいるの」
「習い事でもしますか? 手配しますよ」
「一緒にいて……朝まで……」
 ほっぺたが、震えた。胸ポケットで、携帯が鳴っている。村井さんは、失礼、と言って、部屋を出て行った。ドアの向こうから、今、麗子さんの部屋です、と話す声が聞こえる。きっと、相手はあの人。この人の電話には、あの人から電話がかかってくる。当たり前よね。上司と部下なんだもん。
 パーティで飲んだお酒が今頃回ってきて、目眩がする。私は、朝脱いだパジャマを着て、そのままベッドへ入った。ベッドは冷たくて、私の体温を奪っていく。寒い。寒くて、眠れない。ねえ、あなたも、寒かったよね。あの夜はとても寒かった。あなたは、あの寒空の下、どうやって眠ったの? このまま眠ったら、あなたのところにいける? ねえ、教えて。いつになったら、私はあなたのところにいけるの?
「麗子さん」
ドアの外から、村井さんの声がした。
「もう、寝るから」
「そうですか。では、失礼します」
村井さんは、ドアを開けることなくそう言って、しばらくして、ドアのロックの音が聞こえた。
 私は、泣くでもなく、笑うでもなく、ただ、ベッドの中で、目を閉じた。きっと、また、朝が来る。また、一人の、朝が来て、何かを食べて、夜が来て、眠る。一人で、たった一人で。
 
 夢を、見た。あの人が、帰ってくる夢。寝室のドアを開けて、玄関に行ったら、あの人が立っていて、笑っている。おかえりなさい、って言うと、彼は優しく、私を抱きしめて……あったかい……ねえ、もう覚めないで。このままずっと、夢の中にいさせて。お願い。このまま、永遠に、夢の中で……
「透……」
名前を呼ぶと、彼は私の涙を拭ってくれた。その手はあったかくて、大きくて、ちょっと固くて、頬を覆うその掌は、まるで、本物みたい。もしかしたら、私は本当に、あの人のところにいったのかもしれない。これは夢じゃなくて、本当に……目を開けたら、ここはもう、あの一人きりの部屋じゃないのかもしれない。だって、あんなに寒かったんだもん。きっと、あの人みたいに、私の体は氷になって、彼と同じ氷になって、きっとそうだ。私はもう、死んでるんだ。やっと、あの人のところに……
「会いたかった」
ゆっくり目を開くと、涙でぼやけたその向こうには、彼がいた。やっぱり、私は、本当に、彼のところに来たんだ。

 でもそこは、あのベッドの中で、あの部屋だった。カーテンの向こうから、明るい光が差している。
「怖い夢を見たのか?」
「……直輝さん?」
「おはよう、麗子」
彼は私のおでこにそっとキスをして、涙を拭った。その指には、昨夜のマスカラとアイラインが、黒く落ちていた。
「どうして?」
「今日は休みなんだ」
「一緒に、いてくれるの?」
「どこかに出掛けてもいいし、家でゆっくりしてもいいよ」
「うん……もう少し、こうしてたい」
「メイク、そのままだな」
「昨日、疲れちゃって、そのまま眠っちゃったの」
「変な男がいたらしいな。怖い思いをさせて、悪かった」
「大丈夫……」
私の言葉は、彼の唇で途切れてしまった。どうしよう。昨日、ハミガキもしてない。お風呂も入ってない。髪も、体も……臭くないかな……
「お風呂、入ってないの」
「そうだな」
彼はそう言って、私の首筋に唇を這わして、私のパジャマのボタンを外していく。
「ダメ……お風呂、入んないと……」
「俺も、入ってない」
彼の固くて、重い体が、私に重なる。彼の髪からは、ヘアワックスの匂いがして、首筋からは、香水と、少し……男の人の匂いがする。
「大切な人がいるって……」
「もう、いいんだ」
私を、選んでくれたの? 直輝さん……私を?
「もう寂しい思いはさせないよ」
「一人は、嫌なの」
「ああ、わかってる」
「どこにも、いかないよね?」
「いかないよ」
「……消えないよね?」
「俺は、そんなに弱くない」
いつの間にか素肌の私達は、いつの間にか一つに繋がって、私達を知る。そして、熱くなった私に、彼は熱い吐息で、囁いた。
「麗子……家族が欲しいんだ」
「赤ちゃんって……こと?」
「お前と……俺の」
赤ちゃん……私と、彼の……家族。
「家族に……なりたい」
「う……ん」
「麗子……愛してるよ」
「私も……愛……してる」
彼の熱い愛が、私の中に流れる。私達が、愛し合った証。熱い……とっても熱い。体の中で、凍りついていた私の何かが、とけていく。
「ねえ、私達、本当の夫婦になったんだよね?」
「ああ」
嬉しい。でも、どうして? ああ、村井さんが話してくれたの? 私が昨日、あんなに落ち込んでたから? 同情? でも、同情で、赤ちゃん、なんて、言わないよね。まさかそんなわけ、ないよね。
「……ねえ、直輝って、呼んでもいい?」
「いいよ」
「でも、すぐに、パパ、ママって呼ぶようになるかも」
「そうだな」

 こんなの、もう、私にはあり得ないって、思ってた。あの人がいなくなって、私にはもう、誰かを愛することなんて、できないって……しちゃいけないって、思ってた。だって、また……気づかないかもしれないから。また、声を聞き逃すかもしれないから。
「死なないで」
「死なないよ」
「私より、長生きして。一日でも、一時間でも……一秒でも……」
直輝は頷いて、私を強く抱きしめた。痛いくらい、ぎゅっと、思い出の中のあの人みたいに、あの人とよく似た顔で……透……私、この人のところにいくね。あなたのこと、もう忘れるね。生きているこの人と……愛し合うね。
「これからは、できるだけ帰るから」
「ご飯、作ってもいい?」
「ああ」
「お料理教室、行こうかな」
「そう……だな」
「もう、それ、どういう意味?」
「そういう、意味」
私達は、二人で顔を見合わせて、素肌のまま抱き合って、クスクス笑った。こんな風に笑うの、もう、何年ぶりだろう。こんなにあったかい朝、何年ぶりだろう。

 ねえ、透。私ね、ママになるかも。もし、男の子が生まれたら、私……あなたのようなパイロットになってほしいな。あなたみたいな、優秀で、素晴らしい、パイロットに、ね。女の子なら、そうねえ、やっぱり、CA、かな。そして、きっと、あなたみたいな、素敵なパイロットと恋におちる。

「ねえ、おなか、すいちゃった」
「何か、食べに行こうか」

 透……さようなら。
 私、やっと、一人の朝から……抜け出せるって、その時は、信じてた。……信じていたのに。

ゴースト

 もし、誰かが、本当の僕達の関係を知れば、野間直輝を、酷い男だと思うだろう。彼は同性の恋人がいながら、ステイタスを保つためだけに、全く愛情のない女性と『契約』し、妻を持った。同性の恋人にも、契約の妻にも、不誠実であり、残酷。普通なら、そう思う。

「村井さん」
駐車場で、車を降りた僕に、あの男が声をかけた。
「しつこいな、君も」
「いるんですよね? 野間社長」
「さあね」
「奥さん、寂しそうだったなあ」
僕はその下品で最低な男を無視して、歩き出した。
「奥さん、なぜ社長が帰ってこないのか、知りたいみたいでしたよ?」
関口は、ガムを噛みながら、振り返った僕の顔を見て、ニヤニヤと笑い、シャッターをきった。閃光が、僕の視力を数秒、奪った。
「ゴーストは、写真には映らないか」
「これ以上おかしな真似をするなら、名誉毀損で訴える」
「愛の力は、偉大だなあ」
関口はそう言い残し、ガムを吐き捨て、奥さんによろしく、と背中を向けた。

「関口が、麗子を嗅ぎつけた」
僕は、焦っていた。直輝を守るために、僕は必死だった。
「関口は君と僕の関係を疑ってる。麗子を丸め込んで、偽装結婚だったことを言わせるつもりだ。このままだと、麗子は関口に巻き込まれる。そんなことになったら、もう終わりだ!」
僕は必至に、彼に訴えた。このままだと、今までの努力が水の泡になってしまう! でも、彼は俯いて、ため息をついた。
「……もう、いいじゃないか」
「何言ってるんだ! やっとここまで来たんだよ?」
「祐輔……もう、俺は……」
「直輝、僕に考えがある」

 僕はね、君の夢を叶えたいんだ。君の夢を叶えるためなら、どんなことだってする。君の大切な、神様とやらに背くことだって、厭わない。僕は、君のために、悪魔になる。
 だから、僕は、悪魔のシナリオを、直輝に渡した。

「家族が欲しいって言うんだ」
「……そんなこと、できるわけないだろう!」
「直輝、これで全て、上手くいく」
「……できない」
「やるんだ」
「人の命を、弄ぶようなことはできない!」
「もう、後戻りできないんだよ。僕達は、進むしかない。じゃあ、なんて言うんだい? 麗子に、僕達の関係を話すのか? 麗子は死んだ恋人を、君に見ている。君を完全に失ったら、彼女はどうなるのかな。ねえ、直輝、彼女を救いたいなら、もう、こうするしかないんだよ」
「やっぱり間違ってたんだよ……こんなこと……間違ってた……」
直輝は跪き、ロザリオを握りしめ、祈っている。僕は、直輝を愛しているけど、その姿だけは、なぜか、いつも僕を苛立たせる。
「時間がない。直輝、彼女の部屋へ行くんだ」
「できない」
「行くんだ。行って、抱きしめて、言うんだ。家族が欲しいって。……愛してるって。そして、君の分身を、彼女の中に……植えつけろ」
「お前はそれでいいのか? お前は辛くないのか?」
「言っただろ? 僕は、君のためならなんでもする。どんな苦痛でも耐えることができる。君だってそうだろう? 僕のためなら、どんなことでもできるだろう? それとも、僕を愛していないの?」
ロザリオを握りしめたままの僕の恋人は、何も言わない。余計にそれが、その姿が、僕に悪魔を呼ぶんだ。
「僕と思って、麗子とセックスするんだ。そうすれば、いつかは、命が宿る。ねえ、直輝。それはね、僕にはできないんだ。僕と君は、どんなに愛し合っても、それだけは、できない。僕も、君の子供が欲しい。ね、それを僕の代わりに、麗子にさせるだけだ。それであの女も幸せになる。誰も傷つかない」
直輝は顔を上げて、目を閉じて、許したまえ、と呟き、立ち上がった。
「麗子はきっと、関口の所に行く。その前に、ね。引き止めるんだ。絶対に、行かせちゃ、ダメなんだ」
「……間違っているよ、俺達は」
「何が正しいかなんて、ないんだ」

 直輝は項垂れたまま、部屋を出て行った。これでいい。これで、全てが守られる。絶対に、最善の方法のはずだ。僕が間違うはず、ないんだ。
 窓の下に、闇に消えていく、直輝の車が見えた。

 直輝、僕達は、愛し合っているから、僕達の未来は、一緒なんだよ。

 そして、僕は、泣いた。直輝のいないベッドで、直輝の匂いに抱かれて、僕は泣いた。
 なぜ僕は、こんなシナリオしか書けないんだろう。誰も、幸せになっていない。誰もが、傷ついている。それが現実なのに、僕はまた、シナリオを書いた。愛する、直輝のために。僕は直輝さえ、幸せになれば、それでいい。他の人間が不幸になろうが、悲しみに打ち拉がれようが、構わない。こんな傷はね、一瞬で治るんだ。君の未来は、僕が描いた、輝く未来。君は莫大な資産を手に入れ、思う存分、その愛とやらを形に変えて、可哀想な貧民達に、ばらまけばいい。それが君の夢なんだから。その夢のために。

 直輝は僕のために、僕は直輝のために生きている。

 出会った頃の直輝は、山岳部のメンバーで、冬でも小麦色の肌に、逞しい体、精悍な顔。学生時代の野間直輝は、質実な、純朴な、ただの青年だった。彼は、休みの日は山へ登るか、ボランティア活動に従事していた。普通の大学生のように、クラブやコンパや、そんなものには興味はなく、おそらく、恋人もいなかったのだろう。そんな彼は、僕の理想の、崇高な男性だった。だから僕は、彼に恋をした。彼こそが、僕の伴侶となるべく人間だった。
 彼は僕を受け入れた。僕は自室を出て、彼のアパートへ移り、僕達は僕達だけの世界を作り上げ、愛し合った。最初は、同情だったのかもしれない。彼の『博愛』の精神が、そうさせたのかもしれない。だから僕も、彼のためになんでもしようと思った。愛する彼のために、できることはなんでも。

「夢があるんだ」
「夢?」
彼はどこかの大富豪の特集番組を見ながら言った。
「俺もこんな風に、自分の稼いだ金で、困っている人の力になりたい。いつか、そんな大きな人間になれたらなって。ガキみたいかな」
彼は恥ずかしそうに笑って、無理だけどな、と少し残念そうな顔をした。
「……僕が、その夢を叶えてあげるよ」
「そんなこと、無理だよ。あくまで、夢だからさ」
「僕なら、できるんだ」

 告白すれば、直輝はビジネスなんて、できない。そもそも、金に興味がないのだから、できるわけがない。彼には、欲というものがないのだから、成功するわけがない。

 僕は持っていた『ネットワーク』を駆使して、ビジネスを始めた。僕は、野間直輝の部下でもパートナーでも策士でも、なんでもない。僕は、野間直輝のゴースト。野間直輝は、ただの広告塔。野間直輝は、僕の、マリオネット。だって、僕のような、貧相な、いかにもオタク野郎よりも、直輝のような、イケメンの体育会系の精悍な青年が社長の方が、面白いに決まっている。俗的な人間は、そんな配役を面白がるに決まっている。
 僕は直輝の髪型から、ファッションから、言葉使いから、立ち振る舞いから、何もかも、シナリオを書いた。必要なら、女も抱かせた。全ては、彼の夢のため。彼の夢を叶えるため。優秀で、精力的で、この『悟り』の時代に、野心溢れる青年実業家『野間直輝』を、ただの優しい、誠実な青年『野間直輝』に演じさせた。
 もちろん、彼は嫌がった。こんなことはもう嫌だ、と何度も言った。でも、僕はその度に彼に諭す。君の成功が、何万人の人の幸せになるんだよ、と。そして彼は、その度に鉄屑を握りしめて、ため息をついて、わかった、と言う。辛そうに、ブランドのスーツを着て、くだらない女とデートに出かける。だっておかしいじゃないか。こんなにカッコいい男が、女の一人もいないなんて。

