ブラザーズ×××ワールド A4
戒人(かいと)―― 04
狭い石壁の道を抜けた瞬間、戒人の目を日の光が刺した。
太陽――
日ごろ何も感じることのなかったその当たり前の恵みに、戒人はしびれるほどの歓喜を感じていた。
太陽に照らされている。それだけで人はどれだけ心強いものかと。
徐々に落ち着きを取り戻し始めた戒人の耳に、不気味なほど静まり返った夜とは一転した街の喧騒が聞こえてきた。
「さばきたての鶏だ! いま買わなけりゃ次はねえよ!」
「ほら、これで売り切りだ! ここにあるだけだ! あるだけだよ!」
「混ぜものなしの上等の酒だよ! 本物だよ! 損はさせないよ!」
濃い闇に包まれていた広い石畳の道は、いまや無数の天幕が立ち並ぶ活気あふれるバザーと化していた。
テント……いや、やはり天幕と言うほうがふさわしい。日差しをさえぎるだけのぼろ布の屋根。その下では、簡易な木台、もしくは石畳に布を敷いただけの上に、粗末な服をまとった商売人たちがさまざまな品物を並べていた。
「ちょっと、お兄さん!」
不意に腕をつかまれた。
「どう? お兄さんにぴったりなのがあるんだけど」
親しげに話しかけてきたのは、戒人と同い年くらいに見える気の強そうな女性だった。大量の装飾品で身を飾っているが、高価そうなものは一つもない。古い洋画のジプシーを思わせる人物だ。
「ほら、これ! この首飾りさえつけてれば魔除けは完璧さ! 魔獣たちだって近づいてこないよ!」
「!」
魔獣――
戒人は息をのんだ。
「おい!」
突然腕をつかみ返され、彼女は驚きの目で戒人を見た。
「いま、なんと言った!?」
「は?」
「魔獣……そう言ったか?」
「い、言ったさ!」
女が、負けじと戒人をにらんだ。
「あたしは嘘はついてないよ! これがあれば間違いなく……いやまあ、たぶん……けど何もつけてないよりは……」
要は気休め以上ではないということだ。
しかし、いまの戒人はそんなことよりも、
「魔獣とは……どういうことだ?」
「は?」
不意の問いかけに、女は目を丸くした。
「どういうことって……魔獣は魔獣だろ?」
「その魔獣だ!」
さらに声をあらげる戒人。異変に気付き、周りの物売りたちがけげんそうな視線を向けてくる。
「ち……ちょっと!」
注目を避けるように、女は戒人を天幕の影に引っ張りこんだ。
「なんだい、あんた! なにおかしなこと言ってんだい!」
「おかしなこと……?」
「魔獣は魔獣だろ! そんなこと、三歳のガキでも知って……」
と、彼女が不意に息をのんだ。
「……あんた」
食い入るように戒人を上から下まで見つめ、
「ひょっとして……落人(おちうど)なのかい」
「落人……」
その言葉に、戒人は再び息をのむ。
一方、彼女はすべてわかったというように、
「そういうことかい。だったら、そんなおかしなこと言っても……」
「おい!」
戒人は血相を変え、
「落人とはなんだ! それは俺のことか!」
「そうなんだろ」
戒人とは対照的に、彼女は冷めた目を向け、
「あたしは違うけどさ。じいさんのじいさん辺りはそういうことになるんだろうし」
「おい……」
彼女のつぶやき一つ一つを、戒人は頭の中で反芻する。
「落人とは……この世界の者ではないということか……」
そう口にした瞬間――
戒人はこれまで抱えていた疑問の一端が氷解するのを感じた。
荒唐無稽だった。
ゆえに無意識でそれを否定していた。
しかし、彼女が言葉を口にしたときのその何気なさが、確かな現実感となって戒人の気づきを後押しした。
ここは――
戒人のいた〝世界〟ではないのだ。
「……この街の名前は?」
「トリノヴァントゥス」
「何……?」
「トリノヴァントゥスだよ、トリノヴァントゥス」
「………………」
トリノヴァントゥス――
耳慣れない名前だ。
その響きに自分の生きていた世界とはまったく異なるものを感じ、戒人はここが違う世界だとの確信を深める。
しかし、まだ断定はできない。
「ここは……」
彼女に質問しようとして、戒人は言葉を飲んだ。
どう聞けばいいのだろう。
――ここは俺がいたのと違う世界なのか?
あまりに荒唐無稽な質問だ。
すると、女は戒人の逡巡を察したように、
「ひょっとして落ちてきたばかり? だったらいろいろ知らないのも無理ないけど」
「落ちる……?」
彼女のその一言が、戒人の惑いを解く。
「落ちるとは、つまりこの〝世界〟に落ちてきたということか」
「そうなんだろ」
「なぜ〝落ちた〟んだ? 落ちたことに理由はあるのか? 俺がここに……」
「ち、ちょっと!」
立て続けに聞く戒人に、女はあわわて、
「そんないっぺんに言わないでよ。あたしだって落人と会うのは初めてなんだから」
「……そうか」
焦っていた自分に気づき、戒人はいったん矛を収める。
しかし、急く心は止まらない。
ようやくこの異常な状況の手がかりをつかむことができたのだ。すこしでも多くの情報を得て、一刻も早く弟たちの安否を――
「見つけたぜ」
聞き覚えのある声。
背筋が凍りつくのを感じながら、戒人はふり向いた。
「……!」
いた。
あの中年男――
昨夜、前後不覚の戒人を助け、そして殺そうとした相手が。
「ったくよぉ……」
男は愚痴をこぼしながら近づいてきた。
「あんなに早く目が覚めるなんてな。丸一日は寝てると思ってたのによ」
「くっ……」
隙があればいつでも逃げ出せるよう、戒人は四肢に力をこめq。
すると、不穏な空気を感じた女が、
「なに、あんた? いったいこの人の……」
「姉さん」
中年男が女を見据えた。薄汚れた風貌には似つかないするどい視線で。
「行きな」
「え……?」
「よけいなことに巻きこまれたくはねえだろ」
「……!」
強迫の言葉に、しかし気の強そうな彼女は踏みとどまり、
「ち、ちょっと、あんた! この人は落人なんだよ!? 右も左もわからない相手に何を……」
「ただの落人じゃねえ!」
男の声が不意にはねあがった。
「そいつは……『神饌(サンガ)』だ」
「……!」
神饌――
さらなる未知の言葉に、戒人はいままでにない不吉なものを感じとった。
「なんだい、サンガって……」
女が戸惑いの声をもらす。彼女もその言葉の意味を知らないらしい。
男は舌打ちをもらし、
「……よけいなことを言った」
「はあ?」
「あんたにはかかわりのねえことだ! これ以上口をつっこむな!」
男が手に持っていたカンテラをかかげた。昼間だというのに煌々と火のともったカンテラを。
「――――――――」
何かを早口でつぶやく。戒人に理解のできない言葉を。
直後、
「!」
カンテラの炎がふくれあがった。
それは――獣の姿をした者たちを追い払ったあの炎。
それが、戒人を目がけてほとばしった――
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