 ねえ、直輝、僕だって辛いんだよ。君がどこかの汚らわしい女に、偽りの愛の言葉をかけるのは。君がどこかの汚らわしい女とセックスをするのは、僕だって辛い。でもそれは、君のためだ。君のためなんだ。愛しているから、直輝。君を心から、愛しているんだ。僕も君と同じ、苦しみに耐えているんだ。


 その夜から、直輝は、麗子の部屋と、僕の部屋で、偽りの愛と、真実の愛を交わすようになった。初めは苦悩していた彼も、次第に、その配役を受け入れ、自分の分身の発生を心待ちにするようになり、偽りの愛の割合が増加していく。偽りの愛を与えられた麗子はより美しく、より魅力的になり、あの、寒い、と僕に抱きついた、哀しい、寂しい女は、もうどこにもいなくなった。
 ふむ。やっぱり僕は、間違っていなかった。これであの女も救われた。君と僕にも、ね、子供ができる。何もかも、上手くいったじゃないか。

 
 そして、契約から一年が経った頃、彼女の胎内に、新しい命が宿る。

ミステイク

「これ、かわいくない?」
僕は予定外に、麗子の退屈な買い物に付き合わされていた。
「靴など、歩き出すまで不要ですよ。人間の子供は、おおよそ一歳前後で……」
「もう、わかった! あー、あんたと買い物しても、全然楽しくない!」
ふむ。僕はもっと、楽しくないのだが。
「それより、マタニティドレスを買った方がよろしいのでは? そろそろ、お腹が大きくなってくるでしょう」
「まあ、それもそうね。パーティ用のワンピースを、何枚か買おうかしら」
 麗子は妊娠五ヶ月に入っていた。まだお腹はあまりわからないが、少しふっくらした麗子は、目の前でハンバーガーLセットを、美味しそうに食べている。
「よく、食べますね」
「うん。ツワリもないのよ」
「体重が増えすぎるとよくないようですよ。妊娠中毒症の危険もありますし、そもそも、ファストフードは塩分と脂肪の塊ですから……」
「あんたはもうちょっと、食べたほうがいいんじゃない? ガリガリじゃん」
「体質なんですよ」
気にしているのに。
「あっ……」
イライラして開けたナゲットソースが飛び散り、顔に飛んで、眼鏡が汚れてしまった。やはり、イライラしているときに行動してはならない。
 眼鏡を外し、レンズを拭う僕の顔を、麗子がじっと見ている。
「何ですか?」
「あんたさ、メガネなかったら、結構いけてんじゃん」
「お世辞など、結構です」
「なんで私があんたにお世辞言うのよ」
僕は子供の頃から、ド近眼で、ずっと眼鏡をかけている。家の中でも、眼鏡がないと歩けないくらいで、外すのは風呂と眠る時と……セックスの時くらい。
「コンタクトにしなよ」
「僕の視力だと、無理なんです」
告白すると、僕は自分の眼鏡のない顔を、はっきり見たことがない。なぜなら、眼鏡を外すと、何も見えないから。

 初めて僕達がキスを交わしたのは、僕の告白から一ヶ月後。そして、その一ヶ月後、初めてのセックスをした。直輝は、僕の服を脱がし、僕の眼鏡を外して、優しい目で、僕の全てを見た。いや、眼鏡のない僕は、はっきり直輝の顔が見えなかったけど、直輝は、僕の髪の先から、足の先までを、その陽に焼けた掌で撫で、きれいだ、と言った。僕は、男とのセックスのやり方を彼に教え、彼は、愛のあるセックスのやり方を僕に教えてくれた。直輝は、優しく、抒情的に、包み込むように、まるで繊細な硝子細工を扱うかのように、僕を抱いた。僕はそんなセックスを、初めて知った。そのセックスは、僕がずっと思い描いていた、崇高で、甘美で、僕は直輝に抱かれながら、泣いた。今までの穢れが、彼の愛で、流れていくような気がしたから。
 でも、一つだけ、僕は許せないことがあった。
「祐輔は、女の子みたいだな」
僕は、女じゃないのに、直輝は、僕を女として、抱いていた。僕は男として、男の直輝と愛し合いたいのに。
「どこが、女の子みたいなの?」
「顔も可愛いし、色も白いし、線も細いし」
幼いころ、僕はよく、女の子に間違えられていた。だから母親は、僕にスカートを穿かしたり、髪にリボンをつけたりした。僕は男なのに。女ではないのに。自分が男に生んだくせに。
「僕は、男だ」
「わかってるよ。祐輔は、男だよ」
直輝の指が、僕を辿る。僕の指も、直輝を辿る。僕達は同じ体で、同じ場所で、同じシステムで、同時に感じ合う。僕達は、何もかも、僕達で分け合い、愛し合った。僕達は、男と男で、愛し合っている。

「もったいないなあ」
「前々から気になっていたのですが、その、いけてる、という言葉遣い。もうご年齢もご年齢ですし、何より、母親になるのですから、そろそろおやめになられては」
「あんたとご飯食べてると、味がしないわ」
「なら、僕のナゲットを食べるのはやめてください」

 もちろん、僕の部屋に直輝が帰って来る回数が減ったことは、心苦しい。だけど、それは僕のシナリオで、直輝は僕のシナリオ通りに行動しているだけで、彼にも、この目の前の妊婦にも、責任はない。懐妊を知った時は、偽りではあるものの、やはり、生殖行為の現実を知らされたようなもので、僕は、この妊婦に耐え難い嫉妬を覚えたけれど、こうやって対面していると、この女はとても素直で、明るく、愛らしく、なぜか憎めない。それに、なにより、僕の愛する直輝の分身を、宿している。彼女のお腹の中には、彼の、赤ん坊がいる。僕の代わりに、彼女は彼の、子供を生もうとしている。全ては僕のシナリオ通りに、進んでいる。

「まだ何か、お買い物されますか?」
「うーん、もういいかな」

 僕は麗子の部屋へ荷物を運び、では、と出ようとすると、麗子がいつものように、上がっていって、と言った。次の予定まで少し時間がある。コーヒーくらいは、つきあってやってもいい。
「妊娠中はコーヒーとかダメなんだって。だから、お茶ね」
僕は、妊娠中ではない。
 部屋の中はすっかり変わっていて、マタニティ雑誌だとか、名付けの本だとか……二人の写真だとかが飾られている。まるで、新婚夫婦の家に来たみたいだ。
「それね、腹帯もらいに行った時の写真」
クリスチャンのはずの直輝が、寺の前で微笑んでいる。まあ、クリスチャンが寺に参ってはならない、という決まりはない。その隣に、聴診器のようなものが置いてある。
「ああ、それ、直輝が買ってきたの。お腹の中の赤ちゃんと会話するの」
こんなもので会話ができるわけない。そもそも、胎児というのは羊水の中にいるわけだから、音などほとんど聞こえないはずだ。
「心臓の音が聞こえるのよ。聞いてみたい?」
「遠慮いたします」
ふむ。これで、直輝はあの女の腹の中の音を聞いているのか。なんだか……夫婦のようだ。まあ、これも僕のシナリオ通りだけど、ちょっとアドリブが効きすぎじゃないかな。
 麗子は楽しそうに、直輝の話をしている。まだ早いのに、スタイ(どうやら、これはよだれかけのことらしい)を買ってきただとか、車をワンボックスにした方がいいんじゃないかとか、育児の便利グッズのカタログを持って帰って来ては、あれがいいこれがいいと騒いでいるとか。まあ、それはそうだ。直輝は優しい男だから、子供が生まれるのが本当に楽しみなんだろう。それは人として当然だ。子供の誕生ほど、喜ばしいことはない。麗子のために帰っているのではなく、子供のために帰っている。おかしな嫉妬してしまった、僕としたことが。

 麗子の話の相手をしていると、インターホンが鳴った。
「あれ? 直輝? どうしたのかしら」
直輝? この時間は会議のはずだけど……
「おかえりなさい。どうしたの? こんな時間に」
「予定の会議がなくなったんだ」
玄関で、二人は、ハグをしている。まるで本当の夫婦のように、笑いながら、ただいま、のハグをしている。
「村井が来てるのか?」
「うん。お買い物の帰りにね、上がってもらったの」
リビングに入ってきた直輝は、少し、気まずそうな顔をした。
「社長、お疲れさまです」
「あ、ああ、ご苦労だったな」
「会議がなくなったとは、聞いていませんでした」
「先方が、インフルエンザにかかったみたいで……」
「そうでしたか」
僕達はまるで、オフィスにいるように会話をする。
「もう、戻らなくていいの?」
「ああ。……村井、飯食って行けよ」
「いえ、まだ予定がありますので、私はこれで」
立ち上がる僕に、残念ね、と、全く残念でなさそうに、麗子が言った。
「では、社長、失礼いたします」
こんなことは、しょっちゅうある。僕達は、あくまで、社長と秘書であり、上司と部下。それ以外の関係は、ない。麗子が玄関で見送ってくれて、また、お買い物つきあってね、と言った。僕と買い物してもつまらないんじゃなかったのか? 本当に、女というものはよくわからない。

 エンジンをかけ、駐車場から出て、しばらく走っていると、急に、視界がぼやけた。
「おかしいな……」
ハンドルを握る手に、水滴が落ちてきた。それは紛れもなく、雨漏りでも、結露でもなく、僕の、涙だった。僕は、認めたくない現実に、打ちのめされていた。
 わかっている。それはもう、僕のシナリオでも、直輝の過剰なアドリブでも、ない。直輝は、愛している。僕ではなく、あの女を。あの女の胎内の生命を。こんなこと、容易に予想できたはずなのに。僕としたことが……

 何を、間違えたんだろう。どこが、良くなかったんだろう。僕は、何を、見逃したんだろう。

罪と悪

 祐輔を見送った麗子は、リビングに戻り、夕食は鍋にしよう、と言った。
「お鍋は、確かここに……」
踏み台を持ち出し、吊り戸棚の上を探し始めた。
「危ないじゃないか!」
俺は思わず、麗子を抱きしめた。
「大丈夫だよ」
「ダメだ。どこにあるんだ? 俺が探してやるから」
麗子は少し笑って、吊り戸棚の奥じゃないかと言った。一度か二度使っただけの土鍋は、ダンボールのケースに入っていた。
「これか?」
「ああ、それ。あんまり使わないから、どこに置いたかすぐに忘れちゃう」
「こういうことは、俺に言えよ。大事な体なんだから」
「ありがとう。でも、いつも直輝を待ってたら、何にもできないわ」
「……できるだけ、家にいるから」
「そういう意味じゃないよ。私もママになるんだもん。しっかりしないとって意味」
 麗子は、まな板を出して、野菜を切っている。楽しそうに、幸せそうに、今日あったことを、笑いながら、話している。
「でね、村井さん、ナゲットのソースを開けようとしてね、ふふっ、ソースが顔に飛び散っちゃってさ」
だから俺も、麗子と話していると、一緒にいると、自然に、楽しくなる。いつの間にか、笑っている。
「あいつ、そういうとこあるんだよ」
「そうだよね、意外に、不器用なんだよね」
「何か、しようか?」
「あー、じゃあ、鶏肉、切って。私、お肉切るの、苦手なの」
麗子はまな板を空け、豆腐やマロニーを洗い始めた。
「いいよ。俺、鶏、バラせるんだぜ?」
「ホントに? すごい!」
「大学時代は山岳部だったんだ。アウトドアどころか、野営、してたから」
「へえ! ね、赤ちゃんが生まれたら、みんなで山登り行こうよ」
「ああ、そうだなあ。もう何年も登ってないな」
「楽しみー」
 俺達は、並んで、笑いながら、生まれてくる子供と、これからの家族の話をしながら、鍋の準備をした。こんなこと、初めてだ。こんなに、俺の隣で、本当の俺のことを、楽しそうに見る女は、初めてだ。

 高校生の頃、クラスメイトの女の子に告白されて、つきあったことがあった。初めてのキスも、セックスも、その子とした。でも、俺は山と、図書館と、教会にしか出かけたことがなくて、彼女を楽しませては、やれなかった。彼女はつまらない、と言って、他の男のところへ行ってしまった。
 その後も、何人かの女の子が俺に想いを打ち明けてくれて、俺はそのたび、その子を恋人にした。でも、結局、俺の恋人達は、俺をつまらないと言って、俺の元からいなくなった。
 大学に入学した俺は、変わろうと『努力』をした。飲みたくもない酒を飲み、吸いたくもない煙草を吸い、騒々しい油臭い居酒屋で、誰かと騒ぎ、愛してもいない女と、愛のないセックスをした。全く、虚無感しか起こらない生活に、俺は疲れ果て、やはり山に登り、教会で祈り、本を読み、空いている時間は、誰かを救うために使う、つまらない生活に戻った。つまらない男だと、自分でもわかっている。それでも、俺はもう、それでよかった。自分を偽らないことで、俺は俺を愛し、救われていた。

「ね、チュウ、して」
麗子は鶏肉で手がベタベタになった俺に、ちょっとおどけて、唇を突き出した。
「今?」
「うん」
キスをしようとした俺の視界にふと、祐輔が残したお茶の入った、マグカップがよぎった。
「ダメ」
「えー、どうして?」
「うがい、してないから。インフルエンザ、あったら大変だろ?」
麗子は、つまんない、と拗ねた顔をした。
「村井、よく来るのか?」
「今日はたまたま。ちょっと用があって電話したら、近くにいるからって、お買い物につきあってもらったの」
 祐輔は、この部屋を見て、どう思ったのだろう。会議がなくなって、祐輔の部屋ではなく、ここに帰って来た俺を、どう思ったのだろう。
「お前の世話は、女の子の秘書をつけるよ」
「え? どうして?」
「村井は、男だから」
「村井さんのこと、信用してないの? ひどい、それ」
「そうじゃなくて……俺のいない時に、男が出入りするのは、その、誤解されるかもしれないだろ」
「まあ、それも、そうね」
そんなことは、どうでもいい。俺はこれ以上、祐輔を傷つけることは、したくない。
「……時々、そんな顔するね」
隣で、麗子が寂しそうな顔をしている。麗子には、俺の心の中が見えているんだろうか。
「何か悩み事があるなら、話して欲しいな」
「ごめん、なんでもないんだ」
「ウソ」
「着替えてくるよ。うがいも、してくる」
 俺は手を洗って、麗子の髪に軽くキスをして、その場から逃げ出した。俺は、逃げている。麗子からも、祐輔からも……俺は、どうしたらいいんだろう。どうすれば、誰も傷つかないんだろう。ポケットの中の十字架は、少し冷たくて、俺はただ、それを握りしめて、祈ることしかできない。
「何を、祈ってるの?」
気がつくと、寝室のドアが開いていて、麗子が立っていた。
「俺達の、幸せを」
「どこにも、行かないよね?」
麗子……お前は、わかっているのか? 俺が何を考えているのか、俺が何を隠しているのか……何を祈っているのか。
「私も、お祈りしていい?」
「一緒に、祈ろう」
俺達は一つの十字架を、二人で握りしめて、目を閉じて、祈りを捧げた。俺はもう、麗子を愛していた。偽りでも、芝居でも、祐輔のシナリオでもなく、本当に、麗子という妻を、愛している。
「あ……」
「どうした?」
「今、なんか……動いたかも」
俺は慌てて、麗子の腹に手を当てた。
「ほんとに?」
「あっ、ほら、また」
微かに、俺の手に、何かが動く感触があった。
「わかった?」
「うん……動いたな」
俺は麗子の手を取って、十字架と、その母親になる妻の手と、父親になる自分の手を、まだ見えないけれど、確かに生きているその子に、重ねた。
 俺は、罪人。嘘に塗れた、罪人。こんな罪人に、親になる資格など、あるのだろうか。
「ねえ、私ね、女の子のような気がするの」
こんな罪人に、こんなに純粋で、こんなに素直で、やっと悲しみから逃れることを許された女を、愛する、いや、愛される資格が、あるのだろうか。
「女の子は、パパに似るんだって。なら、絶対美人よね」
麗子は、痛々しいほど、無理に笑っている。俺に、悲しい顔を見せまいと、必死で、笑っている。
「麗子……」
「家族に、なるんだよね……」
俺は、どこまでも、罪を重ねる。
「家族に、なるんだよ」
「……大切な人が、いるんだよね……」
神よ、私に、全ての悲しみを私に背負わせてください。
「お前だけだよ」
罰を受けるべきは、私です。
「愛してる?」
「愛してるよ。麗子、お前だけを、愛してる」

 俺はいつも、思う。こうやって、麗子を抱く夜を、祐輔はどう過ごしているんだろう。一人きりのベッドで、どう過ごしているんだろう。

 初めて会った祐輔は、少し長い髪を金色に染めて、度のきつい眼鏡をかけた、痩せた、色白の、まるで近未来から来たかのような、バーチャルチックな青年だった。
「ここ、よろしいですか」
ガラ空きのカフェテリアで、祐輔は俺のテーブルに座った。変な奴、と、俺は読んでいた本から少し視線を上げ、どうぞ、と彼のためにスペースを作った。
「いつも、本を読んでおられますね」
どこで、俺を見ていたのかはわからない。俺は彼を初めて見たけど、彼は俺をずっと見ていたようだ。
「情報科学部の、村井祐輔と申します」
「……野間直輝、です」
「二回生ですよね?」
「はあ」
「僕は一回生です」
俺達は不思議な自己紹介を終え、そのまま黙ってランチセットを食べた。
「野間さん」
「なんでしょうか」
「はっきり、申し上げます」
「はあ」
「僕は、男性ですが、男性としか、恋愛が、できません」
突然、何を言うのかと思ったけど、なぜか、その時の俺は、全く驚かなかった。
「そうですか」
「野間さんは、どうですか」
「えーと、俺は……あまり、恋愛自体に興味がないので……」
「今、恋人はいらっしゃいますか」
「いない、かな」
「僕を、恋人にしていただけませんか」
話の流れから、そういうことかとは、予想できていた。
「すぐに、とは言いません。しばらく、僕と友人として付き合い、その後、判断していただければ結構です」
祐輔は、淡々と、まるで何かの数式を読み上げるかのように、一語一句、正確に、愛の告白をした。
「なぜ、俺なの?」
「本を読む姿が、あまりに、崇高でしたので」
変な奴。本日二度目、変な奴。
「僕の、理想の男性なんです」
「俺の、何を知っているの?」
「野間直輝さん。文学部の二回生、趣味は読書、クリスチャンで、休日は登山か教会か、ボランティア。面白味がないと理由で、半年前に、ひと月だけ交際した女性に失恋、というところで、どうでしょう」
「それのどこが、君の理想なわけ?」
「僕は俗的なことが、嫌いなんです」
俺は祐輔の、痩せた首と手と、少し傷んだ金髪を見た。どきついレンズの向こうの瞳は、悲しみが溢れ、孤独と絶望に染まっている。何が、そんなに彼を悲しませているのだろう。彼は何に、そんなに絶望しているのだろう。
「孤独、なんだね」
俺のその言葉に、祐輔は、ポロポロと涙を流した。拭うでもなく、俯くでもなく、彼は俺を見つめたまま、涙を流している。
「君の孤独が埋められるなら、俺はそれで幸せだよ」
その時の俺は、本心から、そう思った。本当に、祐輔を、悲しみから、救いたかった。

「今日さ、村井さんのメガネとったとこ、初めて見た」
「なんで?」
「ナゲットのソースが飛んだ話したじゃん。メガネについたの、ソースが」
俺は膨らみかけた、麗子の腹を撫でながら、時々キスを交わしながら、麗子の話を聞いていた。
「見たこと、ある?」
「まあ、そりゃ、時々はな」
「意外にいけてて……かっこよくて、ビックリした」
確かに、祐輔は眼鏡をとると、随分印象が違う。普段はクールな、というより、冷淡なビジネスマンだけど、素顔の彼は、ずっと少年ぽくて、ユニセックスなオーラを出している。
「コンタクトにしたらって、言ったの。絶対もてるのに」
「そうだなあ」
祐輔は、自分の容姿が嫌いだと言う。痩せていて、色白で、細長い体が貧相で、俺の筋肉質で、小麦色の体が、羨ましいと言う。初めてキスをした時も、初めてセックスをした時も、祐輔は、僕を見ないでくれ、と悲しげに言った。なぜ、祐輔はそんなに自分を嫌うのだろう。麗子が言うとおり、醜いわけでもなく、美少年の部類に入るはずなのに。
「いけてる、って、ダメなの?」
「うん?」
「村井さんに、そんな言葉使いはそろそろやめなさいって、怒られちゃった」
「そうか。あいつは、俗語が嫌いなんだよ」
「ふうん。ねえ、次は、俗語が嫌いじゃない人にしてね。もう何か言うたびに怒られてたらストレス溜まっちゃう」
「村井は村井で、お前のことを考えてるんだ」

 人は、それを同情というかもかれない。たとえそうでも、何がいけないんだ。苦しみ、悲しみに悶える誰かを救うことは、人の使命ではないのか。
「僕達の関係は、秘密にしておきたい」
「なぜ。別にいいじゃないか。俺達は愛し合ってるんじゃないのか?」
「俗的な人間には、僕達の崇高な愛が理解できないんだよ」
 俺は、祐輔を、男だとか、女だとか、そんなことはどうでもよく、ただ、『村井祐輔』という一人の人間として、彼を愛していた。だから、俺達の愛を知られることに恐怖はなかったし、羞恥もなかった。だけど、祐輔はそうではなかった。彼は世間と距離を置き、俺以外の人間とは、一切の関わりを持たずにいた。彼は相変わらず孤独で、悲しみに溢れた目で、分厚いレンズの奥から、『俗世』を淡々と眺めていた。

「ねえ、村井さんって、どんな学生だったの?」
「そうだなあ。成績は良かったらしいな」
「へえ、そうなんだ。頭、良さそうだもんね。私なんて、毎年単位ギリギリでさ、よく卒業できたって、みんなに言われた」
「でも、CAになれたんだろ? すごいじゃないか」
「CAは、子供の頃からの夢だったの。勉強は大嫌いだったけど、英語だけは、がんばったかな」

 夢。俺はある夜、祐輔に、夢を語る。大金持ちになって、世界中の困っている人を、助けたい。それは、麗子のような、明確な『夢』ではなく、言うなれば、小学生が、立派な人になりたい、なんていう、漠然とした、なんの現実性もない、ただの『夢』。
 俺は、成績も普通で、文学部といいながら、熱心に学んだのは哲学と宗教学だけで、三回生になっても、皆のように、就活にも身が入らず、できれば、どこかの山小屋でハイカーガイドか、古書を扱う店で本に埋れて生活できれば、それでいいと思っていた。なんならもう、大学も辞めようと思っていた。それくらい俺は、金とか、生活とか、そんなものに興味のない、人間だった。
「僕が叶えてあげるよ」
祐輔はそう言って、黙々と何かを始めた。その頃はもう、俺達は一緒に暮らしていて、八畳のワンルームで、俺達だけの世界で暮らしていた。毎日、祐輔は何台かのパソコンに向かい、何かをしている。俺にはさっぱりわからない。何をしているのかと聞いても、祐輔は、君はただ、僕を信じてくれればいい、と言うだけだった。
「髪を切りに行こう」
祐輔は俺を、オシャレな美容室へ引っ張って行き、勝手にオーダーして、俺の髪型を、まるでモデルか俳優のように変えてしまった。
「これを着て、写真を撮るよ」
祐輔が買ってきた服は、俺が今まで着たことのない、着ようと思ったこともない、薄いピンクのポロシャツに、白いパンツ。首にはゴテゴテしたネックレスをかけ、手首には高そうな時計。
「時計はレンタルだからね。傷つけないでよ」
俺を写真部の部室へ連れて行き、俺は見合い写真でも撮られているのか、という勢いで、無理な笑顔の写真を何枚か撮られ、違う衣装で、本を読んでいるところだとか、山に登るロケまでして、何枚も写真を撮った。
「しばらくは、これでいいな」
パソコンの画面の中には、ピンクのポロシャツを着た、どうみてもナンパな男がいる。
「これ、何?」
「君のFacebookとインスタグラム」
プロフィールページには、『オフィスノマ 代表』と書いてある。
「代表?」
「そう、君は社長なんだよ」
「何の?」
「人材派遣会社の」
祐輔は、知らない間に、俺を社長にして、起業していた。
「ちょっと……俺には、そんなことできないよ」
「君は何もしなくていいんだ。全て僕がやる。ただ君は、僕のシナリオ通りに、振舞ってくれれば、それでいい」

「大学の時に、起業したんでしょ?」
「え? ああ、そうだな」
「すごいねえ」
俺は別に、すごくない。全ては祐輔の力で、シナリオ。俺はただ、祐輔の書いたシナリオ通りに、振舞ってきただけ。
 俺はそれに、ずっと罪悪を感じていた。俺は世間を欺き、祐輔を陰に埋らせている。そして、祐輔のシナリオは、『俗的』で、俺は、そのシナリオに、葛藤していた。でも、やめられなかった。金とか、地位とか、そんなものではなく、俺は、何かに成功するたび、会社が大きくなるたび、嬉しそうに、満足そうに笑う、祐輔が、嬉しかった。いつしか祐輔の目からは悲しみが消え、孤独が消え、絶望は希望に変わり、俺はただ、俺が祐輔のシナリオを演じることで、祐輔が救われるなら、それでいい、祐輔が幸せなら、それで構わなかった。だから、俺は、精一杯、祐輔のシナリオを演じた。この十年、俺はずっと、演じてきた。俺はずっと、自分を欺き、世間を欺き、祐輔を欺いている。成功を喜んでいる振りをして、祐輔を欺いてきた。俺は嘘でしかない。本当の俺は、もうどこにもいない。
 そしてまた、俺は……
「何を、考えているの?」
麗子は、恐れている。俺が、いや、死んだ恋人が、彼女を置き去りにしたように、また俺が、彼女を置き去りにするのではないかと。
「また、悲しい顔、してる」
話してしまいたい。俺の真実を。麗子なら、俺を受け入れてくれるかもしれない。この罪から、俺を救ってくれるかもしれない。
「あなたのこと、全部知りたいの」
そっと抱き寄せると、麗子の膨らんだ腹が、俺の腹に触れた。
「この子のためにも」
この子のために……父親になるために、俺は……
「別れたんだ」
「別れた?」
「本当は、ずっと、恋人がいた」
「大切な、人?」
「大切だった」
「……どうして、その人と一緒にならなかったの?」
麗子は、同じことを聞いた。初めてこのベッドで抱きしめた時と、同じことを。
「心が、離れてしまったから」
ふと見ると、麗子は、泣いていた。
「なぜ、泣く?」
「あなたの心が、泣いているから」
麗子は、俺のために、泣いていた。もうこれ以上、麗子を苦しめることはできない。これでいい。これが、最後の嘘だ。この嘘で、麗子は、救われる。
「でも今は、お前がいて、子供もいる」
「私で、いいの?」
「お前が、いいんだ」
俺は、地獄へ落ちる。俺はもう、許されない。俺の罪は、死んでも償えない。
「幸せになろう、麗子」

空の向こうに

「森江紗織と申します。よろしくお願いします」
村井さんの代わりに迎えに来てくれた、新しい秘書さんは、ちょっと地味だけど、理知的で、可愛らしい。
「こちらこそ、よろしくね」

 月に二回もある、ちょっと苦手な『奥様ランチ会』が終わって、私はどっぷり疲れていた。何を食べたかすら、覚えてない。
「ねえ、ちょっとお茶しない?」
村井さんとなら、家にまっすぐ帰るところだけど、なんとなく、紗織さんと話がしたくて、私はそう言った。
「パンケーキ、お好きですか? あっ、でも、お食事、されたところですよね」
「ううん、あんまり食べた気しないの。パンケーキ、食べたいかも」
「じゃあ、美味しいお店、知ってるんです」
ああ、女子! やっぱ、代わってもらってよかった!

 私達は、近くのパーキングに車を止めて、ちょっとオシャレな、オープンテラスのあるカフェに入った。
「膝掛け、もらって来ますね」
テラスからの冷えた空気が少し寒い。やっぱり、女の子のほうが気がつくのね、こういうことは。
 運ばれてきたパンケーキは、チョコソースとイチゴとクリームでデコレーションされていて、とっても素敵。
「美味しい!」
「ここ、穴場なんですよ。麗子さんも、あんまり人に言わないでくださいね」
紗織さんは、冗談ぽく笑った。
 森江紗織さんは、入社五年目の、二十八歳。村井さんの秘書。秘書の秘書ってのも、ちょっと変? 村井さんは秘書とはいいながらも、実質は経営管理のトップで、会社の全権を握っているらしい。
「でも、麗子さん、随分……変わられました」
「え?」
「私、アイスコーヒー、お持ちしたんですよ。シロップ、多めの」
ああ! あの時の……ちょっと、恥ずかしいじゃん。
「あのテスト、何人も受けてるんですよ」
「テスト?」
「そうです。あれ、テストなんです。室長が作った、観察テスト」
そうだったんだ。私はてっきり……
「社長はあんな手荒なことをする方ではありませんから。でも、あんな風に、社長に立ち向かった方は、麗子さんが初めてでした」
そうよね。だって、直輝はあんなに優しいもん。全部、お芝居だったんだ。
「室長も、本当に驚いてましたね。あんな室長、初めて見ました」
「村井さんって、いつもあんな、えーと、冷静、なの?」
「そうですね。滅多に取り乱したり、怒ったりすることはないですね。いつも冷静沈着で……すごい方です。私、尊敬できる上司の下で働けて、とても幸せなんです」
うん? もしかして……?
「ねえ、好きなの?」
「えっ!」
やっぱり。
「好きなんでしょ、村井さんのこと」
「そ、そんな……憧れです。私なんて、室長にそんな、釣り合うわけないし……」
「そんなことないよ。紗織ちゃん、とってもかわいいし、礼儀正しいし、村井さんのタイプかも」
なんだか、すごくかわいくて、『紗織ちゃん』なんて呼んじゃった私の言葉に、ちょっと恥ずかしそうに笑って、でも、嬉しそうに、話してくれた。
「……二年目の頃、ひどく失敗したことがあったんです。社長のスケジュールを、ブッキングさせてしまって、先輩からすごく叱られて。いつもミスばっかりで……みんなに迷惑ばっかりかけて、ちょっと、疎まれてたんです。自分でも、仕方ないって思ってました。私、ほんとにダメだから…もう辞めたいって思って、室長にそう言いに行ったら、この失敗を埋めてもらわないと、辞めさせられない、って仰ったんです。それまで、僕の下で、しっかり勉強して、働きなさいって。嬉しかった。私、てっきり室長にも見放されてるとばかり思ってたから、すごく……嬉しくて……」
へえ。村井さん、優しいんだ。
「恋愛とか、そんなの、別にいいんです。私はただ、室長のそばで働いて、室長のお力になれれば、それで」
「好きなんだね、彼のこと、ほんとに」
「……はい」

 目の前の彼女は、まるで、昔の私。私も、あの人に恋をした。優秀なパイロットの、春日透に。叶わぬ恋だとわかってても、私は彼に夢中だった。彼と同じ飛行機に乗りたくて、彼に認めてもらいたくて、必死だった。
 でも、私はできの悪いCAで、お客様を怒らせてばかりで、その度にチーフと機長に叱られて、同僚からも、冷たい目で見られて。
 あれは、初めてのローマ行きのフライト。彼と一緒のフライトってこともあって、やることなすこと空回りで、機内食のオーダーを三回も間違えて、コーヒーはこぼすし、訛りのきつい英語が聞き取れないし、フライト中、ずっと謝りっぱなしで、目的地にやっと着いても、私は現地のパーサーからまだ叱られて、先輩からは、もう佐伯と一緒にチームを組まないでくれ、とまで言われて……現地のホテルの部屋で泣いていた私を、彼が、訪ねて来てくれた。
「佐伯くん、これ、おいしいんだって」
彼はどこで買ってきたのか、ケーキの箱を、テーブルに置いた。
「……ご迷惑ばかりおかけして……すみません……」
彼はデスクの退職願を見て、言った。
「ミスは、誰にでもあるんだよ」
「でも、私……もう無理です……」
「この前のフライトだったかなあ。降りてきたお客様がね、飛行機は初めてでとても不安だったけど、笑顔の素敵なCAさんがいて、安心して旅を楽しめたって、僕に仰った」
そういえば、随分不安そうにされているお年寄りのご夫婦がいたっけ……
「確かにね、君はCAとしては、ちょっと……成績はよくないかもしれない。でも、それだけじゃないと思うんだ。パイロットだって、操縦技術だけじゃない。わかるよね?」
彼は私の出したコーヒーを飲んで、持ってきてくれたケーキを食べて、微笑んだ。
「君の笑顔を見ているとね、僕も安心するんだ」
「春日さん……」
「僕と一緒に、これからも空を飛ぼうよ」
その時のキスは、クリームの甘い香りがして、ちょっと、ミルクくさい、味がした。

「頑張れば、きっと通じるよ」
「そうなれば、素敵ですね」

 私達は、ずっと一緒に、空を飛べると、思ってた。ずっと、愛し合えるって、思ってた。
「もう、飛べない」
右目の光を失った彼は、そう言って、部屋に閉じこもった。私には、どうすることもできなかった。ただ、私は、飛べなくなった彼を、見守るしか、できなかった。
 でも、常識的で、理知的な彼は、与えられた仕事を、正しく全うし、自分の代わりに空に飛びたつ若者を育てていた。私には、彼がすっかり立ち直ったように見えていた。だって、変わらず彼は、髪を整え、髭を剃り、きちんとしたスーツを着て、毎朝同じ時間に家を出て、毎晩同じ時間に帰ってくる。そして優しい笑顔で、私のフライトの土産話を聞き、私とベッドで愛し合う。何も変わらない。ただ、飛行機に乗れなくなっただけで、彼は何も変わらない。私も変わらない。それで良かった。私は彼がパイロットでなくても、良かったのに。

「あ、すみません。会社からです」
紗織ちゃんはテーブルの上で震えたスマホを持って、店の外に出て行った。

 その夜のフライトは、久しぶりのパリ行きで、私はちょっと、浮かれていた。朝のテレビで、偶然にもパリ特集が流れていて、私は、すっかり見入っていた。
「そろそろ、出ないとな」
彼はいつもの時間に、いつものように、家を出ようとしていた。
「ねえ、お土産、何がいい?」
「そうだなぁ。まあ、なんでもいいよ。麗子が、無事、帰ってきたら」
「そう、最近はヘマもしてないの。あんまり叱られてないのよ」
「そうか、すっかり、一人前になったんだな」
私は、テレビを見ながら彼と話していた。彼の顔は見ずに。だって、いつもと同じだと、思っていたから。
「麗子」
「うん?」
「何便だ?」
「最終便」
「そうか、最終便か」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 私は彼の顔を見ることなく、背中で彼を見送った。彼が開けたリビングのドアから少し冷たい空気が入って、そして、玄関のドアの閉まる音がした。

 別に、冷めていたわけじゃない。彼に飽きていたわけじゃない。ただ、ただ、いつもと同じだと、この生活がずっと続くって、信じていた。ただ、それだけ。

「雪で、欠航だって」
その夜は珍しく大雪が降って、せっかくのパリ行きは、おあずけになってしまった。がっかりした私は、空港でちょっと買い物をしたり、同僚とお茶をしたり。その間に、彼からの電話が鳴っていた。でも、私は、同僚とのお喋りに夢中だった。彼からの電話には、出なかった。
「電話、鳴ってるよ?」
「また、後でかける。どうせ彼のことだから、今日は欠航じゃないのかとか、そんなことよ。でね、この前のフライトでさ……」

 後でかければいい。どうせ、いつものこと。大事な用なら、またかかってくる。

 でも、もう、電話はかかってこなかった。そして、私からの電話も、かからなかった。

「佐伯、ちょっと」
家に帰ろうとしていた私に、訓練所の教官が、私に声をかけた。
「春日、どうかしたのか?」
「え? あの、どうかしたって?」
「来てないんだ。連絡もないから、どうかしたのかと思って」
「いえ……朝、いつも通り、家を、出ましたけど……」
「おかしいな。無断欠勤するような奴じゃないのに」
私の手は震え始め、呼吸が苦しくなり、胸の中から、何かが逆流し始めた。『嫌な予感』。それしか、私の中にはない。
 私は夢中でタクシーを飛ばし、家に帰った。家にいて、お願い! でも、家の中は真っ暗で、彼はいなかった。何度も電話をかけたけど、電話はつながらない。私は心当たりを探したけれど、彼はどこにもいなかった。道路には雪が積もって、とても寒くて、私のパンプスの足は、氷のように冷たくて、一歩、歩くたびに、まるでナイフがささるかのように、ずき、ずき、と足が痛む。

「お待たせしました」
「仕事じゃないの? 大丈夫?」
「室長から、麗子さんの様子を聞かれたんです。心配症だから、室長。麗子さん、携帯、お忘れですか? つながらないって、室長、心配されていますよ」
「ああ、つい、忘れちゃうの」

 私は一睡もせずに、彼を待っていた。濡れた足はもう死んでいるかのように、何も感じない。
 そして、夜が明けたころ、携帯が鳴った。
「確認に、来ていただけますか」
そこにいた彼は、いつものように、眠っていた。穏やかな顔で、朝のスーツのままで、冷たい、氷になっていた。
「春日透さんですか?」
「……はい」
遺書は、なかった。透は、ベンチで眠っていた。寒い、雪の中で、二人で飛行機を見た場所で、彼は、凍ってしまった。何も言わず、私の前から、消えてしまった。
 なぜ、気づかなかったんだろう。あの場所にいるかもしれないって。あの場所で、私の乗る飛行機を見てるんじゃないかって。きっと、あの電話は、彼の最後のメッセージだった。助けに来て欲しいって、そう、言いたかった。きっと、最後の、彼の叫びだった。どうして、電話に出なかったんだろう。あの時、電話に出ていれば……出れたのに。彼の声を、聞けたのに。彼の最後の叫びを、聞けたはずなのに。ううん。朝、ちゃんと顔を見ていれば、彼の決断に気づいたはず。彼は聞いた。何便に乗るかって。聞いたじゃない。なのに私は……彼に何度も救ってもらったのに、私は一度も彼を救えなかった。それどころか、何も、何も見ていなかった。彼の苦しみや絶望に、何も気づかないまま……私が彼を殺してしまった。
 私が、聞きのがしたから。私が、見のがしたから

「麗子さん? お加減でも?」
「ううん。大丈夫。ちょっと疲れたのかしら」
「そろそろ、戻りましょうか」
私達は、カフェを出て、車に乗った。外はまだ寒いけど、車に乗ると、柔らかい陽射しが窓から注いで、まるで、春が来たよう。
「ねえ、ちょっと、寄って欲しいところがあるの」
「どちらですか?」

 この場所に来るのは、何年ぶりだろう。あの人がいなくなってから、私はこの場所へ、来ることができなかった。何度も近くまで来たけれど、この、私達が昔、飛行機を見ていたこのベンチに、そして、あの人が最後に座ったこのベンチに、私はたどり着くことが、どうしてもできなかった。
「わあ、いい眺めですね!」
「飛行機がね、よく、見えるの」
そうしてる間にも、何機もの飛行機が、私達の頭の上を、通り過ぎて行く。毎日のように、あの飛行機に乗っていた日々が、もう遥か昔のことのように、感じる。

 私達のデートは、だいたいここで、たまには代官山とか表参道でデートしたいという私に、彼は苦笑いをした。彼はパイロットのくせに、全然派手なところがなくて、ブランド品にも、オシャレなレストランにも、興味がなくて、スーツ以外の私服は、はっきり言って、いけてなかった。イケメンなのに、全然女の子に慣れてなくて、デートもレストランも、何もかも、私任せ。
 でも、優しかった。相変わらず叱られてばかりの私を、いつもかばってくれて、慰めてくれて、元気づけてくれた。
 私は彼がいるから、CAをやっていれた。絶対に、私を裏切らないって、信じてた。私を一人になんかしないって、信じてた。

「思い出の場所なの」
「素敵な場所ですね」
「直輝には、内緒よ」

 ねえ、透。私ね、愛してるの。あなたによく似た、あの人のこと。そしてね、このお腹の中には、あの人の子供がいるの。透、教えて。あの人は、あなたみたいに、一人で、苦しんでる。どうしたらいい? 私、どうすればいいの? もう、失うのは、イヤなの。一人になるのは、イヤなの。透、どうすれば、あの人を救えるの? ねえ、教えて。
 透……これは、罰なの? 私があなたを殺してしまった、罰なの? 私だけ、幸せになんて、やっぱりなっちゃ、いけないの?

「さあ、麗子さん、お身体に障りますから、そろそろお車へ」
車に乗ると、紗織ちゃんの携帯が鳴っていた。
「……ええ、一緒です。お待ちください」
紗織ちゃんは、携帯を差し出した。
「社長です」
「……もしもし」
「麗子? 大丈夫か?」
「うん」
「なかなか帰らないから、心配するじゃないか」
「今、どこなの?」
「家だよ。少し時間ができたから、帰ってきたらいないからさ」
「紗織ちゃんと、お話してたの」
「そうか、それならいいんだけど。何かあったのかと思って心配したよ。携帯もつながらないしさ」
「ごめんね」
「じゃあ、会社戻るから」
「うん。気をつけて」
電話が、切れた。
「社長、心配されてるんですよ」
「うん……ちゃんと、ケイタイ、携帯しないとね」

 家に帰ると、エアコンがついてて、部屋はあったかい。直輝がつけておいてくれたみたい。ソファには、紙袋が置いてあって、中には、マタニティ用のパジャマが入っていた。買って来てくれたんだ。ありがとうって伝えたくて、スマホの電源を入れると、何通もの不在通知が入ってきた。直輝と、村井さん。心配、してくれてるんだ。電話をかけたけど、留守番電話に、切り替わった。お仕事中だもんね。メッセージを送ったら、しばらくして、返信があった。『今会議中で、すごく眠い』って。もう、ちゃんと仕事してるのかしら。
 
 聞きのがすのは、携帯のせいじゃない。見のがすのは、テレビのせいじゃない。全部、私のせい。もう絶対、聞きのがさない。見のがさない。私は絶対、直輝を離さない。だって、愛しているから。直輝も、私を愛してる。直輝は、救ってくれた。私を、冷たい、一人の朝から、救ってくれた。だから、私も、あなたを救いたいの。直輝、愛してるから。あなたの苦しみを、私にも背負わせて。

 『愛してる』って、メッセージを送った。すぐに既読がついて、『俺もだよ』って、メッセージが来た。会議中なのに。また、村井さんに、叱られちゃうよ。

 わかってるの。他にも、愛している人がいる。彼を、愛している人がいる。別れたなんて、ウソ。彼は、その人と、私の間で、苦しんでる。そして、もっと何か、大きな苦しみを、彼は背負っている。
 
 ねえ、透。お願い。その空から、この子と、夫を、守っていて。
 ……罰を受けるのは、私だけで、充分だから。

取引

 僕の隣に、直輝が座っている。僕達は、何も言葉を発することなく、僕の、駐車場にいる。薄暗い駐車場には、僕達以外に、誰もいない。静まり返った地下のこの場所に、僕の車がアイドリングする、エンジン音だけが、響いている。

 変わらず、直輝は僕を抱いていた。あの、汚らわしい女を抱いた体で、心で、僕を抱いていた。まるで、かつての『同じ彼ら』のように、僕のことなど、もう、愛していないくせに、直輝は、優しく、変わらず、僕を、抱いていた。

「随分、アドリブがきいているね」
僕の言葉に、直輝はいつものように俯き、目を閉じ、じっと、黙っている。
「あれじゃあ、まるで、夫婦だ」
僕は、直輝を追い詰めている。わかっている。でも、僕は……直輝を、離したくなかった。直輝を、僕だけの直輝に、しておきたかった。
「僕のこと、愛してるよね?」
「祐輔……」
「僕達は、愛し合ってるよね?」
「……愛してる」
直輝は、そう低く呟いて、僕に微笑んだ。
「祐輔、愛してる」
「よかった」
「でも、今は……麗子も、大事な時期なんだ。あまり……心配させたくない」
 麗子の腹の中の子供は、まもなく七ヶ月になる。不思議なものだ。腹の中で、何も食べていないのに、水の中で呼吸もできないのに、麗子の腹の中には、人間が一人、存在している。そして君は、そのまだ見えない人間を守るために、金で買った女を守るために、僕に嘘をついている。許せないな。僕は君が許せない。
「そうだね。麗子のお腹には、僕達の子供がいるんだもんね」
「辛い思いをさせて、悪いと思ってる」
なぜなんだ。なぜ君は……そうやって、僕を許すんだ? 君は、それが愛情だと思っているのかい? それが優しさだと思っているのかい? そんなのはね、愛情でも、優しさでも、なんでもない。ただの……同情なんだよ……
「直輝、キス、してよ」
「ダメだろう。誰かに、見られたら……」
「こんな夜中に、誰もいないさ」
もう、夜中の二時をまわっている。僕は、同情でも、憐れみでも、やっぱり、直輝を愛してる。直輝が、欲しい。あんな女に、直輝を渡せるわけがない。
「キス、できないの?」
「できないわけ、ないだろ」
そう言って、直輝は、いつものように僕を抱き寄せて、優しく、甘く、僕にキスをした。
「もっと……」
そして、僕達は、熱く、長く、強く、キスをした。その時間は、どれくらいかはわからないけど、ほんの、数秒か、数分か、わからないけど、僕達は、キスをした。初めて、僕達が一緒に過ごすようになって初めて、僕達だけの世界の外で、キスをした。
「僕だけの、直輝でいて」
「祐輔……俺は……」
「僕だけの、直輝だよね?」
直輝は、答えなかった。答えずに、あの、鉄屑を、握りしめた。ねえ、言っているだろう。僕はね、君のその姿が……その崇高な姿が、一番嫌いなんだよ。僕をまるで、穢れのように、ねえ、直輝、君にとって、僕は穢れなのかい? 僕は……穢れなんかじゃない! 僕は君の、ただの恋人だ!
「麗子を、傷つけたいの?」
「……どういう、意味だ?」
「僕だけの直輝でないなら、僕は麗子に、全てを話す」
 直輝、お願いだよ。君しかもう、僕を止められない。止めて欲しいんだ。僕はもう……自分では、どうにもならないんだ……これは、僕の最後の、警告なんだよ……なのに……
「祐輔、麗子は、何も知らずに、俺達を信じてるんだ。このまま……何も知らないまま……頼むよ……」
……直輝、君は、僕の警告を無視したね。……許せない。僕は、君とあの女を許さない。
「今夜は、一緒に寝たいな」
「そうだな。一緒に寝よう」

 いつからか、僕が『偽り』になっている。君は、偽りの愛で、僕を抱いている。僕はまた、愛のない、セックスを、している。

***

「室長、あの……関口さんが……お見えなんですけど……」
「関口? ああ、あの三流記者か。僕の部屋に通して」
森江くんは、はあ、と心配そうな顔をして、関口を呼びに行った。彼女も、随分成長したもんだ。ここに来た頃は、出来損ないを絵に描いたような女だったが。

「どうも、村井室長さま」
相変わらず、下品な男だ。吐き気がする。
 僕は人払いをして、関口と、向かい合った。
「どうでしょうか? なかなか、よく撮れてると思うんですけどねえ」
関口は、下世話な、男同士のキスシーンを、テーブルに広げた。
「しかしまあ、こうやって、リアルに見ると……なかなかセンセーショナルなものはありますねえ」
下品な三流記者は、ニヤニヤと笑って、自分の撮った写真をしげしげと眺めた。
「これで君も、立派なスクーパーだ」
「しかし、どうしたんです? こんなスクープを、あなたから提供していただけるなんて」
僕は、あの夜、この男を、待たせていた。あの駐車場に、カメラを持って……写真を、撮らせた。
「君の記事を読むような俗的な人間は、ここまでで充分だろう」
「確かにねえ。今を時めく野間直輝はゲイで、参謀とデキてて、金で買った嫁さんがいて、子供まで生ませて。いやはや、恐ろしい男だ」
僕は、この男のセリフに、途轍もない憎悪を感じたけれど、それは、まさしく、僕の、シナリオ。
「今後一切、我々の前に、現れないでいただこう」
「野間直輝が、空っぽの、単なるあなたのマリオネットだってことは、黙ってろって、ことですか」
「そんな事実は、ない」
 僕は、それを、恐れていた。恋愛ゴシップなど、そのうち消える。そもそも、僕の『ネットワーク』を使えば、こんなくだらない記事、瞬殺できる。
 だが、経営に関することは別だ。今、会社は大事な時なんだ。今、しくじるわけにはいかない。麗子の腹の中の子供のように、『僕』の会社は、あと少しで、外に出ようとしている。世界に、出ようとしている。やっと、やっと、僕は、成功するんだ。僕は、もう、キモいホモ野郎でも、貧相なオタク野郎でもない。僕は、成功者になるんだ。そして、僕を謗り笑った人間を、謗り笑うんだ。
 ねえ、直輝、僕は、君だけは許していたんだよ。なのに君は、僕を裏切った。こんなに君のために尽くしてきた僕より、あんな薄汚い、ゴミのような女を選んでしまった。そして、僕を騙そうとしている。愛してる? 冗談じゃない。僕はね、真偽を見分ける能力が、誰よりも優れているんだ。
 でも、君が僕をそうするなら、僕も君をそうするよ。君は、永遠に、僕のものだ。僕の性欲を満たし、僕のシナリオを演じ、僕を成功させろ。許さない。あんな女の所になど、絶対に行かせない。君は僕のためだけに、生きろ。
「あなたも、恐ろしい男だねえ」
「僕は秘書として、任務を全うしているまでだ」
関口は、僕を蔑む目で見て、立ち上がった。
「愛の力は、偉大だなあ」

 いや、僕はこんなことのために、こんな粉塵みたいな男と取引しているんじゃない。君には、もっと重要なミッションがある。
「記事が出る前に、一つ、やってもらいたいことがある」
僕は、ブリーフケースから、銀行のマチ付き封筒を、その写真の上に、投げた。
「なんですか」
関口は、座り直し、封筒の中味を見て、にやり、と笑った。

「再来週の土曜日、夫婦同伴の、パーティがある」


***


 いつの間にか、冬が過ぎ、春になり、麗子の出産も近づいている。麗子のその腹は、誰が見ても、大きくなっている。
「ずいぶん、お腹が大きくなりましたね」
「そうでしょう。もうね、七ヶ月、過ぎたの」
「わかっているんですか?」
「何が?」
「性別です」
麗子は僕の言葉に、うっとりと、幸せそうな笑みを浮かべ、バックミラー越しに、僕に微笑んだ。
「聞けば教えてくれるんだろうけど、聞かないことにしたの」

 今日は森江くんに休暇を取らせ、僕がパーティ会場まで、麗子を送っている。

 ホテルに着くと、麗子は、大きくなった腹を支え、車から降りて、腰が痛いのよ、と笑った。
「今日で、とりあえず終わりにしましょう」
「パーティ?」
「お辛いでしょう」
「ありがとう。お腹が重くて、立っているのがつらいの」
「そうですか。社長を探してきますので、こちらでお待ちください」
 サロンで麗子を待たせ、僕は、スマホの電源を落とし、ロビーでしばらく、待った。そして、十五分ほどして、あの男が、現れた。
「どうも、村井さん」
関口は、僕の顔を見て、ニヤニヤと笑った。
「どうぞ、こちらへ」
僕は関口に続き、エレベーターに乗った。
「こちらです」
関口の開けたドアの向こうのシングルベッドには、麗子が眠っていた。いや……おい、ここまでやれとは言っていないだろう! 僕は部屋に連れてこいと言っただけだ!
「麗子さん! なんてことをするんだ!」
 麗子は猿轡をされ、手を後ろ手に縛られていた。僕の顔を見て、うーうーと麗子が声を上げる。
「妊婦なんだぞ!」
僕は慌てて、猿轡を外し、腕のロープを外した。
「大丈夫ですか? 何ともありませんか?」
怖かった、と麗子は泣いている。まったく、これだから、低能な人種は困る。勝手なアドリブを入れるんじゃない!
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
「どうしようって言うんですか」
「刑事告訴する! これは立派な誘拐、監禁だ!」
「まあまあ、村井さん。それより、ちょっと聞かせてくださいよ」
「君と話すことはない」
「これ、見てください」
関口の見せたスマホの画面には、あの、写真がある。
「これ、誰ですか?」
「さあね」
「僕には、村井さんと、野間社長に、見えるんですけどねえ」
僕は、麗子を、見た。
「奥様に確認していただいたら、わからない、と仰っるんで、やはり、ご本人にも確認していただこうかと」
麗子は俯いて、泣いている。その姿は、まるで……あの、鉄屑を握りしめた、直輝のよう。僕はまた、あの苛立ちを、感じ始めた。

 苦しめ。麗子、苦しめ。君は僕の大切なものを奪った。その罪は……償ってもらう。

「野間社長って、パソコンなんてほとんど使えないそうじゃないですか」
関口? そんなことはシナリオに書いていないぞ?
「……だからなんだ?」
「野間社長はただの、マリオネット」
「話すにも値しない」
「あなたは、野間社長の、ゴースト」
「おい! やめたまえ!」
「村井さん、僕もね、これでも、ジャーナリストの端くれなんですよ」
関口の顔から、ニヤニヤが、消えた。何がジャーナリストだ。貴様など、ただの、寄生虫じゃないか。もうこんな三文芝居も終わりだ。まったく、使えない奴だ。 
 僕は関口を睨み付け、麗子の肩を、優しく、抱きかかえた。
「麗子さん、気にすることはありません。さ、行きましょう」
でも、麗子は、動こうとしない。
「麗子さん、さあ」
「本当、なの?」
「デタラメです。こんな人間の言うことなんて、間に受けてはいけません」
 ふむ、いい感じだ。多少、僕のシナリオからは外れたけれど、この女の顔。無様な顔。いい気味だ。いつもへらへらと笑っている、この女の今の顔を、あの直輝にも見せてやりたいよ。さあ、麗子、怒れ。騙してたのか、と怒って、僕と直輝に、下劣な非難をしろ。最低だ、キモい、って、さあ、言え。直輝など、もういらないって、言え。こんな子供、いらないって、言え!
「奥さん、前々からね、噂があったんですよ。この村井室長と野間社長は、そういう、関係だとね。あなたは、フェイクなんです。二人の関係を隠すための、フェイクなんですよ」
「フェイク……」
「契約、しませんでしたか?」
関口は、麗子を追い詰める。その姿は、いつもの下劣な三流記者ではなく、まるで……死神。死神は、虚構の僕達を、今、何もかも、消去しようとしている。
 その死神の前で、麗子は、ずっと俯いて、口を噤み、じっと、目を閉じている。その薄いピンクのワンピースは、あの日、僕と一緒に買った、ワンピース。麗子は薄いブルーのワンピースと散々迷った挙句、僕にどちらがいいかしつこく訊ね、面倒臭くなった僕は、ピンクの方がお似合いですよ、と適当に返事をしたのに、この女ときたら、そう、村井さんがそう言うなら、ピンクに決まりね、と嬉しそうに笑ったのだ。本当に、バカを絵に描いたような女だ。その、薄いピンクのワンピースに、ポタポタと、涙が落ち、少し濃いピンクに、染まっていく。
「奥さん、僕はねえ、奥さんがお気の毒で仕方ないんですよ。だからあの時、お伝えしようとしたのに……こんなにお腹が大きくなってしまって……取り返しがつかないじゃありませんか」
関口は汚らわしい手で、麗子の、直輝の子供のいる腹を、撫でた。
「あなたは、騙されてるんです。この二人はね、ゲイなんですよ。あなたを辱めて、二人は楽しんでいるんです」
なんて下劣な……最低な男だ……でも、それは……僕の、シナリオ……
「そしてね、あなたのご主人は、ただの、マリオネットなんですよ。この村井室長の、操り人形。野間社長も、この村井室長に、騙されているんです」
 ……なんてことだ……やはり、関口のような下劣な男と取引した僕が間違っていた。まあ、もういい。どのみち、いずれは、こうなることは、わかっていた。エンドロールが、少し早まっただけだ。
 もう、麗子にも、直輝にも、用はない。もう、貴様達など、用済みだ。
 さあ、麗子。慰謝料の話でもしようか? 仕方がない。その子は、僕の養子にしてやろう。しかし、君とあの直輝の子供だからね、到底、優秀な人間だとは思えないが。
「奥さん、どうですか。告発するなら、僕がお手伝いいたしますよ」
 麗子は、顔を上げた。そして、関口の手を、払いのけた。涙の乾かないままのその目は、その顔は、初めて、あの応接室で、直輝の手を払いのけた、あの時のように、強い。
「ウソよ」
「ウソじゃありませんよ」
「そんなわけないわ」
「奥さん、これを……」
「ウソよ! 村井さんは、そんな人じゃない! 村井さんはね、とっても、とっても優しい人なの。私のこと、ずっと支えてくれる。悲しい時も、寂しい時も、ずっと、ずっと、私のそばにいてくれたの。あんたなんかに、村井さんの何がわかるって言うの? 直輝もね、私もね、村井さんを信じてる。村井さんは、そんな、そんな人じゃないのよ!」
麗子? 君は、どうしたんだい? 何を、言ってるんだい?
 関口は明らかに動揺し、スマホを、麗子に突き出した。
「見たでしょう? この写真。ほら、このキス、これが全てなんですよ。ほら、もう一度……」
「こんな写真、合成……」
そこまで言って、麗子は、お腹を押さえ、顔を歪めた。
「麗子さん?」
麗子はうめき声をあげて、ベッドにうずくまった。
「麗子さん! どうしたんですか!」
「……痛い……痛いの……」
麗子の顔は蒼白で、油汗が流れ、身体はガタガタと震えている。
「救急車……おい、救急車だ!」
僕は急いでスマホを出したが、しまった、電源を落としていた。なかなか、起動しない! 焦る僕の隣で、関口は固まって、呆然と立ちすくんでいる。
「関口! 救急車を呼べ!」
僕の声に関口は我に帰り、119を押そうとしたが、手が震えているのか、なかなかかからない。
「貸せ!」
僕は救急車を呼び、麗子の手を握った。
「麗子さん、しっかりしてください」
「こんなことになるなんて……」
関口は蒼ざめて、ガタガタと震えている。そして、僕も……手の震えが止まらない。こんな、こんなつもりじゃなかった。僕はただ……直輝を、取り戻したかった……ただ、それで、それでよかったのに……
「直輝……」
麗子は、弱々しく、呟いた。バッグの中で、携帯が鳴っている。きっと、直輝からだ。待ち合わせの時間は、もう、疾うに過ぎている。直輝は、麗子を心配して、ロビーで……どうしたらいいんだ……僕は、取り返しのつかないことを、してしまった……
「村井……さん……」
「なんですか、麗子さん。すぐに、救急車が来ますからね」
麗子は、その手で、冷たい汗ばんだ手で、僕の手を弱々しく握り……謝った。
「ごめんね……」
 なぜ、なんだ……僕は君を、騙していたのに……欺いていたのに……何の罪もない君に、腹の中の子供に、こんなに残酷な仕打ちを、したのに……
「村井さんのこと……つらく、してたよね……」
「麗子さん……僕は……」
「直輝も……つらかったんだよね……」
麗子、君は……
「私さえいなかったら……いいんだよね……」
こんな愚かな僕を……許してくれるのかい?
「違いますよ、麗子さん。騙してなどいません。僕と社長は……ただの……部下と上司です」
「……優しいんだね……」
麗子は、力弱く、微かに微笑んで、目を閉じた。
「麗子さん! 麗子さん! 麗子! しっかりしろ! 麗子!」
僕は必死に、麗子の名前を呼んだ。僕は必死に、麗子の体を抱きしめた。僕は、麗子を、失いたくなかった。絶対に、失いたくない!
「失礼します! 患者はどこですか!」
 ドアが開き、救急隊が入ってきた。麗子は担架に乗せられ、運ばれて行く。麗子の顔にはもう生気がなくて、僕は夢中で救急隊を追いかけ、ロビーへ降りた。ロビーは騒然としていて、僕は必死で、群衆をかき分け、大声をあげ、救急隊の、麗子と子供の、道を作った。こんなに大声を出したのは、生まれて初めてだった。こんなに誰かのために汗をかいたのは、初めてだった。

「祐輔!」
群衆の中に、直輝がいた。直輝は僕をめがけて、一心不乱に、走ってくる。人をかき分け、走ってくる。
「麗子か? あれは麗子なのか!」
僕は、初めて見た。そんな、直輝の顔を。こんな、険しい顔の直輝を、初めて見た。
「麗子!」
救急隊と一緒に、直輝は救急車に乗った。僕のことなど、一瞥もせずに、直輝は、救急車に飛び乗り、麗子の手を握って、救急車のドアが閉まり、けたたましいサイレンを鳴らしながら、救急車は、渋滞の道路へ出て行った。僕は呆然とそれを見送り、ざわざわと散らばって行く雑踏の中で、一人、立ちすくんだ。

「村井さん」
振り向くと、関口が立っていた。
「ジャーナリストの前に、俺、人間、なんだよね」
差し出した手には、あの封筒と、写真が、あった。
「あんたもさ、人間、だろ?」
僕はそれを受け取り、彼に言った。
「僕はもう、人間じゃない。悪魔だ」
「あっそう。なら、もう勝手にしなよ。俺は人間しか、相手にしない」
関口は悲しげな目で僕を見て、じゃあ、と背中を向けた。
「関口くん」
「なんだよ」
「君は、僕のシナリオ通りに行動しなかった。これは、契約違反だ」
「裁判でもするって言うのか? あんた、どこまでも……腐ってるな」
「なんとでも言うがいい。そもそも、君は共犯だ。君には、相当の、責任を取ってもらう」

 僕は、もう、悪魔になったんだ。だから、最後のシナリオを、僕は、この、悪魔に成り下がった、最低で、下劣で、俗的な、村井祐輔のために、捧げる。

 麗子が、目を覚ましたのは、もう、明け方近くだった。俺は十字架を離し、祈りから、麗子に戻った。

「気が、ついたか?」
「……直輝……」
麗子は無意識に、腹に手をやった。膨らんだままの腹に、麗子はほっとしたように、目を閉じた。
「無事、だったのね……」
「ああ、無事だった。お前も、赤ちゃんも」
「よかった……」
 俺はナースコールを押して、医師を呼んだ。当直医は、大丈夫でしょう、と言って、また明日、精密検査します、と部屋を出て行った。
「神様が、守ってくださったのね」
麗子は俺の手にあった十字架を握り、ありがとうございました、と呟いた。
 何を言えばいいのか、まだ、整理ができていない。麗子は、知ってしまった。何もかも。俺と祐輔のことも、本当の俺も、俺の罪も、全て。
 黙ることしかできない俺の手を、麗子がそっと、握った。
「すまなかった」
「そんな顔、しないで」
「麗子……俺は……」
「もう、いいの」
そう言って、麗子は微笑み、膨らんだ腹を、愛おしく撫でた。
「私には、この子がいるから」
カーテンの隙間から漏れる街灯に、麗子の涙が光る。
「ごめんなさい」
「なぜ、謝るんだ」
「私があなたを好きにならなければ、あなたも、村井さんも、苦しまなかった。契約で、良かったのよ。私が、あなたを……愛してしまったから……」
 麗子は、泣いている。そして、俺の全てを、許している。俺を本当に……本当の俺を、愛してくれている。もう、戻れない。俺は、戻ることができない。
「麗子、愛してる」
「無理、しないで。いいのよ、元々、一人だったんだから……この命に、もう、未練なんてなかったんだから……」
そう言って、麗子は背中を向けた。
「一人で、大丈夫だから。きっと、村井さん、傷ついてるわ。彼の所へ、行ってあげて」
こんな愚かな罪人を……麗子……お前という女は、どこまで、慈悲深く、清廉なんだ……
「お前の所に、いさせてくれ」
麗子は、何も言わなかった。
「ゲイの夫は、嫌か……気持ち、悪いか……」
麗子の肩が、震えている。麗子、やっぱり、俺は、お前を……離せないんだ。
「許せないよな……」
麗子は背中のまま、首を、横に振った。
「嫌なわけないでしょう! 気持ち悪いなんて、思うわけないじゃん!」
「麗子……」
「そばにいて欲しいに決まってるじゃん……どこにも行かないって、家族になるって、約束したじゃん……」
「どこにも、行かない。家族になるんだ。俺達は、家族に……」
「でも、でも……村井さんが……村井さん、優しいの……いつも、いつも私のそばにいてくれたの。いつも、いつもね……絶対、つらかったのに……私と直輝を見て、絶対つらかったはずなのに……」
そうなんだ……きっと、祐輔は、俺なんかより、ずっとつらかったはずだ。俺の心が離れていくのを、祐輔は、わかっていたはずだ。それなのに俺は……建前の優しさで、あいつを離すことができなかった。いや、甘えていた。俺は『別離』という選択が、どうしてもできなかった。本当は、俺を傷つけたくなかっただけで、結局、祐輔も、麗子も、傷つけてしまった。祐輔を、追い詰めてしまったのは俺なんだ。麗子にこんな残酷な決断をさせているのは俺なんだ。俺が、俺が……弱い人間だから……
「それは、俺の罪だ。お前が背負う必要はないんだ」
「違うわ。それは私の罪でもあるのよ。だって……私ね、ワガママなの……私だけの直輝でいて欲しいの……だから、私も、同じ罪を背負って生きていくわ」
麗子……お前はこんな俺を……こんなに、愚かで、無能で、弱い俺を……愛してくれるのか……
「一緒に罪を償わせて」
「ありがとう。麗子、俺は……」
「私と、この子だけの……直輝でいてくれる?」
「ああ、お前と、子供だけの……俺で、いさせてくれ」

 もう、それは、嘘ではない。俺はもう、祐輔を愛せない。俺は、俺のためだけに生きてくれた祐輔よりも、俺の家族を作ってくれた、本当の俺を受け入れてくれた、麗子を選ぶ。俺は、この罪を、生涯をかけて、償う。もう、それしか、俺が、人として、生きる道はない。
 
 そして、最後の、懺悔をする。

「麗子、俺は、何もできないんだ」
「うん」
「あの会社は、俺のものじゃない。村井が……祐輔が、作って、大きくしたんだ。俺はただの……看板なんだ」
「薄々、わかってたよ。だって直輝、全然仕事に興味ないもん。経済誌も、ニュースも見ないもん」
「疲れていたんだ、もう。ずっと、偽っていた。本当の俺は、もう、どこにもいなくなりかけてた」
 本当に、俺は、もう、疲れていた。祐輔のためだけに、いや、本当の俺を晒すのが怖くて、ずっと演じてきた俺は、もう、疲れ切っていた。でも、それは祐輔の罪じゃない。俺が弱いから。弱い人間だから。
 俺は結局、祐輔を救えなかった。何も、祐輔にしてやることは、できなかった。最後はこうして、祐輔を、傷つけてしまった。いや、ずっと、傷つけていた。俺以上に、祐輔は、傷つき、疲弊していた。
 だからもう……
「お前といる時だけが、本当の自分でいられる」
「まだ、本当じゃないじゃん。社長なんて、ウソじゃん」
麗子は、背中を向けたまま、そう言った。
「本当の俺に、戻りたいんだ」
「今はね、CAのパートタイマーもあるんだよ」
麗子……お前も俺を、甘えさせてくれるんだな……
「家事は、得意だよ。たぶん、料理は……結構上手い」
「もう、それ、どういう意味?」
「そういう、意味」
 麗子は、大きな腹を庇いながら、俺に向き直った。俺を見るその目は、まだ涙で濡れていて、でも、笑っていた。無理な笑顔じゃなくて、本当に、素直に、笑っていた。
「チュウ、して」
俺は、麗子の腹の中にいる子供にキスをして、そして、麗子の唇に、キスをした。
「あ、蹴った」
「どこ?」
「ほら、また。あっ、イタタ……元気だね、この子。やっぱり、男の子かな」
「男の子でも、女の子でも、元気で生まれてきてくれたら、それでいい」
麗子の腹の中の子供は、俺達の子供は、麗子の腹の中で、元気に動いている。生きている。俺はもう、それだけでいい。麗子と、この子がいれば、もう、それでいい。
「もう少し、寝るか?」
「一緒に、いてくれる?」
「ああ、いるよ、ずっと。ずっと、永遠に」
 俺は麗子の手を握った。麗子も俺の手を握った。俺達は、お互いの手を、もう二度と離さない。俺達はやっと、本当の夫婦になった。そしてこれで、俺は、本当の父親に、なれる。
 
 もう、自分を、麗子を、生まれてくる子供を、偽ることはしない。
 祐輔を、もう、偽ることは、できない。

 麗子は三日ほどの入院で、無事退院し、俺は、一週間ぶりに、祐輔の部屋へ、帰った。座り慣れたこのソファに向かいには、冷淡な目の、祐輔がいる。
「僕も、君に話がある」
「ああ。先に言ってくれ」
「君は随分、俗的に堕ちてしまった」
 祐輔は、オフィスでの祐輔のように、冷たく、冷静に、言った。
「僕は俗的なものが嫌いなんだ」
「そうだったな」
「あんな薄汚い女に本気になるなんて、僕は君に失望したよ」
「すまない。この罪は、一生……」
「その、罪だとか、そういうのも、僕は好きじゃなかった。そもそも、この世に神なんていない。君が何かにつけて、その鉄屑を握りしめてブツブツいう姿が、僕はずっと、気に入らなかった」
 祐輔は立ち上がり、背中を向け、窓の外を見下ろしている。
「はっきり言おう。僕達の関係は、もうとっくに、終わっていたんだよ。僕は君を利用していた。僕のビジネスを成功させるためにね。世間知らずで、無能で、バカ正直な君は、ほいほい僕のシナリオに乗って、バカな女を抱いたり、下世話な人間の集まりに行ったり、下品な風体で、まったく、僕は君が本当に知能を持っているのか、疑いたくなっていたよ」
「祐輔、俺は本当に、お前を愛していたんだ」
「愛? 君はどこまでお花畑なんだ。そんな俗的なもの、僕には必要ないんだよ。利用できそうな人間だったから、僕は君に近づいた。君との関係を明かさなかったのも、そのためだ。それなのに、君ときたら。まあ、君の体は僕の好みではあるからね。性欲の処理としては、充分に用をなしていたけれど」
祐輔はそこまで言うと、振り返り、鞄の中から、書類を一枚、俺の前に出した。
「次の取締役会で、君の解任要求をする」
祐輔……お前……
「そろそろ、僕が社長になって、本格的に世界進出を図りたいからね。もうお飾りの社長はいらないんだ」
……ありがとう。
「この部屋にあるものは、僕が処分させてもらう。あのマンションも、引き渡してもらう。まあ、そうだね、君には、相当の退職金を出そう。間違っても、提訴なんてしないでくれよ。そもそも、君にそんな知能があるとは思えないが」
「お前に、任せるよ」
 目の前の祐輔は、『室長 村井祐輔』を、自分の書いたシナリオを、精一杯、演じている。だから俺も、最後まで、祐輔のシナリオを演じる。俺達は、俺達の弱さを、演じることで、隠している。
「ああ、そうだ。山奥でフリースクールなんてものをやってる知り合いがいてね。寄付をしてくれとしつこいから、君の名義で、幾分かしておいたよ。しかし、どうやら教員が足りないらしい。まったく、金にならないような仕事をする人間なんて、僕には、バカにしか見えないんだが。まあ、うちは人材派遣会社だからね、今後の取引も考慮して、君のことを、少しばかり話しておいたよ。どうやら、君のような、愛だとか罪だとかを信じている、くだらない人間の集まりの場所のようだから、俗的な君にはぴったりだろう」
そう言って、祐輔は、テーブルに封筒を投げた。少しはみ出した中の書類は、フリースクールのパンフレットと、A4のコピー用紙にぎっしり書かれた、野間直輝の、経歴書だった。
「悪いが、君の話は聞く必要がない。もう、出ていってくれないかな。この部屋が俗的な空気に汚されるのが耐えられない」
 祐輔は、立ち上がって、背中を向けた。いつも、こうするんだ。祐輔は、顔を見られたくない時は、目をのぞかれたくない時は、心の中を知られたくない時は、こうして、背中を向けて、窓の下を見る。ガラスに映る祐輔は、必死で、唇を噛み締めて、涙を、堪えている。
 ああ、やっぱり、俺はダメな男だ。やっぱり、最後まで、お前のシナリオを演じきることができない。せっかくお前が、こんなに最高のシナリオを書いてくれたのに、俺は、やっぱり、なあ、祐輔。やっぱり、俺は、最後くらいは、本当の俺に、戻らせてくれないか。このまま、お前と離れてしまうのは、この弱い愚かな俺には、どうしてもできないんだ。
「ごめんな」
抱きしめた祐輔の体は、出会った頃と変わらずに痩せていて、色白で、変わったのは、きっと、髪の色くらいで、繊細で、優しい、祐輔のままだった。
「汚らわしい」
「祐輔……」
「早く出て行きたまえ」
「許されるとは、思っていない」
「……君の俗的な醜い顔など、見たくない。早く、僕の前から消えてくれないか」
抱きしめた手の甲が、濡れた。
「出て行けよ! 腹を無様に膨らませた、あの薄汚い女のところに行けよ! 早く行けよ! 不幸になれ! お前らなんか、不幸になれ! 二人で……三人で、地獄でもどこにでもいくがいい!」
「……まだ、言ってなかったな……麗子を、子供を助けてくれて……ありがとう」
「僕は下劣な記事の流出を防いだだけだ」
「幸せだった、祐輔……本当に、愛してた」
 祐輔はもう、何も言わなかった。だから俺は、手を離した。
 部屋の鍵をキーケースから外し、テーブルに、置いた。かちゃん、と金属音がして、ずっと過ごしたリビングは、まるで、全く知らない、他人の部屋のようだった。
「さよなら、直輝」
祐輔は背中のまま、呟いた。
「さよなら、祐輔」
 俺は、リビングのドアを閉め、玄関のドアを閉めた。きっと、泣くんだろう。祐輔は、きっと、泣く。一人で、あのベッドで、泣く。もう、俺は、どうすることもできない。俺はもう、祐輔を、恋人として、愛することがきない。いや、もう、愛しては、いなかった。でも祐輔は、最後まで、俺を、祐輔のシナリオの『野間直輝』のままで、終わらせてくれた。俺の罪を、全て、その細い背中に、背負ってくれた。
 見上げると、俺達の世界は、いつの間にか、高層マンションになっていて、あの、八畳のワンルームのアパートで、狭いベッドで、愛し合った日々はもう、遠い記憶でしかなくなっていた。俺達の愛は、いつの間にか、すれ違ってしまっていた。でも、俺は、祐輔を愛していた。麗子という女が現れなければ、きっと俺は、一生、祐輔を愛していた。それが本当に、祐輔のためだったのか、祐輔にとって本当の幸せだったのか、それはわからない。ただ一つ言えることは、後悔はしていない。祐輔と愛し合い、全く別人の俺を演じてきたことに、後悔はしていない。祐輔と出会わなければ、麗子にも出会わなかった。俺は、友として、一人の人間として、やはり、ずっと、祐輔を愛し続ける。そうすることで、俺は、祐輔がいつか、彼の求める愛に触れ、本当に救われる時を、祈り続ける。

「ありがとう、祐輔」

 見上げた部屋の灯りに呟き、麗子に電話をかけた。
「今から、帰るよ」
「……うん。待ってる」
麗子は少し鼻声だった。泣いていたのかもしれない。そして、俺も、鼻声で、俺達は、二人で、鼻を啜った。
「今日の、晩飯、何?」
「肉じゃがだよ。お料理教室で、習ったの」
「そうか、楽しみだな」
「直輝」
「うん?」
「本当のあなたに、戻れた?」
「ああ。戻してくれたよ、祐輔が」
「やっぱり、優しいね、村井さん」
その言葉に、俺は、涙が止まらなくなって、電話の向こうの麗子も、きっと、涙が止まらなくなって、ふと、窓を見上げると、カーテンの隙間から、祐輔が見えた気がした。

 季節は春が終わろうとしている。風が、少し蒸し暑い。もう、梅雨に入るのかもしれない。そして夏が来て、きっと、元気な子供が生まれてくる。俺は父親になり、麗子は母親になる。俺たちは、家族になる。本当の、家族になる。

 そして、その一週間後、俺は退任会見を行い、俺達は、東京を離れ、祐輔が紹介してくれた、フリースクールのある、北海道へ、移住する。俺はそこで、教師として働き、かつての祐輔のような子供たちと過ごし、山へ登り、静かに、我が子の誕生を、待っている。
 退任以来、祐輔からの連絡はなく、俺も祐輔に会うことができず、やはり、罪の意識から逃れられずにいたが、雄大な自然と、子供たちと、何より麗子の愛で、俺は、これからの本当の人生を、歩き始めていた。
 夫として、父親として、教師として、大人として、人間として、憂のない自分になれたときに、俺はもう一度、祐輔に、友として、会いたいと思う。その時が来るまで、祐輔、待っていてほしい。そして今度こそ、本当の意味で、お前を、救うことができたなら、その時は、俺を、許してくれ。

「直輝先生!」
祈りを捧げていた俺に、生徒の一人が駆け寄ってきた。
「どうした? そんなに慌てて。イエス様の前だ。静かにしないと」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 麗子ちゃんが、麗子ちゃん、赤ちゃん生まれそうって、病院行ったって! 先生も早く行かないと!」
「まじか! すぐ行く!」
「先生!」
「なんだ!」
「僕が代わりにお祈りしておくからね!」
「おう! 頼んだ!」

 祐輔、ついに、生まれるよ。俺と、麗子と……お前の子供が! 祐輔、守ってやってくれ。麗子と、子供を、な、守ってやってくれ!

俗畜

 僕は、社長室に座っている。そして今、僕の手元には、『ニュースタイムズ』という、三流雑誌がある。

『……前社長である野間氏は、国内の雇用状況改善への貢献と、被災地復興のため、国内での営業強化と、長期的な復興支援を行う方針を打ち立てた。しかし、かねてより、海外進出計画を進めていた村井氏はこれに反発し、強引に野間氏に退任を迫った。まさしくこれは、謀反というべき行為であり、村井氏は、長年の戦友を、同志を、一夜のうちに裏切ったことになる。
 かねてより、野間氏と村井氏の間には不仲説が流れており、同社の元役員A氏によると、表向きはワンマン経営者に思われていた野間氏は、実は民主的で、人情派だったと言う。反対意見も満遍なく取り入れ、一時経営不振に陥った時も、リストラによる人員整理は行わず、役員報酬の返還で、危機を乗り切ったという。一方、村井氏は、創業当初より、野間氏の参謀と言われていたが、社内での評判は芳しくなく、村井氏に敵対し、会社を去った優秀な人材も少なくないという。』
ふむ、あの三流記者にしては、上出来だ。
『とはいえ、学生ベンチャーとしての同社を、今の形にまで発展させた村井氏の経営手腕は、誰が見ても、野間氏を上回っており、今回の内紛劇も、起こるべくして起こったと言える。現に、野間氏退任の後、同社の株価は上昇しており、村井氏の進める、大規模プラントや、IT途上国への人材輸出は、今後、ジャパンピジネスの中心となっていくであろう。今後の村井新社長の経営手腕に、日本の経済力の復活がかかっていると言っても過言ではない。……』
まあ、この部分は褒めてやってもいいだろう。この記事のおかげで、僕の会社も、そして、僕の名前も、世界に広まった。
 しかし、最後が気に入らない。
『私事とはなるが、私は、退任後の野間氏を取材すべく、彼に会いに行った。彼は今、在任中に運営資金を寄付した、某フリースクールの教員をしているという。退任より二ヶ月も経っていないというのに、彼は随分容貌が変化していた。かつては、数多の女性と浮名を流し、トレンドの最先端を走っていた彼が、ヘアワックスもつけない髪と、ファストファッションのTシャツに短パンで現れたのだ。このように書くと、読者の皆様は、彼が都落ちした落ち武者のような生活を送っていると思われるだろうが、まるで、その反対である。彼は、ギスギスしたビジネス界を離れ、なんとも、人間臭く、かえって輝きを増していたのだ。
 彼は今、心に傷を負った少年少女と、愛妻麗子夫人と、雄大な自然の中で、生きている。間もなく、第一子が生まれるそうだ。彼は幸せそうに、満面の笑みで、私に語ってくれた。『今の僕と、妻があるのは、すべて村井くんのおかげなんですよ』と。私は、きっと、野間氏は、村井氏のことを恨んでいるだろうと思っていた。その恨み辛みを聞きたくて、書きたくて、彼に会いに行った。 
 そんな野間夫妻の笑顔を見て、ふと、自分がジャーナリストを志した若き日のことを、思い出した。私は、誰かを傷つけるためにジャーナリストを志したわけではない。このペンで、悪に立ち向かい、誰かを笑顔にするために、ジャーナリストになったはずだった。この五年間、遮二無二、野間氏と村井氏を追ってきた。彼らの成功と希望を壊すために、私は彼らを追い詰めてきた。何をしていたのか。私は一体、何をしているのか。
 この記事を最後に、私は、もう一度、自分の志す『ジャーナリスト』を目指したいと思う。野間夫妻のような笑顔を求めて、私は、この狭いビジネス界から、旅立ちたいと思う。(関口和真)』
 やはり、三流記者だった。こんな人情劇、今時、誰が喜ぶというのか。くだらないな。彼にはもう少し、僕のシナリオ進行を手伝わせるつもりだったのだが。

「失礼します」
森江くんの声に、僕は、雑誌を閉じ、そのままゴミ箱へ投げ入れた。
「コーヒーをお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
カップを持った僕に、森江くんが、スマホを見せた。
「麗子さん、無事、出産されたそうです」
「ああ、そう」
写真の中には、日に焼けた、Tシャツにジーンズの直輝と、化粧もせず、パジャマで笑う麗子、そして、彼女の腕の中には、どことなく、麗子に似た、小さな赤ん坊がいる。
「かわいくないな」
「生まれたての赤ちゃんは、こんな感じですよ」
「性別すらわからない」
「男の子、です」
「そう」
「お名前は、ユウキちゃんだそうです」
「ふん」
「村井祐輔の祐に、野間直輝の輝で、祐輝、だそうです」
「……ロクな人間にはならないな」
「とっても元気な赤ちゃんだそうですよ。動画を送ってもらいました。ご覧になりますか?」
「遠慮しておこう」
森江くんは、はい、と微笑んで、後でメールでお送りしておきます、と言った。
「四時から、取材ですので」
「ああ、そうだったね。毎日毎日取材ばかりで、もう飽きてきたよ。くだらない質問ばかりで、うんざりだ」
「あら、前社長は、そんなこと、一度もおっしゃいませんでした」
 コーヒーを、一口飲んだ。なかなか、コーヒーの淹れ方も上達したようだ。
「森江くん」
「はい」
「僕は、悪人だね」
「そうですね。世間は、村井祐輔は、酷い悪人だと言っていますね」
「狙い通りだ」
僕は、悪魔なんだ。痩せた体、醜い顔、ひねくれた心。こんな僕には、こんな配役がお似合いなんだ。
 窓の外を見下ろすと、人間が小さく、蟻のように歩いている。彼方此方へ、せかせかと、どこへ行くのか知らないが、歩いている。
「でも、社長は悪人ではありません」
森江くんの体が、僕に触れた。柔らかい体。長い髪。甘い香り。僕は森江くんに、抱きしめられていた。
「悪人、ではない。僕は、悪魔だ」
「いいえ、本当の社長は、愛に溢れた方です。本当は、とても、誰よりも、優しい方です」
「君も愛、信者か」
「社長も、です」
 森江くんが、僕を見つめている。優しい目で、まるで、あの……直輝のように、優しく、僕を見つめている。
 窓の外の景色が、また、ぼやけ始めた。この、涙というものは、一体どこに溜まっているのだろう。僕はあれから、随分、この涙というものを体外に排出したのに、まだ、残っている。一体、いつになったら、この液体は枯渇するのだろう。
「愛しています」
「僕には愛など必要ない。僕は誰も愛さない。僕は誰にも愛されない。僕は一人なんだ。僕は……」
森江くんの唇が、僕の言葉の邪魔をした。
「汚らわしい」
僕はその、少し口紅でベタベタした、柔らかい唇を、引き離した。
「私では、代わりにはなりませんか」
「……何を、言っているんだ」
「社長の悲しいお顔を、もう見たくないんです」
「僕の、何を知っていると言うんだ」
「何も、存じません。ただ、おそばに、いたいんです」
森江くん、君は……僕を知っているんだね。僕がずっと、隠してきたことも、侵してきた罪も、何もかも、君は……かつての僕が、直輝をずっと見ていたように、君は、僕を、ずっと、見ていてくれていたのかい? そして、君は……あの麗子のように、僕を、許すというのかい?
「僕の、何がいいんだ」
「私の孤独を、埋めてくださいました」
わからない。僕がいつ、そんなことをしたのか。ふむ。やはり、女はわからない。わからないが……

 直輝、君はこの風景を、どんな気持ちで眺めていたんだい? 見てごらんよ。肩がぶつかっても、声を掛け合うどころか、目を逸らし、通りすがりに、ひっそり睨み付けるだけの、あの小さな人間達。誰かが隣で、助けを求めても、見てぬふり、気づかぬふりじゃないか。かと思えば、小さな液晶画面に向かって、姿の見えない誰かと、一生懸命つながろうとしている。目の前にいる誰かよりも、見えない、どこにいるかもわからない誰かに、助けを求めている。かつての、僕のようにね。そして、君のように。
 わかっていたんだ。君がこんなことを望んでいなかったことを。僕のために、君は君を殺していたことを。でも、僕はね、君を救いたかった。君は僕を、液晶画面の中から救ってくれた。僕と同じように、俗世に絶望し、君の創り上げた桃源郷のような世界に、君も逃げていた。だから僕も、君を救いたかった。
 直輝。
 僕たちは、俗世に生きている。嫌でも、生きていかなければいけない。どんなに辛くても、苦しくても、僕達は俗世に生きている。どうせ生きるなら、どうせ耐えなければならないのなら、成功しようじゃないか。金を稼ごうじゃないか。そして、僕達の本当に望む世界を、人生を生きようじゃないか。僕はね、ただ、そうしたかったんだ。君にも、そうして欲しかった。僕と同じ、俗世に生きて欲しかった。君となら、僕は、どんな苦しみにも、耐えられたから。
 でも、いつからか、僕はすっかり、俗世に染まっていたよ。僕は結局、あの小さな人間達と同じように、やっぱり、僕の嫌う俗世の住人にしか、なれなかった。それなのに、君は、染まらなかった。君はずっと崇高だった。悔しかったんだ。僕は君が悔しかった。目の前にいる僕じゃなくて、俗世に染まっていく僕じゃなくて、その小さなロザリオに、目には見えない神とやらに、助けを求める君が、憎かった。君を見ていると、まるで僕は、愚民で、俗人で、穢れで、僕は……君を穢すことで、麻薬のような、一瞬の安静を手に入れることが、精一杯の、抵抗だったんだ。
 告白するよ。
 本当はね、僕も君のようになりたいんだ。誰も憎まず、誰も羨まず、僕は、君のように、麗子のように、なりたかった。こんな僕でも……誰かに、愛されたいんだ。

「森江くん」
「はい、社長」
僕は、眼鏡を外した。
「君は、僕の顔を、どう思うかな」
森江くんは、じっと僕の顔を見て、真剣に、返辞をした。
「とても、素敵で、男性的だと思います」
「イケメン、かい?」
「ええ、とても。野間社長よりも、イケメン、です」
「はっきり言おう。僕は、ゲイなんだ」
「然様ですか」
「それでも君は、僕を愛しているというのかい?」
「社長が男性しか愛せないのであれば、私を男性だと思ってください」
真面目な顔でそう言った森江くんの言葉に、僕は思わず、吹き出してしまった。
「君はどう見ても、女じゃないか。男に思えるわけがない。君はとても……」
「……とても?」
ふむ。僕は……いったいどうしてしまったのか。どうやら、あの麗子という女に出会ってから、どうもペースが乱されている。まさか僕が、女に……こんなことを、思うなんて。僕としたことが。
「とても、可愛らしい」
 森江くんは、その言葉に、俯いて、泣き出した。
「どうしたんだい」
「嬉しくて……」
ふむ。こういう場合は……たぶん、こうすればいいのだろう。
 抱きしめた森江くんの体は、とても柔らくて、とても細くて、少し力を入れたら、壊れてしまいそうで、僕は、とにかく、森江くんの涙が止まるまで、そして、僕の涙が止まるまで、そのまま、彼女を抱きしめていた。

「僕のそばにいることを、許そう」
「ありがとうございます」

 直輝、どうやら僕にも、麗子のように、僕を全て許してくれる、女がいるようだ。君もよく知っている、あの、出来損ないの、森江くんだ。覚えているかい? どうも僕達は、出来損ないの女に好かれるようだね。そして、出来損ないの、純粋で、真直ぐな女が……好きなようだ。

「落ち着いたら、祐輝を、見に行こうか」
「はい。そう、お伝えしておきます」
「くれぐれも、ブッキングしないようにね」
「最近はあまり、ミスしていないんですよ」
「そうか。君も、やっと、一人前に、なったんだね」
「社長の、ご指導のおかげです」

 直輝。わからないけれどね。僕も、女というものを、愛してみようと思う。僕はずっと、男にしか、愛を感じなかった。もちろん、今でも、だ。
 告白すれば、僕は今でも、君を愛している。昔と変わらず、君を、愛している。君と、抱き合い、キスをし、セックスをしたいと、今でも思っている。でも、君はもう、僕を愛してはいない。愛してはいけない。君は、麗子という女と、祐輝という子供を、ただ、愛さなければならない。そして君は、彼らを、愛している。それでいい。君は、それでよかった。
 俗世だなんだと言っているけれどね。僕は結局、この俗世から離れられない。捨てられない。君のように、そんな、空気と木しかないような場所で、僕は生きられない。所詮僕は、こんなに狭いビルの一室で、閉め切られた空間で、小さな画面に向かって、時間に縛られて生きる、そうだね、「俗畜」とでも、言ってみようか。そんな俗畜を、彼女は愛していると言う。男しか愛せない男を、愛していると言う。はっきり言って、バカだ。こんな愚かな僕を愛しているなんて、バカの骨頂だ。
 こういうことなんだね。君が、僕よりも、麗子を選んだ理由は。女だから、じゃなくて、きっと、こういうことなんだね。
 だけど、もう少し、僕には時間が必要だ。頭では理解していてもね、どうも、心は比例しないようなんだ。この、涙という液体が、君のことを想っても、排出されなくなったら、そうだね、君と、君の妻と、君の子供に、会いに行くよ。それまで、直輝、待っていてよ。

「ああ、社長。これが、届いていました」
森江くんの手には、少し汚れた封筒があって、それは、関口和真からの、エアメールだった。中には数枚の写真が入っていて、一枚の写真の裏に、汚い字で、こう書いてある。
『この子たちは、戦火から逃れた、傷付いた子供たちです』
ここにも、俗畜から逃れた人間がいる。写真の中の関口は、子供達に囲まれ、迷彩服で、ニヤニヤ、ではなく、精悍に、笑っている。
「このキャンプに、いくらかしておいてくれ」
「今月で三件目です」
「下手な広告を流すより、よほど効果的だ」
森江くんは、はい、と微笑んで、会計室へ行ってきます、と部屋を出て行った。

 直輝、一応ね、君の夢は、僕が叶えたつもりだよ。これで、僕を、少しは許してくれるかい。

エピローグ

 ゲートから出てくる人波の中に、彼を見つけた。相変わらず、スーツ姿の彼は痩せていて、でも、なんだか、ちょっと、人間ぽく、なった感じ。
「村井さーん!」
彼は私の声に、キョロキョロと辺りを見回し、隣にいた、紗織ちゃんが、私を見つけて、手を振ってくれた。
「麗子さん、ご無沙汰しておりました」
「うん、久しぶりだね! 来てくれてありがとう。村井さんも、元気だった?」
「この通りです」
もう、相変わらず、無愛想なのね。
「わあ、祐輝ちゃん? こんにちは。大きくなりましたね!」
「今ね、一歳二ヶ月。すっかり歩き出しちゃって、追いかけるのに必死よ」
村井さんは、ちらりと祐輝を見て、そろそろ靴が必要かと思って、と、小さな紙袋を出した。
「かわいい! ありがとう! ほら、祐輝、かわいいお靴、もらったよ」
「森江くんが選んだんだ。僕は、もう少し、センスがいい」

「野間さんは?」
「まだ学校。遅くまで子供達と話してるのよ。生徒も大事だろうけど、もうちょっと妻と子供も大事にしてもらわないと」
なんて、ちょっと愚痴を言っちゃった私に、紗織ちゃんは、ごちそうさまです、とクスッと笑った。
 私の隣には、紗織ちゃんが乗っていて、後部座席には、村井さんと、チャイルドシートに座った祐輝が並んでいる。なんだか、おもしろい光景。村井さんは、時々ちらちらと祐輝を見ては、ちょっと、微笑んだりして、そのたび、祐輝がキャッキャと嬉しそうに笑う。
「おとなしいですねえ」
「珍しいのよ。いつもだと、チャイルドシートは嫌がって泣くんだけど。きっと、村井さんが横にいるからね」
うん、本当に、珍しい。結構人見知りするんだけど、なぜだか、村井さんのことは、お気に召したみたいね。

 私達の新居は、古民家をリフォームした、平家建てのお家。これも、村井さんが探してくれていたんだよね。村井さんのおかげで、私たちは、こちらへ来てからも、何一つ、不自由することはなくて、新しい生活を、すんなり、始められた。
「おつかれさまでしたー。疲れたでしょう?」
「なんだか涼しい通り越して、寒いですね。東京はまだ、暑いくらいなんですよ」
「そうでしょう。こっちは冬が長いのよ。そろそろ、冬支度始めないと」
仕事ついでに、って言ってたけど、きっと、村井さん、わざわざ来てくれたんだよね。
「さ、座って。コーヒーでも淹れるわ」
「お手伝いいたします」

 ソファに座った村井さんに、祐輝が一生懸命、おもちゃを運んで、はしゃいで、転んじゃった。あーあ、泣いてる泣いてる。もう、おおげさなんだから。
「ちょ、ちょっと、泣いているよ!」
村井さんが慌てて私を呼びに来た。
「大丈夫よ。ねえ、手が離せないの。抱っこしてあげて」
「え! 僕がかい! も、森江くん、君、どうにかしたまえ!」
「社長、私も手が離せません」
「そ……そんな……」
村井さんは、ぎこちなく祐輝を抱き上げ、オロオロしながら、一生懸命あやしてる。私と紗織ちゃんは、顔を見合わせて笑って、意外と上手ね、と言ってあげたら、ちょっと嬉しそうに、僕にできないことはないんですよ、だって。相変わらず、なんだから。

 もうすっかり祐輝は村井さんになついちゃって、村井さんも膝の上に乗せたりして、なんだか本当のパパみたい。ううん、そうよね。この子は、私と、直輝と、村井さんの子供だもん。本当のパパだよね、村井さんも。
「あ、帰って来たわ」

 インターホンが鳴って、玄関のドアが開いた。
「おかえりなさい。もう、来てるよ、みんな」
「ただいま。西野さんちの畑、手伝ってたんだ。すっかり遅くなったなあ。ああ、これ、もらってきた」
直輝はダンボール箱にぎっしり詰まった、ジャガイモとか人参とかを、玄関に置いた。
「こんなにたくさん! コロッケでも作ろうかしらね」
 都会から来た私達家族を、あたたかく迎えてくれた町の人たちは、いつもこうして、お野菜とか、お肉とかをわけてくれる。直輝は、お年寄りの農作業や力仕事を手伝ったり、私は、子供達に英会話を教えたり、都会へ就職する女の子達に、メイクやマナーを教えたり。東京にいるときより、私達の生活は、結構、忙しい。

「祐輔も……来てる?」
「うん。祐輝ったら、すっかり村井さんになついちゃって」
「そうか」
直輝はホッとしたように笑って、でもちょっと緊張して、リビングのドアを開けた。
「あっ、社長、お邪魔しています」
「やめてくれよ、もう社長じゃないし」
「ああ、そうでした……つい……」
恥ずかしそうに笑う紗織ちゃんを、ちらりと見て、村井さんは、少し俯いて、久しぶりだね、って呟いた。
「ねえ、紗織ちゃん。コロッケ作るの手伝って」
 席を立った紗織ちゃんの代わりに、直輝がソファに座った。
「元気、だったか?」
「まあね」
パパ、と祐輝が言って、両手を上げてる。あれは、だっこ、のおねだりサイン。
「祐輝、ちゃんと祐輔に挨拶したか?」
直輝はいつもみたいに、祐輝を抱き上げて、軽く、キスをする。その光景を、村井さんが、まぶしそうに、見つめていた。
「……僕の意に反して、不幸にはならなかったようだね」
「ああ、残念ながら、この通り……とても、幸せだ」
「そう、それは、残念だ」
 私は、二人の会話をキッチンから聞いている。きっと、いろんな思いが、彼らの間にはあって、私が入る隙間はなくて、隣でジャガイモを洗っている紗織ちゃんも、きっと、同じ気持ちで、二人の会話を聞いている。
「あっ……」
「あ、こら、祐輝!」
振り向くと、祐輝が村井さんのメガネを持っていた。
「ごめんごめん」
「まったく、やっぱり君と麗子の子供だな! 僕がしっかり教育しないといけない!」
 村井さんは、祐輝の手でちょっと汚れたレンズを拭って、叱られるって固まる祐輝に、めっ、て言って、笑い出した。その笑顔は、見たこともないくらい、かわいくて、明るくて、少年ぽくて、きっと、この笑顔が本当の村井さんなんだろうなって、でも、きっと、直輝も、紗織ちゃんも、知ってたんだよね。こんなに素敵な顔で笑う、村井さんのこと。なんだか、ちょっとだけ……ジェラシー、しちゃうかも。
「祐輝、おいで」
そう言って、村井さんは、優しい笑顔で、祐輝を、抱きしめてくれた。村井さんの腕の中で、祐輝が嬉しそうに笑って、またメガネを取って、こらっ、て言う村井さんに、直輝も笑って、私も、紗織ちゃんも、笑った。

 みんな、笑って、そして、私達は、いろんなことを、忘れ始める。つらかったことも、悲しかったことも、きっと、忘れるから、生きていける。きっと、死ぬときは、楽しい思い出だけで、あの、透のように、穏やかな顔で、きっと……私達は、その時のために、生きている。

 そして、コロッケを食べながら、村井さんが、いつものように、突然、淡々と、言った。
「ところで、森江くん」
「はい、社長」
「僕もそろそろ、家族というものが欲しくなったよ」
……えっ? それって……私と直輝は思わず顔を見合わせて、顔がにやけちゃう。
「祐輔、ちゃんと、言ってやれよ」
「これで理解できるだろう」
「女は、めんどうなんだよ」
「そうね、女は、めんどうなのよ」
直輝と私の言葉に、村井さんは、ふうっとため息をついて、目の前で俯いてる紗織ちゃんに、向き直って……
「森江くん、君さえよければ……」
ジャケットの内ポケットから……指輪、ちゃんと用意してんじゃん!

「結婚、していただけませんか」


<完>

僕と、君と、鉄屑と。

僕と、君と、鉄屑と。

愛を知らない僕に、愛を教えてくれた君。僕たちは永遠で、崇高で、純粋な絆で、結ばれている。僕は君だけを愛している。 なのに君は、僕だけを愛してはくれない。君はいつもその鉄屑を握りしめ、いつも許しを乞うている。僕と君の愛は罪じゃない。僕も君も罪人じゃない。僕と君は、ただの恋人なのに。 君は僕のすべてを許してくれる。でも僕は君を許せない。許せないから、僕は、君のために悪魔になる。 僕は君のために、この身を、悪魔に捧げる。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-02-13

Copyrighted
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Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 契約試験
  3. 崇高な恋人
  4. 幻影
  5. 追憶の恋
  6. ゴースト
  7. ミステイク
  8. 罪と悪
  9. 空の向こうに
  10. 取引
  11. 俗畜
  12. エピローグ